7月の世田谷村日記
264 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十九日

十時四○分学部二年講義。集合住宅について。十二時了。地下鉄で池袋経由、巣鴨へ。とげ抜き地尊高岩寺参拝。沢山の人がお参りしていた。江戸時代より健康保全に御利益があるとされている。薬師如来ではなくて地蔵尊というのが良い。こういう、由縁のある寺がまちの中心の一部を形成しているのは良いことだ。人々の気持ちの中に町が生きている。

地下鉄都営三田線で志村坂下へ。時間があったので地上に出て、冷し中華の昼食。十四時難波和彦さん待ち合わせの場所に、やがて鈴木博之さん一里塚に現われる。

TAXIでDICエンジリニアリング KK 工場へ。門受付で今日案内して下さるT氏とお目にかかる。

すぐ眼の前に海老原一郎設計の気品ある事務所棟が眼に入る。1950 年代日本の近代建築が清新な意志を持っていた時代の、これは名品であるのがすぐ了解された。いいモノは見た瞬間にカシャリと脳内でシャッター音が鳴り記憶に残る。事務所棟の背景にある研究所棟も端正なプロポーションを持つ。ああ、倉田康男がここに居たのかの感慨を得る。高山建築学校主の倉田康男は海老原一郎の許で、建築を学んだキャリアを持つ。

わたしはたちどころに高山建築学校の製図台の上に繰り拡げられていた倉田康男のドローイングのルーツの大半がここ、すなわち海老原一郎にあった事を了解した。一言で言えばプロポーション、端正なフォルムの形成の比率に対する古典主義的情熱である。

当時、倉田は何故かその事を端的にわたしや、鈴木博之を含めた参集者(学生)達に言うのをはばかった。それを避けて哲学的言辞のモヤモヤに明け暮れた。時代がそうさせたのであろう。造反有理の青白き観念が大声でまかり通っていた。

そういう事はXゼミナールで述べるが、色んなわたくしの小史さえもめくるめかせるのに充分な建築であった。これは名作である。これもXゼミナールにて述べたい。その後広い構内を見学して廻り、実に多くを勉強させていただいた。海老原一郎、倉田康男に手を引かれての巡礼の旅のようだった。

十五時半修了。再びTAXIで志村坂下に戻り、ビールを飲める処を求めて三名のオヤジは町を歩き廻ったのでした。炎天の中でした。名建築を見た気持の高揚も消えかかろうかと思う頃、ようやく小さなラーメン屋を発見、御二人には、わたしは先程冷し中華喰べたばかりとも言えず、入り込み、ビールを飲る。

話し合うは、今日は何故こんな日の高い時間を選んだのか、もう少し遅くすれば自然に見学後夕食となったのに、そうか難波和彦一人のわがままであったかとなるも、ここで話し合われた事は全てすぐに忘れた。TAXIで赤羽駅へ、そこから深夜特急みたいなバスで、シルクロードならぬ中仙道、及び川越街道を延々と東池袋へ。着いた時はもうヘトヘトであった。

例の魔窟ワインバー「ボワールアンクー」へたどり着く。何故かこの魔窟にたどり着くと皆元気になり、駄洒落らしきも連発され、連発している人間はいいのだろうが、聞かされる方はヘキエキのいつもの懐かしいパターンに落ち入る。 ちなみにこの魔窟ワインバーは池袋西口より徒歩 10 分、池袋 2-72-6 の昔日の上海の廃墟の如き風景の中に在る。上海風のヨーロッパワインが飲める。Xゼミナールが唯一持つ教師安息所である。アレーッ、こんなところが好きなんだ以外の感慨は何も得られぬであろうが、ワインとパンはうまい。 二〇時迄談笑。TAXIにて新宿南口へ、別れ、いつの間にか一人になっていた。二十二時頃世田谷村へ、すぐ眠ってしまった。良い建築に出会わせていただいた。設計者の生と作品とは密着するものだ。また密着したものこそ名品となり得る。

263 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十八日

五時半起床。数日前に二階の月下美人が二輪咲き、あっという間にしぼんだ。咲き匂った一瞬に気がつかないで、全く惜しい事をした。ネコの白足袋は床にはらばいになって朝寝である。猫は日記を書かずにすませるのがうらやましい。

世田谷村地下工房をひと巡りして作業スペースを確保した後、発。南バンコーヒー店でコーヒーを飲み「アニミズム紀行6」に手を入れる。だいぶん前に書きなぐった部分を破棄する。十二時三〇分京王稲田堤待ち合わせ。十二時四〇分、さくら乳児院なしのはな保育園建設サイト前のアパートの二階に設営された現場事務所にて第一回の定例打合わせ。構造の梅沢良三さん参加。二、三階の鉄骨、RCのハイブリッド部分の打合わせ等。十四時半了。一度世田谷村に寄り、雑用の後、新宿南口長野屋にて雑打合わせ。

十八時前、世田谷村地下に戻り、メモを記し、しばしのWORK。夏はこの地下で作業をすすめてみる。涼しくて、体には良いのではないだろうか。3Fは明る過ぎる、二階は俗過ぎる。一階には今のところ部屋がない。となるとこの地下室になる。とり敢えずは大変心地良い。ヒンヤリと空気も冷たい。何か別の事を考えられそうではないか。

誰の本か知らぬが中上健次の本「時代が終り、時代が始まる」1988年9月、角川源義。地下室に桜の花の散るのを確かに視た。

六月二十九日

六時起床。すぐに地下室に降りる。地下は 30 坪程の広さがある。左官屋さん達が一部テラゾーで仕上げてくれたが、まだここも未完だ。うまく使えば面白い可能性があるだろう。今は、小さなライトひとつで仕事している。東端にはかすかに東の光が落ち込んでいて、それが美しい。

261 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十六日

十三時、松陰神社前M邸現場。先週打合わせて決まった筈のデザインと異なったモノが一部出来ていて、驚き怒る。河野鉄骨の河野君を久し振りに大声で叱りつける。設計者をナメてはいけない。

現場中の職人全て耳をすましているのを知るが、実に許せぬ事態が起きていたのだった。わたしも、ナメられたものだ。一切の言い訳はきかぬ。

方々にダメ出し。こうなったら、徹底的にやるぞ。

小商人の小才が、現場でわたしに通じると思っているのか。しかれども頭を冷やして十六時去る。

下高井戸経由、十七時過千歳烏山へ。烏山センター1Fでまちづくり協議会の小川氏に会う。早大学院の同僚である。近くの天プラ屋でビール他。歓談。諸々の話し。十八時四〇分了。又、会いましょうと別れる。

十九時世田谷村に戻る。研究室の渡辺助教よりFAX入っており、鬼沼の現場へ二川幸夫さん行くも、鍵がかかっていて建築内部へ入れなかったとの事、又もや渡辺君を怒鳴る。今日は良く怒る日だ。根性が弱い。言われた事だけ程々にやっているのではイイ建築は建たない。もっと全てに気合いを入れろと怒る。気合というのもわからないかも知れぬがね。今日は、河野も渡辺もどついてやりたいと心底思った。恐らく、この気持はサークル的に今の幸せだけを求める彼等には解らねえだろう。命がけでいいモノを作る種族になれと言いたい。

六月二十七日 日曜日

昨日は良く怒った日であった。怒ると健康には良くないので、忘れよう。しかし、時々怒らないと、わたしの内部のエネルギーの素も小さくなってしまったのかと寂しくもあるから、怒っている間はまだ大丈夫、こうありたいと考え続けられているのだろう。

新聞を読んでも、特にTVを見ていても、知識人らしきが書いたり、しゃべったりしているのは実に俗悪であるの感が深い。ディテールが余りにも薄い。こんな時代にはペダンチックな位に知識教養を表に出す、位の論調が光って映るような気もするし、大事なのではないか。本格的な学者、アカデミシャンの考え素養が生きる。学者は恥を知るから余り出たがらぬのだろうが、少し計りどころではなく、勿体ないのである。もったいないのは隠れた人材の無言である。わたしの、この日記も、そういう方々の眼に触れれば俗息ぷんぷんたるものに過ぎないのだが・・・・教養とは本を読んでも得られるものではないが、読み学ぶ必要が凡人にはどうしても必要なのだ。

モヘンジョダロの遺跡に立ち尽すビワの大樹。近附いてあおぎ見るにうつうつたる葉の全てが南向きに手を延ばしている如きである。そうかこのビワの大樹は、ここに昨年迄は建っていた二階建ての連戸コートハウスの、それぞれの庭の中で育っていたモノなのだ。

それでビワの樹は建築に遠慮して北に葉をのばさずに、全てを南に向けたのであった。南に偏向した樹相はそんな歴史を表現している。

建築と対になった樹の運命そのものである。

大樹の足許には、それはそれは沢山のビワの実が落ちこぼれている。その姿は実に美しく、しかも寂しい極みである。ビワの実、黄金の輝きをこれ程たわわに実らせるのには、ビワの樹は大変なエネルギーを必要とするにちがいない。ここ迄に育つのに要した力と工夫は計り知れぬものがある。

十時過市根井さんより、制作ノート送信されてくる。このママ、ノートに 0N する。職人さんが文章を書き、ネットを自分で駆使したら鬼に金棒である。

十一時半世田谷村を発ち、ビワの大樹を撮影するために、モヘンジョダロへ。ビワの大樹にはカラスやハト、すずめが集っていた。小さなすずめは遠慮がちである。カラスはビワをくわえて飛び廻る。不思議な光景だ。沢山のビワの実が地面に落ち散らばっている。ビワの大樹はねじれ、うねり昇る。ドラゴンだ。人体のようでもある。インドのガジュマルの壮大さとはちがう。宇宙の中に鳥や虫や草や雲や空ときわどくバランスをとりながら、立ち尽くしているのである。

このビワの王の樹、いつまで生きてくれるのだろうかな。守らなければ。

芦花公園駅迄歩く。旧甲州街道に行列あり、アーバンラーメンなる小店が異常にはやっている。今度、喰べてみよう。 バスで西荻窪へ、乗り換えて妙心寺池。歩いて十四時Iさんの屋敷林着。Iさんとおしゃべり。そろそろキチンと提案しなければならないな。

