石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 2 月

>>2013 年 3月の世田谷村日記

1090 世田谷村日記 ある種族へ

18時過下北沢、北沢タウンホール。11階のらぷらす研修室1。半より世田谷市民講座15を受講する。「どうなっているの?=子ども・子育て新システム=」、固く言えば「世田谷区の保育待機児対策と子ども・子育て支援新制度について」。先生は世田谷区上村隆・保育課長、藤井浩子・大きな木保育園園長のお二人。我々は川崎市至誠会グループでの保育園、乳児院の仕事を続けてきたので話しは良く理解できた。司会の方が、子供が遊べる場所としての保育園、そして親が子供を預けられる保育園と2つあると述べたのが印象的であった。21時前終了。根本さんに御礼を述べて去る。22時過世田谷村に戻った。

東京新聞夕刊1面に鈴木博之コラム「陸別再訪」がある。何か書くと勝手に決めているので何とか書きたいが、うまく書けそうにない。Xゼミナールへの鈴木博之の投稿、そして難波和彦の投稿もあり、全部まとめて書けぬかと頭を巡らせるが、どうやらとてもそんな芸当は出来そうにも無い。ここは口惜しいが率直に書くのに間を置きますとつぶやくのみ。

翌、3月1日6時半離床。アニミズム紀行8、80枚まで進める。昨日迄に100枚達成と考えていたが出来なかった。どうもうまく言葉が組み合わせられない。

アニミズム紀行8を書き終えたらスケッチ(エスキス)に没頭しようかと考えたりするが、スケッチさせるのは言葉だから堂々巡りなのだ。

8時前、熱いお茶を飲み、新聞を取りに降りる。つぐみがたくさん梅の木の花に群れている。アレは花を愛でているのではなく花のつぼみをついばみに来ているのは知っているが、そればかりではあるまい。

9時半過に松陰神社で待ち合わせているので9時前には世田谷村を発つ。

1089 世田谷村日記 ある種族へ

11時烏山で根本さんに会う。世田谷式生活・学校のこれからについて相談させていただく。我々の保育園プロジェクトについて具体的なアドバイスをいただけた。12時半志村造園の方と会い色々と相談。佐藤同席。14時長崎屋で2013年7月、つまり梅雨明けの、烏山一杯メシフェスティヴァルの相談する。皆さんクリーンエネルギーよりは余程乗ってくれるのを実感する。今年の7月、梅雨明けに、烏山地区で屋台による大一杯メシ屋The KARASUYAMAを開催するので皆さん覚えておいて下され。

17時過、北沢タウンホール、研究室での世田谷区保育園についての会合に出席のため発つ。明日、世田谷区保育課長に会うので、その準備もかねたい。

1088 世田谷村日記 ある種族へ

アニミズム紀行74枚迄ジワジワ書き進める。

正直言って苦しいWORKになり始めている。能力のLimitだろう。

14時長崎屋で佐藤君と会いささやかな相談。烏山神社総代志村さん同席。17時風々ラーメンに席を移す。世田谷野球倶楽部の面々8名程と会食。平均年齢75才程の物狂おしい野球ジジイの集りである。

皆口角アワを飛ばしてストライクゾーンがどうだとか、ああだとか議論している。呆気にとられるが、実にうらやましい限りの人々ではある。志村さんいささか風邪を引いていたのに男ダテをみせつけていたようで、それに耐えられずにダウン。

今度の3月10日用の集会チラシはこれ迄と異なり、きわめて明快にやろうとしている方向が出ていて我々のポジションを打出しているので、仲々手渡すのにもそれなりの気持が必要なようだ。大変だが仕方ないさ。デレデレ日和見て決め込むわけにもゆかぬだろう。

18時半世田谷村に戻る。アニミズム紀行8をジワリと書きすすめる。77枚迄すすめた。これが身に相応のそのまんまではある。19時20分小休する。

翌朝7時アニミズム紀行8を書き進める。79枚迄辿り着き息をつく。

新聞を読んで小休する。

1087 世田谷村日記 ある種族へ

13時半、エス・バイ・エル社藤本部長他3名来室。打合わせ。15時半埼玉県立近代美術館伊豆井さん来室。日本の近代住宅の展覧会を幾つかの美術館で巡回させるそうだ。15点程が、誰がセレクトしたのか知らぬが選ばれている。

私のは幻庵、毛綱の反住器、安藤忠雄の住吉の長屋、磯崎はホワイトハウス(新大久保)というのでビックリ。これは磯崎ベースの展覧会になるなと思う。他は皆作品で、ホワイトハウスだけが非作品である。

作家論・磯崎新を書き継いできたので大方のパースペクティブは視えるようにはなった。

19時半烏山宗柳で石森さん他と会い、出来たばかりのチラシを10枚程配布するもインパクト無しと評判悪い。刷り直ししよう。

20時半世田谷村に戻る。

明けて翌朝6時半離床。小雨、雪になりそうな暗い空である。

今日は地元世田谷で動こうと決めている。

都下町田市でも町田電力の会があるようで、実に多くの方がクリーンエネルギー運動に参加しているようである。

10時迄地元の何がしかと連絡を続ける。アニミズム紀行8を書き継ぐ。数日間リアルな動きを続けていたので、全く頭がアニミズムの旅モードになってくれない。

1086 世田谷村日記 ある種族へ

11時研究室ミーティング。5項目程の打合わせ、及び指示。同時に各種コンタクトをなす。このやり方がわたくしには良い様だ。3月10日の世田谷式生活・学校には保坂展人区長とふくしま市民発電の新妻香織(相馬市議会議員。フー太郎の森理事長)との対話が実現する。福島の原発事故に対しては何かしたいと思い続けてきたので少し進めるかな。

5月18日の今年度気仙沼安波山植樹祭をめぐっての安藤忠雄を囲む会のスケジュールも仮押さえした。その他諸々のスケジュール決定。14時半修了。ただちに発つ。地下鉄で東京駅八重洲口へ。ベトナムの中村さんと落ち合い、「小樽」へ。無理を言って清水さんに開けてもらった店で色々と相談、依頼他。中村さんは昨日東京マラソンを4時間程で走り切ったと言う。何事にも積極的な人だ。わたくしはマラソンはとてもとても。3月末のベトナム・ダナンでの再会を約し、別れる。18時過。19時半世田谷村に戻る。

2月26日、8時過離床。今朝は少しゆっくりしたい。

唐桑七福神の復興シナリオを少し考える。我々のスタンスは「自然と土地の神々への奉祭芸能、再生」を土台としたいという事かな。

東京新聞1面に認可保育所不足裏付け、1万9000人入れず、の見出しで東京23区の認可保育所申し込み状況のデータ比較が出ている。 世田谷区は入れない子の割合でお隣りの杉並区62%、目黒区53%、世田谷区52%である。認可保育所申し込み者数は2591人で最も多い。保育所プロジェクトもなんとか進めなくてはならない。3月1日に区役所で保育課長と面談する事になっている。

1085 世田谷村日記 ある種族へ

11時のぞみで大阪へ。新大阪で楽しみにしていたきつねうどんを食べる。地下鉄を乗り継いで中津。安藤忠雄事務所へ。安藤さん十河さんと打合わせ。

久し振りに会うのでいささか用件がたまっている

気仙沼安波山鎮魂の森計画の他に新たに唐桑、小鯖湾の計画についても話し、安藤さんの協力を得る。他にも相談が続いた。

安藤さんの最近の仕事ぶりを聞くに、この人は建築家の枠をとうに超えて社会事業家と言うべきか、鈴木博之が「安藤さんは行基だ」という意味が良く解るのである。建築のみならず周囲のそれこそ環境山並みにも拡張して樹木を植える事業も大きなスケールで成し遂げつつある。重源の如くに大きな天皇陵まがいの大土手をつくり出しているのだから、ビックリ仰天である。友人とは言え、ビックリしているのも情けないので、俺も頑張るぞと少年の如くに力が入る。

しかし、安藤忠雄のやっている事はまさに行基、重源の神話的スケールに近い。

この人は考えている事がたちどころに身体化できる才能が巨大だ。

終了後、近くの芹澤竜一設計事務所に行く。今夜の217レクチュアシリーズを平沼孝啓くんと対談相手になってくれる。芹澤くんはわたくしのゼミ生でその後安藤事務所で修行した。わたくしの前でキックボクシングの型を見せつけてわたくしを脅かした奴でもあった。成長して良い建築家になるだろう。41才である。

