石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2014 年 1 月

>>2014 年 2月の世田谷村日記

世田谷村日記 ある種族へR244

1月31日10時15分、京王線千歳烏山駅で佐藤研吾と会い、京王稲田堤・星の子愛児園増築計画図面を受け取り、プラットホームの待合室でしばしの打合わせ。

別れ、10時45分稲田堤・星の子愛児園。玄関で園長先生とバッタリお目にかかる。11時会議室で近藤理事長、副理事長・園長先生、保育士先生2名、4名の方々と打合わせ。幸い作成した案はほとんど園の要求を満たしたモノになっていたので良し、となった。ホッとする。振り返ればこの最終案は昨年夏から数次の案作りを経て、ようやく辿り着いたもので、何十年やっても建築設計は容易なものではない。でも、クライアントと打合わせを重ねる毎に案は良くなってくるものである。色んな知恵が集合するからだろう。次は川崎市役所との、恐らくは非常に複雑な打合わせとなろう。既存棟のリノベーションがからんでくるから、解決しなければならぬゲートが幾つかある。

12時前、近藤理事長より厚生館愛児園の1階事務棟を改装したから見てくれと言われ、現場を見る。鉄骨の柱を切り取って間仕切りを取り払い、随分使い良くなっている。流石、日々仕事の中で使い続けているので的確な判断が出来るようになっている。隣りのなしの花保育園、さくら乳児院4階建の大きな複合建築も手掛けさせていただいた。両方の園共に緑が豊かに育てられとてもよい感じに育てられている。建築も使って、育てられて成長するものだなあと実感。まだまだ、わたくしは樹木、草、花は勉強しなくてはならない。川崎市の園長会に出席するという理事長とサッと昼食を共にとり別れる。12時半京王稲田堤より京王線、新宿、地下鉄副都心線を乗り継ぎ、13時半研究室。すぐに結果をを伝える。大きなキャンティレバー(持ち出し)の表現と屋上の既存棟との相互関係が面白くなりそうである。1階の木造部分の工夫もしたい。園長先生より内部は木質のやわらかい感じが良いと念を押された。多くの保育園を運営している人間の、これはもう思想であろう。

終了後、中国杭州プロジェクトの模型作りを見る。

色々と指示し、作業の合間にアルチ村日記1223を書く。又、「飾りのついた家」組合日誌61も書く。

アルチ村日記はいささかの長文となる。杭州プロジェクトの住宅部分はGA HOUSES展に出展する予定で今日が模型の〆である。しばし、つききりで仕上げ他を細かく見て修正。自分なりにしばらく振りの全力投球で、つききりにならざるを得ない。18時半、ほぼ満足して研究室を発ち、烏山長崎屋へ向う。

19時半長崎屋でモリスの家オーナーの北烏山、大坪義明さんと会い打合わせ。

「飾りのついた家」組合の作品群に大坪義明さんのコレクションを加えるべく、準備の為の打合わせである。

大坪義明さんは多様な趣味の持主であり、恵まれている事もあり、各種コレクターでもある。その家の一部をNPO法人世田谷式生活・学校の事務局として使用させていただく事になり、又、「飾りのついた家」組合の常設展示場としても使わせていただくというゼイタク振りなのである。つまり、これからのわたくしの諸活動の大家さんなのである。しかし、わたくしとは気質、性格共に大いに異なる人物なので、大変に意見は喰いちがう事が少なくはない。このヤローと思う事しきりなんだが、大家さんなのでそれを叫んだりはしないのである。さいですか、よござんすね等とグッとこらえるのである。

これから先がまことに気になる暗雲黒雲の大坪さんなのだ。

コレクションの酒器の写真はメールで送っていただいたが、ピンと来なかった。しかし、宝物を持参していただき、なかに2つとても良いモノ(わたくしなりに)があった。是非やりましょうと先ずは第一回大坪コレクションよりの作品展示という事になった。楽しみになった。個人的に陶芸家は余り好みの人種ではないが、モノに一つ、二つ大いに気に入ったものがあれば人物は気にならなくなるものである。

6点をセレクションしようと珍しく意見の一致をみる。月曜日、すなわち2月3日迄に原稿を書いてくれる様に依頼する。出品者への原稿依頼は恐らく組合最初の事になる。20時半過終了。

ママチャリでモリスの家へ帰る大坪さんとK.C.ヒマール横で別れ21時世田谷村に戻った。

明けて2月1日土曜日、8時半離床。長い長い日記R244を書き9時半までかかる。大坪さんの原稿の増量を思い立ち、電話するも応答なし。無事退院された母上の世話でもしているのだろう。

世田谷村日記 ある種族へR243

明けて1月31日、7時半離床。これは記録しておいた方が良いと考えたが、怠けていてついに写真を撮らなかった。通勤途中のJR新宿南口から地下鉄副都心線新宿三丁目駅への通路に、ホームレスの数人がダンボール箱の住居群を作っておられた。かつて、新宿西口に壮大なダンボール・タウンと言うべきが出現した奇跡があったが、出火し死者迄出した記憶があるが、すでに定かではない。ブラジル、サンパウロ大学の友人マリア・セシリア教授はそのダンボール・タウンを見たくって日本にやってきた。ホームレスの人々は隅田川べりに引越し、又、戸山公園内にもダンボール・タウンが出現したが全て今は又も消えた。あんまり知る事の無い公的収容施設に収容されたのであろうか。それはそれで仕方無かろう。が、しかしホームレスの人々にもホームレスの一分の魂らしきもあるだろう。恐らくは好き勝手に生きたくって、それが原因で家らしい家を失った人もいるだろう。新宿南口地下通路のダンボール・ハウスの人の中には御一人、とっても絵のうまい人もいて、チョッと描いている絵をのぞかせていただいたりした。ニカーッと笑って見せてくれた。あの絵も人物も家も記録しておくべきだった。今はもう失い。

ただ凄いホームレスの人物は出現している。立ちんぼホームレスと言うべきか、ただただ立ち尽しているのである。大きな荷物をまとめて帯びて、しかも、ダンボールシェルター等も構えようとしない。ただただ郊外のキリスト像の如くに立ち尽している。横にならずに、立ち尽して眠っている感じなのだ。この人々の記録を撮りたいが、やはりはばかるのである。この人々の自由、そこに居る自由を侵害するのではないかと考えてしまう。

何故、海辺の村や山村に立ち尽していないのかは一目瞭然である。そこには都市の余剰物、何がしかの食料や生活必需品が無いからである。

都市の地下通路に昼間は立ち尽し、夜は闇の中に恐らくは眠るのである。エロス的人生とは言えぬけれど、別種のワビ、サビの極致ではあるまいか。立ち尽すという表現をしているのではないかと思う程である。

新宿駅南口では、犬猫の避難所、恐らく新種の収容所の必要を訴える若者達も現れている。カンパ(支援金)を呼びかけていたので、そうしようかと思ったけれど、いやしばし待てと考えた。犬、猫にだって文明の余剰生物としての自由の権利があるのではないか。野良犬でありたい、野良猫でありたい者もいるのではないか。

福島の諸々の生物達、原発事故で人間達の如くに避難もできなかった生物達、犬猫は皆飢え死にしてしまったのだろうか。新宿の犬猫の避難所建設支援の若者達が、それを叫んでくれたならわたくしはささやかなカンパをしたいとは思うのだが、はぐれた犬猫が可愛そう位では、それはセンチメンタリズムでもあろう。

わたくしの研究室も今年最後の修士生を送り出すけれど、中に引き込もりグセの女学生がいて、それがやはり犬猫の避難所をテーマにやりたいと言ってきた。仲々いいじゃないかと、これはわたくしなりに励ました。

わたくしの研究室のそれでもあるやなしやの伝統らしきのひとつが、このイヤな言葉だけれど社会的弱者に対する考えの究明にあった。社会的弱者、すなわちホームレスは人間にだけの類に属する者ばかりではない。犬や猫、生物の全て空をゆく鳥の類にまで及ぶのである。

庭の梅の樹の老木が、今年も花をつけ始めた。気がつかなかった。東京なりに厳しい寒さが続いたが見事に咲かせた。

9時馬場昭道さんより電話あり、3月末日のわたくしの早稲田大学退職記念会に、友人達も出席するから、いい席を作っておくようにとの事であった。泣く子と昭道さんにはかなわないのであるから、そうしておきたい。

早稲田を去るに当って、ほとんど何の感慨らしきもことさらに無い。わたくし本来のより自由な境地に出られると喜んでいる。幸い、2月11日から2月一杯中国、インドへの出張が予定されており、これはわたくしの卒業旅行でもあろうか。

10時過に佐藤研吾と烏山の駅で書類受け取りの待ち合わせをしている。佐藤も飼い犬の亡くなったのに深く悲しむ感性の持主である。犬、猫のみならず生物一般の避難所ならず、せめて病院のプロジェクトをすすめたら良いのにとアドバイスしてやろうか。

世田谷村日記 ある種族へR242

1月30日GA HOUSES原稿を終え、13時研究室。「飾りのついた家」組合打合わせ。鈴木博之さんディレクションの木製カバンのにぎり手に埋め込む装飾について市根井立志さんと相談。又、彼から保育園の木造部分に関する面白いアイデアが送られてくる。本当にウカウカしてられぬ。追い抜かれるなと天を仰ぐ。

杭州プロジェクト打合わせ、星の子愛児園打合わせ。スタッフの作図上にスケッチを重ね続ける。やはり若いスタッフの作図はどうしても固い、つまりは常識的な枠内のモノになりがちである。それでなければ設計は困るという常識もあるのは知る。わたくしもようよう、70歳近くなって少しは自在なアイデアを見極められるようになった。これからが楽しみである。

16時研究室発。諸々の雑用をすませ、17時半世田谷村に戻る。19時半いささかの小休。20時研究室より星の子愛児園増築の図面送信されてくる。20時半返信して、少し計りの修正。明朝10時15分に京王線千歳烏山駅で修正図面を受け取り、11時星の子愛児園での打合わせとなる予定。若いスタッフの能力は、わたしの見るところ、年令なりの水準をはるかに超えている。又、そうでなければ、わたくしのところは困るのだ。程々に超えているのでは不足だ。はるかに超えるべしである。小休して、再び21時横になる。

デカ猫の白足袋はダンボール箱をボリボリ破りつくし爪をとぐ。チビの汚れ白はソファーのクロスをボリボリひっかいて爪をとぐ。世田谷村の内は猫の爪で満身ボリボリである。

こいつらは誠に良い人生ならぬ、猫生を送っている。喰っては遊び、又喰っては眠るの日々である。1968年のあの学生達の闇雲なる蜂起の、教則本の一冊(良く読まれた本)はマルクーゼであったと承知している。余暇の増大は資本主義社会の必然(目的)でもあり、それはエロス的文明をもたらす、と言うものであった。2014年の今現在はやたらに国民の休日は増えているのは事実であるが、エロス的文明に突入したとはとても思えない。エロ文明になっているのは確かであろう。エログロが言われる時代もあったけれど、グロテスクな風はあんまり吹いてはいない。エロだけだ。やっぱり、エロはエロスに昇華されてしかるべきだろう。それは芸術に担わされたものなのだろうが……。 

世田谷村日記 ある種族へR241

1月29日11時、稲門建築会豊川士朗さんインタビュー。11時半杭州計画、稲田堤保育園増築、打合わせ。

難波和彦さんより「飾りのついた家」組合への出品作、帽子掛け、と言うよりも帽子置きのデザイン送られてきたので本日2件程作れるかどうか打診する。何か問題があるような気がするデザインだが、コト帽子に関して難波さんは他の追随を許さぬ愛着と一心同体感とも呼べる感覚の持主なので口を出すのは控えた。帽子が格好良かったのは夕陽のガンマンのリー・ヴァン・クリーフだった。

