石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 9 月

>>2013 年 10月の世田谷村日記

世田谷村日記 ある種族へR107

10時半研究室、「飾りのついた家」組合打合わせ。そう簡単に展開できる計画ではない。でもジワジワやるしかない。

12時前、佐藤研吾と研究室を発つ。地下鉄で中目黒経由広尾へ。坂を登り磯崎新宅へ。間近で鈴木博之さんにバッタリ。13時磯崎宅。

先ずわたくしのインタビュー、鈴木博之さんの『庭師、小川治兵衛とその時代』についての感想をうかがう。20分の予定が45分になってしまう。佐藤研吾記録をとる。

次いで、新国立競技場コンペに関しての、いささかの小騒動についての感想。大した話しも出なかったが、

「先生方はあんまり口を挟まぬ方が良いだろう」との某団体の長の意見があったと知る。そうだろうな。

以前、古い話だが福岡オリンピックの招致計画案を磯崎新と作成していて、その経過を含めてオリンピックの施設計画がJIA等の建築家の団体などの枠はとうに外れて、政治、経済の問題であるのを痛感したのだが、先生方は余りにもなイノセント振りなのではなかろうか。

イノセントは社会的純朴を言うのだが、それは今の社会での自らの力、影響力への時代錯誤な過信からのものからもあり、戯画にもなりかねぬ。

世田谷村日記 ある種族へR106

7時離床。早朝研究室で雑用。昨日撮った写真のデータを渡したりをすませてから磯崎宅へ向う予定。

鈴木博之さんの『庭師小川治兵衛とその時代』の大作は、これは読み方によっては『磯崎新建築論集』への批評であると読めぬ事もない。

そういう読み方自体を叙事詩的とR105で述べたのを憶い出す。昨夜の事がもう夢のようである。お二人共にギリシャ神話・ギリシャ悲劇に精通しているが、それもそんな観方をするならば日本近代の脱亜入欧の不可避でもあった錯誤の夢であると言えなくはない。とにかく、それなりの人物がほぼ一生を賭けたような仕事はまことにあだおろそかには出来ぬものがあるな。

世田谷村の猫二匹、デカタビとチビ太、今は休戦状態で一見仲良くやっているようには見えるのだが、もう少しチビ太の方が身体が大きくなって力がついてきたら解らぬなこの共存状態は。

しかし、情としてどうしてもデカ足袋の静かな受身の姿勢の方に今はひかれる。

でも、モヘンジョダロにも恐らく野良であろう猫が一匹して、そいつの孤立の身振りには、世田谷村の猫は二匹とも敵わぬのである。

あの猫の写真だけでも一枚撮っておこう。そう決めると会えないんだよな。秋も深まるが、一体何処で眠っているのか。

世田谷村日記 ある種族へR105

9月29日、日曜日9時離床。一度6時に目覚めたが再び眠り込んだようだ。

14時半「Xゼミナール投稿 栄久庵憲司とGKの世界,世田谷美術館・感想Ⅴ」を書き終える。四苦八苦して書いた。

途中、磯崎新、鈴木博之両氏と連絡。明日昼にお目にかかることになる。

磯崎新さんの『磯崎新建築論集』は大きな仕事である。第6巻は新たな書き下しも多く、磯崎新の切々たる意気込みが伝わってくる。

磯崎新の何がしかに切々たるの修辞は似合わない。

一切の情らしきを表に出さぬ訓練をし続けてきたのだろう。

しかしながら叙事詩的な情動は最近の書き下ろしの文章には垣間見える。

スケールの大きな旅をし続けての事なのかも知れぬ。

うまく言えぬようになった。Xゼミの作家論・磯崎新も中断したきりであるが何とか仕切り直しをして再び挑戦したい。

世田谷村日記 ある種族へR104

と、とぼけていたらワインBar烏楠のオヤジから、

「昨日、フォーク・ドリーマーズの映像を音とコンピューターで見たら、自分の店のイメージとは違うのでキャンセルしたい」

の連絡が入った。

マア、仕方無いだろうが、イメージが違うの、アーダコーダは本人に会った時にわかるのがフツーだろうとぼやくがコレワ仕方ない。

で、これは流れた。

流れ流れていたら世の中はバカになる。

で、いささか考えを巡らせた。

先ず、烏山神社の近くの念仏堂のホールをたずねたら葬式の只中であった。

次に、行きつけの喫茶店、「南蛮茶房」に行き、ココはライブに使えるのか?と尋ねるも、店長の自信の無さそうな対応に、コリャ駄目だと了解。

隣りのビルの2F、KC.ヒマラヤなるネパール料理屋に行き、HIMAL ENTERPRISE Co LtdのPresident SUK BAHADUR KCと話し合う。

で、10月24日のライブに会場を貸していただく事をほぼ合意。ホッとする。金の問題がこれからいささかあるだろうが。

でも、50名を集めなければいかんので、気合いを入れなければならない。

世田谷村日記 ある種族へR103

8時離床。明方にドイツの鉄道とフランスの鉄道が間近にクロスする場所のコンペティションらしきの夢を見る。夢というモノはもともとが妙なものであるが、それでも変な夢であった。まだまだ建築に未練があるのか。

ドイツ人の男が案を見せてくれようとしたが、仲々その内容を見る迄はいかない。あのドイツ人は誰であったのだろう。

昨日は沢山電話したり、会ったりで忙しかったが記しても仕方ない事なので省略する。

東北一関ベイシー菅原正二さんから数通FAX舞い込む。

この人物のFAXは内容、姿形共にアートだなと思うことしきりである。

であるので、サイトに公開しようかしまいか、いささか悩む。

サイトのページが重くなり、おまけにどうもうまく検索出来ぬとの苦情も実際にあり、一回グーッと重さを軽減することを考えねば検索しにくいのかも知れない。

11月になったら長崎屋のオヤジさんと高尾山に紅葉見物に出掛けることになった。オヤジは山頂まで登ると言っているが無理だろう。麓のソバ屋でソバ喰って帰る位がせきの山じゃあなかろうか。

10月24日には烏楠で「飾りのついた家」組合とビジネス・ボックス共催のライブが開催される。手頃な値段なのでいらして下されば幸いだ。

世田谷村日記 ある種族へR102

9月27日7時過離床。晴。輝度のある青い空。朝の光は美しい。昨日は昼前から05伊藤アパート、打合わせ。019飾りのついた家組合打合わせ。16時過まで。当初の制作物リスト及び概要を作り終えた。18点、総額1881000円となる。

組合のスタートとしては早く在庫を一千万円まで持ってゆきたい。

一つ夕方のスケジュールがキャンセルされたので佐藤研吾と烏山へ出掛けていささかの相談をした。

只今8時、4件、4名の方々と連絡をとり様々なお願いをする。次第に活動時間のスタートが早くなっている。相手の年令を考えないといけないな。

「飾りのついた家」組合の趣意書を書き始める。肩をいからせて書くと失敗するのは眼に見えているので、楽に楽にと言い聞かせる。

9時半、「飾りのついた家」組合について3枚書き終えて送信する。複数の人間により校正されたい。

世田谷村日記 ある種族へR101

昨日9月25日は昼前より06厚生館愛児園打ち合わせ、19飾りのついた家組合打ち合わせにつぎ、15時堀添さん来室。01、02ベトナム五行山勧進の打合わせ。色々と教示される。流石にベトナム・ダナンを精通しておられる。心強い。日越外交関係樹立40周年ドラマがTBSで始まるそうだ。

17時研究室発18時烏楠にて19飾りのついた家組合打合わせ。

宗柳で石森さんからお願いしていた新聞切り抜きをいただく。

福島原発と徳州会事件の大新聞には出ない情報群である。

石森ダンナ独特の情報であり意表をつかれるのです。

明けて9月26日。8時離床、雨模様の曇天。石森彰に御礼の電話。藤野忠利と連絡「飾りのついた家」組合、わたくしのオークション作品でもある椅子「トタン・カーメン」の仕上げについて話し合う。

トタン・カーメン

わたくしは椅子のデザインは不得意でこれ迄胸を張ってコレが作品ですぜとは言えたためしが無かった。

しかし、時も流れてわたくしも流れ流れて今にいたり、そんな事気取っている場合ではないと気付いた。遠慮つまり気取りなのである。

それで1990年代後半にほとんど手なぐさみ風に自主制作したブリキの妙作、つまり妙なモノがあったのを思い出したのである。ブリキの波板を切りきざんで椅子を作った。

それに妙な愛着があって、手放すこともせず世田谷村の下の地面に転がっていた。

自作であるが、つまり埋没していたのである。

それを掘り出して、と言うのは大ゲサだが、取り出して再生させようと思いついたのである。

ブリキの波板と細い細い鉄棒の組み合わせで作った。

再生にあたりブリキの椅子と名付けようかとも考えた。でもそれでは余りに味気ない。味気なさをむしろ気取ってると考えた。むしろもゴザも不要である。もう気取っている場合ではない。それで「トタン・カーメン」と命名した。

ふざけるなと言われても、ふざけてるんじゃない。これがわたくしなんだと居直ることにする。

「トタン・カーメン」はだからブリキに金色を着色することにする。

金色と濃緑色と脚の一部に漆黒を彩色する。つまり飾りたてるのである。

いつのことか、金色の彩色がはげるであろう。するとそこに少し錆びたブリキの鈍い色が現れる。だから制作は1999年〜2013年となる。十数年の歳月がかかっている。

価格は彩色作業がすべて修了して、その出来栄えすなわち飾り具合を見てから考える。

世田谷村日記 ある種族へR100

明けて9月25日8時離床。昨日は烏楠のマスターから借りた『猫楠』(角川書店667円税別)水木しげる、をようやく読み通した。

烏楠は最近知ったばかりの烏山、昔の安田金物店の2階にあるワインバーだ。

オーガニックワイン、つまり有機栽培のワインだけを飲ませる。

しかもフランスの有機農法によるものだ。キザな野郎だなと思っていた。マスターがね。

ところが、どう読むんだこの店名?の烏楠(からすぐす)がどうやら南方熊楠から来ているらしいことが判明して、一気にキザな野郎だけどイイ奴だに変った。この辺りの豹変振りは我ながら浅ましいのである。