作品記録を見る。南のエリアでの仕事に面白いモノになる可能性を視た。

その後本町のガーデンシティへ。いささかの講義、対談の準備。

19時1階ホールで開講。満員の人間で準備に力を尽してくれたのだろう。

渡辺豊和、出江寛、宮本佳明、他の皆さんと修了後、会食。23時過ぎ上のホテルで休む。

横にはなったが明方迄眠れず。

2月23日、8時12階ホテルレストランで朝食。寝不足なのに美味であった。

9時前ホテル下の本町より御堂筋線で天王寺乗換え、さらに鳳乗換えで、それでも10時前にJR信太山駅に着く。

駅より15分程町中の古い道を歩く。古い民家のたたずまいが心地良い。

新しい家はどうしてこう品格に欠けるのであろうか。国道26号を渡り、オーッ、アレカと大きな復元された弥生遺跡を眺める。

磯崎新に教えられ、渡辺豊和に場所を確かめてもらった。

これは伊勢の原型だと直観する。インドネシアに現存するトラジャ等の民家にも実に酷似している。京大の建築史家の復元だと磯崎新から聞いた。この復元は東大系の史家では困難であったであろう。天皇制の始源に関わるから。

公園内の池上曽根弥生学習館にてじっくり諸資料を見て、復元建築へ。

建築のみならず、それ以上に1994年、1995年に発見された立柱や井戸、土葺きの屋根を持つ竪穴、石器の原料サヌカイトや石斧群を埋めた小さな土まんじゅうの復元等皆凄く面白い。スケッチを沢山する。

立柱は諏訪大社の御柱に連なるモノである。男の柱、6.5メーターと女の柱3.5メーターが建築の棟とは直交した南北軸に30メーター離れて立てられていたようだ。春分、秋分には北の柱(つまりは男性の象徴)の影が円い木の掘り抜き井戸(つまりは女性の象徴)に落ちるそうだ。男女交合を示している。ヒンドゥのシヴァ神つまり、リンガ(男根)と受皿の女よりも影による交合というのもエレガンスではないか。伊勢の心の御柱は神殿の床下に独立して地中に埋められている。神殿内の大嘗祭の儀式では天皇は女装して夜を迎えるとも伝えられていてそれも男女交合の直接的な暗喩であろうが、ここではこれ以上は記せぬのでアニミズム紀行に記す事にしたい。

シルクロードの2世紀の地中墓にある鳥の装飾がここでは神の使者として屋根上に復原されている。

たっぷりスケッチして、近くの大阪府立弥生文化博物館に行く。

ここでも木偶や鳥の彫刻、他数々の装飾文様等のスケッチを続ける。

小学生のように勉強してしまった。実に面白い。

気がつけば14時過ぎであった。メシも食わず、水も飲まずであった。再び小さな道を歩いてJR信太山駅へ、国鉄を乗り継いで新大阪へ。再び、うどん屋できつねうどんを食べ、15時10分の、のぞみに乗り、東京18時過着。新宿より京王線で烏山へ、長崎屋で奄美の保さんとおしゃべり、保さんは世田谷での諸施設の現場の人間関係のまとめ役として的をしぼっている人物である。

21時過、世田谷村に戻った。良く歩いて良くスケッチもしたので心地良く疲れた。しかし、この得たものをまとめるのは大変だ。

明けて24日、8時離床。流石に熟睡した。随分色々と学んだ大阪ではあった。

気仙沼、唐桑の方々に諸連絡する。お膳立てが整い始めてきたのでそろそろ集中しなくてはならない。

午後、気仙沼・唐桑計画の筋書きを考える。考えるは易し実行は極めて困難であろう。全く、天から力が降ってきて欲しいと思う。

17時山口勝弘先生に電話した。山田脩二さんが山勝工場の写真をとってくれたと報告したら、三陸レクイエムの続編の三陸パノラマを作品として作ろうとしていると言う。前に聞いていた話である。

神戸芸工大の学生達が展覧会の企画を進めているらしい。

地震のモトのナマズをテーマにしたパノラマだそうだ。芸術家の言うことはそのまんま聞くしかない。

が、その作品を神戸から唐桑の小鯖神社か、あるいは気仙沼の神社に守り神様として持って来れぬかとフッと思った。

明るい人々の夢の話しの実体としての踊るナマズがそろそろ被災地に現われてくれるのも良いかな。

唐桑の佐藤和則さんは小鯖の人々がまだそんな心の準備ができるかどうかはわかりませんとのこと。津波に何もかも洗い流されてとても芸術どころじゃない、ましてやナマズの話しどころじゃないのは良く解る。

しかし山口勝弘のアイデアも良くわかるので、わたくしなりにすぐ動いてみたい。

2月25日、7時前離床。福島市民発電の創設に向けて動いている人間がいるようだ。情報が欲しい。すぐにコンタクトしたい。

今朝のミーティングのテーマを記して準備する。無駄なミーティングはしたくない。1センチメーターでも前へ動けるようなモノにする。

1084 世田谷村日記 ある種族へ

11時過花小金井吉元医院。12時半検診というより問診終了。13時半新宿で佐藤くんと打合わせ。李祖原の西遊記、気仙沼、唐桑の石山研なりの復興計画についていささかの相談。若い人材は大事に育てたい。個々のプロジェクト関係者に通信を送るよう企画をすすめるようにアドヴァイス。というより指示だな。

カキフライを喰べて、烏山で志村棟梁と保育園プロジェクトに関して話す。

18時過世田谷村に戻り、東京新聞夕刊コラム、鈴木博之「責任とは」読み、すぐに感想を書いて研究室に送信する。今日は大学入試だが渡邊大志君が試験監督で大学に出ていて、サイトにONしてくれるであろう。

夜、淡路島の山田脩二さんより電話あり。

「早速山口さんのとこ行って見た。何変るところも無かった。周りも役所が草刈りなどしているようだ。鍵もかかっていて人は入れない」

との事である。いささか心配で見てきてくれないかと頼んだら、すぐに行ってくれた。

「写真とったから、娘がアレ出来るから送るよ」

アレというのはメールである。

山田さんもわたくしもメールはやらないし、もうしないだろう。それで別に一向に不自由だとも思えない。明日着信するだろう。山田脩二の写真である。何を撮っても山田大円である。楽しみだが、すれちがいでわたくしは大阪へ。山田の写真は東に、石山は西へ。

人間と情報は決して同体ではない。スレ違いが多い。

明けて2月22日、7時前離床。昨夜は何時であったか山田脩二の声を聴いて、電話ではあったが仲々良いものであった。やはり人は肉声らしきが良い。わたくしへの諸連絡の大半はメールになったが、やはり馴染めない。言葉が記号の断片の配列となり都市の大通りをゆくが如き味気無さがある。恥ずかしながら頭が良ろしくないのでコレワと思う本は手放さず手許に置き何回も読み直す。

昨夜も木田元の『反哲学入門』の何回目かの読み直しをして、ようやく木田先生の肉声らしきがこちらに聴こえる迄になった。ハイデッガーは存在よりも言葉が先に在る。と考えるにいたったらしい。その言うところの言葉はメールの記号ではあるまい。ギリシャ、アテナイのプラトン以前の哲学者には非ずの思想を愛する哲学以前の人々にあった言葉であろう。木田さんの言い方をすればより自然に近い。日本の古層の詩歌である万葉の古語については本居宣長がその言霊について考えているが、それに近いものなのかなと考えたりしてみる。ヘロドトスの本は苦労して読んだけれどつまらなかった。古ければ良いと言うものではない。心にひびく言葉とやっぱりひびかぬ言葉というのはあるのだ。ヘロドトスに文句つけてるわけではない、訳の問題もあるのかも知れぬ。

