- 5月の世田谷村日記
- 215 ある種族へ 世田谷村日記
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四月三〇日
十時半大学正門シャットアウト、やはり休日らしい。でも、院生の何がしかは、来校しているにちがいない、と十時四〇分過教室へ、行こうとするも色んなところに鍵がかけられていて、仲々教室にたどり着けず、大廻りしてようやく教室へ。それでも 50 名位の院生がいた。1回1回のレクチャーに力を尽すのは実に仲々難しいのだし、今年はシナリオを全部変えている。やれるだけの事はしてみようとしているが、肝心の受け手の院生の方の力具合もあるから、とんでもない喜劇にもなりかねない。
少しの話しの後、独人よがりはまずいだろうと、質問を含めて、ダイアローグを試みる。例によって質問の手はあがらない。シャイなんだな日本の学生は。それとも疑問が全くないのかな、それだったらこちらも話す事はないのだから。やはりシャイなんだろう。そう考えることにする。ポツリ、ポツリと手があがる。6〜7名の学生と話す。これからのレクチャーは毎回2人位の学生からの質問、他を受けようと決める。案の定、すれちがっていることはおびただしいが、それはこちらの話す技術に問題があるのだろう。キット。
でも、もっと勉強しろよと言いたい。いくら話しを聞いてもロバはロバのまんまだというのは山本夏彦の名言(正確には「旅をしても、ロバはロバのまんまである」)だが、院生なんだから、もう少し基礎的教養を積んでもらいたい。
十二時半了。研究室に戻り、サイトチェック他。十三時打合わせ。至誠館プロジェクトディテールチェック。ひろしまハウス一部改修案チェック。伝えている事が、充分伝わっていないのに驚く。何か変だ。考えの位相がズレている。
十六時発。早急に母に会わねばならない。いつまでたっても母は母。頭が上りようのない存在である。私事の中に動かしがたい普遍の運行が急速に入り込んでくるのを痛感する。
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五月一日
四時三〇分起床。グズグズ読書やらをして、五時半再眠。七時半再起床。いやはや、早朝から新聞を読んでも、何もこちらの日常と関係がないような事ばかりが多い。現場に行っても、リアリティーを感じられなくなっているのか。しかし、毎朝六時前には3階から階段を降りて、玄関の戸を開けて駐車場、物置を抜けて、道路を歩いて郵便ポストに新聞を取りにゆくのが身についてしまっている。身体はバカだから、すぐに習慣化する。それで、ゴッソリ分厚くなった新聞を、何紙かポストから引っ張り出して、又、上に登る。
で、も少し、マシな記事書いてくれよという感に襲われるのである。政治面、経済面、社会面、スポーツ、娯楽、文化、地方版全て記事自体の質が落ちているような気がしてならない。これは世界的な兆候なのだろうか。カンボジア・プノンペン、ウナロム寺院のフーテンのナーリさんが、カンボジアでBBCとかCNNとかのTV番組をみてみると、日本のTVがいかにおかしいかが良く解ります。と言っているのを思い出すのである。日本のTVでは茨城空港が開港しました、沢山の人が訪れました、と報道しているのに、BBCじゃ、同じ頃に日本ではあんな狭い国土に90くらいの地方空港が開設されていて、実におかしい!って報道されてるんですからね。上海万博の日本のTV局の報道は、アテにならないという事だけが解る。
- 214 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十九日 何かの休日
九時半起床。早稲田建築・演習G、院、学部4年は基本的に「建築の文化的意味」を表現として成す事を目的としていて、今年より、明快に「建築の保存と再生」の積極的な価値の発見と、その人材の育成も視野に入れようとしている。七月七日には鈴木博之先生の小レクチャーと、クリティークの日を設けた。本格的な一種の講座に育てられるように考えている。
演習課題の上野公園内、黒田記念館見学について鈴木博之さんと電話で相談。若い先生方に伝える。
ところで、いつだったか友人達と三人で会津に旅した事があった。TAXIの運転手が女性で、同乗者に長州者がいた。会津者と長州者はやはり今でも性が合わぬところがあるらしく、それが面白かった。歴史というのはそのように会津のTAXIのオバさんドライバーと長州者のさり気ない会話の中に在るのもだ。
と唐突に言う。
Xゼミは面白いが、恐らく、わたしは難波和彦氏(うじと読まれたし)の書生の如き(若々しいと言うほめ言葉です)マルクス者(ものと読む)の中に朝鮮民族にも通ずる観念好みの原質を見て、それで面白いのである。唐突に見せて言うが、これは大事な事だ。長州と半島の交流は歴然としている。幕末から明治にかけての動乱は長州者、薩摩者達によって成された。第二次世界大戦後のアメリカ型の大衆民主主義社会のシステム(外来の)の貫徹が今の日本社会であるが、Xゼミが、もしかしたら面白くなるかも知れぬのは、今もなお長州者である普遍論者(ようするに長州気質である)の難波さんの歴史的遡行を何処までうながし得るかという事になるかも知れない。
大体ですよ、長州者に平安大江氏迄遡行する、大神官の血統である、大江宏の建築は難しいのである。それ以上の事は日記では書けぬ、いずれXゼミで。
渡辺豊和氏が自分の祖父は白系ロシア人の血があると、何かに書いていて驚いた記憶がある。今は驚かない、そうだろうなと思う。
わたしは、渡辺豊和の書物愛好家である。それは、いずれキチンと記録に残しておく。
アニミズム紀行7を書き始める。
読者諸賢は先ず、5号を読まれたし!
