石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 12 月

>>2014 年 1月の世田谷村日記

世田谷村日記 ある種族へR209

12月31日10時半、東京ステーションホテル、Xゼミナール。三日連続のこれは合宿みたいなものだな。今朝は大阪から安藤忠雄さんも参加。鈴木博之、難波和彦、石山のメンバーで昨日の議論の続きをする。

安藤忠雄さんより大衆(庶民)の言葉を初めて聞く。再び言うが、貴族的保守層の代表とも呼べるエリート建築家・槙文彦からの新国立競技場コンペ批判は、これは根底に安藤忠雄批判が在る。それについて安藤忠雄なりの反論はあるのだろうが、立場上彼は一切それはしない。

でも多くの、他の建築家達とは桁外れの大衆の支持を得ていることは事実であり、その底流(昨日の日記参)についての安藤忠雄なりの考えを述べたのである。正論である。

この間の事はいずれXゼミナールとしてまとめなくてはなるまい。

13時過ぎ修了。皆さんと別れる。

15時前研究室。キャンパスには人影も無く実に清々しい。

中国杭州プロジェクトのコンセプトボードを討議。良くやってはいるが、まだ駄目だ。17時安西直紀さんと電話で話す。何処か外国からのようだ。1月6日に帰国との事なのでスレ違いになるな。一段落させてウィスキーを皆でチビリとやり、年末の乾杯。やっぱりヒマなよりは忙しい方が建築家は嬉しいものである。明後日の仕事の大方を再確認して研究室を去る。

19時過ぎ世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR208

十二月三十一日8時離床。今日もXゼミナールがあるので9時半には世田谷村を発たねばならぬ。快晴。陽光がすでに溢れている。昨夜、中国杭州のプロジェクトのプレゼンボードのシノプシスを作ろうと考えたができなかった。あんまり無理をする事はない。スタッフにダメ出しを数回続けたので少しはマシな奴が作られているだろう。でも正月休みはつぶれた。今朝電車の中の時間を利用して少し計り進めてみよう。明日の新年元旦だけは休みとするが2日から仕事する。

そう言えば昨夜は李祖原と一緒に何やら仕事している夢を見たな。

わたくしはデッカイ模型をさらに延ばして工夫していると、李祖原が少しでかすぎないかと言う。エッ君からそう言われるかねとかのやり取りがあった。

でもそのスタディは何かのコンペの〆日がすでに終了しているのにやっているのであった。誠に夢とは言えご苦労なことではあった。

9時前、シノプシスの頭を作り送信する。

世田谷村日記 ある種族へR207

12月30日 11時鈴木博之、難波和彦、石山3名の久し振りにのXゼミナール始める。鈴木博之の提示したボードをもとに議論する。現代日本の建築が抱える諸問題という大きな枠組となる。

具体的には新国立競技場コンペを巡る槇文彦を中心とするコンペ批判とも考えられる論調及びそれに従おうとする人々が何を批判し得るのかという問題にわたくしなりに集約できる。

それを鈴木博之は日本の現代建築の幾つかの潮流を顕在させて論じ、わたくしは基本的にそれに対する、あるいは想定されているであろう安藤忠雄の日本の建築の伝統、あるいは建築を生み出し続けてきた伏流についてが、まだ充分に論じ切れられていない事をいささか早急に指摘した。つまり持論でもある明治期の維新による洋風導入をさらに遡行し得る、江戸、戦国、安土桃山、鎌倉、平安、そしてそれ以前にも作られ続けてきた日本の建築と安藤の建築を通底するモノについていささかの愚論を述べた。鈴木博之の力作評論、小川治兵衛の庭あるいはそれに代表される日本文化が職人を介在させて表現するモノについてを述べた。

いささか浮ついてはいたけれど持論である。仕方ない。

槇文彦等の批判は、わたくしは実に底が浅いのではないかと考える。日本文化の底流、伏流単端に敢えて言い切れば古来民衆が民衆自身の想像力が作り出そうとする職人のヒーロー、つまりは潔いアイコンについて理解不足な点があるということだけに属するものではない。

まだまだ記せぬ程に議論は進行したが、一度キチンと整理しなければ誤解を生みかねぬ。それ故、今日はここ迄とする。難波さんに交通整理していただきたい。何と四時間ブッ続けで議論したので、いささか今日も疲れた。

Xゼミらしい議論であった。

難波さんが安藤忠雄さんに連絡して、明日12月31日の午前中に会おうとなった。かつて丹下健三と白井晟一、あるいは川添登等との間で交わされた民衆論は今は昔である。現代の民衆は消費者であり消費文化そのものである。又、情報は大量に消費される民衆の想像力そのものではあるまいか。

中国より連絡あり、明年1月6日〜12日迄に上海、杭州に出張の予定となる。来年は体力、気力を使い切る年にもなりそうである。

しかし、中国において民衆論は不可欠であるだろうに、日本の知識層、特に建築技術者、建築家たちの間からそれが真当に論じられぬのは何故なのだろうか?

20時半小休、横になる。今日の議論を自分の中でシュミレートしてみたい。

世田谷村日記 ある種族へR206

12月30日8時離床。今朝も快晴である。快晴と記すのはつまらぬような気持ちもあり、少し工夫してみようと毎日言い方を変えていたが、バカバカしくなった。快晴は快晴であり、陽光も存分に降り注いでいる。いくらでも注ぎなさい。まことに天体の動きは変わらぬものであり、人間は刻一刻変わるものだなあ。

実に微細な動くものであると、年末に恐らく特有な感慨にふける。

時に真理は感傷と呼びたいものに近い。

9時になったら研究室に電話して、年末にやっておいてもらいたい事を伝えたいが人が来ているかどうかはこれも知らずである。

そんなに差し迫った用件があるわけでもない。

世田谷村日記 ある種族へR205

11時銀座で難波さんと会う。鈴木博之さん少し遅れてくる。Xゼミナールと言っても最近は四方山話しの会になっているが、鈴木博之さんの気持ちの強さだけが頼りの会なので、マア春になるのを待ちたいものである。今年の冬は随分と寒そうだから身体には気をつけようと別れる。 14時世田谷村に戻る。

何だか妙に疲れたような気分になり、横になって少し眠る。眠るったってそんなに深く眠れるわけもなくウトウトとする程度。やはり都心はわたくしには鬼門であるような気がする。

鬼門と言えば焼酎には鬼という字が附けられている銘柄が何故か多い。という気がする。もしかしたらそれ程多くはないかも知らんが、鬼ころがしとか鬼押出しとか。そんな焼酎は無かったか、マアどおでもよろしい。

夕方遅く、何となく飲みたくなって、焼酎を飲む。霧島酒造の「赤霧島」である。

赤富士っていうのは聞いたことも、見た事もあるが、何でも赤ってつければいいもんではないだろうと、仲々の味の筈であるのに不機嫌になる。勝手である。大体この味は火山の噴火の赤の感じではない。春の小川はサラサラゆくよみたいな、ザラザラしたところのない、だから何もない清涼な味であるから赤霧島ではなく青霧島の方が名は体を現わすのぢゃあないか。

大体、夕暮れに一人で酒ならぬ焼酎を飲んでいる図は実に日本の伝統から言えば、木枯らしが吹きすさぶ中で土方が(アッこの言葉はいけない)もとい土木労働者がカップ大関を飲んで通りがかる女性をからかっている図に近く、もっと陰惨なものであるだろう。もう今ではそんな光景も見かけないが。

わたしが大体焼酎なぞを飲むようになったかと言えば、情けない話で、かかりつけの医者の指図なのである。

糖尿の気があるので、いつからか気弱く用心するようになった無様さである。明らかに糖尿なのに酒ガブガブ飲んでワッハッハと笑って、コロリと死んぢまったバカを何人か知っていて、それで臆病になってしまった。

やはり、つまらぬ人生だけれど一応長生きはしたいのである。

で、何故焼酎を飲むようになったかと言えば、そのかかりつけの医者に「酒はダメなんでしょうね?」と恐る恐る訪ねた。 「勿論ダメですよ」のキッパリした答え。

「でも、それでも飲みたい時はどうすれば?」と喰い下がった。

「アナタ、ダメなものはダメなのですよ。それ位のわからない訳ないでしょう」と人格まで疑われてしまった。

「でも、しかし、あらゆるあれは、、、それでも、グズグズ、、、」とさらに喰い下がった。

「ビールは絶対ダメ。次に酒。更にワイン類、ウイスキーも同様です。それでもと意思が弱い人には、マア、焼酎をすする位ならば、、、」

との言を引き出したのである。

それ以来、それが焼酎はイイのだにいつの間にやら形容詞、動詞共に変化して今日にいたり、今夕の赤霧島になっているのである。

わたくしと酒の涯の無い苦闘の味の焼酎である。

が、しかし、実はお茶をすする、と言ってもあのイヤらしい抹茶の世界ではなくただの煎茶、番茶、ほうじ茶、苦茶、苦労茶、出がらし味無し茶他の世界ではあるが、その世界にあこがれて実ワ久しいので、いきなり、焼酎止めたと言う勇気もないので、出がらしの番茶はないのかねの世界へと来年は突き進みたいものではある。

世田谷村日記 ある種族へR204

11時40分研究室に約束の時間に遅れて着く。山梨ブドウ農園のワインラベルデザイン他を見る。

次いで院ゼミ。次に中国の仕事の進行状態を見る。有泉眞一郎さん来室。ワインラベルの大方の見積り。相談。15時研究室発、16時長崎屋にて烏山地区の方々と忘年会。沢山の料理が出て驚く。志村棟梁意気盛んであった。19時過皆と別れて世田谷村に戻る。

明けて12月29日。8時離床。流石に29日ともなると暮れも押し迫ったなあと思うが、別に具体的に何が押し迫ったわけではない。

昨日、長崎屋で宮城県唐桑GIGIからの組合作品番号69、三陸唐桑レシピ集はがきセット「これが三陸唐桑だ!」林のり子+唐桑食の学校(GIGI)50セットのダンボール箱をドサリと大坪さんにお預けした。

大坪さん正月は売り歩いてくれるであろう。

今年は組合の作品群を何とか50番迄進めようと考えていたが、色々な人の力もあり71番迄進めることが出来た。

これが一番の今年の収穫である。

まだ我ながらこの動きらしきの終着点が奈辺にありや、なしやも解らぬままなのが正直なところである。

でも、少しばかり肩をいからせたスタイルで歩いてきたような気もするので、こんな自然さも良いのではないかと考えてもいる。

この作品群をいかに展開させるかが、わたくしのありのままの実力であろう。少しばかり急ぎながら、何故なら年だからなあ。それでも自然体でやってゆけたらと考えてはいる。

まあ、でもこれがわたくしの開放系技術への夢の全体となるのだろうか。まだ解らぬが、そうであって欲しい。と、又悪いクセで肩をはりかけた。

今朝の天気も上々である。南に吊るされた洗濯物の一つ一つの姿の影が美しい。ピカソが若い頃パリでアトリエにしていたらしい洗濯船と名付けられたアトリエには若いアーティストの野心と夢想と、同時に焦燥とが入り混じっていたのだろうが、洗濯船とはうまい名前をつけたものである。

今日は昼前にXゼミナールの会が都心であるので出掛ける。東京の都心の風景をわたくしはあんまり好まない。NY程ではないけれど。年を取るに従って人間の本性はどうやら露出してくるようで、わたくしの地はやはり田舎の少年時代に全て作り上げられたのであろう。

大きな自然を好むのではない。大密林や大砂漠はいささか剣呑である。変な虫やサソリもいるだろうし。わたしにはせいぜいキリギリスとかアリん子位の友が間尺に合っている。土手の草ムラのバッタとかね。ほんの小さな草ムラさえあればそれで充分なのである。

