石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 10 月

>>2013 年 11月の世田谷村日記

世田谷村日記 ある種族へR141

10月31日7時前離床。晴れているがカラリとした空模様ではない。

湿気を含んでいるテクスチャーがある。今年は暑い夏から一気に冬になってしまって、秋が無いような感じだ。松尾芭蕉が今の世に生きていたらとても困っただろう。この道や行く人なしに秋の暮の、秋が無くなっているのだから。

「飾りのついた家」組合日誌29.作品番号12「三球四脚」についてを書く。

いくらなんでも作品一覧にONしている写真とデータだけでは何にも伝わらないと考えたからだ。

三球四脚はわたくしの造形に対する考えを正直に表明したものであり、勿論自信作でもあるので補足した。

大工・市根井立志さんの木工シリーズがアッという間に在庫が無くなりそうで、何とかしなければならぬ。

次の「本の卵」も力作だが理解、あるいは共感をいただけるかはこれはもう運としか言い様が無い。

昨日、広島の木本一之さんとずいぶん話し合って、何とか先行きが視えてきた様な気もするけれど、これはわたくしだけの楽観かも知れず、今日再び市根井立志さん共々面談は不要だが連絡だけはしたい。

9時過諸々の連絡作業を始める。

世田谷村日記 ある種族へR140

10月30日7時離床。佐藤研吾よりの新しい「世田谷村」ホームページアドレスに関する報告を読む。すぐ返答したいがわたくしよりも若い人の方がこの件には適しているだろう。

昨日は予定通り11時に世田谷村の木の階段室に、市根井立志、渡邊大志、佐藤研吾が集合し、階段室ミーティング

小さく暗いスペースに安物の球型床置ライトを手許明かりにするという貧しい出発であった。市根井さん車の荷台に作品、試作品を積み込み持ち寄る。「クサビ箱(仮称)」は手ざわりも良く、3台ともに見事な出来上がりであった。ノミ跡やノコギリ跡もあり、生々しい手の跡が特別一品生産品である事を物語る。

この具体的な成果物をどのようにベースとしながら仕事として展開させられるかを熱心に討議する。

市根井さんの参加でわたくしの独演会に陥らなかったのが有難い。

昼食をはさんで16時迄続けた。寒くて玄関のコンクリート土間に小さな安物ストーブを置いた。こういう感じは市根井さんはとも角、若い人には新鮮であって欲しい。良い打ち合わせが出来た。

結果はおいおい実行され、HPにも反映されるだろう。

途中、綿貫不二夫さんに電話して、組合活動のはじまりの成果を本(カタログ、記念、広報)の機能としてもまとめたいと相談。

来週打ち合わせとなる。

この企画は重要である。

さらに、それぞれの市根井作品、とりあえずは6品に全て固有の名前をつけようとなり、実行。これはすでにHPに反映されている

高度な職人のアイデアそして手労働はすべての作品に固有の価値を与えるという考えの表明でもある。

機械は正確な繰り返しが可能でそれが大量生産につながるのだが我々は一品一品の非繰り返しを続けてゆく。その意味に少しの共感を持たれる方々は是非共、購買を含めて参加して下さることを望みたい。

少し頭が高い言い方ではあるけれどお願いする。

今朝は雨も上がり陽光が差してくれている。

朝の連絡を始めたい。

世田谷村日記 ある種族へR139

10月29日8時前、前橋の市根井立志さんより電話あり。すぐに打合わせしたいとの事。それでは早い方が良い、場所は市根井立志作品でもある世田谷村木の階段室でやりましょうとなった。大学の研究室の空気はもうわたくしにはゆる過ぎるのだ。人間はどうしても身を置く場所に規定される。わたくしなりの気負いもあり、そうすることにした。第0回「飾りのついた家」組合会議である。

それなりに貧しく準備して会議内容を整える。市根井さんは前橋から荷積みをして2時間半をかけてかけつけて下さる。それなりの成果は上げねばならない。

やはり先ず売る努力であろう。作品(商品)は飛び切りに良い。飛び切り過ぎるのが問題だろうが、それは言っても仕方ない。マーケットの眼の問題だろう。

10時過諸々のメモを記し、又「飾りのついた家」組合日誌27を書き、急いで朝メシのおじやをかっ喰らう。11時より会議を始める予定。空模様はドンヨリと暗い。木の階段室に心尽しの照明をセット。椅子も何脚か置いた。丁度4名には良いスペースである。再び、ようやく階段室が生き返るだろう。

世田谷村日記 ある種族へR138

7時半離床。市根井立志さんよりFAX届いているので、すぐに返信。と言っても生の電話で、色々と簡明に考えを述べる。

「飾りのついた家」組合日誌25を書く。広島の木本一之さんと連絡する。

今朝は久し振りと言ってもたかだか数日振りに陽光が射し込んでいる。

暖かい。お天と様は有難いものだ。

9時過に朝の仕事を終える。

リニア新幹線計画というのがあって東京と名古屋を一時間で結ぶという。

何処の誰が東京、名古屋を一時間で走らねばならぬのかがどうもピンとこない。少なくともわたくしには全く用がない。新幹線名古屋駅プラットホームのきしめんが好きだ。

一本汽車を遅らせても、きしめんを食べたい気持は無くはない。きしめんをフーフー息かけながら食すのに10分はみたい。今はのぞみも、ひかりも10分毎に走っているから名古屋駅できしめんを食すのにはそうたいした知恵は不要である。このひねり出す10分は貴重である。でも、リニア新幹線のプラットホームからは、おそらくきしめん屋は姿を消すであろう。

文化はゆっくりとした時間の流れから発酵するの大ゲサは言わぬが、名古屋からプラットホームのきしめんを取ったら何が残るのであろうか?

13時前の電車を明大前、渋谷、五反田、雪が谷大塚と乗り継ぎ、14時サンユー建設本社へ。伊藤夫妻と伊藤アパート仕上げ打合わせ。サンプルが用意されていて仕上げを決める。全て既成品からのセレクトである。自分でサンプル作り迄したわたくしにとっては馴染みにくいところもあるが、御時勢である。

仕上げ材メーカーの社名にも馴染みが薄くなっている。

16時迄続ける。2、3の保留を残し大方を決めた。

雪が谷駅で伊藤夫妻と別れる。車内で「飾りのついた家」組合の打合わせを少し。市根井立志さんの本立てが2点売約済となり、どなたが買って下さったのかを聞く。

烏山の知り合いであった。市根井さんの「クサビ箱(仮称)」のヴィジュアルを見せられる。

「凄いなコレワ」と思わず声をもらす。久方振りに小物とは言え凄いモノを見た。新宿で市根井さんに電話する。

「コレワ、イイですよ凄く」と言ったら、すでに次作にかかっているとの事。

正直こういうのに対面すると悠然と先生面(づら)などしていられない。

猛然と闘志が湧くのである。

自分も正面から挑戦してやろうと決心する。

17時過宗柳にて石森彰、佐藤研吾と雑談するも、頭の中は市根井作品の事がグルグル廻り続けるのであった。

19時過散会、世田谷村に戻る。市根井立志には一目置かねばならない。

明けて10月28日7時離床、晴、今日も太陽が顔を出してくれている。

木本一之さんから、これも沢山なFAX通信が来ているので目を通し返信したい。

組合員に逆に激励されているというより、尻を蹴られている。

頑張りたい。

昨夜は寝床で色々と考えたが、まだまとまってはいないが絵にしなくては。

しかし、市根井立志のプロポーション感覚は見事である。

大いに触発される。いいモノはイイ。

「飾りのついた家」組合日誌26を書きたい。

世田谷村日記 ある種族へR137

10月26日 8時離床。「飾りのついた家」組合作品一覧が打合せ通り更新されていて、作品番号35〜37に見入る。予想通り彩色が力不足である。それで気合を入れて組合日誌23を書く。

35〜37の彩色作業に対するクリティークとして書いた。10時了。たかが色、されど色である。何をやっても何処へ進んでも遠い。奥行きは無限に近い。

安西直紀さんより、盛岡から原敬の『でたらめ』なる小さな本を送っていただいた。

明治32年8月9日印刷、定価金貳捨銭、発行は大阪毎日新聞社とある。盛岡市原敬記念館により平成16年3月31日に第一刷がなされ、これは平成19年7月10日の第二刷とある。緒言と目次の一、訪問の事をすぐ読んだ。電車の中等で一章ずつ読むのに良い本であろう。

それにしても安西直紀さんは何処をどおさまよっているのか?

