石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 12 月

>>2013 年 1月の世田谷村日記

1010 世田谷村日記 ある種族へ

まだ明けそめぬ6時離床。すぐにかじかみそうな指で作家論・磯崎新35を書き始める。途中で新聞を読み、再び東京新聞の1面、佐藤正明さんの、こう吐く歌合戦、よいお年にイヒヒと笑う。

あんまり高度なユーモアと呼ぶべきではないが駄洒落として楽しい。わたくし位の頭には丁度良いのだ。長崎屋も今は変転の末に、つまりは色んな新聞を試した末の東京新聞だから、連中もエヘヘと笑えるだろう。10時迄WORK続けて35を終了。今年もう一本書けるといいが無理は禁物だと休息する。頭を洗って頭のゴミを洗い落とす。眠くなり、読書。昨夜『TVピープル』は読んでしまったので、今は大冊の池澤夏樹の完全文庫500ページの『ハワイイ紀行』に取り組んでいる。でも山本夏彦の諸々の本を拾い読んでもみたい。作家論・磯崎新は山本夏彦が繰り返し繰り返し言ってきた、日本人はニセ毛唐になったと言うに接近しているのを自覚している。

14時、再びというかマンネリズムの長崎屋へ。いずれ書き尽くしてみたいが、常連の人物達と会う。16時半去る。今日は晦日で店内のクリーニングをやっているのを脇目に飲むでも無く、喰べるでも無く一時を過す。17時前世田谷村に戻る。

気合いを入れて、ドローイングに取りかかる。一年の計は年末にあり、とひねくれてみる。18時疲れて中断する。中断状態のドローイングは良い。イヤらしくまとめる状態から解放されているようだ。しかし、未完というのは資本主義社会では商品としてあり得ぬ状態なんであるのは知り尽くしている。未完としての商品を目指したい。

1009 世田谷村日記 ある種族へ

暮の雑用を済ませて、京王線、田園都市線を乗り継いでたまプラーザへ。15時山口勝弘先生訪問。久し振りにお目にかかった。今New York MoMAで実験工房展、そして来年2013年1月13日からは鎌倉近代美術館で実験工房の回顧展が開催される。

「具体も来年は噴火の年ですね」

「そうなの。彼等とは昔から張り合ってたんだ」

「ヘエ、そうなんですか」

そうだろうとは感じていたが初めて先生から直接に聞いた。ギンギンに張り合っていたんだな。

「具体のリーダーの吉原治良さんにはお会いになってるんですか」

「会ってますよ。彼は石油屋の社長なんだ、絵を見てもらった事もある」

「エッ、オイル関係だったんですか」

「オイル掘る方じゃなくって、オイル売る方だけどね」

吉原治良という人物は具体のパトロンであった人物である。瀧口修造、西脇順三郎と比較したら、理論、教養は小さかったが、それよりははるかに大きな度量、器の大きさは感じていたので、何となく納得できた。油屋のボンボンだったのだ。フレデリック・キースラーに関して意見を交わす。止せばいいのにわたくしもバーカで、84才の体の不自由な老アヴァンギャルドに本気のガチンコ勝負してしまう。流石、山口不動明王、「僕、部屋に帰ります」と決裂となる。わたくしのデザインした淡路島山勝工場には、まだワンサカ山口勝弘作品が収蔵されているとの事。実験工房の連中のコレクションもあるのではないか?

具体の作品展のキュレーションをしようとしているので、わたくしも画商の眼付になっていたのであろう。

「山勝工場には実験工房の墓を作りたいと思ってる」

「それはイイですね、どんなモノなんでしょう」

「ピラミッド群を作りたいんだ」

「是非スケッチはキチンと残しておいて下さい」

「ワカッタ」

となる。

非常に疲れて、大人しく帰ることにした。

実験工房の面々の生き残りは4人だそうだ。具体もそれ位かな。その年を経た日本のアヴァンギャルドのラスト、ガチンコの展覧会を是非やってみたいのだが、困難極まるだろうな。

16時半同じルートで烏山に戻り、長崎屋に顔を出す。雨が本格的に降り始めた。良いお年をと別れて、18時世田谷村に戻った。

山口勝弘先生も長崎屋のオバンもわたくしにとっては同じように良く考えている人々であると突然言い放つ。今夜は少しばかり勉強して、明日は完全に休みたい。午後はオバンが忘年会やるぞと言うから、それには顔を出したい。

今日、二川幸夫の「日本の民家」の写真展のポスターを見かけた。1月12日から汐留のパナソニック・ギャラリーで開催される。1955年、日本には美しい民家があった、のコピーが添えられていた。二川幸夫も老境である。これが極め付けの最後のパンチではないだろうが、50年代迄ギリギリに残っていた日本の民家の表現のポテンシャルはやはり、二川幸夫の生涯でも痛切なモノであったのは間違いなかろう。

良く良く考えつめてみたい大きな問題である。必ず見に行きたいとスケジュールを記録した。

1008 世田谷村日記 ある種族へ

15時半長崎屋へ。おばん、おじん他にあいさつ。16時20分去り京王稲田堤へ。少し時間があったので駅前の本屋に寄り、時間つぶしになるだろうと村上春樹の『TVピープル』買う。17時近藤理事長と会い、なじみの料理屋へ。久し振りの会食。色々な計画に関しての相談をする。理事長のところは保育士さん他、300名近くの組織となり、川崎市最大の保育園経営組織となった。もう一軒廻ろうとなり、近くのBarへ寄る。若い人達のカラオケでにぎわっている。19時半別れて烏山へ。20時過世田谷村に戻る。

村上春樹の『TVピープル』を読みながら眠りにつくのであろう。村上春樹のモノは何処にも引っかかる事がないので、一種の睡眠薬の噴霧状だなコレワ。

8時半離床。小雨に煙る空。新聞の切り抜き帖を見返すと面白い。何に関心が持続しているのかがよく解る。Sunday Nikkeiの後藤正治「床屋からみえた吉本隆明」、東京新聞のミャンマーのコックン遺跡の涅槃像と手のひら大の無数の仏像のカラー写真を切り抜いた。

今日は午後に山口勝弘先生に暮のごあいさつにうかがう。ようやく先生の不動明王堂が面会OKとなった。

作家論・磯崎新35を書き始める。

1007 世田谷村日記 ある種族へ

13時半ドローイング一点描き上げる。作家論・磯崎新漂泊にピッタリコンなモノになった。そのつもりで描いたものではないが、「漂白3」とするのを決めた。論にドローイングが入ったっていいじゃないか。文章の補足としてのドローイングではない。論を回転させる力としてのドローイングである。無題なような漂泊の如く。

1006 世田谷村日記 ある種族へ

8時前離床。昨日Xゼミナールに作家論・磯崎新33漂泊1がONされたので読んだ。昨日は荒川を越えて利根川のほとりで過ごしたが今日は多摩川を越えて人に会いにゆく。

何日か前の東京新聞に民主党の海江田万里氏がサンタクロースの格好をしてメリークリスマスならぬ「メニークルシミマス」とつぶやいているマンガがあって笑った。

佐藤正明さんの一コマ漫画である。昨日の毎日新聞OB達との会話を思い出した。確かに今は知らぬが往時の新聞記者の言葉の速力は冴えていた。記者上がりの政治家も少なくはなかった。寸言の名手もいた。

東京新聞には森栗丸さんの、「おーい栗之助」の四コマ漫画連載もあり、妙な味がある。来年からは一面コラムに毎週鈴木博之先生が登場するようで、楽しみにしたい。Xゼミナールはそのコラムを巡っての、より幅の広いゼミにしても良いのではないか。いずれにしても、細部に眼を凝らすと新聞はまだ死んではいない。新聞の本体は正義を振り回す事ではない。まさに新しき世辞、風聞に耳をすまし、少し計りのデフォルメを施し衆愚を装う愚衆に伝えるにもある。偉そうに言うが元毎日新聞社迷記者水野じゅん介氏の言をわたくしなりに固く訳しただけの事。

この日記ならぬ番号付コラムらしきも、実ワわたくし奴の生原稿を研究室の当番と呼ばれている大学院生がコンピューターにたたき込んでくれている。

だから誤字、脱字も多いと今年最後のイヤミ重太郎をキメ込んで、さてはて行方定めぬ旅に出る。じゃなくって、今日29日を最終に研究室は休みに入るので恐らくは読者の皆さんの眼に触れるのはこれで正月休みになるであろう。来年はいつか早いうちにお目にかかりたい。コンピューター・サイトの動きは休みに入るが、わたくしの生原稿は続けて動めいてゆく。

来年お目にかかる日には驚くべき番号に達しているやも知れぬ。のんびりとした動きかも知れぬ。が、チョッとスタイルは変えてみるつもりだ。良いお年を。

1005 世田谷村日記 ある種族へ

7時半離床。新聞を読む。昨日の日経夕刊にMONO派、具体の小さな記事が出ていた。改めて、『もうひとつの「具体」』(鉱脈社)を見直した。

大阪万博お祭り広場での1970年8月31〜9月2日、具体まつりフィナーレの写真を眺める。

磯崎新のロボットが小さく所在なげに写っていた。具体の消防自動車3台分のアワの噴出大騒ぎをアーアと言う感じで眺めているのだった。

観客席にはほとんど人は居ない。具体の全員が参加したと言うから、大変なエネルギーが注がれたのであろう。しかしアーティストの大騒ぎそのものであった。ロボットも具体も太陽の塔に吸い込まれてしまっている。恐らく、現場の磯崎も吸い込まれてしまっているのは自覚していた。

小さな新聞記事が想わぬ事を考えさせる。

11時前渡邊大志君世田谷村に来て、共に車で我孫子に発つ。常磐道を経て12時40分新木真栄寺。弘道君と話す。やがて馬場昭道住職参加。

来年2月3日の件やりましょうとなる。でも我々も大変なので小さく密実にやろうとなる。

世界へのライブ発信を主としたい。水野さん他の毎日新聞OB連集まり始める。車に分乗して天王台団地の酔庵へ。佐藤健10回忌の集い。一緒に敦煌迄旅した滝カメラマンと久し振りにお目にかかる。大住職広人さん尽力の会である。

囲炉裏を囲み談笑。平和台病院の院長も顔を見せた。

やがて昭道住職の読経に皆で唱和する。気のおけない人達でとても懐かしかった。

再開の楽しさは尽きぬが16時半お先においとまする。又、会いたいものだ。

佐藤健直筆が焼き込まれた小皿を一枚記念に。10年たった。そろそろ名残の品を持つのも良いだろう。滝さん所有のラダック・ザンスカールの毎日新聞高野山大学合同隊の記念写真のうち、2点をいただく。

初めて見る写真で素晴らしかった。未発表のもののようだった。

帰路はいささか渋滞が続き、19時半世田谷村に戻る。

つくづく想う。一人の人間がフッと居なくなるってのは大変な事なんだなあ。

佐藤健が居てわたくしは随分多くの人々と知り合いになった。人見知りするわたしは随分実ワ助けられた。

居なくなって10年経って、はるばる田んぼの中の住宅団地の隠れ家みたいな家に集まる人もいる。もう来ない人もいる。来ない人も遠くでしのんでいるものも居るだろう。人さまざまである。

