8月の世田谷村日記
289 世田谷村日記 ある種族へ
七月三十一日

十一時研究室。GA杉田さんより先日のインタビューのゲラ送られてきていたので、一部手を入れる。杉田さんは面白いところの大半をカットしてきた。その気持はわからぬでもなし。根深いところで考えている事は多くの読者とは共有できないものなのだ。簡単に共有されてしまう考えにそれ程の価値があるとは考えられない。考えを極めようとすれば、最後は独人にならざるを得ない。それでは雑誌は成り立たない。

十三時研究室ゼミ。おおぜいの参加となり、しかも個人対応しなくては意味がないので時間配分が難しい。自分にも面白いテーマに多くの時間が割かれてしまうのは仕方がない。成果は良くも悪くもサイトに公開してゆくから、御覧下さい。キチンと方向を示せば、彼等の大半は良く走ることができる。方向だけはミスしないようにが義務である。

十五時二〇分過、案の定多くを積み残して去らねばならない。気になっていたプロジェクトのレポートは地下鉄で読まねばならない羽目となった。

十六時地下鉄で渋谷へ。岡本太郎の明日の神話前で難波和彦さんと会う。鈴木博之現われ、駅近くの焼鳥屋へ。すぐに小型テープレコーダを廻し始める。今日はXゼミのライブ版の開始の日である。騒々しい焼鳥屋の音の中でリラックスして時に高度な話しを交える。どうも、三人で飲むとビールのピッチが速い。酔う前に話しらしい話しをしてしまおうと皆早口になるのが、面白い。

バッハの平均律クラヴィーア曲集、村上春樹、マシーンと話しは弾んだ。

十八時過、まだ明るい陽光の中修了。良い収穫となれば良い。

マア、今日はいかざあなりまへんな、魔窟Barへは。TAXIで池袋ボァンクールへ。ここにくると皆舌がなめらかになるのは何故なのか。

もうテープを廻すまでもないと考えていたが、話しが面白くなってきたので、あわてて廻す。しかし、廻した時にはその面白さは過ぎ去っていた。ミラボー橋の下の河の流れだな。と美空ひばり、じゃない中島みゆきの話しになった。

両氏は中島みゆきのファンであり、みゆき批判らしきをすると、本当に眼を三角にして人をおどすのである。わたしは恐怖を感じた。おびえつつ、余りの無念さに女主人のJAZZの選曲になんくせをつけたら、今度は三人ぐるみのバッシングを受けた。いい年をしたきたえぬかれた知識人のする事かと無念である。挙句の果てに、何か上等らしきワインをガブガブ飲んでしまった。鈴木博之は暴君振りの極にいたり、おまえ等もう帰れ、と蹴りとばすように追い出されてしまった。これはみゆきファシズムである。新宿までTAXIで共に追い出された難波和彦さんと、新宿の味王で飲み直そうかとブツブツ言ったが、そんな元気も、もう残っている筈もなく、ズコズコと帰った。

しかし、鈴木博之は攻撃に専念した時のエネルギーと破壊力は凄惨である。字面では、書物からでもうかがい知れぬ未知の暗闇である。この人物はスポーツに例えれば攻守処を変える種目は似合わない。守りは天に任せて、攻めの力を最大限に表現するのがいい。でも周りは大変だぜとこぼしたのでありました。

二十三時前頃だったか世田谷村に戻る。

八月一日

福島県猪苗代湖、北方に磐梯山を望む鬼沼の地。小さな天の橋立に似た美潟のほとりに「時間の倉庫」が在る。北東に開いた谷の中心に位置している。この場所すなわち小さな谷は、谷自体が実に絶妙な空間を作り出している。何に対しての絶妙なのか。人間の感性に対してである。どんな感性か?何者かに包まれて、くるまれているという平安さを感じ得る人間が本来持つものであろう本能。地形に対する感受性を刺激する谷である。

研ぎ澄まされた感受性は芸術家だけの特権ではない。あらゆる人々の本能とも呼び得るものだ。

「時間の倉庫」は谷の地形と対応させてデザインした。

日本の地形の基本は箱庭的である事だ。列島の微細で多様な地形は無限に近い多様な、受容的感性を産み出し続けてきた。

日本のありとあらゆる地形には、いわゆる広大な涯てしのない無限は即物的には存在しない。

「時間の倉庫」を巡って. その1


十時淡路島の山田脩二さんより電話あり、数日前に酔って電話してきたので東京に居るのかと考えたが、淡路に戻るらしい。少し前に、このサイトで「山田脩二 日本旅」写真集(平凡社)について書いたのが、ようやく淡路島まで辿り着いたらしい。山田さんはコンピューターを使わないので、それを知るのに時間がかかる。

わたしの方もいちいちそんな事は伝えないから、面白い時差が出現する。

谷といっても多種多様である。インナーヒマラヤのカリガンダキ峡谷の如くに数キロメーターの平面的大きさを持つ谷もあれば、グランドキャニオンは1KM程の深さを持つ。それ等と比較すれば「時間の倉庫」が在る谷は、まことに小ささだけが取り得の凹部でしかない。しかし、その小さな凹みの地形が持つのは極めて人間的な尺度の地形との響応関係である。

それは保田與重郎が「日本の橋」で述べた如くの、日本の橋の小さなモノの哀れではない。歴然として異なる。

小さい凹部である事の人間のスケール、正しくは人間が本能的に持つ自然の中に包み込まれようとする嗅覚、知覚である。

つまり、この時間の倉庫がある場所は、建築が建立される以前に、すでに建築が在ったのである。ここで言う建築とは同時に自然そのものであり、自然が内在させる多様極まる尺度の中に立体、すなわち空間を視る人間の本能を示してもいる。

この小さな谷の地形に始源の建築を視た。それは原始人が自然の洞穴の入口近くに生活を営み始めたのと近似する感覚だと考える。

寒さ、暑さから身を守る。獣類から身を守るという即応的な本能とは別系の何者かに包まれて在りたい、ゆだねたいというより、形而上的な知覚により近い感覚が人間には備わっているのだ。

この小さな谷を時の谷と名付けた。

それが設計の始まりである。

「時間の倉庫」を巡って. その2


十一時過、南蛮茶館にて「時間の倉庫を巡って」書く。今日から劇的にではなくズルズルと日記を進化、あるいは退行させようと決めていたので、一生懸命その作業をする。

十三時十五分O君現われる。ひとしきり、烏山寺町の計画、及び世田谷動物病院の計画について熱心に話し合う。十四時半一段落して、O君の家近くの中華料理屋へ、ランチをとる。彼は95才の父親の介護生活をキチンとこなしている。えらいなァ。十六時前了。クラクラする熱気の中を世田谷村に戻る。

十六時過、朝から読み続けている、村上春樹ロングインタビュー、新潮社、考える人の3日間のインタビューの最終日の章を読む。十八時前読了。国際的な大流行作家の創作論である。

二十一時、妹から電話があった。母の具合がおかしいので来いと言う。つっかけをはいて、駅近くのTAXIをつかまえ洗足迄とばす。運転手さんが道に詳しく助かる。TAXIを降りてから、少しばかり迷ったが、やがて妹の家着。母は今、妹の家に厄介になっている。座敷に寝ている母の床にゆく。小さく、細くなっている。母の家に居る時だってそうだったのだけれど、痛々しい。妹がわざわざ電話してくる位だから、やはり異様な変化が母に起きている。母さん来たから大丈夫だぞ、と耳許で大声を出すと、眼を見開くも、その眼は宙を見据えて、焦点を結びはしない。右手を宙に浮かせる。手をにぎるとしっかり、しがみつくように握り返す。その手は充分な力を持っている。1時間程手をにぎっていると、落ち着いたのか眼を閉じて、スヤスヤと寝息を立て始めた。こんなに長い時間人間の手を握っていたのは初体験である。

とんでもない事へ落ち入るのは避けられたと直観した。母はわたしが来るのが遅過ぎると怒っていた。その怒りが顔に現われていて、実に恐い顔をしていたのが、とても平安な顔に変化した。親子だからわかるのではない。人間としてわかる。

妹夫妻に礼を述べ、迎えに来させた長男の車で世田谷村に戻った。車の中では一切の会話はなし。人間は皆こういう生物的宿命の中に、自由ではいられないが、小さくなってしまった母の尊厳だけは守りたい。

父には何もしてやれなかった。二十四時二〇分世田谷村に戻る。

眠る事が出来ず、本を読むが、余りにも書物自体の軽さが馬鹿馬鹿しくて止めた。暗闇の中を見据えながら、それでもいつの間に眠った。生物だな。

288 世田谷村日記 ある種族へ
七月三十日

十二時半清華大院生として送り出した研究室OG来室。1年の語学研修を経て今秋より本科との事。健闘を祈りたい。十三時M0ゼミ。十五時半了。十六時前新大久保ラーメン屋で加藤先生と雑談。十八時烏山駅近くのブティックPAKIで森正洋さんの茶碗を購入し、宗柳のオヤジにゆずる。宗柳の向いに住む近所では有名な毎朝美猫をつれて散歩している男性に紹介される。ドリトル先生動物園倶楽部入会となる。猫共々入金されたい。

十九時過世田谷村に戻り早々と眠った。

七月三十一日

送られてきた新潮社の季刊誌「考える人」村上春樹インタビューを深夜二時から1時間、蚊に刺されながら読んだが、やはりどうにも解らない。何故、自分でもこんなに村上春樹に拒否反応を起すのだろうと、それが我ながら興味深くて注意深く、本人の発言は概して面白くないので、評論その他に眼を通してきた。

この作家の国際的成功はアメリカの出版事情に対する精通と、それにできるだけ単独者として組み入り、泳ぎ切っている事から得られているのではないか、が以前から思っていた事だが、やはり2泊3日のロングインタビューをかじり読みして、その感を深くした。

アーサー・C・クラークがSF大作の数々をセイロン島に住みながらモノしたように、村上はアメリカ出版界に棲みながら、個人的に出版をなしているのである。しかし、どうしてこんなに拒否反応をおこすのかがまだ解らない。

七時過起床。

昨夜、眠り込んだ後は、何人かの人物達から電話があったようだ。淡路島の山田脩二から、ベロベロ電話があったので、ここ数日は逃げ廻らなければならない。

再び、暑さがブリ返してキツイ一日になりそうだ。村上春樹ロングインタビューを再び読む。突然1Q84がバッハの平均律クラヴィーア曲集の形式に習ったという箇所が出てきて驚く。先日の難波先生退職本の座談会で鈴木博之が平均律について話したのを思い出したからだ。今日の夕方、鈴木博之に会うので、その事について聞いてみたい。座談会の最中ではサッパリ解らなかったが、質問するわけにもいかないし。

287 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十九日

十時過研究室。サイトチェック。十時半隈研吾、千葉学両先生、成瀬助教来室。恒例の秋の合同課題の打合わせ。大方の合意を得てすすめる事になる。課題は、駒沢オリンピック記念公園真近の世田谷区の風景遺産である双子の給水塔のある土地に公園と建築小施設群を設計せよ。となる。従来、この課題は早稲田、東大共に共同設計であったが、東大より学生単独で取り組めるようにしたいとの意見があり、わたしも共同設計の良否は痛感していたので、そうしましょうとなった。

