2013 年 1 月
- 1060 世田谷村日記 ある種族へ
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12時前大学。渡邊くん他と短い打合わせ。その後卒業設計採点。修了後幾つかの連絡の書類を見る。まだやっぱり本調子ではない。無理は禁物と15時過研究室を発つ。16時頃世田谷村着。すぐに東京新聞夕刊一面、鈴木博之コラム「都市のなかの都市」を読み、感想文を書く。
18時了。研究室にファックスで送信し、Xゼミナール投稿とする。
ゼミOB、研究室OBのなにがしかから『ブルータス』に一緒に出てくれとか、結婚式に出てくれの連絡をもらうがあんまり気乗りしない。
しかし今日は研究室で磯崎アトリエからの資料『群像としての丹下研究室』豊川斎赫、オーム社2012年の鮮明なコピーを入手、磯崎新のお祭り広場の巨大人形のスケッチを眺める。このスケッチのオリジナルを見たいものだ。作家論・磯崎新の一つの山場になるやも知れぬ、このスケッチは。
20時過、磯崎新に電話してこの万博の岡本太郎の太陽の塔の恐らくはモデルであったかも知れぬ磯崎新の巨大な着せ替え人形風巨人3体のスケッチに関しての話を聞く。非常に面白い。
わたくしが北京オリンピックに際し、当時の北京モルガンセンター、現盤古プラザの前庭に100メーター程の巨大な人形らしきを立てようとした案と実に良く似ている。スゲエアイデアだと思っていたが、1967年5月27日に磯崎がかなりのスケッチをしていたのだ。笑ってしまう位にアイデアというものは連鎖するものだ。歴史ってのは奇妙でもある。凄いモノがほとんど無意識のママにゴロリンと転がっている時がある。45年も昔、磯崎は充分な意識家では無かったけど実に本能的にさえていた。アイロニーもニヒリズムとも遠い地点にいたのを知る。
- 1059 世田谷村日記 ある種族へ
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早朝より各所へ連絡するも、皆さんすでに出掛けて走り回っているようだ。2日間世田谷村に沈没していた身としては取り残されたような感慨におそわれる。気が小さい我ながら。皆わたくしとほぼ同年齢世代の方々だ。少し上の焼跡世代というべきのしぶとい生命力にはいつも驚かされているが、わたくしの世代も仲々のモノだわいとつぶやく。
カゼでマスクしながらゴホゴホ咳をしているようでは、それ位で休んでいたら恥ずかしいとは思うのだが、廻りに迷惑だろうと思う気持が半分、やはり用心しなくてはの本能が半分。たっぷり時間があるから色々と考えられるだろうと思うだろうが、これが仲々うまくいかない。雑念ばかりが出没して本筋は一向にのびぬままであった。
磯崎アトリエより先日電話インタビューした’70大阪万博のお祭り広場の岡本太郎・太陽の塔出現前のいきさつ、磯崎さんのスケッチ等(二次資料であるが)送付されてくる。今から40年程も昔の出来事ではあるが、結局あの大阪万博こそがそれ以降の日本のデザイン全体の軸を決定した。デザイン、芸術思潮の東京一極集中。テクノポップ、テクノエンターテイメントがインフラストラクチャーとなる。これにはケイタイ、コンピューターテクノロジーのエンターテイメント化が含まれる。芸術表現の著しい退潮。これはアメリカ型テクノロジーがヨーロッパ型芸術を誰にも解りやすい形で圧倒したという現実が巨大な伏流としてあった。今2001年〜2013年はその伏流が表流ともなり、グローバリゼーションの実利、その野卑な暴力によって席巻されている時代である。
岡本太郎の太陽の塔に別の可能性があったが、太郎はその可能性を自己内で燃焼爆発するにとどまった。千載一遇の奇跡とも言うべきチャンスであったが、それは自閉したのである。磯崎新の太陽の塔の原型とも思えるアイコンがスケッチに垣間見られるが、その可能性はこれも又、磯崎好みのアイロニー、ニヒリズムの影に覆われてロボットとして矮小化されて表現されてしまった。丹下健三の傘の下に居た若い磯崎にそれを求めるのは酷ともいえようが、このスケッチの可能性は良い形でそれこそラディカルに実現する可能性があった。キチンと作家論・磯崎新で書いてみたいところである。ここに今にいたる磯崎の漂泊の核の一つがあるだろう。
10時半大学へ出掛ける。色んな雑用がたまってしまった。
- 1058 世田谷村日記 ある種族へ
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安岡章太郎さんが亡くなった。とりわけファンでもなかったし、第三の新人と呼ばれる作家達は一様に遠かった。私小説の匂いのあるモノに全く興味が無かったし、それよりも評論批評の世界が好ましかったから。建築好きの限界灘であったかも知れない。名作らしい『海辺の光景』も残念ながら読んでいない。
いきなりいうが、名作の建築の内部に居ると積らぬ小説読むよりも忘れ得ぬ何かを感ずる事ができた。その何かはやはり言葉でしか伝えられぬ何かなのであろう。建築はその本体を我身を動かさねば体験できぬ。言葉のように書物としても持ち運びができぬ。建築を凍れる音楽と例えることがあるが、それはちがう。設計は実利が極度に求められるが、それを少しでも昇華させるが妙である。強い物質と比較すれば音のはかなさは、それも人工の音の消えるが命の如きは歴然とする。音楽は本格的な持続性が無い。繰り返しの再演は可能だが、それもその時だけのモノしか得られない。ガウディのグエル地下礼拝堂の深夜の体験やグラナダのアルハンブラ宮殿での至福はまさに建築の神とでも言いたいようなモノとの出会いであった。死ぬ迄に一つでいいからあんなのをつくってみたい。とつたない言葉で言うしかない、今のところは。兵庫県小野の重源の浄土寺浄土堂や、ニューヘブンのルイス・カーンのブリティッシュ・アート・センター、豊橋の川合健二邸等は随分わたくしの生き方さえにも影響を及ぼした。それ等の建築物に深く帰依してしまうような処があったから、第三の新人の書き物はどうにもならなかった。吉行淳之介さんの何処が良いのか全く解らなかったし、遠藤周作はキリストもの以外のおふざけの弱さが鼻についた。偉そうにいう自分がイヤになりそうだが、実はそれ程に名建築の凄さというがあるのだ。それは人々は余り知らない。何故ならうまく伝えられていない。安岡章太郎さんは言葉の人だが、わたしの好きな建築群とは遠い人であった。
良い建築の凄さは本当にうまく伝えられていない。それに接するのに言語に似た手続きが必要だからだ。音楽の創作ではない、演奏に似たトレーニング、すなわち手続きがどうしても要る。9時小休。
12時用心してもう一日休むことにする。休むなりには何かを考えねばと何がしかを用意する。
- 1057 世田谷村日記 ある種族へ
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14時過世田谷村に閉じこもり、ああだこうだの雑仕事をこなす。ようやく、鼻水、涙目は止まったようだ。アニミズム紀行8がようやく足取りが軽くなってきた。でも今日はもうこれ位にしておこう。かと言って寝たきりでする事も無く、憮然と宙空をにらむ。
20時本日初めて家の外に出る。と言っても郵便ポストまでの短い距離。それでも空気が新鮮で身が引きしまるな。家に居たら体は駄目になるのを痛感するが、カゼだ仕方無い。脳と体の具合とはあんまり関係ないようで我ながら妙なアイデアが続出する。コントロールが効かぬ。福田和也の本は何冊か読んだ。亡くなった磯崎新アトリエの名秘書だった網谷さんから、「この頃磯崎が福田さんに興味を持ってるらしくって心配してるの」と言われた事があり、それで興味を持ち始めたのだけれど、わたくしは磯崎や鈴木博之程の整理と記憶の頭脳の持ち合わせがない。それで一回読んだ位では何で危ない処があるのかも解らない。要するに読みながら同時に整理して、記憶する事が出来ない。御両人は恐らく古代中国の科挙の試験にもトップクラスで合格するんだろうが、わたしは駄目だ。必ず落ちる。落第を続け井上靖の『敦煌』の主人公の如くに、西域の書庫番みたいな男になっていただろう。御両人は役人として昇りつめ、しかし王権が変わり、やはりうらぶれる。そして故郷に帰郷して細々と文人的生活に明け暮れ、その中で敦煌からはぐれ出たわたくし奴とバッタリ会う。何だ結局人生は同じようなものかと月を仰ぎ柳を愛でる。それが福田の言う家郷らしきかと妙な理解の仕方をした。そんなわたくしでも、福田和也の本も3回目位になると急にわかるようになる。この辺りが世間の評で右翼と言われる処なのかもようやく知るのである。世間は浅薄である。同じように知識人特有の浅薄な気取りがあるが、この人の考えにはその芯に具体がある。国学的香りが横溢するので、それで単純に右翼と言われるのだろう。
でも保田興重郎の縮小再生産であるような気もする。
Xゼミナールの話題で言えば小沢昭一的世界とはダブルところが無い。それもつまりは気取りを捨てられぬのも才質の小ささだろうとバッサリ。カゼの頭だ許されよ。
しかし、この人の住むらしい文芸の世界は結局は芸能の世界なのである。
翌朝6時半迄眠った。眠り過ぎだ。
- 1056 世田谷村日記 ある種族へ
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嶋本昭三氏が85歳で亡くなった。お目にかかった事は無いが、その名や奇矯な作品、行動などは存じ上げていた。吉原治良氏創設の具体派美術協会の創設時のメンバーだった。メールアート他は今も具体派として活動するF氏等に大きな影響を与えたのではないか。日本障害者芸術文化協会の会長を務める等の芸術の概念を拡げるのに功績があった。
16時前研究室、鈴木博之さんよりXゼミナールに投稿があった。心して対応したい。ヤル気が出る。大阪の平沼孝啓さんに会う。2月下旬に予定されている講演会の件。若い建築家を相手にする対話形式である。
19時世田谷村に戻り、磯崎新さんに電話。大阪万博の事等インタビューする。すぐに横になって休む。
萩原朔太郎の詩の話しが鈴木博之さんの投稿の中に書かれていたので、思い立って、福田和也の『日本の家郷』を拾い読みする。たしか横光利一よりも徹底したモダニストとしての萩原朔太郎を書いていたのを憶い出した。
翌朝8時に目覚める。良く眠った。すぐにXゼミナール「鈴木博之、小沢昭一、正岡容、国定忠治・・・」についての感想を書き10時過研究室に送信。
- 1055 世田谷村日記 ある種族へ
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高見盛が引退との事。新聞からの印象だがこの人物はいかにも青森のリンゴ農家の三男坊がそのまま関取になった。リンゴが土俵に上がっていたようだ。性格は意固地なようで人気力士の割には後援会も少なかったようだ。周りに合わせられない人なんだろう。白鵬は周りと和気あいあいにやっていけるし、その間に日馬富士がいるのではないかと、まだカゼが引き切らぬ頭でフムフムと下らぬ事を考える。新聞を読んでも他に何も無いから仕方ない。
日本の関取、特に大関陣の不甲斐無さは良く言われているようだが、仕方ないのではないか。相撲に賢くない顔をしている。皆さん。日本人の力士で地方色、例えば高見盛の青森の如くの、それを感じさせぬようなのは力士ではない。
初代の若乃花も青森出身であった。その孫の貴乃花、3代目若乃花ぐらいから力士の顔が相撲賢くなくなった。2代目は政治家の顔も同じだ。見るからにバカと言うのではない。そんな失礼な事は言えない。
と我ながら呆気にとられる程に下らない事を記し、再び横になる。8時である。今日は夕方、大阪からの来客があるので午後まで休むことにする。鼻水、涙目は少しはマシになったがセキがまだひどい。
- 1054 世田谷村日記 ある種族へ
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12時世田谷村発厚着をしてマスクも、研究室へ。新宿駅から副都心線新宿三丁目駅迄の地下通路が長い。13時過研究室。Iアパートを見て多少の修正、大方にOKを出す。
13時半研究室発、戻りの道が又、長い。烏山駅から世田谷村までの道の遠さよ。アト10年生きたらこんなに道は遠くなるのだろうか。すぐにブッ倒れて眠りにつく。
階下で日馬富士VS白鵬の千秋楽を話していて、どうやら日馬富士が勝ったらしい。随分遠い国の出来事のようだ。19時半梅干し粥をいただいてすぐ横になる。
- 1053 世田谷村日記 ある種族へ
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坂田明より『私説 ミジンコ大全』晶文社、2500円+税、送られてくる。まだ涙目で色々と景色がにじむのだが坂田明からだから読む。
例によって、先ずはアト書きから。
ウワーッ、どうしたんだコレワという位にこのアト書きが凄い。
坂田明はアト書きの天才である。長い長いアト書きである。これを読むだけで2500円の価値はアルベシ。と赤塚不二夫を真似てワメク。
ミジンコの写真もデジタルの新型顕微鏡でとったようで、これは美しい。
とにかく、これは是非買うべしなのだ!