14時京都西本願寺より佐々木執行長他2名の方々来室。いささかの相談。わたくしのインド行のスケジュール等尋ねられる。

15時前より杭州打合わせに集中する。次第に形になりつつあるが手が抜けない。クライアントは一種のユートピア計画として位置付けている集合体の計画である。

16時過難波和彦さんより電話あり大阪の安藤忠雄さんが東京駅で会いたいらしく、急なXゼミナールとなる。少し遅れて18時前、東京ステーションホテル。別に大した用件ではないようなので、鈴木博之さんに用意してきた「飾りのついた家」組合作品、飾りのついた木製カバンの装飾について相談する。

鈴木博之さんも組合員であるから、その装飾について具体的なディレクションが欲しいと考えたからだ。「モリスのバラ、レッドハウスの格子垣より」をディレクションされた。

北烏山のモリスの家の庭はバラ園である。

良い作品になるだろう。誰が飾りの部分の仕事をするのかは、これは鈴木博之ディレクションであるからわたくし自身がやらねばなるまい。彫刻刀を用意しなくてはならないな。赤バラや青い鳥の部分の彩色はどうするのかと、解らないことばかりだが市根井立志さんの助けを借りて取り組んでみるつもりだ。

18時頃了。皆さんと別れ、難波和彦さんと二人で久し振りの夕食をしようとなる。

新宿味王で夕食。

難波和彦の帽子論など承る。

この人物との附合いも長くなった。初期の附合いでは佐賀でのバウハウス建築大学とのワークショップの宴席での出来事を想い出す。

焼き鳥おさむでのくつろぎの中で、一人のいささかの間抜け、佐賀新聞の梅木だが、こ奴が何と難波和彦愛用の帽子、フレンチカンカンではないイタリアのボルサリーノだったかの上に腰かけてしまった。佐賀ではボルサリーノと座ブトンの区別は無いのである。

難波和彦の怒り様は凄かった。あんなに感情をムキ出しの彼を初めて見た。

それ以来、難波、梅木は口もきかぬ仇敵になった。間抜けな梅木は梅木なりに「あんなに怒る人は信じられない」と長崎出の佐賀人振りだし、難波さんは難波さんで、「ボルサリーノを座ブトンにする奴は許せない」と筋を曲げなかった。

それ故、難波和彦さんと帽子の話しに反論を加えるのはタブーなのである。わたくしは静かに承るばかりなのである。

20時過了。烏山へ、KCヒマールでチョッとポカラのマスターと話して、21時半世田谷村に戻る。

明けて1月30日、高曇り、風強し。流石に昨夜はいささか飲み過ぎて9時離床。

日記R241を記し10時終了。すぐにGA HOUSESへの解説文を書く。すぐ終るだろう。

世田谷村日記 ある種族へR240

明けて1月29日8時前離床。今では、はっきり荘子の蝶であった、つまり夢であったと知る今朝なのであろう夢を想い出し、日記R239に記した。

まだフレデリック・キースラーの未見のドローイングを夢見たりするとは、自分の建築への情熱は消えていないらしいと、今日も相変わらずの快晴の空を見上げる。

今は昔、病死した毛綱モン太が「建築への想い忘れ難し、君傾城の婆娑羅事」らしきを書いたのを読んで共感を覚えたことを想い出す。「異形の建築」が国書刊行会から復刊されることになり、それに毛綱建築紀行を書くつもりである。つまり架空の毛綱宇宙の旅だ。

R239に記してあったか無いか、今でも自分の中で定かではない古本屋で見つけた毛綱の本から入ってみることにしたい。毛綱とはまだ若くメラメラと情熱も戦略もたぎっていた頃の磯崎新に会ったことがある。今のような、先日見たような都市ソラリス展の磯崎ではない。生身の磯崎であった。

あの頃、毛綱と二人で磯崎新に徹底抗戦していたら良かったなあと考えても仕方ないことまで考えてしまう。二人共に建築への情熱はたぎっていたがそれはすでに磯崎新の批評精神とは随分ちがう様相を持っていたのである。毛綱にも深い懐古趣味はあった。それは磯崎の歴史教養主義らしきとは明らかに異なるものではあった。

磯崎新の批評精神(趣向)は80歳過ぎた老大家となった今も、今度は磯崎自身の創造力自体を喰い尽くし始めているのではないか。喰い尽くすという言い方はよろしくない、磯崎自身の創造力を廃墟の如くに、それこそ解体しているのである。でもそれが磯崎の、ニーチェの言う回帰の形、本来の生々流転の旅であるやも知れない。「異形の建築」に毛綱建築論を書くが、これはだから余りにも遅すぎた磯崎新批判になる可能性がなきにしもあらずである。

が、しかし他に書くべき作家は誰もいない。自分が作り出した廃墟にそれでも立ち尽くしているのは磯崎一人である。安藤忠雄はすでにスタスタと圧倒的な民衆神話へと、建築家自身の形式を変え始めている。

馬場昭道さんより電話あり、インドのサンチー、つまり仏教大塔・ストゥーパが在るところに仏教大学が出来るという情報が、元龍谷大学長・上山大峻氏よりもたらされたらしい。今日の西本願寺の方々の来室はその事もあるのか?この情報に関しては2月の訪印で確かめねばなるまい。世界宗教として仏教も、これからは別系のグローバリズムの中で揺れ動いてゆくのだろう。

世田谷村日記 ある種族へR239

1月28日11時研究室。昨日の星の子愛児園の打合せの結果を伝達。1月31日までにまとめるように依頼。次に杭州プロジェクトの打合せ。少しペースが乗ってきたように実感。こういう我ながら独自の進め方をしていると、基本的には流れ作業ができぬからスタッフにもわたくしの脳内を覗かせるような打合せが続かざるを得ない。思考がストップしたら、それで設計は固い死体となってゆくのである。いかにも古臭いことを記しているが、それが本当のことなので仕方ない。最近の日記は創作ノートの如くになってゆくのだろうと思わせる流れになっている。

杭州のサイトで見た大きな中国風の石を造園に使ってみたいと考えてその図面を今度のプレゼンテーションに使用したいと考えた。庭園計画も又、建築デザインの世界に組み込もうとしている。これ等のWORKは全て記録に残せとクライアントには言われている。

双頭の館と呼ぼうとしている大きな住宅部分の平面図は収束し始めている。模型のスタディがいまいちだな。使っている模型の素材に工夫が無い。素材を主題のひとつにしている以上、これは修正したいものだ。

13時前、研究室を発ち、烏山KCヒマールへ。14時、向山さん、大坪さんと「飾りのついた家」組合他の打合せ。17時前世田谷村に戻り、小休。21時半、遅い夕食、日記R239を書く。

街角の古本屋のショーケースにたくさんの美術書らしき洋書が並んでいる。皆大型本だ。中にフレデリック・キースラーの本が埋まっていた。ホーッと思い店内に入り、店員にその本を引っぱり出してもらう。初めて見る図版が多くある。黒灰じみた色調のドローイング。値段が意外と安いので購入した。見入り続ける。キースラーにしては建築の形態が四角いなァと、それでも見入る。見入るうちに、烏山に立派な古本屋は無かったと気付く。これはまたしても夢か?区別がつかぬ。確認しようとしても手許に求めた筈のキースラーの本はすでに無い。しかし、見入っていたドローイングはハッキリと覚えている。ドローイングに見入っていたわたくしが夢であったのか、そのドローイングは何処かに在るに違いないと考えたり、再び荘子の蝶なのか?

ハッキリと見入ったドローイングは、でも何に使えるのかどうかは覚束ぬのである。

世田谷村日記 ある種族へR238

1月27日11時過研究室、修士計画の相談の後、保育園増築打合わせ。杭州PROJECT打合わせ。GA HOUSESデータシートをGAに送信。インド・アーメダバード他レクチャー2本の下準備依頼等。

15時研究室発。16時京王稲田堤・星の子愛児園。近藤理事長、近藤園長、保育士さん2名と打合わせ。持ってきた案に大幅な修正が加えられた。リアルで細密な打合わせで、途中、増築部分と接続する現場を見たりで、修正案を頭にたたき込む。修正案に納得する。1F、2F、3Fが上階に上がる毎に空間量が増える案で、大分前の第1次案に階数は減ったが似てきた。2階の広い現状のデッキを切り取らねばならず、施工はいささか難しくなるだろうが合理的な案となる。

18時修了。理事長と夕食に出る。JR駅近くの石川料理、魚のうまい店で会食。酒をくみ交わす。理事長とはもう長いお附合いになるがいつも積極的に生きようとしている方で、大物の茶壺青なめの日本で随一のコレクターでもあり、もうその茶壺を置く場所が一杯で困っているそうだ。中国の仕事の件等尋ねられる。

20時過了。別れて京王稲田堤の駅へ歩く。21時過世田谷村に戻る。

サイトをのぞいたら、何だか変だ。一本掲載分が抜けている。

いつも日曜日は何本か一緒に送信するので混線したのだろう。

組合日誌60は蔡翼全よりの投稿、「蝶、トンボ、カマキリ、建長寺」。長い英文だが全文掲載する。中国で読まれるやも知れぬ。

明けて1月28日、8時半離床。今日も快晴で空模様を記す気持も薄れる位に変化がない。

世田谷村日記 ある種族へR237

今朝、実に不思議な夢を見た。目覚めて何が現実なのかよく解らなくなった。J.L.ボルヘスの、と言うよりも荘子の蝶の如くである。

昨夜は『司馬遼太郎対話選集—近代化の相剋』萩原延壽との対談を読んで、眠りについた。磯崎新展のトークセッションの余りの失望振りに我ながら驚き、失望する方が余程間抜けかとコンピューターエイデッドではない人間のモノを読もうと思ったからだ。

コチラは随分簡単なこと言ってるなと驚いてしまう。どちらも知識人だ。今の知識人は自分も含めて皆馬鹿であると悟り、眠りに落ちたつもりであった。

夢の中で、中国の中世の街の話を聴いていた。話し手は解らない。これは新葉古村の体験のなぞりだなと夢なのに知っている。

突然、江戸時代後期の日本中の寺子屋の授業、つまり手習いで使っていた教科書はやはり漢文であったのだろうかといぶかしむ。

漢文だったのであろう。とすると当時の子供たちは今のわたくしよりもはるかに中国文字に馴染んでいたに違いない。身体でそれに触れていた。とすると、当時の私塾のあった建物のたたずまいや、街の様子は単純な和風と言うようなものでは無かったろう。大工職人も漢文の素養があっただろうから。

つまり、江戸の街や村の有り様はその奥深くに随分中国文化の影響があったのではあるまいか。だって文字、言葉の素読を介してより中国文化に接していた筈だから。

今の街も村にも、中国文化の影響は簡単には見てとれない。全てアメリカ文化の影響下にあると言って過言ではない。

アメリカ文化にこんなに影響されている今から振り返るに、江戸時代には寺子屋を介して随分中国文化の影響があったに違いない。と夢の中で考えていると杭州の新葉古村にあった子供の図書館のような、ちがうような、これは夢なのか、あるいはわたしが夢なのかとおぼろである。

この夢はこれは記録しておかねばならぬと決心した。で、これを記している。

世田谷村日記 ある種族へR236

1月26日、15時45分東京ステーションホテル、安藤忠雄、鈴木博之両氏とXゼミナール会合。安藤忠雄さんよりNYのペンシル超高層ビルの写真他の資料を見せてもらい、話しを聞く。30m×30mの平面、中央コア、高さ400mだそうだ。コンクリート造で設計は東京国際フォーラムのヴィニオリ。安藤さんはそのクライアントからコンクリートの仕上げへの意見を求められて行った。

建築設計の現場にコンピューターがウイルスの如くに蔓延し、それがただただ一律化、標準化の方向へだけ進む現状に対して、これは建築の終りへ向かっている、あるいはすでに終わっているという判断でほぼ意見の一致を見る。建設コストは高騰し、産業維持経営の面からだけの一方的な支持がある。

