石山修武 世田谷村日記

世田谷村スタジオGAYA

2015 年 10月

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世田谷村スタジオGAYA日記 530

1、雲南省プーラン族(布朗族)の建築、儀礼に関する書籍も少し計り集まった。知れば知る程に大変な事に手をつけようとしているのを知り、途方に暮れなくもないと負け惜しみ、若い頃にこんな難題に取り組んでいたら、不可能であったな。民族学、宗教学、近代計画学は統合し得るのか?

世田谷村スタジオGAYA日記 529

1、朝、プーラン族の人々11を書く。何故だか知らぬがカタロニヤ・バルセロナを仕切りに想い出す。バルセロナにはオリンピック前から訪ねておいて良かったな。

2、昨夕はGAYAに上海の趙さん、シェアカンパニー社長武藤さん集まり、上海の小規模リノベーション(都心の)について話し合う。
わたくしの方の展覧会開催が、どうやら中国の春節(正月)前を避けて、春節後になりそうなので、自然に上海行のリノベーション事業の一行のスケジュールもずれ込むことになる。一気にスケジュールを決め込みたいけれど沢山の人の都合もあり、最終決定がむずかしそうである。でも決めなければ仕方ない。
夜は浅草仲見世の飯田くん、今は政治家修行中の安西直紀くんも参加し、オーパで話し合う。

3、「安西直紀を都知事にする会」の母体を作ろうと決めた。上海でGAYA展と同時の発会式ができれば良いだろう。

4、世田谷の保育園の完成予想図ができたのでウェブサイトにONして世田谷の待機児童の親御さんの皆さんにもお知らせしなくては。

世田谷村スタジオGAYA日記 528

今朝よりサイトへの新しい連載「建築から都市へ」を目指そうとする若い人へ、を書く。

世田谷村スタジオGAYA日記 527

1、脇腹がかゆくって、それで目覚めてしまった。この夏はこのかゆさに随分悩まされた。このかゆさは何処からくるか?

今も「プーラン茶」(プーリー茶とも呼ぶ。)を飲みながらコレを書いているのだが、岡倉天心が言うに馴らされたか?確かに茶はベラボーに旨いのである。ベラボーとは浅からずと言う位の事である。中国南部が茶の樹の先祖とあるから、やはり雲南省の茶づくり名人族であるプーランの人々はその旨さの源泉なのだろう。道(タオ)が源であり、より一般的に言えば道教を泉とする。とすれば何度も通ったベトナム中部ダナンの五行山も視野に入って来る。行ったり、来たりで人間生きるに無駄はないのか。ベトナム五行山は薬草の宝庫であったようだから、プーラン族の茶馬古道で、これも又雲南省高人と結ばれていたのだろう。

3、突然、「建築」が好きなのは「かゆさ」と関係するなとバカを思いつく。「かゆさ」ってのはかゆい処をボリビリひきむしってはイケナイのを承知の上で、どうしても、かゆい処に手がゆく、今の建築及び建築家らしきもあんまりのめり込むなよと自分で自分に言い聞かせてもボリボリとかゆみをかいてしまうのである。

4、高木くんは滅法建築と「ごぼう天」なるうどんが好きな男である。今は中々良い酒蔵の設計および監理に身を燃焼させているだろう。旧石山研の卒業生では北園徹くんと並んで仁王様みたいな人材である。

5、フランク・O・ゲーリーもユダヤである。カーンもゲーリーもユダヤの神秘主義に本能的に接近している。あの光の汎神論的価値は充分に論じられてしかるべきだろう。
視覚(知覚)的にはアノ光はレオナルド・ダヴィンチが到達したと言われるモノの(人間の)形を描くのではなく、もうろうとした光の粒子状、今だったら波動状を描くの如くである。恐ろしい程のテクニックを要する。文学的には(あるいは聴覚的には)宮沢賢治の擬音の多用にも通じよう。つまり、これも又、事物の存在のリンカクを描写しようとするのではなく、あらゆる事物の分子レベルの動き=生体=アニミズムを描こうとした。

6、フォルムは光の影の境界から現前化してくる観念である。そしてルイス・カーンや宮沢賢治はフォルムを決して描こうとはしなかった。光そのもの、それを内在させる空気そのモノを描こうとした。ブリティッシュ・アートミュージアムの先の光を表現できるだろうか?

世田谷村スタジオGAYA日記 526

1、午前渡邊大志君世田谷村に打ち合わせにくる。家内の依頼で世田谷村第四期改装工事の打ち合わせである。開放系技術により工事の典型にしてくれは、わたくしの考え方で、家内には又、別の考えがあるから大変だろう。
佐藤研吾には今朝のスケッチを基に何種類かのプロポーションの模型製作を頼む。又、今朝のスケッチをサイトにONするように指示。五月女がサイトを視ながら、上海用の動画を作っているのでそのデータとして使えるように。

2、作業場に転がっていた木のデク人形風のオブジェクト風をそれでワラの馬の代わりに社に据えた。ワラの馬とはいえいなくなればさみしいものだから。
どうやら前からこの社は周辺の人々には気になる存在であったらしく、通りがかりの女性から声をかけられた。
「コレは何なのでしょうか?・・・」
「地蔵さんです」
「この辺りの地蔵さんは木製なんでしょうか?」
「イヤ、この家は余程変人なんじゃあないですか?」
「・・・・」

世田谷村スタジオGAYA日記 525

1、早朝スケッチ1点を得る。こういう風にしたいと昨夜からあれこれ考えていた。いざテーブルを前にして大判の画用紙に描こうとしたら、手がいう事をきかぬ。
これはどうした事だと驚く。
しかし、ごくごく自然に手に任せていたら、思いがけぬ良い考えが描けてしまった。何かがいつも頭を裏切るのである。これでプーラン族のための計画は何とかまとまるだろう。

2、昨日は午前中上海展で用意すべく少し長目の動画シナリオを作成した。絵巻物風に。なぐり書きであったが、それをベースに午後S君、すなわち五月女にGAYAに来てもらって打ち合わせた。

世田谷村スタジオGAYA日記 524

1、ときの忘れもの綿貫不二夫・令子夫妻来室。打ち合わせ。

2、六角鬼丈さんと話し合った事なども賛同いただけたが。

3、上海の展覧会場でのコンピュータディスクの販売が可能になったので、具体化をS君を交えて相談しなくてはならぬ。

世田谷村スタジオGAYA日記 523

1、フランク・O・ゲーリーの二川幸夫写真は上階のオープンギャラリーに展示されていた。光をコントロールするために黒い遮光カーテンを巡らせていたのを見ると対面して置かれていた二台の大型スクリーンに映し出されていたスライドプロジェクションが主役であるのを知った。古いやり方にも視えようが、二川幸夫の写真を視るのには、今のところこの方法がベストだろう。印画紙に焼き付けられた光はすでに化石状だが、つまりは日本の焼き者(陶芸)と原理的には同じだが、スクリーンを介して視る映像は実に光そのものなんだから。コンピュータの画像に慣れて馴化されている我々の眼にはより馴染む。
昨年、ニューデリーの国立現代美術館でB・V・ドーシの建築展を見た。たまたまの事ではあったがドーシ自身が作品を解説してくれた。20人くらいしか入れぬ小オーディトリアムがセットされていた。どうしてもこの小劇場だけは視てくれというので視た。素晴らしかった。
「マイ・キャリア・・・・」で始まるドーシの語りが映像と共に融合して別の生き物のように視えたのだった。
ドーシの声は低く良く響くサウンドである。その声(サウンド)がとても説得力に満ちていた。シナリオも実に練れていた。
暗闇で光を視入るのは良いものである。たとえそれがコンピュータの画像であっても。
会場には、それこそ中学生かと思うような女の子が嬉しそうに、足取りも軽くゲーリーの二川写真を視入っていた。
「コレワ、イイナア」
と思った。二川幸夫、ゲーリーの世界は小さな女の子が良く似合う。
何故だろう?
おそらくは資本主義世界のまだ外にいるからだ。
二川幸夫は金をマネーなんて洒落て言わずに「銭」と言った。時にムンムンと大阪商人振りを自慢する財気の持主でもあった。しかし、実のところはその銭をこえた人間の自由らしきを最も愛した人間であった。そんな青臭いヘリクツを70過の老人がぬかしてケッカルのだから我ながら馬鹿臭くて面白い。

2、フランク・O・ゲーリーの写真を介しての感想である。今のところ、ゲーリー自邸と、やはりビルバオ・グッゲンハイム美術館がやはり素晴らしい。自邸がどんな所に在るのか知らないが、カルフォルニア・サンタモニカなんて胡散臭いところに在るから、そんな事は無いのであろうが、ゲーリーの建築には「水」が良く似合う。。
ビルバオは川のほとりに建っているし、おまけに大きな橋の下を建築がくぐり抜けている。巨大な魚のように。
ゲーリー建築の中枢は、「魚」である。原始キリスト教のアイコンは魚である。だから、ヨーロッパの市場の中心には必ず魚屋が在ると言われる。
ポーランド系ユダヤ人であるゲーリーがその事に無意識である筈も無い。

3、つまり、天守閣には必ず、ダンシング・フィッシュ(フランク・O・ゲーリー)が乗っていたのである。勿論、古代寺院にもシビの類は乗せられていた。が、それは天守閣の魚程にはハネて泳いではいない。せいぜい火除けの加護程度のモノでしかない。

4、何故なら東京には江戸城が無いからだ。ロラン・バルトの東京の中心は0であるの指摘は、まさに天皇の居ることの0(ゼロ)の意味と同時に、江戸城の消失につながっている。
江戸城の天守にどんな魚が乗っていたのかは残念ながら知らぬ。だから多くの外国人観光客はスシ屋には行き、魚河岸には出掛けても、魚が都市の中心のシンボルであったのを実見しない。

5、フランク・O・ゲーリーの建築と二川写真の展示会は、そんな白昼夢まで見せてくれる。小さな女の子に非ずとも、むさくるしい男や下品な女共も又、見学に行くべし、と言いたい。

6、さて、ゲーリーの建築作品はこれからどうなってゆくのであろうか。これは日本の現代建築の行方を占うにとても大事である。
ザハ・ハディドの国立競技場案を森元総理(JOC会長)はアワビみたいで好きじゃないと言った。安倍晋三政権の母体である派閥の長であった人物の言である。それで、亀ならぬアワビは東京を去った。去った跡地と化した代々木、明治神宮隣りには保護貿易的ないかにも日本的な薄味の国際様式的な建築が建つことになるのだろう。 

