石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2011 年 11 月

>>12月の世田谷村日記

643 世田谷村日記 ある種族へ
十一月三十日

7時半過、テグ・プリンスホテル発。西バスターミナルへ。9時20分発、海印寺行高速バスをつかまえる。小降りの雨がザンザ降りになる。11時前海印寺、ドシャ降りの雨で運転手さん他が海印寺登拝口よりもう一つ先の終点まで乗るようにすすめてくれた。なるほど、終点でビニールの雨合羽を買って身につける。道路は雨の流れと化している。マア、大雨も良しと元気付けて坂道を登り始める。こんな急な登りであったかと息が切れた。海印寺一脚門の手前で小休させていただく。足腰の退化が身にしみた。

海印寺一脚門をくぐり境内へ。途中、数百年の老木が枯死しているのを人々が尊んでいる。それを見て通り過ぎる。枯れた巨木の根元に人間達が小石を積み上げ続けているのが奥床しい。人間達はそれなりに偉いのだと痛感。死にかけた老木に小石を荘厳するというのがいいじゃないか。4年振りに参拝する海印寺は大がかりな修復工事も一段落して、見事な伽藍群に再生していた。ここは基本的に最上の壇、中程の壇、下段と傾斜地が3つに明快に仕切られており、下段には花の曼荼羅の砂曼荼羅に、鐘楼、そして道場として必須の魚板による刻々の時の刻みの合図を発生させる装置が集約されている。丁度、修業の僧侶が大音の大鼓をたたいていて、その音が山岳寺院の境内に鳴りひびいていた。中段の本殿内部に入り、ゆっくりスケッチをする。驚いた事に脇侍の仏が、つい先立って亡くなったカンボジア、ウナロム寺院のフーテンのナーリさんに酷似しているのであった。ビックリして早速スケッチをモノす。

フーテンはここ海印寺に流れ来て三界なんとやらの仏になっていたのであった。阿弥陀でも観音でもなく、地蔵まがいの、へり下った仏であるのも大変良かった。

ヒゲの感じもフーテンのナーリにそっくりであった。スケッチしながら良い時間を持つ事が出来た。名刹の高貴な仏達も皆現地の人間の転写であるのは言うまでもない。そう思って考えてみれば、現世を苦労している人間達のそれぞれの顔、人格、尊厳を想うに、皆何がしかの仏の変化である。ま、海印寺でフーテンのナーリさんに再会できて良かった。最上段の海印寺の歴史の至宝、版木図書館に上る。今日は完全修復も完了して、見事な伽藍の姿になっていた。建築ではない、やはりこれは伽藍とのべねばなるまい。急な現世離れをした石段を登り、有名なリンゴの形をしたエントランスのゲートをくぐり、30数年振りに内部に入る。この図書館は創建から数百年(600年)の時の流れ、大火他を奇跡的にかいくぐり、図書館つまりは新羅仏典のオリジナル書物の素を守護し続けた歴史を保有している。それ故に本格的な世界遺産としても指定されている。

言ってみれば、『薔薇の名前』に登場する僧院の図書館がそのまま現実に存在しているのである。

そう考えて対峙してみればなかなかのモノではある。中庭は微妙に傾斜している。傾斜地が傑作を生むのはル・コルビジェのラ・トゥーレットの僧院を思い起こさせるが、海印寺はそれよりもはるかに良い。山岳に、大地に、そして天空に図書館としての価値をゆだね切っているのが、ヨーロッパの個人主義、主知性の限界をはるかに超えたものを示しているのである。3度目の訪問にして海印寺図書館(版木収蔵庫2棟)の深い価値の一端に触れたような気がする。良かった。

スタスタと急ぎ足で雨の中を山を下り、前にも寄ったガランとした食堂に寄る。再び、ビビンパ定食。冷え切った身体に美味この上なし。13時20分のバスでテグへ。バス内で眠りこける。15時前テグバスターミナル、TAXIでホテルに預けておいた荷をピックアップ。今度はテグ東バスターミナルへ。安東行の高速バスに乗り込む。安東着18時前。安東のバスターミナルは新築のモダーンなモノになっていた。ターミナルで、とても親切な韓国人男性が色々親切にしてくれて、TAXIで河回村に19時前、雨の中辿り着く。記憶をたどり、前回宿泊した民家へ。