2011.3.11の東日本大震災以降坂田明は被災地を巡った。
福島では親や子をなくした人々の前で浜辺で「浜辺の唄」そして「故郷」を吹いたようで、一関ベイシーでも異常な雰囲気のライブになったと記されている。わたくしは残念ながら出掛ける情熱が無かったが、この下りを読んで思わず、涙目になった。と恥ずかしいが、これは風邪の涙目ではあったようだ。
今日は日曜日ではあるが、涙目ズルズルを押して、昼過ぎに研究室でWORKの進行状況を見るだけはしなくてはならない。
- 1052 世田谷村日記 ある種族へ
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10時45分研究室。すぐにIアパートの模型を見る。わたくしが指示している筈であるが、どうも気に入らぬ。全く気に入らぬのでやり直しさせる事にした。当たり前だ、気に入らぬって事はこちらにまだまだ向上心があるって事だ。でも率直にやり直しましょうと言うのだから、スタッフもこれではダメだと考えていたのである。せめてもの成果だ。
明日の日曜日昼に又見る事にする。こうなってくるとギリギリまで絞り上げる事になるか、なれば良いが。デービッドは東京国立競技場のコンペで、出すもの出すものダメだと、はねのけられた体験があり、それから良くなった。求めるレベルらしきを感じ取ったのだろう。
12時半発。地下鉄、私鉄、バスを乗り継いで世田谷美術館へ。14時前着野田尚稔主任学芸員と会い、寒いネェと「エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影 1923-1937」のオープニングセレモニーに出席する。酒井館長他のスピーチを聞く。
会場は満席であった。恥ずかしながらわたくしはこのエドワード・スタイケンというアメリカのファッション写真家らしきを知らぬのであった。
知らぬのに何故来たか?それは何ともわからない。
講義ホールは寒くないのに、やたらに涙が出て、鼻水もズルズル、そしてセキ、クシャミが止まらない。それなのに2度程少しばかり眠った。
セレモニーが終り、ゾロゾロと会場へ。全てモノクロの美しい写真である。アメリカン・アールデコの商業写真家であるらしい。それ故に大成功した。日本で言えば篠山紀信の白黒版か。撮った対象もグレタ・ガルボからチャールズ・チャップリン、ジョージ・ガーシュウィン、イェイツとスーパースターが多い。アメリカらしくボクシングのチャンプもいた。「ヴォーグをルーブル美術館に」が指標だったらしい。
鼻水が止まらぬのを押して、美術館レストランへ。コーヒーといささかの軽食をいただく。これが美味で助かった。
野田さんと立ち話して去る。16時半バスを乗り継いで、しかも鼻水たらして烏山長崎屋へ。
ひどく調子が悪い。オバンがアタシの風邪がそっちに行ったネと言いやがる。どれ位、治るのにかかったと尋ねたら今年の風邪は治らないよ。ヨセヤイと早々に去る。足は大丈夫なのだフラフラしたりはしない。鼻水と涙目がヒドイ。
19時前世田谷村に戻り、すぐに横になって眠り込んだ。良く眠った。
- 1051 世田谷村日記 ある種族へ
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昨日25日夕刊日経、追想録に83才で亡くなった小沢昭一さんを、編集委員内田洋一さんが書いている。結びの、小沢昭一さん没後出た俳句集から「あと二日生きて香典帳見たし」の句があるが…。
その日、香典は謝絶だった、とあり。ギャフンまことに小沢昭一的世界であり、小沢昭一的知性である。
今朝も青空。昨夜、夜中にトイレに立ったら、北の天窓から月並みだがコーコーと光り輝く円い鏡の如くの月が西の空にあり、思わずしばらく眺めた。李白ならばすぐに小片の詩を詠んだだろうが、残念ながらその詩をもごもごとつぶやくだけ。しかし故郷は想うに足る姿を今は残していない。杜甫の書くには恥ずかしい詠嘆詩の方が今にはピッタリな気がするが、つぶやけば漫画になっちまうと思い、グッスリ眠ってしまった。うちは何も取り得は無いが北も南も空だらけだけれど、朝の陽と青空はモノ想わせぬのが良い。恐らく出る事はないだろうが宇宙らしきの漆黒も圧倒的にモノ想わせぬのだろう。
- 1050 世田谷村日記 ある種族へ
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今朝も研究室の打合わせで早くから出掛ける。昨日より2月3日の真栄寺紙芝居ライブの絵と文を読み直している。やっぱりドイツ人のストーリーの組立て方、そして登場人物のキャラクターは我々とは少し違う。でも今の日本の子供達にはむしろピッタリくるんじゃないかな。
アニミズム紀行8も少し計り進んだ。作家論・磯崎新にしても、アニミズム紀行の旅にしても肩の力はとおに抜けて脱力はしているのだが、今の日本の文化状況の中では孤立せざるを得ないさと負け惜しみではなく考えている。
11時研究室にて打合わせ。Iアパート模型の出来上がりが遅くて打合わせを1時間半後とする。その間佐藤君の修士設計の論文編を読む。良く出来ているが、設計に落とせるのか少しいぶかしむ。いいテーマだが、これをデザインにするのは不可能に近いが、マア、やってみなはれ。天皇の即位式を建築化しようとしている。
出来つつある模型を手にしながら打合わせを続ける。良い水準に突入しつつある。
16時講談社園部さん来室。台北での李祖原&リチャード李玄との打合わせの模様を聞く。
台中中台禅寺のマスターとも1時間半に渡って歓談してきたようで、流石編集者は図々しいと驚く。わたくしなんかは30分も話した事は無い。
でもしかし悪くはない出会いであったようではある。心配していたがホッとした。良い附き合いになってくれれば良い。次のステップの考えを1週間程で作成し送付する事とした。
17時半了。18時発新宿パークタワーへ。
19時前、リビングデザインセンターOZONE。曽根眞佐子さん等の「津軽ぬくもりの器」展へ。GKの栄久庵憲司氏とのお附き合い以来の古い知り合いである。東北地方のうるし技能を活かした見事なWORKだと思った。
デービッドに日本の伝統の、特に色合いについて教えたいと思ったが上手く伝わったかどうか。
GKの小野寺さんにも久し振りにお目にかかった。栄久庵さんの近況を聞く。本当に焼跡世代は皆さんしぶとい。見習いたしと思えど我脚の細さかな、である。
新宿南口味王で久し振りに夜食。デービッドの考えを色々聞きしばしの雑談。21時半過終了。別れて世田谷村へ、22時半戻った。帰りの京王線電車車中で絵本の日本語訳に没頭する。
我ながら妙チクリンな情熱ではあるなコレワ。でもマアいいか。 メモを記し24時休む。
- 1049 世田谷村日記 ある種族へ
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12時前研究室。すぐにミーティング。Iアパートの件と自然エネルギーのドッキングデザインについて。昨夜送付したスケッチがシンプルなデザイン模型として出来上がっていたので、具体的な討議ができた。
ほぼ結論らしきを出して討議は終了。その後、雑用を経て14時過発。色々と巡り、17時半世田谷村に戻る。
東京新聞夕刊一面コラムに鈴木博之が「小沢昭一さん」を書いていて、すぐに反応してしまう。中々難しくって書きにくかったが20時Xゼミナール投稿。「小沢昭一さん」への批評ともただの反応とも覚つかぬモノを5枚書き終えて、すぐに研究室に送信する。
コラムへの交信である即興らしきの直観だけが取り得だと居直るのであった。しかし、鈴木博之が「小沢昭一さん」とは驚いたなあ。本当は俺が書きたい位のモノではあった。
鈴木博之さんからメール入り、5月10日よりの国立近現代建築資料館のオープニング展の準備で大いに駆け回っているようで、今日は二川幸夫さんに丹下健三の建築の写真の展示依頼を、安藤忠雄さんとしてきたとの事で、粉骨砕身振りに恐縮する。
又、3月2日の墨会館(丹下健三設計)に関するシンポジウムの準備が進展しているようで、ただただマナ板に乗って揺られている身としてはアレヨアレヨと言うしか無いが、これはやらなければいけないだろう。
- 1048 世田谷村日記 ある種族へ
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12時に研究室で昨日夜送付したスケッチを渡邊くんがどうエレガンスに仕上げたかをチェックしに行く。彼とわたくしはほぼ正反対の形質の才だけれど建築家は最終的にはささやかで細妙な、微細極まる表現力の有無が生命線である。それを失いさえしなければきっと何とかなるからやってみたら良い。大まかな構想とか、論理は後から追い駆けてきてくれるものだ。困難なのはホンの少しの微細なのだ。
作家論・磯崎新を書き進めるが、仲々困難になってはきた。当然の事ではあり、ある程度予想していた事だが実際に書いてゆくとここにも又、細部の問題が在る事を知る。
来週2月3日は我孫子真栄寺でデービッド作の「紙芝居」を4名で演じるがソロソロその準備をしなくてはいけない。
10時40分磯崎論42だったか終了。あわててメシを喰い研究室へ向う。
- 1047 世田谷村日記 ある種族へ
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10時40分研究室。11時研究室ミーティング。12時半迄。
自然エネルギーと住宅プロジェクトに関して。少しずつ進めている。
13時修士相談。14時半発。15時過烏山にて原口氏と会い、何がしかの依頼の後、雑談にて過す。16時半了。17時世田谷村に戻る。
21時前Iアパートスケッチ研究室にFAX。うまくゆくかも知れぬと少し計りホッとするがどうなるかわからない。幾つかのレベルのアイデアが積層されている。最終的にホンのチョッとした小さなアイデアが作品らしきにするやも知れない。建築はそんなモノだろう。