謂わゆる原っぱね。そういう空間(すきま、くうかんではない)が無いとどうも息苦しいのである。

だから都心には正直行きたくはないが、友人達と会うのはこれは又別でもある。

世田谷村日記 ある種族へR203

明けて12月28日7時離床。晴れ。陽光差し、室内の壁にさし込んでいる。

昨日13時半長崎屋で隣りの向山一夫さん佐藤研吾と山梨のブドウ畑の件で打合わせ。佐藤くん、ワインのラベルを幾種類も作ってくる。

向山一夫さん共々中々いいじゃないのと眺め、一種類を選ぶ。これを山田社長に推挙することに決める。ところが長崎屋のオバンや保さんが色がついていた方が良いと色々と口を挟み、こちらもそうかなあと別に確信に満ちているわけでもない。

皆さんの意見も大事だと微修正し、でもとり敢えずほぼこれで良かろうと決めた。簡単な企画書の如くの下書きを渡し、明日迄の作成を再び依頼。

100円寿司屋に移り、久し振りに石森彰さん参加。大坪さんも来て烏山地区忘年会となる。

18時過了。世田谷村に戻り爆睡。

で、本日となった。新聞を読んだ後、山梨のブドウ畑に作ろうとしている小屋の意味について少し計り考える。

これはすだれ発電小屋として、自然エネルギー小屋として、計画のシンボルとしての意味を持たせるべきだろう。いま在るクラブハウス、ホールだけでは新しい価値が薄いから。

7時40分眠くなって再びフトンにもぐり込む。年末である仕方ないのである。9時難波和彦さんの電話で起こされる。これも仕方ないのである。

ブドウ畑に作りたい小屋はうーんと小さくして、外のテラスを広くする。そしてすだれ発電とし、小屋は冷蔵庫、小キッチンのみとしようと決めた。

ロンドンの石山研OB石井君が帰国したようで来年1月2日に会うことにした。2日は何かと忙しくなりそうだ。

10時過世田谷村発研究室へ。

世田谷村日記 ある種族へR202

12月27日8時前離床。どんより曇っているが薄陽が射したりで空模様は動いている。すぐに「飾りのついた家」組合日誌41を書き送信する。ブドウ畑のブドウ販売の件についての若干の細く支持。9時前了。

新聞を読む。

東京新聞の論調からは安倍首相の26日の靖国神社参拝の大義ならぬ何故?は不明である。今、中国南部の仕事を始めようとしているので、やはり気になる。

北京と上海とは別の国の都市のようであり、人々の気質も随分違う。

しかし北京の政治が大きなシステムを動かしている大勢(たいせい)に何変りはないだろう。安倍首相の中国情報は誰がどのように持ち込んでいるか知りようがない。毎日の新聞の首相の1日、タイムテーブルでどんな人間と会っているのか位しか知り得ようがない。外務省の官僚が日本の政治にどんな役割を果しているのかは知らない。外国での大きな展覧会でかすかに接触し、あいさつ程度の交わりしか無いからほとんど無きに等しいだろう。

昔、船会社と良く附き合っていた頃は、船会社はロンドン支店長が出世コースだと知らされた。でも外務省は米国大使がトップなのは間違いがない。

アメリカに留学していた人間から良く聞くのは、日本のアメリカ大使の人柄や人格についての風聞の如くで、チョッピリ、ヘエと思う位でそれ以上のことはない。

ともかく、私立大学に在籍してもいたから外務省はほとんど関係なかった。

東大なんかの人間は様子が異なるのは良く知る。なにしろ外務省の役人は東大の出が多く、又、いかにもな東大タイプの計算機間違いなしの人間が多い。

血が通っていない。

安倍首相もそこらの私学出身の凡才である。決して英材ではない。

だから外交に関しては私的情報パイプか、あるいは外務省関連の情報に頼らざるを得ないだろう。その感じは良く解る。とすると今度の靖国神社参拝は外務省の情報に従ったのかと勘ぐれば、どうやらそうでは無さそうだ。何故なら新聞報道ではアメリカは首相の靖国参拝に不満のようであるから。アメリカの対中国の情報網は巨大かつ質も高いものがあろう。しかし、その実体を知らぬ。首相は知らされているのだろうか。イヤ、そうではあるまい。

では対中強硬路線は安倍首相自身のオリジナル路線であるのだろうか。

小泉純一郎はアメリカの横須賀軍事港が選挙地盤の出身政治家である。

ブッシュの前でエルビス・プレスリーを演っちゃうのは、その血統とのつながりもあるだろう。

安倍首相は昭和の妖怪と言われた旧満州帝国での大秀才官僚でもあった岸信介を祖父に持つ。その膝で育った。で中途を飛ばすが祖父コンプレックスが歴然としてある。能力、キャリア共にそれが根深い。

小泉純一郎の祖父は横須賀の侠客である。

血は通っていても根深いコンプレックスはあるまい。度胸と決断の根性以外には。それに対して安倍首相の祖父コンプレックスは大きく深く、つまり擬似インテリ層のそれである。麻生太郎の吉田茂コンプレックスに酷似している。

だから、その、首相独自の考えによる決断らしきは極めて危うい。

独自な考えは一国の首相としてはしない方が良ろしいのではなかろうか。

世田谷村日記 ある種族へR201

11時研究室。新宿駅南口下の長い長い地下道を歩いていて、その自分の歩幅らしきでその日の気分と体調が何となく良く解る。トボトボとヨチヨチと歩いている日は我ながら年だぜコレワと思う。今日は気付かず速く歩いていたようだ。三浦雄一郎の父親が100才近くで実に大またで速く歩いていたのを思い出すと情けないが、それでも彼もアッという間に居なくなった。

スポーツは身体に良ろしいばかりとは言えぬ。

市根井立志さんとスタッフ同席で打合わせ始める。沢山の実寸やらの模型や部品が持ち込まれ、研究室はいきなり生き生きと様変わりする。

工房の如くになる。

マン・レイのパリのアトリエの話しを誰からであったか聞いた事があって、マン・レイのアイデアが断片となり、集まり積もりワンダーランドみたいだったらしい。

一度見てみたかったけど、こんな風な感じなんだろうな。

大きさの異なる球がゴロゴロと転がされ、その一部は木棒で串刺し状につらぬかれたりしていて、その集合状態が実に面白いのである。

早く世田谷村の地下工房で自分らしい仕事に没頭したいものだ。

猫のニャンコロ去りし家の記念物は実に面白いものになりそうである。

モダニズムの、言ってしまえば気取りらしきが一切無い。

鳥羽僧正の鳥獣戯画の世界、あるいは宮沢賢治の童話の世界に少しは接近しているのを感ずる。嬉しいね。これには集中して最終案まで辿り着いた。

次に、2脚の三球四脚の作り直し作業にかかる。

大小の木球と座、ひじかけ、首アテ、背もたれの集合を実寸で検討する。

これにも集中できた。ゴッツク面白い椅子になりそうである。ワクワクする。メシ喰う時間も惜しいので皆でサンドイッチをほうばりながら作業を続けた。

若いスタッフ達にも良い勉強になったろう。一切の空論の無い世界である。モノとモノの組み合わせの論理と美学と人間との関係が寸法と形になり、ピシリピシリと決められてゆく。日本の有能な木工大工は凄い能力を持つ者である。

14時迄続ける。

市根井さんの成果を箱につめ、三球四脚の作り直しの椅子を2点持ち帰った。

充実した3時間であった。有泉眞一郎さんアニミズム紀行8の最終表紙及びゲラを持ち寄る。彼も職人だな。もう今日は何もできぬとわたくしも去る。

京王線車中で原口万治さんに会う。いいマフラーしているので聞いたら娘の洋子さん作であるという。

これどんどん作ってくれと洋子さんに伝えてよと言う。

いずれ「飾りのついた家」組合の作品リストに高級マフラーも加えたい。

展覧会に作品として織物らしきを出展するよりは余程有意義だろうに。

ネパールのキルティプールの丘の女たちの織物作りを遠く思い出す。

長崎屋で大坪さんと会う。無駄話しをしているうちに、きっと大坪に是非ともやってもらいたい事も思い浮かぶであろう。世の中の附合いに無駄は少ないものでもある。

明けて12月26日、7時過ぎ離床。明方変テコリンな夢を猛スピードで見たけれどすぐに忘れた。夢ってモノは実にアッという間に消えるものである。

昨日の市根井さんとの打合わせの充実を思い出していたら、彼から2枚FAXが昨夜届いていて、ブドウ畑小屋のアイデアが図になっていた。

大貫を用いた案で大仏様(重源様式)を模したと書いてあり再び驚く。何処で勉強しているんだろう。

掘立て柱の案は伊勢モドキであるのだろうか。ギクリである。

負けてはいられぬなあ。

「飾りのついた家」組合日誌40を書き始める。

世田谷村日記 ある種族へR200

12月24日13時半研究室打合わせ。7番、京王堤田堤・星の子愛児園増築、打合わせ。1/50の模型が出来ており、それをもとに討議。基本的なアイデアを提示する。これ以上いじくり廻さぬ方が良かろう。

22番、中国杭州リゾートハウジング。コンセプトプレゼンテーションの準備を見る。大幅に手を入れる。15時半時間が押して修士論文計画ゼミ。

16時向山一夫さん、山梨の方来室するも少し計り待っていただく。

16時過ヴィンテージリゾート株式会社社長山田守郎さん、向山さんと打合わせ始める。まさか社長自らいきなり来られるとは知らず、いささか驚く。

初対面であったがすぐに気持が通じ合うのを感じた。色んな事を提案そして協議できそうな方である。時は金なりで、わたくしも余計な世辞を抜いて簡明にお話させていただいた。

17時半ひと先ず切り上げて、新大久保駅前近江家へ共に夕食へ。19時過ぎ迄歓談する。色々なことを手広くやっておられる方で話の通じるのが速いのを知る。何か出来るといいなと考える。

新宿でお別れする。向山さんと千歳烏山へ。20時長崎屋へ。

今夕の会合のまとめやら。21時頃世田谷村横で別れる。

明けて12月25日8時離床。昨深夜は何度目かの福田和也『日本の家郷』新潮社、を読み直す。

3回目にしてようやく何を言わんとしているのかが通じてくる。通じてくるのが遅いのはわたくしの頭が悪いのと、著者の文体にいささかの独特なファナティックさ、著者の言で言えば、日本文化の空白と凝集への、と言った言い廻しの傾きがあるからだろう。

福田和也は右翼であると言われる由縁か?

しかし痛切な戦後文化、文学への批判である。小林秀雄が三島由紀夫の自死に際して、短く、わたくしとは気質が違うので余り近寄らぬようにしていたとの言を思い出す。でも時折TVで視かける福田和也のチョイと指をアゴに当ててのお気取り振りよりは文章のほうがズーッとましである。この人はTVに出て時事評論、あるいは安手のコメンテーターなぞしない方が良い。

しかし、『日本の家郷』は捨てずに愛読書の中に入れることになる。

ボロボロになるまで読むかはまだ知らぬ。

わたくしの読書力はそれ程強くないので、良い本はどうしてもボロボロになってしまうのである。それでなくっては頭に入ってこない。ボロボロ度いまだ浅しでまだホロホロくらいかな。

今日は11時に前橋から大工・市根井さんが打合わせにやってくるので楽しみではあるが、昨日の修士ゼミで院生が大工・市根井立志を論じようとしているのには驚いた。若いとは言えぬ年の人間だが、少し安直に過ぎぬか?でも市根井さんのところには入門を頼もうと言う人が少なからずいるそうで、それはわたくしにとっては誇らしくもある。

世田谷村日記 ある種族へR199

13時研究室。プロジェクト番号21、中国杭州ハウジング打合わせ。

プロジェクト番号7、厚生館・星の子愛児園増築計画打合わせ。前橋の市根井立志さんと年末の打合わせスケジュールの調整他。16時半了。研究室を発つ。17時半烏山長崎屋にて松村秀一著、『建築—新しい仕事のかたち―箱の産業から場の産業へ』彰国社1600円、の終章を再度読みふける。著者は当代きっての時代の構造を表現領域を完全に除外しながら描き切る才質の持主である。その意味ではXゼミナールの僚友とも言うべき難波和彦さんと同様の存在基盤を共有するかと思いきや、仲々そんなに簡単には割り切れぬとこが中枢に在って興味深い。