7、ドバイ(アラブ)のグッゲンハイム美術館がいずれ実現されるようで、その模型写真(案)を展示場で知ることができる。
これは面白いかも知れぬ。ゲーリーにはフーリエやアタナシウス・キルヒャーみたいな神秘主義者の匂いを嗅ぐが、それが実にエレガンシーを内在させながら、アメリカ型資本主義の形あるモノとしてアラブに実現されるのだろう。
これをもって、ゲーリーは目出たくビルバオから脱皮するのだろう、それがドバイの砂ぼこりの中に建ち上がるようだ。魚は大丈夫なんだろうかと思わぬでも無いが、出来たら実見したいモノである。

8、二川幸夫の写真家としての本物振りはゲーリー建築を撮っても存分に発揮されている。やはりと言うべきか、ゲーリーはフランク・ロイド・ライトの後継者なのである。ヨーロッパを越えようとしている。

世田谷村スタジオGAYA日記 522

1、鴻池祥肇に対する野党の不信任演説は興味深かった。大半の演説者が鴻池を、その信条、人間性を敬愛すると述べながらの不信任演説であった。ハテナ(?)を思い鴻池のキャリア他を調べたら、成る程ネと納得。彼は神戸尼崎の侠客を祖に持つ政治家で神戸港の大きな利権(港湾労働者のそれを含む)をバックにした独特な政治家のようである。元々鴻池財閥はそんなルーツを持っていた。
同じ侠客を祖に持つ横須賀の小泉純一郎と郵政民営化で対立し、衆議院を落選。参議院に転じたキャリアを持つ。建設会社鴻池組とは無縁のようだ。小泉も横須賀の侠客を祖に持つ故に官僚政治家とは一線を画していた。本来的な政治家としての才質に欠ける人材が多数を占める今の自民党政治家まがいの群では異質である。
それは別として、今回の法案成立の影の主役は公明党であった。創価学校を団体あるいは背景の力とした公明党のこの法案に対する異様な傾き方は創価学会本来の(良くは知らぬが)異形の大衆宗教=権力志向の強い亞日蓮宗とも異なっていた。強く官僚主義的な計算が視えすいていたのだった。恐らく公明党の政治家たちの基本的な組織構成が変わり始めているのだろう。池田大作が創立した創価大学出身の政治家の数が不明ではあるが増加しているのではあるまいか。彼等は創価学会信者達のかたわらに身を置くという位置取りがもう出来ぬのではないか。疑似エリートとして彼等は創価学会信者たちを俯瞰しているのである。コントロールする対象として眺めている。連日の国会周辺での自発(内発)的デモらしきに創価学会旗が視えたりは、ささいな事だが公明党と創価学会のほころびを暗示していたのではないか。公明党の党是を知らぬけれど、日蓮宗、あるいは鎌倉仏教を背にした大衆政党とは異なる匂いを強く感じた。
党勢の拡大主義は、むしろ民主党などようりも余程明快であり、実に全体主義的色合いが強い。自民党の政治家が才質、見識者バラバラなのも好対照を成している。

2、午後新橋まで出掛けようと世田谷村の西の道に出たら、大阪の竹原義二さんとバッタリ。うかがえば近くの保育園を見学がてら世田谷村に寄ってみたとの事。竹原さんは以前から見たいと言って下さっていたのだが、折角見ていただくんだったら、内外の改装が出来上がらずとも、その施工中を見てもらおうとグズグズしていた。京王線明大前までの車中でも話は続いたが、信頼できる人物なのでいずれ何か良い機会を設けて、具体的なことで話し合ってみたい。

3、GAギャラリーのフランク・O・ゲーリー展を見に行く午後の予定との事であった。大阪は東京よりも余程建築を取り巻く事情は厳しいと聞いている。頭が下がるな、このような自由な好奇心と行動は。わたくしなんかは最近いささか頭が固くなり始めており、考え方や行動形式がちがう人間とは付き合っても仕方ないと固くなっている。少し直さんといかんなと考えた。

新橋せいほうギャラリーでオープンの「宮脇愛子をしのぶ会・作品展示」に出掛けた。六角鬼丈さんに娘さん共々、本当に久し振りにお目にかかる。中国北京中央美術学院関連の仕事場(中国・六角研究室)を引き上げて帰京したとの事。旧婆娑羅をしのぶ会でもやろうかと話合った。六角さんとは、岡倉天心の件で又、会おうと考えている。

世田谷村スタジオGAYA日記 521

1、朝、伊藤毅先生と連絡。佐藤研吾のインド・ヴァローダでの活動の説明会、報告会等の東大での開催の相談。大方の了承を得る。

2、技術的世界においてはプーラン族に「左官」の伝統があるのかどうかはまだ知らぬ。中国新葉古村では、それはそれは見事な墨絵の如くを多く見て、いたく感動したが中国の伝統民家(町屋)らしきは根底でヨーロッパ式の壁の文化なので、その壁面の一部空白を埋めるのに伝統的な宗画のスタイルが装飾的に壁画もどきに使用されていた。現代中国はそのような遺構を文化大革命において大半を失ってしまった。あの文化大革命は毛沢東によっては独裁的に実行されたのだが、今想えばアレは近代建築の革命的な性格と軌を同一にする。
日本(列島)では壁画の歴史は古くは九州地区に多く残されている「装飾古墳」がルーツである。又、世田谷村にほど近い多摩川の河岸段丘に残されている日本古代の方円墳の天井などにも恐らくは中国伝来のモノとして残されてもいる。古墳の内部の空洞にはいかばかりが残されている。これは朝鮮半島、中国大陸を経てインドまで遡行することも出来よう。おそらく、GAYAの若者たちでさえ、今わたくしの「プーラン族の計画」に最近現れている円環状の内部空洞に描かれている壁画状はそんな歴史的な考えが含まれてもいるのを知らぬだろう。
日本近代のヨーロッパ亜流モダニズムは明治以降にたかだか百数十年のモノでしかない。
しかし、いかな内輪とは言えそんな事を若い人たちに言ってもキョトンとされるだけの現実であるのは良くわかる。
ワケが解らんナアこれはと想われていたに違いない『アニミズム紀行』も又、今、振り返ればそんな事であったし、それが意識されつつあるこれからも又、そうなのだろう。
石川淳の「狂風記」に記されているように過去の過去へと遡行し続ければ、いきなりポーンと未来につながるのだ、は正しい。あの狂風記の舞台も巨大な円墳状のゴミの山であった事を想う。

3、今日書き始めた「プーラン(族)の人々」10もそんな考えを少し計り整理して記そうとしている。「プーラン族の計画」はいずれ、「プーランの人々」と接続したいが、それができるかどうかは定かではない。わたくしの才質の問題になってしまう。

世田谷村スタジオGAYA日記 520

昨日から今日の早朝にかけて衆議院での新安保条約の最終段階らしきで与野党のせめぎ合いが国会内外で繰り広げられた。いたるところで大掛かりなデモが展開された。デモの群衆の一人の背中に「知性」と書かれた手描きのゼッケンがあるのをTVで見た。深夜、元衆議院議員自民党総裁であった河野洋平氏のインタビューが流れた。とても客観的でなおかつ率直に自身の感慨が述べられた。なる程な、「知性」的な政治家はかくの如きを言うのかと、群衆の中のたった一人の背中のゼッケンを想った。

世田谷村スタジオGAYA日記 519

1、川合健二夫人花子さんと電話で話した事を想い出したり、近況報告をしばらく怠っていたのでお話しした。
「石山君、中国はどうかわからぬけれど、インドの仕事は、それは面白いワ。楽しみです。インドは歴史があるし、人間も多いからね」
との事。川合花子さんは川合健二という天才に連れそってきた、こちらは大秀才である。その花子さんからこう言われたので、わたくしもわたくしなりにホッとした。

2、磯崎新論の書き始めだが、鈴木博之への書評のはじまりの、その前に今の磯崎新が入り込んでいる境遇というか心境について触れるのも良いかなと考え始めた。こちらの方は実人生とはちがって未来へ、未来へと、決して明るくはない世界へと落ち入ってゆく可能性も大である。いずれにせよ2つのヴァージョンの入口を設けてみるのも良いだろう。

世田谷村スタジオGAYA日記 518

1、昨日の事を想い出すに少し努力せねばならぬ程に、それ程の事もなし、星の子愛児園新館の屋上緑化のメンテナンスはようやく軌道に乗ってきて、金属屋根の上の植物、花も生き生きしてきた。

2、が、金属屋根の上の植物がかなり豪勢となり、この状態はあんまりGAの写真には写されていないので、我々の素人写真をなんとかサイトのトップページにもぐり込ませてみたい。ようやくにして金属と植物(草花)の折り合いに少し計りの自信を得た。
このやり方は水やりがポイントであるから、水道水を垂れ流していたら水道料金が大変であるから、やはり井戸水を循環させるのが一番で、ようやくにして星の子愛児園ではそのシステムに切り替えた。今日(14日)は園庭のビオトープで遊ぶ子供達の姿もあり、屋上の緑と庭の井戸(ビオトープ)との関連を子供たちなりの勘の良さでつかんでくれているやも知れない。子供達の好奇心はそれは凄いものがあるからなあ。
(開放系技術サイトへ)

3、藤森照信の近江八幡の菓子屋の草屋根も、水がしたたり落ちる位にそれこそ大量の水が供給されていたが、あの草屋根も近くに大きな井戸が掘られていたのが要であたな、と少し遅れて、成る程ネと思ってはいる。井戸を使わなければ水道料金はとても大きな負担にならざるを得ない。
これで厳冬期の霜と氷の関門をかいくぐれば屋根の緑化はなんとかなる。

4、世田谷村の屋上は今は雑草が生い茂っている。これも何とかしたいが、先ずは屋上に安全に登れる階段の設置が先決である。
伊豆西海岸松崎町で教えられた事の一つは「 畑は人間の足音で育つ」である。人間が訪れなくっては一切の花、作物などは育ちはしないのだ。それと、先に述べたように水やりの循環方式を具体化せねばならない。
本来、世田谷村は水の循環方式で成り立つように考えていた。

5、月下美人の樹が再び多くのつぼみを持ち始めた。楽しみである。

世田谷村スタジオGAYA日記 517

世田谷村スタジオGAYA日記 516

1、サイトに「開放系技術日記らしきもの」を書いたが図版をどうするか?