そりゃあそうだろう、何の新しい工夫もしなくて良いのだから。現場からは職人が姿を消し、労働者だけが居るだけだ。職人に代表されるであろう建築文化の担い手が消えてしまった。

が、しかしこんな事が永く続くわけもない。建築設計の現場も設計者=職人であるとも言えるのだから、その方向を今のところは保守してゆくしかない。頑張らねば。

17時半了。

18時半千歳烏山長崎屋。世田谷野球倶楽部監督他と雑談。ここの連中の都知事選の状況判断はかなり的確なものだ。庶民(民衆)の知恵のいささかは健在である。

20時去り、世田谷村に戻る。

明けて1月27日8時半離床。昨日大方を指示しておいた保育園増築計画を今日は朝方にチェックして、夕方、稲田堤の近藤理事長とお目にかかる予定。インドでのレクチャー等の下作りを頼む必要もある。中国行とインド行が重なり、短い旅とはいえない準備状況に入りつつある。中国プロジェクトをまずはまとめられるだけまとめておきたい。

昨日、Xゼミナールで安藤忠雄さんから見せてもらったNYのペンシルビルが写ったマンハッタンの写真は、意外にもマンハッタンの超高層ビルの大半は同じようなペンシルビルであるのを知らしめた。大同小異である。とすればNYの景観はむしろ異形なモノとして眺め返した方が良いのかも知れない。

世田谷村日記 ある種族へR235

1月25日、11時過研究室。すぐに杭州Project打合わせ。電車の中でそうしようとほぼ決めた事をスケッチと共に提示し、オペレーション。

模型を作り直させる。その間、雑原稿を書く。又、稲田堤の保育園増築についても考えが出たので模型を作らせる。すぐに出来てきて、これでゆこうと決める。決まる時は実にアッサリと決まるものだ。修士3年の者の修士設計の相談。早く卒業してしまえと、それだけ。一日も早く学生生活は抜けるべきでしょう。14時30分研究室発。15時過新宿NTTビルICCギャラリー着。地下鉄副都心線と都営新宿線を乗り継ぐと、2駅で270円になるので不愉快極まる。その不愉快さが展示会場まで持ち込まれた。磯崎新、都市ソラリス展を再見。磯崎新さん会場にて若い人の何やらプレゼンを見て、コメントらしきをしていた。展覧会の内容をじっくり見て廻る。主たる展示物である、中原の都市計画の大模型は少し変化していた様だが、大筋に於いて変わりなし。ドカーンと巨大な楕円状の何もない広場を中心に、磯崎流の造形物が散在している。全てに既視感があり、磯崎新の展開力、凄みの在った何者かは何処にも感じられない。憮然として模型横のベンチに座っていたら、今日のトークショーの相手であろう岡崎乾二郎さんにバッタリ。雑談を交わし、「飾りのついた家」組合の資料を渡す。岡崎さんより南天子画廊の展覧会の知らせいただく。

ヴェネチア・ビエンナーレに関するゴシップについて聞く。浅田彰さんが週刊ソラリスなるペーパーニュースに書いていたので知った奴である。記すのも下らぬが、やはりゴシップも現実である。本当の事なのかは本人に聞くのが一番なのだ。どうやら浅田彰の書いていた事は本当の事らしい。事細かく書く愚は犯さぬがヴェネチア・ビエンナーレも随分小さなゴシップばかりが話題になっているようで、何となくこれでは覚つかぬようだな。

15時30分、磯崎新都市ソラリス、第四回トークセッション、テーマ「コンピューター・エイデッド・シティ」始まる。松田達司会、パネリストは岡崎乾二郎、鈴木健。岡崎の他は知らない人ばかり。世代の違いを感じるというよりも主題のちがいを感じる。松田達のイントロダクション、小レクチャーはセドリック・プライスのファンパレスやアーキグラムの羅列で、無味無臭の常識の表示だけであったが、磯崎新のレクチャーは、アーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」のラストシーン、ボーマン船長が独り宇宙に漂う室について、あのアールデコ風の室内は地球人の好みの空間デザイン、つまりインテリア感覚をコンピューターが収集したモノが表現されていると、わたくしには新説を述べて、イイじゃない、まだ頭脳は充分に働いているなと痛感する。

又、白川静ばりの字体解説をなし、「ひ」というひらがなは玉の中に火が入っているのだと、恐らく最近の新境地を吐露していた。

磯崎新の話しは面白かった。

次の鈴木健の話になって、しばらく聞いて席を立った。岡崎乾二郎の話しは遂に聞かなかった。

このトークセッションは磯崎新の実は姿勢そのもののモダニスト振り、つまり進化論風の若い人に利がありそうだ、と言うより自分の仕事の抽象的延命措置、歴史的と言えるかどうか、継承を狙ったトークセッションであると考えざるを得ない。わたくしの頭脳が一向にコンピューターエイデッドになっていないので論者の声が初期人造人間の製作マニュアル状に響いてしまい一向に面白くない。

予想通り、コンピューターエイデッドってのは実につまらぬ病院みたいな世界だなと痛感する。会場は空席が目立ったがほぼ満席の、若者ばかり。年寄りはコレワ、面白くもなんともなかろう。未来はやっぱりよくないなコレワと思う。要するに何故、今の東京のド真中らしきで、中国の各種プロジェクトを磯崎新が、もしやファイナル・ステージになるやも知れぬ時期にやらねばならぬのかが、示されていないのでチンプンカンプンなのである。

それに展覧会の中心であるべき中原の都市計画の模型の、何にも無さ溢れる様子こそは、磯崎好みの廃墟そのものではないのか?と、ここ迄記して、展覧会場の一室で行われていたプレゼンテーションのようなものが、参加アーティストによるプレゼンテーションであったかと気付く始末である。随分若い人間たちを、磯崎がオーディションしてるのかと思ってしまったのだが、彼等みたいなのが、この展覧会の実働部隊であるとしたら、こうなってしまうのかのコレは見本ではないか。中心展示物の悲惨さを何とかしたらと言いたい。誰がこの展覧会の実質的なディレクションをしたのか。

再び失望して16時半過帰途につく。

17時半烏山長崎屋。世田谷野球倶楽部の面々と吉田さん他に会う。世田谷野球倶楽部のメンバーの一人が、わたくしのサイトをのぞいているらしいのは知っていたが、今日その御当人から、「良くまとまって書いているよ」とお褒めの言葉をいただいた。長崎屋方面でもわたくしのサイトの読者がいるとは、これは用心しなければならない。

今日の磯崎展の参加者はどうでも良い。ともかく、広く民衆その者を敵に廻したら大変な事になる。19時半世田谷村に戻り、晩メシを喰って休んだ。

世田谷村日記 ある種族へR234

1月24日、新宿、五反田を経て洗足の伊藤アパート現場着12時半。

サンユー建設はじめ関係者、石山研スタッフすでに集まっている。

エントランス、駐車場廻りのL型平面の壁仕上げに関しての打合せ。

しかし、肝心の左官職が来ていない。現場カントクや塗料メーカーの人間は来ているのだが、職人が来ていない。それで再度左官職を交えて打合せとなった。今の現場が小さな現場にいたる迄、実際に手を動かし、モノを作る人間が大事にされていない事が良く解る。営業や現場管理者が最終的な仕上げをするわけではないし、その能力も無い位は知っている。

しかし、折角だから他の細々とした、例えば「飾りのついた家」組合による装飾物等の取り付け方法等の打ち合わせとした。現場の打合せも極めてコンピューター管理状になっている。これでは生き生きとした建築は出来るわけが無い。

14時半、後日の本来の目的の為の再打合せを約して終了。

しかし、現場では、どんなケースでも色々な事を考えさせられるものだ。

洗足、大岡山、渋谷、西早稲田と地下鉄を乗り継ぎ研究室に15時半つく。

すぐにサンドイッチをほおばりながらの中国杭州プロジェクト打合せに入る。やはり昨日わたくしが休んでしまったので全く進んでいないので空振り。マア、こんな日もあるさ。17時半過切り上げる。

18時半烏山長崎屋着。志村棟梁と話す。2月4日朝9時半より烏山神社志村稲荷新年会例会との事。氏子になった気分でまことによろしい。

大坪さんが居たので、4月1日からの「飾りのついた家」組合作品、展覧会を、大坪氏の北烏山「モリスの家」で開催したいと、初めて相談する。

大坪さん母上が無事退院されて上機嫌であったのでOKとなる。

展覧会は何しろ「モリスの家」を名乗る会場でやるからには、無料というわけにはゆかぬだろうと変な理窟を考えてはいるが、まだどうするかは未定だ。

19時半長崎屋を去る。世田谷村帰着。夕食を食べて本も読まずに休む。

明けて1月25日。珍しく早朝5時半離床。まだ暗い中で日記他のメモを記す。今日は11時に杭州プロジェクトの打ち合せがある。

7時前、「飾りのついた家」組合日誌58「第1回展覧会について」を書き、小休とする。

世田谷村日記 ある種族へR233

1月24日7時離床。アルチ村日記1222を書く。

昨日途中まで書きかけていたのを、一応の形までまとめた。

1979年の高野山大学、毎日新聞合同ラダック調査団の記録、毎日新聞社刊の『マンダラ』を読み返しながらの仕事になっている。何処迄続くかな。8時過了。小休し今度は世田谷村日記を記す。

天気は良い。今日は伊藤邸の現場を見て、杭州プロジェクトに集中する予定。

10時過「飾りのついた家」組合日誌57を書いて送信する。

世田谷村日記 ある種族へR232

1月22日14時研究室修論ゼミ、「飾りのついた家」組合打合わせ、しながら宮古島渡真利さんに電話。8月の渡真利島子供のキャンプ計画相談。並木茂士さんが亡くなってしまい、月光アイーダ計画は中断されているが、そろそろ再始動させたい。安西直紀さんともこの件では相談したいと連絡する。「飾りのついた家」組合の大きな仕事になるだろう。磯崎新さんと久し振りに電話でお話しする。

馬場昭道さんより西本願寺の件で連絡あり、1月29日にお目にかかることになる。中国杭州プロジェクトの打ち合わせに入り、集中する。

19時迄。クンメイで夕食しながら続け、有泉眞一郎さん加わる。絶版書房、アニミズム紀行8の出版間近である。

23時世田谷村に戻る。

明け1月23日7時半離床。今日もいい天気だ。

昨日、磯崎事務所より、週刊ソラリス、第0号創刊準備号、第一号、『「都市ソラリス」の余白に』が送られてきたので読む。

浅田彰が特別寄稿を寄せている。

磯崎新さんは新宿NTTインターコミュニケーションセンターでのICC、「都市ソラリス展」を媒介に話題を作り出そうとしているようで、浅田彰さんがそれに協力しているようだ。

A4版3枚程のリポートを読む。余計なことを言う愚は犯したくないが、何だか浅田彰さん、火の無い処に一生懸命煙を立てているような論調である。

昨日、磯崎新さんと電話で話して、中国杭州の王澍の話しとなり何となく、磯崎さんと話しのズレが発生しているように感じた。

わたくしは王澍の作品の質が持つであろう事を問題にしたかったのだが、磯崎さんはやはりと言うべきか、そのコンセプトと言うか、思想とは言わずとも言論的枠組みを視ようとしているのである。

建築家は、と言うような口振りは避けるにこした事はないけれど、モノ作る人はやっぱり、作るモノの質を先ず中心に据えて、その質の核心が必ず波及させるにちがいない社会性をも論じるべきであろう。

言論が言論としてひとり歩きしてしまう時、それは古い言い方であるが空理空論空をおおうの様相になりかねぬ。磯崎新の「都市ソラリス」展で示されているのだろう都市像の質らしきは奈辺にあるや、無しや?