オバンはテグに行っていないと、息子が迎えてくれた。オンドル部屋に入り込む。夕食は雨の中を歩いて別の民家へ。たしかこの民家も前に訪ねた事があった。おじいさんと話し込んだ記憶がある。記憶が鮮明によみがえるのは河回村の力であろうか。おいしい夕食をいただき、再び雨の中を宿泊の民家へ戻る。2度目の河回村の路地は初回と同様の超現実としか言い様のない妙なパースペクティブを供してくれた。

河回村の路地はヴェネチアの路地の錯綜とした迷路性よりも、平明であるがその路地自体が所有する距離、長さの特異がヴェネチアには全く無いモノであり、ここの路地の芸術的触媒性は世界にも独自なものであろう。良い写真家に記録させたい。夕刻の、そして明け方の河回村の路地の深さを。

メモを記して眠りにつこうとする。明日雨が上がってくれれば良いが、どうかな。

十二月一日

6時半目覚める。雨は上がったが重い曇天、陽光は差してこない。夜中に2度目がさめて小用に外に出た。便所は何処も外に独立した離れである。ここは文化財には指定されていないが古い有力者の家のようである。立派な構えでトイレの外は野菜畑である。

しかし、お婆は今はテグに出たとかでキムチを作る者はいないのだろう。女がいなくなると家は急に生気を失うものだ。

7時半、河回村もう一つの中心でもある豊山柳氏の総本家でもある養身堂の脇の家に食事へ。今の時期はこの家のオバさんが河回村の来泊者の食事をまかなっているようだ。たっぷりとこの地方名物のサバの塩づけの大きいのをいただく。沢山の漬物が供される。8時了。村のもう一つの中心である丘の高所に在る三真堂の名が附された神木(樹齢600年を超えるケヤキ)に参る。村の護守樹である。根まわり10メーターになんなんとする堂々たる霊気の持主だ。コケがビッシリと寄生している。この神木には1メーターにも満たぬ細い路地をカギ形に、7、80メーターすすみたどりつく。余程古来大事にされてきたのが知れる。その後、9時半開館の低い丘を超えた仮面美術館へ。個人のコレクターが世界中の仮面を集めて展示しているものだ。4年前に来館して感動した。再訪する。村を出て30分弱歩く。入館してスケッチ。やはり第一室の朝鮮のモノが図抜けて良い。床に座り込んでスケッチを12時前迄続ける。再び歩いて村へ戻る。洛東河が巨大に蛇行して村を囲い込んでいる地形を視る。花山の姿が美しい。芙蓉台の奇景とも言うべき岩壁ともどもこの村を包み込む濃密な立体観を持つ地形である。

地形にある種平安ではあるが劇的なモノを人々は観てとり、住み込んだのであろう。その劇的なものが仮面劇となってうまれ代わり、伝承された。125世帯200数十名のキチンとした集落である。

昼食は再び朝の古宅へ。ここしか食事が供されぬのだから仕方ない。14時迄ゆっくりと食事。その後、それぞれ自由にスケッチへ。わたしも何点か描いたが、寒くなり一足先に宿に引き上げて、オンドル部屋で暖まる。少し眠った。

8時皆が戻ってくる。寒い中を沢山スケッチしたようだ。これはそれぞれの財産になるだろう。大判の画用紙パックを持ち歩くスタイルは、わたしには馴染んだモノになったが、それが若い人に継承されているのを視るのは嬉しいものである。いつか、良いモノを作るようになるだろう。19時晩飯を食べに、再びあの家へ。朝昼晩通っている。

食事、再びスケッチ一点。宿に帰る。星はみえぬが、半月が一瞬顔をのぞかせた。

ここ河回村には先年イギリスのエリザベス女王が来村され、その記念展示と記念植樹の樹が大切に育てられている。養貞堂前の思考堂前庭にその樹は在った。女王はどのような感慨を来村に当たり持たれたのだろうか。イギリスの文化、歴史と随分異なるモノを感得されたのではないか。しかし、女王陛下にこの村を見せたいと考えた韓国指導者達にはいささか感服するのである。

