石山修武 世田谷村日記

1月の世田谷村日記
 R061
 十二月三十一日
 深夜、松村秀一先生より送られてきた「住に纏わる建築の夢」東洋書店、読む。彼の構想力の大きさを改めて感ずる。まとめ始めている開放系技術論にも参考としたい。特に最終章の二十一世紀から未来へと向う建築の夢 - アフリカの学校そして「ガンツ構法」 - は氏の遠投能力を良く示している。十九世紀の建築の夢と二〇世紀の現実、そして二〇世紀の夢は二十一世紀の現実になるかという視方は、言われてみれば当り前なのだが新鮮であった。九時起床。松村先生野辺公一に電話する。朝食後庭仕事。南の垣根部分に瓦を埋める作業を行う。地面との接点作業は面白いが難しい。この垣根は開放系技術的垣根にする。友人に哀しい事があったようで、心中察するに余りある。開放系技術論書きすすめる。南の垣根の瓦積みを日が暮れる迄続ける。石を積んだり、埋め込んだりに熱中する。流石に今日は句作遊びをする気になれない。銅版画の新シリーズの構想練る。十九時磯崎新宅へ発つ。二〇時磯崎宅。音楽家細川俊之氏と年越しの会。彼は今ベルリン住い。想えば一年前の年越しの会で福岡オリンピックやるかと磯崎新が腰を据えた事から始まった一年であった。来年はドバイ、カリブとオリンピックでは徹底的に東京と闘うぞと、磯崎新は意気軒昂なのであった。私もこれでは東京には縁が無いなと覚悟を決める。宮脇愛子さんもことの他お元気であった。
 二〇〇七年元日
 ゴーンと除夜の鐘が鳴り、年が明ける。本年もよろしく、と挨拶し、うまいワインを飲んで、一時前に辞す。TAXIで世田谷村へ。今年は雄大も参加して、磯崎新にヨット競技の講釈を垂れていたので、私としてはヒヤヒヤものであった。俺は何故か磯崎には弱い。
 七時半起床。良い天気で新年らしい。下の畑に降りる。十一時半頃庭作業休止。南の垣根は随分開放系的になってきた。全部ゴミで作っている。作っているというよりも組み直しているというのが実感である。全部新しく作るのではない。あったものを組み立て直している感じ。要するに、現実にすでに在るものから触発されて、あるいは自らを触発し、それを別のモノへと作り変える面白さであろう。十七時過、陽もくれて暗くなってきたので庭つくりを止める。一日中何やら作っていた。ほぼ予定通りの元日である。
 R060
 十二月二十九日
 九時前大住広人夫妻来。車中にて俳句談義。大住氏は俺は短いのは駄目だ信用出来ぬと新聞記者らしからぬ事を言い張るので、早速「妙見会」国分寺支部黙祷派を任じる。今日は多くの支部が設立されるであろうが、支部より本部に会長以下の作品らしきを呈示せよとの要求が出たら断固拒否しなければならない。そういう作品だとか句風だとかをとやかく言う会ではない。
 十二月三〇日
 八時過起床。庭に生い茂る笹を刈り、瓦置き場迄の径を作る。刈った笹で花畑の一部を覆う。今朝畑に霜柱が降りていた。笹の下から茶釜が出てきた。空腹になり十時休止。
「霜除けに 笹の葉かぶせ 花笑う」
余りにも急速な成長振りに我ながら驚く。作者六句目の作とは思えぬ・・・が実につまらない。花笑うに作者の得意げな風が表われてしまっている。ニヤリと笑っているのは作者、お前だろうと指をさしたくなるのである。そこで年末打止め無しの連作。
「霜除けに 笹の葉かぶり 人歩く」
「霜除けに かぶるものなし そこらの猫」
「唐からし 畑にまけば 霜も来ないか」
作者の頭はもう霜除けの思い付きで一杯になっており、どうにもならない。人間と歩く霜除けの思い付き、取り合わせはシュールレアリストでも恥を知るであろう。和風ラーメンはあっても和風シュールレアリスムは無いに等しいのである。人間が駄目なら猫でゆこうと考えた作者の思い付きは誠に単純であり、だからどうなんだと言ってしまえばそれで終わりなのだが、野良猫をそこらの猫と言い換えたところにマアマアの技巧がうかがえる。唐からしの句は馬鹿馬鹿しくて話にもならない。大体畑にまく程の唐からしが何処にあるのかと、問いたい。しかしながら今朝の四句では唐からしが一番の出来であろう。十二時過研究室学生相談。十三時森川K。十四時過渡辺。十六時近江屋に席を移し雑談。若松氏。十九時世田谷村。
 R059
 十二月二十九日
 早朝、少しばかり仕事する。今日は朝、大住さん夫妻が迎えに来てくれて、我孫子の真栄寺に出掛ける予定。毎年、年の暮は佐藤健の酔庵で、一日二日ゴロゴロしながら過していたのだが、彼が居なくなって、それが失くなった。酒ばかり飲んでいたから、今は体には良いのだろうが、何かやっぱり手持ち無沙汰である。又、俳句をひねり出そうかと思ったりしたが、グッとこらえる。
 八時前起床。良く晴れた朝だ。妙見会会長の眼を恐れて一晩句作は自粛し、自宅閉門を課していたが、創作の念止みがたく、一句よむ。