- 1046 世田谷村日記 ある種族へ
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薄い陽光が指し込んでくる。中国マネーが湯泉を欲しがっていると昨日聞いた。北海道の水はしばしば聞いていた事ではあるが、温泉もかと驚いたが、それに合わせた計画も必要だろう。9時45分世田谷村発。最近は地下鉄副都心線を利用しているが、新宿駅から新宿三丁目迄の長い地下道の憂鬱さに気が滅入ったりするのだから、他愛ない。地下を歩く距離、走る距離共に馬鹿にならぬ。東京の地下鉄の発展振りは異常なものである。
- 1045 世田谷村日記 ある種族へ
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10時45分研究室。11時過安西直紀さん、成瀬さん来室。成瀬さんのこれからの事業についての相談。何かわたくしに出来る事があれば良いと切に思うが。13時ベトナムから中村さん来室、色々と相談。修了後短時間で雑事片付ける。16時半山形より長澤社長以下2名スタッフ来室。いくつかのプロジェクトの相談。今の日本には珍しい前向きな経営者で困難だらけなのだが、話していてこちらも明るくなってしまい楽しい。楽しくなければ良いアイデアも生まれようが無い。ワイワイ、ガヤガヤと議論が続いた。困難なのは知り抜いているのだが、やってみたいと思うのだ。前向きな奴が居ると空気がちがうのだな。修了後長澤社長スタッフ等とデービッド、ミラノからのマーシャと共に新大久保の韓国料理屋へ。デービッド、マーシャも普段つきあい慣れている日本人とは大いに違う、旧い日本人とも言える人間に会って面白かったかも知れない。日本人という言い方はどうだか知らぬが、やっぱり頑張らないと辛くなるばかりだなあと思う事しきりだ。21時過了。皆と別れて22時半世田谷村に戻った。今日は忙しかった。だから面白かった。
- 1044 世田谷村日記 ある種族へ
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10時40分研究室。11時研究室ミーティング。自然エネルギーと住宅という今日の主題にほぼ良い答えがスタッフより提示されたので、アッという間に終了。
その答えらしきをデイビットが少し計りの展開を試みたいというので任せた。
会議は本当は短い方が良い。何もする事がないので、ノルマを課せられていたアニミズム紀行5、6数冊にドローイングを描き込む。
13時、ときの忘れもの・綿貫さん他来室。「具体」展覧会打合わせ。14時20分了。その後スタッフが用意してくれた具体の詳細な資料の大部に眼を通す。早大文学部の図書館にあったそうだ。
吉原治良氏等具体創設者等の考え、発言などを追跡する。
日本の現代美術の草創期の意吹きを身近に感じる事が出来た。
文学に於ける白樺派に似た、芸術、自由、友情というが如き言葉がキラキラと光り輝きながらまかり通っていたのを知る。
磯崎新は1970年万博、お祭り広場のイベントで彼等を呼び集めたようだが、どんな話し振り、どんな熱情をもって彼等に接したのであろうか。アイロニーなんてもってまわった考えが通用し、心を打つような連中でなかった事だけは、ハッキリしていただろうから。
大きな荷物が送られてくる。一昨日至誠会グループの祝賀会の折、画家の村田先生からパリ留学時代に入手した銅版画集を送りますと言われて恐縮したモノが、いきなり届けられた。
大版の大変なモノでビックリ。パリの革命期の都市像が丹念に描き込まれた大版画集で、革命期の刑場の姿などが描かれているモノも少なからずあった。
何を返したら良いか、大いに悩むなコレワ。
16時前発、17時烏山で寄り道をして18時半世田谷村に戻る。
- 1043 世田谷村日記 ある種族へ
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7時前離床。離床、つまり目覚めていなければこんな事を書く必要もないわけだから、もう書くまいと思えど今朝の寒さかな。で、日記というのは誠にもって人生の積らなさ、無惨さを書きつづる形式だなと自覚。相も変らず新聞3紙を読み通し、どの新聞であったかに堤清二氏の自伝風な連載があり、直截な書き振りが面白いと思った他はどれも積らなかった。日経の夏樹のぶ子さんの絵に対するコラムも柳の下にそんなにドジョウは居ないの例え通り、一気につまらないのに驚いた。小説家も大変である。大島渚の追悼コーナーにある吉田喜重のコメントも、先日、掲載された文章と全く同じであり、ただし流石にこれは(談)となっていたのにだけ、成程なと感じる始末なのである。アルジェリアで日本人がやはり殺害されているようなのを辛い気持で読む。この様な犠牲があって初めて我々は冬の寒さを輸入エネルギーで過せるのである。テロは決して無くなりはしない。テロの側には一方的ではあるが大義への盲信らしきがあり、殺される側には平安な生活を望む普遍の平板があるのみである。イスラム原理主義の大義とアメリカ型民主主義下の消費生活の平安とでは交点などあり得ようもない。
数十分「作家論・磯崎新」を書き進める。一気に小さな葦の断片8枚程を書く事が出来なくなりつつある。チョボチョボとそれでも書き進めるしか無いだろう。これが、わたくしの才質の限界だろうと言うのが解っただけが収穫である。明らかに壁が立ったから、これを壊すべく努力したい。
- 1042 世田谷村日記 ある種族へ
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昨日研究室に送られてきたメールが転送されている。
鈴木博之さんよりの「Xゼミへの反応」のメールを読む。愛媛の日土小学校に関する東京新聞の鈴木コラムへの感想を「Xゼミナール」に投稿したものへの反応である。
「Xゼミナール」は頼まれてやっているモノではない。書きたい事を書きたいように書いている。ただ書きたいと言うが取り得でしかない。
どれ程の人間が読んでいるのかも知らぬ。
わたくしの投稿中に触れた花田佳明さんから過分な感想が寄せられた。
大部の『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』を送っていただき礼状も出さなかった事が気になっていた。これで気になっていた事の何がしかは消えるやも知れぬ。
書きたい事を鈴木博之コラムに触発されて、随分不躾に書いたのは御容赦頂きたいが、嘘は一切書いていない。
日本近代に特有な近代建築日本様式保存に取り組もうとする人々の独特な精神に非常に関心がある。その一端を書いたに過ぎない。
しかし、ウェブサイトへの書き込みは闇夜の海に石を投げ入れるに似る。
何の反応も返ってこない、でも読まれているらしいのは解る。それが現代だ。
花田佳明さんの反応は、そんな闇夜の海への投石にポチャリと音がしたようなもので、励みになった。
8時離床。今日は日曜日である。
もうだいぶん昔の事になるが、磯崎新に連れられてカタールに出掛けた。
王族シェイクや王様エミールに会った。彼等は磯崎を「マイ・アーキテクト」と呼んだ。ガスと同様に自分の私有物として考えていた。
シェイクは実に不思議な人物だった。
地上で亡んでゆきつつあるモノのコレクターであった。
例えば一輪車、例えばロールス・ロイス・シルヴァーゴースト。そして例えば地球上の絶滅種の植物、そして動物。彼はその為のプライヴェートな動物園まで所有していた。桁外れの人間であった。いずれ「作家論・磯崎新」に書くつもりである。途方も無い富を手中にした桁外れの人間が絶滅種の保存に異常な情熱を燃やしているのを目の当りにした。
巨大な倉庫にコレクションされた世界で一台しかない一輪車を乗り回して戯れる王子を目近にして、こいつは一種の天才だなあと実感した。
わたくしにとって日本の近代建築の保存運動は王子シェイクの一輪車であり、絶滅種の動物や、ヤシの樹の保存につながる。
それ位に保存の問題は奇妙な創造性を帯びた情熱としか呼びようがない。恐らく考えつめれば、それはいまだにあるやも知れぬ創造の中の創造、創作そのものであるだろう。
世界の天然ガスをほとんど占有する人間の、とてつもない情熱を目の当りにしてわたくしは実にそこらの創作者らしきの群がタダの阿呆の如くに視えてしまうのを感じたのを今でも覚えている。
そう言えば、シェイクの遠い名付け親がチャールズ・レイニー・マッキントッシュの何かであったとか、あるいはシェイクにとてつもない住宅を依頼された磯崎が彼をインドのアグラ、つまりタージマハールにプライヴェート・ジェットで連れて行ったか、連れて行かれたの話しもあったが、全てが幻のような、スーパーリアルなような。アレは実に何者にも代え難い体験ではあった。
- 1041 世田谷村日記 ある種族へ
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12時前研究室。雑用の後14時半地下製図スタジオにて学部設計製図講評会。講評というよりも小スピーチを残す。16時前途中で抜けて京王線多摩センターへ。至誠館グループの新春交歓会に出席。設計した星の子愛児園の満10周年でもある。近藤理事長は挨拶の中で星の子愛児園の建築に触れられ、誠に光栄であった。川崎市三浦淳副市長をはじめとする来賓挨拶に続き、至誠館職員による和太鼓、他の音楽演奏で和む。多摩センターの京王プラザホテル、最大の宴会場でないと職員が入り切らなくなったと聞かされた。施設数6、総勢300名近くの大グループに成長した。
同じ円卓の評議員の方々と話しも弾み楽しかった。成長し、勢いのあるグループの会はやっぱり華やかなものだ。
「保育園は日本経済の原動力である」
との来賓挨拶が印象に残った。名残惜しいが21時過散会し、顔なじみの評議員の方と稲田堤で別れ、22時頃千歳烏山へ。