松村秀一さんは、若い頃、わたくしの酒呑み友達であった大野勝彦の東大内田研究室の後輩である。難波和彦の「箱の家」は無印なるファッション産業の如くによって一部企業化されているようだが、大野勝彦の箱の家は積水化学工業によって年産6000戸〜10000戸程のスケールで社会化された。

工業化は建築家達の夢の又夢であったのを、大学院生であった大野勝彦はあっさりと実現してしまった。

難波和彦の箱の家とは、敢えて言うが産業としてのスケールが全く違うものであった。

難波和彦の箱の家の事業形態は恐らく一戸、一戸設計料を取っている設計業の商売に何変るところはないが、大野のはその点では全く異なる地平にあった。その意味ではJ・プルーヴェのアルミ部品生産工場の運営と似ていたのである。

松村秀一はその大野の仕事、及び研究を継承しつつ、それを更に踏み越えようとしている筈である。

箱から場の経済活動へという視点は実にその点において明快である。

つまり、内田研究室がGUPから一般在来工法へとグラリと主題を変化させた、その転形をも受け継いでいるのだ。

わたくしはいささか年を経たワニならぬ水牛状ともなり、生活基盤、仕事の基盤も2013年より著しくわたくしの地元世田谷区に場所を移行させつつある。しょうがない脚力が少し計り落ちてきたのでいたしかたないのでもある。

松村秀一の言明しているところと、わたくしの現実とは何変ることもないのである。だって隣の家の向山さんや、北烏山の大坪さんと何やらしてみようかと考えて行動を共にしたりなんだから。が、しかしわたくしはこのわたくしの現実は何かしら不満なのである。

このまんまやっていても、際立って美なるモノ、際立って人間の生なるモノと共に在るべき物体の存在形式を考えることにはならぬのではないかの不安からである。

明けて12月24日、8時離床。快晴だが南の空の底にうっすらと雲がある。早朝に目覚めて眺めた南の空の黒雲の正体はこれだな。あの黒雲は明方の空に妙に生き物の如くでしばし見ほれたが、明るくなって見ればつまらぬ薄雲である。

今夕、山梨から隣りのトトロならぬ向山さんがワイン作り屋さんと共に研究室に現れる。考えてみれば近隣の人が研究室に仕事で現れるのは初めての事ではあるまいか。

打合わせの後に「何処か新宿でも行きましょうか。彼等ゴールデン街に行きたがってんです」

とは、まことに向山さんらしい。

行きたがってんのは君じゃないのと言いたい。

それはとも角、わざわざ山梨から出てこられるのだから無駄足は踏ませたくない。要するに自社保有のワイン畑で獲れるブドウでワインを作り、そのワインを100本単位で個人ブランド用に作り、そのブドウの樹の育成作業共々分譲しようという計画である。

わたくし共の「飾りのついた家」組合の作品群の一つとしてこれを売りに出す予定である。「飾りのついた家」組合はブドウ畑の販売に乗り出す。畑だけではいささか能があるまいとて、ささやかなブドウ畑小屋のクラブ・ハウスを一軒つけて分譲したらどうかと今思案中なのである。

世田谷村日記 ある種族へR198

今日も9時過迄眠ってしまう。昨日聞いたのだが今日も国民の休日であるらしい。天皇誕生日とやら。サイトの日記がR196迄ONされているので読み返す。

昨日も向山さんから仲々ページが出てこないと言われた。対する大坪さんは努力してないな。工夫すれば必ず出てくるよと応じていた。この人はどうやらわたくしの書き記しているモノの大半を読んで下さっているようで、油断ならぬ。

何故油断ならぬかと言えば、人物はいささか後向き、しかも斜後方に後ずさりするのに快感を覚えているようなところがあり、細かなクレームをつける名人である。こことここのところにはこういう文脈のズレがあるという類の。

わたくしは長い事教師生活を続けた人間である。なんと26年になるそうだ。

大学に居る時は否応なく学生達の中に居ることになる。

最近の4、5年は否応なく学生達は皆、後向き後ずさり人間が大勢を占めるようになった。早稲田に前向きな力強い人間が来なくなっているのか、つまり偏差値とやらがガタ落ちしているのか否かは知らぬ。

昔はこうじゃなかったとは、愚老に典型なたわ言である。がしかし、歴然としてそうなのだ。空気くらいは読める。

そうすると周囲は大坪的人間の小型ばかりとなる。朱に交われば赤くもなろう。それでわたくしも次第に後ずさりもいいじゃないかと考えはじめる始末となる。これはイカンとも感じる。山本夏彦翁が大嫌いであったあいだみつお、みたいな、いいじゃないの幸せならば、が大勢となってしまったので、こんな幸せはブタに喰わせろと叫ばずにつぶやく始末なのだ。まことにひ弱な精神のブタ状態なのである。我ながら。

過日、中国からの客人と四方山話しをしていたら隠という言葉の話しになった。良く知られるように隠には大隠、太隠、少隠があり、大隠とは要するに市井の隠であるの考えだ。つまり本格的な隠者=文人の理想は山林に隠れるのではなく都市に隠れるのだという思想である。

とすれば、今の大方の学生共はまさに隠者、しかも大隠者の気配が濃厚なのではあるまいか。そうか彼等は隠者なのかと気付けば事は逆転する。

大坪さんは空高く、あるいは低くも飛ぶ久米の仙人みたいな仙人なのかも知れぬ。女の太ももを見て雲から転げ落ちたりの。大坪さんは小太り君だから隠者=仙人としたら布袋系だろうか。そういえばアゴひげも長い。

つまり、これから続けようとしている木本一之キラキラ星計画には、いきなり大坪仙人も加えたら千人力、イヤ、ただの三人力くらいにはなるのではなかろうか。

なかろうかも中廊下もありはしない。中廊下の平面はイカンと昔凡庸なる教師に教わった。でも今は何故か中廊下の暗さが懐かしい。

今は明るいアメリカ中西部風のカントリー風ハウスの家ばかりになってしまった。

アメリカ文明、文化の影響大である。

と、ここまでグデグデ書いていたら電話が鳴り我孫子の馬場昭道住職からであった。この人は僧侶だが全く後ずさりも斜視も無い人である。

奈良に居る息子の大道くんがわざわざ大阪まで出て、娘友美の映画を観てくれたそうだ。金子兜太さんの話しにひとしきり花が咲いた。

で、前の続きである。でももう続きにならんだろう。大坪さんの家は名を変えてモリスの家となり、北烏山にある。できれば中廊下の少しほんのりと暗い家が望ましいけれど、他人の家なんだから余計な注文はつけないのである。しかしながら大坪さんも、木本一之さんも、はてはて市根井さんまでもが独身男であるという奇はいかがなものであろうか。

大愚に非ず、大賢人三人組なのであろうか。戦後アメリカ文明型核家族像を拒否して止まず生きているのである。三人組には一人足りぬ。OK牧場の決闘は、こなたワイアット・アープ、ドック・ホリデイ以下四人組であった。

しかし、四人組はやはり江青・毛沢東夫人以来世に余りにも評判良ろしくない。 だから、一人引いてやはり三人組。

木本一之さんを一人押し上げるのではなく、大坪青色仙人を交えて明るく勝手に押し上げる努力は実に涙ぐましくって良ろしいのではあるまいか。

マア、今日は天皇誕生日である。天皇陛下も美智子姫殿下を嫁に迎え、核家族風も感じられる家庭生活をなさっている。

きたるべき天皇陵墓の問題で、天皇皇后同一墓の案も出されたが、賢明にも皇后はおそれ多いと断られ、隣に密着した双陵形式に落ちついたようである。

世田谷村日記 ある種族へR197

11時半近くの薬局へ行く。一昨日吉本医院で処方箋を書いてもらったのを渡し、数種類の薬を買う。戻り、世田谷村日記R196を送信。昼食をとり小休。13時

15分「飾りのついた家」組合日誌37を書き終え、送信する。

15時研究室。中国杭州のプロジェクト1/200の模型及び図面が出来ていてチェックする。2日で良く頑張ってくれた。ほぼわたくしの意図通りであり大修正は必要としなかった。中国の仕事にはスピードが必要である。何が起きてもビックリしない柔軟な対応も。

17時趙城埼氏来室。

模型を見て「早い!」と一言。 ディスカッションに入る。地下に想定されるようだの駐車場のスケールの与件をクリアーする様に依頼する。100m×50mの変形な土地での車の動線がテクニカルな問題として浮かび上がる。 2014年1月中旬に予定されている第1回のプレゼンテーションには基本的な設計思想の開陳が求められると指摘を受ける。来週にはその事前プレゼンテーションの大方を上海に送信する旨伝える。 どうやら本格的なプレゼンテーションをオーガナイズしなければならず、面白くなりそうだ。

19時打合わせ了。食事でもしようかと、久し振りにタイ料理と決め、新大久保のクンメー2に行く。4名での会食となった。

チリワイン2本空ける。メコンウィスキーもチビリ。21時過来年の上海での再開を約し別れる。新大久保駅プラットフォームで北園徹さんにバッタリ。材料研の輿石先生と打合わせをしてきたとの事。頑張っているようだ。おたがい、やりましょう。

22時世田谷村に戻る。

明けて12月22日、日曜日。一度7時過目覚めるも、再眠する。

又も9時半離床となった。朝寝は一度味をしめたら、コレワ極楽だな。メモを記し、杭州プロジェクトのエスキス、スケッチにとりかかる。

昨日の趙城埼氏とのやりとりで少しハッキリとした部分もあり、絵にしておくと決めた。来年一月のプレゼンテーションに向けての作業でもある。

12時15分一段落させて小休。

15時KCヒマールで向山さん大坪さんと会う。NPO法人の件他。16時長崎屋に移る。どうやら今日は大きな競馬レースがあったようだ。オバンがやはり大当たりらしい。

あんまりギャンブルに欲得が無いからこうなる。18時半世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR196

13時研究室。国書刊行会の永島さんと「異形の建築」の出版計画について話し合う。随分多くの資料を集められているのに感服する。

「異形の建築」原稿リストが作られていた。わたくしはまだ20代後半、毛綱は30代はじめの年代の原稿であるが、リストを眺めてみると随分多くを書きなぐっていたものだなあと驚く。新たに毛綱建築の仮空らしきの探訪記、および毛綱論を総計50枚程書くことになる。早死にしちまった毛綱の業績を振り返るばかりではなく、いささかの本格的な建築論を書いてみたい。

毛綱は今振り返れば取り巻きの、フワフワした編集者たちに妙に持ち上げられ、もてはやされて、それが彼をして大きな成果を結晶させなかった因なのではあるまいか。名を挙げるのにはばかるが、取り巻いて持ち上げるだけの資質しか持たぬ、編集者達であり、批評家達に彼は甘やかされてしまったキライがある。

14時修了。刊行は2014年秋になる模様だ。中国杭州の集合住宅の打合わせ。渡邊、佐藤が取り敢えず案をまとめたモノをたたく。今朝考えていた事をその成果にたたき込む。園庭と建築をつなぐアイデアがメインのものである。

明日、一度大方を中国側に示してみようと思うが、どうか?