ここには恐らく朝鮮半島の常民達の古層が脈々と眠っている。

オンドル部屋で休んでいただいたら、同じように寒い国の人であるから女王もきっと眼をみはっただろうなと余計なお世話であるコレワ。

十二月二日

6時離床。明け近くであろう。目覚めて外の便所に行った。素晴しい星空で北斗七星の傾き具合から方向を確認できた。南にシリウスが豪然ときらめいている。今日は久し振りにおがめそうだ。河回村は今日の午後に発たねばならぬが、まことに気持にも身体にもわたしには合っているようで良い3日間であった。オンドルの小部屋に三人の野郎で眠るのは合宿のようでもう慣れた。『六ヶ所村の記録(上)』ようやく230頁まで読みすすめ。これは明らかに民衆史の記述であり、下北の方々の遠くへの苦労話など涙無しには読めぬ処もある。

わたしも河回村の様子をただの通り過ぎる人間の眼で眺めているに過ぎないのだと思い知る。でも仕方ないモノは仕方ない。せいぜい早朝よりスケッチの時を過そう。7時前まだ日の出前の薄暗がりの中をスケッチに発つ。南村の堂(念行堂)でかじがんだ手に息を吹きかけながらスケッチ。花山の姿が美しい。山の姿と集落の屋根の姿が精妙に連関している。

8時朝食へ。9時前再び歩き始める。スケッチをいささか。一点満足のゆくモノを得る。以前から河回村再訪したら描きたいと考えていた道の姿だ。今回の旅はこの一点で良い。

12 時半宿に戻る。荷を整理して、13時のバスに。13時40分、安東バスターミナル。只今、テグに向けての高速バス車中でメモを記している。

今日のスケッチで河回村の人工の集落と自然との妙なる関係を少しばかり感得した。あの仮面のデザイン、そして特異な祭礼、儀式の数々を生み出した原泉とでも呼ぶべきモノである。

河回村の人々の日常と祭礼、あるいは多様な文化的行事は関連していた。ハレとケとの二律分断ではなく、日常の中に演劇的断片が自然に入り込んでいた。それが多く舞台状の装置や自然との開放的融合を成した住空間をも作り出し続けた。この演劇性は抽象化されていて個人の生活の中での他者の意識、そのデザインの具体化といっても良かろう。

少なからぬ場所での、個々の生活を集落という小世界に見せる。見せることを意識化するという行ないが営々となされていた。それを成させたのはやはりこの場所の地形、風景の演劇性であったろう。

その中心に神木(老木)があり、グルリと集落を取り囲む堂々たる河があり、花山の美しく特異な山の姿そして芙蓉台の岩壁があった。120家族種の小集団を集団的で固有な文化形成へ向かわせる自然に力があったのだ。

今、16時半前、高速バスはテグに向けて猛スピードで走っている。

テグ高速インターチェンジで降り市内へ16時50分。ターミナル着17時。

642 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十八日

5時過離床。荷作りをして出発。京成八幡経由成田空港第2ターミナル8時過着。渡辺、佐藤等と合流。9時45分のJALでプサンへ発つ。

12時前プサン空港着。すぐにバスで慶州へ。慶州で市内バスに乗り換え15時前良洞村に到着する。おびただしい数の観光客で完全に観光地化している。しまったと思うもコレワ世界の潮流だ仕方ない。予約の民宿にゆくも無人であった。観光案内所で人を呼んでもらい、荷を室内に運び込む事ができた。腹が減ったのでメシだという事で食堂へ。うまい韓国料理(ハスの葉ちまきのようなもの)をいただく。カヤぶきの丸い屋根の民家であった。

夕方になり人気が去り、俄然村は香気を放った。夕暮の光と空気に精霊が宿る。何しろ土の匂いがフワーッと身体を包み込むのが何よりであった。

集落(1300年頃のモノ)が生命力を持つ一瞬である。しばしの散歩を楽しみ、宿泊所へ。すぐに横になる。オンドル(電気式)が暖い。

眠りこけていたら、係の人が来てお茶の時間です、隣の重要文化財の見学をしましょうとのことであったが、わたしは残念ながらパスして、メモを記した。

きっと夜の民家の中庭は月の光を浴びて素晴しいものであったろうと思うが、身体が休息を欲したのだ。こうして歳を取り、しかし知恵もつくのだろう。

離れのかわやに小便に立つ。ついでに恐らくは庄屋の家であろう重文の中をのぞいてみようと考えたが、すでにカンヌキがかけられていた。残念。しかし見ぬも又良しである。後で聞けばこの建築は村の寺小屋であったらしい。