凍りついた雪道を転ばぬようにヨチヨチ歩き世田谷村に戻る。
- 1040 世田谷村日記 ある種族へ
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9時半朝食のパンと納豆と何やらを腹に呑み込んで、しばしボーッとしている。
アルジェリアでアルカイダらしきテロリズムグループが人質をたてにしたところ、アルジェリア政府軍が人質の救出よりも何よりもテロリズム集団の殲滅を第一に攻撃した。当然、人質にも多くの犠牲者が出た。アルカイダらしきは隣国のリビアより潜入したらしい。人質の死者を出した国々は、日本も含めて人質の生命を優先すべきだったと抗議している。
しかし、これはアルカイダのWTCビル攻撃に際して、当時の米国ブッシュ大統領がいみじくも言ったように、コレワ戦争なのである。国家対国家の戦争に非ず。国家対特殊集団の戦争なのだ。
戦争にはどんなヒューマニズムも入り込む余地等ない。
今日の午後は学部学生の設計製図の講評会だ。もう若い先生方に任せて口を挟むべきではないと考えていたが、やっぱり出ろと言う事なので、出る以上何かを言わねばならない。言えば、文句タラタラに学生の非力をなじりかねぬだろうが、今更そんな事を言っても何にもならない。非力なんだから。それは口にせぬと決めてかかると、さてはて何を言えば良いのか皆目解らなくなる。で、ボーッとしながら考えている。一人一人の作品についてとやかく言う事はないだろう。それ故に学生達が今さらながらにして居る時代について考えていることを述べる事にしたい。
勿論、建築と離反せぬように心しながら。
目覚めて4時間程にしかならぬが大方の仕事らしきはほぼ終了してしまったようでもある。
ドイツにほんのチョッと居た時に、宿舎の窓から日々遠くの平原と山並みを眺めていた。あの先に陸続きの国境があるんだと考えた。そしてヨーロッパの戦争というのは、あの平原とゆるやかな山並みを越えて戦車が一列横帯でやってくる、そしてやってゆくって事なのに気付いた。
その恐ろしさは例えようが無い。何処にも隠れる処などありはしない。
アルジェリアで起こっているのもその類の砂漠の戦争だ。中途半端な曖昧さは何処にも残されないだろう。アルジェリア政府は内乱で何百万人の人間を失っている。戦争にはグレーゾーンが無い事を知っている。
先日、宮古島の渡真利さんから聞いた話だ。
沖縄の南の海をヨットで走っていると海に多くの海底油田のヤグラが林立している。それを迂回しながら、これは争い事が起きざるを得ないのを実感すると言う。尖閣諸島もその林立するヤグラの一つの如くである。簡単にマアマアの話し合いで押したり、引いたり出来る筈もない。中国にとっては死活問題である。多くの人口を抱えて、食べるエネルギーも膨大である。すぐに戦争の形にはならずとも、歴然たる争いになるに決まっている。
- 1039 世田谷村日記 ある種族へ
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6時半離床。まだ雪が残っている。昨日1月18日は11時に研究室ミーティング。自然エネルギーを組み込む住宅のプロジェクトはMAN-MADE NATURE Projectとして進めるのを決めた。伊藤アパートに関しての打ち合わせを隔日で持つこととした。
秋の宮両界万荼羅之湯、一期計画の打ち合わせ。他。14時終了。
雑事の後、西調布へ発つ。15時過西調布N先生に久し振りにお目にかかる。16時半発。17時過の明るい時間に世田谷村に戻った。
山口勝弘先生に「鎌倉近代美術館での実験工房展のポスターを都内で見かけるようになりましたよ」と連絡したら、「アッ、ソー」
本日1月19日に戻る。日記もリズムがあって、つまずくと時の流れが不鮮明になる。そうなったところでわたくしは一向に構わない筈なのだが、まだまだ山口先生の如くに「アッ、ソー」と流す訳にもゆかず、処々に日付を入れたりして読者の便を計ったりするのである。しないでも良いサービスだなコレワ。もう一切止めるか、この類のサービスは。でも独人だけの公開せぬメモなどに何の価値もないのは歴然としているので、何らかのサービスらしきなのである日記自体が。生きる事自体がサービス産業そのものだ、と言わざるを得ない処もある。
- 1038 世田谷村日記 ある種族へ
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7時頃離床。美しい青空だ。今朝は世田谷式エネルギーのミーティングだ、集中したい。新聞3紙を読み流す。昨日の日経の一頁の如くには出会えなかった。久し振りにG.Zimmermannからメールを受け取った。バウハウス前大学長をリタイアーして、IKKMで更に忙しい日々を過しているとの事である。
わたくしと園部氏が企画している李祖原「西遊記」プロジェクトへの参加は今春4月以降になるとの事である。
G氏と連絡。具体展は今、わたくしの手許にある作品群資料から最終案を作る事になった。
我ながら脳が騒乱し、引きちぎられる程にバラバラな事共をやろうとしている。日本では多面的生き方は大成しない。つまり認められにくいという現実、そして歴史は知らぬでもない。でもそうしないと頭脳を全開させる事が出来ぬのだから仕方ない。繰り返すが、貧乏症なんだ。
9時過、気仙沼の白井賢志さんと連絡。10時前発。
- 1037 世田谷村日記 ある種族へ
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12時過、北海道帯広の後藤さんと連絡。やはり国内は閉じ切っているのでアジアに出ているという事であった。ベトナム・ダナンの件を伝えて資料送る事にした。
45分烏山宗柳で佐藤君と会い、いささかの事務的会合も。他、世界の少数民族に関する話しを。14時半了。その後町内をいささか巡回して16時半世田谷村に戻る。東京新聞に鈴木博之コラム掲載されているので、早速自然に反応してしまう。勝手な応答を19時書き終えて研究室に送信する。
そそくさと夕食をとり、更に色々とWORK。本当に貧乏症である。わたくし奴は。
- 1036 世田谷村日記 ある種族へ
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7時前離床。秋田県秋の宮温泉計画に関しては以前スタッフが絵にしてくれて、それは我々の絵葉書プロジェクトシリーズに2点入り込んでいる。秋田県湯沢市の山中、隠れ里みたいな広域を計画するものだ。川が流れ、山が重なり、小野小町伝説が残る。何より地中のマグマが近く地熱の湯気がいたる処に噴き出しているのが良い。
MAN-MADE NATUREのプロジェクト展開には理想の土地でもある。
2011年に制作したあの2点のドローイングがようやく力を発揮できる状況になりそうだ。
計画案に手を入れ始める。
9時小休。1月17日朝刊3紙を読む。日経、文化が抜群に面白い。絶妙な取り合わせ。1.吉田喜重による「大島渚追悼」2.「私の履歴書」渡辺淳一3.「17文字の戦友」増田明美(交遊抄)4.「女の髪十選」高樹のぶ子
吉田喜重は亡くなった大島渚との距離を書いていて面白い。何となく解るような気がする。渡辺淳一は屍体解剖の臨床体験を書き、それを介して人間の現実、生身としての身体につて述べる。要するに純文学の抽象への赤裸々な批判である。風俗小説家の暗い情念が垣間見えて面白い。
そして元マラソンランナーの増田明美の実に聡明な短文、これは作家顔負けの構成力である。この女性は頭が良い。ホトホト感心する。最後に作家高樹のぶ子の小林古径「髪」、有名な日本画だが、それへの評。簡潔でありながら一片の小説を読むようであった。
成程な作家って者は凄いナアとうなるのであった。
今日の新聞はこの一頁につきるな。
芥川賞、直木賞が発表されていて、芥川賞は75才の女性作家。直木賞は壮若の取り合わせで、これも又、その構図が面白い。
新聞の読み方の面白さかな。
秋の宮計画も少し動き始めて面白くなる。10時朝食、小休。
佐藤作成の積算書は良く出来ているので驚いたが、恐らくN社長は全て自営でやってのけるであろう。
- 1035 世田谷村日記 ある種族へ
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20時、突如、秋の宮温泉計画のネーミングに関してアイデアが浮かぶ。浮かぶと言うより、ブチ現われた。両界万荼羅湯、あるいは曼荼羅湯としたい。すすめつつあるプランとも相まってピッタリの名前である。
これで突き進めるかもしれない。これも又、自然エネルギーの計画だな。
自然エネルギー・プロジェクトに関しては、明後日の研究室ミーティングで大半の方向を決める。
- 1034 世田谷村日記 ある種族へ
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12時研究室。スケッチ2点を渡し簡単に説明。若い人はどうしても筋道をつかめる人が極小だから、伝えた相手の言葉で復唱させる。
うまく伝わっている事を祈る。模型を作らせる。コンセプト模型であるからとても難しい筈だけれど。やってみろ。
具体派「Gコレクションから」展に関してもいささかのWORKを指示。来週会場構成他で打ち合わせとなる。15時去り、16時世田谷村でWORK。
一関ベイシーは今日は定休日だが嗅覚が働き、菅原さんが一人暗闇の中で悶々としてるだろうと思い電話してみる。
「イヤハヤどうにもならん世の中ですナア」とどちらともなく。
「もともと一関は廃墟なんで、これ以下はないし、ベイシーの音に没頭してますよ」
「うらやましいですナア。真暗闇で光も何も無いんでしょ。まことにうらやましい」の会話をして、ジャアとなった。
