石山修武 世田谷村日記

12月の世田谷村日記
 R366
 十一月三〇日
 昨日は午後研究室で打合わせ。グアダラハラ、鬼沼、広島他。今朝も曇天で暗い。山口勝弘先生よりの手紙に返信を書く。手紙を書きながら、こちらの考えも整理できて脳内が掃除される感あり。山口勝弘先生の「砂時計とミイラ」計画と鬼沼の計画がどこかでクロスする予感が育ちつつある。
 「砂時計とミイラ」計画はフレデリック・キースラー研究家としての山口勝弘の、芸術家としての「本の神殿」計画であろうか。「本の神殿」はチベットの死者の書と並び称される死海の書、すなわちユダヤ教の聖典を納めるまさに本の神殿であった。
 「宇宙とは本来ヴァーチャル、一種の仮想上の存在ではないのか?」
 と言う山口が死者の世界さえも宇宙と同様なのだとの直観から辿り着いた計画が「砂時計とミイラ」なのである。

 つまり、結論から言えば、山口勝弘が山口勝弘のミイラをいかにして作るかの計画である。勿論、先生は今でも充分過ぎる位にお元気であるから、これは芸術作品としてのミイラである事は御承知おきたい。湯殿山の即身成仏ミイラではありませんから念のため。

   時々、早とちりする人がいるから、情報バカ社会では用心しなくてはならんのです。
 山口勝弘くらいの大芸術家、アヴァンギャルドになるとですね、そう思わせて楽しむユーモアは当然獲得してもいるから。御安心を。悟達するのは大宗教家ばかりではない。時には芸術家だってそうなるのを山口勝弘は良く示しているんです。

   そんなワケで意味深に、もって廻った思わせ振りに、「砂時計とミイラ」計画に、なんとか参加できぬかとの依頼状をしたためたわけである。

 書信をしたためている内に別のアイデアも湧き研究室へ送信する事とし、今、その通信を書いている。十一時になってしまった。時間は本当にアッという程の速さで通り過ぎてゆく。まさに砂時計の砂の一粒一粒程の軽さだな。

 十一時過一連の作業とり敢えず修了。研究室に通信する。

 R365
 十一月二十八日
 十六時過製図準備室。河野君とあいさつ。十七時半加藤先生と打合わせ。ここ一ヶ月の段取りをすませる。十八時製図ミーティング。指導側の意向と大まかな方針らしきを伝え、あとは学生達の自主性に任せる事とする。二〇時迄。近江屋で一服し二十二時半世田谷村に戻る。日月火と精一杯に動いたので流石、今日は疲れた。

 十一月二十九日
 六時起床。七時半再び横になって休む。九時再起床。朝食おにぎり、スープ他。曇天で暗い朝だ。今日はここ数日研究室に顔を出せなかったので色々と片付けなければならない。

 仔猫の白足袋が電話の隣の書類カゴに丸くなって眠りこけている。ベロを出して完全な無防備状態だ。ホントうらやましいね。世田谷村の冬は寒いが、広さだけはあるので一日中駆け廻っては疲れて眠り、飯を食べるだけの生活なんだが、猫には猫の辛さもあるのかねと思ったりもする。余計なお世話であろう。

 宮崎の藤野さんより大入り絵馬のシリーズが届き、最近は私の方からの送附が途絶えていると叱られる。作り続けてはいるのだが、皆送り出してしまっては手許に何も残らないと感じているのが本当のところで、お許しいただきたい。送り出しても、送り出しても、まだ充分に身の廻りも豊かである位の力量がまだ無いというのが実情でもある。でも、心配かけるのも辛いから、手許に残したモノを幾つか送り出すことにしたい。ケチなのかな自分は。

 芦花郵便局に寄って、送り出し、研究室へ。

 R364
 十一月二十七日
 十一時パネルディスカッション。十二時半全て修了。十二時四十五分京都駅。十三時十二分ののぞみで広島へ向かう。車内でウトウトしながら、アレコレおぼろに考える。いつの間にやら眠り込み、目覚めたら駅舎に停まっている。イケネェ博多迄乗り過ごしたかと、飛び起きたら岡山駅であった。新幹線の駅は皆同じで、度々ギクリとさせられる。昔、広島だと思い込んで岡山で降りてしまい、TAXIに乗る迄気が附かなかった事もある。

 十五時前広島到着。プラットフォームでT、K、木本三氏が出迎えてくれる。いささか面映ゆい。すぐに車でプロジェクトの現場へ。原爆ドーム隣の原爆投下爆心地の地点へ。サイトのスケッチ二点。ここは広島の核だなと痛感。

 サイトを巡回した後、広島商工会議所ビルへ。前市長平岡敬氏と会う。八〇才になんなんとする平岡氏はお元気であった。

 十八時過広島駅構内の、カキ専門のお好み焼き屋へ。新しい人を交じえ談論風発。楽しかった。新しいプロジェクトには力を尽くそうと思う。改札口迄皆さんに送っていただき、十九時三十三分のぞみ乗車、東京へ向う。沢山、書類やら、カキお好み焼きやらを持たされて、幸せなつらさを味わう。
 只今二〇時、岡山へ走るのぞみ車中である。

