6月の世田谷村日記
238 世田谷村日記 ある種族へ
五月三十日

五時半起床。世田谷村(自宅)の2階は5メーター程空中に浮いている。床に座って南を眺める。南は全面、ガラス戸であり、全開放可能である。空が3分の2,緑が3分の1、その南の視界を占めている。間近の緑は世田谷村の樹木の緑。その樹木の頂部の緑が視えている。梅の古木の緑、桜切るバカ、の言葉通りに、世田谷村の庭の梅の樹は時折、庭師を入れて枝を切っている。

他の緑は、クノの樹、月冠樹他である。この緑が、世田谷区の保存緑地を挟んで建つ人家の群を隠している。樹海とはとても言えぬ。樹沼、樹水たまり程度のものだろう。でも、この緑の視界の固まりが、風にざわめいて揺れているのを視るのは気持が和む。自然と共に自分も揺れているのを実感、体感するのだ。

一本の樹木の緑にも生命がある。宇宙の響きを我々凡人凡愚は感知し得ない。しかし、樹木の緑が揺れているのを美しいな、と思う気持は凡愚にもあるだろう。まだ強く残っている筈だ。今日は、杉並の屋敷林計画でIさんに会っておしゃべりをしにゆく。あそこの屋敷林の緑と世田谷村から視ている緑はひと続きの風で揺れている。

九時前、世田谷村発。バスを乗り継いで杉並下井草十時、Iさんの屋敷林へ。ここでわたしのやりたい事の一部を初めてIさんに話す。土と草を樹でつくる丘と洞穴と、小さな集落作りである。になっていた。話しているうちに、このアイディアは確信に満ちたものになっていった。

十一時半了。建設予定地を歩き、カシの樹の位置等を確認する。娘さんに送っていただき荻窪駅へ。バスで烏山へ。十二時半宗柳で一服。オヤジから鹿児島のかめ壺焼酎「森伊蔵」をいただく。オヤジは酒を飲まなくなったので、それでイイ焼酎らしきをわたしにくれるのであろう。十四時半世田谷村に戻る。

制作ノート、スケッチ数点を得る。不本意なものだけれど、これも又小さな収穫物であるので、研究室に送付。明日早朝このスケッチのレイアウトを工夫するアイディアを送れればそうしよう。できなければ無理はしない。

夕方休み。夜は楽な本を読んで頭を休める。二十四時眠る。

五月三十一日

五時半起床。今朝は陽光が射している。昨日作った屋敷林計画のスケッチをグーグル MAP と合成してみたらと思う。うまくFIXしなくとも、きっとズレが生じるだろう、そのズレが面白いのではないか。それを制作ノートに連続して記録してみる。

八時半再起床。朝食、ししゃもの小魚、野菜サラダ、豆ごはん。制作ノート、記す。アニミズム紀行5と屋敷林計画との連関が、視えてきている。

237 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十八日

東京駅十時五十六分発、東北新幹線はやて 15 号にて仙台へ。仙台十二時半過着。竹中工務店設計施工・仙台中央第一生命ビルディング、見学審査。小振りなオフィスビル故に、仲々の工夫があった。工事価格も低く押さえられていて、その点でも努力作であった。十四時前、歩いて 5 分程に位置する大成建設設計施工仙台ファーストビルディング見学審査。エントランス部、アトリウムそして標準階、屋上庭園を見て廻る。屋上庭園部のアルキャストの装飾部等が興味深かった。十四時半審査了。難波さんと別れて、アトリエ海佐々木さんの車で一ノ関ベイシーへ向う。道中、鬼沼、杉並等諸々のプロジェクトに関しての打合わせ。十六時過ベイシー着。15 分程で佐々木さん仙台へ戻る。

菅原正ニ、高橋夫人と再会。もう 10 年程昔になるか、やはり 5 月に出会ったフランク若松をしのぶ気持があったに違いなく、菅原は '62 年初共演のカウント・ベーシー、フランク・シナトラのレコードを聴かせた。シナトラの、さびた声が妙に胸にしみる。ベイシーで聴くフランクシナトラは格別である。何故ならフランク若松の思い出が、ここに在るからだ。水沢で料亭を経営していた若松とはここで出会った。若松は音楽はフランク・シナトラしか聴かぬという変人で、それでフランク若松のニックネームが通った人物である。フランク若松はガンで入院した。建築設計をしているわたしに、あれだけは見せてやりたいと考えたらしく、病院を時限つきで抜け出して、正法寺という巨大な屋根を持つ寺院にわたしと菅原を案内した。何故か、山田脩二がいて記念写真をとった。

フランク若松はすでにガリガリにやせていた。間もなく、若松は亡くなった。以来、フランク・シナトラを聴く度に若松の影と正法寺の巨大な山のような屋根がよみがえる。

菅原は初めて、ベイシーの裏方迄全てをわたしに案内した。どうするつもりなんだろうな、この大きな場所ベイシーを。パンとワインとフランク・シナトラの素晴らしいディナーを終え、寂しさが深まるばかりとなり、終電の一つ前の汽車で帰る事とする。このまま居続けるのも余りにも切ない。二十時二十二分一ノ関発で東京へ。居残っても、帰っても同じに寂しいのである。車内で眠る。

二十三時東京駅着。二十四時闇の中、烏山モヘンジョダロを抜けて世田谷村に戻る。

五月二十九日

六時過起床。メモを記す。新聞を読み、TVもつけてみる。早朝の女性キャスターのキンキン高い声と平板な音調が実に耳ざわり。北朝鮮国営TV放送のチョゴリ姿の思い切り力の入った女性アナウンサーの口調の抱腹絶倒振りを誰が笑う事を出来ようか?日本のTVのキンキン声だって外から視聞きすれば、似たようなものだろう。

制作ノートの連続を記す

236 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十七日

九時河野鉄骨来て、共にM邸現場へ。入道雲が湧き晴れて暑くなった。1時間程現場の空気を吸う。現場の空間、立体が細部にいたる迄具体的に解るようになった。1階の広間に小さいアイデアを得る。十時四〇分現場発、十一時四〇分研究室。雑用。十二時半渡辺先生打合わせ。十三時李君、相談。十三時半ブラジル人留学生アンドレ相談。

松崎町篠原さんより連絡あり、再び松崎町へ出向く事になるか。楽しみである。30年の歳月の流れを痛感する。

十四時半、打合わせ。十七時了。院生がほぼ2名頑張っているので、M邸のインテリアの重要な部分のデザインをトライさせようと考えて、課題を与える。院生にとっては最高級の課題である。なんとかやりとげてもらいたい。勿論、わたしはその答えを持っている。それでなければ若い人間に実体化されるモノを課題として与えることは出来ない。十七時半新宿南口味王へ。スタッフと久し振りに会食。二〇時半世田谷村に戻る。途中、モヘンジョダロの遺跡の夜景を数点とる。この遺跡モヘンジョダロと名付けるか、ハラッパと名付けるか、いささか迷ったのだが、やはりモヘンジョダロで良かったと思う。ハラッパでは余りにもシャレが飛び過ぎてしまうのだ。共にインダス文明の名残だけれど勝手な一人芝居である。

五月二十八日

七時前起床。変な夢を沢山、明け方にみた。みんな仕事がらみの奇妙な夢で登場人物もドタバタ、シュールというか、昔の香港カンフー映画みたいなものであった。今日は建築の審査で仙台へ、又も難波さんとでかける。新幹線の行き帰り、スケッチに励む予定。恐らく難波さんは iPod 三昧だろうから、私もそれに対抗する必要がある。今日 iPad が日本でも発売されるそうだが、中国ではすでにエイ・ペッドというのが5分の1の値段で発売されているそうだ。

八時前橋の市根井さんと電話で打合わせ。言葉のやり取りだけでは不安なのでスケッチのやり取りをすることとした。市根井さんにデジカメで製作過程を送ってくれるように依頼する。職人さんも情報時代、むしろ情報エンターテイメント時代に突入するのだろうか。

市根井さんは、製作中の椅子の材を当然スプルスから、一気にカシの木に変更した。子供達のための建築、その道具づくりのの材はホワイト・ヘム・ファーを選んだ。視た目が美しく、柔らかいからである。しかし、今度の椅子の材にスプルスはあり得ない。

市根井さんのよいところは工芸家ではないところだ。大工である。わたしのA3ワークショップ(職人、芸術、建築ワークショップの略)の第一期生である。彼に家具創作家らしきの才を視て、それで協同している。実はもう幾つも習作は作って、何がしかは売れてもいるのだけれど、わたしには今度の奴が第一作である。九時半過、世田谷村発、東京駅へ。