言葉にも種族があるらしい。

根本はおそらくアニミズムである。

1083 世田谷村日記 ある種族へ

12時前アニミズム紀行8、69頁まで突き進み、70頁にかかるところでストップする。書き急ぎは危ない。13時半研究室、14時ベトナムより中村氏来室、諸々の打合せ、15時了。インドとメールのやり取り。5月にインドに行く事になる。その頃、インド、ベトナム、台北のコースの旅になりそうだ。全力でアニミズム紀行5、6、7、15冊にドローイング描き込み、いささか疲れた。筆で描いた。18時半高田馬場で会食。21時半世田谷村に戻る。気仙沼の畠山章八郎さん、唐桑の佐藤和則さんと連絡。そろそろ唐桑でも何かできることをしてみたい。

翌朝7時半離床。新聞を読む。渋谷区の松濤美術館が改修されるそうだ。白井晟一の建築だが、一度しっかり白井晟一の建築に関しては考えてみたい。たった一日だけの白井事務所でのWORKだったがどうしても馴染めなかった。製図工の如くの一日だった。7Hだったか9Hだったかの鉛筆でトレーシングペーパーに線を描くのであった。模型はわたしが居た日には何処にも見当たらなかった。

磯崎新のつくばセンタービルの沈んだ中庭の部分の石貼りがどうも不自然にしか視えなかったが、あれは白井晟一のハリボテ美学であるか?日本建築に於ける石積み技術は古来石積み本来のものではなく、ハリボテであった。

アニミズム紀行8は今70頁まで辿り着いているが、古代寺院の(例えば法隆寺の)基壇部分は恐らく中国からの技術者の成せる技であろうが、その後江戸期築城の石垣との連続性はよく視えないような気がする。

淡路島の山田脩二さんに連絡。いざなぎの丘の淡路島山勝工場の現状についてうかがうが良く知らぬとの事である。無理もない。

アニミズム紀行8をジワリと2枚書き進める。10時世田谷村発、定期検診のため小平の吉元医院へ向かう。明日は大阪。

1082 世田谷村日記 ある種族へ

只今10時過、書き始めたアニミズム紀行8のつづきは6枚弱書いて小休。突然としか言い様のない気持が訪れてアッという間に書いた。自分で言うのも阿呆の骨頂、テッペン馬鹿だがようやくアニミズムの中の自分、自分の中のアニミズムひいてはマナの存在を知った。よせやい神がかり三十郎かと言われようがわたくしの記録欲(表現欲に非ず)について記した。

出来ればもう少し書いて、それから研究室に行きたい。

1081 世田谷村日記 ある種族へ

7時前に起きた。ここのところ寒い日が続いている。新聞を取りに外へ出たら曇天の南の空に一部微妙な変化があり美しい。昨日は結局アニミズム紀行8は60枚迄辿り着いた。今朝も書き延ばそうと考えて起きたが、気力が続くか。新聞読んだ。神田やぶそばが焼けた。東京国立競技場の基本設計開始が2020年オリンピック開催国決定の9月迄引延ばされる事になった。天野祐吉のコラム、CM天気図はピリッとしていない。神田やぶそばは観光気分で何度か行ったが、それ程ソバはうまくなかった。ただ庭が良かった。竹やぶらしきが作られていて、これは店名もあり生命線であるなと知ったのだが竹やぶは是非建築よりも復旧を急がれたい。竹やぶの下に縁台出して営業すれば良い。どうやら東京オリンピックの招致がままならぬようで、ザハ・ハディドが一等を獲得した案が宙吊りになっているようだ。国内外共にスポーツ界の政治は現実の政治よりもドロ臭いものだ。柔道界の不祥事他が東京招致の力をそいでいるのだろうが、レスリングのオリンピック競技からの除外騒ぎも含めて、より根は深いのだろう。それはとも角、高度なスポーツは今はすでにエンターテイメントでもあるのは現実で競技場の概念を一部JOCが口を狭めるものじゃないのではないか。JOCの見識自体に問題ありだろう。

今朝の新聞3紙共コラムは良くない。天野祐吉氏のCM天気図は少し計り大所高所の位置取りが文化人過ぎて面白くない。CMに文化があって欲しいという気持は解るけれど、アメリカ文化極東版だという見方だってある。

1080 世田谷村日記 ある種族へ

11時研究室Meeting、目前の Projectについて実務的に。12時前長澤社長来室3件の物件相談。チリのアベル来室。今日北京に戻るので手短かに。

14時半ミサワホーム来室。昔、ミサワ社長とのお付合い等話し、いささかの討議。15時半了。鈴木博之先生よりXゼミナール投稿届きONする。どうやら一の関ベイシーに行ったらしいので、ベイシーの菅原さんに昨日「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」かけたろうと言ったらビックリしていた。「確かにかけたが… … 」「俺の友達行って聴いていた」「イヤー、彼は度々来てくれてるんだが…水臭いな声掛けろと言ってくれ」「イヤー、簡単に声掛けるような男じゃないよ」「最近は音に熱中しててね、人間に眼がいかない、失礼したと伝えて。毎日色々工夫してて気がつけば一人で朝5時です。何とマア妙な人生になっちまって」「お互いさまですな」

17時半新宿味王で小休。娘さんがどうやら建築やりたいと言い出しているようで「ヤメナサイ」と忠告する。モノの形とモノの音とは危険な道である。19時過去り、20時世田谷村に戻る。えらそうに「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」なんて言っているけれど実にわたくしは全く知らない。何となく気がひけたので記しておく。耳が悪いので音は全くダメなのだ。でも日本の近代建築はアメリカのモダン・ジャズと似たようなところがあって、アメリカのモダン・ジャズがアフリカ発、奴隷制によるブルース、そして頂が1960年代。日本の近代建築もヨーロッパ発、アメリカとの敗戦で突如、転形し、1950〜1960年代に頂をむかえたとすると、登りはヨイヨイ、下りはアッという間かも知れない。チャーリー・パーカーの音みたいなのを建築で目指せたらなあと、思いつきで記す。気がつけば翌朝7時半である。今日は全力を挙げてアニミズム紀行8を書きすすめる予定だ。妙なところに入り込んで、とてもチャーリー・パーカーどころじゃなくって、天武、持統両天皇の処につかまっている。でも日本古代に少なからぬ人間がつかまるのもホンの少しだけど解るような気も、しないではない。

10時半アニミズム紀行8、50枚迄すすめる、小休し朝食をとる。先程まで舞っていた雪は今はない。と思ったら再び舞ってきた。天気というのは実に神秘的なものだ。難波和彦さんのサイトをのぞいたら、一生懸命やっていたコンペは落選して、ウィスキーをあおったと書いてあった。コンペで落ちた位でウィスキーごときをあおるなと言いたい。こちらはウィスキーは飲むなと言われているし、国際コンペのプロポーザルが決まったと思ったら一転して審査員になって驚いているのだ。わたくしの戦線はそれこそ連戦連敗、天変地異の連続である。何が起きてもウィスキーはあおらないのだ。電話代りにサイトに記す。

1079 世田谷村日記 ある種族へ

昨夜は一度もトイレに立たずに眠り込んだ。トイレ立つついでに深夜サイトをのぞくのだがその記憶もない。今日はすでに2月17日か、月日の経つのは早いものだの常套語がまことに自分に似合う今日このごろである。

日曜日でゆっくり新聞を読む。日経新聞のコラム、欧人異聞、樺山紘一「聖パトリック、ケルトの島に福音」がしみる。何故心にしみるのかわからぬ程に深く感動してしまう。最近やたらに各紙コラムに眼がゆくので、コラムの読み方が異常になっているのだろう。春まだき、から始まり、世界中のアイルランド人は-———シャムロックの緑に染まる。で終る。樺山紘一の著作に多く触れているわけではないが、この人物の書くモノには暖かい血が通っている。

東京新聞、時代を読む、浜矩子「通貨知らんぷり作戦」を読みかじる。時は1970年代、ドル安進行のアメリカのビナイン・ネグレクト政策、直訳すればさりげない無視、あるいは素知らぬふり、知らん顔という感じらしい。要するに当時のアメリカのドル安政策である、と教わった。教わりついでにXゼミナールの鈴木博之の最新投稿を思い出す。鈴木の師であった建築史家稲垣栄三の恐らくは伊藤ていじの論への知らんぷり作戦;つまり無視への批判を思い起した。

