R341
六月三〇日

六時起床。昨日のメモを記す。八時半過発東京丸ノ内へ。アベルと待ち合わせ。M社へ。九時半過Mビル1Fロビーでアベルと下打合わせ。我ながらクリアーでない。ラテンだからなあ。仕方ないか。

十時M社グループの方々六名と打合わせ。組織全体に関して、やはりクリアーに説明出来ず、再来する事とした。 十一時過了。

十二時前研究室戻り。アベル、他スタッフと打合わせ。大事な話しがボロボロとアベルから出てきて、やっぱりという感じ。アベルが大事じゃないという話しが、実ワ本当に大事な話しなのだった。組織の大枠に関して理解、把握した件を、メールで送附。同時にチリ側にも報告する。やっぱり細かい件迄全てに眼を通していないといけないなコレワ。十四時過了。

十四時二〇分新大久保、近江屋、早大芸術学校鈴木了二先生と打合わせ。色々と相談をすすめる。

七月二十五日石山、鈴木合同ゼミ、特別講義、鈴木了二「ゴダールを知らずして建築を語れるかっ!」開催を決める。開始 19 時会費五〇〇円である。映像、空間、建築、連続レクチャーの一環として。十六時前了。新宿で別れる。

新宿長野食堂で一休み。十七時半迄。十八時過世田谷村に戻る。

七月一日

六時前起床。絶版書房4号の表紙デザイン他も決まり、あとは私の最々後ゲラチェックが残るだけとなった。アニミズム紀行シリーズは今現在考えられる最長の射程距離を持つ筈なのだが、時々、悩ましい。人間は恐らくは誰しもそれ程強い生物ではない。ともあれ、絶版書房、アニミズム紀行3は残冊 60 そこそこ迄辿り着いてきた。ゆっくり、ゆっくり頑張りたい。

雨の合い間に何の鳥だろうか、小鳥の声がいきなり沢山耳に入ってきた。ネパールの朝を思い出す。一瞬、身体が重量を失い霊気が私をヒマラヤに運んだのかな。まさか。人間には誰も、しかし、そんな時があるのだろう。

R340
六月二十九日

六時起床。葉書、手紙他通信。電話、メールよりも時間がかかるが私にとっては信頼できる交信手段である。一葉の葉書に数語しか書けぬが、選び抜いた言葉が並ぶ事になる。それに字は残るから。九時了。私用。

十六時前、アベルより明日の打合わせの資料、他を受け取る。十六時新大久保近江屋で安西直紀氏と、水の打合わせ。安西氏 500ml の各種ブランド・ボトル十五本程を打合わせに持参。全て、自宅近くの東急ストアーの売れ筋のものばかりらしい。日本の大メーカーのモノ、外国産のモノ等を全て飲まされる。考えてみれば商品としての水の試飲は生れて初めての事であった。

ブランド名、会社イメージ、生産地域、国等の情報がダイレクトに水のテイストらしきに反映されるのを自分で知る。人間は実に味覚に頼りない生物である。

十七時水上温泉の温泉旅館若社長H氏と会う。H氏は慶応高校での安西氏の友人である。水上温泉、Hホテルについての話しを聞き、いささかの私見を述べる。若い経営者には大きな可能性があるので、そのバイタリティーの芽をつんではいけないのだ、と自戒しつつ話した。それにしても若い。

私もそうだったけれど、若さに時勢があるとすれば、闇雲な行動力と計算し切れない創造力、そして情動だけだろう。情動、すなわちセンチメンタリズムだ。若者からセンチメンタリズムを除いたら、跡には何も残らないかも知れない。恋愛もその一部だろう。

色々と考えさせられて、面白かった。しかし、慶応と早稲田では、私の知る範囲では全くカラーが異るな。それも興味深かった。

水をガブガブ飲み過ぎて、腹がボコボコになり、十九時過会談を終える。彼等は新大久保の街を見学に、私はいささか疲れて世田谷村に戻った。

R339
六月二十六日

十時過研究室。サイトチェック。十時四十分院レクチャー。フィリップ・ジョンソンのガラスの家。まがいの建築、情報時代の建築、プッサンの、ニセモノの「フォーキオーンの葬送」十二時前了。十四時アベル、半品川周辺まちづくり協議会渡辺氏来室。まちづくり協議会は頑張っている。品川宿に外国人向け、あるいは日本の若い人向けのゲストハウス作りを進めようとしている。応援したい。私のところの留学生達にすすめてみる事はすぐできる。

雑打合わせの後、早退、新宿長野食堂で一服して、十八時半世田谷村に戻り、すぐ眠った。やはり昨日の北海道日帰り現場が少しこたえているようだ。

六月二十七日

六時起床。昨夜も二輪月下美人咲く。午前中、仙台の結城登美雄さんとFAXのやりとり。十一時過ぎ一段落。十二時半宮崎の藤野忠利氏より、作品2点送られてくる。一気に大きくなっている3号、4号共に仲々良い。具体の藤野忠利から作品らしきを数多く受け取ってきたが、初めて、コレは良いと思った。何年か前の作品をつぶして、再生させているのだが、その方法もとても良いのだ。もしかしたら、本当に画家藤野忠利は再生するかも知れない。

本気でやっているなという感じがヒシヒシと伝わってくる。コレワ、わたくしも負けてはいられない。というよりも、そんな上から見下ろす様な、ゆとりはどうやらない。すぐに印象を書いて送る。つもり。こうなってくると交信にもエネルギーがいるのだ。新制作ノートかく。

六月二十八日 日曜日

朝から晩まで、制作、諸々の通信。ドローイング四点を得る。新制作シリーズとでも呼びたいドローイング四点となった。作り続けて、どうしようというモノでもない。作りたいから作っている。

藤野忠利からすでに4点のペインティングがおくられてきている。これが仲々の力作なのである。画塾のオヤジ、画商の気鋭がみじんも感じられない.当然のことながら、藤野忠利一家は生きていかねばならぬ。より良く生活していかねばならぬ。それ故に、画塾、画商を生業とする。これは、とやかく言う事ではない。私だって教師をやっている。何の違いもない。

しかし、何かを作る、表現するって事に絞れば.これ等、画塾、画商活動は余計なものである。しかも、その何かを作る、表現する、の水準、すなわち野心の水準、ハードルを上げれば、上げる程に、表現は専門家風に狙いを絞らざるを得ない.