 二十一時新大阪。二十三時半前品川駅下車、二十四時半前世田谷村に戻る。

 十一月二十八日
 八時前起床。振り返ればあわただしい二日間であったが、広島迄足をのばして良かった。サッカー全日本監督のオシム氏はどうやら早期復帰は困難そうだ。氏の故郷サラエボへの望郷の念いかばかりであろうか。礼を尽して老将を故郷に送り届けるのが筋であろう。

 R363
 十一月二十六日
 十時〇三分東京発のぞみで京都に向けて走っている。車中で今日使用するパワーポイントのデータをチェック。ワイマール、ひろしまハウス・プノンペン、幻庵、鳴子早稲田桟敷湯、そして最後に鬼沼計画の順序でプログラムしたのだが、何しろ、テーマがホスピタリティなので、上手くゆくかどうか。
 二日間のプログラムを良く読んだら、今日、明日で三コマを持たされていて、主催者は仲々ハードなホスピタリティの持主である事が知れる。

 これではチョッと東寺の講堂を見に行ったり、夜、百万遍の梁山泊を訪ねたりは、とても出来そうにないな。

 十二時半前京都駅。指示された通り駅前八条口MKタクシー乗場より会場へ。会場のハイアットリージェンシー京都は三十三間堂の隣り、ハイアット・イメージとは異なる小振りの、つつましやかなホテルである。エントランスホールでY氏、事務局長とあいさつ。控室に荷物を置いて、地下の和食レストラン東山でランチ。この味はチョッとハイアット風であった。ランチだから仕方ない。十三時半ロビーで休み、十四時の開会を待つ。駅もここも大変な客でにぎわっている。タクシーの運転手さんによれば、今年は紅葉が凄く遅れていて、十一月中旬になってようやく色づいたんだそうだ。地球温暖化の影響は京都の観光シーズンまでも狂わせているんだ。

 十四時シンポジウム、パネルディスカッション形式の会議始まる。大きな会場で空席が目立つ。日本ホスピタリティビジネス会議、組織化未完成を知る。これからの組織なんだな。メインパネラーのザ・ウィンザーホテルズインターナショナル社長の話から始まる。経済界の実際家と山本哲士的理論が折り合うのかなあ。

 プログラムはどんどん進行して、何と二十一時迄休み無しに続いた。恐るべき会議である。今日で八本のユニットが組み込まれていた。私のユニットは東大の内田隆三氏が的確なコメントを供してくれた。しかし、夜の二十一時迄の会議は少なからず異常であり、観客は疲れたであろう。主催者側のホスピタリティ欠如の感は否めないねコレワ。私もホトホト疲れた。

 二十一時半よりディナー。ビール一杯のうまかった事よ。
 テーブルの端で西部劇の話題で盛り上がった。山本氏は場所の話よりも西部劇の話の方がはるかに面白いのであった。サム・ペキンパーのワイルド・バンチが西部劇の最高峰というのは、俗論ではあるが、映画は良く細部を見ていて仲々の卓見を述べられていた。二十三時過ディナー了。部屋に戻り、メモを記す。二十四時前横になる。長い一日だった。

 十一月二十七日
 六時起床。昨日入手した資料に眼を通す。今朝の会議の準備を少々。七時修了。風呂に入り、休み。八時半地下ガーデン東山にて朝食。九時十五分部屋で雑用。台北のCYにTELするもつかまらず。広島とも連絡つかず。九時半、早過ぎるが会場へ。The RITZ CARLTON 総支配人マーク・ノイコム氏にあいさつ。十時会議開始。今日は昼過ぎに、ここを抜けて広島に行く予定。今朝、ホテルの庭の紅葉をスケッチできたのが良かった。

 R362
 十一月二十四日
 十四時半研究室。月曜日の講演のプログラムを作る。
 十五時I君にデータ作りを依頼。これは簡単なようで仲々、厄介なのだ。十五時半製図準備室加藤先生と打合わせ。十七時半迄。研究室に戻り、データチェック。修正を指示。十九時前新大久保で夕食。二〇時半世田谷村に戻る。二十一時たけしの「点と線」を視る。TVドラマとしてはキチンと金をかけてやっている。松本清張の時代をよく描き出している。

 十一月二十五日 日曜日
 六時起床。 世田谷美術館大入り推進録八枚書く。七時半了。朝食おにぎり二ヶと野菜。十時過発つ。明るい陽差しの良い日曜日だ。
 十一時たまプラーザ、山口勝弘の部屋着。先生は元気であった。打合わせを少し、アトは先生の新しいアイディアを聞く。
 世田谷美術館の私の展覧会にはプラネタリウムと宇宙人ロボット。私の宇宙服ハウス、そして鬼沼のオフィス棟のデッカいモデルを第一に置く事をあら方決めようかと思う。山口先生より油絵の小品を二点いただく。私も先生の肖像画を一点描く。又、宮脇愛子さんも同席されたので愛子さん像も一点描く。これは取り上げられてしまった。山口氏肖像画は手許に持ち帰った。世田美が終ったら勿論差し上げるつもりだ。