稲垣栄三氏をわたくしは知らぬ。ただ師であった建築史家渡辺保忠の寸評を聞いて覚えている。寸鉄人を刺す類いの言葉は決して忘れないものである。

コラムもその類である。

東京新聞の大方は1面での反原発の恐らくは社運を賭けてのキャンペーンが骨太なのに対してリベラルであった筈の朝日新聞の1面は最近オカシイ。明らかにオカシイ。コラムも寅さんの伝言の他は読むべきが、ズーッと少ないのが続いている。と強弁したくなる位だ。今日の寅さんの伝言にいわく、のぼせあがる男も悪いのだろう。「馬鹿だねー」おいちゃんのため息が聞こえてくるべきは朝日新聞の記者デスク諸氏の心へではあるまいか。

と、この辺りは反朝日新聞、反岩波書店を貫いた山本夏彦の影を踏みそうにフラフラと追っている。影を慕いて、ではなくて伊賀の影丸である。といきなりワカラン事をつぶやいて新聞を読了する。

烏山の原口さんに作ったばかりのアニミズム紀行シリーズのチラシを渡して、買わなくてもいいからねと言ったら、何と全七巻くれと言う。烏山にはアニミズム紀行の読者はいないだろうと想っていたので、ヘヘーッである。でも4巻迄は全て絶版なので、5、6、7を送る事にする。

13時半烏山ソバ屋宗柳で佐藤くんと会う。これから先の相談。

16時半終了。ソバ屋からラーメン店長崎屋に移り長丁場になったが、何を伝えられたか覚つかぬのは今風である。

世田谷村に戻り、直木孝次郎の本を読み続ける。

18時直木孝次郎の本読了。

高校生時代、わたくしは早大附属高等学院であった。家は貧乏だったが、わたくしはどうしてもこの高校に行きたいと言い張った。理由は何とも説明できない。母は大学は国立大学、例えば東大に行っとくれれば楽なんだがと言ったが、親不孝を押し通した。高等学院では幾たりかの先生から津田左右吉先生の話しを聞かされた。良く解らなかった。直木孝次郎の本を読んで津田がどうやら本格的に偉い学者であるのをようやく知った。高校の時に教えられて50年経っている。教育ってのは恐いものだ。早稲田大学に居て誇らしいとは一度も思った事はない。でも高等学院の先生方の津田左右吉先生は立派だぞと教えた先生方の名は、何故か全て覚えている。意味は解らなくとも。木村時夫、保昌正夫、外木、浅見、高木院長他である。大学はともかく、良い高校であったとようやく今になって直木孝次郎の本を読んで知るのである。

翌朝8時離床。昨夜山形の長澤社長から電話があって早朝会う予定が昼前になったので少しゆっくりできる。薄曇りの冬空である。西北の天空に美しい青空が一瞬のぞいた。

9時45分世田谷村発。

1078 世田谷村日記 ある種族へ

朝ゆっくりと起床。ウェブサイトを一新しつつあるのでのぞく。時々サイトの顔を動かしたくなる。サイトも生物なのをこの頃は知るからだ。というよりも何処で誰が読んでいるか解らないの恐ろしさもある。2月22日に大阪で安藤忠雄さんに会い、その後、若い建築家諸君と対談形式のレクチャーをする。渡辺豊和さん他旧知の皆さんも来て下さるので手は抜けない。それで用意したシナリオ、映像を眺め直している。

気仙沼安波山に植えたさるすべりの樹群は今夏は薄紅の花を咲かせてくれるだろうか。亡くなった多くの方々の精霊が大地と山を介して花の紅に映るだろうと皆さんと一緒に想ってした事だ。円環の形に植え込んだ。これがわたくしの再生気仙沼のできる限りの仕事である。今のところは、そうだ。

10時アニミズム紀行8を少しだけ書き進める。かたつむりの速度だな。でも書く。47枚迄辿り着いて小休。朝日新聞beに平川克美氏のコラム、路地裏人生論、「二級の町に生まれて」があり、表題からするとセンチメンタルなオヤジのなげき節かと思いきや、なげくのには変りは無いのだが妙な味があって良かった。俺も世田谷の二級の町にいるなとしみじみしてしまう。酒も町も二級の方が味わい深いというのはわざわざ書くべきではない。俺みたいな凡夫は二級なのかな?

13時西調布N先生宅。いつかアニミズム紀行でN先生の事書いてみたいと考えているが本人の了解をとらないといけない。

あとはさして記すべき事なし。

1077 世田谷村日記 ある種族へ

11時チリのアベル来室。将来の計画を相談する。終了後雑ミーティング。

13時過『日本神話と古代国家』直木孝次郎、読み始める。

隈研吾さんより岩波新書『小さな建築』720円、送られてくる。早速短いあと書きを読み、この本も熟読したいと考えた。伊東豊雄さんにしても隈さんにしても共に嗅覚が鋭い才人である。2011/03/11以降の社会状況が解りやすいかたちで転形期に入っているの直観が最近のいくつかの発言らしきに表れている。

隈さんのは、その直観を歴史の中に置いてみたいという意志があり、解りやすい。いずれ、近々、Xゼミナールで取上げてしかるべきだろう。

鈴木博之さんよりXゼミナール投稿「聡明なる<表現>とは」が送信されてきて、すぐにON。難波和彦の箱の家の表現についての論である。他の何者でもない。隈研吾が震災後の建築について、素早くスタンスを取った、その取り方と一緒に少し議論を進められたら、少しは歴史的意味もあるやも知れないと考えた。難波和彦さんの、わたくしなりに考える美質は、伊東、隈両氏の如くの才人に非ずのところだとわたくしは考えている。それでなければ付き合ってはいない。

C.Y.LEE(李祖原)を素材にした「西遊記」のアイデアを少し進める。わたくしのアジアでの仕事の考え方のバックボーンになれば良いと思っての事だ。

このことも又、Mr.李を客観化したいと考えての事に非ず。自分のためにやっている事だが、遠回りしているので廻りにはそう写らないのだ。

1076 世田谷村日記 ある種族へ

昨日は、ときの忘れもの「具体 Gコレクションより」展覧会の案内文を書き、鈴木博之の東京新聞夕刊コラム「卒業論文の季節」への感想も書いて日が暮れた。山本哲士さんの本は110頁まで辿り着いた。2月15日起きてサイトをのぞいたら昨日書いたコラム感想がすでにONされていた。妙なスピード感が不思議だ。失くしたはずの手帖が新大久保近江家にあったの連絡があった。しかし、すでに手作りの手帖を作ってもらったのでこれを使いたいが、古い手帖にはアドレスメモがあるので捨てられない。古いのは大学から毎年支給される奴で、もういらないと思ってはいたのだ。手帖もそれを察して姿を消した筈だったが、しぶとく出てきてしまった。

「ときの忘れもの」の具体派展覧会は良く良く考えてみれば姿を消した佐藤健が仲介者であったのに昨日気がついた。

生きてゆく主体には生者も死者も区分けされて在るわけではない。私的歴史こそは膨大な死者によって日々新たに形づくられている。その死者の生霊と呼ぶのか、たましいと呼ぶのかそれは良く解らない。思い出す毎に死者の記憶は鮮明になる。記憶が形になったりもする。生者と死者の境界線はそれこそ気持の中にあるだけである。

我ながら不可解な事を企てるなと思う、その不可解さには必ず小さくとも私的な思い込みであるにせよ深い理由があるんだ。理由らしきを歴史と呼びかえても良い。これだけ生きてくるとわたくしの時間もまた迷宮状に視えてしまうけれど、その迷宮には必ず迷宮らしき理由がある。

9時45分世田谷村発。

1075 世田谷村日記 ある種族へ

10時半研究室。11時卒論テーマ説明会で「卒論とは」を話す。渡邊君が各テーマを説明。佐藤君にも立ち会わせる。その後大阪での講演準備、シナリオを作成。

アニミズム紀行8を書き継ぐ。渡辺保忠先生の『伊勢と出雲』を読みふけり、読了。先生の肉声を聴く想いがする。この本を書いている時の先生の没入振りは鬼気せまるものがあったのを記憶している。あの空気を体験したのだけでも良かった。伊勢の創建時が天地根源造と言われるほどに古くはない随分新しいぞと、恐らく日本で初めて説いた論である。磯崎新の「日本的なるもの」には渡辺の論は触れられていないし参考文献にも登場しないのは明らかに片手落ちであるのでアニミズム紀行8に記しておきたい。

