唐突に得体の知れぬであろう模型写真をONしたけれど次第に変容させブラシュアップしてゆく所存である。先ずは説明的なモノはジャマだと考えた。黙示録的な巨大な複合災害に際して、やむを得ぬ気持で作り出したものだ。
常に、わたしの、自分で言うのも笑ってしまうけれど、今はそんな事にかまっている場合ではない。わたしの建築、および建築的イマジネイションは洞穴、あるいは避難所的な風がある。ひろしまハウス、しかり、時間の倉庫しかり、古くは開拓者の家、幻庵もそうであった。このわたしの骨格とでも言えよう考えは、今、現実の巨大災害の役に立てるのではないか、が全てである。
壊滅状態となった気仙沼市に設計したリアスアーク美術館は山上に打ち上げられたアーク、箱船をイメージしたものだが、これは、20代に出会った川合健二夫妻のドラムカン住宅を、これはノアの方舟だと直観したことから生み出されたものであろう。それ計りではないけれど。
その直観だけを頼りに手近にあったゴミで模型を作った。ゴミで作った方が良いと考えたからだ。模型を作る前にはスケッチをした。これもおいおい掲示するが、スケッチはどうしても説明的になってしまう。小ざかしいのである。こんな事態に際してそれは余りにも卑小にしか思えない。それでほどほどのスケッチをベースに、廻りのゴミですぐに模型を作った。
わたしの良く知る、知り合いも多い三陸リアス海岸の町々が壊滅して、流されてゴミの山になっているTVの映像を眺めながら、そうした。この現実に立ち向かうには小ぎれいなチョコマカしたモデルでは駄目だと思った。一人よがりだろうけれど、間違ってはいない。
わたしの作ってきたモノに通底する避難所的意味合いを、短期間にまとめてゆく。このメディアはXゼミナールとは関連させたいが独立独歩でやる。友人と言えども犯されたくない何者かがあるからだ。議論以前の地点の作業だからである。
Xゼミナールでは議論可能な共通のフィールドを出すつもりである。「場所と共同体」の主題になるのではないか、と今は予感している。