2013 年 3 月
- 1118世田谷村日記 ある種族へ
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11時前京成電車車中。C.Y.LEEの仏教伝道協会での講演会を来月の彼の来日中に可能かどうか打診(双方に)させるように空港から連絡したい。日本仏教界の現在の対中国での友好関係に果すべき役割は大きい筈だ。又C.Y.LEEに台湾の媽祖集団の中国本土との政治的関係も聞かせたい。この2件連絡したい。
只今、ベトナム時間19時過ぎ。ソウル国際空港を18:40(日本時間)過ぎ発ち、2時間程飛んでいる。今朝このメモに記した事は伝達不能であった。昭道住職の名刺らしきを成田空港で作ろうとしたり、著書を送らせる連絡をしたりでバタバタした。宗教家はやはり現世の事にはうとい位が良い。微に入り細にも入って諸々を伝えなかったわたしが悪い。一万人程の集会で読経をするのが住職の役割なのだが、日本の仏教界を代表してもらう事には変わりはない。アト3時間程でダナンに着くがスケジュールのディテールは再確認しなくてはならない。住職はベトナム仏教界との交流に的を絞っていただいた方が良いだろう。
22時前ダナンまで20分程である。満月が飛行機の翼に光の影を落としている。22時過ダナン空港着。中村さん迎えて下さる。TAXIでマグノリアHOTELチェックイン。すぐ横になるも眠れず。部屋は角部屋で冷房がきいている。
翌3月29日朝食をすませ8時ロビー集合。ダナン人民委員会訪問。旧知のヒュウ氏等と会う。ヒュウ氏は副局長に昇任していた。ホテルに戻り、向いの街角のコーヒーショップで、馬場昭道と話す。やはり同道して良かった。極めて具体的にダナン精神文化公園内日本寺の建設アイデアが浮かぶ。昼食後昼寝、スケッチを数点得る。ヒュウ氏とダナン市五行山と湾を挟んで反対側の巨大寺院へ。見学後五行山文化総合公園管轄の五行山観音寺へ、ビン住職他と再会。馬場昭道、ビン住職会談。終了後ホテルに戻る。19時ロビー集合。奇縁としか言い様がない。馬場住職旧知の公益法人日本ユースリーダー協会常務理事・堀添英人氏と会う。中村さんとダナンで何かと一緒に活動との事。馬場住職は数年前堀添氏の父親のお葬式を東京で執り行ったり、亡くなる間際の言葉を聞き取ったりの縁であった。一同縁だナアこれはとホトホト感心する。わたくしはこのような縁で結ばれていたらしきに意味を見たがる性向は無いのだが、これには驚いた。たまたま中村氏が車の中で堀添氏とケイタイで話している、ホリゾエの名を聞きつけて、そのホリゾエさんは宮崎の・・・となり、再会となった。坊さんはどうやら殊更に耳ざとい者でもあるナア、と驚いたのである。レストランのTVに観音寺での我々が登場していた。大きな祭りなのを知る、ホテルに20時半帰着すぐ休む。
翌3月30日、朝3時過目覚め、何日分かのメモを記録する。スケッチに没頭していたので言葉を書きつける時間がなかった。五行山精神文化公園の具体的なプログラムらしきを発見できたのでエスキス、スケッチもリアルになった。又、東京から持参した唐桑計画が思いもかけず好評で、来年の五行山観音祭りは七福神と宝船の祭りをやりたいとなった。
仕事というものは奇妙な動きをするもので、自分だけの思惑を外れたところで思わぬ受けとめられ方をして、独り歩きするものなのを知る。
今朝は5時にロビー集合で、どうやら僧侶達と同道のバスで五行山に出掛け精進料理の朝食後、大読経の会となるようである。自分と離れたところで大きく動き始める予感がある。
ベトナムに持参した本2冊は一頁も読めていない。本からも離れることができて実にシンプルな日が過せている。
5時過五行山観音寺へ発つ。まだ明けやらぬ中多くの参拝者が参道をあふれさせている。観音寺に着いて僧侶達と精進料理。観音寺住職と再会。昨日会った共産党ダナン地区のお偉方もみえている。大テーブルに高僧、お偉方達と同席。馬場住職に「偉そうにしていろ」と小声で。
やがて沢山の傘の行列となり、傘の下に高僧達が。馬場住職は三番目の位置取りとなる。行列は建設中の寺の外に出た。驚くべき人の数の中を進む。わたくしも何故か行列の中にまぎれ込む。階段を上り、ファンファーレまで鳴り渡る。楽隊までついていた。数万人の観客の中を進み、子供達に紙吹雪をまかれる。馬場住職は山の高みの上座へ。やがて式が始まる。2時間程で式終了。再び大観衆の中、山を降りる。
マグノリアホテルに戻り休息、近くで昼食の後、ダナン大学へ。学長に表敬訪問。
馬場住職と堀添氏共々夕食。堀添さんは浅草在住で飯田家も良く知っていて、今度浅草で会おうとなった。21時ホテルに戻り休む。
翌3月31日5時離床。メモを記し、全体プランの練り直しとメモを記す。8時にロビーで集るのでそれ迄にまとめたい。又、今度こちらでお目にかかったらsteel breathの富岡にも会って頼み事をしたい。7時熱い風呂に入り一休み。今夜の便で帰るが飛行機の中でしなくてはならない事が多い。午前中は装飾ミュージアム、博物館に馬場住職と出掛ける予定とする。
- 1117世田谷村日記 ある種族へ
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5時離床。渡邊、佐藤より送信されてきたエスキススケッチに手を入れる。初動段階のエスキスへのオリエンテーションなので重要な作業である。マアマアのWORKができた。6時終了。ベトナム行の荷をボチボチ作り始めながらメモを記す。
寒い朝だ。ベトナムは35℃というから随分な温度差でいささか身体が心配である。マア僧侶が一緒だから倒れたら倒れたで何とかなるだろう。何ともならないかコレワ。ダナンでのスケッチ作業に備えて筆ペンその他を用意しながら、出来るだけ道具は少なくしなければと思う。沢山道具を用意しても大半は使わないのをすでに知る。捨てるは決めるに等しいのである。
昨日は4時に起きてサイトを全てチェックした。自分では大方うまく動き始めていると思っているが、他人から見ればコレワわからない。インデックスの色を変えたらと指示したら全部の地の色が赤になっていて読みにくい。インデックスの地の色ではなくって文字の色を変えたらどうかと言ったのだが、これは指示の仕方が悪かった。でも文字の色がベタでわかりにくいので色を変えてもらいたい。
何となく、具体展のカタログとインヴィテーションカードをベトナムに持ってゆく事にする。東京に帰ったら展覧会は終了しているが、ダナンでは人民委員会のトップ、そしてベトナム仏教会のトップにお目にかかるので具体の連中の絵はピッタリだと考えた。全体主義と仏教がきちんと折り合っているの現実は中国も同様であるが、あれだけの装飾美術館をもつダナンだから、理屈抜きの現代美術もわかる人間がいるのではないか。
マ、しかし共産党のトップと坊さんのトップに具体派を売りつけるのに相当な度胸がいるな。
9時20分世田谷村を発ち成田へ。
- 1116世田谷村日記 ある種族へ
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7時前離床。パスポートを探した。あって良かった。今朝は又寒い曇天で昨日の花見がホントにもう夢のよう。
我孫子の馬場昭道に電話して明日の成田空港で昼食を共にしようとなる。ヴェトナムダナン迄韓国経由の長旅である。
昨日、3月26日の花見は盛会であった。モヘンジョダロ—ドリトル先生動物園倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ参照—の一隅の桜の古木の根かたにブルーシートを拡げて弁当を用いての宴会となった。
15時了。その後地元議員に紹介されて濱田和夫さんに会う。つぼ八居酒屋を展開している人で町づくりにも関心を持たれている。
ヴェトナムに店出したら、と愉快な気分で話し合う。
フッと考えてみれば決して短くは無い馬場昭道との附合いで旅らしい旅を共にするのは初めてなのに気付く。彼も佐藤健との縁で知り合ったのだが、健とは旅だらけな附合いだった様な気がしてならなかったけれど、良く良く考えてみればここぞの旅は最期のシルクロードだけであった。頑健な身体の持主だったが、死を覚悟しての、旅先で死ぬかも知れない位の旅でもあった。馬場昭道は成田まで見送りに来た。もしや、の気持もあったのだろう。明日からはもしやと見送った昭道との旅である。不思議としか言い様の無い縁で日本仏教界との附合いが深くなりそうだが、みんな健と結びついている。シルクロードは半ば死を覚悟している男との旅であった。明日からは僧侶と共の旅となる。
- 1115世田谷村日記 ある種族へ
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8時半離床。昨深夜「週刊読書人」の磯崎新・苅部直対談を読んだのでいささか寝過した。苅部直は日本政治思想史専攻の東大教授である。適確に鈴木博之の推薦文を取り上げ辰野金吾、伊東忠太、丹下健三、安藤忠雄という鈴木博之の近現代史観に磯崎新を伍して位置付ける事は不可能だとの指摘に注目している。