80才になる水野さんはこんな事を言っていた。プライバシーに少し触れるが、10回忌にめんじて書いてしまおう。水野さんは迷記者であった。社長のおぼえは非常に悪かった。「アイツの文章はなっとらん、もう書かせるな」と社長は叫んだ。「だから社長は早死にした。俺を嫌いな奴と健坊みたいに俺を好きな奴は両方早死にするんだ」

「俺はどうだろうな」とわたくしが尋ねる。「どうでもいい奴は、どうでもいいんだ」だと。随分失礼な話しではないか。

鈴木博之先生と国立近現代建築資料館の資料収集について話し合う。貴重な資料も又、人間の命と同じようにアッという間に居なくなるものだ。この活動にはスピードとエネルギーの集中が欠かせない。

1004 世田谷村日記 ある種族へ

15時「作家論・磯崎新34」書き終える。漂泊の巻の2である。いささか手こずったが、いよいよ核心に入りつつある。流石に無い頭をしぼり切っているので脳がグデグデになっているので小休する。大阪万博の磯崎新のロボット、デメとデクへの磯崎的身の置き方らしきを書いた。磯崎は岡本太郎の太陽の塔のシャーマン振りに圧倒された。それが磯崎のその後の漂泊振りの因である。

フィレンツェの駅舎コンペ案。これはアンビルドではあるが磯崎の傑作だ。そして、岡本太郎の太陽の塔と丹下健三の大屋根が同居している。

こんな時にはコラムでも書くと休めるのだが。

明日28日は我孫子真栄寺での2月3日ライブの打合わせに行く。電話で済まそうと思ったがやはり面談でないとらちがあかない。特にコンピューターの世界への同時配信についてはお寺はチンプンカンプンである。やはり檀家の衆も集めたいと相なった。日本の寺での紙芝居ライブは世界の人には喜ばれるだろう。出来れば日本仏教伝道協会の方にも体験していただきたい。

佐藤健の10回忌も明日の予定。御縁のあった方は28日14時に酔庵にて馬場昭道住職の読経があります。真栄寺ではなくって酔庵です。念のため。

1003 世田谷村日記 ある種族へ

6時離床。寒い。すぐに作家論・磯崎新34書き始める。昨日33は書き終えて送信した。正月休みに40迄は書いてしまいたい。漂泊の章に入っている。小見出し、つまり章のタイトルは甘そうだが、中身は中々極辛になりそう。

7時小休、新聞を取りに降りる。天空は色づき始めた。8時再び他のWORK。

10時小休。厚生館理事長に連絡。他、山口勝弘先生に連絡して俳句の事うかがおうとした。先生は淡雪の俳号を持つ。「忘れました」との事。ヤケにサッパリしていた。

1002 世田谷村日記 ある種族へ

11時過研究室定例Meeting。次のステップへの計画を討議。

14時大和ハウス、スタッフ来室。都内アパートに関して打合わせ。

15時半研究室を去る。17時過、世田谷区議会議員、杉田光信氏と長崎屋で会う。

保育園他の件で相談。杉田議員を介して要望書という形式で保坂展人区長に提案するという形式としたい旨を伝える。党派として動くのは仲々難しいけれどやってみましょうとの言を得る。

21時迄話し合い、ついでに、と言ってはなんだけれど長崎屋のオバンと長男に心からの御礼を申し上げる。12/23/2012の成功は彼等なくしてはなかった。本当の縁の下の力持ちをやって下さった。世田谷村に戻る。マルタの人形が眼をギョロリと帰りを迎えた。

真栄寺・馬場昭道住職に、日本のお寺での、2/3/2013の紙芝居、そしてコマ廻し大会の開催に関して相談する。珍らしく、考えてみるとの事であった。

世の中、仲々、自分の思う通りにはゆかぬものではあるが、頑張りたい。

馬鹿みたいに頑張るしかこっちの才は無いのである。

夜半真栄寺より、やってみましょうとの連絡を得る。でも寺は実に忙しいのだ。それは良く知っている。ニセモノの寺はヒマなんだなあ。

明け方夢を見る。夢を見るのはエネルギーを要するもののようだ。疲れて目覚めた。

8時半離床。ときの忘れものと宮崎現代っ子センターとのやり取りの記録を研究室に送付する。2013年東京での具体展は企画、監修をわたくしがやる事になりそうだ。

2月3日真栄寺ライブの広報を急がねばならぬ。寺は朝10時〜12時迄本堂を貸出可との事。紙芝居、コマ廻し大会とする。

作家論・磯崎新33書き継ぐ。

1001 世田谷村日記 ある種族へ

12時過上海劇場村構想のスケッチ1点を得る。

17時同上2点目を得る。

夜、作家論・磯崎新のこれからの構想を練る。

6時半離床。年賀状の絵を描き、作家論・磯崎新33を書き始める。

今日も快晴だ。完全な冬型の気圧配置になったのだろう。

9時20分作家論中断。今日の研究室のミーティングの準備に入る。

1000 世田谷村日記 ある種族へ

明日の世田谷式生活学校の準備はもうこれで良いかと休もうとした。

20時前、まだ何か足りないと考えて熟考。このささやかな計画は手を抜きたくない。コンピューターによる映像送信に関してイヤなアイディアが浮かぶ。イヤなと言うのはコレを始めたら、もう休めるかと思っているに違いない研究室の連中が再び鉄火場状態になるのが眼に見えているからだ。

でも心を鬼にして、やっぱりハードに行く事とした。

明日の8時間ロングライブ放送の中に、研究室の何度かにわたる河回村(韓国)の記憶を映像として挿入する事を決める。

幸いアニミズム紀行7に一度河回村は編集しているのでそれ程困難ではないだろう。スケッチ、写真も膨大にある。

河回村は神木とされる巨樹を中心に住居他が配置されている。

巨樹の場所は神への祈りの演劇がなされた場所でもある。村中に演劇がなされるのを前提とした舞台が設定され、それが周囲の地形と実になじんでもいる。そこでなされた演劇は仮面劇であった。仮面の造形は今も往時をしのばせながら生きている。それが東へ流れて日本の能になった。

あるいは歌舞伎の隈取りとなった。日本の芸能にとっては巨大な創造の泉の一つである。

大近代都市東京に河回村は存在しない。ここに、河回村に今もある演劇のエキス、芸能のエキスを再現する事を目指したい。マルタの人形や松や色々な装飾的実体に宿る芸術的価値、ピュアーな遊戯性にはある種の神性が宿っている。

役者の身体に時に宿るモノとそれは同義である。何故ならそれ等を作った主体に芸術家であるの自意識がない。

明けて23日5時過離床。雲は切れている。夜が明ければ気温も上がるだろう。

天の恵みである。小学生のように気持が弾む。昨夜考え続けていた事をもう一度なぞる。今日は8時に広場に出掛けて我々のチームに小さなスピーチをしたい。わたくしだけが自覚していたのでは駄目なのだ。全員に話して、少なくとも考えを伝えなくては。6時半スピーチ草稿了。空が白んできた。

8時烏山区民センター前広場へ。すでに皆が市根井さん共々テント小屋を組み立てていた。意外に手早い。スピーチする。

1. 全員の、それぞれのパフォーマンス・アクションが君等のデザインしたモノと同時にコンピューターの映像やカメラの記録を介して世界に同時配信されている事を自覚せよ。君等は設計者(デザイナー)であると同時に演者でもある。古代の職人がそうであったように。

2. たとえそれが紙切れや、発泡スチロールであったとしても君等が作ったモノ、デザインしたモノを愛しみなさい。それ等は今日1日でアッという間に姿を消すからこそ子供達に、少なからぬ人々を楽しませるだろう。

3. 掛け声を交わせ。それが大事だ。声を出せ。あらゆるスポーツと同じように。声は例えてみれば芝居の科白である。

4. わずか8時間である。充分に楽しみなさい。

以上。

マルタの人形を中心に真ん中に小広場を作り、シナリオ通りに装飾物を配す。色鮮やかである。多少の位置直しをする。

人々が集まり始める。11時もちつきを開始。もちの販売に行列が出来た。

11時45分第1回紙芝居開始。沢山の子供達があつまってくれた。

ヴィンセント、マルタの話し振りも堂に入っている。佐藤の日本語訳も次第に良くなる。成功裏に第1回を終了。5つのテント小屋に人々が群がり狙い通り縁日のにぎわいの如くになる。市根井、原口の職人小屋もにぎわった。

野菜小屋の売行きは良いと販売の人も嬉しそう。

何よりモチつきエリアの活況は仲々のモノで沢山の人々が行列を作り続けている。難波さん、グライター夫妻他多くの外国人の方々も来る。第2回、第3回の紙芝居も多くの子供達でにぎわった。

長崎屋のオバン、息子達を始め常連の友人達の顔も多い。予定通り16時過ぎ終了。しめのスピーチをして終る。後片付けを皆に任せ風々ラーメンで地元の人たちと歓談。皆、良かった良かったと言ってくれた。

「子供達には良い思い出になるぜ」の言葉がありがたい。

もちは800パック完売した。他も良く売れたようだ。総計4800人の人々が参集した。

ヨーロッパからのメールも届いていたようだ。放映を見た人々からである。

明けて24日、8時離床。陽光がさんさんと降り注いでいる。

新聞を取りに降りたら、マルタの大人形が世田谷村の東のテラスにポツリと立っていた。

ここで来年の出番を待つ。

999 世田谷村日記 ある種族へ

新聞の天気予報を見る限り明日は晴れだ。寒冷前線が南西海上に在るのが気がかりではあるが、西高東低の冬型の気圧配置に固まりつつある。日本海側は雪になるのか。

〆間際になり、ようやく明日12/23/2012世田谷式生活学校祭りを、何故こんなに一生懸命やろうとしているのかが自分なりにようやくハッキリと視えたのが嬉しい。

明日の小さな祭りはわたくし奴の歴然たる作品であるのが了解できたのである。

今日12月22日は13時半に区民センター前広場で研究室の面々と落ち合い、最終のツメのWORK。何よりも明日のパフォーマンスが歴然たる生きた人形劇、仮面劇と日常生活との度MIX(どみっくす)であることが自覚できた。韓国河回村(ハフェマウル)の仮面劇、それは村の中心の神木を中心にそして舞台に、上の舞台、中の舞台、下の舞台と何ヶ処かの舞台が連鎖するものであった。今は下の舞台つまり河原での演劇(農民劇)が観光化されて存続している。それ等を総合して河回村は世界遺産として登録される事になった。

我々のパフォーマンスのルーツはこれである。

そして実にささい極る研究室のWORKでのルーツは1988年の唐桑臨海劇場であり、更には1984年の伊豆の長八美術館建設である。これは全国から2000人の左官職人が参集した職人の祭りでもあった。そんな系譜の延長上に2012年、明日の祭りは開催される。こんな言い方をしたら大方の唐変木にはチンプンカンプンであろうから、もちつき小屋、紙芝居小屋、職人小屋、食べ物小屋、野菜小屋、5つの小屋(テント)による祭り作りである。更に祭りの掛け声、神輿をかつぐ、わっせわっせの掛け声はクリーン・エネルギーであり保育園建設他の、いわゆる町づくりの声である。

