石山修武 世田谷村日記

3月の世田谷村日記
 R106
 二月二十八日
 二月も終わりだ。十二時半研究室。十三時大教室、公開講評会。各系の先生方が全て発言されて良かった。十八時迄。十八時半大隈会館。教室関係雑打合わせ。二〇時半迄。修了後会食。大変みのりの多い会であった。建築教室の現状認識に関して大事な話しが多く出た。二十四時前世田谷村に戻る。今日は教室の次世代の先生方と短い時間ながら話しが出来て良かった。総合的戦略無き営みは無に帰する定理を、どれ程の人間が知り、共有できるかが、学科の力量である。建築はまだ風通しが良く、その定理を基に動ける可能性も大だ。
 R105
 二月二十七日
 十三時半学士・転科入試面接。学士入学は良い人材が集まった。十四時半了。十五時ミーティング。十七時半発、十八時半帝国ホテル3F。東京ガスコンペ二〇周年パーティ。沢山の建築家に久し振りにお目にかかる。東京ガスの古い友人達、伊東豊雄さんにも再会。槇文彦先生、池原義郎先生、内田祥哉先生、他にあいさつ。二〇時過六角鬼丈先生と帰る。年に一回位はこういう会に出るのもいいなと思った。夜、米寿対談両読了。
 二月二十八日
 九時起床。昨夜の印象。すでに周りを気にして何をやる気もないが、時々、古い友人に会うのも良い。自然にやりたい。大学に閉じこもっていてはならない。日毎に春の陽光になっているのを実感。菜園への陽の射し方が全く違ってきた。太陽の軸道が高くなっているのが解る。隣りの梅林の梅の花も散り始めた。
 R104
 二月二十六日
 十四時半研究室。十七時四十五分迄打合わせ。昨日、一昨日と書いたモノを渡し、基本的な方針の確認。  気仙沼K氏来室、リアスアークの件。終了後近江屋で会食、旧交を暖める。彼の息子は私が手を引いて山ガケした、いわば私が後見人である。当時まだ6才だったが、今や立派な青年に成長したようだ。二十一時過世田谷区に戻る。友美NYより戻る。
 二月二十七日
 十一時研究室。K氏打合わせ。十二時G設計H氏、野村と打合わせ。十三時過了。
開放系技術論16
都市の楽しみ方
 R103
 二月二十四日 土曜日
 終日、日経BP連載「ものつくる人讃歌」に取り組む。二回分を一挙に書くのに工夫がいったが、テーマが少し計り視えてきた感もあり。キリンとフジノンの人を題材として書いた。昔書いた、現代の職人をようやく一歩脱したな。夕方、西調布N先生、肩の治療。
 二月二十五日 日曜日
 昨日は寒かったが、今日は少し寒さもゆるんだ。頭が原稿書きモードになっているので、開放系技術論16を書く。これを書き切らねば、駄目なのを覚悟しているから。昨日、奈良の渡辺豊和さんより共同作業の返信来る。夕方、グラフィケーションの田中さん向けの原稿を書き続ける。発表にならぬであろう原稿だ。しかし、面白い筈だ、これは。夜、「米寿快談 金子兜太・鶴見和子」再読。再読ながら、再び没入。半分を読む。敵わネェなこういう人達には。しかし、今は鶴見さんは亡くなった。兜太さんの奥さまも亡くなっている。時間は大河の如くに流れて止まない。
 二月二十六日
 七時半起床。新聞各紙を読む。鶴見和子さんの父、鶴見祐輔の晩年を玲瓏の人となったと鶴見、金子兜太両氏が表現していたが(米寿快談)、この伝でゆけば、浅野史郎、黒川紀章両氏はとても玲瓏の人にはなり得ぬ類いの人種だな。二〇〇七年の今、ハッキリしているのは人生は誰もが何人分も生きねばならぬという事。デジタルに言えばONとOFF。INとOUT。仕事中とアフター5、職業と非職業。若年と老年、健常と非健常、等々。そして、六〇才後からの生き方で、コレは見事というのが、兜太、鶴見両氏の言う、玲瓏の人、なのだろう。玲瓏の人は今の言葉で言えば「情報的品格」「メディア的骨格」「ヴァーチャルリアリティ」という様な事になるか。小泉純一郎前首相の政治はまだ結果が出ていないが、小泉以前の政治家の現実感、非現実感への考え方はハッキリと変えられてしまった。つまり、浅野、黒川共に都知事候補としては古い、リアリティが無いと、多くの人々がTV画面、新聞、スポーツ紙他のメディアを介して、すでに知ってしまっているのを二人共知り得ない、というのが劇場型、メディア型政治の実状、冷酷な現実なのに。
