石山修武 世田谷村日記 |
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2月の世田谷村日記 |
R083 |
一月三〇日 十二時研究室。十九過迄学務に集中。疲労す。二〇時前近江屋で Mr. 蔡と一服。蔡は中国系カナダ人。石山研のウェブサイトは中国大陸でも少なからず読まれているので、その対策について相談する。近々、現在の英語、日本語のウェブサイトに、中国語が登場する筈である。日本語は大事だけれど、今は明らかにマイナーな言葉の道具になっている。二十二時世田谷村に戻る。今夜は何人かが研究室でGAの展覧会用の鬼沼風光水塔ハウスのモデルを作成中である。このプロジェクトは「ひろしまハウス」以降重要な計画の一つであるから力を傾注している。 一月三十一日水曜日 八時起床。流石に真冬に小さな畑を寒さの中で耕すでもないので、手持ち無沙汰である。開放系技術論13書く。昼、研究室へ。 |
R082 |
一月二十九日 軽井沢のO氏より、自邸階段スケッチ送られてくる。仲々見事なものだ。少々、手を入れて送り返す。自分のファクトリーを持ちたいと考えるだけあって、失礼ながら院生レベルをはるかに超えている。風光水塔の打合わせ、鬼沼全体の進め方について指示する。「ひろしまハウス」に関して、来週土曜日に平岡敬氏等と打合わせとなる。十八時過了。T氏に約束していた開放系技術的人間(仮)書き始める。開放系技術論の軸になるものだ。開放系技術論11書く。十九時半了。二〇時近江屋で夕食。二十二時過、世田谷村に戻る。二十三時半迄家でも雑務。 一月三〇日 火曜日 八時過起床。梅の樹が花を咲かせ始めた。開放系技術論12書く。十時過了。 |
開放系技術論11 |
R081 |
一月二十九日月曜日 八時過起床。流石に疲れていたのか昨夜は良く眠った。世田谷村には屋根の上の菜園、下の菜園と小振りだが畑も作り始めた。しかし、囲炉裏が無い、火を焚いてゴミを燃したり、チョッとした料理を作る場所が無い。それが玉に傷だ。二日間鬼沼の鉄の洞穴で暮して、それを痛感する。火を焚くのを優先するか、都市に燃料はあるのかと、当然の理由知りから始めるのか、焚くべきか、あきらめるべきか、それが問題だ・・・とシェイクスピアならこれだけで一幕の近代都市生活の芝居を書いただろう。つまり人生のこれは大問題なのだが、先ず、二階に火を焚く場所をやはり作ろうかな。十三時研究室雑務。十四時前突然古市徹雄氏来室。「ひろしまハウス」イイです、とわざわざ告げに来てくれた。ダイレクトな人だ。十四時研究室OB李東植来室。独立して「JAPAN WORLD」なる組織を立ち上げたと言う。韓国と日本を結ぶ拠点として育てたいとの事。研究室OBのY君の新ビジネスを紹介する。OB諸君は彼の門出を祝ってやって欲しい。十六時過迄雑務。研究室ミーティング。 |
R080 |
一月二十七日 九時の汽車で郡山へ。T社長は私用で遅れてくる事となる。十時半前郡山駅。早朝東京を車で発った河野君等と合流。車二台総勢七名で鬼沼に向う。途中いつものソバ屋で大根サラダソバ。大変な美味なので店の名は伏せる。峠は雪が降り始める。湖南町猪苗代湖の近くの熊野神社の稲荷さんの参道をたしかめて、現場へ。予想していたよりも雪はズーッと少なく、山の地肌がのぞいている。二班に分かれ、河野、渡辺、アベルは風力発電塔を建てる山の稜線迄の雪中登山。T Jr. 、カイ、他は前進基地で夕食、寝具のセット。山登り班、十六時半ベースキャンプに戻る。寒くて、雪の急傾斜が大変だったようだ。熊の足跡もあり、鈴を鳴らして登っても恐かったと言う。鍋料理をグツグツやっている間に、十九時T社長到着。皆で大鍋料理を食す。コルゲート・パイプの洞穴中は寒くはないが、囲炉裏、ダルマストーブの煙が充満して、まさに煙が目にしみる。しみ過ぎるのであった。排煙塔は作り直さねばならない。私とT氏は食後すぐ眠る。煙は上に昇るから床に横になった方が楽なのであった。囲炉裏はオンドルに作り直した方が良い。 一月二十八日日曜日 夜半三時煙いのと、寒いのとで目がさめる。外のトイレに出たら、雪は止み満天の星空である。