今日は小雨が降っているが会場でマルタの人形の位置出しをする。

又、世界同時配信用の映像タイトルが出来ているので、それを使ってタイトル出しのリハーサルも行う。きちんとプロのカメラマンを使いたいところだが貧乏世帯なのでそれは敵はぬ。将来はそうしたい。

でも全て素人でやり抜くのも面白いのではなかろうか。

現場に立って全ての人の動きの脳内リハーサルを試みようと思う。

世田谷村日記も今日が999番である。昨日はマヤ暦では世界の終末であったそうな。幸いな事に眼に視える終末は訪れなかった。眼に視えぬそれはいざ知らず。

明日は1000番の日記がどう書けるか楽しみにしたい。

1001番はアラビアンナイトを習い、次の展開の夢でも書ければ良い。

998 世田谷村日記 ある種族へ

コンピューターでの世界同時配信映像を煮つめているうちに、12/23/2012 Festivalが別の種類のモノに変化しつつあるのに気付いた。

世田谷村日記・番外編1〜5に書いた通りである。

アニミズム紀行77に一端を記録しているが、韓国河回村(ハフェマウル)リサーチが急に焦点を結んだ感がある。あのそれはそれは美しい村の外れにある仮面ミュージアムでの感動が原点になっているのを知る。つまり自覚できた。石山研の連中が手作りの大きな仮面をかぶって数日世田谷の行き交う人々にチラシを手渡した風景は実に筋書きの無い仮面劇であったのだ。子供たち、そしてお母さん達、老人達には不思議がられたけれども喜ばれた。チラシ配布期間が選挙期間とダブっていたのでイヤがられた事もあった。政治的パフォーマンスと間違えられたからでもある。

今の政治家なんてのは仮面もかぶらぬ選挙芝居の白子(黒子に非ず)群に過ぎぬ。我々の仮面かぶりの芝居の方がまだ、少なくとも子供達の夢のためにはなってるぜと痛感したのである。

1960年代に寺山修司が街頭劇を試みた。わたくしはそれを体験してはいない。又、唐十郎等はテントによる小劇場を続けた。これはわたくしは体験している。とても面白かった。これ等は実に運動の名に値するモノであった。12/23/2012祭りの主題は区民センター前広場を劇場化する事でもある。芝居の筋書はクリーン・エネルギー、町づくりである。でも、それは演劇化、すなわちエンターテイメントの身振りをさせなくては人々の関心さえ呼びおこすことはない。

マ、こんな青臭い論にもならぬ論をブッても仕方ない。

何はともあれ、韓国の仮面ミュージアムで夢中でスケッチを続けた感動の、わたくしなりの正体がようやく読み解けているような気もする。

この実感はわたくし自身の本性であるやも知れぬ。

ある種族へ 世田谷村日記番外編:5

シナリオ(映像)コンピューターカメラのみならず写真撮影も。

スタート タイトル

1.マルタの人形広場中央にポツリといる。

タイトル

2.老松その隣りに突如出現

タイトル

3.チラシ配りのお面(仮面)の全て、老松とマルタの大人形の廻りにセットされる。

タイトル

4.市根井人形、ワイマールのお婆ちゃん、セットされ広場の中央に人形、仮面、舞台セット全て集合

タイトル

5.人々それを見物に集まり始める。それだけを撮影する。他は外す。この映像を1時間位?

タイトル

6.5つの小屋の組み立て風景。

タイトル

7.5つの小屋に5.まで撮り続けたモノの登場人物達が散ってゆく。

タイトル

8.テント小屋完成し、再びマルタの人形だけ中央に残る。

タイトル

12月21日 石山修武

ある種族へ 世田谷村日記番外編:4

カメラワークについて。

サーテ。コンピューターによる世界同時中継だが、放映のタイトルは「Setagaya MURA Theater」Produced by Osamu Ishiyama Lab. Suported by Setagaya kuこのタイトル、サブタイトルを15分おきに撮映して流すように。タイトルは五月女製作のコト。今夜中に伝達せよ。15分おきにタイトルを入れ込まないと、ただダラダラした映像の垂れ流しになる恐れが多分にある。そして、映像の流れは15分毎に必ずマルタの人形、そして老松、ワイマールの老婆などのメインキャラクターに戻るように組み立てること。

メインキャラクターの選定、そしてグレード(映像露出度)は当日の現場での仕上がりによって決定する。

ともあれ、キチンと一日分の映像の流れをデザインできるように準備するように。

12月21日 石山修武

ある種族へ 世田谷村日記番外編:3

サテサテ。12/23/2012当日のトンデモ装飾物の数々について。

やっぱり宮崎の具体、藤野忠利の作品らしきを地ベタに転がして展示するのはしのびないから、全て地上から数センチメーター、あるいは300mm程浮かせるようにしたい。段ボールに小さな穴を空けて良いから、それを赤白の天幕に取り付けられるように考えてくれ。

子供が傷ついてはいけないので針金は避けてヒモが良い。あるいは荷物用の極細の糸針金ならよいだろう。それで天幕小屋に何とか取付けられるように工夫してくれ。

マルタの大きな人形は倒れぬように広場の床に大きな粘着テープで貼り付けるように。そのテープは出来るだけ見えぬように工夫せよ。

五月女の世界同時中継の始まりは、車からマルタの人形を運び降ろすところから開始せよ。他のモノでは絵にならない。マルタの人形に焦点を合わせて、早朝から撮り続けろ。そして、立小便禁止の鳥居の老松とをセットにして、絵を(情景を)作るように。

つまり、マルタの大人形を先ず定点にセットする。それを整える光景→次に老松をその隣りに仮置く。その組合せは絵になるので、それから放映を開始されたし。

それから、各小屋の組立て光景へと移るように。

先ず、広場の中央にマルタの大人形と老松の二つ、その映像から始める様に。それ故、恐らく放映時間の予告を少し早める必要があるので対応するように。

12月21日 石山修武

ある種族へ 世田谷村日記番外編:2

イヤハヤ、サテ。コマの件である。頭の中でコマが廻り始めてクルクルしている。

一応宮崎の藤野さんの意見を呑み、画家藤野親子の絵付けゴマはその値段を100円ショップレベルからは外すことにした。しかしなあ100円ショップやドンキ等の価格破壊店の商店展示はこれは芸術以上のモノがあるのも事実なのだが、それは大量仕入れ、大量販売の超アメリカ型生活の枠内のものであるのも事実だ。ややこしい。

ポップアート的なるモノのいかがわしさではあるまいか。

それはさておく。

それならそれで12/23/2012の世田谷式生活祭りへの展示装飾物には、いっその事皆値段をつけて販売してしまったらどうなのかと思い付いてしまった。

石山、市根井共作でもある三球四脚シリーズの椅子。

こいつには1脚15万円〜30万円の値をつける。そしてクサビによる組立て本棚には6000円。小型棚は800円。と非常に値幅が大きくする。つまり、値付け自体に買う人、売る人の価値観が歴然と表現されているのを骨格としたい。

当日はもちつき大会もある。つきたてのもちは1パック(5ヶ)250円としたい。食物小屋の諸商品、特製メンマは100円である。

しかし、諸君。再び言うが、あらゆる商品の値段というのは実にいかがわしく、それ故に実に芸術的なモノではあるまいか。

12月21日 石山修武

ある種族へ 世田谷村日記番外編:1

イヤハヤ、宮崎の藤野忠利さんとわたくし石山とは線密な筈の連絡を交わしている筈なのだが・・・全くお互い通じていないところがある。 何度も言うが藤野忠利さんは具体派の芸術家の生き残りである。 ギャラリー主でもあり、画塾経営者でもある。でも、要するに芸術家なのである。具体はあんまりセコセコ、モノを考えつめない。思い付きを重んじ、世界をビックリさせればそれで良しというのが本性の群だ。

で、12/23/2012の世田谷式生活祭りの、コマである。 良く出来たコマ、百数十点に絵付けをした。藤野さん達(娘のア子さんも含む、ア子さんも絵描きである)宮崎現代っ子センターの子供達に絵付けをしてもらおうと思っていたのが、先生の筈の御本人が試しにやってみたら、これが面白くって送った30点全部に絵が入ってしまった。 それ幾らで、つまりハウマッチ、なんぼで売るんだろうねと相談したら、想像もつかないけれど、3000円位じゃないですかと言う。 聞いてわたくしはギョッとした。考えていた値段の10倍なのである。 今、具体の絵はニューヨークで10倍の値段にはね上がっているのは知っている。 それは知っているはのだが、ここはTOKYO・SETAGAYAである。 しかも野外の露天商の如くのテント小屋で売るのだ。 1個350円くらいではダメかねと言ったら、珍しく強い語気で「それは無理でしょう」と言い返された。 モノの値段の仕組みには精通している積りだったのに。 たかがコマの値段ひとつ決められないのであった。 ウジウジ想い悩むばかりである。

ウジウジをつきつめることにした。まず一つ一つのコマの絵付け振りそして姿形によって値段を変えることにした。藤野さん親子の絵付けは、彼等は絵描きなんだから高くする事にする。1000円以上1500円迄。そして我々が絵付けしたモノは、それぞれの絵の出来で500円〜1000円迄の値段にしようと決めた。12月21日の午前中のことである。 変に面白いもので、昨日浅草の飯田さんからいただいた坂東玉三郎のカレンダー、これは篠山紀信のカメラである。これが3000円なのだ。 カレンダーは売れ残ったら在庫はきかぬ。 しかしコマは在庫はきくだろう。巳の年にちなんで巳の字をイメージしたものが多いのだけれど、縁起モノとしたって新春までは賞味切れにはなるまい。

12月21日 石山修武

997 世田谷村日記 ある種族へ

11時ベトナム・中村さん来室、ダナンでの各種プロジェクトに関して打合わせ。 13時迄。その後12/23/2012の準備。16時半研究室発浅草へ向う。地下鉄を複雑に乗り継いで17時半浅草。仲見世の飯田屋へ。ナーリさんの妹さんに会う。2008年にプノンペン、ウナロム寺院のナーリさん居宅にて描いた、ナーリさんが平安そのものであった頃の大判のスケッチを差上げる。喜んでいただいた。妹恵子さんと近くの和えん亭吉幸へ。主人の福居幸大さんに紹介される。津軽三味線の名手である。間もなく磯崎新さん難波さん来る。今日はXゼミナールの磯崎新を迎えての忘年会である。やがて鈴木博之さんも来る。

妹恵子さんと磯崎さん波長が合って話弾む。小笠原家は九州唐津の大旧家であった。磯崎さんは大分の17代目の当主でもある。それでと言う事ではないけれど紹介しておこうと思った。まだまだ何が起きるか解らないからなあ。

妹恵子さんも堂に入った人で磯崎新と勝るとも劣らずのやり取り。あんた、アの字の人だネエと言ってのける。太陽と月と観音さまと、つまり宇宙をメディテーションしてればあらゆる病は直ると磯崎さんに教示。巨匠ウムウムと興味深げであった。