対談の全てはこの指摘を中心に巡っていると考えて間違いなかろう。磯崎新、鈴木博之共に思惑通りであったろう。
磯崎新は自分のとりあえずのライフワークとしての著作集が論争含みの話題にする発火点を得た点に於いて、してやったりと思っただろうし、鈴木博之も又自らの近現代建築史観を磯崎新を素材として言い切る、これも又、とば口を得た事から。
わたくしの作家論・磯崎新2章も又、「Xゼミナール」に於ける鈴木博之の指摘である「何故、R.B.フラー論でなく、俊乗房重源論でなく、磯崎新論なのか」に応えなくてはゼミナールの意味もないなと、遅ればせに気がつき、これも又、鈴木博之の言外の「磯崎評価は鈴木博之と意を異にするぞ」の意志に対面せざるを得なくなったのである。
その件は数次にわたり作家論・磯崎新2章、丹下健三と磯崎新に書き継ぐつもりだ。
ウェブサイトでの連載の長所がようやく出現したとも考えられよう。
昨日3月25日14時半M2卒業生お別れのあいさつに来る。もう会う事も無いだろう、わたくしの早稲田での師でもあった渡辺保忠ゆずりの「花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ」井伏鱒二訳、に似た事を別れの言葉とした。その後16時M社役員他来室。伊藤アパートの件で短い打合わせ。支店長は世田谷在住で世田谷少年野球のスポンサーシップも続けているそうだ。
何か世田谷で御一緒したいものですねの話となった。
本日は11時より烏山で2度目(2年目)の花見を地元の知り合い共々行う予定。天気も良く少し暖かくなってきたので良かった。ベトナム行のスケジュール表送付されてくる。ベトナムは今日本の真夏の天候である。服装に注意しなくてはならない。馬場昭道さんも正式な僧侶の服装を要求されているので大変だろう。一万人程の群集を前に読経するという大任がある。
今日の花見の席ではこの場の将来についてのいささかの協力の件をお願いするつもりではある。
雨上がりの桜はハラリハラリと散る頃で絶好のタイミングとなった。
- 1114 世田谷村日記 ある種族へ
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7時過離床。すぐに作家論・磯崎新2章、丹下健三と磯崎新2を書き継ぐ。我ながら驚くにいたったがいささか思い切った事を書き始めている。
13時45分目蒲線洗足駅で渡邊大志君と待ち合わせ、伊藤邸へ。アパート設計の経過と新しい展開についての説明をする。こうしたいの大方を提案し、概ねの了解を得る。ここ数日がひとつの山である。少なくとも小さな壁のアイデアは実現したいものだ。従来の小アパート、住宅には無いアイデアだから。伊藤圭君も交じえワインと食事をいただき、歓談。伊藤圭君を烏山神社のいきもの稲荷プロジェクトに誘う。小さな出会いを大切にしなくてはならぬ年令になった。わたくしの場合は。圭君はまだまだ長い未来らしきがあるが、それは苦難に満ちたものであろうし、伝えたい事はほぼ伝えた。伊藤アヤ夫妻も同席してワインも入り、大いに話した。帰りは烏山まで車で送っていただいた。途中実相院多宝塔の桜の花がほぼ満開である。夕暮の空に美しい。東京には神社仏閣が多い。
翌3月25日、7時半離床。曇天。寒くはない。
昨夜は深夜にアパートのスケッチを少しばかりして、小さな壁のアイデアを前へ進めた。8時渡邊君と計画のすり合わせをする。様々なアイデアを許容しながらまとめる方向にならざるを得ないけれど、その中に強い仕掛けは埋め込みたい。
11時、作家論・磯崎新第2章、丹下健三と磯崎新2書き終える。「Xゼミナール」での鈴木博之の反応は、これは書き込まねばならぬとは歴然としてもきた。
- 1113 世田谷村日記 ある種族へ
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昼、石森章氏と会い色々興味深いお話をうかがう。ドリトル先生動物病院倶楽部は、はじまりの章5迄書き進めた。夕方、一気に作家論・磯崎新第2章10枚書き終り研究室に送信する。Xゼミナールへの投稿とするが第2章以降は独立したページとして自立させる工夫をしていただきたい。その方がわたくしも書きやすい。
でき得れば作家論・磯崎新第2章のページにも毎回ドローイングを入れたいものだが、批評的ドローイングがわたくしに描けれるかどうかは定かではない。
- 1112 世田谷村日記 ある種族へ
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7時過離床。昨日は世田谷区地元議員、飲食店組合の方々と会い、色々と下ごしらえを連続させる。リアルな仕事はリアルな動きが欠かせない。
明けて3月23日かもう。月日は百代の過客なりとはよく言ったものだ。
昨深夜、井筒俊彦『意識と本質』、木田元『反哲学入門』はその根底に於いて近いと思い当たり、例によって2冊並読の暴挙に出たが、まだ歯が立たぬが、これは大事な読書になるだろう。
スケッチ、ドローイングWORKにかかる。これも「ドリトル先生動物園病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」はじまりの章—5を書くのと並走させる。9時半、はじまりの章—5、21.5枚迄辿り着く。スケッチに切り換えた。
そろそろ作家論・磯崎新の第二段階に進まなくてはならぬが、ようやく次の何やらかが視えてくれたようでもある。スケッチはお手のモノだとナメていると、どうやらこれが一番の落とし穴、ボコボコの有り様かも知れない。用心しながら進みたい。
朝食はパンと残りものですます。イチゴとヨーグルトがうまい。今日も良い天気である。
- 1111 世田谷村日記 ある種族へ
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11時より気仙沼の畠山章八郎さん、唐桑の佐藤和則さんと何度か連絡して気仙沼安波山植樹の件、唐桑の件を相談する。何とか前に進めたい。
被災地には人手も物資も不足しており、幾ら政府から金が来ても復興建設はママならぬとの事。だからこそ植樹だけでもどんどん進めたいのである。
きっと皆さんの気持にポッと小さな燈りくらいはともるだろうと伝えさせて頂いた。
唐桑はやっぱり小鯖地区にわたくしは愛着がある、小鯖にも是非とも桜は植え込みたい。公園計画が予定されているそうでそれには参加したいと申し出た。
山口勝弘先生に連絡したら、丁度葉書きを書いたところだと言う。先生の古巣の筑波に出掛けてきたそうだ。淡路島山勝工場を使った展覧会の話をする。喜んで下さった。淡路島と神戸の双方、またにかけた出来るだけ大がかりなモノをやってみたい。
山勝工場に実験工房の人達のモニュメントをピラミッドなんだそうだがつくりたいという先生の希望はトライしてみる。又、実験工房のみならず、具体の人達の何かの場として共有させられないか。あの、いざなぎの丘の上のわん曲させた土手の内は野外演劇にはまことに適しているのだが、神戸、大阪の演劇関係者に相談してみたい気もする。
- 1110 世田谷村日記 ある種族へ
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3月22日朝10時過、昨日に続きドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ はじまりの章:3 を書き続け、11枚迄きたところで休止する。
書きながらモノをつくるという、どうやらこれがわたくしには最も適したスタイルである。あとはスケッチ、ドローイングのスピードを増すことと、最小限のスタッフへの伝達方法をどのような時間の密度と、どれ程の対面時間をとれば良いのかの、いささかの実験を続ける必要があるだけだ。
やろうとしている事の大半は皆ウェブサイトにさらけ出している。公開なんて甘チョロイものではない。肉が少しこびりついた骨のりんかくまで表現している。どう読まれるかはそれは皆の勝手であり、わたしの考える事ではない。
スケッチ、ドローイングの生モノは研究室への伝達が仲々に電信では達成できぬ部分もあるがやってみるしかない。
大判のスケッチ、ドローイングがだいぶん描きたまったので、何処かで展覧会でもやってみようか、でも模型はスケッチ程自由に作れないのが良くない。
- 1109 世田谷村日記 ある種族へ
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12時過山手線目白駅からバスで椿山荘前に、東京カテドラルに着く。バスの窓から眺める目白通りは、田中角栄邸が目白スポーツ公園、幼稚園になっていたりで随分通りのたたずまいが変化してしまった。どんどん西欧化して、とどまることをしないな。でも一瞬眼に入ったスポーツ公園の光景は仲々良いデザインで決して悪くはないのだが……小さなデザインされた池もあり、カナダの小さな丘の上の光景のようである。遠くに視える東京の景観もシアトルみたいで仲々キレイなのだった。日本風な都市のシルエットなんてあろうとも思えぬがね。
