石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2003 年11月の世田谷村日記
 十月三一日
 十月も終わりだ。

 十月三〇日
 朝七時。鈴木博之さんから送られて来た「都市のかなしみ・建築百年のかたち」読む。だいぶ前の事だが、彼が皇后墓陵について、仕切りに深い悲しみという様な事を言っていた時期があった。遂にその意味を聞きそびれているままに今日に至った。それはとも角彼はいよいよ成熟していると痛感した。十五年程も昔だったかすでにゲニウス・ロキを言い始めていた彼に、これは負け試合になるかも知れないぞと忠告ならぬ、戯れ事を言った事がある。当時はまだ誰も日本がこんな姿になるとは思っても見ていなかった。今、こんな状況になって、経済主義への疑問も一般的になりつつあるし、あらゆる言説に単純な希望等うかがい知る事が出来ぬ中になって、鈴木さんの言葉は不思議な光を発し始めている。皇后墓陵に関しての、今はおぼろな発言とこの本の通奏低音となっているかなしみとはたぶん違う。が、今の彼が正面切ってかなしみと言うような概念を出してきた事が大事なのだし、人間の成熟、文化の成熟にとって一種の必然でもある、哀しみ、アイロニー、メランコリアというような感性の十全な発露がここにはある。藤森照信の「たんぽぽの綿毛」だったか、と形式は異なるが同じ音が密かに響いている。別の感じ方から言えばここに述べられているのは高度成長、人口増加時代の青春からの確実な離脱の自覚だ。十二時過迄読みふけってしまった。十三時半大学。講談社園部氏来室。カンボジアの渋井さん来室。十六時卒論最終ゼミ。十七時半修了。再び「都市のかなしみ」について、この本は二年間にわたる中央公論誌への連載がベースになっている。連載時は建築百年のかたちというタイトルであった。それが本の題名として都市のかなしみとなり、建築百年のかたちはサブタイトルとなった。出版元の中央公論社はとまどっただろう。鈴木博之の人柄を少しは知る私は、このタイトルに関して鈴木がかなしみという都市論としては異様とも思える表題をゆずらなかった事を憶測する。言い出したら、曲げぬ人だから。たかがタイトル、されどタイトル全編読了して、私は「都市のかなしみ」とした鈴木の真意を行間に求め続けた。ゲニウス・ロキを言う鈴木博之に負け戦さになるぜ、としたり顔でいった私が、少し恥ずかしい。前作、「都市へ」をこの都市のかなしみと併読するならば、鈴木の著作の価値をはっきり了解する事も出来よう。大昔板橋に小さな建築を建てた。建築の悲しみってのも確かにあって、大昔の決して満足ゆくモノではない物が延々と今でも、若い時のママ建ち続けているのも、それだ。今、作っているのも、その散歩圏に友人が居るか、居ないか調べた方が良いな。
 少し中だるみした、今日この頃であったが、鈴木の論述に尻を蹴とばされる思いがして、気を引き締める。友人の背中が大きく見えだしたら、辛いだろうと思ってはいたが、あんまり距離を引き離される前に、少しは追いついておきたいけれど、異常な努力が必要だろう。「友が皆我より偉く見ゆる日よ、花を…。」の石川啄木の句があったが、そうならぬように力を尽くしたい。
 しかし、日本の抒情歌人の哀しさの質と、鈴木の言う哀しさの距離は大きい。長田弘の抒情の変革を読み直す必要があるなこれは。

 十月二九日
 九時入江主任、嘉納先生と相談。稲門会の件学会の件その他。十時半創生入試百二名のスケッチ等見る。十二時前修了。どんな件でもいろんな意見がある事は面倒だが良い。十四時臨時教室会議。集まり悪し。十五時半修了。只今二十時京王線新宿駅。世田谷へ。今日は学科の会議中にプノンペンの渋井さんが来室してくれたようだ。来月十七日迄日本に居るようだから、一度お目にかかれれば幸いだ。

 十月二八日
 十三時修論ゼミ。十五時修了。十六時前上石神井早大高等学院へ。院長、山岸先生共に不在であったが、教務副主任星野先生等と会う。十六時過、電子・生命工学の石山さんの後、院生に建築学科とはの小レクチャー。早稲田大学本部及び執行部は学院に冷たい。早稲田の中枢は学院だからだ。中枢にはまだ本来の早稲田スピリッツが存続している、それはありきたりではあるが在野の精神で、常に執行部的精神とは対峙しやすいからだ。夜、世田谷で月下美人、又一輪咲く。

