石山修武 世田谷村日記 |
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1月の世田谷村日記 |
R385 |
十二月二十八日 十四時四〇分研究室。作業は一応昨日で閉めたのだけど、何人かが出てモソモソやっていた。アベルよりチリPの資料受け取る。NYのMOMAより出展依頼がきていて、対応できるかな。十七時半迄「和風胚胎」読み続ける。読み難い。構造はバラバラだが、渡辺豊和のインスピレーションが処々に顔を出していて面白い。現代の奇書と言うべきだろうな。カスタネダとかチベットの死者の書とかの語り口でも書かれるべき主題だなコレワ。 十八時過ぎ、新大久保近江屋で研究室の忘年会 II 。渡辺の初原稿料でおごってもらう。ジャーナリズムとは寄稿者と読者と、編集者で成立している世界だ、とわかって国際建築休刊に際して建築ジャーナリズムの意味するもの、というタイトルで史家渡辺保忠が寄稿していたのと記憶している。言説の力が著しく低下していると思わざるを得ないのは、ジャーナルの側にその全体構造への思いが無いからだ。二〇時世田谷村に戻る。
十二月二十九日 土曜日 十七時新大久保近江屋で若松社長と久し振りに会う。若松氏は大分太られて、恐らくはウォッカ太りであろう。色々と相談して十八時四〇分了。只今十九時十五分京王線上北沢通過。夕食は実質的に抜いたが、喰べすぎて苦しい。十九時半世田谷村に戻る。今日からドイツからのお客さんが滞在される。
十二月三〇日 日曜日 午後広島よりFAX入り、プロジェクト進展する。東京サイドからこのプロジェクトを運営的にサポートできるアイディアが欲しい。十六時十五分迄、世田谷村スケッチ続ける。明日から作り始めるものも決めた。面白くなるぞ。 十六時四十五分世田谷村発、大岡山へ。十八時大岡山で向風学校の面々と集合。朝鮮料理屋の二階で会合。とりとめのない会談であったが若い人達との集まりではコレで充分である。二十一時了。ギョーザ屋で再び、二十二時半迄。安西君とエビスで別れて、今、二十三時十五分新宿始発の京王線に乗っている。 向風学校に関して、年齢を積み重ねた人間は若さ故の未熟さを容認しつつ事をすすめなければならぬ。自分のところの二〇坪程度の、それぞれ上の畑、下の畑のプランを作り出すのを今年の正月の努めとしたい。二十三時半千歳烏山着。二十四時寝る。
十二月三十一日 十九時四〇分磯崎宅。カザルスのバッハが小さく響いている。六角さん父娘も合流して、気のおけぬ会になった。磯崎氏7の計画を述べる。六角さんは磯崎新の最初のスタッフであった。磯崎さんも安心して話出来る数少ない人間である。娘さんも芸大で助手生活という事で親子四代の芸大になるんだなあ。日本にも近代が生み出せる伝統らしきの気配はこういうところから生まれるのだろう。 磯崎さん芸術商品化論を理路整然と述べる。とても七十七才とは思えぬ頭の働き方である。ワインを何本も空け、中国酒までとび出してきて、久し振りに飲み、かつ喰べた。
二〇〇八年一月一日 十三時過おせち料理と雑煮。モチを三個喰べて腹一杯となり、眠くなる。十八時迄休む。十八時雑用。十八時半WORK。二〇時前迄。スケッチ三点を得る。今日は元旦だこれ迄としておこう。面白いアイディアが出て、これは大きなモノへと展開できそうだ。 筆でスケッチすると、少しちがう考えが出るな。生命力の気配の如きが否応なく立ち現れる。
一月二日
一月三日
一月四日 工匠論はとも角として、渡辺豊和の足利義政幻想、銀閣寺庭園論、東求堂論、能論は読ませた。岡本太郎の日本美再見以来縄文土器そしてその異風系列としての銀閣寺銀沙灘、向月台の造形の不思議さには引かれてきたが、ここでは渡辺は義政の能への傾倒振りを森への帰遷と呼び(少し飛躍し過ぎている)、縄文人へと連なる中世の異形の人々渡り者、貴種流離、等の風説を結びつけ、その結晶としての銀閣寺庭園へとジャンプしている。 読みづらくて、時々止めようかとも思ったのだが、それでも読み切らせたのはひとえに豊和のジャンプの妙、詩人としての才質が処々にキラリと光るからなのであった。カスタネーゼ風に書いたら、ベストセラーだったのにという感じが、もしかしたら、何処から来ちゃったんだろうと気になり、読み捨てていた中沢新一の「アースダイバー」講談社を再読してしまった。 ここにも、縄文文化に着目している人間がいて、余程渡辺よりは語り口が軽妙で悪ズレさえしているかに見える。しかし、渡辺の本を苦労して読みおえてから読み直してみると、中沢の本が別のものに見えてくるから不思議なのだった。あわてて、ブルブルリと首を振ってしまった。中沢新一のおじさんであるらしい網野善彦の一連の著作は私の愛読するものであるが、渡辺の書き物にもそれが色濃く反映しており、当然中沢新一のものにも流れているのだが、変な血族だなコレワ。 正月は変な本につかまり、変態正月に終わるかと思われたが、最終章の義政幻想に辿り着き、ようやく納得した。無駄正月ではなかった。十一時読了。中沢の本を読みかじり、十一時半迄。 母親へ正月のあいさつに出掛ける。世田谷村の苔を写真にとり、母親の箱庭の苔の写真もとってみようと思いつく。私の場合、森への帰還ではなくって、苔を基点に、という感じなんだな。 しかし、苔が気になって仕方ない私の馬鹿直観はそれ程狂ってはいなかったと自信を深める。しかし、渡辺豊和の著作で深まる自信というのも我ながら笑えて大変に良ろしいのだ。 十二時前世田谷村発。 十三時半、母親のところに新年のあいさつ。八十八才になる母は色々と問題は抱えているが、元気であった。色々と話す。六十三才になった私も母には頭があがらない、色々と注文をつけられた。ごもっともです。表札の字を新しく書くのをすすめ、古い木札を洗う。母は習字が上手なので新しいのを書くのをすすめた。私の母は何しろ、いつも何かしているのが好きな人間で、小さなモノを作ったり、改築のアイディアを練ったりで、典型的なブリコラージュの人なのだ。奥の座敷にこもって早速書き初め、見事な表札が出来上がって、二人で喜こぶ。しかし、今年は毎週来ないといけないと直観する。遅い昼食をいただいて、十六時過去る。 烏山の本屋、二店に寄って世田谷村十八時に戻る。お目当ての本は無かった。要するに、もう読みたい本は町の本屋には置いてないという事だ。苔計画の糸口をつかんだのだが、必要な知識が仕込めぬまんまだ。我頭の不勉強をのろう。 宮崎の藤野忠利大入大人よりデカイ大入り門松絵馬が届いていて驚く。おねだりはしていたのだが、立派なモノが届いた。指物師にみそかに作らせ、元旦に描いたものらしい。何しろデッカイ。しかし、コレワ、西の壁に吹きさらすのはいささか勿体ないので家のガランとした吹抜けに奉納しようと思う。一気に身の廻りがお目出たくなる。同時に届いた初荷の札だけを表に貼り出すこととしよう。藤野さんありがとう。 ちなみに新年一月九日より三月三十日迄GUTAIと大入纏・藤野忠利の仕事と題して、宮崎の現代っ子ミュージアムで展覧会が開かれるとの事で、暗い世相の中、誠にお目出たい。出品は具体のそうそうたる面々、白髪一雄、元永定正、嶋本昭三、田中敦子、上前智祐、鷲見康夫、金山明、村上三郎、吉田稔郎、堀尾貞治、松谷武判、正荏正俊、前川強、高崎元尚、藤野忠利、藤野ア子の面々である。正月、寄ってみたら面白いだろう。