その点ではイスタンブールの都市のシルエットはやっぱり凄いものがある。アヤソフィア、ブルーモスクのミナレットが風景の核を作り出していて、建築の力を思い知るのだが……。駅近くの学習院キャンパスの桜並木だけはアア日本だなあと思うのであった。やっぱり日本は建築よりは桜かと思ったり。
時間がミサまで少しあるので東京カテドラルの先ずは地下礼拝堂を視る。コルビュジェのラトゥーレットの地下礼拝堂の模写のようであったろう部分は更新されてしまったようだ。
トップライトはコルビュジェ風というよりも妙に白井晟一風なところがあり、オヤッと思った。円形のガラスブロックを通す光がしどけないのである。ガラスの固まりが光を変質させている。丹下健三がマニエリストな筈が無いのに。 地上に出て聖マリア大聖堂に入る。
内部のコンクリート打放しがとても良い。デザインの骨子であったろう天井の十字架形の大きな光の形状とあいまって、やっぱり丹下健三は強いなあと思い知る。この内部の打放しコンクリートの幾何学的洞穴状の空間に空からの十字の光を採り込むというアイデアがこの建築の全てである。
丹下健三は1964年の同じ年に東京オリンピック記念室内体育館の建築をものしており、やっぱりこの二つが頂点である。カトリックの洗礼を受けてまで、この聖堂で永眠したいと考えたのも良くわかるような気もした。
東京オリンピック室内競技場の室内光も又、空からの十字ならぬ強い軸線状の光であった。丹下健三は1960年代初期に空からの光の視線を得ていたのか。つまり、天空からの形状と、同時にそれが内部を律するという建築の一方の理想を身近にしていたとも思われる。
弟子であった磯崎新にはほとんど全くと言って良い程に見当たらぬ才質である。今、書き続けている作家論・磯崎新はやはりどうしても丹下健三と磯崎新の才質そのものの相反、そして近親性をやらねばダメだなあと思い知る。洗礼室のモダーンな彫刻は60年代の日本のモダニズム礼拝とも言うべきの象徴であろう。 サンピエトロ寺院蔵のミケランジェロのピエタの原寸大のレプリカが収蔵されているが、レプリカとは言え、このモダーンな著名彫刻家(オブジェ作家)のモノよりも余程良い。
木田元によればキリスト(カトリック)教はプラトンによる真正幾何学愛好、すなわちプラトニズムでもあると言うが、丹下健三のカトリック理解もプラトン哲学的ではあった。天井の光の十字架と内部の打放しコンクリートがその結晶である。
再び外に出て、先程より気になって仕方の無かった土地の一隅の人工の洞穴状へ向う。ルルドの洞窟であった。
フランスの片田舎ルルドの洞窟に聖母マリアが現われるの奇跡らしきのこれも又、レプリカである。1911年(明治44年)フランス人神父ドマンジェルが建てた洞窟である。洞窟を建てるという言い方はおかしいけれどそうとしか言い様が無い。
近代以前の信仰の原点である。カトリックの源泉も又、アニミズムであった事を知るのである。雨の岩戸神話と何変ることもあろうか。
13時鈴木博之さんと会い、再び地下礼拝堂へ。ネラン神父、三好満神父追悼ミサに参加。
寺西英夫神父の話しがあり、ジョルジュ・ネラン神父のお話をうかがう。遠藤周作の『おバカさん』の紹介らしきがあった。
何度か起立、着席を繰り返して、これはいつまで続くのであろうかと不安がよぎる。讃美歌がいくつか唄われ、説教という言葉は良くないが、手にした「ネラン神父を偲ぶ会」の式次第によれば「言葉の典礼」と「感謝の典礼」が繰り返された。
典123と記された讃美歌「主はわれらの牧者」の、主はわれらのぼくーしゃ、わたしはとぼしいことがない、のぼくーしゃというのは何の事なんだろうが妙に気になった。漢字で牧者とあるので、どうやら主という者がいて我々は羊みたいな輩で、主という存在は羊飼いのような者なんだと想像したり、ネラン神父はそれならば羊だったのか、羊飼いの輩下だったのか、遠藤周作は羊だったのだろうな、モノ書く羊か、などと考えていた。
205・ミサ曲、感謝の賛歌に出現する、天のいと高きところにホザンナ、とあるが、ホザンナとは何なのだろう。ボナンザという名の映画があって確かB級西部劇であったが、それとは無関係であろうと考えたりしていた。
気になって隣りで同様に起立したり、座したりをを繰り返す鈴木博之を横目でうかがったら、やはり彼も讃美歌は唄わず、唄えずかも知れぬが、手持ち無沙汰に式次第のパンフレットを操っていたのを眼に納め、唄わぬのは俺だけではないとホッとする。
しかし、祭壇に立つ諸神父他の左の壁には小さな電光掲示板があり、そこに典礼46とか、典礼123、あるいはカ2の記号が点滅するのを視ると参加者の全てが式次第を呑み込んでいるとも想えず、みんな迷える子羊なんだナアと知るのであった。
式が終り、ゾロゾロと出口へ。ネラン神父のBarエポペの知り合いと再会して、ああ良かったナアとホッとした。
地下礼拝堂を出て、ネラン神父を偲ぶ会に出席しようか迷ったが、又、ボナンザじゃないホザンナとかボクシャとかの唄を合唱するのははばかるな、とてどうやらそれにも出席するような鈴木博之を置き去りにして去った。
難しい選択であったが鈴木の積極性とわたくしの消極性が良く現われていた。
東京カテドラルの建築だけを視に来ていた加藤詞史さん、他とバスで再び目白駅へ、散会として加藤さんと高田馬場駅近くの寿司三崎丸へ。ここの味は烏山の寿司三崎丸よりは余程良いのである。今日の丹下健三の東京カテドラルについていささかの話し合い。加藤さんは典型的な早稲田出の建築家であり、その意見も実にアア早稲田の人だなあと思ったり、いささか複雑な感慨であった。しかし、彼は独立した建築家としては、早稲田にとってはかけがえの無い人ではある。
やがて、ヴィンセント、マルタ来て、明日ワイマールに帰国するヴィンセントの送別会。
ヴィンセント良くしゃべり「日本は年寄りは強いけれど、若いジェネレーションは皆弱い」の発言に、加藤さん眠っていた眼が覚めて、考え込む。加藤さんも彼等に教えるなんて甘い事言ってたら同様の子羊の群になるばかりだから、そこから一頭抜きん出ての健闘を祈りたい。
19時世田谷村に戻る。今日は色々と考えさせられた。
翌3月21日、11時昨日のいささか長いメモを記し終り、幻庵の榎本夫人に埼玉県立美術館学芸員訪問のスケジュールをお伝えする。昨日一日かけて幻庵へ出掛けて下さったそうで川をわたり準備して下さった。幻庵見学希望者は少なくはないのだが、これは今は亡き榎本基純氏の特別な記憶を含めた建築でもあり、原則としてお断わりしている。ドカドカと見学するような事はして欲しくない。
わたくしにとっては稀代のクライアントとしか言い様のない趣向の人、榎本基純の記憶が移り住んでいる。
- 1108 世田谷村日記 ある種族へ
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遅ればせながら坂田明より二川幸夫の追悼文届く。
きちんと第四番目の二川幸夫への哀悼の献辞としたい。
坂田明はあんなに速くサックスは吹けるのに追悼文は到着が遅かった。
しかし、これはあんまり速くても問題はあるだろう。
3月20日6時過離床。曇天だが寒くはない。新聞3紙に眼を通すも何も無い。事件が無いのは良い事だが、それでも奇妙な殺人やら事故は連続していて、こちらの感受性が鈍くなってしまっているのを痛感する。
今日は午後、目白の東京カテドラルのネラン神父をしのぶ会に出掛けるが、東京カテドラルを訪れるのは初めてなので楽しみである。ネラン神父は鈴木博之の紹介でお目にかかった人物だった。丹下健三のダイナミックな東京カテドラルの印象とは違い温厚で、わたくしにはユーモラスな人のように見受けられた。 ゴシック建築、バロック建築の歴史を持たぬ、持ち得ようが無かった日本のキリスト教の聖堂の小さな歴史にとって、東京カテドラルは今では異形にも視える姿のように思うが実際に視てどう思うのか楽しみである。
昨日は烏山で志村さんに会い、いささかの志村稲荷神社の聞き取りをした。
志村一族は平氏の血を継ぐとの事。又烏山神社の一偶にある伊豆雲見の高橋一族も平氏らしい。関東、伊豆半島は源氏の勢力範囲と思っていたが、現実の歴史はそんなに単純平明なものでは無いようだ。
何故思い立って志村さんの聞き取りなぞを始めたかと言えば、志村稲荷の再生計画を想い立ったからである。
再生と言ってもモノとしての神社の再生のみならず、非モノとしての、この言い方はおかしいが、ソフトウェアーとしてのと言うのはもっとおかしいので、やはり非モノと言うしかないのだ。
烏山神社、そしてその境内の小さな志村稲荷社の、そもそもの由縁を知りたかった。聞き取りの結果、これは要するにこの地区が何故烏山と呼ばれるのかに突きあたる。千歳村の烏山であった。周りには久我山、八幡山と「山」が多い。
志村さんの土地は吉良領であったとの事。吉良上野介、つまり赤穂浪士の憎まれ役であったが、実ワ名君らしきであった人物である。そして吉良の仁吉は男でござるの吉良だ。そんな話しを延々と聞いていると眼の前の小柄な志村さんの姿がどんどん大きくなって、背景に江戸の田舎の光景まで浮かび上がるのであった。これが歴史の実相だなと確信する。
