石山修武 世田谷村日記

2月の世田谷村日記
 R405
 一月三十一日
 十時中川研で博士論文審査会。論文が韓国の修徳寺大雄殿に関するものだったので興味深かった。十一時半了。十三時T社来室。十四時アベルとチリの件で打合わせ。メキシコよりいささかのデータ来信。ラテンは確かにのんびりしてるな。来週は夏休みの最盛期でほとんど誰も何もしないんじゃあないかと彼は言う。それでやっていけるんだからイイナ。

 N島のモデルが少し感じになってきた。ストーンサークルのスケールと島の大きさのスケールを少々ミスっていて、若干の変更を要した。一つの島に一軒の家の計画だから、島全体が家になる。その感じをどう表現できるかだ。

 十五時半発。世田谷美術館へ。用賀で地上に出たら、余りに寒くて身を震わせた。研究室から美術館迄一時間半弱かかる。Nさん等に空っぽの展示室を案内していただく。空っぽの状態はアト一回しか体験できないので、貴重な時間だった。展示室の大きさ、他のイメージが少々ぐらついてくる。この空間をキチンとコントロールするのはエネルギーが要るのを実感する。

 修了後、打合わせ。着々と諸準備は進行中だ。十九時過了。芦花公園駅近くの料理屋で席を設けていただく。そう言えば、美術館には今日宮崎の藤野かおりさんが訪ねたとの事。聞けば、藤野忠利さんは看病疲れで、いささか疲労気味らしい。道理で今年になってから大入り絵馬通信の数が減ったなと感じていたので、やっぱりと思った。Nさんから、最新の大入り厚紙カードを渡される。東京で投函しようとしたものらしいが、今日私が美術館に来るのなら、渡してって頼まれたらしい。藤野忠利さん、山口勝弘さんみたいにあなたは本当の芸術家なんだから、キチンと生きて欲しい。我々の生活のモデルになるように。でも、あんまり頑張らないで、サラリと疲れをかわして欲しいな。遠くから、いささか心配する。

 赤ちょうちん、という名の料理屋で、気がつけば二十三時半。時間を忘れる位に楽しかった。世田谷村まで歩いて帰る。皆さん終電に間に合ったのだろうか。

 K社S氏より、第二話の原稿の感想が届けられていて、どうやら、マアマアの出来かも知れぬと思う。こうやって、どんどん書かせるんだよね、いい編集者は。

 二月一日
 八時起床。昨日のメモを記し。第三話を書き続ける。明らかに、美術館と出版社の双方から乗せられているよ。でもいいや、どんどん乗ってゆこう。

 R404
 一月三十一日
 六時半起床。朝焼けが美しい。昨日は十時半研究室。打合わせ、スケッチを十八時迄。十八時半稲門建築会新年会。村松会長、OB諸兄と歓談。十九時半了。新大久保コーリア料理屋で夕食。二十二時前世田谷村に戻る。

 第三章、ひろしまハウス IN プノンペンに着手する。今度の展覧会では唯一過去のモノなので、ストーリーを組み立てるのが仲々難しいが、良い知恵が浮かんだので早速試みる。

 九時前三枚程書く。九時世田谷発。

 R403
 一月三〇日
 八時起床。昨日は十一時に世田谷村を発ち、十二時半三崎駅口、あすなろラーメンで昼食後十三時油壷ヨットハーバー、月光ハウス着。N氏に話をうかがう。ヨットの事も海の事も全く無知なので、実に興味深い。N氏はヨットのスタート時より外洋を目指していた事も知る。汲めど尽きせぬ人物だな。十七時過名残り惜しいがお別れし、世田谷へ。十九時世田谷村に戻る。夕食後すぐ休んだ。
 今日は寒さが少しゆるんだ様だ。ここ数日の寒さは厳しかった。S氏より、第一章のはじまりは大体あんな調子で良いのではないかの連絡あり、ホッとする。美術館、出版社双方の担当者と綿密に連絡を取りながら進行させたい。

 十時半、第二章の半分強十二枚を書き終える。今日の文字書きはこれで止める。

 R402
 一月二十八日
 メモを記し、十一時半研究室。ウェブサイト編集会議他。十三時入江先生と打合わせ。二年設計製図の件。十四時発五反田へ。十五時T社長と打合わせ。鬼沼計画時の谷ゲストハウス・ホールの件。時の谷の中心部の構築物はかなり大きくなり、ランドスケープのデザインは難しくなったが、建築としては面白い可能性が出てきた。十七時迄。
 地下の寿司屋で渡辺と早い夕食を取り、早々と世田谷村に戻り、早々と休む。

 一月二十九日
 四時起床。昨夜来寝ながら考えていた事が少しまとまりかけ、早朝起き出し、十二の物語りの第二話を書き始める。七時半迄。八枚進んだ。寒いけれど面白い作業であった。文字は認識を助け、スケッチはそれを解放するな。
 熱い風呂に入って冷えた体を休める。

 今日は自分に課したノルマをこなす事ができた。八時過小休。九時前十枚を書き上げ今日はこれ迄とする。第二話の半分迄進める事ができた。
 十時突然N邸月光ハウスにうかがう事となり、渡辺君を待つ。午後は月光ハウスで海の話し、ヨットの話しをたっぷり聞かせてもらうつもりだ。

 R401
 一月二十五日
 十一時研究室、幾つかの打合わせ。午後八〇二N島スケッチ。スケッチしたものをカメラでとりプリントアウト、N氏へのプレゼンテーション資料を作成する。宮古島の計画は世田谷美術館の展覧会でも大事なゲートになるので、主題と形が直観的に結びついていなくてはならない。同時に全体的な志向も併存させたい。