だが、藤野忠利の良いところは、その芸術家としての生活の場が72才の老境を迎えるにあたって、ニッチもサッチもゆかぬ、作品作りだけでは生活できないというところにある。これがとても良いのだ。絵だけ描いて生きてゆく様な人間は実はあんまり信用できない者でもある。本当に現代を生きているのか、どうか解らんぞと言う感じ方もある。

藤野忠利は、このシリーズ(新制作)、再生プロジェクトの前には「大入り」をテーマと言えばテーマとして、テーマにならぬ事をキャンペーンのように掲げて活動を続けていた。 「大入り」とは、要するに、一家繁栄、お金ドンドンという事である。万人の夢だ。芸術家だって正直なところ大入りは夢である。欲望に近い夢でもあろう。グローバリズム下の市場は芸術だってもう完全に商品以外の何者でも無いのである。さて、どうするのか、藤野忠利も石山も、と言うところである。

R338
六月二十五日

五時起床。六時発、羽田へ。七時二〇分JAL待合せポイント。七時五〇分発十勝へ。機内で絶版書房アニミズム紀行4の表紙デザインに手を入れる。ア二ミズムらしい表紙になりそうだ。終了後再びゲラ校正。4度目かな。まだ読みにくいところがある。

九時半帯広空港着。カラリと晴れ上がって暑い。仙台の「アトリエ海」所長佐々木君吉氏迎えて下さる。車で音更町の「水の神殿」の現場へ。一時間程、十勝の平原の中を走る。若い頃にシルクロードを走り続けたこと等をフット、一瞬かな頭に記憶がともった。北海道の六月は緑、シルクロードは砂の色だけの違いだ。しかし、懐の深さが違うのだな。

十一時「水の神殿」現場着。顔なじみのアトリエ海の多能工達に再会する。皆真黒に陽焼けしている。仙台から設備配管のプロも、フェリーで北海道に乗り込んでいた。プロが大移動してくれている。とても良い、理想的な現場になっている。「水の神殿」庭園、入口ゲートのドームはほぼ出来上がっていて、初めて中に入る。良い。仲々良い。使っている材料、その他は全く異なるけれど、私の二〇代の処女作である幻庵に通じる現場であると直感できた。

現場は多くの素材が、多くの場所から集められており、それが宝石の原石のように光っているのであった。大地の土を型枠として作ったコンクリートドーム、人工の土手を造成する為の大量の土、大雪山の三〇〇年の地下伏流を自噴させる装置、及びパイプ、そして、その自噴装置のノズルの数々、自噴する水を通す、グラスファイバーの細くしなるパイプ、本殿を構成する柳の木の原木、水の通路の陶器半切パイプ、他。実に多くのバラバラな世界の断片が、そこいら中に転がっている。

これらに囲まれて、とても気持が高揚した。ハイテンションになる。久し振りの事だな。生きている実感を直接に得た。

ドームの内部は指定通りに、ムシロやゴザや、縄のテクスチャーが溢れ返っている。アトリエ海の職人さん達の創意工夫も多い。それ等を全て、消さないで生かす方向のオペレーションをした。全部前向きに生かすのだ。少しばかり、怪しいモノも、つじつまが会わぬモノも出来るだけ消さぬようにした。

その場当りの成行主義では、コレワ、ないのである。それ程、馬鹿ではない。モノを作る現場に参加している、職人さん、労働者、他の意志、工夫をできるだけ汲みとるという考えによっている。ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスの思想に通じていると信じたい。

この現場はセルフビルドの思想の発展型である。エヘン。それ位言わせていただいて良いと思う、ここ迄やれれば、ですね。

十勝は気温三十一度を超えていたようだ。暑いので、私の気持も熱くなったのであろう。

十二時過、車で十勝十割そば屋へ。国道を走って出会った最初のメシ屋であった。現場に戻り、山田建設のスタッフと植生に関して打合わせ。四国のK社長とも電話連絡をして、なんとか七月半ばの竣工式までに少し計りの草の芽をふき出してもらう工夫をする。

この「水の神殿」の計画は、仕上りは全て土で埋めてしまうので、草や樹の姿だけが眼に写るモノになるのだ。

カンカンと音のする位の陽差しの中で、動き、考え、身体に力をたくわえる事もできた。現場に感謝したい。

十六時前、帯広空港より、東京へ。佐々木さん、渡辺と別れる。十八時前羽田着。十八時半東京駅八重洲口で清水氏と会う。色々と、これからやりたい事などホラを吹いて、二〇時半頃世田谷村に戻る。

エネルギーを注入できた一日であった。いい現場、モノを作る境界線に立つ事は、抽象的にではなく、本当に、具体的に生きるエネルギーを注入される感がある。こういう事がなければ、苦労してモノ作る意味もない。

世田谷村の月下美人が一気に七輪の大花を咲かせた。ふくよかな、香りにひたり、いい夢を見たい。

R337
六月二十四日

五時半起床。藤野忠利の頑張りに対抗して、私も連続制作2号の想を練る。何かの紙箱の裏に2号の制作始める。走馬燈屋台メカニズム。未完である。

宮崎県立美術館で現代っ子センター創立35周年記念「世界児童画展」開催との事で、そのカタログに書けとFAXが入り、すぐ書いて送った。十一時過迄諸々の仕事。

十三時研究室。ウェブサイトチェック。絶版書房残部 70 冊になっていた。十五時前迄雑用。十五時演習G。主として東北大との共通課題チェック。どうもおもわしくないが、失望しないでやりたい。自分の学生を信じるしかない。十六時半、途中で去る。北園、渡邊大志両先生にアトは任せる。