235 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十六日

十一時半研究室。雑用。十三時半、マドリッドのイオン氏来室。上海万博のマドリッドパビリオンの設計者のようだ。バスクの出身だと言う。日本で教職を得たいと言う。作品は仲々面白い。環境インスツルメントの趣向あり。十四時半加藤、北園先生来室。地下スタジオ演習Gへ。10 名程の学生の「保存と再生」課題への取り組みをみる。キチンと出来る学生とできぬ学生の落差が大きい。出来ぬ学生をどうしたら良いのか。十八時半コーリア食堂で両先生と打合わせ。

「保存と再生、研究会」を発足させる。第一回の会合は7月7日、早稲田大学建築学科・地下スタジオで。鈴木博之先生の講演と学生達の「保存と再生」黒田記念館再生計画優秀作品を巡り、討論する。参加は自由、無料。ただし石山研へメールにて参加予約をする事。

二十時了。二十一時世田谷村へ戻る。

五月二十七日

五時半起床、メモを記し、WORK。六時五十分河野鉄骨と連絡。M邸現場、昨日梅沢先生に構造補強を見てもらったとの事。九時頃ピックアップされる事となる。

「烏山周辺まちづくり協議会」の活動に関しては正攻法と、奇手を入り混ぜて取り組む事とする。

234 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十五日

七時前起床。目覚めて動き出す時間にブレが発生している。気持良くないなコレワ。八時には何本かの電話が入り、わたしの仕事のスタイルが少し外延化してくれたようだ。いい事なのかどうかは知らぬ。

千歳鳥山駅周辺まちづくり協議会について少しの打合わせ。九時過発。十時二十分研究室、レクチャーマテリアルチェック。十時四十五分学部レクチャー。間抜けな学生がまだ 20 分 30 分遅れて入室してくる。何度言っても解ろうとしないのは、コレワどうしようも無い。レクチャーのポテンシャル下がる。コレが早稲田建築の学生のレベルなのか。わたしだって学校の水準に合わせて、レクチャーの水準は上下させるのである。当然である。

十二時半より研究室で学生対応。4件、結構ハードである。東進予備校のスタッフとも対応する。十五時三十分発。地下鉄で渋谷へ。井ノ頭線東松原へ。伊丹潤建築事務所を尋ねる。研究室の韓国籍院生の就職について依頼相談する。伊丹潤さん流石である。まっとうに対応してくれる。

わたしは韓国文化には自分でも異常な程の愛好心がある。それだけが頼りの相談事であったが、伊丹さんは良くそれを見抜いてくれた。これで一人の在日朝鮮人学生の才質を助けられたのかも知れない。

教師としては当然の事だけれど、伊丹さんにはありがとうを言いたい。建築つくるのも人生だけど、人間つくるのはもっと大事なのだ。

伊丹さんより、思いがけず、とっくり一つと、李朝高麗抄選一冊いただく。十八時前別れる。

十八時四十分、鳥山宗柳で一服。李朝高麗抄選を繰る。伊丹潤の文章を熟読する。彼の文は彼のコレクションをしのぐ程に良い。朝鮮半島文化を背負うのだとの自負がにじむ。伊丹の李朝焼物への傾倒、コレクター振りには半端ではないモノを痛感していたが、それを実感した。わたしは伊丹潤の李朝コレクションを賞味する才を持たぬが、伊丹自身を賞味する才を持つという誤解を持つ才はあるのだ。

二十時過世田谷村に戻る。

五月二十六日

五時半起床。WORKS。昨日、伊丹潤さんの李朝の白滋コレクターとしての片鱗を垣間見て感慨深かった。半端じゃあありませんと自分でも言っていたが、わたしもそう思った。アレは命がけだ。李朝の焼物に関して、わたしは素人だけれど奈良東大寺隣の佳水園にコレクションがあるのは知っていて、先日鈴木博之、難波和彦両氏と訪ねた。李朝のモノは手に触れなければ解らぬ。良いモノをわたしは手にした事がまだ無い。一度手にしたいものだ。恐らく手にした途端に落してしまったり。数千万円パアとなりそうだけれど。伊丹さんに頼んでみようか。

ところで、世田谷村近くのモヘンジョダロの遺跡中心近くに、今真紅のバラが咲き匂う家があって、この家はモヘンジョダロに三軒残っている中の一軒である。(株)セコムに住宅公団から払い下げ、あるいは売却されて、遺跡は今、再開発を待つばかりである。しかし、ほぼ中心に近いエリアにある三軒が立ちのかないのである。セコムへの売却に応じない。その三軒の一軒の玄関先の小径にバラが咲いているのだ。見事なバラである。

233 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十四日

五時半起床。WORK&雑用。八時幾つかの電話をすませる。「制作ノート」を書く。Xゼミナールがきっかけで椅子の近代史をざっと自習したので、まだ世に出ていない椅子のタイプだけは知った。以前、地下工房で作ったアルミの椅子はあったけれど、初めてと言って良い椅子のデザインを考えた。前橋の木工職人市根井さんがデザイン図をもとに作った。チョッとわたしのイメージとはズレているが、もう少し近附けたい。木石チェアーのクラフト型である。木石チェアーはアレはアートです。アレは売らない。クラフト型の奴は売る。2週間で仕上げるので仕上がりをごろうじろ。

十時過発。私用をすませ、十二時四〇分川崎駅。待ち合わせに早過ぎるので構内でコーヒー、他。椅子に眼がゆくな。実に我ながら単純人間だ。今、スケッチをすすめている小住宅も、椅子と同じに少々のバリエイションを考えて売りに出すつもり。売りに出す主体はわたしだけではない、職人組合の形をとる。

十三時二〇分K理事長と落ち合い、軽食。十四時前川崎市役所。打合わせ十五時了。品川を経て新宿。十五時四十五分新宿西口でチリのアベル・エラソと会い打合わせ。十六時二〇分了。アベルは明朝北京へ戻るので別れる。身体と気持を強く保持してくれと祈る。しかも、実にそれが一番困難な事なのだ。

十八時半、烏山市民センター2階で、千歳烏山駅周辺まちづくり協議会、運営委員会に出席。会長以下商店街の連中は良くやっている印象だが、区役所の役人の発言には大きな疑問を感じた。

色々と感じた事は多いが、先ずは他の何よりもこの烏山駅周辺まちづくり協議会への区民のみならず、多くの皆さんに関心を持っていただくのが先決である。なにしろ、この協議会の会員アンケートの回収が26名だけというのだから、完全な限界集落状態なのです。

世田谷村日記も、村の近くの元第1住宅団地、今は(株)セコムが大半のエリアを所有している、わたしの言うモヘンジョダロ遺跡、又、京王線高架式への大変更工事による地域の変化について随時報告してゆく事にしたい。

二十三時休む。

232 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十二日

七時半、河野鉄骨来る。今日も約束していたのだっけの感あり。しかし急いで支度して発つ。八時半前M邸現場。山田脩二さんより電話が入り、今、世田谷村だとの事。間一髪で山田の襲撃を逃れたかとホッとするも、そこの現場行くから、との事で、どうやら逃げ切れぬ。だるま窯の瓦をM邸に使うつもりなので打合わせも必要である。九時半山田ハン現場に来る。M夫妻と談笑。十一時過現場を発つ。

玉電で下高井戸、そして新宿へ。十一時半南口長野屋食堂、山田ハンと昼食。十三時半過、前橋の市根井さん、アベル・エラソと共に食堂に現れる。オリジナルの椅子の試作品持参。手直しを検討、指示する。十六時了。

世田谷村に戻り、休む。

Xゼミ第8信書くも、上手くいかず。

五月二十三日 日曜日

早朝三時半起きてXゼミ草稿に取り組む。五時過小休。八時、一段落。以降我ながら驚く程の乱読に一日を費やすことになる。日曜日なのに早くから起きてしまい、午後は休むしかないな。杉並のIさんに連絡。Iさんアニミズム紀行5を読了されて感想をいただく。二〇時過まだ本を読みながら自然に眠りに落ちた。

231 世田谷村日記 ある種族へ
五月二〇日

八時前M邸現場。外構工事打合わせ。スケッチを示し、M御夫妻の大方の了解を得る。自分のアイデアだけで独走してはならない。クライアントの了解と理解を得る努力は最大限必要である。わたしも経験を積んで、建築だけではなく、その周りつまり庭や外構工事の重要性を良く知るようになった。河野鉄骨は外廻りを頑張ってもらいたい。 九時半前発、玉電経由で新宿へ。十時半前着いてしまう。時間が少し空いて朝食をとも考えたが、あきらめて、構内コーヒーショップでコーヒー。十時四十五分、あずさ 13 号に乗り込む。プラットホームで鈴木博之、難波和彦両氏と会う。