「こらえても 歯をくいしばっても ヒッチ俳句」
会内における放浪派宣言の趣があり、実に、すでに句会の波乱を予測するに足る、しかし駄句である。ついでにもう一句
「こらえても こらえても 畑の中」
これは山頭火くずれである。山頭火がいか程のモノであるのかを知らぬのが、知れる。
 R058
 十二月二十七日
 十時過研究室。十時半T社来室。北京プロジェクトの件。北京モルガンのオーナーとキチンと対応出来る日本の組織内人材がいるか、個人の力をアメリカと同様に重視する中国社会と会社の看板外してもやりあえる個人の力を持つ人間が企業内にいるかどうか期待したい。十三時研究室ミーティング。十四時半院ゼミ。十五時半加藤君来室。十六時半TAXIで目白の池原義郎先生のオフィスへ。先生とは久し振りにお目に掛る事ができた。年末のごあいさつ。近況報告。先生は全く変わりなくお若い。最近七十八才はまだ老人と呼ぶ年齢ではないという感慨を深く持つようになったが、池原先生も全く老人ではないと感じた。私も早く七〇代になりたい。十七時半辞す。十八時前、新大久保近江屋で一服。色々と想い巡らす。二十時世田谷村に戻る。二十三時銅版画を彫る。やはり、銅版画は深夜に彫るのが良い。
 十二月二十八日
 七時前起床。薄オレンジ色に染まりながらようやく明らむ空を眺めながら、一句ひねり出そうとするも全くひねり出ない。そりゃそうだろう。何もひねり出ようとするモノが無いのだから。しかし人間はよく雲固を出し続ける動物だなあと思いつつ無理矢理一句。
「ひねり出す 言葉ないとて 年の暮れ」
「言葉なく クソだけは出る やはりなあ」
二句連続してひねり出したところに進歩が見られる。一句目は恐ろしい程の駄句である。年の暮れが季語であるのかどうかも知らぬが、季語を入れなければの一心は伝わる。浅はかである。無能な人間のもの哀しさがにじみ出る悲惨さがあり、その意味では意外な深いワビ、サビ感がある。二句目は季語抜きの定型短詩である。作者は何かの本で定型短詩という言葉を知り、それを使いたかったのであろう。結びの やはりなあ は出色である。これ迄どの俳人も使おうとしなかった五文字であろう。しかし、その良さを認めた上で、この句のオリジンは金子兜太先生の父が少年時代の先生によんで聞かせたという、「元日や モチで押し出す 去年グソ」である事が歴然としている。作者が俳句というモノにいかなる関心の持ち方をしているかが良く解るというフロイト的分析臨床例としては面白い。しかし、第一回の句会が待たれる。こんな風に自作自評をやっていたら、それこそ馬鹿丸出しで、「妙見会」から破門宣告がきてしまう。八時前下の畑におりる。九時過迄畑。大住広人より連絡あり。午前中は世田谷村で制作とする。
 R057
 十二月二十六日
 十二時人事の件でミーティング。十三時建築学博士論文審査会。厳しい審査となった。十四時過修了。十五時四五分池原義郎先生に電話、近況報告他。大事な人事に際して教室の伝統の力が働くのを痛感する。十六時三〇分加藤君来室。入江先生と共に雑談。曽田主任来室。近江屋でビールを飲んで世田谷村に戻る。毎日新聞夕刊に「ひろしまハウス」インタビューが掲載されていた。
 十二月二十七日
 八時起床。起きる前に俳句をひねるも当然うまくいかない。
 「おー寒い 俺の名前も おーさむだ」
 と我ながら下らなくてこれでは妙見会から放逐されるやも知れぬと反省す。この句がいけないのは、先ず季語がない。駄洒落の世界をも馬鹿にしているような厚顔振りが顔をのぞかせている事だ。下の畑におりる。昨日の雨で野菜も大変だったろう。
 R056
 十二月二十五日
 十三時修士ゼミ。GA杉田君来室。GA JAPAN 84 に「ひろしまハウス」を発表した。流石二川幸夫の写真は良い。一見の価値あり。ウェブサイトのビジュアルとは全く異なる世界だ。鈴木了二先生来室。十八時新大久保近江屋で鈴木博之先生と会食。積もる話しが山程あったが何を話したかは忘れた。年だな。句会「妙見会」を創立しようではないかとなった。妙見様の妙見は北極星、北斗七星を神格化した菩薩との事。鈴木先生の命名である。当然命名者が会長職につくので、私は幹事長を拝命した。二人じゃ会にならんだろうという事になって、総勢七名程で立ち上げる事にした。食後、ワインでも飲もうとなり、TAXIで池袋らしきへ。鈴木先生の歩行癖の途次発見した店であろう。よい店で「妙見会」の発足をことほぐ。早速、駄句連発。記録できぬ、というよりも皆忘れてしまった。が恐らく鈴木会長はほとんど覚えているにちがいない。そこが「妙見会」これからの問題点であろう。何しろ、人物の明晰さにはホトホト手を焼くのである。量産される駄句の数々を記録する人材が要になるだろう。再び新大久保駅迄TAXIで戻り、プラットホームで良いお年をとあいなった。新大久保に始まり新大久保に戻る小旅行であった。