 十八時三年設計製図調布市発表会のプレゼンテーションチェック。一、二のモノに再取組をうながす。私が言っている事を直観的に受容しようとする者と、全く解らぬまんまの者、その中間と、大体比較分類できるが、ただ、その反応をほぼ私が把握できるようになったのが冷静に観れば進歩であろう。二〇時半、加藤、渡辺両先生に後を任せて去る。二十一時半世田谷村。

 一月二十六日
 七時過起床。寒い。十時半「南方熊楠・萃点の思想」鶴見和子(藤原書店)読了。佐藤健の阿弥陀の来た道、南伝仏教、馬場昭道のラダック紀行等が別の視点から価値づけられるような気持が芽生える。縁としか言い様がない、その事に光が当てられている書物である。

 十一時過畑に出る。十三時前迄下の畑で土をただただ掘り返す。今年は去年と変えての畝の方向を東西にする積もりだ。その方が作物への陽当りが良いとも書いてあったが、これはおかしい。南北の畝方向の方が、畝間の狭間に陽光が指し込む時間が多い筈だ。学校の先生が書いた本だから畑の事本当は知らんのではないかの疑問が湧く。

 畑に鳥が二羽来る。ウグイスらしきと、胸の白に薄い橙色がさし羽は淡緑色の中型の鳥。鳥類図鑑が見当らず、名は不明、不明だと気になるな。梅の樹に苔状の、これを菌類と呼ぶのか知らぬモノも初めて見つめる。熊楠を読むとすぐに熊楠の視線を真似るところが、我ながら可愛いいよね。

 十六時迄、N島の物語を書き始める。どうやら、書けなくは無いと知ったところで休止。調子に乗り過ぎると良くないのだ。十八時再開十九時迄。今日はここでストップしよう。第一話の四分の一を書いた。思わぬ方向に展開していてうまくゆきそうだ。

 一月二十七日 日曜日
 九時前起床。すぐに畑へ。コンポストの位置を変える穴堀と、数日分の生ゴミを捨てる。思い立ってほんのわずかに畑拡張の作業。十時半迄やって息切れして中止。職人さん達が砂をブルーシートの上に小さな固まりとして積み上げていたのを動かしたいなと考えていたが、面倒すぎて手がつかなかった。それを始めた。案の定大仕事で、一日やそこらではとても片付かない。しかしながら、この砂山を動かせれば数平米の、畑が拡げられるのだ。数平米の開拓なんである。開拓はしんどい、スコップ、ツルハシ、カマ等を総動員して取組んだが、カゼ気味の体が持たなかった。十三時、N島について、第一信十枚書き終える。あとの十枚程は少し計画がすすむ段階と、四月に宮古島へN氏と共に行ってからの方が書きやすいし、面白いだろう。

 十五時世田谷村を発ち調布へ。京王線人身事故で遅れ発生。十六時半調布市市民公開講評会場へ。早大建築学生の最後の準備をみる。学生達は二日前よりも更にもう一歩進歩していて、これ以上何をか言わんやの域に迄達していた。三年生としては行ける処迄行ったなの実感を受けた。

 あとで聞けば東大生も、発表リハーサルは今朝だったそうでよい仕上がり迄持ってきていた。双方の学生共にキチンとした服装で適度に緊張しており、講評会前からこれはうまくゆくなと確信した。五百席のホールは満席で途中から立見が出た。

 市長挨拶に次いで、東大難波先生の総合司会で講評開始。早大6チーム、東大4チームの発表と多くの調布市民からの質問、応答、感想と続いた。調布市民からは多く高齢者対策、謂わゆるユニバーサル問題の指摘が大半であった。双方の学生達は初めて、自分達の作業を「市民」の声にさらしたわけであり、「市民社会」の日本的実態を本能的に知ったのではないか。これは学校で教えたり、教えられたりする事が不可能な体験であるから、学生達は本当に良い勉強をしたと思う。まさに、発表会の場と会そのものが調布市駅前広場の理想に近いものになっていたのである。

 個々の発表については、双方の学生共に十一月の東大での講評会から格段の進歩を遂げており、ただすべき事は少ない。私は展示会に出展されていたパネルや模型と発表の内容のズレだけを見ていた。そのズレこそがここ数日の学生達の進歩のスピードを示すものであるからだ。その速力とエネルギーこそが設計教育の中枢であるのを今回は思い知った。半年の進歩は一日の成果にあり。最後に東大鈴木博之先生から総評があり、しめくくりとした。

 終了後、帰ろうとしていたら学生達から花束をもらう。縁の下の力持ちをしただけであったが、素直にありがとう、といただいた。会場には神戸から冷水さん迄来場されており、関心の高さを知った。近くの料理屋で鈴木、難波、中川武先生と打上げの会食。

 早大東大双方の今度の計画の当事者同士で、難波先生には知らぬうちに御迷惑、心配をかけていたかも知れない。度々書いてきた様にそれは早大建築への私の危機感がそうさせたのであり、他意は無い。御容赦いただきたい。

 二十二時半世田谷村に戻る。

 R400
 一月二十五日 金曜日
 昨日午後は研究室でK社S氏と世田谷美術館展覧会カタログの件で打合わせ。美術館カタログを出版社と共同で出版し、書店にも並べようと試みる予定だ。二〇〇枚の書下しもノルマとして課され、ギクリとするが、コレワやらなければ仕方ないだろう。現段階での十二の物語り、十二のプロジェクトもフィックスされたのであとは何処まで作り込めるか、だけだ。