ワインはグラスワインが白で500円から850円どまりである。わたくしはワインの味なんて全くわからないし、その舌の用意もありはしない。

でもこの値段が非常に気に入った。宗柳の焼酎一杯よりも安く、長崎屋の一杯400円よりも少し高い。つまり丁度良いのである。

烏楠の電話は03-6382-9955 FAX 03-3615-5066である。

千歳烏山駅(京王線)南口から歩いて3分。

漫画なのに読み、かつ眺めるのにいささか苦労した。鶴見和子の熊楠やらは読んではいたがそれは解るような、解らぬような印象ではあった。

なにしろ仕方も無い難解さの固まりのような人物の印象が作られていた。

わたくしの中では。

それが水木しげるの漫画となったのである。

水木しげるは当然ファンである。遠野物語りからヒットラーまで描く描き振りは凄絶きわまる。サラリと凄絶に言い直す。

第二次世界大戦の南方戦線でそれこそ地獄を見た人の、切々たる重みがしみわたっている。とてもわたくしの如き若輩者、戦争非体験者が軽々しくああだこうだと言えるタマではない。

『猫楠』の巻来で宗教人類学の中沢新一が水木しげるさんと対談しているが、これは余計であった。戦後生れの人間の軽々しさは実にわたくしにも通じるのである。他人の振り見て反省する。

実にこの『猫楠』は平成8年に初版、平成22年に25版である。恥しながらわたくしは知らなかった。やっぱり、漫画かあと軽んじていたのであろう。

この本の成功は主人公を夏目漱石に習い、猫にしたことであり、クライマックスを昭和天皇への御進講に持ってきたことだ。この漫画での昭和天皇の紀州田辺へ神島巡行が戦艦長門、巡洋艦、駆逐艦4、5隻を従えての事であったのを初めて知る事ができた。

昭和天皇がとても柔和な良い顔に描かれていて、水木しげるの死線を越えたアニミズムの境地をのぞき見る想いもあった。

まだ読んでいない人は烏山まで出掛けて烏楠で立ち読みすることをおすすめしたい。ワイン一杯500円で読める。

アニミズム紀行はいずれ天皇をやらねばならぬのも教えられた。

ところで、烏楠(ワインBar)にはわたくし共、「飾りのある家」組合の老烏、あるいは「烏絵馬」を看板として売りつけることを思いついたし、隣りの3階建バンドマンのライブをここで行うことも思い付いた。11月24日に「飾りのある家」組合主催である。

で、今9時40分隣に電話したら、すでに昨夜からライブの話は進めているとの事であった。

わたくしが居ない方がうまくゆく典型である。

世田谷村日記 ある種族へR99

「少女と夏の終わり」感想

石山修武 建築家

少女と夏の終わりについて、その筋書きや役者群についてはチラシやパンフレットに任せる。

9月21日のポレポレ東中野、劇場公開初日に観た感想だけを記したい。映画館で映画を観るのは久し振りだった。近くのネコオヤジとバンドマンと連れ立って出掛けた。ネコオヤジもバンドマンもわたくしも高齢者である。ジジイと呼ばれて何不足ない種族でもある。ネコオヤジはネコと相思相愛の怪人であり、70前で、ソバ屋の前の2階建に住んでいる。ネコは「その名前はヨセ」の忠告にもかかわらずチイという。わたくしは勝手にタマと呼んでいる。バンドマンは大企業の引退者でFOLK DREAMERSなるバンドを結成して公演なぞもこなしている。バンドの名前の如くの洋犬をこれも飼っている。まだバンドの名前が良くない「代えろ」の暴言は吐いていない。知り合って間もないのだ。わたくしの家、つまり石山友美監督の家でもあるが、その隣りの3階建の家に住んでいる。

ネコオヤジの見終っての印象は「チョッとムズカシかったなあ。俺には」であった。バンドマンは「イヤー、ビックリしました。本格的な映画でスゴイ」と絶讃であった。わたくしの感想にそれは近かった。娘の映画を絶讃するマヌケオヤジを承知で、わたくしも仲々やるわい、と初めて想った。

娘は実は建築家になってもらいたかった。親の勝手になるような子ではないのは知っていたが、その資質は充分過ぎる位にあると眺めていた。だから映画作りになんてなりやがってと気持の奥にはわだかまりもあって、それで第一作とやらをそれでも観に出掛けたのであった。だから率直な感想の前のつぶやきに似た無念さは「やっぱり建築家になればイイ建築できたのになあ」であった。それくらいに建築的な表現に良く似ていた。実は建築というのも社会演劇そのものであり、群集劇の典型でもある。今更、手からこぼれた夢をなつかしんでも仕方ないから、それはそれでアキラめるしか無いなと映画の背景をわたくしなりに遠く眺めていた。映画は、それを観る人間それぞれに、それぞれ異なる観かた、受け取りかたが出来るものである。複製芸術の典型的な商品でもある。

「少女と夏の終わり」に入ってゆきたい。宮沢賢治の『風の又三郎』は山村の自然を背景に描かれた少年達の社会劇であった。賢治の鉱物好みもあり、鉱山や鉱山技士らしきが登場し密漁者も出てきたりするが、山村の廃校にも似た小学校の男の子達の社会が描かれていた。その安定した小宇宙「小学校」に一人の転校生高田くんがやってくる。小学生の頃の転校生はいつの時代にも、何処でも異人(まれびと)である。宮沢賢治の『風の又三郎』はある安定したように視える場所への一人の少年の来訪と、アッという間の消失退去が及ぼすさんざめきの詩であった。賢治は今の石山友美監督とほぼ同年令で世を去った。「少女と夏の終わり」は石山友美監督の30半端の年令でしか描けぬ、少年ならぬ少女の物語りである。物語りの場所も東北の自然の中の小学校ならぬ、大都市近郊の山村の中学校だ。主人公は高田少年の代りに、二人の少女に置き換えられている。

その置き換えをより意図的に行ったのが唐十郎の「唐版風の又三郎」であった。ここでは主人公は男女二人となっている。しかし実は、唐は李礼仙という女の役者の中に両性具有を視ていた。女性役者が男女を演じ分ける宝塚演劇の不思議を視ていたのである。石山友美は当然脚本も入念に構築しているから、二人の大人と少女と境界を漂う、いわば異人(まれびと)を二人の少女として、つまり鏡像として表現して見せたのである。

今は宮沢賢治が描いてみせた少年達の放課後の不在、その本来の清冽な寂寥感は時代には内在していない。人口減少格差社会の拡大、そして東日本大震災、福島第一原子力発電所事故と厄災は社会に襲いかかり続けているが、若い人達はそれに対抗する意志と情熱に欠けるばかりのように見受けられる。ブーム、ファッションとしての漫画、オタク文化も引き潮となり表現者はすでに逃げ場を失っているかに見える。

「少女と夏の終わり」の脚本は大震災、福島原子力発電所事故の直前に書き了えられていたと聞く。サブカルチャーとしての少女漫画、アニメーションも又、それ等の現実の過酷さとは無縁である。石山友美のこの映画はしかし、そんな現実の中、アポリネールが時代の趣向(グウ)と直観したり、ワルター・ベンヤミンがアウラと指摘したり、つまりは時代精神、時代の風の中に確実に在る。センチメンタルな叙情からも、感傷的な美、すなわち今の言葉で言えばビジュアルへの偏向からも絶縁していると思われる。第一作にして石山友美は表現者の孤立の予感の只中に居るのである。少女の物語りと都市に近い自然の背景を使った映画表現の核はこの表現者=作家の孤立感への身体の身近さであろう。資質としか言い得ようが無い。

わたくし自身は今の20代30代の少年少女達の気持の動きのようなモノに対しては違和感を持ち続けてきた。しかしこの映画をみて、その物語りの諸々にその作家にとっては必然とも思われる孤絶感とも視えるモノを視、あるいは知覚した。そしてその本体に恥しながら、いささかの感動さえ覚えたのである。こんな時は妙に人間関係を恥ずかしがったりモジモジ照れたりする愚は犯してはならない。イイモノはイイ、非常に良いと言わねばならない。

女性作家が少女世界を主に据えて、都市に近い山と森林の背景の力を描いたのは映像文化のみならず、初めての事なのではあるまいか。そんな意味でも我々は実に新鮮なモノに久し振りに対面したのである。

映画の終末、少女の一人は風の又三郎の如くに何処かの町へ去り、もう一人は本来去るのが得策であろうに、走って古い集落に逃げ帰る。川の流れには神話の降臨の如くに七色に燦然と輝く木の葉の無数が流れ来たる。美しいシーンである。本来の物語りはこの少女達の一瞬の荘厳の後に始まるモノなのでもあろうが、その一瞬の美は物語りとしても映像としても実に良く描かれていた。