全体の公園のマスタープランは共同設計、建築の単体は個人設計とするような方向になりそうだ。

十一時過打合わせ了。別れる。成瀬助教渡辺助教で細部をつめる。

新潮社の疇津さんより、「わたしのドリトル先生」の原稿依頼くる。疇津さんは晶文社で「職人共和国だより、伊豆松崎町の冒険」を担当して下さった方で、わたしの「ドリトル先生動物園倶楽部」に関心を示されたようだ。

十二時十五分M2打合わせ。それぞれと小議論して四五分一応の答えを出す。十三時アンドレ、博士論文打合わせ。十四時半発。地下鉄で曙橋へ。空腹で、ラーメン屋に飛び込み遅い昼食。この辺りはわたしの20代の頃からラーメン屋で有名だった記憶があったので、そうしたかったのでもあろう。これが、後でボデーブローとなった。

十五時半、ドシャ降りの中を彰国社へ。難波和彦さん東大退職記念本の為の座談会に出席。東大伊藤毅先生の司会で、鈴木博之、佐々木睦朗、難波和彦各氏との対談となる。

退職記念本だからといって、必要以上に敬意を表明する事もなく、適度に年令を重ねた者同志の良い座談となったように思う。退職本とは言え、驚く程のエネルギーが込められていて、充実した本になるのではないか。9月下旬には発売となるらしい。

安藤忠雄の東大設計教育への参入、その後任としての難波和彦の就任が、いかなる意志のもとになされたのか、それがどんな歴史観の許でなされたのかが良くわかる内容にもなっている。

十八時前了。雑談に移り、その後、夕食へ。彰国社近くの宮崎料理屋へ。特別な料理が用意されていたようだが、4時間前に喰べてしまった、ラーメンが胃に居座っていて受け付けない。不本意ながら残してしまった。

席の真向いに座った伊藤毅さんの健啖振りに驚くばかりであった。こんな時に自分の年令を痛感するのである。実にこの悲哀こそが歴史なのです。

二十一時過了。もう皆さん満腹でグッタリ、池袋の魔窟ワインBarに行くかという愚者もおらず、別れた。都営地下鉄線で帰る。二十二時半世田谷村に戻る。

難波和彦考をわたしも続けてきたのだが、これからは大人の議論を続けながら、わたしなりの建築作品を作ってゆくつもりである。「時間の倉庫」は難波和彦の連作に別系で立ち上げた作品であるのを実感した。延々と作り続けたいのはヤマヤマだけれど、アア、コレで満足だと言うのも無いのは解ってもいる。歩き続けるしかない。

286 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十八日

「水の神殿」ポンプ小屋のオペレイションを送信して世田谷村を発ち、クラクラする陽の光の中を、京王線西調布へ。Hさんと会い、共に十三時N先生地下。富士ヶ嶺観音堂の隣地にかつてのテーマパーク、ガリヴァー王国があり、今はオーナーは転々として某氏である。広大なゴルフ場も含んでいる。どうやら、その某氏が富士ヶ嶺観音堂のNさんに関心を抱き二人はしばしば会っている。あのテーマパークの廃園をどうしようという話しが売買も交えて進んでいるようだ。

もともと富士ヶ嶺観音堂はあのオウム真理教のサティアン群の跡地に観音堂を建立したいというNさんの意志で建立された。日本現代の凶々しい大事件であったオウム真理教の数々の事件。その跡地にこそ宗教家が取り組むべきだと考えたのである。そして、あの地に観音堂は建立された。土地は天台宗聖徳寺より一角を譲り受けた。Nさんの宗教的エネルギーは巨大でより広大な土地が必要となり始めた。それで、ガリヴァー王国の跡地への着目となったようだ。

この先はどうなるのかは知らぬ。どうにもならぬかも知れぬし、とんでもないことが起きる可能性もないわけではないだろう。わたしも、この行末には関心を持たざるを得ない。テーマパークが廃虚化しての、その先のイマジネーションに関しては、これはハッキリ、とてもリアルな、当り前に考えねばならぬ想像力の問題ではある。今日はここ迄とする。

十九時前、烏山に戻り、そば屋宗柳へ。一人夕食となる。柳川どじょう鍋と五穀米。宗柳のオヤジはドリトル先生動物倶楽部の第一号会員である。総合動物病院つくるからね!と宣言する。宣言たって、オヤジただ一人に対してである。二〇時過夕食了。世田谷村に戻る。ベーシーに電話、菅原の無事を確認する。今は、もう友人の数は数名である。一人減っても人生は辛い、楽しみを尽くす事はできぬ。この間の事は、久し振りに、ただのコラムに記録することにする

285 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十七日

十一時過グラグラする熱気の中、研究室に辿り着く。サイトチェック。内容はつめ込み過ぎたが、マアいいだろう。暑い夏には少々暑苦しくやってみるのも良い。十二時前橋より大工、市根井さん来室。三球四脚2号、3号の打合わせ。別系統の造形も探る。面白い感じになってきた。市根井さんとわたしとのゆき違いもあるが、そのゆき違いも又面白いのだ。サイト画面の編集をしているM2の学生にブリューゲルや水木しげるのアニミズムを参照するように指示。

十三時半GA杉田さん来室。杉田さんは相変わらず高度にむずかしい事を考え、話すので、いささか苦労するが、彼が考えようとしている事は理解したい。

福島の「時間の倉庫」を取材してのインタビューであったので、昨日いささかの準備をしていたのだが、杉田さんは当然建築的焦点にしぼり込んで話しを展開しようとするし、わたしはわたしで「現実と詩」あるいは「企業家の実行の中の夢」のような俗論に引きずりおろそうとするで、そのつな引きの現実がとても愉快であった。現代建築の支持層に関する若干の視界の相違かもしれぬ。十六時半了。

市根井さんの作業を途中で見る。職人さんの技能の水準は随分と高い。院生にそれが感じられるか。技能の中にある論理性を感じられるかな大学院生が。

十七時二十分動物病院の計画を担当のMの仕事をチェック。良くやっている。面白い。この先に突破できるとひと皮むけるのだけれどな。

絶版書房アニミズム紀行5、10冊にドローイングを入れる。良いドローイングが描けた。再び市根井さんの三球四脚をチェック。やはり、全ての作品を細かく視る必要はだいぶん続きそうだな。市根井さんの感じ方と、わたしの感じ方が時に真逆の方向へゆくのを良く知る事ができてとても面白い。

何やかにやで十九時半になる。前橋からわざわざ椅子一脚のために来室してくれた市根井さんと飯を食いたいと考えて、新宿南口の味王へ。市根井さんはここは初めての事で、舌づつみを打って下さった。良かった。二十一時半了。

三球四脚作りの方は軌道に乗ってきたが、わたしの責任の販売に力を入れなくてはならなくなった。7万7千円の商品であるが、30脚程を作り並べて売りさばきたいものだ。一品一品全て歴然として異なるオリジナルでもあり、本日ようやく複数のオリジナルを並べてみて、その個々の価値を思い知った。

市根井さんには、わたしの母の家の6畳の部屋を家具として製作していただく心積りでもあり、出来得れば道具としての部屋の、歴史的には初めての製作者になっていただくつもりでもある。

二十二時過世田谷村に戻る。白足袋に食を与えて休む。

七月二十八日

五時半起床。六時半東大の伊藤先生より、明日夕刻の難波和彦先生東大退職本のための座談をやるので、鈴木、佐々木、難波各氏の書いた論考はキチンと読んでおくようにとのメールが入ったので、トホホと思いつつ、しかし仕方ないなという事で、部厚いゲラを読み通す。各先生、力作で読み始めたら面白く、十時までかかって、やっつけた。勉強させられます。明日の夕方は余程上味なものを喰わせていただきたい。

十時過昨日のGA杉田さんの言ってた事で、まだわからない事があるので電話してみる。言わんとしている事が少しわかるが、わたしの言葉は直して理解する必要があるな。杉田さんはいつもあんな事考えてメシ喰ったりしてるんだろうか、インタビューじゃなくてクリティークしたら良いじゃないかと思う。

284 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十六日

十二時半、京王稲田堤、さくら保育園+なしのはな乳児院、現場定例会議。今日は全体会議で理事長以下多くの方々が参加。馬淵建設スタッフも猛暑の中やっている。大型重機が入ったサイトに立つとクラクラする程に暑い。十六時過了。十六時半駅近くで小休。作業所長と動物の話し。彼は猫を二匹飼っている。十九時前別れる。

世田谷村にてそうめんとコロッケの夕食。このそうめんは朝自分で湯がいて作り水を切って冷やしておいたもの。

七月二十七日

七時前、起床。朝の風は冷涼で、それだけで気持良い。三階の北の開け放った天窓から、二本屋上菜園のツタが侵入して、1.5M程垂れ下っている。切るにしのびず当分放っておくつもりです。

八時レトルトのインドカレーを飯にかけて朝食。

世田谷村の猫、白足袋の夏。

今年のような酷暑の世田谷村、白足袋は初体験である。涼を求めて少しでも涼しい場所を求めてウロつく毎日だ。変形螺旋階段の踊り場にはアルミ板と大理石の場所があって、そこにデレーンと身体を精一杯のばして横たわるか、南に開け放った大開口部のヘリの床にねそべるかの大方二通りである。うっすら閉じた眼をのぞき込むに、明らかに何も考えていない。

南の床の端に横たわる時には、時に遠くの景色を眺めている風がある。猫の眼に何がどう写っているのかは知らぬ。セミや鳥の影を追う姿から、恐らくはほぼ人間が視ているモノと近いモノ、形を視ているのだろう。

その眼をこっそり観察するに、やはり何かを考えているとは思えない。はなればなれになった兄弟や母猫を想っているなんて事はない。ただ、白足袋は紙袋、ビニール袋の類にもぐり込むのが異常に好きだ。もぐり込んだ袋をブラ下げて室内を歩いてやると、心なしかウットリとした目付きさえする。ビニール袋に五匹一緒くたにされて捨てられていたのが、彼の歴史のはじまりだから、その原風景へのノスタルジィーがあるのだろうか。まさかそんな事はあるまい。その猫の眼の光り、形にはそんな変な観念らしきを一切感じる事はできない。しかし、ひとりで、一匹でいると寂しい、チョッと物足りないという感じ方はしているのだろう。夜中に、ミャーミャーと叫び立てることがあって、「白足袋、大丈夫だぞ」と階上から声をかけると、叫ぶのを止めるのを見ると、マア一匹ではない事には安心するという気持はあるのだろう。

そんな時には、わたしも少しは役に立っていると思うのである。

「タビ!メシ食うか?」と叫んでも姿を現さぬところをみると恐らく腹一杯でどこか涼しいところにもぐり込んでいるのであろう。

十時過発研究室へ。

283 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十四日

八時四〇分京王線車内で、夏のプロジェクト・アイテムを作成、本日より九月一杯のアイテムである。真夏の電車には子供と老人の姿が多くて良い。これが人間本来の生活の姿なのだろう。通勤通学の大量輸送は極端な事を言えば収容所への列車に酷似している。