志村さんの今は44才になった娘さんがある日拾ってきたのがピーちゃんという猫であり、その前は犬を飼っていたのだそうだ。昭和25年に一番下の弟さんが黒猫をもらってきたのだそうだ。黒猫は縁起が良いと言っていたら、実はこれが犬であったと言うような話が続々と続いて、こちらの頭も混乱してしまったが、要するに、カラス、カメ、犬、猫ありとあらゆる動物を飼ってきたと言う事である、つまり八百八十の神である。
そうしたら黙って大人しく聞いていた石森の章ちゃんが、うちの猫はチィちゃんだと、口を挟み出した。
石森のダンナは毎朝愛猫をつれて烏山はモヘンジョダロの遺跡を猫に散歩させられている地元の有名人ではある。
話は弾みに弾むのであった。
これは今は昔のドリトル先生動物園倶楽部そのものの日常なのではあるまいかとハッタとヒザを打つ。
それで、わたくしのとり敢えず得た結論は、烏山神社のお稲荷さんをドリトル先生動物園倶楽部の正一位大カテドラルに、より正確に言えば正一位稲荷、別称正一位聖堂にしようという事なのでした。
早速その準備にかかる事とするのでこのメモは中断とする。只今正八時十分である。10時前、それで我サイトに新連載―ドリトル先生動物園倶楽部から、正一位生きもの稲荷社へ―
はじまりの章、3枚書いて投稿する。11時過目白の東京カテドラルへ発つ。
陽が指してきて暖かくなった。
- 1107 世田谷村日記 ある種族へ
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フィリピンの田舎の広い一本道か、アフリカのサヴァンナを横切る道だったか、何しろバスがゴロリンと横になって転がっている。
子供達とヨイショとそれを起したら、バスの中から何と鈴木博之と藤森照信が転げて出てきたので、ああこれは夢なのかと知る。それで目覚めればそれだけの事だが、余程昼間の出来事がつまらないのであろう。
続きをヤレと念じたら、何と夢らしきが続いた。
中津川峡谷と覚しき大峡谷を遡行している。鈴木も藤森も一緒である。
日本の谷にしては壮大過ぎるな、遠くの高い空近くには小さくバスが走っているのが見える。さっき起してやったバスだ。
美しい湖にたどり着いたら藤森が俺はこの上の丘に住んでいるんだと言う。
そこへ登る径が崩れて危くて仕方ないので川を遠廻りしてゆこうとなる。
河原で休んでいたら突然設計の話になっちまった。
一本足の巨大木造建築である。一枚の紙片に図が描かれていて、その図に鈴木が手を入れている。「ここのところはこうした方がヨイ」とか言って手直しをする。「うまいじゃないか、ヘエーッ」とつぶやいていた。藤森は遠くの空を眺めている。「この建築は外と内が仕切られていないので建築とは言えないのじゃないか、巨大オブジェだぜ」とわたくしが文句をつけたら、鈴木が「つまらん事言うな、こうすれば良いのだ」と図にスケッチを書き込む。
巨大な木造がいつの間にか石造建築になっている。赤味がかっているからインドのアグラのファティプール・シークリに入り込んだようだが、巨木木造のグニャリと曲った一本柱の構造が残っていて、A.ガウディのコロニア・グエル地下礼拝堂のようでもある。夢にまで設計の話しが続くのは、コレワ夢らしくない。おまじないをかけたらどうやら切り変って壮大な館で催されている展覧会らしきに入り込んだ。
ここはブエノスアイレスの国立図書館が塔状に建て直されたところのようだった。少し難しい処に入り込んだかと夢の中に注意信号が点滅する。ようやくその館の地下階から脱出して、ロビーの受付に廻ったら、係の人が塔の最上階に山口勝弘が閉じ込められたと教えてくれた。
あの人が閉じ込もっているのはブエノスアイレスじゃなくてたまプラーザだろうと夢そのものを点検しなくては、ここからわたくしも出られないな。
しかし、こっちの方が余程面白くもあり、昼間はつまらんと考えていた。
3月19日7時過離床。メモを記す。
夢を自在に手玉にとれるようになったら、つまり半分位をコントロールできるようになったら面白い事が出来るだろうなと思ったり、すぐに恐らくは夢で出会った建築のスケッチをノートに書きとめた。
夢の風景のスケッチをしても何にもならぬのだ。夢の中で誰かがしているスケッチを再現するのは至難の技だろうが価値がありそうだ。
もう少し夢を操作できるようになれば良いのである。
10時芦屋の河﨑晃一さんに山口勝弘VS具体の展覧会構想の手紙を書き終える。まだ夢の続きの如くである。
- 1106 世田谷村日記 ある種族へ
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恐らく明方、どうやら夢だったらしい妙な体験をした。どなたの手になるのかはすでに失念してしまった。ハッキリと名を知っていた様な気もする。ギリシャのアテネ駅前の街の一角が模型によって復原されていた。でも、古代アテネに汽車は無かったから少しどころではなく変だなあとは思った。
白い立派な模型であった。アクロポリスの丘のパルテノン神殿は何処にも見当らなかった。アゴラも無い。でもこれは明らかにアテネなのだった。樹木も完全に作られていた。糸杉はなく、丸っこいオリーブの樹が精密に作られていて、花も咲き乱れていた。でも全てがモノクロームであった。
時間にすれば数秒なのかなあ。何もドラマチックなモノは無かったが、歴然としてアテネの模型なのだった。アテネの駅前って言うのが変だぞ、汽車も走っている筈がないのにと、恐らく夢だったろうに疑い深くなり始めた。
その模型は大判の本に掲載されたものであったから、本を間近に見直さなくてはならないと辺りを見廻したが何処にもその本は見当たらないのであった。
今日は強風が吹き荒れるそうだから屋上に上がって色々点検しなくてはならないと思いつつ、本とその模型の作者の名を探し続けた。
フッとこれは現実じゃないかも知れないの感がよぎる。でも夢でもあるまい。夢と現実は紙一重であるの俗論はもうイヤだなあとも思ったり。
それでは今のこの状態は何なのだろうかと思い始める。何故かいきなり永井荷風がボンヤリ登場して浅草辺りのストリッパーさん達とゴロ巻いていて、本当に助平なジイさんだなあ、しかしアテネはどうした。
アテネ劇場じゃないし、フランス座でもない、レッキとした作者付きの模型はどこに行ってしまったのか等とボブ・ディラン風に考えたりもした。
本当に俺は俗人だなボブ・ディランまで登場しかかるとはと、わたくしとしては珍しく内省的になった。
おぼろに風の吹く音が聴こえる。ああ、やっぱり風が吹いてきたなと考える。
目がさめたのか、さめぬのか解らぬまんまに屋上に上がる。夜半にバタンバタンと音がしていたのを確かめなくてはならない。
西の富士山も東の東京タワーも視えない。空が砂で曇っているからで、とするとコレは現実なのか。
夢だったらビルの姿に半欠けになった富士山も、ビルとビルの谷間の飾りモノみたいな東京タワーも視える筈なのにと考え続ける。
先程から、今朝からあの世田谷村日記を再開しなければナアと考え始めていて、その考えも夢なのかどうか知らぬマンマだ。
もしかしたら、この夢の外みたいな体験、夢の内ではなくって、ただ外にいて、それらを視ているような体験を記したら、再開する日記には丁度良いかも知れないと思い付く。
余程、再開が何らかのプレッシャーになっているのにちがいない。
でもやっぱり目覚めなければどおしようも無い。夢は死も同然だからと、ようやく頭脳を動かして目覚めてみせた。
まさに目覚めて見せたが嘘ではない表現ではある。
9時である。昨日の日記が川合健二の死から14年経つと記して途切れている。その間の事を記すのはもうやめようと決めた。
少なからぬ知り合いを失ってきたなあ。いよいよたった一人でやり切らねばならぬのである。助けてくれる人は誰も居ない。 さて。
- 1105 世田谷村日記 ある種族へ
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昨日は17時より青山の「ときの忘れものギャラリー」で具体展のトークを、芦屋から河﨑晃一さんをお迎えして行なった。河﨑さんとは会場で初めてお目にかかり、ぶっつけ本番のトークになったが、楽しくおしゃべり出来たような気もする。具体展をアメリカ・NYグッゲンハイム、ダラス、シカゴと追い駆けて見てこられた。又、それ等の企画展示も仕掛けられた具体のプロであった。綿貫さんのベストセレクションである。話しているうちに具体の白髪一雄さんの作品とアニミズムとの関連のアイデアが浮かんだが、これは話し出来なかった。もう少しあたためたい。
もう何年も前の事になるがパリ のルーブル美術館で美術館に関するシンポジウムがあった。そこでルーブル美術館の所謂学芸員らしきが「日本には美術が無いのに何故美術館が多いのだ」の発言があり、オヤオヤ、これが西欧美術の正体見たり枯れ尾花かと痛感したけれど、それを想えば具体の人々は良く頑張ったし、良く現在も頑張っていると思う。
具体のリーダーの吉原治良の大きな版画が一点売却済となっていた。