 六時起床。今朝は少しゆっくりしたい。トニ・ネグリと鶴見和子を交互に読む。鶴見和子を私は金子兜太を介して知ったのだが、南方熊楠は鶴見和子を介して知り始めている。この回路は良かったと思う。それこそ南方曼荼羅の断片を見るが如しだ。

 今夕は早稲田建築三年生の調布市での公開プレゼンテーションの最終準備に立会う予定。もうそろそろ放任した方が良いかとも思ったのだが、昨日よりネット上で場外乱闘状が繰り拡げられている荒模様なようで、それならばと重い腰を上げる事にした。

 東大との共同プロジェクトしかも対抗戦の様相も呈しているのが実ワ面白い。それを一月二十七日夕方六時より調布市民、市長他諸々のより広い世界の人々の前でやるわけだ。ここ数年の早稲田建築学科の、設計製図力の低落振りには私なりの危機感を持っていた。製図というのは知力、体力、精神力が総合化したものだから建築教育の中枢を占め、それを建築史学が広く相対化するのが、本来の構造であろう。設計製図の低落はそれ故重大な危機を招きかねない。

 それだからこそ、この共同課題をテコ入れにして私としては設計製図の指導の改革をも考えたいと意図した。だから、本気で取り組んだ。半端じゃないのである。本課題に取り組む学生には生半可な事はさせんぞと決めた。それが今の時代の学生の半端振り、知力体力低下振りと、そぐわないのも承知の上である。成果はある程度達成されたと思う。まだまだ私が考えているレベルには遠いけれども、ないものねだりはイケナイ。それぞれの学生はそれぞれの力なりに向上した。その結果が調布に展示されており、二十七日の公開講評となる。

 私としては、だから今夕の指導が終ればもう充分に満足しているのだ。設計教育としてはベストを尽したから、学生も良く反応したと感じている。これで駄目なら早稲田の設計製図はもう駄目なのだ、に等しかった。先日、展覧会場を見て、私は初めて早稲田建築学生を誇らしく思った。

 R399
 一月二十三日
 十八時前日本女子大にて住居学科小谷部さんと打ち合わせ、その後篠原先生も参加。大筋の合意を得る。女性は決断が早くて良い。二十一時半世田谷村に戻る。

 一月二十四日 木曜日
 五時起床。世田谷美術館のカタログ絵巻物編のシナリオを作る。六時半了。もう少し苦しむかと思っていたが、意外にスンナリと十二プロジェクト、十章の構成が出来上がった。多少の変更は必要だろうが基本的にはコレでゆきたい。早速、第一章N島の巻から手をつけてみたい。

 昨日チリのモバイルシアター第一案をラフスケッチしたのが力になったのかも知れない。
 作る作業はカタログのシナリオにしても、大きなプロジェクトのプランにしても、一見離れているように見える問題に答えが出ると、反対側に在る問いにもスッと答えが浮かぶものだ。九時前迄鬼沼・時の谷スケッチ。太陽の光が溢れて今日は暖かく畑の雪がアッという間に消えて、土が湯気を立てている。

 R398
 一月二十三日
 昨日の午後は十三時過ぎから十六時まで調布市での展示作業を見に行った。早稲田の学生達は徹夜明けの体で、それでも良く仕事をして、ほぼ十五時の開催時間迄に展示を完成させていた。段々、キチンと始末できるようになっている。二十七日十八時からの市民公開発表会が楽しみである

 八時半起床。今年初めての雪が降っている。東京は雪景色を忘れてしまっているが、やはり時には良いものだ。住宅地の混濁が一瞬浄化されるような幻想がある。時々降ってくれると忘れた風景、すなわち家々の連続という一九五〇年代以前の東京の風景を思い起こす人も居るだろうに。

 十一時研究室、アベル打合わせ。十二時半世田谷展打合わせ。十四時宮古島打合わせ。グアダラハラ打合わせ。MoMAモデルチェック。十四時半了。八〇四スケッチ。十六時半了。アベルと打合わせ。作図作業に入る。十七時過発日本女子大へ。

 R397
 一月二十一日
 十一時半研究室。打合わせ。十三時迄。十四時Y社。十五時M工務店来室。雑用十八時過発京王プラザホテルへ。十七時サンパウロのマリア・セシリア・ドス・サントス夫妻と会う。寒いのでホテルの外に出たくないと言うので下の和食レストランで夕食。相も変わらぬ、ヒューマニティの持主振りである。このブレの無さはもう筋金入りだな。

 ひろしまハウス in プノンペン、チリ計画、グアダラハラ計画についてセシリアに話す。全てに大きな関心を寄せてくれ、ラテンアメリカでのセシリアさんなりの人間のゲートを教えてくれた。つまり、この人にはコンタクトしろというような事。二十二時過迄。サンチャゴからサンパウロ迄はアンデスを超えて三時間だから必ずサンパウロには寄るようにとの事。

 二十三時過世田谷村に戻る。研究室で渡された南方熊楠、ネグリ、双方を交互に読みながら眠る。

 一月二十二日
 九時起床。深夜の読書は体の自動的なリズムを壊すな。知識を得て喜ばしいのと、体がドローッとしてしまうのと、どちらがどうなのか、不明。十一時半迄「南方熊楠・萃点の思想」鶴見和子・藤原書店、読み続け、ほぼ読了。新潮社のとんぼの本は昨夜読了しているので大体のアウトラインは了解できた。