2、GAYAのNEWSにONしているが、「100000万年後の安全」の上映がそろそろ追ってきた。フィンランドに実現されつつある地下岩盤深くへの核廃棄物(最終)収蔵のドキュメントである。日本では核廃棄物の最終処理の場所も何もかも何も決まっていない。それで原発の再稼働というのだから、、、、是非とも上映会には足を運んでいただきたい。

3、3階のテラスに咲いていた小さな紫色の朝顔の姿は今朝はない。大輪のハイビスカスの黄色も少し色アセてきた。秋が一気に深まるのだろう。大きなゴーヤの実が一つ二つ残っている。踏み台を用意しないとアレはとれない。いささかジタバタしてテラスに上り、眺めれば家の内からは視えぬ南側に朝顔がそれこそ沢山咲き乱れていた。そうだよね、花は光に向けて咲くからこうなってしまう。夕方になると白い昼顔も咲くと家人は言う。下の庭には今、白い彼岸花が群れて咲いている。道行く人は楽しんでくれているのかな。

世田谷村スタジオGAYA日記 515

1、菅平の開拓者の家=正橋孝一夫妻自宅より今年も美味なトーモロコシが送られてきた。開拓者の家は幻庵と共に巡り巡って中国雲南省高地少数民族への計画に引き継がれそうである。

2、何度か磯崎新の論文(エッセイ)偶有的操縦法を読んだ。結びの言「2020年にはゼロ・ベースに下降していることだろう。それも第三者の妄言だから、聞く耳を持たないことも分かっている。」が妙に生々しく、残る文章が記されている。

3、磯崎新の説の中心はアメリカ政府による、それこそ偶有的操縦法なんだよ。この事件の本筋は。なんだけれども、今の日本には国民も含めてそれを考える体力が全く残っていないのだ。愛鷹山に無念の墜落をした日本航空機の絶望的な迷走飛行を想わせぬでもない。
原子力発電所の再稼働にしても、福島でメルトダウンした原子炉本体は全てとは言わずともアメリカ製なんだから、この再稼働にもアメリカ軍事産業の影は働いているのであろうか?そうだろう。

世田谷村スタジオGAYA日記 514

1、早朝かなりの地震があり、かなり揺れた。TV情報では震源地東京湾との事。マグニチュード5.6、地下70km、調布では震度5弱だから、世田谷村も3.11以来の大きな揺れに見舞われたことになる。
こんなに地震、火山噴火の多い国土でやはり原子力発電は合理的とは言えない。福島第一原発の後始末も出来ぬママに原発の再稼働決定は明らかに誤りである。政治が自然の力を誤認識しているとしか考えられぬ。
新国立競技場のザハ・ハディド案の0ベース撤回によって失われるモノは決して小さくはないが、福島第一原発メルトダウンへの巨大過ぎる金銭の投入の全体が明らかにされておらず、我々はその全ボーを知らぬママである。新国立競技場の経済問題などはそれと比較すればあまりにも小さいモノでしかない。日本全土の原子力発電所再稼働に要する総額も公表されていない。明らかな手落ちである。

2、明方の地震で中断されてしまったが、夢うつつの中で「プーランの人々」のサイトの展開を考えていた。ようやくにして書くことの中心が得られようとしているので力を投入したい。この絵と文字はいずれ活字体として残したい。

・GAYAのNEWSに映画上映会の情報をONしました。ぜひご覧ください。

世田谷村スタジオGAYA日記 513

1、インドの活動のページは新しく「インドの学校にて」が設けられた。このページは佐藤研吾に任せるつもりだが、少し計り方向性が視えてきたのだろう。最初のページでCEPT大学(Mr.ドーシ設立)のNiket Dalalくんの熱烈なプレゼンテーションの有様と彼の竹による水上集落のドローイングの一部が紹介されている。又、CEPT大学の他の学生達の作品群も検索次第で得られるだろう。

2、朝10時には打ち合わせが始まるので、それ迄にわたくしも何がしかの準備をしておきたい。
インド、中国との諸々の連絡が多くなっている。台北の李祖原より、2016年の上海展には出席できないとの連絡があった。彼の中国本土進出はあまりにも時期が早過ぎた。パイオニアはいつもそれで苦しむのだ。台湾、マレーシア、カンボジア他に活躍を見出そうとしているのか。

世田谷村スタジオGAYA日記 512

1、朝方、「プーランの人々」7を書く。むしろ日記よりも日々の生活に密着してきた。プーランの人々に使っている石山のスケッチは何らかの形で上海店でも使えるかなと。これは今日相談してみることにしたい。
今朝の打ち合わせは上海展の全容について。

2、上海展の一部をインド・バローダのワークショップに移動させるかどうかも検討したい。

世田谷村スタジオGAYA日記 511

1、昨日午後はGAYAで渡邊大志くんを交え世田谷村第四期工事の打ち合わせ。家人がクライアントなので参加する。開放系技術に関するメモを作成した。近日中に世田谷村日記と連動することになる筈だ。旧秋葉原マーケットを一部利用した3D人工衛星のデータに久し振りに再開した。渡邊大志くんは世界中の興味深いマテリアル、部品データのコレクションを始めた。開放系技術にとって多くの人々に利用可能なように進めていきたい。

2、このプロジェクトには専門家達によるコアの形成と、その外周に学生を含む予備勢力をワークショップ形式として開放してゆくのが良いだろう。

世田谷村スタジオGAYA日記 510

1、10時過にGAYAで編集会議のようなモノを始める。日々の活動をホームページによりわかりやすく反映させようとしているが、 読者にはまだまだ説明不足であろうから。

2、アニミズム紀行8を一部読み返す。日記509にすでに記した事だが、アニミズム紀行9は現プーラン族への仕事中、ページの「 プーランの人々」の連載をベースに構成してみようと決めた。考えを螺旋形に動かす習慣を定型化する必要があるな。

3、2016年1月中旬に予定している上海でのGAYA展(上海図書館ギャラリー)及び上海中心部の極小ディベロップメント(リノベーション )へのディスカッション=小ミーティングへの参加者が東京(GAYA)側は集まり始めているので佐賀の梅木さんにその旨連絡しなくてはならない。

世田谷村スタジオGAYA日記 509

1、日経新聞朝刊吉井由吉の「夏に負ける」が過ぎ去りつつある今夏の、すでに名残の暑さを実に見事に表現している。

2、昔、難民の事を栄久庵憲司さんの世界デザイン機構でやってみようとしたりもしたが、力不足でやり遂げられなかった。デザイナー個人には不可能な問題だった。
「アニミズム紀行8」はアニミズムを巡る体験的思考の中ではリアルな現実社会(福島第一原発事故)の同様な問題をはらんだ現場の紀行文であった。

3、実はアニミズムの旅は福島から中国雲南省高地山岳小民族の現実と夢にステージを移している。現ホームページに連載を始めた「プーランの人々」をまとめてアニミズム紀行9としていみたいの考えもある。

世田谷村スタジオGAYA日記 508

世田谷村スタジオGAYA日記 507

1、「中島らも、はいわゆる無頼派だったんでしょうね」
「そおか、坂口安吾や織田作之助の系列か」
「どおなんでしょう。・・・」
オーパの若主人は中々の物知りである。もっと話したかったけれどモノにはやはり程々ってものがあるので、今日はこれ位で。明日少し話してみよう。

2、建築の無頼派は今は皆無である。一昔前だったらヤッパリ渡辺豊和、毛綱モン太ってところだな。そお言えば吉田保夫だったかも居たけれどこれは無頼派というよりもかなり病気だったようだ。今は何してるんだろう。石井和紘はそろそろ再評価されてしかるべきだろうが、無頼派と呼ぶには上昇志向が強過ぎた。東大卒でマットーな無頼はいるわけもないだろう。本当は磯崎新なんて実は無頼派なんだろうとは想うがね。無頼と呼ぶには自分をコントロールする意志が強すぎた。それを理性と呼ぶのは単純に過ぎて大事なモノを視ないような気もする。鈴木博之は彼はアナーキストだって言ってた。そお決めつけても、これも大事なモノがもれこぼれる。

3、ところで昨日世田谷村の白チビ、デカ黒の二匹の猫が共に病に倒れた。黒が声が全く出なくなり、白は眼が完全につぶれた。目ヤニでひどい顔になっちまって、やたらに物陰にもぐり込もうとする。猫は死ぬ時に飼い主の眼のとどかぬ処へ隠れるから、心配になった。家人が近くの犬猫病院へ、バスケット(容器)に入れて運び込んだ。ウィルス性のカゼの診断で注射バカスカ打たれたそうだ。手間ヒマと金がかかる。二匹で二万円弱とられて、明日から3日間通院するようにとのお達しである。沢山な犬が連れてこられていたそうな。犬猫病院はこの世のドル箱だな。

世田谷村スタジオGAYA日記 506

1、突然、菅原正二様代理株式会社ワーナー・ミュージック・ジャパン片野正健さまより、ドカーンとカウント・ベイシーCD24枚組が送られて来た。先日の日記の500への返信である。
菅原正二監修による、カウントベイシーのピークとも言える1957年〜1962年のカウント・ベイシー・ルーレット・コレクション全24タイトル、9月2日発売のモノである。詳細は同封いたしましたパンフレットをご覧ください。とあるので許可無くサイトに掲載させていただく。音はコンピューターで一部送信できるのでうまくゆくかはわからぬが、試してみたい。
いかにもな、菅原正二流の返信の仕方だ。読者の皆さんにも楽しんでいただければ嬉しい。

世田谷村スタジオGAYA日記 505

1、初めて読んだ中島らもの本は一番気軽そうであったので読み始めたが、これは面白いのであった。すべてのBarでと軟派を張っているのかと思いきや、これはアルコール中毒者の本であった。例によって、後書きから読み始めた。山田風太郎との対談であり、これで大方の中身の予想はつけられた。本文中に久里浜式アルコール依存症スクリーニング・テスト(KAST)やらが挟み込まれていて、気になったので本気にテストを受けてみた。結果は2.6点であった。主人公は12.5点、主人公の友人の新聞記者は14.0である。ちなみにこのテストは2点以上は問題ありらしい。だからわたくし奴はどうやら問題ありだが、恐らく酒呑んで自動車事故死したらしいアル中作家(多分)中島らも氏よりはまだマシな試験結果であった。