- 213 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十九日 何かの休日
十四時世田谷村を発つ。バスを乗り継いで、十五時半世田谷美術館。川上澄生展をみる。この展覧会は実ワ一人でじっくり見ようと決めていた。他人と一緒に体験するものではない。何を隠そう、とてもわたしには重要な展覧会なのである。
ある年の夏の日、わたしは宇都宮くんだりの何かをやっぱり独人で見学に行った。田舎町に特有のメリハリのない、ほとんど人工的な自然としか言いようのない、地方都市の光景が続いていた。
カンカン照りの夏の日に、そんな中を歩くのは、仲々良いものなのだ。宇都宮は今はどうなっているんだろうね。あの口跡の悪さはといささか心配な、元状況劇場の唐十郎の、それでも最高の作品らしきであった「唐版、風の又三郎」に登場する都市だ。しかも、唐が別れた前の女房、あの不滅と思われたジャスミン、李礼仙の科白の中にだけ。
「何故、呼んだ、又三郎、あんたがそう呼ばなけりゃ、わたしは、宇都宮くんだりのただの飯たき女だったんだ、何故、呼んだ、又三郎・・・・」
あの時、唐十郎は、時代を背負っていた。西伊豆の土肥でおぼれかかった吉本隆明は、唐の風の又三郎を評して、時分の花だが、とうてい世阿弥には辿り着いていないといい放った。吉本も絶好調だったのだ。
まさか、あとに土肥くんだりの、しかも海水浴場でおぼれ死にそこなうとは考えてもいなかったんだろう。柄谷行人はそんな唐を、フロイトを下敷きにしている、とは思いもよらなかった、、決して体当たり特攻隊のバカ表現者ではないと、評した。すべて、先に述べた、誰忘れる事のない、あの、不滅のジャスミンの叫びに集約された時間について述べられていたのであった。
宇都宮は飯たき女の町であった。
その宇都宮の、レンガ工場の跡地みたいな美術館で、そこにどうして踏み迷ったのか、もう定かな記憶がないのだが、川上澄生の木版画に初めて出会った。
真夏であった。ボロボロの廃墟の如くの宇都宮である。こんなところに人間が生きているのか、と思うくらいの、真夏の廃墟である。川上澄生は知らなかった。でも時に生きている時間は妙なねじれを引きおこす。美術館の中で、わたしは一点の版画に出会った。なんだ、この男「ただの助平ジジイ」じゃないのかと思った。「風になりたい、かのひとのスカートの中をくぐり抜ける風になりたい」というようなコトが、版画で文字として彫られていて、ヨーロッパ服を着た女の夜会服風のスカートが風に吹かれて、ビリー・ワイルダー監督の有名な、マリリン・モンローが地下鉄の換気口の風にスカートをめくらせて尻を丸出しにする、と同じ構図の絵が、版木で彫られて、刷られて、そこにあった。川上って奴は助平なヤローだなと考えた。しかし、どうも、ただの助平ではどうも無いのだった。実に清々しい、それは余りにもチンプな言い方で下品だが、そうとしか言いようのない清々しさがあったのだ。
ガキの頃、新宿花園神社の境内の、唐の赤テントで、まだ観客が 100 人も居ない時の李礼仙の放つ、それこそ時分の花の、ジャスミンの香りがあったのだ。
2010 年、世田谷美術館で、久し振りに川上澄生と再会した。
展覧会は上手く構成されていて、川上がプリミティーフの画家アンリ・ルソーを会った事の無い師匠として仰いでいた事を初めて知ったり、棟方志功が川上の影響を受けて大成したのを知ったりも出来た。
川上澄生は、実に良い。自分を芸術家として考えていなかったのが、何より良い。自分を民芸家の変種だと考えていた。それで、蔵書票と限定非売本用の版木を彫ったりもした。何隠そう、みんなが誰でもやった時代があった、正月用の年賀状の版画作りと同じである。
そして、実に、今はそれはコンピューターにより、電子による、ブログになっている。
つまり、話しは飛び過ぎるが、わたしは絶版書房と、川上の仕事との間に歴然とした脈絡を見たのである。
川上澄生展カタログ、野田尚稔蔵書本と限定非売本を読んだら良い。ここにはベンヤミンの複製技術時代の芸術の、ようやく次の時代のアウラが少し計り、書き述べられている。又、同カタログには酒井忠康の、川上澄生一途な詩人・版画家のことの巻頭エッセイがあり、やっぱり、マリリン・モンローの「七年目の浮気」の名シーンとの同一性が書かれていた。あの映画も川上の版画くらいに名画であったな。
十七時了。館内のレストランは結婚式パーティーの為休めず。再びバスを乗り継いで烏山へ。十八時ネパール料理屋で、モモとビール。ネパール人の無愛想な接客は相変わらずだ。でもはるばるヒマラヤの国からやってきているのだからとガマンする。十九時世田谷村に戻り、カタログを繰る。
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四月三十日
六時起床。周期的なのだろう、時に活字嫌悪感が襲ってくる。何なのかなコレワ。
九時朝食、九時半世田谷村発大学へ。今日は大学は休みらしいが、院のレクチャーは休まない。
- 212 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十八日
十一時四十五分新大久保近江屋。十二時、ダムダンの竹居さんと会食。相談、近い将来の事などを話す。旧い友は良い。十三時四〇分了。十四時研究室。十四時四〇分、学部、院共通課題演習G。20 名弱程の提出物をみてクリティーク。
わたしは例によって若い先生方のクリティークを聞いてもいた。皆、大差なく非常に観念的である。自分の生な考え方、受け取り方を表現して欲しい。一つ一つの個別に即応してもらいたい。学生の気持をわずかなりとも動かすエネルギーが欲しい。
十九時過、回転寿司屋で若い先生方と貧しい会食。私なりにケツをドツク。しっかりしろ。
二〇時半世田谷村に戻る。WORK&読書。翌三時迄。
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四月二十九日 何かの休日
九時半起床。早稲田建築・演習G、院、学部4年は基本的に「建築の文化的意味」を表現として成す事を目的としていて、今年より、明快に「建築の保存と再生」の積極的な価値の発見と、その人材の育成も視野に入れようとしている。七月七日には鈴木博之先生の小レクチャーと、クリティークの日を設けた。本格的な一種の講座に育てられるように考えている。
演習課題の上野公園内、黒田記念館見学について鈴木博之さんと電話で相談。若い先生方に伝える。
ところで、いつだったか友人達と三人で会津に旅した事があった。TAXIの運転手が女性で、同乗者に長州者がいた。会津者と長州者はやはり今でも性が合わぬところがあるらしく、それが面白かった。歴史というのはそのように会津のTAXIのオバさんドライバーと長州者のさり気ない会話の中に在るのもだ。
と唐突に言う。
Xゼミは面白いが、恐らく、わたしは難波和彦氏(うじと読まれたし)の書生の如き(若々しいと言うほめ言葉です)マルクス者(ものと読む)の中に朝鮮民族にも通ずる観念好みの原質を見て、それで面白いのである。唐突に見せて言うが、これは大事な事だ。長州と半島の交流は歴然としている。幕末から明治にかけての動乱は長州者、薩摩者達によって成された。第二次世界大戦後のアメリカ型の大衆民主主義社会のシステム(外来の)の貫徹が今の日本社会であるが、Xゼミが、もしかしたら面白くなるかも知れぬのは、今もなお長州者である普遍論者(ようするに長州気質である)の難波さんの歴史的遡行を何処までうながし得るかという事になるかも知れない。
大体ですよ、長州者に平安大江氏迄遡行する、大神官の血統である、大江宏の建築は難しいのである。それ以上の事は日記では書けぬ、いずれXゼミで。
渡辺豊和氏が自分の祖父は白系ロシア人の血があると、何かに書いていて驚いた記憶がある。今は驚かない、そうだろうなと思う。
わたしは、渡辺豊和の書物愛好家である。それは、いずれキチンと記録に残しておく。
アニミズム紀行7を書き始める。
読者諸賢は先ず、5号を読まれたし!