ここ迄の達成は次作を困難なモノに自然にするであろう。しかし女流作家に良くありがちな時間を追っての一部作、二部作……にならぬようにと期待したい。

世田谷村日記 ある種族へR98

11時世田谷村発東京駅へ。12時新幹線中央改札口で佐藤和則、佐藤研吾と会う。共に上野、アメ屋横丁へ。大橋磨州の魚草で会い、近くのコーヒーショップで打合わせ。

修了後、魚草の前の台湾屋台で軽い昼食。磨州の魚草の状況をじっくり観察する。14時過東北新幹線で一ノ関経由唐桑に戻る佐藤和則さんを送り、新宿駅へ。

15時新宿高島屋小松庵で佐藤研吾と若干の打合わせ。

17時千歳烏山、宗柳でWORK。ヘイ・ギャラリーの企画を具体的にまとめてスケッチ作成する。

19時世田谷村に戻る。

明けて9月23日7時前離床。石山友美監督「少女と夏の終わり」感想を書く。

途中、遅い朝食をとり、小休しながら13時半7枚を書き終える。

それなりにまとまったモノになったが日記、ある種族へR99とする。

世田谷村日記 ある種族へR97

明けて9月22日5時過離床。4時頃から石山友美の映画についてアレコレと考えていた。

身内の事なので、みっともないとは思うのだがやはり何か書いておきたいと考え、6時半再び横になって書き方を考える。

鈴木博之さん、磯崎新さんから昨日午後メールが届いて、今朝読んだ。

新国立競技場のコンペの事であろう。9時過再離床。

世田谷村日記 ある種族へR96

「飾りのついた家」組合日誌01を書き終えて送信。

第一次メンバーリストも含む。

磯崎新事務所より連絡あり、軽井沢の磯崎新さんと連絡する。石山友美監督の映画を観ていただいたようで「立派なものだった」と誉められる。わたくしは一度も誉められたことは無いのに娘とは言え、たまには親も誉められたしとつぶやく。26日に東京でお目にかかることになった。

15時40分石森彰さんと東中野へ、ポレポレ東中野で世田谷村隣の向山一夫さんと会う。16時50分石山友美監督「少女と夏の終わり」観る。恥ずかしながらいささか感動する。何故そうなったかはようく考えてみたい。初日なので監督以下出演者達の舞台あいさつもあった。

修了後、石森、向山両氏と千歳烏山へ。

烏楠でワインを飲む。石森氏去る。向山さんと宗柳へ。

カレーそばを食べる。知人が一人しょんぼりしていたので尋ねれば老母を亡くして、疲れ果てたとの事。励ます。

世田谷村日記 ある種族へR95

モヘンジョダロの草原を抜けて、京王線、地下鉄を乗り継ぎ9時半研究室。「飾りのある家」組合構想について、ディテールを相談。問いかけながら考えを固める。何とか最初の展示品の流通についての可能性を探る。頑張ってくれる組合員には報いたいものね。

10時過長澤社長、張美玲国際事業部チーフ両名来室。09.すだれ発電、04.シンガポール計画、両件打合わせ。長澤社長より、良いアイデア呈示され一歩進んだ。

12時半過研究室発車で、両名と共にアメ横へ向う。

途中、昼食を、うまいもの山形「いいべ家」で。社長一族の経営する山形牛の店である。看板をつけかえることをアドヴァイス。

張さんより、商品のロゴマーク他の相談を受ける。

長澤雄三店長に再会。

14時半頃歩いてアメ横へ。大橋磨州の店「魚草」へ。二間間口の立派な店である。近くのコーヒーショップで打合わせ。長澤グループと「魚草」の協力関係を探る。

佐藤研吾タオルセットの箱を持って現れる。

磨州くんの店の飾りつけなり、なんなりに使っていただけると嬉しい。気仙沼・唐桑復幸タオルは三陸の魚が当初の売りの魚草にはピッタリである。

16時終了。皆と別れて千歳烏山へ。佐藤研吾は磨州のアメ横へのあいさつ廻りについて廻ることとなる。

17時「烏楠」からすぐすと読むらしいが開いていたのでもぐり込み白ワインを一杯飲み、疲れをいやす。ヴェネチアの昼下がりだな。街は何の取得も無いけれど、人間の知り合いは得難い。

店主の須田耕造と雑談どうやら南方熊楠マニアらしい。それでこの店名になったらしい。変な人がいるものである。

アニミズム紀行8のゲラに手を入れていたら、予約していただいた。気に入ったら5、6、7も読んでもらいたい。

熊楠マニアなら当然である。

気仙沼・唐桑復幸タオルセット一点お買い上げとなった。

17時半宗柳へ。世田谷美術館の野田さんと会い、近況報告を兼ねた会食。「飾りのついた家」組合の相談。栄久庵憲司とGK展の感想など。

途中から向いの石森彰ダンナ加わる。ダンナいきなり学芸員にカラオケを誘うが、やっぱり断られる。

横山弥太郎会長現われ、知り合いの女性陣、老女達も現われてにぎわう。

20時頃、再び烏楠へ。21時皆さんと別れ世田谷村に戻る。

明けて9月21日6時半離床。メモを記す。8時半唐桑の佐藤和則さんに連絡。明日の打合わせのこと。

宮崎の藤野さんと連絡、堀尾貞治、松谷武判(パリ在住)、藤野忠利の具体派メンバーの「飾りのついた家」組合の入会の承諾をいただく。

たまプラーザの山口勝弘先生に連絡して、山口勝弘の入会の承諾をいただく。

えらいことになってきた。実験工房と具体が組合の枠とグレードを決定することになる。

9時「飾りのついた家」組合の発足メンバーリストをつくり始める。

世田谷村日記 ある種族へR94

明けて9月20日。8時前離床。月下美人の花が咲き終り名残りの死体を樹からブラ下げている。ポトリと下に落ちぬところがこの花の信条か?縛り首の図のようだと我ながらイヤなことを考えた。又、今日も秋日烈々たる青天である。古いナア―、我ながら、今なら何て言うんだろう。夏が終り、秋が来たとデジタルに言うんだろうか。それでも良いのだけれど、やはりダイアリーにも飾りは付けたいではありませんか。と「飾りのついた家」の事を書きたい自分を発見する。

保坂展人と世田谷の未来をひらく会から知らせ届く。

もう区長就任2年半になるのか。あと任期1年半となった。

頑張ってもらいたいが支持の輪は広がっているのだろうか、孤軍奮闘の日々であるのか、区役所は大きな所帯過ぎてよくわからない。区長の廻りにいる役人が区長支持とは限らないからなあ。これからの1年半は仲々むずかしい状況になるだろう。

世田谷村日記 ある種族へR93

モヘンジョダロの原っぱで石森ダンナとチイ玉に会う。

チイ玉はハトとたわむれている。世田谷美術館の「アンリ・ルソーからはじまる」のティケットを渡す。猫のおやじのぶんだ。

9時半研究室で「飾りのついた家」組合の話しを皆にする。反応はボーッである。そりゃそうだろう解りにくいなまだまだの感あり。

10時日立製作所の方々2名来室、ヒヤリング。

12時小松製作所の方々2名来室、ヒヤリング。共に018京都の件である。

13時過研究室を発ち、地下鉄を乗り継いで湯島へ。

14時少し遅れて国立近現代建築資料館運営委員会出席。第3回である。

16時過修了。難波和彦さんと共に帰る。難波さんから昨日の石山友美の第1作の映画プレビューを見ての印象をうかがう。

わたくしはまだ見てもいないので興味深かった。

地下鉄霞ヶ関で別れ、わたくしは新宿廻りで17時過千歳烏山。

「石森彰塀」ギャラリーの現場を眺める。ヘイ・ジュードじゃなくってヘイ・ギャラである。烏絵馬は良く良く見ると錆が出過ぎていて今のままでは商品にならぬのを知る。昨日みた世田谷美術館のウイリアム・ホーキンズのふくらんだ絵「バッファロー6/1969年」みたいにエナメルをボッテリ塗り廻すか?

石森ダンナと雅談後世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR92

6時半目覚めたが寒くて床から抜け出せず。チビ猫も寝床で眠っていた。9月19日7時20分離床。メモを記す。

昨日の世田谷美術館での2つの展覧会を思い出している。

ひとつは石山兄弟展。もうひとつは「アンリ・ルソーから始まる、素朴派とアウトサイダーズの世界」。

アンリ・ルソーから始まる、は圧倒的であった。世田谷美術館の中枢でもあるコレクション、アンリ・ルソー等の素朴派に加え、アウトサイダーズのコレクションが展示されている。

何の欲得も無く無心に絵を描き、何やらを作り続けるアウトサイダーの方々の仕事に胸を打たれる。古い言い方になるけれど芸術の原点だな、ヒタヒタと迫ってくるモノがある。

近代芸術家の表現欲の中心に在るものは実は一種の野心である。我々俗人は皆そうである。こんな俗っぽい言い方が恥ずかしい位に皆そうなのである。

精神にいささかの障害がある(これも変な言い方で申し訳ない)人々の表現は、やはりそれとは一線を画している。芸術とは何か、表現とは何かの、それさえもある種の俗な歴史意識なのだろうけれど、それから離脱している。

ともあれ、何度も見ている素朴派のモノであるが何故かとても新鮮であった。あと何回か来てみようと決心する。

学芸員の野田さんにも、やっちゃば食堂にてお目にかかった。

石山兄弟と、島倉ニ千六さんを紹介する。

「飾りのついた家」組合の会合はやっぱり世田谷美術館で始めるのが真当であろう。10名位のメンバーで始めたい。

いまだに誰もこの計画については知らぬ。

マア、素朴派の夢、夢の中のプリミティーフとウィリアム・モリスへの傾倒が遠くで結びついているコトではある。

石森彰邸の塀の美術館計画のメンバーも若者組、あるいはジャリ組として入会させようと考える。

まだどうまとまるか解らない。

8時過、シャワーを使い、8時半世田谷村を発つ。

世田谷村日記 ある種族へR91

11時45分世田谷美術館。区民ギャラリーへ。石山篤、石山修兄弟展を観て、兄弟と会談。石山篤さんはGKダイナミックスの社長も務めヤマハオートバイの担当をされた。修さんは友禅染の染色家で利根川近くに住んでいる。染色のためにである。

石山篤さんの造型物群は一言で言えば土偶だ。岡本太郎のファンであったのが納得される。アルミの鋳物と土の素焼きの造形物の2種類。

長い間オートバイの造形に取り組んでいるうちに、自分の本来の願望を再発見したと言う。

修さんの友禅は、カンディンスキー風のモダーンアートの世界と日本の染の世界が融合したような世界である。兄弟共に「錆」に関心があるらしい。金属の錆、土の錆そして染の錆である。