妹恵子さんあいさつの後去り、Xゼミ忘年会。大半は磯崎、鈴木のやり取りであった。

21時過了。皆と別れ難波さんと神谷バーで電気ブランを一杯飲んで地下鉄で新宿経由、23時前世田谷村に戻る。

21日、7時半離床。メモを記す。コマの件で宮崎の藤野さんに連絡。

何とコマの絵付けは30個全て自分と娘さんのア子さんとで描いてしまったとの事。絵付けが面白くって子供にやらせるのが勿体なく自分で楽しんでしまったそうだ。

全く!やっぱり具体派の人である。凄い出来栄えです、と自分で言ってるんだからまことに能天気であることこの上ない。

996 世田谷村日記 ある種族へ

5時半離床。まだ真暗である。昨夜来始めた気になる著者の複数の本の併読は最近の余りの乱読振りに少し筋径をつけてみるかと始めたことだ。坂口安吾の堕落論の根底はつまりそれを書かせたモノは安吾の徹底したリアリズムである。シャルル・ペローの赤頭巾の残酷さ他の諸々の残酷さとしか言い様の無い物語りに文学のふるさとを視ようとするところにある。鈴木博之の歴史観も又さらに言えば日本の近代都市を視る根底も当然リアリズムである。歴史学の根底の実証の行き着く先がそうであるから。特に重要なのは日本近代の文化的な残酷さへの視線であろう。明治の開国つまり江戸時代との分断そして第二次大戦の敗戦、アメリカ化は国家としてこれは敗者の歴史でもあった。その意味での文化的残酷さと言う。

始めたばかりであるが良い読書形式を発見したように思う。

新聞を取りに降りる。雲が切れて東は明るくなる。10時研究室、雑事。10時半中川研雑事、11時半前了。再び研究室で雑事。人生何が雑事で何が非雑事なのかは知らぬ。が雑事が多いのはコレは確かだ。

13時建築ジャーナル、インタビュー。粘着力のあるインタビューだった。17時前迄。18時半烏山風風ラーメンで雑打合わせ。19時半世田谷村に戻る。豆腐を食べて夕食とする。20時秋の宮温泉スケッチWORK始める。21時小休。東北地方本来の野生を表現してみたい。

12月20日8時前離床。何度読んでも『都市へ』は面白い。読むこちらの考えも動いているから新鮮なのだろう。昨夜のスケッチに手を入れる。もしかしたら読書に触発されているやも知れぬとフッと気付く。それも又良しである。一度コレを自分だけでひねくり廻し過ぎぬうちに担当者に渡してみようかと思う。簡単な風景モデルらしきを作ってみようか。昨夜は豆腐しか喰べてないので空腹だ。メシをいただいて9時45分発つ。

995 世田谷村日記 ある種族へ

昨夜の長澤社長との打合わせを少し整理する。

メモを作成し研究室に送信。9時半小休する。11時半世田谷発。

今日は烏山地区の南北軸を歩く。東西軸の1/2は歩き終えた。烏山寺町を歩き北端の高源院まで、妙高寺では住職にあいさつ。残り100のチラシ配布全て修了。15時疲れた。高源院の鴨池にはシベリアからの各種鴨が泳いでいる。

カメも甲羅干しで動かない。うらやましい限りだ。君等もチラシ配り位手伝えとつぶやく。こんな風にキメ細かく歩いていると一見平板に見える都市の細部は実に多様であるのを知る。多様と言うのは安易に過ぎる。より端的に明治以来の日本の近代の折衷の極をまざまざと見るような気がするのだ。今日は特に寺町の墓場を多く見たから殊更である。中国産の石の墓を設置する労働者の姿と墓地区画販売ののぼりが寒風にハタハタと音を立てている。

江戸時代に作られたクリークは埋め立てられ、墓石に似ているがにぎにぎしい姿の個建住宅やアパートが何の計画性も無しにひろがっている。しかも個々の住居も又、町の姿と同様に思い切り趣向のゴッタ煮である。そして個々の家々はアパートも含めて外に、つまり隣りに、つまり町に対しては完全に閉じられている。つい先日の衆議院の選挙の風景と同じだ。皆、恐らく隣人を知らぬし、知りたいとも考えていない。それがアナーキーなようで墓場の如くの風景を出現させている。

痙攣的に思い付き、坂口安吾の「堕落論」と鈴木博之の「都市へ」を交互に読み始める。

歴史を探偵しようとした文学者(小説は成功していないようだが)と、日本の近代を探偵する建築史家の仕事だが、鈴木が最後に述べようとしている場所の個性の極としてのゲニウスロキと坂口安吾の場所論、あるいは場所が内在させる共同する感覚の芽生え論とも言うべきは実に極度に近いのではないかと考えたからだ。

妙な読書になるな今夜は。

実は歩き過ぎてクタクタなのであった。横になるしかないのである。

994 世田谷村日記 ある種族へ

12月16日夕暮れ、世田谷村の2階でボーッとしている。何とか12月23日の我々の催事のインターネットによる世界へのライブ放送も目途がついたようだ。

そんなに大ゲサな事ではないのは承知なのだが、わたくしにとっては重要な事ではある。

7時過離床。昨夜は衆議院選挙開票速報をラジオで聴きながら眠りに落ちた。新聞を読む。案の定と言うべきか自公圧勝民主惨敗である。投票率は最低基準であったとの事。

このところ12/23/2012世田谷式生活学校祭りの集客の為にチラシを時々配り歩いている。それで曲がりなりにも沢山のアパート、そして一軒一軒の家の表情を知るようになった。区議会議員諸氏は恐らくはそれ位のキメの細やかさで地域の人々の無きにしも非ずのアウラを感じ取っているのであろう。それが東京都の場合は都議会議員、そして国会議員になるに従って薄れてゆくのではないか。

11時研究室定例打合わせ。13時半より、インターネットでの世界への配信のリハーサルを行う。

12/23/2012の世田谷式生活学校祭りの、紙芝居をデービットとマルタにそれぞれリハーサルをやってもらい、それを同時配信した。演者の二人は上出来だったが技術の方はどうだったかな。でも皆全力を尽くしてくれている。

アメリカに行っていた佐藤研吾の報告を聞く。良い旅をしてきたようだ。

インターナショナルコンペで入選した案の、他の世界からの案を見る。

たいしたモノは無い。佐藤のモノが一番なんではないかと思った。

でも、マアいいんじゃないかな。

15時向風学校代表安西直紀さん来室。久し振りに会ったが元気そうであった。

選挙結果について若干話し合う。彼は着々と成長している。若い世代の成長を実感するのは良いモノである。成長しないのを見るのは辛い。早く良い政治家になってもらいたい。少なくともわたしが元気なうちに。

16時半長澤社長来室。いくつかの相談をする。この人物も又、タフである。

18時過ぎ迄話しが弾み、その後新大久保の韓国料理屋で会食。20時過ぎ別れ、21時過ぎ世田谷村に帰着。

前橋の市根井さんから送られてきた、12/23/2012祭り用のコマの試作品を手に取って吟味させていただく。想像以上に立派な出来上がりである。

22時半横になる。

993 世田谷村日記 ある種族へ

14時油壺月光ハウス着。並木茂さんにごあいさつ。中沢さんや沖縄宮古島渡真利さんにもお目にかかり、渡真利島を子供達の無人島自然生活キャンプの島として先ずはスタートさせようかとなる。又、沖縄—ベトナム・ダナン間をヨット(ティーダⅡ号)で渡る計画の算段を依頼する。驚く程の人数の千客万来である。

並木さんの月光クルーのみならず、日本ヨット界の重鎮達の顔も見える。

77才の誕生日、そして62年目のヨット乗りを記念した集いだ。

早大学院の大先輩達も多く見えた。

生憎の雨でテラスでの祝宴が敵わず油壺ヨットクラブへ席を移す。続々と来客が続く。

この人物は石原裕次郎の友であった。だから裕次郎と同じに天性の明るさを備えていて、それで人が集まる。

わたくしには全く備えの無い才質で、しかも真似ようがない。

16時半宴は続いていたが去る。雨の中を世田谷村迄走り、19時半帰着。

月光ハウスでいただいた「海が燃えた日究極のヨットレース、アメリカズカップに挑戦したニッポンチーム」山崎達光、武村洋一著、読む。

ニッポンチームが1988年から2000年まで12年間にわたり三度もアメリカズカップに挑戦していたのを初めて知る。

中央公論社より中公文庫『都市へ』鈴木博之、送られてくる。すぐにあとがきから読む。これを機にもう一度読み直してみたい。

翌朝7時半離床。陽光が溢れる快晴である。来週23日にこの天気が廻ってくれれば良いが。今朝は投票に行ってから10時に烏山区民センター前広場に研究室の面々と落ち合う。8時過世田谷村を発つ。芦花小学校投票所にて投票。行き帰りにチラシ投函。

9時戻る。小休。

10時烏山区民センター前広場、デービッド、佐渡、山田他と会う。

デービッドにアニメシナリオを渡す。

12時半、チラシ、面かぶり手渡し作業修了。

わたくしも100枚のチラシのポスティング了。今日は天気も良く、区民の皆さんも大変気持良く受け取めていただいたようだ。天気の良悪がどれ程に催事の人の足、そして気持を左右するのかと再認識する。

人間は農耕時代より、それ程自然と進歩らしきとしているのではない。手持ちのチラシは全て配布修了。アトは12月23日当日分を含めて1000枚弱しか残っていない。

12時半風風ラーメンにてチラシ配布完了の昼食。14時前散会。

16時前世田谷村に戻り小休。

来年2013年3月31日に出来れば再び世田谷民センター前の広場で第12回の世田谷式生活学校の開催そして第2回の祭りを開催するのを決めた。少し計りの努力をしたので、一回きりの催事の実行では体験を生かすと言う事では合理的ではない。何事も初めは途方も無い努力を要して終る。2回3回と続けて初めて実になるのであろう。

992 世田谷村日記 ある種族へ

6時半過離床。昨日の具体派展について考える。結論として昨夕藤野忠利さんと話し合った通りに、わたくしがキュレーターらしきモノとして前面に出ようと思う。恥ずかしながらシャシャリ出る。

実験工房VS具体/東京VS大阪の構図のガチンコ展覧会に関しては綿貫さんは余り関心が無いようだったので、コレは安藤忠雄さんに相談してみよう。

今朝はこれからたまプラーザに山口勝弘先生、宮脇愛子さんを訪ね。それから油壺月光ハウスに並木さんを訪ねる予定。

991 世田谷村日記 ある種族へ

12時半南青山ときの忘れものギャラリーに辿り着く。松本竣介素描展を見る。素描コレクションの世界(業界)があるんだと綿貫さんに教えられる。その業界内でこんな小さな多愛も無いとも言える作品群がやり取りされているらしい。ペン画鉛筆画にオヤオヤと思う位の値段がつけられている。画廊、ギャラリー業界ってのも不可思議なものだなあ。作家論磯崎新の展開を思い巡らせているのだが、磯崎新は今美術業界に歩を踏み出しているようでそれ共々興味シンシンである。

宮崎・現代っ子ミュージアム所蔵の藤野忠利コレクション、具体の展示企画の相談をする。綿貫さんはプロの業界人だから金にならない事はやらない。勿論それ位の事は了解しているが、具体作品の流通展示は来年前半が山だなあの感じは共有できた。ニューヨークで値が動いているのは綿貫さんもすでに知っていた。昔、川合健二に東京画廊に連れて行かれた事がある。名は忘れたが、この人本当に美術界の人なのだろうかと言う位目付きの鋭い男が対応した。ウーム、美術=商品なのだと直観したのだ。この話しはわたくしが仲に入らないとまとまらないなと直観する。藤野さんは画廊業界アレルギーがあり、又御本人がアレルギーの素の両面具有人でもあるから。