 南方熊楠がヘンリー・ディビット・ソローを読んでいた事。又、鴨長明の方丈記を英訳しようとした事を知って、色んな事が納得出来た。方丈記←→ソロー←→ウィリアム・モリス←→バッキー・フラー←→川合健二←→イサム・ノグチの時を超えた結び付きの中に熊楠を入れ込んでみたら、一点の世界地図が得られる。これにネグリ、マルクーゼ、レヴィ・ストロース、マルクス主義者、行動者のラインを交差させれば二十一世紀の希望が視えてくるのが、おぼろに解った。と言うよりも、その構図の中で生き、表現する事から逃げないようにしなくてはと考えを再び固める。

 R396
 一月十八日
 十一時四〇分新宿L社打合わせ。十二時三〇分了。十三時十五分新宿で安西氏に会う。十三時半大学、製図会議。十五時採点、十九時学科会議。二十二時了。二十三時世田谷村に戻る。

 一月十九日
 七時過起床。今朝は沢山電話をしなくてはならない。十一時了。十三時半研究室グアダラハラ打合わせ。十四時十五分西谷先生打合わせ。十五時設計製図講評会。調布駅前組、プラニング組、保存と再生組、デザイン組、アーバンデザイン組の順で二十一時過迄。意匠系、都市計画系の殆ど全教師がクリティークに参加。設計教育の大筋の流れが見えた様な気がしてホッとした。この流れで間違いない。終了後、若い先生も含めて韓国料理屋で会食。この方針で五年程続ければ早稲田学生の設計力は一頭他を抜くのは眼に見えてきた。次は世界だ。

 一月二〇日 日曜日
 京王線最終電車で一時過世田谷村に戻る。

 八時前起床。今日も寒い朝だ。久し振りに畑に出る。九時半迄野良仕事。指先が凍える。十二時半迄ドローイング。午後は休み。夕方よりWORK二〇時前中断する。

 夜、「芸術とマルチチュード」トニ・ネグリ読みながら、眠りに落ちる。夢も見ずに眠った。ネグリはイタリアのアウトノミア運動への関心を持っていたので面白く読めた。

 一月二十一日 月曜日
 七時過起床。昨日描いた十点程のドローイングを見直す。八〇二計画つまり沖縄宮古島での計画、及び八〇六の世田谷美術館での個展、及びカタログ製作への筋道、連関にようやく光が視えてきたのを感じる。

 今、現在進行中の十二のプロジェクトと十二の物語りを会場に絵巻物として展開するのを試みようとしているのだが、その方法がカタログの形式の側から視えてきたのだ。つまり少し意識化できてきた。カタログというメディアの形式が決まってくると、全体が、すなわち、これからの全仕事の展開への筋道までもが視えてくるように思えるのは、これはどういう事なのか、実に興味深い。

 早速、記録し展覧会カタログのスタイル、流れを進めてみる。同時に、今年の仕事の枠組みと流れにも筋道を与えてみよう。沖縄宮古島の計画が重要な入口になるのは間違いようがない。

 山口勝弘先生との仕事にも、同時に太い筋道を作る事ができた。メディア - 文学 - 建築の関係が少し計りクリアーになってきたのだ。九時半迄記録を続ける。十時半朝食をとって世田谷村を発つ。

 R395
 一月十七日
 十時半研究室S社の方々と打合わせ。十一時半アベルと八〇四計画の打合わせ。研究室の面々と八〇三計画他打合わせ。十二時半渡辺君と博士論文打合わせ。十三時五〇分人事小委。十四時教室会議。十六時研究室雑用。十七時半製図準備室。三年設計製図のチェック。パワーポイントによるプレゼンテーションを6組見て、アドバイスを少々。6組のチームに力量の差が歴然と現われ始めているが、二十二日迄にスタンダードは確保できるだろう。チーム設計を介しながら、個々人の才質も同時に見る事ができるのを確信できた。最後に発表の順番、及び調布会場での早稲田スペースのレイアウトを会場模型を見ながら、学生達と打合わせ。二十一時前了。

 様々な作業を通して学生達が設計の面白さを実感してくれるのを期待したい。その後、研究室で世田谷美術館への出展物、ロビンソン・クルーソーの家の想像モデル、山口勝弘の「砂時計とミイラ」のモデルをチェックした。今日は、遂に昼夕飯共に取る時間が無く、ヘロヘロ状態となったが、目一杯な一日であった。二十三時世田谷村に戻り、一人夜食。これが一番体には悪いのだが、仕方ない。

 向風学校の面々から引継いでいた、プロレスラー西村修氏レクチャーのテープおこしがようやく完成して、帰りの電車で通読する。大変面白い。癌と闘う、というよりも共に生きようとするプロレスラーの思想、これは歴然として思想と呼べるが実に生々しく記録されている。キチンと向風学校の小冊子としてまとめ、皆さんに読んでいただきたい。近日中に向風学校より発売するので期待されたい。これはネットには流しません。有料で買っていただく。

 一月十八日
 〇時過メモを記し終り、向風学校の講義録に目を再び通し、赤を入れる。二時五〇分校正とり敢えず了。やり始めたら、西村修の話しが面白くて夢中になってしまい、時間の経つのを忘れてしまった。要するに三時間程で読める小冊子にはなるという事だ。コレの値段は高くするぞ。何しろ癌と、死と対面し闘っているプロレスラーの話しなんて、世界で唯一の話しなんだから。イヤー、面白かった。しかし、テープおこしの原稿は真赤になる程に手を入れなくてはならなかった。テープおこしをしてくれた青年達は国語力が欠如してるぜ。西村修流に言えば、貧しい国語、つまり日本語力不足病を食事療法で治療すべきだろうな。三時休む。

