R315
五月三〇日

十一時研究室。絶版書房ドローイングにかかる。今日は追いつめられていささか必死である。十五時半迄休み無しでほぼ百冊に描き入れた。十六時石山研同窓会。60 名程が参加。二〇年前、五年程の積もりでなった教師であったが、それが二〇年にもなった。

モノを作るのも面白いが、人間を育てるのも、同じように面白いのが解ってしまったんだなあ、と今は言い訳がましく言っておこう。帳尻は合わせるつもりの情熱は残っている。つまり、キチンと人材は形あるモノとして残す覚悟である。教師が会場に長居したら、若い人は興が乗らぬだろうと考えて、十八時過会場を後にする。

五月三十一日 日曜日

六時前起床。新聞受に何名かの名が記されたメモが入っていた。恐らくは昨夜、世田谷村迄やってきたのだろう。遠慮して声は掛けなかったのだろうと想った。こういう附合い方は良い。来年の同窓会の幹事も決まったようで、彼等に望みたい。OB、OGの皆さんがそれぞれ行っている活動の発表会、連絡協議会の如きを年に四回程行って、面白いコト、面白いモノを年に一回の同窓会で表彰するという様な事を是非やって欲しい。モノとしての作品にこだわらず、各種活動も含めて。

明日、六月一日から安西直紀との「向風学校」でのウェブ・サイト( http://headwind.jp/ )を立ち上げる事になっている。昨日安西氏と少し計りの準備の電話打合わせもやった。今日あたり、その概要の連絡もあるだろう。今日は、午後、有楽町の東京フォーラムで、早慶対抗大学学部研究会で創造理工学部の一人として、高校生を相手に小レクチャーをする。

実体は早慶対抗の受験生引張り合戦なのだけれど、客観的に視れば、私がこういう場所に出て受験生を相手にレクチャー迄するのか、と思われるだろう。しかし、大手予備校の方が危機感を持って現実に対応していると考えざるを得ない。教室の危機感は薄いように思われる。早稲田建築は決して弱くはないが、世界に出せば強くはない。伝統を作るのは大変な時間と労力を要する。しかし壊れる、弱体化するのはアッという間なのである。そう考えて、だから大いに予備校、高等学校だってチャンスがあれば私は出かけたいと思う。何かの役に立てればの事だけれど。

向風学校の友人安西直紀は慶応大学0単位退学、しかし私の視るところ生粋の慶応スピリッツの持主である。その安西と私が私塾を開こうというのだから。つまり、早稲田か慶応かというよりも、出来る事は一緒にやった方がいいような時代なのだ、今は。

十四時二〇分、有楽町東京フォーラム5階へ。今日は五千人の高校生が集まっているという。十四時五〇分レクチャー。十五時五〇分了。控え室に安西来る。主催者達に紹介する。雨の中、地下街を歩き東京駅地下へ。いささかの相談をする。明日からの活動の要点を決めたかったが、そうは簡単にはゆく訳もない。もう明らかな無駄を許される年令ではないので合理的にやるつもりである。十八時前了。渋谷で別れる。

R314
五月二十九日

六時前起床。十時半研究室。五〇分レクチャー、アルヴァ・アールト。院レクチャーは今日で8回となる。何とか気持も途切れずにここ迄やってきた。若い院生達の受容力、感性、理解力を半ば信じて、半ば疑いつつ話してきたが、少しでも役立っていれば、それで良いかも知れない。十年後に少しでも思い出してくれるような断片だけは仕込んでおこうと考えてやっている。設計と同じだ。

絶版書房のアニミズム紀行3、35 点程にドローイングを入れる。十五時了。山田脩二が渋谷の岡本太郎「明日の神話」を撮りに東京に来ているらしいと聞く。住宅建築に坂倉凖三設計岡本太郎邸について書いた。そこに明日の神話が登場してくる。編集部が気をきかせて、山田脩二の写真を入れてくれたのだろう。近江屋で山田脩二等と会う。十七時過別れた。

五月三〇日

七時起床。今日も、絶版書房の本にドローイングを描き込む作業をする予定。ドローイングを描き込んでいる時にフット空白の時間が訪れて、インスピレーションを得られたらと思うのだが・・・そううまくはいかないんだなァ。

R313
五月二十八日

六時起床。午前中私事にて過す。十五時過新宿ヒルトンホテルでアベルと待ち合わせ。4Fチリワイン催事会へ。チリワイン協会のディレクター、ソマーヴィア氏とお目にかかる。会場はまだ日本に未進出のチリワインの酒蔵が輸入代理店(エージェント)を求めて、数多く、試飲会を開催していた。

話しをしながら、会場を巡る。巡っていれば自然に試飲という事になる。お附合いだと考えて巡っていたが、何だか面白くなって、遂に一つの酒蔵のテーブルに引きつけられた。ソマーヴィア氏もおすすめである。ロレイソ・ラレイン氏の酒蔵で、銘柄は一つだけ、色々と話しを聞いている内に、新潟の早福岩男酒店が急に頭に浮かんできた。京都百万遍の橋本憲一を思い出した。チリワイン売ってもらおうかな。

チリの仕事の話しはアベルに任せて、十五時半会場を去る。ラレイン氏よりワインを一本いただいた。又、チャールス・ヴィラード氏の酒蔵も気になるモノであった。私はワインはズブの素人があるが、人間には素人ではないから、誰でもそうなんだけれどね、興味深いワインであった。何の世界でも、こういう現場は面白い。気分転換になった。

R312
五月二十七日

午前中私事にて過す。十四時三〇分製図準備室。渡邊君と打合わせ。鬼沼の件、京王稲田堤複合幼児建築地に関して。又、絶版書房の報告と相談を短時間で。絶版書房活動はスタッフが頑張ってくれている。残部が少なくなっているが、ドローイングを描き込む時間が取れぬ。買って下さった方には申し訳ないけれど、もう少し持って下さい。打合わせは短時間の方が効率が良いが、前へ進む、つまり、どんなモノを作るかという打合わせは短時間ですまないのは当り前だ。しかし、私の方で、こう作りたいという明快な指針を出さぬうちは、スタッフの考えている事、考えは充二分に聞く必要がある。一言一句に私は耳を澄ます。私の考えを乗り越える可能性の断片に出会う事を期待しているのだ。イイものを作りたい。