 十二月二十六日
 朝四時半、昨夜のメモを記し、六時に再眠。面白かった昨夜は。今日は昼から学校の用事がある。
「ああ寒い 鳥も来ないし 猫もいない」俳句界デビュー作である。実に自然な流れの句である。余りにも自然過ぎて、一見馬鹿かと思わせる。作者にはその区別さえ自覚できぬような世界が寸描されている。畑を見てから大学へ。
 R055
 十二月二十五日
 朝小一時間程畑仕事。昨日、折角育ちつつある垣根のスイートピーの上に大きな石を落としてしまい気になっていたが、やはりガックリとうなだれていた。打たれ強いスイートピーなんてあるのかどうか知らぬが、マ、立ち直ってほしい。今日は鈴木博之先生と会食の予定で楽しみ。
 R054
 十二月二十二日
 十時半昭和医大へ。伊藤先生に再会。しばらく通ってもらいますよ、と言われてしまう。昔程ではないが歯医者は恐い。
 十二時半楊さん来室。来年よりロンドン住まいになるようだ。研究室の卒業生がリアルに世界中に散らばり始めている。良し。開放系技術ミーティング。来年よりのプログラムをイメージする。十三時四〇分製図準備室にて加藤君と会う。池原義郎先生の研究室の最後の卒業生である。三年の製図のクリティークに参加してもらう。どんなクリティークをするか聞いてみたかった。十九時半新大久保タイ料理屋クンメーでカイと食事。バウハウスからの歴代の留学生の中では出色の才質を持つ二十八才である。カイより鬼沼プロジェクトに関して彼等が作った小冊子を渡される。私の開放系技術を理解しようとしているロジカルな気持ちは伝わってくる。この姿勢、誠実さが、バウハウスの近代デザイン運動の素だったのを間近に知らしむるのである。このひたむきな誠実さが日本の学生には圧倒的に不足していると思う。近代デザインの素はこの民族性だったのを自分なりに体感しているだろう。
 十二月二十三日
 フェルメールに関する文庫本読む。フェルメールの数少い絵画の所蔵美術館、コレクターを巡るもので、視点のアイデアは面白いのだが色々と未消化な本であった。何の脈絡もなく、梅原猛の「塔の思想」拾い読む。この人の著作も同様な性格がある様に思うが、スケールは桁違いなのだ。フェルメールから梅原猛への自分の気まぐれの振れの方が恐ろしい。年末の狂乱動転であろう。九時過下の畑に降りる。絹さやえんどう、ホウレン草は頑張っている。チンゲン菜は呼び名を沈滞菜と変えたい。広東白菜もイカン。真面目に育てと声を掛ける。近くの市民農園の状態をジロリと視察。どうも市民農園の方が質量共良いようだ。午後、近くの本屋で求めた「坂口安吾百歳の異端児」出口裕弘、新潮社、読む。乱読の極みだ今日は。坂口安吾は山本夏彦の「年を経たワニの話し」を愛読。これを自分は書きたいのだと告白した事実があるらしい。安吾と私の唯一の接点である。
 十二月二十四日 日曜日
 午前中畑。下の畑のジンジャーを移し、ウネを延ばす。南の垣根間近をほんの少し広げる。石が出た。菊を移す。小さなゴミ焼却炉でゴミを燃やす。今日も世田谷区民農園を見廻る。区民農園のチンゲン菜は良く育っている。上の畑にも上り、生ゴミを埋める。終わったら十四時になっていた。下の畑近くにカマドを作るのを決心する。元旦にやってみるか。午後遅く手紙を書いたりで過ごす。難波和彦さんよりNTT出版「箱の家」送られてくる。早速目を通す。副題にエコハウスをめざしてとあるが、これが先生の歴史的な狙いだろう。二〇〇七年から開放系技術・デザイン論を少し計り体系的に発表してゆくが、難波先生の箱の家とは論理としては対立するだろうな。しかし、その対立は歴史として大事な問題自体を作り出すであろうから、無駄なものにはならぬだろう。私が三文役者を自覚しながら、畑を作ろうとしたり、ストーブを作ろうとしたり、イヤなコンピューターと連結してウェブサイト作りに時間をかけたり、のライフスタイルらしきの意図的な三文劇場化を企てているのは、すでに開放系技術を空間化している事なのだ。
 R053
 十二月二十一日
 午後人事小委員会、教室会議、教授会、フルコース出席。フルコースは腹にもたれるが、大事な内容が含まれていたので欠席できない。芸大の六角鬼丈先生の意見も聞きたい事がある。頼りになるのは、本物の人間だね。しかし、六角さんは芸大の大教授になって、まことに座りがいい。岡倉覚三天心の風格で、残念ながら早稲田にあのような高潔な人物は居ない。芸術家だよ彼は。
 十二月二十二日
 八時半に起きる。メモを記し、九時過歯医者へ。歯なんてどうなっても良いのだが、長生きするのには大事らしい。