会場でバッタリ、(有)アトリエ雲の島倉二千六さんに会う。久し振りであった。石山篤さんの釣友達なんだそうだ。

少し計り考えていたことではあったが、石山篤、修兄弟そして何がしかと「飾りのついた家」組合を創設することにした。お二人はまだ知らぬ。まことに唐突であるが、考えすましての事でもある。

名前がほとんど石山なにがしで同じなんだから、いいではないか。

16時前世田谷村に帰り一服していたら川崎の近藤理事長から連絡あり。飾りのついた家の第1号は何とか出来そうである。

これでは読者にはチンプンカンプンであろうが、いずれ段々わかるであろう。そうしたい。

世田谷村日記 ある種族へR90

6時半離床。昨夜月下美人が6輪咲いた。今朝は青空を背に空に濃い紫色の小輪の朝顔が沢山咲いている。

9月18日、8時半「インダストリアル・デザインと小住宅設計群について」そのⅣを書き終え、研究室に送信する。

小住宅設計群とは我々のごとき弱小設計者群でもあり、その大半は小住宅設計者であるの、この論のはじまりでもある。

栄久庵さんとGKが孕む大矛盾はその解法につながるやも知れぬという希望を書き始める。

今日はこれから世田谷美術館へ出掛ける。石山篤・石山修兄弟展を見る。石山篤さんはGKのヤマハオートバイのデザインをしていた。

世田谷村日記 ある種族へR89

台風が北の海へ去り、いつもながらカンカンの晴天である。

3日間の連休が終り、研究室へ原稿を送ろうとするも機械の具合が悪く午後迄修理出来ぬのだそうだ。9月17日である。

昨日思いついた通りに福島第一原発汚染水処理に関する報道に関して、東京新聞に目を通す。一面に、タンク周辺の雨水海に、の記事がある。台風で堰の弁開放の小見出しあり。第一原発の1号機〜4号機を含んだ周辺の地図も提示されている。汚染水を溜めたタンク群の配置図である。日本テレビを見たらこの堰の弁とやらが写し出されていて、昔のドブのU字溝にもおとるようなモノであり、弁といっても実に簡易な手動の把手に過ぎぬのが写し出されていた。

これを堰と表現するのは少しおかしい。簡易仮設側溝である。

恐らくステンレス製のペラペラしたものだろう。

現場を見ることが出来ぬのでそうとしか言えない。

これは簡易簡便な仮設側溝であり、正直、放射能汚染水対策のモノとは全く考えられない。

汚染水流出対策の堰がこれであるから、ましてや多くの汚染水溜めのタンクの現実がどうであるのか、その仕様の劣悪なることは否めないであろう。

そんなわけで今日は堰だの弁だのと大げさに表現されているモノの日曜大工製品レベルの仕様であるのが良く解った。

ウィーンのIAEA(国際原子力機関)の総会が開かれ各国より事態を見守りたい旨の発言が続いたとある。

安倍晋三首相が言うように汚染水の問題は完全にコントロールされているわけではないと言うのは各国共通の認識なのであろう。

石森彰によれば

「ほとんどのTV局の朝の報道は見たが、皆一様に短い報道である。その中ではTV朝日がもんじゅの土砂崩れの報道に熱心ではあった」との事。キチンとオヤジ、全放送局をチェックしてくれたようだ。

「今日の結論は?」

と突込んだら、

「NHKが弱い」

であった。

世田谷村日記 ある種族へR88

どうやら台風は福島第一原子力発電所を、その中心がほぼ直撃したのではないか。NHKTVの報道ではこの台風で降った雨を2ヶ所で検査し、充分に危険範囲の許容内であるとし、太平洋に流すことを決めたと情報を流している。

誰でもこの台風による大雨が福島原発事故の汚染水を一気に海に流出させるであろう危険は感知している筈だ。

その人々の健全な想像力に比べればNHKの報道は明らかに貧弱である。国営放送であるから国民にいらぬ不安を拡げることは無いとの考えもあるのだろうが、どのような測定方法でしかもたった2ヶ所での恐らくは簡易な測定法による汚染数値の安全性だけを報道している。(としか考えられない)

充分にコントロールされているのは放射能汚染水の問題ではなくって、放射能汚染に関する報道であるとしたら、これは大きな問題であろう。

台風による大雨は地表に流れるばかりではなく、地下伏流としても海洋に流れ出ているのは、これも又常識的な憶測の範囲内であろう。

民放は大企業のスポンサーシップの許にあるから、これは真実らしきの報道には限界がある。それは歴然としているのは、これも又国民は知っているのだ。本能として、その領域の内に近い心性として知ってはいる。

しかし、その先の想像力に壁が立つのは容易に予測し得る。

つまり、わかってはいるが、どうしようもないのであるが大方であろう。

偉そうに書いているけれど、わたくしだって実に同様なのである。アニミズム紀行8で福島第一原子力発電所に関するプロジェクトを組み立てるぞと、大言壮語したまでは良い。しかし、その後の自力による展開は思わしくない。思わしい程のことが出来ぬことがハッキリ解ってきたからである。

今日も1日、台風で世田谷村に閉じ込もっていた。

それで時々TV報道を見ていて、これはいささかどころではなくオカシイのに気がついたのであった。

しかし、考えようによっては報道にいささかの歪みがあるのではないかと気付いたのは大変な収穫であったのではなかろうか。

昨日の日記R87で自分で食す味噌汁くらいは自分で作りたいと記した。

記した以上は1回くらいは嘘でなくやりたいものだと考えた。

それで今日は味噌汁を作るのを始めようとしたが、これが実に容易ではない事をジックリと思い知らされた。

煮干しによるダシづくり、コンブだし、カツオだしと実に色々とクリアーしなければならず、1回や2回でマスターできるものではないのを思い知ったのであった。しかし、少しづつではあるがやってみたい。

それで福島第一原発に関してなのであるが、この件も味噌汁づくりを学ぶようにゆっくりと少しづつやりたい、やらねばならぬのを知った。

つまり、汚染水の問題と報道に関して、このサイトを使って私設放送局ならぬ、私設報道チェックサイトを始めたいと考えたのだった。

幸いに我友でもある石森のダンナは朝から晩迄TVを愛猫と共に眺めつづけている人物でもある。原発に対する意識もカラオケ同様に異常に高い。

彼をわたくしの眼代り、耳代りになってもらってこの思い付きは実行したい。

世田谷村日記 ある種族へR87

台風が接近しているの情報とは裏腹に空は中庸を保ったり、小雨が降ったりで落ち着かぬ。

何かを考えようと試みるも、何も深くは考えられず、夕方となる。

19時近くのワイン屋で一杯飲もうと出掛けるも、休店であった。鈴木博之さんの池袋の魔窟ワインBarの今を思いやる。

ワインBarというのは日本の伝統に決して根付いてはいないというのを鈴木さんはどうやら歴史家としてどう考えていたのか?日本の、と言うのは大ゲサであるけれど飲み屋の伝統はワインBarには非ずである。さりとて、縄ノレンのおでん屋でもないだろうけれど、烏山にはどうやらないな。

で、そば屋宗柳でひとときを過ごす。ここのオヤジも何のあいそもなく、日本の伝統を継承しているわけでもなく、休みになればゴルフに出掛けるニセアメリカ人振りなのではある。

それで、メシはやっぱり主要な部分は自分で作らざるを得ないのではないかと、一気に開眼してしまった。

やっぱり、自分の食べたいモノは自分で作りたいものだと、無理を承知で気付いたのであった。まずは味噌汁の作り方を学ばねばならぬと一瞬のうちに実感する。早速、やってみたい。

電気釜の普及もあり(それが近代である)ごはんは何とか自分でも出来るのである。あとは味噌汁なのである。それが出来ればセルフクッキングは何の問題もないと言いたい。言わなくても一向に構わないのではあるが。

21時前に世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR86

中央高速は渋滞で車は走ったり、とまったりで富士ヶ嶺観音堂に着いたのは11時前であった。原口さん他を置き残し、佐藤研吾と船津胎内樹型に向う。先週ブラジルの谷さん、馬場昭道さん達と富士山麓のこの類の胎内巡りは充分にこりている筈であるが、一度こりると、もう一度くらいこりてみたいと想ってしまうのも、実に妙な、我ながらのクセなのである。

船津の胎内巡りにはすぐに辿り着いた。この無戸室(うつむろ)浅間神社の祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)である。胎内巡りの入口に神社建築が建立されているのは、いまひとつの先週訪ねたモノと同じである。こちらは窟内に常設の電灯が設置されている。それだけ参詣者(観光客)が多いのだろうか。ヘルメットとヘッドランプは着用することはしないですんだ。しかし胎内は狭小極まり、ここもはいつくばるようにして進む、マア軽い苦行ではある。

母の胎内とされる最奥は少し広く、とは言え人間が立っていられる位の広さで木花咲耶姫命の粗末な木片の印が置かれている。

利休の待庵は秀吉の戦陣に於ける阿弥陀堂のヒサシへの差し掛けを原型とするとの説があるようだが、戦さに際しては武将はやっぱり勝運を何者かに祈らざるを得ず、材料等も充分ではない戦時であるから、最小なモノへの必然となり、利休好みの茶室の完成へとなったのやも知れぬ。