九時半小会議室、計画系研究室の院入試の規準について芸術系の教師陣で討議する。十時大学院入試面接。計画系研究室は大変多くの入試者を迎えた。それぞれの研究室の考え方で院生の数は決められるが、石山研は今年の入試での合格は一名とした。しかし学外より、良い人材を得たように思う。学内よりの推薦者7名を含めて、2011年は8名のメンバーとなる。わたしにとっては適正規模である。

十二時半、各系研究室と合同で合否判定会議。十四時半了。すぐに研究室合同ゼミ。M0、M1、M2合同のゼミナールである。昨日から今朝にかけて熟慮した研究・プロジェクト6項目を披露して、各自の自主的参加をそくす。

今日は、3項目程の参加者を決定した。ゆっくりでも素速くやりたい。十六時半了。学生2名とスタッフ3名で新宿南口味王へ。早い夕食をとりながら歓談する。時々こんな機会は必要だろう。十九時頃超満員の店を去る。皆と別れて二十時前世田谷村に戻る。

ゼミの成果を踏まえて、制作ノートに記す。このノートを介してオペレイションのなにがしかはなされることになる。

二十二時三十分了。いささか疲れて小休する。

七月二十五日

九時前まで眠ってしまった。研究室一期生柳本さんより便りをいただく。ドリトル先生動物園倶楽部への感想が書かれている。彼は建設会社経営のかたわら、意を決してタイガースショップなる恐らくは阪神タイガース関係のグッズというのか、関連商品を販売する店を何店も展開している。その男からの便りなので意外であったが楽しかった。恐らく彼はどこかでピーンと来て、彼のビジネスに役立つのではと考えたにちがいない。それでも良い。早速ドリトル先生倶楽部会長として返信をしたためた。

十三時前、南烏山児童公園近くの中華料理屋で、烏山周辺町づくり協議会、小川佳郎運営委員と会う。暑気払いである。小川さんはゲーム機器に精通しているプロなので、一週間程前から考えていた、品川宿まちづくり協議会、会長堀江新三さんとの会談を企てた。

堀江新三さんは品川宿、つまり汐留の国鉄所有地払下げによる中曽根内閣の第一期バブル誘発計画の、その足許の陰とも考えられる土地、すなわち品川宿の、まちづくりを一生懸命考えている人物である。こういう一生懸命な人は当然常軌を逸するきらいがあり、わたしにどうしても、品川宿で賭場をやりたい。その計画を頼むと言ってきた人である。

しかし、わたしとしては歴然とした違法は犯せない。ドストエフスキーの如くに地下生活者の記なんてのを残して人生を終るのはイヤだ。それで、ヴァーチャルな、ゲームとしての賭場は出来ない等とバカな事も考えてきたのだが、突きつめて考えるに、任天堂、バンダイ等のゲーム器機と旧来のパチンコ、スロットマシーンの世界をミックスしたフィールドを考えれば良いと考えるに至った。それで、リアルなビジネスを祥知した小川さんに相談して、堀江新三のバカな夢の一部をかなえさせてあげたいと考えたのだ。

世田谷区ではとても無理だけれど、その歴史と伝統のある品川宿であれば何かバーチャル賭場実現の可能性はあるに違いないのである。

どんなヴァーチャリティーかと言うならば、例えば山猫に賭場劇場を開催させるとか、ワールドフットボールアフリカ大会で何処かのタコがゲームの勝敗を予測したような事を、ゲームとしてリアルにできないかというような、我ながら記していてさえ呆然とするようなバカなアイデアなのである。

十四時半了。世田谷村に戻り、堀江新三と小川佳郎会合のアレンジをする。本当!バカだネエ。しかし、別のリアルな計画の糸口はつかんだ。

七月二十六日

今、世田谷村の開口部はほとんど全開である。それ故、室内には実に良く風が通る。少しの風があれば、熱帯夜でも過せるのである。これで建築全体に水循環のシステムを導入できれば良いのだが、小さなソーラーバッテリーで廻せるポンプが欲しい。母の家にも装着したいのでリサーチさせているのだけれど、リサーチ自体が甘いのだ。川合健二の家に積層していた世界中のカタログの光景を思い出す。

今はコンピューターで素人でも情報は取れるのだが、取れぬところに情報の宝石が埋っている。

明日、GAのインタビューがあるので準備する。建築雑誌の取材は久し振りだし、わたしも作品らしきをペーパーメディアに発表するのは久し振りである。2006年のひろしまハウス(GA)以来ではないか。

来年の3月にドイツ、ワイマールのバウハウス大学ギャラリーで独日通商150周年を記念したわたしの展覧会が開催される。これには力を入れようと思っている。

その展覧会のテーマを話したいと考えている。時間の倉庫、水の神殿から2011年へと話しができれば思う。小さなインタビューだが、未来に向けてしゃべるので、9月のGAは読んでいただきたい。

282 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十三日

千歳鳥山駅近くで、駅周辺町づくり協議会会長とバッタリ会い、立ち話し。駅迄歩くのに気を遣う必要が出てきたな。あるいは、これ迄が無防備であり過ぎたか。世田谷村からS駅迄の何百メーターの内に、幾つかのコミュニティーらしきが存在するのを体感する。町内会も含めて。京王線車中は冷房がきき過ぎていて、歩いた汗がアッという間に気化する。冷房ミイラになるなこれでは。

十時半研究室、サイトチェック。「水の家」のページに仰天する。やっぱり顔をつき合わせて伝達したり、応答しないとうまくないのを実感する。ゴソゴソ様々な相談やら打合わせが続く。M0の相談で遂に、わたしは諸行無常の武田泰淳状態に落ち入ってしまう。これを大学教師の義務というのなら、その義務の水準設定は明らかに間違っている。この発言はどうやら、わたしの方に非がある。でも、どうにもならぬ事ってのはあるのだ。

十六時、コーリヤ料理店で、スタッフの労をねぎらう。十七時半了。十八時世田谷村に戻る。

七月二十四日

七時過目覚める。今日も猛暑日だそうだ。昨日、今夏の研究室での研究アイテムを絞り込んでみた。午後にM2及びM0有志と小ミーティングして、それぞれに割り振りたい。大きな方針つまり方向性は変えないけれど、ディテールを少しばかり工夫した。神は細部に宿ります。

八時半世田谷村発大学へ。チョッとした先生方との相談と、院入試面接がある。

281 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十二日

六時半起床。すでに暑いが、昨日よりは少しばかり風がある。世田谷村は御近所でも珍しく、洗濯物が満艦飾で、まるでピカソの洗濯船のようだ。その洗濯物のゆらぎと梅の木の葉が揺れるのでそれが知れる。

ドリトル先生動物園倶楽部へのおさそい。文案を作成する。八時半了。

川合花子さん(川合健二の奥様)より電話あり、現在、骨折で入院中との事、ともかく無事で良かった。

十一時世田谷文学館、生田学芸部長にお目にかかる。ドリトル先生動物園倶楽部について相談。十一時四十分了。外に出るとグラリとするような暑気である。十二時過新宿にて雑用の後、新大久保ガード下ラーメン屋にて、研究室の者と少しの打合わせを。母の家のプロジェクト他が上手く伝わっていないのに驚く。十五時了。市ヶ谷へ移動して雑用十七時半了。

今日はドリトル先生動物園倶楽部が実質的にスタートした事が収穫であった。次のステップ、その次のステップの道筋をデザインしている。

七月二十三日

6時半起床。昨日少しばかり雨が降って、早朝の大気は昨日よりはチョッピリましか。 8時40分、雑用をすませる。9時半発ち、研究室へ。途中、ドリトル先生動物園倶楽部への入会希望者への返信を10通ポストに託す。こういう事には皆さん関心があるようで、不思議と言えば不思議である。まだ世の中、それ程捨てたものではないのかも知れない。

280 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十一日

早速、世田谷文学館と連絡。我ながらイトオカシの人である。ドリトル先生倶楽部なんて馬鹿な考えに耳を傾けよと言う私の方がおかしいのである。その事は肝に銘じて動く必要がある。しかしながら、困難そうだからこそ、やってみる価値もある。研究室に、日本の動物愛護協会、団体を全てリストアップしてくれと頼む。でき得れば、わたしのところから近いところに、そんな拠点らしきがあるのが望ましいのだが。猛暑である、汗水たらして歩くのは辛い。

送られてきたリストをもとに、幾つかの団体に連絡して賛同を得る。

十二時半京王稲田堤、さくら乳児院・なしのはな保育園複合建築現場。定例会、なにしろ暑い。十四時半了。渡辺くんと千歳烏山へ。昼食をとりながら相談。世田谷文学館、I氏に連絡、明日十一時にドリトル先生倶楽部の件で面会となる。十五時半渡辺くんと別れて、千歳鳥山南公園を見学、他。

十六時過流石に疲れて一服する。日中あんまり動き廻るものではない。暑い!早急に、出来得れば世田谷在住のドリトル先生倶楽部メンバーを組織しなければならぬ。先ず、50名目標とする。世田谷区以外のメンバーも50名目標で集めたい。

<ドリトル先生動物園倶楽部>

とり敢えずの本部は、〒157 . 東京都世田谷区南鳥山2-16-4 世田谷村地下実験工房

とり敢えずの代表者は、石山修武、彼の種族は凡庸極まる人間である。

参加資格.

1.動物に関心がある人。犬や猫、カラス、亀、メダカ、キリン等を飼っている人が望ましいが、彼等を最低限いじめたりしていない人。要するに、一切の資格は不要である。

2.東京都世田谷区に在住の方が望ましいが、別にそれは大した条件ではなく、地球外生物でなければ良い。地球外生物の自覚がある人は申し出る事。その場合入会金が100円増しとなる。

3.会費を年会費1000円払ってくれる人。例えば3才5才の年少者で収入のない人間であれば、保護者がそれに代る事もできる。保護者がワニであっても良ろしい。

4.国籍、人種他一切不問であるが、できれば人間である事が望ましい。猫犬虫金魚の類が入会希望の場合は、人間語らしきを話す者を代理にたてる事も可である。

その他諸々、会則他を考案中であるが、とり敢えずはドリトル先生の動物園倶楽部入会金1000円を本部に送金して下されば、どなたでも入会は可である。

会員は、年4回、夏、秋、冬、春の会誌、「ドリトル先生動物園日誌」を受け取る事ができる。

本会との連絡方法は全て、葉書き、手紙に限る。電話、FAX、メール等は一切不可。何故なら事務局員は猫であり(※1)、猫の手は電話、コンピューターを操作するに適していないからである。

しかし、必ず返信はなされるであろう。七月二十二日より受付を開始する。

※1.事務局主任の猫の名は白足袋、雑種である。焼却炉行きの前日に引き取られ、兄弟4匹は全てガス焼却炉行きとなった。人間世界から考えれば悲劇としか言いようがないが、本人あるいは本猫はそんな事には関心がない模様である。まことに赤裸々な唯物論的諸行無常としか言い様がない。