- 211 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十七日
十時三〇分研究室。同四〇分学部レクチャー、NO4.ブルーノ・タウトと日本の住宅、十一時四〇分修了後、小テスト、桂と日光について述べよ。2年生には仲々大変だろうが、1割位の学生が関心を持ってくれれば、それで良い。 十二時過より十五時迄雑用、書類チェック。
十三時半、広島市より友国さん、国近さん、来室。プノンペンのひろしまハウスのその後の報告と、2階の一部を日本語学校にしたい為に、内部、外部開口部の一部を改修したい旨の申し出を受ける。1階部はカンボジアの子供達のためによく使われるようになっているそうで、2階をプノンペン大学の学生達にある程度自主的に運営を任せたいとの事である。1階カンボジアの子供、2階学生という組合わせは面白いと思った。
早速幾つかの案を作り、1週間以内に友国さんのところへ送附する事とした。
この建築は我々よりは、長命であろうが、遠いところにあるので、丹念なメンテナンスは難しい。しかし、出来るだけの事はしたい。
プノンペンのウナロム寺院周辺、および境内は今、激変している。あそこはプノンペンでは超一等地であるから、周辺は投資の対象となり家賃その他も、広島とほとんど変りがない程である。西側には新しいビルも出現したようで、ひろしまハウスは古い形式で建てておいて、本当に良かったと、今にして思う。十五時半了。
十六時半新大久保近江屋で遅い昼食。十八時世田谷村に戻り、いくつかのWORK。二十四時半小休。一時就寝。
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四月二十八日
五時半起床。WORK。八時半小休。横になって休む。休みのとり方がこれからの勝負所なのだな。当り前の事ではあるが、走り続けるのは危険である。
- 210 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十六日
九時四〇分世田谷村発。雑用で都内へ。新宿にて幾たりかの雑用をすます。これが今考えている、いくつかのプロジェクトに関連付けられる事を願うばかりである。我ながら先を見過ぎるきらいがあるので、他人には解り難い行動を、時にとらざるを得ない。例えば、アニミズム紀行の続行がそうなのだけれど、何年かが経って、なるほどそうであったのかと言ってもらえるか、何だったんだろうね、アレはで忘れられるかはそう簡単ではない。
十九時世田谷村に戻る。確信犯的平安コラム4を書く。どうも、このコンピューターサイトの事が気になって仕方ない。恐らく無意識下の底のところで、とても重要なことを始めているような気がするのだが、その重要さが充分には意識できていない。又、実作業が研究室内だけの旧来的なリアルな空間の中で成されているので、どう考えたって、身近な伝達力とか、イメージ出来ずにいる、我々が居るのも確かだ。でも、毎日アフリカやラテンアメリカ、他の想像もつかぬ処での読者が、検索者がいる事も確かで、その辺の事をまだ充分に把握できていないのだ。
事実が我々の、主にはわたしの想像力を超えてしまっている事が、意識できていない。
コラム4では、その事への入口を書いてみた。当然、未完だが、こういう形式に育ててゆきたい。
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四月二十七日
五時半起床。WORK。八時半迄。大体、今日考えねばならぬ事の大方は済ませた。研究室に送信。
九時三〇分、大学へ。
- 209 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十三日
十時二〇分大学。院のレクチャー・マテリアルチェック。院生は仲々良く資料をまとめている。かくの如き作業は上手なのが多い。情報時代だな。十時四〇分院レクチャー、三回目。設計の対象としての人間の変化。パトロネージに非ず。その建築を使用するであろう人間の種族らしきの変化について。大仏殿大湯屋、アムステルダムの孤児院、アルド・ヴァン・アイク、ブルネルスキの孤児院、そして私自身のツリーハウス、ヘレンケラー記念塔、星の子愛児園等々の作品について。この回のレクチャーは自分でも納得ゆくものになった。十二時過了。
すぐにM0ゼミ開始。良い報告が続く。飛び抜けて情報収集、まとめに長ける女学生がいて、これは見モノである。過大な要求を課してみよう。十五時半迄。博士課程の学生の相談他。十七時半、新大久保ガード下、ラーメン屋にてレバニラいためで一服。十九時了。二〇時半世田谷村に戻り。原稿書き。二十四時半文芸批評書を読みながら自然に眠りに入る。チョッと古めの文芸批評本は面白い。個々の批評家の力量がバッチリ解って残酷である位だ。
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四月二十四日 土曜日
五時半起床。新聞を読み。文芸批評書を続けて読む。おにぎりの朝食を喰べながら、ノルマの難波さんの東大退職本の原稿を書く。十三時半、三十一枚書きおわる。手を抜かずに書いた。難波和彦論になったのではないか。十四時半新宿長野屋食堂にて原稿渡し。十七時半世田谷村に戻る。小休。
帰り道で遠くに眺めた天空の模様が異様であった。東の空に夏の積乱雲、上天に秋に多く見られる筋雲が同居しているのである。日々の気温の温度差だけではなく、眼に視える空の雲行き迄もが、異常である。別に何かがやってくるというわけでもあるまいが、やっぱり何かが、おきてしまうのだろうなコレワ。
二十一時五〇分、研究室よりXゼミ、難波さんの長文の論が送られてきて、すぐにそれに反応して、返信を書きおわる。面白くなってきたのでもうどんどん書いてしまおう。
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四月二十五日 日曜日
七時半起床。
終日、読書とWORK。十九時、小休。今日は天気も良く、良い休日であった。絶版書房アニミズム紀行5の残部数を公開しなくしたが、5号は500冊を印刷したので、まだまだ充分に残っている。このサイトで動きを知ってもらうしかないのだが、時々、触れなくてはと思う。
絶版書房のトップページが動いていないので、スタッフに工夫を願いたい。ページを動かさないと、情報は動かない。
- 208 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十二日
終日、雑用に追われる。十七時半帰宅。コラムにも書いたが、近頃はフッとこれは出来ないなと思う事が起きてきた。知恵がついたと言いたいところだが、やはりこれは老いだろう。何でも出来ると考えていた間抜けな自分が懐かしい。