世田谷村日記 ある種族へR136

10月25日、早朝から「飾りのついた家」組合の方々、そして幻庵の榎本令夫人との連絡を続ける。10時一段落する。メモを記す。

これがこれからの日々の日課のペースになるだろう。

組合日誌22に書いた事でもあるが、組合の方々の大半は皆朝が早い。

勿論遅いのもいないではない。手を動かす人、職人や絵描きは皆早起きである。それで8時には仕事の話しができようというものである。これを7時位迄に早められると、わたくしは好都合だが、そうわがままは通らぬだろう。

市根井さん藤野さん共に箱の仕事はすでに終りにかかっていた。実に素早い。それ故、わたくしもせき立てられるように次を考えねばならぬ。

世田谷村日記 ある種族へR135

「飾りのついた家」組合の打合せを濃密にやる。大工・市根井さんの新シリーズである。大工さんが作る家具は実にひとつの目玉なのだが、我々の販売力にすぐに関わる。

販売力イコール宣伝力になりましょうか。インターネット頼りはあやういところもありますが、頼らねばならぬ必然もあります。

事務局の佐藤研吾が第一回展示会の小レポートを記しています。

淡々と2日間の概略が記されております。一読頂きたい。こんな努力も姿形にはなりにくい宣伝力の一部でしょう。

これで良いかの一歩先を行かねば情報の海に埋没してしまうのもすでに知るところです。情報の流れはつかみ難いのが特徴ですが、畢竟有名無名に帰するのは言うまでもありません。

ミーティングは市根井作品に関してに集中しました。やはり大工さんの家具が組合の目玉であるからです。この試みはかつて世田谷美術館に於ける石山修武デザイン、市根井立志共同デザイン、市根井立志製作の試みに連続しています。

世田谷美術展の倉庫で日々、製作を続け出来たものをすぐに美術館のミュージアム・ショップで売ってみたのでした。

これは面白い試みでした。日々の製作を直接人々に手渡せるのを知りました。その時に作ったモノのいささかがまだ手許にありました。それを皆でもう一度見直してみた。

実に新鮮でした。

作品ですから個々にネーミングを考えようとなり、無い頭をしぼりました。

命名は大事です。モノの姿を一変させる力を持ちます。

この間のことは「飾りのついた家」組合日誌21に書くつもりです。

値付けもやり直し、市根井作品は一変しました。近日中に公開します。

18時前千歳烏山宗柳へ。18時森繁建さん来る。森繁さんは同じ世田谷区船橋の森繁通りに住んでいる。

実に巧まぬ話術の持ち主でこれは人が集まるなと実感した。

丁度居合わせた横山弥太郎さんも参加。和気あいあいたる会になった。

森繁建さんの力である。ホトホト感心した。

いつか又、森繁久彌の映画を視る時には、少し違う観方になるだろうとも考えた。新しい友人が出来たのを心底喜ぶ。

20時半了。手を振って別れ、世田谷村に戻った。

明けて10月24日。薄暗い空である。台風はどうなっているのか?

今週末に予定されていた日建設計・山梨さん、日経アーキテクチュア・宮沢さん他の方々の幻庵見学は中止とした。幻庵主榎本夫人と相談してそのようにさせていただいた。

なにしろ今の幻庵には七久保川を渡河せねばならぬ障壁がある。

台風による鉄砲水でも襲来したらそれこそ命にかかわるので、仕方がない。

台風は27号、28号と二つ共に日本列島を襲う様子である。

世田谷村日記 ある種族へR134

10月23日8時離床。寒い。薄曇りで樹木もピクリとも動かぬ。

昨夜、アルチ村日記を久し振りに書いた。書きたかったので書いた。

これで日記、日録の如きは3本並行となる。

藤野忠利さんに現代っ子センター文庫の設立を勧めてみようと決めた。

子供達に良い漫画本を視て、読んでもらうのを目的とする。

先ずはやっぱり有泉眞一郎コレクションから入るのが良いだろう。サイトでの販売ではすでに鉄人28号の特別本3冊は売れてしまった。沢山の人にバラバラに手にしてもらうのも良いが、まとめて文庫にしてもらうのも良いのじゃあなかろうか。電話したら、すでに文庫とは言わず子供たちの為の書棚は在るようだ。しかもアフリカの何処かの国立動物園監修の大動物図鑑などもあり、それは障害者の人々は視だしたら止まらない本なのだそうである。

流石だなあと思った。子供の絵画教室としたら、やはり日本の一級の、あるいは特級の場所だなあと思い知る。なまじなアイデアは通じぬと直観する。少しゆっくりアイデアをまとめてみることとする。

世田谷村日記 ある種族へR133

12時研究室修士2年ゼミナール。13時打合せ。17京都計画の概要を示す。年内かかり切りになるだろう。19「飾りのついた家」組合の新プロジェクト三鷹のアパートに取り組み始める。期待したい。

17時烏山で石森彰さん他といささかの雑談。組合を始めて四六時中が全て仕事になってしまった。

明けて10月22日、8時半長沢社長からの電話で目覚める。明け方目覚めてコンピューターをのぞいたりして、再眠したのでこんな事になった。少し疲れているのかな。

薄暗い朝である。雲が珍しく西へと流れている。

世田谷村日記 ある種族へR132

昨日の日曜日は終日雨降りで外に出る気持ちもなく、終日世田谷村に沈殿した。「飾りのついた家」組合日誌1819を書いた。

明けて10月21日久し振りの陽光に会う。

昨夜、宮崎の藤野忠利さんより大量のFAX届いていた。

老具体派頑張っているなと嬉しい。他人の頑張りは自分の頑張りにも繋がるのを信じよう。全てに眼を通し返信する。藤野さんには肉声ならぬ電話の声が一番良いようだ。

世田谷村日記 ある種族へR131

11時新宿で佐藤研吾さんと待ち合わせ、日暮里経由常磐線天王台へ。

TAXIで真栄寺。庫裏の2階で昼食をいただく。長い付合いでお寺の食事が合うようになっている。たくあんがうまい。

13時森繁建さん来てお目にかかる。気さくに良く話す人物である。まことに森繁久彌さんにそっくりである。

13時半文化講演会。森繁久彌夫人杏子さんのことを話された。

堂内はほぼ満員である。

日本人女性として初めて南極に行き、アフリカでシュバイツァー博士のもとでボランティア活動をなした。又、黒人の娘を養育し、わけへだてなく育てる等、驚くべき人のようだ。