 山口先生の話は今日も非常に刺激的で触発された。その内容は世田美大入り計画記に附す。
 世田谷村、たまプラーザの行き帰りで十八点のアイディアスケッチを得た。世田谷村に十三時半に戻り、すぐ大判のドローイング制作に取りかかり、五点を得た。やっぱり山口勝弘は凄いや。

 十四時半、少し疲れて小休する。集中し過ぎた。
 山口勝弘より頂いた一片のコピー。吉沢早春氏の「砂時計」の詩片と対面する。
 世田谷美術館カタログ「パラオ ふたつの人生・鬼才中島敦と日本のゴーギャン土方久功展」読み且つ楽しむ。世田谷美術館は不思議な展覧会を企てるな。

 十一月二十六日
 七時半起床。昨夜はTVドラマ、松本清張の「点と線」を見る。TVドラマだってやる気になれば、この位の事が出来るんだと痛感した。役者達も良い演技をしていた。たけしは役者として仲々だな。存在感があった。

 今日は午後から京都で「国際ホスピタリティ京都会議」に出席のため、出掛ける。山本哲士さんに会うのも久し振りだ。九時半新宿でI君よりデータを受け取り、東京駅へ。

 R361
 十一月二十三日
 七時前起床。ヨーグルトの朝食。七時半世田谷村発。八時半東京駅。集合場所の改札口を私が間違えて十五分ロス。総勢七名で出発。T社長、T社鈴木君、石山研五名。那須よりレンタカーで猪苗代湖鬼沼へ。

 T社長が今日は、デカ盛りラーメンとデカ盛り定食屋へ行こう、と叫び出す。鬼沼の現場へはいつも途中のソバ屋のソバの昼食が楽しみなので、美味なソバ屋を脇目に通り過ぎ、旧宿場町の○○○食堂へ。私は普通のネギラーメン。若い人は大盛のラーメン。社長はカレーライス、等となる。ドーンと出てきた擂り鉢大盛の姿が凄かったが、それにも増して失敗だったのは、フツウネギラーメンの器の大きさであった。
 猪苗代湖程もあろうかという汁面を静かにたたえ、ネギやらモヤシやらが島々の如くに浮いている。

 ほとんど日本語が解らないドイツのヒニックは驚きを必死で隠しながら、それでもエレガントに大盛り擂り鉢に顔を突込んでツルツルやっていた。一種の拷問、あるいは通過儀礼の如くだと考えたのではないか。

 私は途中で、大人しく半分位で残したいと考えたのだが、ついついT社長が普通盛りのカレーライスは意外と量が少ないな、と言う挑発に負けて、とうとう全部やってしまった。バカな事をした。アノ○○○食堂は当分、見合わせたい。しかし、値段と量のギャップが度外れていて、気が狂いそうになる程安いのだった。そんな問題に関心のある方は一度是非立寄られたら良いだろう。

 昼過ぎ、鬼沼現場。前進基地の二つのパイプの上にスラブ用の鉄骨フレームが架けられ、現場の姿は大きく変化している。手を抜かずにやれば、イイモノになるかも知れない。パイプ内部の打合わせ。上のチムニーハウスの打合わせ、入り口ゲート打合わせ。時の谷ゲストハウス、オフィス棟と全てリアルサイトでの打合わせが続く。
 能率、効率共によい打合わせであった。

 十六時半、暗くなってきて、コルゲートパイプ内へ。囲炉裏に火をおこして小休。自家製の炭が本当に良く燃える。これなら、上のチムニーハウスも少しは暖まるだろう。T社長が私は今日はここに泊まるけどどうしますと言うが、今日は帰りますと申し上げる。昼のネギラーメンのゲップがまだ出るのだった。

 T社長等に別れを告げ一路郡山へ。十九時郡山駅。駅ビル内で夕食。いかにも駅ビル味の薄味中華であった。帰りの新幹線ではオフィス棟のスケッチを幾つか試みる。
 世田谷村に戻ったのは二十三時過で、流石にすぐに眠った。鬼沼はいい線ゆくかも知れない。

 十一月二十四日
 七時過起床。メモを記し、スケッチを少しばかり。今日は午後、大学へ出て、明後日からの京都での会議の準備をしなくてはならない。

 R360
 十一月二十二日
 六時起床。きのう山口勝弘先生から届いていた「神戸ビエンナーレ二〇〇七」山口勝弘展、夢は宇宙をかけめぐる(神戸ビエンナーレ組織委員会)を読む。先生の手紙が同封されている。先生は左手が不自由なので、右手だけで書くので、字を描くのは実は大変な労力を要する。だから、一枚一枚を熟読した。

 芭蕉は、旅に病んで夢は枯野をかけ巡る、の辞世とも思える句を残した。山口勝弘の現在はまさにその通りなのだ。「宇宙とは本来バーチャル、一種の仮想上の存在ではないか」との先生の書き込みがある。

 このお手紙をいただいて、来年の世田谷美術館での初の個展に、山口勝弘先生とコラボレーションする宇宙卵を登場させる事を決心する。
 本当は、私ごときでも本当の芸術家の恐ろしさは知っている。本当の芸術家はデザイナーとは異なる精神の深さを所有しているのも知っている。だからこそ、美術館のスペースに山口勝弘先生のスペースを作ることにはためらいがあった。喰われてしまうのは眼に視えているからだ。夢は枯野ならぬ、宇宙をかけ巡っている芸術家を、自分のスペースに抱え込んでしまったら、ボコボコに破壊されてしまうのは眼に視えているからだ。