ゆっくりと特急あずさ走り、岡谷に遅れて着く。茅野を過ぎて車内で高原野景なる弁当を喰べる。伊那松島に十三時過到着。駅で宮本佳明さん迎え。わざわざ大阪から来て下さった。彼のシトロエンで目的の澄心寺庫裏へ。宮本さん設計の建築である。小高い山の中腹に白い小シェルターが鳥のように在るのが遠望される。

近附くと白いシェルターは重いコンクリートで作られていて、その造形は独特である。ル・コルビュジェ記念館の屋根と吉阪隆正の造形をミックスした感じだ。いずれにしてもコルビュジェ系の造形である事に違いはない。若いと言っても 49 才になるらしいが、同世代の中では非カジュアル派であり、その鈍重さにはどうやら背骨が通っているようで好感を持った。お若い住職さんが案内して下さる。プライヴェートコンペによって選ばれた案らしい。

内部は木造で、コンクリートの重いシェルターの下に架構されている。宮本さんの建築を実見するのは初めてである。ゼンカイハウス等は良く解らないところがあったが、この澄心寺の白く重いシェルターは腑に落ちるモノがあった。

シェルターと木造架構はもっと分離すべきであったろうし、木造部の細部は洗練されていないが、これはわたしの建築にもいまだに言える事なので言わぬ。

十六時過迄見学、住職さんと話し、久し振りの建築見学で楽しかった。住職はジャズファンであるようで、そのオーディオ共々、ほほえましかった。わたしは、一ノ関ベイシーでこれのチャンピオンに触れているので、そう言える。

シトロエンで下諏訪へ。十七時前、甲州街道と中山道の交差するところにある、諏訪大社、神の湯・みなとや旅館へ。小振りで古いたたずまいの大変良い宿である。庭にしつらえられた露天風呂に入る。宮本さんを交じえ談笑。 十七時半より、夕食。諸々の話し。Xゼミナールの話しも。二十一時頃であったか、鈴木、石山は早目に眠る。 夜半一時頃小用に立ったら、難波、宮本両氏はまだ話していた。えらい。再び眠る。

五月二十一日

六時前起床。まだ湯が半分程しかたまっていない温泉にそれでも入る。宿のオバちゃんが色々と話してくれる。とても良いオバちゃんだ。この宿は岡本太郎、白洲正子さん等が愛用していたとの事。

六時半、メモを記す。七時半了。宿に置いてある資料を見るに、近くに万治の石仏他、尖石置跡等の縄文モノがどうやらゴロゴロしているらしい。以前、万治の石仏は見たような、見ていないような・・・淡い記憶しか無いが。たっぷりとした湯にもう一度入る。宿の廻りを散策する。万治の石仏、尖石置跡等を見学する事に決めた。

晴天が気持よい。八時半朝食。鈴木さんは今早朝一足先に東京へ。万治の石仏にゆく。岡本太郎が「凄い」と絶賛した巨石である。しかし、コレは凄いと言い切った岡本太郎の方が凄いのではないか。見学の子供達が巨石の周りを右まわりにグルグル廻っていて、その光景の方が凄かった。

万治の石仏の巨石に乗った石頭はイースター島のモアイの表情に似ていて、渡辺豊和がみたら又、古代アトランティス大陸の新説を打ち出すのではないか。もう、どんどん打ち出せば良い。

石仏見学をおえ、諏訪大社春日社境内へ。先日、事故をおこした御柱を見る。大社への下馬橋を見る。

八ヶ岳山据の井戸尻遺跡へ。尖石よりも良いと宿のおばちゃんのおすすめに従った。

十一時前、井戸尻遺跡考古館。わたしは縄文土器に見入る。難波、宮本両氏は復元された遺跡へ。縄文土器の迫力もさる事ながら、縄文石器時代の手おの他の道具の造形に驚く。スケッチする。原ブリコラージュである。甲斐駒ケ岳の残雪の姿、遠くに富士山も望み、古代人達はこの風景と共に暮らしていたのだと実感。十二時前発、小淵沢へ。宮本さんと別れて、鈍行列車で甲府へ。甲府で特急あずさに乗換え、八王子で難波さんと別れ、十三時半過新宿着、新大久保で打合わせ。

230 世田谷村日記 ある種族へ
五月十九日

七時半河野さん又も環八渋滞で遅れる模様。車の渋滞とケイタイ利用の相関関係やいかに。ケイタイを皆が持ち出してから、皆が待ち合わせの時刻を守らなくなった。連鎖状に遅れる旨を連絡する。それでも八時過M邸現場。多数の職人さんが乗り込んで作業していた。現場を見て鉄骨部分外構のアイデアをまとめる。

九時半発玉電松蔭神社前、下高井戸経由十時半、京王稲田堤星の子愛児園、九時よりの会議に遅れて参加する。園長先生3名他と電気系統打合わせ。十二時四〇分迄、十四時研究室。チリのアベル・エラソが北京から成田経由でやってきており、1時間も約束の時間を遅れて申し訳ないと思っていたら、アベルは更に遅れてやってきた。ラテンだ。北京の陸海のところでの仕事の話しを聞きながら、チリ・ビエンナーレの件、他、アベル博士論文の件等。十四時半、北園、加藤両先生来室。アベルと談笑。十五時過、地下スタジオ演習G。一人一人の作品を丹念にみる。それぞれに、それぞれの才質、気持に合わせた話しをしなくてはならないのが大変だが、何とかする。

十八時前、地下スタジオ発。十九時前、千歳烏山区民センターにてHさん等と待ち合わせ。十九時、千歳烏山駅周辺地区街づくり協議会総会に出席。この類の会に住民側として出席するのは生まれて初めての事である。第4議題・運営委員及び役員改選において、勿論挙手して運営委員に立候補、Hさんも立候補。目出たく皆委員となり、皆さんに挨拶する。二十時半過閉会。アハハハハッ、これから世田谷村のまわりを面白くやるぞ。二十一時前、世田谷村に戻る。

五月二〇日

二時、何故か眠れずに起きてメモを記す。M邸詳細部装飾スケッチ等。昨日、前橋の市根井さんより連絡あって、製作ノートに記した椅子が出来上がったとの事。すぐにも見たいが、今日は今朝現場を見て、その後鈴木博之、難波和彦両氏と長野へ建築見学に行くので、しばらくおあずけである。残念、しかしだいぶん手直ししないと駄目だろうの予測もある。ダメ出しして Finish したら、これはすぐに売り出したい。アニミズム紀行5の販売と共に少し精を出さねば。

しかし、まちづくり協議会なぞに市民参加顔して出席しちゃったりするもんだから、眠れないのだと反省。何がアハハだ。トホホじゃねえか。でもなあ、京王線高架化、地下化で調布市が駅前大改造で安藤忠雄が乗り出し、お隣りの仙川も駅前大改造で、ここにも安藤通りとやらが出現。我千歳烏山はさびれる一方である。このままでは10年後は驚く程に沈滞するのは間違いなく、それでノコノコ出掛けたのである。やっぱり京王線まで安藤忠雄に乗っ取られるのは面白くない。ここはひとつ馬鹿になって、ひとつ踏んばってみるか。世田谷村の住民としてもである。

三時半。まだ眠くならないのがソロソロ無理してでも眠らなければ、今日は1日がやばい。近くの区民農園が閉鎖されてしまって、世田谷村と千歳烏山駅の間にあるセコム所有の大きなサイトはモヘンジョダロ状態で夜は危険な状態である。自衛手段としても動かないとアカン。

六時半。荒川修作さんがNYで亡くなった。73才であった。

229 世田谷村日記 ある種族へ
五月十八日

九時過世田谷村発。十時過研究室。今日の学部レクチャーのシナリオを一点のみ組み直す。十時四〇分レクチャー。十二時前了。十二時半準備完了して研究室を発つ。十三時四〇分京王稲田堤、至誠館さくら乳児院至誠館なしのはな保育園、建設予定地へ。10 社に対する現場説明会。1社も欠席ナシ。サイトにて若干の説明。その後、星の子愛児園1Fプレイルームに移り諸々の現説。積算書を詳細にチェックする旨、及び石山研としては順当と考えられる設計基準価格を想定している旨を伝える。要するに適正価格に最も近いモノを選定したい事、設計者としてだが、その考えを伝えた。質疑応答を経て十時前終了。理事長、園長先生等とお茶。