十六時前了。お別れして西荻窪へ。

駅前の「鳥もと」で焼きトリとビールで小休。芦花公園までバスで戻り、再び烏山迄歩く。宗柳でトウフをいただき、十八時過世田谷村に戻る。

二十時よりNHK教育TV、日曜美術館「アール・ブリュット」を観る。アール・ブリュットとはアウトサイダーアートのこと。パリで大がかりな展覧会が開催されていて、それに際してまとめられたドキュメントでもある。代島さんの力作でもある。

感動した。

生のアートとも呼ばれているようだが、TV画面からでもその精神のつぶやき、叫びというべきが伝わってくる。朝に体験したモヘンジョダロの王のビワの樹の姿や、地面にばらまかれたビワの落果の姿と彼等の作品とは一脈通じるモノがあるな。神様との一体感だろう。今日はアニミズム紀行の旅でもあった。

261 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十五日

十時四〇分院レクチャー。アルヴァ・アアルトとナショナルロマンティシズム。十二時了。雑用、M邸打合わせ。現寸の模型等みる。M0ゼミを経て十五時地下スタジオへ、3年設計製図中間講評会。十八時抜けて十九時過烏山へ。ダイヤ会館4Fからすやま。「地域の力を集める会」設立集会に出席。

この会は烏山まちづくり会社(仮称)設立への準備会である。商店街の連中を核とした集りだ。ここの商店街は仲々アグレッシブで以前はダイヤスタンプ・システムで全国に名をとどろかせた。今も、エコポイント等商店街独自の試みを次々に実行している。中心メンバーは皆スピーチ慣れしており、こういう会のさばき方も手慣れている。この会には深く首を突っ込む事は無いと考えた。商店街の事は商人に任せておけば良い。しかも彼等は仲々に実利的な先見の明がある。二十一時了。世田谷村に戻る。

本当は仲々日々の商売は辛いのだろうが、それでも元気に振舞っている商店街の連中の会から、暗いモヘンジョダロの遺跡を通り抜けながら考えた。とかく世間は利によって動きやすく、理によっては動かぬ。利の世界で理を説く愚かさはすでに良く知る。それ故、この商店街の商店主達の考えは小利の表現でもある。お買物商品宅配サービス案等は仲々、見事な考えなのである。

恐らく柄谷行人等のナムで議論されていたであろう抽象的過ぎる水準を超えているだろうと思われる。つまり中小企業者の自主性、及び商利への表現意欲を視る事ができる。しかし、中小企業者の集合だけでこのヴィジョンを実現し、かつ持続するのは困難だろう。京王電鉄なり、何なりの企業体と五分五分にわたり合える組織体を作り、かつ融合させる必要があろう。

それ故、まちづくり会社は京王電鉄新駅の高架下に資本 50%50% で接続すべく、プログラムを立案した方がよろしい。

中小企業者が連合したまちづくり会社を主体的に作り、大企業と新しい連係の径を探るべきだろうと思う。

辛いのだろうが、元気そうな商店街の会と比較すれば、先が視えなくなっているやに聞くセコムの開発計画、これは商店街に隣接しているのだが、これはどうなるのか、あるいはどう周辺住民の一人として対処すれば良いのか、夜半の闇を知る故に悩ましいモノがあるが、住民として動いてみる。

士農工商の区分けに習えば区民、市民、消費者というのはどこに属するのかな。士は官僚、公共、役所、農は地主か。工はここにはほとんど皆無か。商は商店街の人達であろう。

六月二十六日

七時過起床。昨夜喰べた冷し中華がまだ残る腹でメモを記す。新駅、商店街、モヘンジョダロの連続の中にある計画を創案すべきなのだろうと考え始めている。わたしにとっては烏山駅周辺まちづくり計画は、世田谷村周辺まちづくり計画である。

九時過小休。

261 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十五日

十時四〇分院レクチャー。アルヴァ・アアルトとナショナルロマンティシズム。十二時了。雑用、M邸打合わせ。現寸の模型等みる。M0ゼミを経て十五時地下スタジオへ、3年設計製図中間講評会。十八時抜けて十九時過烏山へ。ダイヤ会館4Fからすやま。「地域の力を集める会」設立集会に出席。

この会は烏山まちづくり会社(仮称)設立への準備会である。商店街の連中を核とした集りだ。ここの商店街は仲々アグレッシブで以前はダイヤスタンプ・システムで全国に名をとどろかせた。今も、エコポイント等商店街独自の試みを次々に実行している。中心メンバーは皆スピーチ慣れしており、こういう会のさばき方も手慣れている。この会には深く首を突っ込む事は無いと考えた。商店街の事は商人に任せておけば良い。しかも彼等は仲々に実利的な先見の明がある。二十一時了。世田谷村に戻る。

本当は仲々日々の商売は辛いのだろうが、それでも元気に振舞っている商店街の連中の会から、暗いモヘンジョダロの遺跡を通り抜けながら考えた。とかく世間は利によって動きやすく、理によっては動かぬ。利の世界で理を説く愚かさはすでに良く知る。それ故、この商店街の商店主達の考えは小利の表現でもある。お買物商品宅配サービス案等は仲々、見事な考えなのである。

恐らく柄谷行人等のナムで議論されていたであろう抽象的過ぎる水準を超えているだろうと思われる。つまり中小企業者の自主性、及び商利への表現意欲を視る事ができる。しかし、中小企業者の集合だけでこのヴィジョンを実現し、かつ持続するのは困難だろう。京王電鉄なり、何なりの企業体と五分五分にわたり合える組織体を作り、かつ融合させる必要があろう。

それ故、まちづくり会社は京王電鉄新駅の高架下に資本 50%50% で接続すべく、プログラムを立案した方がよろしい。

中小企業者が連合したまちづくり会社を主体的に作り、大企業と新しい連係の径を探るべきだろうと思う。

辛いのだろうが、元気そうな商店街の会と比較すれば、先が視えなくなっているやに聞くセコムの開発計画、これは商店街に隣接しているのだが、これはどうなるのか、あるいはどう周辺住民の一人として対処すれば良いのか、夜半の闇を知る故に悩ましいモノがあるが、住民として動いてみる。

士農工商の区分けに習えば区民、市民、消費者というのはどこに属するのかな。士は官僚、公共、役所、農は地主か。工はここにはほとんど皆無か。商は商店街の人達であろう。

六月二十六日

七時過起床。昨夜喰べた冷し中華がまだ残る腹でメモを記す。新駅、商店街、モヘンジョダロの連続の中にある計画を創案すべきなのだろうと考え始めている。わたしにとっては烏山駅周辺まちづくり計画は、世田谷村周辺まちづくり計画である。

九時過小休。

260 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十四日

十一時研究室。前橋の市根井さんと木製椅子「三球四脚」の打合わせ。ゆっくりゆっくり仕上がってきている。小さな生き物を育てているようで楽しい。現寸で合板の上に作図、mm単位の精度で作業を進める。

十三時中沢チーム来室。製図室の改良について討論する。折角出来た製図スタジオの設備をより現代にフィットするようにヴァージョンアップしたいのでそのアイデアの作成を依頼する。7月初めに計画系の教師ときちんと相談してすすめたい。渡辺助教参加を依頼する。

中沢チームに気仙沼の畠山氏が居て話しがはずむ。早稲田のヨット部監督である。これも縁だな。修了後、再び市根井さん、スタッフ、院生と椅子の仕上げについて議論。良いアイデアが出て、確実にグレードアップしたように思う。もめばもむ程に良くなる。

途中、絶版書房「アニミズム紀行」シリーズの印刷屋さん来室。早速、スタッフから提案のあった、絶版書房、出版 500 円シリーズの実現に向けて相談する。

三球四脚の仕上げに関して、良いアイデアが生まれて思い切ってやってみる事にした。乞御期待である。見た事の無いような仕上げの椅子が生まれるだろう。十七時半了。

市根井さんの車に同乗して、話し合いながら千歳烏山へ。駅近くでお別れ。日曜日午後に、制作ノート原稿をいただく事とする。市根井さんは私のA3ワークショップの第一期生の職人であり、わたしはこの職人の弟子を誇りに思っている。良く学び研究する職人さんである。

十九時前、烏山区民センター前のビル4Fの集会室。烏山駅周辺まちづくり協議会検討会出席。多くの区民の方々が参加して活発な意見の交換が続いた。若干の意見を述べる。烏山駅高架化による町の構造の変化に多くの住民は気附いていない。

30 年先の問題と 10 年先の問題が整理されぬままに議論されているのがいささかもどかしかったけれど、わたしも同じ住民として強く意見を述べる事はひかえた。わたしは京王線高架化による都市構造の変化は専門家として少しは視えているので次回くらいから、少し明快な意見を非専門家的に述べるようにしたい。一人の区民として、同時に専門家として出来るだけの事をしたい。区役所の都市計画家ともキチンと協同できたら良い。

二十一時了。仲々時間をとられるものだな。

世田谷村に戻る途中、京王線沿いに歩き、高架になった場合の都市空間のシュミレーションをしてみる。この地区にとっては大外科手術が施されるに等しいのである。

わたしにとっても磯崎新の下で福岡オリンピック案を作成して以来の直接的に都市らしきに対峙する気持になっているのが面白い。

今夜はデンマーク対日本の試合があるが、とても視る迄の気力は無い。

六月二十五日

五時過起床。さてさてフットボールはどうなったかと2階のTVをつけてみる。何と日本が勝ってしまったようである。3ー1である。わたし、すっかりフットボールゲームに関して自信を失くしてしまった。もう何も申しません。申すべき事は何も無し。ガックリ。これ以上、フットボールについて感想を述べれば、タダの阿呆の非国民のそしりを受けかねない。今が引き際である。