一月五日 土曜日 |
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十二月二十七日 木曜日 八時起床。八時半発。九時杏林病院定期検診。久し振りの病院である。三部門巡礼しているので、ひどく待たされている。只今、十二時前、最後の検査に、まだ待たされている。十二時四〇分全て修了。心配いらないとの事であった。十四時前世田谷村に一度帰り、昼食後研究室へ。 十六時研究室。雑用。十八時半古市氏来室。十九時近江屋で会食。二十一時了、二十二時世田谷村に戻る。
十二月二十八日 金曜日 環境の問題、CO2、地球温暖化の問題と世はまさに末世の観がある。これらの問題に対応しないと、いずれ近い内に人類社会は危機的な状況を迎えるのは間違いない。ただ、皆自分が生きている間は大丈夫だろうと、あらゆる世代が考えているから、事態は一向に打開せぬし、これからもマア駄目だろう。 私の畑づくりや、身の廻りのモノを作り続けようとしているのは、マア、どうせ総体としては駄目だろうが、でもそれに対応したいと考えて、自分なりに小さな事をできるだけ沢山やっている事を、少しでも多くの人に知ってもらおう、と、つまりは小演劇の如くをやっているわけだ。一種の一人芝居だなコレワ。世田谷村で食べている野菜の大半はみよし村の有機農法による野菜だ。それを何人かのグループを作って産地から直送してもらっている。しかし、受け取る方も、送り出す方も大変手間がかかり、それに関わろうする人は決して増えてゆかぬ。世の標準から外れる事をしようとすれば、それなりの手間ヒマがかかるのだ。でも、そうしないと、特に食の問題は危い事だらけだ。一〇〇%完全な事はできようもないけれど、二〇%三〇%、せめてそれ位の力は尽してみよう、とそれ位の事をしている。
十三時四〇分迄WORK。 |
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十二月二十五日 火曜日 昼過ぎ、芦花郵便局へ寄るも、沢山の人が受付け順を待っているので、送附をあきらめ、研究室に向う。定形外郵便は不便だな。研究室へ。十二時半カンボジア帰りの渋井修さんが来室されていた。しばしの雑談。十三時 Dr. コース渡辺君打合わせ。十四時過修論ミーティング。十五時ARTWORKの和気さん来室。関根伸夫さんの件。十六時了。十六時半研究室発。新宿西口の食堂長野、及び味王で一服する。十九時迄。十九時半近く京王線新宿発。世田谷村に戻る。
十二月二十六日 水曜日 休んでいた畑仕事を再開する。長靴をはいて、クワを振り回すと、体中がギシギシときしむ。大入絵馬の手入れとはコレワだいぶ違うわいと実感。長くやるとブッ倒れると思い十時過ぎ止める。猫の額程の土を掘りくり返し、ほっぽらかしていたサオ類を抜き、枯れ放題の雑草を掃除しただけで、やっぱり疲れた。思い立って近くの世田谷市民農園を観察に出掛ける。皆さん私より余程しっかりと手入れしていて、我身が情けない。
反省しつつ戻ると、渡辺豊和氏より「和風胚胎」学芸出版が届いていた。 十二時新着の大入絵馬を吊り下げようと道に出たら、お母さんと小さな子供が二人、三人で西の壁ギャラリーに見入っていた。一番小さな子供なんか藤野作品に触れてくれていた。西の大入バカ藤野さんも本望であろう。 十五時前製図準備室。三年設計製図の今年最後の指導。各チームともゆるやかにペースをつかみつつあるので、それ程に手はかからないが、上には上があるから際限が無いんだな。しかし、調布グループは眼に視えて成長した。十七時四〇分、途中ではあったが約束があったので製図室を去る。 去り際に学生からクリスマスケーキを渡された。年甲斐もなく照れたが、嬉しかった。ここ迄やると気持ちが通じるのだな。 東新宿駅まで急ぎ足で歩き、地下鉄で本郷三丁目、又、急ぎ足で東大鈴木博之研究室へ。遅れて辿り着く。今日は鈴木、難波両先生と無駄話の会である。あいさつもそこそこに料理屋へ。何だ、その荷物は、学生達からケーキもらったんだ、と少年のように自慢する。一緒に喰べようか、イヤ、ケーキはチョットという具合で鈴木先生の話を聞く。 久し振りに鈴木先生には大変明るい事があって、その詳細をうかがう。こちらも聞いて、共に喜ぶ。大変目出たい事で、花火を打ち上げねばならないなコレワ。池袋のワインバーに移り、三人で学生達からもらったクリスマスケーキを喰べる。大の大人が三人でケーキを喰べている風景はまことに珍しく、こうごうしいものがあることよ、というわけで記念写真を撮る。良い年の暮れであった。 名月や 黒雲去りて 年の暮れ
の句を得る。お目出たいときは駄句しか生まれないものだ。と、つぶやきつつ二十二時半世田谷村に戻る。 |
R382 |
十二月二十三日 日曜日 九時前起床。すぐひろしまハウスの作業にかかる。昨夜作った平面計画で良さそうだ。 二月に発刊される予定の「セルフビルド(仮称)」の前書き部分のゲラを読み直す。バーカと呼ばれるだろうが、我ながら力作である。短い文章ではあるが、これ迄の私の集大成の一つかも知れない。是非共、来年初頭にはこの本を買い求めていただきたい。というよりも買うべし。 住宅建築一月号が送られてきて、これも読む。清家清の特集で、私も「清家清」ノートを書いている。私のところの渡辺も充分に生意気な「歴史の中の清家清」を書いている。せせら笑わせるところもあるが、最近の若い人(特に建築界の)の馬鹿さ加減とは一線を画している様な気もする。これも一読されたい。 十一時「ひろしまハウス IN ひろしま」の作業了。朝食食、サンドイッチとミルク。藤野忠利の大入絵馬、街路展示に二点加える。風に吹かれて絵馬、他がアッチ、コッチ向いては舞うので手入れが大変である。脚立によじ登って、針金やガムテープで手入れする。これは野良仕事みたいなものだなと気付く。 十三時半ひろしまのスケッチを持って研究室へ向う。渡辺と打合わせの後は、ひろしま計画を銅版画に彫り込んでみる積りだ。研究室に今日は人が居ないだろうから、集中できるだろう。エスキスを銅板に彫るのは初めての試みだが、もうそろそろ良いのではないか。何時間で一点彫れるのか、自分でも興味深い。今日は良く晴れた日である。 十四時半研究室。ひろしまハウス計画打合わせ。水曜日迄に第一案を広島側に送付する事を決める。図面作成、模型作りにとりかかる。私はひろしま計画の決定案を銅版画に彫り込む作業にとりかかる。集中して、十八時にはほぼ上がった。いささか疲れる。小休止、明日の磯崎新との話しのプランを作る。 十八時五〇分打合わせ。図面修正チェック。郵便物整理等雑用。十九時半了。コーリア料理屋で打合わせ、雑談。二十一時半了。明日は模型作りが少し計り事だな。十七時には研究室に戻らなければならぬ。只今、二十三時京王線車中にメモを記す。 今日は「ひろしまハウス IN ひろしま」の計画案を銅版に彫り込んだのが収穫であった。アンモナイトやトンボ等も出現して、これ迄のWORKが一堂に会した風もある。何とかなるもんだな。又、銅版をコピー機で複写すると、それなりのモノになって複写される事も知った。二十二時半世田谷村に戻る。
