石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 11 月

>>2013 年 12月の世田谷村日記

世田谷村日記 ある種族へR174

11月30日、昨日からチョボチョボ続けていたNPO法人の名称は世田谷式生活・学校となった。事務局は大坪さんの建物の名称を「モリスの家」と変更して拠点とした。北烏山である。12名の理事、最低10名の会員もそろった。連日の長崎屋会議の成果であった。世田谷村から長崎屋へ出掛けるのは歩いて5、6分だが、それは南烏山5丁目の、わたくしの言うモヘンジョ=ダロの遺跡を通り抜けなければならない。つまり5丁目のモヘンジョ=ダロのを横切る6m程の道路はわたくしにとっては生活道路として失くしてはならぬ道なのだ。

それがいきなり封鎖された。

三菱地所、三菱地所レジデンス、セコム、ラン設計事務所とは地元での集会を介して、この道路の件も、生活道路として残すようにと会を作ってしかも書面をもって手渡してあった。

しかし、このいきなりの措置はこの我々の、区役所もその正当性は認めている生活道路を工事用道路して、工事の為に使用するので封鎖するらしい。

ラン建築設計事務所には工事用道路ならば、朝晩の通勤、買い物タイムだけでも開放したらどうかと申し入れた。

検討してみますの返答であったが、このザマである。

広い敷地である。工事用道路の隣に仮の歩行者、あるいは自転車用通路を設けることは容易なのに。

隣家の向山さんや、古い知り合いの相田さん他も、いきなりの封鎖に驚き、かつ怒っていた。

三菱地所ともあろう会社がこんなことを平気でやってのけるのかとわたくしも静かにいささか怒る。セコムは警備会社であるから、通り抜けの開放通路にガードマンをつけて地区住民の通行の安全を確保するのはプロであろう。何を考えているのだろうか。

世田谷村日記 ある種族へR173

11月29日13時半、第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展日本館チーム来室。コミッショナー太田佳代子さん、ディレクター中谷礼仁さん、国際交流基金中島彩花さん。来年のビエンナーレは全体の統轄者がレム・コールハースで全てのパビリオンに一部共通テーマを課した。70年代という時代そのものを浮き彫りにしたい旨だと言う。それ故に70年代についての考えの一端を述べよとの主旨である。

わたくしにとってもまだ昨日のような生々しさが70年代にはあり、密度の濃いインタビューとなった。16時過修了。

研究室の面々、中国人留学生李くんとチョッピリ、ワインを飲んで談笑。

李くんはやはり中国に帰って仕事するとの事、このまま日本に居ても仕方なかろうと賛成する。陸海も中国大陸で頑張っているので何かOB連絡会みたいなモノができると良いが、今や中国と日本はいささか危険なジョークだが戦争前夜の状態であるのでどうなる事やら。

自民党安部政権の中枢には戦争の体験者が居ないのはこれはよく知られた事実だ。安直な言い方に過ぎるのは承知で言うが、対中国関係、領土問題に関してどうやらゲーム感覚の如きの政策臭をかぎ取ってしまう。安部首相の祖父である岸信介元首相は体を張って日米安保条約を成立させた。第二次世界大戦のA級戦犯容疑者でもあり、収監されて恐らく戦犯として死も覚悟したであろうから、岸にとっては深く暗いリアリティーもあったのだろう。満州に於ける戦線の酷薄さに比べれば学生達の反対運動の高まりや、樺美智子さんのデモ弾圧による死などは取るに足りぬそれこそゲームの如くに眼に写っていたやも知れぬ。が、ともあれ切実な戦争体験、人間達の生死の冷酷さはかいくぐってもきた人物であった。

安部晋三首相にはそのリアリティーが感じ得ない。重要閣僚の全てにも感じられない。政治家の戦争に対する迫真感、つまりリアリティーであるが、感じられない。かく言うわたくしだって偉そうな事言ってるけれど日中間の際どい危うさに突入しつつある政治的戦争へのリアルな感覚は持ち得ていない。どんどん日本が底割れしつつあるのは実感するが正直言って底割れ以外のリアリティーが感じ得なくなっている。

鈴木博之さん、安西直紀さんと新しいNPO法人設立に関して相談。外枠は次第に固まってきた。頑張りたい。

世田谷村日記 ある種族へR172

11月28日の正午、長崎屋に隣家の向山さん、北烏山の大坪さん、石山研の佐藤さん集る。NPO世田谷式生活学校発足準備会である。ここ2年程の石山の世田谷村周辺での交友関係のひとつ、そして作品である。

先ず石山から何をやりたいのかの説明をレジュメにまとめたのを話す。

次に大坪さんより、どうすればそれを実現できる手段を法的に満たすことができるかの説明。彼は法学部出身である。

要約すると2020年東京オリンピックを一つのスケジュールの区切りとして、作りたいモノを作り、売りたいモノを売ろうということである。

我々の「すだれ発電」は向山さんの会社、ビジネスボックスが第一号の販売店になることになった。又、大坪さん所有のサロン、ギャラリーはその名を変更して、「飾りのついた家」組合等の商品を一部販売、陳列していただき、大坪さんのやりたい美術品関連の仕事に我々も協力してゆこうとなった。具体的には5月に5月のバラならぬ、佐藤研吾のドローイング展販売会、6月にNPO法人発会式の開催となる。

100円寿司屋に場を変えて17時半迄続行。

世田谷村に戻る。サイトをのぞいたらXゼミ石山101信「アミダハウス」批評がすでにONされていた。いささかのなぐり書きであったが、マア手抜きはしていない、一読を願う。

11月29日、7時離床。宮崎の綾町・綾国際クラフトの城玄太さんより資料及びCD送られてくる。

11時、GAJAPANより依頼の年末アンケートを書き終る。

いささかのGAJAPANの今に対する苦言となるも、できるだけの率直さを持って応えた。

ゲラで少し修正するやも知れぬ。

今日は午後長い長いインタビューに応じなければならぬので、別に準備するまでもないけれど何を話して、何を話さないか位は考えてから世田谷村を発ちたい。

世田谷村日記 ある種族へR171

8時前離床。雲が多いが切れ間から青空がのぞいている。まことに地球は水の惑星だな。朝から黒猫と白猫がいがみ合っていて騒々しい。

ギャーギャー吠えるわけでもないが、ドタドタと走り廻っている。黒猫が白猫を一方的に追いかけている。黒猫は5才、白猫は2才で昨年迄は身体の大きさもまるで違っていた。白猫はチビと呼んでいた。ここ半年で急に大きくなりデカと呼ぶ黒猫とほぼ身体の大きさは同じだ。

でも逃げ廻るのである。

これは2年間の歴史がそうさせている。

圧倒的な大きさの違いの歴史が身についてしまいそれから自由になれない。

しかし、身体の大きさの成長度合を眺めるに、もしかしたら白が黒を追い抜く可能性大である。

そうすると白が黒を追いかけてイジメルという図になるのか。

人間の世界とほぼ同様である。

わたくしもまだ足腰が立ち、あんまり速く歩くと疲れるけれどまだまだ充二分に歩行できる。勿論二足歩行である。四足歩行ではない。

いずれ、今、命令口調で附合っている若い連中から、背中をどつかれたり、そこどけなんて言われるのであろう。

恐らくその時は或る日突然にやってくる。

その時は世田谷村のチビであった白猫がデカであった黒猫をドカドカと追いかける日、時に重なるであろう。注意深く2匹の対立状態を観察しよう。

11時半研究室打合わせ。まとまりの無い打合わせであった。勿論わたくしの責任だが。そればかりではない実ワ。明日のオジン達との打合わせに備えての相談。若い人間には打合わせそのものへのリアリティーが著しく欠けているのを実感する。15時前了。

18時、明日の烏山会のレジュメ作成。研究室にまとめるように依頼。

西伊豆松崎町の伊豆の長八さんの清少納言の高炉峰を御簾を巻いて望むの図を、世田谷式すだれ発電のPRに使えないかと思い付く。

海外向けには良いだろう。

明けて11月28日。9時半離床。昨夜は「Xゼミナール 河内一泰アミダハウス」を夜中まで書き寝過ごした。飛び起きて11時前書き終える。送信する。12時に近所の長崎屋で打合わせを始める予定。

世田谷村日記 ある種族へR170

11月26日10時世田谷村発。途中で今朝は湯島で国立近現代建築資料館の坂倉準三展オープニングがあることに気付き、あわてて目的地を変更。11時過着。大変な人で入館は行列を作る状況であった。