 九時前起床。十時半迄スケッチ他。十時五〇分発新宿T社へ。

 R394
 一月十六日
 十時半研究室。グアダラハラ計画小打合わせ。十一時N設計来室。八〇五計画打合わせ。十二時前了。研究室発渋谷経由たまプラーザ駅世田谷美術館N氏等と待ち合わせ。十四時山口勝弘氏と打合わせ。世田谷美術館での山口勝弘氏とのコラボレーションの可能性を探る。

 日本のメディアアートの草分けにして第一人者である山口勝弘氏と、具体的な計画について話し合うのはリアルな学習にもなり、一分一秒が身に付く感がある。

 NYのMoMAより依頼の幻庵出展モデルの修復作業が気になるが、グローバル・スタンダード美学の中心の一つであるNY・MoMAに手作りのモデルを出してやろうという方針は決めて、決して変えない。NYに従うつもりは、全くない。

 私が美術館のマネージメントを任されたら、マア、そんな可能性は十分の三位しかないけれど、何しろ、売れないアートを先ず売る算段を、グローバルなスケールでやるんだけれどなあ。面白い仕事だろうに。

 山口先生と打合わせの後、世田谷美術館スタッフと打合わせ。雑用後世田谷村に戻る。

 一月十七日
 八時半起床。安西君より八〇五の件で連絡あり。先日は短気をおこしてトンチンカンな怒り方をした。年を取ってもまだまだ未熟なのはコッチの方だな。九時半世田谷村を発つ。

 昨日、六月二十八日より開催される世田谷美術館展のタイトルが決まった。

 「建築が見る夢 - 石山修武と十二の物語」

 良いタイトルだ、タイトル負けしないように力を入れたい。

 R393
 一月十五日
 八時過起床。展覧会企画書、メールに目を通し、朝食ホットケーキと卵をくわえて九時半発。用心しないと浮き足立つ日々になり兼ねぬのを実感。道端のゆずの実やつばきの花の紅が眼の端をかすめるだけだ。

 十時半研究室。世田谷N氏等と打合わせ。次第に詳細をつめ始める段階に辿り着く。十三時半迄。修了後、雑用。十四時半二年製図講評会。これは基本的なシステムを変えなければならないのを実感。TAを含めて教える側の問題が大きい。途中で抜けて研究室へ。

 十七時K社N氏と世田谷美術館N氏と打合わせ。個展カタログの件。美術館のカタログ作りに少しでも画期的試みが実現できれば嬉しい。幾つかの連絡の後、N氏と新大久保近江屋へ。雑打合わせ。二十一時半迄。

 幾つかのProjectsの進行がリアルなプログラムを持ち始めて、遊びの時間、つまり逃げの時間帯が狭少になり始めてきた。予測していた通りの事態になりそうで、気持の切り替えをリアルに敢行しなければならない。二十二時半世田谷村。

 一月十六日
 六時起床。昨日到着した井上雅靖氏の「牙青聯話」を読み、礼状をしたためる。時々、酒場やパーティでお目にかかっていた人だが、これ程までの教養人であるとは、失礼ながら思いもかけなかった。いささか仰天する。良い意味での大正時代の教養、つまり第二次世界大戦以前の風があるような気がする。書籍工房早山発行、図書新聞発売千八百円である。ウーム教養とはかくなる品格を呼ぶのかを知りたい人は読んだ方が良い。井上雅靖氏は昭和二〇年生まれ、大正生まれではないので念のため。

 R392
 一月十二日
 十四時四〇分研究室。十五時大隈講堂、尾島俊雄教授最終講義。これから、更にこういうことをやるぞ、の講義であった。まことに尾島先生らしい。大隈講堂は超満員であった。十七時四十五分より、リーガロイヤル早稲田で尾島先生出版記念、退官記念パーティ。これも超満員で、コート他を預けるのに長蛇の列の有様であった。会場で多くの先輩諸氏にごあいさつ。沢山の人から今朝TVに出てたなと言われて驚いた。確かに今朝NTVの「ぶらり途中下車の旅」にチョロッと出ていたのだが、TVの動員力はどうも想像以上のものがある。烏山の駅でも見知らぬオバさんから「アンタ、今日TVで見たよ」なんてイキナリ声を掛けられたりもあった。

 尾島俊雄先生のパーティもそれ位の桁外れの動員力、すなわちきわめて現代的な力を表現するものであった。先生が退官され、自然に、と言うか自動的に私が教室の最年長者となってしまう。マ、仕方ないか、私は私なりにやるしかない。ともあれ、先生は早稲田建築に歴然とした尾島時代を築かれた。心からの御礼を申し上げる。

 会場には鈴木博之先生の顔もあったが、話しもできず。尾島先生にごあいさつ申し上げて十八時半会場を去る。

 十九時新宿南口でW社長と会う。サンクトペテルブルグの件。先程、尾島先生のパーティ会場で幾たりかの稲門首脳、大先輩にお目にかかり、いささかの下準備は仕込んだので、次の段階に入る。A君を同席させたかったが、残念ながら不発。仕方ない。二十一時迄。二十二時過世田谷村へ戻る。

 一月十三日 日曜日
 早朝、昨夜いささか飲んだのがたたり、二日酔いの苦しみを味わう。久し振りの事だな。ボーッとした状態であったが、雄大が油壺へ行くというので、車に同乗、月光ハウスへ。十時月光ハウスN宅に着く、N氏にお目にかかる。

 N氏には雄大が長い間大変お世話になった。まさに親代わりのようなものであった。その事への御礼と、N氏の宮古島プロジェクトに関しての話をうかがう目的もあった。N氏は早大学院の私の大先輩でもある。私が学院生の頃、学院には一つの神話状の話しがあった。院の修学旅行で一人の学生が、飲む、打つ、買うの目覚ましい壮挙を成し、学校は茫然自失、以降しばらく修学旅行は中止となった。その、一人の学生というのがN氏なのである。