 R052
 十二月二十日
 十四時前芝増上寺裏全日本仏教会、北京プロジェクトの説明。二〇〇七年一月中旬に、より具体的な相談をしましょうとなる。十五時半昭道和尚とコーヒーショップで雑談。十六時半研究室に。打合わせの後十八時目白椿山荘フォーシーズンズへ。みゆきにて栄久庵憲司さん、サンパウロ大学マリア・セシリア夫妻、小野寺さん達と会食。マリア・セシリアから、つい先日オスカー・ニーマイヤーが九十八才で結婚した話等聞く。栄久庵さんは、それならまだBOYだという事になった。年令というのは実に多様な神秘性を持つ。二十二時過了。明日ブラジルへ帰るドス・サントス夫妻を見送り、散会。栄久庵さんの父親の名が鉄念という強烈な名であった事等初めて聞き面白かった。「道具寺展」をワールド・ツアーに出そうというプランも話し合う。二十三時前世田谷村に戻る。「米寿快談」読破中。これは実に面白く有難い本である。
 十二月二十一日
 十時過「米寿快談」読了。こんな対談集生まれて初めて読んだ。驚きである。大変な人が世の中には居るんだ。鶴見和子先生は今年亡くなった。不勉強で私は彼女の著作等を読んでいなかった。金子兜太先生には何とかお目にかかる事ができたが、これは何とか深く学ぶ必要がある。対談集はもう一度読み直す必要がある。読後感は今は書けぬ。頭をポンとたたかれた感がある。「ウェブ進化論」「ウェブ人間論」と同じような事が、より熟達した言葉、身体を背景に立ち上がっている。
 R051
 十二月十九日
 十六時半世田谷美術館N氏S氏来室。S館長の手紙拝読。光栄である。まだ何があるやも知れぬが、力を尽したい。打合わせ後、新大久保駅前近江屋で両氏と会食。奇遇が重なり、人生の面白味を痛感する。世田谷村のすぐお隣に世田谷文学館があり、常日頃足を運んでいた。いつか、こういう処で何かやれたらいいナアと勝手な妄想も育てていた。何ができるのかまだ解らぬママだが、考え抜いてみるつもりだ。
 十二月二〇日
 昨夜は会食後、金子兜太、鶴見和子の米寿快談「俳句・短歌・いのち」を読み始める。金子兜太さんにはお目にかかったばかりなので、言葉の底に実在の人の骨格も想像でき、それだからこそ対談の凄味を感知する事ができた。有難い。しかし頁を繰る毎に、これはとてもとても太刀打ちできる人間ではない、こりゃあ余りにも格上だぜと痛感する事仕切りである。六〇才過ぎて頭が高くなってはいけないと自省する。上には上がはてしなくいるものだなあ。私なぞは鼻垂れ小僧だな。街のなかの小学校のグランドを大草原に思いちがいして、駆け廻っているガキだな俺は、と痛感する。真栄寺より連絡あり、本日午後全日本仏教会に参上する事になった。研究室に資料の用意を頼む。
 R050
 十二月十八日
 十一時半研究室。ウェブ編集ミーティング。十二時過博士論文審査会。渡辺研長沢君の論文。立派なものである。渡辺研の歴史の流れを踏まえ、良くその展望らしきも視えるような論文である。年末は学科の将来にとって大事な会合がいくつかあるので気が抜けぬ。「ウェブ人間論」「ウェブ進化論」「米寿快談」入手。今夜読破するつもり。李祖原より北京モルガンのデータ送られてくる。膨大なもので石山研にバックアップデータをストックしてから、T社に送る。こういう手間が大変なのだなあ、ITは。新大久保駅前近江屋で一服してから世田谷村に戻る。夜「ウェブ進化論」読了。
 十二月十九日
 十四時「ウェブ人間論」読了。二冊のウェブに関する本を読了したところに宮脇愛子さんからの絵が届いた。夏の軽井沢で製作したもので、白い額に入り、素晴らしいモノである。キリリとした淡青の地にサッと気合の如き線が刻まれている。梅田望夫、平野啓一郎のウェブ論、対談を読んだ後で出会った「絵」のリアルさに胸をつかれる思いである。ウェブ論を読み続けたのは、自分のウェブサイトへの自己言及的関心からであった。私の、今風の言い方にするならブログは六年の歳月が経っている。彼等のブログが四年のキャリアらしいが、チョッと私の方が古い。別に先見の明を威張ろうというのではないが、両人の言説を読み、私のところのウェブサイトの方針にはそれ程大きな誤りはないなと安心した。又、ウェブサイトの構築の仕方にいささかのヒントをもらう事も出来た。書かれていた事の内については、専門的な業界の用語、テクニカルな事の外は全て想定内の事であった。日々のサイト編集で考えたり、そうではないかと想っていた事が書かれていたのに安堵したのが正直なところか。
 R049
 十二月十七日 日曜日
 広東白菜。チンゲン菜。さやえんどうの発芽した芽の間引き。午後遅く年賀状の絵を描く。
 十二月十八日