14時半地下鉄を乗り継いで研究室へ。都内を動くのは疲れるものだ。12/23/2012 SETAGAYA SCHOOL MATSURI 「世田谷式生活祭り」の計画ミーテイング。研究室の連中が頑張っていてだいぶ進行していた。わたくしがビッタリ居ない方が作業は進むようだ。

皆それなりに楽しんでくれているようで、中々良い。

ソーラー・セルの組立てもマアマア進行していた

18時半地下スタジオへ。鹿島建設設計部の方々と連れ立って、15分程歩きイタメシ屋へ。総勢20名弱の所謂懇親会である。久し振りに先生方ともお目にかかる。学科教室の現状についても古谷先生よりつぶさに教えていただいた。

22時半世田谷村に戻った。

990 世田谷村日記 ある種族へ

8時前離床。ここ数日猫が掛布団の上にゴロリンと眠らないのでグッスリと眠っているようだ。しかしアノ猫何処で眠っているんだろう。寒いだろうに。

我々のウェブサイトのTOPに12/23/2012 SETAGAYA SCHOOL MATSURIの絵がONされている。それが昨日から漫画風になって動き始めた。

今日は12月14日だから祭り当日の23日迄絵はあと10回位は動かせるかも知れない。デービッドがクリスマス休暇でそれこそワイマールに帰る迄に出来るだけ動かしたい。後の数日はそれらしく日本勢でやってゆけば良い。

クリーンエネルギーのプロジェクトは出来ればドイツ、チューリンゲン州と協同で進めてゆければと考えている。

9時漫画のコマ割をエスキスして研究室に送信する。

その後はデービッドのワイマールからの通信に待ちたい。

老いた松のその後はそれなりに進めましょう。(ここらはサイトのTOP画像を見ていただかなくては意味不明でしょう。)

9時半終えて本日の綿貫さんとの面談の準備にかかる。

宮崎の現代っ子センターに電話、他。FAXのやり取り。

実験工房の山口勝弘さんと連絡、色んな相談をする。

10時半朝食。11時半南青山ときの忘れものギャラリーへ向かう。

989 世田谷村日記 ある種族へ

11時前花小金井・吉元医院。定例の検診を受ける。若先生、老先生共々に越年のあいさつ。12時半了。13時半高田馬場駅で研究室の平山とクロスして打合わせ、資料他を受け取り、実に短い指示。14時半烏山地区に戻る。チョコチョコと打合わせ。チラシ配布200枚。18時半世田谷村に戻る。

世田谷式のソーラーバッテリーに関して研究室より連絡あり。いくつかのソーラーセルに関して世界流通ルートの情報が集まり始めているとの事。何とか12/23の祭りにその一端がプレゼンテーションできると良い。あわてずに進めたい。

世田谷村日記984に記した国立建築資料館の件だが、来年(2013年)の第一回企画展に関しては、まだ時期その他が煮詰まってないので、わたくしの記した内容はまだ確実のものではないので、読者の皆さんは御了解いただきたい。時期は記したものよりも早まる可能性もある。念のために記しておく。

988 世田谷村日記 ある種族へ

7時半離床。SETAGAYA SCHOOL MATSURIのその後に関してスッキリしたアイデアにはまだ煮詰まっていない。こんな時には無駄話しでもする相手が居ればよいのだろうが、それも敵わぬ。独りで考え続けるしかないのである。

9時前、宮崎と前橋と連絡。21日に宮崎に絵入れ無しのコマ必着となる。22日に絵入れをして、23日MATSURIの午後便で東京着となる。これでギリギリである。その後の段取りを急がなくては。

987 世田谷村日記 ある種族へ

12/23/2012 Setagaya School Matsuriから出発して、より多くの人々の眼に触れ、脳を刺激し、同時に楽しませるような仕掛けを考えて夜が更けた。今夜は小判ザクザクの夢を見ながら、醒めた考えも少し計り続けたい。こういう馬鹿な事を考え始めると眠れないモノなのだ。

眼パッチリの一夜になるだろう。

986 世田谷村日記 ある種族へ

21時過ぎ、『A New Perspective GUTAI through the Eyes of Fujiino, Tadatoshi / 藤野忠利の視座によるもう一つの「具体」』を読み直し終わる。

Setagaya School Matsuri 12/23/2012に、宮崎の具体派美術家でもあり、コレクターでもあり、画塾のオーナーでもある藤野忠利さんとコラボレーションする事になり、もう一度「具体」を振り返ってみたいと考えたからだ。

先程藤野忠利さんと電話で話したら、日本の美術界は絵の売買すなわちマネーの動きは冷え切っているらしいが、具体は今ニューヨークで値段が大ブレイクしているらしい。

来年2013年春にニューヨークのグッゲンハイム美術館で「具体展」が大がかりに開催されるからだ。それで150万くらいの絵が一気に1500万円にはね上がっているんだとの事。恐らく白髪一雄の足で描いた大作の絵などは法外な値段になっているのだろう。まったく時に美術品は投機の対象になり変るのだ。

それで具体の大コレクターでもある藤野さんはウーム、ここで一発やってみるかと考えているに違いない。又、そうあって欲しいものである。ギャラリーのオーナーでもあるからそれは当然なのである。

実は世田谷村は藤野作品で溢れ返っている。又、一部に具体の作家の作品もまぎれ込んでいるようだ。

もしも具体の生き残り藤野さんが突如ブレイクしたら、世田谷村は一気に宝の山と化すであろう。何年か前の世田谷美術館でのわたくしの展覧会に於いて、小さなコーナーに具体VS実験工房と題して、具体の作家達と実験工房の生き残りである山口勝弘先生の作品を並べて展示してみた。来年には実験工房も大きな展覧会があるようだ。

わたくしの試みは少しはそんな先見の明があったのだーッとえばりたい。

あの時の展示物をコレクションしていたら、大きな金になっていたのかも知れない。

そう言えば、世田谷村には実験工房の山口勝弘の作品だってゴロゴロあるのだ。これが小判ザクザクに変化するのを夢みたい。いい夢みたいなあ全くとつぶやきつつ横になる。今日は若干波瀾万丈の日であった。

985 世田谷村日記 ある種族へ

11時半、早朝から実に目まぐるしい電話連絡がようやく一段落する。

最後は山形の長澤社長との北海道の水の件であった。小休する。

宮崎の藤野忠利さんより別記の通りの通信いただく。少しは面白い仕掛けになりそうである。13時40分世田谷村を発つ。2つ程打合わせして100枚程チラシを配り、18時半世田谷村に戻る。

東京新聞夕刊に不動産バブル危機迫る香港の記事がある。北京の投資家Mr. Kが香港に大豪邸を別荘として新築しようとしているのは知っていた。今年の8月にそのプレゼンテーションに立会わされた。香港の内海に面した素晴しいロケーションだった。

磯崎さんはどうやら中国政府はバブルのつけを全部香港に押し付けて、全部の危機を乗り切るのではないかと英字新聞を読みながら断言した。

わたくしが知るのは2つの事実だけであるが、どうやら香港が中国大陸のバブルの焦点になるのだろうか。初めてあったMr. Kは香港のペニンシュラホテルの1フロアーを借り切ってマネーゲームの拠点にしていた。そして、俺はこのペニンシュラを近い内に買い取って新しいスーパーハイライズを建てると言っていた。C.Y.LEEが一緒にいた。どうやら、そうなるのだろうか。

金曜日12月14日に南青山のときの忘れものギャラリー綿貫不二夫さんを訪ねる事にした。松本竣介の展覧会を見に方々、宮崎の藤野さんの件についても話し合いたい。

明日12月13日の11時は花小金井の吉元医院である。15日14時は油壺月光ハウスに並木さんを訪ねることとなり、予定していた山形の長澤社長との件は17日以降に動かしていただいた。スケジュールの件もよろしく願いたい。

984 世田谷村日記 ある種族へ

11時半12/23/2012のチラシを雑居ビルに入れつつ駅へ向う。昨日新たに印刷されたモノが研究室に届いたので、まだ頑張らなくてはならない。

これで当日、大雨大雪だったら目も当てられぬなあ。

3時半、湯島地方合同庁舎新館2階会議室。旧岩崎邸に隣接している。

国立近現代建築資料館運営委員会。久し振りに安藤忠雄さんにお目にかかる。元気そうである。鈴木博之、難波和彦両先生他大勢の方々と文化庁の面々と会議。

その前に、新装なった新建築資料館の内、外覧。立派な施設である。

隣りの岩崎邸の眺めが素晴しい。明治時代の近代建築の粋であろうが仲々に良いのだなあ。スケッチをする人々の姿が目立った。新国立資料館は内、外共に立派に仕上がっている。安藤さんいわく「チョット立派過ぎるんとチャウカ」どうやらこの設計は国交省の直営であったようだ。安藤さんは「国立近現代資料館」の表札のデザインをした。つまり自分の書体で名を書いた。それだけの事はしたのである。

1) 近現代建築資料館の運営について

2) その他

の議題。名誉館長の安藤忠雄さんのあいさつに続き会議始まる。

14時より会議。座長は鈴木博之。仲々難しい問題を15時半まで熱心に討議する。

来年2013年連休明けに資料展覧会を開催する予定になりそうだ。

同時に2020年東京オリンピックの新国立競技場の国際コンペの応募案の展示が考えられている。わたくし達は応募して選択されなかったが、より多くの人々に見ていただきたいとは思う。でも展示会開催までは余りにも日数が少ない。核になる人間が名乗り出ないと仲々実現は容易ではなかろう。

会議修了後散会し、皆と別れて新宿へでる。いささかの用を成し、19時過世田谷村に戻った。クシャミが止まらず、このままではカゼ状態に陥るかも。熱い茶をガブガブ飲んで眠ろうとするが、無理であろう。

翌日6時半離床。新聞を取りに降りる。クシャミは何処かに消えた。寒い。陽光が射し始めている。新聞にはさしたる記事はない。でも毎朝こうして新聞を読もうと思っているのだから習性とは恐ろしいものだ。新聞紙からインクの匂いが消えて久しいが、あの匂いはいつ迄だったのだろうか。

12/23/2012 SETAGAYA SCHOOL MATSURI(世田谷式生活祭り)の草稿に手を入れる。

市根井さん、藤野さん、そして原口さんにも電話して12/23の件でどんどんつめている。

9時一段落する。

藤野忠利さんにお願いして宮崎現代っ子ギャラリーで巳之年之こまの展示、即売会をやろうとなった。

宮崎・現代っ子ギャラリーでの「巳之年之こま」の展示会は2013年1月7日より3月中旬迄となった。ギャラリーでは2013年3月よりニューヨーク・グッゲンハイム美術館で開催されるGUTAI(具体)展の先触れとして、具体派の作家のコレクションが多い具体派最若年のペインターでもある藤野忠利オーナーのギャラリーでGUTAI展をやるのだと言う。チョッと面白くなったな。