大熊座が北に間近な猪苗代湖の上にギラリと傾いている。星明かりに周囲の山並の雪が白く光っている。肩の痛さをこらえ再び眠る。八名が雑魚寝である。七時迄眠った。朝食は昨夜の鍋を再び煮込む。大きめの囲炉裏の炎が離れ難い。炎は現代都市社会では得難いものだが、世田谷村での自家製ゴミ焼場での体験もあり、人の気持を動かす力があるな。九時半、本社ヘッドクォータ―建設予定地まで登る。積雪があり登りにくかったが、眺望は格別であった。猪苗代湖の潟の見え方も良く、当初計画通りとする。チューブ状の付属施設、ツリーハウスの位置は再考を要する。T社長にも野外劇場等の考えがあり、再び検討したい。十一時過片付けをして去る。郡山へ、途中二件神社、寺院を見学。十四時前の新幹線で東京へ。東京はやはり息苦しい。が、食べる為には大都市が便利なのだ、という先入観、常識が我々にまだ巣喰っている。T氏のヘッド・クォーターを田舎に持って出るという発想は非常に面白い。又、昨日雪の中を数名が山の上の樹高を計測したのはとても良かった。前回の目測よりも二米程樹木群が高く、塔の寸法を若干変える必要がある。これで来週より構造計画を進める事が出来る。十六時半世田谷村に戻る。よい二日間であった。鬼沼風光水塔住居は私にとっては横浜グランモール・プロジェクトの再挑戦の意味もあり、大きな価値がある。 |
R079 |
一月二十六日 十二時過研究室ミーティング。十三時博士論文審査。渡辺仁史研究室長沢さんの論文は時代にフィットしていて好論文である。十四時了。Mr. 蔡の都市の楽しみ方・エッセイを読む。面白い。彼の複雑なキャラクターが良く出ている。こういう才があったのかと驚いた。読んでいただきたい。十五時過迄鬼沼他打合わせ。句会妙見会会長より、初めて手本の一句いただく。畏れ多くて公表できぬが、あり余る言葉遊びの才を完全に封じているところに会長の格を示されている。夕方、肩痛がひどく早退。十九時過調布N先生宅。H氏と会う。二〇時過了。近くのラーメン屋大鉢でネギラーメン、チャーハン。二十一時過世田谷村に戻る。明日は早朝より東北の厳寒の現場だ。この首痛と肩痛で大丈夫かと少々不安。 一月二十七日土曜日 肩痛で眠れず。三時半に起きてしまう。どうやらこの偏肩痛の原因はフォションのロマネスク彫刻にあるのではと思いつき、念のため「ロマネスク美術」ルイ・ブレイエ著 美術出版 を読んでみる。同じ辻佐保子先生訳である。こちらの本は難しくなく平坦に読み進めた。という事は訳の問題では全くない事が歴然とした。しかも、フォションの本の方が矢張り面白く、奥行も深いのである。という事は、この偏肩痛は私の頭の悪さに原因があるわけで、フォションの文体が悪いわけではないようだ。フランス人というのは、こういう風に廻りくどい書き方を好むのだな。偏頭痛は脳溢血の恐れありと聞くが偏肩痛は、何の恐れがあるのか、しばらくフランス人のクネクネした語り口のロマネスク彫刻から離れてみる事を決めて、又眠ろうとする。実に日々の生活は仲々につらいものである。 六時四十五分起床。皆ももうそれぞれ出発してしまっているだろうからと東京駅に向う。 |
R078 |
一月二十五日 東京駅で少し時間が空いたので、メモを記す。「ロマネスク彫刻」をきちんと読む時間の作り方を考えなくてならない。十一時十六分あさま五一九で軽井沢へ。頭を空にしてロマネスク彫刻読みふける。十二時過軽井沢着。Oさん夫妻と現場へ。幾つかの指示。十五時迄。修了後Oさんと昼食のソバを喰べながらOさんの将来の仕事について話し合う。Oさんはこの住宅ファクトリーを拠点にして、生活用品を中心としたモノ作り、販売を生業とする計画を持っている。今度の住宅の階段部分を手始めにその計画を実行に移そうではないかという相談でもある。来週初めに階段のスケッチを送ってもらう事を決めた。クライアントに図面を描いてもらうのは実に本質的な近代のパラドクスであるが、そこが開放系技術の目指すところでもあるので、この事に関して私としては確信犯なのである。十六時前了。十六時の汽車で東京へ。ロマネスク彫刻読む。十七時過東京着。新宿へ。十八時前OZON三階 5 bathrooms 展示会へ。