コラムが書けなくなったばかりではない。ほとんど毎日のように(コレはウソだな)やらなければ、やらなければと思い続けている銅版画が全く彫れない。ときの忘れものギャラリーの綿貫さんに、「彫るものがある人はうらやましい」とおだてられ、始めた事だが、これは歴然とした壁である。壁が立ち上がったと意識すれば、まだそれを壊す事の可能性はある。
十八時半、依頼原稿14枚書く。書こうと思っていた事とは別の事を書き始めている自分に驚く。書く事の不思議だな。シナリオ通りにいったためしが無い。
友人達よりメールが入り、それが研究室経由のFAXで送られてくる。実に化石的な事をやっているようだが、コレでよい。本当は全て、葉書や封筒で交信したい位なのだが、それにはエネルギーがかかり過ぎるのだ。
Xゼミは予想通り、面白く展開している。実は最近自分の事を書くのに「わたくし」という形で書き続けてみた。コレは実ワ、鈴木博之さんの真似であった。歳なりに良いなと考えてやってみた。「私」では、何か私小説を連想させて縮み気持のようだし、「僕」では建築界では磯崎新風だし、なるべく書く主体を消す、つまり「私」「僕」を書かぬように努力すると、山本夏彦風になってしまう。しかし、やっぱり、「わたくし」は自分らしくないような気がするので、自然に止める方向でやってみる事にする。それ程、文章家の如き訓練をする事もないと思うのだが、これだけ毎日メモを記していると、やっぱり、それなりに気になってきてしまうのである。でも、鈴木博之の真似はわたくしには似合わぬので、わたくしはこれで終りとする。
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四月二十三日
五時半起床。メモを記す。銅版画をやりたいと考えて、机に向うも断念。やはり彫りたいモノが浮んでこない。芸術家らしきの如くに、自分の内に常に何か表現せねばならぬモノが在るわけではない。無理やり(洒落て言えば方法的と言う事だ。バカバカしい。)にそれを作り出さねばならぬ身としては、何しろ毎日早朝、作業テーブルの前に座ってみる、その事をしばらく続けてみるしか無い。
六時半昨夜途中迄書いた依頼原稿を読み直し、書き継ぐ。世田谷村でジタバタしているのも、世間で、つまり外でジタバタしているのも、たいした違いはないな。
八時過、中断する。朝食をとり小休。九時半前、寒い雨の中に発つ。
- 207 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二十一日
昼食後、雑用。十四時過加藤、北園両先生来室。十四時四〇分、四年演習G。このスタジオは早稲田建築設計では最高度のスタジオであるので、各先生方がエネルギーを注ぎやすい態勢にするのが私の役割。十八時半迄。当初二〇名の参加学生であったが、すでに、十六名に減っている。これで自然なのだ。
十九時過北園、加藤両先生と新大久保のコーリア料理屋にて打合わせ。二〇時半了。若い先生方に何かと伝えたいのだけれど、伝わっているのだろうか。むしろ、わたくしは学生もさりながら、四〇代くらいの若い先生方に何かを伝えたいような気持があるのだ。二十一時半世田谷村。
スタジオGでは、わたくしが前に出過ぎて、若い四〇代の先生方が充分にその機能を果たしていないきらいがある。四〇代の若い先生方、彼等が二〇代の学生の時、わたくしは四〇代の作家であり、同時に教師であった。時は巡り、今はそれが二〇年ズルリとすべっただけである。わたくしは学生もさりながら、彼等に今でも語りかけているような気持がある。学生の良さは歴然と浮上している。その良さの特色は、当然の事ながら情報収集能力の高さにある。
その情報がコンピューターからの均質なものであろうともだ。この速力は四〇代の若い先生にも、当然わたくしにも無い。それは大きな長所として認めるべきだろう。そうすると、実に自然にその情報の編集能力、アッセンブル能力という事になる。無から有を創り出そうというのではない。それは古いやり方、いわゆる創造という奴だ。今はアッセンブル、編集の方がリアルなのだ。その内実が、どこまで洗練され、高度になり得るのかが勝負なのである。それを視ていかないと、スタジオは堂々巡りに落ち入る。それを意識化できるかどうかが、四〇代の先生方の要である。
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四月二十二日
六時半起床。メモ。今朝は再び暗い曇天である。どうなってるんだろう地球は、と一気に大きく出る。
八時四〇分、明日の院レクチャーのシナリオ作成中。今年の院レクチャーは昨年迄のモノを一新したので、中々に辛いものがある。「生きのびるための建築」に院レクチャーの一部を入れたので、院生には本を読んでもらえば良いので、その先に行くことにしたのである。院生は聴講生としては毎年新しいので、繰り返し、反復のレクチャーでも決しておかしくはないのだけれど、自分の方まで古びてしまうような気がして、それがイヤだった。
- 206 ある種族へ 世田谷村日記
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四月二〇日
十時四〇分学部レクチャー。第3回。十二時迄。十二時半近江屋昼食。雑用。私用十八時迄。十九時世田谷村に戻る。WORK。二十二時了。二十四時過迄読書。〇一時休む。
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四月二十一日
五時半起床。メモ。小WORK。難波和彦さんの東大退職本の為の草稿のあらましを昨夜決めた。他人の人生の一幕の一コマを飾る文章に過ぎぬが仲々にむづかしい。今週中に書いてしまおう。
連日の気温の変化異変で身体にしみついていた季節感らしきがいささか変調をきたしているような気がする。あんまりデリケートにならぬように流されてゆくのが、コレワ一番かな。
今日は人事小委員会が早朝にある。建築学科の将来の為に大事な会となるかも知れぬ。中川武先生明日よりカンボジア行の為、かくなる異例の早朝会となった。カンボジアか、暖かくって、誠に良いだろうな。わたくしだってボーッと一ヶ月くらいウナロム寺院に行きたい。七時半発。八時半小会議室にて人事小委員会。
人事小委員会九時半過了。先生方は皆忙しい。研究室、サイトチェック他。雑用と少し。十時半OB光嶋くん来室。色々と連絡を取り、F氏にアレンジ。十一時半了。
書き忘れを一つ。
世田谷村近くの千歳烏山駅北口の京王書房が閉店となった。
最近は古い本ばかり読んでいるのでお世話になる事が少なくなったが、何となく身近な何かが落城したような気分である。古本でさえもネットで買える世の中になったのである。
しかし、こればかりは仕方ない。飛脚がメールになり、蒸気機関車が新幹線になるのは誰も止めようがない。近代建築様式はどうか?