待庵の室床の洞穴性は多くの人が指摘しているが、あの洞穴性は胎内への一瞬の危急に際しての祈りであると言えば、これは面白いけれど、実証することは不可能である。

批評と創作の垣根は明らかに存在する。

こんな事はアトから頭でヒネクリ回した事であり、胎内巡りはここでもただただキツかった。体をこごめて歩くのは実に辛い。

立って歩くのは実に自由で良ろしいのである。楽に歩くと言うのは実に人間の自由を保証することでもある。

しかし、胎内巡りは、ここでは小さな子供達はより楽に洞内をしなやかに歩き、身をこごめ、すり抜けるのである。子供のすり抜けるのを視ていると実にうらやましいのである。

何だか、行ったり、来たりで終いに父の胎内とかのガランとしたところをくぐって外へ出た。父の胎内とかにも石仏が祀られてあった。

外のビジターセンターに設けられている水道手洗いで、はいつくばって汚れた手を洗う。赤ん坊が産湯を使って体を洗うのと同じだなコレワ。

一週間前程では無かったが、身体がギシギシ、ガクガクしたのであった。

ついでに溶岩樹型のタテ穴を見学したり、これはわたくしにはつまらぬモノ、ただの天然の産物であった。MAN-MADE NATUREの自然は人間とのつながりの中の自然であるのを我ながら知る。

夜ここに落っこったら死ぬなコレワと思っただけ。

それから氷穴とやらにも行った。

氷穴ソフトクリームを食べて氷柱らしきのある洞穴には入らなかった。沢山の観光客がいて、皆ソフトクリームをかじっていた。

風穴はパスしてしまった。恐らく二度と穴めぐりはしないであろう。これは胎内めぐりとのネーミングをした奴の才が全てである。そいつの命名法にそそのかされて2度も胎内巡りをしてしまった。もうしない。

聖徳寺に戻り、カレーライスをいただき、久し振りにN先生とお話しもできた。佐藤くんもマッサージしてもらったりで妙な体験をしたであろう。

ただそれだけのことであった。

16時頃、去る。帰りの中央高速も走ったり、とまったりで、19時頃世田谷につく。

宗柳で石森ダンナと会い、佐藤くんは石森邸の金属の塀に小さなメッセージボードを取り付け、写真撮影する。

良い写真がとれていた。

ついでにワインを飲んで皆と別れた。

明けて9月15日。メモを記す。台風が接近しているようでドシャ降りの雨である。

恐らくこんなのが何年も何十年もあるいは何百年も続いたのがノアの方舟の神話中の神話を産み出した大洪水時代なのかな。

ブレードランナーの未来都市にもドシャ降りの雨が良く似合っていた。

チビ猫は家を駆け廻り、デカ猫は身を縮こませている。

馬場昭道さんより、018.ナーランダの件で連絡をいただく。

この人は実に勘が良い。昨日お目にかかった仏教学者の印象はどうであったかとのこと。「学者に出来ることと、出来ぬことがあるかな」と、とぼけた。

世田谷村日記 ある種族へR85

11時世田谷区役所田中耕太子ども部保育計画課長、上村隆子ども部保育課長来室。打合わせ。

13時半講談社園部雅一さん来室、打合わせ。

16時半龍谷大学若原雄昭教授来室、打合わせ。

18時過九州大学学生突如来室、設計製図作品を一瞬見る。

19時半千歳烏山で石森彰氏と会う。

21時前世田谷村に戻る。

明けて9月14日、6時半離床。7時佐藤研吾くん世田谷村に来て、共に富士へ発つ。原口さん同行。

世田谷村日記 ある種族へR84

明けて9月13日8時前離床。オリオン座の2つの一等星のうち狩人オリオンの右肩部分の赤色矮星ベテルギウスがいずれ爆発して夜空から消滅するという。先日富士山で視たオリオン座と大犬座のシリウスと黒い富士の絶妙な組み合わせを想い起こした。

その爆発そして消滅は何日も続き月の明るさの数層倍の輝きを発するらしい。勿論、昼間にも視える輝きであるようだ。

その時人類には新しい神話が到来するのだろうか。名だたる星の消滅を目の当たりにしての事である。生きている間にその爆発消滅を体験できるかどうかは知らぬ。

昨夜遅く「GA」磯崎新、鈴木博之、二川幸夫の鼎談本『20世紀の現代建築を検証する』A.D.A.EDITA.TOKYO ¥2300 を読み終えた。面白くて2度程読み直しただろうか。雑誌出版の頃すでに読んではいたが、行司役らしき二川幸夫が今年亡くなり、すでに星の如くに消失している。本になった今、その不在を実感しつつ読むと又、別の書物の如くに読めるのであった。

又、最後の章に、あとしまつ磯崎新、聞き手二代目襲名の二川由夫が聞き手でつけ加えられている。

鈴木博之は、このあとしまつには登場していない。何故登場しなかったのか解るような気もする。

彼は近現代建築形式がうたかたの神話であったと実感しているのではなかろうか。

つまり、あと書きは磯崎新と二代目二川由夫のやり取りになっている。

土俵が無くなってしまったの小見出しは誰がつけたのかは知らぬが名小見出しである。

磯崎新が冒頭で「――まず、鈴木博之さんは降りたんだね」

と重要なつぶやきを残している。

建前としては最近のモノをそれ程見ていないからの理由を恐らく二川由夫には言って、そして鈴木博之は意図的にこの鼎談らしきから姿を消した。だから、あと書きらしきは磯崎新の独演である。

つまり、この部分は磯崎新のつぶやきにも似た近現代建築への率直な感慨となっている。

そして、降りた鈴木博之の空白が大きく眼に映るのである。

二川幸夫は眼の人、ヴィジュアルな人であった。鈴木博之は知覚、つまり言葉の人である。

今、映像(ヴィジュアル)だけの建築世界の現実となり、磯崎新は建築の解体ならぬ消滅をつぶやく。

鈴木博之はここ100年はうたかたの神話であったかと見透してとり敢えず、鼎談の土俵から姿を消した。

しゃべらぬ人の姿がはっきりと視えているところが最重要である。

星々も又、いずれ姿を消すことがあるようだから。

世田谷村日記 ある種族へR83

13時打合わせ始める。17.京都P、幾つかの収穫はあったが低調であった。今日はスタッフの意識のポテンシャルが低い。凡庸さは仕方ないが、意識の低さは時にいかんともしがたいところがある。小市民になるなとつぶやくも、このつぶやきは通じないだろう。

08.タオル計画は昨日の磨州くんの来室で局面が一転した。わたくしも旧い友人達のネットワーク、つまり人脈ということさ、をフル稼働させて応じ始めた。

16時半修了。遅い昼食へ。18時烏山へ、久し振りに宗柳にて一人で一服する。色々と考えて、19時半世田谷村に戻った。

昔、インテリアデザイナーの倉俣史朗さんと話した事があった。1本のネジで革命が起き得るなんて、彼はデザイナーなりに言っていたような記憶がある。倉俣さんが、である。

ああそういう事であったのかと今なら彼が言いたかった本音がわかるような気もする。デザイナーのバカさ加減を自ら恐らく知っていたのであろうか。わたくしもまた知るように。

何枚かのタオルで世の中を変えてみせると、69歳のジジイであるわたくしは言いたい様な気もするなあ。倉俣のネジとわたくしのタオルは同じモノであるやも知れぬのだ。

富山の神官、酒井さんとの事も展開させねばならぬが、余りにも自身の力のキャパシティーの小ささに身がすくむ気がする。

世田谷村日記 ある種族へR82

昼過ぎ打合わせ。06、04それぞれの計画について。このWORKの進行についてはサイトに公開することとする。秘密を旨とするモノではないしクライアントのプライバシー保護についても抵触するものではないと判断した。逆にかくなるクライアントの存在を世に知らしめるのは何がしかの社会性を持ち得るだろう。

14時安西直紀、大橋磨州両氏来室。大橋磨州さんがこの9月20日夕方より上野アメ横で立派な店舗を開くことになり、その報告とこれからの相談である。

安西直紀さんの「向風学校」は今のところ目立った何の成果も挙げることも出来ずに雌伏している。オジキ役のわたくしとしても忸怩たるものがある。

磨州(ましゅう)くんのこのアメ横での「魚草(うおくさ)」開店はそんな意味からは向風学校の初の大ヒットではなかろうか。安西直紀くんも心から嬉しそうであった。それが彼の美質である。心から友人の努力を喜び力を尽くすという美点!当初は三陸の気仙沼の魚を売り始めるとの事。わたくし共の気仙沼・唐桑支援の復幸タオルは宝船と七福神がテーマなので、磨州くんのアメ横の店「魚草」の開店にはピッタリだと思い、開店祝いに展示、販売していただくこととなる。

大漁旗の祝いモノよりは新風が吹く感もありズーッと良いだろう。皆さんも9月20日のアメ横プラザA棟29号 台東区上野6-10-7へ是非共お越し願いたい。磨州は仲々の人材である。見てやってもらいたい。

一見の価値あり、京都百万遍の「梁山泊」橋本憲一をしのぐ可能性あり。

そんなわけで08気仙沼・唐桑復幸タオル計画は新展開することになった。16時別れ、遅い昼食へ。

18時過千歳烏山で石森ダンナと雑談。20時過世田谷村に戻る。

翌9月12日9時過離床。メモを記し送信。

昨日安西直紀さんより手渡された『超越国境』のページを操る。今日は13時より17の打合わせが予定されている。

世田谷村日記 ある種族へR81

8時50分、06稲田堤保育園のスケッチ始める。興が乗って彩色までする。10時前中断する。

以前よりコレクションしていた海綿体の石の数々を眺め手で触れたり。読書とは全く異なる頭脳、身体の動きがスケッチにはあるな。面白い。

どうスタッフに伝えるかがむずかしい様な気がする。

ストレートに伝えると誤解を招くかも知れない。先ずはスタッフとの交信が問題ではあるな。

10時作業を休み朝食でもとるか。今日も午後に来客あるな。

世田谷村日記 ある種族へR80

13時04シンガポール計画の準備チェック。15時シンガポールから本日直接寄ったPJ Partners Pte Ltd CEO・高橋世輝さん、株式会社Prot取締役・林義仁さん、十勝の後藤健市さん他とお目にかかる。