279 世田谷村日記 ある種族へ
七月二〇日

十時烏山駅前までくると、5〜6名のオバさんが固まって地面にうづくまっている。何かが倒れたのかと思い、のぞき込むと黒い洋服のおばさんが倒れていた。

朝から熱中症か。花屋のオヤジが水持ってきたりしている。わたしも心配でウロウロしたが、年を召したオバさん達がこれ程集っているのだから、すでに救急車の手配はしているのだろうと、考えて、去った。京王線に乗って車中より駅前を見れば、まだ救急車は来ていない。急にひどい自責の念が襲ってくる。「救急車呼びましたか?」の声くらい掛けなくてはならなかった。

これで今夕のNEWSで熱中症の死亡、世田谷烏山でとなったら、一生くやむな。人生はこんな事のくり返しである。

十一時過研究室、一息入れる間もなく学部2年前期最終講義。十二時半了。前期講義のまとめをした。十三時加藤先生来室。演習G「保存と再生」のこれからについて話す。きちんと7月7日の鈴木博之先生の講義を活字化して下さった。

十四時M2ゼミ。「母の家始末記」の展開について。十五時遊学社、遠藤代表、南雲氏来室、インタビュー。十六時過了。アンドレ相談、再び「母の家始末記」の展開打合わせ。「水の家」計画進行の話しと、仮にする事を決める。良い計画にしたい。十七時半過研究室発。猛暑の夕を新大久保駅迄歩く。

十八時半烏山ダイヤ会館2F会議室にて町づくり協議会。人数も少なく低調な会であった。猫犬の介在による高齢者向け町づくりを提案。賛同者もあり、引き続き検討の方向となる。しかし、発言すればする程に我ながらの違和感があり、ここでこのような面白い事をすすめられるのか?の正しい直観が生まれる。このおかしみらしきは健全な協議会の方々には到底理解されぬであろう。マ、それを承知で敢えて強引に発言しているのだけれど。

二〇時次の会合があるとの事で修了。今日は何しろ暑苦しい一日であった。

朝に駅前で倒れていた黒いスーツの女性は、救急車で運ばれたと、町づくり協議会の連中に聞いて、とり敢えずはホッとする。

七月二十一日

考えた末、猫犬と老人達の触れ合い等については、わたしは世田谷文学館に相談してみようと決めた。これは恐らく文学の領域に属するであろう。ユーモアを解さぬ人々と話し合っても仕方の無い事なのだ。江戸時代綱吉将軍のお犬様、生類あわれみの令みたいな事にもなりかねぬ。町づくり協議会では小川氏に全てをゆだねた方が賢明である。

突然「ドリトル先生倶楽部」をやろうと思い付いたのでした。ロフティングの名作、井伏鱒二の名訳。井伏鱒二の訳というのが良いのである。

井伏さんの長男は高校時代の同級生だし、これは唐突であった。

出来れば世田谷文学館を集合場所にさせていただいて、ドリトル先生の動物園をバーチャルに実現してゆこうとするモノである。

わたしはドリトル先生の如くに動物語を話し、聞く事ができぬが、動物を本当に好きな方々は、恐らく会話しているに違いない。特に孤独極れりの老人達は。で、ドリトル先生倶楽部である。少し考えて、すぐ実行にかかろう。コレは面白そうだ。世田谷の住民でなくても、これはできそうだ。

母の家始末記について少しだけ書く

278 世田谷村日記 ある種族へ
七月十九日

十時発、カンカン照りで歩くに気持よし。十一時大学二階第四会議室にて院入試設計製図採点。介護休暇をとっている先生の研究室のものは、入江、古谷、石山で採点する。昨日その相談は沖縄で介護に専念されている先生と相談した。しかしながら、病気、高齢化の問題は大学にも押し寄せてるのを実感する。

採点後、絶版書房アニミズム紀行6草稿に手を入れる。弁当を食しながら、先生方と計画系の将来の事等話し合う、十三時半迄。研究室でサイトチェック他。十四時、M2学生二名に声を掛けて昼食へ。わたしはすでに昼食はすましていたのだが、休みの日に研究室に出ている二人を見てツイ声を掛けた。わたしの弱点である。新大久保駅前近江屋で、彼等が食するのを眺める。大体この頃から今の院生というのは元気がなくなるものなのだ。

しかし、院生なりの悩みは大いにあるのであろう。十五時半了。明日より、M2モビリティ・ゼミを開く事を彼等に告げる。

夏休みは、研究に絶好の時なのである。聞けば、やはり昨日、梅雨は明けたそうだ。大気の湿度がまるで異る。昨夜、小津安二郎の本を読んだが、小津安二郎の映画の晴天、そして夏の熱気に対する素朴極る印象が述べられていたのを思い出した。蓮見重彦の映像論はどうも世界が異るようだ。

十七時烏山南口南蛮茶房にてO、H両氏と会う。烏山周辺まちづくり協議会愛玩動物と老人・子供によるまちづくりを提案する部会の会合。明日の会議への予備会です。大真面目に話し合う。十九時三〇分了。

七月二〇日

六時前起床。今日も猛暑になりそうだ。南の梅の樹の葉がピクリとも動かぬ。夏負けはしない方なのだが、36℃が連日続いたらこたえるだろう。坊さんは黒づくめで大変だろうと考えて、我孫子真栄寺に電話してみた。昭道和尚はギリギリで大丈夫だとの事。わたしもそうだと応えて切る。

わたしの友人には難しいのが少なくない。気楽に身体どうだと聞く時は、少々こちらも、少しばかり負荷が大き過ぎる時で、ささいな事で電話などすればかえって心配をかける事になってしまう。

その点、坊さんの友人は大変な事、すなわち人間の死には慣れっこになっているのでそのデリカシーには著しく欠ける。宗教家の美点であろう。

そんなわけで最近は何の用もないのに電話するのは昭道和尚だけになってきてしまったのである。哲学的帰結である。

現代では宗教家が最も非宗教的存在であるというアイロニーが日常化しているのである。

十時過、カーンとした陽光の中をテクテク、発つ。モヘンジョダロは草ボーボーのまさに日本的廃墟である。カラスもいない。鳥もいない。高温の中を飛ぶのはエネルギーロスが大きいからだ。ジェット機と同じである。いずれ成層圏まで上れるカラスが出現するやも知れぬ。あるいは、もういるのかな。

277 世田谷村日記 ある種族へ
七月十六日

十時半研究室。サイトチェック。四十五分院レクチャー、四月よりの講義のまとめ。随分色んな事を話したな。来年は少し変えてみたいなと考える。聴講者の空気もそれには関係がある。十二時了。研究室に戻ると、渋井修さんが一才少しの子供さん、というより赤子だな、を連れて来室されていた。元カンボジア・ウナロム寺院の僧侶であった。赤子はヨチヨチ歩きでカンボジア人の奥さんとの間に生まれた。可愛らしいが、なかなか将来は大変なのかもしれぬ。

渋井さんはカンボジアに25年暮し、ある日鏡をのぞいて、この男は誰だと仰天した瞬間があると、かつて聞いた。還俗して結婚し、その事で色々な風評が立ったりもした。

でも、こうやって次世代の赤子を見ていると、メコン河の流れの如くに時代の不可逆性を思うばかりである。第三者から見れば劇的な人生なのだろうが、渋井さん当人にしてみれば、ゆく川は戻らず、百代の過客というのみであろう。

博士課程W君相談。M0ゼミ、学生それぞれの研究テーマが絞られて来ている。

十五時DOCOMOMOの方々来室。秋に幻庵見学会と小レクチャーをする事になった。きちんと対応したい。十六時半発。

十七時半厳しい暑気の中を芦花公園から数分の世田谷文学館へ。「みんなのサザエさん」展オープニングレセプションにかけつける。世田谷村のお隣りさんである。実に良いお隣さん、と言っても2、3分はあるくか。を持ったモノだ。素晴らしい展覧会であった。

今日の石山研ゼミで学生の一人がブロンディとサザエさんの資料を提出していて興味を持った。彼女はアメリカ文明、そして文化がいかに日本に浸透しているかの研究を進めようとしている。わたしは君自身を研究の素材にしたら良いのではと、かなりキツい事を言っているのだが、面白い事に彼女はわたしのキツいアドヴァイスをそれ程気にする事も無い。あるいはそう演技しているのかもしれない。それはわからない。そんな事もあり、展示は冒頭の長谷川町子さんの歴史から非常に面白かった。サザエさんはブロンディの影響があったのだろうか。同じ4コマ漫画だし、1949年と1951年の生誕だから、間違いなくその空気は酷似している。

長谷川町子さんは九州出身でその歴史をたどると、わたしでさえ知る福岡、博多の地名が出てきていて何故か懐かしい。サザエ、カツオ、ワカメという登場人物の海産物名は福岡の百道の市場での実体験から生まれたものらしい。長谷川町子さんは当時食べるのに自分の菜園を持ち、それを百道の市場に並べていたらしいのだ。そこで海の幸と交換なんかもしたのだろう。

「まめ丹」というわたしの大好きな小料理が福岡の春吉橋近くにあって、長谷川さんはその近くの小学校で学んだ。等々、実に興味深い事を知る。余りに面白いので、文学館の人に頼んで、この長谷川町子の歴史を送っていただく事にした。お隣なので図々しいのである。わたしとしてはこんなに図々しい事をお願いする性格では本来ないのだけれど、実にいじましい位に謙虚で小心者なのだけれど、その小心さを打ち破る位に面白かったのである。

展示室の一角にしつらえられたサザエさん一家の舞台である茶ノ間は圧巻である。わたしの母の家と同じの六畳で、わたし秘蔵の古い折りたたみ式のチャブ台が主役。これは書き出したらキリが無さそうなので明日、又、書く事にしたい。

これはXゼミナールで進行中の1950年代の日本近代建築考察ともダブりそうで、鈴木博之、難波和彦両先生にも是非一度見ていただきたいものである。

サザエさん→寺内貫太郎一家、すなわち長谷川町子、向田邦子そして、寅さんの柴又の部屋というのは考えるに値するのである。そういえば、世田谷文学館の向田邦子展も良かった。向田さんは名人であったから、サザエさんより暗かった。

十八時過ぎ1階ホールでレセプション。図々しく出席。誰も顔見知りの人は居ない。館長、区長、議会長、商店街の方等のあいさつ。会場のすみでひっそりしていたら、その姿があまりにも哀愁に満ちていたのだろう、学芸部長さんが見かねて、館長さんに紹介して下さった。館長は高名な批評家であり、恐れ多い。おいしい料理も供されて、こんなことであれば毎回レセブションには出席したいと考えた。

七月十七日

六時半起床。地下に降りて冷気の中、メモを記す。

近代の知識人が妄想する大衆、民衆は普遍としては存在しない。柳田國男、宮本常一の常民はかなりリアリティーがあったが、2010年には消えている。身近に引き寄せて考えれば、例えば山田脩二、日本旅の写真群中、あるいは中里和人の小屋の肖像中にはそれらしきが記録されている。二川幸夫の日本の民家には美学として記録されてもいる。

現在では映像の中にしかそれはリアリティーを持たないのではないか。

ブロンディの舞台であるアメリカ住宅風景とサザエさんの住宅風景と何が同じで、何がちがうか。

昨日、文学館で見たリアカーの上に乗っていた氷、恐らくは冷蔵庫用の氷。汗水垂らして氷屋が運んでいた氷、アレに代わってわたし達は電気冷蔵庫を得た。そして、台所が次第に消えて、ファミレスが取って代わった。要するに近代の普遍である。