十二月二十四日 月曜日 大学に来たての頃、第一期生の北園君をパリのクセナキスの許へ訪問させた事。その彼がクセナキスに遂に会って貰えなかった事などをフッと思い出したりした。今日は磯崎新と昼飯を一緒するので、こんな事迄思い出したりしているのかな。良く晴れた日だ。 十時半世田谷村発。強風で吊り下げておいた大入絵馬の何がしかが外れて落下していた。やはり絵馬だけの方がいいか。十一時半大江戸線六本木駅。待合わせの渡辺嬢姿無し。五分待つも現れないので先に行く。十一時二十分磯崎宅。新居はアジア会館前の閑静な超高級マンションである。 本当に久し振りにお目にかかった磯崎新は全く変わらず元気そうであった。すぐに院生渡辺来てインタビュー開始。今年から本格的な作家論コースを設ける事にしたのだが、対象は磯崎新に絞り込んだ。今日はN邸に関してのインタビューである。予定を二〇分超過して十三時三〇分迄。修了後、院生を帰して、二人で昼食。 色々と積もる話しが山程あったのだが、あんまり沢山は話し合えず。まだ引越したばかりで、荷物も充分に整理されておらないそうだ。巨匠は七七才になる時の 07 X 07 計画を考案中らしく、楽しそうであった。明日から中国行との事で、今日の午後は新宿の国立オペラハウスで中国の劇団の演劇に顔を出さねばならないと言う。相変わらずの生活のようである。どぶろくを一杯いただく。 十四時四〇分昼食了。車で新宿まで送ってもらう。十五時三〇分研究室。「ひろしまハウス IN ひろしま」計画を見る。少し時間があいたので送ってもらっていた CULTIVATE(カルティベイト)なる部厚いTOTO出版の本に目を通す。シーラカンスの小嶋君も大変だなあの感ばかりなり。この本の目的がそもそも不明。 十九時前、作業とり敢えず修了。模型作りに付合ってシンナーで頭がクラクラするし痛い。小さいPROJECTではあるが、この計画を二〇〇八年のスタート計画とする事にして、計画番号を 08-01 とする事に決めた。十九時過新大久保駅前近江屋へ。シンナーでクラクラした頭を休める。十九時四十五分了。只今、二〇時十五分京王線下高井戸通過する。世田谷村には二〇時半過戻った。
十二月二十五日 火曜日 |
R381 |
十二月二十一日 十四時研究室。アベルと打合わせ。メキシコ・グアダラハラ及びチリ・サンチャゴのプロジェクトに関して。十五時設計製図中間講評会。十九時半迄。加藤、高木両先生と近江屋で会食。二十一時半了。二十二時半世田谷村に戻る。
十二月二十二日 土曜日
藤野忠利の大入り絵馬吊り下げはチョッとやりすぎのようで流石のTVも避けた。残念。TVカメラもパスするとは大入絵馬は仲々の凄味のようだ。ガンバレ藤野ここにあり、なのだ。十六時半世田谷村発。秩父武甲山近くのN宅へ。十九時過着。二〇時過発。K夫妻と共に帰る。行き帰りの車中でズーッと「ひろしまハウス IN ひろしま」のプラン作りに頭を走らせる。二十三時西調布のK宅に寄り、二十三時三〇分世田谷村に戻る。翌一時半迄ひろしまの作業。何とか明日の午前中迄にまとめるぞ。 |
R380 |
十二月二十一日 金曜日 八時半起床。留守中に宮崎の藤野忠利氏より大入り絵馬が十点も送られてきており仰天する。大入大人乗っているな。九州北部の装飾古墳には昔から大きな興味を抱いていたが、それはどうやら玄界灘を介しての朝鮮半島との交流の産物であるようだ。河回村でも民家の妻の文様に同様な装飾が少なからず見受けられた。藤野さんの帽子好きや、歩く姿はとても朝鮮風なところがあるから、彼の大先祖も日本の天皇家同様、根は朝鮮半島にあるやも知れぬ。 藤野大入り絵馬の色使いも、そう考えるとひどく朝鮮風なのだな。彼の大入りアートは朝鮮でやったら馬鹿当たりするのではないか。そうだよ、きっと大当りする。福岡のアジア美術を旨とする部門等は着目すべきだな。冗談でなく。 藤野忠利の絵はアニミズムを仲介してみると、良くわかる。大体からして大入りの二文字「大入」だって陰陽だし、彼の、というよりも具体の人達のアートの大方はアニミズム的要素が強いように思う。堀尾貞治のものもその気配が濃厚だし、白髪一雄はその典型である。藤野のそれも、つまり泥くささ、生々しさはそこから生まれてくると理解すれば、大きな可能性を見出せるのではなかろうか。
大入絵馬を道端ギャラリーに新しく十点吊るし終えたのが十二時前。これは仲々の仕事である。アッという間に西側の道端ギャラリーはほぼ一杯になってきた。次の算段を考えねばならない。大入り絵馬が風に一面揺れているのは仲々の景色だ。三階のテラスの部品にも四、五点藤野作品を使用しているので、このペースだと二〇〇八年度中に世田谷村は大入満艦色になってしまうぞ。一ノ関ベーシーの菅原正二からFAX届いていた。昼、芦花郵便局に寄って大学へ。 |
R379 |
韓国紀行 十二月十六日〜二十日 |
十二月十六日 |
九時半前世田谷村発。人の居なくなった二階建のコートハウス団地の、主のない夏ミカンの樹の実の黄色が美しい。それ程に空が青い。文房具屋で大判スケッチの為の墨汁を得たいと考えたが、まだ店が開いていない。都営地下鉄で本八幡へ。車内で小さなスケッチ五点を得る。 十三時半成田空港。十二時大韓航空チェックイン。空港内は人が少なく、冬休み前の旅をするにはベストシーズンなのかも知れない。十三時前ゲート近くのレストランでビールを飲む。十四時前搭機。短い旅だがしたい事は沢山ある。アフリカ、イスラムの旅、南インドの旅、ラテンアメリカの旅、そして今度の韓国の旅と、今年は気持としては勉強の旅を四度試みた。一番近くて、一番遠い国である韓国の旅で充二分に学びたい。 十四時、定刻通り離陸。ソウルへは何度も旅をしたが、今晩はプサン経由テグ泊の予定だ。両都市共に若い頃、一番最初の海外旅行であった旅で訪ねた都市であるが、変貌は驚くべきものであるのだろうな。ほぼ三十五年振りの訪問である。成田とプサンは地球上ではほぼ水平一直線であり、これは実に明快な飛行である。パイロットはほぼ何もしなくてもいいなコレワ。 十六時十五分プサン空港着陸。気温は八度。プサン空港でテグ行のバス無く。バスターミナルに廻るのは面倒と判断。TAXIの運転手のすすめに乗って、テグまで十万ウォンで走る事になる。日本語を話す初老のドライバーであった。テグインター着十八時前、ナビにホテルの電話番号を打ち込んだのが運のつき。 町をずーっとはなれた山の上迄上ってしまう。でも、とりあえず予約のホテルと同じ名前なのだ。ホテル・リセプションで、コレは同系列の別のホテルですと言う事で、TAXIを呼んで山を下りる。我ながらバカであった。HOTELインター・バルゴに十九時過到着。チェックインして十九時半ホテルをTAXIで発つ。端のつまづきは好運のはじまりである。 二〇時、元祖テグ料理屋へ。一九四六年開店の店だそうだ。料理は二種類だけである。ブタ肉に血をドップリ吸い込ませたのと、レバーに、更に血をドボドボと吸い込ませたもの。血まみれクッキングとでも申しましょうか。スープの色あいだけでも凄いのでした。つき出しに出たキムチの辛いのなんの、口の中が火焔山の如し。芭蕉扇でもこの炎は消えないのでありました。 辛さに体力を消耗して、ホテルに辿り着き、二十二時に辛さ疲れで横になる。旅情も何もなく辛情に泣く。