 現代には稀な快男児である。日本の外洋ヨット界の草分け的存在でもあり、石原裕次郎のヨット友達であり、湘南族のはしりと言うより、本格派であった。マア、そんな事はさて置いて、そのN氏が近い将来宮古島へ移住する考えを持っており、そういう人物であるから、宮古島にはヨットで知り合いも多く、彼等から小島を一つ預かる事になったと言う。その島で老後自給自足の生活をすると言う。その為に島一つと一つの家らしきの設計をせよとの事である。

 雄大の親代わりへの御礼もある、学院先輩への仁義もある。勿論、私の考えとピッタシカンカンの計画でもある。N氏に島の話し、その他諸々を聞きながらビールを傾ける。二日酔いも何処かに消えてゆく。十六時迄。三崎迄送ってもらい、電車で帰った。十八時過世田谷村着。すぐ眠りにつく。

 一月十四日 月曜日 成人の日休日
 八時迄眠り続けた。十三時間以上眠った事になる。二日分眠ったな。昨日は面白かった。九時過二日分のメモを記しおえる。今日は宮古島の計画に着手する。N氏より二枚の写真をお借りして来たので、もうイメージできる。それに、この計画は実に面白い可能性を持っている。途方もない事は、やっぱり途方も無い人物の夢から生まれるものだ。スケッチ二点。

 十二時過世田谷村発。コリーナと共に浅草へ。アサヒビール、雷門、仲見世、浅草寺から合羽橋へ。合羽橋のフードサンプルは完全に観光客用のモノとなり、高価でコリーナ手が出ず、上野へ。法隆寺宝物館を見て、子供博物館にまわり、鴬谷まで歩く。十七時過山手線で新大久保へ向かっている。

 若い外国人がどんなモノに関心があるのかと、娘について来たのだが、全く不明のまんま。東京に地下鉄路線図とか、自販機で暖かい飲み物が出てくるのが驚きだそうだ。明後日にタヒチ経由でNYに発つのだが、随分物静かな女性であった。

 十八時前新大久保コーリア料理屋で夕食。終了後、次女がエポペに行こうと言い出して、新大久保百玄宮訪問の後新宿迄歩く。アナーキーなエリアを久し振りに歩き新宿ゴールデン街近くのエポペへ辿り着いたが、残念ながら休店していた。
 エポペはネラン神父の時代に訪ねて、鈴木博之氏の手引きがあり、ネラン神父が直接バーテンダーとして酒場に立つエポぺ II を設計したりした。その後、エポペ主催のツアーでカルカッタにマザーテレサを訪ね、重度の病の方々への奉仕活動に参加したりもした。マザーテレサにお目にかかれたのは、大変な体験でもあった。次女も長男もカルカッタ迄出掛けて、幼少の頃大変な目に会ったのだが、それを忘れずに二人でエポペに出掛けていたようで、それを私は知らなかった。
 そんなわけで、今日は次女にエポペに連れてゆかれたのだけれど、誰も居なくて、ある意味では良かった。

 ネラン神父も、マザーテレサも姿はない今、何かが前向きに出来ようとは思えないし、出来るとしたら次世代に任せなければならないのだ。

 二十一時世田谷村に戻る。サンクトペテルブルグのイフェイから電話がガンガンかかっていて、対応する。イヤー、風雲急を告げ始めているよ。

 R391
 一月十一日
 十三時半安西氏と別れ研究室へ。雑用。冷静に現実を見据えれば、かなり狂気じみた忙しさの中に突入している。こんな時は自分を見失いがちになるから用心しなくては。つまり、意識して無駄な時間を作らなくちゃならない。

 十五時製図準備室。先生方と新年のあいさつ他雑談の後、三年生の設計製図を見る。二十二日だったかな、調布市で東大との合同展示会が開催され、二十七日には市民、学生全般に公開の講評会が持たれるので、その準備も兼ねる。

 我ながら早大建築への危機感があって、今年の三年生の第三課題以降は力を尽くした。学生達の何がしかも良くそれに反応していると感じている。経験を積んできたので学生達個々が何を考え、感じているかは大体解る。設計と比べれば、それは比較的容易なのだが、仲々育て方が難しい。
 大方の学生は年を取る毎に勉強をしなくなる。九十九%の学生はやがて社会に出て、企業研修等を受けると半年でアッという間に学生の時にほんのり考えていた様な事を何処かに素早く仕舞い込んで、無表情な歯車の一つと化す。
 本当はね、アッという間にそうならぬ為の設計教育、大学教育の筈なのだが。
 出来る事ならば、いつまでも夢を見続ける、強くてクールで、タフな夢を見続ける人間を一人でも良いから育てたいものだ。

 と、チョッと真剣に考えているのだが、本当に早稲田の学生の旬はアッという間に過ぎ去ってゆくからな。要するに一番大事なのは、気持なんだな。気持の中枢を強くしないとどうしようも無いのだ。
 学生の時から勤め人みたいな顔しているのが多いのが気になって仕方ない。馬鹿のまんまではブタにも劣るが、永遠の学生であって欲しいね。学び続けろと言いたい。

 学生達はそれぞれに、それなりにやっていたが、この課題を介してのびそうな人間と停滞しそうな人間とが歴然としてきているのを感じる。設計教育は恐いよ。ともあれ、全国の学生諸君は一月二十七日の調布の早大、東大の合同講評会は勉強になるから是非共参集されたい
 十九時半迄学生達と。その後研究室でM1の仕事を見る。