 十月二七日
 二十五日は白井総長と建築学科教室メンバー何人かとで諸々の話し合いを持った。学部再編その他の件。
 十六時梅沢良三先生、二件打合わせ。十七時半修了。八大建設来室。夜、世田谷で月下美人二輪咲く。

 十月二十四日
 早朝五時前起床。十勝での連続講義「生命と場所(環境)」構想を練る。今設計作業中の建築の出来上がりはじめと同時に開講したい。年に四回、春夏秋冬。各三日づつ位なら可能だろう。今日十勝の後藤さんが来室するので具体的に相談してみる。十一時半研究室妙高寺会館M1の仕事を見る。彼等のはミジンコレベルだが、良い芽もあった。昼食サンドイッチ、牛乳。十三時十勝後藤氏来室。十四時過まで打ち合わせ。十勝を後藤さんが背負う日が必ず来ると信じている。十五時製図中間発表会百人分を全てやったが、十名位だな、何かクリティークするのに足るのは。二十一時半までかかる。二十三時過帰宅。晩飯を喰べるのを忘れていた。

 十月二十三日
 毎日新聞朝刊にモーターショーに和風デザインの車が登場したの記事がある。名も風雅、息吹、鷲羽など日本名が取り入れられている。ホイールに葵の紋や内装にうるしが使用されるなどしているようだ。和風の車とは意外であったが、燃料電池、ハイブリッド等環境適合可能な技術開発には巨額の金がかかり、日本の自動車メーカーも将来の生き残りを余儀なくされているようだ。グローバルな市場での競争は不思議な商品を生み出す、きざしだろう。日本の建設産業、住宅産業共にグローバルな競争からは無縁だ。文明はグローバルな競争市場の渦中に居るのは当然だろうが、しかしデザインという文化的意味合いの強い価値の世界は個別性が重要なのだ。十二時研究室、聖徳寺住職、中川さんと打ち合わせ。十四時迄。突然ごうど氏来室。私の研究室をルポルタージュして一冊の本にまとめた人物である。近況を話したりで、帰った。フリーのライターというのは本当に大変なのだろうと思う。マ、こっちだって大変なのは変わりないけれど。十六時半コンバージョンについて打ち合わせ。十七時過ぎ、ルーカスのスタッフとお茶のみ話。十九時新宿東口、柿伝にて「無目的の会」中川、佐藤、入江各先生と。二十二時了。

 十月二十二日
 八時起床。小雨模様。今日は午後に雑用が多く入っている。九時聖徳寺二代目住職に電話。境界の件は落着した。十一時半研究室。雄大に大学迄車で送らせた。歩くのが嫌な時もある。研究室のホセよりブラジルのガブリエラから私にと送られた本のページを繰る。何年も前にサンパウロ大学で会った女学生で、リオデジャネイロ大学のマスターだった。瞼が垂れ下がる病気の人のための眼鏡のデザインをプレゼンテーションされた時の印象は強烈であった。リオデジャネイロの社会的弱者達への視線には彼等との連帯と呼びたい位の強い愛情があり、廃品、消費生活、都市への考えも一本強い筋が通っていた。そのスタディが一冊の本としてまとまったのだ。ホセには必ず彼女と連絡するようにとオペレーションしたのだが、こういう若い世代しかも女性は今の日本には皆無だろう。彼女の視点の存在を知り、それが私の仕事のWORK Forマイノリティーへの刺激になった。何年も会っていないが、内外問わず私が会った学生では最も刺激的な人間だったのだが、ガブリエラの本を眺めてその健在振りを知って嬉しい、十三時学部再編の件で集まり。入江主任の代行で出席。砂の数程教授は居るが、教育の学内システムに関心を持ち、かつ能力がある人間は少ない。機械B(生命工学)の山川教授はその一人だな。信頼できる。十四時半陸海。中国非自発移民住宅の研究、相談。世界でまだ誰も手をつけていない研究だ。成功を祈る。十五時半共同通信来室。コンバージョン取材。十六時半昭和、原口氏等三名来室。十七時迄。夜、外国人留学生を中心としたチームのミーティング。二十二時過世田谷村に戻る。日本の仏教読み直す。