十五時前、演習G。北園先生、渡邊先生と共に年令的にも巾のある学生に対する。やはり、博士課呈位の学生への対応は面白い、少しづつ成長しているのが視えるから。今秋の東大との設計製図の共同課題は私としても設計製図教育のまとめのモデルとして考えようと思っているので、難波先生等との準備会も含めて、制度にとらわれずに試みられる事は多様に試みてみたい。十七時半修了。

電車でようやく席に座れたら、途中で盲目の方が乗車された。私は当然席をゆずろうと立った。盲目の人のつきそいのオバさん二人がひどく恐縮して、すぐ降りますからと、気を使って下さった。そうか私も本当は席をゆずる歳ではなくなっているのだな、と痛切な哀感を持った。

こんな時の電車の座席模様は、俗な言い方になるが人生模様でもある。私の隣りの学生は大股開いて漫画を読みふけっているし、逆サイドの若い女性は人間一人座れる位のスペースに荷物を置いたまま、盲人の方が前に立ってもピクリとも動こうとしない。これでは社会はうまくゆかないのだろうな、私ばかりが普通の人間を気取るのではないけれど、これは良くない。オバさん二人が一番まともで、仕切りに恐縮して下さっている。これで、若い女性や、学生に私が一言たしなめたり、いささかの注意をそくしたりしたら、私はいきなり刺されたり、なぐられたりするのであろうと、いささか寒気に襲われたりするのである。考え過ぎかな、コレワ。しかし、良くないな世間は。北朝鮮の核もミサイルもどうかなと思うが、アレは独裁者の問題であり、北朝鮮の常民の問題とは大きなズレがある。電車の中の一部の若者達はもっと良くないね。本当に。

我々は北朝鮮の国営TV放送のアナウンサーのアナクロな口振りを嘲笑を含めて眺め、聞きしているが、例えば、想像力を少し計り働かせてみよう、北朝鮮の常民が日本のTVをコッソリ視ているとしよう、恐らく視ているのだ。日本のTVを視て、その殆んどがお笑いの番組であり、当場人物も皆お笑い芸人であり、キャスターである。これを視、聞きして北朝鮮の人々はどう感じ、どう思うのか、それを我々はキチンと想像しなければと、席に座ってニコリとした目の不自由な方の横顔を眺めて、考えた。この人の気持の中を思うと、私は非力だ。

五月二十八日

五時過起床。色んな事を考えねばならぬ現実がある。しかし、絶版書房の一冊を手にしていただく、それだけの事がこれ程大変な事なのを、身にしみて知っている。アニミズム紀行3は三〇〇冊近くを買い求めていただいたが、残りの百冊強を買ってもらうのが実にコレが難しい。こういう時勢である。二千五百円の重みは大きいのだ。朝、目覚めると先ずその事を考える。昨日、「アニミズム紀行4」の最終原稿をスタッフに渡せたが、4号は3号の絶版を待たずに出刊する事になってしまうかな。

5号、6号の構想もすでに固めている。実に少数の人々の手にしか渡す事が出来ないけれど、それは覚悟の上で始めた事で、それ故の絶版書房である。歩き続けたい。

R311
五月二十六日

十時三〇分研究室、短く打ち合わせして、同四五分学部レクチャー。ドローンとして澱んだ沼に向かって話しているみたいだし、話せば話す程に沼の中に沈んでゆく如くであるが、仕方ない。辛抱して話し続けるしか無い。困難に対面している時に一度レクチャーを休んでしまったら、もう二度とヤル気をなくしてしまいそうなので、講義だけは不可能だとアキラメルにいたる迄は何とかやるつもりなのだ。なにしろ百数十名の沼と対面し続けているのだから。十二時迄。私用で退。

アニミズム紀行の旅。紀行の旅というのも妙な言い方であるが、書く事が読者も含めて一種の気持の中の旅の状態を作れれば良いなと考えての命名である。

実は私も明々白々にそうなのだが、このタイトルにはいささかの危惧を抱いている。読者の皆さんもそうであるに違いない。現代を生きねばならぬ人間は、死に対する恐れを中心に多様な畏怖の念を実は持ち続けている。漠然としてはいるが張りつめてもいる不安は、無数に近く存在し続けている。北朝鮮が核実験を強行し、短距離ではあるがミサイルを三発日本海に向けて発射したと知れば、楽しいと思う者は居ないはずである。あのような解りやすい不安ばかりではない。形にならぬ不安、恐怖を皆が共有しているのだ。その不安の形を例えばアニミズムと実は呼ぼうとしている。

更には、その様な不安の最中に居ても、私はまだ何かを作りたいと考え続けている、何故作ろうとするのかを知りたいと考えたのだ。それでアニミズム紀行4では、アニミズム、プレ・アニミズム、マナ等の、要するに宗教学的歴史概念をいささか述べようとしている。

アニミズムというタイトルへの危惧は、要するに宗教的言語である事が明々白々である事から来る。この宗教的なるモノへのスタンスそのものは、近代人一般共通の闇である。宗教的世界、例えば超越性への畏怖、神秘性への憧憬といった素朴な傾き、気持の動きは今のような時代の日常生活に於いても恐らく誰もが共有する趣向に違いない。近代日本は神らしきの形式を、すなわち宗教的趣向への関心を外からの力で空洞化してきたと思われる。

アニミズム紀行は、作り続けたいという気持を意志として意識する人間(もうコレは種族と呼んだ方が良いかも知れない)の、あるいは人間達の力、エネルギー、情動、すなわち芸術本来の中心らしきを考えたいと、始めた旅である。4号は少し計りその指標らしきが書き述べられているかも知れない。

二十四時迄アニミズム紀行4の書き直しを続ける。人間の生命のエネルギーは実に凄いと思うな、唐突ではあるが記しておく。

R310
五月二十五日

六時過起床。アニミズム紀行4ゲラ校正。冒頭部分を書き加える。何故アニミズム紀行なのかを説明しておく方が良いと判断して、アニミズムについて述べた。宗教学辞典などを読み込み、間違いが少ないように、勝手な解釈が多く入り込まぬように記した。が、この遠大な紀行の大筋は私個人の主観に基づいた旅行記である。客観性を帯びさせようとしている部分は処々に配置された導標であると考えて読んで下されば良い。