十七時渡辺と千歳鳥山で遅い昼食。河野さんに連絡、明早朝M邸現場チェックする旨伝える。十八時世田谷村に戻る。

渡辺豊和「建築デザイン学原論」日本地域社会研究所コミュニティーブックス、読みふける。日本の建築家のほとんど全ては、要するに西欧、アメリカの影響を受けている。原論的には。明治維新でヨーロッパ、第二次世界大戦以降アメリカのほとんど直写である。それを日本流にするのがデザインであったとも言える。渡辺豊和は日本で初めてに近くイスラム建築の影響を受けた作家である。初めてではない。彼の前には大江宏がいた。難波和彦がXゼミナールで、西欧コンプレックスの解消をXゼミナールで考えたいと述べているのは良い方向だろう。大江宏はイスラム建築への関心が強くあった。アルハンブラ宮殿への憧憬をうかがった事がある。

色々と考え込んで二十四時頃読みながら眠り込む。

五月十九日

六時前起床。しかし、渡辺豊和の建築は荒川修作の建築らしき習作の如くにも酷似しているのが問題ではある。イスラム建築の優美さ、繊細さを欠いているのは、大江宏の建築とは異なる。しかしながらその事だけで渡辺豊和の建築を軽んじてはならない。渡辺豊和は大江宏がムーア人の様式に傾倒していたように、バクダットやアナトリア高原の原イスラム様式を渇望したのである。ただし、それをイスラムの側から視ると、と言うような視点が現代には必須なのかも知れない。わたしのこのメモだって、フェズの神学校の学生がコンピューターで読んでいる可能性だって無いわけではない。井口俊彦がホメイニ革命によってテヘランを脱出し、日本回帰し、ここで壮大なイスラム論を書いたように。しかし、大変な人々が世界には居るものだな。

七時半河野鉄骨来る。共にM邸現場へ。今日はあっちへ行ったり、来たりで本当にいそがしい。

228 世田谷村日記 ある種族へ
五月十七日

十時半稲田堤、至誠館グループ理事長K先生と明日の現場説明会の打合わせ。十一時半了。十三時過研究室、打合わせ。十四時鳥取より木谷清人さん来室。11月の「鏝絵・なまこ壁・景観シンポジューム」の件。十五時了。

「Xゼミナール」が動いて、難波和彦第7信が掲載されたので読む。長文である。長文ではあるが、強引に私なりに要約すると、海老原一郎を入口に大江宏を論ずるに、更に磯崎新の「和様化論」をも考えてみたらどうか、というに尽きる。磯崎新は丹下健三を真中に、大江宏と対称形をなす建築家であろう、と考えているので面白いかとも思ったけれど、それでは難波和彦さんは何処の位置から論ずるのかが解りにくくなってしまうような気がする。この事については長くなりそうなので、Xゼミ番外編で書き足すことにしたい。

十六時より打合わせ。十九時過迄。淡路の山田脩二さんより連絡あり、二〇時近江屋で待つも、現われず、これ幸いとばかり逃亡、二十二時前世田谷村に戻り、隠れるも、やはり山田ハン来襲する。2階でウイスキーをチビチビやる。

山田脩二、「日本旅1961〜2010年」3400円平凡社の最終稿、というか、最終刷を見る。息を呑む程の刷り上りである。正直脱帽!以前から写真の極みはモノクロにありと思い続けてきたが、山田ハンの「日本旅」は山田の70年になんなんとする旅の時間がここに集約している。集大成である。この写真集の凄さはページを繰る毎に現われ続けるモノクロの世界の中に、たゆとう人間への信頼感、まあ山田ハンはイヤがるだろうが、愛情である。都市の風景、田園の風景、川の風景の全てに、人間の気配がある。それが温もりとなり、ページから立ち昇ってくる。手放しで誉めているが、そう言わざるを得ないのである。二十四時前、山田ハン世田谷村を去る。何処へ行くのか。

五月十八日

五時半起床。メモを記す。昨夜見た、山田脩二の「日本旅」は良かった。山田の写真はベイシーの菅原正二の写真に、そのテクスチャーが酷似しているのに気付いた。彼等のライフスタイルが酷似しているからな。

山田はこの写真集を作り込むに暗室に閉じこもり、印刷所にも閉じこもった。写真の最終の仕上がりはそこでの勝負であるのを知るからだ。菅原正二だって、ジャズ喫茶の闇の中に40年とじこもり放しで、音を仕込んでいる。

わたしより、ズーッと偉い人達なのだ。

写真をこんなにいいなあと思えたのも大変良かった。写真をシリアスな顔して本を読むように視えるようになってしまったのは写真批評家らしきの大罪であるが、この山田脩二の写真集はその暗い囲いを打ち破るモノとしても現われるだろう。7月7日に発売だそうだ、写真集としてだけでなく、旅の本としても視入るに足る。大きい本である。わたしのアニミズム紀行も山田ハンに負けるわけにはいかぬので、やり抜きたい。

七時半小休。

227 世田谷村日記 ある種族へ
五月十六日 日曜日

十六時半研究室打合わせ。石山ディレクション木本一之製作、オリジナル、たろいもの葉の照明シェードに関してのWORK。他、至誠館プロジェクト、M邸、他の打合わせ。渡辺、佐藤、須田、岩田、川端と。今日はすぐに終らせて十九時前、韓流レストランにてキムチ会食。彼等の労をねぎらう。目標を与えれば彼等はどこ迄もやれるのだ。わたしの非力を痛感する。二〇時過了。二十一時前、世田谷村に戻る。

今は、少女よ少年よ大志を抱け、ではそれではただの間抜けだ。どのような形で大志を抱いたら良いのかを示せねば、何の力にもならぬ。

二十一時過広島の木本一之さんと連絡。木本さんの仕事にとって、今は正念場なのだが、彼はそれを知らぬ。広島の山里で独人製作に励んでいるのだから仕方ないのだが惜しい。余りにも惜しい。その口惜しさを知らしめるのは、わたしの役割なのだな。建築を媒介としたアーツ&クラフツ運動を再動させる、がわたしのこれから 10 年の目標になるのだが、彼はそれにはとても重要な才質なのだが、それを知らぬ。

21 世紀の始まり、つまり今だが、それでも触れられるモノを作りたいと考える種族は、恐らくはとてつもない少数派なのだとは考えている。

五月十七日

七時過起床。メモを記し、各種連絡。至誠館さくら乳児院なしのはな保育園の入札が明日で、10 社の入札となった。各社には積算の苦労をかけることになる。しかし、ここ数日で、ようやく、この建築は仲々の建築になってきたので、健闘を願いたい。わたし達も力を尽す。

八時過、木本さんより、FAX入る。彼も頑張り始めたようだ。みんなで頑張りましょう。頑張るのが時代遅れでも、スマートでなくっても、ゴリゴリ、やりましょう。

226 世田谷村日記 ある種族へ
五月十四日

十時二〇分研究室。今朝の作図伝達。K理事長と連絡。十時四〇分院レクチャー6。反応が悪い。と感じる自分が悪いのか?十二時二〇分前、レクチャー打切る。十二時三〇分ブラジル人アンドレ博士論文相談。十三時三〇分了。各種装飾ディテールスケッチ及びWORK。総勢6名でかかる。十六時前、ざくろの街灯について打合わせ。十六時十五分今日のおわりの打合わせ。十六時二十五分、地下スタジオへ。3年設計製図中間講評会。十八時五〇分了。再び打合わせ。

五月十五日

道路混雑のためM邸現場到着遅れる。何があっても約束の時間に遅れるのは良くない。申し訳なし。十二時前ようやく着く。すぐに打合わせ。M夫妻、野村、河野。打合わせをしながら、ガレージ、及び玄関廻りのファサードデザインのアイディアスケッチしてまとめる。良いアイディアだと思う。淡路島の山田脩二に連絡、ダルマ窯の本瓦を送ってもらう事になる。この瓦が入る事でこの計画は引締まった。

美味なカレーソバをいただきながら、打合わせ、契約。十六時迄。やはり、住宅設計は面白い。十七時研究室。至誠館プロジェクト入札用図面をチェック。驚いてはいけないが、研究室のスタッフ、他の面々が良くやってくれて、仲々の図面をそろえていた。全ての図面を見て修正を入れる。しかし、石山研は底力があるなと実感。若い奴はもうダメだなんて事はないな。石山研は上向き、発展途上である。