 R102
 二月二十三日
 九時起床。十一時三〇分大学。入試結果の件、教室会議。私の世代は建築学科は一定の評価を受けていた、そんな社会であった。どうやら、そんな単純な構造が受け入れられぬ状況にいきなり突入してしまったの実感を得た。聞けば三、四年前からその傾向はあったそうだ。生命理工は華々しい。十四時調布市役所来室。東大との共通課題の件。鬼沼プロジェクト十六時四十五分迄。アベル、ヨハネス、渡辺共に良いWORK。Mr. 蔡の中国語の「ひろしまハウス」論、読むも、勿論中国語なので漢字の配列から感じをつかめるだけだ。しかし、色々とよく考えるものだなあ。夕方、肩の治療で西調布へ。
 R101
 二月二十一日
 十七時過、ワイマール・バウハウス大学に帰るカイ・ベック送別会。毎年のことではあるが、別れは定期的に訪れる。四〇年程昔、渡辺保忠先生が恒例の如くに酔ってつぶやいた。花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ(井伏鱒二訳)。井伏鱒二の息子は高校の時同級生で、父親と瓜二つの顔をしていたが、彼ともそれ以来会う事もない。コーリア料理屋で二次会。いささか酔って京王線で眠ってしまい調布迄乗り過し、TAXIで世田谷村に戻る。花も嵐も何も無い、酔って眠って日が暮れた。
 二月二十二日
 疲れてはいたが十時前研究室。雑打合わせ。十五時半ひと休み。夕方、渡辺の劇場プロジェクトを見る。
 R100 記念
 つづき

「相談役、ここまで来て見栄等張る事は無い。聞いているのは酒場のオカミだけではないか。会員数三〇万等と・・・。実のところ会は私と相談役の二人だけ、イヤ、ここのオカミが昨年、池袋地区会長として入会した筈であるから、三名じゃないの。」
「イヤ、俳句は嫌いだと言い張る新聞記者も入会しておりますから現在四名です。」
「もう人数はヨイ、これ位で。」
「しかし、これでは会としての体裁が整えられませぬ。」「考えてもみよ。昔というより、若い頃から我々の支持者はそれ程多くはなかった。日本中で何名位だったろうか。」
「マ、せいぜい上澄みの十名位でしょうか。」
「イヤ、五名位だろう。片手位だぜ、どう考えても。」
「たしかに周りを見渡しても枯野ばかりで人影もないですな。」
「ここ迄来たら、これでゆくしかないぜ。ジタバタせぬのが良い。」
 DEAR OLD STOCKHOLM アルバムのアイ・リメンバー・クリフォードが小さく聴こえていた。二十三時世田谷村に戻る。
 二月二十一日
 七時前起床。九時四十五分取手駅にて日経BP・T氏、カメラマンと。キリンビール取手工場、W氏インタビュー。十二時過迄。終了後東京へ。十四時半研究室。十六時来客、他。日経の取材は面白いのだが、時代の変化を痛烈に思い知る。

 R099
 二月二〇日
 十八時、新大久保近江屋にて句会妙見会会長、鈴木博之先生と会う。雑談に継ぐ雑談。会長と共に池袋に席を移す。二度目の、古風なワインバー。鈴木会長、本来の句作を連発。相談役としては唖然としか言いようが無い位のスピードと力であった。以下に記す。妙見会の句作の水準を世に示そうと試みたのであろうか。

 初凧や 遠き風にて ゆらめけり
 ゆばかこみ 古き頭を つきあわせ
 なにわえの 松の井戸にて 石つめる

 三首目は会長の私的な世界を人名に託して詠んだと想像される。誠に奥床しいことどもではある。曰く、プロテスタントといわれて詠める句。