絶版書房、アニミズム紀行3の残部が百五四冊になった。南洋堂などの本屋さんから少々まとまった追加注文等があり、部数がいきなり、ハケたりもしたのである。こんな世情であるから、ネット頼りでジイッとしていたのでは二五〇〇円の本は売れない。やはり、それなりの努力をしなくては四百部を売り切るのは困難なのだ。何とか、アト百五〇冊で絶版に持ち込めるので頑張りたい。

ここに来て、アニミズム紀行一号、二号が欲しいという方がポツリ、ポツンと出現して下さっているけれど、刷り増しは絶対やりませんから、それでなければ「絶版書房」のヘソが消えてしまうので、御勘弁ください。 ちなみに、アニミズム周辺紀行4の印刷部数は再び二百部です。3号「ひろしまハウス四〇〇部、4号二〇〇部は当初からの予定ですので動かしません。

建築というタイトルを附さぬのも故あって、そうしてます。五、六号あたりでそうだったのかと了解していただけるやも知れません。

十五時新宿小松庵で鈴木了二氏と会う。鈴木氏は体調を崩したと風の噂で聞いていたので心配していたのだが、元気に回復していたので胸をなでおろす。建築家鈴木了二は建築家石山修武とは全く異なる世界の住民で、恐らく何処にも接点は無い。映画愛好家鈴木了二は映画無関心家石山と更に距離は遠い。その別世界、しかもNON LOGICALな別世界だからこそ、面白いかなと始めた映像ゼミは3回続けて、当然ながら良い成果は得られなかった。私のシラケ振りと、鈴木了二のマニア振りとが、かみ合いようが無かったからだ。鈴木了二氏は体も復調し、もう好きなコトだけやろう、と肝も据わったと見た。これならば荒技を仕掛けても大丈夫であろうと読んだ。

映像ゼミは壊して、メンバーも変えて、器も変えて一新して再生させたい。

十七時過、京橋西湘画廊「GUTAI - 赤と黒 アクションゲーム2人展」鷲見康夫・藤野忠利、オープニングに出掛ける。

二〇時半世田谷村に戻る。

R309
五月二十三日

六時過起床。八時世田谷村発。九時東京駅。T社長、梅沢良三事務所、石山研、総勢五名で郡山へ。九時過東京発、十一時前郡山。つい先日居たので変な気分に陥る。レンタカーで現場へ。途中、馴染みのソバ屋に寄る。十二時過猪苗代現場。定例会。仙台アトリエ海、関組、鉄筋屋さん等集合。

現場は実に大がかりに山を切り崩し、ダム工事の現場のようだ。建築の半分を土中に埋め戻すので、こんな風景が出現してしまった。天然には申し訳ないが、必らず元に戻すからねと独人つぶやく。

十五時半迄打合わせ。十六時発、十七時郡山。十七時過、新幹線で東京へ戻る。十九時半東京。二〇時世田谷村に戻る。

五月二十四日

七時過起床。九時原稿、住宅建築「岡本太郎邸」について書く。鎌倉の近代美術館の坂倉準三展に合わせた企画である。磯崎さん、坂倉竹之助さんも書いているようなので気が抜けない。十枚十六時終了。明日、早朝少し手を入れるつもり。

R308
五月二十二日

六時過起床。六月一日に開く向風学校ドキュメントのページ構想を練る。

九時過世田谷村発。十時半前研究室サイトチェック。四〇分院講義、ル・コルビュジェとクセナキス。ラトゥーレットの僧院。十二時了。十三時社工学生の相談を受ける。しかし土木と建築では気持(精神とは言わぬ)の風土が異なるので仲々上手に応えられなかった。学生は不満であったろう。十三時半アベル、チリプロジェクト打合わせ。十五時野村、渡邊と幼児施設設計の打合わせ。十六時半了。十七時半研究室発。伊東乾氏より自著作他2点送られてくる。一時間程で「さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生」を読み切る。久し振りに出会う重い書物であった。

率直に言って附合うのには相当エネルギーが必要になるだろうが、俗人と附合うよりはマシだろうと判断し、今晩読後感を書こうと決めた。又、深い闇に陥る事になるかもしれぬと直感する。

私の作品には富士ヶ嶺の観音堂があり、あんまり世には知られていない。知られぬ方がその存在の意味に適している。この観音堂は一九九五年のオウム真理教事件の、事件そのものへの鎮魂の気持を込めて作った。私はオウム真理教のカテドラルであったバラック工場建築サティアンは建築そのものの存在形式をおびやかす事件であると考えた。あるいは今の建築が置かれている状況の予告ではないかとも直観した。

富士ヶ嶺観音堂は依頼主が異能の人で、その異形の人がオウム真理教のサティアン群の跡地を浄化したいと考えて、私財を投げ打って建設した私寺である。事件から十四年経ち、日本社会はすでにあの事件が投げかけた深い闇を忘れ去ろうとしている。村上春樹の、誠実ではあるがそれ故に平板な「アンダーグラウンド」他のルポルタージュも実はあの事件の中枢には届いていない。ソロソロ、あの事件の自己破壊的形式について書いても良い頃だなと、そう考えた。伊東乾氏の「サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生」を読んで一層その想いを強くした。

サイレント・ネイビーは私なりに要約すれば、死刑とは何かを問いつめている書物である。地下鉄サリン事件の実行犯である東大での同級生、物理実験のパートナーでもあった同級生の死刑判決への疑義が書かれている。

私はオウム真理教事件をサティアン事件として把握している。サティアンという形式の出現は建築という形式の消失の予告であると把握している。今でもそう考えている。サティアン事件は二〇〇一年の9・11NYワールド・トレード・センター自爆テロ事件の予告でもあった。

というような事を日記には書き切れぬので伊東乾氏に読後感として送ろうと思っている。

R307
五月二十一日

五時過起床。今日は仙台の東北大学建築学科への往復なので色々と準備する。農村計画、農と食を学ぶスクールを設計せよという、時代の先端的課題なので、恐らくは学生達にはとまどいもある筈だ。