 朝、天気が良いので下の畑の手入れ。昨日間引きしたさやえんどうの芽を隣のうねにいくつか植え込む。自分で育てて間引くってのは仲々できぬ。多分、だめだったと思っていた、垣根にまいておいたスイートピーらしきが芽を出している。これは何年か前に屋根の上の畑で成功していらい駄目だったので、来年は期待できるか。コンポストに生ゴミがたまったので、移動作業。少し汗ばむ。家庭の生ゴミでもこれだけのガスやらが発生するのだからゴミというのは凄い生物であるなと実感する。生前吉阪隆正が二十一世紀はゴミの時代になると言っていたのを今更ながら思い出す。八車草を勉強するため、種をカバンの中に入れて研究室へ。
 R048
 十二月十六日
 〇時過、世田谷村のマキストーブは結局レディメードのダルマ型ストーブになりそうだ。残念だが仕方ない。河野君に任せてしまえば良かったか、折角申し出てくれたのに、馬鹿をした。小さなもの程難しい。幻庵では若き野口君が驚くべき才を発揮してくれたのを、今更ながら知る。
 六時過起床。食事をとって発つ。早朝の冬の町はキリリと引締まっている。七時四〇分頃東京駅着。例によって待合せの時間迄まだだいぶ間がある。今日の鬼沼行きメンバー七名の到着順を予想して楽しむ。意外に小笠原氏が一番早く、T君が遅いだろう。そんな予測が全て外れるのが現実なのであった。
 十時過郡山下車、レンタカーで総勢七名移動。十一時前、いつものソバ屋で昼食。昼頃、鬼沼現場到着。カイ、ヨハネス、小笠原、T Jr. 、石山は貯水池作りへ。T社長、渡辺は郡山市役所スタッフと打合わせ。三時間程の現場作業を経て、予定通り、一枚のシートで小さな池を作る。小さな伏流をまとめて、水を留める工夫の実現である。コレワ、面白かった。白いナイロンシートで小さな池を作る作業なのだが、ほとんどのん気な芸術家の世界に踏み入っているのを自覚しながらのWORKであった。
 この作業は、当然ながら馬鹿気て意識的に行われた事にだけ意味(価値)がある、と考えるのだが誰も同意してはくれないだろう。だからこそ価値があると言い張る。エヘン。「ひろしまハウス」二〇〇六年、以降のプロジェクトとしては今のところ北京の仕事と並ぶ位に重要なプロジェクトであるから、二〇〇七年の一月にはこの堂々たるたった三時間の土木工事の成果は公表したい。実に美しいモノを作る事ができた。
 作業終了後、コルゲートパイプ棟に帰り、囲炉裏に火を入れる。T社長の実行家としての速力が私のデザインの速力に勝っているので、設計が施工に追いつかぬといういかにも現代的な様子が出現しているのが、我ながらおかしい。よく燃える水平置きダルマストーブも世田谷村のストーブ騒動を振り返れば何とも言い難い実感がある。十六時近く、現場担当の工務店の方と少し計りの打合わせ、二〇〇七年の建設スケジュールについて協議する。何しろ、デザインのスピードが必要である。現実に対面している、その瞬間に何らかの答え(デザイン)を出さぬと、現実の力からおいてきぼりを喰うのである。
 十七時過頃現場を去る。十九時前郡山駅着。七名共々に駅前の韓国家庭料理屋で夕食。明日早朝カンボジアに帰る小笠原さんを中心に楽しい会となった。二十一時前頃の新幹線で東京へ。二十二時半頃東京駅着。二十三時過世田谷村に戻る。
 R047
 十二月十四日
 昨日は十四時に伊豆松崎町大沢温泉ホテルの依田博之氏が来室して、打合わせをした。主にインターネットの件。又、依田家の歴史にまつわる色々な話しを聞いた。依田の家にはまだまだ多くのものが眠っているのを痛感。おいおい紹介したい。
 十四時NPO法人国際学生交流会館のI氏来室。都内学校の廃校化に伴う、留学生宿舎への転用について相談を受ける。色んなところで、色んな努力が積み重ねられているが、そんな努力に陽の光が当たるよう望むばかりである。コンバージョンの話しは少なからず持ち込まれたが、今のところ実りはない。
 十六時長井美暁嬢来室。インタビュー。元室内編集部バリバリの人材であった彼女は今、室内休刊と共にフリーライターとなった。いずれ、大きな編集者になるだろうが、今はトレーニング中のライターである。「ひろしまハウス・プノンペン」の取材を受ける。長井を前にすると肩の力も抜け、極く極く自然に嘘の無い本音を話す事ができた。もっと延々と話す用意はあったが、程々で止める。又、いつか機会もあるだろう。終了後近江屋で会食。二十一時過世田谷村に戻る。
 十二月十五日
 四時起床。少しばかりの仕事。鬼沼計画のデザインの外の枠を考える。十三時Sさん来室。
 十四時過設計製図。今度の課題は良い課題だ。都市計画の先生方と建築デザインの教師としての自分の関係も又面白い。十七時過修了。明日十六日は早朝より福島県猪苗代湖鬼沼に日帰りで出掛けるので早く戻る。
 R046
 十二月十四日