 プロですと いってたんすけど アマでした

 四句目が一見唐突に思えるかも知れぬが、この句にはいささかの説明を要する。おたがい六〇才をこえ、眠れぬ夜もある。そんな時には読みながら自然に眠りに落ちる本はありがたい。「私なんか最近もっぱら眠りには中沢新一等を愛用しています。どの本も二ページ位ですぐ眠れます。後には何にも残らず実に良い熟睡本ですな」等と申し上げるに、会長は「相談役、君はまだ若い、と言うより青くさい」と先ずは一喝された。余りの口振りに一瞬それこそ若作りにムッとなり、「それは、何故の事の他、あらまほし」と口走ると、会長はカバンより、やおら小さな本を取り出された。「君の宗教的傾向への関心は余りにも日本の俗流図鑑の如きである。我若き頃より神父ネランとの師弟関係あり、一時はカソリック入信まで考えたのは、君にかって伝えた如しである。ねられないから、ネランねぇ、と言うのではないぞ。不真面目はいかん。異感はいいけど、奇感はイカン」等と申される。本は四部作アルキサンドリア・カルテットの作者、ロレンスのダレル・バルサ・ザール( BALTHAZAR )であった。勿論の事、私奴は生まれて初めて見、そして聞くものである。当然、英文原書だ。
 私は申し上げた。「会長、この消しても、消しても、消し切れぬ高踏さこそが、妙見会会員数を三〇万人に近づけられぬ抜本的問題なのではないか。反省を求めたい。」と、会長は深い諦観を込めて答えたのです。

 R098
 二月十九日
 午前中、幾つかの連絡作業。十二時過大学へ。院面接。ブラジルのアンドレイ相談他。研究室編集会議。カイがワイマールに帰国するので、その後の打合わせを兼ねる。今年初の院ミーティング。十八時過迄。十九時過近江屋で一服後二十一時過世田谷村に戻る。淡々とした一日であった。こういう一日があっても良いか。
 二月二〇日
 十時研究室。雑打合わせ。雑事の積重ねだ日常は。野村他打合わせ続け、十六時五〇分了。院ミーティング。十七時四〇分発新大久保近江屋へ。鈴木博之先生会食。
開放系技術論15
 R097
 二月十七日
 十四時空間表現採点。この科目は早稲田独自なもので、採点者側の質も大いに問われるものである。毎年充分な合議をしながら採点が行われる。今年も何点か、これは凄いと思わせるものがあった。採点終了後、先生方と弁当を喰べながら雑談。これも恒例である。春からの設計製図のプログラム他を相談する。二十一時西調布N先生。右肩の治療。H氏と再会。お互いの畑自慢などしながら世田谷村に戻る。
 二月十八日 日曜日
 八時起床。メモを記す。渡邉豊和氏との何かも大体の大枠は決めたので、明日発送できるだろう。広島の木本一之さんより便りが届いていてカンボジアの「ひろしまハウス」二日にわたり見学したとの事である。私も広島山中の彼のアトリエ、工房を探ね、彼の精神の強さを理解できた経験もある。今のところ私の気持ちの言葉に出来ぬものは「ひろしまハウス」の内部に表わされているような気がするから、木本さんの旅は遠廻りな相互訪問なのである。言葉に仕切れぬもの(気持ち)が物質と人間の労を経て物体化されるのが、建築や芸術だ。九時半前、世田谷村を発ち、武蔵小杉へ。十時半武蔵小杉。ホテル・ザ・エルシイの会場へ。「厚生館愛児園」五十五周年記念式典。川崎市市長、議長をはじめ百数十名の祝宴であった。K理事長御夫妻の児童福祉への営々たる営みを身近に知る。大変良い会だった。十四時半了。電車を乗り継いで世田谷村に戻る。乗り換え途中、稲田堤の「厚生館星の子愛児園」を眺める。風車を屋上のクジラドームの上に林立させたら、それこそ川崎市随一の景観になるであろう。夕食は久し振りに宗柳で。
 R096
 二月十五日