16時45分天王台より森繁さんと東京へ戻る。色々と興味深い話しをうかがえた。

森繁久彌さんは大工仕事が好きで自分でのこ切りの目立てまでしたそうだ。

大工であり仏師であった平田正也さんの仏は今真栄寺に納められてある。

又、お目にかかりたいものだと明日会う日を決めようとなる。南千住で別れる。

18時半宗柳へ寄るも石森宅は真暗でシャッターまで閉め切られていた。

明けて10月20日。早朝目覚めてコンピューターをのぞくも寒くて再眠する。

再び起きたら10時半であった。今日は日曜日だ。

藤野忠利さんから数点、ハコのスケッチが送られてくるもどれもピンとこない。

芸術家の本来的な気まぐれを自分は好きではないのかなと思ったり。

でも売れねば藤野さんもがっかりするだろうから、何かオペレーションした方が良いだろうと思うが、これがムズカシイ。

年上の人間だし、手際の良いアドヴァイス、それも具体的なアドヴァイスがどうしても必要だ。これがムズカシイのだ。

世田谷村日記 ある種族へR130

10月19日7時半離床。曇り。寒くなった。夏の暑さが夢のようだ。

昨日は11時の約束を忘れてしまい13時に研究室。ベトナムからの中村さんには失礼した。13時中村さん再び来室。打合わせ。ベトナムは近くはない。何が起きてもおかしくはないが、度々驚かされる。何とか前向きに対応したい。

13時半過ぎ終了。すぐに17.京都計画打合せ。大きなプロジェクトでスタッフも気合が入っているようで中々の仕事振りである。15時了。19.「飾りのついた家」組合、組合の作品一覧サイトの更新に話を集中する。有泉眞一郎さんより、漫画稀少本3点セット『鉄人28号』とつげ義春データ送られてくる。すぐに鉄人28号3冊をサイトにONする

読者はいささかいぶかしむだろう。

何故漫画本なのかって?

有泉眞一郎さんは絶版書房アニミズム紀行シリーズの印刷を担当して下さっている。そのお付き合いを通じて、彼が漫画に鋭い感覚を持つことを知った。

例えば鉄人28号の作者横山光輝の鉄人が、時に指の数がそろっていなかったり、ベルトを忘れていたりする。それは横山さんのスタッフ管理が大様だったからであろうとか、その他諸々。話しを聞くと抱腹絶倒なのだが、こうして書くとあんまり面白くない。「組合日誌」17に書こう。

ネパール大使館より電話あり。11月24日のKCヒマールでのライブ後援について。向山一夫さんに連絡して烏山で会う事とする。

16時過研究室発。17時過佐藤研吾さん石森彰さんに猫の家をすすめる。

宗柳にて。うまくいったのかどうかは知らぬ。

猫の家のすすめとは、建築家として世界初ではあるまいか。

やがて向山さん来てネパール大使館の件相談。落着する。

もう少し人を集めておいたほうが良いとも思うが彼は自信満々である。

大丈夫かな。

明けて19日。今日は我孫子真栄寺で森繁久彌さんの息子さんにお目にかかる。世田谷在住なので何かと御一緒することもできるやも知れぬ。

楽しみに出掛ける事にしよう。

世田谷村日記 ある種族へR129

10月18日9時前メモを記す。薄陽が差している。チビ猫がジャレてうるさい。

昨日は10時に新宿で佐藤研吾と待合わせ。三鷹へ。南口の土地を見学する。簡単な測量もして、不動産屋とも打合わせ。

夕方、志村棟梁と会い、いささかの話し。ある計画の内装工事を任せようと決心する。今のうちにお手並みを見せていただくのが良い。

ヤタロー会長は11月よりトヨタグランプリで東南アジア歴訪との事だ。90才でよく頑張っている。

「飾りのついた家」組合では昨日、藤野忠利、市根井立志、佐藤研吾、渡邊大志にそれぞれ“箱”を発注した。

市根井さんよりアイデアスケッチ送られてきて、大工さんらしくて良い。

佐藤研吾さんの考えも面白い。チョコレートの箱も、これは売れるだろうな。早速実行して欲しい。

組合日誌16を書く。

世田谷村日記 ある種族へR128

10月17日6時離床。メモを記す。昨日は11時研究室。すぐに京王線車中より始めていたアニミズム紀行8の最終ゲラ校正作業を続ける。少し間を置いての校正作業であったので我ながら新鮮に読めた。批評の形式をとった前半の章と、創作論の形をとった終章の印象が逆転している。

すなわち、墳墓について、東大寺法華堂、伊勢等に関する論述と、障害を持つ身体、すなわち創作者山口勝弘を介しての創作論の面白さが逆転していた。これはいささか危ういなといぶかしみもしていた創作論を実に面白く読んだ。批評と創作の対比がわたくしとしては際立って浮き上がっているように考えられた。

言葉はどうしても認識の表現すなわち知識の表現になりがちである。詩の形はそれとはやはり異なる。それは知識の領土からの沈降、あるいは飛行を促すものだろう。つまり言いつめれば、アクションである。

身振り、大げさに言えば演技にもつながる。少し無理を承知で走り抜こうとする努力か。

15時半終了。いささか根をつめたのでグッタリ。

打合せに移る。アニミズム紀行の出版について、17.京都計画について、19.飾りのついた家組合について。

17.京都計画は流石に担当者は苦労しているようだ。初めてのタイプの仕事なのでわたくしも恐らく手際良いオペレイションが出せていないのかも知れない。自己点検したい。

19.組合の件は、これは先に進めれば進める程に苦行にも似たエネルギーが要求され続けるだろう事が歴然としてきた。

でもやり切りたい。

丹羽太一さんとスタッフと久し振りにワインをチビリと飲む。

丹羽太一さんは障害を持つ身体で、わたくしのアニミズム紀行8とは深い連関がある。

何とか彼に組合の仕事を楽しんでもらいたいし生活の礎にもしてもらいたいが、何しろ全て自分のエネルギーにかぶさってくる。苦行という由縁である。

ひとり抜けて烏山へ。20時半石森彰さんと雑談。わたくしはTVを視ないので、今どうなってるのと聞く。伊豆大島で大災害が発生したようだ。

平地の都市部に住み暮らしている安全は、何か例えば大地震等では一気に大災害へと転じてしまうのは自覚せねばなるまい。

被災者の方々の苦難は明日は我身でもある。

さて、今朝は空の雲が東へ、東へと流れている。それをポカーンと眺めている。

9時過には世田谷村を発つ予定。

「飾りのついた家」組合日誌15を書き始める。

昨日チェックしたら多くの人々が読み始めているようで手は抜けないな。

世田谷村日記 ある種族へR127

10月16日朝、台風の風が強く吹いているが雲は切れて陽光が指し込んできている。8時「飾りのついた家」組合日誌14を書き送信。この先が大変だなあと思う気持ちもあるが、やらねばならないだろう。

昔からやりたかった事だし、年令を考えても今がラストチャンスである。

昨日は11時打合せ。14時理工総研で打合せ。その後、組合日誌14に書いた通りの荷作り作業と、作品・大烏、作品・烏絵馬2点に添えて送りたい、古いドローイングのセレクト作業をする。古いドローイング、スケッチを眺め返すのは不思議な気持ちに入り込む。この感じは若い人には無いかも知れない。老人の特権であろう。

そうだ買っていただいた作品それぞれの記録写真、添えるドローイングの記録写真も記録しておかねばならぬと気付き連絡を入れる。

世田谷村日記 ある種族へR126

10月14日、7時離床。朝食温麺とヨーグルト。9時長崎屋へ。オバン、オジンが待っていた。石森彰さんに電話する。

「オヤジさんどうやら本気で高尾山行くぞ、頼む」

その日になってみないと解らないオヤジさんの気分はどうやら高尾山へ行くと決まったようだ。

従ってわたくしも行く、と決める。

ステッキをついて歩くオヤジを先ずは千歳烏山駅へ。待ち合い室で座って急行を待つ。調布で乗り換える。ベンチを探して座らせる。年を取るってのは仲々にそれなりに大変なのだ。いずれ、わたくしもこうなる。石森さん元気である。