ひとわたり坂倉準三「人間のための建築 建築資料に見る坂倉準三」見て廻る。懐かしいブループリントの図面が多く展示されており、人間の手と頭がまだ建築デザインをコントロールし得ていた時代の、まさに人間のためのスケールの建築を振り返ることができた。

12時過、鈴木博之、難波和彦両氏と会場を抜け上野精養軒の昼食会へ。先程会場でお目にかかった安藤忠雄さんが新国立競技場の有識者会議を済ませるのを待つ。やがて現われ諸々の雑談。

新国立競技場の国際コンペは結果が出てからの国内の建築家達のブーイングがあった。結果として面積=建築コストの減少となったが、これはブーイングがなくともこうなったのではないか。

15時前散会。

今日は久し振りに随分沢山の方々にお目にかかった。国立近現代建築資料館が少しずつ地道に社会に根をおろし始めているのを感じる事もできた。

18時半世田谷村に戻る。

24時、「飾りのついた家」組合、「森の家」計画・佐藤研吾のドローイングについて雑感2を書き送信する。

このドローイングは書くに値する。

世田谷村日記 ある種族へR169

11月26日8時過離床。昨日は向山、大坪両氏とお目にかかりこれからの世田谷での活動について話し合った。お二人は対比的な性格であり、又思考形式の持主で、話していて面白い。大坪さんの処をNPO世田谷式生活・学校のセンターとして使えないかと話したり。

来年の5月、大坪さんの処の庭にバラの花が咲く頃、「飾りのついた家」組合、佐藤研吾ドローイング展・森の計画を開催することになった。

昨夜の雨で空は澄んでいる。陽光が有難い。

世田谷村日記 ある種族へR168

11月24日7時離床。静かな朝だ。

サイトがだいぶ更新されており、視入る。

ドローイング「ヒマラヤの女性」「山の家族」「森の老人」「森の部屋と女」「家の頂部について」「アメリカの森の女性」佐藤研吾作について、いささかの考えを書いてみる。構えたら書けぬ、その作品同様に自然体でいかぬとどうにもならぬのである。

12時了。小休。

16時烏山KCヒマール。「飾りのついた家」組合主催、後援ネパール大使館の「Live at K.C. そしてちょっとした展示会」へ。

17時開場、17時半開演。隣家の向山一夫さん達のフォークバンド頑張る。

40名程の来客で狭いお店は超満員である。

ライブはフレンドリーなもので、来客の森繁建さんがバンドの連中と「知床旅情」を演ったりで和気合い合いたるものだった。

19時半了。皆さんと別れ森繁さんと宗柳へ。OB武藤弥さん、古谷俊一さん他来て小2次会となる。21時前散会。

明けて11月25日8時離床。曇り空。烏山神社の森蔭に烏とび交う。

昨日のライブ&展示会では組合の作品が数点売れたそうである。

少しでも動いてくれれば良い。

大相撲は予想通り日馬富士が白鵬を破り優勝した。白鵬の身体からは横綱の矜持は感じられても、赤裸々な闘争心が感じられなくなってきていて、そう予想していた。一気に稀勢の里時代がやってくるやも知れぬぞとヘボ予言をしておく。稀勢の里は北の湖と同じに頭の中が全くカラッポそうなのが面白い。世に言う馬鹿者とは異なる。それに近いが画然として異なる。この人には笑い顔が実に似合わないのである。動物の多くは笑わぬ。でも動物の多くは馬鹿者ではない。生物として賢い。そういうところが稀勢の里には在る。

この人は一度横綱になったら長く綱を張り続けるであろう。

世田谷村日記 ある種族へR167

11月23日、バスを乗り継いで世田谷美術館へ。乗り継ぎが珍しくスムースで早く着いた。13時30分レセプション会場開場。カタログをいただき、ダアーッと展覧会場を駆け足で見て廻る。整然たるゴッタ煮の印象。岡本太郎のドローイングに見入る。

14時レセプション始まる。酒井忠康館長あいさつ。保坂展人世田谷区長あいさつ、区議会議長あいさつ。山口勝弘先生車椅子で来場。2言、3言話しを交わす。声も大きくホッとする。

終了後、渡邊大志、佐藤研吾等と再び展示を見る。

一つ一つの作品に見入るというよりも、戦後の日本美術史との関連や、何をその中で成したのか、成し得なかったのか等感じたり、考えたりしながら巡回するのが良い。実験工房の人々の思考、そして表現はわたくしには少し計り冷た過ぎる。作品ひとつ、ひとつのポテンシャルはやはりどうしても具体派の連中のモノの方が、わたくしには身近だ。

山口勝弘先生の最初の(ナマ)な血の脈動の如き表現群を知るだけに、その全体の冷めた印象とのギャップがはなはだしく大きい。

頭で考えて、何かを把握せぬと気がすまぬというよりも、やはり西欧思想や表現を学ぶという、学習の姿勢が表に出てしまうのだろう。

レストランでコーヒーを、ときの忘れもの・綿貫不二雄さん等と。

学芸員野田さん、武蔵野美術大学の高島直之さんと立ち話し。

又、ゆっくりと会いたいものだ。美術館連絡協議会・矢崎、岩田さんより資料いたただく。日本テキスタイルデザイン協会・わたなべひろこさんに久し振りに会った。

16時過去る。

17時過烏山、長崎屋で佐藤研吾と雑談しながら大相撲のTVを観る。稀勢の里、白鵬に力で勝つ。明日は白鵬は日馬富士に負けるぜコレワと新ちゃんと話す。ここは美術とは全く無縁の世界である。日本の現代美術は現実の人々の生活とは無縁か?

理屈の多いワインBarに寄って、やっぱり不愉快となり世田谷村に戻った。

世田谷村日記 ある種族へR166

10時半過研究室打合わせ。インドのアーメダバードのバリクリシュナ・ドーシ事務所の飯田寿一さんよりドーシ設立の建築学校CEPTで3月に講演、もしくはワークショップの依頼の書面届く。

行ってみたい。アーメダバードには見たい建築もある。校長のチャヤ氏とも面識がある。

隈研吾さん、日建設計の山梨さんより依頼していた作品データ届く。

キチンとした批評をしたい。

Xゼミナールに難波和彦さんの高木正三郎「博多百年蔵の再生、2006〜」評がONされていて読んだ。

難波事務所OBの河内一泰さんより次回作品批評予定のアミダハウスのデータ送られてくる。図面が小さ過ぎて読み取り難いが日本独特の小住宅である。

批評することにより自分自身のREFRESHを企てているのだが面白くなりそうである。

「飾りのついた家」組合のミーティングは濃密にならざるを得ない。12月の世田谷区での講演他でも公にするわけだが力を尽くしたい。

佐藤研吾の独人で多くのドローイングを描いているのを見る。

実に独特な表現能力を持つのを再確認する。

「飾りのついた家」の中軸作家として育てたい。

翌11月23日8時離床。昨夜は乱読して寝覚めは良くないが、陽光はキラキラと美しい。新聞にはオヤと思う事が多く書かれているけれど読むとほぼ同時に忘れてしまう。

部屋の一角にゴッソリ積み散らかしてあったほぼ一ヶ月分程の新聞をダーッと読み散らしてゴミとして紙袋に入れた。気になって切り抜いたのは天皇陵に関する記事と風景画に関するものだけだった。

遅い朝食をとる。昨日、今日と世田谷村はネコ2匹とわたくしの3匹だけである。ネコはウロウロと部屋を巡っている。手持ち不沙汰なのか?