何を勘違いして来たのか我ながら不明である。全くの別世界で、あわてて退散する。五人の女性のクリエイターが、あなたを癒したい、と考えたバスルーム・ファッションである。人を癒す前に、あんたの頭を直せとつぶやいてしまった。しかし、彼女達に罪は無い、間違ってまぎれ込んだ私が悪い。十九時、世田谷村に戻る。太田博太郎先生が亡くなられた。歴史家らしく、きれいに音も無く消えた。流石だ。 一月二十六日 八時半頃起床。下の畑のホウレン草を間引く。ひ弱な様でも根は深く土にのびていた。ニンニクはしぶとい。粗っぽく植え込み種株はムキ出しなのに育ってきた。 |
開放系技術論10 |
R077 |
一月二十四日 十三時研究室。河野君来室、福島県鬼沼エネルギー・タワーの件。十五時半東京ガス来室。開放系技術人間その3、河野君を書いてみるのを決めた。雑打合わせを続け、十九時前、コーリア料理屋で夕食。二十一時前了。鬼沼のエネルギー・タワーの設計が少しずつ進行して、ようやく面白くなってきた。実物での可能性と、思い描く非現実の狭間に揺れている緊張位に楽しい事はない。二十二時世田谷村に帰る。 一月二十五日 九時起床。昨夜考えた通り、世田谷美術館のN氏に通信を送り始める。十時過発。軽井沢O邸現場へ。 |
R076 |
一月二十三日 十時過昭和歯科医大、歯の治療十一時過了。十二時過世田谷村に戻る。昨日の近江屋での一服中にスタッフから出た、北京モルガンから世田谷美術館への同時中継というアイデアはいいかも知れない。丁度北京オリンピック直前だし。十三時過世田谷美術館へ。富本憲吉展見る。この1000sm のスペースを密度高く埋めるのは仲々大変だなと痛感する。十五時半酒井忠康館長、E課長、担当のN氏に挨拶。二〇〇八年六月二十八日開催に向けて一歩を踏み出した。やるからには画期的なものにする積りだ。十七時了。少し歩いてみようと環八を歩く。寒くて肩もこっていたが、一時間歩いて芦花恒春園から世田谷村に戻る。十八時着。毎回歩くのは大変だが、道筋を変えてみたら面白いかも知れない。 一月二十四日水曜日 八時起床。昨夕、世田谷美術館から世田谷村まで一時間程歩いていたら、鈴木博之先生の若い頃の顔が鮮明に浮かんできたのには驚いた。高山建築学校があった数河峠の廃校から、神岡市役所迄恐らくは半日程かけて歩いた時の彼だ。数河とシシリアはつながっていたんだ。シシリアでの鈴木先生も良く歩く人であった。お蔭でパレルモは全部徒歩だった。しかし、迷い込んだ露地、地下のミイラ、ようやく水だけは飲ませてもらった店頭の様子、羊たちの沈黙のラストシーンみたいな空の色、大柄なバロックの町並の殆ど全てを克明に記憶している。私の記憶力は鈴木先生と比べれば無残極まるものであるが、時々、ある日の事を丸ごとそれこそ道端の草の姿まで全部思い出すような事があって、ほとんどが歩いた時のことである。歩かなくなったらお仕舞だな。 |
R075 |
一月二十二日 十三時研究室、雑務。十四時過編集ミーティング。明日のサイトの指示。雑打合わせ。十六時過修了。十六時半山下設計副社長橋本氏来室。大沢温泉花鳥風月の構想を練る。十九時近江屋で一服、二〇時半世田谷村。スケッチ、読書。 一月二十三日火曜日 八時半起床。昨夜再び読み始めた「ロマネスク彫刻」アンリ・フォション、辻佐保子訳。何度も読んだ本だが、その度にはじき返されていたが、今度は何とかなりかもしれない。少しずつ読んでみる。九時スケッチ研究室に送る。 |
開放系技術論09 音の神殿9 |
R074 |
一月二十一日 日曜日 八時前起床。昨日の山田脩二襲来の後遺症がようやく抜ける。「ぼくはアメリカを学んだ」鎌田遵読み続ける。小田実の再来である。アメリカの先住民、マイノリティに焦点を結んでいるところが独自で、その出発点に辿り着く迄のプロセスが書かれている。午前中開放系技術論9、10及び音の神殿9書く。十六時過、岩波ジュニア文庫読み終える。今の日本の若い世代では最も良質なスタンディング・ポイントに立っているように直観した。この人材が十年、二十年後に何をしているのか想像もつかぬが、希望は無いわけではないと感じた。小田実はベ平連をやったが、彼は何をやるのか。机上の学者には納まり切らぬだろう。 一月二十二日月曜日 九時半迄眠ってしまう。昼過研究室。 |