先ずは自己紹介、そして提案内容の説明、質疑応答となる。

若い頃やっていた商業建築の体験や、住宅部品の輸入の体験が少しは役に立っている。随分今に通じることをやっていたんだと振り返る。

17時過修了。その後、スタッフと本日のまとめ、他をして18時研究室発。世田谷村への途次06星の子愛児園の考えの糸口を再検討する。

磯崎アトリエより、磯崎新の下で計画案を作った、2016年福岡オリンピック招致案のなつかしい資料送られてくる。どうやら、磯崎さん今出版中の岩波書店『磯崎新建築論集』へと収録したいとの考えのようだ。

今度の2020年東京オリンピック開催の決定もあり、振り返って眺めるにこの東京へのカウンタープランとしても作られた案は実に様々な思考が渦巻いていて、プロジェクトとしても際立っていたのを知る。

磯崎新のアンビルトPの中でも最良のモノのひとつではないか。

19時過宗柳にて石森のダンナと会う。ダンナはまことに地元を知り尽くしていて店に出入りする客の大半を知り抜いている。わたくしとは別の地図を持つのだなと知る。

20時過世田谷村帰着。GAの『「○×」で、対談・磯崎/鈴木/二川幸夫『20世紀の現代建築を検証する』¥2,300、A.D.A.EDITA Tokyoを読む。内容の濃い本である。今この本をキチンと読み切る読者がどれ程いるか、いないのかフッと想う。鈴木博之と磯崎新の考え方の相違が際立つ本である。七番勝負とはうまく言ったものだ。

翌9月11日6時50分離床。めっきり涼しくなった。

GAの磯崎新/鈴木博之の対談本を読み続ける。

世田谷村日記 ある種族へR79

10時半大阪の安藤忠雄さんと話す。

「オリンピック東京に来て良かったね」

「ワシはこれで引きますので良かった」

「そうはいきますまい、でもアナタは強運の持主だ。オリンピックが東京でなかったら色々と批判が出ただろうから、先ずは良かった」

11時Xゼミナール投稿。「インダストリアルデザインと小住宅設計群」3信、書き送信する。核心に入った。

世田谷村日記 ある種族へR78

13時研究室打合わせ。18.ナーランダ大学の件、13.Journey to the WEST、0102.ベトナム五行山、09.すだれ発電、04.シンガポール計画。13.Journey to the WESTは新しくサイトにページが開設され、それを中心に具体的な討議をすすめた。このページは地元住民とすすめている南烏山5丁目の再開発に関して密接な関係を持たせようとなった。若いアーティストが参加する勝手気ママな自己表現とは一線を画するので注目していただきたい。東日本大震災被災地支援でもある気仙沼・唐桑七福神タオル販売もこのページを使って更に続けていく。恐らくこれはこれで簡単にお仕舞というわけにはいかぬであろう。5丁目の石森さんの家の門に置いてあるタオル販売のチラシも、めっきり手にする人の数が激減した。世間が薄情であるのではない。我々がやっている事が珍妙なのである。

が珍妙にだって一分の理はあるさ。

17時半迄打合わせは続いた。

コンピューターのマザーの調子が悪く、旧式で容量も小さいので時々サイトが開かなくなる事があり、読者諸兄姉にはご迷惑をかけている。近々、機械を入れ替える事にする。

18時過研究室を発ち、新大久保近江家へ。Xゼミナールの会合。難波和彦さんとボチボチやっていたら、やがて鈴木博之さんもくる。

東京オリンピック2020年の話題他。槇文彦さんがJIAの何かで新東京国立競技場のコンペ自体を批判しているようだ。コンペ自体を批判しているという事は、すなわちコンペの主催者の考えを批判しているという事でもある。

要するに安藤忠雄、鈴木博之を批判しているという事なのか?恐らくこの文章らしきは2020年東京オリンピックの東京招致がまだ覚つかぬ頃に書かれたものであろう。昨日、2020年に開催都市が東京に決まったのだから、この競技設計の当否は別の次元にすでに突入している。

安藤忠雄、鈴木博之両氏は誠についていると言う由縁はここに実にあるのだ。 もし負けていて、東京にオリンピックが来なかったらお二人はボコボコにされていただろう。繰り返すが誠に運が良いのである。

話を続けていくうちに10月3日の東大、早大設計製図共同課題出題に際し、東大での製図に関するわたしの小レクチャーに鈴木博之、難波和彦両氏が聴きにきてくれる事になった。わたくしの設計製図の事実上の最終講義になるかも知れぬからと言う事である。

こうなるといささか緊張するなあ。マア頑張ってやろう。

20時半了。別れて世田谷へ。21時半世田谷着。

明けて9月10日、8時前離床。メモを記し、サイトをのぞく。今日はシンガポールから人が来るので、その用意をいささか昨日した。どんな話になるのか見当がついていない。

世田谷村の猫二匹について。

全くチビで片手に乗るようなチビの方の猫、こいつは白猫である。ビックリまなこの方。こ奴が急に大きくなった。もう子猫という風からはるかに抜け出ている。ただしコイツは人になつきやすい。まだ疑うという事を知らぬ風がある。

もう一方は黒猫で、こいつはデカクなったチビの方よりそれでもはるかにデッカイ。まるで相撲取りの如く、ドコドコと床を歩く。しかし、相変わらずチビ白とは接近しない。昨夜はいじけたのか、風呂場の洗い場でこっそり隠れて眠っていた。

そういう姿を見ると可愛そうになり、たまにはヒザの上で「いじけんじゃあない」と声を掛けようとするのだが、それをきらってコソコソ逃げまわるのである。

持って生まれたモノが違うような気がする。

この猫達も人間御同様に運が良かったり、悪かったりがきっとあるだろう。

二匹ともに幸運を祈りたい。

しかし、良く眠るなコイツらは。

気仙沼・唐桑復幸祈念七福神タオル、一本一本のバラ売始めてます。気楽にと言ったら失礼か、連絡して下さい。

世田谷村日記 ある種族へR77

朝は再び富士は雲の中へ去る。朝食をゆっくりいただく。

谷さんの娘さんの設計でもあるブラジルの谷邸を見せていただき、ささやかなアドヴァイスを。まだ29才だから、ブラジルの良い建築家の仕事を学び、そしてお父さんの仕事を手伝い続けるのだから、ビジネスの勉強も同時にしたら、特に建築の値段の勉強したら良いと、これはキチンと先生の顔して伝えた。

谷広海さんはブラジルの大西洋を望むアルメイダ・サントスの高台に邸宅を構えている。サンパウロの事務所との行き来の忙しい日を過ごしているが、豊かな生活振りがしのばれるが、大変な苦労の末に得た生活であろう。

昭道さんがどうしても見たいと言うので大石寺に行く。

創価学会との争議(裁判)に決着がつけられ、創価学会の大石寺本堂他は全て取り壊された。

その跡を見たいと言うのである。成程ね浄土真宗の人間としてはその想いはわかるような気がする。

日蓮正宗の大石寺に戻った、すなわち宗教の伝統の中に日蓮宗として戻った姿の大石寺を見学する。たしか院生の頃、創価学会の頃の大石寺本堂を見学して、批評文を書いた記憶があるので懐かしい。

巨大な白い石貼りのモノだったが、わたくしはそれをメルヴィルのエイハブ船長、モービーディック白鯨に例えて稚拙な文を書いたのであった。

境内で日蓮正宗教学研鑽所の長倉信祐さんにお目にかかり、親切に案内していただいた。

諸資料をいただき、六壺と呼ばれる建築が建てられている大石寺発祥の地の霊域を案内され、続き境内を案内していただいた。

御殿場の自衛隊演習場近くの溶岩流に出来た富士山御胎内清宏園胎内巡り洞を見にゆく。入口でヘルメットとヘッドランプを渡される。

父の岩、母の岩にしめ縄が張られ、途中に父の池、母の池もあり、陰陽道につながる原始神道に富士信仰が結ばれているのを知る。

胎内巡りの洞の内部は、それこそ這って四ツ足で進まねばならぬ程小さく狭い。ヘルメットがゴツリ、ゴツリと溶岩のゴツゴツに当る。これはヘルメットをかぶらねば頭は血だらけになったであろう。這いつくばり、ようようの体で元の入口近くにもどる。もう息も絶え絶えであった。でも、数々の胎内巡りの洞穴を体験したが、ここのが一番胎内巡りを感じさせた。人体同様に胎内は実に小さく狭いのであった。コウモリも飛んでいて、良い体験をしたが、皆さんブツブツもうだまされんぞと文句タラタラであった。自衛隊の機関銃射撃そして大砲のタッタッタ、ズドーンという間近な音を聴きながらの見学でもあった。

13時半頃、御殿場で遅い昼食をとる。16時谷さん一家を箱根宮の下近くのホテルに送り届け別れ、昭道さんと一路東京へ戻る。

高速道路をつなぎ乗りして、それでも19時半過はじまりの常磐線天王台駅にようよう辿り着く。ここまで一緒しないと一人で運転を続けた昭道さんは眠って事故をおこすだろうと余計なお世話でついてきた。

彼は明日朝一番の飛行機で宮崎だそうだ。まことに忙しい坊さんである。わたくしも疲れて電車を乗りつぎ21時半過世田谷村に戻った。

翌、9月7日6時半離床。メモを記す。

昼に石森くんにトウモロコシを分ける。トウモロコシは菅平の正橋孝一さんからの心尽くしである。夜中までグッスリ昼寝が続き、翌9月8日早朝起きてTVをつけ、オリンピックの招致都市競争を眺めた。東京が圧勝との事。わたくしはイスタンブールが総合的に考えて良いのではないかと考えていたので予想外であった。オリンピック招致に投資したマネーの額の違いがストレートに出た。