17時研究室の連中と早い夕食へ。時々の変則研究室ミーティングである。

20時半世田谷村に戻る。

山本哲士氏の『国つ神論』読み続けるがしんどい。少しはしょって読むことにした。

何しろ厚くて、筋を追うのが大変である。今のところ折口の視点で古事記を読む文献学的色合いが強い。

翌2月14日9時半目覚める。11時小休。読み続けていたら75頁過くらいから面白くなってきた。読書は辛抱である。知らぬことを教わるのはそれだけでも良としなくてはならないが、全く人生は短い。

1074 世田谷村日記 ある種族へ

山本哲士さんより『国つ神論:古事記の逆立解読』送られてくる。

古事記神話の場所共同幻想論とサブタイトルが附されている。

分厚い本である。4200円+税 文化科学高等研究院出版局。

まだ冒頭しか読んでいないので感想を記すのは、はばかるが、あと書きから読み始めた、520頁、2段組の本の終り迄辿り着けるかどうか、おぼつかぬが山本氏のホスピタリティー理論というのが良く解らないので、何故わからないのか読んでみようと考えたのだった。この本が著されたきっかけは3.11原発事故であったようだ。その点は信用できる。

又、あとがきの前の参考文献一覧で、吉本隆明、折口信夫、上田正昭、直木孝次郎を挙げているのが、この書物のどうやら基本構造になっているようだ。西郷信綱、梅原猛の説は信用ならぬとも明言している。わたくしのアニミズム紀行もいずれ折口は読破せねばと思ってはいるが、直木孝次郎『日本神話と古代国家』講談社学術文庫、は読みたいと思った。

しかし、分厚い。山本さんは古事記を読むのは初めてのことであったという。アニミズム紀行のためには古事記も当然読むべきであるとは知るのだけれど人生は短い。やりたい事は多い。時間が圧倒的に足りないのである。でもこの本どうやったら読み通せるか、先ずその方法を考えなくてはならない。どうするか、読み飛ばすか、斜め読みか、じっくり読むのはどうやら辛そうだが、そんな失礼は言わず冒頭から読み始めてみよう。

9時45分世田谷村発。今日は最後の御奉公、卒論のテーマ説明をするのと、大阪での講演のシノプシスを作成しなくてはならない。大学院での最終講義のシナリオも12回分作るつもりだ。

1073 世田谷村日記 ある種族へ

5時半離床。すぐに生垣コラム、「寺山修司2」を書き始める。7時終了。昨日「寺山修司1」が誰かの手によって休日なのにサイトにすでにONされていたので一拍おいてONしよう。寒い中新聞を外に取りに出たら、今日は休刊日であった。

11時研究室。中国よりチリのアベル来室、早くチリに帰れと注告する。12時修士2年、修士論文、修士計画の総評。13時より研究室会議。10件程のプロジェクトに関しての討議。16時過終了。長い会議はいいのか悪いのか良くは解らぬが、しないよりはマシなのではないか。17時半烏山長崎屋にて研究室で作られた3月10日の世田谷式生活・学校のチラシの初配布する。その後オバン等と長生きできたら、メシ屋でもやりたいねと下世話な話し。19時過世田谷村に戻る。

研究室の連中が頑張っていて今朝のミーティング通りにウェブサイトの更新が急である。わたくしも負けぬようにヤリたい。

とてつもなく若い、若い学生達との付合いもアト1年になった。自分自身の1960年代の学生時代と今の時代を少しは冷静に相対化できるとは言わぬが、したいとは思えるようになった。私の1960年代はまさに最後の原っぱの時代であったのを今は良く知る。原っぱには隙間という名の自由が無限とは言わず、それでもあった。今も、つまり今の学生諸君にもそれは在るのだろうが視え難いであろう。その見え難い空間は、例えばドイツやイギリスの学生は良く耐え抜き次の段階に向かおうとしている。中国の学生はこれからの10年はその空間をとり囲む壁に向けての10年であろう。日本の学生は地政学的に最も不利な状況の中にある。痛ましいと思うが耐え抜かねばならないのであろう。つまらぬ言葉しか贈ることは出来ぬが、頑張って欲しい。

翌2月13日どうやら昨夜雪が降ったらしい。新聞を取りに出たらうっすらと雪が地面をおおっていた。陽光が美しい。

1072 世田谷村日記 ある種族へ

16時世田谷村を発つ。下高井戸より東急世田谷線で三軒茶屋。保坂展人世田谷区長の新春トークと交流に出席。保坂展人と元気印の会の主催である。わたくしは1部はパスして2部の新春大交流会のみの出席である。研究室の連中が1部に出席した。大変多くの人間が参集している。

区長の古くからの友人達の会であろう。前に新宿のホテルで催された会とは全く異なる人々の集りであった。旧社会党系の人々、労働組合の人々、若い保坂シンパの人々であり、ボランティアの方々のおでん他がふるまわれた。

保坂区長のあいさつに続き、都議、区議のあいさつが続く。立っているのも疲れるので高齢者用に設けられたテーブルに座り、隣りの方々とおしゃべりする。多くの方と名刺交換等。川田龍平氏はいつの間にかみんなの党になっていた。福島みずほ氏は会場で名刺配りに精を出している。地元政治家のあいさつの後すしをつまんで知り合いと話していたら、区長より世田谷式生活・学校のソーラーすだれの話しをせよと言われ、短いスピーチ。その後、マジシャン、カナモリ君のスプーン曲げの技に見ほれる。19時過会場を去る。20時烏山長崎屋に寄り「カゼなおったの、ヤセタネ」と言われながら女子フィギュアスケートのTVを観る。

21時過世田谷村に戻った。

翌2月11日7時前離床、新聞を読むも3紙共に読むべきモノなし。ゴミを捨てに出てチラリと烏山神社の境内の空気、樹木の気配を横目に。昨日の続きで復活させる「生垣」コラムにとりかかる。

生垣コラム01.寺山修司11時了。

13時過世田谷文学館、「帰ってきた寺山修司」展へ。充実しているのは解るが展覧会として何か工夫が欠けている。寺山修司の空間となっていない気がする。要するに文学を展示する事の困難さであろう。が、しかし大変な人の数である。しかも女性が多いのは意外だった。多くが女、男共に独りで来ていた。寺山修司の言語表現が根底で女性の心をとらえていた事が解る。もう一本コラム寺山修司Ⅱを書くかと迷う。

14時過烏山長崎屋へ。16時世田谷村に戻る。

20時夕食をとり休む。

寺山修司は1983年47才で亡くなった。寺山修司のサイトをのぞいたら三島紀夫等が登場していた。凄い時代だったとその後の日本は何もないかも知れぬと改めて振り返る

1071 世田谷村日記 ある種族へ

遅い朝食らしきを食べ、少しウトウトとするが意を決して13時過世田谷村発。目黒で目蒲線に。14時過洗足着。近くのコーヒー屋でコーヒーを飲む。でも眠い。

慣れぬ神社の早朝の会に出たからだろう。14時45分渡邊くんと落ち合い坂を少し登り伊藤宅へ。15時伊藤夫婦にIアパート計画案のプレゼンデーション。

我々の考えに対するハウスメーカー数社の対応、採算計画他を説明。

次の段階に入りたい旨を述べ、了解を得た。GAギャラリーのHouses展に出展予定の我々の案、つまりメーカーハウスとのドッキング案のプレゼンテーションする。

ほぼ了解を得るが、今度はメーカーとの打合わせが仲々難しいだろう。

たっぷりしたステーキ、他の夕食をご馳走になり、赤ワインまでご馳走になった。

17時半おいとまをする。陽は西に沈みかかって寒くなっていた。19時過ぎ世田谷村に戻る。

20時頃、保坂展人世田谷区長より電話いただき、保育園の件、ソーラー製品開発の件共に担当窓口をつけていただけそうである。区長も三浦半島で世田谷のメガ発電所を実現する迄にこぎつけたので実に頑張っていると思う。明日の会に出席する旨を伝える。