ジャズ喫茶ベイシーは当然の如く国宝級のSPOTに、とうになっている。菅原も話し相手に事欠いているのだが、それも数十年続いているのだから今更、何をか言わんやなのである。
17時前、研究室と電話で進行状況他を話す。
秋の宮温泉の計画案を眺めながら黙考。
- 1033 世田谷村日記 ある種族へ
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11時研究室ミーティング。世田谷式生活・学校スタイルの自然エネルギーの開発に関して。
14時半迄。それぞれの役割を決めた。3時間を超える長丁場になったが、わたくしの短い言葉での伝達が届かぬのが解ってきたので、アレコレと角度を変えて伝えようとしているまでである。未見のモノを伝えるのだから仕方ない。18時半世田谷村に戻る。
G氏より具体派の展覧会への分厚い報告書を受けとる。
昨夜、磯崎新さんと話して、そしてG氏との話しで’70大阪万博でのお祭り広場での様々なパフォーマンス、特に具体グループのそれは磯崎新の企て、あるいは指示であった事が歴然としてきた。若い無名時代の安藤忠雄氏も具体の動きには多大な関心を寄せていたらしい。
そんな意味合いでは、今度のGコレクションによる展覧会は建築の70年代にとっても無縁ではあるまい。キチンとまとめたいと思う。
白髪一雄をはじめとする、ゴオツイコレクションが集り始めている。New Yorkグッゲンハイム美術館の展覧会にも、前川、向井、松谷の3 Mの他に堀尾さんも出向いてパフォーマンスをするそうだ。具体も4名、山口勝弘によれば実験工房も4名が、生き残りの芸術家のようだ。4対4対の超絶展をやってみたいと切に願う。日本現代美術の幕開けにキチンと触れるチャンスなんだがな。
G氏より最終的に展覧会出展の全てを任される事になった。
翌1月16日8時前離床。新聞を取りに郵便ポスト迄歩く。雪が凍りついている。地表は雪が積もっていて、その光景を脇目に、眺めるまでも無く歩く。不便な家だが、こんな時間を持つのもいいなとは思ったり。何がいいのかは言う事もできない。非機能的な時間である。
昨夜寝床で考えていた伊藤アパートのスケッチを紙に落とす。
9時半少しはマシなアイデアが生まれて、スケッチの余白にメモのように記す。それを大判のラフなスケッチにする。今朝の仕事はこれで修了。食事をして、スケッチを研究室に届け、小さな模型を作らせよう。
Gコレクションの図版をゆっくり眺める。
- 1032 世田谷村日記 ある種族へ
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20時磯崎新に電話する。
作家論・磯崎新はまだまだ書かねばならぬ事があり過ぎる位にある。何とか書きおおせたい。こちらの頭と身体が耐えられるかだ。
行く処まで行ってみる。
- 1031 世田谷村日記 ある種族へ
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5時半離床。伊藤アパートスケッチ。テーマを自然エネルギーと生垣の姿に絞っているが、同時に「GA HOUSES」のプロジェクトとしても出したいので、仲々に難しい。GAはヴィジュアル、つまりデザインへの先行評価と言う価値基準があるが、ソーラーバッテリーは仲々デザインの軸にはなり難いところがある。
12日に二川幸夫の日本の民家写真展を見て、いいなあと思った。
個々の建築としての民家のデザインが良いばかりではない。周囲の日本の自然の風景が良いのである。1950年代迄ギリギリに残っていた日本の自然は今は壊滅してしまった。壊滅させたのも又、我々なのだ。
でも、空の雲や、わずかな縁はまだ残ってはいる。
それを頼りにするしかない。すなわち残された自然のエネルギーを表現するしかないだろう。
建築としての住宅らしきをデザインしてもそれ程の意味は今の日本にはあり得ない。圧倒的に無茶苦茶な住宅地の風景の中の断片でしかあり得ない。だから住宅をデザインしようとするのではなくって、その住宅地の自然の力の再構成をやってみせるしかない。
つまり、今のあまりにも原始的な太陽光発電パネルの分解と再構築を試みる必要がある。
と、言葉を吐くのは容易なんだが、スケッチにするのは実に難しいのである。9時迄スケッチに没頭するが、自分でもビックリするようなモノはまだ出てきていない。でも言葉には出来るようなので希望は捨てまい。
1月14日の新聞3紙を読む。日経新聞の「私の履歴書、渡辺淳一」がやっぱり面白い。私の履歴書は最近では安藤忠雄のモノが面白かった。
渡辺淳一のモノは、やはりこれは小説家の書き物であると仲々考えさせられるのである。
渡辺淳一は良く知られるように男女の仲をテーマに描く、それ故に大衆小説作家である。山本夏彦は小説家、川上宗薫を評価する数少ない人間であった。川上宗薫も又余りにも良く知られるようにポルノ小説の大家であった。芥川賞作家でありながら、何故かポルノ小説に転向した。結局それしか書けなかったのだろうか。週刊誌その他にポルノを書きなぐり、恐らく桁外れの高額収入を得たのだろう。しかし作家としては勿論鬱屈していた。金銭では大成功したが、芥川賞作家のプライドはねじれ切ったものであった。山本夏彦はそのねじれを独特の眼で眺めていた。
渡辺淳一の読み物を良く知るわけではない。川上宗薫程に非ずとも、似たジャンルの書き手であろう。いわゆる大衆官能小説の類に近い。しかし、渡辺は日経の私の履歴書に登場するが、川上は決して登場しない。
やっぱり大きな関門が立っている。
何故渡辺淳一は登場し、川上はそうではないのか?
それは小説家としての抵抗力、備わっているその力に違いがあるからだ。
渡辺淳一はある意味では功成り、名を遂げた人間が書くこのコーナーに、真正面から自分の学生時代の性の体験を描いた。相手の女性のすでに亡くなった人間はその実名迄も挙げて描いた。この日経の私の履歴書では始まって以来の事ではないか。これは出来るようで仲々に出来ないし、しない事ではある。渡辺淳一も恐らくは物書きの世界では川上同様鬱屈した立場に置かれている事だろう。自分で自分を置いてもいるのだろう。
私の履歴書は興味あるコーナーである。功なり名を遂げた人間達の飾り窓みたいなモノである。大方はつまらぬサクセスストーリーに終始してその人間の人品卑しい事をさらけ出す。渡辺淳一はここでも自分の小説のいまのところの中枢であろう男女の仲、その官能的世界を描いたのである。
抵抗力があるのだ。つまりフテブテしい。川上宗薫の比ではないな。
渡辺淳一は恥をしのぶという如きネガティブな行動ではなく、意識された自然体らしきでそれをやってのけている。
雪が降ってきた。大雪になるかも知れないな。
明日1月15日の研究室ミーティングは世田谷式生活学校スタイルのエネルギーに関して集中してみたい。
19時雪は雨に変った。ビショビショに腐ったような雪を踏んで世田谷村に戻った。用心して歩かないとスッテンコロリンと転びそうだ。
- 1030 世田谷村日記 ある種族へ
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10時40分世田谷村発。電車を乗り継いで12時45分東急線洗足。
渡邊君と待ち合わせて13時伊藤アパート建設予定地で伊藤氏と落ち合う。じっくり、周辺環境、土地の検分を。14時前、近くの伊藤さん宅でお茶をいただきながら打合わせ。15時過了。烏山迄送っていただく。
17時前世田谷村に戻る。
静かな夕辺である。
昨日1月12日の世田谷区自然エネルギー活用促進フォーラムについてチョッと書いておく。
石山が短時間の報告で述べた事は、
1, 日本のソーラー発電パネルの値段は法外に高過ぎる事。
2, わたくしの世田谷村(自宅)での試行でもある鉱石ラジオ方式による自作のソーラーセルの集合方法では、ソーラーセルの値段が一枚1000円位であったのに比して、今はセル自体が一点0.8US$で入手可能な事。それを考えれば、ソーラーパネルのまとまり以外の商品形式が考えられようの事。それをソーラーすだれと取り敢えずは名付けたい。
3, 出来れば、半年位でその試作品をこのフォーラムに提出したい。
以上に要約できる。
保坂展人世田谷区長からは「面白いねえ」の評をいただいた。
発表後多くの人達から名刺をいただき、幾たりからは「もの凄いもうかりそうなプロジェクトですね」と言われた。「そうですよ」と答えた。
1, ソーラーセルの硬度と、そのもろさに関して
2, 住宅&アパートへの装着の簡便性に関して
の2点に集中して改良を進めたい。
又、世田谷区のみならず、次回からのプレゼンテーションの形式には熟考を要すると痛感した。
二川幸夫の「日本の民家一九五五」を見て。
初めて二川幸夫の20代の姿を映像で見た。
わたくしの師でもあった建築史家・田辺泰から言われて、高山の日下部邸を見に行ったとのエピソードもあり面白かった。田辺泰からは若い二川幸夫の事は時に聞いた事があったから。
二川幸夫の民家の写真は美しい。しかもその美しさは二度と手中にする事ができない類の美しさではある。二川幸夫が言っている如くに一つの民家が美しいというばかりではなく、その廻りの風景と一体となった美が際立っているのである。これは明らかに近代化以前の日本独自な美の特質であった。
だから、今の時代にこの美しさを再現する事は不可能である。
カマドが電気釜になり変り、棟飾りはTVパラボラにとって変った。
端的に言えば、今の日本の住宅は二川の撮った日本の民家自体の特質の基盤を全て失ったのだ。その基盤は何であったか。
日本のアニミズム信仰であったと言い切る。
二川幸夫の別の側面である現代建築の撮影に於いて
いきなり飛ぶがミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸を最近撮った写真がある。
そして、この写真は日本の民家に相通じるのである。
何処がか?