 十一時研究室。北京他連絡作業。十五時カイ打合わせ。大変面白い打合わせになった。彼に漢字の様々な意味を伝えているうちに色々なアイデアが生まれた。異なった資質の持主との対話は時にアイデアを生む。
 二月十六日 金曜日
 六時起床。七時半大学。入試試験監督.義務なので仕方ない。十七時過迄。十九時前新大久保、近江屋で気仙沼T工業社長と会食。二十一時世田谷村。渡邉豊和氏より返信あり。我ながら変な事を始めようとしている。この変な事に理があるかどうか、それは全て力量にかかっている。
 二月十七日 土曜日
 九時起床。さてさて、渡邉豊和氏とのナニモノカ作りであるが、明晰極まる方法を取らないと、時間つぶしの遊びになってしまう。それはそれで面白かろうが、お互い、つぶせる様な時間を持つ年令ではない。下の畑の野菜が一気に育ち始めて、日に日に大きくなっている。季節の変化のエネルギーは凄いのを実感する。今日は午後空間表現の採点だ。
 R095
 二月十四日
 十時大学。延々と修論発表と附合う。十九時修了。今年は各研究室共に袋小路状態であった。研究室に戻り修士学生の労をねぎらう。二十二時コーリア料理屋でビールで一息つき、二十四時前世田谷村に戻る。
 二月十五日
 八時半起床。昨日で学務上の義務は成したように思う。今日から自分で組立てられる時間にしたいのだが、明日から入試である。何故教師になったのか自分でも説明できぬモノがあるが、教師生活のリズムが私を救った事だけは確かだ。他律の規範が無ければ、無茶苦茶やり続けて倒れてたな多分。
 R094
 二月十三日 火曜日
 七時四〇分起床。今日、明日は修士論文発表審査会である。
 十時修士論文発表会。石山研よりスタート。今年の石山研は論文を書かない人間が修士設計に廻った。これは大体いつもの事。修士は力のある人間は皆論を書いた方が良いのは歴然としているのだが、それは研究室関連の共通認識にはまだなっていない。午後、入江研の発表に続く。十八時前迄、印象としては少しばかり初歩的な間違いが多過ぎるが変な情熱を感じないでもない。私も含めて教師の側の倫理性が問われているような気もする。そこ迄介入する必要の有無は別として。
 二月十四日
 八時前起床。今日も一日修士論文発表会が続く。
開放系技術論14
 R093
 二月十二日 月曜日 休日
 今日は何の休日か解らないが、何しろ休日である。人間誰しもいつかは永い永い休日を過ごす事になるのが宿命だが、今は余りにも多く成さねばならぬ事が残されているのを実感する。個別な人間の時間は無限ではない。その時間に対するそれぞれの考えの違いが宗教的観念を生み出したり、消費生活の享楽を生み出したりのとめどない差異の世界を生み出す因だ。余りにも多く成さねばならぬ事はあるが、先ず成さねばならぬ事の順序は決めやすくなった。年の功だろう。今日も開放系技術論書き進める。十五時開放系技術論15まで書いて休む。下の畑の絹さやえんどうに支え棒を立て、糸でつるを巻きつける作業。夕方、町へ散歩。五〇年の桜の老木が群生する空地を通り、チトカラと呼ばれているらしい商店街へ。百円ショップで思いがけぬ「物」と出会ってしまう。「ひろしまハウス」で使ったヴェトナム製のレンガが一ヶ百円の商品として陳列されていたのだ。これには驚いた。そうか百円ショップの実力はここ迄きているのかの実感を得る。開放系技術論の消費者の章で書いているドンキホーテ放火事件の比ではないな、この事件は。頭が真白くなり、ドトールコーヒーで百八十円のコーヒーを飲みながら、二〇〇一年発刊の坂本龍一、天童荒太の対談、「少年とアフリカ」読む。ドトール・コーヒーで読むに応わしい書物だろうと思っていたが、意外にコーヒー味の重い本であった。十八時、一切の作業を休み、読書。二十二時「少年とアフリカ」読了。要するに、いじめ、幼児虐待を隠しテーマにした対談であった。すぐ眠ろうとする。
 R092