R073 |
一月十九日 十四時半三年生製図採点。良い課題と、新しいシステムでの進め方であったので、良い成果を得る事ができた。アーバンの先生方との共同も比較的上手くいったようだ。講評が難しいなコレワ。十七時過修了。修士論文アンドレ他指導。十七時四〇分了。十八時半近江屋で一服。二〇時半世田谷村に戻る。 一月二〇日 土曜日 四時起床。フリーライター長井美暁が日経アーキテクチュア最新号に「ひろしまハウス」を書いている。休刊となった「室内」の編集者で、山本夏彦門下生であった。「室内」の編集者達は山本夏彦の薫陶もあり、ジャーナリストとして自ら書き支援し、なおかつ批評するというジャーナリズムの王道を行く感を引継いでいる。ともあれ若い長井美暁に山本夏彦のスピリッツを嗅ぎ取る事が出来たのは幸いであった。又、日経アーキテクチュア編集部も良く新人フリーライターの記事を大きくピックアップした。これもジャーナリストとして天晴れだ。かくの如き物言いは手前味噌の愚を晒す恥を覚悟しないと書けぬが、長井美暁の記事に山本夏彦の骨格を幻視した嬉しさもあり、敢えて書き置く。と、言葉遣いが山本夏彦翁の様子になってきたところで、おアトもよろしいようで。色んな書物を乱読しているが、今のところ「開放系技術論」に収斂できると思う。その枠にはまらぬものが「音の神殿」として弾けるだろう。六時再眠。六時過下に誰か来たと言う家内に起こされる。寝入り鼻十五分である。下に降りてみると、酒呑童子山田脩二であった。非常識極まるが、山田脩二では仕方ないのであった。昨日から座談会やら、飲み続けらしい。おまけに娘さんに子供が生まれて、山田家の初孫のようだ。初孫の名は「もなか」と言う。ヘェ珍しい名前だね「もなか」か。黒アンですか白アンですか、と実に妙な話を延々として、こちらは眠くて仕方ない。結局十時前まで居座り左平次を決めこまれた。昔、グッドモーニング・バビロンだったかの名画があったが、山田がやればグッドモーニング・ベロンベロンなのであった。何言っても、理由知りの忠告しても、もう六十八才のベロンベロンには効かないのは知れているから、大人しく聞くばかりなのであった。ようやく、十時前に次の犠牲者にバトンタッチされ、私はバッタリ倒れたのだった。そのまんま、十二時過ぎまで眠る。この最悪の訪問者の来襲で今日一日のスケジュールは全て破壊されてしまった。皆さん、山田脩二には御用心。久し振りに廃句心が動き、ヤケの連作。 山田来て まだ明けやらぬ 地獄旅 朝ぼらけ 鳥と一緒に 山田来る 酔う友に 初孫の名に「もなか」 はなかろうと忠告す 完全に当方の頭脳も破壊されてしまった。今日は沈没である。研究室に連絡し、FAXで図面チェックとする。 「ぼくはアメリカを学んだ」鎌田遵著 岩波ジュニア新書 読み始める。これは面白いアメリカ論のようだ。 |
R072 |
一月十八日 十時四〇分研究室。十一時AD WORLD・N氏来室。十三時編集会議。明日のウェブサイト更新について。十三時了。十四時半教室会議。十七時前了。十七時半八大建設西山社長来室。十八時半新大久保近江屋で西山さんと一服。二十一時世田谷村に戻る。西山さん七〇才工務店の社長業も大変だろうが、今は七〇才はまだまだの時代なんで頑張ってもらいたい。私なんかは彼の日々の努力に比べれば、実にノンキなお父ツァンである。人それぞれに皆独自な歴史を生きているんだな。 一月十九日金曜日 早朝五時前起床。モソモソと仕事する。世田谷美術館の野田氏が昨日色々と届けてくれた。自転車で来てくれたそうだ。展覧会の件本腰を入れて考えなくてはならぬ。今、富本憲吉展開催中なので来週出掛けてみようかな。五時過ぎ寒くて再び眠ろうとする。八時起床。九時半発。 十一時前芝増上寺裏全日本仏教会。打合わせ。十二時了。十三時前新大久保近江屋できしめんの昼食後研究室。 |
開放系技術論08 |
R071 |