 でも、こう迄言って下さるのを、放って置くわけにはいかないのだ。渡世上の義理でもある。

 で、結局、たまプラーザの山口勝弘先生に、世田美でのコラボレーションを申し出る事とし、手紙を差し上げる次第にあいなった。「僕はもう一種の鬼ですよ」なんておっしゃる老アヴァンギャルドと、ガップリ四つに組むのは、本当に危ない、張り倒される可能性が大だからである。
 でも、もういいや、張り倒されてみましょ、という感じにようやく到達したのである。

 世田谷準備録2書くも十時半つかれて休む。

 R359
 十一月二十一日
 七時半起床。穏やかな朝だ。十一時研究室。鬼沼プロジェクトミーティング。明後日に現場に行くので、T社長プレゼン用の素材をそろえる。十五時修論ミーティング。二名出席。一人は磯崎新のN邸に焦点を絞り論じたい旨なので、これは面白そうだ。原則的に存命中、まだまだ元気に仕事をしている人を論じるのは禁止しているのだが、切り口が良さそうなので、黙認する。

 俊乗坊重源論は遂に描き切る事が不可能かな。伊藤ていじの才走った重源小説、広瀬鎌二のノート風記録共にいまひとつなのは解っているのだけれど、自分に余りにも学識が無さ過ぎて、書き切れない。口惜しくて天を仰ぎ続けているが、才能不足で終わるか。でも、作家論はどうしても一つ残したい。

 十七時前新大久保で一人一服している。やり残している事が余りにも多過ぎて、目がくらむ程だ。十九時過世田谷村に戻る。

 R358
 十一月二〇日
 十時打合わせ。十三時前迄。昼食を近くのきしめん屋で取り、銀座へ。冷水隆治さんの個展会場訪問。美しい作品群であった。表面的な美しさと、それを美しさとして表現する内発の質がまだ少し分離している印象があった。

 十六時新大久保近江屋。昨日迄の疲れをいやす。渡辺、加藤両先生に来て頂いて、第三課題、すなわち昨日合同講評会がもたれたSUBJECTに関して、私の考えを述べる。

 一月十九日の調布市での展示会、発表会への出品に関して、早稲田建築が獲得した6枠はキチンとまとめなければならない。
 6チームは以降、このプロジェクトに従事してもらいたいと考える。上位6チームは全て考えを練り直させたい。それはそれでもう終った事。学生の自信になったことは大きいが、もう次に展開しなくてはならない。まだまだなのだという事を早大生はキモに命じろ、と言いたい。来年の一月、そして五年後、十年後が本当の勝負だ。

 R357
 十一月十九日
 六時過起床。新聞を読み、鬼沼エントランスゲートのエスキススケッチをする。何とか考えがまとまった。担当のヒネックにスケッチを送る。ヨーロッパ人の考え方とかなりの開きがあるから、キチンと説明しないといけない。まだ、枠内の装飾的要素のプロポーションがいまいちだけれど。八時了。九時前朝食。十時迄休む。

 今日は午後から東大との共通課題講評会がある。十一時四〇分世田谷村発。東大近くの増田屋ソバ店で昼食をとり、十三時東大着。鈴木、難波両先生にごあいさつ。
 十三時半対抗戦形式の講評会開始。十八時前修了。結果は早稲田の勝。眼に視える形で結果が出たので早稲田の学生にとっては大きな自信になっただろう。これを機会にグングン育ってくれと願う。

 講評会終了後、懇親会。近くの日本料理屋宮本で東大の先生方と慰労会。その後、TAXIで池袋へ、ワンインバーで飲む。しかし、今日感じたのは東大の先生方の器の大きさでもあった。東大生は恵まれているのを自覚して頑張らなくてはいけない。

 R356
 十一月十八日 日曜日
 昨日、土曜日の午後、製図室へ。十四時半より少なからぬ学生が製図室、CAD室で明日の講評会への作品を仕上げる作業にいそしんでいた。自然なことであるが、まだ頑張っている姿に接すると、一種の親愛の情が湧く。よし、それならば更に上を目指させようかと、力が入ってしまうのでした。学生達も良く頑張っている。

 この頑張りは、東大との共通課題、つまり赤裸々に言えば共同しながらも、対抗戦でもあるという枠組みが生み出しているのは歴然としている。お蔭様で早稲田の底力を引き出す事ができた。その意味で、東大建築学科教室に感謝したい。この頑張りが無いと、お互いに世界の最前線に互してゆく人材を生む底力は生み出せない。

 フラフラになって駆けつけてくる学生もいて、もういいから、体の方が大事なんだから、もう帰りなさいと言う迄になった。二〇時過迄附合う。加藤、高木、渡辺の若い先生方は、まだ製図室で居残り指導したい風があったが、もう帰ろう、アトは学生の力を信じようと、一緒に外に出た。コーリア料理屋で一服し、世田谷村に戻ったのが二十三時過であった。