先ず財政不安のスペイン・マドリッドが落選、次いでそれ程財政力豊かではないトルコ・イスタンブールがTOKYOに敗れた。

IOC(国際オリンピック委員会)も又、マネーの津波下にあるのは歴然としているが、その通りの結果になった。これで2020年迄、日本は妙なオリンピック症候諸例の内に高揚してゆくのであろうか。大津波と福島原発事故の後の土台無き高揚である。しかし、安倍晋太郎首相はついているとしか言い様がない。石原慎太郎前東京都知事の狂い咲き願望としか言えぬオリンピック招致すなわち神風を想わせる政治家の、それでも野心の、置土産を拾ったようなものである。

安藤忠雄さんも、まことに強運の持主である。そう言うより他はない。 「今度の、2020年のオリンピックはTOKYOに来てもらった方がエエ。イスタンブールもエエけど、TOKYOに来てもらわないかん。日本が沈むで、そうならんと」

と直観していた。国民的建築家としてはそうだろうとは考える。しかし、この東京でのオリンピックは良く良く考えれば、民主党政権の大失政に因を発しているのは歴然としている。菅直人、鳩山由紀夫、両元首相の無能、無策振りの結果、つまりは彼等がおとした色あせたおみくじを拾って開けてみたらの招致成功だったのである。

だから、この2020年オリンピックはまことに日本にとっては最近大流行の気候不順と同じの、神風オリンピックになるであろう。

石原慎太郎が祈願して、それでもしぶとく実現させようとしているのであるから。

ベトナム五行山計画について想を練り直す。具体的にブラジルの谷さんにダナンから送っていただく連絡分について。

日本が沈み切るよりは我々のアジアでの諸計画にも神風ならぬ、秋だけれど春風が吹いてもらいたいものだ。

12時前、ベトナム・ダナンのヒュウ氏への連絡文の草稿を作る。 Mr.ヒュー→ブラジルMr.谷あての草稿である。

ベトナムの仕事でブラジル・サンパウロに通信するこんな迂回振りは、実は時に必然なのである。

世田谷村日記 ある種族へR76

明けて9月6日、なんと深夜2時半に昭道住職にたたき起こされる。

「富士が見えるぞー!!」

「何だ夜中に富士が見えるものか!!」

と、それでも坊さんに文句は言えぬから、おぼろな眼で外を眺めると実に満天の星夜である。

冬の星座の主役オリオンが中央下にグラリとかかり、大犬座の全天で最も明るく輝くシリウス星もそれはそれは見事な角度で配され、その中に富士山が黒々と美しく座っていたのである。

「コリャー、スゲエや!!」と谷さん。

富士嫌いのわたくしまでも

「スゲエなコレワ!!」と言い放ってしまう。

生れて初めて富士山を美しいと思ったのである。

月もなく、星々のおかげであろう。

イヤハヤ、これはギリシアのアトス山と星々よりも、最近のラダックでのヒマラヤの山々と星々よりも、これは凄かったのである。

言葉を失うと人間は「スゲエ」とか「アア」としか、あるいは無言になるしか無い。

「花は桜樹、男は早稲田、山は富士」

と谷さんも完全に言語失調症であった。谷さんは早稲田出身である。マ、谷さん位の老人世代がこんな独白を吐くのは可愛いくてよろしい。

今のジャリはこんなかな

「花はスイートピー、男は女、山は高くてつかれるよ」

与太話はとも角、この富士は良かった。本当に。何者かに感謝したい。

もう富士山の悪口は言わない。昼の富士山はイヤなただの地ブクレ堆積砂だけれど、星と共にある富士は従容として星星に、それもオリオンとシリウスに挟まれて地味にかしこまっている風があって実に良かった。

フット、ベトナム五行山の勧進の件で良いかも知れぬアイデアが生まれた。実は前の晩その事で中々頭が整理できずにモンモンとしていたのである。

明朝、谷さんに話してみようと決め、今度はグッスリ眠りについた。富士山がアイデアをくれたなコレワ。

翌朝ならぬ、同じ日9月6日7時過スッキリ目覚めて、谷さんに昨日浮かんだアイデアを話す。

「それなら、ワシにも出来そうだ」

と言ってくれた。

天が味方してくれているな。

世田谷村日記 ある種族へR75

7時過予定通り千歳烏山駅からJR常磐線天王台駅を目指して京王線に乗るも、落雷で電車がSTOP。40分弱箱に閉じ込められてしまった。満員電車で立ったままで中々辛かった。

同乗の皆さんは静かにジィーッとガマンしている。偉いな皆さんは、とてわたくしもそれに見習う。そうするしか無い。

鶯谷で乗り換え、常磐線はゆっくり座って乗ることができた。

車中でXゼミナール投稿の最終ゲラに手を入れる。

40分弱遅れて天王台駅着。遅延のおわびとヤアヤアの挨拶。

谷さんは奥様と娘さんを連れての来日である。娘さんはブラジルの谷さんの仕事を手伝い建築設計の勉強をしている。

真栄寺に参り、お茶をいただく。

11時頃富士山に向けて車で出発。高速常磐道、圏央道等を乗り継ぎ中央高速八王子近くで河口湖への高速にドッキング。

イヤハヤ、千葉から都心を迂回するのも大変なことだ。

富士山は見えず雲の中。朝霧高原の道の駅近くで雲が上がり富士山が姿を見せるも、雪もなく、いささか不格好な姿でもあり、谷さんファミリーも一向にアアとは言わず。わたくしは富士山はあんまり好きな山ではないのだけれど、折角ブラジルからやってきたんだからもう少しイイ富士山を見せてあげたいと思ったり。

意が通じたか、高原の片隅で美しい富士に出会えた。頂きが溶岩の赤で染められ、下が淡い緑の草や樹木で色彩が実に日本的な淡麗さに染められた富士だった。

一同車を降り、しばし見とれる。わたくしも生れて初めて富士に見とれた。

ついでに白糸の滝を見ようとなり、立ち寄る。

白糸の滝は工事中であった。

滝が工事中なのではない。いかに工事好きの国民とはいえ、流石にそれは無い。滝の展望台が工事中であった。上から見下ろす白糸の滝は妙であった。近くに源頼朝が富士の鷹狩の最中、立ち寄り、鬢のほつれを池の水に映してなでつけたと言う、鬢の小池があり見た。静かで小さな奇景であった。

岩々の間に入り込んだりで辺りのいささかの霊気のただようと感ずる。ここから眺めた白糸の滝は中々良かった。富士の裾野は水に溢れているのを知る。

人穴というのがあるらしく見ようやとなり、いささか探しやっと到着。傘をさしていささか登ると森の中に、ここは本格的に霊気が漂っていた。馬場昭道は仏門なので仕切りに、こういうのは苦手じゃとこぼす。谷さんがもう45年も日本を離れブラジルなのでもあり、あんまりそういう霊気とやらには無頓着であった。

人穴はほとんど垂直に近い自然の洞窟で、富士講はじまりの修行の地であったそうな。つまり、昔はこの辺りから富士山の頂向けて講の登山が行われ、修験道の修行もなされたのであろうか。

この人穴はいささか恐い感もあり、立入り不可とあったのでそれに従い入り込まなかった。人穴とは良く言い続けられたものだ。

人は皆、女性の股ぐらの穴から生まれ出づる者であり、穴には万人共に畏敬を持つのであろう。谷さんの奥さんと娘さんはあんまり興味がないのか、車で待つとの事。女性は穴の霊気に関心が無いのだろう。

自分自身がそうだからと納得する。

人穴には神社も建てられ、境内には江戸期からの古い墓塔が林立し、とても夜になったら来られないなココは恐ろしくって。

昭道住職、ここに白い布を着た人が来たらワシャーもうダメじゃ、恐ろしいと言う。仏門はお化け等の霊気、あるいはその気配には弱いというか、論理的に拒否するのである。成程ねと思った。

もう帰ろう、帰ろうとて本日の宿舎である近くの国民休暇村のホテルへ。谷さんがどうしても富士山を見たいと言うので、昭道さんが友人にインターネットで調べさせ、ここは富士の姿を眺めるのにベストであると探り当てたところだ。

昭道さんと谷さんは同郷、すなわち宮崎県以来の友である。昭道さんが故郷の寺を出て千葉の我孫子で都市開教を拓いた。

谷さんは故郷宮崎、ひいては日本を出てブラジルで弁護士となり、今は大変成功している。そう言えば、わたくしの幻の故郷でもある岡山県吉井川沿いの佐伯にも北向き観音という大洞穴があったなと思い出す。これはアニミズム紀行Ⅰにも記してある。

宿につき、あいにく富士は雲の中であるが、温泉につかる。

一風呂浴びて、夕飯前谷さんに01,02.ベトナムの文化交流センターの話しその他。谷さんはブラジルで稲盛和夫(京セラ会長他)の盛和塾の代表でもあったので、そのあたりからのお願いをする。

勿論、いくら友人でも事はそう簡単ではない。壁に当る。 メシだメシだと夕食へ。

大変な人の数で、良くここ迄人が来るなといぶかしむが、夕食が誠に品数の多い、しかも美味尽くしのヴァイキングで、これなら人が集まるなと納得。多品種少量生産の極だなと思った。

厨房をのぞいて見たいなと思う位。余程の数と質の料理人を集めているのだろう。

語り明かそやと言っていたが、眠くなってしまい21時半には皆グッスリ寝入る。

世田谷村日記 ある種族へR74

10時半研究室、11時打合わせ始める。04シンガポール計画他。14時サンユー建設埼玉金属工場・工場長小山忠男さん、エレベーター事務部松田耕治さん他。打合わせ。

工場長は東北の出身で、仲々頭が固いので、いささかわたくしなりに頭を柔らかくしてくれと脅迫する。しかし、東北の人間だから、どうなることやら。全く、人間それぞれのキャパシティーを見極めるのは大変である。しかし、とりあえず、第一歩を頼んでみようかと決めた。しかし、頭がコチコチなので出来るかどうか。予測が間違いであることを祈りたい。