二十三時四〇分了。終電に間に合うように去る。恐らく、ここ数年で初めてだと思うが、スタッフをねぎらえて良かった。二十四時四〇分世田谷村に戻る。

五月十六日 日曜日

七時過起床。昨日は仲々良い日であったので、グッスリ眠った。しかし、アイディアというのは変なもので、気分も良く、ヤル気が高揚している時に、いいものが生まれるわけではない。沈み込んで、体調も良くないような時に、オヤというモノを得る事が多いのだ。かと言って、いつも沈み込んでいるわけにもゆかず悩ましいものだ。いいアイディアを得るためにはいつもノートを持ち歩く必要もある。それは一瞬のうちに現われ、たちどころに去るから。

母の家のスケッチを続ける。急がなければならない。十三時小休。十六時半研究室、打合わせ。

225 世田谷村日記 ある種族へ
五月十三日

九時過杏林病院、採血。今日は病院は大変なんで、随分待たされるであろう。昼前に中国清華大の人達が建築学科訪問のスケジュールになっているが、とても間に合いそうにない。仕方ないだろう。大連の諸演会もお断りした。中国に行くのは余程の事でなければ駄目だ。小さな事では動かない。対中国で学んだ事だ。十時半了。十一時半発。昼食をとり、十三時四〇分研究室。

十四時アトリエ海打合わせ。十六時半打合わせ。十九時前了。

明日の院レクチャーの準備をチェック。毎回のレクチャーにはエネルギーを費している。当り前の事だが。二〇時過新大久保ガード下ラーメン屋でレバニラいためで一服する。二十一時四十五分世田谷村に戻る。

奈良の渡辺豊和さんより「建築デザイン学原論」日本地域社会研究所 3200 円(税別)348P 送られてくる。豊和さん執念でついに本にまとめたな。偉い。心から喜びたい。この本は皆さん必ず買って下さい。一人の建築家の玲瓏たる狂気が満ち溢れている。今の日本の建築界のケチ臭さ、デザイン界の何も無さの中で、突出している。しかし、今、渡辺豊和を評価し、その著作を真底推す、肩入れするのは、実に小市民的には余り得策ではない事くらいはわたしは充二分に知っているのだ。もう、難をつければキリが無いような、ある意味では奇書の類なのであるが、わたしはこの書物は心底好きだ。オヤと思うところだらけの書物であるが、それを知ったうえで、わたしは心からこの本の出版を喜ぶ。今日は徹夜になっても読むぞ。

五月十四日

五時半起床。頭がボーッとしている。やはり徹夜は無理である。至誠館プロジェクトの細部のアイデアをつめる。 八時半、スケッチ送附。小休。九時二〇分世田谷村発。

224 世田谷村日記 ある種族へ
五月十二日

九時、雨。WORK、十時発。十一時過ぎ地下スタジオ、至誠館入札準備。スタッフと打合わせ。十四時半、演習G。黒田記念館再生による、日本近代建築ギャラリー計画。十九時了。発、使用を経て、二十一時世田谷村。

二十三時アメリカ現代美術調べる。〇一時休む。

五月十三日

五時半起床。友人の佐藤健毎日新聞記者がこんな事を言っていたのを思い出している。彼が得度するのに禅寺に入門を乞うた際の話しである。

入門する為には、寺の玄関の登りかまち、つまり縁側のように一段高くなった床に頭をつけ、身体は玄関土間に横向きに斜めに座り込む。朝から晩迄その姿勢を続ける事、数日。意識がもうろうとし、身体からは力が失せる様な状態になるのだそうだ。何日目かに、フラフラになって、それこそ心身脱落、脱落心身の状態になりかかる。その際の一瞬、フッと眼に、それでも玄関脇に生い茂っていた雑草の緑が眼に入ったそうだ。その緑が眼に焼き付いている、と言う。生命なりけりとかは言わなかったが、それに近い事は言った。

わたしはそんな緑をまだ観た事がない。

そんな事を急に思い出しているのは、今朝の光の中に、庭の梅の木や、生垣のさざんか、金木犀、そしてくすの木のみどり、ほどほどに遠くの梅林の緑を眺めているからだ。その緑が少しの風でざわめいている。そのざわめきを見た一瞬に、わたしは佐藤健を思い起したのである。これが生命そのものだと想う力は私にはまだ無い。でも、それらしきを言い放った人間を思い出すことは出来る。佐藤健が死んでもう10年程になる。時間が流れるのは速い。

しかし、こうやって死んだ友人を思い起すこと、それがわたしは歴史というものの正体では無いかとかろうじて考える。

うろ覚えだが、死んだ子供を母親が忘れ得ぬような事が、何だかと小林秀雄が書いていた。流石に小林の宿命論的断言は現代風ではないけれど、でもやっぱり素直に偉い男だなとは想う。恐らく、それは、庭の緑を眺めて一瞬佐藤健を思い起したりするのとかなり近い事なのだろう。

こういう事が繰り返されてゆくと、それは気持の骨組みに迄変化してゆき、強いノスタルジーとして、つまり小さな歴史として構築されるのだろう。デザインとは、その一端を担う作業でもある

それから先を考えたいと思って、美術史を少しばかり勉強し始めているが、もう20年早く勉強していれば良かったと考える事しきりである。少年老いやすく、学なり難し。昔の人は(これは一体誰が言ったのか?)孔子か老子の訳言なのだろうが、上手い事を言う。今頃、美術史なんてかじっても、どうにもならぬのだが、かじらぬよりはマシなのだ。

今日は八時過ぎに杏林病院へ行き、定期検診。血圧、血液検査他のチェックである。あと少なくとも20年は生きなければ、どうやらやりたい事は成し遂げられず、知りたい事を知る事も出来ない。アニミズム紀行5では、91才になったわたしの家を描いたけれど、それは実に今の母の年令であった。

身近な友人達の長命を祈るばかりである。死んでも、忘れぬ人が居る限り人間は生きるけれど、やっぱり死んじまうよりは生きている方が、薄皮一枚よいような気もするよ。しかし、勉強もWORKも遅々として進まぬのは辛い。

八時半、世田谷村発。

223 世田谷村日記 ある種族へ
五月十一日

十時二〇分研究室。同四〇分学部レクチャー。都市と地方、まちづくりについて。十二時十分迄。四〇分発、新宿を経て京王稲田堤へ。至誠館、K理事長打合わせ。十六時前了。昼食、私用十八時半世田谷村。照明器具のデザインに取り組む。母の家の照明器具を想定している。家の設計も急がれるが、一刻も早く、良い物を見せてやりたいから。二〇時過、竹の花ビンと照明器具の組合わせの New Type というか、変種の器具を考えついて、スケッチに残す。

何のアイデアも無い、ただの落書きから始めて、かなり早くにマアマアな答えらしきに辿り着いた。あとはデザイン(設計)をすれば良い。少し休もう。二十二時前。

五月十二日

六時前起床。昨夜に続き、20世紀アメリカ美術(バーバラ・ローズ)読む。古い本だが、どうやら悪訳で読み難い。Xゼミで難波さんが言うように、アメリカのヨーロッパへの劣等意識は根深く、ルイス・サリヴァンはそれと闘った。サリヴァンのテラコッタ装飾、及び煉瓦の組合わせの秀作を、フランクロイド・ライトが継承した。つまり、サリヴァンはフランスで建築教育を受けたが、ヨーロッパ文化とのストラッグルがあった。しかし、大事な事は日本の近代建築の歴史にそのような葛藤の時期、人材がアメリカに比べてもそれ程に深く、大きくもなかったのではないだろうか。堀口捨己、吉田五十八がサリヴァン的歴史上の立場だったか。村野藤吾も折衷を文化的苦闘とはとらえていなかった様に思うが。

しかし、アニミズム紀行5『キルティプール』で書いたわたしの終の棲家像は、近代建築としたら、ルイス・サリヴァン的であるな。アニミズム紀行5で描いた建築像をドローイングにおこしてみようかと考えた。

今の日本の建築様式の大半は、ヨーロッパ発アメリカ折衷様式が更に折衷されたものだろうが、やはり日本的様式(和風と呼ぶべきか)との接続がほとんど何処にも見られぬところが凄いな。根こそぎ失くなるというのが日本風か。完全な国際様式が日本に於いて具体化されてしまったとも言えるのか?八時過小休。

222 世田谷村日記 ある種族へ
五月十日

八時半人事小委員会。十時半了。研究室でWORKチェック。

十二時入江先生と雑談。設計製図教育に関して。ここ2、3年の学生達の設計製図からの逃避とも言える現象は、ハッキリ変な流れとなってきているように思う。担当教員としては忸怩たる想いである。教え方が悪いのか、時代の潮流なのか、学生の気持の問題なのか、そのいずれかであろう。しかし、これでは建築の未来は暗い。設計製図教育は建築教育の中心であるのを学生は知らぬのか。知らぬのなら伝えなくてはならない。