983 世田谷村日記 ある種族へ

7時離床。今日も清々しい朝の陽光が天に満ちている。南青山のときの忘れものより知らせが届く。松本竣介展を12月14日より開催するそうだ。TEL.3470-2631。久し振りに出掛けてみようかなと思う。松本竣介展は世田谷美術館でも開催されており先日出掛けた。抒情味の勝った具象画である。頭の中でこねくり廻さずにフッと手描きのスケッチを始める。気持の動くままに。良くは知らぬが現代絵画らしきに一番欠けているものではなかろうか。

今日は11日だから金曜日にでも出掛けてみよう。

川合花子さんより送られてきたみかんを食べる。

8時半前橋の市根井さんと電話で話す。わたくしの巳年之コマのスケッチは格好よいけど重心が少し高そうなのでよく廻るかどうかはわからないとの事である。でも段取りしてすぐ作ってみるとの事であった。絵つけは全て研究室でやってくれとの事。メシは佐賀の森正洋先生デザインのメシ茶碗で食べる事にしている。メシ茶椀への絵付けは先生自身の手でなされたモノをヒナ型に職人達の手で描かれたと聞いている。亡くなった森正洋先生をしのんで絵付け作業に励んでみるか。絵の具の吟味もしなければ。

12/23/2012世田谷式生活・祭り、の連載草稿書く。9時半修了。

研究室に送信する。どうやら草稿がスケッチ共々編集の速度を上廻り始めている。

982 世田谷村日記 ある種族へ

夕方烏山で都知事選挙演説巡回中の宇都宮けんじ氏の選挙カーに会う。会うと言っても、たまたま長崎屋の前で演説していた。長崎屋のオバン共々店を出て握手する。オバンいわく、あの人誰なのだって。マ、そんな感じなんであろう。

デービッドに依頼していたウェブサイト用のドローイングがTOPページにONされていて、オーッ仲々いいじゃないかと感嘆する。マアチョット時間をさいて石山研ウェブサイトのホームのTOPをのぞいてみて下さい

12/23/2012の祭りの試みのド真中のアイデアを良く示している。次の段階でこの固定されたシーンをどのように動かせてゆくか、それは腕の見せ処であろう。楽しんでボチボチ進んでゆく。

981 世田谷村日記 ある種族へ

19 時過前橋の大工・市根井さんと電話していたら、突如又も妙なアイデアらしきが浮かんでしまった。一日おいて明日絵にしよう。

8時離床。すぐに昨夜の妙なアイデアのスケッチ。今日中に市根井君に送信したい。40分終了。同時に市根井君からFAXが入っていた。神棚のアイデアに脱帽する。流石に身近にブツを置いている人は違うものだ。今、市根井さんの製作物はドイツにまだ在るが、戻ってきたら市根井木工プロダクトの展示販売会をやってみよう。先ずはウェブサイトで開店する。

10時前世田谷村発。研究室へ、今朝の陽光は澄んでいて素晴しい。サイトの更新スピードが目まぐるしいモノになりそうだが、実際の日常は実に鈍重なものである。

980 世田谷村日記 ある種族へ

10時烏山区民センター前広場、5名の石山研担当者と会う。マルタ、デービット、ヴィンセントを含む。昨日描いたスケッチを説明し手渡す。

その後彼等は広場を中心にチラシ配布作業にかかる。

今日、9日は寒くて人の流れも思わしくない様で苦労しているようだ。広場のベンチに座ってそれを眺めている。選挙活動の車や人々の動きと相まって実に興味深い。広場の入口に選挙用の演説カーがドデンと場所を占めて、はなはだ我々には迷惑である。熟視するに、この選挙用の某党差し廻しの車やスタッフの面々が配る投票用のアジビラ、すなわちチラシよりも我々のチラシの方がはるかに人々に受け容れられているようだ。しかし、寒い。広場に吹く風はゴッツク冷たいのであった。12時半、スタッフ全員のチラシ配りを休断する。近くの風々ラーメンに出向き皆で風々ラーメンの昼食。13時半了。ウェブサイト用の写真をマルタに撮ってもらい、再びチラシ配布作業に皆はかかる。わたくしは抜けて町の処々を巡る。16時半世田谷村に戻る。

所与の小屋、すなわちテントの事だが、これには今度のプロジェクトでは一切手をつけないと決めている。レディメイドで良い。しかし、今日渡された資料に赤白の幕のヴァージョンがある。この赤白の縞模様の幕のヴァージョンは、良くは知らぬが古来、どうやら戦場を含めて日本の天幕の決まり(クリシエ)である。葬式の黒白のダンダラと同じに。この赤白の天幕は使いガイがあるナアと確信する。頭を使い切れば、小さな催事も思い切りな事件に仕立て上げる事ができるような気持になってきた。

明日12月10日は、赤白幕の世田谷在庫について調べなくてはならない。17時半小休する。

979 世田谷村日記 ある種族へ

17時世田谷村に戻る。12/23/2012の世田谷式生活・祭りの準備が本格的になってきた。1988年の宮城県唐桑半島での大がかりな祭事ををしきりに思い起こしている。人間忘れなければ何事も復活させる事が出来る。四半世紀ほども昔の唐桑半島での祭事づくりは時代がまだバブル期末期ではあったが東北の片田舎の町にもまだ活気らしきがくすぶっていた。

22時半研究室から送られてきたスケッチに手を入れる。入れ始めるときりがないが、できるだけの事はする。妙なアイデアがどんどん出てきて、これではいくら金があってもプロジェクトには足りないなあ。明日12月9日は10時に烏山センター前の広場で皆と会い打合わせ、チラシ配り他をする予定として眠りにつく。6時半離床。すぐにWORK。

高橋晶子、高橋寛ワークステーションよりSeason’s Greetingsいただく。京浜急行電鉄黄金町高架下。Site-C工房の写真がある。黄金町は戦後名だたる買売春街であった。新聞の取材で詳細に訪ねた事があり、一部凄惨さにギクリとした記憶がある。

8時過小休する。トップページ・MAN MADE NATUREのMAP「SMALL SCALE★」に12/23/2012「世田谷式生活・祭り」のデザインを書く。

978 世田谷村日記 ある種族へ

8時寝過ごした。すぐにスケッチWORKに入る。

9時半前、一段落。研究室に送信。

10時前了。朝食をとる。11時過草稿も書いて研究室に送信。

風の親子のマスクもあった方が良い。

何だかアニミズム紀行の祭りにもなりそうではないか。

15日の山形の長沢社長との打合わせの下ごしらえをしなくてはならない。

UNESCOに文化多様性条約がある。2005年10月に発効したが、米国とイスラエルは反対した。

祭事から戦争にいたる迄の情報の民営化とも言うべきに歯どめをかけようとする条約である。

突然こんな事を言うのは12/23/2012の世田谷での実に小さな祭事に、天皇誕生日でもあり、またもちつきは日本の伝統的な祭事でもあるので日章旗を掲げようとなった。勿論、わたくしが決断した。この事でいきなりこの催事はUNESCOの文化多様性条約との関係がほんの少し計り発生するのである。何故ならば我々はこの催事をインターネットで世界に送信するつもりだからだ。

まだ充分に考えを煮つめてはいないが考えてみる必要はある。

我々のサイトのMAN MADE NATURE MAPのSmall Spacesの項目、「世田谷式生活・学校」★をクリックされたし。

977 世田谷村日記 ある種族へ

12時チラシ200枚南烏山地区に配布終了。小休する。仲々気持ちの良い重労働だ。気持が良いってのはコレワ嘘だな。境界線を歩いているって感じか。途中、2度程本物の郵便配達の方と会い、アイサツする。確か、若い中上健次にこんな風な小説があったな。南仏には郵便配達夫シュヴァルという芸術家がいて、チラシ配りならぬ郵便配達のつれづれに思い立って「理想宮」と呼ぶドロドロに融けた建築を33年かけて作った。アンドレ・ブルトンはそれに触発されてシュールレアリスム宣言をなしたと言われる。チラシを配ったり、郵便を配達したりには得も言えぬ後ろめたさがつきまとうのである。何だコレワ。

コンピューターサイトと同じに他人をのぞくと言う妙なうしろめたさに通じるのだろう。

12/23/2012世田谷式生活・祭りのマスクにはそれぞれ名前がいるな。そうだ、マスクミュージアムをサイト上に建ち上げてマスクをオークションにかけるぞ。これはリアリティーが無いなあ。色々と妄想は浮かぶけれど、どれが生き残るかな。

しかし、ヒョンな事から朝日新聞に烏山地区に2000枚チラシを折り込んでいただける事になり、助かった。あと2000枚追加発注しなくてはならぬか。10000枚を配るのはそれ程困難な事ではない。

午後は打合わせの合間にチラシを100枚配布できた。

12月23日は天皇誕生日なのでもちつき小屋には日の丸の旗を挙げることにした。日の丸は世田谷野球倶楽部カントクから供出される。日の丸をクロスしたいね。

976 世田谷村日記 ある種族へ

ほぼ夜どおし3つの芝居小屋の件を考えつめた。7時半離床10時には研究室に何がしかのオペレーションを送信したい。

1、12/23/2012、3つの芝居小屋in烏山と計画を名付ける。少しださいけどマア仕方無い。これ位から始めれば良い。

2、ウェブサイト―リアルなテント―芝居、を連動させる。

3、できれば当日の広場とテントの光景を実況中継(ウェブサイトに)したい。できなければ刻々とドキュメントせよ。サイトは石山研のMAPページがベストであろう。MAN MADE NATURE、SMALL SPACEにDOCUMENT12/23/2012を設置してそれを拠点にする。

4、2のリアルなテントだが、3つのテントはまさにリアルなテントとして何も装飾はつけない。今すすめようとしている花飾りは別に生かす。

5、昨日気まぐれのように述べたが、デービットが作成したワイマールアニメのおばあちゃんを12/23/2012の重要なキャラクターとしてピックアップする。ベンチに座っているおばあちゃんは秀逸である。

6、宮崎の現代っ子センターでのMIYAZAKI STYLEのお面制作の過程もできれば送信して欲しい。

7、以降のオペレーションは微に入り、細にも入り込むので別記のオペレーション通信を送附する。

取り敢えず以上。すぐにWORKしてくれ。

演者(役割)

A. 渡邊大志

総括ディレクション、12/23当日のパネルをコントロールせよ。難波、松村両先生との連絡、他の対外的連絡の責任者とする。

B. デービット

クリスマス休暇でドイツに帰る前までに、紙芝居の制作を終えたい。又、おばあちゃんキャラクターを本日12月7日中に突如大きくウェブサイトに登場させたい。以降、そのおばあちゃんキャラクターを日々刻々動かす事。とても大事。ワイマール、シュツットガルトへこのプロジェクトを送信せよ。

C. ビンセント

昨日のミーティングで音をやりたいようだったが今日中にそれを考える事。石山は10時以降街に出るので随時連絡を入れる。

D. マルタ

ペットボトルフラワーはとても面白いのでこれは独自に展開させたい。別紙に述べる。バルセロナに送信しなさい。

E. 平山

サイトのデザインを責任持ってやる。随時報告せよ。

F. 佐渡

全ての記録を綿密に行え。

G. 山田

新聞、他メディアへの広報他。渡邊に報告の事。

追記、藤野さんの宮崎現代っ子センターで制作していただくお面と合わせて、A,B,C,D,E,F,Gの7つのお面を用意して、それぞれのこの計画参加者のキャラクターにせよ。