二川はファンズワース邸の建築を撮っていながら、それが置かれた周りの風景、大気、雲、水蒸気、水、樹木、草々を撮っているのであった。
日本の民家に於いても特にハッとさせられるのは、民家の屋根の雪であったり、垂れ下がるツララ、そして刈り取られ干している稲であったりする。又は、民家の近くにある墓地であったりする。つまり、民家はその中の一つに過ぎない。
二川の眼に写ったアニマの様々が集合する姿が写し出されているのである。
先に述べたソーラーエネルギーのキット(と取り敢えず呼ぶ)の設計が重要だなと気付かされたのは、それが近代の中で自然との密接な関係の中で働く、切実な機能、(まやかしの無い合理)だからだ。民家を作った半農半職工の人々が、自然への畏敬を込めて生み出した造形の妙は、建築家、デザイナーのデザインの力量からだけで生み出されようがない。彼等は余りにも非力である。特に自然との関係への想像力に於いて。
しかし、今、東日本大震災による福島原発の崩壊によって、恐ろしく鈍化していた我々の自然への畏敬の念らしきが少しばかり戻ってきた。太陽や風のエネルギーを得なければ、それは我々の生をおびやかすものであるのを、本能的に知るようになった。
つまり、二川幸夫の日本の民家の美を再び近代の中に得ようとすれば、それは自然エネルギーとの関係の中に本能的に見る他に術は無いのである。
今、現在の自然エネルギーと住宅の関係は美的には最悪な状態である。
全く別種のスタイルが考えられる必要があるだろう。
- 1029 世田谷村日記 ある種族へ
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9時45分世田谷区消費生活センター3階。10時世田谷区自然エネルギー活用促進地域フォーラム(第3回)出席。世田谷区長、副区長、環境総合対策室長他30名程出席。(1)区からの情報提供(2)意見交換(3)まとめ の順で会がすすむ。傍聴、取材席も用意されていた。わたくしも予定通り意見を述べる。
「鉱石ラジオ方式でつくる世田谷式太陽光発電のやり方、世田谷式ソーラーエネルギー、ソーラーすだれの提案」世田谷式生活・学校、とお手許資料も用意されていた。詳細に関しては次の日記で紹介したい。12時終了。隣りの世田谷産業プラザでの展示をのぞく。
12時半新橋、パナソニックビルへ発つ。電車を乗り継ぎ13時半4階、二川幸夫、写真展「日本の民家一九五五年 二川幸夫・建築写真の原点」を見る。これに関しても次回述べたい。
15時発、世田谷へ。いささか疲れて夕刻世田谷村帰着。
まだ体の復調が本格的でないので、ねばりのある文章を書けない。
それで大事な件はパスしている。
翌朝9時まで眠った。
1月13日、今日は日曜日か。陽はすでに高い。午後には伊藤アパートの敷地見学に出掛ける。昨日は午後になって身体がだるくなり、体力が落ちたのを実感したが、今日はどうかな。
- 1028 世田谷村日記 ある種族へ
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7時離床。昨夜は少し計り体調を崩しかかって早く休んだが今朝は回復した。視えぬノロウィルスに戦々況々としている感じ。マ仕方ない。
今朝の第三回世田谷区自然エネルギー活用促進フォーラムでの発言の準備をいささか。世田谷式生活・学校型ソーラーエネルギーの提案を行う。第11回世田谷式生活・学校祭りでの世田谷区民4800人への展示をベースにする。
1、世田谷エネルギー物語り、紙芝居(ドイツ人による)
2、テント小屋の小型ソーラー発電(鉱石ラジオ方式)
3、子供たちへのエネルギー教材
4、世田谷式エネルギー方式の試作
以上を話す予定。
宮崎の藤野さんより、「具体 - Gコレクションより」への新しいアイデアが続々と送られてきた。どうやら昨日送付した綿貫さんとの打合わせ議録の送付が色々と想像力をかき立てたようだ。
8時40分世田谷村発三軒茶屋へ。その後二川幸夫写真展へとまわる予定。
- 1027 世田谷村日記 ある種族へ
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11時研究室。ときの忘れ物、綿貫さん夫妻来室。「具体 - Gコレクションより」展の打合わせ。宮崎より新資料届き取り敢えずは順調な段取りであった。12時半了。雑用を済ませ、16時前世田谷村に戻る。
ノロウイルスが身近に蔓延してきているようで用心のため珍しく休みを取った。
山口勝弘先生よりドローイング入りの手紙いただく。1月12日〜3月24日迄の鎌倉・近代美術館別館での「実験工房展 - 戦後芸術を切り拓く」切符が同封されていた。
わたくしの方の「具体 - Gコレクションより」展とダブる日程が出現するのが良い。17時半本日の打合わせ議事録を宮崎に送るなどして、もう今日は休息する。
- 1026 世田谷村日記 ある種族へ
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11時前、西武新宿線花小金井駅、小平の吉元医院へ。この頃お気に入りの病院である。何が気に入っているかと言えば、院長の老医学博士、副院長の先生のコンビネーションが良い。一度病気でなくとも見学に行ってみる事をおすすめしたい。看護婦さん達も皆良い。別にわたくしは吉元医院から広告費をもらっているわけではないので、おすすめしたい。大病院には無い機能主義+αがあるのです。
わたくしの血液検査他は何とかOKであった。血糖値他も枠内に納まっているようだ。他は知らぬ。12時了。13時前高田馬場に戻り、昼食他。
研究室で少しの打合わせ。デービッド、ドイツより戻る。ボッシュ社のソーラーセル100ユニット持ち帰る。世田谷式生活・学校型ソーラーキットの開発の一助となるだろう。
14時伊藤夫妻来室、小アパート建設の打合わせ。15時半迄。
16時講談社園部さん来室。李祖原の本作りの相談。
中々難しいプロジェクトなのだが、園部さんより「西遊記」をモデルにした本作りはどうかのアイデアが出た。これはイケル。ギャフンである。いっぱしのディレクター気取りも吹飛んだのである。そうか李祖原自伝「西遊記」で企画はまとまるなと確信する。流石、プロはプロなのであるなと呆然とした。凄いアイデアである。これは中国語圏で売れるぜーとグフフフと叫ぶ。
今は中国本土にいるC.Y.LEEが台北に帰った日に、「西遊記」で行くぞと、打合わせしたい。中国人相手に西遊記をかきくどくのも何だか変だが正念場である。頑張りたい。
19時前烏山に戻り、若干の無駄話しを奄美の保さんと。
20時過世田谷村に戻る。
藤野忠利さんより郵便物届く。「具体」展覧会の、第一次Gコレクション企画案である。素人ながら熟読し、藤野氏へ、疑問点など電話し、やり取り。 素直な意見を投げる。明日10時迄に研究室に返答のメールをいただく事とする。何ごとも中途半端はイヤだから、この具体展はトレーニングだと覚悟して芸術作品と銭金の問題をトコトン学習してみるつもりだ。
それには大阪の具体の作品は今、恐らくは一番良いケースなのだと思いたい。 芸術的作品の値段(相場)は資本主義の余剰の問題である。つまり、銭金のゴミが芸術作品なのか、近代芸術の相場そのものが資本のゴミなのかの、どちらかであろう。
東京新聞夕刊、一面に鈴木博之のコラムがあり、これからのXゼミナールの的として良さそうだ。毎週これを素材に論を尽したい。早速Xゼミナールコラム批評を書くが、今日わたくし奴の作家論・磯崎新35がようやくONされたばかりなので、2、3日後でサイトにONする事にしたい。イヤやはりすぐONしよう。これからホンの少しは面白くしたいものである。
22時過伊藤アパート、スケッチ。
翌朝5時半離床。伊藤アパートスケッチを少し。
Xゼミナール投稿、鈴木博之「復原された東京駅」東京新聞に寄せて、書き終わる。
9時半過研究室へ発つ。
- 1025 世田谷村日記 ある種族へ
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14時、新大久保近江家で鈴木博之さんに会う。チョッとした私用。ついでにと言ったら何だが国立近現代資料館の丹下健三に関する資料収集について相談する。
もう、それはそれは長い時を経た友であるので、今更ことさらに話す事も無く15時前了。
その後何やかやと過し、18時半世田谷村に戻る。
あんまり早く寝てしまっては、明朝まで眠れないので、やむなく夜をいろいろの雑事他をこなしながら過す。こんな日はただただ良く眠る為に、その準備の為に色々と為しているようなモノである。眠る為に生を為すとは、これは生の縮図だな。
翌朝5時半離床。あいも変らぬ雑事をこなす。コツコツコツ。
9時小平吉元医院へ発つ。
- 1024 世田谷村日記 ある種族へ
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もう9日か、時間が走り去る背中ばっかり見ている様な気がする。
昨夜アニミズム紀行8のすでに書いたものの書き直し。と言うよりも冒頭に書き加えを施す計画を練る。
いわばアニミズム紀行1〜8の全ての、はじめに、あるいは前書きに当たる部分である。
今、わたし共のサイトにネパール・カトマンドゥ盆地のキルティプールに長年計画を暖めてきた「終の棲家」そしてギャラリーの動画を発表している。
まだわたくし奴の全体の編集技術が未熟なので、これも実はアニミズム紀行の一部なのだが、うまくその考えが配布されていない。
配布されていない、つまり伝えられていない。
このまんまだとただの奇妙な労力の浪費になりかねぬ。
でアニミズム紀行8の冒頭に少し計り本格的な都市への夢を描いてみようとした。
今日は昼過ぎに昔からの友人と会う。
わざわざそんな事を書くのは理由がある。最近は身近な場所にいささかの知り合いが増えた。ソバ屋やラーメン屋での知り合いである。
烏山の知り合い、この人々はわたくし奴のこれまでの友人たちとは少し計り異なる種族である。どんな風に違うのかを言うのは難しい。俗に言えば庶民と知識層って事になるか。昨夕もその庶民の方の人間達としばしを過した。
庶民って言い方も実は当を得ていない。一人一人の人間には付合ってみれば膨大な積み重ねがある。配偶者が20年前に病を得て、不自由な身でトイレに行くのも大変なのを20年間介護しつつ働く人や、バキバキの看護婦さんだが、離婚して手に職をつけ独りで頑張っているオバハン。この頑張っているってのは実はピッタリの表現ではない。彼女は田中一村の絵のファンでもある。いつもひょうひょうとした噺家の如くの人物も、実に大分前に別れて一人で娘や孫と暮していたり、一人として平々凡々たる、つまりわたくし奴みたいな人間はいない。
彼等もわたくし奴のそういう処は見抜いていて「先生、先生」といつの間にか呼ぶけれど本音は「セン公、セン公」なのは知っている。
つまり俗な会話の隅々に妙な哀感が漂うのを知るようになった。
一人一人の人間を見ればいずれも深い人物なのである。
わたくし奴も少しは年を取り、若い頃とは何かが違う。
古い知識人らしきの友人たちも皆、老人の域に突入している。
そして若い頃とは違う、つまりようやく青臭さが抜けて人間としてマ、味が出てきた。生意気な言い方をするがそうとしか言い様がないのである。
味ってのは烏山の知り合い群と同じモノがあるって事だ。言ってしまえば妙な哀感らしきである。そんなにこれからの生は活気に溢れ洋々としたものではない。これは日本人全体に言える事だが、それはともかくとして単純に生き生きとするばかりではない。どうせいずれ友もわたくし奴もこの世とはおさらばだ、だから今の一日一日を少しはマシに生きたいものだと、頭では考えている。
そして、それが日常の生活になると、何一向烏山の知り合い達の一人一人のモノ悲しさと変りはないのである。ピッタリ同じなのである。
- 1023 世田谷村日記 ある種族へ
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13時過目黒大鳥神社。JR目黒駅からほんの少し歩いたが何となく疲れた。歩いて気持の良い道ではない。権之助坂から大鳥神社までの大通りは大鳥商店街が形成されているが、チョッとさびれている。
神社の力が及んでいないのを知る。大鳥神社は稲荷社とも呼ばれる。日本武尊を主祭神としている。江戸で最も古い神社と言われたようだ。
しかし境内は狭く、樹木、水などの自然は残されていない。コンクリートで周囲を固められた近代の神社の風がある。隣地に高齢者介護施設がある。
とても由緒のある神社のようだがどうやら我々の計画には適していない、がわたくしの第一印象であった。安西さんの考えを聞きたい。
- 1022 世田谷村日記 ある種族へ
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7時半離床。磯崎新建築論集が2月に発刊される。その景気付けの意味もあり、岩波書店の月報1に「死んでも死なない磯崎新」を書いた。
昨日ゲラを読み、ホンの少し手を入れた。磯崎新を相手にチョッとふさわしくないタイトルだろうとは思っていたが、編集からも、磯崎新からも文句は来なかったので、そのまんまにした。「死んでも死なない磯崎新」はわたくし自身が書き進めている作家論・磯崎新の恐らくは最終章近くに書こうと予定している章のタイトルである。磯崎新は良く知られているように(あんまり知られてないか?)よくブッ倒れる。過労で倒れたり、スタンダール症候群と呼ばれる目まいで、イタリアで倒れたり、腰をいためて皇太子臨席の博覧会開場式に来られなかったり、実によく倒れるのだ。最近も実は倒れて手術した。でも、いつも通り立ち直るだろう、アノ人は起き上り小法師だと思っていたからあんまり心配はしていなかった。案ノ定、回復した。昨年末、すでに記したように小振りの忘年会で会食、再会した。
「俺を殺すな」
と言った。この文章を読んでの印象だったのだろう。
作家論・磯崎新を書く為にそれでも律儀に磯崎新の著作を読み直した。手強い!改めて言う迄もなく手強い!