世田谷村日記 ある種族へR165

11月22日、5時離床。昨夜は早く眠った。まだ暗い。もう冬だな。

家内、川合花子さんにお目にかかりに出掛ける。川合健二さんには若い頃大変勉強させていただいた。夫人の花子さんも大変な怜悧さの持主だが、年を取られて何を考えておられるのか知りたいところだが、家内に任せるしかない。

しかし、5時からゴソゴソやっていると、これは1日が長いなと思いやる。

9時前午前中の打合わせの大まかを決める。

9時半世田谷村を発ち研究室へ向う。

世田谷村日記 ある種族へR164

11月21日7時半離床。青空雲無し。新聞読むも何も無し。

キャロライン・ケネディのツイッター、ポール・マッカトニーの大相撲懸賞金くらいか。このところ地震が小刻みに関東で続いているが大地震につながらねば良いが解らない。

昨夜は送ってもらった近代絵画、ジョルジュ・ルオーの資料に眼を通したが目星をつけている題材には仲々手が届かない。

来日しているポール・マッカトニーが相撲の懸賞金に目をつけたようにはいかぬのである。 具体派や実験工房の山口勝弘さんといささかのお附合いをさせていただいている。日本の現代美術の二大ピークであろう。がしかしほんの一部の人間しかそれも知らない。今は昔になり始めているのやらスーパーフラットの村上隆を知る人も決して多くはない。現代美術は現実には小さな離れ島にしか過ぎない。それも現実から浮遊したスウィフトの空中都市みたいなものである。ひょっこりひょうたん島の陽気さもない暗いアイロニカルな小世界である。建築家らしきのドローイングの世界は今だにイタリア未来派のアントニオ・サンテリアを超えるモノはない。

磯崎新からワルター・ピッヒラーのドローイングが良いとハンス・ホラインと意見が一致したとは聞くけれど、ピッヒラーもホラインも日本では、あるいは世界でもあんまり良くは知られていないのではないか。

良く知られている、つまりその情報が社会を良く流通しているから価値が、つまりは意味が大きいとは言えぬけれど、あまりにも流通していないとそれは一種の閉鎖社会をつくることになりかねない。

グズグズ理屈をこねているうちに隣家の向山一夫さんから電話があって、「ブドウ畑」計画、つまり「飾りのついた家」組合での広報を2、3ヶ月待ってくれとの事。どうやらワインの醸造量の問題で工場長から意見が出たらしい。

納得する。こちらの考えもいささか性急に過ぎたのは自覚しているので少しゆっくりとやる事にした。

マア、ワルター・ピッヒラーのドローイングは誰も知らぬと決めつけてしかるべきであろうが、山梨のワインはヨーロッパの人間は知らずとも日本では建築家のドローイングよりは余程高名である。

何を言いたいのかとようやくハッキリしてきた。要するに一時期のマンガや劇画程ではなくとも、今の少し落ち目になった日本のマンガの作家位に、いささかそれと張り合える位なドローイングを描く奴が建築の世界から出て欲しいと思っての事だ。

建築の世界とわざわざ狭く言う必要はない、創作の、あるいは表現の世界から出たらゴッツク面白いのではないかと考える。

今、「飾りのついた家」組合のサイトにONしている佐藤研吾のドローイングはそんな御大層な事共を考えつつ、彼に課した試作品の一部である。何故お前、石山がやらんのかと言われても、わたくしはいささか年を取って脚力が鈍りつつある。先ずは若い奴に走らせてその後をトボトボと歩くのも良しと考えたからに過ぎない。

それで今もう一度、近代絵画の勉強をやり直している。又、ジョルジュ・ルオーの絵や版画も勉強している最中なのである。

やるからには、あるいはやらせるからにはそれ位の舞台装置の中で演じてもらいたいのだ。

それ故、今サイトにONしている「ヒマラヤの女性」の実物は24日のK.C.ヒマールの店内に展示したい。

小林秀雄の『近代絵画』はドイツの美術史家ヴォリンゲルの『抽象と感情移入』を下敷きにしているが、実ワ話しをそんな処に持って行ってはイケナイ。

再び世界を狭くしてゆく堂々巡りのループに陥るばかりだ。

宮沢賢治は仏教世界に、具体的には日蓮宗の南無妙法蓮華経の世界をその創作の原泉としていた。賢治の世界はその原泉は決してそれひとつではあり得ぬ自然な多様を持つが、その最深の世界はジョルジュ・ルオーがキリスト教世界を描く宗教画を大枠として持っていたのと同じに、賢治は仏教をベースとしていた。

ただ日本の近代は賢治をして仏教を生ましめたヒマラヤの山々の巨大さを体験させ得なかった。賢治の生家は東北の貧しい農民相手の高利貸し、すなわち質屋であったから金は山程とは言わずワンサカ持っていた筈であったが、南無妙法蓮華経を太鼓を打ちながら読経して花巻の雪降る径をゆく困った息子を遠くヒマラヤ迄旅させる度量は無かった。

高利貸武富士のオーナーが八ヶ岳山麓にヴェルサイユ宮殿を模した大邸宅を構えたらしいが(実見していないし、見たくもないが)それとは別の意味で日本の岩手に閉じ込もらせた。そして頭でっかちの夢想家、日本的モダニストを育てた。賢治はあんまり旅をしなかった。

東京に2度程出たくらいか、その東京にはアメリカから同じ時期にフランク・ロイド・ライトが海を渡ってほぼ逃亡生活を送っていた。

恐らく二人は旧帝国ホテルの建設現場近くのお堀端ですれ違っていたかも知れぬ。

賢治は自作の出版の件で神田近くのお堀端ですれ違っていたかも知れぬ。

賢治は自作の出版の件で神田あたりに出没していたようだし、神田とライトのいた帝国ホテルは目と鼻の先である。

新しモノ好き(モダニスト)の賢治は帝国ホテルにも出没していたであろう。

フランク・ロイド・ライトは健脚であった。同じ年代の賢治は岩手に閉じ込もり、海外を知らなかった。仏教に帰依していながら仏教の故郷インド、そしてヒマラヤを実見しなかった。

賢治がイーハトーブのナメトコ山じゃなく、実物のヒマラヤを体験していたら、その表現はいか程に汎世界的なモノになっていたかを想像するのは楽しい。賢治の文学はエスペラント語にも訳され、又世界60ヶ国語に訳されているようだから、日本文学史上最大級の世界人であることは間違いではない。でも更に巨大な世界が表現されていたに違いない。

賢治のドローイングは余りにもったいない。清冽ではあるがやっぱり私的心象の枠を出ない。

佐藤研吾の「ヒマラヤの女性」を24日のK.C.ヒマールのライブに際して会場の壁にプレゼンテーションしてみたいと考えたのは、それ故にである。

彼は今、「Journey to the West」西遊記のプロジェクトに取り組んでもいる。

僧玄奘が敢行した史上最大の旅、長安からインド・ナーランダ迄の大旅行を追体験しようと試みている。

インドのラダック地方では一部玄奘の足跡をたどったりもした。

賢治の表現の中に表われる諸動物の形姿とその言動は鳥羽僧正の鳥獣戯画すなわち日本のマンガのルーツの世界より余程宗教世界に近いが、言ってしまえばより高踏なマンガ世界でもなくはない。

佐藤の「ヒマラヤの女性」は背に住宅を背負っている。かたつむり人間でもある。その建築的意味も重要だが、ヒマラヤを家を背負って平気で越える人間の方がもっと重要である。

このドローイングに描かれた女性がどんな旅を、すなわち展開を見せてくれるのかを興味深く見守ることにする。

世田谷村日記 ある種族へR163

7時半過離床。昨日見た読者製作のオリジナル・ベルトは有泉眞一郎さんの第Ⅱ弾コレクション、鉄人28号と一緒にサイトにONしたらいいのじゃないかと思い付く。

世界中に栓ヌキの数も種類も無数にあろう。でもあの人間の耳の形に似た金属製の小さな取手のついた良くある栓抜きをベルトのバックルになるなと考える人は極小の種族に属する。

落語的発想で好きだ。

落語家の中でも極上な古今亭志ん生の愛岩山みたいな味わいがある。

頭のてっペンに水たまりが出来て池となり、その池に飛び込んじまおうかという、もうビックリを超えちまって、コリャ芸術だと言う位の域に達している。

この栓抜きも、ベルトのバックルにしたら、人間の腰からズボン(今はパンツと言うらしい)を体からずり落ちぬようにするのか。

人間が栓を抜かれて別人になってしまうかの、そんな気配が無いわけではない。

鉄人28号のベルトは横山光輝が良く描き忘れたと有泉眞一郎は言っている。

この栓抜きベルトも、ベルトをつけているのを忘れてしまいスポリ人間そのものが抜けてしまい、鉄人ならぬ別人になってしまうような気配を漂わせる。

変身願望の強い方にはとても合うのではあるまいか。

又、宮崎県綾町の音楽家から送られてきた音の数々もビジュアルを少し工夫してもらえば何とかなるやも知れない。

音に関しては組合員に岩手県一関のベイシー店主菅原正二さんが居るのでどうしてもテイストに関してハードルが発生してしまう。でも門戸をこと更に狭くする必要は無いので再考を要する。しかし、人の輪の拡がりから自然な何でもOKと言うわけにはゆくまい。

おだやかな朝である。北のガラス窓から烏山神社の森が眼の先に視える。枝も葉もそよとも動かない。森の中に鳥の姿も視えない。

こちらから鳥の姿を眺めようとしているのは、鳥もこちらの様子をうかがっているのかと思い、妙な気分になる。

9時前お隣の向山一夫さんに電話して11月24日のライブの定員について最終打合わせに入る。恐らくあと数名で席数は一杯になってしまうが、それをもう少し増やせるかどうか他の話しだ。