 十月二十一日
 七時過起床。聖徳寺境内の件で中川さんより電話あり。あらゆる仕事にもめ事はつきものだが、寺の墓地の境の件。なんとか大寺院を手掛けてみたい。アイデアはあるのだが、チャンスが欲しい。昨日フィンランドに仏教パビリオンを建設する件で馬場照道の協力を得たが、実現には何年かかかるであろう。十時半世田谷村発。中央高速を経て富士ヶ峯へ。途中、ほうとうを喰べる。十三時現場。墓地全体の工事が動いている。田中測量の立会いの許、再度境界確認。その他諸々の打合わせ。建築内部より富士山が大きく視えるのを確認。屋根が、かかってから一度も富士全体が確認できなかったので、大変良かった。この山は内部に取り込めそうだ。色光を取り込む事を決心する。寺院にカテドラルのバラ窓があっても良いだろう。幻庵以来になるな、色光を本格的に使うのは。先代住職にあいさつ。中川さん、栗畑君とヨーグルト等いただき、十六時頃現場を去る。帰途、車の中で、この物件の最後のつめを考え続ける。十七時半世田谷村着。大学へ。十九時頃研究室。車中で考えたアイデアを森川等担当者に伝える。ハードルを高くしたので、飛び甲斐がある。続いて二、三打合わせ。二十四時半頃世田谷村着。良い建築を作る事と最短距離で対面している時は身体が軽くなる。この建築は何人かの友人に観てもらおう。二川幸夫にもしばらくお目にかかっていないが、マ、イイ建築を手みやげにしなければ会っても仕方がない。コレは大丈夫。年内にはなんとかしたい。

 十月二〇日
 朝、昨日の続きで、グズグズしている。沼津の病院に居るだろう藤井晴正も、こんな風にグズグズしているのだろう。多摩プラーザの山口勝弘先生はいかがお過ごしであろうか。昨年の今頃は東大病院の佐藤健を良く訪ねた。生老病死は誰も逃げられぬ決りだが、それ等の事への対処がまだ良く解らない。今のママ、ジタバタと対応していたら駄目な事だけは痛切に解っているのだが、出口が良く視えてこない。多分、友人達も同じような事情であるのだけは予測できる。人間の歴史で初めての事なんだからナァ。人間がこんなに長生きしてしまうのは。ここで何かを考えつく、発見するか、しないかは分岐点なんだろう、それが出来るか、出来ないかはそれぞれの地力だろう。
 十一時過研究室。山口先生に電話する。お元気であった。生命と環境について関心が強くなっていると言う。良い芸術家は勘が良い。沖縄プロジェクトに関しては生命と環境をテーマとするのを確信した。研究室の三分の一の力を当てなければと決心する。上海Gスタジオとの関係も密に同済大学を中心に生命・医療、東洋医学の中国サイドの世界を拡げたい。十二時半昼飯。焼魚定食。十三時過ぎ十川アパート打合わせ。九州忍田邸は私のモノとしては技術的表現を徹底的に押さえて、デザインはスタンダードを目指してみよう。坂田明の吹くスターダストみたいな奴だな。施主はビートルズ・マニアであったらしいから、ヘイ・ジュード、フール・オン・ザ・ヒルそしてイマジンの感じで作ってみようか。それ位のテクニックはもうあるからね。いつまでも激しいのも良いけれど、そろそろバラードもやってみせようじゃない。十六時真栄寺馬場昭道住職来室。佐藤健の一周忌の件、フィンランドの件を依頼。十九時まで。厚生館打合わせ二〇時忍田邸打合わせ二十一時迄。#5朝山邸二十三時迄。世田谷村着〇時。明日は富士山、聖徳寺現場へ。

 十月十九日
 完全休養。本も読まずに一日中寝た。これでは休養じゃないな療養だ。二階に大きなソファーが一週間前から入っている。小田急デパートで買ったもの。うすいグリーンの、いかにもな奴だ。何がいかにもなのかと言えば、いかにもデパートの家具売場で売っているようなという、いかにもな奴だ。最初は気にならないでいたのだが、フット何か異和感を感じたのをきっかけに、気になって仕方がない。ここ世田谷村にはこういうのが似合わない、と感じさせる何者かがある。原宿を歩いている時の異和感に通じる。このソファーはムラタのカサブランカシリーズ中、カデンザと呼ばれる、マア中級ブランド商品なのだ。何故カサブランカなのだろう。ボギーが空港の霧に消えた憂愁のカサブランカなのか。あの映画に出てきたBarのインテリアに置かれていた風のものなのか。ここは緑が多いので、もともとが南国風である。カサブランカの地理的イメージは決して似合わなくはない。ブランド家具の大半はデパートの家具売場に陳列されている時に一番そのデザインの力を発揮する。そのデザインの差異が視えてくる。つまり、隣にチョッと違うデザインの商品が並べてあって、初めて価値が視えてくるのではないか。しかし、とどのつまり、それがこの空間に似合わないと感じている私が居るって事だ。
 日本シリーズ、阪神連敗。ピッチャーが投げ、打者が棒を振りまわして、それをたたくという、いたくシンプルなスポーツだが、それなりに微妙なものなんだ。王監督指揮下ダイエーホークスの選手達は勝ちたいと願っていて、星野監督のタイガースには、それが感じられぬ。セリーグ優勝で目的を達してしまった風がある。セリーグとパリーグの人気の落差によって日本の野球は明らかに滅びてゆくね。大リーグに選手はどんどん流出するし、残っている選手は明らかに二流という事を、誰もが知るようなシステムへと移行しているのだから。夜、食事は「むらさき」で焼肉。他はまずまずであったが、キムチは塩からくてまずかった。食後、すぐ寝てしまう。今日は寝る人だったな。