259 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十三日

雨中九時京王稲田堤で待ち合わせ、書類を受け取り、十時前厚生館K理事長と設計契約を結ぶ。その後認定保育園システムについて話しをうかがう。幼児施設の将来は複合の径が開かれるだろう。十一時前稲田堤駅で渡辺君と待ち合わせ、下高井戸経由玉川線で松陰神社前へ。ドシャ降りの中パスタ屋で昼食。おムスビ喰べた。少し計りの打合わせ。

十三時前世田谷区役所へ。ロビーで小休する。前川国男設計の重厚な庁舎建築が懐かしい。平面計画も随分隔世の感がある。十三時都市計画部長I氏と面会。烏山駅周辺まちづくり協議会運営委員としての相談。そして渡辺先生より別件の相談をする。早稲田建築OBのSさんにあいさつ。こういう機会はもっと持つべきだなと実感する。十四時了。

十五時研究室に戻り、仙台より来訪されたアトリエ海佐々木さんと打合わせ。十六時半迄。夕食と打合わせの為、新宿南口味王へ。

ワールド・フットボール・ゲームの話しになった。佐々木さんは、シンプルなナショナリストであるから当然、日本びいきで、シンブルではない感情的アンチナショナリストのわたしと真向対決となり、けんけんガクガク。しかしながら、日本チームで良いなあという選手に関しては意見が一致した。わたしはデンマーク戦は 2−0 でデンマーク、佐々木さんは 1−0 で日本の予想となった。

ところで、佐々木さんは東北で重要文化財の住宅をリノベーションするという仕事もしている。わたしの保存と再生の会構想を話して、仲間になっていただく事になった。会友1号である。十九時の新幹線で仙台に戻る佐々木さんを見送り十八時十五分別れる。十九時世田谷村に戻る。

六月二十四日

六時半起床。昨夜は世田谷村に転がっていた変な本「海を視ていた座頭市」平岡正明を夜半に流し読みしてしまい。見事に無駄な時間を過ごしてしまった。

60年代の東京のこのような人材が、陽陰とは言え、光の当る坂道を群をなしてのし歩いていたのか、とある種痛切な想いを抱いた。未熟さが未熟さのママに裸形に表現される事が良しとされていた時代でもあった。

しかし、今、2010 年に平岡、若松考二、足立正生、といった面々が東京に元気なママに再生したら、それはとてもグロテスクな風景にしかならないな、と確信してしまう。良い悪いではない、彼等は世阿弥の言う時分の花であった。日本の近代の特異点とも言うべきか。

特異点であった故に鮮烈な表現を残した。しかしそれが能や歌舞伎そして庭園の如くの室町アヴァンギャルド文化の如くに長い時間(歴史)に耐える様式の核にはなり得ないでいる。建築表現がそれをなし得る可能性を持つのだが、室町の庭園に即応する枠が何になるのか。

八時半小休。晴間が広がっている。二川幸夫さん今日鬼沼を見る予定らしいがどうなるかな。鬼沼の状況はまだ理想とは遠いが、悪い中を見ていただくのも良いか。

258 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十二日

十時四〇分学部レクチャー。マルセイユのユニテ、レイクショアドライブ・アパートメント、プライスタワー、ハレン・ジードルンク。十二時了。雑用、半過発、十三時四〇分田町建築会館。オムスビ2ヶ昼食。十四時建築士会連合会最終審査会。十七時前了。鈴木博之、難波和彦両先生とビールで雑談。十八時前別れる。十八時過東京駅八重洲「小樽」で清水氏とキルティプールの件で雑談。半出発。十九時半世田谷村に戻る。

六月二十三日

五時起床。メモを記す。今日もバタバタと忙しい予定である。 Xゼミの進展の速力が鈍っているが、自然である。昨日、久し振りに生モノの難波さんに会ったが、彼は東大退職後実に清澄な人格になっているように感じた。これから良い仕事をなさるのではないか。

しかし、バタバタとただ忙しい時には、この日記のメモも実に簡略になってしまう。恐らくは思考は停止状態になってしまうのであろう。動いていないと生な情報の受授は無いし、実に難しいものだ。やっぱり週一日の休日は生きる上での定理のようである。生物としてのルールだな。

2010年の4月1日にいただいた世田谷美術館N氏よりの手紙がテーブル上の書類を片付けていたら出てきて、再読する。「アニミズム紀行5」の評でもあるが、鋭い指摘があり、身につまされる。短い時間ではあったが共に行動した密な体験がおたがいの理解を深めたのであろう。手紙さえも再読が必要なことに驚いた。立ちどまって、沈思する事は何かをもたらすな。流れていてはどうにもならぬ。

257 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十一日

十一時過ぎ、制作ノートを送付してから世田谷村を発つ。モヘンジョダロの遺跡を経て大学へ十三時、雑用。七月七日の「保存と再生を考える会」準備会、九月の家具&プロダクト展、十一月の母の家展に関しての打合わせ。十六時中里和人さん、市川市ギャラリー、山本良子さん来室。八月からの中里和人写真展について寄稿、他の件。中里和人さん相変わらずマイペースでやっているようだ。

十七時、中里さん等と遅い昼食へ。コーリア料理。十八時了。皆と別れて世田谷村へ。十九時前世田谷村に戻る。

フェリックス・ティオリエの写真との遭遇から、というよりもこのところ写真家の仕事にたてつづけに出会っている感じがする。山田脩二の写真集ももうすぐ出版だし、今日は、映像の代島さんより、NHK日曜美術館でディレクターとして制作した作品が放送されるという、知らせをいただいた。二年がかりの作品らしい。期待したい。皆さん、頑張っている。あやかりたいものです。

二〇時、ワールド・フットボール・ゲーム、ポルトガルVS北朝鮮を視始めるも、すぐにやっぱり読書に3Fへ。どうも、フットボール中継とは相性が良くないようだ。一冊読んで階下へ。ポルトガル 7-0 で勝利。北朝鮮はボキリと何処かで折れたようだ。金正日政権の未来かも知れぬ。チリ VS スイスはパス、二十四時本を読みながらいつの間にか眠る。

六月二十二日

五時半起床。今日は忙しい一日になりそうだ。若い頃は手帖の空白におびえるようなところがあったが、今は手帖の黒いのにいささか気が重くなる。人間は勝手なものだ。午前中の学部レクチャーは初めての事を話す予定なので、チョッと楽しみである。何が話せるかな。午後は学会で審査会議。何をおすかは決めているので気は楽だ。制作ノートをメモ、八時送付する。

256 世田谷村日記 ある種族へ
六月十九日

古建築保護協会を創設し、事務局長を務めたウィリアム・モリスは若い頃から協同の現場に慣れ親しんだ人であったようだ。真実は知らぬ。ラファエル前派の画家ロセッティは一筋縄ではゆかぬ曲者だったろうし、モリスは女房とロセッティとの関係に悩んだらしい。そこまで協同する事はないだろうとも思うのだが、まあいいだろう。バーン・ジョーンズやフィリップ・ウェブはいかにも英国紳士的でもあるようで、共同はしやすかっただろう。

わたしだって、そのようなユートピア的共同にあこがれた時もあった。友人も居るのだが、モリスみたいに金持ってないからなあ。でも頑張りたい。

絶版書房出版「アニミズム紀行5」はわたしの古建築保護協会、たった一人の古建築保護協会宣伝だったのだけれど、気付いてくれた人は勿論誰も居ない筈である。最後の仕事は古建築保存と若い頃から決めていたので、それがブレるって事はあり得ない。どんな速力で接近できるかの問題が横たわるだけである。

気付いてくれる人は居る筈もないというのが、わたしのよろしくないところなのでやっぱり率直にダイレクトに伝えなくては。人生は短い。と、『アニミズム紀行5 キルティプールの丘に我生きむ』を古建築保護協会からの視点で、宣言文を書き直してみた(別掲)

二〇時前、書き終えて小休。ワールド・フットボールゲームを観ながら小休に入る。

オランダ VS 日本、意外にも日本チームは珍しく気力充実させて走り廻った。オランダは格下日本をなめ切っていたのが歴然としており、オランダの監督は知恵が少しあるオランダ商人みたいな人物で、5-0 で勝たねばオランダ国民は満足せぬだろう等と放言していた。日本を応援しないと決めているわたしとしても、オヤと思ってしまう位であった。前半を 0-0 でしのいでいるのを視て、意外にも日本を応援してやろうかの気分になってしまったのである。誠に意気地が無い事おびただしい限りだ。

新潟の早福岩男さんから送っていただいた鶴の友を冷酒でグビリとやりながら、フットボールを視たのだが、この鶴の友が滅法美味なのであった。気持はゆったりと大まかになってしまい、わたしの反日感情は無念にも薄らいでゆくのであった。日本のゴールキ―パーは仲々良い。控えからはいづり上ってきた男らしいが、眼付がそこらの流しのヤクザ風なところがあり、眼に視えやすい眼付けらしきの力がある。球へのしがみつき方も半端ではなく、ガチガチの一生懸命さがにじみ出ているのである。

長友という選手も良い。デッカイオランダ人に体当たりして負けず、しかも一番走り廻っていた。この人のひたむきさは光っているな。

この、ほぼ2名が良いのであった。他の多くは、フットボールサークル人達である。

イヤ、DFの二人のデッカイ男も良かった。ブラジル人らしき男と、TVのCMに出てくる、これもヤクザの目付きをしている男のペアーが良く働いた。

攻撃陣に人材がいないようだ。カメルーン戦でまぐれみたいに点を取った男なんか全く仕事になっておらず、わたしが監督であれば、この人間は次は外したい。

六月二〇日 日曜日

六時起床。乱読を続ける。フッと疲れて手にとった「THE NIKKEI MAGAZINE」6月号の裏表紙の、その又裏に Horological Machine NO.1、NO.2 と名付けられた超高級時計の広告が出ている。人体と天体からインスピレーションを得てつくり出したとコピーにある。驚くべき値段であり、NO.1 は限定一個入荷で、19530000 円(税込み)、NO.2 は 7696500 円である。

わたしの三球四脚は 76000 円である。0 を1つ間違えたと痛感した。完成したら出来具合で値段を再考してみようかと考えている。

NO.1 の方の値段は、又、アニミズム紀行で描いたキルティプール計画の僧坊の方の修理費である。しかも、日本で売るのが限定一個と言うから、似たような事を考えている人間が世界には居るようだ。マキシミリアン・ブッサーという男らしい。