サザエさんの茶の間のちゃぶ台、折りたたみ式のちゃぶ台のデザインにはアニミズムが在る。折りたたみ式であることによって、それはモビリティーを所有して、それ故にいわゆるダイニングテーブルのデザインを実は超えていた。 アレは考えるに値するな。

七月十八日

昼過ぎ再び世田谷文学館へ。「みんなのサザエさん」展をみる。展示物の何点かをスケッチする。Xゼミナールの第二室に開校しても良いな、サザエさんの部屋は。1950年代の人々が呼吸していた空気を体現し得ている。

1951年四月に朝日新聞朝刊「サザエさん」の4コマ漫画が連載開始されるのだが、(1974年まで)その連載は漫画「ブロンディ」のかわり、つまり引き継ぎであったようだ。

サザエさんは米国製ブロンディの日本的継承、日本的代替でもあった。

米国民主主義→日本風(型ではない)民主主義への中継物であったのだろう。山田脩二の日本旅や中里和人の小屋の肖像も又、その性格を色濃く所有するものだ。と、日曜日なので少々の飛躍を。

文学館の行き帰りに眺めた空と雲はカラリとデッカク、真夏の到来を告げている。

276 世田谷村日記 ある種族へ
七月十五日

ワイマールのカイ・ベックより連絡あり。バウハウスでの展覧会を来月の1月からとしたとの事。独日友好150周年なのだそうだ来年は。ツィンマーマン学長も来年4月に退官するので、その節目にしたいとの事。そういう事ならヤル気を起そうかと重い腰を上げる。半年弱あれば新しいプロジェクトもおこせるし、バウハウス建築大学の展示会なので、ハッキリとした形式を持たせたいのはヤマヤマである。

十三時前松陰神社前の現場に来るも、職人さん達皆午眠の最中である。起すにしのびず、独人WORK。ひとりでやらねばならぬ事は山程ある。十四時現場を去り、下高井戸にて雑用。十五時半了。少し時間が空いたので、コーヒーショップでXゼミナール、3便を書く。そろそろ鈴木、難波両先生の論がなければゼミにならないな。十六時四〇分了。もう一件、雑用をこなして、世田谷村に戻る予定。

夜には研究室より、母の家の図面が一部送附されてくる予定である。これで難波さんの箱の家に対抗するつもりなのだから、頑張らなくてはならない。

わたしの家はエネルギーの神仏的循環と、日本固有のモバイルを備えているから、強い筈だ。世田谷村は大き過ぎて、多くの人にはわかりにくかっただろう。日本人は小さなモノを愛好するから。

七月十六日

五時起床。昭和 45 年に発刊された三島由紀夫文学論集講談社、を読みふける。「裸体と衣裳」と題された日記を面白く読んだ。

三島が新婚旅行の途次に九州で夜明けという駅の名前に心引かれたとあるのを懐かしく読んだ。

普通の人だったんだと思う。わたしも友達とこの駅に降り立ち、同様にオヤオヤと考え、記念写真まで得ているからだ。

この一行で三島が急に身近な人間の如くになってしまう。あの三島がね、夜明けの駅の名にフーッと心ひかれる、そんな平凡な感性をキチンと持っていたのか。

切腹もせずに六〇代半端を迎えて、じくじたる思いもあるけれど、マ、仕方ないやと安心するのである。

わたしと三島の共通項は、日記を書き残している事と夜明けの駅名に心ひかれたと二つだけなのである。しかし、三島の日記と比較するとわたしのこのメモは惨たんたるばかりである。しかし、三島が言う観念はもっとも猥雑なモノであるとの批評がその日記中にあり、その点は同意するな。油断しているとこんなメモの中にもづかづかと観念らしきが入り込んでくる。それは詰まらぬ功名心、見栄といった俗物根性の尖兵である事が多い。

九時半発、研究室へ。

275 世田谷村日記 ある種族へ
七月十四日

九時四〇分、さくら乳児園・なしのはな保育園建設現場。馬淵建設のスタッフ、及び石山研で建築位置出し確認作業。園庭が図面で想像していた以上に狭少だ。何度、縄張りに立会っても設計図面で想定していたスケールと、現実の建築物のスケール感がピタリと完全に一致した事は無い。この建築はギリギリの土地面積と、現実社会からの要求規模が衝突して、何とか納め切った計画案であり、現実社会の要求がはるかに建築の理想を上回ったものでもある。都市内に建つ建築の宿命である。しかし、都市内の建築は内部に自然の状態を作り込む事が必須となる。全力を尽くしたのだから天命を待つのみである。

十時半、わたしは気掛かりであったポイントを全部チェックし終えて、まだ作業を続ける皆を残して去る。

十一時半千歳烏山。南口で烏山周辺まちづくり協議会運営委員、O氏に会う。宗柳へ。柳川をつつきながら、相談。二〇日の協議会での準備会の如くになった。

宗柳には、周辺地域の我々よりズーッとかしこいオバさん達も集っており、この先の恊働の声を掛け合う。まちづくりは、女性主導が良いのだ。男は格好ばかりつけて駄目です。十三時半了。世田谷村地下室に戻り、少し計りのWORK。ではあるが、収穫はあった。十五時半発。雑用を少し計り。

十九時半再び世田谷村に戻る。色々と考えがまとまらず、例によって乱読。新旧分野を問わず、我ながら無茶である。

1962年 現代思潮社「擬制の終焉」吉本隆明

2008年 みすず書房「若林奮 犬になった彫刻家」酒井忠康

1976年 河出書房新社、文芸読本「中原中也」

いずれも、もう何度も読んでいる本だが、今日の組合わせは以上の如くになった。自分の考え方の基盤に不安を覚えているのだろう。でも、今更変えるわけにはゆかぬので、結局は自分が一番気持ちの良い場所は何処なのだろう問う事になる。

吉本隆明の言説を読み、その展開過程を知るにつけ、どうもわたしにはこの手の頭の資質は無いなと知る。柄谷行人も全てでは無いが読むに、この種族は結局視覚芸術らしきに全く関心がない。あるいは意図的に避けているらしきを知る。

酒井忠康の言説は彼等と比較すれば親近性を感じる。しかし酒井忠康は美術批評の分野では、むしろ文学と美術との結節点、あるいはラインを探る人として知られている。わたしは現代詩を避けるし、詩人はまっぴら御免だと思う野蛮人である。若林奮も中途半端な言語への関心を作品群に貼付けて随分損したきらいがある。言語(言説)は音楽と共にわたしには向かない。といいつつ、こういうメモを記しているのだから世話ないけれど、これは個人の快楽なのだから、良く生きる為なのだから仕方ない。言語に厳密さを要求して極めたら、朝のおはようも言えなくなる。

画家の熊谷守一だって、もうほっといてくれ、生かしてくれ、画を描きたいと言ったらしいではないか。

吉本隆明は詩人でもあるから、その詩はどうなのかと言えば、全くわたしにはわからない。大体、わたしはアルチュール・ランボーの詩も、ボードレールもララルメもフランス象徴派の何が良いのかの匂いさえも嗅ぐ事が出来ない。詩は俗謡が一番好き。北原白秋やら、中原中也は中島みゆきらしきなのだろうな。Iポッドとやらで、中島みゆきを聞く友人も居て、あれもそういう事なのかと疑った事もあったが、まだ良くわからない。

中原中也は幻庵主の榎本基純さんが好きだったのを記憶している。だから親近感を持たぬでもないが、小林秀雄の「中原中也の思い出」の中の中原中也は良くわかる。まるかじりでわかる。詩人は良い批評家歴史家を介して付き合うに限るだろう。

文学者、そんな者がいるのは知らぬが、それ以外の普通の人間にはこの小文だけで充分であろう。それで、取り敢えずの結論は、と言えば、何しろ時々切断しないと生きるに不便なのだ。生きるに無限は無い。又、やはり自分は視覚を頼りにするしかないけれど、科学趣味、文学趣味も、あんまり卑下する事なく、しかし謙虚に生かしてゆくしかないとの結論となる。科学は川合健二、文学は歴史家を介して、つまり、歴史を深く楽しみ尽くす能力を育てるしかない。

歴史は思弁的な考究で接するだけのモノではない。その領土は歴史家、批評家の王国だから、遠望すれば良い。

ブツ、モノ、物体を介して歴史を考え続ければ、それで良いのだ。

であるから、わたしの雑記帖である諸メモ(この日記も)も次第にモノを仲介にして記すようにしてゆきたい。

七月十五日

早朝地下室へ、メモを記す。九時過頃2階にあがり小休。朝食後発。今日も雑用に暮れる。仕事は雑用の山に登ることだ。

274 世田谷村日記 ある種族へ
七月十三日

十時過研究室。サイトチェック。日記のコードナンバーは273迄すすんでいるが、272が読者に読まれているのか知らぬ。わたしの日記は週末にはブランクがあるから。十時四〇分学部レクチャー、世田谷村について。今日が住居論講義の、とりあえずはまとめなので自分の家について話しをした。これは、当然の事であるだろう。個人住宅の基本である持家制度らしきに意識的に背を向けている建築家は磯崎新しか知らないし、それは充分に説得力を持つが、わたしはとりあえず持ってしまったからな。十二時過了。スケジュール調整。十三時過ブラジルのアンドレ打合わせ。わたしの英語能力不足もあり、少し研究の速力が遅い。ツーレイトじゃ会話にならぬのだが、近いものがある。努力したい。

製図室改良計画打合わせ後、えいとばかりに中里和人さんより頼まれた市川での展覧会用の小文を書く。メモを記し続けているお蔭様でアッという間に3枚を書く。わたしは書き始める前には何を書くのかは全て視えていない。書き始めると、視えてくる。座頭市みたいなものだ。予定らしきをしていたのと全く異なる仕上がりになった。

山田脩二、中里和人、藤塚光政と写真家と知り合い、人それぞれの径を歩いている。建築家達よりもその違いは明快で興味深い。二川幸夫さんがわたしの近作二つの撮影をして下さる。歳をとっても緊張する。メディアに緊張するのではない。二川幸夫の眼に緊張するのだ。キツい事も言う人だけど良い建築に対する渇望は巨大な人だ。

十七時半新大久保のガード下ラーメン屋でスタッフとレバニラいため、ギョーザ他の会食。こういうのを会食っていうのかな。アニミズム紀行5の売行き他を聞く。十八時過了。十九時過世田谷村に戻る。

ここのところアニミズム紀行6の途中迄の草稿を持ち歩いているのだが、60枚全部捨ててやろうかと考え初めている。アニミズム紀行5の続きの体をどうもなしていないような気がしている。自信の無いモノをわざわざ出す事はないだろう。

七月十四日

四時に起きて、仕方ないので本を読んで又眠ったなんて事は書いても仕方ないのであるが、それをつめていくと何も書く事が失くなってしまうのである。新聞を開いたら、サグラダファミリアの外尾悦郎さんが一面広告に出現していて、オーッと思った。ガウディの仕事を継承するにカソリックに入信し、娘さんにカタロニア語を学ばせ、今やすっかりカタロニアの人となったようで、偉いなと思う。外尾さんのよいところは、自分を消す気持を持ち得るところだろう。ガウディに帰依する、カタロニアに帰依する、そして最終的にはカソリックに帰依する、自分をそうやって消してゆく。