今日は世田谷生垣計画、ソーラー機器開発、保育園、それぞれの計画を少し前進させた。Iアパートが品川区であるのが残念だが世田谷式の建築モデル一号になるやも知れない。

翌2月10日朝7時半目覚める。今日は陽光が降りそそいでいるので暖い。新聞3紙を読むがこれは2紙で良いな。3紙を読み比べる時間が惜しい。

広告批評という良い雑誌が昔あって良く売れていた時代があった。天野祐吉が編集長だった。雑誌全般が売れなくなりその一環として廃刊になった。

天野祐吉はわたくしの文章修行の師山本夏彦の友人の一人だった。山本夏彦は広告大好き人間であったからだろう。でも天野祐吉の今でも時々読めるコラム等を読むと、この人の文は山本のそれと比較して日本文化全般(全体に非ず、そんな事は誰にも不可能だ)への底がいささか浅いのではないかと知るのである。

広告は産業社会の鏡である。それ故大きな歪みが当然在る。天野の諸コラムのベースはその歪み、あるいはひずみは視ないで、やはり表面の戯れに終始する。最近建築史家鈴木博之が毎回1.5枚程のコラムを東京新聞に週一で連載している。

どうしても諸々のコラム諸子と読み比べる。

日本経済新聞読書欄に田中純氏の著作『冥府の建築家』への谷川渥氏の書評があって驚いた。驚いた自分が面白かった。田中純氏にはドイツ、ワイマールでお目にかかった。ドイツの友人が彼の言説は実に難しいと言った。友人も又、難しい事を言い続けて学生達はとても理解できぬような建築論畑の男であった。

田中純氏は難しい事を更に難しく言うキライがある典型的な日本の一部の知識人の典型であるとわたくしは考えていた。山本夏彦は難しい事をやさしく言うのが本物だろうの説の持主であった。それは文体に全て表現されるとした。更に言えば、つまらぬ事を難しくこねくり廻す更に下の書き手がいるとも。田中純氏はそんな書き手ではない。難しい事を難しく言ってみせる表象文化畑の人ではある。そして評者の谷川渥氏をわたくしは知らぬ。肩書きに国学院大学教授とあるから少なくとも建築畑の人ではない。コラムと同じ頁数の書評であるからその様な眼で読む。

書評にいわく、「ヨーロッパの精神史に新たな一ページを付け加えるといっても過言ではない」オヤオヤ、これは凄い書評である。田中純氏にはジルベール・クラヴェルに関する書き付けが『UP』にあるのは知っていた。ミース・ファン・デル・ローエに関する解釈から随分遠い所へ出たな、あるいは不思議な降下の仕方をしたなの印象があった。どうやら新しい本はジルベール・クラヴェルの不具の身体と、それによる妄想の実現としてのクラヴェル城に関してのモノであるらしい。みすず書房から5000円で出された。その本を読んでいないのでこの書評とたった一度ワイマールで会った田中純氏の印象から、この本を類推するしかないから、恐らく誤りであるか妄想でしかあるまいが、ヨーロッパ精神史に新たな・・・はいささかヨーロッパに遠い島国からのそれこそ妄想でしか無い。

ヨーロッパ精神史が誰によってどう書かれているのかわたくしは非力で知らぬ。が素人なりにヨーロッパらしきを東アジアの頭デッカチの知的ヨーロッパまがいの現実つまり超少数派の高踏的知識人(非大衆)の側からどう考え直してゆくかが今の日本の極く極く一部の知識人らしきが踏みとどまるべき場所ではあるまいか。

しかし、読んでみたい本ではあるが、5000円は高い。それにヨーロッパの精神史にうんぬんの本であれば、それには及ぶまいと考えた。

金持ちのアウトサイダーアートの事例として書かれているのであったら1万円でも買うけれど、ヨーロッパ精神史ではね。

新聞書評欄の田中純氏のすぐ下に『太陽と「仁丹」』という田中淳氏の本の書評がある。東京芸術大学准教授の古田亮氏の評が上記の田中純のモノの書評と比べて読んだ。田中淳はアツシと読ませるらしい。ジュンだったらもっと面白かった。この本も5000円(ブリュッケ)で厚いらしい。この本はまぎれもない美術史の研究書であるが、語り口は平明で専門外の読者も十分についてゆくことができるとある。

それなら読みたいが、5000円は痛い。でも田中純のモノに隣り合わせでこの本の書評があったのは新聞を読むダイゴ味であった。

1070 世田谷村日記 ある種族へ

10時前大学会議室。今日は初めて京王線、丸ノ内線、副都心線を乗り継ぐ新ルートで大学迄来てみた。新宿三丁目への長い地下道がうっとうしいから、別のルートを試してみた。地下鉄ホームを歩かねばならぬのは別として歩く距離はこちらの方がだいぶん短くて楽だ。地下鉄はわたくしにとっては迷路と同じで、まだうまく乗りこなせない。

10時修士計画発表会。昼食をはさんで18時過ぎにXゼミナールのため少しを残して去る。1、2非常に興味ある作品があった。できればきちんとサイト上でクリティークしたい。

18時半新大久保近江家、鈴木博之、難波和彦両先生とXゼミナール。わたくしは修士計画発表会のために出席できなかったが両氏は本日丹下健三の東京オリンピック屋内体育館の見学会に出席し、その報告等を聞く。広範な話題で興味深く楽しみを尽した。21時前迄。22時世田谷村に戻る。

翌2月9日7時離床。

9時隣りの烏山神社へ。志村棟梁の志村稲荷神社の初午の会。志村一族が集る。9時半神主来て稲荷で祝詞、わたくしも末席にて奉納柏手を打つ。おはらいをしてもらい了。焚き火をゴーゴーと焚く。周囲の住民がカメラを持って飛び出してくる。焚き火をする悪い奴等を写真に撮って通報するの形だ。でもどうやら神社の神事の一部らしいとわかり、とぼけて風景写真を撮る振りをしていた。下町中町上町総代それぞれ13名、総勢39名が氏子代表との事。焚き火にあたり、油揚げを七輪の火で焼いたのをいただく。美味なり。これを喰べると長命なんだそうだ。色々な話しを聞く。

11時過赤飯の折詰めをいただいて世田谷村に戻る。焚き火の煙の匂いがコートにしみ込んだ。良いひとときを過した。

1069 世田谷村日記 ある種族へ

10時大学、修士論文発表会。4名の発表を聞く。12時前終了。

研究室に戻り雑談他。14時過烏山宗柳。途中京王線車中でアニミズム紀行8を書き継ぐ。15時過世田谷村に戻る。東京新聞が届いていたので鈴木博之コラム「坐漁荘の樋」を読んで、感興のおもむくままに何やらを書く

16時過終了。研究室に送信する。

23時前家人が買ってきた岡山名物祭ずしを食べる。アニミズム紀行8を書き継ぐ。岡山の桃太郎伝説はアニミズム物語りだろうが、祭ずしの桃の形をした弁当の解説は、藩主池田光政の倹約令をかいくぐって商人達がばら寿司に金をかけ、寿司一升、金一両であったとの平凡極まるつまらぬ解説である。桃から生まれた桃太郎なんだからもう少しおいしそうな嘘を書けばよいのに。

24時小休する。アニミズム紀行8は伊勢神宮に辿り着きつつある。アニミズム紀行5の表紙写真がようやく生き始めている。ゆきつもどりつの旅である。

翌2月8日7時に起きる。新聞を取りに出たら寒い。天気予報では今日は昨日よりも5℃くらい気温が下がるそうだ。

今日と言うべきか深夜に『建築における「日本的なもの」』磯崎新、の再再読を終えた。

再再読と言うべきか数次の読破と言うべきか、わたくしの頭の自己編集力の非力故だろう、一、二度読んでも頭に入らない。今度の勉強でようやく磯崎新の考えがどのように展開して、とどのつまりは何を何のために書こうとしているのかがようやくわかるようになった。作家論・磯崎新を書き進めている蓄積らしきもあるだろう。

コルビュジェとクセナキスの関係が微妙であったのと同様に、丹下健三と磯崎新も実に微妙な師弟関係であるのが、ほぼ理解し得た。日本的なモノ、の隠された意匠の鏡らしきは天皇であり、天皇制である。そしてそれは少し計りスパークして師丹下健三の才質そのものの性格、構造にダブっている、が磯崎の奥深い才質の底でつぶやき続けていることの一つだ。