これも、考えようによっては現代版ウィリアム・モリス商会である。しかし、コレワいささか怪しい。

午後遅く、近所のH氏と南バンコーヒー店で会う。H氏は烏山周辺まちづくり協議会の仲間であり、わたしのかつての野菜作りの先生でもある。今は野菜作りは休止している。H氏は旧甲州街道、甲州街道バイパスの間に位置するかなりの規模のマンション建設にモノ申してきた人物でもある。情報交換と言ってものんびりとしたものだ。

打合わせ後、モヘンジョダロ遺跡の片隅を歩いていたら、まだ残っている二階のテラスに出ていた女性から、「ここは私有地だから入ってはダメだ」と、大声でたしなめられた。ここら一帯には私有地であるからペットを連れて立ち入るなと立札や、木や草をもち出すな、切るなの貼り紙が異常に多い。

中に通り抜けの道が2本あって、その内の一本はロープ他でバリケード状ふさがれている。わたしも、周辺住民も不便になっているので、オカシイとは思っているが、事を構える迄の事は無いと放置していたのであるが・・・・・・やはり、いささかの問題ではあろう。

夕食は、ソバ屋宗柳に。この遺跡の現在はどうなっているのか更に知りたいと考えての事で。先日、お目にかかった近所の方から色々とレクチャーを受ける。御近所の力というのも大変なモノだな。

二十三時横になり本を読みながら、いつの間にか眠る。

六月二十一日

熟睡して、七時過起床。メモを記す。最近は日記が長くなって、それなりの時間を割く羽目に落ち入っているが、これも自然であろう。それと意識できている間は、それで良い。本当の自然、つまり自動的になったら危ないなコレワ。 我ながら隅々迄眼を光らせたいものだ。

255 世田谷村日記 ある種族へ
六月十八日

九時過世田谷村発。モヘンジョダロ遺跡にはビワの樹が2本在る。Hさんのお住まいの近くの一本は中木であるが、もう一本これは遺跡の西端にある。この樹は大木である。今はビワの実が恐らくは、5~600 程たわわに実っている。ビワの樹の王の風格がある。鳥たちは喜びビワの玉の茂みに潜り込んでいる。鳥は喰べ頃を知っているから、間もなく思い切り彼等のいぶくろに入るであろう。この樹木は人間の為にも、鳥の為にも大切にしたいものだ。写真をとる。

十時過研究室、レクチャー準備チェック。四〇分院レクチャー、ルイス・カーンについて。ルイス・カーンが到達した原ユダヤ的空間と原始仏教との近似について考えを述べた。十二時過了。京王稲田堤へ。十三時四十分厚生館着。K理事長と馬淵建設の契約に立ち合う。十五時了。新宿へ、長野屋食堂で遅い昼食。隣りのテーブルの男性二人の会話に耳を傾ける。大相撲の野球賭博問題について話していた。ここは競馬他の場外馬券売場に近いらしくその行き帰りの人も多いのである。いつの間にか彼等の会話に参加していた。彼等は古い新宿を知り抜いた苦労人たちであった。職歴も豊富なようである。十七時発。メロンパンを買って世田谷村へ。読書三昧に入る。

六月十九日

五時半起床。メモを記す。

前橋の市根井さんと脚木球シリーズ「参球四脚」のフィニッシュについて話し合っているが、わたしの方の全体の方向性を明らかにしてゆくのが急務だ。それでなくては良い職人さんは誰も動いてはくれない。「参球四脚」は物語りと共に生まれつつある製品である。それを知ってもらう必要がある。

ウィリアム・モリス最晩年の仕事には、広く田園地方の保存活動にも及んでいた。最後の運動の中には、少年時代を過したエピングの森、その森の中のクマシデの伐採を止めさせようとしたものもあった。ウィリアム・モリスの運動の、現代に通じるものでもある。モヘンジョダロの遺跡中に在るビワの木だって、恐らくウィリアム・モリスだったら保護運動を展開しているだろうと思う。

全く、十九世紀末に生きたウィリアム・モリスの仕事は知る程に現在に持つ意味は巨大だ。大き過ぎてどうにもならぬと思い知る位だ。

しかし、バイロン等のロマン主義詩人の伝統の中にある人達の中に、ジョン・キーツの名を発見すると、不思議にも頑張れるかな、わたしのような者でも考え直すのである。モリスはいはゆる、エルギン伯による、ギリシャ・パルテノンのエルギン・マーブルズの歴史的事件を政治問題としても認識していた。アラビアのロレンスの砂漠はウィリアム・モリスの SPAB 古建築物保護協会へと EQA 東方問題協会を介して通底しているのだ。

254 世田谷村日記 ある種族へ
六月十七日

十一時前世田谷村発モヘンジョダロの遺跡を経て、バス停へ。十一時千歳船橋バスに乗る。バスを乗り継ぎ世田谷美術館十二時前着。Nさんと近くの市場内食堂で昼食。近況を聞く。今、面白い作家兄弟の展示会の準備を進めているとの事。わたしの方は松浦武四郎展の事など話す。ここの食堂の昼食はいい。オヤジも元気そうだった。

十三時前美術館に戻り、FELIX THIOLLIER 写真展を見る。

フェリックス・ティオリオの写真展はどうしても観たいと考えていた。何故どうしてもなのかを知る為に来た。

いささか疲れて夕方、世田谷村に戻って横になり、しばしカタログ等を読みふけり、しばしまどろんでようやく、そのどうしても観なければと考えていた理由に辿り着いた。久し振りに嬉しい出来事であった。

フェリックス・ティオリオは 1842 年フランスのサンテティエンヌで生まれた。父親はリボン製造業者であり、裕福であった。若くしてリボン製造業で財をなした。産業革命期のフランスのブルジョワ階級としてサンテティエンヌからパリに出て学んだ。地方と都市を往復交通したのである。 1907 年には地方の村に一台の新しい車に乗る一家の写真が残されている。

フェリックス・ティオリオは写真機の生誕と共に生きた人物である。資力があったので写真機を手に入れ、暗室技術を学んだ。そして 19 世紀末から 20 世紀初頭の激動期のフランスの地方、そしてパリ、家族の膨大な写真を残した。それが近年、記録としても写真芸術としても大きく評価されているらしい。

写真の大半はモノクロームであり、記録としても大変美しい。フェリックス・ティオリオは当時のフランス、ブルジョワ階級に典型な、文化に対して保守的でもあり風景や事物の保存問題に関心があった。

つまり、フェリックス・ティオリオはフランス版のウィリアム・モリスなのだった。ウィリアム・モリスは 1834 年、フェリックス・ティオリオに先駆けること8年前にイギリスのウォルサムストウのエルム・ハウスに生まれている。

ドーバー海峡を挟んで、ウィリアム・モリスとフェリックス・ティオリオはほとんど完全に同時代を生きたのである。

そしてフランスのティオリオは写真により、ウィリアム・モリスは装飾芸術により時代に自らを刻印した。というよりも、時代が写真を写させ、時代が装飾芸術を表現させたのである。

ウィリアム・モリスを考えるに、フランスの同時代のティオリオを介して考えると明らかに考えられることがあるに違いない。

年譜等を追いかけてみると、ティオリオとモリスには同類項が多い。芸術家達のパトロネージであった事、保存の問題に深い関心を持っていた事。そして、それがイギリス、フランス共に産業革命期の成果が出現し始めている頃の時代のブルジョワ階級に共通する理念=矜持でもあったらしい事、等々である。

ティオリオはパリで、ウィリアム・モリスの情報を得ていただろうか・・・・。

フェリックス・ティオリオの写真にひきつけられたのは、恐らく、そういう文脈らしきを予感していたとしか思えないのである。良い展覧会であった。これで夏は色々と夢想したりで楽しめそうだ。

モリスとティオリオに関しては、更に考えて見る事とする。19 世紀末に 20 世紀の主題であった「近代」という、今から考えれば地球規模での変革の萌芽があった。今、幸いな事に同様な歴史的変革期第二次産業革命である情報革命、コンピューター革命の最中である。未来があるとすれば、その未来は 19 世紀末を学ぶことで視える筈だ。

二十一時、『伝統都市1 イデア』を読む。

六月十八日

七時半起床。ワールド・フットボール・ゲーム、どうやら、あの韓国がアルゼンチンに1−4で大敗。又も、わたしは今度は油断はしてなかったが、やはり本の方が面白く、読書にふけっていた。やはり、TVの前にいなければ勝てないか。正直、でもTV中継は退屈なんだな。仕事の方が余程楽しい。しかし、明日のオランダ VS 日本は3−0でオランダと賭けた。大相撲協会内の力士や親方の例を見習い、わたし、あくまで独人賭けですから念の為。九時半世田谷村発。

253 世田谷村日記 ある種族へ
六月十六日

午前中、手紙書き等に費やし、十二時半研究室。サイトへの原稿書く。質量共に更に充実させたい。何しろ速力が欲しい。アニミズム紀行5の売れ行きが中だるみしているのでこれにも気持を配る必要がある。

十四時半、北園、加藤両先生来室。演習G「保存と再生」課題も終盤に入り、まとめを考える。四十五分製図指導、一人一人の作品を見る。受講生は院生、学部生が混在していて、ある意味では理想的である。高望みすれば30才代の社会人若い建築家を学生としてほしい。この学生達の課題は七月七日の「保存と再生」講演会、鈴木博之先生、及び公開講評会で一段落するので、七月末すなわち夏期休暇に入ってから、社会人に呼びかけても良いなと考えている。A3ワークショップの再現である。いずれは世田谷村の地下で開催しようと考案もしているので、予行演習としても良いかも知れない。

十八時頃アッという間に時間が過ぎる。十五分新大久保駅前でT社A氏と待ち合わせ。タイ料理屋クンメイへ。二〇時過迄談笑。

二十一時過ぎ暗いモヘンジョダロを通り抜けて世田谷村に戻る。早々と休む。

六月十七日

八時過起床。少しばかり寝過ごした。メモを記す。七月七日の建築学科地下スタジオでの公開講義鈴木博之先生と公開講評会は保存と再生の会の準備会としても想定したいと考えているので、多くの人々の参加を望みたい。