十二時半過昼食。
- 205 ある種族へ 世田谷村日記
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四月十九日
九時四〇分発、京王稲田堤へ。十時二〇分厚生館愛児園、K理事長打合わせ。十一時過了。十二時過新宿へ。十三時過南口長野食堂にて河野鉄工河野氏と打合わせ。十五時半迄。その後、雑用。十九時世田谷村に戻り、WORK。二十二時半迄。絶版書房通信等書く。二十四時過休む。
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四月二〇日
六時前起床。又もや今日は薄曇り。昨夜は夜遅くいわゆる時代小説らしきが2階の床に落ちていたので拾って読んだら、面白かった。こういうものの書き手の文章力というのは仲々のものなんだなあと痛感する。恐らく驚く程に沢山の量を書いていて、編集者からの注文も厳しいのであろう。実務としての建築設計業に近いものなのだ。
しかしながらである。今、わたくしのやり始めているWORKは時代小説、剣豪小説とは異るのだろうが、多くのネットを介した読者、使用者、仮定のクライアントを勝手に想定しているので、それに近いものになってゆくのだろうと思われる。
ベイシーの菅原正二さんに、あなたはコンピューターをやらぬから、サイト上に書いたわたくしの書評らしきを知らぬだろう。とFAX送ったら、何言ってんの、出版社の編集者からそれをプリントアウトしたコピーは届いてはいるが、スピーカーの手入れに忙がしくまだ読んどらん、という返事が返ってきた。ウーム、油断しているとかなりの包囲網がすでにしかれているらしきを知る。
- 204 ある種族へ 世田谷村日記
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四月十六日
十時四〇分院講義第二講東大寺法華堂、ひろしまハウスについて。十二時十分了。十五時迄雑用。十六時松陰神社前、M邸打合わせ。作業経過報告。十八時過了。その後M夫妻と近くの料理屋で会食。ソバがおいしかった。M氏が新大久保近江屋のオカミさんの亡くなった御主人と知り合いだった事が判明。ソバ屋の話しに花が咲いた。二十三時過迄。二十四時前世田谷村。みぞれが降っている。
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四月十七日
六時過目覚める。何と雪が降っている。外は雪景色で驚いた。八時レクチャー用スケッチ撮影。昨日、レクチャーのシナリオは作っているので、大枠は出来上がっているのだが。
十時前発、バスを乗り継いで世田谷美術館へ。十一時レクチャー準備。どうやらスタッフは昨夜徹夜したようだ。十二時やっちゃ場、というか世田谷市場で関係者と食事。顔なじみのオヤジやオバハンとあいさつ。
十三時了。十三時半レクチャー会場開場。十四時レクチャー。会場は百九十名程の参会者で超満席となる。NTT出版の神部君司会。十六時過了。会場に視えた難波和彦氏と十五分程、アドリブの対談、後、会場との質疑応答十七時迄。その後、絶版書房「アニミズム紀行5号」、「生きのびるための建築」へのサインにはげむ。
修了後、二十分以上歩いて出版関係者の会、用賀へ。会食、川崎市市民ミュージアム旧姓Mさん、世田谷美術館Nさん、編集Tさん、長井さん、NTT出版神部さん、友人の冷水さん他。もう、こういう会は一期一会というのはキライだが、一度一度がこれで終りの会だと思う。大切な会であった。二〇時過了。皆と別れてTAXIで世田谷村へ。二十一時過戻る。
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四月十八日 日曜日
七時起床。暖かくはないが晴れてはいる日曜日になった。WORK。十三時過、Xゼミ、書く。イームズ・チェアーについて。コラム「山本夏彦をおもい出し恥じる」書く。二十一時休み。寝床で雑読しながら眠りに落ちた。
- 203 ある種族へ 世田谷村日記
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四月十五日
十時過研究室。絶版書房アニミズム紀行5にドローイング入れる。集中して描きまくる。追いかけられている。25 冊了。十二時十分発。十三時十五分田町、建築会館。日本建築士会賞審査。百五〇点程の資料を見る。投票にて十六点の現地審査対象を決める。十七時了。近くの小料理屋で鈴木博之、難波和彦両氏と会食。実物に会うのは久し振りだ。サイト上でいつも会っているので実に妙な気分である。
鈴木博之さんの将来計画を聞く。山手線にて新宿へ。南口味王で二次会。二十一時頃了。別れて、世田谷村に戻る。
今日は顔を合わせてXゼミの方向を調整しようという会であったが、それは自然にやろう、無理しないでやれば良いになった。鈴木さんの将来計画にはすでに巻き込まれていた。これも風の吹くママ、吹かぬママにやろう。
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四月十六日
六時半起床。メモ。今日も寒い。どうなっているんだろう、今年の天気は。天変地異の予兆かな、と皆それぞれに思っているのではないか。この天気はわたくしの「生きのびるための建築」は売れそうだと、バカな事を考える。
- 203 ある種族へ 世田谷村日記
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四月十四日
芦花公園より荻窪、荻窪北口より再びバス。十時屋敷林に着く。Iさんと打合わせ。十二時お母さん方 20 名程とのミーティングを聞く。至誠館グループの先生方といい、ここのお母さんといい、女性達の感性が未来を拓く可能性大だな、と思う。その後昼食をいただく。十三時半去る。中央線で大久保へ。歩いて地下スタジオへ。
演習G、モダニズム建築を改変せよ、という抽象的な課題にかかわらず、学生は良く立ち向かっている。二〇名の参加学生はいずれも潜在能力は高いが、それでも格差が発生している。これ位の人数だと全ての人材の個別性は把握できるので、個々に適応した指導が必要だろう。壁に対面している者もいるが、突破させたい。良い人材は徹底的にのばしたい。十七時半了。
研究室で次の課題について、先生方と相談。第二課題はフランクロイドライトの目白の自由学園の再生、とする。
アニミズム紀行5、25 冊にドローイング描き込む。エネルギーを集中。二〇時半了。二十一時新大久保ガード下ラーメン屋で一服し、二十二時半世田谷村に戻る。
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四月十五日
五時半起床。メモ。今朝は又、ひどく寒い。おまけに雨まで降っている。七時半再び眠る。八時半再起床。我ながら器用な眠り方をする。九時過発。研究室へ。
- 202 ある種族へ 世田谷村日記
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四月十三日