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十二月十七日 |
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八時五五分、海印寺に向けてバスは南へひた走っている。先程テグ市西部バスターミナルを八時四〇分に出た。今朝は六時HOTELインター・バルゴで起床。渡辺と今日の予定を相談し、シャワーを使い、頭を洗って七時半チェック・アウト。まだ明けやらぬ。 高速バスターミナルまでTAXIで行く。安東行のバスの確認のため。各方面毎にバスターミナルが散在していて、やっと四番目のターミナルで安東行の最終が二〇時二〇分、毎時二〇分毎に出ている事を確認した。 海印寺へのバスは東ターミナルなので再びTAXIで動く。八千ウォン。西部ターミナル到着、チケット購入、すぐ出発。チケットは六千ウォン弱。バスの窓外はやっと田舎の風景になってはいるが、ほとんど日本と変わりは無い。九時十五分高速道路を降りて、再び高速へ。途中の町々に寄ってゆくようだ。ビニールハウスが多い。凄く多い。途切れない。道路端にイチゴの売店がポツリ、ポツリ。 九時半過、バスは山を登り始める。奥三河みたいな処だな。かつて一度来た処の筈だが全く記憶が途切れている。 十時海印寺登り口。大きなみやげ物店レストランで朝食をと思ったが、誰も料理人がいなくて、あきらめる。山菜、にんじん、キノコ等が豊富だ。かなりきつい坂をよっこら、よっこら登る。相変わらず記憶はよみがえらないまま。宝蔵経殿まで登る。修理中で有名な門はくぐれなかったが、コレワやはり見事な建築であった。 周囲の山並みと、海印寺の屋根の群が余りにも呼応しているのに感動する。大判のスケッチ2点。こういう風景は筆のタッチが良く合う。スケッチしながら気持が静まるのを感じる。大判に描くと建築のエキスが乗り移ってくるようだ。 処々の建築の色使いが良いので、これはカメラに納めた。瓦屋根の重量感と土の塀や壁、そして石垣の重みが良く全体の力の流れをまとめている。 十二時山を下り、朝誰も料理人が居なかった食堂へ。今度はおばちゃんが手際良く料理をしてくれた。ビビンパらしきものと、各種キムチ、クリ、しそ、等。辛かったが空腹だったのでうまかった。コケ茶のような茶もうまい。十三時前了。近くのバス停で休む。寒い。十三時二〇分テグ行バスに乗る。テグ西バスターミナル十四時四〇分着。TAXIで高速バスターミナルへ。十五時二〇分安東行バス、チケット買って、すべり込む。 十五時五〇分、ハイウェイを東に走っている。山の斜面にポコリ、ポコリと丸く小さいふくらみを見せているのは墓だな。教会堂の多いのも目を引く。十六時二〇分南安東インターチェンジを出る。田んぼの中に立派な石塔が建っている。目的地への期待ふくらむ。リンゴの産地のようだ。十六時半安東バスターミナル着。駅前のツーリスト・インフォメーションで河回村(ハフェマウル)の民家を予約する。風が寒い。 銀行で換金したり、小食とったりで一時間程過す。ここも凄まじい程にアメリカ化されている。アメリカ村も趣あり。日本と韓国はシャム双子だな。もの凄くまずいファーストフード店でのり巻を少しつまんで、あきれてやめた。十八時十分バス出発。 十八時五〇分真暗な中、河回村着。民宿の老婆が一人バス停迄迎えに出てくれた。暗闇の中を河回村を歩く。闇の中に丸味を帯びた草屋根や土の塀、石垣、瓦屋根のシルエットが浮かび、いささか興奮する。予想以上に面白そうな処だ。歩く老婆の影と我々の影が道に長い影を落し、夢の中の如くの風景である。影法師と路地と闇が一体になって揺れている。 老婆は少し計り足が悪く、ゆっくりと坂道を登り、歩く。日本語を少し計り話す。曲りくねり、角を曲り、闇の中を老婆の家に辿り着く。立派な構えの邸宅である。 遅かったけれど、夕食を頼む。ニワトリ、ナベ他。喰べ切れぬ程であった。腹一杯になり、二〇時半食事了。老婆の話しによれば、ここは司馬遼太郎氏がかつて「街道をゆく」の取材で訪れたそうだ。明日を楽しみに二十一時オンドル部屋で休む。オンドル部屋は電気ヒーターであったが充分に暖かかった。窓は厚手の紙で部屋は完全に近く、密封されていた。
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十二月十八日 |
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四時一度目覚め、外トイレへ出る。清烈な星空で、北斗七星南のシリウスが青白く光る。再び眠り六時起床。渡辺君と今日の予定を相談する。七時、散歩に出る。実に興味深い集落だ。車をコントロールする事で、これ程豊かな前近代性を保持できるとはと、驚嘆するばかりである。二川幸夫の日本の民家の世界に居るがごとし。 八時宿に戻り朝食。魚と野菜、各種キムチ、味噌汁。うまかった。朝食後動く。先ず仮面ミュージアムへ。村の入口を経て三〇分程歩き、九時半着。世界中の仮面が集収されている二階建の小さなミュージアムだ。やはり、当然ながら韓国の仮面が充実している。面白くてスケッチする。十一時半まで。 再び村に歩いて戻る。天気は良く気持がはずんでいる。墓山を通り村に戻り、迷路状の集落を歩き廻り、スケッチを沢山する。充実した一日であった。写真も多く撮る。十五時半迄昼食もとらずに歩き続け、見学を続ける。良く歩いた。良く見た。この村には上の、中の、下の、祠があり下の祠は巨大な神木であった。ここはこの村で独特な仮面劇の発祥の地らしい。 この神木の下でなされた仮面劇は、まさにアニミズム、シャーマニズムの典型であったろう。木彫の天下将軍のトーテムポールも建てられ、無数の願い事を書きつけた紙のこよりが、しめ縄にゆわえつけられていた。私も来年はうまくゆくようにと書いて、この神木と縁を結んだ。二〇〇八年は良い年になると決まったな。 十五時宿に戻り、茶を飲んで、再び歩く。風は冷たいが気持は高揚している。夕暮の中を歩き、十七時過宿に戻った。河回村のほとんど全部を見て廻りスケッチと写真に記録した。鬼沼計画に役立つかも知れないと渡辺君と話す。 3.5 〜 3.7 メーター位の道巾が高低差豊かにうねり、平面的にもうねり交差している。全ての住居は瓦ぶきの土塀に囲まれていて、その土塀の高さは 1.5 〜 1.6 メーター位で自在である。高過ぎず、低からずで、そのデザイン、テクスチャーは自然の構成同様に自在である。十字路は無く、すべて交差はズレ込んでいる。十七時四〇分、早めの夕食。この地方のドブロクを少々飲む。十八時半了。いい一日であった。すこぶる満足である。とても良い勉強をした。オンドル部屋に戻り、昨夜と今日一日の記録をつける。十九時四〇分了。明日は早立ちだ早く眠ろう。二〇時過眠りにつこうとする。眠れないだろうな。いくらなんでも。