高尾山口は驚くような人の出である。ゾロゾロと大行列で登り口に皆向う。

途中川の上の橋に置かれたベンチで一息入れる。わたくしの歩行もオヤジさん同様にいささか覚つかない。昨日、一作日の疲れが出ているようだ。

「上に登りますか。どうですか」

「行く」

ケーブルカーの往復切符を買って、満員のケーブルカーに乗る。オヤジさんの席は親切な人がゆずってくれた。外国人もゆずってくれようとする。何処の国の人だろうか。

オヤジさんは紅葉を見たかったが、まだ紅葉には早い。どんどん急傾斜を登り上へ。

見晴し台までゆっくり歩く。意外にオヤジの足はヨロメカない。

ベンチに三人並んで座り、遠い街の風景とカスミを眺める」

「太平洋が今日は見えぬな。雨上がりにはキレイに見えるんだが。

オヤジさん気分も良く、缶ビールを買いにゆく。石森さん、トコロ天を買いにゆく。

缶ビールを並んで遠くを眺めながら飲む。

「イイ気分だ。風が良い」とオヤジつぶやく。

「風が下から吹き上げてくるのがヨイ。サワヤカだ」

まことにさわやかな風であった。

三人のジイさんが並んで風に吹かれてビールを飲んだ。

不思議な感慨に襲われる。

ラダックで三蔵法師が歩いたであろう道をはるかにアルチの僧院から眺めた時と同じ感慨のようだ。何だろうか、この気持は?

高尾山の見晴し台でベンチに座って遠くを眺めているだけなのに。

三人ともとても満足した。もう上には行かんでもヨロシイ。ゾロゾロ登る人と逆にゆっくり下る。小型の救急車が三台走ってきた。登山中の行列に急病人が出たらし。

下りのケーブルカーもオヤジさんは座れて良かった。ケーブルカーを降りて、さてソバでも食べようとソバ屋を探すが皆満員である。ようやく一軒探して席を確保。

ビールと野菜ソバをいただく。オヤジさんソバはほとんど食べない。野菜だけつまんでいた。

再び高尾山口駅迄歩く。駅の待ち合い室で小休する。帰りの電車はオヤジさんは車窓をズーッと眺めていたが、我々二人はコックリ、コックリだった。

烏山に着き、ゆっくり歩いて再び出発点の長崎屋に到着。14時半であった。

オバンの心づくしのレバニラ炒めとギョウザをご馳走になり、良かったなあと何故かホッとする。15時半散会。疲れて世田谷村に戻り、横になって眠ってしまった。良い一日であった。

明けて10月15日。6時離床。メモを記す。どうやら今日は新聞は休刊日らしい。9時迄ボーッとして1時間程を過す。頭も休みは必要なんだろう。

世田谷村日記 ある種族へR125

10月13日、日曜日。

10時過石森宅。門にタオルと手ぬぐい飾りつける。二段構えで華やかになる。11時半陳列作業修了。

人々集り始める。作品「大烏」売れた。作品2点売れた。タオル、手ぬぐいも売れた。努力はしてみるものだ。中村未歩さんの御家族親類の方々も見えて会った。他にもいちいち記さぬが沢山来て下さった。

これ幸いと売れてしまったので早めに露天商は閉じる事にして、13時半修了とする。

こんなに人が集まってはいささか問題も発生するかと思っていたら、お巡りさんもやってきて、いささかの注意を受ける。

15時ギャラリー仕舞いの荷作りをして、打上げに長崎屋へ。石森彰、佐藤研吾、渡邊大志、中村未歩各氏とよかったねの乾杯。ラーメン・ギョウザ他を食す。中村未歩さんの次の製作に期待したい。

明けて10月14日7時離床。今日も良い天気である。

今日は約束通り長崎屋のオヤジ84才を連れて、あるいは連れられて高尾山にソバを喰いにゆく。

メモを記す。「飾りのついた家」組合の日誌12を記し頭のなかを少し整理する。

世田谷村日記 ある種族へR124

10月12日第一回の組合展示会を開催した。

沢山の人に通りがかっていただいた。

一点も売れなかった。

そりゃそうだろう。ソバ屋の前の路上で70万円のゲーテ・チェアーや120万円の絵が売れるわけはない。

そんなことはわかっている筈であったが、全く売れないのを目の当たりにしてですね、本当に売れっこないんだと理解した。

「美術」は路上では売れない。

だから飾りと呼んでいるんだけれど、それでも売れないのであった。

3時間やそこら品物(美術)を展示して、売れないとなげくのではい。そんなバカはしない。

売れないのを目の当たりにしたら、当然どうしたら次の日は売れるように出来るだろうかを考えるのだ。 露天商の知恵を発揮せねばならない。

売れぬと言っても中村未歩さんの1000円の手ぬぐいと1個20円の木の実らしきは売れていた。

「美術」は売れずとも手ぬぐいは売れるのである。

唐桑復幸祈念七福神タオル1000円を今日は大体的に売ってみる工夫をしたい。

アメ横の摩州には負けてなるものかである。

摩州くんはアメ横のド真中に店を出した男だが、今日の我々と同じどころか、当初見込んでいた売り上げが開店初日十分の一の売り上げに届かず、立ち直れるかの瀬戸際男だ。

我々組合の露天売り上げはゼロであった。ゼロであるという事は実に立ち直るのは早いということである。

一点売れれば万歳なのでる。

で、今日10月13日は一点のタオルを売る事を目標としたい。

もう大々的に売りまくりタオルである。

しかし、美術ならぬ飾りでも売るのは大変である。

売る方がこれは芸術なんである。

世田谷村日記 ある種族へR123

10時過「ヘイ・ギャラリー」会場へ。石森彰さん、スタッフ、手伝いの学生、そして中村未歩さん集る。昨夜のうちに荷造りしていた作品たち佐藤研吾と到着。中村さん少しの下ごしらえ製作。

予想通り陳列作業に手間取り、開場の12時前までかかる。向いのソバ屋宗柳が11時半開店で、客がゾロゾロと列をなしソバ屋に入る。皆オバチャンである。でもついでに見て下さる人も多い。チラホラとギャラリー参観者も来る。

関心のある人、ない人も入り混じる。これは予想通り。ON the ROADだから。美術館とは全く異なる人の集り方である。

正確にはカウント出来なかったが、ほぼ100名程の人に観ていただいた。チラリと横目で観た人をプラスすると200名位かな。

車の通行もスムーズで問題なし。朝は中型の介護車の出入りが多いのを知る。

午後、世田谷文学館学芸員・大竹嘉彦さんくる。世田谷文化生活情報センター、生活工房・杉本勝彦さん等のインタビュー。3時半過世田谷区長・保坂展人来場。

やはり戸外は疲れる。

石森さん、向山さん、有泉さん等と近くで休む。冷房が冷え過ぎていて身体ふるえる。やはり戸外向の身体になっているようだ。

明けて10月13日、日曜日。今日もヘイ・ギャラリーに出掛ける。昨日で大方の感じがつかめたので、今日は少しセールスにかかりたい。

通行人に美術を観てもらうのも、ましてや売るのもとってもムズカシイのです。

昨日有泉さんと話して、彼が所有する漫画本の中、稀少本のなにがしかを解説付きでサイトにONしてもらうことになった。

彼は漫画の精通者である。それが成果であった。

唐桑七福神タオルを売るぞと決めて露天商に出掛ける。

世田谷村日記 ある種族へR122

10月12日

6時前離床。メモを記す。チビ猫がテーブルに上がりペンを持つ手にじゃれついてうるさい。チビは何でも動くものに関心がある。

まん丸い眼をして、いつもビックリしたような顔をしている。こいつ芸術家になれば良いのに。好奇心の固まりである。

昨日は13時半国書刊行会営業部長永島成郎さん来室。

うーんと若い頃の仕事「異形の建築」を何とか刊行したいとの事。

相談する。

「異形の建築」は59才で若死した毛網モン太と日本中を駆け巡って面白い建築を見つけては記録、感想を述べたシリーズであった。今はなき雑誌建築に毎月連載していただいた。