「六ヶ所村の記録」188頁まで辿り着く。フーッと息をつく。韓国の農村に来て読むには良い本である。記述の中に何とチッソの朝鮮工場が登場している底の深さに驚いている

十一月二十九日

5時起床の予定がなんと7時前の離床となった。皆余程疲れていたのであろう。わたしも当然7時起きの類なのであった。村は厚い霧に包まれて視界は20M程である。1500年代の東アジアの集落を体験するにはベストとも思われる条件になった。天の恵みであろう。

身体は疲れてはいたが、意を決して登り降りのある地形を歩き始める。

白い霧にまかれながらの視界不明瞭なままの散歩であった。でも、とても良い散歩行であった。適確なようにも思われるネーミングが施された幾つもの文化財としての、それ故に、圧倒的な時間の流れを内在させた民家を視て廻る。ほとんどが15世紀の建築でもあり、率直な敬愛の念を抱いた。

古いものは、それだけで否定しようの無い力を表現しているものでもある。

登り下りをゆるやかに続ける。霧は晴れぬまんまである。とても良い時間ではあった。良洞村の各文化財の民家群は丁度朝食時で、各民家のお母さん達から「10時にならなきゃ見せないのがルールだよ」と叱られてしまった。叱られ続けながらも見学を続行する。これはわたしのような我ママな職業には必須なことではある。多勢の観光客と一緒の見学では、実に何も得られないのである。深い霧に包まれた良洞村はとても神秘的な姿を表わしていたのである。この神秘は21世紀初頭に、16世紀がそのまんま露出しているが如き驚きでもあり、近代が失なってしまったモノ先を赤裸々に露出してくる暴力的な力学でもある。

又、いずれこの体験は記述することもあるだろう。良い時間であった。

9時半ブラブラ修了。宿に戻る。民宿のオーナーの心遣いでお茶をいただき、昨夜わたしがさぼってしまった建築の一部を見せていただく。多くの草薬が混じったお茶をいただく。平和で安隠な時を過す。別れてバス停へ。小学校校庭で霧にまかれてボケーの真似事を続ける小学生と先生の姿を感じ入って眺める。その他様々に学ぶ。

やがてバスが来て慶州市内へ。バスターミナルで工夫して、当初の予定通り吐含山石窟庵向う。その前にターミナルビル前の食堂で昼食、これが良かった。妙に良い風水師ともお目にかかる。風水地理研究所の看板をかかげている。小高帽とイタリア風ファッション崩れの風水師であった。もうお目にかかる事もないであろう。バス、TAXIを乗り継いで吐含山、石窟庵へ上る。

これは苦労した割りには随分小振なモノで、しばしの時の流れを痛感する。

その後、石窟庵を降り、待たせておいたTAXIで武烈大王陵へ。

これも記憶とは異り、全てアテも何も外れてしまったが。ただし、これからヴェトナム、ダナンで進めるプロジェクトの参考にはなった。

穏やかな冬の光の中を王の墓を動き廻る。

TAXIで武烈王陵より慶州バスターミナルへ。バスターミナルより、テグへ高速バスをつかまえた。テグには17時過着。実にバタバタと苦労した末に、テグプリンスホテルなるホテルにチェックイン。

途中で、ガイドブックに出ていたアミーゴなるホテルは今はつぶれて失く、ZOOホテルはとてつもないラブホテルであり、流石に遠慮したのである。古いガイドブックはすぐに使えなくなるのも現代だ。18時40分、ホテルより、外へ、近くのコーリヤ料理屋で身内のディナー。只今21時50分、本日のメモを記し、これから休もうとしている。

十一月三十日

5時離床。まだ眠っている若者をさて置いて、ここ3日間のメモに眼を通し多少の手直しをする。たかが日記、されど日記である。多少のほころびは見せても崩してはならない。何処で誰が読んでいるか知れぬ。ここ3日間のメモは我ながら淡々としていて読みやすい。旅の感傷も無い。でも、感動しなくなったのには驚く。私が摩耗したのか、視て考える対象が崩れたのか。あるいはその双方共なのであろう。

7時熱い風呂に入り、3日分の汚れを落し、髪も洗う。7時半ロビーで日記を研究室に送付する。

641 世田谷村日記 ある種族へ from ヴェトナム
十一月二十五日

19時ホテルロビーで待ち合わせ、ホーチミンの若い建築家達と夕食へ。フエ料理Dong Pho。フレンチコロニアルスタイルの洒落た、家庭料理の趣向の店。楽しく談笑し、かつ食す。22時半過了。ホテルに戻り23時前に横になる。ヴェトナムで若い世代の建築家達が頑張っているのを眼の当たりにして嬉しい気持ちに素直になった。