 十月十八日
 道路公団総裁藤井VS石原伸晃国土交通省大臣との問題が話題になっている。新聞紙上で読むしかないが、石原大臣とは役者の格が違うな。藤井総裁は世論を見方にしようとはしていない。官と法を背中に負おうとしている。世論は当然移ろい易い。一時的には小泉流のパフォーマンスは石原を介して成功し、藤井は総裁の座を降りるだろうが、藤井総裁も又最後に政治的パフォーマンスを繰り広げたのだ。どちらのそれが上であったか、誰の眼にも歴然としている。総選挙にもこれは影響するな。官僚の負の部分の殆どを持っているにしても、藤井はとにかく、官の一身を賭けてのパフォーマンスであった。石原にはそれができない。最近の政治家は私如きから見ても確かに軽い。軽妙劇場国家だな。難波和彦さんのH・Pをのぞいたら、どうやら表参道を何回も歩いて学生の演習をしているようで、オカシかった。私もゾロゾロ、フィンランドの連中連れて歩いていたからなー。その時の成果が室内の目ざわりデザインの来月号になるのだが、難波さんにも、彼の学生諸君にも是非共読んで貰いたい。しかし、他人事ではなく、他人の日記をのぞくのはある種の快楽があるな。この素は一体何か。ある種の私的劇場をつくり出しているんだな。軽妙劇場にならぬようにしなくては恥をさらす事だけに終わる可能性が大だ。昼食は大ざる。甲州屋が閉店して別のソバ屋へ。味が違うのでとまどう。味は魔者だ。十五時前指扇の現場へ。ゆっくりではあるが現場は進んでいる。夕刻、現場から良い日没の光をみる。

 十月十七日
 朝五時起床、夜明けの空をしばらく眺める。六時過再び眠る。
 馬場照道さんに電話、仏教伝導協会の件依頼する。竜谷大学の上山学長にもフィンランドとの事、報告しなければならない。二〇日に照道さんと会う事になった。十三時研究室。十五時製図室。十八時妙高寺会館打合せ。二十一時世田谷村に戻る。

 十月十六日
 朝は少しばかりゆっくりした。十時四十五分発。十二時人事小委員会。十三時教室会議。十五時教授会。初めて二時間弱全時間出席してみた。終って、入江主任と少しばかり打合わせ。都市計画の佐藤滋教授と二〇時待ち合わせ、近くのソバ屋で飲む。二十二時修了。世田谷村に帰る。二十三時。気がついてみれば連日、飲んでいるナ。気をつけよう。栄久庵憲司さん無事退院。少々働き過ぎだ彼は。李祖原、明日より上海。同済大学副学長と相談して、すべてOKとの事。明日から上海Gスタジオに力を尽さねばならぬ。先ず学内告知から。

 十月十五日
 朝七時起床。昨日書き切れなかった原稿書く。原宿を書く積りが、思いがけぬ方向へ内容は行ってしまった。十時半研究室。十一時過機械工学科山川教授と相談。沖縄プロジェクトに関して。機械学科の先生に私の考えをプレゼンテーションすることを求められた。十三時半室内原稿修了。原宿通りについて。枚数が足りない。重いテーマに取り組んだ感あり。しかし、原宿のブランド・ビルの数々が新しい神社建築だというのは、我ながら当っていると自己満足にひたる。十五時、アベル、デービッド、蔡、光嶋に研究室内でインターナショナルなチームを幾つか作るよう指示。十七時十勝プロジェクト。柴原と。難波先生との会は一つは二ヶ月に一度位のペースで、共通部品の開発とサブコン・オーガナイズのミィーティングと言うのはどうか。平凡だな。二十一時過京王線桜上水。世田谷村帰途。ヴェネチアには行かねばならんだろう。J・グライター一人をヴェネチアの島送りにしておくわけにはいかない。十一月のヴェネチアは良いだろう。冬のヴェネチアのもっともらしい神秘もなく、淡々とした静けさの中に在るにちがいない。