七月七日は十四時開場、15 点程の課題(保存と再生、黒田記念館を日本近代建築博物館に再生する)を観ていただく。十四時四〇分鈴木博之先生が講義。十六時迄。十六時二〇分学生、課題発表、公開クリティーク。 十七時半修了。十八時より会場にて懇親会。懇親会は500円程の会費をいただきます。十九時過了。の予定です。

252 世田谷村日記 ある種族へ
六月十五日

十時二〇分研究室。サイトチェックとレクチャー準備。十時四〇分学部レクチャー。相変らず遅刻して、何のアイサツも無く入室する学生がいて講義に充分な熱が入らない。こちらも熱が入らぬが、授業料払ってる学生も決して得をしていない。レクチャーの質は学生の才質に合わせるからね、わたしは。十二時了。学部のレクチャーはわたしは力を尽そうとしているのだが、学生の方が全力を尽させぬ。いい学生に話したいものである。

十三時アンドレ博士論文打合わせ。ようやく少しペースに乗りそうだ。

三〇分、前橋の職人市根井さん来室。オリジナル椅子の試作品を持参、打合わせ。現物に触れながら検討、構造が弱い部分があり、再製作となる。1/1の検討を続ける。途中で時間切れ、小休して、M0ゼミ。十五時了。

再び、オリジナル椅子の検討に戻る。修正デザインを決定する。

又、この新作椅子の商品名を決定する。

「脚木球シリーズ」2番「参球四脚」と決める。

12 点限定製作で、一脚の値段は 76000 円である。

1番の木石脚は非売品であるので、これが初の我々のチームの商品となる。

十六時半新宿を経て、東京駅八重洲口、小樽へ。清水さんとカンボジアのレンガ、ベトナムタイルの打合わせ。又、ネパール・キルティプール計画の話しをする。十八時了。二〇時過、モヘンジョダロの遺跡で夜の写真をとり、世田谷村に戻る。

六月十六日

五時半起床。伊藤毅さんより、東京大学出版会『伝統都市1 イデア』を送っていただいた。昨夜から読み始めたが面白い。都市史という新分野の研究には遠巻きながら関心がある。総合としての文化、経済、技術の表現としての都市は未開の荒野としての学問の可能性に満ちている。

建築が、今は社会的に閉じているという現実がある。それと比較するならば都市という知的対象がいかに大きな未開の地を残しているかが良く解るような気がする。伝統都市と、大量生産大量消費のるつぼである現代都市を相対性のうちで分けて考えようとするらしい。現代都市が内在させる底知れぬ人間の悲観、ニヒリズムと、どう対抗してゆくのか、是非学ばせてもらいたいと思う。

先日、油壺でN氏に「アニミズム紀行5」を差し上げた。キルティプールの丘の計画とN氏の宮古島の計画とは実ワ近接している。と思い込もうとするわたしの考え方というのは、歴史家の想像力に近いのかなと勝手に想い始めた。

2番「参球四脚」の生い立ちについて、書き始める。楽しみたい。

251 世田谷村日記 ある種族へ
六月十四日

十時過世田谷村発。こぬか雨の中を歩く。十一時過研究室。サイトチェック。サイトの動きが鈍い。わたしの速力のイメージにも、サイト本来の速力にも即応していない。どうすれば良いか。

十三時馬淵建設一行来室。あいさつを兼ねて第一回の定例ミーティング。十四時過迄。十五時昼食へ、新大久保ガード下ラーメン屋。十六時前、了。私用にて過す。

学会建築雑誌「われらの庭園特集 Lead by Nausicaa ナウシカアに導かれて」鈴木博之を読む。鈴木さんからホメロスの話しを聞いたのは、市川辺りの焼鳥屋であった。何故ホメロスの話しになったのかは忘れた。恐らくは歴史家として、若い頃から、ギリシャには深い関心を持ち続けてきたのであろう。しかし、それを直接吐露することは無かった。だから焼鳥屋で聞いたホメロスの話しを全て理解する事は無かったが、わたしには新鮮な出来事だった。焼鳥屋といっても、煙がもうもうというような店ではなく、静かに大きな野菜などが出てくる店であったので、野菜をほうばりながら、いつだったかギリシャで喰べた、野菜のしょっぱさを憶い出したりしたのだった。それ程に鈴木さんのおしゃべりは熱が入っていたのであろう。この人が熱心に語る時には、その語る内容(主題)に心引かれているからである。一流の歴史家が思い付きや、気まぐれで、こんな話し方はしないものなのだ。相当にギリシャ神話に入れ込んで、読み調べているに違いないのを知った。いつそれが形になるのだろうかと考えていた。

この香気に満ちたエッセイはその一片であろう。学会の雑誌に相応しく、良質なアカデミストが書き得る品格が示されている。この香気は特筆するべきだろう。鈴木さんはまさに円熟の境地に達したなと痛感する。更に、平泉の文化遺産が世界遺産への登録が見送られているのを、毛越寺の浄土庭園すなわち浄土の理想概念とアルキノオスやナウシカアの壮大な物語りとを結びつける想像力を要請しているのは、設計者として大変な刺激でもある。この一片は必読であろう。鈴木博之はやはり大きな庭園論を書くのだろうと期待する。

夜、ワールドカップ・フットボールゲーム・アフリカをTVで観ようと思ったが、眠ってしまった。カメルーンの圧勝を信じて熟睡する。

六月十五日

五時前起床。フット気になり、TVをつけてみたら、何とワールド・カップ・フットボールゲーム・アフリカは日本がカメルーンを1対0で破っているではないか。失敗した。わたしの気のゆるみがアフリカに伝わってしまったのである。次のカメルーン戦は眠らずに応援する事にしたい。わたしあくまでカメルーンの味方です。

日本の探査衛星はやぶさが話題になっている。小惑星イトカワに着陸して、その石か砂らしきを回収し、地球に戻ってきた。光エネルギーで宇宙空間を推進し、ま言ってみれば宇宙の蚊トンボみたいに、はかなく、か弱い風情の機械であるようだ。数年も故障でうまく機能しなかったが、奇跡的にサヴァイバルして、生き残ったのも皆の気持にスーッと受け入れられたのであろう。

長い長い、それこそ宇宙の時間の波長に合わせ考えるならば、この機械の物語りイメージは、現代の建築が持つべきヴィジョンを啓示しているのではないか。ホメロスの大きさは持たぬが西行の哀しさを内在させている。一生懸命働いて消え去り、砂一つ持ち帰ったかどうかというのが良ろしいのだろう。目的地小惑星イトカワのイトカワはペンシルロケットの発明、開拓者イトカワ博士の名の由来だろう。目標の小ささも誠にいかにも日本的である、と、これでは日本浪漫派の詠嘆だな。

250 世田谷村日記 ある種族へ
六月十二日

昼食後、M邸現場へ。緑町の母の家のスケッチを今日中にまとめるつもりだが、昨日、M邸のガレージに同様な構造を実行する事に、百田さんにほぼ同意をいただいた。このアイデアはジャン・プルーヴェ風のものであり、今ひとつ、ふたつ工夫を積み重ねないと、ホーッというレベルには達しない。机上でスケッチするよりも現場や工場でスケッチした方がよい考えも生まれるだろう。

母の家は、ほとんど寝たきりの人間に建築として、それでも何か生きのびる意欲らしきを、一瞬でも持ってもらいたいと思っての設計だ。母は花が好きだから、寝床から時に一輪の花が、それも小さな庭の花が視えるように工夫したい。東の空に、チョッとした光も欲しい。

現場には青森ヒバ森林協同組合より直送の大径の青森ヒバが着いた。玄関が狭くて、なんとかカバーするアイデアを実寸で考える。クライアントにも立ち会っていただく。

十七時過去る。十八時世田谷村に戻る。途中モヘンジョダロで見事な花を発見写真に記録する。若者が二人雑草の生い茂る遺跡のブランコで語り合っている姿も記録した。ただ記録しておいた方がよいと思う気持からだけだ。ここに在るモノは人もモノも花も一瞬一瞬がきらめいて視える。遺跡だからだ。ローマの遺跡も住宅公団の遺跡も、同じ何かが流れている。建築の価値である。

夕食後、韓国 VS ギリシャのワールド・カップ、フットボールゲームをTVで観る。韓国もギリシャも共に応援している。韓国が一点先行したところで眠くなってしまい休む。

六月十三日

高曇りの朝。どうやら昨夜のフットボールゲームは韓国が 2-0 でギリシャを破ったようだ。ギリシャはランキング 14 位で日本よりは、はるかに強い。韓国強し。

全く日本チームとスピード、決定力、戦術共々に桁違いである。

九時半前渡辺君世田谷村来。共に油壺月光ハウスへ。十一時過月光ハウス着。N氏他と会う。雑談。

十三時、馬淵建設社長馬淵氏他来。Nさん共々和やかに談笑。7月より始まる建築工事を担当していただくので、やっぱり社長さんの顔は知っておきたかった。設計者としては当然の事であろう。Nさんも馬淵建設とは知らぬ仲でもなく、ヨットハーバーのヨット群を眺めながらの良い会合となった。

十五時過了。馬淵社長と別れ。Nさんのヨット月光クルーとしばしの談笑。十六時前発つ。

十八時前、世田谷村近くのソバ屋宗柳に戻る。渡辺くんと夕軽食。十八時半了。世田谷村に戻る。

六月十四日

七時過起床。明方屋根に雨音がしていた。そろそろ梅雨入りか。まだ先の事だが9月初旬にアーツ&クラフツの会(仮)の小展示会を開催する事をほぼ決めた。渡辺君が事務局として組織作りを仕切る。日々の平坦な仕事だけにとどまらず、何とか少しでも自分らしさを表現したいという各種職人さん達の広い参加を願いたい。