十一月二十六日

6時離床。サイゴン河のはるか彼方によく熟れたオレンジみたいな陽が昇っている。昨夜のディナーの際ダナン人民委員会中村雅身さんと話す。今朝ホテルに来訪されるのはダナンに仏教的施設を作ろうとしていて、政府の許可を取れたのでその実現への相談との事であった。

わたしのプレゼンテーションをごらんになって相談してみようと考えられた。ダナンの名は日本で言うところのヴェトナム戦争(こちらではアメリカ戦争と呼ぶようだ。)の際、巨大な米軍の基地があったのを良く記憶している。ダナン米軍基地が陥落してアメリカの敗戦へと雪崩打ったのである。

当時ヴェトナムでは米軍への抗議の僧侶達の焼身自殺が相次ぎ、グエンカオキ将軍夫人のバーベキュー発言が物議をかもしたものだ。

中村雅身さんから更に今朝どんな話しがをうかがえるのかまだ知れないが、昨夜の感じでは明るくポジティブな印象の方で私とは気が合いそうだ。カンボジア・プノンペンのひろしまハウスに次いでヴェトナム、ダナンで何かお役に立てるようであれば何よりである。

ホテルの14階の窓からサイゴン河を眺めている。河岸には自走クレーンが立ち大きな貨物船の荷下ろしが出来る。河向うには大型の木造船が4、5隻停泊していて、恐らく観光用なのだろうか。船の往来が絶えない。ホーチミンの街は激変したがサイゴン河の流れは昔のまんまである。ベトコンの兵士がその下に隠れてゲリラ活動したと言う水草も相も変わらず流れている。ゆったりとした歴史と言っても良い程の時間の流れを実感する。8時20分朝食を終え、部屋に戻りボーッとしている。今日の深夜便で東京に戻るがヴェトナムでの4日間は多くの人間にお目にかかれて良かった。

9時ロビーで中村さんと会う。ダナンでの計画に関して依頼を受ける。3haの精神文化公園の計画である。ヴェトナム政府人民委員会の認可も降り2013年に開設式を行いたいとの事。わたしに向いた仕事である。続々とまでは言わぬが、ポチポチとかくの如きの仕事が舞い込みつつある。はずかしくない仕事をしたい。中村さん12月に来日するとの事、そのときに再びお目にかかる事とする。10時了。

古市、三分一、アレックスと会い、今日はフリータイムでのんびり過す事とになる。

サイゴン河をボートで遡行する事にした。小さなモーターボートにガイド付きで4人乗り込む。河風が気持良い。 何となくコースを選んだ中に浮珠廟(KINH.CHU.KHO)が河の中に在り、船の如くで興味深かった。カンボジア・プノンペンのメコン河、トンレサップ河の合流点にあった黄金の宝船を思い起こした。上陸して廟内を巡れば五行聖国の祠であり、BAI DANG HUGNG MAU MEすなわち水母娘々を祭る廟である。すなわち明らかに馬祖神のグループであることは間違いない。不思議な運命の糸に操られている如くであった。気仙沼はヴェトナムまで繫がるやも知れぬ。馬祖神は観音菩薩であり、すなわちアジア一帯の海神ナーガの精霊であろう。浮珠廟のナーガはこれ迄見た竜神の中でも最も過激な竜ではあった。明らかにこの廟は宝船を表現している。

その後、ヴェトナム民家園らしきへ廻る。多くのヴェトナム人カップルの結婚式の数々に遭遇する。結婚式用のテーマパークだなコレワ。

古市さんは愛妻を亡くされて今は一人身である。仰天するようなヴェトナム美女を後妻に迎えるの噂も聞くので実に頼もしい限りである。

船着き場に戻り2時間の小ツアーを終える。古市さん推奨のヴェトナムうどん店へ。その後ブラブラ街を歩く。マジェスティックホテルでドライマティーニを飲ろうとなったがまだBarは開いておらず、じゃあリージェンドに戻ろうと、ホテルに戻りドライマティーニを飲りながら古市さんと談笑。

5時半に岩本夫妻、西沢さんとホテルで合流、イタリア料理店らしきへ行く。「イタリア酒場和伊の介」なる奇妙奇天烈な店であった。全くイタリア料理じゃなくって完全な和食屋であった。