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十二月十九日水曜日 |
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五時半起床。韓国の若い人達、高校生、中学生はくったくが無くて日本人に対する偏見は余りないようだ。ここ二日程の印象である。樹木や岩そして河、地形そのものに神を観る、アニミズムの感覚を我々は失なっているように思うが、おっとどっこいなんだな。まだまだ深い処でその感覚は尾てい骨のように残されていると思う。 この村に二日間滞在して、最も痛感したのがそれだ。アニミズムね。現代におけるアニミズム的な世界は、更に肥大化しているのかも知れない。まだ暗い中、お茶をいただき、おみやげもいただき、民宿の老婆に見送られて、バス停に向かう。七時十五分始発バス出る。八時前安東着。 高速バスターミナルで栄州行のバスチケット購入。プログラムを代えて一気に浮石寺に向う事とする。浮石寺は大江宏、小能林宏城から韓国(朝鮮半島)に法隆寺よりも古い建築があると教えられていた。長年訪ねるのが夢であった。屋根のそりが実に雄大であると聞かされていた。しかし、どうやら大江宏も小能林も実見はしていなかったようで、本当かどうか、いささか怪しい。 大江宏は知的であったが体力に欠けた。小能林は貧しかった。まあ、今日は彼等の代りに浮石寺を見るようなものだ。三十五年かかったな。慶州仏国寺の石窟庵に、どうしても行こうと考え、私の初の外国旅行となったのも、小能林から、「石窟庵に座す石仏の額には、ヒスイが貼め込まれている。石窟は東を向いていて、朝陽が登ると、その水平光が石窟の奥まで指し込み、仏の額のヒスイに当る。光は乱反射して洞穴内をまばゆい程の光で満たすのだ。」と聞かされたからだ。あえぎながら吐含山を登り、早朝辿り着いた石窟内は陽光は差し込んでおらず、やっぱりねと思った事を記憶している。でも、あの悪意の無いホラ話しは美しかった。そうあって欲しいと希求しているような趣きがあった。だから、今日、浮石寺(修徳寺)を訪ねて、屋根のそりがそれ程に雄大極まるものでなかったにせよ、失望する事はしない。彼等がそうであって欲しいと思った事が大事なんだから。でも本当であっても欲しいね。 八時半安東発栄州へ。九時十五分栄州高速バスターミナル着。浮石寺へのバスの時間が解らず、こちらの人のすすめもあり、TAXIで浮石寺へ、ドライバーと二万ウォンで商談成立。山々は雪がうっすらと。三〇分程で浮石寺へ着く。ドライバーが気をきかせてくれて、上の方迄登ってくれた。いきなり境内下に着く。 地面はうっすらと雪が凍てついている。典型的な山岳寺院で遠くの山並の景色が美しい。韓国は山国である。石段を登り樓門をくぐり無量寺殿へ。先ず正面から、見事なバランスである。次に石塔のある側面へ。短手の側面は、より一層の見事な力強さを持つ。濃黄色、淡緑、濃紅の配色も見事。 内部に入る。エンタシスを持つ柱が林立し、架構は屋根裏までむき出しで雄壮である。和様には決して見られぬ力強さで圧倒される。重源の浄土寺浄土堂と、とても良く似ている。浄土堂と違うのは虹梁に該当する梁が直線状の丸太である事。梁に緑色が使われている事位か。木々のこだまが聴こえる如くである。板の間に座りスケッチをする。スケッチしていると、何故か豪快で重々しい架構なのにワーッと宙に浮くが如くの感があるのを知る。 不思議な事に長手の平入りなのだが、如来像は妻入りの東を向いている。韓国最古の木造建築であり、創建は法隆寺よりも古い六百二十八年だが、寺院にはあるまじき内部構成である。創建後、如来像の配置が変わったのか。ただし、如来と対面する際の荘厳は今の方がいや増すのである。平入りのカテドラルなんて歴史的にもあるのかな。つまり、全体の配置計画の軸線は一本南北方向なのに、その軸からは本尊は脇を向いている形になっている。 そんな不可解さはあるが、今旅行中最良の建築であろう。たっぷりと満足する。ゆっくりと下山。これを登ったら大変だったろうとTAXIドライバーに感謝する。十一時四〇分下の駐車場へ着く。空腹だが、満足感で一杯。バスが出たばかりで、丁度TAXIが来たのでつかまえる。栄州高速バスターミナル着十二時半。二万三千ウォン。昼食をとろうとするも、ソウル・セントラル・ステーション行のバスが十三時にあるとの事で、バスターミナル内の店で、おでん、マントウ、ゆで卵の昼飯となる。 只今、十三時五十五分。ソウルへ走るバスの車中で今日のメモを記し終えたところだ。山合いを走る車窓からは山々の雪が白く視えるばかりである。十六時前ソウル・セントラル着。セントラル内のマリオットHOTELチェックイン。十九時三〇分コーリアンハウス、食事予約。小休する。地下鉄でほとんどの処へ行けるようで便利そうだ。 十七時ホテル発地下鉄でコーリアハウスへ。四〇分程コーヒーショップで休む。十九時二〇分コーリアハウスへ。ディナー。美味であった。白ワインを少々。二十一時了。シアターで民俗舞、音楽。シーズンオフなのか、演目があんまり良ろしくなかった。地下鉄でセントラル・シティに戻り、ホテルへ。二十三時前、眠りにつく。
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十二月二〇日 |