 二月十一日 日曜日  八時頃目覚めるも、グズグズ寝床で読書。春が近い。十時過迄下の畑、ウネの手入れは久し振りなので体が慣れない。上の畑にハシゴを上げて、久方振りに上る。水仙が咲いていた。やはり上の畑の風は冷たい。東のビルの狭間の六本木ヒルズ、東京タワーが貧弱に遠い。西の富士山も町ビルにけずられて半肩しか見えない。足許の畑庭の方が自然そのものだ、今は。十六時半研究室よりFAX入る。研究室で製作中の小冊子の原稿である。KAIの Basic aesthetics and other feelings を院生が訳したもの。仲々良い。ヨーロッパの人々の奥深い森の民の歴史を思わせるまでのものがある。少し計り驚いた。ヨーロッパの思考力の質をのぞいた感がある。夜TVで下地勇というミュージシャンのインタビューを偶然見た。沖縄宮古島の方言で音楽活動を続けている青年であった。こういう音楽家がいるのと、それをTV番組にする人材がいるという双方にいささか驚く。開放系技術論書く。日記の如くに書けるようになるのが夢だ。もう少し時間がかかりそうだ。
 R091
 二月九日
 十三時半研究室。陸海来室。北京・上海で教職。設計公司の要職に就任した事の報告。昇り龍の国の人材は動きが活発だ。研究室からの人材も欲しいと言う。中国人経営の労働者としての日本人の未来図が足音高く現実に到来している。鬼沼ミーティング、仲々難しいことを考えているのは自覚している。いわゆる高望みを要求しているのだが、ハードルは下げない。十八時田町の日本建築学会会館へ。松村秀一先生からの依頼で「住むための機械の未来」話し相手は布野修司先生。もう十数年も会っていなかったが、考えている事は前と変わりなく、いかにも彼らしかった。十九時過修了後、下の酒場で会食。松村先生も含めて、大野、布野、渡辺、野辺という群居チームはそれぞれの人生をそれぞれに歩いている。二十二時過ぎ世田谷村に戻る。
 二月十日 土曜日
しかし、人間関係というものは複雑で奥深く、同時に怪奇としか言い様の無い闇さえ抱え込む事さえある。しかるが故に、単純明快なのが一番である。と昨夜を思い起こし、十三時半研究室へ。十四時広島平岡敬元市長をはじめとする四名、及びプノンペンの渋井氏来室。ひろしまハウスのこれからについて打ち合わせ。理想を現実とする為には限り無い現実の泥をかぶらなければならない。十七時過とり敢えず修了。十八時過渋井さんと新大久保のコーリア料理で食事。二〇時四〇分西調布N先生宅。肩の痛みの治療。Kさんと久し振りにお目にかかる。重度の障害を持つ子の母親であるが、この人に会う度に私は我身の馬鹿さ加減を思い知らされる。世の中には知られずに、しかも凄い人間が居るのだ。彼女の底知れぬ苦労と献身を思うと、俺はガキだなと思い知る。二十二時了。明日は休みで久し振りに畑仕事で汗を流すつもり、銅版画にも取り組みたいが彫るモノが出現するかどうかは知らない。
 R090
 二月八日
 十三時論文審査。卒計合否判定会。人事小委員会と続く。十七時了。十八時山下設計H氏来室、会食へ。台北より連絡あり、李祖原、北京の寒さに少しやられた様だ。明後日の来日は延期か。北京の寒さはこたえるだろう。H氏と雑談後二十二時世田谷村に。二十三時李祖原よりカゼの為来日を少し延ばすの連絡。凄い鼻声であった。中国のカゼは日本のカゼよりも重厚だな。
 二月九日