わたくしのアニミズム紀行8もようやく、アニミズムの内核に接近しつつあり、伊勢神宮の問題に入っている。

8時40分には世田谷村を発たねばならない。今日の修士設計の発表は楽しみたい。どんなことを若い連中が考えているのか、あるいは考えてもいないのかを感じ取りたい。

1068 世田谷村日記 ある種族へ

雪降る中を11時研究室。ときの忘れもの綿貫夫妻来室。具体派展の打ち合わせ。最終形式をととのえた。郵便物が届き開けてビックリ。決めた計りの内容の話を壊しかねぬ内容が送られてくる。16時世田谷村に戻り対応策を立てる。素速く、着実に動かねばならない。美術のやり取りの世界は油断大敵である。

21時過、諸々の連絡のやり取り、一応上記の対応をする。23時半読書等をして休む。良く眠り2月7日6時目覚める。うっすらと雪が残っている。

昨日の日経夕刊に民俗学者の赤坂憲雄さんが、自然と人の境界再考を、と話している。

50年後に8000万人迄日本の人口は減少する。今の海岸線は1億3000万人を設定してつくられている。再考を要するという正論である。今、山村の人々は「山が攻めてくる」といっているらしい。熊やイノシシや猿といった野生動物が人間の少なくなった森と山里の境界線に出没している。海においても大津波で崩壊した堤防の内側に潟が出現してアサリが生殖するようになったという。潟は海の入会地で、入会地は傍らに暮らす人々にとってはよりどころであったというものだ。生態系としても注目に価する意見である

わたくしの考えているMAN-MADE NATURE にとっても実に参考になる。

久し振りに切り抜いた。民俗学者らしく平凡な常識のようだが、実は皆はそれをうまく考えられないでいる。

9時前、世田谷村発。今日と明日はそれぞれ修士論文、修士設計の発表会である。

1067 世田谷村日記 ある種族へ

10時半過研究室。ドイツにどうやら滞在中のN先生より連絡あり、一年程前よりあったインドでの国際コンペへのプロポーザル4名の中に選ばれたとの事である。インドの古い時代の場所での仕事はやってみたかったので嬉しい。もう駄目なのかとあきらめていたので余計に夢がふくらむ。

11時より研究室定例。世田谷でのプロジェクト、Iアパート他を打合わせする。依頼小原稿いくつか書き、N社長と打合わせ。世田谷式ソーラーの開発はやはりそんなに簡単ではないようだ。でもやる気。18時前新宿味王。30分程して飯田君来る。ナーリさんをしのぶ花見の会の相談。他人はどう言おうといい男だった。欲得では動かぬ人間であった。飯田君+αでしばし飲みかつ食う。わたくしのカゼも完全ではないがこれで吹き飛ばれたし、冬の夜。21時過おわり別れる。22時頃世田谷村に戻る。

あっそうだ。現代俳句の巨匠金子兜太氏より、送らせていただいたアニミズム紀行5、7へのていねいな礼状が届き恐縮した今日は。

翌朝5時起きる。家人が早朝から出掛けるので見送り。雨は雪になるとしきりにラジオがいっている。新幹線は動くのかな。何故だが昨夜はほとんど眠れていないので長い1日になりそうだ。

アニミズム紀行8を書き続く。

9時40分世田谷村を発つ。又、雪である。これは積るな。

1066 世田谷村日記 ある種族へ

明け方妙な夢を見たのを憶い出している。会った事もない剣持昤氏と会って彼の後の仕事振りを見て廻った。後のというのは剣持昤はヨーロッパで自動車事故で若くして亡くなっているからだ。わたくしの20代そこそこの頃のヒーローの一人であった。

中途は省く。剣持昤は是非見せたいWORKがあるとわたくしを近くの山中にさそった。山中といっても都市からほど遠くない場所であった。

大きな集合住宅団地のような、しかも帯状に長い集合住宅の仕事があった。緑の斜面に見事に斜面と共生していた。ル・コルビュジェのマルセイユのユニテ程には美しくないのが剣持昤らしくて良かった。

アニミズム紀行8を書き進める。今日はいままで書いた40枚程を研究室に渡してデータとして打ち込んでもらう。9時半世田谷村発。

1065 世田谷村日記 ある種族へ

一夜明け2月4日早朝アニミズム紀行8を書き進め、古い原稿に手を入れる。

アニミズム紀行5の表紙、タクラマカン砂漠の地下墳墓がようやく生きてきた。いよいよである。10時小休。朝食をいただく。

引き続きアニミズム紀行8を書き進める。16時一段落小休する。

半分位迄書いたので目次をつくり流れを整理するが、うまくゆかない好奇心のゆくままに書いているのだから仕方ないけれど、やはり流れに手はいれなければならない。

文章は流れているのだけれど目次(インデックス)のつけ方が我ながら上手ではないのかもしれない。気取りがあるのだな。

21時全てに一段落、今日は夕方ソファーに横になり3時間程熟睡した。

市川団十郎が亡くなった。若い頃は大根役者だったがと言ったら家人ともめた。大根だったけれど立派な堂々たる人間となったと言いたかったが中途で聞く耳を持たなかった。

難波和彦さんがXゼミナールに寄稿している。理路整然としているが、構造設計家の思考過程とダブルな。昨日見たシベリヤからの長距離飛行の鳥の美しさは構造設計家的頭で産み出せるのかなあとも疑う。

いずれカツンカツンとピンヒールの音のようなやり取りをしなくてはならないのだろうがいささか気が重い。

書きそびれていたけれど、白鳥の飛ぶのを見て、山口勝弘先生の作品群イカロスを想った。太陽に近付きすぎて墜落した羽を持つ人間。そして、かつてカトマンドゥでお目にかかったヒマラヤ越えをするツルの群の映像をとりたいと執念を燃やす女性がいたのも思い出す。ヒマラヤを越えるツルの群は日本のマナスル登山隊がその光景を見たのが初めて(日本人としては)だったらしいが、ボーイング747の飛ぶ高度と同じをツルは飛ぶ。気圧調整、体内温度、血液の循環などはどのようになっているのか気の遠くなるような未知である。

しかもインドでの上昇気流にのって8000メーターをこえる高度まで上るというのだから、地球の気流も良く知り抜いているようだ。ツルや白鳥の飛ぶ姿の美しさは機能を超える如くの高みを人間達が感得しているからに他ならない。

一夜あけて2月5日、7時頃に離床する。適当に雲もあって穏やかな空模様である。今日は終日まちで働く予定。

1064 世田谷村日記 ある種族へ

6時半離床。昨日よりは寒いが晴れている。すぐにアニミズム紀行8の書き進めと読み直し。何とか2月中には8号を書き上げたい。ようやくアニミズムの旅の出発点に入った。これ迄は助走期間であった。7号迄の読者には多段式ロケットの旅だからそろそろ身軽になって奥へと入り込みますと言い訳をする。時間がかかった。いよいよ山に登る。しかも巨大な連峰である。身がすくむ思いもある。

研究室の連中が昨夜に続いて7時半に世田谷村に集合する予定。今日は一生懸命にやる。デービッド、ビンセント、マルタ、渡邊7時半世田谷に来る。昨夜中に車に荷を積み終えていたのですぐに出発。首都高はガラガラで快調に飛ばす。9時に真栄寺着。無理を言って頼んだ朝食を全員で庫裏2階でいただく。昭道住職、弘道副住職、他家族の皆さんにあいさつ。腹ペコだったので美味だった。予定通り10時子供達への話しを始める。仏教伝道協会の方も見えて下さった。先ず昭道住職の話し。子供達は40名位か、親御さん含めて総勢70名位である。次に子供達、住職に唱和して読経。ここは浄土真宗の寺院である。子供達の澄んだ唱和の響きに驚き、感動する。子供達の読経を体験したのは初めての事である。時々、信徒さんの子供に読経を教えているのだと言う。

続いて紙芝居の演者の自己紹介をそれぞれの国の言語で。ドイツ語、スペイン語、日本語と続く。わたくしのあいさつ、かしこまって聞くことはない。寝ころがって聞いてもいいよ。