 十月十四日
 昨日は本当に何もしなかった。ゴシック・リヴァイバルも数十ページ読んで、眠ってしまった。しかし、何もしないというのも大変な事なのだ。病院に入院したり、大病をした事が無いので、何もしないでいると言うのが実感として解らないのだが、こういう事なんだの片鱗を感じる位、何もしなかった。何もしないでいるというのは決して楽な事ではない。何か積らぬ事でもやっている安心感、中途半端な満足感と比較すれば、何もしない事の不安と対面しながら、何もしないというのは難しい。こういう空間に宗教的観念は侵入するのか。  七時半頃起床。今日はチリからの院生が来室する。ブラジルからの院生も決まりそうなので、研究室の大半は外国人という考えていた通りの事になってきた。上手にオーガナイズしなければ、霧散してしまうのもすでに視えている。でも、のんびりやろう。
 京王線電車の中で日本フィンランド・デザイン協会のプロジェクトに関して良いアイデアが浮かぶ。栄久庵さんと相談してみる。
 十時過研究室。十一時チリ人アーキテクト、アベル・エラソ来室。すでにサンチャゴに小さなオフィスを持っている若い建築家である。三年間石山研に文部科学省委託学生として学ぶことになっている。フィンランドのプロジェクトに参加させるつもり。昼食後修士論文ゼミ。白井総長より電話あり。近々会う事になった。難波先生より電話、技術と歴史の会。十八時入江主任。十九時過世田谷村書庫打ち合わせ。二十一時前、研究室発。今夜は夜通し室内原稿書く予定。

 十月十三日 休日
 朝、室内の樹木や草花にたっぷり水をやる。しかし、世田谷村の植物は良く育つな。今日は何もしないで過ごすつもり。新聞二紙ゆっくり読む。こういう時に限ってロクな記事が無いから、オカシイ。昨日、鈴木博之先生訳「ゴシックリヴァイヴァル」岩波書店、送られてきたので、読んでみよう。

 十月十二日 日曜日
 七時頃起床。昨日は午後から夜遅くまで、日本フィンランドデザイン協会の行事にかかりっ切り。フィンランドの建築家マッティ・ラウティオラ、ミッコ・ヘッキネン両氏と知り合いになった。来年度、両氏とオープン・デスク・システムを相互に行う事で合意。朝十一時研究室。十三時からのレクチャーのための準備。十三時本日の受講生がポツポツ集まり始める。丹羽君は退院したようだが、用心して今日は休み。予定通り十名位の教室になりそうである。デューク・エリントンとコルトレーン共演の名盤かける。日曜日の気だるい午後に二人の巨匠のバラードが良く合っている。十五時四十五分レクチャー修了。アントニオ・ガウディとサイモン・ロディア。随分遠くから受講者が参加しているので力を抜かないで続けたい。今回は何人かの子供達が運動会と日時がバッティングして休みだったのでレクチャーは容易であった。次回は十一月二十三日。子供たちの参加が予定されているので、対応を考えなくては。十九時前、京王線新宿車内。世田谷村への帰途。今日は休息できるかな。

 十月十一日
 七時過起床。風呂に入って、頭も洗って、昨日の澱みを落とす。「静けさのデザイン」の今日は日本フィンランドデザイン協会のシンポジウム。十二時に新宿の文化女子大学に行かねばならない。「ブッディズムとデザイン」について報告しなければならないので、少し準備する。以前、ヨルク・グライター教授と議論した遺跡(廃墟)に対する考えをベースにしてみたい。現代の廃墟、九・一一によって出現した廃墟はひろしまの廃墟、ユダヤ人大量殺人の廃墟、そして、ポルポトによるプノンペンの廃墟につながる事。それ等の廃墟が示現している、静けさ、死者の沈黙こそ、我々が深く考えを集中させねばならぬ事、について発言する積もりである。「静けさ」というともすれば私的なフィーリングの散乱に終止しかねぬ主題を意味あるものとしてとらえるには近・現代の沈黙、戦争によって現れる巨大な沈黙の意味を考える必要がある。
 十一時頃新宿文化女子大学へ。二十階ホールのシンポジウム会場へ。スライド、セットした後近くで昼食。辛口カレー。十三時「静けさのデザイン」を巡り、シンポジウム。栄久庵憲司欠席の為、冒頭スピーチはビデオ。島崎理事長、ヘルシンキ芸術大学ソタマ学長挨拶。基調講演。十四時三〇分シンポジウム開始。私は予定通り、フィンランドの人々特有のメランコリーについて述べる。フィンランドのインダストリアルデザイナー、ティモ・サッリ建築家ミッコ・ヘッキネンのレクチャーが興味深かった。シンポジウム終了後、レセプション。GKの各グループのリーダー達数名と話す。ヘッキネン氏等とも話す。彼はどうやらフィンランドを代表する建築家の一人であるようだ。二〇時前京王プラザホテルに移動。お別れレセプション・パーティー。マッティ・ラオティオラ教授と話す。二十二時過、唄が出たりでリラックスしたところで、私は会場からサヨナラした。二十三時過世田谷村到着。