三分一さんのところのデンマーク人、アレックスならぬアクンス・クリネックスを今夕が最期だとばかりに話題集中する。実にシャイな奴で、今日もドライマティーニ飲りながら古市さんとアイツは何者なのだ。石か木魚かと話題集中したのであった。何しろ口を開かない男で、遂にオマエ、しゃべれ石仏じゃあるまいしと、何やら五行の念仏みたいな事になった。

古市説によれば自閉症だろう、外人にもオタクは居るのだ、であり、わたしはそれなら病院に行かせた方が良い、三分一は何をやっとるのか設計の前に病院に連れてけないの、であった。いやはや今度の旅は実にクリネックスじゃない、アシックスでもない実はアレックスなる人間に興味津々であったのだ。酒が入ればキチンと話しもできるし、人一倍の食欲の持ち主で、しゃべらないのは常に口へ喰い物を運び続けているからだと判明して、まずは良かったのである。

岩本夫妻にホーチミン空港まで送っていただく。夫人は日本史研究の才女であり、身重でおなかもふっくらしてきて母親の顔になっており美女であった。岩本君は果報者である。

チェックインして24時ホーチミン発のJAL便に乗り込み、座席に着いた途端に眠り込み水も食事もとらず、眼が覚めたら成田であった。こんなに飛行機で熟睡したのは初めての事である。

十一月二十七日 日曜日

スチュワーデスにゆり動かされて目覚め、飛行機を降りて、京成線、都営新宿線経由烏山へ。10時頃世田谷村に戻り、再び眠る。明日は又、早朝成田へ行かねばならない。

夕方、少しばかりの買い物。明日からの韓国は激寒が予想され、ヴェトナムとは全く異なる準備を少々。22時半メモを記して再び眠る。こんな事ならホーチミンからプサンへ飛んでも良かったのにと今頃気付く。でも、それ程の体力はもうないのであるのが現実である。

石山研のサイトをのぞきヴェトナムからの通信がONされているのを確認する。五月女のドリトル先生クラブのギャラリーもようやく第二室イスタンブールの地下ギャラリーへと展開していたので視入る。

人影の動きがとても良くなった。第二室は水中世界なのでとても表現が難しいだろうが、全てマテリアルは渡してあるので、どう料理してくれるか楽しみである。第一室のヴェニスの水上バスの動きはもう少しゆっくりさせた方が良いのではないだろうか。

640 世田谷村日記 ある種族へ from ヴェトナム
十一月二十四日

7時離床。横にはなっていたが結局完全には眠れず、起きてシャワーを浴びる。昨夜打合わせで中国の話しは触れるな、地図は映すなの注意があった。領海問題で相当越中間は悪くなっているようだ。いずこも同じである。

7時半Grand Floorのレストランで古市徹雄、三分一博志さんと朝食。8時30分7階のレセプションRMに上がりそのままシンポジウム開始。このシンポジウムのスポンサーであるイタリアのタイル屋、石屋の前にイタリア大使館のあいさつあり。9時三分一さん、10時前古市さん、11時石山の小レクチャー。わたしは三分一博志氏を知らなかったので仕事は初対面であった。引き続き実に沢山の質問が投げかけられた。12時半了。キチンと進行したのでビックリ。

会場には多くのヴェトナムの建築家達、協会長等がつめかけて名刺交換する。タイル屋さんも大勢の参会者に満足のようであった。昼食はホテル内でヴェトナム麺を少しばかり。全くホテルから一歩も出ずに過しているわけで、余り良い人生ではない。14時了。車でハノイ飛行場へ、16時発のホーチミン行の飛行機に乗る。18時定刻通りにホーチミン空港着。再び車で市内ホテル、レジェンド・サイゴンへ。チェックインして小休後19時50分に以前に来た事があるヴェトナム料理の店へ。イタリア領事館スタッフ、ホーチミン建築家協会副会長等と共にディナー。今夜は少し程々の食事となった。22時半ホテルに戻り、ロビーで古市さん等とドライ・マティーニを流し込み、23時過部屋に戻り、サイゴン河を眺めて眠ろうとする。全く疲労困憊の極である。