3年間続けた佐賀での早稲田バウハウス建築ワークショップの前進は早大理工学部キャンパス内で開催したA3ワークショップだった。A3とは建築家・アーチスト・職人の意であった。ワークショップの卒業生、体験者達の中から市根井達志、木本一之さん達との恊働が生まれた。古くは山田脩二等(『現代の職人』晶文社、参)との附合いも生まれ、続いた。あんまり肩を張る気持はサラサラ無いけれど、ソロソロ何かをまとめねばならないと痛感し、今度のことになった。6月中に少しづつ情報を出すので、関心のある方は留意されたい。

249 世田谷村日記 ある種族へ
六月十一日

七時前起床。メモを記す。九時過発、十時過研究室、レクチャー準備。十時四〇分院レクチャー、ミース・ファン・デル・ローエ、シーグラムビル、ファンズワース邸、バルセロナパビリオン。十二時過了。正門で渡辺君と待ち合わせ、松陰神社前へ。十三時M邸現場。河野鉄骨社長も現場で2階テラス撤去作業等。久し振りにお目にかかる。

ガレージ、テラスのスティール部分を現場でラフ決定。十四時了。その後、河野親子と打合わせ。テラス部、屋根に思い切ったアイディアを得る。

M夫妻に様々な報告、了解を得る。十六時半去る。十七時過世田谷村に戻り、小休。資料整理。十八時過烏山センタービル2Fへ。烏山周辺まちづくり協議会へ。まちづくり協議会の今回は良い議論になった。商店街の連中は仲々やるな。京王線高架化、駅舎変更にともなう周辺まちづくりを次回はテーマにすることに決定。

わたしからはセコムの払い下げのあったモヘンジョダロ遺跡を議題にするように、再び提議。今は良いタイミングではないとの会長発言もあり、会長の顔を立てていずれテーマにしたいと念を押し、引下がる。

終了後、会議でこれは味方になるなと思われる人物と立話ししていたら何と、彼は早大学院の同級生であった。わたしの山登り、岩登りのパートナーの友人でもあった。ビックリする。これは縁だな、何か出来るだろう。

二十時過宗柳で遅い夕食。隣のテーブルで4人のオバサン達が和気あいあいとおしゃべりしていて、妙に気になり、自然に声を掛け合ったら、これが、何と第一住宅団地跡地のセコム・モヘンジョダロのかつての住人達であり、同窓会なのであった。「あそこは公園にすべきだ」と皆さんおっしゃる。署名運動始めようと思っていたともおっしゃる。イヤー、いい偶然でまさにオバさんの同志を得た感あり。わたしの考えでは、モヘンジョダロは区民農園関連のフィールドにすべきで、都市内農園のモデルにすべきだろうと思うのだが、オバサン達はその運動の味方になってくれるであろう。

六月十二日

六時起床。昨夜、宗柳で会ったオバさん達は仲々の者であったと振り返っている。モヘンジョダロの遺跡にはかつて、つまり平屋の見事なコートハウス住宅群がつくり出していたパブリックスペースには、露草が多かった、アレは日本の花なのよね、でも外来種の花は強いと、おっしゃる。この場所の花や草樹に愛情を注いでいる。それを通して社会を見る能力がある。オバさんや、オバアちゃんの知恵を結集しなくてはならぬ時代だな。

ワールド・カップが開幕した。オープニングセレモニーを観て、このセンスは仲々のものだと感じる。アフリカ色、アースカラーをベースに、でもローカルな水準を抜けたビジュアルであった。誰がディレクションしたのかな。北京オリンピックの開幕セレモニーよりも質が高い。

わたしはサッカーはカメルーンを応援するので、その立場から予測すれば対日本戦は 3-0 でカメルーンだな。日本が点を取る可能性はまるで無い。し、取れる要素さえも皆無である。岡田監督率いる日本サッカーチームは、まるで日本の政治の現状の如くで、得点は得られる筈もない。あれはサークルサッカーである。政治もサークル活動に近似した。

248 世田谷村日記 ある種族へ
六月十日

八時二〇分、松陰神社前、上馬のM邸現場へ。今日は1階の主室のかもいの取壊しで、何を残し、何を外すかの決定を現場でしなければならない。M邸計画は大がかりな再生計画(改築計画)である。同一敷地に2軒の住居が建っており、通り側の住居は現在使用されておらず、御祖母様の介護の為に使われていた。その家に夫妻が移り住もうという計画である。母親の記憶を色濃く残す空間を保存し、高齢夫婦にも快適なようにという、ある意味ではゼイタクなものである。

今、生活している奥まった家も立派なものだし、何不自由ないのだから。

でも、人間は不可思議な者でもあり、その母親の代の記憶を大事にしたいという気持自体がこの計画となった。奥の方の家が今度は心配になるな。

棟梁と共に手で確認しながら、1階の主室のかもいの大半を取り外す。しかし、ポイントポイントを残す。デリケートな仕事で作るよりも、壊す、取り外す方が難しいのを身体で知る。面白い、妙な仕事をしているなの実感あり。

打合わせ、実作業を続ける。これは今日は終日現場にいた方が良いと判断。

昼前、奥のM邸で持参のおにぎり2ヶとつけモノ、梅干しをいただき夫妻と談笑。こういう時間がモノ作りにはとても大事だ。クライアントの考えのディテールを知る事ができる。

昼に、小休をとる職人さん達と共に合板の上で昼寝もできた。

午後、サッシ搬入され、一気に取り付け。実に今のレディメードのサッシは良くできている。住宅設計のオリジナリティは開口部にありと極論すれば、これは仲々の分水嶺ではある。午後、研究室生に課した現場でのスタディにも附き合う。院生も現場の空気の中ではまさに子供だな。それを自覚できたら、それで良い。

出窓の建込み、位置を決定する。改築は設計図通りにはゆかぬところが面白い。低い位置での出窓となり、意外にも小映画館みたいになった。十七時半了。M夫妻と夕食へ。

出前で度々いただいていた仲々うまいカレーソバ屋。大江宏先生の居宅の近くである。このエリアは大江先生の記憶とも重なり、懐かしい。ソバ屋は意外にもコンクリート造りであった。オヤジは仲々元気な人であった。泡盛をいただき、満腹。雨も上り、Mさんに途中迄送っていただき、松陰神社前より玉電で下高井戸経由、世田谷村に二十一時半戻る。

こういう現場が幾つもあったら、人生は面白いだろう。

247 世田谷村日記 ある種族へ
六月九日

十時十分京王稲田堤、至誠館グループ本拠。K理事長よりこのプロジェクトにかける至誠館の歴史をうかがう。大変な歴史を背負った計画なのを再び知る。十時半馬淵建設の面々、多数来る。十二時過ぎ迄打合わせ。現場担当は若い、大丈夫かな。馬淵建設の社長に会いたい旨を伝える。十三時前星の子愛児園で馬淵建設から提出された施工計画をチェック。

十四時過ぎ新大久保駅前で昼食。十四時二〇分地下スタジオ、演習G。十七時半迄。十八時過ぎ、ガード下中華料理屋で、北園、加藤両先生と打合わせ。まちづくりネットワーク、東京クラフト組合の件。御二人共に着々と戦略を進めて下さっているようで心強い。十九時半了。二〇時過ぎ世田谷村に戻る。

六月十日

六時前起床。昨夜は鈴木博之さんに連絡して、来週板橋の海老原一郎設計の大日本インキ工場の見学を予定する。Xゼミも机上の討論も良いけれど実ワ研究らしきもしたいと考えて、鈴木さんに御教示を願った。工場見学は企業秘密もあり中々難しいのだが、彼なら何とかするだろう。以前日経BPネット版の取材にかまけて、富士フィルムのレンズ磨き工場を見学させていただいた際に、レンズ磨きの現場で、ジョージ・ルーカス特注のレンズが日本で作られているのを知り大変興味深かった。フィルムがデジタル化で消失したが、意外な方向へ技術が展開している現場を知ったのである。ハリウッドの特撮は日本のレンズあってのものらしい。今度は建築見学なので、そのような事は期待できそうにないが、何が得られるかは解らんぞコレワ。八時河野さん来村し、M邸現場へ。

246 世田谷村日記 ある種族へ
六月八日

九時四〇分発、十時四〇分過ぎ大学レクチャー。途中突然少年が教室に入ってきて黒板に名前を大書し、何かを渡そうとして、入学したい、よろしく頼むと叫ぶ。早稲田建築では創生入試、いわゆるAO入試を続けており、ある程度の成果を得ているが、その影響であろうか。何でも元気そうなパフォーマンスをやればなんとかなるという風評が、高校生達の一部に流れているとすれば、それは違います。こういうことやっても何の役得もないからね。大学はサークル活動の場ではないから、かくなる事は試みないように。しかし、大学のキャンパスどころか教室にも誰が侵入してくるか解らないな。来週は牛がやってきたりして、MO入試を叫んだり。教室も劇場状態だな。 予定通り、三〇分のテストを行う。

十三時、研究室発、昼食をとり、私用。雑用。

昨日、大阪で幸いに金光教大阪センターの内部を見学する事ができた。建築の審査という機会でもなければ仲々中には入れないだろう。鈴木博之さんが教壇の書棚より、これいいですかと断って小パンフレットを持ち出したのを横目に眺めていた。見学を終えて、わたしもそれを真似て「金光大神のご生涯」をこっそり、ではなくて、キチンと断っていただいてきた。20 ページ弱の小冊子である。これの挿絵も含めて小冊子そのものが仲々変な味がある。率直に言って日本にもまだ、農本人間らしきが存在しているのかの驚きがある。また、教祖が修験道者達に圧迫されたという歴史も興味深いのであった。

松浦武四郎の「一畳敷」、ヘンリー・スミス(コロンビア大学)のインタビューが秀逸である。武四郎さんも無茶面白いけれど、このヘンリー・スミスさんもかなりの奇人だな。いい学者は皆奇人である。しかし、世界には武四郎も含めてたいした人物が居るものだなぁ。それで、実のところ歴史は綱わたりの如くに連綿と持続してきたのだろう。ホントはいつ、プツリと切れてもおかしくないのにね。