どんな人達に会えるかどうか楽しみである。

世田谷村日記 ある種族へR162

10時前、大阪の安藤忠雄さんより電話あり、「娘に会ったで」の話し他。Xゼミナールで安藤忠雄作品批評をやりたい旨伝える。

キチンとした安藤忠雄作品評はあるべきだろうとの考えからだ。

Xゼミナールの一部に作家論磯崎新を書き継いでおり、たまさか小休止しているが、岩波書店の磯崎新論考集を読み継いだ結果、安藤忠雄論がどうしても必要だろうと考えたからだ。より広範な日本の文化論として安藤忠雄論は重要だろうと勝手に大ゲサに考えている。

一人芝居だが、やりたいのでやってみたい。

11時半過研究室で諸々の打合わせ。宅急便で市根井立志さんより諸々届く。15時半了。新宿で遅い昼食。18時烏山に戻り、諸々の打合わせ、19時半世田谷村に戻る。

「飾りのついた家」組合原口陽子さんと話す。作品リストへの作品名BON.BONを変えた方が良いのではないかと伝えるが、わたくしの言っている事が通じないようでこれは仕方ないと考えた。それ以上は言わず。

明けてとは言っても11月20日深夜2時。

ノッソリと起き出してささいなメモを記す。

こんな小さなことを記して、ようやく今を明日につなげる事ができる?

他愛ないものだ。かたつむりの歩みだな。でも記録するの意味はこれである。

そう言えば読者よりオリジナル・ベルト(バックル)を組合の作品リストに出してくれとの申し入れがあり、作品映像を見た。面白いモノを考える人がいるもんだなあと思う。近くの人であればお目にかかってすすめたい。こういう申し込みは大歓迎だ。

3時過再び眠る。

世田谷村日記 ある種族へR161

12時研究室打合わせ。佐藤研吾の家具の小屋(仮)ドローイングを見る。彼のドローイングについてはいささかを述べてみたいので準備を始めたい。

「ヒマラヤの女性」については一瞬ルオーの「郊外のキリスト」を想い起こした。

ヒマラヤの峠を大きな荷をかついで、それでもしっかりと歩く人間を描いたものである。背にした箱家具には一軒の小さな小屋の部品が収納されている。

大工・市根井さんとのやりとりも軌道に乗せているようだ。市根井さんより「森の家」シリーズ、第一作の木製品を今日送附するとの連絡あり。

宅急便で送ることが出来る小屋があったらとても面白いだろう。

以前「宅急便ウィンドー」と呼ぶ木製の窓キットを製作した経験があるのを思い出した。

13時半製図室で東大早大合同課題講評会始まる。早稲田、石山、中川、入江、古谷、北園、高木他各先生出席。東大、隈、千葉、成瀬、中村各先生出席。

わたくしにとっては最後の講評になるのでいささかの感慨を込めて両校の学生に話した。

冒頭から東大の作品の真当さと早稲田の作品の私性あるいは自分の内への視差へのこだわりを感じる。

それにしても東大のプレゼンテーション能力は7年前と比較すると雲泥の差がある。つまり成長した。早稲田は本来あった裸形のエネルギーが減少したように思う。

隣席の隈さんにXゼミナールでの隈さん作品への批評を試みたいと提案し、了承を得る。今週は安藤忠雄に会うので同様に提案する。

学生作品では東大海老原利加、割田聖洋の高架線下のスーパーローラーコースターの如くの森状の構造に健全な可能性を感じた。

しかし、いささかの荒さがそれこそ健全にスクスクとのびてくれるかどうかに一抹の不安もある。

早稲田では木村由佳の住む機能が遠く離れて分断し、スレスレに連結しているモノ、前川朋子の桜の樹を不定形のインフラ・ストラクチャー状に高架前の広場にぶちまけたモノが面白かった。

共に都市に対するテロリストの風貌を想わせる。桜上水の桜なのか、満開の桜の樹の下での桜なのか不明ではあるが、本来このような暴力的な考えは男性原理の典型かと思われるが、東大、早大共に女性のアナーキーな思考が目立った。男女の創造力の根が交差している印象がある。

17時懇談会。隈研吾さん来年も何等かの形で続けましょうかとなる。

折角できたパイプでもあり何かの形で継続するのが良いだろう。

18時製図室を去る。19時過世田谷村に戻る。

翌11月19日、7時離床。昨日のメモを記す。今朝の陽光はキラキラしている。一片のちぎれ雲が浮かぶ。

馬場昭道さんより電話あり。

宮脇愛子さんより、ときの忘れものでの12月4日〜12月14日の新作展の知らせくる。12月7日にレセプションがあるそうで行くつもり。

「飾りのついた家」組合のこと色々と考える。8時半小休。

世田谷村日記 ある種族へR160

11月18日寝過ごして9時離床。昨夜来考えていた事を隣家の向山一夫さんと話す。「飾りのついた家」組合、ブドウ畑計画についてである。

ひとつの計画について想いを巡らせているとフッと突破口らしきが開けるものだ。北海道でやりたくってまた出来なかった事が山梨のブドウ畑に飛んだか?

今朝も陽光が差してくれているが、輝度はにぶい。空模様は一日一日それこそ充分に千変万化である。

水蒸気と微妙な風の吹き方によるのであろう。

学生の頃、ポール・ニザンの『青空』って小説を読んだことがある。

当時学生達に少しばかり受けていた小説で、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のヨーロッパ版だった。どっちが本元なのかは知らぬ。

風の噂ではサリンジャーはライ麦畑以降何処かの小さな町の一軒屋に引き込もりあんまり他人と会わなくなってしまったようだ。

アメリカの中西部の風景の退屈さはわたくしには度を過ぎているけれどそのアメリカ特有の退屈さ、平板さの中に隠棲したのであろうか。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのアルルの絵にだまされてフランスは色彩豊かな自然を持つところだと、それこそ勝手な印象派になってしまっている我々だが、少い体験でしかないがフランスの青空一般はそれ程青空に輝度がありはしない。風景の色彩と気温は実ワ連関している。

ヨーロッパアルプスの北はやはり地中海沿岸と比べれば実に寒い。その寒さと人間が体感する色彩を含めた視覚、つまりは対応する感覚は強く関連しているに違いない。

10時過打合わせに大学へ発つ。

どうも花器他を考えようとすると、いきなり利休の茶室の竹の花器まで一直線に行ってしまうのがいけない。普通の生活の中の花について考えたいのだけれどうまくいかないのだなあ。

世田谷村の生垣は今美しい。白と赤のさざん花の花が咲きすでに花を道に落としている。高さは4m位。わたくしの意は何処にも働いてないけれど、独特なモノに成長している。

世田谷村日記 ある種族へR159

11月17日8時離床。今朝も陽光が明るい。昨日は「飾りのついた家」組合日誌33を書いた。今進めている組合にとってはホンの少し計り大事なエッセイである。R.B.フラーのドームのヒッピー版からだいぶ経っての日本での小屋ブーム、そして我々の「飾りのついた家」と駆け足ではあったが小史を述べた。

今朝もその続きを書くつもり。

こうして小史を書こうとすると日本では大事なことはほとんど何も内からは起きていないのを知る。自分自身の小史も又そんなモノなのも痛感する。

ここ数日木製の花差しのデザインを考えているのだが、世田谷村には大きなしかも軽い椀があり、あまりにもその厚みが薄いので木製とはとても考えられない。又、味噌汁をすする中椀もいくつかあってそれはいかにも木製であることがわかる。大椀の軽さは恐らく工業的技術による新材料なのかと思わせるが解らない。身近な材料をしかも食器などの本格的な大量生産品のそれを勉強しなくてはならぬなコレワ。

市根井立志さんに頼んで作っていただいた三球四脚の製作過程での、ロクロによる木の球とその球に椅子の足状の丸棒を突き込んだ実験体のようなモノがあって、面白くて捨てられないでいる。

会津あたりには昔の木地師と呼ばれる職人が山にこもって木椀づくりに励んでいたそうだが、知った時に思い切って訪ねてみるべきであった。

ただ鳴子早稲田湯の設計で鳴子に通っていた時にコケシを作る職人たちのロクロ使いは眼の当りにすることができた。

市根井さんも友人にロクロを使える人がいるようだから、木とロクロの組み合わせを再び少し展開してみるのも面白いだろう。

14時「飾りのついた家」組合日誌34、書き終える。

初めて書くことであったので流石に時間がかかった。

世田谷村日記 ある種族へR158

11月16日8時離床。キラキラと陽光が美しい。サイトをのぞく。どうやら昨夜のうちにXゼミナール作品評3高木正三郎さんの「博多百年蔵再生2006~」に対する石山の評がONされていて読み直すことができた。最近ようやくにしてサイトの使い方が少し計り呑み込めてきたような気がする。石山サイトの日記類Xゼミナール等を読んでいると小一時間ほども時間がとられてしまうが、今の息もつかずに走る必要のない時代には新聞を克明に読むよりは面白くなりつつあると、勿論デザイン他表現一般に感心のある種族に対してではあるが、そう思う。たまには自画自賛も許されよう。