2、夜中に佐賀の梅木さんより8月31日付の佐賀新聞が送られてきた。9年前に旧石山研究室で設計した大きな牛車について触れられている。牛車は車軸が壊れて、伊万里市の公民館倉庫に眠っていたそうだ。復元されて再び子供たちの手で動いてくれたらよいのになあ。

世田谷村スタジオGAYA日記 504

1、岩波書店の力作『磯崎新建築論集』全8巻の、どんづまりのあと書き(8巻)の終わりくらいに、磯崎の後約20年くらいの所謂アナログ世代は化石状態に落ち入っている、と記されている。アレ、俺の事かなと、でも俺もすでにゾンビ状に非ず、ホータイを巻いたミイラ男状だから仕方ネーだろう。でもデジタルとアナログがハイブリッド(古い言葉である)つまり混血状に在る状態が、今、考えられる限りの理想である。このページのニュアンスがそれだ。

2、今、書いているコノ日記だが、日記502に記した佐賀の梅木さんへの依頼が重要であった。梅木さん読んでくれているかナアと心配になり、アナログ人間の正体視たりミイラ男とばかり、本人に電話してしまった。
「ビックリ、しました。今朝返信メール打ちました。」
「俺、メールは苦手なんだ。そのメール、ファックスできないか?」
「ウーン(面倒クサイ・オヤジだな)でも仕方ない、ウーン、ウーン、ジャ、やってみますファックス」
電話のニュアンスでは上海ツアーの件はやってくれそうであった。

3、過日岡山県閑谷学校でもった「アジア文化の中の閑谷学校〜教育・学習の再生へのヒント」の報告書がまとまったら、閑谷学校へもこの件は連絡したい。

世田谷村スタジオGAYA日記 503

1、二日程早く秋からのWORKをほぼ全開したのでしばらくはこのペースで走れるだろう。サイトの動きにも 緩急が生まれるであろう。外国からの読者に配慮して少しばかりビジュアルに英文を附している。

2、山口勝弘先生、淡路島の山田修二さん。作っていただいた星の光の昼は上海の展覧会に出品させていただきます。 屋根の大半は天然のスレート瓦になると予定していますが、この星の光が鋳込んである淡路瓦は大事な場所に使うつもり でいます。

3、インド、ナーランダのサイトスペースも新しく設けました。大きなラジギールの新ナーランダ大学のキャンパス に森を作ってゆこうの計画です。いずれ新ナーランダ大学と協力して大きく植樹を始めたい。西本願寺を中心とする 教団の方々の、そしてより広範な仏教徒のお力をいただきたい。ナーランダ大学の計画の展覧会はうまくゆけば、 これも来春、京都龍谷大学、そして東京築地本願寺で開催する予定です。設計者はインド・アーメダバードのMr.Doshi のパートナーでもあるラジーフさんです。その講演会も組織するつもりでいます。

4、当面はGAYA日記、プーラン族の計画、ナーランダの計画の三本立てに集中することになりそうですが、他の プロジェクトも派手にではないが動かしています。チャンスがあれば折々に紹介してゆきたい。

世田谷村スタジオGAYA日記 502

1、中国の春節(2016年2月であろう)の少し前になるだろうがスタジオGAYAの展覧会が上海 の友人の協力を得て開催される予定だ。
先日、佐賀の梅木さんに聞けば佐賀-上海は飛行機代が7000円(多分往復)なんだそうだ。恐らく、 北海道の後藤さんもそんな情報はお持ちであろう。
それで、先ずは佐賀の梅木さん、まだ日程等は特定できないのですが、来春(1月)に上海ツアーを企画して いただけないでしょうか?大きく出ると失敗するから(例えばチャーター便を飛ばすとか)先ずは小ヂンマリ と10名くらいかな?でどうでしょうか。2泊3日くらいで。
第一日は上海でのミーティングと、上海博物館見学。上海博物館の1階青銅器展示室は世界最高峰の 内容です。夕刻、上海図書館での「プーラン族の計画」見学。石山小レクチャー。レクチャールームが7,80名 のキャパシティであります。
二日目は上海の特異な場所の見学とリサーチ。これは希望者には協同での小規模ディベロップメント (リノベーションが主体となります。)への参加を含めたい。夜は上海料理の宴会。

2、ただし、そのメール他は相談の上でサイトに公開したい。公開を前提とします。うまくいっても、不首尾 に終わったとしてもオープンにしたい。うまくゆかなくても、いずれは必ず実現しますから。料金は3万円くらい( エアーフライト込み)に抑えたいと思います。ゴンドーさんなんかは上海市街の住宅程度のリノベーションには興味 あるんじゃあないですか?



世田谷村スタジオGAYA日記 501

1、明日から9月なので、丁度区切りがいいからコノ日記を含めたホームページの形式に手を入れて みようと考えている。気まぐれのような、そうでもないような変な感じからである。アト何年生きられるのかは知らぬ。 神様だって知らんのだろう。

2、一応※1この日記らしきを下記続けられる迄をハッキリ人生って事にしてみる。と、 10年くらい意識はあるとしてこの日記番号にすると4151という数字が打ち出されてくる。 4151回までズルズルとかくなる駄文を続けるか?と考えるとお先真っ暗である。

3、それで、イキナリ本日のこの日記から、形式を(日記の)編集会議の如くに変更したい。

4、クドクドと書くのは中断して例えば、こうだ。ここからは編集会議風になっていく。

5、サイトインデックスが少し計り錯綜とし過ぎているから、インデックスは9月1日は日記と プーラン族と、ナーランダ計画のひとまずは三コマだけから始める。世田谷の事とか、他は少し遅れて 始めよう。それで良い。

6、少し厄介なのは、「ナーランダ」のスペースです。何故ならば今日のところ森のスケッチが出来ていない。
けれど、ナーランダの森の計画は今のところ日本の東北津波被災に遭遇した気仙沼のためのプロジェクトに極めて 近い。だから、インド・ナーランダ計画のスタートは「気仙沼安波山の植樹の現状」としたい。先日、気仙沼 市役所から送られてきた。ようはく安波山に紅いサルスベリ(百日紅)の花が咲き始めた写真を1ページ目に配布 する。
そして文字は簡単な英文とする。
Anba Mountain Landscape Project will be connected with Nalanda Forest Project in India.
さらに1回目のページに大阪の安藤忠雄事務所と協同であることを明記して、安波山に赤い円形の花の森が 亡くなった人々の記憶(鎮魂)として山上に出現することを、すでに在るビジュアルで最表現したい。

7、9月1日からの日記のページをすこしずつ改変したい。

8、いずれ世田谷区での活動のページや、当然「飾りのついた家」組合のページが動かせるようになったら、この ページは読んで下さる人々全員で共有したいとは思いますが、今は不可能です。
でもだからこそ、それを念頭に置きながら先日やった「鈴虫の会」のような、大ゲサではない、ささいな事に出来るだけ 近所の人々や、遠くても関心を持って下さる人々が参加できるような形を考えてゆきたい。
それで九州佐賀の梅木さん、北海道十勝の後藤さん、お二人にはそれに対する考えらしきを出して下さる事を望みます。 突然ですが。

世田谷村スタジオGAYA日記 500

1、終了後、特別な企画として、讃美歌とその原曲ということで、メンデルスゾーンの1835年のなぐさめ、ISSACのインスブルックよさらば(1505年)、バッハのマタイ受難曲(1727年)、ハイドン、オラトリオ、天地創造(1797年)等をCDにして聴くことになり、わたくしはベートーベンに入る前に申し訳ないけれども 一足お先に抜けた。讃美歌は仏教での唱名とおなじである。
音の事はコレワ、ベイシーの菅原正二に尋ねてみるのが一番なので世田谷村にもどり早速ファクシミリで問い 合わせてみる。

2、ところで菅原さん、モダーンジャズの特別なモノとキリスト教歌曲との関係はどうなんですかね。 自分で勉強したらとおっしゃる前に一言、ヒントを下さい。



世田谷村スタジオGAYA日記 499

1、8月28日
昼過、東北一ノ関のジャズ喫茶ベイシーの菅原正二さんよりファクシミリ入る。いつも連載している朝日新聞東北版を送ってくださる。今回は第160話「ベサエムーチョ」である。ベサメ・ムーチョの題と内容は何の関係もない。古く懐かしい木造校舎に棲みついていたカメの話。この辺の無関係振りがいかにもジャズ者らしいのである。

2、午後おそく近くのNさん宅にうかがう。先日の「鈴虫の会」にいらっしゃらなかったので、どうしたんだろうと思ったので。わずかに残った鈴虫を数匹と、カゴ、エサも持参した。案の定、入院しておられた。奥様に手渡し、早速病院に持ってゆきますとの事。鈴虫よ、心あらば病室でひそやかに鳴け。

3、こういう感じをかもし出す人々は今のTOKYOには皆無になったな。


世田谷村スタジオGAYA日記 498
世田谷村スタジオGAYA日記 497

1、昨日はプーラン族のための幾つかのスケッチを佐藤研吾に渡し、模型制作を依頼。夕方3分の1の家具模型と20分の1の内部軸組だけのパビリオン模型が出来て来たので、彼にプロポーション他をチェックするように指示した。まだまだ模型くらいは自分で作れるのだが、若い人の楽しみを奪うのはイケナイので。それ故、自分で作った模型を自己修正しろと指示した。作るだけなら学生だって出来るんだから。出来たモノに次段階では手を入れようとしなくてはダメだ。

2、プーラン族のためのモノは、要するにこれは民家を、あるいは民家群を母体としている。現代建築ではない。近代建築でもない。このような大言壮語(ホラ)を支えるのは、これまでのわたくし奴のキャリアである。
GA JAPAN135の自作の作品解説で、すでに述べたように、このプーラン族の計画も又、わたくしの幻庵、開拓者の家(つまり民家)、ひろしまハウス(これも言わば民家)のラインを踏襲しようとしている。




世田谷村スタジオGAYA日記 496

1、8月27日「GA JAPANのフランク・O・ゲーリー特集」
GA JAPAN136は特集FRANK.O.GEHRYである。「これまであまり語られてこなかったフランク・O・ゲーリーについて考えてみる」のサブタイトルが付されている。
そう言われてみると確かに日本ではあんまりと言うか、全くと言って良い程ゲーリーについての詳細は知らされてこなかった。
出色なのは「両親、学生時代、建築との出会い、ゲーリー、自らを語る」と題されたインタビュー記事である。