トークの内容はいずれ何かの形で公表されるのだろうから記さぬが、主に今回の展覧会の絵やオブジェにつけられた値段についての話であったように思う。
一度会場に足を運んで絵も当然見ていただきたいが、それに付けられた値段もじっくり眺めてもらいたい。
綿貫、石山がケンケンゴーゴーやり合って実現した値付けである。
世界中何処に出してもおかしく無いと自負している。
トーク終了後会場で小パーティー。更に流れて近くの中華料理屋で遅い夕食を皆さんと。22時頃了。23時過ぎ世田谷村に戻る。
翌3月17日、昨夜、具体展の会場で手渡された福井市のN君の小文に目を通す。ただ遠い福井から、わざわざ手渡しに来てくれたかと思うと当然ながら読まざるを得ない。聞けば昔のA3ワークショップ、早稲田バウハウススクールの参加学生であったようだ。建築にはまだかくの如きの愛好者が居るのだなと思った。
9時になって豊橋の川合花子さんと連絡する。まだまだお元気なようでホッとする。川合健二が亡くなって14年になるそうだ。
- 1104 世田谷村日記 ある種族へ
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日記らしきを記さぬ日が6日目になる。今日は土曜日で朝早くから2012年の国立新美術館の『具体−ニッポンの前衛18年の軌跡』のページを繰り、諸々を読んで過ごしている。夕方に南青山のときの忘れもので少しおしゃべりをしなくてはならぬのでその準備もかねている。
「具体」と言えば強烈な思い出がある。具体派らしい思い出でもある。
宮崎のチョーコーソーでかなり大がかりな展覧会をやるので見に来てくれと言われて出掛けた。宮崎市に超高層ビルなんかあったっけ?といぶかしんでいた。着いて案内されたのは潮光荘という名の日本風旅館だった。旅館が古くなって取り壊すので記念に展覧会をやろうとなったらしい。
潮光荘を超高層と間違えるわたくしも阿呆だが、それを詳しく説明しない人々もやはり少しおかしい。
「具体」の連中の展示が、和風旅館の各室に満載されていた。タタミの部屋にフスマ、障子の世界であるが、具体派の作品群が妙にしっくりと落ち着いていたのが強く印象に残った。
潮光荘を超高層と間違える自分自身のトンチンカンさも情けなかったが、その情無さの無念さをグッと内に隠して、旅館の部屋巡りの展示を必要以上にジックリと見たのであった。
そんな驚きにも似た間違いは具体派の人々の作品の根底にあるような気がしないでも無い。美術作品を見る側のお仕着せのモダーンな西欧からの直輸入の観念である。恐らくその変な体験が後に宮崎の現代っ子ミュージアムの設計となって現れた。
現代っ子ミュージアムの一室には白髪一雄の大きな作品が一点収蔵されていた。
部屋はタタミ敷きで、壁は馬フン紙の切り貼りであった。わたくしはその部屋で何日か寝泊りした事がある。
今想えば白髪一雄の大作と何日も同室に眠ったのであった。
まことにぜい沢極る体験であった。
和室にフトンをしいて、床の間に白髪一雄であった。
実に毎夜グッスリと良く眠れた。具体の絵は実にグッスリ眠れるのを知った。
半分こじつけもあろうがそれは具体の良い作品群に表現されている健全な精神がそうさせたのだと思う。
瑞々しい、溢れるばかりの作品の生命力が、和風の部屋の特に素材と良く合うのだ。木や草や土と実に良く合う。それは具体の作品に表れているアニミズムの深奥だったのではあるまいか。
- 1103 世田谷村日記 ある種族へ
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無い頭を振り絞る事は出来ぬので、少しばかりブラブラとただ振ってみて、木田元先生の言についてもう少し考えてみたい。二川幸夫が死んでの空白の只中である。考えるには丁度良い時でもあろう。
木田元先生とほぼ同年代の、我々がそう呼んでいた高山建築学校哲学御三家は生松敬三、木田元、小野二郎であった。丸山圭三郎先生もお見えになったがすぐに亡くなられた。何しろこの学校は哲学者殺しの場でもあった。なにしろ校主の倉田康男が東京高校(旧一高)あがりの典型的岩波教養人であった。だからもう純情な哲学コンプレックスを抱えていて、それで若きウェルテルの悩み状の中で飛騨の高山の山中に私費を投じて私学校を開設した。そして教師陣の哲学者たちは木田元先生を除いて皆、若死にしてしまった。哲学の怪は時に短命であると間近に知った。木田元先生だけ生き残った。先生は戦争がも少し長引いていたら特攻隊で死んでいたろうし、それにも生き残り、闇屋としてもしぶとく生き延びたのであった。
小野二郎は生松、木田両先生が高山建築学校に毎夏来て下さり、これはイカン、もう少し建築というよりも現場の運動感覚を身につけた奴を引っぱり込もうと考えて、引っぱり込まれた。
小野二郎がもう少しだけでも生きて下されば、わたくしにも何か少しは怪が開けたかも知れぬと思うことがあるが、それについてはジックリ、次に考えてみたい。
生松敬三は思想史が専門であった。哲学御三家の中では一見一番健康そうに見え、話は明晰であった。歴史家だからか。そしてジュリーこと沢田研二の唄を好んで歌われた。カラオケが流行する以前の時代で、木田元、生松敬三組はそのカラオケ好きに関してはプラクティカルに先見の明があった。木田元先生は古びた廃校の急ごしらえのステージで、マイクなどありもしない、どうもこれでは気分が出ないとて紙を丸めてマイク代わりで、少しサビのある声で熱唱なさった。
歌う哲学者をわたくしは初めて目の当たりにした。
本郷の近くであったかどうか、どこかのBARで熱唱合戦もあったが、何となく一番唄いそうな小野二郎だけは唄はダメだった。仁王立ちのまんまボクは歌えないのだと、固苦しく弁明するのであった。
後にその小野二郎から柄谷行人を「コイツは一番生意気な奴だからな」と紹介されたが、その柄谷は中上健次とカラオケの友であったらしく、歌そのものは生松敬三、木田元がはるかに上であった。柄谷の歌は記憶に薄いが、マア下手だったに違いない。
歌唱は言語による論よりも、余程難しく、時に世間に役立つ風な事もあり、柄谷は木田元程にはあんまり実際の、つまり現実と哲学は結びにくい事を知りながらも、その現実をうまく肉体化出来なかったので、NAMの運動も原発反対のデモらしきも、あんまり格好の良いモノでは無いママである。
要するに知識人らしきには強いが、民衆にはカラっきし弱いのである。
- 1102 世田谷村日記 ある種族へ
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二川幸夫追悼の空白ではあるが、すぐには外には出さぬ記録だけは記すことにする。もう自動的に身体がそうなっている。
哲学者の木田元先生から葉書きが届いた。『反哲学入門』を読んだ感想への返信である。
「いまごろになって石山さんにほめてもらえるなんて思いもかけなかったので、うれしさもひとしおです。」と書かれているのを読んでギャーッと絶叫したくなったのであった。わたくしも、鈴木博之も20代に先生の教えは「高山建築学校」で受けていた。鈴木はいざ知らず、わたくしはその説く事というよりも、説こうとしている何者かの位置らしきさえ解らぬような馬鹿者であったから、哲学者らしきは実に高等遊民そのものであるな。世の役に立たぬ人の典型だコリャ。位の低級な感慨しか持たぬのであった。
しかし木田元先生の最近の『反哲学入門』を読むと、ここに書いている、つまり述べている内容は、どうやら木田元先生の50代の超えてから辿り着いた見識のようで、そうだとすれば我々が先生の声に接していたのは先生の40代半端の頃の声であったから、まだ反哲学をクッキリ説き起こすまでの年齢ではなかた、モヤモヤの生煮えの頃であったのかも知れず、そうだとしたら木田元先生が立派な人間なのだと言うのはまだ解らぬとも仕方なかったやも知れぬのである。と、この期に及んでまだ負けおしみを言うのである。
木田先生は今85歳との事。「生きていれば生松も、倉田康男も、小野二郎も、今年85歳になる計算」とある。諸先生皆、高山建築学校の先生方であった。「博之さんもご活躍のご様子———お二人とも、もうご定年といったところでしょうか」と計算も確かだ。
「近ごろ高山建築学校のことを思い出すと、「落武者」とか「落人」という言葉を連想します」とある。木田元にして初めて言える言葉である。俺も鈴木博之も時が経てば一介の「落武者」として忘れられてゆくのを知るのである。二川幸夫だって「ポルシェで何千キロ走り続けた」を恥じらいもなく広言できる元気さの固まり、元気のラードであったが、死んでみれば彼も一介の落武者だな。落武者の言葉の響きが持つモノの哀れさがないだけだ。
確かに高山建築学校は落武者の巣ではあった。日本の近代文化自体が実ワ落武者なのだがそれは惜く。それを言っちまえば、三島由紀夫になっちまう。何との戦いの落武者だったのか、木田元先生に尋ねてみたい気もするが。
「一の谷の軍(いくさ)に敗れた平家の落武者みたいな」とあるが、反哲学の哲学者の言葉はより異様に響くのである。
落武者の反語は何か?