両大学の案を見比べるに、東北大の学生達の方がスンナリ課題に入り込んでいて、早稲田の学生の方は一ひねりしてみようという感じかな。それぞれに長所と不足が勿論ある。

私の只今施工中の「水の神殿」も「時間の倉庫」も、言ってみれば農と食を核とする 21 世紀型プロジェクトであり、そのデザインの核はアニミズムなのだけれど、これは学生達には劇薬なので伝えない。しかし、何人かの学生達がこっそり絶版書房の3号くらいを読んでくれていると面白いのにとは思う。十年先に役に立つのだけれどなあ。

六月一日にオープンする向風学校日誌の概要は今のところ、安西直紀日誌、石山修武向風記、ダイアローグ、今日の食生活、断食報告などを構想している。九時前発。十時過の新幹線。共同通信の「ツバキ城築城記」藤森照信を書く。十一時過完了。

藤森はこの本の中で「カッカッカッ、イシヤマザマミロ」と迄、放言して私奴をコケにしおった。当然、黙って引込んでいては、イシヤマやっぱり相当へたってるらしいぜ、なんて噂が飛びかねない。デ、激越なる書評を書いたのである。たった2枚なのが残念である。

十二時過ぎ仙台着。坂口先生と東北大へ。十三時前石山スタジオ。二〇名の参加者の中間プレゼンテーション、クリティーク。十七時過迄。東北大建築生のWORKは仲々良い。各自の思考の巾があり、接していて楽しいのである。二〇名のプレゼンテーションの合間に、早稲田学生の中間プレゼンテーションを独人でクリティークしたが、総合的なエネルギーは東北大学生がはるかにしのいでいた。チョッと早稲田勢にはテコ入れが必要である。

十八時東北大の青葉山を降りて、仙台市へ、坂口先生等と会食。二〇時迄。新幹線で東京へ。二十二時半過東京着。眠りこけていてJR職員に起こされた。

農と食のスクールという設計課題は、本格的な取組みとしては東北大建築のモノが日本で最初のモノであろうと思われる。友人の農業者・フリーライター結城登美雄氏等の協力を得て、充実したモノにしたい。学生も良く頑張っているので何らかの成果を世に問いたいと願っている。中国の大学も大きな関心を寄せるだろうな。

二十三時半世田谷村に戻る。今日は仙台で動いて「絶版書房」アニミズム紀行3を 25 冊さばいた。

R306
五月二〇日

十四時半製図準備室。アベルのコーヒーをごち走になる。四〇分演習G。四年、院生、博士課程迄入り交じった演習である。十八時迄。東北大建築学科4年生との合同課題に九人の学生が参加している。喜ばしい。演習の方は流石に年長者に見るべきモノ、批評するに足るモノが多い。

演習Gは早稲田建築でも設計、デザインに意識の高い連中が参加している筈だが、クリティックあるいはオペレーションをしていてもアニミズム紀行の遠大なる旅の事が頭から離れずに、それ故に学生の思考水準とのギャップが仲々面白いのであった。今、私はあらゆる事をアニミズムへの旅の中で把握している。勿論、ファナティックな傾きも無く、そうしているのである。アニミズム紀行3を是非共読むべし

二〇時過北園先生等との会食打合わせを終え世田谷村へ。二十一時世田谷村。二十二時向風学校安西直紀より連絡。打合わせ。原則的に向風学校の活動及び考えのページを六月一日にオープンする事にした。それ故に明日から連続してその予告をこのページに流す事にもなった。お許しいただきたい。

R305
五月二〇日

六時前起床。半日休んだので疲れはどうやら回復した。単純なのが良い。人間身体が元手だからやはり身体の原動力だけは大事にしなくてはと、極く極く当り前の事を考えた。しかし、どう大事にしたら良いのかが実に難かしい。人間誰もが、それが解ったら何もしなくなってしまうのではなかろうか。

向風学校の安西直紀から預かっている「福澤諭吉展」のカタログを昨日ゆっくりと初めて読む。福澤が中津藩、つまり現在の大分県の下級武士の生まれである事、等を知った。

安西直紀は慶應義塾大学0単位退学。されども幼稚舎からの生粋の慶應義塾人であるという小矛盾の所有者である。ヒョンな事からの若い友人になったのだが、安西はその生い立ち、気力、人品等から考えるに大きな向風学校を創生する可能性を充分に持つ。しかし、今のまんまではどうにもならぬだろう。

その本格的などうにもならなさ、それが実に一番の財産なのではないかとようやく気付いたのである。安西と私では四〇年弱の年の開きがある。それも又、良い財産なのではなかろうか。折角気付いたのだから早速気付いたなりの動きを開始する。

一番身近なできる事から始めるしかないだろう。

十時過、向風学校安西直紀に考えをまとめて通信文を送信する、向風学校創立の夢はあきらめてはいない。しかし、何等具体的な手を打てているわけでもない。今日中に手だけは考え抜いて、最初の一手くらいは打たなければならないだろう。安西からの返信を待とう。

R304
五月十八日

十六時前、鈴木、難波両先生及び竹中工務店の人間、デコ茶屋に現われる。忘れ去られてはいなかった。十七時前の新幹線で東京へ。只今十八時東京駅八重洲北口「小樽」で休んでいる。S氏とネパール情報交換する。

この数日の旅は、何もドラマティックなモノは無かったけれど、実に劇的であった。人間がそれぞれなりに信用出来る友と出会えるかどうか、それは決定的な事であろうが、私は年長の友人(と勝手に呼ぶ)磯崎やほぼ同年の鈴木、そして難波と出会えて良かった。更には渡辺豊和とも会えて良かった。アトは皆居なくなってしまった。居なくなってしまった友人達のためにももう少し、やらなくてはならんのだろうな。 十九時過世田谷村に戻る。

五月十九日

七時前起床。ひどく疲れている。楽しみの後には必ずコレがあるのだ。かと言ってそれからは自由であり得ない。午前中のレクチャーだけはこなそうと決める。一度逃げたら、もう二度とやらないだろうなの予感があるのだ。九時過発大学へ。

十時四〇分学部レクチャー。近現代日本住宅史も今日のレクチャーで 76 年の住吉の長屋・安藤忠雄、84 年シルバーハット・伊東豊雄までようやく辿り着いた。一九五〇年代の池辺陽から始め、隠れた軸として 72 年セキスイハイム(大野勝彦企画)の工業化住宅の流れを論じてきたのだが、学部生には通じなかったやも知れぬ。