十七時前GKデザイン機構。「触れる地球内覧会」出席。GKグループのGKテックが開発した新しいコンピューター情報を内包した新しい地球儀である。立体、さらに直接的には球体モデルの地球理解のモデル模型。あるいは任天堂的ゲームおもちゃ、あるいはエンサイクロペディア的球体である。

栄久庵憲司的アニミズムをベースにして、GKらしい良い開発物体である。手に触れられる、地球の自然情報を満載した、映像情報地球儀なのだが、GKの会長室、つまり栄久庵さんの会長室に溢れんばかりの世界中のおもちゃ、道具の進化したモノなのだという事がすぐ理解できるのである。

GKグループが幼児教育も含めた新しい地球学的道具を意図的に開発した、その結果としてであれば、仲々のモノではないだろうか。と、偉そうに言うまでもなく、GKは良く運動体として頑張っている、と頼もしかった。栄久庵さんはやっぱり天才的な教育者であるな。

触る地球に関しては、新制作ノートに更に記したい。この試みに比較したら、建築界は非常に遅れている。十九時にGKを去り、新大久保近江屋で休み。二十一時世田谷村に戻る。

二十二時、ドローイング、制作 No.2 を仕上げる。我ながら、良く出来たドローイングになった。かなり良い。GKの仕事に刺激を受けたからなのかな。ドローイング No.1、No.2 といい感じで自分の世界を拡張できてるような気がする。

栄久庵さんは足は少々弱っているが、精神と脳は絶好調だな。

R336
六月二十三日

十時過研究室。学部レクチャー。R・バッキーフラーと川合健二、及び川合健二・花子夫妻邸。そして恥ずかしながら、世田谷村について話した。川合健二邸はDOCOMOMO近代建築遺産に指定されたので、学部のレクチャーで話しても良くなったのではないかと判断したのだ。ここ十年程はレクチャーでは外していた。

十二時過、打合わせ。十三時半、水の神殿及び水の商品化を中心としたゼミ。M1のアマゾネス達の研究成果を聞く。仲々良い成果をM1は示した。

北海道の水の商品化の現状をリサーチして、しかる上である答えを提示してきた。近々、この成果は「水の神殿」ページか、新制作ノートで公開したいが、仲々見事な研究とデザインの提案であった。十六時了。

東大との共同課題について、何がしかのやり取りをする。このやり取りも公開したいくらいのモノである様な気もするが、これは矢張り非公開が筋であろう。

十七時半小会議室で西谷章理事、村松映一稲門建築会会長と打合わせ。学部設計課題についての相談。 大きな改革的案について討議する。十八時半前了。

十九時半、新大久保近江屋で一服。二〇時半過了。二十一時半世田谷村に戻る。

宮崎の藤野忠利さんより、通信2号作品が送られてきた。これは仲々の、私に対するプレッシャーになるな。今夜は作れそうにないので、明早朝私も二号を作りたい。

R335
六月二十二日

午前中、諸々に電話をする。そして電話を受ける。一段落して、十一時過研究室。すぐ、打合わせ。

残念ながら、絶版書房の残冊は動いておらず。本気になって心がけているのがほぼ私だけなのだから、これは仕方ない。でも、こんな大変な時なんだからなと、弱音も吐くのである。こんな、イイ本買わずに、良く生きられるわよ!とつぶやく。

村上春樹の高校生、中学生向けの本が何百万部も売れて、石山研「ひろしまハウス」本が何故 400 部売り切らないのか、と我ながら理不尽に怒る。

色々と電話したりで、予定していた今日の仕事は十四時に終わる。後は私用に時間を費やす。

二十一時、向風学校のすすめ、書く。水の神殿計画と連関し始めているので、具体的な事を書けるようになった。

R334
六月二〇日

十二時過世田谷村発。十三時半京急線新馬場、研究室メンバー及び向風学校安西と会う。十四時品川宿交流館で、東京駅八重洲の清水氏、品川周辺まちづくり協議会長・堀江新三氏と会う。様々な相談。つけ加えるに絶版書房6号の人物編品川宿のボスにお目にかかる。

路地に風が吹き抜けて、実に気持の良い午後であった。十六時、皆さん都議選やらでお忙しいようなのでお別れする。

十六時過、青物市場駅近くの「鳥しん」で、滅法うまい焼鳥をいただく。御主人の鎌倉おさむさんの話しをうかがう。

「堀江がまだおシメが取れネェ時から知ってるよ」とまちづくり協議会長の堀江新三とは古い附き合いらしい。

十八時過世田谷村。

六月二十一日 日曜日

今日は一日畑仕事をしようと思っていたが雨降りで出来ない。正直なところホッとしている。トマトは沢山実をつけているが、穫るのはまだ早い。キャベツはイモ虫に喰われて皆、といっても五つだけだけどボロボロである。午後、晴れたら草取りだけはやろう。

宮崎の藤野忠利さんより、日記スタイルの絵が送られてくる。私が依頼して始めた。

藤野忠利、しかも三人目の藤野忠利をわたくしは創り出してみようと考えている。そう、老残の芸術家の生の意欲らしさを、それ自体をデザインしてみたいのである。

先日、わたくしは藤野忠利にある意味では辛辣極る言葉を吐いた。

「藤野さん、このまま死んだらイケない。アンタは器用過ぎて、それでまだ自分をまっとうできてない。

だから、日記みたいに絵を描いて、私に送って下さい。それでもう一人の藤野忠利を作ってみたい」

その第一便が届いた。

「作品というよりか『物質』です。えのぐも物として使用しています。描くというよりかぶっつけ投げつけるというところでしょうか」

と書いてきた。

今日中にわたくしは具体の画家、赤裸々に言えばいまだ成功していない老残の画家に次作をこう描いて欲しいという通信を送らなくてはならない。一生懸命それを考えねばならない。