六月九日

六時半起床。曇り。小雨模様で、陽光は無い。菅直人内閣がマス・メディア、TV、新聞で好評のようだ。コンピュータは何も意志を表明するに至ってないから、いまのところは何にも加担はしない。内閣支持率に代表される世論の実体はマスメディアが形成する動向に近いものがある。マスメディアの政治担当記者に関して言えば、TVの政治担当は新聞記者が並任、あるいは新聞論調をTVが口移しするに過ぎない。勿論ニュース・キャスターの大半には何の識見も無い。しかし、どうやら我々市民らしき、つまり世論の核らしきはそのニュースキャスター状の液状劣化状なのが実体であろう。液状とは核が無い、骨が無いに等しい。ゼリーやアイスクリームに例えられる。パッケージはあるけれど中身に核が無い。そのパッケージは大量生産された標準化製品である。皆、実は同じである事を宿命付けられている。

関心に足るのは小沢一郎の次の動きしかないのではなか。これもマスメディアにすでに毒されている意見らしきであるが、新幹事長、新政調会長他もいかにもなサークル系人物である。これは誰もが本能的に直観しているだろう。市民大衆にあるのは直観=趣向だけである。サークル系の和気だけで集団が動き、長続きするものだろうか。 政治オンチの長屋裏路地談義を記し、九時四〇分初京王稲田堤へ。

245 世田谷村日記 ある種族へ
六月六日 日曜日

十二時前東京駅、のぞみ27号車内で鈴木博之、村松映一両氏と会う。十二時発、談笑、あっという間に新大阪十四時半過。地下鉄を乗り継いで南下。平野へ。TAXIで矢田朝士さん設計の ES・HOUSE へ。竹原さんと現場で落ち会う。素材の使い方にキラリと光るものを感じたが、どうやら 42 才の設計者は少々異なる考え方をしたい人のようだった。木綿の半透化パネル、タモのオイルステインに何か混ぜたのかな、等は新鮮であった。

見学審査修了後、竹原さんのミニクーパに同乗して、梅田近くの、安藤忠雄事務所へ。鈴木さん何やら用を済ませて、すぐ近くの竹原さん、学生達の設計施工長屋へ。今年の建築学会教育賞を受賞した物件らしい。高ベイと呼ぶらしい独特の小コートハウス長屋で、面白い空間を再生していた。関西人特有の実利的発想の産物である。梅田のド真中の通俗的近代の中に大正時代のモノなのか、健全なタイムスリップをさせていただいた。

梅田駅まで送っていただき、JRで尼が崎経由宝塚へ。十九時前、宝塚ワシントンホテルへチェックイン。十九時半夕食へ。がんこ寿司なる全然がんこではない料理屋で、すき焼、さつまあげ等多彩に食す。空腹であったのでよく喰べた。ホテルに戻り、Barで飲み、談笑。良く歩いた1日であった。

六月七日

六時前目覚め、メモを記す。八時半一人で朝食。十時前ロビーに集合。竹中工務店川合氏と落ち合い、車で清荒神・清澄寺へ。資料館を見る。瓦屋根の美しい端正な資料館であった。この清荒神清澄寺は関西の名刹で、神道と仏教が共存し、平日なのに三々五々と人々が、参拝に気持の良い宗教と自然が合体した場所である。資料館は現代建築でありながら、出過ぎず、かと言って埋没せず、良い建築であった。大人の建築だ。境内の諸々を見学、お茶をいただき辞す。朝一番で良いモノを見た。

車で梅田、みみうへ。昼食のそば(関西ではうどん)をいただく。美味ではあるが味のうすさにおどろく。車で堺筋本町の金光教大阪センターへ。日建設計の若手の設計である。施工は大本組。ゆがんだ形をコンクリートでつくっている。

TAXIで INAX 大阪ビルへ。これも若々しい建築であった。日建設計のモノ、施工は竹中工務店。ここで INAX ギャラリー大阪(伊藤忠ビル内)で松浦武四郎の「一畳敷」展が開催されている事を知る。松浦武四郎を取り上げる人物が大阪に居るとは、これは INAX ギャラリーの大ヒットである。すぐに皆で駆けつける。幸いにも担当者のディレクター高橋麻希さんにもお目にかかれた。これは大阪の建築文化は誇りにして良い。パンフレット、1500 円も良く出来ていて、必読である。8 月 17 日迄大阪。その後名古屋、東京の巡回するようだが、大阪で早めに観ることをおすすめしたい。これは良くやった拍手。十六時半、INAX ギャラリーを去る。地下鉄で新大阪へ。中津で用事残る鈴木さん、竹原さんとお別れ。

十七時半新大阪、十七時三十七分のぞみで東京へ。村松映一さんと車内でカンビールで談笑。二十時過東京着、村松さんと別れ、新宿を経て、二十一時過世田谷村に戻る。流石に少々つかれたが、清荒神清澄寺資料館は良かった。段違いであった。負けてなるかと痛感した。色々と勉強させていただいた。

244 世田谷村日記 ある種族へ
六月五日

十時半研究室、講義準備。十一時院レクチャー、5分の休みを挟んで十四時過迄。コルブのラ・トゥーレット僧院、地中海、ギリシャ神話が1講、イギリス型ハイテク、水晶宮、イギリスの伝統、女王陛下のバラ、ノーマン・フォスター、セインズベリーのアートギャラリーが2講。

流石に少々くたびれる。昼食、野菜つけめん、ぐったりと腹にこたえる。十五時3年設計製図講評会。第一課題は入江先生担当である。建築学生の想像力そのものの現存を信じようという、ある意味ではとて非現実的な課題でもある。二重に困難さが伴う課題でもある。初心者に想像力の在り方を教える困難。そして、その若くフレッシュではあるが幼稚でもある想像力そのものを基盤にするという困難さである。

しかし、何人かの人材の存在を記憶した。十八時半了。学生との懇親会を抜けて、入江、古谷両先生と新大久保駅近くのタイ料理屋へ。学科の事等を相談。

それぞれに考え方の違う設計教育の教師達である。この様な小さな会は必須である。当然わたしは深いところで設計担当の教師を信頼している。それ故に突然のように見える思い切った事も言えるのだ。話しが弾んで二十三時迄。古谷さんはまだ若いから大食でワインも2本空いた。二十四時前、夜中のモヘンジョダロを通り抜けて世田谷村に戻る。

六月六日

昨日、どうやらバルセロナに居る難波さんがスリにガツンとやられて、アイフォンを盗まれたらしい。失礼ながら、それを聞いて大笑いする。ランブラス通り周辺はスリとホモセクシャルが多いところなのだが、難波さんを狙ったスリは余程目が高い。そして財布ならぬアイフォンをすったというのも実に天晴れと言う他ない。そのスリは文明批評の精神の持主ではないか。ジャン・ジュネの泥棒日記を思い起す。これで難波さんは深くグラナダを体験する事ができるだろう。アイフォンを持ってのグラナダはグラナダではないのだ。お目出とうと言いたい。

十一時前、関西行の為東京駅へ向う。

243 世田谷村日記 ある種族へ
六月四日

六時起床。雑務。九時半発モヘンジョダロの遺跡を経て、烏山駅。日差しがきつくサングラスをかける。十時四〇分院レクチャー。俊重坊重源の建築。このところ雑務に忙殺されていたので、こうして院生達に好きな建築について話しをするのは、実にホッとするのだ。純粋に建築の事だけを考え、伝えるのは一種の至福だな。建築の世界に入り込んでゆけるだけでも嬉しいものだ。活力を得て十二時了。明日、休講分の2構を連続補講する事を伝える。十四時迄雑務の連続。十五時京王稲田堤星の子愛児園。理事長と打合わせ。十六時川崎市役所の皆さん来て、入札の形式、次第の打合わせ。十六時7社による入札。すぐに札を開き、馬淵建設が落札。竹中工務店、浅沼組の健闘振りが印象的であった。この建設不況時の建設活動は実に大変だろう。応札された7社の努力、エネルギーを考えると頭が下がる。見積書の提出、工程表現場担当者、経歴書の提出を求めたので、恐らくは全部で 100 名弱の人間が仕事したに違いない。落札しなかった各社に感謝したい。

十八時馬淵建設と打合わせ。十八時半至誠館の理事の皆さん5名と夕食会。皆さん今日は入札の立会人として出席なさった。それぞれに多才な方々で話しが弾んだ。猫達の支援センター設立を考えている方がおられて、ビックリした。しかし動物虐待が多い地域は文化水準が劣るという話しは面白かった。

わたしも、ウチの白足袋を思い出して、ブンなぐったりしないで良かったと胸をなでおろす。二十一時半モヘンジョダロの真暗な遺跡を通り抜けて世田谷村に戻る。

この遺跡の大半の所有者はセコムである。しかし、中心部に3軒程の人家がある。

わたしは、この遺跡状のエリアに大きな関心を寄せている。この3軒の人家の存在は恐らくは大規模用開発をしたいだろうセコムにとってはノドにささった骨だ。モヘンジョダロのバラの家はその一軒である(トップページの画像参)。

夜、この3軒は暗闇に包まれる。わたしだって夜中このエリアの暗闇を歩いて帰るのは身の危険さえ感じる事がある位だ。

3軒の家の住民達の気持はいかばかりであろうか。

そればかりではない、このわたしがモヘンジョダロと呼んでいるエリアは烏山駅に真近で、京王線高架化による、周辺町づくりにとってはかなめのエリアなのだ。セコムは私企業であるが、公的な性格を帯びざるを得ぬ、すでに公的性格をも持つ企業であり、そのスケールを持つ。スケールそのものが持たざるを得ぬ公的役割が当然あるのだ。

それ故に、わたしは烏山周辺まちづくり協議会に入会し、望んで運営委員にもなった。当然、このエリア、モヘンジョダロ状のエリアを含んだまちづくりを考えねば、まちづくりの意味がないと考えるからである。