十一月二十五日

6時半離床。昨夜は少し眠れた。久し振りのホーチミン市は激しく変化していた。しかしサイゴン河の骨格は変わりはない。昔この河を使ってベトコンがサイゴンに攻め入ったのも夢のようだ。彼等は川に浮く草の影に隠れて米軍を侵攻した。従軍記者としてヴェトナム戦争を取材した開口健はマジェスティック・ホテルのドライ・マティーニはキリリと冷えて美味だと書いた。それが印象に残り、ホーチミンに来ると、ドライ・マティーニとなる。今朝も早くからシンポジウムである。サイゴン河はバンコクのチャオプラヤ河に似た機能になってきた。産業の動脈であり同時に観光資源としても使われている。

7時半1階レストランへ。屋外の席で三分一、古市両氏と食事。ベトナム温麺を食す。

8時半2階シンポジウム会場へ。すぐにハノイと同じような順にプレゼンテーションする。私のプレゼンテーションは今回の方がうまくいったような気がする。会場より熱心な質問が相次ぐ。12時半過終了。終了後何がしかの人が来てあいさつ。ダナン地区、ダナン人民委員会ダナン外務局中村雅身さんより相談したい件があり、明日朝9時に会いたいとの事で了解。13時半車で昼食会場へ。

フエ料理レストランTibへ。美味であった。15時過了。ホテルに戻り、イタリアのタイル屋さん達と別れる。明日はインドへ飛ぶそうだ。イタリア人にも猛烈社員が居るんだな。流石に疲れて睡魔が襲い部屋に帰り眠り込む。17時半迄熟睡する。18時迄メモを記す。19時にはホーチミンの日本の方々との会食が控えている。

ようやくヴェトナムの事情が少しだけ頭に入ってきた。チベットに出掛けた時にラサで人民委員会の方々と夕食を共にした。やはり同じように地区毎に人民委員会の組織があり社会主義の許に動いているのだ。ホーチミン市はハノイとは随分おもむきが異なり、中国に例えるならば北京がハノイ、上海がホーチミンに例えられるだろう。

日本人の若い世代の人達がホーチミンには入っていてきちんと働いているようだ。頼もしい限りである。日本の停滞を考えれば順当な身の振り方であるだろう。ヴェトナムで成功する人が出現するのを望みたい。

今日の午後2時間たっぷり睡眠を取れたので体は何とか持ちこたえられそうである。18時半2Fのビジネスセンターへ。研究室にFAXを送る。折角持ち込んだ『六ヶ所村の記録』は全く読み進めていない。

639 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十三日

9時40分銀座TSビル1階で臼井賢志さんと会う。滝田栄さん「鎮魂の地蔵堂」の模型、「点字毎日」記事等が新しく展示されてそろそろ見応えがあるモノになっている。

臼井さんと媽祖神グループへの対応に関して突っ込んだ話をする。李祖原さんから送られてきた「鎭瀾宮・建國百年・媽祖遶境」のDVDを眺める。力強く、派手でエネルギーに満ち満ちている。これをまともに気仙沼にぶつけるわけにはいかないと意見は一致する。

臼井さんが総代を務める五十鈴神社境内に一度御神体をお迎えして、気仙沼に馴染んでもらい、又、傷んだ神輿等も修繕してくれたらいいなとなる。

五十鈴神社は気仙沼内湾の要の地にあり、そこの神域の復興を媽祖神と共に行なうのはどうかのアイデアである。早速具体的な提案として李祖原に伝えたい。

他、岩井崎、陸前高田の件等を相談する。13時前迄。2階食事スペースでシーフードカレーを食べて別れる。東京駅からNRTエクスプレス、只今車内でのメモである。

16時成田空港のラウンジでひと休み。陽は傾き始めている。今朝は多くの事をなしたわけではないが、気仙沼の状況はわたしなりにほぼ把握できたような気がする。

1980年代の構図がほぼそのまんま継続していると考えて良かろう。

明日のハノイでのレクチャーのシノプシスを眺めておさらいする。随分レクチャーの時間が短縮されたので、ヴェトナムに大事そうな事だけを述べることに決めた。

世田谷式クリーンエネルギーのセルフ・メイド・エナジー・キットの部品供給、そして製作をヴェトナムに依頼してみたいと考えた。17時前、色々と考えを巡らせるのを休止して休む。