この人の著作群には日本人として良くここまでヨーロッパ建築、その歴史を含めて勉強したなと驚くような刻苦勉励振りがある。それには正直頭が下がる。その博識振りは恐らくヨーロッパ建築史の専門家(歴史家)にとっても恐れ入る位のものだろう。何故、こんなに勉強しなくちゃならんのだと不思議な位に。ここが、作家論・磯崎新のいずれ書くべきポイントでもあろう。これは並大抵なことではないのを多くの建築家達は知るべきだろうが、皆本格的に不勉強だからしないだろう。
何はともあれ、この著作集は堂々たる、学ぶものとしての建築の金字塔であろう。建築は特に近代建築形式はヨーロッパ産である。
その本家本流を学ぶことで我々の仕事の大元が成立している。
もしもと懐疑的にならざるを得ぬが、内発的な想像力というモノがあり得るとしたら、その架空らしきの形式とは対極の位置を学習すべき建築は占め続けてきた。これは日本近代の大方の特質であった。厄介なのは最も自由な内発を頼りにするモノであろう日本の近代芸術(アート)も、より以上にヨーロッパの美術のなぞり以上のモノではない事である。恐らくそれを知り抜いた幾たりかの芸術家を除いては。
只今10時。ええと今日は1月8日火曜日か。目黒の大鳥神社に出掛けるか。
- 1021 世田谷村日記 ある種族へ
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11時過研究室、年始の研究室Meeting。集りは悪かったが定刻通り開始する。昨夜用意した年始の方針を伝える。
13時迄。その後若干の修士論文等の相談。
14時半近くの古市徹雄設計事務所へ。古市さんといささかの相談。立派なブータン建築のサーヴェイ集の書籍3巻を見せていただく。とても良い仕事でいささか驚いた。彼は立派な仕事を残しつつあるなと痛感する。うらやましい限りだ。わたくしはバリ島もネパールも全て中途半端でほうり投げてしまった。
事のついでの雑談中に古市さんが丹下健三の手描きのオリジナルスケッチ他を多く所蔵している事を知り、見せて頂いた。又、藤森照信氏に多くの丹下健三、オリジナル資料を貸与している事も判明した。国立近現代建築資料館にはのどから手が出る程の、まさに一次資料である。丹下健三の東京計画他のオリジナル模型の所在も確認できた。寄贈してくれるように依頼する。
15時半過退出、16時半烏山へ。18時半世田谷村に帰着する。
20時半安西君と大鳥神社の件話す。彼も動いている。明日は、わたくしも目黒区大鳥神社に出掛けてみたい。
21時、アニミズム紀行8の原稿の一部ゲラを読み直す。
せっかちなわたくしとしては理想的とも思えるスローペースでアニミズム紀行は歩を進めている。面白くなりつつある。
- 1020 世田谷村日記 ある種族へ
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今日は1月6日だが、1月5日の夕刊を今朝読んだ。東京新聞の夕刊に再生の原風景、ラムサール湿地と題した大きな写真が一面トップに掲載されている。栃木県、渡良瀬遊水地からの秀麗な雪景色の富士山を撮ったものだ。学生時代、たしか若い尾島俊雄先生から、渡り鳥条約というのがあって、これは画期的な条約である、の講義を聴いた記憶がある。もう50年近くになるか、不思議に忘れない。過日その渡り鳥条約ってのを再確認しようと環境系の研究室に尋ねさせた。
そんな条約はないとの事であった。
わたくしの記憶違いなのか、尾島先生のチョッとした誤伝達であったのかは知らぬ。でも渡り鳥条約の方が詩的である。東京新聞夕刊の堀内洋助氏の写真と小文で、わたくしの幻の渡り鳥条約が正式名ラムサール条約であった事を知り、感じ入った。
美しい写真ではあるが、実に凡庸な写真でもある。1月5日の夕刊の紙面に元旦の朝の富士なんて。何故こんな愚鈍な編集するんだろうと驚きつつ眼に入ったのがラムサール条約の文字であった。
ラムサール条約は世界の水鳥(渡り鳥)を保護する為、その渡りの飛来地の湿地を保護しようとする国際間の条約である。
わたくしの記憶では尾島先生は環境という概念が世界、つまり地球規模で考えられねばならぬのをこの条約は示しており、その意味で画期であるとの事であった。
バカな学生なりにホーッと思ったのを覚えている。大学の先生にも少しはマシな事を言う人が居るんだとも考えた。
それはとも角、この東京新聞夕刊の写真は理に走った美しさの典型であろう。ラムサール条約———足尾銅山下流渡良瀬湿地———環境問題意識の原点———東京新聞(かつての都新聞)の最近の主軸テーマがハッキリと打出されている。しかし読者にはその編集者の想いは伝わりにくいだろう。
余りにも理が勝ち過ぎているからだ。
ここは一つ新聞の骨頂でもあった風刺、諧謔の精神、つまりは笑いを介してドカーンと漫画風にやってもらいたかったのである。
没後100年の田中正造を前景に立たせるとかね。小さな記事を読めば腑に落ちるのだが、そしてラムサール条約の画期を知る人がどれ程居るのかは知らぬが、そんな編集の射程を考え突めて欲しかったなあ。
マ、これは無いモノねだりの我ママであるのは知っての事だが。
チョッとこの夕刊の一面トップは朝日新聞的教条が過ぎた。
しかしながらである。ケチをつけつつブツブツ言いながらも1月6日の今朝、読みも読んだり6紙のうちでは、この東京新聞夕刊一面の真面目な富士山の写真やラムサール条約、ちなみにラムサール条約のラムサールは今核兵器製造疑惑でアメリカから糾弾されているイランの都市名で、イランでこの条約が制定されたのも歴史の皮肉ではないか。北朝鮮が打上げたロケット(長距離ミサイル)はイランとの共同開発の情報もあるようだから。
現代の渡り鳥は大陸間弾道ミサイルであると暗い眼をした科学者は言うだろう。
13時半作家論・磯崎新39終了。何とか40まではと思っていたが、及ばなかった。小休する。ドローイングを2点入れる。
17時半過ぎ、作家論・磯崎新、一気に41 洞穴1にとりかかる。少し書き過ぎで頭が完全に言説型に固まってきたのを自覚して、中断する。
しかしながら、そう思いながら進めている作業だが、イヤハヤ、この書き物は書き物としてはわたくしの大きな峠になりそうだ。できるだけのことはやってしまいたい。。
- 1019 世田谷村日記 ある種族へ
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15時長崎屋で烏山神社総代志村さんと会う。昨年の世田谷式生活・学校祭りの餅つきの指導で腰を痛め正月は寝込んでいたそうだ。申し訳なし。今年はどうするかねの話しをするうちに、わたくしが時々烏山神社に参拝し、境内の南東にある小さな稲荷神社が気になり、稲荷神社は商売の神様でもあり、時々ついでにといっては何だが賽銭を上げて手を合わせますよと話したら、
「あの稲荷神社はウチの稲荷だ」
「エッ、どういう事、それは」
「アレは志村一族の稲荷だ」
「エッ、それなら、赤い小さな鳥居の前に、店出して厄除け、あるいはお守りのオリジナルを作って売り出してもいいの」と飛躍する。
「イイヨ、烏山神社に少し奉納して、ウチに稲荷社のメンテナンス費用位出してくれれば、問題ない」
「俺も時々50円玉投げているんだが一向にヨイ事ナイナ」
「そりゃ、50円じゃ駄目だ」
とあいなり、結論として2月9日の9時半に烏山神社境内、志村稲荷に集合して、会を持つ事になった。
つまり、何とか烏山神社境内の世田谷式生活・学校の活動の一環として参加させていただくきっかけをつかんだ事になる。
- 1018 世田谷村日記 ある種族へ
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8時まで眠った。昨夜は何となく気が滅入り、早く横になったがフッと『きっかけの音楽』高橋悠治を手に取った。悠治さんは知り合い程度の附合いだけれど、いつもとても気になる人であり続けている。案の定、ハードで容易に入り込めなかった。大体わたくしはガキの頃からのキンチョーの夏ならぬ難聴の人で、実に音に弱い。何にも聴こえぬわけではないが外界の音には弱い。とは言え内の音に強いと言うわけでもない。
あと書きを読んで「水牛」サイトにアクセスを試みる。相変らず無愛想だな悠治さんは。
- 1017 世田谷村日記 ある種族へ
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13時半新宿でXゼミナール新年会。鈴木博之、難波和彦両氏と。
幾つか話したい事があったような気もしていたが、何となく気も進まず、四方山話しに終る。14時半了。烏山に戻り、オヤ長崎屋にノレンが出ているぞと顔を出す。何人かの顔見知りが居たが、やっぱり気が乗らず。すぐに世田谷村に戻った。
今朝、書いた「作家論・磯崎新36 漂白4」では自決直前の三島由紀夫と、武田泰淳の対話に触れた。三島由紀夫が、ほとんど日本の戦後がイヤでイヤで、しかもそのイヤな日本の多くの読者に本を買ってもらって喰っているのが、実にもう耐えられないと告白している対話である。だから俺は自決すると告白しているようなそんな趣きがある。恐らく三島は最後の対話に意識的に武田を選んだと思う。
磯崎新の日本に対する距離感、有体に言えば日本の戦後に対する気分としか言いようのないものも三島とは異る相を見せてはいるが、突きつめれば同様である。磯崎新は小説家ではなく、多くの言説を吐き続ける建築家である。建築家は赤裸々な商売人でもあり、実際的な実行家の端クレでもあるから、純然たる作家とは呼べない。しかし、磯崎は黙って金もうけするだけではない。多く、余りに多く言説を吐く。
その裂け目とも言うべきに磯崎は当然気付いている。
武田泰淳は小説家としては良い作品を残していない。良い作品とは良く読まれる、つまり多くの読者を得るに同義である。武田も又、日本から漂白して中国そして仏教に出た。三島よりも徹底した知性であったかもしれない。この対話の後、三島由紀夫は自衛隊に乱入して自決した。
そんなこんなを考えていたので今日は仲々にどんな風な会話にも乗り切れなかった。
鈴木博之さんにはチョッと神社を使う計画の話しをしたら、
「キナ臭い事始めたナ」と言われた。
「ソロソロ、キナ臭い事位始めないとね」
と言いよどんだ。
20時安西直紀さんと話す。神社の件手掛かりがホンの少し出来たような気がする。
- 1016 世田谷村日記 ある種族へ