一月十七日 十三時過ぎ研究室。ウェブサイトの読まれ方が少し理想に近づいてきた。大枠を組み直したので、ようやく表紙を読む人の数と日記を読む人の数が同数になってきた。日本でのヒット数は全体の59%である。 研究室一期生柳本康城君の会社ゑるぶすが横浜に阪神タイガース・ショップを開設したの知らせは受けていたが、阪神タイガース・ショップはアッという間に高知店、名古屋店へと展開しているようだ。彼には商才とバイタリティーがあったから、と喜んでいる。高知店は、はりまや橋のすぐ近く、名古屋店はナゴヤドーム近くである。ごひいきに願いたい。昨日TVで両備運輸の小島光信社長がJRの赤字支線の立直しプロとして活躍されているのを知って驚き、かつ、これも嬉しかった。 一月十八日 木曜日 八時過起床。昨日は少しのんびりさせてもらった。山口勝弘先生から葉書届く。先生は「ひろしまハウス」をベトナムハウスと誤記憶されていて、それでイメージを膨らませて、ナイル河風の切手を貼っているのだった。体は不自由でも脳は自由に旅をしているのだ。この葉書を見て、明日のウェブサイトのトップページ更新のイメージを得た。九時半迄作業。十時発。 |
開放系技術論07 |
R070 |
一月十六日 十時過京王稲田堤星の子愛児園。理事長、園長両先生にお目にかかる。小さな増築はうまく出来た。八大建設の西山社長に感謝。北京モルガンの日本料理屋の一部に参加してもらう事を考えよう。十二時半研究室。コンビニの弁当を喰らう。体には悪いぞコレワ。星の子愛児園の3F部のピンクの鯨に風力発電装置をつける計画、厚生館にも風車をつける計画を企ててみる。十四時半、二年生設計製図講評会。今年の2年生は、これ迄の長い停滞状態とはガラリと様変わりして才能に動きがある。その大半の因は女学生の自由さである。建築学科はこの学年に遂に女子が三〇%をこえた。設計製図の上位も殆ど全てが女子である。男子学生がチンマリまとまっているのに比して、自由だ。もしかしたら、学科を動かす力になるやも知れぬと、淡い希望を抱く。変に教えぬ方が良いなコレは。TA達よりも、はるかに良質な才を持っているので、妙な指導をさせぬように注意したい。十七時半途中で抜けて、地下鉄を乗り継ぎホテルオークラへ。溜池山王の駅でかなりの上下運動を交じえ歩く。十八時半新潟市パーティ。篠田昭市長にお目にかかる。東アジア状勢のレクチャーを聞く。二〇時過ぎ抜けて、再び歩き、地下鉄で新宿経由、二十二時前世田谷村に戻る。良く歩いた一日である。 一月十七日 七時半起床。企画書作り。八時過一段落。鳥に餌を備える。今朝は暖かい。昨夜、地球温暖化のTV番組見たので余り喜んではいられない。 |
開放系技術論スケッチ 1/17 |
R069 |
一月十五日 十三時研究室。丹羽君と打合わせ。トップページのコメント書く。北京モルガン・スケッチ他。KAIと打合わせ。十六時蔡とABELからフィンランドプロジェクトの、いきなり模型が提示されて、ビックリ。良くやっているのだが、こちらの意図とは少々違う。このいきちがいが面白い。折角だから研究室制作ノートに公表してしまおう。十八時半発。十九時新宿で会食。西本先生の門出を祝う会。中川、佐藤先生と。二十二時世田谷村に戻る。 一月十六日 七時半起床。ひよ鳥が二羽梅の木の小枝にとまり、えさを待っている。いつもの奴等だな。意外な大食である。O邸の階段エスキス。九時四十五分発星の子愛児園へ。 |
開放系技術論スケッチ 1/16 音の神殿8 |
R068 |
一月十四日 日曜日 七時半起床。畑に降りる。畑に関しては別にする事は無いのだけれど、畑と庭のエッジの手入れにかかる。ゴミも少しばかり燃やす。さざん花の樹が少し弱まっており、毛虫が葉を喰っている。根元に石がゴロゴロと捨てられていて、その重みが樹にプレスをかけているのも原因だろうと、石を取り除く作業をする。面白いものでアジサイの樹の根元を掃除していたら、古い庭の仕切石が出てきた。狭い庭なのだけれど、細部には実に多くの発見がある。土を掘りくり返していると、野鳥が三種類程やってきてその上をピョンピョン歩く。恐らく土の中の虫やらを喰べているのであろう。鳥は賢い。九時半朝食に上る。野鳥図鑑で、メジロ、ひよ鳥、ムク鳥であるのを確認。