 昨日研究室に送られてきていた南泰裕氏の「トラヴァース」という都市論的な本を読む。トラヴァースという言葉はロッククライミング、登山の世界では真直に登行できぬ困難さに直面した際に、横に水平移動して更に上に登る活路を求める事をいう。この本のトラヴァースの意味は登行という目的無しに水平移動を続ける事なのだろうかと思ったりもした。第一章の盲目の建築家を主役にしたストーリーはとても面白かった。読み始めは写真家とグロテスクの風俗嬢らしきとの下らないメロドラマかと思って捨てようかとも考えたが、最後まで読ませる何かがあった。第五章都市の星章も荒っぽいが第一章と連関させて読むと仲々に面白いのだった。要するに9・11以降のバベルの塔、すなわち都市建設の果てしない、しかも泡のようにバーチャル化もしている欲望を描こうとしている。第一章の盲目の建築家という不可能性そのものの現実と、第五章の現実の都市そのものが内に持つ欲望自体のバーチャル化という二つのストーリーの仕掛けはとても見事だ。贈っていただいて嬉しいが、二、三、四章は余り読めなかった。建築家としての自分を自覚した人間が都市について書くとしたら、やはり盲目の建築家とバーチャル・バベルの塔の仕掛けを持つ、ストーリーの如きものだけではないのかな。この二つのストーリーを書く事は設計と全く同義の意味を持つと思う。
 十四時前研究室。
 R045
 十二月十二日
 北京その他と連絡後十五時研究室。北京プロジェクトミーティング。十八時三〇分了。かなり基礎的なコンセプトの打合わせを続けているが、二〇〇八年春迄の時間はそれ程残されてはいない。答えらしきの骨格をいつ決めようかと考えあぐねている。前例のない事をやろうとしているから何もなぞるモノがないのだ。午前中のプロジェクトの下ごしらえの時間と午後の研究室でのWORKの落差が大きいが、年内は仕方が無いだろう。十九時半近江屋で一服後、二十一時半世田谷村に戻る。
 十二月十三日
 早朝いささかのスケッチ。少し前進の気配。六時前にTV見たら俳句の番組やっていた。金子兜太は面白かったが、TVの俳句はそれ程ではないなとつまらん事を考えて、又眠ろうとする。九時半、再起床。陽光が下の畑にエネルギーを注ぎ込んでいる
世田谷村日記 制作ノート 12/13
 R044
 十二月十二日
 昨日、世田谷美術館のN氏より御手紙いただく。ときの忘れものでの展覧会に来て下すった人物である。一昨日世田谷美術館のルソー展に出掛けた時に声を掛けようかと思っていたのだが、何となく気が引けて遠慮した。ここが私の悪いところなのだ。声を掛ければ良かった。早朝、サイトの原稿を記す。
世田谷村日記 制作ノート 12/12
 R043
 十二月十一日
 十三時研究室打合わせ。十四時過T社来室。北京の件。修了後幾つかのプロジェクトの打合わせ。十八時四〇分新宿雑居ビル三F味王で小笠原氏と会う。小笠原成光氏御機嫌であった。七〇才の成光さんが、いやいや、人生これからですと言うのに、今日はそれ程違和感なくついてゆけた。八十八才金子兜太に会った役得だろう。
 R042
 十二月十日、日曜日
 早朝起き出して、いささかの仕事。六時過再び休む。十一時過真栄寺に発つ。十三時過我孫子真栄寺着。馬場昭道と会う。金子兜太氏に紹介される。初対面ではあったがその人間の格の如きものを感得する。ブラジルの谷氏に再会。十三時半金子兜太氏講話会。松尾芭蕉の句、正岡子規の句、中村草太男の句を使いながら、俳句の一流とは何かの話しであった。鶴見俊輔の限界芸術論を読んだ我身としては、俳句には一線を画していたのだが、金子兜太の骨格強い肉声はいささかその固い先入観を崩した。金子氏は八十八才であるという。その年令を考えるまでもなく驚異的な力強さである。七十五才位の人間達の何がしかを強い世代であると思っていたりもしたが、それは誤りであったなあ。八十八才でこれほどの人間を眼の当たりにすると、七十五才はまだまだ若いのである。青二才の青でなくても紫くらいだ。金子兜太が、まだ小さかった時オヤジさんが彼等子供達に詠んだ句、「元日や、もちで押し出す、去年グソ」ハハハッ。これを聞いて今日、いきなりもう年は明けてしまった。金子氏講話の後、茶話。その後、稲盛和夫氏下の盛和塾の面々、馬場義勝氏夫妻他と会食。二十一時四〇分世田谷村に戻る。
 R041
 十二月九日
 十四時前カンボジアの小笠原さんに焦点を当てたドキュメンタリー番組が放映された。「フーテンじじいの青春」との題がつけられていた。的外れとも思える題名である。小笠原氏のプノンペンでの生活と手こぎ三輪車製作が軸となっていた。小笠原氏に目をつけたTVノンフィクション番組プロダクションのディレクターの眼は良かった。その製作の現場にもう少し時間と、金が廻れば良かった。老人社会の老人の生き方のモデルとして小笠原氏の生き方は枠外者としての可能性を示している。七〇才のヒッピー、ドロッパーの生き方がどう日本国内の老人達に、そして若者に希望を示せるかという事だ。個人で生きざるを得ない人間が、それでも個人では生きられない、その点にもっと焦点を当てれば良かったのに。