木本一之さん昨日に続き来室。昨夜来の木本、市根井をキラキラ星にする計画を実施に移す旨伝える。

本気ですよわたくし。

「亡くなったポチの家」のデザインをすぐに実施することを決めた。

犬と猫のメモリアルハウスである。

15時半研究室発、16時半千歳烏山駅改札口で北烏山モリスの家の大坪さんに会い、林のり子さんより送っていただいた唐桑の新パッケージを渡し、5点を先ず売ってくれるように依頼する。

長崎屋で林のり子著『パテ屋の店先から−かつおは皮がおいしい』新装増補版、発行:アノニマスタジオ、1700円を読みふける。

19時世田谷村に戻る。

「飾りのついた家」組合日誌36を書く。

それで、読者の皆さんの中に愛犬の健康、愛猫の長生を祈りなおかつ、もし亡くなってしまったらそれを惜しむ気持のある、実に善良なる人間がおられたら、組合に御一報下さい。すぐにお護りとメモリアルハウスの案内を差し上げます。

明けて12月21日、なんと9時半離床。陽はすでに南天の中空に。空は澄んだ青だが、深さにかける。昨日東京はみぞれ、初雪だったようで空気中のゴミを流したのだろう。しかし、この頃の朝方近くになって深い眠りに落ちるという習慣は……マアいいか年も年だし自然にやろう。

特に土曜日と日曜日にその傾向が著しいというのは、我ながら小市民的であるな。まだ世間体にはばかっているのだろう。

最近、4作品程若い建築家達の作品をXゼミナールで批評する機会を得た。と言っても石山研OBの作品と、難波研OBの作品が対象であった。

良い作品と雑木はほぼ半々であった。

いささかフラストレイションがたまったのである。

そこで日建設計・山梨さん、隈研吾さんの作品の批評をしたくなった。

今、準備中である。

そこに国書刊行会より毛綱作品に関する小論を書けとの有難いオーダーがあり、3つの大型のモノと取り組むことになり、正月は楽しめそうである。

その楽しみの前にアト2つ若い作家の作品評をこなすわけだが、今、その資料を眺めながら憮然としている。

特に難波研OBのNくんのモノは、実に何も書きたいものが無いのである。

若いと言っても、もう大人なのだから失礼があってはならぬが、もう辛抱は限界だと自分に言いきかせている。要するに志が低過ぎてモノ言う気持になれぬのである。

石山研OBの北園徹、高木正三郎の両建築家は、はばかりながらわたくしが心血を注いで育てた人材であり、未熟ではあっても、又、まだ良い仕事に巡り合っていなくとも、機会があれば躍り出てくるであろう事は確信している。

石山研OBは優秀な者は皆独立して苦労してやっている。わたくしの研究室に院生としてきて、更にスタッフとして居残り、学生時代を含めれば彼等は皆10年弱くらいはキタエている。

だから実人生に於いても、多少のことではヘコたれぬようになってる筈だ。

それが建築を作り続ける気構えとなり、それぞれの未熟ではあるが作品となって現れている。

N君のからはそんな匂いが一切感じられぬ、この人間は要するにまだ充分にキタエられていないのだ。

石山研OBにも若くしてジャーナリズムをにぎわせていた、あるいはいる者は幾たりも居る。でもそんな水準の人間をXゼミナールの批評の対象には出来ない。自分で自分をおとしめるわけにはゆかぬ。

昨日安藤忠雄さんがNYより手紙をくれた。1976年に初めて彼の住吉の長屋を視て、正直コレはいいなと思った。自分とはスタイルは違うけれども人間として本格的であった。その印象を批評として渡辺豊和の私誌「建築美」に建築三義人だったかの芝居仕立ての脚本として書いた。

安藤忠雄、石井和紘、渡辺豊和がそれぞれ本義、多義、異議として登場する他愛のないものであった。

だが批評は批評である。

書いて私家本とは言え文字にはした。

何年か前に安藤忠雄さんから、ポイとこの脚本を渡された。

批評はコレでエエノヤといきなり言われた。

今は石井和紘、渡辺豊和両氏、つまり多義、異議の双方共に建築表現の前線に姿はない。かく言うわたくしもコンピューターサイトで変形な頑張り方をしているだけで、愚かなる建築界みたいなモノからはオサラバを決め込んでいる。

安藤忠雄の一人勝ち、仁王立ちなのである。

それで安藤忠雄は、石山ハン、お前の書いた通りになったなと、わたくしにそのシナリオをポイと渡したのであった。これには流石にギクリとした。40年程の昔のモノを決して忘れていないのだから。

安藤忠雄の手紙は、来年3月末のわたくしの早稲田おさらばの会への出席を告げるものであったけれど、ボストン郊外のウィリアムズ・タウンでの仕事について、そして、建築三義人の脚本について、アレは面白かったと書いてあった。

40年前の戯れ文である。しかし、批評は批評なのである。

Xゼミナールの批評文だって必ずそんな風に何らかの形で残るのである。

まことに建築は長い長い時間を要すし、人生にそれ相応の時間を費させるモノである。

しかし、安藤忠雄があのシナリオの最終部をまだ憶えているとすれば、まだまだ安藤忠雄の絶頂期は続くであろう。

でも油断大敵ではある。

要するにN君の作品批評をしなければならぬわたくしだってそれ位の野戦はかいくぐってきている。

だから、こんな雑木彫れるかと思わざるを得ない。でも書くには書く。

雑木の観方とでも言うべきを書く。

世田谷村日記 ある種族へR195

12月19日10時世田谷村発。花小金井へ。京王線、山手線、西武新宿線を乗り継ぐ間に、組合作品録13番三球四脚のデザインに手を加えるWORKをやり続ける。又、12番は売却済となっているが、同類の在庫品があるので、これにも手を入れることとした。1時間程の電車内の小旅であるが、何とか目的を果す。何故か集中できるのである。

11時過吉元医院着。大変な混みようで待ち合い室で再びスケッチ。家具のデザインは面白いが難しい。

11時半吉元若先生の検診。血を抜かれる。数値は何変りない。12時吉元老先生に御あいさつをして発つ。12時半高田馬場にて、昼食をコンビニで買い求め13時研究室。木本一之さんと描いたばかりのスケッチやらで打合わせを始める。

1.犬のお守り容器のデザイン

2.組合作品録13番の家具(椅子)に光背をつける

の打合わせを続ける。2は壁に現寸図を描いて木本さん奮闘する。

14時半、有泉さん来室。絶版書房・アニミズム紀行8の表紙のデータ渡し、他打合わせ。

16時過中国上海より趙城埼さん来室。杭州のプロジェクト依頼され、受けることとする。クライアントは面白い考えの持主のようである。ブッディストのようだ。

明後日迄に契約の事等更につめることとする。

17時過了。再び木本さん、スタッフと雑談、打合わせ続行。

18時久し振りにワインを皆で少しやる。少しが進んでウィスキーもやる。

19時半これも又、久し振りに新宿南口・味王で木本さんと会食。

木本一之を遅まきながらスターにする計画にうつつを抜かす。

味王の娘達はそれぞれヨーロッパやらに留学していると言う。台湾料理屋はもうかるのだなあ。

23時世田谷村に戻る。

明けて12月20日、寝過ごして9時離床。曇天青空無し。雨は上がった。

最近は明方になり、ようやく眠りが深くなるイヤな習慣がついてしまった。

すぐにアニミズム紀行の最終ゲラ、お足のプレスリーの旅の漫画にキャプションをぶちまける。短いけれど楽しい時間となりました。

10時15分終了。ようやくお足のプレスリーの旅も役に立ったのでした。

朝食をとる。

中国のプロジェクトのエスキス、スケッチを少し計りはじめる。

世田谷村日記 ある種族へR194

12月18日10時半世田谷村発研究室へ。京王線、地下鉄副都心線車中でアニミズム紀行8の石山作漫画「おあしの旅」60コマのレイアウト作業を続ける。京王線車内ほぼ20分、地下鉄車中10分程は時間が切れるので異常な位に集中できるのだ。でもFinish出来ず。研究室に持ち込んでしまう。13時20分了。注釈は佐藤研吾担当なので、「おあしの旅」の60コマ漫画も最終的なレイアウトは彼の担当となる。マア脳をフル稼働させるのも良いのではなかろうか。

13時半、中国杭州の集合住宅の打合わせ。中国のディベロッパーの求めているモノ、及び富裕層の趣向について若いスタッフに説明する。一日でラフな案が出てきてはいるが、まるでダメ。やっぱり中国社会の、市場の大きな傾向を知らぬとまちがいを犯す。ここ30年程の中国の人々との附合いが役に立つなようやく。建築はやはり経験の産物でもある。

明日、夕方上海よりクライアントが来室するので、それ迄に第一段階の対応は決めたい。大枠は一日で決められるだろう。

来春発足させる予定のNPO法人「世田谷式生活・学校」の概要、都に提出する書式が上がってきたのでチェック。海外との交流、いささかの設計機能を含めようとなる。

打ち合せが終わり、いきなり三球四脚の在庫品のRedesignを思い立つ。

明日、木本一之さんが来室するので、その際に附属部分を発注したいと考えての事である。

椅子のデザイン、製作は全てが手のひらの中に納め、知り尽くさねばならぬところが面白い。

最新の「アニミズム紀行8」と同じだな。ようやくにして全ての一冊をやっとこ把握できるようになった。

地球の自転により、明けて12月19日7時40分離床。昨夜はもう何回目になろうか堀田善衛の『方丈記私記』を読んだ。何故、自然に手が出るのかと考えれば、やはり今の時代が鴨長明が生きた時代に良く似ているからだと思わざるを得ない。餓死者が京だけで6万人を超えるといった事はないけれど、まだ京の都の人口が30万程度の時代にですから、これは凄惨であったろう。堀田さんによれば、この惨状は皆天皇及びその取り巻きによる政治の人為によるものだと断定されている。宮中にも死臭、腐臭が漂ったであろうとされ、その中で下級官僚の定家をはじめとする天皇とその取り巻き連中は歌づくり、けまり等にふけり続けた。それによって堀田さんによればアルチュール・ランボーの詩に同等する詩歌が生まれたが取り巻き達も庶民もその実生活は悲惨であった。

その悲惨さの宙空に夢の浮橋を架けたのであったと言う。成程ね。

今の大量消費社会の現実と何変わりがあるか?

今の時代も又、地震多発、天候異変多く、人心は倦み、明日への希望らしきも視えずで、巨大なゴミ焼却炉が無ければ、そして列島の海岸沿いに要塞状に布置された原子炉にひとたび不都合が起きれば巷間にたちまちゴミ溢れ返り、カラス群れ飛ぶ麦畑ならぬ一瞬の地獄になるのであって、実にギリギリのところで踏みとどまっているに過ぎぬ。薄皮一枚はげば、現代都市社会はまさに地獄なのである。

そんな事を想わせる『方丈記私記』である。

ところで、堀田善衛の『方丈記私記』はいずれボロボロになる迄、ほとんど暗記する位まで読み継ぐであろうが、この日記に無礼にも堀田さんなどと気易く書いて気がついた。

昔々、長谷川一夫主演のTV時代劇「赤穂浪士」があって、わたくしのみならず満天の庶民を湧かせた。多くあった銭湯が空になったと言われた。

その中に宇野重吉演じた蜘蛛の陣十郎だったかの人物が登場し、名は知らぬ林与一演ずる剣客とのからみがあった。

林与一は美空ひばりとの仲を噂された色男であった。

宇野重吉は剣客といっても浪人にいつもボソリと語りかけた。「ホッタさん」と。

あの脚本家は誰だか忘れたが、アノ「ホッタさん」は堀田善衛であったのではないか。脚本家は当時の日本も又、元禄時代のそれでも際限のあった消費社会の空疎を感じていてあの怪人蜘蛛の陣十郎をして登場せしめ、そ奴に「ホッタさん」とつぶやかせたのではないかと、今気付いた。

そうに違いない。蜘蛛の陣十郎は怪盗であり、ホッタさんは成すすべもなきこれは浪人であった。今で言えば派遣社員みたいな者である。陣十郎は、まあワケ知りのジャーナリストか?