ニンニクの芽を植え込む、二列で一うねを使う。十三時迄。昼食はソバ。 午後も庭と畑を歩き廻る。狭い土地だが意外にも、飽きない。南西の隅の木陰にもぐり込むと、ここは初めての場所だなと実感したりする。夕方、開放系技術論書き進める。まだ入口部分だ。今日は結局一歩も世田谷村を出なかったけれど、妙に満足感がある。この満足感こそが開放系技術論の中心だな。自分で空間、環境をつくり出している、把握しているという実感。 一月十五日 月曜日 六時四〇分起床。開放系技術論書き進める。二階に急造した鳥のエサ台に、ひよ鳥、めじろが群がるのをしばらく眺める。鳥も人間と同じように変な縄張り意識があるようで、エサは一種一羽しかついばまぬようだ。 |
開放系技術論 1/15 |
R067 |
一月十二日 十一時フィンランド・プロジェクト。蔡、アベルと打ち合わせ。昼食はそこらの弁当。鬼沼エスキス。十四時博士論文審査会。十五時半鬼沼プロジェクトミーティング。O邸階段、開放技術的方法によるスケッチ作成。他。 一月十三日 七時起床。畑でたき火。石を動かしたり、一時間程遊ぶ。石は本当に重い。音の神殿8書く。好きな事だけ書いているから面白いしあきが来ない。おばさんが道端に一人しゃがみ込むようにして私の作った生垣の一部を見ていた。絵や版画を見られるのとは別の嬉しさが湧くな。コレワ。十四時半研究室。ウェブサイトチェック。すみからすみ迄読むと仲々大変だ。ようやく、当初の目論見に少し接近しつつあるのでこのスピードでやっていく。十七時半一階大会議室で中川武先生大隈賞受賞記念講演会。アンコールワットの長年にわたる復元作業に対しての賞である。建築学科が学内に於いて独特なのは、その中枢に建築史研究という文化的意味合いが濃い学問を持つ事である。実利、応用の為の学問とは遠い、諸学の帝王ともいうべき歴史学を中心に持つ事だ。早稲田大学がその歴史学に対して賞を与えた事は重要である。二十一世紀の日本は技術と歴史学を中心に据えた文化的総合性をその存在理由に据えねばならぬ事が歴然とするだろうが、その出発となる小さな、しかし重要な事ではある。十九時過祝賀会を抜ける。新大久保のタイ料理屋クンメイ姉妹店で一服。二十二時世田谷村に戻る。 |
R066 |
一月十一日 十三時半研究室。T社長来室。鬼沼計画打合わせ。これからの三年間のプログラムを作成する事になった。全体としては十年かかるであろう。二〇〇七年度はサイトの尾根上に風力発電複合体を建設する事になる。GAプロジェクトに出したモノを実現する。世田谷村で進行中の開放系技術世界を、大がかりに実践する事になるだろう。こういうプロジェクトはワンマン社長の方が実現の可能性が高いのは経験上知っている。合議制による民主的決断では本格的なヴィジョンはこの国では達成し難いのだ。十六時了。プロジェクト・ミーティング。十九時新大久保近江屋で一服。二十一時世田谷村に戻る。明日は恐怖の歯医者である。昨日彫った銅版画に手を入れる。ときの忘れものの二回目の展覧会以降、銅版画制作はむしろ充実してきた感あり。 一月十二日 七時半起床。八時過発。昭和歯科大学病院へ。今朝は歯を一本抜かれるであろう。イヤだ。 抜かれるかと覚悟して来たが、何かの手違いか、今日は抜かれず。ホッとするやら、残念やら。今朝の、切腹の朝の如き覚悟は徒労に帰したのである。歯科医の治療ベッドで詠んだ句 口あけて 治療待つ我 春の河馬 無理をして季語入れをした。春が季語として通用するものなのかは知らぬ。冬なのに春の河馬はおかしい。しかし、冬の河馬ではどうにも絵にならないのである。アフリカの河馬の歯は自己補正が充分なのであろうか、と、やたらに河馬が気になるのであった。十時半研究室。ウェブ更新の指示。次第にウェブサイトの更新スピードが思うに近いものになってきている。 |
都市の楽しみ方 1/12 |
R065 |