 十四時四〇分世田谷美術館へ発つ。雨降りで寒い。十五時過美術館。「アンリ・ルソーの見た夢、アンリ・ルソーに見る夢」という切り口のルソー展である。会場は黒山の人の群であった。開館二〇周年で美術館も力が入っていたのだろうが、これは企画の妙であった。世界のメジャー美術館のアンリ・ルソー展システムに入る事が出来ずに、それ故に日本でしか出来ないプランが考え出された。六十六才で亡くなったルソーは老人ではなかったが、税関吏としての彼は退官者でもあり、今の日本の老人達の生き方と同様な問題を抱えていた。アンリ・ルソーの絵がどうだこうだと言うよりも、ルソーの芸術を中心とした企画にこれだけの人間が反応している事が重要だ。反応させた人も偉いけれど、反応している人々も仲々のもんだ。私も含む彼等は、本当はアンリ・ルソーを見に行くのではない。アンリ・ルソーに自分達を見ようとしているのだ。素朴画家達の仕事は皆市民生活の延長の可能性を示しているんだから。つまり、開放系技術ですぞ、ルソーは。
 しかし、近代絵画の歴史でも、ルソー以前にルソー的な仕事は無数にあった筈だが、ルソーやボーシャンを素朴画家としてくくり世に送り出した人々が居なかっただけだ。現代はむしろ、そのような人々の存在の意味が大きい。その人々の存在こそが時代、場所を超えて、世田谷美術館に、ルソーに夢を見た日本の芸術家達の作品を集めさせ、そして多くの人々の顕在していない夢の数々を呼び寄せている。
 世田谷美術館からの帰りはひどく手間どって戻ったのは十九時になった。銀杏の落葉が厚く積み重なった小径を歩いた感触がとても良かった。
 R040
 十二月八日
 昨夜は早く帰宅したが、少々酒が残っている。
 二〇〇六年現在、七四四の大学があるらしいが、そんなに多くの大学は必要ない。デザイン・芸術部門ではフレキシブルに面白いことが出来るはずなのだがな。こういう時の基本は歴史教育だろう。
 九時過ぎ、星の子愛児園増築現場へ。
 十時前京王稲田堤星の子愛児園増築現場。園長先生、保母先生と打ち合わせ。愛児園は先生方と子供達の建築だが、人体と同様に年を経て痛んだり、傷ついたりする部分が出てきて、それをいたわりながら保持してゆく必要がある。先生方の長年の経験から教えられる事は実に多い。工事の若干の手直しをする事を決める。八大建設の西山社長も苦労が絶えないな。しかし、設計したものを使って子供達が遊んでくれているのを見るのは嬉しい。十三時過、設計製図中間講評会。都市計画の先生方との協同で面白かった。学生達も明快な目標を失った社会の中の大学で学んでいるのだから大変なんだろうと思う。しかし、もっともっと大変になるんだ現実社会は。リアス・アーク美術館職員の方々来室。室内改装、増床の件。気仙沼・唐桑への打込み方は我ながら強いものがあったので、何か出来る事があれば力を尽くしたい。夕方、近江屋でビールを飲んで世田谷村に戻る。
 R039
 十二月七日
 七時起床。杏林病院定期検診へ。ようやくにして病院恐怖症が抜けてきた。馬場昭道和尚より、ブラジルの谷氏再来日とのことで、日曜日には又お目にかかることが出来るだろう。十六時研究室ミーティング。十八時半、中川武先生等と教室忘年会へ。麹町の立派なレストランで忘年会。尾島先生と久し振りに話した。早稲田の先生方も皆スッキリと上品になったな。西本先生より、エジプト学の分野でもあと十年で日本は中国に追い抜かれるだろうの話しも聞いた。エジプト学という日常の生活とは縁遠い分野ですら、そのような予測があるようだから、現実そのものはどうなのかなと思うことしきりである。少なくとも二〇二五年頃の世界、アジア情勢を思い描きながら、大学はオリエンテーションを決めなければならないが、若い先生方にその視野がありや否や。
 R038
 十二月七日
 深夜、GA、二川幸夫との小さな対談を読み直してみる。ひろしまハウスを評価してくれる人は建築界には少ないだろうと思っていたが、二川氏の評価は意外でもあった。  どうやら、自分は、あんまり考えずに、自然体に近く動いた時の建築に二川氏は反応するようなのが、それでも解った。こんな単純な事を解るのに二〇年もかかってしまったのが我ながらおかしい。独人苦笑する。しかし、二川幸夫の本能とでも呼ぶべきモノが解った様な気がしても、それに対応し続ける事は現代では実に困難な事ではある。あと二〇年位は作り続ける事ができるかも知れないから、充分に教訓として、注意してやってゆきたい。こんな事を言う人も数少なくなってしまったからなあ。