考えつめれば、わたくしだって老残の何者かに過ぎない。老残同志なのだ。藤野忠利の何か、より本質に在る光のようなもの。それを頼りに、わたくしだってより生命を輝かせて行きたいと思う。

私も、いつも何かを描いている。建築のエスキスばかりではなく、それ自体自立した遊びのようなモノ、銅版画だって彫り続けている。藤野忠利の力を借りて、わたくしの遊びも一段階パワーアップさせたい。今のままでは余りにも中途半端なのだ。

R333
六月十九日

十時四〇分院レクチャー。アメリカについて。ヘンリー・フォード、ヘンリー・デービッド・ソロー、R・バックミンスター・フラー、ロイド・カーン、そしてビル・ゲイツについて述べた。十二時了。十二時四〇分発、野村と京王稲田堤へ。十四時厚生館理事長と打合わせ。設計画二案をお渡しする。

厚生館で彫刻家長嶋栄次氏の作品を見た。とても良いと感じた。

厚生館は理事長手作りの生垣の緑が実に多様に、豊かに育って、これも又実に良いのである。

長嶋さんの彫刻も厚生館の生垣も実に平穏である。

私鉄、地下鉄を乗り継ぎ十六時研究室に戻る。二十一時世田谷村。

六月二〇日

七時過起床。植木屋が入って梅の樹の枝を伐った。桜伐るバカ、梅伐らぬバカと言うらしいが、一気に二階からの眺めがひらけた。

昨日も学校の門の近くで、カラスに襲われた。しかも、二度も。本当に冗談ではなく、用心しなくてはならない。確実に同じ奴である。明らかに私を個体識別している。これで三度目の襲撃である。ヘルメットを着用しなくてはならぬか。

マスク、ヘルメットと人間は次第にサバイバル状態に追い込まれているな。

R332
六月十八日

十六時半迄私用。十八時新宿で安西、板澤、マシュウ等と会い、相談。水の神殿、大雪山深層地下水の件。一日一万本売るのは大変だけど、試みてみるか。元気な若者達だ。今時、珍しい。その希少さが取得である。

向風学校は足腰が弱い。要するに金が無い。それを先ず強くしようという当り前の事からやり直すことにする。一日ペットボトルの水を一万本売れるかどうか、逐一、「向風学校のすすめ」のページで公開する。できるかな、できないだろうな。

六月十九日

七時過ぎ起床。一日一万本、私は考える。動くのは安西達だ。やれば出来るだろうと、考えるようになった。安西が昨夜、「ケースにしたら、千ケース位だな、大した数じゃない」とつぶやいたのが面白い。こういうのは早稲田の連中よりも慶應の連中の方が上手だろう。

R331
六月十七日

昨夜の鈴木、難波両先生とのワインが残り、頭も痛いし体調もすぐれない。我ながらロクな人間ではないな。十三時半大学へ。製図準備室で卒業生と相談。次いで渡辺君打合わせ。

十五時演習G。個々の学生のそれぞれの課題と、東北大との共同課題の双方に対応。博士課程、修士課程、学部4年生対象の、実質的にはスタジオである。現在二〇名程の学生が参加しているが、やはり高学年の学生の研究には対応に力が入るし、必要ともなる。十九時迄。

次の院レクチャーのデータ作りをM1のTAと共にして、準備室を去る。二〇時前、北園先生と近江屋で相談。北園先生のプロジェクト作りをそくす。彼は四十三才で、独立した建築家であり、石山研第一期生でもある。建築設計は生涯学習であり、実ワこれ位の年令の現役の建築家が、言っちゃなんだが教えるのにいは一番面白いのだが。

二十一時前世田谷村帰着。翌十八日午前三時迄断続的に読書を続ける。アニミズム紀行5、及び紀行シリーズ枠外になるだろう、6号、東海道五十三次、品川宿計画の為の準備を急ピッチで行う。

六月十八日

七時過起床。隣家及び隣家の樹木が全て取り壊され、切り倒されたので、我家の西側は完全にスッポンポンになってしまった。二階の窓際にパジャマを着てボーッとと立つなんて事が、気分的に不可能になってしまった。 ささやかな事ではあるが、家というモノ自体の意味・価値にとってはとても大事なコトが含まれている。

隣地は有料駐車場になるという。それは地主の土地経営の意志であり、何者も口をはさむ事は出来ない。しかし、百坪程の有料駐車場の駐車場プラン作りによっては、角地にあった赤松他は残しても一向に差仕えなかったかも知れない。

要するに、有料駐車場計画、及び計画者に駐車スペース貸与による土地経営の合理的推進の外の価値観が一切入っていない事である。樹木、グリーンは大事である等の抽象論を言っているのではない。

百坪の小さな駐車場の合理的な土地経営を目的とした計画でさえ、ホンの少しの工夫次第では五〇年以上の樹齢を持った、見事な堂々たる赤松の価値そのものを守る、あるいは作り出す事ができたのではないかと、実は大変に後悔しているのである。

一本の赤松の保存運動みたいなのを、一人で始めていれば良かったのだ。スッポンポンになって裸身をさらすようになって、それに初めて気付くのである。我身に利害がふりかかって初めて気が付くのである。実に愚かである。

R330
六月十六日

六時過起床。西の隣家が樹木やヘイも含めて全て消失した。早朝新聞を取りに出て、余りのスッポンポン振りに仰天する。我が家が丸裸状態になった。隣家の樹木が随分、うちの異常なとも思える何か、強さかな、強情さだろうな、それを柔らげてくれていたのを実感する。赤松も含めて、良い樹々であった。