サイトを上手に使うとある特定の種族とも言うべき人々や特に身内の人々との面談にも勝るコミュニケーションが可能である。

26日の国立近代資料館内覧会の後に、上野精養軒で昼食をとることになっている。良い機会だから近くの庭園らしきで友人達と良い時間を過ごしたいと考えた。年々歳々時間が過ぎ去ってゆく速力が早くなっている。こちらのそれに対応する能力が低下しているからだろう。

だから一刻一刻を、月並みだが大事にしたいと思うのだ。

何とスケッチブックをのぞいてみたら、木の花差しらしきのスケッチをしている自分に会ってしまった。しかも昨日の事である。しかし、数枚も連続している。どうやらこれは一生懸命「森の家」(木霊)と題したプロジェクトへの道筋であるらしい。

昨日のスケッチに関してあるらしいとは我ながら不可解であるが、その間の事は「飾りのついた家」組合日誌に少し計り記すこととする。

世田谷村日記 ある種族へR157

12時過研究室とり急ぎ打合わせ。13時会計事務所来室。今後の事他打合わせ。13時40分了。16時迄再び研究室の面々と打合わせ。

「飾りのついた家」組合はとどのつまりわたくし共の販売力にかかっているのは歴然としているが素人ばかりでボー然とする。が、しかし成さねばならぬ何事もである。恐らくドンキホーテの眼差しにすでになっているのだろう。

16時何しろ出来ることを少しずつでも着々とやるしかないとつぶやいて皆と研究室を発ち洗足へ向かう。何度か地下鉄、東急線を乗り継ぐ。伊藤アパート上棟式に出席。施主、サンユー建設の皆さんと式をとり行う。

昔の上棟式と比べるまでもなく簡素で事務的なものではあった。

伊藤さんのお宅にて手料理、ワインをいただく。

息子さんの伊藤圭さんは以前からその人柄に興味を持っていたので、いきなり「飾りのついた家」組合の販売に協力してくれるように依頼する。12月はじめに再び会うことにする。

18時了。伊藤さん宅を辞す。伊藤圭さんに烏山迄車で送っていただく。19時世田谷村帰着。

明けて11月15日7時半離床。空は明るいが青空は見えない。薄陽模様である。昨日の日記R156に空模様の言い表し方が我ながらつまらないと記したが、今日も相変わらずではあった。

長い事かくなる日記を記し続けていると唯一自分の表記能力、つまりは日常の表現能力が実につまらぬ事だけをつくづくと知るようになってボー然とするばかりだが、こればかりは資質そのものなのだろうとあきらめるしかないか?

しかし、あきらめてしまっては日記をつける意味もないだろうとも思い当る。

8時半昨日手にした福岡の高木正三郎さんの作品「博多百年蔵の再生」の資料に目を通す。いきなり何か書きたくなったので批評を書き始める。

林檎の礼拝堂、田窪恭治をしきりに想い起こしている。

10時過4枚迄書いて小休する。あと1時間くらいで書きおえることができるだろう。書いていて色々な事を考えられて貴重な時間を得ることができた。

世田谷村日記 ある種族へR156

7時離床。陽光あり、うっすらと雲が流れているが昨日とはうって変わった晴天である。天候の表現の仕方が我ながらつまらないので明日は少し工夫してみるか。

新聞を読みおえ、サイトをのぞく。

Xゼミナールに難波和彦さんの遠藤直樹さんの設計になるナチュラルステックⅡ評がONされている。昨日の鈴木博之先生の批評も並び、これでようやくXゼミナールらしくなったなと小さいけれどもある種の達成感が湧く。

鈴木博之さんはどうやら西洋建築様式の根底にギリシャ神話の世界の諸相を視ようとしているのかと痛感した。しかし考えてみればそれはその通りなのであって、建築設計という職業を選んでしまったそれぞれの人間の才質の遡行力にも言えることなのだろう。ここで日本神話を比較したりの愚は犯さぬが古代インド神話位は持ち出したいところだけれど、重過ぎて持ち出す力が無い。残念である。難波和彦さんの命名法への疑問は卓見である。わたくしも遠藤さんの小住宅に何故この命名なのかさっぱり解らなかったからである。しかし、わたくしも若い頃の小住宅にイリスとかひまわりとかの名を与えて肩をいからせていた事もあるから、この命名の不可解は若い建築家のかかりやすいハシカみたいなものなのか。いずれにしても若い頃のあれやこれやはまことに恥多き数々ではあった。

昨夕、福岡の高木正三郎さんから次回Xゼミナール作品批評の対象として自身が保存、再生、設計している「博多−百年蔵」の資料が送られてきたものを一部見た。

140年の歴史を持つ文化財として指定された古建築を2006年から毎年少しづつ手を加えているものらしい。これは批評するに手強そうだと直観する。これ等若い建築家達の作品を批評するに当り、先輩顔して上から眺めおろすのではなく、同じリングに上がって競ってみたいと考えた。それでわたくしも若い頃の作品をとり出して作品としてひとつひとつに当てたいと考えたのである。

この作品が手強いのは自分の作品として何か対抗できるものはあるのかといぶかしむからだ。わたくしにも伊豆西海岸松崎町での蔵の保存、改修の仕事らしきの未完成はあるが、これでは不十分である。

フッとひとつアイデアが生まれたので何とかやってみたい。

北園徹さんの作品に対してもそれをなさねば失礼になるから、いずれキチンと対抗してみたい。

そんな事共に想いを巡らせていると、コレワえらい事を始めてしまったなと思わぬことも無い。でも頭脳を刺激する以上の楽しみは他に多くはない。やり続けてみたい。

世田谷村日記 ある種族へR155

14時半京王プラザホテルロビー、佐藤研吾さん他集合。11月24日の烏山KCヒマール(ネパール、インド料理屋)での「飾りのついた家」組合主催世田谷式・生活学校共催、ネパール大使館後援のライブ、そして原口陽子さんの極上手織りテキスタイル等について打ち合わせ。

以前OBの五月女さんが作ってくれた「キルティプール計画」の動画の再利用再生、そしてそれに原口作品の組込みを考えた。

あの不思議な動画もようやくある種の社会性を持つことになる。

16時前了。次いで引き続き安西直紀さんと東北のマタギに聞く学校(仮)の打合わせ。

16時20分より長澤社長来て安西直紀さんに紹介、山形及び秋田でのco-workの可能性を探る。又、上野アメ横の摩州さんの店が今や大盛況であるとの報告も受け、その映像資料をいただく。摩周さんは根性あるな。やっぱり。

17時過修了。

次いで長澤社長と打合わせ。長澤さんは明日より中国、タイ、インドと巡回出張との事。相変わらずエネルギッシュな人である。実に良く動く。

18時過5階に移り、オーキッドホール(大宴会場)の世田谷区長・保坂展人の会へ。控室で保坂展人区長と長澤社長との小打合わせ。近々区長公室長を窓口としてクリーンエネルギーの普及の具体策の会合を持つこととする。長澤社長成田空港へ去る。

18時半保坂展人区長の会始まる。石森彰さん来て、保坂区長と挨拶、副区長にも紹介する。

世田谷造園協力会副会長・斎藤悟さんに志村造園との「生け垣プロジェクト」に関して挨拶される。このプロジェクトに参加していただければ嬉しい。

会場は大変な盛況で超満員である。

すっかり世田谷におなじみになった有機野菜農場主としての菅原文太さんの挨拶は簡にして明、細川護煕と小泉純一郎、元首相の発言を引き、脱原発の要を話した。菅原文太さんは山梨県の人である。

「ブドウ畑プロジェクト」の顔にもなっていただこうと考えた。

保坂展人区長の会は今や退潮の著しい旧革新系の議員がゴッソリ集まり、それぞれの顔見世に励んでいた。今や日本ではほとんど唯一の目立つリベラル系になりつつある保坂区長にブラ下がろうとする意が歴然と見てとれる。