宮崎国夫編集長、綾井健編集であった。

毛網モン太の思い出話しに花が咲く。とてつもない男であった。もしも出版するのなら毛網モン太論、仮空毛網建築行脚みたいなものを書いてみたい旨を伝える。

15時了。「飾りのついた家」組合のWORKを見る。

製図室へ。3年設計製図を見る。学生の製図を見るのは仲々にむずかしい。そのむずかしさを若年の先生方がキチンと理解しているのか極めて疑問である。小賢しい評論家まがいの視線になってはいまいか。

北園徹さんの作品を受け取る。Xゼミナールで批評作業に入る予定である。

18時烏山宗柳。向いの「ヘイ・ギャラリー」会場を眺め、アレコレと考える。明日オープンなのでいささかリアルな考えを巡らせる。

明日はインターネットでの中継をする予定だが、どうなりますか。

藤野忠利さんとのやり取りをFAXで行った。

19時半佐藤研吾来て、「ヘイ・ギャラリー」にいささかのパネルを取り付ける。69才になってやるWORKじゃないのは知っているけれど身体がもともと現場向きなのであろう。

世田谷村の車を渡して佐藤大学へ荷造りWORKへ。

車は恐い。心配するが仕方ない。

さて今日に戻るが、今日は「ヘイ・ギャラリー」会場でどんな人達に会えるのかとても楽しみだ。

世田谷村日記 ある種族へR121

10月10日

「ヘイ・ギャラリー」の前を通り、京王線、JR、西武新宿線を乗り継ぎ、花小金井吉元医院へ10時過着。検診、検査結果を聞く。全ての数値他は良いようだ。でも体調は決してよろしくはない。それはそうだろう友人がバタバタと亡くなり続けて体調が良い程の鉄面皮ではない。院長、副院長にヘイ・ギャラリーのチラシを渡す。遠いから来てくれとは言わない。

吉元昭治院長より『道蔵』等中国医学関係経典索引の大部いただく。ベトナム五行山計画に深い関心を持って下さっているのだ。

中国南部、ベトナム北部は薬草の宝庫であると言う。

11時了。花小金井駅前のそば屋できしめん喰べる。

高田馬場駅近くの本屋に入るも、全く気になっているのを見出せず、本屋の空気を吸っただけである。坂道がこたえるが大学迄歩いて12時過研究室。

すぐに打合わせ。

堀尾貞治+藤野忠利+石山修武の作品を眺める。

持って歩いた部品状態をアレンジする。

又、藤野忠利+石山修武作品は少し計り手を入れる。

この眼差しと手振りはとても古典的なアーティストらしきものである。

13時半、株式会社ナベカヰ取締役飯島広幸さん、日立製作所関東支社、営業所長田中良次さん他来室。

打合わせ。10日後にこちらの大方の考えをまとめて送り、検討していただくことにする。小松製作所にも同様とするつもりである。

15時了。

再び具体派との共同作業に戻る。

大方をまとめ指示する。

とても良い作品になりそうだ。

そりゃそうだろう10年以上の具体派とのお附合いの表現ともなるのだから。余人には出来ぬことではある。

佐藤研吾が頑張っていて、恐らく組合全体の眼配りは次第に彼に任せてゆきたい。二川幸夫の言で言えばキャパシティがありそうだ。

二川は人間の才質は例えばオートバイで言えば750ccのエンジン持ってる奴と150ccのエンジン持ってるのとはガタイが元々ちがうと言っていた。

こいつのは小さなエンジンではなさそうだというのはわかる。

17時迄打合わせ続けて去る。18時半宗柳で石森彰さんと打合わせ。

細かい雑事を続ける。なにしろギャラリー主であるから大事にしたい。

みんな大事にしたいのはヤマヤマである。

19時半世田谷村に戻り、雑用。24時前就寝。

明けて10月11日8時前離床。メモを記す。

又、「飾りのついた家」組合、日誌10を書く。

世田谷村日記 ある種族へR120

20時半世田谷村に戻る。

10月12日、13日の「飾りのついた家」組合の展示会のテーマは烏とゲーテと具体派になった。ゲーテはドイツ、ワイマールのバウハウス・ルーフライトギャラリー、シュトゥットガルト芸術アカデミーを巡回してきた「ゲーテ・チェアー」であり、烏は画像が多く呈示されてきたので、はしょる。そして、具体派は実験工房と並び、戦後突出した日本のアヴァンギャルド達である。堀尾貞治は最近、ニューヨーク、グッゲンハイム美術館での「具体展」でも脚光を浴び、評価はうなぎ登りのアーティストだ。藤野忠利はわたくしが最も信頼する、子供を含むアウトサイダーアートの精通者でもある。これ等をON THE ROAD するのだから、実ワ大変な豪華版なのであるが、地元も道行く人もそんなことは解るまいし、知らないママであろう。