入江先生、講師の先生方、助教、助手も苦闘しているようだが、3年生の第1課題は重要な課題なので、21日午後の中間講評会は出来るだけ出席したい。

打合わせの連続。十五時T社来室。十七時、照明器具デザイン打合わせ。十九時、遅すぎる昼食。

Xゼミ4を制作ノートへと書き直す。あんまり調子に乗って番外編を書きなぐるのも、友人相手とは言え見苦しいと反省。しかしながら、折角だからこれを機会に、椅子のひとつ位、名作と言われる程のモノは残してみたい。

二十一時小休。

眠ったり、起きたりを繰り返す。

五月十一日

六時過起床。小雨。新聞を読んで、お茶。昨夜描いた家具のスケッチにスケール(寸法)を入れる。3階に置いてある、「木石」チェアーの写真撮影。とりあえず、すぐ前橋の市根井さんに送付して試作を依頼してみる。

1階エントランスに置いてある木本一之さんとの協同「立ち上がる伽藍」これは金属彫刻だけれど、形は酷似している。愛着があるのだ、この感じには。八時了。小休。九時半発。

221 世田谷村日記 ある種族へ
五月九日

十二時四〇分、静かな大学へ。サイトをのぞき、13:00、なしのはな乳児院+さくら保育園図面チェック、打合わせ。今がスタッフにヤキを入れる、つまりきたえ時だと思い、チェックしながら教える。教えている途中に、わたしの方にもアイデアが湧いたりで、これも馬鹿に出来ないのである。

14時半、突然、実に妙な、しかし仲々良いと思われるアイデアが出現したので、Xゼミの番外4を書く。十五時半発、昼食をコーリア料理屋で、スタッフと。十七時半前了。世田谷村に帰る迄に仕事を片付けるべく、宗柳に寄り、席を借りる。

仕事を少しばかりして早々に休む。

五月十日

五時四〇分起床。今早朝に人事小委員会が開催されるので、ゆっくりは出来ない。

安藤礼二「近代論」NTT出版を昨夜来再読している。骨太な構造を持つ本だが、二度目となると荒さが目につくが、それでも視界の明るさは刺激的である。

七時半発、大学へ。

220 世田谷村日記 ある種族へ
五月八日

十一時研究室、至誠館。なしのはな保育園+さくら乳児院の入札図面の追い込みに入る。スケッチをどんどんスタッフに渡していかなければならない。十四時、母の家スケッチ。十四時半、図面チェック。十六時過、わたしのWORKは修了。研究室を去る。

十七時半、モヘンジョダロを経て世田谷村。

五月九日

六時半起床。昨夜から書いているXゼミ、番外03「椅子についてデザイナーの作図能力・2」を書き続ける。2階のガランとした板の間に直接座り込んでの仕事である。3階は暑くなるので、こうしている。コレ、仕事なのかな?好きでやっている事で金にもならないから遊びかも知れない。実はここのところは大事なのである。

「椅子について、デザイナーの作図能力」で書こうとしているのは、つまるところその問題である。仕事=生産(金)、遊び=浪費(消費)という図式が分断されているのが現在のグローバリゼーションの断面である。

そして、こんな単純な図式が人間の日々の生活にも直接反映される迄になっている。朝だ、まだ頭はスッキリしている。つまり、何故「椅子について」をグズグズ書き継いでゆこうとしているかと言えば、チャールズ・レニー・マッキントッシュを持ち出して、何を言おうとしているかと言えば、デザインの近代史の読み直しが必要であると考えるからだ。

アーツ&クラフツ運動の見直しをしたい。アーツ&クラフツ運動の径筋が、か細い狭路になった、それ故の現在なのである。現在のデザイン(建築のみならずです勿論)の生気の無さは、当然人間生活の生気の無さから引き出され、又、それを反映している。人間生活の生気の無さは、又、人間を育み、馴染ませてもいる都市や田園の光景から引き出されている。

八時半、小休。Xゼミ、「椅子について、デザイナーの作図能力」を書きおえた。あんまり、上手に書けていないが、サイトは速力が命でもある。

大きな矛盾を言ってるよね。アーツ&クラフツとスピードだって。又、それはそれとして間違いは多いだろうが、ONしてみよう。

2001年9.11のNY・WTC同時多発テロはアメリカン・グローバリズムとイスラム文化(シーア派)イスラム原理主義との戦争であった。我々は得てしてアメリカ、西欧側からの視界をもって世界を視がちである。それは、知と情に於いてそうならざるを得ない歴史(第二次世界大戦)を経ているから。

しかし、もしもイスラム側からの視界から眺めてみる想像力を持ってするならば、世界は別の光景が繰り拡げられている筈だ。わたしは、イラン王制が崩壊する寸前のテヘランに居た事がある。レストランの窓の外は戦車がゴーゴーと走っていた。イランはフランスにて亡命していたホメイン師の帰還を待っていた。パーレビ王朝は滅亡して、ホメイニのイスラムがパーレビを支えたアメリカ覇権主義との対立を明快な姿勢とした。

いわゆるイスラム革命の始まりである。ディテールは知らぬが、イスラム革命にはミシェル・フーコーの論述がある。フーコーはイスラム革命に、フランス革命、ロシア革命以上の希望を視ていたと聞く。

イスラムの側からの視界、想像力が今は必要である。それをアジア主義などと外からの(欧米からの)視界、知性によって、皮相に批判してはいけない。岡倉天心がアジアはひとつなりと唱導した時代から時は、はるかに動いている。その歴史自体の移動を凝視しなくてはならない。

十時四十五分世田谷村を発つ。モヘンジョダロを抜けて研究室へ。

219 世田谷村日記 ある種族へ
五月七日

十時過研究室。十時四〇分院レクチャー5。歴史観をベースにして、誰の為にデザインするか、について再び話してみる。十二時了。研究室に戻りサイトチェック。サイトがようやく動き始めた。十三時K社来室。M0ゼミ。大阪万博他について。十六時過了。近江屋で遅い小昼食。十九時過、雨の中をモヘンジョダロを経て世田谷村。雨のモヘンジョダロとはいきなり演歌です。天候だけでも考える事が違ってしまうんだから、他愛のないことおびただしい。至誠館プロジェクト外構スケッチWORK。二十四時迄。

五月八日

六時半起床。外構スケッチに寸法入れる。他WORK、九時迄。十時発。晴れた中をモヘンジョダロ経由、研究室へ。エスキス、スケッチが多くなると、メモの文章が少なくなる。メモが増えるとエスキス、スケッチが少なくなる。両方が増えるのはあり得ない。時間は有限である。毛筆のスケッチ、鉛筆のスケッチ、ボールペンのかきなぐり、又それぞれ皆ちがう。その日、その時の身体と気持のコンディションによって全て異なる。

いわゆる外構、フェンスと植生、カーポート、自転車、バギー置場、街灯他を入念に考えたのは、恥ずかしながら、初めてである。樹木と草花そして、ツタ等が無い建築はあり得ないな。規格品のフェンスとカンボジアのレンガを組み合わせる事とする。又、規格品のフェンスの一部は一部、木本さんの手を入れる事を試みたい。

218 世田谷村日記 ある種族へ
五月六日

七時半起床。メモを記す。WORK。Xゼミ、番外2を書く。折角椅子を勉強しているので、何らかの形にしたい。椅子の実作が一番いいにきまっているが、今作り出している計画ではどれに一番可能性があるかな。

十一時過明日の院レクチャー NO.4 のシナリオを作成し、送附。

十二時半過、モヘンジョダロの写真を数点とる。この遊びは、長く続けば面白い可能性がある。中年のカップルが遺跡に座り込んで何か話し込んでいる。又、オバさんが二人、樹木の下の影に座り込んでいる。共に絵になるのである。

十三時過、モヘンジョダロ駅。昨日迄プラットフォームにあった公衆電話が今日はない。ベンチも、とり外されていて、駅はますます人間がいる場所ではない。駅でフッとモノを考えたり、空を見たりは仲々できないのだな。

今日は西へ、サマルカンドの方向へ行く。十三時半京王稲田堤。「星の子愛児園」西の増築部分にツタが生い茂り、いい感じになっている。今度の建築も植生は充二分に考えたい。カンボジアのレンガを相当数使用するので、植物は建築にとりつき易いだろうと期待している。