五〇年程を通して講じると、やはり 50 年代と 70 年代の充実がハッキリしてくる。

十二時了。なんだかとても疲れて、今日は早々と世田谷村に引き上げ、横になって休む。十五時。夕方、向風学校安西直紀より電話あり、彼のサイトでのダイアローグの提案であった。安西君も一人でモンモンとしているのであろうと考える。疲れて横になっている間に、じっくり何が出来るか考えてみる。私だってそんなに余力があるわけではない、余力を残しているようでは駄目だろうし。

北海道十勝音更の現場、猪苗代湖の現場の報告を受けたが、凄い速力で進んでいる。北海道の「水の神殿」の現場写真は実に面白い。このシートをかけた土盛りの中に空洞が出現するので、と言うよりも、この土盛りそのものが、このまんま空洞に逆転するのだから、これまでの空間構成の原理も逆転させている。土の量塊の重量そのものが、出来上がる空洞に反映されると良いのだけど。どうなりますやら。

R303
五月十八日

十四時前、何故かは知らねど、三春町絶対の田園山中デコ屋敷茶屋にて、独人遊子悲しむの旅に居る。民芸茶屋には客数名、皆独人酒、にごり酒、各々の酒をやっている。アイスクリームもやっている。外はきらめくばかりの陽光と新緑。内は薄暗い茶屋である。茶屋内には「雪の降る町を」の唄が流れ、今は春たけなわだから、異様なシュールレアリスム感に高揚している。

鈴木博之、難波和彦両先生と激しい議論の末、この峠の茶屋での別離となった。それならばよいのだけれど、残念ながらそうではない。

昨日は昼過に会津若松着。わっぱ飯の昼食後、飯盛山へ。正宗寺さざえ堂を見学。死んだ毛綱モン太の記憶仕切りによみがえる。アイヅではなくって、アイツとは日本中のさざえ堂を全て見て廻った旅もしたな。十五時東山温泉向瀧旅館着。立派なハナレに通される。温泉につかり休む。グデグデと三人で四方山話し。これからはグデグデやろうという話し。

マアしかし、グデグデと言ったって三人は、どおひっくり返っても心にゃ硬派の血が通う、なんだから、へたっても、老残としても、筋は曲げない、身は売らぬのである。それでなければ友として附合ってきた甲斐もない。十八時夕食と酒。二十一時眠る。

明けて本日。雨も上がり快晴なり。早朝遠くに白さぎがあいさつをするのを眺め、「こりゃ縁起がイイネ」と喜こぶ。八時朝食。渡辺豊和の「建築への伝言」を廻し読む。床の間の掛け軸の絵が「酒井白澄」作と知る。昨日、鈴木さんは、水に浮いた桜の花びらの描き方がどうも、と言う話しであったが、それならチョット酔った時の絵だろうという事になった。このハナレは、本当の隠れハナレで数々の皇室の方々や、下々では小泉元首相も泊まったらしい。ハナレの専用風呂が極熱の温泉で我々はとても入れなかった。小泉元首相は極暑、極熱が好みであったのだろう。極熱風呂に入って、感動したと言ったか、どうかは知らぬ。実に下らん事を我ながら記しているな。

昨日と同じ茂木さんなる女性ドライバーの車で会津若松へ。茂木さんは秋田生まれの会津ナショナリストであり、とても話しが面白い方である。会津若松観光の際は是非共茂木さんのTAXIを指名されると良い。少々うるさい位にサービスして話して下さる。

十時過の汽車で郡山へ。郡山駅で昼食。十三時過の汽車で三春迄辿り着き。竹中工務店の方に両先生は迎えられて、何やらの審査へ。私は今、「雪の降る町を」聞きながら、独人、にごり酒を呑み、遊子悲しんでいる最中なのである。

もしも、という時は人生には確実にある。もしも、あの二人と竹中工務店の方が私を山中に置き去った事を忘れてしまったとする。さすれば、私はこの三春デコ屋敷茶屋にて酔いつぶれ、何が何やらわからぬまんまに、この茶屋の老掃除人として余生を送る事になるのかも知れないのである。しかし、それはそれでいいんじゃないのという風もあり、実は私は望んでここに置き去りを求め、そして初夏だと言うのに、「雪の降る街を」を繰り返し繰り返し、イヤという程に聴き続けているのである。少し酒が廻ってきた。

R302
五月十六日

十七時前世田谷村発。十八時六本木磯崎アトリエ。磯崎さんに久し振りにお目にかかる。元気であった。イラクから帰ったとの事。最近は流石に私も少々の事では腰を抜かしたり、ウヘーッと叫んだりはしなくなった。しかし、磯崎さんのイラクのクルド居住地区での計画は仰天した。

磯崎新健在どころか、まだこの期に及んで神話的事件を創出しようとしている。そして、その具体的なキッカケもすでにつかんでいるのであった。

アニミズム紀行でも触れているが、トルコ、ロシア、イラクにまたがった、聖山アララットがある。この山にはノアの方船が埋まっているとされ、発掘作業が継続されていた。ノアの方船は神話創生期の創生そのものを作り出した大叙事詩=神話をそのものの超事件である。

イラクに呼ばれたのはクルド自治区に巨額なオイルマネーの特権で超美術館を建設するという話しであったらしい。そして磯崎さんはノアの方船としての建築を建設するのを考えているのである。

こんな事いうのは本当にイヤだけれど、「コリャ負けた」と痛感する。アラブ世界にノアの方船を再現するというのは大変過ぎる事件である。イラクに入国し、クルド族の、銃を持つ軍隊に護衛されてサイトを視察する磯崎さんの写真を眺めながら、これで磯崎さんは男児の本壊を隊げるであろうと、馬鹿な感慨にふけったのである。

磯崎さんの若い友人I氏に紹介され、十九時過近くのイタリア料理屋へ。神話的なプロデューサーK氏に紹介される。すでにイラクのノアの方船計画は動き始めているのを直観する。 二十三時半迄会食。〇時半世田谷村に戻る。