 世田谷美術館での個展の会場設計を兼ねて考えさせているのだが、仲々面白いものが出てきていて良い。この事に関しては準備録に記す。二十時半近江屋で一服して世田谷村に戻る。

 一月十二日 土曜日
 六時半起床。昨日の記録をメモする。七時一〇分迄。毎日、日記を記している時間も馬鹿にならぬが、こうなってくるともう記しながら考えるようにもなっているから、完全に形式になり始めているな。八時半世田谷美術館苔事件書きおえる。

 R390
 一月十日
 上海からの飛行機が遅れて、イフェイ五時前研究室に到着。話しを聞く。まだ良く全体が不明。十七時過発。十八時磯崎アトリエ。打合わせ。十九時半迄。
 その後少しばかり磯崎氏のレクチャーを受ける。いつもながら的確な状況判断で、舌を巻く感あり。二〇時前辞す。二十一時世田谷村に戻る。イフェイと議論。K夫妻来て、小宴となり、私は先に失礼して眠る。

 一月十一日
 五時半起床、イフェイから持ち込まれた話を熟考、一応の打開策を建ててみた。六時半、昨夜は世田谷村泊りとなったイフェイと打合わせ。マア、仕方ない力になってあげようと決めた。九時迄状況の詳細をヒヤリング。九時過、イフェイ成田空港へ。

   十時過迄、イフェイのプロジェクトに関してプログラムを考える。イフェイは月曜日にサンクトペテルブルグに戻るようだ。中国人はロシアに行っても直截に動くのだな。全く、我々の行動様式とは異なり、アングリとするが、こういう民族が生き残るのだろうな。

 十二時安西氏と会う。

 R389
 一月九日
 十三時渋谷待合わせ。十四時たまプラーザ、山口勝弘氏訪問。途中車中で渡辺君と打合わせ。山口先生はお元気であった。ペインティングというかドローイングを一点いただく。山口先生と一時間半程話す。本物のアーティストと話すのは楽しく、同時に厳しい。世田谷美術館の展示について、山口勝弘先生との一部協同のアイデアを話したが、つまるところ二週間後に世田美N氏と話し合う事になる。

 十五時半、宮脇愛子さんともお別れして多摩を辞す。
 十六時半渋谷、十七時前タイ料理屋で渡辺君と打合わせ。その後、様々な電話連絡。イフェイが急拠上海より東京へという事で、アレンジを少し計り。二〇時世田谷村に戻る。

 明日はイフェイが来日するので急転直下混乱の一日になるのかな。

 一月十日
 七時起床。昨日の山口勝弘氏との打合わせで話が出たのは『砂時計とミイラ』の先生の夢へ、私が降下してゆく『他者の夢へ』という筋道も12の夢の種の中に折り込むのもいいのではないか、という事であたような気がする。先生との話しは、話しそのものが現実と夢の狭間をくぐり抜けている風があって、まだ俗界に足をドップリとひたしている自分には、言い様のない重みがあるのだ。

 先生の最新の作業が大判のスケッチブックに記されてあったのでカメラに記録する。本物の芸術家の魂の鼓動が伝わってくるのを覚えた。

 八時半迄畑仕事と一階の片付け。一時間程動いただけで息が切れてしまう。世田谷美術館大入準備録書く。畑の後には良い作業だ。十時前了。山口勝弘ヴァーチャル説について。
 広島より連絡あり、どうやらペーパーは間に合いそうだ。良く粘ったなあ。

 一月八日より、広島市ギャラリーGで「ひろしまハウス IN カンボジア」展が開催されている。二川幸夫の写真他が展示されているので、立ち寄られたい。

 R388
 一月八日
 十三時迄電話狂騒曲アワー。修了後研究室へ向う。晴れているのに畑をいじれなかった。昨夜は市場に出廻っている三冊程の苔本を全て読んだが得るモノはほとんど無かった。女性の下着を苔模様風にしてMOSSカルチャーとは、せせら笑うしかない。コレではただの変態だ。古代神話の天の岩戸と比較すべくもないではないか。
 メディアは知性を砂の如くに枯渇させているな。メディアそのものに苔を植えつけねばならんのじゃないだろうか。

 十四時前研究室。打合わせ。院生、M1と。十四時半二年設計製図採点及び打合わせ。かくの如きモノを見てとやかく言うべき事は何もない、という様な事を述べた。二年生の頃は体力と気力をきたえるだけで良いのだ。

 十六時半研究室打合わせ世田谷美術館の件。十七時発五反田へ。十八時五反田T社へ。T社長と打合わせ。鬼沼の件、苔アートの件。少しの成果を得る。アジアの工芸品フロアーで苔アートのマテリアルを探索したりの時も得て二〇時了。途中I氏より連絡入る。二十一時半迄、近くの秋田料理屋で会食。T社長の桁外れの実力をまざまざとうかがい知る事が出来た。

 今年の夏からT社長は週の内三日を鬼沼で過ごし始める生活を始めると言う。農業と林業とエネルギーを新ビジネスとして会社でスタートさせると考えているようで、社長は評論家の考えを方とは違い、先ず実行して、あるいは考えと同時に実行するという美質の所有者であるから、可能性がある。ただ社員の理解を得るのには時間がかかるだろう。いつの時代でも先行者の、コレワ悲哀である。二十二時半世田谷村に戻る。

 一月九日 水曜日
 七時起床。昨夜はサンクトペテルブルグから上海に一時戻っているイフェイから持ち込まれたプロジェクトの件で、より正確な情報を得る努力をいささかしたが、まだ全体が不明瞭である。もう少し情報を得てから動いてみる。