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7時過離床。1時間半かけてこと細かに新聞3紙を読む。読んでも読んでも積まらないから、それでまさかこんな事はあるまいと2度通読する位にめり込んでしまった。新聞はキチンとしたメディアであろうという、まさかのTVの阿呆らしさはあるまいとの幻想なんだろうか。
今まで真っ当に読んだ事が無かった佐藤優氏のコラムを読んで、オヤこれは少し走り過ぎてはいるが嘘は言ってないなと思う。沖縄への日本政府の対応を沖縄群島の日本国への統合からの離反、すなわち自立をそそのかしているようなものだとの一見過激な意見ではある。日本のいわゆる国土に占める面積が1%以下なのに米軍軍事基地の面積の74%が存在していると言う現実を実にただ論理的にオカシイと言っている。わざわざ書くのは、全ての紙面を読み通しても、引っかかるのはこのコラム位なのである。
その反動だろう、いきなり作家論・磯崎新36のつづきにとりかかる。
11時前終了。12時半過Xゼミナール新年会のために新宿へ向う。
- 1015 世田谷村日記 ある種族へ
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13時、新宿高島屋13階小松庵にて安西直紀さんと会う。お互いの近況報告。良い可能性を持つ、数少ない若者なので忌憚の無い意見を交換する。わたくしからは海のシルクロードの件、品川区、目黒区、世田谷区の神社連合の件。他を相談。16時前迄。世田谷村に戻り、読書。静かな休日とする。
安西さんから「石山さんは何がきっかけで仏教に興味を持ったのか?」と聞かれ、答えにつまったのだが、安西さんは佐藤健の『ルポ仏教』『阿弥陀が来た道』の二冊を読んで、そんな疑問を持ったようだ。
佐藤の一番初期の本と、最後に近い二冊は実は良い組み合わせなのだ。実は今日、安西直紀さんに投げた、「海のシルクロード」「神社連合」の2つは、大プロジェクトになる可能性が大きいが、もう少し丁寧に説明すべきであったかと振り返る。
- 1014 世田谷村日記 ある種族へ
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8時前起きてすぐに読破間近になった『ハワイイ紀行』完全版新潮社、池澤夏樹著の最終章、マウナケア山頂の大きな眼とその前の鳥たちの島、ミッドウェイを読み終えた。文庫本とは言えあとがきも入れて558頁の大冊を読んで満足している。本棚のマアマア良い場所に収蔵した。わたくしの嫌味なところで、本棚の一番良い場所にはこれは捨てられないなの本が数十冊だけ置いてある。
『ハワイイ紀行』はゲーテの『イタリア紀行』と同じところに取り敢えずは仕舞った。5年先はどうなりますか。中沢新一の『アースダイバー』は同じ様な趣のある本だけれど『ハワイイ紀行』の新加入によって枠外に除去した。何しろ書物の居処の隙間には限りがある。
『ハワイイ紀行』の良いところは読み進むにつれて著者の関心がネイティブ・ハワイイ民族の固有の文化に焦点が絞られ、次第に平板なエコロジストであるやも知れぬ池澤さんが主体を持つ歴史家となり、地理学者へとならざるを得ない作家たる必然性がこちらの腑に落ちてくる。こちらも自身の読書欲が深みへとはまってくゆくのが自覚できるのであった。
すぐ近くの世田谷文学館から知らせが届き2月2日〜3月31日迄「帰ってきた寺山修司展」が開かれるとの事。出掛けてみるか。
今は病気療養中の野坂昭如が寺山修司との対談で、エロスと三島というのが解らない。おまんこと三島由紀夫なら解るという激突になり、おう、それならやってやろうじゃないかと寺山がおまんこと三島論をブッタのを記憶している。結局、野坂は寺山に敵わなかったのだなあと思うことしきり。
- 1013 世田谷村日記 ある種族へ
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驚いた、目が覚めたら8時半で陽が高かった。池澤夏樹の『ハワイイ紀行』、フラとレイの章になったらようやく面白くなった。なにしろマナが突然出現したから。マナはアニミズムの根であるとされ、太平洋諸島に固有の、つまりは海がつくり出した宗教的概念だ。モノに宿る精霊を呼ぶ。池澤によればハワイイ民族はミクロネシアから、つまりタヒチ諸島からの移動で住みついた。大海を星を羅針儀として、海の色を良く観察しながら渡り、豊かな自然のハワイイ諸島に来た。とても自然に対する畏敬の念が強かった。花には花の神が、そして言葉にも神が宿るとした。それ故文字文化が育たなかった。それでマナ(アニミズム)世界が豊かになった。
その産物がフラであり、花のレイであるという。
地域固有のマナを白人宣教師、そしてキャプテンクックに始まるキリスト教徒たちは嫌い亡ぼそうとした。又、アメリカ資本主義は土地を容易に収奪して土地のマナを砂糖キビ畑のプランテーションに置き換えた。
池澤は沖縄に住んでいるらしく、沖縄に固有の文化とハワイイ固有の文化の類似を指摘している。
わたくしも一時期バリ島に夢中であった時期があった。あそこも花の文化が多様、豊富な処だ。ケチャと呼ばれる踊りや、ハワイイのチャントと呼ばれる詩の朗唱は神への、あるいは神からの祝詞にも似ている。仏教と言う世界宗教が移入される以前の古代日本も同じであり、それが沖縄やアイヌに色濃く残されている。アイヌでは狭い地域にほとんど無数とも言える地名が残されている。ハワイイでもそれぞれの谷の霧や雨に固有の名を附するという繊細な感受性が育っていた。古代日本もそうであったのだろう。
400頁近く読み進めて、ようやくこの本を手にして良かったなと思う。あと150頁程である。今日1月2日中には読み切れるか。
わたくしの作家論・磯崎新も36途中迄書き進んだ。恐らく正確ではないが300枚(400字)近くになっているだろうが、ハワイイ紀行の分厚さにはまだ届いていないが、ようやく自分で少しは乗ってきた様な風もある。
9時ドローイングに手をつける。自分でも意外に数日続けているな、取り敢えず毎日息をするようにドローイングも描いてみようって思い付いたのを。コレは実は大変酷な自分に課したノルマである。9時40分了。ベトナム・ダナン計画の中心、115m直径のサークルの根本的な形象を得たかも知れない。
明日、チェックしたい。
10時過高幡不動へ発つ。
11時前京王線高幡不動駅で渡邊等研究室の面々と会い、高幡不動尊へ。行列ができて大変な人の数である。視たいと思って来た不動明王は幕のあちらに隠されて視る事が出来ず。仕方ネェな。厄除うちわを買い求め境内を去る。参道近くのソバ屋へ。おでん、日本酒で新年を祝う。TVで箱根駅伝をやっていた。TVってモノの正体は、なべて世は事も無し、ズルズルされたしである。視ぬが華なのを確認する。14時前、世田谷村に戻る。作家論に少し手を入れてから14時40分烏山で三田君と会う。
16時了。戻る。世田谷村にうら寂しい落日の光が満ちていた。いささか作家論を書き継ぐ。
- 1012 世田谷村日記 ある種族へ
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元旦の落日近く、赤茶けた陽光がビルの西壁にまぶしい頃。
隣りの烏山神社にお参りに出た。境内をグルリと巡る人の行列ですぐにあきらめた。ついでに作家論・磯崎新36も中途にして、頑張らぬ事にする。ドローイングも一点にて休み。
17時半、缶ビールをチビチビ飲る。朱色、わたくしにとっては錆び止めの光明丹の色だが、世田谷村にもLED燐光ライトが入り、黄朱色とバッティングしている。
随分昔の事になるが、ゴダールのアルファヴィルを見た。未来都市の高速トンネル状を走るシーンがあって、その多分ナトリウムランプの光が人間を死体の如くに照らしていたのを覚えている。朝の太陽光、昼の白い光、そして夕の落日の光と太陽光は千変万化する。その色の動きが生命を感じさせる。アニマそのものだな。人工の光は永遠にそのニュアンスには届かぬのだろう。テクノロジーは巨大な死に向っているとしか思えぬが、短気を起こさずに、逆方向に向けた仕事を続けたいと思う。元旦だ、率直である。
- 1011 世田谷村日記 ある種族へ
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6時過離床。元旦や、起きてみようか、起きまいか、みたいな句があるらしいがわたくし奴はそんな気分とは無関係に体育会系的にズバリと起きてしまった。郵便受けにようやく入っていた、正月水ぶくれ新聞3紙を手に取る。不思議なもので元旦らしい陽光が8時前には2階広間に差し込んでくる。
これは不思議でも何でもなくって、今日ぐらいは大半の人は家に閉じこもって休んでいる。それで余計な排気ガスやエネルギーのゴミが空中に散布されていない。それで実に空気が澄んでいるのだ。毎日の人間の動きがこんな状態に近ければ人間の集団としてのエネルギーの大浪費は歴然としてあらたまる、つまり、連日を元旦状態に近づける。国民連日元旦状態をいかに目指すかが解りやすい東京人の目標とすればよろしい。連日休日だったら生産はどうなるんですかの疑問を抱くであろうが愚かな?である。
休みながら、程々に身の廻りのコト等をしていればそれで程々喰ってゆければいいのである。それで生きてゆける方法を具体的に考えれば良い。クロード・レヴィ=ストロースは実ワそう言っていたのだ。起きているのに初夢ですかねこんな事は。本当に貧しい生活を目指さぬと、我々は絶滅するのは皆知っているのだ。
日本人は皆恐竜の生活をしている。集団としたら奇形である。死人の如くを装って生きたら良い。
東京新聞の筆洗が新聞らしからぬ根性入れて田中正造について触れている。昨年暮、新聞は正義を振り回すべきモノではないと書いて口が渇かぬうちに、この正論振りは良かった。と手のひらを返す。足尾銅山の山々にも今は緑が戻っている。東京新聞の反原発の姿勢は強く一貫している。宮本外骨の新聞みたいだ。
9時過、ドローイング一点終える。あとはボーッとしていたい。
9時半、作家論・磯崎新36、漂泊4を書き始めて、すぐ休止。
元旦だデレデレしてみよう。太陽を身体一杯に浴びて医者から止めるように言われている缶ビールをグイグイ飲む。幸せである。安西直紀君から紹介されたプロレスラー西村修はガンになって、インドに行って日光浴と自然食だけで完治したと聞くが、本当なのかね。