十四時、理事長、各園長諸氏との打合わせ始まる。NTTの電話回線、MBC&シンドウ商会によるセキュリティ、映像関係のプレゼンテーションを聞く。山梨のシンドウ商会はJBLのマニアらしく、それなりに面白い。ベーシーの菅原のことも勿論知っているようで、山梨のパチンコ屋の多くのBGMをJBLで鳴らしているらしい、変な人であった。

その後、このプロジェクトの各階電機、弱電関係の綿密な打合わせに入る。十九時半迄みっちり。修了後、理事長、園長先生他と会食。楽しくも厳しい話しの連続であった。二十二時二〇分迄。しかし、山梨の電気屋さん迄に、ベイシーのファンが居るのを知った。ゲルマニュームの真空管うんぬん迄知っているところをみると、アレは菅原さんの本を読んでいるな。

二十四時過再び夜のモヘンジョダロを経て世田谷村に戻る。

五月七日

六時半起床。モンスーンの南アジアのような空模様で、風が強い。太郎の鯉のぼり去り、室内の巨大バキラの枝にブラ下っている。月下美人の樹が背丈をのばし3メーター弱に育っている。九時二十分世田谷村発。研究室へ。

217 世田谷村日記 ある種族へ
五月四日

十八時Xゼミ第7信を書く。つづいて見事なわたしへの通信を下さった奥山ちとせさんへの返信を書く。これは奥山ちとせさんに、明らかに負けているのを承知の上の通信である。負けるってのはとても楽で幸福なことである。

母の家を考えるも、仲々ピリリとしない。色んな経験を積んでも、アイデアのまとまりが早くなるわけではない。相変わらずのカタツムリである。屋敷林沍v画(仮)が頭の中で回転を始める。二十二時横になり、本を読み始めるとほとんど同時に眠った。

五月五日

五時起床、2階の南の大窓に、岡本太郎の鯉のぼりがひとり、泳いでいる仲々良い光景でしばし見ほうけた。太郎はいつも孤独だ。鯉になって五月の空に泳いでいても孤独である。孤独なんていうヤクザな言葉が恥ずかしくない程度に孤独である。この鯉のぼりは太郎の傑作である。太郎の鯉のぼりの風情は坂口安吾に酷似している。安吾は太郎程には西欧を知らなかった、それが小林秀雄と安吾のちがいだが、安吾はサンスクリット語を勉強していた時期があり、同様に ブッキッシュではあったが、仏教圏の文化は良く知ろうとはしていた。

ともあれ、アーティストも作家も、当今著しく小粒になってしまった事だけは歴然としている。太郎の鯉のぼりが5月の空に泳いでいるのを見て、そう思うね。

五月の空に泳ぐと言っても、洗濯モノ干しのヒモにブラ下がっているだけなんだけれど、それでも、空を征する感がある。デッカイ。ちなみに太郎のコイは 90cm くらいのものです。

十三時、近くの東京都の低層集合住宅の廃墟に心ひかれて、数点写真にとる。今日はカンカン照りの真夏日で、廃墟にはやっぱりカンカン照りの光が良く似合う。たかだか 50 年程の歴史の廃墟であるが、5000 年のモヘンジョダロと同じだ。今日から、ここをモヘンジョダロと名付ける事にする。とすると、千歳烏山商店街はさしづめインダス河である。それほどの文明を生み出しているとは思えないが仕方ない。という訳で、モヘンジョダロを抜けて、インダス河を上流に向けてさか登り、モヘンジョダロ駅より、昼間の汽車に乗り、カラチ経由、間は飛ばして銀河鉄道にてイスファハンの月曜のモスクの廃墟内にある石山研究室へ。

研究室では数名がWORK。十五時打合わせ。大学はシーンとして実に気持が良い。夢と現実は薄皮一枚だけれど、マ、腹が減ると辛いな。と現実に戻る。

十七時半イスファファン発。十七時十五分新宿南口、味王。十七時半、安西氏来る。色々、話す。十九時諏訪氏参入。二〇時半、散会。慶応大学出身の若者だが、非常に不器用である。彼等は可能性があり余っているのだが、それを視る人間がいないのだと思う。もちろん、わたしにも出来ない。

二十一時過ぎ、世田谷村に戻る。途中、モヘンジョダロのガレキの山をくぐり抜け、恥ずかしながら、悠々の時をくぐり抜けたのである。

こう想い、書付けることは時々大事かも知れない。でも、あくまで時々です、といい聞かせる。自分に。

216 ある種族へ 世田谷村日記
五月一日

月が替わり、5月である。何とか気分としても変化が欲しい。十三時過、新大久保ガード下ラーメン屋で、スタッフと会い、「ひろしまハウス」の一部改築案の図面チェック。幾つかの連絡事項をペーパーで受け取る。

Xゼミ、鈴木博之さんの第5信を受領。鈴木さんはいささか距離をキチンと置いていたのだが、(イームズ邸には)大江宏を持ち出されたので、少しばかり重い腰をあげた感がある。わたしも逃げずに対応しなければならなくなったのである。

馬鹿だなあ、老先生が三人でネット上のバーチャル議論をゲームの如くに繰り広げているね、の印象を大方の読者は持つだろう。でも、その印象を持つ事自体が阿呆である。鈴木博之さんが東大教授を退職されるにあたって、トラが野に放たれて誠に喜ばしいと申し上げた。実に、大江宏や大江の建築よりも、それを論じようとする歴史家の意志の方がズーッと、重要なのだが、それはそれとして、混在併存とかの論の先に行かれたしと、鈴木は言明していると、わたしは解した。歴史家の至高は、歴史を運動させるにある。

安西直紀さんより、先般開催された、わたしの「生きのびるための建築」の世田谷美術館での講義への、感想文が3本送られてきた。全て読んだ。なかでも、通訳を業としておられるらしい、奥山ちとせさんのクリティークが興味深いので、わたしのネットで紹介させていただきたいと思い、安西直紀(向風学校代表)を介して連絡をして了とされた。連休明けにはご紹介できるであろう。これは、わたしのレクチャーが想定している聴き手の知性である。

奥山さんに、申し上げたいのだが、わたしは茂木健一郎は良く解らないけれど、山下洋輔は、坂田明と比較すれば、エヘン、少しばかり問題があるんだね。茂木は問題外です。

今の日本のアバンギャルドでは、わたしは坂田明が好きです。特に坂田が脳なんとか、で一度倒れてからの音はわたしは本物だと思う。

倒れる前の坂田はたいしたこたあない。山下さんはまだそのレベルでしょう。

といきなり、別分野の件を持ち出す。ハッタリです。

これは建築分野でいうとですね、日本のです。丹下健三と大江宏という感じなのですね。読者諸兄姉弟も、すべからく少し勉強して(ゴーマンかまして申し訳ない)、Xゼミに参加されたし。

今は無料ですけど、いずれ高い参加料はとりますよ、何らかの形で。「ただより高いモノはなし」はほぼ永遠の不滅の原理です。

モーゼだって、そう言ってたんだから。知らないんですか、モーゼがシナイ半島の、例のくびれた曲がり角を、チョッと曲がったところで足のつま先を痛めた時に言ったんですね。

モーゼの十戒で興味深いのは、海が割れてエジプトへの道が出現するという事です。エジプト記です。スーパースタジオの均質化、普遍化のイメージとは正反対なものであった。アレは。そんなところまで、Xゼミが辿り着けばいいなと思います。

しかし、人々は何故簡単に大江宏を忘れ去り、海老原一郎も忘れ去るのでしょうか。建築に関心を持つ人々でさえそうなのは、何故なのでしょうか。

タダの馬鹿なのでしょうか、そうは思いたくない。

世界は膨大な死者の営みの上に、現実として在る。その一人一人の営みの手触りやつぶやきを全て知る事は出来ない。それ故に歴史という世界が構築される必然がある。人間は皆、健忘症なので、忘れる為に生きているばかりなもので、それで時に忘れた人を思い出す必要がある。この人がすでに考え、成した事を、それを知らずに、何も自分で考えたような愚を犯す事はないのだ。

五月二日 日曜日

四時半目覚め、ウダウダして五時半再眠。起きているのか、眠っているのか定かではないような時間。世は連休の最中である。そんな世間の空気が伝染して気持がどうも、連休モードになっている。

八時半起床。WORK。やっぱりピリリとしない。このボーッとした感じは遠い昔にあった。パキスタンのモヘンジョダロの遺跡での数日がこういう感じだった。もう 30 年程も古い事だった。何にもしなかった、出来なかった事を何故か痛切に覚えている。シルクロードの旅も疲れはてて終りにしたかった。