十時四〇分学部2年レクチャー第2講。外から視る地球という概念とバッキー・フラー、ヘンリー・デービッド・ソロー、ビル・ゲイツのコト。フラーの話しは子供が眼を光らせて聴くのを知っているが、学生の反応はどうであたかな。十二時前小試験、私とディズニーランドを課して去る。近江屋で昼食の後私用。十九時世田谷村。屋敷林のIさんと明日の件で連絡。松陰神社M氏と連絡、他。
ベイシーの菅原正二さんより『DAYS OF WINE and ROSES with JBL ぼくとジムランの酒とバラの日々』駒草出版 1800 円+税、送られてくる。一九九三年四月に講談社より出版された『ジャズ喫茶ベイシーの選択』の復刻版とでも言うべき本である。正直言って、『ジャズ喫茶ベイシーの選択』よりも何故か、余程スピーディーな、洒落たつくりになっている。同じ本なのに何故か?本は魔物だ。新しい本の小振りさと、紙質がとても良い。内容は勿論、スッゴク、イイ。
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四月十四日
六時半起床。メモ。九時世田谷村出発。芦花公園駅より、バスで荻窪へ。杉並の屋敷林へ。
- 201 ある種族へ 世田谷村日記
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四月十二日
十二時過、定例研究室ミーティング。サイトの運営を中心に。他に設計実務の進行等。十五時前T社来室。十六時半了。十七時過ぎ、新大久保ガード下ラーメン屋でミーティング。及び小記事作成。十八時了。十八時四〇分世田谷村に戻り、今早朝に送った筈のマテリアルを送り直す。
研究室の若い人材達の情報マテリアルに対する繊細さはいささか杜撰であるとしか思えないな。わたくしの方が細部を気にしているようでは、未来は無いに等しい。ネガティブな事は書きたくないが、敢えて苦言を呈す。
十九時半、研究室にいくつかの伝言というか、オペレーション。わたくし、思うに、彼等とのコミュニケーションはこれ位に間接的な方が合理的であるかも知れないなと思うのである。
屋敷林プロジェクトに関して、屋敷林をていねいに説明できる案内人を育てる事から始めるべきかというアイデアが突如生まれた。夏から出来るなこれなら。ほろびゆくモノは文化としては最重要なモノなのだ。それを、どれ位に金をかけて継承してゆくかを考えるのは資本主義下の建設産業にとっても、考えざるを得ぬ分野となるだろう。
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四月十三日
四時目覚めるも、メモを整理して再び眠ろうとする。シンシンとしつつ夜明け近し。七時半起床。今日は何と昨日よりも気温が 15 ℃も高くなるらしい。天候異変だなコレワ。
九時過世田谷村発。
- 200 ある種族へ 世田谷村日記
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四月十日
十三時、M0M1合同ゼミ。今のところはよく頑張っている。持続力を望む。十六時半迄。十七時半新宿味王。 送っていただいた「新潮」二〇〇七年二月号 ~ 八月号「極薄の閾のうえを」ウフィツィ問題を渡辺君と読み合わせ。
フィレンツェのウフィツィ美術館の出口の大キャノピーにまつわる事件が詳細に書かれている。磯崎新は、この美術館の中の美術館に初めて何かを付与するチャンスを国際コンペで得た。しかし、イタリア文化の中心での仕事である。次から次へと磯崎(日本人)排斥とも言える事件が起きる。その深さとスケールは、とてもわたくしには実感ができぬ。と言わねばならぬ事だけは良く解る。磯崎新はこれらの建築を巡る事件を介して完全に近代建築家として別次元な存在に進化している。昨日書いたコラム「イカロスとレオナルド・ダ・ヴィンチ」に少し書きくわえないとまずいな、とわたくしは少々恥じた。アノコラムは消さないけれど、付け加えないといけない。
磯崎新はウフィツィ美術館事件の中で、ミケランジェロ、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチと親密な会話をしていた。それに、いささかの懐疑を挟み込むのは、いかに書き方を工夫してまぶしていようとも、それはそれで勝手な事ではあるが、失礼な事であった。磯崎新は別次元の、それこそ閾の中に入り込んでいる。通読して、それを実感した。
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四月十一日
五時起床。新聞を読んで再び眠る。八時半再起床。グデグデとする。十三時半、コラム一本。「イカロスとレオナルド・ダ・ヴィンチ2」書く。小休。十八時、一ノ関ベイシーより夏前のライブの知らせ届く。絶版書房通信書く。二〇時再び小休。今日はもう休もう。
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四月十二日
五時起床。新聞は今日は休刊であるが、芳賀牧師より大きな封書が送られてきている。郵便箱に何か来ているのかな、と歩く数歩はもうドキドキするわけではないが、便りがポツリとは行っているような時は、気持にポーッと灯がともる。芳賀繁浩牧師はわたくしの制作ノート「H牧師の椅子」に反応して下さって、の通信であった。「ブツァーとカルヴァン」信仰問題を手がかりとして、芳賀繁浩、教会の神学、第16号日本キリスト教会神学校、同封されている。読まなくてはならぬなコレワ。
昨夜は浄土真宗の馬場昭道住職より連絡をいただき、御二人の宗教家との交流(附合い)はこれから楽しみとなる。知り合いとの関係はわたくしにとっては作品と同義である。
わたくしのコンピューターサイトでの皆さんとの交信が手紙、封書での交信に、時に進展するのはホッとするところがある。ものです。やはり、古い活字人間なのだなと思うのです。
九時、K鉄骨Kさんと諸連絡。九時半、研究室にFAX。
- 199 ある種族へ 世田谷村日記
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四月九日
十時四〇分院レクチャー。今日はガイダンス。ここのところ飲み過ぎ喰ベ過ぎらしく、とてもレクチャーできる状態ではなかったが、何とかなった。十二時過了。少し体を休ませなくてはいけないと直観して今日は休養とする。スタッフに任せて早退。十三時前、近江屋でそれでも玉子丼と小椀ソバを喰べて帰る。十四時過世田谷村。
お天道さまに申し訳ないと考えて、コラムを一本書き、十七時休む。
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四月十日
昨日はグッスリ眠った。寝不足だったのか。あんまり、頑張らないようにしなくてはならない。五時起床。メモ、新聞。 X ゼミの鈴木博之さんの小論読む。短文だが鋭い。
八時半、X ゼミ、「 鈴木博之さん第二信へ」書いて小休。
- 198 ある種族へ 世田谷村日記
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四月八日