五月十七日 日曜日

六時起床。七時四〇分発東京駅に向かう。九時発の東北新幹線車中にて、鈴木博之、難波和彦両先生と会い、郡山へ。

R301
五月十四日

十時前、星の子愛児園で厚生館グループ理事長、愛児園園長先生と打ち合わせ。複合施設の概要与件をうかがう。面白そうである。意欲が湧く。21 世紀型の児童の家だな。十二時前迄。十三時大学、人事小委員会。産学協同による設計教育の試みを進めてみようとなる。稲門建築会との連携が重要となる。十五時研究室、午前中の打ち合わせの伝達。ボリューム算定を進める。

十九時、「水の神殿」の施工写真送られてくる。庭園の入口ゲート、流線型ドーム作成の為の大きな土盛の写真を見て、アアと嘆声をあげる。

絶版書房アニミズム紀行で考えを開拓しつつある事がそのまま光景として出現している。アニミズム紀行の旅そのもののドキュメントとしてネットで公開してゆきたい。

五月十五日

六時起床。新聞を読む。岡山県総社市上原遺跡より出土した弥生時代前期、BC 3世紀頃の出土品の写真に驚く。弥生人の頭かぶりらしきもので、その形の印象が実に「水の神殿」の洞穴にそっくりなのである。農耕儀礼や祭祀の際の呪術師のかぶりものではないかとある。アニミズム紀行1のグラフィックは韓国はハフェマウル村での仮面のスケッチをもとにしていたものなのだが、あのスケッチが実に「水の神殿」の造型に結びついていたのを、今になって知るのである。

形が生まれる現場に遭遇した気持に襲われた。自分自身のアイデアやデザインの脈絡らしきが視えたと思えるような時はそれ程多く出会えるものではないので、少々ゾクリとした。

この体験は記録しておこうと考えた。

こんな時にはつくづく思う。デザイン、造形は立体、平面を問わず、まさに旅そのものだな。迷路を旅しているようなものだ。時々、パッと光りが射し込む事もあるけれど、大半は闇の中だ。

三階テラスでほぼ全滅したと思われたツタンカーメンさやえんどうが何と四つ程育っているのを発見する。アメンホテップカラス軍団との闘いが又始まるのだろうか。ツタンカーメンも頑張っている。私も頑張ろう。

R300
五月十四日

六時起床。日記風のメモを公開するようになって十年位になるのだろうか。ほぼ完全に身体に馴染んでしまい、時にはメモを附す為に実生活がデザインされる風な錯覚さえ生じかねぬ程になってきた。生活のリズムを早朝型に変え、朝、メモを記す事が多い。それで日記といっても二日間にわたる事になった。又、休日はコンピューターのページを更新しないので、メモが三日にわたるなんて事も生じている。

それで読者が読みやすかろうと考えて、日付とは別にメモの記号をつけている。本日はR300である。一週間まとめて読んでくれる人達もいるし、時々気の向いた時にだけ読む人もいるだろう。それでこの記号をつけた。Rというのは別に大した意味はない。三桁が四桁になったら覚えにくいだろうから、又その時は変えるつもりだ。

面白いもので、R300の今日は何となく昨日のR299とは違って、新鮮な気分になっている。なにしろ300である。数字のキリが良い。今迄、何度となくメモのスタイルを変えようと試みてはきた。が上手くゆかなかった。一番自然な日記スタイルでないと長続きしないのだ。が、しかし折角の三〇〇回である。チョッとスタイルを変える努力だけはしてみようと思う。

時々、手許にデータが来る。毎日のヒット数でどのページがどれ程読まれているかの詳細なものである。日本版と海外版の二つのデータが来る。私のページの英文版は充実していないので、外国からのヒットの少なからぬ部分は海外居住、あるいは留学生の方々が読んでいるのだと知れる。アフリカにも読者がいる。どんな人なんだろうと想いを巡らせている。ヒット数は実に微妙に息をしている。多い時と少ない時があるのだ。

又、長文を書くとヒット数は減少する。短く切って書かないとどうやら読者は面倒臭くて読まないようである。しかし、私としては時には自分のモノの考え方を聞いてもらいたい、表現したいというのが本音でもあるから、時にそれを秘かにもぐり込ませようと試みもする。絶版書房の発刊を始めて、まだ三号を出しただけであるが、この発刊で私のモノの考え方を聞いてもらいたいという部分は大きな手段を持つようになった。それで日記の方には長い駄文を書かずにすむようになった筈である。

わたくしは今、ヒット数と対話しているんだと思う。毎日、毎日劇的な変化を見せるのだ、コレが。一人一人の読者との交信は不可能だけれど、ヒット数のディテールの変化でほぼ、読者の皆さんの意志、趣向は感じる事ができるようになった。だから、勝手ながら、わたくしはそれで交信しているつもりになっている。短いあいさつをさせていただいた。

九時前、明日の院レクチャーのシナリオ作る。データ作成を依頼。三階テラスの植物の様子を見て、二〇分発京王稲田堤の愛児園へ。

R299
五月十二日

夕方に予定されていた打合わせがキャンセルとなり、まとめて「水の神殿」と「時間の倉庫」の打合わせ。水の神殿計画では庭園のネーミング、商品のネーミング、容器ザイン、販促ツールの件等。良く資料を集めていた。全く情報収集のスピードは驚くべきものがる。しかし、これは誰でもとは言わぬが、多くの人間が平等に手にしているもので、その先の情報の編集能力が課題である。

「音の神殿」の、大工が作れる照明器具のデザインも進んでいた。与件さえきちんと与えれば、かなりの問題を解ける能力を持っているな。18m X 18m の螺旋スロープの腰壁に埋め込む二十数個の照明器具の一つ一つを皆ルールを作って個別に対応するというのをやっている。

吉阪隆正の不連続統一体の具象化である。いずれアニミズム紀行7あたりで報告する。「水の神殿」も「時間の倉庫」も今週に本格的工事突入するので気が抜けない。十七時半迄打合わせ。