カタロニアの民族的アイコンに日本人がなっていったら面白いだろうな。妙なグローバリズムの地平が拓くかも知れない。広告主がNTTであるのも面白い。

4月の世田谷美術館での講義で、民俗学とデザインの関係を問われて、あの時は上手く答えられなかったが、こういう事に出会うと今ならわかりやすく答えられそうだ。九時二十分発、京王稲田堤現場へ。位置出しチェック。

273 世田谷村日記 ある種族へ
七月十二日

起床してメモを記す。地下室には降りず、新聞を読み、TVも恥ずかしながら視てしまう。新聞もTVも、わけが解らなくなっているのが良く解る。皆付和雷同の種族がおこしている動きの筈も無い。大方の有権者はよく考えたと思う。わたしもいささか考えた。今度ばかりは、政治がしっかりしなくては、それぞれの人間の生き方も不安定にならざるを得ないのを、良く知るようになった。

十一時発京王稲田堤へ。十二時現場事務所。すぐに打ち合わせ。ディテールに関してのアイデアをつめる。十三時前渡辺くん参加。十五時修了。さくら乳児院、なしのはな保育園の複合建築なのだが、とりたてて困難な技術的課題はないが、それ故にデザインの細部へのエネルギー投入が必須である。

十六時半新宿でスタッフと打合わせ。十九時了。その後、新宿で来年に予定している計画の打合わせ。十九時了。二〇時過世田谷村に戻る。そろそろ研究室とのコミュニケ―ションをタイトに戻さなくてはならない。

七月十三日

七時過起床。昨夜は寝苦しい夜であった。しかし梅雨の湿気も人間の身体、気持にとっては必要なものであろう。一年の時の循環の中で考えれば。どうやって大気の動きを含めた自然、すなわち地球と協同しながら生きてゆくかの知恵が必要なのだ。

たまプラーザの山口勝弘先生はお元気だろうか。先生は完全な空気調和環境のもとで長く生活されているが、先生の場合はそれで良いのだろうとは思う。真の芸術家の想像力も又、日々生きている空気の濃淡に影響されているに違いなく、淡雪と俳人の号をお持ちの先生の近作が、とても淡麗になられているのが気になる。近々、暑中見舞いにうかがわなくてはならない。

九時半発、大学へ。

272 世田谷村日記 ある種族へ
七月九日

山田脩二さんより、「山田脩二/日本旅1961年 - 2010年」平凡社(3400円税別)送られてくる。

何を又、語るべき、と北帰行の唄の科白をつぶやいてみるではないが、大きな旅、キューブリックの2001年宇宙の旅を思い起させる程のそんな映像、写真の旅である。かくの如くに誉め過ぎたくなる写真集である。

14ページ、1963年の伊予・佐田岬半島か、の木陰にむしろをひいて眠りこけている少年の年令は10才くらいか。とすれば彼の今は60才程の男に成長している筈で、わたしよりも少し年下か。

この少年は今、日本の何処でどう暮しているのだろうか、と考えると胸がつまる。山田さんは1939年生まれであるから、わたしより5才年長である。

14ページの写真にある木の下のムシロでまどろむ少年とわたしは恐らく10才程のひらきがあり、彼の方が若い。でも、ほぼ同時代を生きてきたと言えるだろう。

山田さんも14ページの少年もわたしも。

そんな事を痛切に考えさせ、感じさせる写真集なのである。

写真集というよりもこれは人間50年夢幻のごとくなりを舞った敦盛を間近に視るようで、映画でもあるようだ。

14ページの少年は、同じ写真の中にいる可愛い少女と恋をしたかも知れぬし、中学生になって少女は大阪へ転校して去ったかも知れない。

今はしたたかな女として成長し、ニューヨークか上海で料理屋経営に凄腕をふるっているやも知れない。

あの頃、木の下にムシロをひろげて眠ったり、本を読んだりした少年少女達は皆、夢見がちで、しかもそれに突き進むエネルギーを持っていたのかも知れない。そのエネルギーは、この写真群に表われているように戦後間もなくの、かろうじて生き残っていた地域共同体の光景の濃密な光と陰が生み出したものだったのかも知れない。

全ては知れないのあやうさの中にある。そういうあやうさが山田さんの写真群にはある。写真もここまで群れて連続すると別次元の力を発揮するのである。

山田脩二、風の又五郎説 --- 遠野近景物語り(山田脩二写真集販売促進小話)

宮沢賢治の名作「風の又三郎」の続編は唐十郎のピークであった唐版風の又三郎に書き継がれた。宇都宮だったかの自衛隊員、高田三曹が練習機を乗り逃げして行方不明になった新聞記事をネタにして書かれた。

作中、鮮烈な科白がある。

「何故呼んだ、風の又三郎と、アンタがそう呼ばなかったら、アタシはただの宇都宮くんだりの、メシ炊き女だったんだ。何故、呼んだ又三郎って」

その叫びは、幻影を生み出す力を持っていた時代の、それ故にこそ、不安と恍惚の表明であった。センチメンタリズムと言うしかないノスタルジーの行方にも又、歴史の時間の洞穴が闇を開けているのを知る。山田さんの写真にもそんな仕組みの存在を知るキッカケがおおいにある。

「何故呼んだカメラマンと、アンタがそう呼ばなかったら、アタシは渋谷くんだりの、ただの酔いどれだったんだ」

10年後

「何故呼んだカメラマンと、アンタがそう自分で言わなかったら、アタシは黒焼きのただの写真屋だったんだ」

その又、10年後

「何故、呼んだ炭焼きと、アンタがそう呼ばなかったら、アタシは淡路くんだりの、ただの瓦屋だったんだ、何故、呼んだーッ」

「誰も呼んでないよ。いつもアンタの独り芝居だったんだ。人間50年を幻にしてみせたのはアンタ自身だよ」

で、わたし達は、その先の、その後の風の又三郎の行方を探らねばならない。

そうしないと、人生は余りにも退屈極まりない。

2010年はそんな時代へと変転したのだ。

自衛隊機を盗んで太平洋に向けて飛びたった高田三曹はどうなったか。沖縄の普天間基地に秘密裏に着陸したという噂もある。

名護市沖の幻の海上飛行場にすでに落ち着ついているとの話さえもある。諸説ふんぷんではあるが、わたしは淡路島の大パチンコ屋の屋上に着陸したという説をとりたい。

そして地元では高田の三ちゃんとか呼ばれて、親しまれ、呑み屋のオカミとねんごろになり、小金をためて、一軒の大学受験の学習塾を運営する迄になった。

その学習塾にある日、一人の白いツメエリの子供が転校してきた。

それが高田三郎ならぬ山田脩二であった。

宮沢賢治の又三郎君は大層りりしく、風のような少年であったし、鉱山技術者の子供らしく、鉱物性のリリシズムも持っていたようなのだが、この転校生、山田くんは、大そう、変に大人びて、すでにアゴひげ等がうっすらと生えていたそうな。

毎日、遅刻、早退が絶えず、時には吐く息に酒の匂いさえ交じっていたという。あな恐ろし。

で、山田はんはいつの頃からか、受験塾では風の又五郎と呼ばれるようになったのでした。

同じ風でも又三郎と又五郎では数が二つ違いだけとは言え、余りの違いに驚きます。

「山田脩二/日本旅1961年 - 2010年」平凡社中14ページの木の下に眠る少年は、これは又五郎ではありません。

正真正銘の風の又三郎くんであります。

この写真集にとても多く出てくる、少年少女たちは皆、風の又三郎の変身です。誰もが皆、大層良い。キラキラと光っているのです。

それを視るだけでも充分なくらいです。

そして、とても哀しい光景でもあります。シーンとして凍てついた空気のアニマがあります。是非とも買って視入るべきでしょう。

十九時過烏山商店街居酒屋風林火山にてO氏と会う。猫犬によるまちづくり計画を相談。O氏は国際的な会にするイメージを持っているようだ。早稲田出身者はホラ吹きが多いからな。でも、すすめて害になる計画ではないので、大まじめに打合わせ。彼は早速新宿の猫キャフェに行ってきたそうだ。1時間半で1500円、猫と遊べて、飲み物がでるそうだ。猫キャバレーの方が面白いかも知れないが、まちづくりにはどうかな。しかし、妙な世の中になった。 二十一時前了。

七月十日

地下室でメモを記し河野くんを待つ。制作ノートに記した、2008年の小オブジェの再生をするので、その準備作業を依頼する。M邸の竹部分の素材を手に触れられるようだ。八時半世田谷村発。九時前M低現場。すぐに厄除けの神さまの細工を大工さんと共にかかる。

竹の組み込みに集中。古い神棚に竹を組み込んで新しい生命を吹き込む。

Mさんの母上を介護していた家で、その家の記憶は残したいとの事であるので、この神棚をどうするかは大事である。勿論、このM邸の再生もわたしの作品の一つになるが、作品、作品と記名性にこだわる愚は犯さないつもりだ。

わたしのこの日記だって、とても大事にしているけれど、作品とは言わない。らしさは少しづつ挟み込んでいるけれど。

昼食M御夫妻とカレーうどん。暑くてクラクラする程の空模様の下で熱いカレーうどんは美味である。

午後も、つききりで現場作業につきあう。作家なんだから制作現場が生命なのは当り前である。十五時過研究室より模型がきて、スタッフとクライアント共にM邸外構工事の打合わせ。十七時半迄。

十八時過、職人さんにあいさつをして、M夫妻と夕食へ。今日は、昼、夕と御一緒である。一日現場にはりついて、御苦労様と思われたのだろう。

いささか飲み過ぎた。二十一時了。お別れして、松陰神社前より玉川線下高井戸より京王線で、二十二時世田谷村に戻る。

七月十一日 日曜日

チョッと二日酔い気味で七時過起床。M邸の作り方はわたしに向いている。色々な考え方が混合されて組み込まれる。組み込む対象は厳然として在る。それを自覚する。更に小さいモノへも、大きいモノにも自覚的に適応させてゆきたい。

今日は参議院議員の選挙投票日である。恒例とも言うべき狂騒の一日になるのだろう。

政治はもうどうしようも無い水準であり、これは我々国民の政治的水準であるのを実にまっとうに理解する。政治家よりも、まちのおばさんの方がかしこそうなのが辛いところだ。まちのおじさんの方ではない。わたしも含めて。

十時、近くの芦花中学小学校の投票所へ投票へ。

驚いた事に、芦花中小学校は取壊されていた。グルリと仮設囲いの金属塀に取り囲まれて、仮設の金属製校舎が建てられていた。ここで学ぶ子供達は可哀想だな。もっとかしこい再生の方法があったのではないか。不様である。心して投票する。

2時間程昼寝する、申し訳ないけれど。誰に?お天とう様に。食事のアトの眠りは必要になった。ラテン系でゆきたい。その後、雑読して暮す。地下に仕事がらみの本を少しづつ移して、読みふける。