 日曜日の今日は七時起床。鬼沼地図プロジェクトに再び取り組む。
 春に想を得て、そろそろ熟してきた。毎日毎日、日記を記す如くに制作が進められたら良いのになあ。まだ波があるんだなあ。昼迄WORK。昼寝をして十四時半大学製図室へ向かう。学生は今夜で仕上げ。発表のリハーサルに附合う予定。

 十五時過大学製図室へ。十六時より明日の発表会、講評会のリハーサル開始。早稲田の学生は説明能力に欠けるきらいがあるので、二十二グループの発表を全てチェックし、下手過ぎる者は何度もやり直しをさせる。何とか形になってきたところで修了。二〇時半を廻っていた。

 これで明日の対抗戦には万全を期した。まず負けはないだろうと思うのだが、相手あっての事だからな。二十一時半世田谷村に戻る。
 半月が美しい。海鮮丼とビール。明日の東大戦は楽しみである。

 R355
 十一月十六日
 十時四○分、製図第四課題説明会。東大との共通課題をやっている第三課題がまだ終っていないので、タイミングの難しい出題だった。第三課題を介して学生の大半を把握できたが、この人材の育成は本当に力を入れてやらないと。早稲田建築の今は危機であり、それは同時に転形期にもなり得る。

 十六時より、製図室で先生方と学生の発表を聞く。学生達は疲れ切っていて、良い状態ではなかったが、二十一時迄。少し製図準備室で休んで帰る。準備室の蔡さんのいれていくれる中国茶は本当にうまい。二十三時世田谷村に戻り、夜食。ビールを飲んで休む。

 十一月十七日
 七時半起床。清家清ノート(住宅建築一月号)ゲラに目を通す。
 渡辺の書いたモノも読んだ。清家清を書くのに小林秀雄や三島由紀夫まで引っぱり出すのは、やり過ぎだが、若い人なりに良く書いている。清家清の歴史化はいかに成され得るのか、を対象に距離を置きながら書こうとしている。

 さて、今日のスケジュールは取り敢えず空けてあった。学生の東大との共通課題の出来が悪過ぎたら手を入れようと思っていたのだが、もうその必要はどうやら無さそうであるが、今日もまだ製図室で頑張っているのがいたら、と思うとやはり午後チョッと出てみようかと思う。

 R354
 十一月十五日
 十時卒論発表会。総じて低調であった。早稲田建築が本当に底を打った学年で、恐ろしい程の愚迷に陥った年次でもある。それだからこそ、今年、馬鹿の如くに頑張って、設計製図教育に打ち込んでいるのだ。これで駄目なら早稲田はもうダメだ。

 かくの如き魔の刻というか、年次があるんだと実感する。学年で一人か二人、光っているのがいさえすれば、その学年は何とかなる。彼や、彼女が学年に光を投げ、力を与えるからだ。それが、全く無い状態があって、それも珍しい事ではあるのだが、設計製図で誰一人としてAを穫れなかった、穫ろうとさえしなかった、早稲田建築始まって以来の年次であった。

 十七時過卒論発表会了。後始末を終えて、製図準備室へ。ドン底の学年の次の、危機極まる学年の製図を見る。同時に鬼沼計画の打合わせを行う。二十一時迄。

 近江屋で一服して二十二時世田谷村へ発つ。二十二時四十五分世田谷村。

 十一月十六日
 六時起床。新聞を読み、少し計りWORK。昨夜の製図室は流石に疲労感が漂い、学生達にも弾力が失せていた。しかしそれでいいのだ。それだけ消耗するというのはそれだけ努力したというに同じだ。今日は午後に全作品が集合する予定。最終準備に入る。

 アト、三日間、出来るだけの努力をして、月曜日に4tトラックに模型を積み込んで、東大に乗り込む。ハハハ、全く我ながら古いね。戦後闇市のなぐり込みだなコレワ。

 しかし、疲れ切ってはいるだろうが、手はゆるめないぞ、徹底的にいいモノを作らせる。その気持を一人でも、二人でも胸の内に仕舞い込んでくれれば、それで良い。

 鬼沼の計画は我ながら、凄味を見せ始めている。自分で言うのも馬鹿だけれど、馬鹿を承知でそう感じ入る。これは何としても、究極点迄行き着かせたい。

 グアダラハラ計画のスケッチをすすめる。大きさがつかめるようになっているので助かる。八時小休、朝食をとる。ロシアのサンクトペテルブルグのイフェイ・チャンよりTEL入る。サンクトペテルブルグの途方もないスケールのプロジェクトに挑戦しようとしているようで、流石のイフェイもいささか息を呑まれ、何とかなるかと聞いてきた。

 上海のディベロッパーが息を呑むようなスケールの計画とは、考えるだけでもおかしいけれど、何か出来る事があるやも知れぬと思い、詳細な情報を送るように依頼して電話を切った。サンクトは今午前2時、彼女は眠らずに頑張っている。

 R353
 十一月十四日
 十五時迄世田谷村三FでWORKを続ける。頭が疲れてきて小休。十六時前発。大学へ。製図準備室で鬼沼計画の打合わせを予定している。

 十七時前大学。すでに製図準備室に加藤、渡辺両先生が待っていて、鬼沼計画の打合わせどころではなかった。
 設計製図のTAのシステム、及び助手のシステムはキチンと見直しが必要だと痛感している。