そして、花と鳥の小さな旅の紙芝居に入る。わたくしもいささかリハーサルをしていたのでマアマアの翻訳出演であった。月並みだが外国人の演技振りは堂に入っている。

11時頃紙芝居は終る。

子供達もお母さんお父さんも聞いて下さった。渡邊大志がコンピューターとカメラを操作して世界中にネット放映する。

それから持参のコマ、ケン玉で本堂内で遊び大会に入る。みんな実に楽しそうに遊んでくれてこちらも満足である。

11時半、真栄寺のふるまいのぜんざいが全員に。甘くっておいしかった。小さな女の子たちの元気振りが眼につく。ピョンピョン飛びはねているのはみんな女の子だ。御信徒からの差し入れのアゲモチもいただく。その後子供達からデービッド達への質問大会。それぞれの国の食べ物の質問、他多くの質問と答えのやり取り。

予定通り12時終了。欲しいという子にコマやケン玉をあげる。宮崎現代っ子センターの子供達が作ったダンボールの大きな人形も2体欲しい子にあげた。あーあ良かったねと終了。バイバイと手を振って別れる。

少し休んで皆で車で30分程の本埜村にシベリヤからの渡りの白鳥を見にゆく。たくさんの白鳥やカモが田んぼに張った水に群れている。空を飛ぶ姿が実に美しい。格好いいのである。流石に長距離を飛ぶ白鳥の飛ぶ姿は良いなあと皆で感動する。本埜村の方々から焼きイモや甘酒の差し入れもあり、色々と話しが弾んだ。わたくしはここは3度目。

「2011.3.11の前の日にここの白鳥が全部居なくなったのには驚いたよ、この連中は賢いね、人間より」

でも福島の上空を恐らく飛んで今年も来たんだから、希望は捨てないで良いと思う。

「白鳥が又、皆いなくなったら、すぐ電話して下さい」の昭道住職の依頼に皆真剣にうなずく。大地震予知は白鳥に聴けという事だ。人間達の小賢しい科学の射程よりも鳥の本能がはるかに空の上という事でもあろうか。

昔、たしか法然が言った「山川草木皆響きあり」のひびきというのを鳥たちは感得し続けているのやも知れぬ。

16時にエサを与えるので白鳥たちが周囲1km圏から皆戻り始めた頃、我々も名残は惜しいがお別れとする。昭道、弘道親子と田んぼのあぜ道で別れて長駆東京へ戻る。

研究室に荷を戻し、皆と烏山へ。そば屋宗柳で今日の打上げとする。ナイスデイと20時散会し世田谷村に戻る。良い一日であった。

本日の真栄寺での子供達への我々の考えを伝えようとする試みで、随分色んなことが自覚できた。

世田谷クリーンエネルギー諸計画への石山研および世田谷村の参加の仕方、鉱石ラジオ方式のエネルギーキット、Iアパートプロジェクトそして世田谷式住宅や世田谷型保育園、子供達の生活圏再考を含めて、神社寺院のリアルな社会性へといったWORKイメージがわたくしなりにハッキリしたのである。勿論、これらは世田谷村の第二段階の都市プロジェクト、我々の言葉で言えばMAN-MADE NATUREプロジェクト群の大きな一角を占めるものになろう。

今夜から早速、子供達に見てもらった紙芝居を大人たちにもわかるように再構成する。

明日2月4日に今日の真栄寺での子供達への物語りと、昨年12月に行った世田谷区民センター前広場の祭りのつくり出した出来事、そして2月9日の烏山神社での小催事の始まりを一軸にまとめて、さらにささやかに発表する事にしたい。

ほんの少しではあるけれどもアニミズム紀行の旅との脈絡も視え始めて、胸をなでおろしている。

1063 世田谷村日記 ある種族へ

夕方世田谷村に戻ったら研究室からXゼミナールに鈴木博之さんから「ピンヒールと赤い底」の返信があったと全文を送ってきた。だから鈴木博之にはどんな時でも油断大敵なのだ。まだ鈴木博之の東京新聞夕刊1面コラムは連載4回だ。あと20回は続く。その全てに反応しようと決めてはいるが油断していると本当にアキレス腱を蹴られて切断されてしまうやも知れぬ。

急いで応信を書き研究室に送付する。

21時前、サイトにXゼミナール鈴木博之とわたくしのやり取りがONされた。

デービッドから連絡あり明朝だけでは荷物(仮面その他)を運び切れぬので今夜世田谷村に運び込むとの事。そんな小道具が多かったかと驚く。随分色んな小物を作っていたからな。

明日は朝7時半に世田谷村を発つ予定。

1062 世田谷村日記 ある種族へ

明日2月3日は我孫子真栄寺での子供達への紙芝居ライブである。花と鳥が主人公のキレイな大気と太陽の恵みの話しであり、実は3.11福島原子力発電所の崩壊による大気汚染の話しでもある。明日10時に真栄寺にいらっしゃれば誰でも見聞きできる。

お汁粉もふるまわれるそうだ。いらっしゃい。

早朝世田谷村の周りを一周した。屋上にのぼる。昨夜の風で屋上からモノが飛ばなかったかの点検である。空模様は南西から北東へと動きが急だ。

中国大陸北京の空気の様子が報道されていて、この汚れの固まりは東へと動くなと自然に考える。北京の空みたいだな、今朝の空は。だからと言うのではないが思い立つと烏山神社にお参りする。地球全体の空気の流れは、コレワ神頼みするしかない。

恐らく烏を含めた鳥の神であろう。気温は高いようだ。

烏山神社は白山御嶽神社の名が前身で西の白山の女神が主神である。お賽銭をあげなかったので後でほうり込みにこなくてはならない。志村棟梁のところの稲荷神社にも廻った。神社の石の鳥居は東の鳥居が明治6年、北の鳥居が昭和32年の創建である。

ようやく身体が復調し、少し鼻がグズグズするだけになり、脳もうごめくようになった。昨夜、作家論・磯崎新40がONされて、それを少し手直し追加作業をした。書いて初めて、これからの旅程の一部が視えてきた。これで少しは先にいけるだろう。アニミズム紀行8もテクテク歩いている。アニミズム紀行7までのわたくしの読者には、アニミズム紀行8に於いて初めて少しの地図が示されますと伝えたい。チリヂリの断片のまんまに歩いていては、読者も???なのであろう事くらいはわかる。でも???がなければわたくし自身に書き、描く意味がない。今しばらくお付き合い頂きたい。少しは先がようやく視え始めました。

今日2月2日は昼に西調布にゆく他は何もなし。世田谷村でささいなWORKをつづけたい。

1061 世田谷村日記 ある種族へ

9時過奈良の渡辺豊和さんに電話するも不在。図書館に行っているとの事であった。尋ね人不在。こういう時が又良いのである。勝手な想いを飛ばせる。日本の建築家には稀な知的存在である。しかし書き続けている書物群が古代史、中世史の事実の上に空想されているので、素人ならずとも??が湧き出る部分が少なくはない。何故なら我々は皆初歩的な島国日本の歴史観、断片的知識を少なからず身に付けてしまっている。いわゆる実証的な歴史学に乗った、それでも微妙な観念である。渡辺豊和さんも実証的であろうと努めるのだが、同じ資料を基にしても頭の中により大きな観念=幻想が巣くっているから、資料を失礼ながら堂々と誤読するきらいがある。

しかし誤読にも真理はある。全ての過去を人間は正確に記憶する事は不可能だ。やはり何処かに不精確な想像力が働くのである。不精確な想像力は創造の正体そのものでもある。

こんなに朝早くから恐らく図書館の開館を待ちかねて出掛けたのであろう。 奈良は底冷えが厳しい。白い吐息を吐きながら何やら思いついて恐らくはブツブツ言いながら歩いているのやも知れぬ。渡辺豊和さんはもう建築設計界は卒業したと思っているに違いない。

わたくしも渡辺さんの今は自由自在に想像力を飛行させる今のスタイルが一番適していると勝手に考えてもいる。

時々尋ねてみたい事が生まれる。年に2、3回かな。そうすると奈良に電話する。大方、散歩か図書館で不在である。渡辺豊和の幻想力は日本人には珍しく本物である。たとえ間違いを犯していても、本物なのである。

10時、小休朝食をとる。

世田谷村日記