わたくしにはそれが良く視えなかった。

視えぬ質つまりは核の周囲にいくら言葉を費やしても、それはそれこそ空中の楼閣である。

浅田彰の特別寄稿は言葉(言語)の上に言論が積み重ねられており、わたくしには奇妙なモノを視るような気がした。

世田谷村日記 ある種族へR231

どうやら、日記の日付が1日ズレていた。

昨日1月21日は11時から16時過迄打合せ。杭州プロジェクトが佳境に入ってきた。途中富山より神官酒井晶さん他来室してあいさつ程度の時間がさかれただけで、実に単純な一日であった。打合せと言ってもスタッフがまだ若いので、ほとんど全てを自分で考えなくてはならぬ、そんな打合せで、一時間半以上ブッ続けには出来ない。途中何度か小休を入れて進めた。打合せスケッチは全て保存するように指示する。こんな日々が続いてくれればこの上なく楽しい日々なのだけれど。そうはゆかぬが常である。雑事、雑用が押し寄せてくる。

17時過千歳烏山長崎屋で小休して18時過世田谷村に戻った。夕食を食べて、夜は枕元に数冊の本を置いただけで眠りにおちた。

明けて1月22日。9時半離床。又も寝過ごす位に熟睡したようだ。でも変な夢を見たような記憶もあるが忘れてしまった。

今日も比較的シンプルに過ごせそうだが、設計の仕事とはまるで異なる「飾りのついた家」組合の打合せをこなしたい。設計の仕事が多い人、例えば安藤忠雄さん等には考えられぬような無駄足であるが、それも又、心底好きなんだから仕方ないのである。

日本型一途にはどうしてもなり切れぬのである。

午前中は完休とするので、昨日電車の中で書きかけたアルチ村日記1221をひとつ仕上げるのを楽しみたい。

ラン設計事務所、三菱地所レジデンス、セコムホームライフ、より南烏山5丁目の通り抜け歩道の案が近隣の皆様への頭書きで通知されてきた。この件に関してはこれでわたくしは出来ることはしたのでもう一切の近隣の皆様方のああだこうだからは身を引くつもりだ。

世田谷村日記 ある種族へR230

1月18日21時市根井立志さんよりFAX入り、猫の骨壷を含めて試作品が出来て送ったとある。スケッチがそえられていて、わたくしの予想していたものとは異なるスタイルで、しかも仲々良いのである。本当にシャッポを脱ぐなコレは。弟子に完全に追い抜かれている。こんな事本当は記してはいけないのだが、マアそれなりの年令になったから自然にやりたい。この人物の才質はまだまだ掘り下げられるな。全力とは言わぬが、一生懸命堀り下げる努力をしてみたい。今晩眠りながら考えるか?と眠りも堀り下げるみたいな事を考えた。

明けて1月19日6時離床。ようよう南の空が白く明けそめ始めている。昨日はサイトの原稿を書き過ぎて、又もや夜は熟睡出来ぬかと思いきやぐっすり眠ることが出来て朝は爽快である。

爽快ついでに「飾りのついた家」組合日誌54を書く。

今朝は大阪から安藤忠雄さんが出てきて、Xゼミナールを開催する。

どんな話しになるか楽しみである。

10時45分東京駅ステーションHOTELの約束の場所に行くもメンバー誰の姿もない。これはオカシイといつもここでカンヅメにされて仕事らしきをしている鈴木博之さんに電話する。

「エッ、今日の夕方17時45分って聞いてたけど…」

ポカーン、又やってしまった。朝と夕を間違えていた。仕方無いなあボケ老人だ。鈴木さんに無理を言って、引っ張り出して雑談。

マ、許されよ。

夕方の二人によろしくと別れる。とんだXゼミナールであった。

でもゆっくり話しできて良かった。

14時半研究室。すぐに諸々の打合わせ。GAの二川由夫さんに電話してGA HOUSESの展覧会に出展する作品が少し遅れる旨伝え、久し振りに雑談。中国の王澍についてピタリと意見が一致したのには驚いた。オヤジゆずりの勘は鋭いな。一度ゆっくり話してみたい。

夜、研究室のスタッフとやりとり。杭州計画に関していささかのオペレーションをまとめて送信する。明日の打合わせは密度高くやりたい。

しかし、今日は外気の気温が低く外をうろつく時間が多かったのでいささか疲れた。

いただいてきた新葉古村の本を眺めながら眠りについた。

明けて1月20日。8時離床。今日も快晴である。

良く眠れたから、今日の杭州計画の打合わせは充実したものにできるだろう。再び新葉古村の本に見入る。集落の諸々に埋め込まれたような、絵画、彫刻が素晴らしい。中国の山水画の伝統が掛軸や展示物の中ではなく、生きている建築と共生しているのだ。これは凄いことではないか。

インド・アルチ村でのスケッチを眺める。

世田谷村日記 ある種族へR229

1月18日

地下鉄副都心線でポイと肩をたたかれる。オヤ誰だろうと一瞬。

何だ高木正三郎さんじゃないか。年を取るとこういう事の連続なんだろうな。九州からの今日の講評会にわざわざ足を延ばしてくれた。

マアお茶でもと研究室でM2修士設計ゼミをこなしながら話す。

いいでしょうコレと組合のショールもついでに買ってもらう。春モノショールはアト2点のみとなった。高木さんは着々とマイペースで仕事を積み重ねているようだが、昔からウソとハッタリの無さ過ぎるところがあり、少しは上手に自己宣伝も始めたらと余計なお世話も言う。

14時過二人で製図室へ。14時半大成建設の方々集り始める。5年間続けた大手ゼネコン設計部の設計本部長他の最終課題、そしてわたくしにとっては最終講評会である。

はじめと、おわりに少し話をする。学生向けというよりも若い先生方に向けての話しである。

18時終り、学生との懇親会は失礼する。新大久保のタイ料理屋クンメー1で大成建設の皆さんと懇親会。

久し振りに中川武、入江正之、古谷誠章の諸先生とワインを飲みながら話す。建築学科教室の行末は気にならぬこともないけれど、これからの自分のコトの方が先ず何よりなので、別に何の未練も、気がかりもない。きれいさっぱり何も無い。

21時半去る。22時半世田谷村に戻る。

明けて1月19日7時半目覚めて、8時過離床。日記R229を記す。今日は一日ゆっくり休みたいけれど、どうなりますやら。快晴である。

新聞読むも何もなし。福田和也の本で知った長谷川利行の絵を紙面で眺める。乞食放浪そして野垂れ死にした画家だ。凄いスピードで書きなぐる如くの筆致である。生きる時間の少なさを知っていたのか?ゴッホの実人生は悲惨であったが、絵は輝いていた。

長谷川利行の絵には途方も無いスピードがあるけれど、輝くような光は無い。その意味ではとても現代的である。エゴン・シーレの感じだな。

山口勝弘先生より、寒中見舞いのお葉書をいただく。

どうやら読み取る範囲では、淡路島の山勝工場は山口美術館となるようである。

16時過Xゼミナール投稿、中川純くんの15A (アンペア)について書き終わる。作者は卒業計画の安手だなあの悪印象が最後まで尾を引いてしまった。

もう今日は頭を休めたい。

世田谷村日記 ある種族へR228

1月17日原口陽子さん10時半世田谷村に来村。草木染めの大変美しいマフラーを届けてくれる。これは良い。実に鮮やかな色合いとテクスチャーである。12時前研究室。「飾りのついた家」組合打合わせ。早速手中にしたばかりのマフラーをテーブルに広げる。写真をとる。春の展示即売会の件、他諸々を相談。

市根井立志さんより猫のたましい容器(仮)送られてきて、見る。これも素晴らしい。市販の骨壷が入るかどうか気になる。結局骨壷も作ってしまえとなる。

14時大方を終え、中国杭州プロジェクトへ移行。集中して討議する。小さな街の細部にいたる迄アイデアを出し設計できるのはとても楽しいものだ。マスタープランをほぼ決めた。良い。

大型のオーナー宅、すなわち館の全体も浮き上がってきた。

16時前中断。

16時山田社長、向山一夫さん他ヴィンテージファームの一行来室。近藤修通、富岡加恵両氏とは初対面。あいさつを交わす。

「飾りのついた家」組合のプロジェクトに関して打合わせ。

2月4日に再び打合わせとなる。

17時過ぎ向山さんと研究室を発ち、千歳烏山へ。18時半駅前で向山さんの飼い犬に会う。奥様にも。犬は向山さんにとっても懐いているようだ。良い人なんだなと思ったり。

長崎屋で再び相談。横山弥太郎さんも交えてワイワイガヤガヤ。20時過了。向山さんと帰る。世田谷村脇で別れた。

明けて1月18日今日もと言うべきか、快晴。おてんと様も機嫌良い。10時離床。全く朝寝坊になったが仕方ない。自然にやりたい。今日は幸い午前中は何の予定も無い。すぐにR228日記を書く。

又、短い「飾りのついた家」組合日誌53を書く。

サイトをのぞいたら昨日の打合わせがほぼ完全に反映されていて成程ねと感心する。感心している場合ではない。今日も一生ケン命進みたい。インド行きのアーメダバードでのワークショップ、他の内容他、ポスターも掲示されていた。

原口陽子さんのマフラーはすでに6点中3点が売れている。

アルチ村日記1218もオンされていてようやく満足する。

世田谷村日記 ある種族へR227

「飾りのついた家」組合日誌50「人工色について」に次いで面白がって、51「木のカバン」を書いていたら、階下に渡邊大志くんが来て、組合の在庫を少しばかり整理している。ついでにと言ったら何だが、木のカバンについてわたくしの手帖のスケッチを見せて市根井さんとつめてくれるように依頼する。明日の定例ミーティング迄にすすんでいると良いのだが。

組合員・原口陽子さんから電話あり、かねて依頼していた手織りマフラーに関して相談する。もう手織りの暖かいマフラーは、今シーズンは間に合わないなと、半分あきらめていたら、手許に春モノの絹のマフラーが数点在ると言う。

何故、それを早く言わんのだとばかり、すぐに写真他の映像を明日朝迄にくれるように依頼。

これは少しまとめてマフラー、手織りシリーズとして地元烏山のモリスとバラの愛好家、大坪さんのギャラリーで市根井さんの箱シリーズやらの小物、そして佐藤研吾のドローイングと共に展示会を開催したら良いかと思い付く。

朝に「飾りのついた家」組合のこと等バタバタしていたら、世田谷文学館よりクラフト・エヴィング商會の案内が届いた。

このユニットの活動は以前よりチョッと気になっていたので出掛けてみたい。

そんなわけで今朝は「飾りのついた家」組合について雑貨商人の如くの忙しさであった。雑貨商は前から憧れの商売である。

子供がアメ玉買いに来て、コレちょうだいなんて言ったとする。

雑貨商のわたしは「イヤだ売ってやらない」と言っては子供を泣かせるのである。それが夢なんだが、我組合は「売ってやらない、イヤだね」と言う程にハヤリの店にはなっていないのである。

頑張って、「売ってやらん」と言えるように、そんな人間にわたくしはなりたいのである。雨にも負けず、風にも負けずに断り続ける、そんな人間になってみたいものである。

只今11時か、アト40分程したら研究室へ発ちたい。

13時前研究室。M2修計他ゼミ。あんまり目ぼしい収穫もなくアッ気にとられる程早く終える。仕方ない。すぐに「飾りのついた家」組合、明日の打合わせのプレミーティング。中国杭州プロジェクト、進行チェック。杭州計画では久し振りにスタッフにほぼ全力で当っている。

スタッフもここしばらくのわたくしとは違う顔のわたくしを見ているのである。出てくるWORKに満足するわけもない。鼻たれ小僧の仕事レベルを、そのレベルを知らしめる、たたき込むことから始めている。呑み込みは早い連中だから、鼻たれ小僧なりに急速に対応を考えているであろう。

明日の打合わせが本番なので少々手前で手綱をしぼる。

明日は図面に全て手を入れ込んでやるつもり。

16時一旦休止して、新ヴァージョンの「アルチ村日記」を書き進める。4枚少しを16時半書き終え、編集に渡す。日記の新機軸を狙っているが、新というのはいつも怪しい。大から振りに終るやも知れぬ。