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八時前起床。昨夜雪が降ったようでソウルは雪景色。室内にいると解らぬが、今朝は寒い見学になりそうだ。2日振りにシャワー、風呂を使い、九時過HOTEL発。地下鉄で宗廟へ。宗廟園内はうっすらと雪化粧で清々しい。参道の踏石の置き方が全く日本とは異なる。 宗廟本殿は堂々たる建築であった。水平に長く、十九スパンの木造平屋建。大地に伏す如くの姿をしている。儀礼の場である前庭は石造の基壇で心持ち中心に高く壘々たる石の庭である。この石の重量が建築をズシリと天地の境界につなぎとめている。スケッチを一点。これで持ってきた大判の紙は全て使い切った。永寧殿に廻り、帰りがけ宗廟での儀式のビデオを楽土庁の長床風舞台で見る。ここが、国家としての韓国のアイデンティティーを持たされた場所のようだ。 王宮を見ようと。宗廟の廻りを囲む高い塀沿いに歩く。ところが王宮は時間とガイド付の制限があり、断念する。宗廟の印象が強かったので、かえって良かった様に思う。十二時過王宮近くの、大衆食堂で朝昼飯、大変おいしかった。十三時過了。清渓河の水流復元を再訪。地下鉄でホテルに十四時過戻り、預けておいた荷物を受け取り、十四時半のリムジンバスで仁川空港へ向う。十五時三〇分空港着。十六時待合いロビーで小休。トランジットホテル、レストランで時間をつぶし、十八時四〇分定刻通りにKE 705 便、NRTに向けて離陸。飛行時間は一時間四〇分だそうで、アッという間の飛行だな。 浮石寺の内部をスケッチしていた時に感じた重量のある物体の浮遊感と宗廟の基壇の見事な重量感は殆んど初めて感得した事で、身につくかも知れぬ。海印寺の山並みと屋根の一体感も強い印象を得る事が出来た。河回村の集落全体にみなぎる強いなつかしさは、それにも増して強い力があった。
二〇時四〇分NRT着。只今二十二時二〇分都営地下鉄線車中。短い旅であったので疲れも無く、旅の終わりの虚脱感もない。二十三時世田谷村に戻る。 |
R378 |
十二月十五日 広島のT氏と連絡。何とか広島の態勢が整ったようで、ひろしまの「ひろしまハウス」建設に向けて頑張ってみたい。韓国に居る間に基本的な考えをまとめたい。
十二月十六日 日曜日 |
R377 |
十二月十四日 十三時四十五分、道端ギャラリーの写真撮っていたら、スポーツ自転車乗りの恰好した、おじさんに声を掛けられた。 「変テコリンでしょう。」 「イヤイヤ、とんでもない。」 「以前は一つだけ絵馬がありましたよね。急に増えちゃって何かの展示会でもあるんですか。」 「来年六月に世田谷美術館で展示会やります。いらして下さい。」 「そりゃ楽しみだな。是非。」 「コレワね、私描いたんじゃないの、友達が描いて送ってくるんですよ。変ですよね。」 「以前からTVや本で知っているんです、今は設計してないんですか。」 「イヤイヤ、やってますよ。」 「実ワ、北烏山に住んでて、家が傾いてきちゃったんで、何かイイ、小屋みたいなの無いかと思って、相談に乗ってくれますか。」 「イイですよ、手紙下さい。」 「私、Sと言います。よろしく。」 「それじゃ、又。」 というような、やりとりがあった。 この道端ギャラリーは思わぬ街の反応があるな。藤野展でも今度やってみるかな。
しかし予想通り、この大入り絵画、及び絵馬群の作者は私だと思われているようだ。ま、仕方ないな。
二〇時前近江屋で夕食。高木、渡邊先生合流。二十一時半迄。
十二月十五日 土曜日 |
R376 |
十二月十三日 昼過、尾島先生とは最後の忘年会になるので夜の忘年会だけは出席を決める。その前に渡辺君に朝鮮(李朝)の建築の情報を渡す必要がある。首筋と背中が痛むが何とかなるだろう。 十五時半何とかカゼは回復しているようだ。今日も大入り絵馬が到着してしまい、道端ミュージアムは何となく手狭になってきた。願わくば、この絵とか、絵馬の作者が私であるという誤解を地域の人々に与えなければ良いが、マア普通に考えれば作者はこの家の住人であると考えるのが普通だろう。とすれば、小さな看板も立てた方が良ろしくはないだろうか。これ等は一方的に九州方面から辿り着く、やしの実みたいな漂流物であると、名ははっきりと宮崎方面だと知っているけれど、ともかく、遠き島より、プカプカと漂流してくる宝貝であると、標示した方が良いのではあるまいか。 しかし、そんな看板立てたら益々加速度的に変人狂人扱いされかねぬ。困ったものだな。しかし、すでに絵馬が十数点、藤野画伯の大入絵画が八点展示されてしまった壁は、何かを語り始めてしまっているのでした。郵便配達の皆さんに、ポストに入れずに絵馬形の奴は皆、壁にゆわえつけて下さいとお願いしたい。しかし、さき程、大入絵馬を吊り下げていたら、通りかかった学生風が、あわてて私と合った眼を、不自然にそらしたのが気にかかる。相当、変なのかも知れないなコレワ。 十六時新宿西口で渡辺君に「朝鮮の建築と文化」渡し、少し計り話しをする。十八時十五分神田の料理屋へ。教室の忘年会。二十三時過散会。深夜世田谷村に戻る。
十二月十四日 金曜日 |
R375 |
十二月十二日 水曜日 十時TVディレクターK氏、H氏来る。ざっと案内し、十六日早朝取材を決める。世田谷美術館の展覧会の事はナレーションで流してもらえばいいか。苔の件まで辿り着きそうにないかも知れない。十一時了。十三時半世田谷村を発つも、新宿でUターン。多分チョッとカゼ気味で調子悪く戻り、伊丹潤氏よりの「朝鮮の建築と文化」求龍堂読了。だいぶ前にいただいた本だが、きっちり読んでみたら面白かった。 ソウルの宗廟、演慶堂、慶尚南道の海印寺は外せないな。安東の河回村、義城金氏宗邸、臨清閣、李東植の故郷も気がかりである。浮石寺はちょっと無理だろうし。 薬を飲んで眠りに眠る。
十二月十三日 木曜日 午前中、あんまり横になっていると本当に病気になってしまうような気がして、起き出し、道端ミュージアムに藤野氏の大きめの作品6点と近着の絵馬2点を吊るす。小雨の中の作業だった。カゼひいてる人間のする事じゃない。
十一時過一人で朝昼食。まだ決断できない。今日はとても大入り進行録を記す気力はない。 |
R374 |
十二月十一日 大入り絵馬を道端ギャラリーに吊るしていたら、通りがかりのオバさんに声を掛けられた。変な絵馬オヤジなんて思われているんだろうな。十二時過了。大入り絵馬もすでに九点で、風にゆれてアッチコッチ向いてブラリ、ブラーリ。仲々いい感じである。写真を撮る。藤野忠利のメールアートやらが初めて生きたという感じだ。 十三時過まだ世田谷村に居る。これはアト一時間チョッとで大入り進行録の10を書いて、考えを固めた方が良いかも知れない。研究室から連絡アリOBの寺本氏が来室して待っているとの事、イケネェ、ボケてたと、すぐ発つ。 近江屋で寺本君と会う。ベトナムで父親と一緒に設計事務所をやっていたのだが、これから先どうするかの相談であった。三〇半ばになってるから慎重に考えた方が良いと、常識的な事しか言えなかった。正月明けに再会する事となる。 夕食をすませ十九時半頃世田谷村に戻り、すぐ眠ってしまった。電話が数本入り叩き起こされる。この時間では当然である。突然明日の朝TVのスタッフと会う事になってしまった。散歩番組に世田谷村を出したいとの事。世田谷美術館大入り計画の一端だと思って引き受けてしまった。
十二月十二日 |
R373 |