勝武者の言葉は無い。少くともわたくしには縁遠い。それは世間であろうか。世間という名の凡庸の壁にも見える日常の連続だろうか。
人間の死は殊更に今でも連綿と落武者を生み出し続ける日常をさめざめと透視させるが----思考はその先に行かぬ。
- 1101 世田谷村日記 ある種族へ
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14時半アミニズム紀行8、100枚のはじまり迄辿り着く。一息ホッとつく。
志村棟梁より、烏山神社の土地の件どうやら前へ進められたそうだと聞く。
二川幸夫、急逝の報届く。仰天する。
明けて3月12日、13時前までかかって二川幸夫追悼の小文を書き、ウェブサイトに投稿。これをもって一週間程サイトは閉じる。二川幸夫からアレは良くないからヤメロと言われていたのを痛切に憶えていたが、生前は意地を張り続けた。
でも一理あるなとも思い続けていたので、これを機に休ませていただく。
一週間経ったら、又、再開するかもしれぬし、もう止めるかも知れない。二川幸夫のアドヴァイスはいつも適切であった。一度閉じてみる。
二川幸夫の追悼ページだけは続けるかも知れぬ。ともかく、しばしのお別れである。
- 1100 世田谷村日記 ある種族へ
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13時前、烏山区民センター3階集会室。研究室の面々が会場作りにいそしんでいる。
ふくしま市民発電・代表・新妻香織さんにお目にかかる。東京新聞記者インタビュー。
予定通り13時半よりわたくしの報告、世田谷式生活・学校の各プロジェクト紹介、他始める。
途中でデービッド、マルタ、ヴィンセントによるClean Energy Kamishibaiを30分弱挟み15時迄。新妻さんの講演「ふくしま市民発電について」。新妻さんは予想通りにエネルギッシュな女性で、エチオピア・ラリベラに苗木を200万本植樹するという実行力の持主で感心してしまう。
植樹前の砂漠の写真と植樹後の緑が育った、しかしまだ森にはなっていない風景が圧倒的である。大変な説得力がある。ふくしま市民発電は現在4物件のビル他にソーラーパネルを設置して総出力75kwであるが、新妻さんの情熱とエネルギーで大きく育つであろうと確信する。
保坂展人世田谷区長と新妻さんの対談に移り、会場からの質疑応答も活発であった。
100名程の参加者であったが、いつもよりズーッと年令層も高く、実に様々な人々の発言を得ることができた。もっと多くの参加者を集めるべきだとの耳の痛い小言もありふんばらないといけない。
17時過修了。
デービッドの両親がドイツ・チューリンゲンより来て下さったので、夕食というより夕ソバを共にする。宗柳でアニミズム紀行製作の有泉さん、牧師の芳賀さんと共に会食。
この世田谷式生活・学校の開催後の定例のような会食もメンバーが固定して、わたくしにはとても良い時間となった。芳賀さんの息子さんはヨーロッパの聖地巡礼3ヶ月から帰って何やら気が抜けてボーッとしているようだ。いい加減な事は言えぬが建築の径をゆくよりは牧師の径を歩いた方が人生は上出来なんじゃないか。
21時散会。世田谷村に戻る。
翌3月11日、7時離床。昨日の会を珍しく振り返っている。13回目にして少しはマシな会を開催できるまでになったが、会場からの指摘もあったように我々の非力で参加者が少ないままなのが、やっぱりイケナイ。
いかにすべきかを考え込む。30分考えて駄目なら、つまり何等かの答えを出せないようならば、どうにもならんといささか一生懸命に考える。
昨日嬉しかった事の一つに杉本賢治さん(75才)の参会があった。驚くべき趣味の広さを持つ方で、山登り、パラグライダー、アマチュア無線と多岐にわたる。
昨日はわたくしのところに、あなたも若い頃山登りをしてるって聞きましたと、あいさつされた。それはとも角、この人物をモデルにして世田谷式生活・学校の充実をはかったらどうだろう。杉本さんは御自身が紹介されている世田谷区地域福祉部生涯現役推進課が発行する「Free Paper GAYA GAYA」を持参して下さり、いただいた。 とても穏やかで円満な方のようにお見受けした。
この人物は我々の世田谷式生活・学校の運営の才があるとお見受けしたのである。
案ずるより生むが易しか、動いてみたい。
9時半世田谷区地域福祉部にFAXする。その後のフォローを佐藤君に指示する。
- 1099 世田谷村日記 ある種族へ
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日曜日である。明方、悪夢を見る。シリンダー型の「笑う住宅」のモデルが完成していて、その見学会であった。いくたりかの知り合いが酷評を下し、このヤローブッ飛ばしてやるぞと思ったり、確かに妙なデザインだと思ったりでジタバタするのであった。
酷評を下した奴の顔も名前もハッキリ覚えているが、記さぬが花であろう。夢と現実は紙一重であるがワザワザ角を立てることもなし。建築的な夢をみるのは珍しいが、大方酷評されていて、モメるのばかりである。夢の中くらい大いに誉められたいものだ。と、心にも無い事を記す。
夢と言えば東京新聞書く人で加古陽治記者が『キャパの十字架』沢木耕太郎、を取り上げている。余りにも有名な一枚の写真「崩れ落ちる兵士」、スペイン内戦でのその共和国兵士の死の瞬間をとらえたモノと流布されてきた写真が漂流してきた夢が沢木によって書かれた。銃を持った右手を大きく横に広げている写真が例え、銃弾に倒れようとしているものではなく、斜面ですべった瞬間をとらえたものであり、それがキャパ自身による写真ではなかったとしても、この兵士がフランコ政権側の兵士ではなく共和国軍の兵士の姿であった事が、一躍この写真を世界的なモノとした。沢木の関心もそんなロマンティシズムつまり夢の基盤があったろう。キャパが背負った十字架は自らのキャリアのオリジンの出生に関する嘘でもあろうが、より深く広く共和国への夢への共感であった筈だ。それがなければキャパも、あの兵士が斜面ですべった写真をとった恋人も戦場の現場らしきに出向かわなかった。単純な構図を馬鹿にしてはならない。沢木の数々の著作に流れていたのは無名とも呼べる弱者が強大な力に立ち向かうという事への共感であった筈である。加古陽治記者の筆力はそこまで届いていない。と、自分の今朝の悪夢のうっぷんをはらす。
今日の午後は烏山区民センターで第13回世田谷式生活・学校を開く。昨年の暮以来だがどれ程の人が来て下さるか。
12時半頃世田谷村を発つ。
春日和だが、又夜は寒くなるらしい。
- 1098 世田谷村日記 ある種族へ
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7時、ヨーシ書くぞと重い気持でアニミズム紀行8に取り組む。傷ついた人間への関心について書いているが、それと創作との関連が弱いのだ。でも重要な問題であるから、あせらずにやってゆきたい。9時、92枚まで辿り着く。少しは高みに登っているのを実感するが、高い処はやっぱり酸素が薄いのである。小休する。
13時西調布で雑用。16時半研究室に幸脇さん、ブラジルからの留学生を連れて来室。6年振りの再会を果たす。講談社退社後ブラジルで活躍された。17時半新大久保近江家。時間を間違えて早く来過ぎて、一人雑念を巡らす。
Xゼミナールの面々難波和彦、鈴木博之集まり、雑談。ようやく春になったようなので花見でもしようかとなる。
20時半閉店してノレンを中に仕舞い込んだ長崎屋に裏口からもぐり込み、オバン、宗柳のオヤジとワールド・ベースボール日本vs台湾戦のTVを眺める。もうこりゃ完敗だと途中で抜けて世田谷村に戻った。
翌3月9日、6時半離床。新聞を読んだら、昨夜のWBCは日本が逆転していた。台湾チームのエースがWBC独特の投球回数規程で途中降板して助けられた感あり。日本のチームの名のある選手はモヤシの如くでひ弱い感がある。
オランダが強そうだが、選手の大半はオランダ領カリブ海出身との事。世界地図の歪みの歴史がそのまま出ている。
企画、監修した「具体・Gコレクションより」展(ときの忘れもの)が3月15日より開催される事になった。色々難しい事もあったけれど何とか開幕までこぎつけた感あり。
8時過明日の会のためのチラシ配布に出掛ける。土曜日ではあるが通勤通学通遊の人の流れに逆らって道を歩き、京王線の北と南を歩き100枚程をポストに入れた。去年の暮の会のために歩いて何となく嗅覚が働いたエリアである。
間違っているやも知れぬが、やはり地域の事は地域への意識が高い人には関心が高く、無関心な人々の層は確実に実感できるのである。