十八時半近江屋で一服して二〇時世田谷村。

五月十三日

五時半起床。先日、成城の東宝撮影所サイトのホームセンターにネットを買いに行った時にホームセンターで猫や犬やカメ、魚などの飼育動物が売られているのを知った。アメリカン・ショートへアーなる猫なぞは二〇万円弱で売られていた。こういう類を買って帰る人は「絶版書房」の二五〇〇円は恐らく無関心なのであろうなと、考えた。うちの猫の白足袋は良くまあ、これ位野良猫の習性を持つものだなと思う位に、野良猫である。全く懐かない。最近は空腹の時にだけはミャーミャー鳴いて身をすり寄せてくるが、ひとたび満腹になればサーッと逃げてゆく計り。かかえ上げてみようとすえば、ひっかくわ、かみつくわで全くという程に可愛気がない。

それに人を見るというイヤな習性がある。主人は誰かを嗅ぎつけていて、その主人らしきが外出した時などは、階段の降り口でジーッと帰りを待っているようなのだが、私等が出掛けようが、帰ろうが関係ないという姿勢がアリアリとしているのである。しかも、地は野良なのに家の外には出られないという小心さの持主である。一度外へ出て、本物の筋金入りの野良猫たちに徹底的にやられた恐怖があるので、一歩も外に出ようとしない。つまり、正体は内野良猫なのである。非常に矛盾に満ちた存在なのである。室内野良猫の種族の誕生で、恐らく本能を自分でコントロールしているのではないか。脳の水準は極めて低いと言わざるを得ない。しかし、こいつが二階から外を、つまり遠くの町並みを眺め続けている、その姿にだけは何か感動的なモノがあるのである。

三〇分位遠くを眺め続けているからなあ。キッといつか、勇をこして外に出るのだろう。そして恐らくは二度と帰らない。そんな気がする。この猫が絶版書房の発刊本を読んでいる夢を昨夜みた。変な夢であった。

R298
五月十二日

六時起床。曇天。新聞を熟読する。小沢民主党代表辞任で昨日からTVは大騒ぎであるが、TV解説報道に接しても、何か重要な背骨が報道されていない様な感あり。かと言って新聞に代表される活字メディアも、TVの論調とそれ程の差異はない。こんな時にはすでに民衆(私も含めて)はマスメディア離れを起こしている。かと言ってそれぞれの考えを表明する手段がまだ少な過ぎるのである。

選挙だけが民衆の意志の表現方法なのか、極めて疑問である。動物的な即応能力の如きをマスメディアは身体に装着せしめているが、その即応力、瞬間的反応力だけではなく、もっと深く鈍重なさめざめとした眼をも又、街の人々は持っているように思うが。私の母等はその典型である。独人でTVは観ているが馬鹿にし切っている。

九時十五分発大学へ。

十時過研究室、サイトチェック。四〇分学部レクチャー。住宅論、一九七一セキスイハイムM1迄辿り着く。一九五〇年の池辺陽からほぼ二〇年の住宅の試みを講義している。十二時了。鈴木了二氏に用件あり連絡、元気そうでひと安心する。共同ゼミを再開させたい。いよいよ雑事と本格的な用件とを峻別せねばならぬ段階に入る。

絶版書房アニミズム紀行3の残冊は二二五。牛のようにゆっくりと歩いている。十三時前ツリーハウス協会K氏来室。相談十四時了。

R297
五月九日

六時起床。柄谷行人論考、岡本敏子「岡本太郎」他2、3冊を読み返す。良書、悪書取り混ぜて、昨夜来乱読している。我ながら無茶苦茶な乱読である。しかし、私なりの脈絡はチョッとあるようだ。乱読に乱読を重ねても、ひいては沢山本を読んでも何かが解るというわけではない。しかし読まぬ空白よりはましなのだ。終日乱読に継ぐ乱読。目的があるのだが、一向に手が動かない。本は肉体の麻薬でもある。

五月十日 日曜日

五時半起床。畑へ。キャベツを食い散らしているイモ虫を4、5匹退治する。新聞をゆっくり読んで、少しクセナキスを調べる。言語による、それでも質の良い論考集を読んでいると、暗く自信を失うような心持ちになる事が多い。クセナキスやル・コルビジェの格闘の跡を追うと、不思議にそんな気持がゆったりと落ち着いてくる。楽なのだ。夜、レヴィ=ストロースを少し計り読む。ようやく少し頭に入ってきた。遅いな我ながら。

五月十一日

六時起床。畑にも出ず頭を休める。我ながら頭は汚れた観念でギューギューづめになっている。3階テラスのプランターのゴーヤのつるが小さな木の棒にアッという間に巻き付いている、植物の行動は早い。こいつ等は本を読まぬから早いのだ。

連休から昨日迄、我ながら読書に明けて書物に暮れた。スケッチもエスキスも銅版画も、模型づくりも、その構想さえもが一歩も動かなかった。今更、中途半端なモノ作ったって仕方ないの自覚もある。身体能力の劣化もあるだろう。

テラスにうづくまって木の小片やヒモや中古のネットを組み合わせて植物用のシェルターを作っていると、むしろこの作業の方が読書よりも深い事を体験させてくれるような気もする。大方の書物は画一的な普遍という得体の知れぬ観念に顔を向けている。母親の独居を想い、哀切を共有する。

R296
五月七日

研究室十四時過発。近江屋にて一服して十七時過世田谷村に帰る。連休を、体は休めたが頭は疲れたので今日は少し休息させていただく。

五月八日

六時起床。畑へ。つるありいんげんの芽が勢い良く、いきなり発芽。凄い生命力だ。草むしりを少し計り。昨年はこれを怠り、結局畑が全滅してしまった。みょうがも大きな芽を出した。便所の脇のジャスミンが始めて花をつけた。三年目でようやくここまで育った。

山口勝弘先生からお手紙いただく。絶版書房の名付け親であるからいささか緊張して封を切る。

「絶版書房も私の長いアヴァンギャルド人生の生み落とした玉子かな?」

「地球上にアフリカのサバンナから出てきたホモサピエンスが、エジプトで、チグリスユーフラテスの河辺で人間らしい生活を始めてから人間の文化史が始まったとすれば、彼等はお墓の中に絵を描き、そして文字により記録を残してきました。・・・人間の想像力はナイル河、チグリスユーフラテス以来お墓に絵を描き文字を連ねて、自分の業績を文化史として残してきました」との遠大な感想が書かれている。