だからそれぞれに価格をつけて、明示して見せた。

何でも鑑定団の、のりである。

人間はその金、つまり値段で全てを評価するようになっている。

だから、これ見よがしにプライス表も掲示する。

ついでに言えば、11月16日、17日、つまり又も土、日曜日にも第2回のヘイ・ギャラリー展示会を行う。1回切りの試みではない。

第2回は「トタン・カーメンの見る夢」。

我々の小さな、しかし熱烈に建てたい建築のプロジェクトを道端に展示する。

期待していただきたい。

第3回は、12月14日、15日の両日。これも土、日曜日。

「街角のおもちゃとおもち」展としたい。

この日は地元の子供達ともちつき大会をここで行いたい。

今年はそこまでである。

来年のことはいずれ。

とに角、一度切りのことにはしないので近くの人、ほんの少しだけ遠い人にも足を運んでもらいたい。

会場前のソバ屋は新ソバが今、ベラボーにうまいから、ソバでもすすりながら眺めて下されば嬉しい。

世田谷村日記 ある種族へR119

感ずるところあり、具体派の藤野忠利さんより送られ続けてきていた作品群を見直してみる。気持の空白にスルリと幾つかの作品が入ってきた。

こんな時には気持は涯しなく受容力を増すものらしい。

目星をつけた幾つかの作品の組み合わせを試みてみる。

大方の目星はそんなにグラツクこともなく、組み合わせが決まる

堀尾貞治1980年代、藤野忠利2009年 / 藤野忠利2008年、藤野忠利2009年、つまり制作年月が異なる作品を合体させてみた。

凄く面白い。

よし、試みてみようと決心する。

しかし、藤野忠利の了解はとらねばならない。

電話する。

「堀尾貞治作品と藤野忠利作品を合体させようと思うんだけどよいか」

「-----」

「切り刻んで、一度壊して、それから合体させる」

「やってみて下さい。まな板のコイです」

「藤野作品の中ではやっぱり子供の絵に学んだ奴が凄く良いんで、あれも切り刻んで、別の作品に取り付けたい」

「自由にやってみて下さい」

「アトで文句は言わんでね」

「言いません」

「新しい作品は共同の名前にしたい。わたくしの名も入れたい」

「いつもビックリさせられますが、不思議に闘志が湧くんですよ」

「ありがとう、では壊して合体させます」

一時間後宗柳で佐藤研吾と会い、グズグズしないで早速作品を切り刻んでみる。後戻りは出来ない。

大方の合体の感じと方法を告げて、アトは佐藤くんに任せる。

あんまり細かい指示は具体の作家の良さを閉じ込めてしまうから。

サッと別れる。どんなモノが出来るか。

12日土曜日の「ヘイ・ギャラリー」に発表する。

この一種の事件は少し間を置いて、冷ましてから「飾りのついた家」日誌に書き残そうと思う。

人の一生はホントにアレアレと思うぐらいにアッと終わる。

一瞬一瞬のアイデアは全て一回切りである。二度と来ない。

その時の風や、光や闇と、そして時間が作り出すからだ。

並木茂士さん、あの世で豪放に、しかし細心に再び外洋ヨットを風に吹かせているだろう

よい人と出会えたものだ。

沢山アイデアを下さった。サヨウナラ。

世田谷村日記 ある種族へR118

隣りの向山一夫さんと立ち話しして、世田谷村の高い生垣を眺めながら、庭の生い茂った草々をのぞいて戻った。

並木茂士さん亡くなるの知らせを聞く。とるもとり敢えず逗子に向かう事とする。佐藤研吾に連絡していささかを託す。

幻庵の榎本夫人と話す。幻庵主榎本基純とキルティプールの丘を訪ねたのも遠い昔である。

世田谷村日記 ある種族へR117

8時離床、曇天。昨日午後は20.烏山5丁目動物病院計画スケッチを進めた。ヘイ・ギャラリーの開催日が迫っているので色々な雑用が発生する。保坂区長にも知らせは届けなくては。隣りの向山一夫さんともKCヒマールのチラシ他の件立ち話し位はしたい。

10時世田谷村発11時研究室修士論文・設計ゼミナール。一人自分の微細極る障害に対面して素晴らしいテーマを提出した者がいた。これまで彼のいささかエキセントリックな諸々の対応表現をいぶかしんでいたが、全てとは言わぬが大方を理解し得た。見抜けなかったわたくしが阿呆であった。彼の修士設計は全力を挙げて対応したい。卒業以前に了解できて良かったとホッとする。

12時スタッフミーティング。19.「飾りのついた家」組合の組合員による作品リストが少しずつ充実してきたので一見雑事としか見えぬ作業が膨大に発生してくる。ガマンのしどころである。

12日のソバ屋宗柳前、石森宅の「ヘイ・ギャラリー」オープンは12日(土)13日(日)の二日だけと決定。知り合い、他にメールで知らせる作業に入る。

我々としてもワイマール・バウハウス「ルーフ・ライト・ギャラリー」、シュツットガルト「アートアカデミーギャラリー」に出展した「ゲーテ・チェアー」「3球4脚」他を追加展示することにした。路上なので天気が心配である。

16時研究室発。17時千歳烏山長崎屋にて志村棟梁にお目にかかり、昨日保坂区長土地見学の事など伝える。

世田谷野球倶楽部の面々にもお目にかかることができた。

18時半世田谷村に戻りカレーライスを食べる。

夜、読書。磯崎新建築論集はようやく、スンナリ頭に入るようになった。

彼にかかっては、今の、わたくしを含む諸々の建築家諸氏の試みなどはほとんど小さな断片として片付けられかねぬ。

お元気なうちに背負い投げとは言わず、張り差しのがぶり寄りくらい見せたいものである。

石山友美の映画「少女と夏の終わり」東中野ポレポレ座。

幸い好評のようで、一週間の追加レイト・ショーとなったようである。

翌10月8日7時離床。穏やかな朝の光。コンピューターのサイトをのぞく。

「飾りのついた家」組合のサイトが充実してきた。従来の石山研のサイトを解体しそうな勢いである。

8時前、新聞を取りにゆきがてら、隣家まで歩き作成したKCヒマールでの「花」ライブ・展示会のチラシをポストにほうり込む。

世田谷村日記 ある種族へR116

10時半「飾りのついた家」組合日誌06書き終えて、ひと休みしようとしていたら突然保坂展人世田谷区長より電話あり。

近くに来ているのでうかがいたいとの事、アレアレと思って世田谷村の外へ出たらバッタリ。

「保育園の土地他を見ておきたいと考えて来た」

との事。早速烏山神社の土地を共に見る。お茶でもと歩き南烏山5丁目の広い再開発の土地を眺めて南蛮茶房へ。

「ソーラーすだれの開発どうですか」

「大丈夫、今度の会では試作品の写真をお見せ出来ます」

「世田谷電力のNEDOの補助金はどうですか」

「アレは断りました。自力で出来ますんで」

「わかりました」

「世田谷区としても可能な限り協力したい」

「それはお願いしたい、よろしく」

歩いて石森彰宅へ。

「オヤジ、区長さん見えたぞ、ズボンくらいはいて顔出せ」

「アレーッ、本当だ」

12日からのヘイ・ギャラリーの説明して向いの宗柳のオヤジと記念写真。

再び5丁目の再開発の土地を通って、色々と説明する。

12時過世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR115

昨日は11時過研究室、長澤社長他とエネルギー機器開発の打合せ。この社長はタフだ。何があってもめげぬ。見習いたい。創業社長の美質を良く持つ。12時半終了。

R114大住広人の本についてが書き切れず、「飾りのついた家」組合の打合わせをしながら少し書いたり。

「飾りのついた家」組合はすこしずつだが会員も増えている。会員が増えているという事はそのまんま、それぞれの会員が売りたい物の品揃えが増えていると同じである。つまり、この組合は入会金、会費を取らぬ。売りたいモノをサイトにONしたらそれで組合加入となる。

幸いにして、少しずつサイトにONしたモノは低価格帯のモノから売れ始めている。

会員の中村未歩さんより新しい作品が送られてきた。

面白いけれど動物虐待の気味があり、これは組合の作品ラインには乗せられぬと協議して決めた。

御了解いただきたい。何故かのもう少しの理由は小さなクリティークとして組合日誌に書きたい。

14時より学科会議室で入江正之先生と打合わせ。製図教育の将来について。古谷誠章先生少し遅れて参加。まだまだ十分に話し合わねばならぬことが多い。

わたくしは間もなく教室から去るけれど、少しだけでも安心して去りたい。

15時3年設計製図課題講評会。少しだけ自分の設計製図に対する考えをのべてこれもすぐに去る。佐藤研吾と共に千歳烏山に向う。

17時半烏山インド・ネパール料理KCヒマール。できたばかりのチラシを手渡す。長崎屋でも宣伝する。街角のカギ屋さんにもチラシ渡す。宗柳でも宣伝する。動く広報車である。

11月の隣人ライブと「飾りのついた家」組合に人に集まってもらうのにはそれなりにドロくさい事をしなければならない。

佐藤研吾は上澄みの人生を送ってきたから、大きく育てるにはそんな事も伝えたいのである。

歩いているうちに幾つかのアイデアも浮かんだ。

動物病院はいずれどうしても作りたいと考えていた。

友人となった石森彰宅の土地を使わせてもらい、それは出来るんじゃあないかと、当り前の事に気付き、すぐに本人に相談した。イイヨ、本当に出来るんならとの事なので正式に取り組むことにした。居合わせた佐藤研吾担当とする。彼は子供の頃から犬を飼っていて友であったと聞いていたから。アニミズムの本体を知る素質があるから。

20番のプロジェクトとしてレジストする。長澤社長からも3年来のプロジェクトを再開したいとの申し入れがあったが、まだこれは充分に熟していないと判断。

佐藤は早速リアルな土地にチョッと高層な動物病院の構想にとりかかることになった。

明けて10月6日7時半離床。すぐにメモを記し、日曜日ではあるが送信。

「飾りのついた家」組合員・中村未歩さんの作った作品を何故、組合の共有物にできぬか、つまりはウェブサイトにONできぬかの理由書も書く。何をつまらぬことをやっているかと思われようが、本気というのは今の時代には外から見れば変な風に見えるのだ。