2、ともあれゲーリー自身によるゲーリーの生まれ、育ち、成長の物語は全く気負いも無く、手放しでのめり込ませる。そうだったのか!ポーランド生まれのユダヤ人の家系で、親族は24人もナチスの強制収容所に連れ去られて姿を消している。又、それからの貧乏生活、苦学も並大抵なモノではないようだが、それが等身大の言葉で語り続けられていて、実に興味深い。

3、このインタビューだけでも読む価値があるから手中にすべきである。
GAウェブサイトhttp://www.ga-ada.co.jp/japanese/ga_japan/gaj136.html

4、あれから随分時が経つが、フランク・O・ゲーリーはすっかり巨匠、しかも群を抜いた存在になりおおせた。わたくしは相変わらず貧乏な一介の独人者(浪人みたいな存在)である。この落差は何故、発生したのか。恐らく生まれた国がどうにもならんのじゃあないかと、すねたくもなるが、すねたりしたらただの馬鹿だから、それはしない。

5、ポーランド生まれのユダヤ人が生き延びるのは大変だったろう。それに比べればわたくしなんぞは日向のホタルみたいな者である。でもコケにされているばかりはイヤだから何とか這いずってもやってみるか。と、久し振りに戦闘心が沸き上がった。
それで明け方、中国雲南省プーラン族の計画を少し変えることにした。勿論、ゲーリー調にするわけもない。難しいんだなあ。これが。





世田谷村スタジオGAYA日記 495

1、冬に予定しているアーメダバードのドーシ事務所ラジーフ氏のナーランダ大学展の事をアレコレ考え始める。先日上山大峻氏と築地本願寺での展示の可能性についても本願寺で現場を見ながら検討したので、京都龍谷大学での展示と共に考えなければならない。

2、アルチ村日記が中途で停止したまんまが気にならぬではないが、強烈な下り腹の中で、クソを垂れ流しながらのマトゥ村の修道院から眺めた僧三蔵法師が中国西安から歩いたのが確実な街道を20km程とおくの修道院から遠望した時の感慨は忘れられぬ。

あんな処を人間が本当に歩き続けたんだの途方も無い信頼のようなモノであった。
神の姿を我々は今は視る事ができぬが、それを求めて歩いた奴の姿だけは信用できる、際限の無いとおい風景であったけれど、確実にその距離を歩いた奴がいるのだけは信じないわけにはゆかぬのである。

4、アノ紅い円環の森は少しでも姿を現したならば、それは我々がナーランダの森で再び企てようとしている森をつくる計画、およびその森の中に何がしかの学ぶ者の小屋を作ろうとするに、実に近い姿の、つまりはモデルにもなり得よう。ナーランダの森の計画は、日本からの全仏教徒(教団)の集団の姿をも具体化したいモノである。

5、コレが建築の本当の姿なんだなあと言うような。
その遺跡(世界遺産)から真近な場所に新しいナーランダ大学は建設されようとしている。それへの森の計画はそれ故に我々にとってはとても大事な計画なのである。

6、ナーランダ大学の入口となるラジギール村はインドでも最も古い文化、伝統を保持する処だと言われる。それを考えても、このナーランダの森の計画はとても大事な計画なのである。日本の仏教教団の多大なる関心と協力を頂きたいものである。

7、プーラン族のための建築計画も又、初期には展覧会の形式の中で、最初期の案が示される事になる。

8、何故ならば民族に固有な考え方=世界像が少し違う。その少しの違いに我々は眼を背けて久しいけれど。今はその少しの違いに、小さくともある種の共通点を発見して然るべきであろう。その発見を目的の一つにしたい。


世田谷村スタジオGAYA日記 494

1、開放系技術による世田谷村第4期工事のスケッチを2点得たがサイトにONすべきかどうかは迷うところだ。でも記録として残すべきか?

2、旧作家論磯崎新18でわたくしは磯崎新アトリエの創始期のメンバーであた六角鬼丈と深夜の磯崎宅に居た。そしてレオナルド・ダヴィンチの話を磯崎新から聞いていた。今朝の夢では、ハッキリとレオナルド・ダヴィンチか、ダヴィンチはいかな磯崎新でも荷が重いぜ、なんてつぶやいていた。当然作家論のことが頭にこびりついていたから、磯崎論の始まりをレオナルド・ダヴィンチの件(具体的には彼の人力飛行機や、特に設計図を残したとされる戦闘用の城砦について)にからませようかなんて途方も無い事を考えていたのである。

3、結局、夢のようなモノの中では、少し前に決めた出ダシは鈴木博之の『建築の世紀末』への磯崎新の書評がやはり良いだろうと、落ち着いたのだった。
更に、旧作家論磯崎新を読み直してみると当時のXゼミナールの同人達、鈴木博之、難波和彦の両氏も時折論に介入してくれているのが、これも記録に残されている。


世田谷村スタジオGAYA日記 493

1、昨日夕刻より烏山神社境内で「鈴虫の鳴き唄を聴きながらの会」をささやかに行った。
ポツリポツンと三々五々、まちまちに、それでも20名程の人が集まった。知っている人と初めての人が半々くらい。(※GAYAのNEWS参照
近くの親子連れ、娘さんは小学5年生くらいかな。恥ずかしそうにしてたから鈴虫には良く似合う。

2、有泉さんのロボット話が実に良かった。佐藤くんの鈴虫の話も短くて良かった。雨がポツリと落ちてきたので散会。これも良かった。席をオーパに移し宴会。遅れて来た学生達の朴訥さも良かった。

3、武藤さんは石山研OBで不動産業で着々と事業をのばしているのが頼もしい。R不動産の馬場くんとはキャラクターも形がキチンとしていて卑しさが全く無いのが、これも良い。
いずれ良い機会を見て李祖原に紹介してみようかのアイデアを得た。

4、本日GAYAで今秋からの仕事のラインアップを検討。ナーランダ大学展、プーラン族の計画、バローダデザインアカデミーワークショップが集中し、乗り切るのが大変そうだ。身体のエネルギーを蓄えておいたのを信じたい。

世田谷村スタジオGAYA日記 492

1、時に自分のサイトを振り返るのも良いものだ。サイトを色々探っていたら「追悼二川幸夫」のページが出てきた。亡くなった知らせを受けて、スグに追悼のページを設けた。
二川幸夫は、わたくしのサイトを嫌がっていた。「アレは止めた方がイイヨ!」とあからさまであった。あまりにもあからさまであったから、だからわたくしの方も意地になってしまった。そうとしか今も思えない。幾たりかの信用すべき人物たちから、一様にアレは品が無いから止めろと言われもしていた。
「品がない」と言われる根拠はわかっていた。安手で自己宣伝同様であると、言われるな位はわかっていた。
これは実に今も底の底で続いているが、表現するって事は、こんな日記の類であっても実に恥ずかしい事であるのだと、ようやく居直れるようにはなった。
これは横尾忠則の対談集で、鶴見俊輔が「あなた(横尾)はズーっと商業主義の真っ只中にい続けて、良く壊れないでいるな。
きっと台風の眼の中に居るようで、ド真ん中は静かなんだろうね。」と言っているのを読み、成る程なあと考えたのだった。

2、で、二川幸夫に戻るが、わたくしのサイトでの「二川幸夫追悼」を久し振りに読み返して、実に面白かった。
わたくしも勿論、書いているし、他に一ノ関ベイシーの菅原正二、建築史家鈴木博之、アルトサックスの坂田明も書いている。みんな真っ当なことを言ってくれていた。
こんなサイトの読み直しなんてのは、これはサイトの軽さ、アブク振りを別のところから見直すのに役立つ。読み直す事なんて事を本能的に持たぬつまり読み捨てが前提のサイトが、妙に別次元でリアルに視えてしまうのだ。時間の効用かなコレワ。

3、「日本の洋風建築は世界的には皆二流三流だ。壊したって構わない。本当に優れた現代建築を建てりゃイインダ」と二川が言う。
「それは違う、たとえそうであったとしても二流には二流の歴史が在る。その現実を大事にするのだ」と鈴木博之が反論する。


世田谷村スタジオGAYA日記 491

1、もしや、ここに作家磯崎新の作家としての秘密の一つが隠されているのではないか。
文体が身につき過ぎているのである。文章が即、身体と直結した知性と直結している。現代美術において、例えば特に抽象画、 あるいは非具象の作家が、このような文章をモノすことは考えられぬ。

2、古壁のシミや柱・梁の汚れを美とみなす我々の特殊な感性が日本伝統建築の根幹でなければ良いのだが、まだ解らない。早く解りたいものだ。

3、デュシャンの泉のスキャンダルが広汎に、そして深く、第一次世界大戦がヨーロッパの人々にもたらせた巨大な不安と関係があったかどうか知る必要があるだろう。

5、一般的にはヨーロッパにおけるニヒリズムはあらゆる都市の地下にローマ時代の遺跡が横たわることから来るとされる。
つまり、都市の死=遺跡と共に日常生活が営まれる事からくる。人々は都市の下に都市の死が存在するのを身近に感得し続けてきた。ワイマールにゲーテが設計した庭がある。ゲーテは泉の湧き出る洞穴を中心に据えたが、小さな別荘(ゲーテハウス)の近くには、後年、異様な廃墟=遺跡まがいが作られた。ゲーテがイタリアの旅をした(グランドツアー)のは海を体験するので、すでに存在した遺跡巡りであった。




世田谷村スタジオGAYA日記 490

1、昨日は中国雲南省プーラン族の若きリーダー(今、進めている計画の)への質問を、まだ体系的にはなっていないが作ってみた。上海に送信するように依頼したが、どうやら佐藤、渡邊両君共に、もしかしたら何も分かっていないのではないかというのに気づいてしまったのであった。こんな魔の時があるのだ

2、古くは中国の国家公務員の試験であった科挙制度には受かるだろう程度のモノである。井上靖の小説『敦煌』に描かれている科挙試験の当日に何故か眠りこけてしまい、俗人生がいささか狂ったようなを思い起こしてみるならば、試験で眠らなくても良いけれど眼先の壁は実に下らないモノであるのも、チョッピリ知った方が良いとは思う。

3、かくの如くを記すのは実はかなり危険な事ではある。何故なら彼等こそはわたくしのこの日記の最良たるべくの読者であるからだ。ネットでの日記の読者程つかみどころの無い人々は居ない。全て、顔も足もない霊長類以前の得体の知れぬ生霊の如くである。