17時半前、烏山・長崎屋で一服。2月のインド行の周辺情報を読みふける。18時半前世田谷村に戻る。

明けて1月17日9時離床。朝目覚めるのが遅くなった。疲れているのか?健康をとり戻したのかはどっちもあるのだろう。

再開した「アルチ村日記」1218を書く。想像力と老いがテーマになるのかも知れない。マア、行けるところ迄書いてみよう。久し振りに眺めた毎日新聞社の大作『マンダラ』を繰る。

実物のラダックよりも写真家によるラダックの方がより美しいのに今更ながら感心する。写真は加藤敬による。

しかし、友人の滝さんも新聞用の写真撮影には参加していた。

杉浦康平の編集である。亡き友佐藤健も行動隊長として参加していた。彼も大変な仕事を成したものだなあと、今に知るのである。

チョッと時間が空いたので「飾りのついた家」組合日誌52も書いた。日誌、日記3本書く身になったな。

世田谷村日記 ある種族へR226

12時過研究室。13時ラン(株)建築士事務所、三菱地所設計、セコムホームライフ来室。

南烏山五丁目再開発の敷地内通り抜けの件。

予測していたよりも随分歩み寄りを配慮した案が示される。マア、近隣の人々の手を借りながら少しは無い知恵らしきを巡らせた甲斐があったと言えるだろう。

まだ公開されると困ると言うので詳細は書くことをしないが、企業連合体の開発に関して、実にささやかな事ではあるがひとつの合意形成の形としてはマアマアなものではないか。企業連合体も一定の良識を示したとも言えるだろう。

13時半アッという間に企業連合体との打ち合わせが済んだので、中国杭州プロジェクト、保育園増築計画等の打ち合わせをすることが出来た。

杭州プロジェクトは次第に高度なレベルのオペレーションに突入している。

スタッフも正念場であろう。こちらもガチンコで行くのを決めている。

途中、京王稲田堤の近藤理事長他より電話が入り、仕事全体がうごめいてくるような予感もある。嬉しい事だ。

しかし、寒いので中国疲れがしのび込んでくるので、16時半研究室を一足お先に去る。

外は寒い。世田谷村近くでフッと西の空を眺めたら冷たく凍てついた夕暮れの空が美しかった。

時には夕暮れを眺めて、アーッとかつぶやくのも悪くはない。

ところで東京都知事選はいかなる状況になっているのやら。

舛添要一、自、民、公の相乗りで決まりかと思っていたら、細川元首相が小泉純一郎、これも又元首相のプッシュで都知事選に出ると言う。

小泉純一郎の独特な政治勘のなせる術なのであろう。

しかし、世田谷区のクリーンエネルギー志向にとっては細川知事も大筋な、余りにも大まかな筋としては良い風になるのだろうか。わが「すだれ発電」にはどうかと俗な考えも巡らすのである。

しかし、物言えばクチビル寒し正月明けである。

インド行の予定を決めなくてはならず、2月は再び中国へ出掛けるので上海からデリー迄飛んだ方がズーッと体は楽だろうなと思い付く。年をとってくると旅の行き来に要するエネルギーは馬鹿にならぬのだ。

20時夕食を終え早々と横になり、何かアッケラカンとした推理小説でも読んでみようかと考えたり。

明けて1月16日、晴れているが寒い。シンシンと寒い。

6時半離床。すぐに「飾りのついた家」組合日誌50「人工色について」を書く。7時半終了。日記共々送信する。下に降りて、新聞でも読むことにしよう。外は更に寒いのだろうな。

世田谷村日記 ある種族へR225

1月14日11時東京ステーションHOTELXゼミナール。鈴木博之、難波和彦、石山修武、中国行の報告等。鈴木さんから不思議な初夢の話等。

途中、大阪の安藤忠雄さんより電話入り、中国杭州のデッカイ建築見たぞと伝える。

ともあれ、今年も皆さんお元気そうで何よりである。わたくしも頑張りたい。

14時了。帰りの電車で難波和彦さんに「飾りのついた家」組合へ、例えば帽子掛けなどを出品してくれないかと依頼する。帽子掛けね、できそうかなとの事。期待したい。

15時研究室、すぐに「飾りのついた家」組合について打合わせ。

打合わせながら気付いた事はすぐに様々な人達と連絡する。こうしないと忘れてしまいやすいこともある。

市根井立志さん、木本一之さん、長澤さん他に連絡。新年のごあいさつを兼ねる。

小まめに打ち合わせを重ねることが先ずは大事である。

用意した商品(作品)アイテム、衣食住について少し計りの説明の後、今後の商品(作品)の展開を探る。それぞれに具体的な指示らしきをする。

台湾の工芸家の人々とも連絡を始めることにした。上海の古い知り合いも優れたデザイナーがいた事を思い出した。続いて中国杭州プロジェクト打合わせ。

17時半了。食事をしながら打合わせを続けようと新大久保クンメーへ。

20時過了。世田谷村に戻る。

明けて1月15日。9時過迄寝過ごす。難波先生より電話あり、来週月曜日に再び安藤忠雄さんを交じえたXゼミナールとなる。

今日は午後にラン設計事務所他が南烏山5丁目の件で来室するので、中国行の疲れがドーッと出てきているが、やはり出かけなくてはならない。

市根井立志さんより、昨日依頼したクサビ型家具、椅子の案が早速送られてきている。相変わらず素速いなあ。

わたくしもシリをけられているような気になる。

昨日の中国杭州プロジェクトの打合わせで。フッと出たアイデアは佐藤研吾のやっている日本の江戸時代の裁縫台を椅子にするアイデアを更に中国杭州へ持ってゆけぬかの、ささいなモノであったけれど、これは面白い考えであるやも知れず絵にしておこうかと考える。10時スケッチを始める。

10時半了。送信して朝食。

世田谷村日記 ある種族へR224

1月13日、7時半離床。すぐに中国での仕事の旅のメモを記し送信。難波和彦さんと電話で話し、14日にXゼミナール開催となる。中国で7日間曇り空を見続けてきたので雲ひとつ無い青空が珍しいものを視る感がある。

新葉古村の本2冊に見入る。何とかこの計画に杭州の職人達を巻き込めぬものかと思いを巡らせる。少し考えてみたい。

11時過世田谷村発。

13時研究室、すぐに打合わせ。留守中の連絡事項の確認後、「飾りのついた家」組合に関して、次いで昨日迄の杭州行、そしてプロジェクトについて。

指示通りに幾つかの項目に関してのアイデアスケッチが提出される。

わたくしのアイデアを示しいささかの議論。

キチンとフォローしてくれているのを確認。内容はともかく、やる気と情熱の量が一番大切なのである。と、わたくしは割り切っている。自分の出したアイデア他よりも、スタッフの出してくるスケッチ他が良いものがあれば、それはわたくしの限界をも示しかねぬので、実は真剣勝負の連続でもあるのだ。

しかし、1、2点スタッフから良い考えも示された。

これが無ければ打合わせの意味等は全く無いのである。矛盾しているが、仕方ない。わたくしの考えの伝達だけに終りかねない。

でも、それでは共に仕事をする意味が全くない。建築設計は大きさを問わず、独りでやり遂げることは不可能でもある。

ならば、スタッフのあるやも知れぬ力を借りるのも、良いモノを作り上げるのに、宿命の如くに必須なのである。

16時過修了。研究室を発ち烏山へ。17時長崎屋で大坪、向山両氏と会う。

19時半了。20時過世田谷村に戻る。夕食を食べて休む

明けて1月14日7時半離床。流石に昨日は本も読まずにグッスリと眠った。昨日の研究室での打合わせを振り返る。スタッフそれぞれの才質を再びなるべく早くつかみ取らねばならない。それぞれの才質を透視するのはとても重要なのだ。建築設計は一人きりで出来るものではない

支えてくれる人材の才質の把握は生命線ともなる。

特に今度の杭州の仕事は実に多様なデザインボキャブラリーを駆使したいと考えているからなお更のことである。

今日もXゼミナールの後に研究室にて打ち合わせの予定。今日は「飾りのついた家」組合の展開に関してを中心としたい。この仕事はわたくしにとっては非常に大事なものなのだ。いずれはわたくしの作品に様々な成果を組み込みたいし、それはあるひとつの動きとする事も可能なのである。

8時15分上記に関してメモを記す。

世田谷村日記 ある種族へR223

1月11日、9時半国寶館レストランで皆と会い、朝食。

その前にプレゼンテーション作業に今朝描いたドローイングを一点追加する。大事な一点である。

小雨が降っていて寒い。

午前中は良渚文化村そして良渚博物館見学。安藤忠雄氏の工事中の建築を見学。

昼食は文化村の一室でクライアントの皆さんと一緒に。

13時過第二回目のプレゼンテーション。

スタッフが良くやってくれたので第一回目のプレゼンテーションをクライアントの要求を受けて修正したものを提示することができた。

クライアントから、ほぼ満足できるものになったとの言をいただく。

又、クライアントの皆が考えていながら形にできなかったものに近いものになったとの言もいただいた。

更に頑張ってすすめたい。

プレゼンテーションを終えて、一度国寶飯店に戻る。着替えてネクタイも外す。色々とプロジェクトに関しての次なる目標他の想いが駆け巡った。いいモノを作らねばならぬの感深まる。

19時前、国寶館近くのレストランで別れの食事会。

クライアントから一着の中国服をいただく。自然色の見事なモノである。クライアントのポリシーが良く現れている。

夕食会は実施設計を担当する杭州の建築家も再び参加した。

お互いに忌憚の無い気持を伝え合う。

実施設計者(ローカル・アーキテクト)は非常に重要である。

信頼関係は他の何よりも大事なのだ。

わたくしも一生懸命にやるから、キチンとフォローして下さいと率直に申し上げる。

21時国寶館に戻る。趙さんの事務所スタッフが若い渡邊、佐藤とどこかのBarで飲みたいと言うので別れる。若い者同志で大いにやってくれという感じである。

明けて1月12日、昨日いただいたばかりの中国服を着用して9時半朝食。本も何冊かいただき大分荷が増えた。すぐに上海に向けて、もう馴染みになったランドローバーで発つ。高速道路を飛ばし、12時前上海国際空港着。

趙さんとお別れ。大変お世話になった。又、仕事をするに実に良いパートナーであることも良く解り、収穫であった。

13時過の便で羽田へ発つ。

日本時間17時羽田空港着。19時世田谷着。

良い7日間の中国での仕事であった。

世田谷村日記 ある種族へR222

王澍の作品について、いささかを述べたい。

王澍は中国人初のプリツカー賞受賞者である。大きな建築は作っておらず、皆作品は小さいと聞かされた。しかし、この杭州中国美術学院象山キャンパスは日本で言えば、それ程に小さい作品ではない。

これを小さいという中国人のスケール感には今は慣れた。

しかし、この建築を体験して、中国人建築家のポテンシャルの高さを痛感した。どう痛感したかと言うならば大きなモノへの志向が小さなモノへ向かって集中した時の凝集力の凄さとでも言おうか。