二十時より、開票速報に見入る。この選挙は実ワ分水嶺の如きものなのだが、どうなるか。すぐに、アッという間に民主党の大敗が明らかになる。

出口調査と、やはりコンピューターテクノロジーによる、この速力こそが曲モノなのだ。予想通りの大勢となり、余りにも空虚でもあり、バカバカしくて、いつの間にか眠る。

271 世田谷村日記 ある種族へ
七月八日

九時杏林病院。採血採尿して九時半4F待ち合いロビー。相変わらず凄い数の人だ。アルミのステッキをついたり、車椅子の人々を眺めながら、友人達の 90 才位の姿を想像しながら、一人ニヤニヤしている。昨夜魔窟ワインBarでマイルス・デービスなんか流れていて、アイツ(デービスさんのコト)はわざとらしいところがイヤだと、意見の一致をみて面白かった。菅原さんが聞いたら怒るだろう。年々歳々、アレはイイというのには開きが存在しているが、イヤだねえは不思議に一致するのである。でも、デービスのわざとらしいところっていうのは、要するに格好つけてやがると言う事で、マ、ともあれ格好いいのはイヤだと言う事になり、作家としては、何か変なのである。たしかにデービスさんは頭の毛が薄いわけでもないのに、恐らくイタリア製の帽子ボルサリーノなんか召して、頭の毛が薄いのにかまけて同じ帽子を着用している難波和彦さんより確かにイイ格好してるのは確かだ。ならば、先程の論理からすればデービスさんよりイイ人間であるという結論になってしまうのである。これもおかしいではないか。帽子をかぶりたいために頭をうすくする人間とはどういう種族なのか。この理屈は難波さんが帽子を常着しているのを知らぬ人には全く通じない特殊な理屈なのであるが、理屈であることには違いない。要するに理論という理論は全てオカシイものなのだ。しかし、難波さんが格好良くないというわけではない。あくまでデービスさんと比較したら、俗論ではチョッとねという類の異種格闘技の如きものだ。難波さんは特に夏のカンカン照りの日はそれなりに格好良いのである。

しかし、病院の待ち合い室というのは、こんな事を考えさせる程に白昼夢そのものの空間だな。夜にこんな事考えていたら、たちどころに脳外科送りになるのは目に視えている。デービスさんのボルサリーノとナンバさんのボルサリーノとはどちらが装飾性が強いか、帽子が人間をかぶっているのかは箱の家の哲学的命題である。

十一時前、Y先生による検診おわる。別れ際に「先生もお大事になさって下さい、お体に」と必死のカウンターパンチをかませたつもりが、にこやかにいなされてしまった。十一時半開いたばかりのうどん屋で山形のうどん2枚を喰べる。検診おえたらもう腹一杯喰うのだ。歯が一本抜けたままにしているのでうどんをかみ切るのに苦労する。

昨日、写真家になった白石さんより、あの椅子アフリカのモノですか、と三球四脚について言われ、そうなんだ眼のある人間にはそう写るんだと自信を深めた。批判には耳を傾けない、お世辞はそのまんま受け入れるのが身体には良い。

2008 年に作成した立体「立ち上る伽藍」と 2010 年の三球四脚を組み合わせた「時間の立体」のエスキスを完了。これで全てがまとまるかも知れぬ。建築・立体・平面・記述の断片が。

私用雑用の間を省いて、十八時前、神田宮崎料理岩戸へ。数日前に日を間違って来てしまっているので、顔なじみのオヤジさんオカミさんに笑顔で迎えられる。

東国原知事よりも余程宮崎県人の良さを典型的に示している人種だ。間もなく清水さん現われる。今はスポーツニッポンに移っているが、名ジャーナリストでもあり、昨今の世情についての話しをうかがう。

宮崎よりの馬場昭道さん来る。いつも和尚のおごりでの会ではあるが、恒例になり楽しい。和尚はどうやら自分の本の再販についての打合わせで宮崎に飛んだようだ。偉いな、和尚と比べてわたしは自分の本の再販にそれ程努力していないのを恥じる。せいぜい、ここに記して販売促進の努力としたい。

「生きのびるための建築」NTT出版、買って読んでくれい。いい本ですぞ。

昭道さんの新しい寺の計画の挫折を心配していたので、わたしなりの次に手を打つべき計画の筋道を提案した。新しい寺は少しちがう姿を、公共の姿を持つべきであろう。清水さんを理事にして計画をすすめたら、まで踏み込んでみた。

昭道和尚 65 才、そろそろ終幕一つ前の大勝負を願いたい。最終幕は自信の「究極の寺」なんだから。

木造、瓦でやってくれる?と和尚は言う。亡くなった佐藤健から寺にはやっぱり瓦だよと釘をさされているのである。瓦とソーラーと風車は寺には欠かせないモノになるだろう。原子力発電でエネルギーをまかなっている寺なんてのは仏教寺院にはあり得ない。

釈尊がたしなめられるであろう。

仏教とエネルギー循環の問題は同義だと思うけれど。

宮崎の藤野忠利さんの展覧会を何処かでそろそろ考えなくてはならないだろうなと覚悟する。

二十一時半散会。別れる。清水さんは帰ると 6 才の犬と二人きりなのである。以前の犬は 16 才で亡くなった。奥様も友人であった小田実や立松和平もすでに居ない。立松和平は晩年、少しあせり過ぎていたと言う。

二十二時半世田谷村に戻り、バタンと眠る。

七月九日

六時起床。地下室でメモを記し、WORK。

「母の家」の基本を決めた。当然、初心に戻り、そして昨今の考えのまとめとするのでエネルギー循環をテーマとする。瓦もいいけど、ソーラー発電はもっと大事で、水循環は更に重要だ。

母の終の家は諸々のエネルギー循環の中に人間の生も共にあるのだという事をハッキリ示すものとする。昨今の諸々のダクト類の進化はそれを可能にするだろう。

わたしの性格の不自然さもあり、最近は意図的にアートへの接近、つまりはアニマへの接近をデフォルメしてきたが、そろそろ本筋の努力をきちんと示しておきたい。住宅用エンジンのアイデアは川合とわたしの育てたモノの中では最良のモノの一つであった。

270 世田谷村日記 ある種族へ
七月七日

七時半起床。地下へ。仕事すすまず。九時半世田谷村発。六日付の製作ノート、4点程破棄する。ただただ垂れ流していれば良いものではない。今朝は朝食を食べそびれた。一日が辛いものになるだろう。

冷房の聞いた京王線車中、世田谷村には冷房が無い。それと比較すればこの冷房された空気は異常である。昨日M邸の大工さんが、木の割れが実に多い、木のDNAは冷房に対処できてないような事、わたしのデフォルメもあるが、そんな感慨を述べていた。

昆虫、魚、草木の世界も外来種が異常に増大しているらしい。古代種あるいは在来種の保存、育成をはからねばならぬ時代のようだ。建築デザインも同様だろう。外来種とグローバライゼーション中のヒューマニズムを見極めるのはとても困難な事ではある。

十時半研究室、学生面接。良い人材であった。十一時小会議室入江、古谷両先生と相談。十三時前了。市根井さん三球四脚の打合わせ、及び第一作の完成チェック。とても良い仕上がりだ。頑張って売りたい。1脚77000円消費税込みです。四脚ですので掛ける4ではない。一点77000円なのです。ご一報を待つ。白石さん来室。

十四半地下スタジオへ。演習G黒田記念館「保存と再生」本日発表作品チェック他。会場には150名程の参加者が集る。

十五時鈴木博之先生講義「保存と再生」論語の言を引いての概念規定が流石。

建築の保存と再生はようするに学ぶこと、想うことのハーモニーにあるとの事。このハーモニーの意味は深い。歴史、技術、場所、情報、人間達の意志、そして他者への想像力への複雑なネットワーク、再びそれ自体への想像力の問題ということか。十六時半了。質疑応答をいささか。その後課題の公開講評会。鈴木、石山、北園、加藤。中川武先生途中で参加。鈴木さん中川さんの体験の重みが光った。どんな発言にも背景にそれぞれの歴史があるものだ。若い先生とは何等かの形で勉強会を継続しなくてはならないな。この課題は十月迄継続させる。

十八時懇親会を抜けて、鈴木さんと新大久保近江屋へ。難波和彦さんが合流し、Xゼミナールとなる。

わたしは明日病院で血糖値の定期検診で、あんまり今日はこうしていてはよろしくないのだが、友と会うのも健康増進、育成であると自分に言い聞かせて飲む。イケナイ、イケナイと思いつつ、池袋の魔窟ワインBarに迄押しかけて、パンとパスタ。二十二時頃だったか散会。難波さんに新宿まで送っていただき、烏山へ。車中で長男とバッタリ会う。魔窟で借りた雨傘がひどくセクシュアルなピンク色で何となく気が引けて仕方なかった。小心者だな。

七月八日

昨日のワインがまだ残る中、努力して起きる。バカだ、ワタシは、本当に。今日も医者に怒られるのだ。友人がすすめるもんで、つい、とは言えないからな。「酒くらい止められないのですが、アナタは」の追求に身を縮めるばかりであろう。

地下室に降りて、メモを記す。メモを記さなくなったらと想像するに、あまりの空漠たる想いがドッと押し寄せて、随分あわてた。良い仕事をしたいものです。

九時前、病院へ発つ。今日は夕方、岩戸の会がある。

269 世田谷村日記 ある種族へ
七月六日

十一時四十分地下室で銅版画の3点目をほぼ仕上げた。これは明らかに「母の家」がテーマになっている。何処迄展開できるか、わたしの才質の問題だ。今夜、もし昭道さん清水さんとの会食を酒を控えてくぐり抜けて帰ったら、2点ぐらいは彫れそうだ。十二時前、南蛮茶館のまん前で、アノ、懐かしの市民農園のオジいさんにバッタリ再会する。

「区民農園失くなっちゃって、困りますねぇ」

「本当にネェ、やる事なくなっちゃって、今日もこれからゴ会所です」

都内市民農園は必需品である。

十三時、銅版画と三球四脚と今考えついたANIMAを組み合わせた小展覧会を綿貫さんのところで開催してもらう事を考えた。銅版画20点、ドローイング10点、椅子3点、純粋立体1点ぐらいでまとめたい。

十四時、下高井戸、松陰神社を経てM邸現場。1階茶の間北面厄除けをデザインして棟梁と打合わせ。すぐに制作してもらう。現場に時に身を入れて、力を尽くして作り込むのが好きだ。母の家で考え始めているような事は当然M邸にも通用する筈だ。どんな人間も、皆生き生きとした空気のざわめきの中で生きたいのである。空気は静かにざわめいている必要がある。生きる、より良く生きようという気持ちをさんざめかせるような空気が必要である。

十六時半、野村さんと打合わせを少々して、現場を離れる。

十七時過神田宮崎料理屋岩戸へ。

アレアレ、何と会合はどうやら今日ではないらしい。顔見知りの岩戸のお母さんから、今日じゃなくて、8日で予約いただいてますと、たしなめられる。

全く、わたしは間抜けな人間である。悄然として去る。

東京北口の小樽に寄り、どうしたんですかと問われて、マァ、何でもないんだ。ととぼける。清水さんとネパールの状態などを話し合うが、勿論、当を得ず。

店のTVをボンヤリ見るに大相撲中継はどうやらNHKは降りたようだ。マ、当然だろうな。次は野球中継が民放を含めてより減少する事を望みたい。吉本系のお笑い番組が、どれ程、我々をバカにし続けたか、はかり知れない。