14時、石山研究室一期生北園徹さん、池原義郎事務所のスタッフであった加藤さん来室。わたくしが半年前に依頼していた早稲田建築学科設計製図に対する建白書、つまりは提言についての相談。北園さんは、わが研究室のオリジナルのキャリアを持つ、有望建築家であり、加藤先生は池原研究室OBの早稲田的精神を体現するこの人も有望建築家である。

彼等に、わたくしが来年早稲田の学科教室を抜けることが出来るので、それを期して建白書を出してくれ、つまり早稲田大学建築学科製図教育への、教師としての提言をまとめてくれと依頼していたのである。

聞いて、チョッと現実とは程遠いと感じたので、も一度考え直してくれと依頼する。

何が程遠いと直感したかと言えば、彼等は早稲田の建築学科がまだ、ある程度骨格を持ち得ていた頃の印象をいまだに引きずっていた。これは非現実である。

そうでは無くなっている、つまりは建築家、作家を生み出すことが一つの小さく鋭い目標ではあり得ない現実の中で考え直してくれと申し上げた。

仲々、むずかしい現実である。

エンジニアリング系がグローバリゼーションの過中では当然巾をきかす現実がある。彼等は個々人の創作、創造的機徴はほとんどわからぬ教員の集まりでもある。早稲田のみならず、そうなのだ。

翌9月5日6時過離床。明け方雷がとどろく。雨音激しいが、やがて止む。天候不順である。

今日はブラジル、サンパウロから谷さんが来ていて、馬場昭道さんと共に何処やら富士山の見えるところへ出掛ける。

谷さんの希望だ。7時過には世田谷村を発ち常磐線天王台に行かねばならぬ。富士山とは逆方向だが、坊さんの考えることで従いたい。

昨日は02ベトナム五行山梵鐘計画への俳人金子兜太さんの句が届いたそうで、昭道住職句に対して意見を言えとの事であるが、兜太さん心尽しの句に何のこうしたらの意見らしきもあるわけがない。おそれ多いこと言うな坊さんは。

しかし、今日は台風接近で富士山は雲の中であろう。

ブラジルの谷さんが富士を見たいと言うのも切々としてわかるが心眼に映すしか無いか。

世田谷村日記 ある種族へR73

明けて9月4日、6時半離床。小雨模様の天気で空気が湿っている。

いきもの稲荷、つまらぬ世界の章6」で小休止しているのを進めたいと思い、少し重い話になりそうな予感もあり、我ながらしんどそうで、チョッと幕間を設けることにした。2つの資質もわたくしだけがわかるという独りよがりの世界に入り込んでしまった。しかしマテリアルは沢山あるので、これをいきもの稲荷に使ってみようと思い立つ。これじゃあ、わかりようが無いだろう、読者諸君は。「毛沢東からネコ屋敷へ −幕間小劇−」1を書き始める。

山口勝弘先生、石山篤さんより展覧会のお知らせをいただく。山口先生のはロンドンであり、石山篤さんのは世田谷美術館・区民ギャラリーである。石山のところに石山から知らせが届く奇遇というか、何と言うか、まるでいきもの稲荷の世界である。そして、ですよ、弟さんの名前が石山修さんなのである。石山修武の武抜けの石山修さん。おさむ、はこちらの名の方が多いが、それにしても驚いた。石山篤さんは少し前迄GKでオートバイのデザインに従事されていた方で、GKの社長を一時つとめられた。顔見知りである。

石山修さんの方にはまだお目にかかっていない。それ故9月18日〜9月22日の区民ギャラリーの石山兄弟展には出掛けてみる事にした。

今朝お電話差し上げることにしたい。

世田谷村日記 ある種族へR72

11時20分発、電車を乗り継ぎ松蔭神社へ。皆と落ち合う。12時半過、世田谷区役所一階ロビーで幾つかの打合わせ、伝達。13時副区長室で板垣副区長、田中区長公室長とお目にかかる。2点の申し入れをする。役人言葉ではなく前向きに対応して下さるの言を得る。

私的なことを申し上げているのではない。区民のための提言である。恥ずかしながら正論を申し上げている。

13時半過終了。松蔭神社駅近くの小洒落たパスタ屋で、簡単なおやつと言うか、何かな。無駄話をして、皆と別れる。

15時烏山南蛮茶館コーヒー店で「Xゼミナール」栄久庵憲司の2を書く。16時7枚書き終える。

世田谷村に戻り、17時過初めての店、しげるで石森ダンナと会う。保育園の件で志村さんとも連絡をとる。

20時前、世田谷村に戻ったら安西直紀くんより連絡が入っており、知り合いのマシューくんの声共々話しを聴く。

マシューくんは慶応大学から東大院に進み、その先は上野アメ横でカニ販売の修行をしていたという変わり者であった。それが聞けば立派にアメ横で店を構える事になったと言うのである。

安西直紀の仲間の中でキチリと決めてきたなとの印象があり、嬉しい限りである。

恐らく近々お目にかかることになるであろう。楽しみである。

世田谷村日記 ある種族へR71

少し準備して14時からの研究室ミーティングに臨む。安藤忠雄さんに連絡して頼み事したり、気仙沼、唐桑の面々とも話したりの下準備である。

13時半研究室ミーティング。

04.シンガポール計画、10.世田谷計画、08.唐桑復幸タオル、04.シンガポールプレゼンテーション、06.厚生館愛児園、09.すだれ発電、他を討議。実は動物病院の件を進める方法も用意していたのだが、項目が多過ぎて混乱するだろうと思い止めた。研究室ミーティングと言っても学生の参加は勿論ない。

少人数のスタッフとだけのミーティングである。学生はこの日記、他を読んでくれれば良い。

18時修了。何処にも寄らずに世田谷村に19時半戻る。

20時気仙沼商工会議所会頭臼井賢志さんに連絡する。気仙沼および唐桑自治区の巨大防潮堤についての意見を聴く。極めて冷静な意見を聴けた。宮城県村井知事が防潮堤の建設推進の急先鋒である事がわかった。

これは唐桑の皆さんも同じ意見であった。

理由は復興交付金の、つまりは巨大な補助金の交付期限が間近でその予算をどうしても使い切りたいと言う事らしい。

要するに相も変わらぬ中央の役所仕事との関係である。地方自治の強化、推進をうたっている筈の村井知事の志と違うではないか、が臼井さんの意見。村井知事は道州制まで言っていた筈だ。

要するに気仙沼の実力者臼井さんも防潮堤は反対である。

彼は昔、ダム建設反対のノロシを上げて小野良組主導のダム行政に反対し、市長選に挑み、小野良市長に敗れた歴史を持つ。

日本を代表する大船主(マグロ延縄漁)であり実際家でもあるが、キチンとしたエコロジストでもある。わたくしは信頼している。

わたくしは唐桑の浜辺に1坪運動でも展開しようかの考えを正直に述べたが、古いですネエと言われた。確かに三里塚の闘争じゃあない。

時代は廻っているが、さてどうすれば良いかの代案がありや否やである。

明けて9月3日、7時半離床。持ち帰った、17.京都本願寺への報告書の目次案に手を入れる。9時前了。

9時15分京都本願寺佐々木執行長とお話しする。

今日は午後に10.世田谷計画の諸々について世田谷区副区長以下世田谷区役所の方々との話し合いがあるのでいささかの準備。

世田谷村日記 ある種族へR70

9月1日になり、明方4時前離床。メモを記し、Xゼミナール投稿の草稿の筋径を立てる。昨日の世田谷美術館での「栄久庵憲司とGKの世界」に於けるヤマハやキッコーマン他の量産品のデザインの迫力と、謂わゆる住宅設計等に従事している人達(時にわたくしも入る)の仕事の落差を痛感した。

そのような人間として、つまり自分を棚上げすることのない、それでも批評を書き始めた。身近な友人、例えば昨年亡くなった大野勝彦さんや、箱の家の難波和彦さんの仕事の批評にもならざるを得ずいささか緊張したが仕方ない。

若い頃のわたくしの仕事の主題は建築の工業化であった。

これは建築史家渡辺保忠の影響が大であり、それが次第に表現の必然、あるいは個人としての人間の生きる目的のような事にスライドしてきたのが今のわたくしの立脚点であるが、自分の立脚点を含めて今、書かざるを得ないと考えたのである。

学生時代、わたくしは栄久庵憲司と白井晟一に関心があるという自己分裂をきたしていたのだが、その分裂は実に今も続いているのであり、それにそろそろ終着をつけたいと考えたのである。

時に突然、人間は自分を深く視つめ直す必然に襲われるようだ。

この批評はXゼミナールに投稿する。

夜が白々と明けてきた。今朝は台風が来るとて伊藤アパートの地鎮祭は敷地に近い神社に変更された。

Xゼミへの投稿を決め、その草稿イメージの一端を記し、少しは頭がスッキリした。7時くらいまで又、横になって休もう。

7時15分再離床。

Xゼミへの投稿を書き始める。9時過世田谷村を発ち、電車を乗り継ぎ洗足へ。10時20分洗足駅で待ち合わせて、伊藤アパート現場近くの八幡神社へ。

古い立派な神社であった。台風到来を見越しての地鎮祭ならぬ、工事安全晴天下の祈願祭となる。

伊藤夫妻、建設会社社長以下6名の人間そして神主による式を持つ。

終了後伊藤邸で研究室の面々と昼食をご馳走になる。赤ワインが美味であった。

その後千歳烏山迄車で送っていただき、少しの打合わせの後散会する。

19時Xゼミナール投稿書き続ける。

明けて9月2日6時半離床。

9時Xゼミナール投稿「インダストリアル・デザインと小住宅設計群について」そのⅠ・栄久庵憲司とGKの世界—鳳が翔く。世田谷美術館、感想、書き終えて送信する。

イヤハヤこれも長い連載になってしまうかも知れぬ予感がある。

Xゼミナールである。先ずは難波和彦さんからの異論なりがあってしかるべきの書き方を始めている。

世田谷村日記