ところで宇野さんと、又、気易くさんづけで呼ぶ。重吉さんによる発音は「ホッタさん」ではなくって「ホッタシャン」に聴こえたな。

その息子は小洒落た、それでもいい役者の寺尾聰だ。何していいか解らぬまんまの役者で、でもその哀愁らしきが取得であった。ジュディ・オングという華やかさまみれの女と結婚した。上手くいく筈ないねと思っていたら案の定別れた。

下らん、実に下らんが、わたくしも実に良く憶えているものである。

「ホッタシャン」からの連想である。忠臣蔵に関しては小林秀雄も書いていて解りやすい。

ようやくにして一巡した堀田善衛から小林秀雄までグルリと廻った。

良い文学者がいて読者としては不幸中の幸いと言うしかない。

今日は間もなく世田谷村を発ち花小金井の吉本医院へ。それから夕刻までビッシリスケジュールがつまっている。ギスギスしないで重吉さんの科白廻しのように一拍遅れの間の取り方でゆうーっくりこなしたい。

世田谷村日記 ある種族へR193

12月17日11時研究室。中国杭州の集合住宅の件。世田谷区保育園、川崎保育園、烏山神社いきもの稲荷社、それぞれの打合わせ。

いきもの稲荷社は「飾りのついた家」組合での仕事ともする事にした。

市根井さんに会議中に連絡して、今朝のスケッチへの御礼を述べる。

14時広島の木本一之さん来室。いきもの稲荷社のイメージを語り合う。

市根井さんには猫のお守り、木本さんには犬のお守りを担当していただく事にする。

15時過、木本一之さんを研究室に残し去る。木工大工と金属工芸(鋳造)は全く気質が異なるなあ。

明けて12月18日8時離床。メモを記し、今日の打合わせの為の準備を少し計り。年末から年明けは大変忙しくなりそうだ。中国の正月は日本の正月とは1ヶ月以上ズレているし、インドには正月休みらしきは無い。

猪瀬都知事はやはり徳洲会からの金銭授受の問題で百条委員会の開催を待つ事になるようである。石原慎太郎前都知事の強い推挙はあったものの、政党からの支持が、あるいは基盤が無い政治家の弱さを露呈してしまった。

アニミズム紀行8、絶版書房発行のゲラ、主に注釈をチェックする。

良く出来ているが写真事例が凡庸かな。又、おあしのプレスリーの漫画の組み込み方を工夫する。来年1月には刊行できるだろう。

8号にしてようやく満足のゆくモノに仕上がりそうで良かった。

世田谷村日記 ある種族へR192

12月16日、正午K.C.ヒマールで向山一夫さんと会い打合わせ。研究室に打合わせの結果を連絡しつつ、依頼事をする。あと10年もしたらこんなスタイルでの仕事振りになるのであろうから、その予行演習みたいなものである。

夕方世田谷村に戻り、「ドリトル先生動物病院倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ」を書き継ぐ。アッチに飛びコッチに戻るの書き振りだけれど、これが今の実力だ。仕方無かろう。

寒いので早目にフトンにもぐり込む。

チビ猫がデカ猫に追いまくられて寝床にもぐり込んでくる。じっとしていりゃあいいものをすぐにノコノコ出て行って、又追いかけられてもぐり込むの繰り返しである。

しかし以前、磯崎アトリエの網谷さんのところからいただいてきた金眼、銀眼の白猫、ニコライであったかは、彼も良くわたくしの寝床にもぐり込んでくる奴であったが、死んでしまった。ある日居なくなって三軒先の家の植込みで死んだ。

そんな事を憶い出していると、あんまりわたくしみたいな者に懐く様な猫はもしや短命なのではないかと不安になったりする。あと10年位は生きていて欲しい。

俺より長生きするやも知れんなあ。

ベロベロになった山田脩二さんから電話をもらう。恐らく何を言っているのか御本人も知らぬのではないか。わたくしも何を聞いているのか全くわからぬ長電話であった。

「宮脇愛子さんの、てーんらーんかーい、行ったーーぞ」

「磯崎さんの展覧会行った?」

「俺は義理固いんだア、アッチは行ってない」

何のこっちゃ。

明けて12月17日、8時離床。市根井立志さんより、昨日佐藤研吾を介して依頼した「正一位いきもの稲荷社」の本尊と社のアイデアが今朝届いている。仲々のアイデアでビックリする。面白い仕事なので他人に任せずに自分でやろうかとも考えていたが、出鼻をくじかれてしまった。

しかし、良いアイデアなのでこれをベースに少し蛇足を加えるしかないかと悄然とする。

こんな事が繰り返されると、どんどん若い人に追い抜かれてゆくのだろうなあと思う。けれど大工さんのアイデアは実にプラクティカルで切れ味が良いのだ。

でもこの本尊はすぐに盗まれるなあ。しっかりとした社(やしろ)は盗難防止にとしても作らなくてはならない。

社は要するに容れ物=倉庫だからなあ。大工さんに本尊のデザインをとられて思わず、久し振りの一句。

「いちねいに 本尊とられて やることなし」

ひでえ句である。

10時研究室へ発つ。

世田谷村日記 ある種族へR191

12月15日9時半離床。今日は日曜日である。快晴。ちぎれ雲も無い。東京新聞一面トップに「ドナルド・キーンの下町日記」があり、日系二世達の沖縄戦のそれぞれが描かれている。又、他面にも大きくその日系二世達の沖縄戦の史実が語られていて興味深い。わたくしは小学生の頃今想えば恐らく共産党系の教師にすすめられて、クラス全員が沖縄の小学校へ手紙を書かせられた記憶がある。返信は無かった。この青白き教師は社会を主に担当していた。進歩的だったのだろうが、悪ガキであったわたくしは良くなぐられた。イヤな記憶しかない。ドナルド・キーンの書くものには一人一人の日系二世兵つまりは米軍の一員として日本と戦わねばならなかった兵隊への、少しの時間は経って良い記憶だけが残っていようが、それでも独特の愛情がある。この人は恐らく米兵の一員として沖縄に上陸し通訳士官として沖縄の人々を尋問したりを続けたのだろうが、同僚でもあった日系二世兵や沖縄人を感情にまかせてなぐったりはしなかったにちがいない。そんな妙な確信が文体そのものからしみ出してくるのである。今から60年程も昔のことではあるが小学生の頃わたくしを良くなぐった教師はほぼ2人いた。暗い理屈の多いイヤな奴であった。

わたくしもイヤな悪ガキだと彼等の眼に写っていたのであろうが、それにしてもイヤな教師であった。わたくしの沖縄への偏好とも言うべきは、あの返信が無かった膨大な手紙の数々の記憶と、妙な理屈をつけてその手紙を書かせた教師の決して軽くはない(今でも覚えているのだから)憎悪があるのだろうと思う。ドナルド・キーンの記事はそんな事まで思い起こさせてくれた。

明けて12月16日8時離床。ドリトル先生動物病院倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ、つまらぬ世界の章、Ⅵを書き始める。

烏山神社境内に「正一位いきもの稲荷社」を作れそうになってきたので、話しは北京のMr. Kの毛沢東像からグラリ急転することになった。

これまでのお話の経過を振り返るために自分のサイトをのぞき返す。

Dr. Dolittle Zoo Hospital Clubの動画シリーズをのぞいて、マア我ながら妙なこと良くやっているなと驚く。この今は徒労に終わるかと思われる大きな妙な努力に少しは陽の目を見せるためにも、お話しの続きを書かねばならない。

今日も晴れて雲ひとつ無い。陽光が一杯射し込んでくる。

世田谷村日記 ある種族へR190

12月14日10時半頃世田谷村発。京王線、地下鉄銀座線を乗り継ぎ外苑前下車。ときの忘れものギャラリーへ。宮脇愛子展を見る。

充実した展覧会で作品は最新作ドローイング、旧作の小彫刻を含めほとんどを売り切っていた。「飾りのついた家」組合で町のギャラリーまがいをウェブサイト上でやり始めているので、このほとんど完売状態がどれ程凄い事なのかは知るのである。

良かった良かったとつぶやきながら青山通りを歩いていたら、奈義町現代美術館の副館長・岸本和明さんに声を掛けられた。やはりこれから宮脇愛子展を見にゆくのだと言う。

愛子さんには今、いい風が吹いているなあと思った。

しかし、町のコンクリート道を歩くのは疲れるものだ。地下鉄の出口で一度よろめいてああ土の道を歩きたいと思ったり。

富士ヶ嶺に作業所を構えたら思い切り草や土の上を長グツ泥まみれで歩けるぞ。

長生き出来ないよコンクリート道を歩いていたら。

13時半世田谷村に戻りひと休みする。

15時、長崎屋へ。隣りの向山一夫さん、北烏山の大坪さん、スタッフの佐藤研吾とNPO設立の件で打合わせ始める。

17時、志村喜久男さん来る。世田谷区の保育園の件、5丁目通り抜け署名の件他相談。

思いもかけず烏山神社の志村稲荷の脇に生き物神社作っていいよとなる。

絵言葉08としてサイトで連載し、ほぼ中断していた「正一位いきもの稲荷」物語りを再展開できそうである。これも又絵空事ではない。

「飾りのついた家」組合作品録15、16、18烏絵馬シリーズはすでに完売したが、次の展開が必要になる。15、16、18を今お持ちの方々も期待していただきたい。

志村さんと別れ、大坪、向山、佐藤、石山でK.C.ヒマールへ。ワイワイガヤガヤする。K.C.ヒマールでの催事も持続したい。21時世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR189

12月14日8時離床。昨夜友人と別れるに際して「良いお年を」と別れたが、そうか今年も暮れるのかを実感したのを思い出している。青空広がり陽光溢れる。昨夜は寝床で何故磯崎新展が時代とズレていると感じたのかを考えようとしたのだが、そう簡単に結論など得られよう筈もない。

しかし、言える事は昨日のようなNTTによるICCギャラリーの磯崎新展に集る如くの人々の場にあんまり、それこそリアリティーが感じられぬという事ではないか。勿論それはわたくし自身の問題でもある。わたくしがあのような場そのものに強く違和感を覚えているという事だ。リアリティーというのは的を得ていない。これも親近感と言うに過ぎぬ。要するに自他の距離感である。

身体は少し計りかったるいけれど、今日は午前中に宮脇愛子さんの展覧会に出掛けようと決心する。

消えた二川幸夫の言では「磯崎は社交家だが、愛子は実ワ社交家じゃないぜ」を憶えている。宮脇愛子さんは山口勝弘先生同様に病にたおれた。

半身不随でありながら強い意志で復命され、右手一本で絵を描き続けている山口勝弘先生の姿に接し、わたくしは本当に畏敬の念を覚えた。

芸術家の正体視たりと実に感動したのである。先生のそれからの絵は何点もいただいて手許にある。それがいか程の価値があるものなのかはわたくしにはどうでも良い。これも又自他の問題である。山口勝弘の芸術家=表現者としての生命力に感動したのであって、絵なんてものは芸術家の目的ではなくって、その生命力の尊厳、アニマの副産物に過ぎぬ。人間は他の人間の生命力そのものの切断面(表現)に触れて、自分の生命を少し計り手許に実感する他愛無い、しかし愛すべき存在なのである。どうせ人間は皆死ぬからな。刻々の時をキチンと感じ入って生きるしかないのである。ここでエヘンと咳払いしたい。

宮脇愛子さんは山口勝弘と比べれば同様に病を得て半身不随となり、画筆を断っていた。ここがわたくしの馬鹿なところで、自分のことはさて置いて、だらしネェーなと心底思ってしまったのだった。だって同じ介護施設に居るのだからどうしても比較せざるを得ない。これも又遠く自他の問題である。

グデグデしていた宮脇愛子さんがどうやら何かを振っ切ったようでドローイングを再開したらしい。

だから、これは本当かねと見に行きたいのである。

小さなギャラリーでひっそりとやっているのも好ましい。

本物の芸術家は自己露出を恥じ入る者でもある。つまり社交家らしきではあり得ない本体の持主の筈だ。

マ、今日は午後いささかの人々と会う必要に迫られているけれど、だから朝は休みたいのだが、ダラシがネェなと思い上がった自分をたしなめるためにもイヤな都心に足を運ぼう。