十時過ぎ研究室。十時四十分学部レクチャー。アメリカについて。ヘンリー・D・ソロー、ホイットマン、メルヴィルとバッキー・フラー、ロイド・カーン等について。十二時迄。十二時半、院ゼミ基本方針相談。十三時OG相談。十三時半、佐賀の筒井ガンコ堂、筒井氏来室。今秋の佐賀での森正洋展、これは大がかりな森正洋の国内展になるのだが、それの打合わせ。故森正洋先生には恩義も仁義も双方ある、一も二もなく協力を約す。本当に懐かしいな、森正洋さんは。侍だった。

十五時前日大生相談。十五時半院ゼミのテーマを再び相談して決める。「動く、移動する」が半年間のテーマとなった。十六時野村、渡辺、厚生館計画打合わせ。十八時四十五分迄。

十九時近江屋で難波和彦先生と会う。チリ計画の件、鈴木博之先生同席。鈴木さんより万年筆いただく。久し振りに会った。気分が高揚して、鈴木先生のブラリの拠点の一つ、池袋の魔窟ワイン&チーズBarに足をのばす。ドシャ振りの雨であった。池袋の魔窟ワインBar、ボワールアンクーは日本名では一発なぐる、の意だそうだ。手頃な値段でよいワインが飲める。女主人の工藤さんは句会妙見会の事務局長であるが、実ワ何もしていない。

八月八日八時から一時間半、一発殴るのボワールアンクーにて、ただただ集り旧交を暖める。四席程ゆとりがあるので、変な会を観てみたい、変な奴等と話してみたいという人は来られたし。俳句はよまなくてもよい。電話は 03-5985-8185 である。

何時迄、「一発殴る」に居たかも解らず、難波さんに新宿迄送っていただき、深夜、世田谷村に戻る。秋の東大早稲田の共通設計課題の基本方針の相談も始めた。

R329
六月十五日

十一時研究室。絶版書房アニミズム紀行4及びドローイングをスタッフに渡す。打合わせ。相談他数件。十六時ますいいリビングカンパニー増井君来室。打合わせ。そろそろますいいカンパニーと協同の仕事ができるとよい。彼も随分成長したな。苦労したのであろう。アニミズム紀行3、12 冊にドローイングを入れる。十八時、厚生館設計打合わせ。

水の神殿向風学校、和文、英文TOPページキャプション他原稿を丹羽君に渡す。

帰りのJR電車中でドア上の動画掲示板を何気なく眺めていたら、突然、中央線三鷹駅西の長い陸橋の画像が写った。オヤ、と思った。三鷹の玉川上水に女と入水自殺した太宰治が好んで、良く訪れていた陸橋だと説明文が流れた。太宰治は古い武蔵野の風景が眺め渡せるところとして好んだらしい。

私にとってはこの陸橋は高等学院生であった頃、山登りのトレーニングの場所であったのだ。重いリュックサックを背負って階段を登り降りしていた。一人で。マ、太宰はセンチメンタルに故郷津軽の風景を重ねていたのだろうが、私はそれどころではなかった。実に体育会系であった。登山家としては早々と才能の限界を悟り、挫折したが、あの陸橋での一人のトレーニングは私の体の中に残っている。

二十一時世田谷村に戻る。

R328
六月十三日

十四時アベル・エラソとチリ建国二百年祭打合せ。十五時北大学生来室。厚生館の模型を短時間で作る。ペーパーモデルだが、短時間で作るとアイデアが開けてくる事があるのだ。余計な事を考えないですむからだろう。十八時烏山宗柳で渡辺君と打合せ。十九時半了。

向風学校のすすめ」に、原稿を書く。絶版書房4の、再び最終ゲラ校正。ようやく、最後のツメ部分へのつなぎのアイデアが出た。

北海道音更の現場から、現場写真のデータが送られてくる。来週の月曜日から、アップテンポでこのサイトにオンしてゆきたい。「水の神殿」の工事は独特な風景を作り出している。北海道の平原に、大地の土を、あらゆる方法で使い、土の内外に空間を作り出している。

六月十四日 日曜日

昨夜は遅くまでアニミズム紀行4に手を入れた。少しずつ良くなっていると思う。九時、アニミズム紀行4最終章の原稿を書く。最終章は具体的な人物論、つまり人間をモデルとしたアニミズムへの注目を喚起した。

ようやくにして、私としても直観で始めたアニミズムの旅の行方が、視えてきた気もする。

十六時了。畑に出て、少しばかりの草むしりと大根を2本収穫。小さな畑には梅の樹から落ちた驚く程多くの梅の実が散乱していてそれなりに美しい光景である。キャベツの葉にはイモ虫が喰いつき、ボロボロに喰いちぎられている。トマトの実は大きくなって、あとは色づくのを待つばかり。

区民農園を久し振りに訪ねる。アッという間に風景が変わっている。色々な野菜が堂々と育ち、野菜の森の姿になっていた。うちの畑とはかなり違う姿で、又も、私の非力さを痛感する。区民農園の方が陽当りが良いとは、コレは負けおしみである。もう少し力を入れなければ野菜にも申し訳ない。

R327
六月十二日

十時過研究室。十時四〇分院レクチャー。第十回ルイス・カーン、ブリティッシュ・アート・ミュージアム・ニューヘブンについて。今日で院レクチャーは第十回である。前回のセンズベリーのアート・ギャラリー・センター(イギリス)、ノーマン・フォスターのヨーロッパ型民主主義、イギリス型ハイテク建築内の光について、に次いでルイス・カーンの光、すなわち極北とも考えられる、神秘主義的な建築の光について述べた。

今日は流石に学生の遅刻は無かったので、力を尽くすことが出来た。

十二時過了。京王線稲田堤、厚生館理事長の許へ。理事長の役所との対応が素早いので、こちらもそれに併走する速力を持たねばならない。十四時、第三案を示し協議する。大方の配置計画の方針が見えてきた。

北海道「水の神殿」の現場は大雨で工事は今日は遅滞しているようだ。現場の職人さん達の苦労がしのばれる。十六時過近江屋で渡辺と打合わせ。絶版書房の印刷をしていただいた会社がいきなり解散してしまい、突如4号の印刷が心許なくなってきてしまった。