 今朝は曇天であるが、昨日畑仕事が出来なかったので寒いけれども外に出てみるつもり。一階のゴミの片付けにも少づつ着手したい。昨夜のT社長の話にいささか刺激されてしまったな。渡辺君の作ったプログラムに眼を通す。

 午前中は再び電話狂騒曲アワー。サンクト、バルパライソ等の件。その合間に小一時間畑仕事、及び一階の片付けを始めた。十二時前迄。十二時二〇分発。

 R387
 一月七日
 十一時研究室。ミーティング。十三時過博士課程学生相談。十四時修士論文打合わせ。十六時半迄サイトWORK。正月一週間程動かしていなかったので建て直す。十七時半修了。十八時近江屋で一服し、二〇時世田谷村。次女と打ち合わせ、夕食後二十一時過、苔の本を読みつつ眠る態勢に入る。

 一月八日
 四時起床。M計画のプランを作り始める。広島のプロジェクトが広島サイドの努力にもかかわらず袋小路に入ってしまったので、東京サイドで最後の努力をと想い打開策を打つのを今朝するつもりでその準備もする。今の社会情勢では簡単に物事は動かない。ほとんど全てが金の世界になってしまった。世田谷美術館の展覧会にも「金の見る夢」というコーナーを設けなければならないな、本当に。五時前、一段落したので再び横になろうとする。まだ夜は明けず真っ暗だよ世間様は。九時過再起床。十一時過迄雑用、電話連絡等。セルフビルド稿序、最終チェック了。

 R386
 一月五日
 十三時半過ポストにどさりと各種通信を投げ込み研究室へ。何人かが出ていてモソモソやっていた。広島と連絡、そうすんなりとはいかないな。十七時研究室発。クンメーで新年会十九時半迄。世田谷村に戻る。広島よりの連絡を待つもナシ、二十四時休む。

 一月六日 日曜日
 七時起床。新聞を読み、畑仕事。デッカイ石やコンクリートの基礎等を掘り起す。ここは昔、家の離れが建っていた場所で、解体に際して、そういう類のゴミを土中に埋め戻していた処なので、土を掘り返すのも生半可じゃない。寒い中一汗をかき、首と腰が痛くなりあわてて休む。十時半迄。もっと軽くやりたいのだが、石にツルやクワがガチリと当たると、コン畜生という感じになってしまうのだ。ただ、今土を掘り返して空気に当てておくと土の改良には良いらしい。

 午後、連絡あり広島は苦戦しているようだ。キレイなプロジェクトがそうすんなりと進むわけがないのは承知しているが、仲々商売人達はしたたかだからね。午後は借りてきた「街道をゆく 二 韓のくに紀行」司馬遼太郎・朝日新聞社読む。流石司馬遼太郎の旅と我々の韓国の旅とは月とスッポンだナアと痛感する。

 しかし、司馬遼太郎が随所で述べようとしている、日韓の歴史的交流の事実を知るに、渡辺豊和氏の秦氏外来工匠説(ゾロアスターはともかく)もあながち暴論ではないと思い始める。渡辺が言うのと、司馬が言うのとでは説得力が違うのではない。ただただコチラが俗人なだけなのだ。渡辺はいい線いってるのかも知れんな。しかし、何に触れるにせよ、歴史を体験するにせよ、何の知識もなく見るのと、充分な知識を得て見るのとでは視えてくる世界が全く別次元になってしまうのを知るのは辛い。

 夕方、読了後、再び外に出て西の壁の下に瓦のスソをつける作業を少しばかり。マア思い付きに過ぎぬ作業だが、本ばかり読んでいると頭が痛くなるから。ホンのチョットでも作る作業をしていると、これも又、旅行と同じ意味合いがあるのに気付く。作るのは、畢竟好奇心の身近な発露に過ぎない。本を読んだり、旅をするのと同じ世界だ。十八時前作業を止めてフロに入る。セーターに枯草がいっぱいついてしまって取れない。

 誰かと話している時にフッと良い考えが生まれたりする事が多かったような気がして、最近の如くに一人で居る時に、一人で考え抜くのが弱い現実に立たされている。チョッと辛いが、これは正面から立ち向かわないといけないのも知っている。年令なりの知恵だろう。しかし、瞬発力に陰りが出てきたらどうにもならないのだろうな。

 一月七日 月曜日
 七時過起床。三階の南テラス。自作のテラスのヘイに残飯を置いていたが、しばらく鳥は来なかった。ようやく気が付いた様で、先ずハトがやってきて、それから雀達がやってきた。飯をついばんでいる。三、四日気がつくのに時間がかかったな。カンボジアのひろしまハウスに鳥がとまれるようにレンガを幾つも突き出しておいたのに、実際鳥たちがとまっているのを見た時は人知れずヤッタネと思ったものだが、世田谷村もその状態に近付いている。

 猫を飼うようになって、二階のエサ台は危くなった。猫が鳥を襲うからだ。それでしばらく鳥の姿を身近に見る事はなかった。ようやく、鳥が帰ってきた感がある。韓国の河回村で久し振りに野放しのチャボを見たが、近くの家でもニワトリを沢山野放しにしている家があるのを知っている。木に登って眠っているようだが、猫には狙われるのだろうな。一階に早くニワトリ小屋を作りたいのだが、まだ家族の同意が得られない。

 昨日描いたドローイングを眺めると少々白々とせざるを得ないが、これはこれでやり続けたい。今日から研究室ではメキシコのプロジェクトを本格的に始動させる。

2007 年12月の世田谷村日記

世田谷村日記
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