 十月十日
 仮眠後〇時三〇分蚊網神社奥宮へ。本題の深夜の神事見学の為。二〇名程の百人スクールの参加者。奥宮には、ちょうちんに光が入り、美しい。月がこうこうと光り輝いていて、境内は神々しい。社務所で小休。リポビタンDいただく。おかしいよコレワ。利根町のオバさん達は元気にしゃべくってる。神事は二時からだそうだ。茨城新聞の人たち他、神事取材の人たちも境内に集まっている。境内には利根町で一番大きなたぶの樹があり、人間の二まわり半程もある。この町で何が始められるのか不明だが、淡々とやってみよう。オバさん達が人なつこくて、仲々良い。オバさん達の町づくり、かな。
 結局、祭事が始まったのが三時。松明に灯をともし、十人程の神官姿の氏子達が蚊網神社門宮へ。五〇〇メーター程夜の山道を歩く。再び奥宮へ戻り、大きなカマに湯をわかしているのに、何かの葉のたばをつけて神巫と参拝者達にまく。最後は白蛇を形取った大きなワラのたばに火をつけて、神酒がふるまわれ、修了。朝の四時過ぎであった。佐藤宅で三時間程休み。八時過起床。朝食をいただいて九時過取手駅。常磐線、埼京線を乗り継ぎ指扇へ。十一時過指扇現場。大工打合わせ。十二時過発。十三時過研究室に戻る。丹羽君今日も休み。何事も無ければ良いのだが。今年の二月の記録を読み直し、沖縄北部広域の印象その他を記憶に呼び起す。沖縄に対応する陣容を固め始める。十五時製図。十八時前後終わらせて、カナダ大使館東京倶楽部へ。日本フィンランドデザイン協会理事会&ディナー。フィンランドの面々は本当にすれからしじゃない好人物が多い。これでは信頼関係を裏切れないな。二十二時過修了。二十三時過世田谷村に戻る。

 十月九日
 丹羽君が体調悪くH・Pが動いていないが、時々こういう事が起きるのはH・Pにとって良い事だ。が、丹羽の体調は心配。昨日の江戸建物園の見学は興味深かった。今日は午後から利根町百人スクールに出掛けるが、本格的な第一回のレクチャーの内容に昨日の体験が反映されそうである。今日、利根町に提案するのは、利根川との生活を、つまり、水が身近にある生活を取り戻すこと、その為に先ず小川の再生を実践すること、小川の再生の為に水を勉強する幾つかのクラスに分かれたスクールを建ち上げること、そのスクールの場所を、できれば利根町の歴史が現れ、わかりやすい形で理解できるところに設定する準備をすること、等であろう。庭の柿の木に小鳥が沢山やってきて、うるさい位に鳴いている。十時前研究室。今日のレクチャーの準備、及び明後日の日本フィンランドデザイン協会での静けさデザイン、ブッディズムとデザインの準備。仏教遺跡とヨーロッパの、つまりキリスト教遺跡の考察から入ってみよう。遺跡に対するメランコリーの質の骨格のちがいについてのべてみたい。大きな事を言うのは大体失敗するのが常なのだが、この問題は大きく出ざるを得ないのだ。十二時半過研究室発。十三時五〇分過取出駅。うどんを喰べて、渡辺先生引率のもと七、八人で利根町の古木巡り。円明寺その他、八〇〇年位?のスダジイ・エノキ等見事。樹をしみじみと見て廻るのは初めての事で面白い。石川さん宅のマキの樹、大越さんのところのイトヒバも見事であった。人間達よりも皆ズーッと長く生きてきた樹木達である。佐藤さん宅で皆さん手作りの夕食をいただく。十九時前柳田国男記念公園の建物でレクチャー。四〇名程度の参加者。この町にはたぶの樹が多いそうで、松崎町で外尾悦郎が作った、たぶの樹の彫刻の話が親近感を感じて貰ったようだ。二十一時迄話しする。久し振りの町づくりのレクチャーで話ししていて楽しかった。利根町には4回目の来訪で、丁度良いレクチャーのタイミングであった。皆さんも楽しんで聞いて下さったようだ。二十二時前佐藤宅へ戻る。教育長をはじめとする役場の人々、議長さん等集まり談笑。私は〇時過まで一時間程仮眠する。