分散したかに視える各棟のデザインがそれでもギリギリのところで連関しているのを実感した。

個々のデザインは全て自身のオリジナリティーが溢れている。

初期のコルビュジェ作品の瑞々しさを感じたりもするが、決して模倣ではない。

日本の諸建築家達の作品と比較するならば、圧倒的なオリジナリティーに溢れていると言って過言ではない。

何より驚くのは日本の諸建築家達の完全なヨーロッパ近代の模倣とは別の体系とも考えられる現代建築の技法が諸々に試みられている、その努力のエネルギーの巨大さに驚いた。

彼は中国現代建築家達とは群をなさず、中国伝統の諸集落建築の研究に明け暮れしてきたキャリアを持つそうだ。

その中国伝来の諸々が建築の随所に溢れている。

特に諸材料の使い方、組み合わせのデザインが独特である。

彼は美術系の大学教育を受けており、謂わゆる工学系の教条的イデオロギーからは比較的に自由であった独自性の持主である。

その良さ、可能性が溢れている。アメリカのエンジニアリング系の中の大学教育ではなく、ヨーロッパ系の言わば古いとも言える芸術系の教育の、これは産物であろう。

良く、ここまで自力で成し遂げたものである。

これは並大抵なことではない。

恥しながら、わたくしがかつて伊豆の長八美術館でやったような伝統の日本左官技術や材料のピックアップ作業がより体系的に成されているのであった。今日、視たばかりの新葉古村のいたるところに感じられた中国伝統の職人技術、そして造形が上手に組み込まれている。

今度の我々のプロジェクトにとっても、コレワ並々ならぬ相手だなと思い至る。今日は凄玉を二つも見せられて幸せであった。

王澍の作品でもある新しい棟のレストランで夕食。

この新しい作品は、しかしエネルギーの凝集がすでに薄れているのが気になった。これは日本の若い建築家達の作品群にも通じる薄味なものでもあった。

恐らく本人も自覚しているのではあるまいか。しかし、良いモノを見せていただいた。

18時、国寶館に戻る。

ホテルの部屋で明日のミーティングに備え、第二次案作成の作業。今朝描いたドローイングをベースに渡邊、佐藤両君に大方を指示する。

21時わたくしは大方をすませ、自室に戻る。

二人は明朝までにプレゼンテーションを仕上げねばならない。

世田谷村日記 ある種族へR221

1月10日、6時半離床。8日、9日のメモを記す。頭がクリアーになっておらずメモは順不同となる。朝日が真赤に昇り、陽光が部屋に射し込む。

8時半朝食。レストランで8日のプレゼンテーション他の通訳を務めていただいた趙夫人と別れる。

朝食の西湖国寶館メインレストランはいつも美味である。味に手抜きが無い。

9時過ランドローバーで発つ。ハイウェイをひた走る。片側3車線のアメリカ式のものである。日本の東名高速が第二東名を遅れて建設したのを考えれば賢明であろう。サイン等は日本式なので、これはGKの手になるのか。

農村の風景は驚く程に新興住宅群で画一されている。地上3階、時に4階のモノが多い。似たようなスタイルのモノが繰り返されている。時に装飾までもが同じだ。ハイウェイを2時間程走り、脇道に入る。古い民家等がチラホラ現れ食堂の外で食事をとる姿がチラホラ見えてホッとする。湯気が立っていてうまそうだ。

11時半目的地、新葉古村に到着。村外れの小さなパーキングに車をとめる。元村の書記長(村長)さんが案内して下さる。村外れの古祠堂は歴代の村の賢人たちの記録が残されていて、村の集会室にもなっているようだ。建築も装飾も素晴らしい。日本で言う敷居は高く、ヨイショとまたぐ感じ。ヨイショ、ヨイショと声を出していたら元村長もヨイショと和して声を出しているのに親切な気持の現われを感じる。

村の入口の食堂らしきで昼食。とてもおいしい。品数も多く豊かさを感じた。TVスタッフも追いついてきて共に昼食。若い人は何処の国でも良く笑い明るい。村に入っていく。すぐにこれは凄い処だと知る。勿論車は入らぬから、道は迷路状に展開する。先ず家が密実に構成され、その余白が道になっている。佐渡の宿根木集落を思い起こすが、ズーッとスケールが大きく開放的でもある。でも同じ作られ方だ。

幅40cm程の水路が縦横に巡る。道は素晴らしく装飾的に舗装されている。石貼り、瓦貼り、煉瓦貼りがミックスされている。

ヴェネチアの迷路状を思い起こすが、それよりズーッと人間的なスケールと親和力が在る。街路や住居の素材の力であろう。壁は全て下は石組み、そして煉瓦積み、粗塗りの土壁に、恐らくは漆喰の薄塗りである。漆喰は1mm~2mm程。藁等は入っていない。村の中は処々で祠堂等の修復が続けられている。左官の道具はほぼ日本と同様である。

スケッチをしたいが、とても時間が無い。元村長さんは大声で案内してくれて笑みを絶やさない。とても良い人柄がにじみ出ている。

村の中に程良いスケールの池がいくつもあり、人々がそこの陽だまりにたむろしてトランプやら、談笑にふけっている。これがコミュニティの実体なんだなと知る。道端に腰かけてスケッチをする。キルティプールや、他のカトマンドゥ盆地の村の共同井戸を想い出す。

人々がここでも洗濯やらを今もしている。池際の洗濯作業用のデザインも素晴らしい。図面をとりたかったが時間がない。

3日程滞在してスケッチや採寸に取り組んだら身体が空間を覚えるだろうにと残念、無念。見て通り過ぎるのではダメなのだ。村の土木職人のところや、他の多様な事物に接する。とても書き切れぬ。

おわりに村外れの元学校に。この村には、村には本来無い(禁じられていた)裁判所もあり、格式の高さがしのばれる。元村長さんも大変、ここを誇り高く感じているようだった。その事が伝わってきて実に心地良いのである。

学校脇には高い細身の塔、高さ20mくらいが在り、村の格式の表現のようである。勿論、古い学校自体も素晴らしいが、今の子供たちは別のところの近代化された学校で学んでいるようだ。そういえば村内には子供たちのための図書館もあり、勿論、木造、煉瓦作りの伝統的建築を使い廻していて、とても良かった。名残惜しいが、趙さんが王澍の中国美術学院を見ておいた方が良いというので杭州市内へと戻ることにする。

2時間程で中国美術学院につく。王澍の作品も実に良かった。

世田谷村日記 ある種族へR220

明けて1月9日6時離床。グッスリ眠れた。

スケッチを一点得る。鳥人宅とパブリックハウス的な位置を占める計画案を練る。

栄螺堂を作ってみようかと思い付いた。

プレゼンテーションの後はクライアントは2時迄議論したそうだ。ゆっくりと朝食。趙さんの奥さん、スタッフも加わった。

朝食後、西湖周辺を見学するも、朝食後案内していただいた国賓飯店のゲストハウス、つまりは毛沢東が好んだと言われる迎賓館らしきの印象が強烈であり、西湖の一番良いモノは見てしまったような気分もあった。がしかし、新しい雷峰塔の下に納められた古い電塔の遺跡には心を動かされた。

霊隠寺、雲隠寺そして永福寺、いずれも禅宗の寺を巡る。

永福寺の茶房で飲んだ茶と黄色い梅が印象的であった。

昼食は趙さんの古い友人と共に。飛び切りの杭州料理をいただく。

これは美味であった。伝統料理というが中国の食文化の厚みを知る。

雷峰塔に登る。

気になっていた建築AMANグループの施設群へ。

これは素晴らしく、夢中でスケッチ3点を得る。流石にワールドワイドな超一級のセンスが溢れている。

バリ島のロッジのようでもあるなと思っていたら、やはり経営者はリージェント系のポーランド人で世界に独特な施設を展開するとの事。とても良い建築であった。

感動する。

7時、地元建築家の皆さんと夕食。モダーンな建築とモダーンな料理であった。

世田谷村日記 ある種族へR219

1月8日、それでも眠れぬままに6時離床。窓のカーテンを開けてびっくり。実に美しい風景が眼前に拡がっている。

これが、杭州なのかと心にとめる。池が広がり、人の手が入った林が連なる。

東屋があり、長い渡りへ屋根が連なる。スケッチする。

ロビーで皆と待ち合わせ電気自動車でメインホールのレストランへ。たっぷりとした朝食。クライアント達迎えに来て発つ。小雨模様。西湖を一周しましょうと走る。大きな風景である。山水画の世界。計画の敷地を見る。東京で予想していた通りの土地であった。ゆるやかな盆地状の風景である。アプローチから入り、向うの南の茶畑も予測通り。珍しいことだ。雨の中スケッチする。昨夜、うながされるままに訪ねた鳥人のセルフビルドの家も間近である。この家と人間については書き述べておかねばならぬ事が山程にある。計画案をモンタージュしたスケッチをもう一点。西の金木犀の林に廻る。秋には良い匂いをサイトに運んでくれそうだ。西湖十景の一つだと言う。金木犀の林から茶畑の中の道を登る。

ゆっくりとした歩くに良い登りである。時々振り返ってサイトを眺める。

計画地の茶畑の中にも一本大きな金木犀があり、クライアントはそこに茶室を作る計画も持つそうだ。

登りつめて少し東へ、小盆地の集落が美しい。古い墓が2つあった。

グルリと大きくまわり、鳥人の家へ降りる。大きな犬が吠える。鳥人の家をくぐり抜けて、小さな街へ。

夜に見た趣きとは異なる。やがて街道に出て再び西へ。サイトに戻る。

ひとわたりサイトを一周した。隣りの村長宅訪問するも留守であった。鳥人の家と村長宅は今度の計画にポイントである。

満足して昼食へ。美味な昼食をいただく。昼食後、第一回ミーティングで、西湖畔の立派なイギリス風の洋館へ。

テラスから西湖が美しい。

ミーティングにはチベット赤帽派の教皇がお見えであった。

まさかと思ったが、教皇も会議に参加するとの事。クライアントも交じえて20名程の人々の会となる。

趙さんの司会で開始。次にわたくしの第1回プレゼンテーション。

チベット仏教の教皇も聞いておられるので、流石に緊張する。

小1時間程、用意してきたプレゼンテーション。まだこなれていない部分は話すのを省略する。終了後、クライアント、趙さんを交じえ活発な論議。

わたくしもキチンと話したが、クライアントの反応もキチンとして誠実なものであり、手応えを感じた。3時間程で終了。チベットの教皇を交じえて夕食会場へ。

クライアントのお一人が結婚20周年という事で隣りの部屋でパーティーとの事。教皇のお人柄は邪気が全くなく素晴らしかった。教皇から「日本の僧侶は酒を呑みますね」と言われて、僧侶でもないわたくしがギクリ。

教皇はこれが一番良い酒ですとジュースを呑まれる。隣席で再び緊張する。

三歳から活仏であるそうで、iPadで色々な資料を見せていただく。

サインと、おまけですとケイタイの番号まで教えていただいた。

これでチベット仏教の四つの会派のお二人の活仏にお会いすることになった。光栄である。

わたくしのチベット紀行の本を差し上げたら、サムイエ寺院のすぐ近くに教皇の寺院があったのにと言われた。4500メーターの高地であり、冬の厳しさがしのばれる。

隣りの部屋に出掛けて結婚20周年のお祝いを申し上げ乾杯。

楽しく、歓を尽した宴であった。22時半頃終了。皆さんと別れ国賓飯店へ戻る。23時過バタリと横になる。

世田谷村日記 ある種族へR218

1月6日7時過世田谷村発。驚いた事に京王線は超満員である。ギューギューづめの電車で新宿、同じく満員電車で浜松町。モノレールまで座れぬ有様である。上海への通勤モードだなコレワ。羽田新国際空港8時半過着。渡邊、佐藤と落ち合う。馬場昭道より電話をもらう。森繁さんより今日から中国だと聞いたらしい。両人共に通勤スタイルである。朝食のサンドイッチ他を待合ラウンジでつまみ、定刻通り乗機。

10時過上海へ離陸。

11時過機内食。流石に残した。年相応の胃袋の伸縮である。

12時半スケッチ数点を得るも、それほどの収穫はなし。上海迄あと1時間程のアナウンスあり。

12時05分(中国時間)上海空港着。趙城埼さん出迎えて下さり、再会。車で上海中心部へ。何処も同じクルマの渋滞である。ルネサンスホテルにチェックイン。荷を部屋に入れて、近くの趙さんのオフィスへ。かつて蒋介石の国民党が住んでいたという低層の古いが落ち着いた住宅街である。