十二月十日 十二時迄小休。十二時より銅版画に取り組む。十三時中止。これ以上やると引返せない。十三時半芦花公園駅。ここは急行が止まらないので、いい駅だ。十四時半研究室。小さな打合わせ。十五時製図準備室で今夕の打合わせの為のメモ作り。十六時製図指導。十八時半研究室、世田谷美術館担当者達と打合わせ。十九時四五分新大久保駅前近江屋に席を移す。 次女参加。カタログの件を中心に助力を願う事とする。年明け迄に色々な問題を抽出し、主な幹の第一たたき台を作る事となる。筋道のハッキリした、しかもなるべく沢山の人にも解りやすいものにしたいが、うまくゆくかどうか。十二の伽藍の出来次第であろう。二十一時過迄。二十二時半世田谷村に戻る。
十二月十一日 火曜日
昨夕の世田谷美術館担当者との打合わせでは「苔計画」もいいのじゃないかとの事で、意外とスンナリ、ゴーサインが出てしまい拍子抜けしたのだが、これからが大変である。
毎日一件のコラムを連載するに等しい。もう山本夏彦状態である。日記を、何はともあれ長年続けてきたので、近年書く速力だけは速くなった。内容はともかく。というわけで大入り準備録その9にとりかかる。十一時半過了。 |
R372 |
十二月七日 十三時研究室。鬼沼他打合わせ。十五時設計製図。十九時新大久保近江屋で難波先生と会食。二十二時半世田谷村に戻る。
十二月八日
十二時過現場。コルゲートパイプの上にスラブが乗っていて、仲々格好良い。 T社長に電話が入り、急用ですぐ東京に戻らねばとの事で、現場スタッフに別れを告げ十五時半現場を去る。カマの火入レ役をおおせつかったりもして、あわただしい半日であった。郡山発十七時過やまびこ。車内でゲストハウスの使い方打合わせ。小ギャラリーを組み入れる事となり、ゲストハウスの一階部分も、マキ、スミ、囲炉裏、団炉の生活とする事になった。
良く良く考えてみれば、山里の新世界作り非消費的自己再生を目指すのに、いかにもな消費生活的キッチンデザインやバスルームデザインを採用するのはやはりおかしいな。これは考え直さねばならない。 鬼沼前進基地の姿が次第に姿を現し始めている。「時の谷」「ゲストハウス」「光風水塔」等の建設作業も進んでいるので、来年位から進行状況を多くの人に公開してゆきたい。
十二月九日 日曜日
十一時世田谷村発。我孫子真栄寺へ。金子兜太先生の会だ。行く道々世田美展の相談を少し計り。十二時四十五分真栄寺近くで小休。 面白い絵を得た。金子兜太との合作である。その後、本堂で兜太さん「白梅や老子無心の旅に住む」の自句をふすまに大書するのを見て、お別れ。「又、来年、お元気で。」「お体お大事に。」又、お会いしたいものだ。十六時過真栄寺を去る。美しいが、荒々しい夕空であった。兜太さんらしい空だ。金子兜太の顔は描いてみると、とても難しい顔であった。 十八時二〇分過世田谷村に戻り、すぐ宗柳へ。久し振りの宗柳である。明日のN氏との打合わせ準備に頭をひねる。しかし、金子兜太八十八才、山口勝弘八〇才といった老達人達に会った後は何となく清々しいな。真栄寺を訪ねると、やっぱりどうしても佐藤健を思い出してしまうが、健はたかが六〇才で死んじまったから、あの清々しさには辿り着いていなかった。自分も大いに自戒したい。六〇いくつはまだ本当にガキだ。
十二月十日 月曜日 第一回展示として藤野忠利大入絵馬七点を小じんまりと吊す。もともと絵馬は神社の軒下にかくの如くに奉納されていたのだから、まことに良ろしいのだった。西の壁は長さ8米、高さ4.4米あるので、これで藤野忠利の大入絵馬は本当にゴミになる事なく、世田谷村道端ギャラリーに奉納される事になった。
十時半まで、その作業を続けて、意外にも疲れた。仲々、芸術の処理は大変だ。しかし、まだ絵馬は七点だが、何となく目出たい感じにもなってくれたのである。以前に一点だけ壁の下の方に展示していたので、これで八点の絵馬となった。こうなれば、いくらでも来いという感じである。十一時朝昼食。郵便局に寄って大学へ。 |
R371 |
十二月六日 食事抜きで、十二時前迄銅版画。途中で面白くなって止められなくなった。十四時前研究室。雑用。十五時修論ゼミ。十六時ダムダンT氏来室。十六時半鬼沼及び展覧会ミーティング。十八時半迄。十九時新宿南口ミラクル食堂長野で向風学校、安西直紀・諏訪太一両氏と会う。久し振りだったので、安西は話したい事が沢山あって、メシはほとんど食べず、しゃべりっ放し。 こおいう若い衆は実に稀だな。「睨むんです」大ケッタイ本も売れに売れ始めたようで、入った印税で佐渡島迄出掛け、何とジェンキンスさんに会ってきたそうだ。何故、ジェンキンスさんなのかは解らんけれど、とり敢えず、非常に良いのだ。でも何でジェンキンスさんに睨むんですを読ませようとするのかは、やっぱり解らないのであった。 京都にも出掛け、坂本龍一にも会って睨むんですポーズを二人で決め込んだりもしていた。マア、とり敢えず闇雲ではあるが、エネルギーのピュアーさがいいよ。良く人と交じわるが、基本的に単独行なのもよい。 沢山の苔を撮り続けていて、それは仲々素晴らしかった。当初の直観通り動いてみるか。安西の写真と何か苔族を組み合わせた、苔メディアと実物苔を考えてみよう。私もバカだねえ。 二十三時前迄話す。向風学校第一回の講義録も今週中には出来上がるようで、それを機会に向風学校のすすめは安西氏の新サイトに引越すつもりだ。二十四時前世田谷村に戻る。
十二月七日 金曜日 マ、これも迷惑な話しだが、一応受け取っておこう。早速一点描いて又、送る事とする。意地の張り合いだねコレワ。私こおいうの大好き。
安西の苔写真をどう生かすかを考え、何故か世田谷美術館大入り計画進行録に記す。 |
R370 |
十二月五日 十六時半製図準備室。蔡さんと話す。加藤先生渡辺君と、技術とデザインゼミの事、製図の事など打合わせ。十八時より製図指導。学生が着々と眼に見えて上達するなんて事はあり得ないのはもう知っているから、失望はしない。二十一時迄。コーリア料理屋で一服して世田谷村に二十四時過戻る。
十二月六日 木曜日 山口勝弘先生より葉書いただく。老アバンギャルドのフレデリック・キースラーに関する想いの深さを知る。銅版画に取り組もうと思い始める。銅版作業に向かう気持ちってのは、ズーッと一様にあるわけではなく、何か律動のようなものがあって、その動きに乗らないと駄目なんだな自分は。十時迄。一時間以上ブッ続けでやると、頭が銅版モードになって、仲々ニュートラルな状態に戻らないので小休止。朝昼食とする。
何を彫り始めているのか、よく解らないが、チリで見た砂絵らしきが出現しているのは確かだな。マア途切れ途切れで良いから、コレはコツコツ、コリコリやるしかない。 |
R369 |