世田谷村日記 ある種族へR114

十月五日

— 大住広人の本について —

七時半離床。昨夜読んだ大住広人著、『まことしやかにさりげなく―映画監督松林宗惠』仏教伝道協会発行1800円+税、の感想を書く。

松林宗惠さんには二度お目にかかった。一度は我孫子真栄寺での講演会。二度目は馬場昭道さんと共に渋谷で天婦羅を御馳走になった。お目にかかっての印象はあんまり良ろしくは無かった。坊さんであり映画監督でもあるという人物で、作品としては「人間魚雷回天」「連合艦隊」「社長三代記シリーズ」等がある。社長シリーズは森繁久彌主演、芸達者の脇役をそろえ昭和33年1月に作られ始め同年3月にはシリーズとなった第二作が作られている。二ヶ月チョッとで早撮りされ、以後30本程作られおおいに世の人々を楽しませた。わたくしも中高生の頃だったか両親と共に観た記憶がある。映画はまだ娯楽の帝王であり、家族で映画館に出掛けるのは都会の生活の小さな晴れがましさでもあった。ゴジラと春日八郎の歌謡ショーの2本立てなんてのもあり、これも家族で出掛けた。東京郊外の長屋暮らしをしていた母や家出した母を追ってそこに同居した父が子供二人を喜ばせようとしたらデパートへ行く事や、映画にそろって出掛ける位しか無かったのだ。小学校の校庭の夜の野外映写会も吹きさらしであったが満員だった。風の又三郎という映画や、その主題歌らしきも覚えている。

世評の高かった連合艦隊は観ていない。ただ仕事で良く出掛けていた伊豆西海岸松崎町で友となった当時町役場の森秀己さんが良くカラオケスナックに連れていってくれ、そこでこの映画の主題歌・群青や昴をおハコにしていたので名前は知っていた。

松林宗惠さんのお目にかかっての印象はあんまり良くは無かった。正直言って東宝社長シリーズの映画監督が、つまりは森繁の芸を頼りの娯楽映画作りが、何を偉そうに今の日本社会を嘆くかといぶかしんだからである。森繁と親鸞と平成の世への批評がただゴチャゴチャと整理されずに吹き出ているに過ぎぬと想った。うさん臭い、世俗坊主の説教にしかそれが聴こえなかった。それで馬場昭道が例によって単刀直入に「この本読め」と著者大住広人の眼の前で差し出した時に正直な反撥が出現した。「こんな本読めるか」と一触即発の空気になった由縁である。「こんな本読めるか」は「こんな本書いて大住デカイ顔するなよ」の意もあった。元新聞記者であった大住広人には新聞記者特有の横柄さに繋がる率直な臭みもあり、何でも知っているけれど、実は何にも知らぬただの情報通の人格らしきも嗅ぎ取っていたからでもある。

それは松林宗惠にも通じる臭みでもあった。新聞記者には自分が正義であるかの得体の知れぬ振舞いある。世俗の僧にも通じ、松林宗惠にもそれをわたくしは感じ取っていた。

余りにも大人気無い振舞いを流石にわたくしも恥じて、読みたくも無かった本を、それ故に一夜熟読した。大ゲサな言い方をすればいささかの罪の意識がそうさせた。「こんな本読めるか」とモノ書きの作者に言ったのだから。

不思議なことに読み通してしまった。最近は読み通す本は極めて少い。こちらが短兵急になっているからであろう。自分に味方すればいささかの知恵もついて行間も、ページの裏も少しは見透かせる年令にもなった。

前作『はるにれのころ―鉄道員夫婦の置き土産』(水書房)は大住広人の故郷と両親兄妹へのこれも又、率直極まる照れ臭いばかりの愛情が溢れていて、そのストレートさは新聞記者上がりのそれを超えて深みがあった。故郷、肉親、つまりは共にご先祖様に通じるモノであるが、それが横溢していて、大住広人の記者上がりのイヤ味を超えさせていた。

この『まことしやかにさりげなく―映画監督松林宗惠』の最新刊は、大住広人の松林宗惠を介しての故郷論であり、家族論でもある。

松林宗惠の故郷、広島県日本海に注ぐ江の川沿いの福泉寺のある地と松林宗惠の両親の小史を描いた処、そして94歳で独り住まいのその寺で亡くなった宗惠の母、その言葉のはしばしを描いた処は実に感動的ではあった。宗惠はこの両親に、特に母親には遂に届かなかったなの失礼な気持をわたくしに湧き起こさせた。大住広人の筆力である。恐らくは、大住の故郷北海道中央部の村と同じような、なだらかに柔らかい風景と、そこに暮らし続ける日本人への深い愛情があるのだろう。

そして、その故郷を背にした日本近代の矛楯そのままの人間松林宗惠の生と死の様式とも呼びたい(建築家なんでこんな言葉になってしまう)モノが可能な限り描かれている。

日本的仏教、それはもう一つの主題でもある親鸞と、僧でもあった松林宗惠の生き方との実に柔らかい関係、無関係とも言えるような関係でもある。その関係はいかにもな日本の風景、家郷の風景、場所と人間生活の問題とも言えよう。釈尊の生地、そして死した場所、故郷でもあるインド・ラージギル近くの風景とはそれは余りにも遠い。その違和感は大住広人の『ザビエルとヤジロウの旅』などにもより深く描いて欲しかったモノではある。

大住広人は言う、そこに暮らしてみなければ解らぬことは多いと。今、彼は京都に近い奈良辺りに住んでいる。又、家族と共に中国上海にも暮らしたし、記者として東京近くにも暮らした。九州でも暮らした。その実体験からの実感であろう。その新聞記者のアイデンティティーにも通ずる社会の現場に密着した体験主義、より広くは経験主義的実証の態度は、経験主義の本場(中心)でもあった英国の思想=ヨーロッパの辺境に生まれたモノよりも、実に日本的な性格を色濃く持っている。わたくしは大住広人は典型的な日本的経験主義者であろうと目星をつけている。

松林宗惠を書いてリアルなのもその人物、あるいは彼を取り巻く人々と土地、風景との関わりを描いた部分である。ひいては日本近代の変化してとどまる事を止めない場所と人間の、実に宗教の問題としか考えられぬ水準の精神性がはらみかねぬ問題なのである。

結論をいささか急ぐ。

親鸞を併立させて描くには、その日本的風景(例えば、たった十数名の信徒と生活し考えたとされる北関東の風土の性格との関係)と親鸞の思想との関係がより描かれるべきであろうと、高望みしたのである。

世田谷村日記 ある種族へR113

朝、馬場昭道さんより電話あり、ブラジルの谷広海さん死去の報であった。余りの無念さに空を仰ぐ元気もない。遠いブラジルの友であったが交通事故による急死であった。それで悲しみも計り知れないのであろう。色々と共にやってゆこうとする矢先のことであった。

佐藤健、谷広海とわたくしの両手をもがれた。

どんどん、もがれてゆく。

ブラジルは言うまでもなく遠いので死顔を見ることも出来ぬ。

9月28日サンパウロ市内でタクシー乗車中にバスと衝突、頭や胸などを強く打ち、意識不明の重体であった。

10月2日、サンパウロ市内の病院で死去した。73歳であった。

(宮崎新聞より)