これ迄の3号迄を印刷して下さった会社は 250 人程のスタッフが働いていた立派な会社で、とても前向きな気持を皆さんが持って下さっていた。残念である。無念ではあるが絶版書房としては前に進むしかない。

夜、印刷所の事件は別として、4号の最終ゲラに手を入れる。4度目の手入れだ。

野菜作りも原稿書きも同じである。手入れが大変だ。印刷所の解散をチャンスととらえて、もう少し書き加える事を決意した。アニミズム紀行4号は大変な問題に対面してはいるが、何とかくぐり抜けてゆくつもりだ。これ迄で一番の出来上りにする。二十四時過迄、4号に手を入れ続ける。

R326
六月十一日

十時過東京駅発、新幹線内でほんの少し計りの仕事。身体が若干辛いが、頑張れない程の事も無し、梅雨の雨霞で墨絵模様の天気である。十二時過仙台着。東北大坂口先生迎えて下さる。十三時前東北大着。すぐに、4年生石山スタジオのクリティーク及び指導にかかる。

二〇名の参加学生はそれぞれに力を出している。一概に、率直に、クリティークに反応していると思う。何人かの学生にはとても良い可能性を感じた。一度でも教えれば同じ学生だ、東北大も早稲田も無い。皆、私の学生である。アト一ヶ月弱ではあるがうまくまとめさせたい。全国の数ある建築学科でも恐らく初の、本格的な農と食の問題への取組みの課題である。良い成果を得られると良いのだけれど。

十七時半迄一人一人にアドヴァイスを続けた。我ながら、異常である。早稲田で、こんな事はした事が無い、東大との共通課題以外には。少人数への対応はポテンシャルも高くなる。したがって、非常に、大変に疲れた。

十八時、仙台市内いろは横町の飲み屋で、坂口先生、五十嵐太郎先生、そして、結城登美雄巨匠と共に会食。わたくしは、疲れきっていたけれど、結城さんが来るというので精一杯、我ながらやってみた。一年以上振りにお目にかかる。結城さんは異常なハイテンション、ハイパワー振りで、圧倒された。こんなハイパワーは建築畑には今は皆無である。景気の良い話しの、結城さん独演会で、一同拝聴するばかりであった。

しかし、こういう農と食の問題への専門フィールドの元気な人物は、今の日本に必要である。一筋の光明を視る。二〇時半過了。皆さんとお別れして、仙台駅へ。二十一時前の新幹線に乗る。

今日は良い一日であった。何しろ、結城さんの健在振りが何よりも嬉しかった。 二十三時東京着。二十四時世田谷村着。倒れるようにすぐ眠りにつく。

R325
六月十日

九時三〇分京王稲田堤厚生館サイト、チェック。五〇分野村、渡辺と共に理事長、園長先生他と打合わせ十二時迄。昼食を共にし、再びサイトをチェック。かなり難しい仕事で、闘志が湧く。十四時研究室。打合わせ。

絶版書房3号、残冊八十八冊となる。

十五時、北園、渡辺先生と演習G。十八時了。仲々、これは疲れる。いささか今日は疲れたとつぶやきたい。 十九時前近江屋にて北園先生と演習Gのまとめについて相談する。二〇時迄。二十一時前、世田谷村に戻る。

六月十一日

七時四〇分起床。雨模様の天気が続き、うっとおしい。今日は仙台の東北大行きだが、行き帰りの新幹線でやらねばならぬ事が山程ある。九時、発。十時〇八分発の新幹線に乗る。

昨日のスタッフのオペレーションは若干修正する必要があるな。いいアイデアを得られないと、気持も体もいささか落ち込むな。

R324
六月九日

十時過研究室、サイトチェック。絶版書房アニミズム紀行3残部 94 冊である。

十時四〇分学部レクチャー。十二時了。その足で品川へ。京急新馬場十三時。北品川宿、南品川宿を歩く。旧東海道は人間が歩くのに適していて、ゆったりとした曲線である。つまり、道の海側の、江戸時代の海岸線の曲線が今に伝えられている。歩く自分も少し計りゆったりとする。何か特別なモノがある訳ではないが、このゆったりとした感じがこの場所の特色であろう。

旧国道新馬場角、そば処宝喜屋で昼食。そばつゆに附いて出てくるネギ、ワサビの量がたっぷりしていて、うれしい。ゆっくりとした昼食の後、街を歩いていたら、バッタリ品川まちづくり協議会会長堀江新三さんと会う。近くの諏訪神社へ。祭りの後片付けで忙しそう。堀江さん少々疲れ気味である。みこし疲れだと言う。品川宿案内所で一服、四方山話し。まちづくり協議会事務局竹中茂雄君も一緒。短い時間ではあったが、色々と話し合う。お別れし、品川神社に参拝。長い附合いになりそうなので、地元の神さんに挨拶した。品川神社には江戸時代丸嘉講中三〇〇名の手になる富士塚があり、ふりかえるという石のかえるがいたりして面白い。 ここの境内は濃密な空気がある。

十六時品川、インターコンチネンタルホテル。ロビーにて休む。十六時半K社長と会い、色々と無駄話しやら、仕事の話しやら、十七時半了。

十八時過ぎ、東京駅八重洲口小樽で清水氏と会い、無駄話し。十九時了。二〇時過世田谷村。良く歩いた一日であった。

R323
六月八日

午前中、何件かの用事を電話で済ませて、昼過研究室へ。途中、何と驚いた事に一羽のカラスに襲撃された。理工学部キャンパスのコンクリートの塀の上にカラスが一羽とまっていた。チラリと眺めて通り過ぎようとした。突然、頭にドサリとカラスが乗り込んできて、カツーンと口バシでわたしの頭をつついたのである。