この膨大な無関心層の10%が動けば地域は変り始めるのだが、至難の技であろう。10時過いささか疲れてコーヒーショップで一休み。コーヒーショップの客にチラシを配る程のキモの玉はとうてい無い。
しかし、チラシを配り歩いているとチラシ配りを職としている方が決して少なくないのを知る。わたくしとバッティングするようにアイサツをするでも無く眼を伏せてすれ違うのである。恐らくわたくしの眼もそういう眼をしているのだろう。
- 1097 世田谷村日記 ある種族へ
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アニミズム紀行8、87.5枚迄しか書き進めない。自分の非才がいらだたしいがもう少しやってみる。決して自身で楽しく書いている実感がない。苦しいというのは気障だが、無能奴と自身をののしりたい気分だ。
11時過烏山神社の石段に座り込み一時を過す。鳥の声が心地良い。ネパールを思い出す。鳥が実に多かったな。鳥は天への使いだそうだから、あそこはやっぱり天に近い処であったのだろう。ヒマラヤの巨峰を間近に見ずに随分経つ。やがて佐藤君来て、烏山神社の計画および李祖原の件など今朝のいささかの進展を伝達する。
すぐに周辺に3月10日の世田谷式生活・学校のチラシを配布に廻る。二人で600枚を配り終わる。年を取ってやる事ではないと言う人も居るが、わたくしには必要である。直接に何かに触れている実感がある。社会というのは何処にも存在しない。チラシを配り歩いていると出現しないわけではない。これを続けていたらチラシ配りの名人になるだろう。
13時半駅前のコーヒーショップで小休。雑談の後解散。14時長崎屋にて国会予算審議のTV中継を見る。オヤジは昨年春の、これはもう駄目かと想う状態を抜け出して「抗ガン剤は増毛に良い」と元気そうである。知り合いと人生てのはわからないね、昨年やった、これが別れかの桜の花見は何だったのか笑う。では今年はSさんがもうダメだと言ってるから又、別れの花見をしようと話していたら、生き返ったオヤジが花の講釈を延々と始めそうになり、ああ、去る人は去るべきであったと笑い別れた。
サラリと付合っているには本当に良い人間達なのだ。わたくしの方がセンセイ、センセイと呼ばれてはいるが、教えられる事は多い。
16時前世田谷村に戻り、ポストに入っている東京新聞夕刊1面コラムを読む。
今日のコラムは鈴木博之は力が入っていた。実に短い字数で言い切れぬことも多かろうと考えつつ、Xゼミナールの「明治時代最大の地震」への感想4枚を書き、17時頃研究室にFAXで送信する。先週パスした怠けは少しは取り返せたか。
誰のためにやっている事ではない。自分の楽しみでやっていることである。それに尽きる。
横になってまだ書き切っていないアニミズム紀行8を読みなおす。自分には切迫した問題だが他人にそれがうまく伝わるのか自身がないが、書き続けたい。
翌3月8日6時半離床、新聞3紙を読む。
- 1096 世田谷村日記 ある種族へ
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7時離床。9時附近に3月10日、日曜日の世田谷式生活・学校開催のチラシ120枚程配布。これで手持ちのチラシは全て配布し終った。アト500枚程は配布可能かなと欲張るが、どうかな。今日は暖かい日になりそうで嬉しい。今冬は厳しい寒さが続いた。先日の大雪大嵐では沢山の人が亡くなった。北海道では家迄100mほどの処で車が雪に包まれて幼女を抱き抱えて亡くなった父親もいた。車もケイタイも何もかも自然の驚異の前では無力である。福島の原発事故で我々はそれをイヤという程に思い知らされた筈だが、人間の想像力も思考力も、実にか細いママである。
11時前発京王稲田堤へ。至誠館理事長近藤先生、息子さんの近藤理さんにお目にかかり世田谷区の保育園作りの件相談。昼食を共にする。14時京王稲田堤京王線ホーム待合室で渡邊君といささかの相談。15時過世田谷村に帰る。「アニミズム紀行8」、86枚半迄進める。遅々とした進み具合だが創作方法についての記述になっているので無理も無かろうと自分で自分をなぐさめる。
翌7日、8時離床。北海道の吹雪で車の中で亡くなった父親はシャツ姿で自分のジャンパーで娘をくるんで抱いて亡くなったようだ。妻を亡くして、娘の誕生日のケーキを店にとりに行った帰りの事であったらしい。昨日はディテールを知らぬままに、自然の力に対して人間の想像力はか細いママであると、生意気な事を記したが、わたくしの方が空々しい評論家振りであった。恥ずかしくて消そうとも思ったが、自戒のためにそのママとする。漁師さんであったそうで、生命に対する愛情は底知れぬものがあったのだろう。御冥福を祈る。
明方、妙な夢を連続してみる。疲れているのだろう。全て事務所運営に関するものであった。来年から研究室を出て町に本当に久し振りに戻るわけで今から緊張している。先生には先生の人生もあるけれど、本格的なモノつくりは仲々困難なのは良く知っているつもりだ。わたくし流ではあるけれど、70代の10年間は本格的なモノづくりに没頭したいと念じている。
- 1095 世田谷村日記 ある種族へ
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9時45分世田谷村に渡邊、佐藤両君来る。10時前烏山神社志村責任総代宅、共に世田谷区の保育園計画の候補地へ。簡単な測量をする。次にもう一つの土地の測量をすませる。2つの候補地の検分をすませ、世田谷区の根本さんから教えていただいた杉の子保育園へ。
生垣の見学をする。立派な生垣がすでにあったがブロック塀も少し残っており、改良の余地はあるような気もする。11時過コーヒーショップで打合わせ、及び濃密な作業を少しばかり。明日の至誠館理事長との打合わせに備える。13時半修了。宗柳へ。グレイスの大坪義明さんとバッタリお目にかかり、これ幸いと話す。良いスタジオをお持ちなので、わたしの何かの小さな展示会でもやってもらおうかと考えたり。近くの丹羽さんともお目にかかり3月10日の集会のチラシをお渡しする。宗柳のお母さんにも150枚の配布をお願いした。他人に頼むばかりは失礼とて、自分でも200枚弱を配り歩き、16時過世田谷村に戻り、小休する。17時世田谷村を発つ。
長崎屋で志村棟梁と会い相談。保育園の件を少し計りつめる。
急速に地元世田谷区の情報が入り始めている。
わたくしに情報が入るって事はわたくしの情報も他に流通してるって事なのは自覚している。20時世田谷村に戻る。
我孫子の馬場さんよりベトナムの件で連絡あり、月末のベトナム行が目前になったのを感じた。「具体」展の途中経過入る。
今日、志村さんとの無駄話しの中で、わたくしの家の隣りの烏山神社の新しい祭事の話しが再浮上した。烏山神社の志村稲荷のお参りを続ける人々からこの稲荷は子供たちの厄除けと、老人のボケ除けの双方に大いにご利益があるとの噂を聞く事が多いので、この噂をキチンと形にしようではないかの話しにはなった。子供と老人の守り神になるやも知れぬ。
- 1094 世田谷村日記 ある種族へ
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5 時離床。まだ暗い、月が中天にかかる。昨夜に続き佐藤研吾の「異形の現在:創作論序説—螺旋的思考とその模型について―」を再詳読する。
7時修了。序論が最も良く、次第に粗くなるのはやむを得えないが、離散する眼と収集の器、螺旋の旅、結ばない思考、設計計画:へと進むにつれて論の細密さが失せてゆくのにも気付いた。設計計画に関しては問題も多い。建築家(旧来の)の価値形式は年々歳々の、それこそプラトン以前の自然の大形式との併走とも考えられる身体というもう一つの自然のほころびによる逆説的な質の向上が得られるのを今は知るが、まさにその時間の必要性を実感した。
皇居と東京タワー、そして新しいスカイツリーの二つの塔との関係がデザインとして組立てられていないのが致命的ではある。しかし、それはまだ誰も構想する事さえ成し得ていないので仕方あるまい。
しかし、実物、物体に関しての思考へと移行するにつれて、その精緻さが薄れてゆくのも構造的であるような気もして、情報時代の薄酷さを目の当たりにするようにも思えたのである。
恐らく全国の修士レベルでは最良の知性であるのは間違いなかろうが、建築家としての出発としては傷も大きいように感ずる。その傷、旧来の廃墟から情報を足掛かりにして、どのように再登高してゆくのか自身内での再思考が望まれる。
9時前、陽光が差し込みトロリとしそうである。二つの保育園計画の前提とすべきベースに関して思いを巡らせる。上記と同様に高度なスケッチは言葉の組み上げと同等に困難さを伴うものだ。
J.L.ボルヘスのようにスケッチする事はできないのか?