一月十日 十時半GKT氏来室、打合わせ。十七時前まで独人仕事を続ける。空腹の極み。そういえば昼飯を忘れていた。十八時前新宿南口味王で一服して世田谷村に戻る。 一月十一日 八時前起床。畑に降りる。下のコンポストに生ゴミを捨て、ゴミを少し計り燃やす。ゴミ焼却炉にたまった灰を畑にまく。ウェブサイト用に生垣のスケッチ二点描く。全体は写真でなければ伝えられない。なにしろ、部分が皆生々しさを持っているから。 外の囲炉裏というか焚き火場の位置をほぼ決めて、ゴミを燃やし火を焚いてみる。一階が総吹抜になっているので、二階床下、軒先下にゴミ焼場をつくる事にした。これならば、小雨の時にもゴミを燃やせるし、煙が空に抜けて周辺の人々や消防署を心配させる事もあるまい。十一時二〇分了。 |
開放系技術論 1/11 |
R064 |
一月九日 七時半畑仕事。霜が降りていて、対策を講じる。切り取った笹の束を畑にかぶせる。十一時過研究室ミーティング。十二時過人事小委員会。十四時製図採点。十五時過修了。十七時半仕事をおえる。近江屋で一服、原稿チェック、等。 一月十日 昨夜世田谷村に戻ったら、藤森照信からの速達が届いていた。GAの「ひろしまハウス」が良かった、の便だった。ルソーの絵がプリントされた絵葉書での便りであった。藤森もプリミティーフに関心を持っているのが知れた。 五時起床。開放系技術論7を書く。早寝早起きになってきた。畑仕事のおかげか。七時疲れて小休。ひよ鳥、むくどり、目白が寄ってくる。十時研究室。 |
R063 |
一月五日 十三時前研究室。途中、ヨルク・ネーニックとバッタリ会う。編集ミーティング。十五時新大久保韓国料理屋で難波先生と会食。十八時世田谷村に戻る。難波先生は予想通り俳句には向いていないの感あり。難波先生の会食時の句。 「箱の家 どこまで行けど あな寒し」 「木枯しや 専攻長に 何故なるの」 二区共に駄句の極北である。これではどうにもならない。移植された近代の、典型的な心性の発露であるような気がするナァ。俳句なんてモノは徹底した西欧的自我をゆるやかに捨てようとする意識の中に立ち上がるモノだと思うのだけれど、松尾芭蕉にはその世界性がなかっただけだ。十七時半鳥山すみれ屋にてK家と会食。二十一時半頃会食から一人抜ける。若いゼネレーションには馴染めないのと、腹が一杯になってしまった理由からだ。一人世田谷村で過ごす。しかし、今日一日を振り返ってみると、難波先生の句の凄まじさが記憶に残るだけだ。会長に相談するまでもなく、一人でつぶやくのみ。残念である。 一月六日 土曜日 六時半起床。開放系技術論書く。午前中はかかり切り。午後は休む。原稿を書いた夜は良く眠れぬのが常であり、用心した。雨の中を庭に出て見廻る。身体が自然にそんな風に動くようになっているのに驚く。夕方、少し原稿を書く。 一月七日 日曜日 七時前起床。晴れているのですぐ庭に出て庭仕事。畑の南の瓦の土留めを延ばす。石をネコで運んだりで次の仕事の段取りにかかる。我ながら御苦労なこった。八時半迄。朝食後少し計り仕事。昼前再び庭へ。垣根作り。コルゲートシートの切レ端を支柱に使うのを思い付いて、すぐやってみる。近くの園芸屋に出掛けて、水仙他の花株を買ってくる。長グツをはいたまま行ったら、オヤジが何故かニコニコと愛想がよく、クロッカスの球根をおまけにくれた。十四時半了。昼食はソバ。十六時ヨルク夫妻来る。ヨルクはドレスデンで頑張っているようだ。もうドレスデンを動きたくないと言う。まだ若いのに。しかし、手渡された PAO という手作りの本は良かった。その本の小さな形式が。 一月八日 休日 八時前起床。すぐ庭に降り、垣根作りと畑拡張。十時迄。育てたホウレン草を間引いて朝食で食べた。何の味も無し。やっぱり百円ショップの種だものナア。朝食後いささかの仕事。再び庭の生垣づくり。コルゲートシートの切レ端と、瓦と古材、そして植物の組み合わせの面白いモノになった。コルゲートシートが生きている。三度の園芸屋に出掛け、水仙、ノースポール、他の草花を仕入れてくる。植え込み、水をやって十四時半昼食。春になって草花、植物が生命力を持つようになったら、この生垣はウェブに公表したい。私にとっては1/1のプロジェクト模型である。NHKTVで三仏寺投入堂を入念に取材し、番組に作り上げているのを見る。芸大保存・岡倉天心の報告によると投入堂は柱、構造物はべんがらの赤、壁は白、垂木の端には金色のすかし彫り金物と、荘厳されていたようだ。初めて知る。TVの空撮によるアングルからだとこの御堂はまさに空に浮いた、浄土そのものを表していたものらしい。投入堂は決して人間の手には触れる事が出来ぬモノとして、つまりバーチャルな幻視そのモノとして考えられたもののようだ。 |