12月07日、10時研究室にオペレーション、討議事項をまとめ送信して、チラシジイさんとして街を漂泊することにする。

サイトのインデックスに12/23/2012、3つの芝居小屋IN世田谷を必ず表示するように。

975 世田谷村日記 ある種族へ

10時45分研究室。すぐにミーティング。カタロニヤのマルタも参加する。

12月23日の世田谷式生活・学校フェスティバルの件。12時半迄。

伊藤アパートの件を続いて。13時半嘉納先生来室。アニミズム紀行7、5、6、7数冊にドローイングを入れる。チラシ150枚を宗柳のオカミさんにお願いし、18時世田谷村に帰着。チラシを500枚程持たされたので、又チラシ男をやる事になる。

ポッと頭に灯りがついて12月23日の件、3つの芝居小屋をつくるプロジェクトとしてまとめてみようかと考える。夜半まで考える。ようやく面白くなりそうだ。

974 世田谷村日記 ある種族へ

6時半離床。昨夜は椹木野衣の本を通読してしまった。村上隆のスーパーフラットが一段落した今になって、少し遅ればせに触れたので良く理解できた。日本の現代文化の大方は渦中で視るべきは殆ど無い。ホロホロと散った死花になってから眺めるのが良いのではないか。今日はすでに12月6日である。今年もあと24日を残すだけとなった。日記は予定通り1000番迄年内に記す予定なので、あと26回分書ける。

中村勘三郎さんが亡くなった。一度博多の芝居での顔見世船渡りで同じ船に乗ってお目にかかった。福岡地所の藤さんの計らいであった。何艘もの船で川を上ったのか、下ったのか定かではないが、両岸の建物の窓という窓からそれこそ紙吹雪が舞い続けた。これが千両役者という者かと痛感した。一日の良い思い出になった。御冥福を祈る。

劇場の内ではなく都市のド真中で千両役者の千両役者である由縁を知ったのは幸運であった。伝統というのはそんなに生やさしい知識人らしきの頭の中に在るモノではなく、まさに大衆の中に夢として生き続けているモノなのを知った。

あの時勘三郎さんはしきりに都市のスケールについての実感をのべられた。

この小ささがいいんだなあ、江戸の隅田川じゃあこうはいかない。大き過ぎて人の顔も見えやしない。桜の花も遠過ぎちゃあね、と話した。

流石、役者である舞台と客席の間についてと同じようなことを言っていたのだ。

江戸の町の大きさ位が日本人には、都市に棲もうとする人間にはピッタリなのかも知れない。そこまで人口は減少すまいが、それにしても人口が減り始めている社会スケールへの実感がまだ自分には薄いなと思う。勉強したい。

973 世田谷村日記 ある種族へ

初めて椹木野衣の著作に触れた。何となく読む気がしなかったのだが時々磯崎新から名を聞かされていたので勿論知っていた。

当然の如くに村上隆の言説にもその著作を介して触れた。これも初めてであった。世に言うスーパーフラットのイデオローグである。言説の中に康芳夫氏が登場する。成程なと思った。康芳夫氏は例の、と言っても忘れた人が多いだろうが猪木vsアリ異種間格闘試合の仕掛人として登場する。康芳夫さんには磯崎新の紹介で会った事がある。ネス湖の怪獣探しや、ノアの方舟探索計画などで名をはせた人物だ。

暗黒全権プロデューサー(椹木)の異名を持つそうだ。

どんな文脈で康芳夫さんが登場したか、それはスーパーフラットの登場の仕方と似たようなところがあるからだ。スーパーフラットの大衆理解はオタク文化、ジャパニーズファンタジー、ポップであろう。日本現代の漫画文化、フィギュアーと呼ばれる手作り人形模造品文化を代表する芸術としてスーパーフラットが興行的に意図され、アメリカ・アートシーンで一山当てたビッグなアーティストとしての村上隆が誕生した。そんな流れが作られた。椹木はそれに加担した批評家であり、キュレーターである。

椹木の主な仕事は戦後美術史に岡本太郎、横尾忠則等をキチンと位置付けようとした事である。特に岡本太郎の70年万博の太陽の塔をはじめとする仕事の流れを、日本の現代美術の枠外としてではなく、枠内に評価しようとしたのは立派であった。恐らくはその点で磯崎新の共感を得たのであろう。

戦後の日本を悪場所とする考えも同じである。悪場所という言葉は広末保が提示した。うろ覚えだが確か江戸文化、絵金やらのグロテスクなどに触れたところから生み出された筈だ。

椹木の論の大方の現代芸術への視線、そして考え方には我ながら驚いたが同意せざるを得ない。しかし、日本の現代美術の、特に若い作家達の仕事に意味があるとすれば、それは江戸文化の複製技術と接続しなければ価値は薄いだろうと感じて、眠りに落ちた。

972 世田谷村日記 ある種族へ

7時前離床。猫が私の布団の上でゴロリと眠っていたので重くて身動きできず、それで妙な夢を見てしまった。超高層ビルの全体と1階らしきの自動車のショールームの妙なコンペらしい。建築家がそれぞれゼネコンと組んで参加している。わたくしも参加している。1階2階のスペースが肥大化して、水を張ったり、珍しいマテリアルが百花繚乱で、これはモーターショーの会場かと疑うばかりであった。変テコリンな夢であった。猫の重みがストレスになって、上にのびる超高層と横に走る車のショールームになったのだろうか。安手のフロイト流だなコレワ。

971 世田谷村日記 ある種族へ

18時前、ベイシー菅原に電話。イヤハヤで始まる話しの中身は忘れた。

どうせ大した事ではない。大した事は信用出来ぬの彼の信条通りである。しかし菅原は流石に稀に見る勘がある。東北の現状について、すなわち日本の今について実に適確な感慨を述べ、わたくしも圧倒的に共感した。modern JAZZの世界ではこんな風なでたら目については坂田明だけであろう、それが解るのは。と生意気を述べて去る。何処に去るんだと自分を叱る。

唐桑の佐藤和則前町長にも電話。辛いだろうな唐桑の人々も。

日本のモダーンJAZZの世界は、日本の近、現代建築デザインの世界と同じように不気味な世界ではある。ようく考える知力があればね。恐ろしい迄の接木世界である。接木に情熱を注いだ人間の総量を想ってもである、コレワ。

確然として変テコリンな接木なのである、実に。自分も含めてサラサラと砂が崩れて流れてゆくのである。縁日の砂時計の如くに。ねじくれた盆栽の松みたいなものだ。若者もすべからく人工の小さな松だ。

970 世田谷村日記 ある種族へ

9時過ぎ松村秀一先生に電話して世田谷区の住宅対策等の意見を世田谷式生活・学校に寄せてくれるように依頼する。難波和彦さんのモノ共々12月23日にパネルにして、世田谷の人々に見てもらうつもりだ。その後、保坂展人区長に提言として世田谷式生活・学校より提出したい。もう12月に入って4日になる。全く時間はパタパタと足音を立てて廊下を走ってゆくな。走り去る時間に、スリッパくらいは抜げよ、ウルサイぞと声をかける。

開放系技術論・生垣4、書き始める。12時終了。笹子トンネル災害と新国立競技場応募案について書いた。小休。

13時半ソバ屋宗柳で研究室の佐藤研吾と昼飯。彼は明日からアメリカ、西海岸の旅に出る。アメリカ先住民ポモ族の居留地からプエブロインディアンの住居跡、そしてフランク・ロイド・ライトのタリアセン・ウエスト、パオロ・ソレリのアルコサンティを巡ってくると言う。アメリカ大陸では最良の旅のルートの一つではあるまいか。ガキのくせに生意気な旅程である。うらやましい。バカヤローと言いたい。15時前了。長崎屋に一人で行ってグタグタと話す。毒喰らわばどん底迄の心情である。でも長崎屋の連中は良い人々なんである。戦争になったらほとんどの人間が日ノ丸を振って廻りを送り出すのは間違いないであろうが。

17時前、世田谷村に戻り、WORK。

969 世田谷村日記 ある種族へ

7時半離床。明方夢を見る。母は何処かに元気でいるようだ。不思議な事にあんなに強烈な附合い方をした佐藤健は夢に出た事が無い。あいつが60才で若死にしなければと思う事があるが、皆さんそんなものなんだろう仕方無い。馬場昭道住職より三陸海岸被災地支援絵葉書100セット注文があった。50部、100部と注文が続く。坊さんはねばり強い。まだまだ、これからなんだろうな東北を支援しなくてはならぬのは。薄暗い冬の空を見上げて、東北の友人達の事を想う。余りにも非力である。気仙沼の安婆山に植えたサルスベリの樹は、来年はほのかな紅の丸を見せてくれるだろうか。厳しい冬を負けずに育って欲しい。

968 世田谷村日記 ある種族へ

12月3日、9時半駅前通り振興組合理事長桑島氏に会う為に烏山ダイヤ会館3階に行く。理事長は全日本の商店街の活性の為にも精力を尽されている人物だ。これからの事も含めごあいさつをする。

10時前了。11時研究室。研究室定例ミーティング。昨日の日曜日は総計400枚のチラシを配ったとの報告を受ける。マア良く頑張ったな。世田谷式生活・学校、伊藤アパート、他のプロジェクトの打合わせ。14時半迄。すぐに去る。15時半烏山地区で色々な打合わせ。地元も念入りに堀起せば実に宝の山である。17時半長崎屋で小休。来店している常連のクダ巻き人間を対象に、長崎屋失業者倶楽部を発足させようかとなる。会長はオバン、すぐに4、5名が名乗りを上げる。人間万事が失業状態が一番良ろしい。良ろしいと言うのは不足である。実に美しいのである。人々が皆失業したって結局人間は生き生きと食べてゆくに決まっている。それが資本主義の大矛盾なのだ。資本主義社会の大都市でうえ死にする人間の数は奇跡的に小さい。アジア、アフリカの非資本主義社会、すなわち農耕社会では目もくらむ程に餓死する人間が在るのはよく知られている。

地もとの方々にチラシ配りを60枚程依頼する。19時世田谷村に戻る途中40枚程チラシをポスティング。我ながら小マメである。Theチラシマンである。もうどれ程監視カメラにとらえられているかを想像すると、又も犯罪者の心持になる。

967 世田谷村日記 ある種族へ

10時過千歳烏山・世田谷区民センター前の広場で石山研のメンバーと会う。ワイマールのデービッド、カタロニヤのマルタ。そして平山、佐渡、山田の面々。ヴィンセントは遅れて来るのか?風々ラーメンのオカミも来てくれて、皆を紹介する。すぐに用意の手作りのお面をかぶり、それぞれ広場に集まり始めている子供、お母さん他にチラシを配り始める。マア自然にやっているのを眺めてホッとする。風々ラーメンのオカミ(烏山飲食店組合副会長)に何とかなりそうかなとつぶやいて広場を去る。

11時世田谷村を発ち我孫子新木・真栄寺へ。首都高、常盤道経由。途中、バイパスでさぬきうどんの昼飯を食べる。まずかったが他のバイパスの方よりはマシであろう。13時半前、真栄寺着。金子兜太さんにあいさつ。兜太さんとは2年振りである。手術をされて回復した。