 七時半起床。研究室の卒論テーマを完全に二十一世紀型に変えてみようと決心する。決心という程大げさな事ではないが、決めた。何年か前からその必要性を予感しており、テーマを少ししのび込ませていたのだが、それを感じる学生が少なかった。GAJAPAN 1-2 月号 84 の伊東、隈対談を読んで痛感したのは二人共状況を見るに敏だが、自分が何を本当に作りたいかと思っている事を探るに鈍なのだ。古典的な言い方になるが、現実に直面しながら、内に生まれ、共振する思考の構造の深化こそが建築であり続けるのだが、その姿勢を見て取る事が出来にくい。隈研吾の建築はもともと全てが商業建築であり、商業建築の歴史に対する使い捨てを体現するばかりであったからまだしも、伊東豊雄までも、自身の建築の色濃い商業建築性、その限界(仙台メディアテークの反射光の扱いに関して、アールデコとの類似性を指摘した事がある。)を直視していない風はどうなのか、脳天気に過ぎやしませんかと、マ、今の状況がこう言わせてもいるのだが、いささか憮然とし驚く。GAの誌面でも「ひろしまハウス」は一つだけ孤立している。浮いているのではなく、深く沈んでいる。でも、この沈み方は無意識の中の沈み方では無い。確信を持って沈んでいる。建築という形式はその形式自体に在る歴史の尊厳故に、個人の存在理由を賭ける価値がある。十時過、卒論テーマの概要、ストラクチャーを決め研究室大津へ送附。
大沢温泉依田之庄花鳥風月6
 R089
 二月七日
 十一時過、文学部キャンパス内、小野梓賞の件。院生が応募したのでその推薦理由を述べる。十二時過了。十三時研究室。理科大伊藤香織都市計画研究室より1号機関紙送られてくる。内容はともかく、サイズが良い。十五時三年製図講評会。先生方のクリティークがそれぞれに良かった。十九時修了。中谷礼仁、中川武両先生と会食。二十三時頃世田谷村に戻る。
 二月八日
 朝突然禁煙を思い立つ。何十回目の事か。
 R088
 二月六日
 十三時昭和歯科医大。今日も抜歯せず。十四時半研究室。打合わせ。十六時中川武先生、中谷礼仁先生来室。これから先中谷先生には頑張ってもらわなくてはならない。十八時卒論テーマ打合わせ。仙台アトリエ海佐々木氏よりリアスアーク増床の件。幻庵・故榎本基純氏二女あかねさんよりメールいただく。幻庵と末長く附合って下さる事を心に決めて下さったようで、とても嬉しい。幻庵は共に生きてくれる人を待っていると思う。
 二月七日 水曜日
 八時起床。今日は学務に追われる一日になる。庭の白梅が満開である。二階に居ると、丁度梅の木の頂部が大海に浮かぶ島影の如くに見えなくも無い。決して見えたりはしない。
 幻庵は二月の中旬に周りの梅林が花をつけ、その香りが庵内に届いたりする。榎本基純さんとは度々、そんな時間を過ごしたものだ。あの人は高潔な人間であった。あの品格が幻庵を作らせた。「ひろしまハウス」は私の内では管平の開拓者の家と幻庵が同居した建築である。あれを作らせたのは何者だったのか今は不明だ。
 R087
 二月五日
 十一時研究室。G計画。久し振りに大沢温泉秘話改め、大沢温泉依田之庄花鳥風月5・6書く。十四時過了。十五時半研究室ミーティング了。十七時、今日の作業を終える。夕方、渡辺と少しばかりの議論。彼の作業は現実と随分離れした観念ゲームのように視えるだろうが、実は現実の中の仕事よりも、よりリアルな形式を持ち得るのだけれど。二十一時前世田谷村に戻る。
 二月六日
 昨夜は熟睡できず、散々だった。九時起床。眠っては目覚めてを繰り返し、とうとう磯崎新の「建築家探し」読了してしまう。磯崎の悲劇、痛烈さの素は彼の意識の多重性にあるな。建築は解体できても自意識は解体不能なのだ。
開放系技術論13
大沢温泉依田之庄花鳥風月
 R086
 二月二日
 十八時過、カイとゲート・プロジェクトについて。十九時前、研究室出発。二〇時前西調布N先生に肩の痛みを見ていただく。かつてウルフ・プライネスと考えたストリート・ミュージアム計画が幾つかの道筋の上に再浮上している。二十二時前世田谷村に戻る。広島の木本君から便り届く。バンコクからで、明日カンボジアに入るようだ。一ヶ月程の東南アジアの旅になるらしい。良い旅を祈る。
 二月三日 土曜日