その一角に実に静かで落ち着いたオフィスを構えている。うらやましい。

猫が二匹いて可愛い。お茶をいただき色々と相談。スタッフの方々に紹介される。庭に面したTEAサロンでくつろぐ。ゆったりとした時間流れる。

夕食はホテルの下のレストランで幾たりかの人々と共に。

驚いた事に石山研一期生卒論の中野勝仁さん等と再会。久米設計の上海支店長である。卒論で佐藤健の紹介で岐阜の禅寺に短期入門した経験の持主である。しっかりした意志の持主であった。

食事は美味であった。

終了後、趙事務所に戻る。上海若手日本人のパーティーに出席。

多くの若者達にお目にかかれた。皆中国新天地で苦労しながら頑張っている人々である。GK上海の横田保生氏にもお目にかかった。

21時一足お先に皆さんと別れ、ホテルへ戻る。風呂を使って横になる。

明けて1月7日6時離床。あんまり眠れなかった。7時ホテルで朝食。8時前趙事務所に出掛け、鍵を預かっていたので裏口から入り仕事部屋へ。昨夜来考えていた杭州計画案の修正作業を行う。11時迄模型作り他。短時間であったが集中した。わたくしもドローイング数点を作成。

12時過趙さんと昼食へ。有名な新天地のリノベーション、テーマパークの如くを見て、北海道料理を食す。魚の干物の大きいのに驚いた。龍華寺院へ。

一軸の強い構成を持つ独特なものである。巨大な諸仏の日本のそれと異なる姿に再び驚く。大雄殿本尊裏手の観音像は白い経文入りのマントで荘厳されていて、その異形振りに眼を奪われる。しかし大きさの印象はだいぶ薄れて小さく観えた。洞穴状の諸仏の配置がやはり面白い。生々しいのである。

小雨の中を急ぎ足の見学だったが面白かった。しかし、とてもスケッチする時間は無い。車で上海新幹線ステーションへ。16時05分の汽車に乗らねばならない。車の中で石山研OB陸海と電話で話す。持病の腰痛で入院中との事。養生を祈る。今は事務所運営と大学では主任教授で頑張っているようだ。

新上海ステーションはこれも又新しい上海空港に隣接している。堂々たるものである。デッカイ。そして人が溢れている。荷物チェック後、30本くらい並んでいる新幹線の一つに乗り込む。一等車はガラガラであった。

1時間と少しで杭州ステーション着。外は煙るようなモヤと小雨の風景の連続であった。

杭州ステーションには度肝を抜かれた。世界最大級のデッカさで向うの端が見えぬ位。

クライアントの一人、仏教徒の方が迎えて下さり、花束をいただく。

北京からのドキュメンタリーTV製作会社のスタッフがカメラ2台で撮影をすぐに始めた。

杭州市内を抜けて、暗い、どうやら山林の中の杭州西湖国賓館へ。チェックイン。周りの風景他は一切見えず。歓迎会があると言うので、服を着替えてネクタイをつける。でもスケッチできるかなと大きな画用紙入れも持つ。再び車でどうやら近くのクライアントの一人のモノであるらしいゲストハウスへ。まだ廻りの風景他は一切不明である。

サロンのようなモダーンな処で晩餐会。有機食品とオーストラリアの山のワインの御馳走をいただく。共に美味なり。クライアントの皆さん、及びその友人達に暖かく迎えられる。

興が乗り、クライアント他のメンバー7名の肖像をスケッチする。竹林の七賢人のイメージで描いた。

わたくしなりに良く描けた。

歓を尽して、23時前了。23時半西湖国賓館に戻る。

シャワーも使わず、ブッ倒れてベッドにもぐり込むも、全く眠れず。全く大人じゃないなわたくしは。でもやはり驚いていたのであろうクライアントとの出会い、その他に。

世田谷村日記 ある種族へR217

1月6日4時前離床。少し早過ぎてメモを記し再び横になる。夜は明けていないが厳しい寒さではない。サイトをのぞいたら「飾りのついた家」組合作品録作品番号65のあさひ2号が売れていた。伊藤聡宏さんの作品である。栓抜きをベルトのバックルに転用した面白い作品で、もっと早く売れてくれてもおかしくは無かったが、ようやく売れてくれてホッとしている。買ってくれた人ありがとう。眼ある人だと思います。しかし、こういう売れ方は誠に嬉しいものである。世間はまだ捨てたもんじゃないとつくづく思う。しかし、インターネット販売は安価なものから売れてくれるものだとリアルに知った。安い値段帯のモノを充実させたいが、どうすれば良いのか途方にも暮れるのである。

5時半前再離床。まだ外は暗い。荷作りは終えているが、いつものように何か忘れているような気がしてならぬ。パスポートと金があればそれで良しなのはすでに知るのだがクセだろう。

杭州プロジェクトのサイトは明日の午後に見ることになるが、大方の案はすでに作った。大きな修正の可能性は1つだけ。それが楽しみでもある。チベットのラサ近くのサムイエTempleの印象は強烈であった。曼荼羅がそのまんまマスタープランになっているので有名な建築である。

境内の外周に巡らされた円形の厚い壁の現実離れしたような、しかし圧倒的な存在感を忘れない。

あれの小形の形式を今度のプロジェクトの庭園の一部で実現できぬかと考えている。サイトの周囲の風景とのスケール感次第であろうと当りはつけているのだが、こればかりはサイトを体験しなくてはいかんともしがたい。

上海迄のフライトでもう少し考えてみたい。飛行機の浮遊感の中でのスケッチも面白いだろう。曼荼羅には合っている。あと1時間少しで世田谷村を出て、羽田に向う。

昨年夏のインド・ラダック以来の海外である。今年のはじまりも中国そしてインドへの旅となるがうまく展開してくれることを祈るばかりである。

世田谷村日記 ある種族へR216

1月5日正午、遅い朝昼飯を喰べ、再び日記メモを少し計り。 陽が射し込んできたが青空はのぞいていない。

13時過には世田谷村を発ち研究室に行くつもり。今日は杭州プロジェクト以外の計画について打合わせした方が良いだろう。

サイトを新年らしくすることも重要だ。「すだれ発電」をTOPに持ってこよう。

「飾りのついた家」組合日誌50を書く。

猫、犬守護神計画をもう少し書きすすめておきたい。

12時40分「鏡と猫と犬について」書き終り送信する。

13時半にはでかけることになりそうだ。

靴屋で新しい靴を買う。今迄はいていた靴は気に入っていたのだが同じ寸法のモノが入荷してないと言うので、アッサリ別のドイツ製の安い奴にした。ドイツのはもう足の健康一途の追求であるらしい。

すぐはき替える。新宿、新宿三丁目、西早稲田と歩くうちに、コレはとても足裏のツボらしきを刺激する靴らしいのを理解する。

ドイツらしく、その一点足裏健康法のみを追求しているような靴だ。

こりゃあ歩くのに疲れるなあと思いながらも、もうはき替えてしまっているので後戻りはできぬのであった。

15時前研究室。「飾りのついた家」組合の今年について少し計りの打合わせ。次いで21番中国杭州計画打合わせ。先程電車の中でまとめたアイデアを伝達する。思い付きでは無いのだが、それがスタッフに伝わるか解らぬが、伝わっているのは信じたい。

終了後明日からの上海、杭州出張に関しての確認他。

17時前了。

18時千歳烏山、世田谷村に向けて歩いていたら、アッチで影が手を振っている。オヤと思ったら森繁建(たつる)さんであった。

どうやら近くで所用があり、宗柳に寄ってみたらしい。新年である、話したい事は諸々あるということで、一杯やろうとなった。

建(たつる)さんはオヤジの久彌さん以上の話しの間の使い手で、話に引き込まれる。途中より家内参加。大いに心楽しい会となった。

森繁久彌さんの息子さんですよと他の客に紹介したら、怒られた。

森繁建(たつる)は建(たつる)であり、久彌ではないと。確かにそうだとあやまった。わたくしよりも2才年上の新しい友人である。

21時前、大いに飲み、かつそばをすすり、宴を終える。別れて21時世田谷村に戻る。

難波和彦さんより電話あり。特別な事でもなし、つまり世はなべて事もなしとの事であった。何か特別なコトは無いと言うのは、いかにも難波さんらしいと感服した。何も無いのが一番である。

荷作りを少し計りして、22時横になる。こんなに早く眠れるわけもない。

世田谷村日記 ある種族へR215

1月4日、11時より14時迄Xゼミナール。15時研究室。21番中国杭州プロジェクト、プレゼンテーションボードの最終確認。ようやくまとまってきた。スタッフは暮から正月にかけて良いworkをした。17時去る。18時千歳烏山。長崎屋にて大坪さん、向山さんと新年会を兼ねた打ち合わせ。

6月に創立するNPO法人世田谷式生活・学校の今年の目標を、09番世田谷式すだれ発電、20番動物病院、転じて猫犬守護社(仮)、22番山梨ブドウ畑の三本柱にしようかと相談。

大坪さん特有の懐疑的後ずさりと向山さんの開放的前進とは誠に妙なる好対照であり面白い。

20時半世田谷村に戻る。

明けて1月5日8時離床。昨日蔡翼全より早速漢詩らしきものが送信されてきており、対句まで形を整えた彼らしい形式主義的趣きあり興味深かった。

「飾りのついた家」組合日誌46として明後日にはONするように依頼する。明日1月6日より一週間杭州に出掛けるので留守中の編集となる。

今朝の空模様は南の端、つまり天と地の際に明るい雲の切れ間があり、中天高くはほとんど雲に覆われて寒い。

8時半メモを記し終り、下に新聞を取りに行く。9時半読了。

東京新聞はドナルド・キーンのコラムが良い。この人の日本語には日本の知識人らしき(作家も含めての)の妙に気取った堅苦しさのようなものが見当たらない。難しい言葉も使わない、専門の日本の古典も振り廻さない。

平明で簡潔な名文である。

思い付いて3階に鎮座していたヤング・シャキャムニ像を2階の広間の台所を背にした低い棚に移した。勿論南面させ、久し振りに小さなグラスの水もそなえた。3階のわたくしの仕事場には、わたくしは全く最近はいないので荒れ果てている。こんな汚いところに居て貫っては申し訳ないと2階の広間に移した。

このシャキャムニは2006年にチベットのジョカンテンプル(大昭寺)にていただいた像である。いただいた時には若々しいお顔をしていたけれど、今日眺めてみればいささか年をとった風もある。

1月8日には杭州にてチベットの高僧にお目にかかる段取りがクライアントからなされているようで、それでフッと思い立った。

「飾りのついた家」組合日誌48を書く。

10時15分、日誌48「おにゃんこキャバレー、ワンワン倶楽部に代えて」

日誌49「ミッキーマウスに対抗できればなあ」

2片書き終える。これで中国出張中のサイトは動き続けるだろう。

世田谷村日記 ある種族へR214

12時半新大久保から歩いて大学研究室に着く。正月なので新宿三丁目への長い地下道を歩くのを避けたのが我ながら気が弱いな。

すぐに中国杭州プロジェクト打合わせ。上海より6日のチケットが送られてきたのでスケジュールはタイトになっている。スタッフの造語能力にいささかの不満を洩らす。漢字と漢語の国の言葉の論理性は若い人間にはまだまだ理解も感知も不能なのかも知れぬ。わたくしは何故か中学生のころから父親の興武の書斎に入り込んで唐詩選くらいは読んでいたからなあ。と、英語の不得意さとチョッと避ける感じをガキの頃の漢語体験にかぶせようとしている。しかし、あと20年もしたら日本は中国の力の波及圏に完全に入ってしまうのは歴然としているのだから、中国語的感性はとても必需品になるのに。

14時研究室の大OB蔡翼全、久し振りに来室。

中国でのプレゼンテーションボードの中国語(漢語)をチェックしてもらう。漢字を紙に書いてのやり取りは若い頃からやり続けているので勘は働くのだが、文字と言語の違いは計り知れぬ。