インダス河畔のモヘンジョダロへ行って、それで旅を終りにしようと考えた。

日本を出てから一ヶ月弱程が経っていた。事務所の半分弱のメンバーと一緒であった。よくあんな時間があったなと振り返る。貧乏だったのに、自由な時間はあったのだ。

やっとの思いでモヘンジョダロに辿り着いた。暑かった。グラグラ大地が揺れる程に暑かった。45℃程だったか。とても日中は外を歩けるような状態ではない。早朝と夕暮れだけが人が動ける時間だ。

遺跡といっても、全くレンガの山があるだけ。何にも建築らしきを想はせる姿形はなかった。昼間はゲストロッジで寝て暮らすしかない。パキスタンは禁酒だから、ビールも何もない。天井でけだるく廻る扇風機の羽を眺めてジーッとしているしかない。だから、今日のようにジィーッとしていた。窓からはモヘンジョダロの遺跡らしきが水蒸気でクラクラ揺れているのが見える。インダス河もグラグラ揺れている。何もなす術もない。夕暮れ、ようやく、外に出て、水浴びをする。これだけが楽しみと言えば楽しみ。体を少し冷やして、日没前に遺跡のレンガの山に入り込む、土器の破片やらが膨大に散乱している。

みんな紀元前 5000 年位のものなのだろう。日本には、それこそ何もなかった筈だ。その時間の流れの切りのなさだけを知る。

昼間はしかし、日本から持って出た本を良く読んだ。たしか中公文庫の世界史だった。事務所の連中も他にする事がないから、何冊かのそれは、徹底して廻し読みされた。連中、人生で一番勉強したんじゃないかな。しかも、世界史入門書を。モヘンジョダロで、天井を見上げて読む世界史は妙に身にしみた。どうせ、何やっても、こうなっちまう、つまりガレキの山だというのが歴然とわかるからだ。全てはこうなる。30 年経っても、あの遺跡の光景と、世界史を読んでいた自分達の姿はハッキリと憶い出せるのだ。何か異変でも起きて、あのまんまモヘンジョダロに居つくような事になっていたら、あの世界史数冊はバイブルみたいなモノになっていたろう。

午後になって、思い立って、きっとシルクロードの旅を想ったからなのだろうが、沢木耕太郎の路上の視野を引っぱり出して読み直した。30 年前の本である。この人の本の大半は捨ててしまったが、一冊残っていた。これも、モヘンジョダロも 30 年前に属する、沢木耕太郎は今、70 前位かな。昔は似たような事してる人がいるなと思って読んだが、いつか鼻につくようになった。それで本を捨てた。今日久し振りに読み直してみると、この人の仕事も、実に焦点が絞れない。ノンフィクションの旗手であったが、書評やらエッセイに手を拡げ、若い間はエネルギーだけで乗り切ったが、今となると、これも、モヘンジョダロだ。壘々たるガレキの山である。でも、ある時代を走り抜けてはいた。

マ、しかし人間はガレキの山を築く為に生きているような者かも知れない。こう考えるのは日本的自然なんだろうか。浅い意味での、コレが仏教的諦念であるか。ここで、アーとかつぶやいてしまったら、本当に終りだ。もう少し頑張ってみよう。しんしんと夜だけは更けるのである。

五月三日

五時半起床。気になって、メモを読み直し、余りのセンチメンタル振りに悲鳴をあげそうになり、ズバズバ消した。実に恥ずかしい。まだ恥ずかしいところが残るのだけれど、それも記録だと考えて全て消去するのは思いとどまった。恐らくは、いつかこの日記、他もギャアと叫んで全て消しちまうのだろうけれど、まだ今はそれ迄にはいたっていない。時間の問題であろう。

上海万博の報道が続いている。大阪万博を石山研ゼミでやっているので、これは注意深く眺めている。新聞、TVではディテールを知る事ができぬが、現場を訪ねてそれを知る事が出来るわけもない。考えるのだが、人々が群集、集団を意識するのは、戦争の他は、この万国博覧会が典型ではないか。中国大陸14億の民草といえど、その全てを一度に見る事はない。天安門広場のパレードや集会でその一端を見る事が可能だろうが、アレは戦争の変種である。オリンピックはスポーツである。特種である。

万国博覧会に日本では6000万人の人々が集合した。その集団、群衆、つまり量としての人間をそれぞれが意識したのだろう。マスメディアそして広告業界が金儲けの対象としての集団を先ず意識した。情報産業そのフィーリングは大阪万博で得られたのではないか。

上海万博は大阪万博の延長上にある。TV、新聞で見る限りではそこに無いのは太陽の塔と大屋根下の、祭りの無かったお祭り広場だけだ。他は全て既視感がある。全てが大阪万博にあった。中国の企画者達は、北京オリンピックをベルリンオリンピックをモデルとし、上海万博を大阪万博をモデルにして、研究したに違いない。しかし、大阪万博に溢れていた蕩尽、様々な才能の、今想えば勝手な遊びの気配は、寸詰まりになっているような気もする。

日本人は良く遊んだな大阪万博では。しかも、あんまりケチではなかった。

五〇年代よりの高度経済成長の、アレが極みであった。

わたしは、大阪万博の設計の細々した手伝いらしきはしたけれど(それも全体からしてみれば、遊びの一種であった。良く遊ばせてくれたものだ、社会が当然。二〇代のなかばだったか)、大阪万博はついに実見する事が無かった。

万博の下働きで得た金で、旅ばっかりしていた。

九時四〇分世田谷村発、明大前経由、吉祥寺、三鷹で妹と待ち合わせ。十一時前、駅のサンドイッチ屋で早い昼食をとりながら、お互いの近況報告他。今日は母より二人そろって来いと言う事で呼びつけられている。何度目かの遺言伝達式である。

妹はかなり介護に疲れている模様だが、キチンと母の世話はやり抜いている。

バスで北裏、母の家へ。

「昼は近くのレストランで喰べなさい」

「イヤ、もう三鷹駅ですました」

「何で親言う事きけないんだ。勝手にすませてきちゃったとは何事か」

イヤ、ハヤ、これならまだまだ大丈夫だと少しホッとする。が油断大敵である。

母は 91 才になる。気丈であるが、弱っている。

母の日のプレゼントを持って来い、今日でなければダメだ、と言い張るので、妹とカートを引いて、おまけに、この鉢に植えてもらって来いと言う、キンカンと霧吹きが欲しいという。汗をかきかき、25 分程歩いて園芸屋へ。又、歩いて持ち帰る。汗かいた。

「小さいじゃないか、花咲いたのないか」とうるさい。

小さな庭に、それでも自力で歩いて出る。母は久し振りに庭に出たのだ。このバラは、この鉢は、このショウブは、とひとつひとつ細かに説明を始めた。

「庭には歴史があるんだ、よく聞いとけ。」と言う。マ、立派なものだよ。

小さな 4m 道路をはさんだ向かいに、もう一軒母の家があって、そこへも、どうしても行くと言う。ウデを取り、道を渡る。色々と屋内の思い出の品々の講釈をする。

妹は、もう疲れ気味。母はそれでも止めない。

十五時半、部屋に戻り、今日は疲れた、サヨナラと妹と吉祥寺行バス停まで歩く。今日は良く歩く。吉祥寺より、明大前で妹と別れ、世田谷村へ。17時。

妹と相談して、やっぱり母に家を作ろうか、との総論。2軒を計画して、2軒セットとする。母が万が一住めなくなったら、もう、それを売ろうと言う事にした。

妹も都心に家を持ってるし、もう家はいらないと言うので。

それで、いささか、急な事になったが、介護の家、終の棲家のモデルを考えてみる事になった。いいモノが考えられると思いたい。間に合えばいいが。

五月四日

昨夜は良く眠れなかった。七時半それでも起床。九時四〇分世田谷村発。芦花公園駅まで歩き、荻窪行バス。乗り換えて、十時四〇分下井草近辺。十一時前Iさんの屋敷林着。

園長先生と林を眺めながら雑談。昨日の母にしてもIさんにしても女性の感性の不思議さを想う。十一時半より、打ち合わせ。Iさんに計画全体に名前をつけてもらう事にした。この命名は重要である。Iさんは植物の人だな。やはり庭の人である。十三時、屋敷前の土庭にテーブルを2つ出して、集まった子供達を交じえ、昼食。

十五時前、打ち合わせ修了。荻窪まで送ってもらい、千歳烏山迄バス。十六時世田谷村に戻る。

4月の世田谷村日記