4、ーこいつら、わかってネエーなと、今更ながら分かってしまった二人。

5、この時代の空気を昔、アポリネールは時代のグーと呼び、も少しもって廻ってベンヤミンはアウラと呼んだ。今、想えばアポリネールのグウは、吉本隆明の言ったマス・イメージであるか?双方共に詩人でもあったからそこらは直観に頼るしかない。
恐らく磯崎新が最も信頼していた筈の宮川淳はそれを「消えてなくなることの不可能性」みたいな言い方で表現していた。つまり批評はモノのアウラを消し尽くす方向に動くのが必然であるが、消しても消しても残ってしまうモノがあるって事だろう。

6、残念ながらポーランド生まれであったギヨム・アポリネールはいまだ東洋の思想をそれ程に知らなかった。それ故、あらゆる芸術分野を横断したと言われているが、荘子、老子は知らなかった。
J・L・ボルヘスの博識には及ばなかったのである。
井靖の長編小説『敦煌』はボルヘスの「荘子の蝶」の一行に及ばぬのである。

7、荘子の蝶ならぬ、これもしかし死んじまった二川幸夫に戻る。
二川幸夫は学生が多過ぎるのはイヤだと言い張った。泣く子と二川幸夫には逆らわぬが花である。そうですかと15人くらいに絞ろうとしたが、今度はピヨピヨ学生が文句たれた。差別じゃネエか?という訳である。
二川幸夫から差別を除いたら何も残らない。じゃあしょうがないから、俺も学生として製図に参加するよ。といささかの無謀=無作為の作為をもって設計製図に参加した。

7、たしか、15坪の家を設計せよ!であったか。二川幸夫が出題者であったから、ミース・ファンデル・エ・ローエのバルセロナパビリオンを下敷きにして、水と壁らしきでシンプルにまとめたのであった。学生達の下らネエものの最後に、やはりドーダ、テメエらとばかりにやった。二川幸夫はいたくご機嫌で、「やっぱり製図は先生がやらなきゃあな」と言った。

8、そうしなければこの落差は決して埋まりはしない。そんな簡単に埋められたら、正直こちらの方の生きてる意味だってないのだから。

9、中国からの返信はまだ届いてない。距離だけの遠さではないぞと言うのを二人には教えたつもりだ。

世田谷村スタジオGAYA日記 489

1、世田谷村第四期工事をプーラン族の計画との間に筋径を持たせたり、他のいささかの思考を始めた。


世田谷村スタジオGAYA日記 488

1、夜はモンモンとして「作家論磯崎新」の大筋を考えたりで過ごした。はじまりは、やはり鈴木博之の『建築の世紀末』晶文社、磯崎新の書評から入るかなと決めつつある。

2、磯崎新の文体は、これは天性なのだろうが、クダクダしい修辞が削ぎ落とされていて名文である。

3、批評家は文章が全てであるから、それに精魂を傾ける。建築家はどうしても文章はサイドワークであるから、猥雑物が入り込みやすい。しかし、論考集としてまとめられた、磯崎新の文章群は書き下ろし当時のモノの再現であり、手はつけられていないが、やはり他の建築家のモノとは結晶度、つまりは完成度がまるで違う
『建築の世紀末』は鈴木博之の処女出版であった。それに対する書評は実に鋭かった。鈴木は怒った。当時はまだイギリス紳士風の大様さの持ち合わせが無かったので鋭く反応してしまった。ポール・ヴァレリーとマルセル・デュシャンの場外格闘技の如くになった。

4、磯崎新の鈴木博之の著作に対する批評のタイトルはうる覚えだが「むしろ装飾復活の書として」だったように覚えている。
鈴木としてはゴシックリヴァイヴァルを中心に、むしろ様式復活の意気込みがあったので、それで本気に怒った。建築史家の最良の者は深く潜在的にそうであるのを、磯崎に意地悪く装飾論であると去なされたからだ。

5、飛騨高山建築学校にて、わたくしは始めて鈴木に出会った。裸足で駆け回るが如くの男であった。高山建築学校は校手・倉田康男の私費を投じての私学校であった。倉田は先ず、同級生の生松敬三に教師の人選を依頼したようだ。旧東京高校(一高の前身)の骨太な教養主義者でもあった生松敬三<は中央大学の同僚であった木田元を呼んだ。しばらくして哲学の話したってここではセンナイと痛感したのであろう、小野二郎を呼んだ。小野二郎はウィリアム・モリス主義者を名乗っていたが、高山建築学校での話はどうもご本人が絞り切れずに、不発であった。
そんな中で鈴木博之の論評はさえわたっていた。驚くべき記憶力をベースにした若者らしい明快さを持っていた。

6、鈴木の講義はソクラテスの模倣論であったか。それから和風、そして庭園論と後生の彼の仕事の発芽があった。
「作家論磯崎新」は鈴木博之が主役ではないので、それ等にふれることはしない。
倉田康男は建築家・大江宏に近かったから、大江宏には少し触れることになろう。大江は丹下健三の同級生であった。ともあれ、磯崎の書評に怒った鈴木博之は数河峠にあった高山建築から実にほぼ一日かけて歩き、出来たばかりの磯崎の神岡市庁舎に出掛けボロクソに批評した。磯崎新、鈴木博之の悪縁と言うべきの始まりであった。

7、磯崎は何処吹く風を装っていた。それが長く続いた。
様々な小事件もあった。

8、やがて鈴木博之は同窓生であった石井和紘と並べられ、日本のポストモダンの旗手となった。これは失敗した。その因も又、追い追い述べることにしたい。磯崎新は石井和紘を買っていたから、「石山、石井はどうしたんだ?」と度々、わたくしに尋ねたりもした。
磯崎新の建築論集最終刊、つまりは終わりのあとがきに磯崎新は率直に鈴木博之に対する考え(自分との関係性)を述べている。まさに長い時の一つの結論でもある。

9、鈴木博之も石井和紘も今は共に地上には居ない。鈴木は癌に倒れたが、少なからぬ人々から惜しまれて姿を消した。しかし、磯崎新の最終論考集8の、しかも、肝心のあとがきに磯崎新は彼の名と、業績を短く書き記さねばならなかった。歴史は、終わりが無い。どうやら近代建築様式は姿を消しつつある。
今が「作家論磯崎新」の書き時かな?


世田谷村スタジオGAYA日記 487

0、8月18日 「佐藤健、鈴木博之を供養する」

1、最近はめぼしい友人は皆亡くなってしまった。それでそんな事をマトモに面と言う奴も居なくなった。

2、たいする「オーパ」は典型的な何も無い若者達で溢れる。何やらウサン臭い常連さんの濃い味(実に何も無い)に比べると、近くに居ても何の害にもならぬので実に居やすい。
そして、しばらく「オーパ」に居たら、突然、昔、荒木一郎って名の芸人がいたのを思い出した。

3、コンピューター画面で見聞する荒木一郎はどうやらまだ存命で、しかし何をしているのかは良くわからない。相変わらずの馬面で柄にもなく、カリブのハリーベラフォンテみたいな黒づくめの衣装に身をやつし、バナナボートならぬ空に星がどうしたこうしたを唄っているのであった。実に恥じながら、わたくしと同年生まれであるそうな。

4、佐藤健、鈴木博之といった友人達も、そういえば荒木一郎的なところがあった。強がりと、ひとりグセが同居して、妙によせば良いのに敗者の世界に立ち入るクセもあった。二人共に精一杯生き抜けたけれど大往生とは遠いのであった。
もの哀しさが残る。
佐藤健の「次郎長三国志」、鈴木博之の「南総里見八犬伝」。共に片や仏教、此方近代建築史の、つまりは外来モノに対する探究心が大であったが、その背景には「自分」の身体知とも呼ぶべきが大であった。
佐藤健も鈴木博之も、勿論、荒木一郎のコトは知っていたろう。
「アア、あの少女暴行未遂の歌手」くらいには。コンピューターで荒木一郎の唄を聴いてしまっていたら、他にもゾクゾク出てくるではないか。いちいち記すのも面倒くさい程に。皆、佐藤健、鈴木博之の世界とは遠い。当たり前である。佐藤は究極には浪曲を好んだ。鈴木は例えばビートルズの唄を原詞でヤルのを好んだ。
今はそんな事をよりクリアーに思い出すのである。ようやくにして盆明けである。わたくしも気持ちを切り替えるために二人の亡き友に供養代わりに駄文を寄せた。二人共読んでバカ奴(※1)とくさすであろう。



世田谷村スタジオGAYA日記 486



世田谷村スタジオGAYA日記 485

1、午後遅く8月23日鈴虫の会のチラシ100枚程を配布。

2、朝日新聞に岩波書店が柄谷行人の全面意見広告をうっている。憲法9条をよりクリアーに実践すべきの主旨。

3、気仙沼安波山植樹は安藤忠雄事務所と協同で今年で4年になる。毎年夏になると100本以上山の急斜面に植え込んだ紅いサルスベリの樹の花が咲いてくれるのを心待ちにしているが、地元からの話では、どうやら今年は山腹に丸い円の紅花が出現するのではないかと期待している。想定していた山の気温がサルスベリには少し寒くて遅くなった。

世田谷村スタジオGAYA日記 484

1、代講を務めた沖縄の牧師・島田善次さんの話が実に良かった。宗教者の生き方はこうもあるかと考えさせられた。島田善次さんは天皇の戦争責任をあからさまに述べられ、それが今の沖縄の諸問題に通底しているとされた。

2、沖縄の米軍基地の一つや、二つをそれを内地に持ってゆくべきだと言うのも実に良くわかる。

3、会場からは講演にキリストのキの字も出なかったが、これはいかに?の、コレは島田氏の話を聞けば明らかに内地平和ボケ(※1)の何処かの牧師からの質問があったり、沖縄独立論のリアリティはどうかの質問があったりで水準の高い講演会となった。
やはり一人の人間の烈しい歴史に対する考えに対する自負とも言うべきの功である。
※1 平和ボケはボケの中では一番不自然なボケであるとボケる。

世田谷村スタジオGAYA日記 483

1、昼前にプーラン族のための家具のドローイングを一点得る。バウハウス、ルーフライトギャラリーでの「マンメイド・ネイチャー展」の基本ポリシーを示した家具群のアイデアをベースにした。今のうちにこのアイデアを良い形で示しておかぬと危ないなの気持ちが強い。
16時柄谷行人『遊動論』読了。