菅直人元首相の挨拶は余計であったと、わたくしも余計なことを書く。

悪いクセだ。21時家内、石森彰さん共々会場を去る。

22時世田谷村帰着。

明けて11月13日。8時原口さんの電話で目覚めた。原口さんとKCヒマールの展示について話し、すぐに佐藤研吾さんにつなぐ。

10時前向山一夫さんとの打合わせ始める。今日からサイトにもKCヒマールでの「飾りのついた家」組合主催のライブ広報がONされるが、皆さんこぞってご参加下さい。わたくしのキルティプール計画のはじまりだと考えてくだされば一応の脈絡もつくであろう。

世田谷村日記 ある種族へR154

10時前大学卒論発表会場。渡邊大志、佐藤研吾両氏と小打合わせ。

10時より卒論発表を聴く。13時過入江正之、古谷誠章、渡邊大志さん共々昼食へ。少し計りの雑談。その後わたくしは私用で中座する。

私用を済ませ夕刻世田谷村に戻る。Xゼミナール、石山99信、遠藤政樹さんの「ナチュラルスティックⅡ」作品評8枚を書いて19時過送信する。

明けて11月12日8時離床。サイトをのぞく。Xゼミナールは更新されていた。北園徹さん、遠藤政樹さんと作品評が2回続いたが今後の展開には知恵を要する。難波和彦さんと再び相談してみる必要があろう。

難波和彦さんと連絡する。電話版Xゼミナールである。次回も若い建築家の作品評とし、3回目をうーんと若い世代の小さな実作、あるいはプロジェクト、ドローイングにしようかとなる。私見であるが3回目迄石山研OBvs難波研OBの構図とし、それ以降はより開くというのはどうだろうか。

第2回の石山研OBは高木正三郎さんの作品、第3回は飛び切り若く佐藤研吾さんを打ち出してみたい。

第4回は外国で活躍している人材が望ましいやも知れぬ。あくまで私見だが。できるところ迄精一杯やってみる価値はある。現在建築ジャーナリズムは事実上壊滅してしまっているし、視覚芸術分野も然りである。いささか年を経てみれば誇大妄想的発想も1つの突破口になり得るだろうし、わたくしの出来ることと言えばどうやら一つの小戦略にはなるであろう。

鈴木博之さんの大所高所からの俯瞰も必要である。俯瞰とは言わず、その意見はXゼミナールには必須である。

ところでXゼミナールは我々が、批評にとり上げた人材は自動的にXゼミナールの参加者になるという小さなシステムも必要かと思ったり。

日建設計の山梨さん、日経アーキテクチュアの宮沢さんよりメールいただき、11月9日の幻庵行は好天に恵まれ、うまく七久保川も渡河出来たようでよかった。

幻庵主榎本令夫人の高齢もあり、これでしばらく幻庵見学は打止めとしたい。わたくし自身は来年の2月、小盆地に梅が咲き、香りがほのかに幻庵内にしみ込んでくる頃に弟子達を連れて訪ねてみたいとは考えている。誰も訪ねる事なくも、幻庵の内に陽光、色光は地球の自転と共に回転し、虚空を荘厳するのをわたくしは知覚している。もう古い友人みたいなモノでもあり会わなくっても何変りもない事も知っている。

図書刊行会より『異形の建築』の出版の件、故毛綱毅曠夫人毛綱千恵子さんより毛綱の原稿もいただけることになったとの事である。

わたくしにとっても身の回りの世界が一回転して振り出しに戻るような気持ちもあり、良い本を作れれば再び毛綱への花向けにもなるであろう。

長澤社長より今夕の保坂区長及び安西直紀さんとの面談の最終の段取り。「世田谷式ソーラーすだれ」の開発状況の映像を持ってきていただく事とする。この「世田谷式ソーラーすだれ」も近々「飾りのついた家」組合の強力な商品となるであろう。

世田谷村日記 ある種族へR153

11月11日7時過離床。どうやら明後日の水曜日迄は天候は寒いようだ。 フィリピンのレイテ島では台風30号により一千数百人の死者との事。日本と同様島の住人の宿命である。津波と高潮は。昨夜ベイシーの菅原正二さんから送られてきた「菅原正二関連アルバム」資料に視入る。

1977年の「High Way / High Society Orchestra」フィリップス、から2011年「A DAY AT JAZZ SPOT BASIE」ステレオサウンド、までの8作品である。中には伝説の名盤、阿部薫:徳間ジャパン1997年も入っており、すでに「飾りのついた家」組合作品リスト6番に入れてある2009年の「JAM at BASIE featuring Hank Jones」Swifty88、も入っている。

こういう風に書くと、いかにもわたくしがモダーンJAZZのいっぱしのファンであるようだろうが、わたくしは実にそうではないのである。耳が悪いのもあるし、それ程に好きなわけでもない。

ただわたくしはBASIEという場所(ジャズ喫茶)と菅原正二という人物にいささかも、にさかもいかれてしまった由縁があるからだ。

東北新幹線一ノ関という、東京から2時間半の地のジャズ喫茶である。東京から離れている故に、すでにベイシーは伝説的存在になってしまっている。

うらやましいような、うらやましくはないような気持である。色んな事情があったにせよ、わたくしには出来ぬことではある。とてもできぬ。あの暗い小屋の中に45年以上もこもるなんてことは。

そうだ、菅原正二さんに頼んで江差水沢のフランク若松のシナトラコレクションのいささかも分けて貰えるといいかもしれない。

8時過前橋の市根井立志さんよりFAX入る。昨夜送信した、大黒柱付SOME Thingに対する市根井さんなりのアイデアであった。

これならばわたくしの送ったモノよりも壊れにくくて良いかも知れぬと感じ入る。9時前卒論の発表会のために世田谷村を発つ。

世田谷村日記 ある種族へR152

昼頃、馬場昭道さんより連絡あり。ブラジルの谷さんが亡くなってしまい住職は少し計り心細い想いをしているようだ。わたくしでは谷さんの持っていた土臭さというのか、バナナのたたき売りから身を起こした足を地につけた力というかは不足しているので代わりはどうやら務まりそうにない。人は誰もが他の人の代わりは出来ないのだ。これも不思議な事である。

しかし昭道さんの生まれ故郷宮崎を想い続ける気持は強い。

夕方、再び「飾りのついた家」組合作品番号45~49について考えを巡らせ、組合日誌33を書こうとする。市根井立志さんに連絡してFAX送信する。

暗くなって北烏山の原口萬治さん、原口陽子さん親娘世田谷村に来る。

原口陽子さんの織物作品のデータ、そして写真を持参して下さった。

何とも言えぬ雅気があり、予想以上に素晴しいものである。これは是非共売ってみたい。しかし美術工芸品としての壁掛け、つまりタペストリーとしてのブツよりも女性にしても男性にしても身につけるモノとして素晴しいのではあるまいか。じっくり考えてみよう。

ベイシー菅原正二さんより、ようやくにして菅原正二関連アルバムの資料送られてくる。ほとんど初めての分野のモノをまともに考えねばならぬのは辛いような、快楽のような。我身の能力不足を嘆くばかりである。今更引き下がるわけにもゆくまいし、この組合づくりは自分で自分の首をしめあげているに似るなコレワ。

横になって頭を整理するか、坂道を駆け下るかしなくばなるまい。

我ながら坂道を駆け登るという感じではない。皆さんには恐らく意味不明の独白である。

世田谷村日記 ある種族へR151

11月10日7時前離床。日曜日である。組合関連の連絡は日が高くなってから始めたい。昨日の午後、佐藤研吾さん、向山一夫さんと打合わせて、作品番号44から、49迄の組合のプロジェクトを次のステップへと押し上げることを決めた。

「飾りのついた家」組合は作品番号43迄はモノを中心とするラインアップであった。それも小型のモノが多かった。皆さんに買っていただくモノの価格帯も比較的小額のものとなり、しかもそれがほぼ固定した。

それはそれで良いのだけれど、もう少し従来わたくしがやってきた事やモノとの連続性も欲しい。それに将来この運動らしきは若い佐藤研吾に継承してもらう予定でもあり、彼には大型の建築家に当然なってもらうつもりだ。