十九時半去る。只今二十時京王線車中である。二十時半には地下室に降りる事ができるだろうから、30分でも何とか仕事をしたい。二十時半前世田谷村地下室に降りる。メモを記し、先ずは4点目以降の銅版画の下絵作成にかかる。これはうまくゆかず、二十一時、母の家スケッチを少し計りして、WORKを中断する。

268 世田谷村日記 ある種族へ
七月五日

十二時半京王稲田堤、さくら乳児院、なしのはな保育園、現地定例会。十五時過了。その後、私的雑用を少し計り。十八時前、新大久保ガード下ラーメン屋で加藤先生と会う。色々と伝えておきたい事がある。十八時過了。十九時前世田谷村に戻り、地下仕事場へ直行。コロッケ三ヶ。夕食をとる。地下室での仕事が、先ず、わたしのペースに組み込まれるように、即ち日常の一部になるのを待っている。30坪以上の地下を一人で使い切るエネルギーがわたしに残されているのか、自分でもおぼつかない。

十九時過昨日途中迄にとめおいた銅板画2点を完成させる。いたく満足する。二〇一〇年七月が記されている奴は仲々いいモノです。十九時過ぎ地上に上る。

沢山の事をモヤモヤと考えるが焦点が絞れず、二十三時就寝。

七月六日

地下室に降り、メモを記す。

自分でも驚く程に原始的な地下室で、東の端に先ず、アルミ製の急な階段で降りる。そこには階段室の淡い光が落ちている。他は全くの闇。少し水の匂いがあるような気がしないでもない。そこから20M程は足許も視えない闇である。西端にセットした、わたしの作業テーブル迄をおぼつかない足取りで歩く。西端は、ここにもかすかな書庫からの光が指しているのだが、ほとんど闇である。

テーブルの照明のスイッチを手探りで探す。この位置観、勘というべきかがまだつかめない。

60cm程いつも外れる。何故なのかはわからない。いつも外れる。スイッチをひねり、椅子に座り、WORKを始める。いつも人に指示したりに慣れてしまったので、一人で全てをこなすのは仲々に大変なのだ。今日はM邸現場へ行くので、時間を上手に使うつもり。

十時、制作ノート「母の家始末記4」書きおえる。十時半、銅版画NO.3母の家手をつけて、ほぼ彫り終える。これは下図無しであった。

267 世田谷村日記 ある種族へ
七月二日

十時四〇分院レクチャー。ビルバオ・グッゲンハイム、フランク・ロイド・ライト、ヴィンセント・スカーリー、ベンチューリ、フランク・O・ゲーリー。十二時了。十三時学報インタビュー、十四時、ブラジル人アンドレ博士論文相談。十六時過新大久保近江屋、池原義郎事務所OB白石さんとビール、保存と再生の会について他話し合う。十七時半新宿南口味王へと移り、いささかの食事。二〇時過世田谷村に戻る。

ネットに制作ノート「母の家 始末記 -1」Xゼミナール「海老原一郎の建築」がようやくONされる。

七月三日

七時半起床。八時半地下工房へ。まだ身体が地下との往復に馴染んでいないが、なにしろ3階のガラスの屋根裏部屋にいるよりは、はるかに身体は快適である。ヒンヤリとした感触の大理石テラゾー研ぎ出しの床の上で仕事するのだが、本来は裸足でいたい床である。このテラゾーは群馬の森田さんの指揮下、左官の日本一職人の中沢さん達が制作して下さったものだ。

先日、見学した海老原一郎のDICオフィス棟の一階テラゾーと、じっくり見比べている。少なくとも床の仕上げのテラゾーの好みは少し似ていて、大きく異なる。わたしの地下は砕いた大理石の断片が大きくて、砕き方もてんでんバラバラである。海老原先生のは実に黒大理石を丸みを帯びたものに加工して、小さくしたものを埋込んでおられた。同じテラゾーでも海老原一郎先生のモノは繊細で、一言で言えば実に定型通りであり、わたしのは定型から逸脱している。

この先はXゼミナールに詳述しておく。とても大事な事かも知れない。

海老原一郎の建築−2」十二時了。

十五時再び地下へ。WORK続ける。十七時過制作ノート「母の家始末記 -3」を終える。スケッチを描いてメモを記すと、メモはスケッチの都合のよい解説になり易いが、メモを記してスケッチをするとどうなるか。

十九時半再び地下へ。二十一時半迄WORK。二十二時了。2階に上り、ワールドフットボールアフリカ大会TV中継を見ようと思ったが、やめて、3階で読書、いつの間にか眠っていた。

七月四日 日曜日

モンモン、モヤモヤと銅版画彫ってみようの気持が沸きあがってきているのを、ここ数週間感じている。理由なんて全くない。何かの必然なのだろう。日記や制作ノート、そしてXゼミナールへの記載、そして作図ではあきたらぬモノがわたしの中にあるのだろうと思う。

恐らくはあのモヘンジョダロ遺跡のビワの王の樹との遭遇が、彫って記録しておけと命じているのだろう。銅版の小さいのを2枚地下に持っておりる。地下の東の壁の前にはプリントの小さな機械もあって、それだけで、それなりの空間が用意されるような気にもなる。

グダグダ言うヒマはなしと、いきなり彫り始める。下絵2点を描いてから、その一点が気に入って、それを彫った。自分でも驚いたが十三時にほぼ一点を彫り切った。もう少しで Finish だけれど少し間を置いた方が良いのだ。良い事なのかどうかは知らぬが、2点の下絵(スケッチ)は制作ノートに公開する。小休。

十五時半地下に戻り、2点目の銅版画にかかる。

十六時半2点目をほぼ彫り終えて、3点目の下絵にかかり、終える。

この作業を長く続けるのは危険である。正常に復帰できなくなる可能性がある。

266 世田谷村日記 ある種族へ
七月一日

十二時半武蔵野緑町の母の家着。妹も同席、もう何回目になるか遺言伝達式である。妹はもう10回目くらい、わたしは3回目くらいかな。しかし、遺言と言われてこないようでは人の道にもとるという常識はある。うーんとシリアスで、だからこそ、うーんと滑稽な会話が続く。出前の寿司が少しパサパサであったが、文句も言えず、熱いお茶を飲め、イヤ水にする等の微細な押し問題というより、押され問答の連続であった。

少し前に制作ノートに公開した母の家プランは、話し合っているうちにどうやら全くの外れであったことが判明し、実に愉快であった。自分の母親の考えそうな事もまだ予想できぬのだから笑える。

このいきさつは連続して制作ノートに書き続けようと決心する。わたしには勿論とっても大事な事だけれど、皆さんにもいずれ通じるモノがあるでしょう。人間は皆必ず、どうせ死ぬからな。

家のプランの件で92才の母と、ののしり合う。何やってんだろうな、変な世界だが誰も逃れられぬ世界でもある。制作ノート、母の家始末記01。

辛抱強い妹も流石に母の言い出したらきかない振りにヘキエキして、十六時前退散する。もう死ぬよと言ったり、地下室作れと言ったり、玄関は白黒の石で仕上げろと言ったり、どうせ間に合わないだろうと言ったり、もう言いたい放題である。泣く子と母親には敵はないのである。

十七時世田谷村地下にて「母の家制作ノート」を整理し、本格的に設計に入る。

十九時了。小休する。地下の作業はすすむ。シーンとして何もなし。

七月二日

〇三時起床、母の家スケッチ、少し進む。考え方の基本が出たか?

四時半再眠する。空は白々としてきた。職人さんの生活だなコレワ。七時半起床、地下室作業場へ。メモを記す。

三階の屋根裏部屋はまあ言ってみれば空の部屋だ。チベットの小仏像がまつってあり、この仏さは南面させて光が満ちていないといけないらしい。

地下の部屋は、当然地中の部屋だ、この二つの場所をゆききしてアイデアを練るのは習慣になってくれれば良いかも知れない。

八時半、制作ノート書く。Xゼミナールの草稿と異なり、他を意識しないで良いので速力が出る。でも長続きするかどうか、母次第である。

265 世田谷村日記 ある種族へ
六月三〇日

七時半起きる。メモを記し、九時四〇分発。2、3日前にモヘンジョダロのビワの王の樹のビワが全て姿を消し、同時にカラスの姿も失くなった。カラスの胃袋の中にみんな納まったのだろう。いずれ一羽のカラスの胃袋の中でビワの実の種が芽を出し、育ち、カラスがビワの樹になったら、それはそれは面白かろう。カラスの羽先にビワの実が実っていたり、あるいは空飛ぶビワの樹なんかが現われたら、大騒ぎだろう。それを見物に世界中の人間が集まり、モヘンジョダロは大にぎわい間違いなし。しかし、大にぎわいを目指すまちづくりはもう流行しないのである。ひっそりカーンとしていた方が良い事もある。

十時過ぎ、至誠館さくら乳児院・なしのはな保育園、建設工事地鎮祭会場。十時半祭事始まる。設計者として鍬入レ。十一時過了。直会の席へ。多くの理事さん馬淵建設社長以下建設担当者、保母先生達の大変にぎやかな会となった。工事の無事完成を祈る。十三時半了。雑用を経て十六時過烏山商店街南蛮茶館へ、暑いので氷抹茶をいただく。

Xゼミナールを書く。十七時半、1を書きわる。小休。

七月一日

昨日の午後の空の光景は実に壮麗なものだった。空の様相が実に壮大な建築空間のようで、しばし、見とれた。チベットの密教寺院へと渡る大河の船上から見た雲の景色と、そう言えば似ていたな。高地の空の様相はやはり神様らしきに近いから荘厳なものになる事が多いのだろう。

昨日なぐり書きしたXゼミナールの「海老原一郎の建築」に手を入れる。

自分の事、つまり私的小史から入ったので、用心しなければならない。ネットへの文章くらいデリケートなものはない。一瞬一瞬のスピードが命なのだが、読んでる人の数も、それの総合全体の速力を想像するに圧倒的なエネルギーを前にして書いているようなものなのだ。Xゼミナールの非連続メモ群の読者の大半は建築に強い愛情を持ち続けている人々にちがいない。

そして肝心なのは海老原一郎先生の建築に関心を持つ、あるいはオヤと関心が揺り動かされるような人間はかなり、専門知識の水準が高い人々だろうと予測する。

そういう、ある種族らしきに向けて書くのだから、やはり用心せざるを得ないし、用心するのがエチケットでもあろうと自覚する。

又、鈴木博之、難波和彦、石山修武の三人三様がどう、この珠玉とも思える素材を語り尽くせるか、書き尽くせるのかも見どころであろう。

わたしの論考は、海老原一郎の建築→プロポーションという古典的美学、今のデザイン教育の欠落→毛綱モン太の建築とプレポストモダーン建築群、そして、それへの鑑識眼、批評能力→大江宏の建築→高山建築学校主、倉田康男の思い出→ユートピアとリアリズムというような流れで、出来れば6回程書いてみる積りである。

十一時世田谷村発、母の家へ。

6月の世田谷村日記