十二月四日 十二時雑用終了。十二時半過新大久保近江屋で昼食。十三時過了。考えるに、長い時間を建築分野で過ごしすぎて、頭も体も鉄コンキンクリート状に固くなってしまってる。もう四〇年になるよ建築ヅケで。これでは、今一番大事とも思える自在な考えは得難い。 来年の個展は思い切り、建築の重さ、固さから離陸してみよう。だからと言って、作る建築迄軽く、フニャフニャするって事ではない。 終日、世田美の基本計画作りに取り組む。四苦八苦するも、良い知恵がまとまらず。単純な創作のコンセプトだけではなく、カタログ作り、ミュージアムショップでの何か、集客の事。予算、スポンサーの事。等、建築と同様に総合的な思考が必要なので、仲々まとまらない。私の頭も確かに固くなっている。危ないなコレワ。
十二月五日 水曜日
問題を赤裸々に整理してみる。 今、六三才。正式に老人と呼ばれる迄アト二年である。しかし、まだガキ状態、未完状態であるのは歴然としている。とても大家ではない。まだまだ先に行けるという自覚はある。だから当然回顧展の形式はとらないし、世田谷美術館もそう望んでいる。 だから、方向は未来だ。何がまだ可能なのかという事になる。ここまでは揺らがない。動揺しようがない。でも当然、未来ったって過去と連続している。そう考えるべき年齢だ。過去の上に立てられるべき未来でなくては、ただの夢想だ。無理して建築やり続けてきた意味がない。 とすれば、要するにこの先何をしたいのかを抽出すべき、という事になる。何をやりたいのか、お前は、の難問である。普通に考えれば、これ迄の延長上の未来を考えるだろう。つまり、近い将来自分はこんな建築を建てたい、そして今建てつつある事を示せば良い。 でもそれでは駄目だという自分が居る。そんな事考えて生きてきたワケじゃネェぞという自分が居る。こう言う自分は信じたい。それだったら十二の伽藍計画を示すだけで良い。その伽藍の姿をわかりやすく示すだけで良い。
それだけでは充分に、自分のやりたい事を二〇〇八年に世の中に知らしめる事にはならない。私はまだ卒直になってはいない。もっとダイレクトに、自分を開放しちまった方が良い。 その前に、山口勝弘先生との共同部分に関して。これは当然思いつきではない。自然に、長い時間もかけて、こうなってきた。まだまだ問題は残されてはいるし、これからも発生するであろう。しかし山口勝弘八〇才になる老アバンギャルド、日本のメディアアートの先駆者とのコラボレーションに関して、これは私の未来を決定しかねない小さな出来事になる可能性がある。この事に意識を集中する必要がある。
山口勝弘の「砂時計とミイラ」そして「プラネタリウム計画」は見事なくらいの直覚的整合性をもっている。 山口勝弘の「砂時計とミイラ」が死と直載に対面しようとする計画であるのは間違いようがない。しかし、これは老アバンギャルドの特権ではなく、万人共有のものである事は事明の理である。死は万人の宿命である。
ここまでは、理の当然である。解り易過ぎる位だ。問題はその先だ。 ニーチェは永劫回帰を表す比喩の多くに砂時計を使う。つまり、時計は宇宙のメタファーである。山口勝弘が言ってよこした宇宙は今で言えばヴァーチャルな現実存在そのものだ。時の神はギリシャでは最大の神、クロノス。クロノスを巡る神話も山口の言うギリシャ人のメタフィジカルな才能を良く示している。
とここ迄考えは辿り着いたのだが先は遠い。これ以上の考えは日記には示せない。日記の形式では不可能である。で世田美大入り記録4に記す事とする。 |
R368 |
十二月三日 十二時研究室。電話連絡幾つか済ませ、十三時材料・構法とデザインの共同ゼミ、卒論発表会。輿石、加藤先生と出席。第一回の試みなので未熟さはまぬがれないが、早稲田に一番欠けている分野なので来年に期待したい。良い人材をこのゼミに集めたいが、うまくゆくかどうかは解らない。 十六時稲門建築会インタビュー。稲門の方々と直接お目にかかるのも久し振りの事で楽しかった。十八時迄。近江屋に寄って世田谷村に二十時半戻る。TVで北京オリンピックアジア予選野球試合を観る。
十二月四日 |
R367 |
十二月一日 昨日十六時半製図準備室で蔡さん相談。十七時半計画系の全先生と第四課題の相談。十八時過製図授業。保存コース、都市計画コース、設計コースA、B、プラニングコースに分かれる前にガイダンス。全体の仕組みが解るようなオペレーションがとても大事だと思う。保存のコースに高木先生をアシストさせたい。 二〇時過新大久保駅前レストランで先生方と会食。若い先生方の感性が枯れる前に、出来るだけの事を伝えておきたい。二十二時世田谷村に戻った。 今日は七時過起床。昨日よりも寒さはゆるんだようだ。九時十五分大学。AO入試。十七時迄。今年の創生入試は低調であった。入学希望者の質も落ちているように感じたが、違う印象を持つ先生も居た。意見の違いは仕方の無いところだろう。 十八時原宿たなごころでスローミュージックカフェライブ。民族音楽家若林忠宏氏監修のここのライブは、良く出来ている。今回は二〇〇七年の総集編で、雅楽とインド音楽のコラボレーションとの事である。雅楽の笛等の音の妙はまだ私には理解できないが、シタールの音はとても良かった。T社長とも会えた。終了後新宿で小食後、世田谷村に戻る。名前は忘れたが、新宿駅前にこんな昔風の食堂があったのかという位のミラクル食堂であった。ここは良い。フーテンの寅さんが、フッとのれんをくぐって、いつ入ってきてもおかしくない程のものであった。
十二月二日 日曜日 電話の菅原はそれでも「ゆううつに得も言わず襲われている。店は満員なのに。客の眼が皆死んでるのよ」との事であった。そりゃあそうだろう。JAZZの全盛期のサウンドを最良の状態で四〇年もかけ続けている中を、弱くなった日本人が聴きに行くんだから。勝負はハナからついてしまっている。音は古くならないが、人間は年を取る。国も年を取る。 菅原のゆううつは、私のゆううつでもあり、よく解る。同年代のゆううつでもあり、年齢のゆううつでもあろう。
十二月三日 月曜日 橋本文隆氏より「アール・ヌーヴォー建築」河出書房新社いただく。入江正之氏の「アントニオ・ガウディ」と同シリーズのふくろうの本シリーズである。橋本氏らしい構成で、ところどころに氏の意見が書き込まれているのが面白い。今のような時代に、アールヌーヴォーへの広い視点を持つ書物が出版されたのは時宜を得ていると思われる。 木島安史さんを憶い出す。熊本の孤風院の哀切極まる作風がフッと頭をよぎる。グローバリズム一辺倒の建築潮流の中で木島安史等の活動の貴重さを再記録する必要があるのではないか。
木島等が考えようとしたキュチュな装飾性は、今は完全に情報そのものの内に吸収されてしまった。ヴィジュアルな情報、それはコンピューターを仲介して世に洪水の如くに氾濫している。人間が本来所有している装飾への希求は益々建築、立体として具体化不能な状態になってはいるが、とうていこのままで良いとは思えない。 |
2007 年11月の世田谷村日記
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