- 1093 世田谷村日記 ある種族へ
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9時45分高田馬場大隈講堂へ。10時卒業計画、修士論文、修士計画発表講評会。ほぼ全員の先生方による熱心な講評が続く。昼食を挟んで19時過迄。
修士論文、石山研・鳥居真衣の「マイ・ホーム・イメージ―女と建築とシミュレーションへの展望—」が面白かった。早苗賞となる。修士計画賞は石山研の佐藤研吾の「異形の現在:創作論序説「螺旋的思考とその模型について」/設計計画「20XX年、新天皇即位に際する迎賓・観光施設及び祭儀の提案」が修士設計賞となる。
これで佐藤は東大の卒業設計での辰野金吾賞と早稲田での修士設計賞の二つの価値ある賞を獲得した事になったな。恐らく歴史的にも初めてな事ではないか。建築家としてささやかな出発点になろう。又、石山研・五月女晋也の修士設計、「まがいの構造体—中国大陸に対する9つの映像群としての台湾・国立故宮博物院のプレゼンテーション」も良かったが、佐藤の呈示した「主題」そしてその論理的解法には一歩及ばなかった。
しかし、この二つの修士設計は私見であるが、修士設計のあるべき水準を示し得ていたと思う。国外に出しても問題意識も含めて優れたモノである。講評修了後各賞の決定のため投票し、後にリーガロイヤルホテルで懇親会。久し振りに先生方と飲んだ。
その後、石山、入江、古谷、長谷見、有賀で二次会へ。大いに語り合う。入江先生吠える。久し振りの午前様となる。深夜、何時であったか世田谷村に戻る。
翌3月4日9時ボーッとしつつ目覚める。ほんの少しの外出の後15時世田谷村に戻り眠りこけた。ここ数日は少々動いたので休養させてもらう。
- 1092 世田谷村日記 ある種族へ
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10時過のぞみで名古屋へ。車中でアニミズム紀行8を書き進める。富士山の肩に強風で雲が東側前面に巨大な衣のようになびいているのを視た。中国大陸の空気も列島を覆うだろうと思う。12時前名古屋着。ホームで鈴木博之さんに会う。きしめんを喰べて、JR線に乗り換え尾張一宮駅へ。TAXiで尾西商工会館へ。車で墨会館へ。丹下健三設計1957年竣工の作品である。分厚い壁を土地の周囲に巡らせて大きな土地の平面形をそのまま建築として立ち上げている。壁が少し内倒しの角度を持ち周囲への威圧感を減じている。2階建の屋根が丹下建築らしく空に浮かんでいる。スケッチ一点する。土地の周囲に全て実に微妙な高さの壁を巡らせるという発想が全ての建築だが、丹下建築作品では独特な位置を占めよう。テラコッタグリルを一部に積極的に使用し、内外の視線を交差させている。艶金興業のオーナーであった邸宅が小さな道を挟んで向いにある。1950年代の建築の幾つかの名品を見てきたが、それ等の全てに通じる時代の清新な息吹きが感じられる。コルビュジェ風の地中海サントリーニ直伝のトヨの造形がつつましくセットされている。内部を巡り、実に良く考えられているのを知る。丹下健三が隅々まで眼を光らせていたのだろう。変形中庭のスケールも良かった。テラーニの時代のスケール感である。内部の建築の一部にコルビュジェよりもテラーニに通じるところがあり丹下健三のアイデアになる日本の雪見障子風のスクリーンが良かった。エントランス部の空間には小さいなりにドラマチックな天空からの光の取り入れ、そして内庭との空気、視線の流通の工夫が施されていた。柱梁構造で梁は香川県庁ばりに細くコントロールされていて丹下の繊細さを知る。
内部も良かった。社長室、会議室のインテリアにも丹下の息吹が感じられる。
天童木工製の家具も丹下デザインでサーリネンの匂いもするが仲々のモノであった。ロビーも的確なスケールで階段のデザイン、手すりのデザインも丹下健三そのものである。
尾西商工会館に戻り、鈴木博之・講義「丹下健三と50年代の建築」を聞く。淡路島の戦没学生慰霊建築の紹介があり、興味を引かれた。
見逃されている作品に建築家の正直な思考、パッションが見え隠れするものだ。
その後雑談を16時過ぎ迄、会場からの質問に答え、又保存に対する熱心な市民の方の意見も拝聴した。
うまく保存され、しかも市民生活に供ずる事が出来れば、とても良い文化的事業になるのではないか。
わたくしも若い頃の川合健二との事など想いだされてとても楽しく対談させていただいた。会場には多くの方々が参会していて、艶金のオーナー親族の方も見えていて「トヨタ自動車を追い抜く勢いをもつ会社でした」と話されたのが心に残った。
川合からも艶金の社長、墨さんの事は少なからず話しを聞いていたから。
又、川合と共に仕事に立会った人も来ており「川合のオジイちゃんと、我々は呼んでいた」と懐かしそうであり、川合と艶金の関係がしのばれた。「丹下さんはほとんど現場には来なかったが、川合さんは良く一緒した」との事であった。昔香川県知事の金子さんからも川合さんとの事をたっぷり聞かせていただいたが、川合はイサム・ノグチのように周りにうまくとけ込める体質だったのを、わたくしも良く知っていた。
会終了後、一宮市内の洒落たレストランで軽い食事を関係者の皆さんとして、別れた。会場でわたくしのカンボジア、キルティプールワークショップ参加者であった渡邉富生さんに久し振りにお目にかかる事もでき、キルティプールの美しい写真を見せていただいたのも思いがけない収穫だった。
アニミズム紀行5、6を手に入れようと思ってますと聞き、嬉しいのであった。
名古屋に再び出て、名古屋から再びのぞみで東京へ。
いささか疲れていたがアニミズム紀行8をほんの少々、これは意地で書き進める。20時前、東京着。鈴木さんと、じゃ又と別れて、烏山でノレンを下ろしていた長崎屋にすべり込み、ホンの一時を過し、世田谷村に22時戻った。
- 1091 世田谷村日記 ある種族へ
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10時半世田谷線松陰神社。渡邊君と待ち合わせて世田谷区役所へ。
歩きながら打合わせ。区庁舎第二庁舎ロビーで書類などを点検、二階保育課へ。上村保育課長、箕田保育計画推進担当係長、小湊保育施設設備担当課長にお目にかかり、第一庁舎2階で打合わせ。大変キチンと対応していただく。特に北烏山地区では保育園入所待機児童数が多いとの事で急いで対応してくれと逆にハッパをかけられた。生垣の件は緑の部署に連絡するとの事。
これは更に押す必要がありそうだ。1時間程で打合わせ了。区長公室長に会えたので、保坂区長に手短に挨拶し、経過報告。世田谷区役所を去る。
三軒茶屋にて昼食の讃岐うどんといなり寿司。凄い突風が吹いている。吹き倒されそうだ。渋谷で渡邊君と別れ、東京駅へ。山形の長沢社長に14時過八重洲構内の喫茶店で打合わせ。クリーンエネルギー他の件。開発打合わせ。
16時前迄。終了後烏山へ。17時過そば屋宗柳で志村烏山神社責任総代と打合わせ。来週5日に土地見学他で再びお目にかかる事とする。
20時過終了。世田谷村に戻る。
翌3月2日6時半過離床。今朝は風も無く、雲は多いが陽が射している。
今日は尾張一の宮の墨会館で鈴木博之さんの話しを聞き対談する事になっている。ツヤ金属工業の工場については川合健二から色々な話しを聞いていたので興味津々である。丹下健三設計である。名古屋駅のきしめんが食べられるか?ここのところ何故かメン付けの日々が続いている。
9時前世田谷村発、東京駅へ向う。