 三年設計製図を見る。上位9グループ、30 名弱はすでに見ているので残りのグループをひとわたり見る。一、二拾いモノはあったが、どうにもならないのもあった。早稲田は設計コース、つまり計画コースに人数を集め過ぎている、というのは十年位前から痛感している事で、こんな大人数ではとても早稲田的エリートを育てるのは不可能なのだ。せいぜい二十名、甘くみても三十名位が限界ではないか。

 デザイン、設計に向いていない人間をいくら教えても、馬耳東風なのはわかり切っているのだ。もう少し制度的に、エンジニアリングコースに学生を制度的に配分すべきである。それでも二十グループ、六〇名位の途中成果は全て把握できた。

 二〇時過迄附合う。加藤先生、渡辺君は本当に良く学生を見て、指導してくれている。感謝したい。助手、TAの役割は底の方にダラダラ停滞しているのに力を入れる事だろう。近江屋で一服して、世田谷村に帰る。

 明日は卒論の発表で終日地獄である。

 十一月十五日
 朝、六時起床。新聞を読み、少しばかりのWORK。今日は十時から卒論の発表会で、一年で一番辛い日の部類に入る。論は設計と異なり、その人間の才、資質が直接的に表現される。あいまいさに逃げる芸が打てない。だから聞く方もつらい。

 R352
 十一月十四日
 六時起床。昨日思い立って書き始めた、世田谷美術館大入り計画の第一便を書き上げる。八時修了。
 宮崎の藤野忠利さんの娘ア子さんが癌になっちまって、その闘病のつれづれを絵本にした。

 この絵本の、何とか売り上げに貢献するのが当方の義務とも思い立ち、それで宣伝活動を勝手に始める事とした。その宣伝文を十七枚書いちまった。

 丹羽君はウチのページに「世田谷美術館石山修武展大入り計画進行録」の章を作って、コレに割いてくれ給え。第二弾もすぐに書くから。又、向風学校の章は安西直紀が新サイト、向風学校を立ち上げたので、そちらに移転させてください。

 表紙(トップページ)はグアダラハラ計画地の今のものから、鬼沼の現場進行状況のもの(昨日受け取ったモノ)に変えましょう。鬼沼計画もようやく少し計り本格的な姿になってきてるから、これを出しましょう。この現場写真にいたく触発され、コルゲートパイプの貯水浄水槽および住居棟に架けられ始めたフワリと浮いたスラブ(床)上のチムニー小屋のスケッチ、及び渡辺に参考迄にと、時の谷のゲストハウスのスケッチを猛然と開始する。

 九時本棚の頂部にもう一段古材をとり付ける作業をして休み。朝食をとる。今日は午前中、研究室に沢山情報を入れられそうだ。

 R351
 十一月十三日
 昨日は十八時より学生設計製図の最終的なチェック。マアいけそうなのが五点位かなの感じだった。二十一時迄見る。東大との合同講評会の発表順の大方を決めた。十グループ位迄は何とか体を成すことが出来そうだが、残りはどうかな。
 あと、一週間弱の時間が残されている。先鋒は先鋒なりに、中堅は中堅として、大将は大将らしく、それぞれ、一層奮励努力されたい。

 早朝より三階の模様替えの為に、地下室に潜ったりで体を動かす。八時一段落する。三階と地下で少しづつ作業をすすめられるようにしたい。

 昨日の鈴木博之先生からの川合健二邸に関しての御連絡は、嬉しいものであった。
 川合花子夫人も大変喜んでおられた。川合健二も草場の陰で「そうなんだナァ。ワシを解る人も日本にいてくれるようになったか」と満面の笑みであろう。

 十時諏訪君より連絡。向風学校の件で午後会う事になる。
 十一時作業デスクの拡張工作をおえる。と、気取って言う迄もなく、古い板材で隙間を埋めただけ。世田谷村の三階は屋根裏状を呈しているので、三角の断面形が多く、四角い家具との折合いが良くない。それで、その発生してしまったスキ間をペチャリと板でふさいだわけです。しかし、丸ノコを振り廻して努力した。

 メキシコ、 グアダラハラ計画 について考えをすすめる。今、学生に課題として与えられた調布市駅前計画の二〇倍位のスケールだが、調布の課題に触れていて、スケール感が狂わなくてすむのは有難い。

 R350
 十一月十二日
 六時半起床。外は余程寒いらしく、南のガラス窓が一面白く結露している。昨夜は夜、難波先生に連絡して、十九日の東大での講評会の手筈について相談する。細かい話で、難波先生と私が話し合うような事ではないのだが、プレゼンテーションの形式、順序はとても大事な事なので、細部に神は宿ると、実にこういう対抗試合の如きにもそれはあるのだ。