若いスタッフにそういう感受性が働いていてくれることを祈るばかりだ。

蔡さんはカナダ系台湾人なので少し変形のインターナショナリズムの持主で今日もプルーストとカミュの英語版の評論を読んでいて、わたくしのカミュ評価と全く異なる意見を持つのでタジタジとなるも、すでにタヌキだからな俺も、カミュとサルトルの論争の評価へと話題をそらして事無きを得た。

でも蔡翼全の妙な深さには前から関心を持っていたので「飾りのついた家」組合への寄稿をすすめて、ヤルとの言を得た。

中国から帰ったら、蔡翼全の文章、中国語と英文そして佐藤研吾のドローイングの新しい試みを組合のサイトで始めることになるだろう。

ロンドンの石井からのモルトウィスキーで蔡さんと新年の乾杯をして研究室を去る。17時であった。

18時世田谷村に戻る。

隣りの向山一夫さんと電話でごあいさつ。山梨に出掛けていた。6日に中国に発つ前に一度会って話さなければならない。NPOの件他で。

明けて1月4日8時離床。高曇りと言うのか、薄い雲が空を覆っているが陽光は洩れている。

「飾りのついた家」組合日誌を書き始める。昨日「44・蔡翼全」のことを書いたが、それを一部修正して満足のゆくものにしてから、45にとりかかる。

9時了。ああ、あと30分でメシを喰べて出掛けねばならぬ。

いそがしい日々である。今日は年明けのXゼミナール

世田谷村日記 ある種族へR213

1月2日、箱根駅伝を考えついた人間は一種のコレワ天才だな。学生も人々も正月はまことにヒマでもあり束の間の平和でもあるから、走るかと思いついた。昔はTVも無かったから、人々の噂によって耳に伝えられたのだろうが、TV時代になっていつの間にやら国民的行事になりおおせた。まことにヒマという大事な価値が作り出した、コレワ創作物である。

世間では今年の早稲田はまったく駄目そうだとの事であったが、第二走者が頑張ってそれでも3位につけたところで世田谷村を発った。

わたしは走らないで、電車に乗って、研究室へ。13時前着。すぐに21番中国杭州計画、6番厚生館星の子愛児園増築計画打合せを始める。

終了後、毛筆でドローイング作業。5点程を得る。杭州計画は中国の江南文化の中心地のひとつであるので、ボツボツ勉強しているのだが、中国の地理歴史は日本と比較すればとてつもなく広く、分厚い。日本と呼ばれるようになった我が列島はそれにへばりついていたようなものである。

吉本隆明によれば列島の文化は小さな断片状のものを構築しようとしては流され、寄る辺なきを繰返したとされるが、その感じは解るような気もするな。

列島を中心に据えて考えると小林秀雄みたいな雑感の数々が、しかし珠玉の如き小玉の言語表現も生まれるのだろうが、大陸から遠く眺めれば何の事か解ったもんではないだろう、アレは。

5点のドローイングは禅画風のものであるが、マレーヴィチの黒の中の黒とか白の中の白い四角とかの、いわゆる超絶主義的傾向を帯びたものとなった。

まあ、あくまでシュプレマティスム風くらいなものだが、今度の計画のヴィジュアルなイメージを我ながら良く伝えてくれるモノにはなった。

ドローイング作業の前に、ロンドンの石井くんが来室してくれた。京都だったかの実家からわざわざ日帰りで出てきてくれたのだった。正月なのに悪かったなとも思うが、わたくしも他には時間がとれなかった。アト3年程ロンドンでガンバってそれから帰国するとの事。わたくしの学生でもあったので、その後の事をいささかアドヴァイス。といってもわたくしも残り少ない人生であるから、自分のこれからやりたい事と連関させて色々と考えを巡らせた。そして伝えた。

「飾りのついた家」組合に参加してもらう事になった。

16時半過ぎ研究室を発ち、18時前世田谷村に戻る。

夜は『大唐の繁栄』を読みふける。

明けて1月3日、5時目覚め、フトンの中でアレコレ考え、6時離床。

メモを記し、考えを少しばかり整理する。7時一段落して新聞を取りに階下へ。8時半箱根駅伝を見ながら年賀状書き。今日の分を終える。

10時20分「飾りのついた家」組合日誌43「コケとサビ」書いて送信する。

11時前にはゆっくり世田谷村を発ち研究室に向かいたい。

世田谷村日記 ある種族へR212

1月2日6時半離床。下へ降りて2階の広間でWORKを始める。WORKと言ってもこの日記を記すのと、昨夜思いついたことをメモすること位だけれど、これが大事なのだ。わたしは忘れっぽい人間なので、記録しておくことが作ることにとっても重要なのだが、その点についてはこの日記らしき、あるいはこのサイトを記録し続けている結果、その収穫として解ったのである。

年明けて難波和彦のブログをのぞいた。

年末のXゼミナールの、三日間の討議が12月31日の記録にほぼまとめられていて、解りやすい。昨年の新国立競技場のコンペを巡る話が中心となったのだが、最終的には大阪から安藤忠雄さんも参加した。

彼は自分を巡る日本の建築界(上澄みの、もしかしたら根無し草であるやも知れぬ)の動向を良く把握していた。

そして自ら日本のエリートとしての建築家たちと自分の民衆の支持による存在の意味さえも自覚していた。それがわたくしにでさえ新鮮であった。

難波和彦はそれを1960年代末の学生の反乱、そして世界的な文化革命らしきとの連関でとらえている。自分の位置付けも交えているので、説得力がある。

わたくしは、繰返すがこの安藤忠雄問題として明らかに捉え直した方が健全だと思われる槙文彦等の抗議の動きは日本の歴史の伏流に対する理解が浅く、それ程意味があるものではないと考えている。これはエリートの、平民上がりの成り上がり者、下克上を成し遂げた安藤忠雄に対する冷たいジェラシーに他ならぬのではないか。

槙文彦は良く知られるように竹中工務店の創業者一族である。

創業者はいわば大工棟梁いわば大棟梁から身を起こした、これも言葉は悪いが成り上がりである。安藤忠雄と何変ろうや。

その血統が落ち着いて、いわば自然に槙文彦というエリート、そして貴族的なとさえ言える存在を生んだのである。そのポジションは極めて複雑な地盤なのだ。ルーツは大工、棟梁なのである。

それが安藤忠雄がいわば差配した新国立競技場のコンペを批判したのだから、これは歴史の皮肉とでも言うべきではなかろうか。

これは明らかにわたくしの勇み足だけれど、一等に選ばれたザハ・ハディドの案は大き過ぎる、金がかかり過ぎるというのだが、我々の日本文明文化は1980年代のいわゆるバブル経済の10年間に東京に何を建築物として、文明文化の成果として残したのであろうか。あのパブルの字義通りのアブク銭を蕩尽し尽して巨大な建築物を残していたら、まったく何もかも消えて残らなかった10年の、それでも蕩尽の記念碑くらいは残せたのではあるまいか。

建築の最終的な文化的意味は時代を蕩尽する、すなわちその余剰を表現し尽すというにも在るのではないか。

7時40分である。そろそろ箱根駅伝のスタートなので、そっちに移りたい。空は今日も快晴である。1区だけは早稲田は速そうなので、それを見てから研究室に発とうかな。

世田谷村日記 ある種族へR211

下に降りて、地上階のビニールハウスアトリエを建てる辺りを物色。少し地面を高くする必要があろう。地下室を点検する。地上階の明るさと比べると、そりゃそうだろう圧倒的に暗い。このいささかの往復運動も創造力の枯渇を防ぐのにはいいのではないか。新聞を読み、届いていた年賀状を持って上がる。

東電がどうやらオランダに250億円を蓄財していることが明らかにされている。福島の原子力発電所破損で、公的支援を1兆円受けているのにである。税制の専門家は合法であるとしているようだが、常識的な道義的見地からはどうなのか?250億円をオランダのテプコインターナショナルに投資して、その投資は各国の発電事業に投資されているようだ。その利益はオランダでは無税であり、しかも日本に還元されることなくオランダに蓄財されているという。

大きな妙なことには我々は鈍感なのだ。

11時、朝遅い光の中で缶ビールを飲む。マア今日一日の正月だ。長男夫婦、次女等と新年の雑煮をいただく。眠くなり昼寝を決め込む。15時起きて年賀状整理。17時賀状の一部を投函に外へ出る。空の雲が美しい。烏山神社は長い行列が視えたので今日は敬遠する。

思い切って、昼寝の中で思いついた何かをスケッチに残すことにして、取りかかる。

正月なのに貧乏性である。

18時過ぎスケッチ3点を得る。まあ今日はこんなところか。

世界文化社『大唐の繁栄』を読む。杭州文化を少し理解したいと考えてのこと。六朝の思想家、俗に言う竹林の七賢人は老荘思想を礎としており、無為自然の哲学、とくに荘子の逍遥の哲理を好んだらしい。わたくしの基本としつつあるMAN-MADE NATUREは漢語に訳すと無為自然となるのかは知らぬ。

しかし竹林の遊びは、我田引水でもあるが、幻庵を成立させた基本でもあるから、今度の中国でのプレゼンテーションには幻庵と竹林の思想、そしてMAN-MADE NATUREを結びつけた考えを当ててみようかと思いついた。もう戸惑ったりしている時間は無いから、中国でキチンと自分を出してみるのも良いのではなかろうかと思うのである。幻庵は40年振りに、異国で、もしかしたら理解者に再会できるやも知れない。外れたらみじめだけれどやってみようか。

わたくしの、あからさまな露出は日本では危険なのは知るのだが、島国に非ず大国である中国しかも江南文化の中心でのプレゼンテーションでは可能性があるやも知れぬ。しかし、スリルではある。中国の江南文化の人間の力を信じるしかないか。

世田谷村日記 ある種族へR210

2014年1月1日6時半目覚める。寝床でしばらく朝の光を眺める。マア何となく正月元旦らしき光である。人間はまことに他愛無い者である。別に何変わりない光なのに、ウーム正月か、なんて思ってしまうのだから。これもまた仕方ないのである。そう言えば、昨夜は夢うつつの中に隣りの烏山神社のお神楽の音が響いてきて、まことによろしかった。いいものだなあお神楽の音というのは。

フッと大橋富夫写真集『日本の民家 屋根の記憶』彰国社、のページを繰る。

二川幸夫の『日本の民家』とは違う世界であるけれど、勝るとも劣らぬ世界が展開されている。この写真集も素晴しい。

しかし!日本の民家=住宅は二度とこのような本格的な美しさを取り戻すことはできるのだろうか。

何かを住宅が生み出していた、これは美しさなのであろう。食物や生活の道具や、日々の生活そのものを自力で作り出していた民家の存在形式そのものの、コレは美しさなのではあるまいか。

わたくしの家、世田谷村のスタイルは民家の大きさ、そこにある風景とも呼べるモノを学びながら実ワ作った。

今はまだ未完成ではあるが、少しずつこの民家の在り方を学びながら接近させてゆく事ができたら嬉しいのだが。

体力が持つのかどうか不安でもある。

でも、1階のガランと空いた土間のあたりの風景と前の庭との関係らしきの感じは少しはそれに近くなっていると思う。

手押し井戸ポンプの在る辺りと、作業用に空けてあるコンクリート地下の土台の辺り、そこには今「飾りのついた家」組合作品リスト01番トタンカーメンが置いてある。

ここを中心に今年は作業小屋、あるいはビニールハウスの小さいのを建てて、小さなアトリエを作ろうと考えている。と実ワ、今、決心した。

地下室も充分過ぎるくらいに広くて、今の大学の研究室の倍以上の広さはあるのだが、始まりはやっぱり地上の光が在るところの方が仕事には良いだろう。少しずつ準備を始めたい。

今日は一階で少しばかりの時間をボーッと過ごしてみることにしたい。

世田谷村日記