本堂は200名をはるかに超える人間で溢れている。皆金子兜太フアンである。14時前講演。1時間半立ちっ放しで力強い話しをなさった。93才である。山口勝弘84才、磯崎新81才、比べるべくも無い。お若いの〜位な者だ。

話しは漂泊と放浪について。つまり小林一茶と山頭火を巡った。一茶の漂泊は目的をもっての、故郷信濃にいつか戻りたいの強い気持を中心にしたモノであり、山頭火の放浪は全てをなくしてスッカラカンのモノであると述べられた。金子兜太さんは一茶を芭蕉より大事に考えている。

芭蕉はつまらん事をグチャグチャ言って、たかが50代で弟子に自分を翁と呼ばせた。笑わせんじゃないとタンカを切られた。兜太さんでなくては言えぬ科白である。しかし、芭蕉の、古池や蛙飛びこむ水の音、はその句をもって短歌の時代から俳句の時代への革命であったとされた。

やはり俳句の世界を背負っているなと痛感した。

一茶の句、夕顔の花で涕かむ娘かな、を教えて下さった。兜太さんの俳句はアニミズム、すなわち生きもの感覚であると断言なさった。わたくしのアニミズム紀行7を是非ともお送りしなくてはならぬと痛感する。しかし覚悟が要るな。恐ろしい読み手であるだろう。

15時半終了。又、お目にかかる日をと、あいさつして去る。寒く寒冷えする夕方になった。兜太さんは秩父に帰られた。

18時半世田谷村に戻る。19時前宗柳で夕食。21時前戻る。

石山研サイトが更新されていたので読んだ。

966 世田谷村日記 ある種族へ

7時離床。空気が澄んで陽光が美しい。新聞を読む。日経新聞に伊藤比呂美さんがとても良い文章を書かれている。伊藤さんはカリフォルニア在住の詩人である。ボランティアでデイケアーの介護施設に週一回通っている。

日系の高齢者を介護するところだ。そこでの出来事らしきが淡々と描かれている。昭和3年生まれの日本の老人も居る。皆さん日本語は忘れていないそうだ。

ただそれだけの事なのだが、感じ入った。詩人と名乗る人間を信用できぬ自分が居るのだが、さてはてやはりこれは詩人だなと思わせる。過日、そば屋宗柳でソバ喰べていたら、来合わせていた近所の知り合いの老女達が突然、ローレライを合唱し始めた。他には客は少なかった。美事な歌であった。拍手した。

さらに昔、山口勝弘先生がおられる介護施設を訪ねたら、階下のこれも老女達の小学唱歌の合唱が耳に入り、これにも心をふるわせたのを思い出した。

伊藤比呂美さんの居るカリフォルニアの介護施設での老女達の詩の朗読の音が聴こえるような気がしたのである。世界中に日系人の高齢者介護のための場所があるのだろうと想った。昔、当時の通産省がシルヴァー移住計画とかでスペインに多くの老人達を移住させようというプロジェクトがあった。あれを考えた官僚達も恐らく後期高齢者となり、何処かの介護施設にお世話になっているのだろうか。スペインの黄金海岸の住宅地が想定されていたと記憶している。

今日は12月2日の日曜日である。10時過ぎに烏山区民センター前広場で研究室の面々がお面をかぶって広場の人々に12月23日の催しのチラシを配るのに、その始まりに立会う予定。晴れていて良かった。それから我孫子市新木の真栄寺で金子兜太さんの話しの会に出掛ける。金子兜太さんは大きな手術をされ生還された。その姿を拝閲に出掛ける。楽しみだ。

965 世田谷村日記 ある種族へ

昔々、大昔である。中学生のわたくしは山程、推理小説、冒険小説、SF小説を読み狂った。中学生と言うには少し計りの見栄がある。高校生の頃まで、それは続いた。レイ・ブラッドベリやG・K・チェスタートンそして『裏切りの氷河』のフルネームは忘れたが、デズモンドだったかなを強く憶えている。アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』には恥しながら泣いた。

今は泣ける程の本には出会えない。この泣ける位のと言うのが大事である。 良い書物は読んだら、やっぱりグーッと来る筈だ。それ故泣く迄もないかも知れぬが、それに近い事はあろう。建築書の全ては下らないと、言い捨てたい。

一冊と言えども、アリステア・マクリーンの一冊、下らないモノもあるが、気合いの入ったモノには敵わない。いきなり言うが『建築の世紀末』鈴木博之、はイカッタ。女王陛下のユリシーズ号程ではなかったが、ネルソン提督がトラファルガーの海戦での死に際して、自分は義務を果たした!と死ぬ間際に言って残した感じが、20代の鈴木には確実にあった。磯崎新の様々な著作の総量に匹敵する一冊であろう。これは凄い。磯崎は言葉の人ではないから全てを言葉に賭けてはいない。やはり、後背に物(建築)を背負う。しかし鈴木には作品としての「物」は無い。だから言葉で、言説で全て自分の生を表現しなくてはならぬ。それ故、読める人間には、その言説の必迫感がある。特に、振り返るが「建築の世紀末」にはそれが充ち溢れている。途中を飛ばすが、日本人の脱亜入欧の宿命の源が書かれている。

磯崎新の言説は唯一、それに対抗し得る言説の総量であろう。

サー・ジョン・ソーンのイングランド銀行が廃墟になったドローイングがそれを仲介し得る交差点である。

わたくしの日記もそろそろ、その辺りを書かねば生きている甲斐も無かろうと思い始めてはいるのだ。

もう10年以上、サイト上の日記らしきをたれ流してきた。もう、それはあきた。

964 世田谷村日記 ある種族へ

徘徊チラシ老人の日々のさなかに世田谷村の姿をしばしば遠くから遠望して改めて驚いた事はさきに記した。世田谷村の廻りの家々の姿からクッキリと浮いているのである。そして眺める角度からは時に緑が多い家らしきなのである。

浮いているのは周りの家々が密閉型の箱にチョコリと屋根が乗ったような家々か、それが積層されたアパートかのどちらかであるに比べて、世田谷村の姿は廻りに全く密閉されていない。全開放の如くに視えるのだ。金属の構造体が引張り材も含めてムキ出しである。引張り材というのは地震の揺れに備えた斜め材で、うちはそれを細いヒモのような鋼材を使用している。技術表現を旨としたのかと言えばそれは違う。なるべく広い床面積を安価に入手したかったからに過ぎない。そんないささか固めの(ハードな)工夫が時を経て、屋上の緑と庭の緑にとけ込んで良い姿になってきたように思う。これならば個人住宅とは言わずアパートにしたって良い姿かなと思うようになった。もう10年と少し経っているから、それなりに周囲とは言わず樹木の姿と馴染んできたのである。

我々が多くの人々と共に作ったカンボジア、プノンペンのひろしまハウスは朝、夕にとても多くの鳥が訪れる。竹を短く切って壁に突込んであり、それを鳥が巣にしているからだ。世田谷村も屋上の緑がもう少し育てば鳥が巣をつくるようになるかも知れない。

アッという間に夕刻になった。空は晴れわたり西の陽光が横なぐりに街に差し込んでいる。日本の近代もようやくにして寂寥の域に突入したなと馬鹿な事を考える。ヨーロッパの辺境であるムンクの世界の姿に近いと感じるが、身近を通り過ぎる若い二人のカップルの姿形にはその影も無い。

963 世田谷村日記 ある種族へ

明日、12月2日の11時より京王線千歳烏山世田谷区区民センター(駅より1分)前広場で、鬼や花や鳥やら、つまり12月23日の紙芝居に登場するキャラクターが総出演してお面かぶり、チラシ配りを行います。

ただそれだけですが、物見高い人は見物しに来て下さい。お知らせします。

962 世田谷村日記 ある種族へ

8時前離床。足許を固めるなんて御大層な事ではないが、世田谷村周辺を少し見たいと考えた。そば屋宗柳、長崎屋のオバン、オジンそして風々ラーメンのオカミとの附合いができた。人見知りするので知り合いをつくるのには時間がかかる。以前は安田金物のオヤジ、オカンもいたが今は引越して居ない。街に濃淡が生まれた。つまり、世田谷村周辺は通り過ぎるだけの街ではなくなった。たった3ヶ所程の知り合いが出来て街の姿は一変した。一変という程大袈裟な事ではあるまいが大いに変った。

12月23日の烏山区民センター前広場の催事を決めた。第11回目となる世田谷式生活・学校の主催である。紙芝居、もちつき大会、モノづくり実演。まちへの提案、手作り電気方式の展示等を行う。これを行うのに先ず人に来て貰わねば話しにならない。それで、最近になり出来た附合いがなければどうにもならぬのを知った。

紙芝居には、絵物語り作りが先ずなければならぬが、同時に観客が必須である。それでチラシを作り、先ずはチョボチョボ知り合いになった店を中心に配り始めた。すぐに限界を知る。もう少し知り合いでも何でもない人々の力が必要だ。市や、他の市民運動グループの力も借りたが、まだ不足である。

何しろ区民センター前の広場は広い。小さな部屋のシンポジウムとはまるで異なる。紙芝居の観客に子供達を集めたい。子供達がくればお母さんも来る。

もちつきにはもち目当てにある程度の人は来るだろう。でも紙芝居はそれとは少しちがう。それでとうとうチラシを周辺に配る事にした。まあ頭デッカチな人間には気の遠くなる程の数の知らない人々が居る事を実感した。一つの大きなマンションはカフカの砦である。全く知らぬ人々がそこで動めき、生活している。郵便ポストを窓口にその事を知った。大方5000枚程のチラシを配る事になるであろう。5000個の郵便ポストと接する事になる。最近は色刷りのキレイなチラシを配る人として知られるようになった。恥ずかしいなんて言ってられない。観客のいない紙芝居小屋なんて目も当てられぬモノであろう。

であるから今のわたくしは地域を街路と住宅で見てはいない。郵便ポストで視る。これは実は少し計り大変な事ではないかと考える。ITビジネスの経営者達、大はビルゲイツから孫正義まで、が全く建築に関心が無いってのはこの事かと知るのである。(この件についてはわたくしの渡邊大志のエッセイへの最新の注釈作業で少し詳しく述べている)情報社会には情報の中身が流れる回路と端末はあるが、それをくるむ空間は必要ないのである。

とここ迄書いて、長崎屋の連中はコンピューターを見ないので、わたくしのこの日記には無関心だが、オバンの娘が読んでいて「君のは少しむずかし過ぎる」と言ったのを思い出した。これは確かにヘリクツである。で中断する。

まだ消え切ってはいないが、これはこちらの能力の問題であり、他の何者でもない。日付の代わりに番号だけをインデックスとして附し続けている。その方が読みやすいからだ。12月31日、つまり大晦日に1000の番号に辿り着かせようとしている。区切りがよいからだ。来年の正月から1年間は1000のメモをしてやろうと思っている。千夜一夜物語りの伝である。できるかどうか今は知らぬ。やってみようと考えている。自分で面白がらねばこんな事はやってられない。で、今は12月1日の9時だ。全ての日付けを消すってのは不可能であるから申し訳程度には付け続けることになる。年末迄に1000番迄辿り着かねばならぬ。

世田谷村日記