 東大の講評会は出席番号順に淡々と民主的に全てを講評する。早稲田のそれは、設計の出来の良いモノから順に、力量の評価を重点に行う。これがお互いの伝統である。

 今回の共通課題の試みは色々な問題も浮き彫りにして、興味深かった。先ずは参加人数、課題の形式、プログラム、用紙のサイズにいたる迄。人数はどうしても早稲田は多過ぎる嫌いがあるが、これは私学の宿命であるから仕方ない。
 それで発表者の数は東大に合わせて、二〇グループ、六〇名とする事にした。二校合わせて総数四〇グループ、百二〇名を講評するので、これは限界である。

 用紙サイズ他も東大に合わせた。中間発表は早稲田でやったが、最終は東大を場所とした。これは、マア、天下の東大相手なんだから、いいところであろう。

 しかし、発表の順序が問題である。ラグビーの試合ならいざしらずこれは対抗戦でありながら、設計製図だから個人戦でもある。チームの設計にしたけれど、おのずから当然個人の技量はにじみ出る。人間そのものが、にじみ出る。それが設計製図である。

 つまり、剣道、柔道の対抗試合を考えるに、カントクは先鋒、大将、副将の順を決めるのに頭を使うでしょ。
 例えば、東大の優れた案に、早稲田のどうしようもない案がブツかってしまう可能性もあり、それでは失礼になる。本当の真剣勝負にはならない。

 であるから、最低限いいモノを荒選びして、それはガチンコでいきましょうという事にした。話し合って決めた事なので、いい方法だと思う。

 今日の夕方、早稲田勢は仕上がりの総点検を行う、と同時に先ずは発表順序のあらましを決めなくてはならない。つまり、先鋒、次鋒、副将、大将を決め、それをどう配置するかを決める。東大は取り敢えず、大学としては大将なんだから、そんな細かい事構ってられるか、なんて考えていたら、大変ですよ、設計、デザインには個人技の世界が最期まで残るから。

 と、私としても、久し振りに学生の設計製図ごときに力が入ってしまっているのである。考えてみれば、設計製図をなんとかしろと言われて大学に来たんだから、コレはコレで良い。バカと言われても今回は色々と力を尽くそうと思う。学生諸君も存分に力を発揮し、なおかつ楽しんでもらいたい。

 思い立って、三階の私の仕事スペースの模様替えに取り組む。一階から重いボードを持ち上げたりで、大変だった。九時迄。

 R349
 十一月十日
 十三時大隈講堂隣のビルの七階で早大オープンカレッジ講義。少人数の受講者であったが、手は抜かなかった。十四時半了。高田牧舎で昼食。十七時過、製図室へ。学生の製図を見に行く。
 三十名程の学生が課題に取り組んでいた。製図室に何名かは泊まり込んでいるようだ。仲々良い。

 大きな模型も出来始めていて、ようやくエンジンがかかり始めた様だ。眠っていた早稲田建築がチョッと目覚めたのだと考えたい。とに角、製図室がこんなに生き生きとしているのは久し振りの事で東大との対抗戦のお蔭様である。十八時半迄色々と見て、アトは加藤先生、渡辺君に任せて、帰る事にする。あんまり長く居ても学生諸君は居心地悪いだろうしね。世田谷村に二〇時前戻りすぐに寝てしまう。食事も取らなかった。

 十一月十一日 日曜日
 四時起床。完全に時差ボケは解消できた。清家清ノートを書き、終了する。十六・五枚であるが、もうコレで良かろうと思う。六時過完了。七時半読み直し修正を加える。
 十三時前昼食。読書後十五時前世田谷村発。十六時前大学製図室。学生の製図の様子を見る。何とか頑張っているようだ。二、三のチームにアドバイスをして十七時製図室を発ち、世田谷村に戻る。

 R348
 十月九日
 十八時より学生製図指導。十九チーム程集まり、一点一点チェックする。大きな模型がポツリ、ポツリ出現し、ようやく早稲田らしい熱気が生まれ始めている。五、六点は何とかなりそうだ。製図室に数チームが泊まり込みを始めたようで、頼もしい。早稲田は熱気が、情熱が無ければ、どうということのない、世界では田舎大学だから、その早稲田建築の核である情熱らしきが、東大との共通課題、難波先生から言わせれば、ガチンコ対決の様相を呈しているのは誠に嬉しい。学生には良い刺激になっているようだ。

 しかし、とりあえずの水準は一部確保できたけれど、このレベルから一グループ、二グループぐらいがブッチ切りで抜けて出てこなければ早稲田じゃない。明日も製図室に午後寄ってみるつもりだ。
 製図了後、加藤、高木、渡邊各先生と会食と相談二十三時半まで、世田谷村零時十五分戻り。

 十一月十日
 九時半起床。ようやく時差ボケ解消。朝食けんちん汁。十一時研究室。オープンカレッジレクチャー準備。十二時半発。

 R347
 十一月八日
 十一時 M工務店来室。新規事業の相談。十二時別のM君来室。十三時人事小委員会。その後教室会議。久しぶりの研究室ミーティング、鬼沼打合わせ。二〇時まで。近江屋によって二十二時世田谷村帰着。

 十月九日
 七時起床。八時より清家清ノート書く、ほぼ書き上げたが未完。十一時迄。十二時研究室、世田谷美術館、鬼沼、他打合わせ。十四時四〇分迄。十五時より製図室設計製図を見る。学生がどれ位までパワーアップしているのか楽しみである。明日のオープンカレッジ、レクチャー準備も。 ようやく、時差ボケ状態から脱出しつつある。