 十月八日
 七時起床。昨夜の原稿を読み直す。満足のゆくものではないがマア、良いか。八時四十分京王プラザホテル、ロビー。総勢十五名程の日フィン協会員を連れて、一日の建築ツアー。午前中は小金井の江戸東京建物園。早稲田の歴史研の卒業生の学芸員米山君がキチンと説明してくれた。私も初めての訪問で為になった。昼食は園内のレストランで弁当。午後原宿へ。原宿スタイルのビルの数々を見学。皆、プラダに関心があるようだ。私も今回、室内の「目ざわりデザイン」で、書こうと考えているので取材を兼ねて見学。その後、松屋デパートのデザイン・コミッティの六〇〇回記念展へ。伊藤隆道先生出迎え。十七時迄。銀座ライオン・ビアホールで夕食。新宿へ戻る。京王プラザホテル帰着二〇時三十分。只今二〇時五〇分新宿発京王線車中に居る。
 今日の建築ツアーは良くオーガナイズされていた。しかし今、話題の原宿スタイルの建築は全く感心できない。建築家は心性として、いつも時代と寝るのが世の常であるが、それを解った上でも、この表れ方は極めて危ない。
 建築家は皆、多分、自分から欲してこの潮流に身を投じているのだが、全て失敗している。多分、失敗している事も自覚できていないのであろう。歴史感覚が完全に欠如している。帝冠様式、八鉱一宇の考えは誰でも今はNOと言う。しかしこの原宿スタイルがグローバリズムの単純な現れだとは誰も言わぬ。グローバリズムとすれば問題はまだ曖昧のままに据えていられる。
 しかし、このスタイルはキャピタリズムの表象だと、明快に、あまりにも明快に示現されている事実を介すれば、原宿でブランドメーキングの消費的片棒かつぎをしている建築家は全てある種の資本市場の世界的拡張の戦争加担者なのである。その辺りを、はっきり指摘したいと思う。

 十月七日
 昨夜は遅く迄原稿書いて、頭が疲れて良く眠れなかった。七時半起床。午前中はボーッとして過ごす。十二時半過内閣府。十四時終了。終了後麹町のホテルのレストランで遅い昼食と打合わせ。十六時前研究室に戻る。十七時配島工業来室。十七時四〇分。河野鉄工来室。
 沖縄の計画を具体的にディテール迄つめなくてはならぬ段階になってきた。上海ワークショップとの関係も整合させ得る可能性がある。生命と環境、ライフスタイルを総合的に提示するプロジェクトにする。正念場の一つだな。夜、原稿書き。早く書き終えて、スケッチで遊びたい。とりあえず十二時四〇分、一年遅れの原稿を書き終える。木材について書いたが、苦しんだ。

 十月六日
 曇天の朝。昨夜は家族会議で世田谷村の改修について話し合う予定であったが、延期。主に未完の洗面所、風呂場、そして三階寝室について考えなければ。オフクロが本格的に村に移住してくる為に、彼女の気に入らないところを直さねばならないのだ。仏壇のスペースも作らなくては。人が一人動くと家は変わる。十時指扇、朝山邸現場。諏訪の角大製材所のオヤジと若い大工、そして配島工業の七三才の大工と若い大工、土工事の人間が現場へ集まる。十八時前まで現場で立ち通し。屋根工事をみたり、ブレス入レを見たり。しかし職人はよく働く。一日でかなりの仕事を仕上げて、諏訪の二人は帰った。十九時過研究室に戻る。若干の打ち合わせも集中できず。二十二時過世田谷村に戻る。「Memo」の原稿、セルフビルド書く。今回はキルティプールについて、3Dフェイズ人工衛星の事から入った。再び途中、遅い夕食をとり、今朝の家族会議の続き。家族全員より再び吊し上げられる。深夜二時過、ようやく原稿書き上げる。