六月五日

七時前起床。メモを記す。今日は1日学務である。リラックスしたい。九時三〇分発。補講準備他、十一時院講義。

242 世田谷村日記 ある種族へ
六月三日

九時世田谷村発、十時大学院推薦入学、面接試験会場。デザイン、計画系、4研究室の面接入試。各研究室共に絞り抜いているので何の問題も発生しなかったが、一部の学生に、若干の乱れが眼につき、意を決して、何人かの学生に否の判定を下した。石山、入江、古谷、三研究室で、製図関係の諸々は共同管理体制を敷く事に計画系の教師で合意した。

困った非常時には協同しなければならない。これは当然の事だ。

しかしながら、早稲田建築の設計、計画系の大学院入試に、いかに学内推薦とは言え、設計製図を避ける如きの発言を繰り返す学生を安易に許すべきではないと考える。一つの研究室の不可避とも考えられるアクシデントが学科全体に及ぼす影響を無視、あるいは過小評価してはならない。

十二時教室会議、合否判定会議。その後教室会議十四時途中で抜ける。研究室で諸々の雑事。

十五時より、スタッフ、院生と小ミーティング。研究室プロジェクトの一部を説明し、参加のすすめ。

十六時半了。早退し、新大久保、ガード下ラーメン屋でレバニラいためとビールで休む。十八時半了。その後、私用雑事、二十一時世田谷村に戻り、幾つかの連絡をこなす。

政治がガタガタしているようだ。わたしは明らかに政治オンチ人間であるようなのでそれには触れぬ。わたしの意見らしきを記した途端に、わたしの存在根拠も全て飛んでしまいかねぬのは少なくとも自覚しているのです。

旧友、井上雅靖さんより「鳥の飛翔」尚歯舎連話(尚歯舎編)送られてくる。井上氏は二川幸夫さんを介して知り合った。青山通りのBarで時々お目にかかった頃もあった。わたしとは価値観その他全く異なる人であるらしいのだが、不思議に嫌いにはならなかった。

俗に言う、ペダンティックな人間の典型なのだろうが、イヤ味なのにイヤでは無いところが何故か面白いのだ。やっぱり知り合いだからなんだろうな。そうに違いない。旧友の本なので一晩かかって読むが、巻末の連歌らしきに眼を通すに、コレはひどい。我々の句会妙見会の水準の方がはるかに高いと感ずるのである。駄句を詠む自分達を笑ってみてないなコレワ。

本を読む前に、これ程拒否感を持つモノも珍しく、これから読むのが気が重いのだが、旧友なので仕方ないのである。ニ、三日後に恐らくひどい読後感を記す羽目になるのであろう。4時間かかって読み通すつもりだがその4時間の重みは例えようもないのである。

241 世田谷村日記 ある種族へ
六月二日

九時半発、松陰神社前M邸現場へ。十時半現場にて河野さんと会う。点検、棟梁の性格が呑み込めてきた。頑固である。一度どこかでガツンと一発かましてやろうと決める。井の中のかえるは困るのだ。しかし、口先だけで逃げ回るタイプじゃないのは良い。車で武蔵野の母の家へ。河野鉄骨に取壊しと新築の段取りを依頼する。

驚いた事に 92 才の母は超低空飛行状態を脱し、一人で歩く迄になっていた。岡山の瀬戸のオバちゃんにも本当久し振りに再会。母の妹である。母とは全く正反対の性格で実にやさしいオバちゃんである。

「お母さん6月中旬にはこっちの家は取壊すから、安心しなさい」

「6月下旬にしろ。親にキチンと間取りの相談をしろ。地下室も作れ」

「地下室何に使うんだ」

「バカ者、孫が来て遊ぶんだ、私の部屋は6畳だぞ。親の言う事は良く聴け。勝手にするな」

とうるさい。マ、これならすぐ居なくなる事も無いだろう。本当はも少し弱っていてくれるとやりやすいのだが、ぜいたくだ。

昼近くのソバ屋で昼食。十三時半前研究室。すぐに打ち合わせ。サイトチェック。昨日のサイトは異常な数のヒット数で1日3万3千ヒットを記録した。日記も過去最大の読者数である。月末の駆け込み読者の急増なのだろうか。何故増えているのかの原因がわからない。これも現代であろう。

鈴木博之さんよりの、Xゼミナールへの寄稿読む。知らない事が多々記されてあり、あせる。スタッフにこれ皆調べて資料をくれと頼む。まだまだ勉強させられるな、鈴木博識博覧之丞である。段々、人間は親が付けた名前に似てくるものなのが良く解る。上には上が居るものだ。

このところ磯崎新の「神の似姿」を読み直していて、磯崎さんの知識の厚みがヨーロッパ中世、近世に厚く、近代は以外と淡白なのに気付いたのだけれど、鈴木博之さんの深みはやはり近代そのものへの堀り込みの力だなと知るのである。

十四時半、北園、加藤両先生来室。地下スタジオ演習Gへ。途中、打合わせで抜け、又戻り、ノーマン・フォスターのロンドン・ロイヤル・アカデミーのスライドを見せる。保存と再生の好例の一つだと考えたからだ。でも、イギリス型ハイテクの旗手もロンドンでの保存と再生はあまり上手くいってないなと不遜にも思った。十八時半了。両先生と新大久保近江屋でユートピア的悪だくみを相談し、二十一時世田谷村に戻る。小組合をつくる話が具体化しそうである。 

六月三日

四時半起床。メモを記す。仲々時間がかかり、五時四〇分了。日記も大変なのだが完全に習慣になってしまい、記さないと気持が悪くなるというか、体調が崩れるような強迫観念に迄襲われるようなのだ。もしかしたら病気だなコレワ。

240 世田谷村日記 ある種族へ
六月一日

九時過世田谷村を発つ。モヘンジョダロを経て烏山駅、新大久保へ。十時過研究室、サイトチェック。誤字脱字は相変らず多いが怒り狂う程の事は無い。しかしいささか残念である。

十時四十分学部レクチャー。何かの課題と重なっているらしく、学生の出席数は少ない。学生が提出物らしきを介してしゃべり続けているので、注意する。2年生の演習課題かはせんさくしないが、低学年の低体験学生には歴史のレクチャーの方がズーッと力の蓄積になるのだが、それさえも教えるのはとても困難である。目先の小課題の思い付きに夢中になってしまう、初々しさの中心の弱さの加減がいか程のモノであるのかを教えたくとも、これは実に難しい。

十二時半、打合わせ。十三時半了。前橋の市根井さん来室して、家具製作の細部について打合わせ。その後いささかの雑務。終了後、大学の駐車場に停めた車の作業台でWORKする市根井君の作業に立ち会う。細々とした、ノミの使い方他の指示らしき迄をする。やり過ぎかもね。しかしながら一番楽しく、充実した時間である。市根井君は職人としてキチンとし過ぎていて全てが固くなるきらいがある。それを一生懸命ときほぐす指示を続ける。かやの木を使い切った、仲々の家具が断片としての姿を現わしてくる。世田谷村の3階に大事に収蔵している「木石チェアー」オリジナルを発展させたものだが、このわたしの本格的な第1作の椅子デザインである。十七時前了。新宿南口味王で一服し、十九時過世田谷村に戻る。

アニミズム紀行1〜5そして続刊の発行と、この家具の制作は勿論連動している。つまり、6月にネットに公表、発売する、わたしの椅子は絶版シリーズなのである。

しかし、それはそれとして、絶版書房的椅子では、何のことやら誰も解ろうともしてくれぬだろうから、も少し通りやすい名前を考えなければならぬだろう。

この椅子は、近代の歴史には全く無い考え方から生み出されている。そりゃそうだろう、椅子という形式そのものが、アニミズムの世界からは、ここ日本という特殊なエリアでは、産み出し得る、想像し得るモノではないのだから。だから、このデザインは椅子の系統樹に於いてはダーウィニズムから完全に外れたものとして構想されている。

六月二日

六時半起床。近くのモヘンジョダロ遺跡の件では近々企画者の一部にお目にかかれる事になったので、これは一区民として考えて行動する。杉並の屋敷林の件も保存と再生の色が濃厚になりそうである。松崎町の話しもあり、どうやら、保存と再生に関する仕事が強い焦点の一つになりそうだ。かつて友人にジェニウスロキと保存は近代の負け札だなぞと言っていた自分が愚かである。典型的な凡愚であった。しかし、時代の風がそう吹くような気配がある時の保存と再生の問題こそが重要なのだろうな。

239 世田谷村日記 ある種族へ
五月三十一日

十一時過発。十二時過京王稲田堤、星の子愛児園の足場が外れ、塗り変え工事が完了。落ち着いた良い色になった。渡辺君と待合わせ、十二時半愛児園会議室。十三時川崎市役所、理事長他と打合わせ。十四時半了。新宿へ、十五時過南口長野食堂、遅い昼食。諸々の相談、打合わせ。十六時了。雑用をこなす。二十一時了。二十一時半世田谷村にて幾つかの電話連絡。杉並の屋敷林計画を動かし始める。二十四時休む。

六月一日

五時半過起床。昨日は多方面の人々にお目にかかり、フト考えたのだが、時代のとてつも無い津波の只中に、すでに居るのだなあと、波の中に沈むとそれが視えなくなる。視えなくなると何処へ向けて泳いで良いのかが解らない。そうなると幽霊船に乗るか、あるいは沈む事になる。あるいはレーダー、ソナーの無い潜水艦に乗り続ける事になる。波の外に出る必要がある。

日記の形式でのメモにこのようなとても抽象的で、おもわせ振りを書きつけるのは本意ではないが、そうでもしないと日記自体が続かない。記録し続けているこのメモも、自分に損なのか、得なのか不明のままだが、直観として続けようと決めているだけだ。実にあやうい。自分の損得は何か基準が無いと決まらない。経済、体面、気持、体力を天秤にかけて判断せざるを得ないが、その天秤の位置の置き処が、実にハッキリとし得ない。20年後はアニミズム紀行5に記した。それを読んでいただくしかないが、その20年後への、ここ1、2年が実にむづかしいのだ。皆さんもそうなのだろうと、共々同情する。

八時制作ノート、メモ。了。

5月の世田谷村日記