世田谷村日記 制作ノート 1/9 |
R062 |
一月二日 七時半起床、八時前庭作業。思い切ってヘイをやってしまおうと決心。昨夜のスケッチを頭に、柱を建て、スケッチとは似ているような違うようなモノができ上がる。朝食をはさんで十一時半迄作業する。十三時半KAI同行磯崎宅へ。バウハウス・コロキアムの件。十六時半迄談笑。十八時過武蔵野の母親に年賀のあいさつ。近くのうどん屋で夕食。二十一時了。二十二時世田谷村に戻る。 夜中に庭を見廻る。雨が降れば地業も落着くだろう。二十三時九州へ発つ。十分東名高速に乗る。 一月三日 〇時東名足柄を過ぎる。朝には岡山に着くであろう。一時掛川通過。小雨降る暗闇の中を走り続ける。初めて、デカン高原のアジャンタ・エローラ窟院に行ったのはボンベイから車で走った。夜中走り続けた。ガジュマルの巨木並木のトンネルを潜り抜け、幽明の境のモヤを走り、別世界、異境にたどり着いたのだった。一時半浜名湖。小休。眠っているうちに六時岡山県和気町佐伯着。夜明けを待ち朝モヤの中を墓山へ。小田の家の墓参り。歴代の墓を巡る。吉井川を渡り、廃線となった旧片上鉄道備前矢田駅近くの北向穴観音に参拝。フモトに置かれた竹ヅエのたばより、一本借用ツエにして急な階段を右折左折して登る。日蓮宗不受不施派の矢田講の道場であった。祖母の小田春代が早朝お百度の願をかけ踏んでくれたところでもある。お参りして、新年初スケッチ。年を経るに従って先祖帰りしているような気がする。石山の家は信長に焼かれた石山寺から新潟に逃げた家だし、母の家小田は徳川に弾圧され禁宗とされた不受不施の中枢だった。清々しい気持になり小田のオジの家に。オジ、オバに新年のあいさつ。暮れから山で行方不明者が出て村中で捜している最中だと言う。九時佐伯発。九時半中国高速道吉備のレストランで朝食。先祖に縁のある北向穴観音で音の神殿展開のアイデアを得る。不受布施の信仰の中心は曼荼羅である。曼荼羅は要するにエコロジー思想の極だ。十時過倉敷市浜町一丁目法然寺。倉田の家の墓へ参る。十二時半発。十四時四〇分山陽高速道下松で昼食。十五時十五分発。十七時福岡着。十七時半キャナルシティー、ワシントンホテルロビーでT氏と会う。チェックインしてグランドハイアット、ロビー階レストランでTファミリーと会食。地階Barで少々飲んで別れる。ハードな一日というより二日がかりであったが、ホッと一息つく。二十一時十一階の部屋で横になる事ができた。 一月四日 六時目覚める。七時起床。和朝食。八時四十五分チェックアウト、発。九時五十五分熊本着。林田、倉田、三家の墓参り。光永寺、放牛の石臼を見る。十一時三〇分了。神風連記念会内林田鉄太墓参。スケッチ、十二時了。十二時十分味千拉麺東バイパス店。五〇分昼食了。すぐ、九州自動車道に乗る。東京迄千二百km。一時四十五分福岡。三時小郡。十六時宮島サービスエリア小休。同二〇分発。 「正月や 車中二泊の ホームレス」 「目出たさも 走り行きたり アレヨアレ」 十八時岡山通過。十五分和気通過、昨日の早朝はこの当りに居た。二〇時半大津サービスエリア、夕食。二十一時十分発。二十二時過大垣付近で渋滞に巻き込まれる。二十二時五〇分中央道に入る。十一時土岐。夜目にも白い雪嶺、南アルプスを真近に走る。十一時五〇分駒ヶ根通過。伊那市に入る。 一月五日 〇時十五分岡谷JCT、東京へ。〇時四〇分韮崎通過。甲府盆地を経て一時石和を過ぎる。二時過世田谷村に帰る。車中一点のスケッチを得る。 九時起床。十時過ぎまで畑の点検。手入れ。水やり。留守中無事であった。埋めた瓦にまで水をやってしまう。湯気を立てて喜んでいた。ゴミも少しばかり燃やす。灰は畑にまこう。 |
2006 年12月の世田谷村日記
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