 十月五日 日曜日
 午後遅く研究室。図面チェック、書庫スケッチ。四名程在室。休日の大学は本当に良い環境で仕事がはかどる。十七時四十五分発。十八時過六本木国際文化会館へ。栄久庵憲司さん、伊藤隆道さん等と、日本フィンランドデザイン協会、ウェルカム・レセプション。OZONE館長若宮さん。ソタマ・ヘルシンキ芸術工芸大学長等フィンランド・アーティスト等三〇名程を迎えて、レセプション。二〇時過一足お先に失礼する。この会や数々の催し、展覧会はフィンランド側のビジネスにはメリットがあるだろうが、日本側にどんな具体的な利があるのか、不明なところがある。そこを少しばかり明確にしないと、企業からのこれ以上の協賛は得られないだろう。長く続けてゆくのには少し組織の改良が必要であろう。

>>世田谷村スケッチ日記 十月五日
 十月四日
 十時指扇朝山邸現場。群馬の森田兼次、大工、配島工業スタッフと打ち合わせ。その後前橋へ。森田左官工業にて伊豆の長八美術館のお色直し打ち合わせ等。夕方、ルーカスの車で世田谷まで送ってもらう。朝山邸の仕上げは大変そうだ。森田さん、大工さんの力に頼るしかない。無理を承知で始めた事だが、無理を通して、実現するのには異常な努力が必要なのだ。小さな現場で陣頭指揮も辛いけれど仕方ないだろう。森田のオヤジにも、アト二つ位、良い仕事を作ってあげなければ。職人はやっぱり良い仕事があって、生き生きするからね。
 前日本左官業組合連合会長の森田兼次、会長当時はまだスレスレに日本の職人達は元気であったが、今はどうか、すでに私も良くは実体を知らぬ。

 十月三日
 午前中、原稿書き。仲々グングンというわけにはゆかぬがそれなりにやっている。十二時過研究室。良い秋日和だ。技術と歴史研究会の月例テーマを難波さんは考えているだろうが最先端のテクノロジーがこれ迄の建築の歴史とは違う目的の為に使われている事例等をリサーチしてゆくのはどうだろうか。十三時TVプロダクション・ルーカス来室。長期にわたった取材の成果は十一月三日に放映となった。コンバージョン関係来客。遅い昼食を甲州屋で。学生時代からの附合いだった甲州屋ソバ店が突然十月四日閉店との事。昼食はどうなるのか。甲州屋のオヤジの見舞いに行くべきか。十五時設計製図。十九時前修了。二件打ち合わせ二十二時修了。空腹の極み。

 十月二日
 日刊建設新聞の一年遅れの原稿書く。七時から十時迄。上海Gスタジオに磯崎さん。鈴木さん共にスケジュールが合えば参加してくれそうで心強い。十一時世田谷村発。十二時バッタリ東大の松村秀一先生に早大近くの路上で遭遇。昼食を一緒にする。私にとっては良い偶然で色々話し込む。難波和彦先生の技術と歴史研究会への入会を依頼、了承を得る。十三時教室会議。今日は珍しく李祖原体調崩し休み。早く台北の病院に行きたいとの事で、明日早朝の便で台北へ一度戻る事になった。大事な体だ無理をしてもらっては困る。明日からM1はフィンランド展の会場設営に出掛ける。

>>世田谷村スケッチ日記 十月二日
 十月一日
 朝十時京王稲田堤厚生館。近藤理事長と打合わせ。昨夜友美が持ち帰った新潮最新号読む。小特集として建築がピックアップされている。磯崎新の日本的なモノを巡っての座談、そして柄谷行人の小論文の二本立て。柄谷さんの論文は今春のバウハウスでの講演をまとめたもの。座談は磯崎、浅田彰、福田和也、岡崎乾二郎によるもの。アメリカ資本帝国主義に対する無力感の表明になりつつある現代のインターショルスタイルらしきに対するささやかな批判が基調にあったのは良かった。スーパーフラットなど退行性キャピタリズムの影なのだ。近藤理事長との打ち合わせ十二時前終了。十三時研究室。厚生館の設計作業に関してM1は良く頑張った。
 十五時スタジオG。CY・LEEと共にクリティーク。学生の力は確実に上がった。十九時前、CY・LEEと磯崎アトリエへ。鈴木博之先生とアトリエで合流。CYのあいさつ、その他。その後、近くのレストランで食事。批評と理論委員会の骨子等決める。その他幾つかの事を相談。磯崎新とみに国籍不明の大親分風になってきたのを実感。いささか飲んだ。

2003 年9月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
世田谷村日記
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