「現代の人々にとっては社会現実がアヴァンギャルドですから、芸術家はその力もなくなっております」の感慨も附されていた。

山口勝弘先生が「アニミズム紀行3」を読んで下さって、そのように感じていただけたとしたら、とても嬉しい。

九時過発。今朝の院講義は擬洋風建築について。転形期の建築様式として見逃す事が出来ないものである。大工、職人の想像力、すなわち日常に密着した民衆の想像力について話す事になろう。

R295
五月一日

十時二〇分研究室。「水の神殿」の新共同プロジェクトの構想固める。十時四〇分院レクチャー。十二時了。今日は休日なのにレクチャーである。力を入れてやった。十二時半研究室ミーティング及びゼミ。「水の神殿」の社会への広報を研究室の演習ゼミとする。十四時半了。

五月二日

五時半起床。原稿。六時畑へ。大根の芽が少し大きく育ち、四、五葉の大きな葉を育てているので、それを間引いた。悪いな、と思いつつ、間引いた。そうしないとデッカイ大根が育たないのである。六時半迄。八時半迄再び書く。チベット高原での体験を書いた。磯崎新が昨日から日経新聞に連載「私の履歴書」を始めていて、今朝が第二回である。磯崎さんのルーツがよく解る。チベット高原での、私にとっては天空との出会いとも言うべき旅も磯崎さんの手引きであった。十時過発つ。

区民センター前の空地(とても広場と呼べる代物ではない)で農協主催の植木・花・菜苗市をやっているのでのぞいてみる。十二時青山学院大学間島記念館鈴木博之研究室。鈴木先生にお目にかかり、ツタンカーメンのさやえんどうを差し上げる。東大を定年退官され青山に移動したが、つつがなくやっておられるようであった。間島記念館はルネッサンス様式らしき文化財で居心地も良さそうである。室を拝見して、すぐに近くのじん兵衛なるソバ屋へ。同じ穴のむじな同志なので昼飯には良い名前の場所であったが、いささか青山は物価が高そうだ。ビールを飲んで、いささか昼から酔った。実に弱くなったものである。十四時過別れて、世田谷村に戻る。

五月三日

五時二〇分起床。昨夜は鈴木さんから渡された「UP」(東大出版会機関誌)、アンリ・フォション辻佐保子訳のロマネスク彫刻読む。「UP」には鈴木さんの連載があり No.5 近代庭園論である。庭園の象徴主義的性格と自然主義的な傾向を奈良依水園を例に引き、解りやすく講義している。将来の庭園デザインはイサム・ノグチの抽象的象徴性を帯びた流れか、又はビオトープ迄も含めた自然主義的傾向を帯びたモノになるかと書かれている。象徴主義はそれを用意できる世界観的前提が無いと成立し得ぬというのは当然の事ながら誠に明快な指摘である。「時の谷」の庭園、「水の神殿」の庭園いづれもどんな世界に属するモノになるのか、おおよその見当がついた。

絶版書房アニミズム紀行4、32 枚迄辿り着いたところで小休。十八時 40 迄辿り着いて休む。何とか、あと三日で百枚までやりたいのだが。

五月四日

六時半起床。畑へ。キャベツについている青虫を退治する。もう随分葉を喰い破っている。何処から来るんだろうコイツ等は。中国菜心を間引く。七時半新聞。ネパールの政情が大きく揺れ動いているようだ。何故かカンボジアのナーリさんの言う通りだな。コレワ、新聞よりもナーリさんの方が正確で速いのかな。原稿。ネパールの現実の情報に触れて、いきなり世界市場の事なぞ書き始める。悪いクセだ。コレワ。

十時四〇分烏山駅で関西の編集者Y夫妻とお目にかかる。4才の子供を同行して、世田谷村見学に来られた。家人の都合で中は勘弁していただいたが、近くの区民農園、私のK2菜園等を案内し、説明する。十一時四〇分近くの宗柳が定休日で、コンビニ風の寿司屋で昼食。十三時半お別れする。若い世代の編集者達の感性に触れるのは面白い。

43 枚迄原稿書いて、休み。あんまり仕事は、はかどらなかった。明日頑張ろう。

五月五日

六時前起床。新聞を読み、四〇分原稿にかかる。今日が勝負だな、壁に対面しちまっている。八時半五〇枚辿り着いて小休。仲々、ペースが上がらない。九時畑へ。水やり。十時半再び小休。

昼前、近くの世田谷文学館に出掛ける。松本清張展を見る。「点と線」「黒い霧」「火の路を探る」それぞれ 20 分 20 分 40 分弱の映像もあり、面白かった。「火の路」は松本清張の古代史シリーズの一つであり、飛鳥地方の石の文化、猿石、船岩、流酒石の如くの不可解な石の文化をペルシャのゾロアスターに結びつけようとしたもので、飛鳥とペルシャが行き交う映像を見ていううちに渡辺豊和さんを想ったりしてしまった。豊和さんの原基は梅原猛ではなくって、松本清張なのだ。ゾロアスターの秘儀らしきを初めて映像で見る事ができて良かった。十六時前、六〇枚迄辿り着いて再び小休。十九時七〇枚迄書く。一気に展開した。今日は、ここ迄とするか。同じ調子で進んでもまずいからな。

五月六日

五時半起床。畑へ。レタスを一つ収穫する。他に何もする事なく、樹木の廻りをうろつき歩く。雨模様の曇天である。六時新聞読む。八時、七十六枚迄原稿すすみ小休。十三時過息抜きで西調布へ。十五時戻り、九十一枚迄辿り着く。もうこれで良しとするか、まだやるか。どっちも、どっちの良し悪しがあると小休十七時前。この原稿はこれからの道筋を決めかねぬものになると自覚。

五月七日

五時前起床。連休の間のメモを読み直す。アッという間に読める位に少ない。モノ書きに没頭したな連休は。

七時四〇分百一枚迄辿り着く。休みに入る前の目標はこれで達成した。絶版書房の四号も御期待下さい。

ところで、三号は何処まで残冊が減ってくれているのだろうか。急に気がかりになってきた。

十一時過研究室。サイトチェック。アニミズム紀行3の残冊は連休中余り動いておらず、二三一冊である。残念なり。もう少し動いてくれと天を仰ぐ。ミーティング十四時迄。今年中のアニミズム紀行のプログラム他の大方の仮説を立てた。

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2009 all rights reserved
SINCE 8/8/'96