十三時打合わせ。十四時四〇分教室会議。十六時前アトリエ海佐々木氏打合わせ。十七時前大隈講堂新入生ガイダンス。十八時中川武先生と近くのしのぶへ。先生に一週間遅れの誕生日をいわっていただく。
アンコールワットの将来計画の事等うかがう。又、建築学科の将来の事等も。じっくり話す。佐藤滋先生も参加。普段、話した事もないのに、三人の教室の将来計画のようなモノがほぼ一致していたのには驚いた。こんな時は嬉しいモノだ。
教室会議ならぬ、しのぶ会議であった。中川武先生は良くアンコールワットから早大建築を視ておられたなと思うこと仕切りであった。アンコールのバイヨンの人面像に似てきたな先生は。佐藤滋先生とも良い話ができて、誠に良い会であった。
皆、教室の将来を考えている。しばらくは大丈夫だ。
二十二時過まで、TAXIで新大久保、二十三時過世田谷村に戻る。
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四月九日
八時前起床。メモを記す。今日から大学院のレクチャーが始まるのでアレコレと考える。
院の講議の一部は「生きのびるための建築」に入れてしまったので、気持としては今年は一新したいのだが、できるかどうか、自分にプレッシャーをかけねばならぬ。話した事が実践に少しでも結びつかぬと気がすまぬ自分がいる間は、でも大丈夫かもしれぬ。信頼する歴史家である鈴木博之、中川武両先生から、少しは認められたような気配があり、実はそれだけがしんばり棒になってゆくのだろう。どうやらチョッとはいい本を作れたのかも知れぬ。
- 197 ある種族へ 世田谷村日記
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四月七日
十一時半研究室。雑用、サイトチェック。デザインチェック。資料収集チェック。短時間で済ます。十四時過北園、加藤両先生来室。渡辺先生と共に十四時四〇分演習G。今年のGは「新しいリアリティ」と題して、上野公園内の黒田記念館の保存と再生の課題に取り組む。
黒田記念館を対象とするに当たっては鈴木博之さんのサジェッションがあった。岡田信一郎設計による、一人でやり切る課題には丁度良いものである。参考レクチャーとして、ピエール・シャロー、カルロ・スカルパ、ルイス・カーンの仕事に関して、二人の先生から。先生方の一生懸命さが伝われば良い。その後、学生達と小さな議論。二〇名程の学生それぞれの課題を仮決定。十七時四〇分三人の先生を残して去る。
地下鉄を乗り継いで六本木。磯崎アトリエ、十八時半。六角鬼丈さん、芸大の野口昌夫先生とお目にかかる。磯崎さんの来年の展覧会、講演会の打合わせに侵入した形となってしまった。
その後、磯崎さん、六角さんとTAXIで、うまい魚屋に。食事後、磯崎さん、ウチで一杯やろうと、お元気で、広尾へうかがう。だいぶん前に新居に移られたのは知っていたが、わたくしも六角さんも初めての訪問となる。 巨匠一人でキッチンに入り、チーズ他を用意して下さり、恐縮しながら赤ワインを飲る。磯崎さん相変らず話題豊富で、好奇心も強い。六角さんと、顔を見合わせて、「磯崎さんに、アイツ等はやり残した事が多かった、なんて言われる事になるだろうぜ、これでは」とホロ苦い夜ともなった。二十三時半、失礼する。
TAXIで新宿へ。六角さん曰わく、「俺たちは自分の跡仕末もできそうにないのに、磯さんからキチンとしろよ、と言われてもなあ」同感である。出来るだけ長生きしないと、本当に置き去りにされちまう磯崎さんに。新宿で六角さんと別れて、一時世田谷村に戻る。
六角さんは北京、東京が半分半分の生活のようで、磯崎さんとの会話も中国社会の細部にわたり、仲々のモノであった。六角さん、お互いにせいぜい養生して、良い仕事をして又、お目にかかり続けたいものです。
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四月八日
六時起床。メモを記す。「アニミズム紀行5」のドローイングが気になる。手抜きはできない。でも大変だ。でも、どんどん買ってくれと言う。
八時半河野鉄骨。M邸リノベーションの件、他。保存と再生という日本近代史の必然に対して、保存を全うする為の周辺条件の設計という分野があるかも知れないなと思う。
本日、Xゼミ第3回石山の小論は難波和彦のページ www.kai-workshop.com に ON されています。
- 196 ある種族へ 世田谷村日記
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四月六日
十時半研究室。雑用十時五〇分、学部二年レクチャー。百数十名の学生群に話すエネルギーは例えようもないが、やるしかないのである。この中に楽しみを見出してゆくしかないのである。十二時まで。
サイトチェック。今日は丹羽編集長不在でページ更新ままならず。でも仕方ないのである。至誠館建築の手直し、スケッチを続けるうちに、十三時半、キム・スンヨン君来室。
「チベット・チベット」ドキュメンタリー・ロードムービーの制作者、監督である。十五時半迄話す。研究室の空間は固すぎるなと考えて、近くのコリアン料理屋へ。十七時迄話す。十八時過世田谷村に戻る。
しかしながら、昨日の日記及び X ゼミに記したように、サイトを使用しての友人達との交信の可能性は極めて大きいし、コンピューターを一切使わない人種、例えばベイシーの菅原さんや、淡路の山田ハンといった種族の存在も、勿論把握できてきたので、わたくしのこのサイトは極めて私的な交信の為にも使うことにしたいと思います。わたくしはメールを一切やらないので、メール代りと思っていただきたい。その私信を公開するという、タイトロープを渡るような事をしてみます。
自分の日常を嘘もつかずに公開するというバカバカしさからようやく十年がかりで脱出できそうだ。
十九時半、X ゼミ書き込みを書く。ホント、貧乏ヒマなし。
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四月七日
六時半起床。広島の木本一之さんはどうしておられるか。世田谷村には木本さんの作品が三点あって、それを見つめる毎に想うのである。酒井忠康さんの著作によって、彫刻の考え方というような筋道がチョッとは解ってきた。凡人はやっぱりモノの視方の手ほどきが必要である。と、ここ迄メモをして、これは長くなりそうなので、コラムに書くことにする。八時半了。少し休む。
- 195 ある種族へ 世田谷村日記
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四月五日
八時起床。今朝は何故か二時半に目がさめて、磯崎新の最新本の20世紀の部を読み直した。第5章、19世紀・革命の挫折と近代国家の成立はサブタイトルがルイ・ボナパルトのブリュメール18日であり、難波和彦さんの四層構造論において引用されたマルクスのこの論述中とは異なるフレーズが引用されている。大きな山は、人それぞれ自分に都合の良い処を引用するのだな、と考えていたら、その引用について、磯崎は宮川淳、そして安部良雄(この人物の詳細をわたくしは知らぬ)の二人だけが、引用によって日本の近代美術史を書き変えようとしていたと断言していた。