2、柳田国男がその初期に論じた山人についてを始まりに、以降それについて触れなかったの通説をひっくり返そうとしている。少数民族。遊動者としての山人を柄谷の自説である交換様式Dと仮説し、柳田国男への対抗論者とも考えられる網野善彦、南方熊楠、折口信夫、宮本常一等の論説を検討している。その意味では日本民俗学の系譜を概観し、更には現代思想の中に再置換しようとしているとも言えよう。

3、柄谷行人の「柳田国男、遊動論」は日本及び世界の一部の民俗学を、それこそ採取吟味しながらの、柄谷自身を採取民(山人)の立場に置き換えての論の組立が実に平明で解りやすい

4、プーラン族のこの計画のリーダー達の考え方には色濃くマルセル・モースの贈与論があるから、計画を実現、運営、維持するにある種のユートピア的組合論が必須だろうとは考えていた。
彼の家系、親族を中心にして三十名程のX組合を作ることから始めてみようか?
プーラン族自体がクメール族をルーツに持つ、恐らくは遊動的性格が色濃い少数民族であるから、余り構想を膨らませぬように自制することは必要だろうが、可能性は大きい。

世田谷村スタジオGAYA日記 482

1、朝ドローイング三枚描く。

2、ここ数日、仕事の合間に柄谷行人の『遊動論 柳田国男と山人-』を読んでいる。

3、遊動論は柄谷行人の中でも特異であり重要である。非常に面白い。「雲南省は是非行ってみたい」の言がよおく、こちらも理解できた。第二章 山人で出てくる「焼畑狩猟民の社会」の椎葉村は民族映像文化研究所の姫田忠義さんのドキュメンタリー映画で体験した事がある。 
(注)この記憶は誤りで姫田忠義が映像記録に残したのは高地池沢町の椿山であった。
柳田国男の山人(山民)論は柄谷によれば初期に書かれ、以降柳田は稲作農民=常民」へとテーマを移していく。しかし柳田には山人は列島の先住民族であるとの直観があったようだ。

4、直接に生産の現場を持たずとも平然として生き得る人々である。

5、山岳高地で会ったプーラン族の人々は私には実に独特な人々のように感じた。
先ず何よりも人間(他者)への親和力が大である。侵入者(訪問者)に対して実に自然である。ミャンマーとの国境付近(60km)の高地で異人の訪問は実に稀で、用心深くなる必要があまり無い。
それよりも何よりも彼等は豊かなのである。

6、オイルマネー程の事はないが、お茶は生育させるに知識と経験を必要とするが、巨大な工場を作る必要も無い。ある意味では米と同様な循環産業であるが、その経済的単価は米、麦よりも高価である特色を持つ。
それに中国では良茶は漢方に通ずる大きな付加価値を持つ。プーラン族の中でも独特な草木菌(キノコ)に関する知識の豊富な漢方薬医は少なくない。

7、わたくしが彼等の親和力に驚いたのは、まさにウィリアム・モリスのユートピア便りに描かれたような不思議な豊かさに溢れた経済力をベースにしたものであった。
山人、は日本ではサンカ・マタギとも呼ばれたりして貧しい異形の民族であるとされてきた。しかしプーラン族の民の今は異なる。何よりも豊かなのである。勿論それは砂漠の民のオイルマネーの異常さとは異なる。油と茶の基本的な性格の差である。

世田谷村スタジオGAYA日記 481

1、暑さはしのぎやすくなった。夕方オーパでつまんだ砂肝、レバーのにんにくいためがとても美味であった。

2、わたくしはほぼ夏休み状態であるが、ホームページは日記のみならず日々更新されている。

3、わたくしという生身が消失しても、ページは動く可能性が充分に在るという事だ。

4、佐藤研吾とアヤちゃんの共作「鈴虫チラシ」は面白い。500枚程近所に配るつもり。これはわたくしがヤル。

世田谷村スタジオGAYA日記 480

1、夕方、北池袋教会牧師・芳賀さん来る。最近は烏山の教会に出掛けなくなっていたので、行くようにうながされた。
率直に従うことにしたい。
芳賀牧師は又、核廃棄物に関する映画の上映会を持ちたいので、GAYAに協力してほしいと申された。以前、北池袋教会にて同じテーマのドキュメンタリー映画上映に協力した事があり、続行するとの事である。
勿論、引き受けることにする。秋から年末の時節になろうか。鈴虫の次は核廃棄物になるか?

2、旧約聖書では神は二人の兄弟をご覧になった。カインは農業を営み、アベルは牧畜に従事していた。神は結局兄カインをしりぞけ、牧畜をするアベルを選ばれた。
何故なら冨の一方的集中をしりぞけ、牧畜の平等的分配を選んだからだ。農業というモノの本質を歴史的にとらえていたのだ。

世田谷村スタジオGAYA日記 479

1、atプラス祝祭都市特集は磯崎新の東京オリンピック批評でもあり、それをプロジェクトの形式で示そうとしている。
つまりオリンピックが東京で開催されなければ、自立したプロジェクトの意味はないとも言えよう。
時節は不定で、しかも皇居前で巨大なイベントをするのは、それがどんな形式を持ち、知恵が投入されるものであるとしていも、誰も思いつく事も出来ぬであろう。根拠があり過ぎると同時に無い。
皇居前広場はまさに天皇が形式的、(演技的)であるにせよ日本国を統治する、皇居という驚く程に抽象的で意味の希薄な場所である。

2、流石の磯崎新も、そこでの催事の中身に関しては、つまり、そこで何するの?にはまだ答えらしきも無いようでオリンピックを発端とする100日という長期プログラムには触れていない。未完の海市計画と同じに大きく他人任せの、それこそ更なる事件待ちの有様なのである。他人任せと言っても人間としての他者ではない。社会のキシミを待つ、それが大きな音を発するのをジイッと待っている。実にシブトイと言わねばならぬが、普通に考えれば一番肝心のコトが空白なのであるから。これは明らかに意図的に欠陥が用意されたか。でも再び言うがこの空白を埋められる人材は出現せぬだろう。

3、中国で磯崎新が学び身につけたのは、スケール・アウトである。中国建築とヨーロッパ建築との違いは、その大きさについての観念である。観念そのモノにすでにスケールの逸脱の構造があるが、磯崎は中国に捕まりそのワナに落ち込んだ。ノンスケールは皇居前広場の16万5千平米の大きな空虚につながる。

4、反回想の形式は懐古するという実に自然な人間の感傷とも考えられよう思考の形式さえ外そうとする磯崎新の意志そのものでもある。死者への回想を含めての個人史は、それこそ歴史を形成する重要な要素であることは間違いない。小林秀雄は歴史とは母親が死んでしまった子供を愛おしむモノと同義であるとした。
磯崎新はそのような考えの枠さえも外そうとする。恐らくは本能的にそうせざるを得ぬ内的資質である。コレワ。

世田谷村スタジオGAYA日記 478

 1、我孫子の廣瀬英男さんから再びお手紙をいただく。わたくしの返信に対する私信である。どこまでそのやり取り を公開してよいのか、実に微妙な問題だ。でも全てわたくしの責任においてできる範囲内で公開する。何故ならわたくしの 社会に対するスタンスが、そのヤリトリの内に良く現れていると思うから。

2、鈴虫の会が8月23日夕刻、烏山神社志村稲荷で開かれる。この会は発展させて、2018年頃に世田谷区 馬事公苑での子供たちへの馬車を走らせようとの計画につなげる予定だ。これが我々の2020年東京 オリンピックに対する考えであり、行動でもある。オリンピックは東京に、イヤでも何でも来てしまう。余程 の事がない限り。世田谷区にも来てしまう。2020年東京オリンピックでは世田谷区にもオリンピックはやってくる。

馬事公苑がオリンピック種目の馬術競技の会場になるからだ。そこで、それだったら馬術競技も良いけれど、 子供たちのために小さな馬車を走らせてみようか、が我々の計画である。そして、その準備のための第一回の 試みが8月23日の鈴虫の会である。

3、笑いは2方向性を持つ。少なからずは他人の非、不様さに対するものだが、時にその笑いは自分自身にも 向けられている事が多い。あーあ、あんな事やっちゃって笑わせるぜ、が、同時にあんな事も出来ぬ自分を 笑っている。
かくの如くの少し計りねじれた笑い、卑屈な笑いをわたくしは好む。正義には笑いはない。自分が一方的に 正しくって、他はそうではないの差別構造が常に潜んでいる。他を差別する程に人間はそれ程にカシコクも 人格も共に高潔ではない。満心身共に傷だらけアカサビだらけが正体である。
廣瀬さんはドリトル先生動物園倶楽部にも関心を持って下さった方だから、恐らくクスクス笑いの潤滑油の 効能は良く知る人物なんだろう。

4、馬事公苑の世田谷オリンピック、馬事計画はクスクスと笑えるが、(笑えない人もいるだろう)磯崎新の2020年 東京祝祭計画はとても笑えない計画である。

5、磯崎新安藤礼二の対談は基本的にすれ違っている。磯崎新の皇居新ルーツは岡本太郎の「おばけ都市」である。

6、磯崎新が簡単に京都学派、そして古神道に乗るわけも無い。彼はヨーロッパ主義者だから、いくら晩年の人生とは言え、 その主義の衣を簡単に脱ぐわけにはゆかぬのだ。浅田彰と気楽に話している自由さはこの対談には無い。皇居前が土俵にな っているからだ。

7、大澤の小論で驚いたのは中上健次の小説が少なからず引用されている事であった。中上健次と磯崎新は、中上の 全ての過剰さと、磯崎の空白さ、希薄さへのどうも止まらぬ接近グセ故に真反対の作家である。小説家と建築家を 同列に並べて論じるのは困難極まる。下らぬ事を言っている様だが違う、論じられぬ双方を無理矢理論じようとするのには 必ず評者の強い意図が隠されている。
大澤は祝祭都市という言葉に強く惹かれて、自然に路地(被差別部落)の中上健次を頭に浮かべ、それで良く解らぬ ママに磯崎新をそこに引き寄せたのである。