つついたどころではなく、実になぐりかかられた。秋葉原の白昼の通り魔事件はまだ記憶に新しいが、わたくしがリアルにカラスに狙われるとは夢にも考えていなかった。

まさか、わたくしを襲ったカラスは、ツタンカーメンのサヤエンドウを喰ったカラスの軍団の一員ではあるまいな。

ヘイの上からわたくしを視ていた眼の光には何等異常は見られなかった。しかし、今おもえば眼の底に何か赤い光の如きがあったような気もする。

むしろ、カラスを視たわたくしの眼の方に、何か憎しみの如きが宿っていたのかもしれない。それに反応してカラスはわたくしを襲ったのだ。しかし、新大久保の路地を歩くわたくしではなくって、キャンパスの入口に近いところで待ち伏せしていたとしたら、実に問題は深くなるのだ。何しろ待ち伏せだからな。

ツタンカーメンのサヤエンドウを巡る攻防は思わぬ広がりを持ち始めたのかも知れない。

十七時八重洲小樽で清水氏と会う。品川宿の堀江氏と明日会う事となった。二〇時前世田谷村に戻る。山田脩二氏より、岡本太郎の「明日の神話」の写真をいただいた。山田ハンの写真はカラーもごっつい、いいわ。

R322
六月七日 日曜日

十一時半研究室。雑用。十三時二〇分厚生館設計打合わせ。十四時過了。十四時半出。十五時過新大久保近江屋、宮崎の藤野忠利氏と会う。

わたしは藤野忠利に文句をつけていた。

「藤野さん死ぬ前にキチンと自分の芸術をまっとうしなよ」

実に生意気であった。

「でも、わたしはコレでいいんです。変りようが無いですから」

実は我ながら変テコリンな事に、わたくしは藤野忠利を再再評価し始めている最中なのだ。作品も、パフォーマンスも何もかもそれ程のモノではないのは自分でも知っている。

でも何かが凄く良いのである。実はいまさら小ざかしい文句をつけたって藤野忠利も具体の連中も馬耳東風なのをわたしは知っている。もう連中はあれで良いのである。

しかし、実は藤野さんのライフスタイルそのものが、かつてない程に時代の趣向に合っているのだ。

藤野さんは画商でもあるから、今の芸術作品らしきの本来の価値をよおく知っている。白髪一雄の大作を所有していて、二千二百万円でも売らなかった勘は、まさに芸術的賭博であったし、ラウシェンバーグは今、二百万円でも売れませんと、こぼしたりもする。

ようするに、この人には絵画を商品として視る常識は人一倍備えられている。

面白いのは、それを自身の作品らしきに適用、あるいは借用しない。やれば、すぐに出来る筈なのにやらないのである。やらないのか出来ないのかの境目は良くわからない。

でも、本来とっても桁外れに器用な人だから、スタイルを換骨奪胎するのは朝メシ前の事ではあろう。

日本の近代絵画の歴史は奥深いところで、それの連続以上の何者でもあり得なかった。だから考えを突きつめれば、具体と藤野さんは実に独自な存在なのだ。

と、小ムズカしい事を考えながら、しかし口からは別の言葉が飛び出すのである。

「毎日、毎週、キチンと絵描いて、それを時々俺に送って下さい。もう時間もあんまり残っていないんだから。ソロソロ、キチンとしましょうよ」。

実験工房の山口勝弘 80 才。具体の藤野まだ 72 才。しかし、せいぜいアト 10 年。芸術は死んでいるけれども、痛切なのは芸術家は生きていて、それぞれの死に雪崩れ込んでゆく現実をも又、生きているのである。

十七時前、別れて、世田谷村に戻る。

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六月六日

十時半研究室。絶版書房アニミズム紀行3にドローイング 32 冊入れる。十四時、厚生館建築の打合わせ。十五時設計製図講評会。今年の3年生の力はどうかなと、楽しみであった。設計製図の評価は少し計り、というか随分と描図能力に偏向しているきらいがあるかもしれない。かと言っても、描く力がなければ設計表現にはならならいからな。悩ましい。

十七時途中で抜けて、銀座へ。十八時銀座一丁目岩戸。昭道さん、大住広人、杉全、仏教伝道協会、藤野忠利、湘南画廊主との会食。佐藤健がいたら、大ゲンカになるような話しが噴出したが楽しかった。日本仏教界にはまだ芽が残っているな。芸術はもうダメかもしれない。建築とは言わぬ、立体現実の可能性は大きいと思うが。

二〇時了。東京駅八重洲口まで皆で歩く、ゾロゾロと。二十一時世田谷村に戻る。

R320
六月五日

十時過研究室。サイトチェック。四国のK社長と電話で打ち合わせ。十時五〇分院レクチャー。院生がズルズルと遅刻して、講義室にダラダラ来るので、今日は遂に怒鳴った。私だってキチンと院レクチャーは語り残してゆこうと思っているのだ。三〇分遅刻して、それでアイサツも無しにレクチャールームに、コンビニに買物するように入ってきて、これが早稲田の建築の院生の限界なのかね。最初から言っておいた筈だ、遅刻して途中からズルズル入ってくるなら、休んでくれって。私だって、毎回言い残しておきたい事を話しているんだから、私はきちんとやる。君達も、もう少し、もう少しだけでもキチンとしてくれ。こんな事を書かねばならぬ、早稲田建築のリミットを、諸君は自覚せよ。来週は二〇分遅れて、何のあいさつも無しに、講義室に入る学生がいたら、その瞬間にレクチャーを停止する。学生には学生の、守らねばならぬエチケットがある筈だ。

という訳で、遅刻して来た三名程の鈍感学生のせいで、今日のレクチャーはズタズタになった。

十二時半、講義終了後、研究室、スタッフと密実な打ち合わせ。十六時前迄。

R319
六月四日

十時四谷打合わせ。十一時前過、地下鉄で大学へ。理工キャンパスに直接地下鉄が接続しているので、便利ではあるが、何か事件が起きなければ良いが。十一時大学院面接。十二時了。