だから、それに向けての準備運動にも弾みをつけてもらいたい。

それで、ここで一拍置いて、作品番号44からしばらく不動産に近い商品群を並べて用意することにした。昨日はその打合わせをした。

先ずは山梨のブドウ畑、次に宮古島渡真利島、宮崎県綾町の畑付き民家、秋田県湯沢市のマタギ学校等が討議の対象となった。世田谷の志村造園による生垣も交えることとした。

これ等の物件はいささかの説明を要する。価格も少しは高額だしそれなりの情報の密度が必要だ。ネットの限界を押し上げてゆく必要がある。

それで今日から作品番号44から以後の計画について組合日誌にプレ・プレゼンテーションとして公表してゆく事にして、これから書き始めることにする。

であるから組合日誌のサイトでのポジションをも少し陽のあ当たる場所へと工夫してもらいたい。

9時半7枚書き終え、送信する。

世田谷村日記 ある種族へR150

11月9日6時半離床。すぐに組合関係の電話連絡を始めようとしたが流石に常識に欠けると思い、7時半に始めた。10時前に一段落。

馬場昭道さんの記事「遠く宿縁を慶ぶ」上、が13面・こころに大きく掲載されていてホーッと思う。毎日新聞記者として亡くなった佐藤健の遺言めいた言葉「昭道はいずれ名僧になる」は次第にその通りになっているのやも知れぬ。新聞に大きく出れば良いと言うものでもないけれど、それも大事なことなのだ。

昨日少し頑張り過ぎたので、今朝の組合連絡は少し停滞気味である。わたくしのエネルギー、人脈はこれ位のものなのかとガッカリしないでもない。

しかし、人の輪を拡げてゆくというのは大変な力を要するな。

烏山の志村造園から依頼していた生垣の資料がようやく届いた。

ようするに植木屋さんのカタログである。世田谷村で自慢できるものがあるとしたら先ず生垣だが、これと同じものはすぐには出来ぬ。それでもう少し一般的な生垣を考えてみたい、そして少しでも実現してゆきたいと考えて「生垣」普及運動のようなモノを考えついたのだが、これはたまたま隣家の向山一夫さんとの山梨のブドウ畑プロジェクトとリンクできそうだと、たった今思いついたばかりだ。

そろそろ「飾りのついた家」組合もプロジェクト領域があまりにも散乱し始めているので少し整理しないとならぬ。

今日、午後佐藤研吾と会うのでそれ迄にやる仕事としたい。

しかし、あんまり整理し過ぎると役所的、学校的すなわち先生的にもなってしまうので意図的なルーズさ、隙間作りも必要である。

それで次の組合作品一覧更新からその考えを実行してみることとする。

つまり、作品番号44に志村さんの「生垣」づくりをセットし、45に向山一夫さんの「山梨のブドウ畑」と続けたらどうか。

このプロジェクトは言ってみれば「場所」の再生につながる性格を持つ。

次に沖縄宮古島市渡真利島の少年離島キャンプ、そして秋田県湯沢市の「マタギ学校」と続けたい。この2件は場所のプロジェクトでありながらも、特にマタギ学校は向風学校の安西直紀さんの参入も望みたいので場所—人のカテゴリーが発生するだろう。宮崎県のプロジェクトへとつなぎ、再び48、49と小さなモノづくりの計画につなぎ、そして50に予定通りに「本の卵」計画をスタートさせるというのはどうか。検討してみたい。

山口勝弘先生より便りと世田谷美術館での「実験工房」オープニング招待状が届いた。展覧会は11月24日から2014年1月26日迄である。これを機に「飾りのついた家」組合でも会員山口勝弘先生の御健勝を祝すべく、何かをしなければならぬ。

世田谷村日記 ある種族へR149

11月8日、8時前離床。すぐに「飾りのついた家」組合、プロジェクト関係の連絡を始める。10数件の電話となる。隣家の向山一夫さんとお目にかかり山梨のブドウ畑の件、打合わせ。馬場昭道さん宮崎県綾町の件相談。

綾城内のゲンタロー工房、日高さんとも相談。佐藤研吾にフォローを依頼する。

11時ひと区切り。ひとつでも、ふたつでも実りあれば良い。

昨日は終日、地元烏山で打合わせ。その打合わせの結果が今朝の行動となった。

明日の幻庵行、わたくしは行けなくなったので、その段取りを榎本令夫人としなければならない。

世田谷村日記 ある種族へR148

13時研究室打合わせ。京都計画を中心に多岐にわたった。

「飾りのついた家」組合の打合わせは具体的な壁にドサリとブチ当たっている。

組合員のメンバーを増やす件、サイトのヒット数がリミットに達してしまったようにしか考えられぬ件等々である。

抽象的な打合わせは何の意味もなさない。具体的な人間、情報をひねり出さねばならぬのだ。

研究室のサーバーが古くて驚く程に性能が悪く、これが一番即物的なネックになり始めている。もう、こんな状態が数ヶ月続いているので、アドレス他を早急に変更して、大学のサーバーから自由になるのが一番であろう。

このまんまでは四方八方封鎖状態である。

参加して下さる方、敷居はベラボーに低いのです。事務局の佐藤研吾までご連絡下さい。

組合への参加費は無料です。ただし御自分の作品を一点、映像として送って下さい。

修士設計ゼミをすませ小休。18時過研究室発、新大久保近江家へ。

鈴木博之さん、難波和彦さんとのXゼミナール。鈴木博之さんよりJTBパブリッシング、『世界遺産をもっと楽しむための西洋建築入門』いただく。難波和彦さんよりギリシャみやげのOuzo(強い食後酒)をいただく。又、アクロポリスの丘のパルテノン神殿の大理石の床の小片もいただいた。今世田谷村に在るアルチ村のストゥーパの小石と同様な手ざわりである。

身辺雑事の報告に打ち興じる。

Xゼミの若手建築家作品評、難波和彦、石山修武の北園徹作品が出そろったので、鈴木博之さんにその批評の批評をやってくれるようにたのむ。

やっぱり、3人そろっていないと力不足は否めない。

次回は難波研OBの建築家作品評とする。

国立近現代建築資料館の坂倉準三作品展のオープニングに際して安藤忠雄さんと4人で昼食ミーティングの予定となる。

20時過了。世田谷村に戻る。

明けて11月7日。9時メモを記す。

昨夜、フッと「飾りのついた家」組合の件で良いと思われるアイデアが湧いたので、すぐまとめてみることにする。

いずれXゼミの二人にキチンと説明できるような枠組にしなければならぬ。

世田谷村日記 ある種族へR147

11月6日8時離床。広間に置かれた唐辛子の鞘の赤が鮮烈である。ネパール、バクタプールの道一杯に敷かれた唐辛子の赤を想い起こす。メモを記す。昨日は午後有泉眞一郎さん来室。「飾りのついた家」組合のサイトON予定の鉄人28号2冊をお持ち下さる。

色んな話をうかがえて楽しかった。

夕方宗柳で横山弥太郎、石森彰両氏と雑談。横山さんは91才である。

昨日、Xゼミナールに新設した若手建築家◯と☓第1回に北園徹さんの新鋳造工場が批評対象としてONされた。難波和彦さんの批評文もONされていて早速読んだ

わたくしも批評に参加することにして、とりかかる。

北園徹さんはわたくしが大学教員を始めた四半世紀前の最初の院生であり、言ってみれば最初の弟子でもある。

わたくしも手取り、足取り教えることに異常な情熱を傾けた頃の人材でもある。

それ故に、当然客観的な批評が難しい部分もある。

でもキチンとした批評をなしたい。

佐藤研吾に連絡して藤江和子、その妹さんとのコンタクトを試みる。

「飾りのついた家」組合は少し頑張って女性作家の参加を促したい。

藤江さんとコンタクトできて概略をお話しする。

世田谷村日記 ある種族へR146

11月5日、10時研究室打合わせ。11時ときの忘れもの綿貫不二夫さん、尾立さん来室。来年出版したいと考えている「飾りのついた家」組合の本についての相談。12時過了。

福岡地所の藤賢一さんより便りあり。藤さんはいよいよ上海に上海地慧房地産資詢有限公司を董事長として設立された。いつか中国でお目にかかりたいものだ。

藤野忠利さんより色々なマテリアルが送付されてくる。

世田谷村日記 ある種族へR145

昨夜は坂口安吾の『白痴』、『風博士』等を久し振りに読んだ。特に『白痴』には再び驚く。東京大空襲下の郊外の安アパート群、その一角の木賃アパートの押入れに、まぎれ込んで来た白痴の、人間だか豚だか解らぬような生物のようなモノと暮し、業火の中を逃げまどうという話しである。

東京大空襲から70年程経ったのか。福島第一原発、東日本大震災後の今の現実と何変りがあろうかと想わせる小説である。

広島、長崎への米国の原爆投下は戦争がもたらせる生地獄であった。わたくしは、岡山に居た母が視た、鉄道で運ばれてくる焼けただれた無数の死体の有様の話しから、かろうじてそれを知る。