世田谷村日記 ある種族へR188

12月13日、12時過研究室。富士山麓・富士ヶ嶺造園に連絡。渡辺社長と話す。

「あの大きな温室を他人ではなく、わたくしに貸してくれないか」

「中の苗床は残して良いのか?」

「いいよ。その方がいいんだ。中に木や草や花があった方がいい」

「それなら、いいよ。貸しますよ」

「ありがたい。じゃ幾らで借りるかはゆっくり話しましょう」

つまり、オヤジは今の温室内の苗木が可愛くてしょうがないのである。

これで昨日の一見空振りみたいな訪問が落着した。まだまだつめなくてはならぬ事は多いが、細い事共である。

これでわたくしは来年の春から世田谷村の仕事場と共に富士ヶ嶺の大温室内にもう一つ拠点を持つことになった。世田谷から1時間チョットの場所である。

又、昨日得たもう一つの上の土地と大きな住宅のオーナーに値段を打診してもらう事になった。これは上手くゆけば「飾りのついた家」組合のサイトに紹介して住宅付の土地として売りに出したい。

幾つかの雑用を処理し、又学生時代の友人から電話をもらったりしてから、15時製図室へ。学部3年生設計製図中間講評会に出席。少し計りのオフィスビルに関する自説を述べる。学生たちへと言うよりも先生方へ話したつもりである。

17時10分製図室を去り、地下鉄、京王線を乗り継ぎ初台のオペラシティ内NTTインターコミュニケーションセンター、ICCギャラリー/磯崎新都市ソラリス展へ。18時難波和彦さんに会う。グルリと展示を見て廻る。

磯崎新さん中国服を着てTVインタビューに対応していた。

お元気そうであったけれど、展示自体の気配、匂いは磯崎新らしいクリティカルで濃密なエロスは薄かった。

会期中に展示の姿がプロセスプランニングを下敷きにした理屈らしきで更新されるようだが、それもいささか古めかしく感じられるのであった。

磯崎新の展示会を古いなあと感じたのは初めての事で、いささかそう感じてしまった事自体に驚いたのである。この驚きはキチンと言葉にしておいた方が良さそうだ。

会場内でときの忘れものの綿貫さんに会い、具体派の上前さんの小作品を手渡す。

18時半レセプション始まり、磯崎新さんあいさつ。浅田彰さん他スピーチ。

もう帰りましょうと、磯崎新さんに今日はこれで失礼しますとごあいさつして、鈴木博之夫妻、難波和彦さんと会場を去る。下の日本ソバ屋でささやかなXゼミナールの会。鈴木夫人・杜幾子さんの言によれば例会を地味に行う。気楽な雑談である。来年1月10日6時半新年会を近江家で持つ事、安藤忠雄さんより3月中にわたくしの早稲田おさらばの祝いでメシの会を持つ事の提案があった事等の報告他を話し合って別れる。

初台より京王線で烏山21時過。同30分世田谷村帰着。帰りの夜はシンシンと寒い。

世田谷村日記 ある種族へR187

中央高速道を走り河口湖インターで降りる。快晴。富士山が頭から裾へ3分の1程雪をかぶり美しい。安西直紀、穴戸健男、佐藤研吾、各氏同道。

途中談合坂でコーヒーを飲み、11時半富士ヶ嶺農協脇の駐車場で富士ヶ嶺造園・渡辺社長と会う。安西直紀さんもわたくしも久し振りの再会である。

富士ヶ嶺造園の巨大な温室群を見学。少し上にあるもう一つの土地と一軒屋も見学。茨城の銀行マン所有との事。富士山が美しく間近である。

あいさつが目的なのですぐに別れ、

「オヤジさんお茶くらい飲ませてよ」

「お茶あるかな」

「じゃあミカン位たべさせてよ」

「ミカン、あるかな」

相変わらず不愛想な人だが、わたくしは好きである。長い付合いである。

上の聖徳寺へ登り、安西さんが観音堂を見たいと言うので案内する。富士山を背に記念撮影する。

樹海を抜けて戻る。和作にて遅い昼食。かぼちゃほうとうを食べる。

やっぱり、ここのかぼちゃほうとうはサービスエリアのレストランのモノより格段にうまい。

しかし安西直紀さんは近頃の高速道路のサービスエリアの超モダーンというべきか、の充実振りをしきりに語った。北海道食のフェアーとか様々な小催事が目まぐるしく開催されているのだと言う。東北を車で走り廻っての印象だなと知る。確かに中央高速のレストランでのパンの売り方にはわたくしもビックリした事があるのを思い出した。パンがカゴに乗せられジェットコースター状の大きな装置で運ばれてくるのである。

最近の中国人の日本の旅の仕方動向を安西さんより聞く。最初の旅は東京、第2の旅は富士で、これは富士急のジェットコースターが目当て。第3が金沢なんだそうだ。彼は中国人留学生との交流会を差配しているので具体的な耳学問だ。本を読んでの迂回はない。

16時世田谷村に戻る。穴戸さんと別れ、安西直紀さんと駅前のコーヒーショップへ。今日の富士ヶ嶺の旅の印象他を話し合う。

17時半頃了。解散。

夜、乱読に入る。最近の磯崎新建築論集を読んでの印象が大衆との乖離につきると考え始めているので何を読んでもその一点からの切断面からの乱読にならざるを得ない。これは乱読に非ざる乱読か?

知識人と大衆(民衆)の命題は近代に敷衍する古い問題だが、これは小林秀雄も古く文藝春秋の「文芸時評」に於いて「アシルと亀の子」と題して筆を振るった。アシルというのはギリシャ神話のアキレスである。勿論知識人を指す。そして亀の子は民衆(大衆)である。アキレスは速い。しかし亀の子を追い抜けぬを例えたタイトルであった。

つまり「様々な意匠」を身にまとった当代の知識人達は地をはう大衆を決して追い越せぬということか?

磯崎新は決して安藤忠雄を追い越し得ぬと例えれば、とても明解になるやも知れぬ。あるいは事はそんなに簡単ではないのかも知れぬ。安藤さんも可馬遼太郎の如くに大衆に忘れられるのは早いかも知れぬ。

一夜明けて12月13日、8時半富士ヶ嶺造園に電話するも誰も出ない。朝早くから温室に出て働いているのだろう。

昨日安西直紀さんより貰った6年前の富士ヶ嶺造園での写真に見入る。

6年前は安西くん達は若かった。わたくしと富士ヶ嶺のオヤジはすでに老けていた。わたくしは若い時から老け気味であった。

温室群は変わりなく在った。しかし若い人間の老いも実に速い。

安西直紀さんもすでに老け始めているのを知るのである。

人生は一瞬の中に在るな。

世田谷村日記 ある種族へR186

12時前、田園調布パテ屋の林のり子さんと電話で話す。

林さんは東北唐桑半島の食のプロモーションを一生懸命やっている。

唐桑にノルマンディー料理を起こしたいと言われてビックラしてしまう。

林さんそれは被災地で夢見る少女ではありませんかと言ったら、更に冬はレバノン料理で夏がノルマンディー料理なんだと馬耳東風であった。

女性は唐桑だけでなく田園調布も強いのである。

すだれ発電のディーラー網の構想を練る。

時間にすき間があったので「飾りのついた家」組合日誌35を書く。広島山中の木本一之さんと、市根井立志さんへの私信のスタイルになった。

街はいささか寒く、何故か急に体力を消耗した。世田谷村に夕刻戻りベッドにもぐり込む。

研究室から通信あり、上海の仕事の件が進んでいる。又、世田谷区の保育園の件も少し前進した。

明日は朝から安西直紀さん宍戸農園代表と富士ヶ嶺に出掛ける。車の中で色々と相談できそうだ。今日は早く寝てしまおう、と思えど最近熟睡する事が少ない。眠るのも体力だと思い知るが、意地でも眠るぞ!

明けて12月12日7時離床。青空ひろがり陽光も。すっかり雪をかぶった富士山も美しく見える。

今朝はあそこ迄行かねばならない。

隣りに3階建てのマンションが建ったので、3階に登らなくっては富士山が視えなくなった。夏の富士山はただの地ぶくれだが、やはり冬の雪をかぶった富士山は美しい。 富士ヶ嶺の渡辺さんに電話して11時に富士山麓農協から電話することになる。

9時には皆で世田谷を発てるだろう。

世田谷村日記 ある種族へR185

12月11日8時離床。一度6時に起きたが外はまだ暗く再び寝た。

雲は多いが陽光は射している。病院の検診をいささかすっぽかしているので不安になり、自分で血糖値計測を行ったら下がっていたのでホッとする。昔は冬の木がらしが好きであったが、今はとんでもない。早く春になって欲しいと思うだけだ。

広島県境近くの山中で金属造形にいそしむ木本一之さんより鉄製の、どうやら動物たちの仏壇の試作が映像で送られてきた。今、彼の工房は厳しい寒さの中にあるだろう。苦労がしのばれるが、市根井立志さんと共にわが組合のエースであるから頑張ってもらわなくては困るのである。「飾りのついた家」組合・作品リスト2「黒の貴婦人」の鉄の造型、ゆっくりとした曲面(凹み)の部分は恐らく、わたくしのリアスアーク美術館の正面の鉄板がボクーンと凹んだ部分の作り方と同様に熱して曲り始めた鉄板を冷やして得たものではないかと思われる。決してハンマーでたたいて得たものではない。このやり方に木本一之さんは熟達している筈である。しかし丸い球形状の仏壇はフラードームの構成方法のように幾何学の集積によって作られている。だからいささか固い感じがして生命力が感じられない。固い結晶体のような出来上がりになっている。この作品は動物達の仏壇というよりも何か大事なモノの宝物の容器に良いのではないか。

あるいはどうしても仏壇として使用してもらいたいのならば、重源の仏舎利のように純粋幾何学の集合の下に、生き物の足の如くの造型をつけ加えるべきではないか。

この先は「飾りのついた家」組合日誌に書く

世田谷村日記 ある種族へR184

「森の小屋計画」ドローイングについて、No.3の小エッセイを書き終え、送信後世田谷村を発つ。15時研究室、打合わせ、雑用。ポンピドゥーセンター、チェコの出版社他から連絡入っている。中国上海からの仕事依頼の打診もある。林のリ子さんに唐桑のレシピマップの出来が凄いねと連絡したり、その唐桑の世界への遠洋漁業者、つまり船員へのヒヤリングによるレシピマップの発行者である、唐桑の古い友人、GIGIのマスターに連絡したりで過す。世界のレシピマップは唐桑の女性達の仕事だと言う。

唐桑七福神の演者が皆女性達であるように、唐桑半島の女性達は皆強くたくましい。

そうだ、この唐桑の世界の料理のレシピマップ本他は是非とも我が「飾りのついた家」組合で売りたいと考え、早速実行に移すべく段取る。

18時半、烏山駅脇のコーヒーショップで大坪さんに会い、玉川まちづくりの会の生垣リサーチ他と協同の経を考えるように依頼する。又、唐桑本を早速販売してくれるように依頼。

大坪さんは毎日母親の食事他の世話をしなくてはならず大変なのであるが、無理を承知で依頼した。

19時過K.C.ヒマールで一人軽い食事。店員さんと話す。ネパールの政治状況は少し良くなったとの事である。20時世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR183

明けて12月10日9時離床。雨が煙っている。この感じなんだな重源の南大門を見上げた時の感じは。磯崎新も煙っているような架構の有様を述べていたように、わたくしも太古の森の空を見上げるように煙っているように感じた記憶があるのだ。

あの感じは重源の中のアニミズム、重源が当時まだ日本の森林の巨木に見ていたアニミズムに通じるものなのではないか。

中国の雲南地方シャングリラと呼ばれた地域に出掛けた時にほぼ日本の鎌倉期と覚しき民家に巨木が使用されているのを見た。当時中国にはまだ森林が豊かであったが、鎌倉期の大仏殿再建の日本には豊かな巨木が多く在った。

10時元社民党都議会議員より連絡あり、誓願書の件であった。今のところラン設計事務所、三菱、セコムと話合い中なので署名集めは続けるけれど誓願書を出すかどうかは解らないと応じさせていただいた。この件はすぐに向山一夫さん他に伝えたい。

世田谷村日記 ある種族へR182

12月9日、夕方富士河口湖町・富士ヶ嶺造園の社長と連絡が取れて、今週中に久し振りに会おうとなる。相変わらず「アイヨ」の応対で急に時間がスローになるようだ。段取りを済ませる。