二日程前より、隣家の取り壊し工事が始まった。私が好きだった、小さな緑のトンネルを作り出してくれていた隣りの生け垣も樹木も、アッという間に切り倒されてしまった。

勝手な言い草に聞えるだろうが、私は好きだった身の廻りの風景を又、一つ失った。

地主さんが、あいさつに見えて、取り壊しの跡は駐車場にするらしい。世田谷村の廻りは駐車場が多くなる。

夜遅く帰宅する時、隣家の緑と、保存緑地とで作られていた緑のトンネルは、ホッとする気持を作り出してくれる場所になっていた。他人の作り出してくれたものだけれど、良い過剰さがあって、その過剰さが、一時の気持の安らぎを与えてくれていた。あの緑のトンネルはアッという間にブルドーザーで切り倒された。センチメンタルかも知れないが、私は何か、かけがえの無いモノを失ってしまったのである。

小さくはあったが、あの緑のトンネルは、疲れて帰る私の身体に、いささかの精気さえ与えてくれたのだった。視覚だけではなくって、とりわけ匂いが良かった。緑の匂い、樹木や草花の匂いがサラリと、時にドーッと身体を包み込み、侵入してきた。

他人の土地の緑のお蔭様であった。しかし、それは樹木の精霊といったものの在る事を私に教えてくれたのでもあった。過剰さがそれを成したのだ。

住宅地の細い道に、おおいかぶさるが如きトンネル状の、そこには過剰さがあった。アニミズムの小さな旅を毎日繰り返していたのである。

地主には地主の都合があって、それに何かを物言う事は出来ないし、しない。当たり前だ。これが近代なのだ。我孫子真栄寺の昭道和尚が、近くの川に勝手に沢山のあんずの小木を植え込んで、お百姓さん達に日陰になるから止めろ、と言われたのを思い出した。気仙沼市で海の道にアカシヤの並木を市民達と作った事も思い出した。アレはいささか良い事をしたなと、今振り返って実感する。

向風学校は何処か、具体的な場所、ラインを設定して、新しい総合的な考えによる道づくり、路地づくりをしたらよいと考えている。

R318
六月三日

たまプラーザの山口勝弘先生より便りあり。お元気なようだ。今年ロンドンで開催される「実験工房展」の準備で大いそがし、そして、お住まいの風呂場の大改装の為、別のところに入浴に行くので、これも又、大いそがしとの事である。

ロンドンでの展覧会と入浴が同じに並べられていて、いよいよ先生は達人になられた。早稲田の演劇博物館に収められている筈の山口勝弘制作の映画が発見されたかの、さいそくもあった。八〇才山口勝弘、芸術家の鑑だな。隣室には宮脇愛子さんも居住されていて、あそこは今、迫力に満ちている。ドタバタ視える迫力ではなく、精神の力、芸術家の魂の力がゆったりとみなぎっているのである。凄いなと心底思うな。山口先生は私の母よりも若いのかも知れない。私の母もえらい。

十四時前、製図準備室で渡辺君と打合わせ。稲田堤の幼児施設の設計は難しい。3案程作る必要があるようだ。「水の神殿」「時間の倉庫」の建設は進行中で英文和文のトップページに建設中の写真を随時 ON しているので、時々のぞいてください。気合いは充二分に入っている現場です。アニミズム紀行の現場だと考えて下さると良いのですが・・・。

十五時前演習G。十七時半迄。その後、若干のエスキス、再び打ち合わせ。

R317
六月二日

十時半前研究室。サイトチェック。安西直紀の「向風学校のすすめ」をのぞく。打ち合わせ通りに進んでいる。一日の向風学校のサイトのヒット数(グーグル)は 97 であった。先ずは二百を目指してみたらどうかと思う。

十時五〇分学部レクチャー。手を抜かずにやった。相当の気力を要するな。前の方で何人も学生が眠っていた。何だろね、こういう学生は。

終了後、渡辺君よりグーグルに関してのレクチャーを受けるがまだ良くわからない。

つまり、向風学校のサイトを開くという事が現在、どのような意味(価値)があるのか、全く無いのか、の意味、ひいてはこの日記の公開の社会的、あるいは個々人の趣向への意味を知りたいのである。グーグルは私を知っているが、私はグーグルを知らぬ。

インターネット社会である。ネット社会に情報ファシズムの如きがすでに出現している気配がある。パソコンはそれに抗すべきツールであった筈なのに。

しかし、ネットに使われているような気もするが、今はそれしか道具がないから、使われ抜くしかないのかも知れない。

安西の向風学校、渡辺の絶版書房交信がとり敢えずはうまくリンクしてくれれば良いが、その次を考えておかねば。

水の神殿」「時間の倉庫」の建設現場は共に進行中である。

R316
六月一日

十四時、用事で寄った近くの食堂で遅い昼飯。ケイタイを持たぬ化石人間なので、公衆電話を探すのが一苦労だ。一ノ関ベイシー他と連絡を取る。今日は一日外で過ごす予定である。ベイシーの菅原正二が新聞に書いている連載(朝日新聞東北版)を送ってくれて、それが面白い。

タイのパンガン島(何処にあるのかも知らぬ)で亡くなった千葉輝昭さんの遺書を巡る第三四話も秀逸であった。夜遅く世田谷村で気になって、菅原の「ベイシーの選択」講談社、「聴く鏡」ステレオサウンド社、をひっぱり出して通読したら、千葉さんの事がやはり書き記されていた。こういう人物の事は何とか語り継いでゆきたいものだが、それも仲々大変だろう。世界は膨大な死者の積み重なりの上にかろうじて成立しているのが良く解る

研究室のスタッフ達の努力で、絶版書房「アニミズム紀行3 ひろしまハウス」の残部数が百冊程になってきた。二桁になると絶版も間近である。この体験が次の段階の活動を支える基礎になってくれるのを望んでいる。

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY
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