1964年にブラジル、アラゴアス州マセイオに移住。ポルトガル語を一から学び、バナナのたたき売りから身を起した。

弁護士や不動産業をサンパウロ市、マセイオで開設し、谷グループとして一段と大きくする最中のことであった。

つい先立って、わたくしは彼と共に夜の奇跡とも言うべき黒富士を見たばかりであった。

あんなに富士山を見たがった姿を間近にしたのが最期でもあった。

今年は二川幸夫も亡くなり追悼ページを設け、サイトも一時閉じたけれど、今度はサイトは閉じない。

閉じて追悼の意を表していたりするから、こんなことになり果てるのだ。昭道さんと残り少なくなった軍勢で頑張ろうなと声をふるわせるのみである。こう迄悲しいと頑張るしかない。

10時過、今日は設計製図で若い先生方が集るので、ひとつだけアイデアがあり、その件で渡邊くんに電話する。

石山研出身の若いと言っても40代だろうがの定期的作品講評会を設計製図の集りをきっかけにして始めたい。

学生はダメなのは直らない。先生は何とかしなければ。

世田谷村日記 ある種族へR112

地下鉄大江戸線で本郷三丁目へ、しばらく歩いて東大小階段教室15時40分。16時3年生設計製図合同課題発表。渡邊くんから課題説明の後、石山小レクチャー、隈研吾小レクチャー。

わたくしは恐らく最後の設計製図なので特別ヴァージョンのものとした。

勿論、早稲田建築への苦言でもある。会場には若い先生方も来ていて実は彼等に向けてのレクチャーでもあった。鈴木博之先生、難波和彦先生、伊藤毅先生、中川武先生も聞いて下さった。不出来なレクチャーであったけれど実に本音を吐いた。学生よりも、先生がしっかりしていれば何とか生き残れるだろう、の想いもある。

18時過修了。鈴木さん、難波さんと赤門前のチャンコ鍋屋へ。

会食雑談。わたくしは昨夜来異常に何故か疲れていて不元気で申し訳なかった。

20時半了。本郷三丁目で別れ丸ノ内線で千歳烏山へ。22時前世田谷村に戻る。すぐ横になり休む。

世田谷村日記 ある種族へR111

11時過研究室で打合せ始める。昨日の空白があったので5,6項目程に展開する。19.「飾りのついた家」組合のサイト編集が中心になり打合せは回転した。

16時過までサンドイッチをほうばりながら続く。途中、いくつかの連絡を挟む。17時40分烏山寺町のみどり会館。三田敏雄さん通夜。御母上におくやみを申し上げる。長崎屋で知り合った人々が多数参集していた。18時過早目に焼香を済ませ、駅まで早足で歩く。今日2度目の京王線で新宿経由神田宮崎料理岩戸へ。

19時半前、馬場昭道、大住広人、杉全泰集合。

21時半迄会合。

昨日の地球の裏側での事故の件は話さんことにしようやと昭道さんに言われ従う。命は無為な話でもれこぼれてしまうことだってある。

神田駅で別れ際、手術が成功し、命はとりとめているようだと聞く。

わたくしの描いたR110の絵がきっと脳細胞に届いたに違いない。地球と人間の脳の大きさ、形状はほとんど同一であると気付く。

新宿経由、再び烏山へ。途中手渡された明日のレクチャーのシノプシスをおさらいする。

23時世田谷村に辿り着く。

明けて10月3日6時半過離床。昨夜は今日の学生達への最後のレクチャーを頭の中で組み立て直したりで余り眠れなかった。

世田谷村日記 ある種族へR110

8時離床。雨。昨日10月1日は一枚の絵を描いただけ。

でも我ながら気持が乗り移った絵が描けた。本日10月2日は夕方6時前三田さんの通夜に出掛け、とって返して神田岩戸で馬場昭道さん他に会う予定。昨夜の知らせの後の行方はその時に解るだろうが、それはそれとして「生きよ」と題した昨日の絵は今朝サイトにONしたい。気持だけでも伝わると良い、伝わってくれという思いがある。地球の裏側とも言うべきところでの出来事ではあるが、どうにか伝わって欲しい。

無理を承知で伝えたい。こんな時にはまこと神の手の顕現を待ちたい気持になる。

「生きよ」は自分の気持を表現した計りではない。自分の気持をただただ伝えたかったそんなコレも作品である。きっと届くであろう。

今夕は、そんなわけで辛い会が2つ続くやも知れぬが、昨日一日作品作りで休養してしまったので朝から雑用に励まなければならない。

世間の(社会に非ず)人々はこんな事に遭遇しても、黙々と恐らく変わらず仕事らしきに従事しているのであろうと考えると、いかにもわたくし奴はひ弱である。しかし昨日のようなモノを描いている時間、アレは何と言うのかな。明らかに一生懸命であった事は確かで、夢中で手と頭と眼を使っていた。でも仕事を休んでやっているという気持は歴然としていた。

そんな事を考えれば絵描きや芸術家らしきの大半は仕事をさぼって自分の気持を表現しているのだから、明らかに近代社会からの逃避者でもあろう。さぼる人々なのである。

昨日のわたくしの数時間は自分を表現したいと想っての仕業ではない。この思いの力らしきを地球の裏側に届けと念じて描いていた。

その意味では言葉にならぬ言葉を描いていたとしか言い様がない。テレパシイとか念力とかを信じる事はない。

でも時折近くの神社に手を合わせ拝礼し、50円玉をドネイションしたりはしている。その時柏手を打ち手を合わせている気持には必ず言葉が付いて廻る。無心という状態はない。とすると拝礼して手を合わせることと、昨日の「生きよ」の絵は同じ世界の種族に属するモノなのであろうか。

ともあれ、この絵は地球の裏側まで届いて欲しいのでサイトにONするから皆さんの眼、頭脳にも供することになる。個人のメールで送るモノ(種族)では無いと判断もした。

世田谷村日記 ある種族へR109

馬場昭道さんより、心臓が止まる程に驚くべき知らせ入る。しばし自失。

今日はビジネスらしきの仕事は出来ぬと直観。

11時前、近くのモヘンジョダロでスケッチしようと決め出掛ける。彼岸花に目が止まり動かぬので、久し振りの大判の画用紙にスケッチする。雨が降り出すも、そのまんま続ける。

14時過迄一生懸命なる集中。15時前雨が激しくなってきたので長崎屋で仕上げ作業をする。

16時一点作品完成。「生きよ」と命名する。

世田谷村日記 ある種族へR108

10月1日8時前離床。昨夕隣の向山一夫さんに道でパッタリ会い、KCヒマールでの「飾りのついた家」主催ライブについて打合わせた。テーマを「花」とすることになる。

花、すなわち気仙沼安波山の花であり、東日本大震災復幸支援であり、唐桑タオルセットである。

折角頑張るのだからそれ位のことはしたい。チラシは作らねばならぬがヒマラヤと安波山に咲いた花がテーマとなる。

荷物を沢山動かす事なく、KCヒマールに「飾りのついた家」組合の作品も展示したい。

長崎屋での友人三田さんが亡くなったの知らせを聞く。

つかの間の友であったけれど記憶に残る人である。そんな言い方が通用するものなのかは知らぬが庶民の中の庶民であった。

パチンコで勝つとケーキをおごってくれて、負けるとブスーッとしていた。

そして高齢なお母さんを大事にしたい、先には死ねないとすぐに泣いた。

あすが通夜だそうで、家の在り処も知らぬが顔は出すつもりだ。

『磯崎新建築論集』月報6、岩波書店は御厨貴、八束はじめ、篠山紀信各氏が小文を寄せている。

わたくしには八束はじめさんの「事件好みのHeimat喪失者」がとても率直に読めて良かった。八束はじめさんとの附合いは無いに等しいけれど親近感を初めて覚えた。「如何にして故郷喪失者が都市破壊業KKを自称するに至ったかは、従来の磯崎論に欠けている視点ではないか」

わたくしもそう考えているので、忘れぬようにしたい。

世田谷村日記