夜、何故か磯崎新の論考が気になり、拾い読みにふける。彼は建築論集の中で時折生な肉声を響かせる。例えば、学生時代であろう奈良の日吉館に泊まっていて朝すぐ近くの東大寺南大門に通い、地面(土盛り)に転がされた転ばし根太に腰かけて、靄で煙るような南大門の、門とは言え壮大な架構を見上げた時の異様にも想える感興等は、これは自分を相対化することのない率直な実感の吐露であろう。わたくしは時々、旅に同行して磯崎がボーッと自然体でスケッチしたりの姿を間近に見ている。その感じの記憶には一切の自己相対化つまりは意識下に多くを置こうとする自己防御の気配は感じられなかった。

途中迄書いている作家論・磯崎新に描いたように、花札の坊主みたいにボーッとして際限が無い、とりとめの無い有体をさらしていた。

しかし、磯崎新の言説の大方はほぼ隅々まで意識下に置かれている。

そして、その大方はわたくしの心(気持)を打たぬのだ。

お前が阿呆だからだと言われれば、それは仕方ないのだが、意識下にコントロールされた批評的言語が全てが面白くない。つまり、朝早く南大門の転ばし根太にへたり込んで座り込み、あの南大門の空に駆け上る如きの架構を眺めあげている、呆けたような磯崎、これはフロイトならば無意識下の欲動が働いているのを指摘するだろう。つまり作家らしい作家としての磯崎である。重源の浄土寺浄土堂の中の光について述べているのや、粗い石の中世のフランス修道院ル・トロネの走る光を叙述したところ等は本当に凄い。

参ったなあ、これは作家の中の作家だなあと心底震えるようなところがある。

しかし、それは言説として連続していない。なぜならその部分は島の如くに詩になっているからだ。博識の積層からにじみ出るような多くの言説には全くそれが感じられぬ。せんじつめて言えば、つくばセンタービルの建築からは一切それが感得できないのである。アレは磯崎新の解説好みの概論家の手付きが露出している。そしてそれを当時の日本の建築界の上澄みらしきは知ることが無かった。つくばセンタービルは磯崎の重源論の詩に届いていないのである。建築論の中に詩が無意識の中に生み出される作家は、言説の中に建築を実現してしまうのか?重量のない言葉で建築を架構しているのであろうか。

ともあれ磯崎新の建築論集全体に流れる言説そのもの、と言うよりも言葉の響きの中に、時折フッと出現する詩の如き生身の肉声に関心を引かれている。

この人物は大建築家になっていなければ、画家やらになっていたのかも知れぬが、人物の頭脳の性能(機能)がそれをさせなかった。

わたくしが「作家論・磯崎新」と本能的に作家論と頭に附したのはこの辺りのことに触れたいと考えていたからなのだろう。妙な言い方に聞こえるやも知れぬが、無意識下にフッとなすことが大事な意味を持つことが人間が生きるに決定的な要になることがあるものだ。

世田谷村日記 ある種族へR181

12月8日、日曜日。雲は切れてはいるが青空はほんの少し顔を見せているだけ。厳しい寒さではない。昔、武者小路等の新しき村のあった手賀沼周辺の地域に真栄寺の馬場昭道住職が俳句の道を作りたいと言う。今朝は真栄寺に寄るので行きがてら土地の様子を見ておこうかと考えたり。

11時前には世田谷村を発つ。

11時前佐藤研吾来て、関越道を走り我孫子新木へ。途中遅い朝食、うどん喰べる。昼前なのに満員であった。13時真栄寺着。庫裏で金子兜太さんにお目にかかる。ひと仕事終えたので自作の句の書を書きますと言って下さった。94才、お元気である。「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」の句とするとの事。ベトナム五行山にピッタリであると申し上げた。兜太さんの菩提寺にもこの句があり、自分にとっても良い記念になるとおっしゃった。トラック島で鮫が海に一杯やってきて、それは死んだ兵隊を喰べる為だったと、ご自作の名句の解題をして下さった。短いがかけがえの無い時間であった。

13時半、金子兜太講演会始まる。いつも通り本堂は満員の人々で埋まった。

母上の話をなさった。満場笑いでさんざめく。

本堂にて被災地・陸前高田のお焼きが2つ入りパック300円で売られ大盛況。わたくし共も被災地・唐桑の「唐桑復幸タオル」を今日も世田谷三軒茶屋で売っている。一緒に頑張っている。忘れないで売り続けたい。金子兜太さんお帰りを見送り、我孫子市副市長の青木章さんと会談。我孫子市の諸課題の話を聞く。何かできると良いが。

16時半了。再び高速道路を走り東京へ。19時半世田谷村に帰る。長崎屋で夕食後、佐藤くんと別れ21時帰宅。寒くて少し疲れた。すぐに休む。

明けて12月9日、8時過離床。雲は切れているが高曇り。寒い。

メモを記す。今日は少しゆっくりしたいなあとつぶやいた途端に上祖師谷の宍戸園・宍戸健晃さんより電話入り、10時半に烏山駅前のコーヒーショップでお目にかかることになる。一昨日の講演会で初対面の方である。

10時半踏切横のコーヒーショップで宍戸さんに会う。色々と話が弾み12時40分迄。13時過K.C.ヒマールで向山一夫さんと会う。色々と相談。遅れて大坪さん来る。15時半了。先日の世田谷式生活・学校主催のライブの御礼をK.C.ヒマール店主に言われる。

久し振りに富士ケ嶺造園と連絡を試みる。

世田谷村日記 ある種族へR180

12月6日磯崎新さんと長電話していたら、13時中国CCTVディレクター、他インタヴュー。

いきなりTVカメラが持ち込まれた。わたくしの日本神話に対する興味はいかにから始まり、日本神話には関心がないが西遊記には関心があると返すなどスムースな応答は出来なかったが1時間半程をかける。何にどう使われるのかは一切解らないまんま。

15時半レンタカーで佐藤、山田両君と世田谷村へ。今晩彼等は三軒茶屋のキャロットタワーでの展示会への展示物の搬入作業を行う。

17時過世田谷村で三球四脚唐桑復興タオル等を車に積み込み彼等と別れる。

明けて12月7日8時離床。宮崎の藤野忠利さんより「アフリカの動物園」の箱航空便で届く。やはりなかなか美しいモノに仕上がっている。

流石画家ではある。展示会場にはわたくしが持ち込むことになる。

今朝は一転再び冬の青空が拡がる。

特定秘密保護法案が成立した。ベースに日米安保条約による日米軍事同盟の強化がある。明らかに軍事力が急速に増大して、アメリカの脅威になり始めている中国、そしてその中国と関係の深い北朝鮮の核問題、その危険に対する、アメリカの軍事的戦略がある。要するに日本の自衛隊と呼ばれる軍事力を日米軍事同盟の許にフレキシブルに強化したいという米国の思惑のままなのである。

安倍首相は祖父である岸信介のヒザで育った。わたくし同様ほぼ身体で戦争を知らぬ危うい世代でもある。だから軍事同盟をパワーゲームとして考えやすい。要するに亡くなったマンデラ元南ア大統領の如くの実人生の酷薄さを経ぬ、ある意味では凡庸な政治家である。凡庸さは今の日本の底流である。平板な民主主義の行き着く地平でもあろう。

究極の凡庸さは禅や仏教の指し示す処でもあろうが、今のわたくしを含めた日本人にはそんな精神(宗教心)の持ち合わせは一切無い。文化的にも占領下に在り続け、アメリカに従う事に条件反射の如くになっている。

わたくしはこの急いで作られた秘密保護法案の危険らしきを正直のところ実感として体感できていない。しかしこの新たに作られた法律が日米軍事同盟の強化の為のものである位は解る。

尖閣諸島、竹島を巡る領土問題は中国、韓国にとっては将来の海底資源の確保の問題でもあり、実は死活問題でもある。両国共に油が無ければ小さな極地的戦争も出来るくらいは良く知るであろう

要するにアメリカの軍事的機密機関がどれ程に中国、北朝鮮の軍事力、軍事動向を把握しているかに尽きるが、それは最高の機密水準にあるだろうから我々の知り得ぬところである。

北京のMr.Kは度々わたくしに、日本は中国が共産党と中国人民軍の両輪で動いている事に余りにも無知だと言い続けた。Mr.Kが人民軍をバックに力を得ている事の、それは言明であった。

北朝鮮の政変らしきも全て軍隊の掌握力に関わる問題である。

以上要するに、新機密保持法の枠組みは岸内閣の日米安保条約の締結まで歴史を遡行するのである。

更には太平洋間大戦争に於けるアメリカとの敗戦にまで歴史は遡行する。

尖閣諸島の領有権の問題。これは日本は戦略的に棚上げ、今は不問とするをできるだけ長期間に渡らせるしかないのではなかろうか。

さて、本日の小さな講演会のシノプシスは出来てはいるが、冒頭で何をどのように話すべきかを少し考えなくてはならない。

13時半世田谷村を発ち、京王線下高井戸を経て三軒茶屋へ。

キャロットタワー4F生活工房へ。室長鈴木律子さん等とあいさつ。

研究室の面々が「飾りのついた家」組合の作品群を陳列してくれている。なかなか見応えがある。隣りのブースが林のり子さんのパテ屋で、あいさつ。

時間通り15時講演を始める。2時間の長丁場であったが、手を抜かずに話す。前半は世田谷式生活・学校の活動小史とクリーンエネルギー普及活動を中心とする。後半は「飾りのついた家」組合の普及活動にこれつとめる。

終了後何人かの人達に声を掛けられあいさつ。又、新組合員の伊藤聡宏さんと顔を合わせる。彼の手作りベルトは実にユニークである。

長澤社長も山形から駆けつけてくれて、烏山のモリスの家チームと顔合わせ。さてどこかで会食でもと思っていたら、流石隣りの向山一夫さんが場所を手配済で居酒屋に繰り込む。長澤社長以下8名となる。

19時半終了。烏山組と世田谷線、京王線を乗り継いで帰る。

20時長崎屋にて向山、大坪さんと世田谷野球倶楽部監督等と。

21時過世田谷村に戻る。

明けて12月8日8時半過離床。メモを記す。今日は我孫子・真栄寺で金子兜太さんの話を聞き、お目にかかる予定になっている。

世田谷村日記 ある種族へR179

12月5日、11時北園徹さん、柳本康城さん研究室に来る。わたくしの研究室一期生である。北園さんは独立して東京で設計事務所自営。柳本さんは湘南で工務店社長そしてタイガースショップを営んでいる。

来年早稲田を去るが「これからのこと」について相談する。一期生は頼りになる。

研究室の面々と打合わせ。「飾りのついた家」組合藤野忠利さんの作品番号51「具体的な箱」買っていただいた様でホッとする。安い値付けをして売れなかったら具体派の老画家に失礼かと心配していた。しかしこれは安過ぎた。

15時三菱地所、セコム、ラン設計事務所の方々来室。南烏山5丁目の通り抜けの件で話し合い、少し問題解決の為に前向きな案も示されて決裂という事では無かった。双方で少しづつ妥協し合ってゆこうか?となる。言いたいことは山程あるがわたくしなりにガマンした。勿論当り前のことであるがね。

16時過了。

その後、対応策を考えペーパーを作る。

17時半烏山長崎屋にて北烏山の大坪さん、南烏山の向山さん、南烏山5丁目の石森彰さん集合する。石山より皆さんに今日のラン設計etcとの会合の経過報告。そしてこれからの方針を相談、確認。同時に署名の動きの続行を確認する。

19時了。世田谷村に戻る。

明けて12月6日7時離床。サイトをのぞいたら、「飾り付いた家」組合の作品リストが一気に64迄進んでいて、打ち合わせ通りではあったが驚く。

市根井立志さんの健闘と佐藤研吾の絵付けの妙も息が合って来たようだ。

市根井さんと電話で話したが現場で事故があり友人が傷ついたそうで生の身体を張る職人の刻苦勉励に身をつまされる。我々も彼の頑張りに報いたいものである。しかし、作品リストも61番迄進むと少し計りの積み重ねも眼に写るようになり、無駄をしてるかの気の弱い疑いが少しは晴れるのである。

今朝の空模様も少しは晴れているかの具合で、もしや空模様というのはそれぞれの人間の気持の模様も写っているのかといぶかしむ。

「飾りのついた家」組合の作品リストには、来年正月には我々の期待の星である「すだれ発電」をONしたいと考えている。

「すだれ発電」に関しては少し計り先行させて12月7日の生活工房主催・三軒茶屋・キャロットタワー4Fの石山の講演で一部を紹介したい。

今日は午後中国のCCTVがインタビューに来室する。あらかじめインタビューの項目が送られてきているが、日本人のそれとは異なりやはりスケールアウトしていて中国人だなあと考え込んだ。日本神話とわたくしの建築作品の関係はいかに?といった類の質問が連統している。

磯崎新がピックアップした、まさに強引に引きずりだしたレム・コールハース設計の北京のCCTVは予想に反してスケールが小さかった。

隣に建つハイライズビルから見降ろしたからかも知れぬ。

天壇のスケールに度肝を抜かれたからであるやも知れぬ。

ともあれオヤ小さいなと心底感じた。

日本の神話は心御柱を巡る国産みの神話に代表されるであろうがこの神話も西遊記の始まりに描かれている宇宙の混沌と釈迦の手のひらの5本の柱の寓話と比較するならば、いかにも小さいのである。清華大学でのわたくしのレクチャーに対して、何故イシヤマの建築は皆小さいのかの質問にたいする答えを今日は用意すべきか?