 七時過起床。十時より卒計発表会。卒計を共同設計にしてからようやく成果が上がり始めた。この方針に間違いは無い。クリティークの形式は考えねばならなぬだろう。十八時迄。野村と打合わせ後、葉隠れで、入江・佐藤両先生と飲む。二十三時世田谷村。
 二月四日 日曜日
 終日、休み。何もせず。何も考えず。
 R085
 二月一日
 十一時半研究室、鬼沼モデル、チェック。色、細部駄目で細かい指示出し。十四時二〇分博士論文審査会。十五時前教室会議。十七時教授会。再びモデル指示。野村G計画打合わせ。十九時半近江屋打合わせ。難波先生と会食。今日は模型作りにズーッと附き合った感あり。考えた事も多かった。次第に1/1レベルで物の事が解ってきている。これは経験から来ている。勘は経験が産み出すものだ。
 二月二日金曜日
 朝八時起床。奈良の渡辺豊和氏が全六巻一作のSF小説を書いている。生涯唯一の小説とするようだ。すでに二巻まで書き上げていると言う。
 創作家、表現者としての渡辺豊和を私は畏敬している。歴史に題材を求めたものは歴史小説として、評論としては少々荒っぽいなと思わざるを得ないが、それは氏の想像力の膨張が実証能力を蹴散らしてしまうからだ。今度はSFという形式らしきを借りての表現だから、思う存分氏の才質を表現する事が可能であろう。恐らくは、架空の都市モデル等も登場するのは必至であろうから、それも見てみたい。凡愚のチンピラクリエイターらしきが飽きもせず、流されては消えてゆく昨今、渡辺豊和の作業は屹立している。今、周囲を見廻して本格的な才質を認め得る人間はそれ程多くはない。二、三を除き皆無に近いと言って良いだろう。狂気に近い形で人間の才質が表われ易いという宿命を考えるならば、建築界と言う中途半端な表現世界には出現し難い才能の形である。渡辺豊和はこの六巻のSF都市小説で彼の本来の宿業をまっとうするに違いない。これは見過ごすことの出来ぬ事である。早速、渡辺豊和に手紙を書いて詳細を問うてみたい。又、長年暖めてきた、渡辺豊和との共作による何ものかの形式について実体化を急ぎたい。

 十一時過研究室。GAギャラリー展のための鬼沼風光水塔のモデル・チェック。手直しを十四時迄。塔の足許に親子連れの猪まで作った。今年は猪年だ。随分前に我孫子の故佐藤健邸・酔庵の計画で屋上に竹馬で遊ぶ少年とブタを点景に作った時のイタズラを思い出す。アレも面白かったのだが、あんまり理解されなかったな。マ、俳句と同じ世界だ。研究室ミーティング十四時半迄。十五時過GA杉田氏他来。鬼沼プロジェクトGAギャラリーに搬送。一服中に渡辺豊和との企画を考える。渡辺氏に通信送付。アベル、蔡、ミーティング。十七時野村打合わせ。

開放系技術論12
 R084
 一月三十一日
 十三時野村とG島コンペ打合わせ。鬼沼風光水塔のモデル・チェック。十六時梅沢良三先生来室。鬼沼計画構造打合わせ。十七時修了。相変わらず梅沢先生の決め込みは速い。アベル、前進基地人工スラブ打合わせ。代々木八幡に用事で寄り新宿味王で一服の後、二十二時前世田谷村に戻る。
 二月一日
 七時起床。GAギャラリー出展のプロジェクトの原稿を書く。面白い仕事には、面白く原稿が書ける。八時修了。窓を開けると、ひよ鳥が二羽テンション材にとまってエサを待っていた。真栄寺の馬場和尚より連絡あり、幾つか先の予定を決めた。僧侶に水先案内されるのも不思議なものだが、彼は特別だから。しかし、凄い実行力だ。目先の利を考えずに大きな流れを見ているからだろう。午前中に研究室で、モデルのカラー他をチェックするつもり。色はマテリアルに属し大事だ。しかもそれよりも重要だ。下の畑に生ゴミを捨て、エンドウ他に支柱を何本か立てる。
2007 年1月の世田谷村日記

世田谷村日記
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