恐い考え方をしているな磯崎さんは。結局、そこ迄たどり着いたと言う事なのだろう。恐い本である。
十一時半、研究室ミーティング。諸々の件について。十五時半迄。次のミーティングは明後日として、主にデザインを見る。と、サイトでスタッフに告げる。
X ゼミのサイトに工夫が必要である。難波和彦さんのサイトと石山研のサイト、双方に同じ内容のモノがONされているのは、いかにもプレモダンならぬ前サイト的というか、知恵がない。 ひとつ気がついた事がある。しかし気付いた事を難波和彦さんに電話する気になれないのである。サイトの事は全て、サイトの上で処理した方が良いという、サイトの倫理の如きが、わたくしの中に発生しつつあるのだ。要するに会ったり、電話で話したりの必要が無くなるというのが、わかるのである。 つまり、これをやり続けてゆくと必然的にオタクにならざるを得ない。それを覚悟せざるを得ないのである。
鈴木博之さんから、サイトをのぞいてるから会う必要がないと、言われていたのは、この事であったかと思う。これを密にやって行くと本当に会う必要も必然も失くなるな。 それを覚悟してやらなくてはと覚悟する。一種の別れだぜコレワ。と実に大ゲサである
しかし、 X ゼミのサイト ON の方法は、今のやり方はいかにも阿呆臭いので、変えたい。例えば毎週月曜日は難波和彦さんのサイトで石山のものを交信、木曜日は石山のサイトで難波さんのものを交信というキャッチボールにしたらどうでしょう。鈴木博之さんのコーナーは金曜日が良いのではないでしょうか。
これに対する応信は難波さんの X ゼミのセクションに ON してくださればと思います。今回だけは読者のヒンシュクを買うのを覚悟で日記に記しますが、二度とここには ON しません。 Xゼミの読者は、しかし時間は割いてくれるけれど、金は払わないのだから、もしも、読み続けてくれる気持があるのなら、何等かの遠廻りくらいをしてもらう意地悪くらいはしても良いだろうと思いますがね。いかがでしょうか? これも、X ゼミのコーナーでお考えを聞かせて下さい。ウダウダはこれで終り。
十八時半、新大久保ガード下ラーメン屋で一人ビールを飲り、そのように考えた。サイトの運用は実人生をさびしくするのを実感する。二〇時世田谷村に戻り雑用。 二十二時、製作ノート「友人達の椅子をデザインする」書く。
- 194 ある種族へ 世田谷村日記
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四月三日
七時四〇分起床。昨夜は中国古代史をよみふけりいささか寝不足である。八時半河野鉄骨、社長、専務来。松陰神社。M邸現場へ。九時前より、大工棟梁を交えMさんご夫妻と、現説。十時了。十一時前研究室。
十一時研究室ゼミ。M0が頑張って仲々良い成果を挙げてきた。いずれ一部を公開したい。十五時了。都立大学の安西直紀のところへ。坂道で父上にバッタリお目にかかる。邸内の桜の古木が今年は昨年にもまして見事な花を咲かせた。十八時迄桜を楽しむ。
幸いに、山田脩二ハンは淡路に去り、今日は心地ゆく迄体を休ませられる。十九時世田谷村。プノンペンのナーリさん去り、又、淡路島の山田脩二も去り、季節外れの台風一過である。しかし、二人のアナーキストを近くに眺めるに、わたくしは実にまじめな人間だなぁと痛感するのである。実に小じんまりとしています。原っぱの時代が来るのであろうが、わたくしの原っぱは坪庭みたいなものだな。
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四月四日
七時半起床。わたくしの方の先に光が視えてきたので、向風学校の先を、つまりはプロジェクトを考えなければならない。四月十七日の世田谷美術館のわたくしのレクチャーには向風学校関係者も多く来るようなので、彼等にも向けてのプロジェクトも呈示したい。
十三時過、「Xゼミ」書く。
十九時制作ノート。スケッチ。椅子6脚、6人の椅子スケッチ。 磯崎新の「建築・美術をめぐる10の事件簿」TOTO出版2000円+税、読了。二十三時半。一度読んだ位では頭に入るわけもない。再読して印象を記す。
- 193 ある種族へ 世田谷村日記
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四月一日
十五時北園、加藤両先生と演習Gの進め方について議論。若いといっても御二人共四〇代の建築家だが、初々しいところが良い。二〇時半了。何とか大方針を決めた。二十一時半新大久保、ラーメン屋で遅過ぎる昼食。二十三時世田谷村に戻る。キム・スンヨン氏より送られてきたチベット・チベットを読む。
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四月二日
チベット・チベット、在日コリアン3世が見た2つのチベット河出書房新社 1600 円読了。母親に中国留学すると嘘をついて、二〇〇万円をせしめ世界一周の旅に出た。韓国でヤクザの親分と知り合いになり、モンゴル草原でバイクをすっ飛ばし、泊ったゲルの中でダライラマの写真に出会い、結局ダライラマのインド講演ツアーのドキュメント、及びチベットでの諸々の現実をビデオ・カメラに記録した。それをもとにチベット・チベットと名付けたドキュメンタリーを製作し、世界各国で上映するに至る。驚くべき行動力である。
早朝、電話WORK。十時四〇分一段落する。
十一時世田谷村発、とその途端チリチリと電話。不吉な音。案の定、淡路島の山田脩二ハンからである。もう、これで今日は全滅である。首都東京の知り合いの皆さんになり代って、わたくしが犠牲の十字架にはりつけられるのである。駅で会おうという事ではあるが、山田ハンはもうベロベロ。会えるかどうかと思いつつ、それでも昼前からそば屋宗柳で酒となる。もう仕方ないのである。あきらめるしかない。
何言ってるのか、解らぬ体の山田ハンにそれでも十五時迄附き合う。山田脩二は6月に平凡社から山田脩二・全仕事の作品集を出版するようで、コレワ凄いのだと自分で言っている。だから凄いモノなのであろう。A4版横使いで、3000 円だという。3000 円の作品集は売れないぞ、4800 円にしたらどうかと、わたくしの頭もヘロヘロになってしまう。ようやく解放され、山田ハンは浅草で飲み続けるようで、わたくしは流石に失礼する。
もう、今日は恥ずかしながら沈没すると決めて、十六時前世田谷村に戻り、ブッ倒れた。バカだ、わたくしは。山田ハンは聞けば肝臓は信じられぬ位に、キレイなんだそうだが、信じられぬ。更に問いつめれば、肝臓はどうやら無いらしい。レントゲンをとっても影も形も写らぬと言う。これでようやく納得した。山田ハンは肝臓がもともと無いのだ。酒は皆、ノドから入り、直接、ボーコーから排出されていたのである。これでは病気になりようが無いのである。「頼むから、早く死んでクレ、本当にお願いします」と別れた。
- 3月の世田谷村日記