世田谷村日記 ある種族へR178

12月4日12時半7日の世田谷区での講演会のシノプシス案の作成終わり、研究室に送信。藤野忠利さん、綿貫不二夫さんと話したり、幾つかの指示と依頼。13時半長崎屋で大坪、向山両氏と会い雑談。夕刻世田谷村に自民党三井ゆり子区議会議員より連絡あり。

5丁目通り抜けの件。

24時又もや乱読にふけっていたが、気を取り直してメモを記している。

磯崎新の岩波・建築論集7、重源についての記述を読み直す。重源についてはわたくしも若い時から惹かれるモノがあり他人事ではなく読まざるを得ぬ。

昨日の日記R177に磯崎さんのエリート世界の限界みたいな事を記したけれど、本日長崎屋で雑談していると庶民の世界もどっぷりつかり過ぎると、これ又イヤ味な世界になるのも知るのであり、マア世の中は人それぞれに難しいな、一筋縄ではいかぬなと思う。

今は昔、二川幸夫さんからコテンコテンにやられて、この男無理を承知で無いものねだりを言いやがると、グーッとこらえていた事が何度もあった。今思い返すと実に良い事を言ってくれやがったなと痛感するが、時すでに遅しやも知れない。

二川幸夫さんが亡くなって、あんな人間は滅多に居るモンじゃないと、居なくなって知るのである。

長崎屋にいれば磯崎世界が懐かしく、磯崎世界に入り込めばこれはイヤなエリート世界であると思うのである。まことに愚かと言う他はない。

猫、チビとデカがそれぞれの場所にそれぞれの好きな様にしてやがる。

猫は恐らくこんな風な下らない自省などしないのであろう。まことにうらやましい。けれど猫の命は実に短いのである。これで寿命が長けりゃあ、余程人間より猫に生まれた方が良かったんではないか。

実に人間は自省等するから犬畜生にも劣るモノであるかも知れぬぞコレワと、深夜こんなこと記しているのは仲々に辛いものだ。

明けて12月5日7時半離床、晴れ青空ひろがる。青空はヒマラヤまで続く。新聞には小さくネパール議会の様子が出ている。ネパール議会は穏健派のネパール会議派が第一党となり、ネパール共産党UMLが第二党。両党はネパール共産党毛派に対抗する勢力として連携してきたと言う。毛派は第三党に転落した。憲法の制定ができず政治の混乱を招いたことが国民が支持しなかった大きな理由かと見られる。中国、特に漢民族のモノの考え方とネパールの人々(仏教徒、ヒンドゥー教徒)のモノの考え方は違う。漢民族がチベットを占領してダライ・ラマをインドに追放したようにネパールを制することは不可能であろう。ラダックに居た時にアルチ村近くのインダス河のダムを見た。この水力発電が広い地域の電力をになうと知った。

ネパールに最後に出掛けキルティプールでカンボジア、プノンペンとまたがる大がかりなワークショップをした時はキルティプールの丘は毛派のスローガンで溢れていた。カトマンドゥ盆地は戦車や機銃による毛派の軍事力で制圧されていた。昔の貧しいけれど親和的で平和な風はすでに無かった。王宮エリアは兵が立ち外国人に観光税を払えと高圧的だった。カトマンドゥから外国人は去った。ジュニーもタイへ自由を求めて退去した。彼はタカリ族の長の血をひく。先日世田谷烏山のKCヒマールでライブをしつらえ、小さな展示会を持った。けれどもネパールの政情をほとんど知る事はない。こんな新聞の小さな記事からしか知ることが出来ぬ。KCヒマールのネパールの人々の立場だって詳しくは知らない。ネパールは今、我々が想像もつかぬ位の閉鎖社会になっている。中国とインドというアジアの二大勢力に挟まれて双方から政治的テンションが強くかけられているのだろう。

インドのラダックに出掛け山々と人々の生活に久し振りに触れることができた。

巨大で遠いヒマラヤの山々と共に暮らす、仏教徒の国である。インドの若者のバイクツアーの姿も多かった。インドの民も巡礼ならぬオートバイツアーをするのかと眼を見張った。

ネパールの人々の普段の生活はどうなっているのか、知りたくとも知ることができない。

又、寺院や寺々には小型のソーラーバッテリーが多く見られた。ヒマラヤ地方には小型ソーラーは必需品だなとも考えた。我々のすだれ発電は実にアジア的産物であると実感している。とりとめのないことを記しているが、書いているとキルティプールやアルチ村のこと等強く思い出されてくる。

2月のインド行、アーメダバードとチャンディーガルの講演には是非共すだれソーラーのヴィジョンを持って行きたい。

今朝は11時に北園、柳本両君、石山研第一期生が研究室に来る。彼等にもすだれ電力の話しは是非とも伝えたい。

世田谷村日記 ある種族へR177

12月3日、署名集めに何ヶ所か廻った後11時半研究室。打合わせ。ラン設計事務所より連絡入る。勿論南烏山5丁目の生活道路封鎖の件である。明後日12月5日15時に来室するとの事。キチンと話し合いたいが、署名運動は継続する。公明党杉田光信区会議員より連絡入る。今日会えないかとの事。15時に長崎屋でお目にかかる事とする。ほんの少し時間があったので「藤野忠利さんの飾りのついた箱2点について何故10万円と2万2千円という値付けにしたか。 2013/12/03」を書く。すぐにサイトにONされる

15時に烏山長崎屋にて杉田議員と会い5丁目通り抜け道路の件で打合わせ。色々と知恵を授かる。

17時半了。世田谷村に戻る。元共産党議員であった笹尾さんより連絡あり、これも通り抜け道路に関して。世田谷区役所烏山総合支所に連絡したとの事だが、それ位の事ではどうにもならんでしょうと生意気を申し上げる。共産党は住民対応がキメ細いが負けグセがついているところが難アリだなあ。しかし、この問題に関しては党派に自在に対応したい。

地元の生活道路封鎖問題に対応していると、『磯崎新 建築論集7』には仲々手が出ない。磯崎新さんの論考はやっぱり一部エリートの世界に属するものだと考えてしまう。これは勿論俗論だけれど現代建築が抱え込む最大級の問題である。

世田谷村から京王線千歳烏山駅迄のわたくしの日常生活道路を封鎖される現実の中では鎌倉期の異形の建築である重源という問題構成の世界はまことに夢うつつの世界である。

明けて12月4日7時半離床。晴れている。寒い。ウェブサイトをのぞく。

サーバーが新しい世田谷村netと古い早稲田大学のものと2つ併存しているのが今の現実だ。いずれ全て世田谷村netに統一する。最近サーバーの切換えが混乱を招きわたくし共のサイトがのぞき難くなっていた。それ故読者数も減少していたが、少しは読み易くなるのではないか。

いずれ英文サイトを開くけれど「飾りのついた家」組合をHouse Decorating Guildの訳は良くない、もう少し工夫して欲しい。

例えば一気にRebirth-Mandara Guildとか。日本語の直訳でない方が良いだろう。

9時過お隣りの向山さん等10名程の南 烏山5丁目通り抜けのNET、Key stationの方々に連絡を済ませる。昨日の出来事他の報告。

世田谷村日記 ある種族へR176

12月3日7時離床。快晴、だいたいは冬は大方快晴の天気だな太平洋海岸は。快晴と書く自分の馬鹿らしさに照れている。ところで、昨日は11時過に研究室でNPO法人設立、「飾りのついた家」組合設立に関しての打合わせ。

スタッフとの年齢差が40才になんなんとしていて、やはりギャップがある。それで少しだけ若い60才くらいの人間も交えて動きたいと言う事だなコレワ。

終了後烏山地区で署名集め。長崎屋だけで15名の署名を得た。

自分で歩き廻るという愚は犯さない。ジイッとしているとあちらからやって来てくれる。

石森さんも15名程得たようだ。

今朝は9時迄いくつかの連絡と隣家の向山さん、石森さん他に会って署名の回収をする予定。

佐賀県の兵庫北土地区画整理組合より通信来ていて、土地区画整理はほぼ出来たとの事。色んな提案をしたけれど結局何も実らなかったなあ。

日本の土地区画整理の現実は思い知ったけれども。

サイトをのぞいた。「飾りのついた家」組合の作品一覧が更新されている。

具体派最年少と言っても74才の画家藤野忠利さんの箱の作品がONされている。10万円のモノと2万円のモノと2種類あり、何故こんなに値が違うのかはわたくしも興味津々なので書くことにする。作品録は52番迄進行している。

世田谷村日記 ある種族へR175

12月1日、早朝起きて早速各方面の方々と連絡開始する。

勿論、地元世田谷区南烏山5丁目の三菱地所、三菱地所レジデンス、セコム、ラン設計事務所による、5丁目通り抜け封鎖問題に対応するためである。

先ず、コアメンバーを再び作りたいと思い目星をつけた人々に連絡する。

皆すぐに協同しようとなった。午前中に署名を集め始める気の早い人物までいる。

この土地に関しては桜の古木の保存を含めて鈴木博之先生迄引っぱり出しての会を作り、その会の名を持って企業連合体にいくつかの申し入れを、これは文書ですでに残してある。

それに加えてこの工事用としての通り抜け道路封鎖に関しても更に請願書、陳情書と共に企業連合体に要望書を提出する。

恐らく、何もしないでゴロゴロしていたら最終計画案、すなわち再開発の実現時には生活道路さえも消失している可能性もあるだろう。

色々と情報を集めているうちに、今すでに区議会が始まっているので署名等集めている時間は無いから、一人でも書類だけは出すようにが正しい意見だと見当がついた。

明日迄に、取り敢えず10名程の署名をとりそろえ正式審査までに相当量の人数に増やしたい。

何人かの区議会議員に連絡して請願書の議会への紹介者になるように依頼する。

インドより連絡あり、インド行のスケジュールが少し計り早くなりそうである。

夜半研究室より書類来信して、ほぼ南烏山5丁目の封鎖された再開発地への要望書は体裁を整えた。明日署名等を整える。

明けて12月2日7時前離床。全く時の流れはセキを切ったように速い。老いやすく何事も成し難しである。今日は午前中に区役所への請願書提出の準備をすませたい。昨夜は磯崎新建築論集7を読みふけった。研究的エッセイでは一番重要だと思われる重源に関しての研究が知らぬ間に随分進んでいるのに驚く。自分の怠けていたのを思い知るばかりである。

磯崎新の本体は建築を介した詩心であるのを痛感する。

8時になったらいささかの電話連絡をして、請願書をまとめ始めたい。

世田谷村日記