 R346
 十一月七日
 十八時、大学で学部学生の製図を見る。東大との共通課題なので、気になっていたものだ。模型等を見てショックを受ける。良くはない状態であった。これでは、デザインの早稲田なんてアグラをかいている状態では全くない。デザインのデの字もまだ表現されていない状態であった。

 きちんとしてくれよ、というのが第一印象。キチンと考えてカタチに出来なければ早稲田が早稲田になる由縁はあるまい。何のデザインもしないで、ぺらぺらしゃべるだけのレベルはもうご免こうむりたい。キチンと努力に努力を重ね、でも健康には気をつけて、エネルギーを集中してこいと、大声で伝えたかった。この状態では早稲田建築同好サークルではないか。東大生の方がゴリゴリ身体でやっているではないか。

 製図指導終了後、少しガックリして近江屋に加藤先生、渡辺先生に集っていただき、どうしたんだ、この状態は、と相談する。私が二週間ラテンアメリカに行ってしまったリスクはあったにせよ、この状態は余りにもであった。金曜日にもう一度チェックする事にして、とりあえず散会。

 学生諸君にも、学生時代一度だけでも良いから燃焼し切る如くの時を持てと伝えたい。能力、才質の核は要するに燃焼効率が良いか、悪いかの一点につきるのだから。良い課題と、良い機会に恵まれたのだから、一人や二人位はジャンプしてくれと願うばかりだ。

 十一月八日
 昨夜も余り眠れず、モウロウとして七時起床。新聞を読む。
 九時半世田谷村発。

 R345
 十一月六日
 眠くて倒れそうである。頭脳もほとんど働いていない。私のグローバルスケールは実に他愛なく、限りなく弱いものだ。多分、自分の血統には田舎坊主のそれがあって、その血がこの体力のなさを作ってしまったのであろうと、残念至極である。二〇時過世田谷村。すぐに眠るも、二時間程で目覚め、又、ボーッとしたりの繰り返し。

 十一月七日
 七時半とりあえず起床。新聞を読んで、又眠ろうとするも、上手くゆかず。いかんともしがたい。十時過、横になる。十四時半目覚める。かくの如き時間の在り方は無駄としか言い様の無いものだが、一種の病後に必然な休みの時間であるのかも知れぬ。ともあれ、理知的に考えれば我ながら理解に苦しむ時間なのでもある。高揚があれな弛緩があるのは常態であろうが、ラテンアメリカの二週間の充実は、かくの如き日本での沈滞が必要になるのかと、これから先の事をいささか大変であるなと用心したい。十五時半郵便局へ寄って研究室へ向かう。

 R344
 十一月五日
 十時四〇分新宿で木本一之さんと会い、新大久保近江屋へ。十一時過から十四時半迄。十五時半世田谷村に戻り眠る。二十二時半目覚める。メキシコ、グアダラハラのデータを研究室スタッフに渡したので、明日は少し整理できるだろう。今日はこれで了。ラテン・アメリカからの送信は二十七日で途切れていたようで、これも今日更新できているだろう。晩飯は抜いて再び眠る。

 十一月六日
 六時一度目覚め、新聞を読み、再び眠る。九時過ぎ目覚め、寝床で読書しつつ又眠る。余程疲れていたようだ。十一時起床するも、まだ眠り足らず、再び横になる。身体を思うようにコントロール出来ないでいる。気力はあるんだけれど。
 十四時過世田谷村発。十五時過研究室打合わせ。グアダラハラ、サンチャゴの件他。

 R343
 十一月五日
 朝三時半に起きてしまう。昨日は世田谷村に十七時過に戻り、十九時半に眠った。これは時差だから仕方ない。ラテンアメリカの旅のメモを全部読み直してみる。スケッチは持って行った紙を全部使ってしまったから総計五〇点以上になる。

 何処までデータが日本に送られているのかは全く不明。アベルによれば、日本側のコンピューターがパンクしていて途中から送れないのだとの事だが、その後彼がサンチャゴで何かやってくれたのかも不明。でもラテンだから、それで良いのだ。

 しかし、今日からは日本なので仕方無いとは言ってられない。体調も良いし、色々とやらなくてはならぬ事も充分すぎる程背負い込んできた。来年の三月迄のグアダラハラ中心街の計画のプログラム、サンチャゴ計画の双方をリアルに進めることになる。

 今日は広島の木本君が上京して私の帰るのを待ってくれているので、先ず彼に会わなければならない。向風学校の件も気になっている。日本に帰ったら、民主党の小沢一郎代表が代表辞任の報に接した。小沢一郎氏はもうチョッとアベル的ラテンを身につけた方がいい。この人は岩手県出身だが、日本の政治風土には向いていないな。五時半再び横になる。眠れるかどうかは解らない。

 八時再起床。新聞に目を通す。朝食をとって九時二〇分再び横になる。今日中に時差を解消してしまおう。

 R330〜R342
 「ラテンアメリカ紀行」(十月二十三日〜十一月四日)

2007 年10月の世田谷村日記

世田谷村日記
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