8、言語を表現手段とする人々にとって他の分野(表現)を見回してみれば、今や磯崎新以外に何者もその思考の対象 とはなり得ぬ現実がすでに在るのだ。
atプラスの磯崎特集への寄稿者のほとんどは磯崎の物質による作品は一向に知らずとも 磯崎新の最終論とも呼べる『磯崎新建築論考集』岩波書店は批評家にとっては踏み入るに実に容易な手立てをも示している。
8巻に及ぶ論考の積み重なりは、それを読まずには日本の建築家という存在形式、および建築創作家という存在形式を論じることが不可能な如くに布置されている。
atプラス25の祝祭都市プロジェクト特集も又、これは半分は無意識の内になされた磯崎新の布置のヘイなのである。

世田谷村スタジオGAYA日記 477

1、しかしながら多くの人々と話し合いを続けていると、実に建築とかの同業者たちとの専門領域に囲い込まれた考え方の群よりも実に普通の言葉の中に居ることが出来る。そんなマトモさは少し計りの暑さくらいには耐えられるのである。でもマア、それでも暑過ぎるコトは、実に暑い。
”街(は)人間だけが住み暮らしているワケではありません。虫も色んな生物も植物も共に居るところです”のコピーを加えて、一応の作業を完成した。
2、「東京祝祭都市構想」2020年東京五輪に向けて、atプラス25が送られてきた。
磯崎新の東京五輪に向けた皇居前広場を催事場にの持論がいささかの作図、ドローイングも含めて述べられている。巻頭対談は安藤礼二と。
これは眠れぬ夜に読むにイイかなと思い、早速、横になり読んでいるうちに眠くなってしまって眠った。磯崎新の最新プロジェクトでもあり、より大きく都市論が展開されていると思いきや、一度読み通しても、良く解らぬもやもやだけが残るのであった。
3、新国立競技場のゴタゴタは良かれ悪かれ建築に内在される問題を社会化する事になった。社会的問題の水準が大きな問題として浮き上がった。ナショナル・ロマンティシズムを根とするフィンランドでは常に建築の話題が新聞一面に多く取り上げられる。そうした論議の中から日本の場合よりはマシなジャーナリズムは「建築」を正統に良く理解しない。「建築」の歴史、すなわち近代建築の歴史があまりにも浅いからだ。新国立競技場問題は遂に一向に「建築」の問題としては何処でも論じられる事がない。これからも期待できぬであろう。
4、しかし、書かれている言葉は実に七面倒くさく解りにくい。言葉に力が無い。思考は自然にとも言うべく言えば言う程に高度な専門語の世界へと迷い込んでゆく。当然読者も次第に敬遠するようになる。苦しい同人誌の如くになってしまうのだ。
磯崎新のこの言説が主体のプロジェクトは次の段階でより広いマスメディア、あるいは更にラディカルに新聞の一面広告程に開陳されるべきだろう。すでに新国立競技場問題はそれ位の広さにまで拡張されてしまったのだ。その意味では磯崎新が国際記者クラブで会見したりは良かったのだが、、、。

世田谷村スタジオGAYA日記 476

1、クライアントに甘える事はならないが、もっと恐いのは我々自身を甘やかすことである。保育園の運営事業も又、会社では苛酷な事業である。子ども達を預かり、保護し、なおかつ育てるのは、 モノを作る以上に大変な事であるが社会にはそれに対する満足すべき考えが小さいようにも思う。
保育園事業は実に国の、そして地域経済の基幹事業なのである。
新国立競技場のドタバタ劇を見るに特にTVの報道、つまりはジャーナリズムの底の浅さが眼に余る。一つの競技場よりも、むしろ多くの保育園事業へ眼を向け、その現場の労働の価値を、論じるべきではないか。

2、大澤さんは東北大津波の現実に対して、自腹を切って、コミュニティ・ラジオに参加した。その体験はわたくしにとってかつて自由ラジオを提唱した粉川哲夫には少なからぬ思想があったが、現実の人々の生活感覚(経済原則)と乖離していた。大澤さんには言葉による思想らしきはそれ程にないが、自腹を切って社会参画する勇気があった。
少なからず話して、何か一緒に出来ないかの考えが生まれたりもした。

世田谷村スタジオGAYA日記 475

1、朝は日課になっている世田谷村内部の植物たちに水やり、そして三階テラスのネットにまきついて必死に、これも頑張っているキューリ、ゴーヤ、朝顔他にたっぷり水をやったりで過ごす。植物は生物とは少し異なり、すぐに反応したりはしないが、これも面倒をみていると愛着が湧くものである。
ブルース・ガフには名作「植物愛好家の家」がある。アレはむしろ「人間愛好家の植物の家」と名付けていたら、それだけで現代的な価値が発生していただろうにと夢想する。
2、今は日本列島は酷暑の夏だけれど、雲南省プーラン族の高地は涼しい風の中に在るのではなかろうか。かつてミャンマーのパガンへ夜汽車で走った時、窓外の木や竹で作られた家々の明かりが、まるで虫かごの群の如くに視えていたのを思い出したり。
大自然に恵まれたところでは人間の生活も又、そのシェルターは虫カゴの如くで良いのであろうが、プーランの長老が若い人はプライバシーを大事にしたがるので、そうもいかないと、言っていたな。

世田谷村スタジオGAYA日記 474

1、昨日3日夕刻近くの南蛮茶館で鈴虫翁香川さんにお目にかかる。沢山なお話しをうかがう。大変面白く興味深い体験であった。昔、山本夏彦さんの個人誌でもあった室内で10年以上にわたり100人以上の職人さん達の聞き書きを続けたのを思い出した。香川豊宏さん、昭和14年生まれ、東京浅草は鳥越の生粋の江戸っ子である。その詳細は追い追い述べたい。
2、オーパは長崎屋とちがい、若者で溢れ返っていた。これにはいささか辟易したけれどぜいたくは言うも恥ずかしいのである。
香川さんは長崎屋ではどうも異色の人物なのだが9年前に奥さんを亡くして、今は鈴虫1000匹との共生生活をなさっている。フッと、山口勝弘先生を思い起したりもした。
3、今の山口勝弘先生も香川豊宏さんも、自分の生命をいとおしむところ大であり、それが芸術の制作をいとおしむ、そして鈴虫1000匹をいとおしむにつながっているのではなかろうか。

世田谷村スタジオGAYA日記 473

1、簡単なことだろうと考えて始めようとした鈴虫の唄を聴く会が、コレが実に大変なモノであった。
2、鈴虫名人香川さんと何度も電話のやりとりがあってアイデアだってチリン・チリンどころかグラグラしちまう。
でも、ヤルぞ、困難なのがわかったから。日々状況も変わるから、出来るだけ関心のある人は日記を読むようにして下され。日記他に少し計りの変更がおきるのは、これは避けられそうにない。

世田谷村スタジオGAYA日記 472

4、滅多にお目にかかれる仕事ではないし頭を切り替えたい。
プーラン族のためのモノはプーラン族の手で、、、つまり自分達のモノは自分達で、というわたくし本来の開放系技術の考えをしっかりと基盤に据えなくては何の意味もない。
5、早朝、先日小さな論議をした岡山県備前市閑谷学校のゲラに手を入れる。読み通して、やはり中々気合いが入っていたなと痛感する。故郷に対する礼儀だなコレワ。
故郷に学ぶということだ。
中国雲南省プーラン族の計画に、コレワ生かしたい。

6、一昨日、先日お目にかかった柄谷行人さんからメールの返信が届いていた。NAM再開に関しては気乗りはしないが、雲南省プロジェクトには関心ありとの事である。NAM再開はわたくしには「飾りのついた家組合」の実行なので、ゆっくり説明しつつ、やってみたい。

世田谷村スタジオGAYA日記 471

1、この「香川さんの鈴虫」大会はいずれ4年たったら馬事公苑の馬の話につなげるつもりなのだが、コレワまだ書くに早過ぎる。
2、入口ロビーに炭がつめ込まれた太目の金網の ベンチが置かれている。
「この炭はなんですか?」
「ウチの社員は年をとったら岩手の山中で炭焼きをやって老後を送るんです。」
冗談なのか本当なのか解らぬ言が返る。
この当たりの機微が中々に良いのである。聞けばここの前は岡山のマツモト・コーポレーションでゼネコン暮らしであったそうな。
「あの頃に比べれば今は楽ですから、土曜でも休めませんよ」
各種金網を実験して、すぐにこれなら値段的にも使えるかの黒くアルミメッキしたモノを見つけた。このメーカーは、そして人物も親しくなれば大きな可能性があるな。ここの製品で家具をやってみようと考えた。
3、ここでGKより依頼されていた追悼栄久庵憲司・原稿を下書きする。何とかまとまりそうで、17時開いたばかりのオーパに寄り、キュッと一杯やりすぐに世田谷村に。

世田谷村スタジオGAYA日記 470

1、その香川さんが虫の大家なのである。虫の大家と言っても、コレもわからんだろう。つまり、鈴虫を育て、かつ鳴かせたら日本一と言えば反論もあるだろうから、関東随一、これじゃあヤクザ同然だから世田谷に並ぶ者がいない。もっと謙虚に千歳烏山では確実に一番、すなわち唯一の人物だ。まだお宅にうかがった事は無いので、その壮絶な有様は体験した事がないが、夏の盛時には1000匹以上の鈴虫が、それこそチリンチリンどころじゃあなくって、おそらくヂリヂリ、ギャー、ギャー虫カゴ群の中で鳴き騒いでいるらしい。そうぞうするだに恐ろしく、かつ美なるものである。
その香川さんに「鈴虫のプロレス興行やって、ひろもうけするべー」などと持ち掛け、「バアーカ奴」とにらまれた事もある。そういう失敗、あるいは恥ずかしき事々の末に、我ながらイイ、アイデアが出ちまったのです。グデグデは打ち切って結論を言う。

2、8月15日(土)夕方4時、つまり16時。
世田谷区南烏山2丁目の烏山神社境内、志村稲荷にて、香川さんの鈴虫の音を聴く会、および希望者には頒布会(※1)を行なう。
鈴虫の鳴き上手は、ソプラノ、テノール、アルトに区別されるので、うるさい人は(ああだこおだと言いつのる人間は)事前にその旨連絡されたし。
主催は「飾りのついた家組合」、 事務局はスタジオGAYAである。
連絡はメールにて願いたい。 ishiyama.arch@setagaya-mura.net
雨天、そして台風来襲時はたちどころに中止。鈴虫の命は短いので、その場合は延期もありません。
老若男女、一切問いません。ただし、犬猫はご遠慮願う。
(※1 頒布希望者は虫かご持参。100円虫かごでも、そこらの虫かごでもOK) 

世田谷村スタジオGAYA日記 469