東京大空襲に関しては岡山に疎開していたので知らぬ。

堀田善衞の『方丈記私記』などの生々しい報告から知るのみである。

坂口安吾の『白痴』は堀田善衞の『方丈記私記』と同様に、あるいはそれ以上に小説の形式をもって大空襲を描き切っている。

これは津波の大災害を目の当たりにしている、今の我々にも必ずや通じるモノである筈だ。

昨日も震源地は何処か知らぬが地震があった。

その連なりで大きな奴がひと揺れくれば、我々はまた、再び白痴の豚のような女と共に業火の中を逃げ惑う人間になりかねぬ現実の中に居るのは間違いない。

明けて11月4日である。寒い。どうやらプロ野球日本シリーズは楽天が巨人を破って優勝したようだ。喜ばしいが、いざそうなってみるとどっちでもいいやの感もある。実際何もとやかく言う筋合いは無いのである。

世田谷村日記 ある種族へR144

11月3日、何にも考えられぬような日が必ずある。今日がそうだ。

早朝に起き出したが別に何もせず、何もできなかった。本を読む気にもなれない。

昼過迄陽だまりの中でボーッとしていた。

フーッと安西直紀さんの顔が浮かんでは消えた。あの若者何をしてるかなあと考える。

安西直紀さんとは世田谷村で初めてお目にかかった。長男の石山雄大の友人として出現した記憶がある。

やがて度々会うようになり、向風学校を立ち上げた。向い風に向って、それでも行くという安西直紀さん好みの名のする会であった。

わたくしは全く無縁であったプロレスラーの西村修さんの試合に連れていかれたり、何だろうコレワと思うことも度々あった。

ナンセンスに向って走るのを安西さんは旨とした時期がある。

大学0単位取得退学を決断したりもあり、その生き方は幼いなりに直線的であった。

わたくしが言うのだから、我ながら笑わせるが充分に危なかしい生き方をしばらくはするようにも思った。

予想通りであった。

何の為にするかという、いわば功利の世界観を持たずに、何の目的も無く良く人に会いに行く人であった。それも俗な大人物らしきに平気で会いに行く、行けるのは余程育ちが良いのだろうとは思っていた。

案の定、大きなガス会社の創始者が祖父であるとの事であった。

うまく、そのパイプを使えば政治家くらいにはなれるかとも思い、それをすすめた事もある。

でも、そんな方面とは逆へ、逆へと走るのであった。

わたくしには完全に並の社会通念から外れてしまったような人物が多くはないけれど幾たりかはいる。

その多くは芸術家として平気の平左で非社会的なことをやり続けている。実験工房の人々や具体派の人々である。

しかし、そういう芸術家たちは一様に現実社会では小ヂンマリとした生活観をしか持ち得ない人が多い。

貧乏だからだ。

ところが、一人変なのが居た。

カンボジア・プノンペンで亡くなったナーリさんだった。

ナーリさんの実生活は完全なバガボンドであった。

60年代ヒッピーのハシリでもあった。世界中を手ブラで歩き廻った人だ。旅人さんだって金は必要だ。

その金はどうやら浅草の実家から得ていたようであった。

彼等は意気投合してしまった。

国会議事堂の正門にオタワ条約地雷反対の竹によるオブジェクトを設置しようとしたり。

実に馬鹿々々しいことをやってのけた。

あんまりバカバカしくって警察も相手にしてはくれなかった。

安西直紀の大人物好きは突走り続けた。

ダライ・ラマにつづいて李登輝に会いたいと言う。

何とかなりませんかと言うので台北の李祖原に話したら、出来るだろうが自分は前に出ないと言う。

彼は中国大陸でも大仕事を進めているから、台湾独立派の政治家とは会わないと、こちらは大いに大人の判断であった。

その労もあって安西直紀さんは台北で李登輝に会った。

それが今に続く彼の行動の軌跡になってはいる。

しかし、何の為に会うのかが今もって解らないのである。

今度、安西直紀さんが出した『超越国境』は、これは日本の特殊な若者の李登輝本である。

先が広く視えている人間なら決して乗り出そうとはしないだろう類の本である。

しかも、安西直紀さんはダライ・ラマにも会いたいと言う。共に北京中国が最も忌避している人物である。

それで「飾りのついた家」組合のナンセンス本シリーズに安西直紀の『睨むんです』の稀代のナンセンス本と、安西直紀の引きこもり時代に制作したいくつかの制作物を、安西直紀さんの作品としてウェブサイトにONしたいと考えたのは以下の理由からである。もう面倒くさくなって、わたくし迄、何のために?といぶかしみ始めようとしているので短く、嫌いな箇条書きにしてまとめたい。

1.もしや、安西直紀さんのこれ迄の一連の一見バカ気た行動は、わたくしの「Work for Minority」に通じるとこがあるのではないか。

2.一見、自己顕示欲の固まりに視える、その内に大きな自分も含めた弱者への視差が隠されているかも知れぬ。

3.それであったら、それを確認するためにも安西直紀さんの外れたとしか言い様のない表現に小さなスポットを当ててみる努力は充分にやってみる価値がありはしないか?

4.顕示欲=表現欲であることは間違いない。そして、安西直紀さんの過剰なる自己顕示欲は、自身を弱者としてとらえている無意識界に届いているのではないか? とすれば、わたくしの皮相なヒューマニズムにしか過ぎぬであろう一連の仕事よりも、余程深く大きな現代の、つまり今の社会状況政治状況とも一致するのではなかろうか。

5.さすれば、「飾りのついた家」組合の重要な一つのプロジェクトとして設計し得るだろう。

世田谷村日記 ある種族へR143

昨日は18時に曙橋の地下鉄駅近くのビルの地下へ。立派なライブハウスがあり、隣家の向山一夫さん達のフォーク・ドリーマーズなるフォークバンドのライブに出掛けた。広島の木本一之さん、佐藤研吾が同行した。

向山さんに会場で何人かの友人達に紹介される。皆気の好い人達である。

会場は満員で100名弱の人々が集まっていた。人気のあるバンドのようだ。

やがて19時よりライブ始まる。昔なつかしいフォークソングの数々であった。

クセのないバンドで烏山のKCヒマールでの初ライブにはとても良いのではなかろうか。20時に一部が終ったところで、中座した。これは烏山にはOKだと見極めをつけたからだ。木本さんと佐藤さんと地下鉄新宿で別れる。

木本一之さんは再び山中の工房に戻られるのだろう。お母上共々お体を暮々も大事にしていただきたい。

20時半、烏山宗柳がまだ開いていたので、もぐり込みオヤジとボソボソ話す。

オヤジもここでソバ屋を始めて26年になるそうだ。

明けて11月2日、7時離床。メモを記す。寒い。

この寒さではわたくしの作品01.トタンカーメンの水洗いはとても出来ぬな。

もう少し暖かい日和でヌクヌクとやりたいと思うが、まだ藤野忠利さんに依頼しているゴールドの塗料が届いていないのだ。

あのブリキの椅子は丹念にゴールドを塗り込めないとトタンカーメンつまりトタンの王の名称はふさわしくないのだ。今の作品一覧に敢えて出している写真は勿論発掘前というか、砂漠の砂に埋もれた状態のモノを出している。「飾りのついた家」組合の作品一覧は時々眺め返していただくと、実ワ一覧と命名したカタログ状がグフグフと動いているのである。

世田谷村日記 ある種族へR142

昨日は13時より打合わせ、16時大成建設設計部の方々5名がお見えになり、打ち合わせ。3年の設計製図課題について意見の交換他。再び研究室の打合わせを続け、世田谷村に戻った。

明けて11月1日6時半離床。陽光はさしているが空気は寒い。「飾りのついた家」組合日誌30を書き、少しアイデアをまとめた。書きながら考えをまとめようとするようになっているのを知る。

藤野忠利さんに電話するも不在。色々と相談しなくてはならぬ事がある。早朝のサイクリングだそうだ。

堀尾貞治さんと今日も御一緒なのであろうか。

木本一之さんにしても誰にしても芸術的世界の住人はコミュニケーションをするのには用心しなければならない。

皆、それぞれの評価に関しては敏感過ぎる人達だから。

ズケズケとモノを言うのは時には控えたい。

それで随分と友人達を失ってしまった実感もある。

どうやら、日本シリーズは東北楽天が日本シリーズ・チャンピョンに王手をかけたようだ。

巨人が勝たぬように祈るばかりである。

8時過藤野忠利さんと連絡とれた。

2005年作品を「本の卵」シリーズの一点として発表したいと申し出る。

「本の卵」は大工・市根井立志作品を佐藤研吾が命名した作品番号50を予定している。チョッとした力作である。

が、藤野忠利さんのエネルギーを拝借することが出来れば大変おもしろいシリーズとして展開できるであろう。

世田谷村日記