 今年は幻庵主榎本基純氏を失い、前途茫漠たるものを感じていたが、川合花子さんとの再会にも、それに近い事をそう言えば感じていたのだった。夢はるかである。頑張ってみよう。
 R037
 十二月六日
 十三時前埼玉県指扇で配島工業社長と会い、A邸メンテナンスの件。その後配島工業の建売住宅の相談あり、渡辺に連絡させる事にした。昨日のO邸の現場で考えた様な事に取り組ませてみよう。配島社長は確か親父が左官業だったという記憶がある。商売はどうだと尋ねたら住宅の方はイイです、との事。埼玉という彼の事業所の立地によるものだろう。しかし、彼は毎月のように中国に出掛けて輸入業にも取り組もうとしている努力は見上げたものだ。増井工務店を立ち上げた増井君もプノンペンのひろしハウス竣工セレモニー迄やり手社長の母上と一緒に来てくれたけれど、事業はうまくいっているのだろうか、気になる。工務店の親方連中の活力振りに比べれば、私なんて実にヤワなもんだ。と殊勝な事を思ってみるが、そうでもないかとも実ワ思うね。
 夕方、今日は北京から戻り台北に居る李祖源より台湾のプロジェクトについて連絡あり、これは中国本土のものよりリスクはズーッと小さいだろう。
世田谷村日記 制作ノート 12/06
 R036
 十二月五日
 昨夜は山田脩二に夜中の予定を狂わされ、かつ楽しんだが、今朝は七時起床。八時軽井沢の現場に発つ。
 十時四十五分軽井沢O邸現場着。十一時よりO氏夫妻セイケンハウス社長以下スタッフ、棟梁と共に地鎮祭。修了後ソバ屋でO夫妻主催の直会。沢山いただいた。棟梁は中学校出てから親方のところに住み込み修行をした人で、どこの工務店、ハウスプロダクションでも特注的なモノをこなす中心的存在である。プレカットされた材を組み上げるアッセンブル工としての今風大工とはチョッと違う、実は文化的蓄積を持つ職人である。決して少なくはない建築家達の住宅生産モデルの提案は皆挫折した。その根本はこのような棟梁の文化的価値を基盤にする事が無かったからだ。その点では建築家達よりも工務店経営者の方がより重要な役割を果たしたのだろう。住宅設計の価値を何処に見るか、いささか再び考える。夕方遅く世田谷村に戻る。
 R035
 十二月四日
 昨夜は十時間も眠った。朝真栄寺馬場昭道さんと話し、北京の件の段取りを再び始める。今度は北京モルガンも万全なので、グラつかずにやれる。北京で考えた事をストレートに実行してゆくだけである。
 十一時前研究室。編集ミーティング。十日間殆どページを動かしていなかったので、再始動する。年内の基本方針を決める。十四時GA二川幸夫氏、杉田氏来室。二川氏は相変わらず異常に元気であった。インタビューではなく、二川氏の一方的な話に終始した。いつもの事で、仕方無いのである。こちらも周りを気にせずやるしかない。次が問題だな、と突き放される。長井さん来室すれども話は出来ず。申し訳ない。一時間ほどスタッフと戸山公園のゲートから高田馬場駅迄散歩。都市の楽しみ方の取材。外国人3名+日本人3名のバランス良い取材陣であった。次回の「都市の楽しみ方」は「都市のたそがれ」について書いてみる。十八時塩野君来室。淡路島の山田脩二より連絡。今夜世田谷で会う事になる。酒仙童子は、益々元気そうだ。世田谷村に戻り、遅い夕食。二十二時過、山田氏と駅前の飲屋で会う。彼は高揚しており、内藤廣の建築写真を撮り終えた話しを延々と話した。マ、しょうがネェーナと思って聞き続けたが、山田ハンも何を考えているのかな。世はなべて右傾化傾向の流れにあるな。〇時半世田谷村に戻りメモを記し休む。
 R034
 十二月三日 日曜日
 朝下の畑を見廻る。ホウレン草サヤえんどうは良く育っているが、どうも他はいかんな。一時間程クワを振り廻し汗をかく。終日休養。
 R033
 十二月二日
 七時半に下の畑におりて野菜共の成長をチェック。ホウレン草とサヤえんどうが成長著しく、共に百円ショップで求めた種である。チンゲン菜、二十日大根、白菜はどうもよろしくない。特に二十日大根は不調である。九時半大学。十時より創成入試。この入試は建築学科独特なもので長い時間を面接にかけた。それでも数名の人材がかろうじていた様に思うが、どうか。十八時研究室スタッフと新大久保コリアン・レストランで軽く飲んで、カンボジア、中国、九州の話等。二〇時二〇分世田谷村に戻る。
世田谷村日記 制作ノート 12/02
世田谷村日記 制作ノート 12/01
2006 年11月の世田谷村日記

世田谷村日記
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