英語でレクチャーをつぶやいてみる。英語の苦手な者の辛さだなコレワ。

マア何とかなるであろう。19時夕食の準備。ハノイ迄は6時間少しのフライトである。

英語による明朝からのレクチャーの準備をしているうちに、内容がかなり過激なものになりそうで我ながらバカだなと思う。ヴェトナムは世界で唯一アメリカと戦争して負けなかった国だけれど、その精神は今はどうなのか。中国に伏しているというのは知ってはいるが。20時過夕食を終え、レクチャーの下準備も終えてさて、ヘロドトスならぬ鎌田慧の『六ヶ所村の記録〈上〉』にとりかかる。

ヴェトナム行くのにヘロドトスか六ヶ所村か1秒ほど迷ったが、六ヶ所村にした。ヴェトナムがこれから対面するやも知れぬ問題かも知れぬ。

ヴェトナム時間22時半前、日本時間24時半前、ハノイ空港着。ドライバーが待っていてホテルへ。カンボジアと良く似ている風景である。ホテル・メリアではイタリアのタイル屋さん達と、古市徹雄さん、広島の三分一博志さんが待っていた。

24時半打合わせを終え眠りにつく。

638 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十二日

10時半研究室、五月女くんのWORKを見る。苦労しているようだ。

11時過ウォーラル助教と話し合い。ベルギーよりの留学生に関して、他。

14時研究室発新宿長野屋食堂で佐藤くんと昼食。16時過去り、烏山へ。

18時半世田谷村帰着。今日は事実上の休みとする。

ヘロドトス2巻171頁まで辿り着く。実に退屈な本となる。

昨日、伊藤毅先生からヘロドトス中学生の頃読んだナア、実につまらなかったと言われたのが妙にひっかかっている。しかし、ここで止めては中学生以下と言われかねぬと思い、本当に退屈で死にそうになるが、歯を喰いしばって読んでいる。早く終わりたい。それだけだ。ヘロドトス奴とつぶやく。余程この男退屈だったな。

20時半気仙沼・臼井賢志さんと連絡、明日の予定に関して。

十一月二十三日

6時半離床。ベトナム行荷づくり、といっても15分で終了。ベトナムは30℃だそうだ。午前中から午後にかけて幾つかの用件を済ませてNRTに行かねばならない。夜の便で発ち深夜ハノイ着の予定。

8時半朝食を食べて少しのんびりしている。朝の陽光が身を包み少しだけれどホッとする。

637 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十一日

10時渡邊助教と車で大学へ。気仙沼地蔵堂の大きな模型を積込み銀座TSビルへ搬送するのを見送る。これで今日から銀座会場で見て頂けるモノが一つ増える。2つに割って中を体験できるようにしてある。

11時半製図室で今日の早稲田東大合同講評会の準備を見ながら打合わせ。

12時半東大の先生方が見え始めて談笑。13時過合同講評会開始。小休を挟んで17時迄。ここ5年間で最も濃密な合同講評であった。両校にとっても少しづつ実を結びつつあるのを実感する。やはり設計製図教育には部厚い時間の積み重ねが必要だ。

今年は東大からの提案でやはり学生個々人の成果を見たいとなり、そうしたがこれも又、タイミングが良かった。 グループの設計の良さはもう充分に学生達は体験をしており、早稲田は昨年より希望者は独りで取り組みなさいとしていて、自然な流れでもあった。

評者は東大隈研吾、大野秀敏、伊藤毅、千葉学氏他。早大中川武、入江正之、古谷誠章、後藤春彦、有賀隆、進土五十八氏他であった。司会を渡邊大志が務めた。

両校共に女子学生の頑張りが目立った。

私見ではあるが、東大の設計製図教育は建築計画学の拡張が基底にあり、早稲田は歴史、意匠の径を歩き始めていて、両校共にその成果が出たように感じた。

早稲田は佐々木千恵の作品が秀逸であり、これは歴史・意匠学とでも言うべきものを学生なりに直観として体現したものである。

今年の課題は世田谷区九品仏浄真寺内外(墓地を含む)、そして700年のカヤの木、400年のイチョウの老木を含む、将来の都市のインフラストラクチャーを考えよというものであった。

早稲田の李野のモノ、東大の斉藤せつなの作品に対する大野秀敏先生の講評がとても良かった。中国文化と日本文化の歴史的関係を、2人の学生の作品に視たものである。二つの作品の関係は、近未来の中国と日本の関係を予見しているようにも思えたのである。偶然ではあったろうが、対比の妙、取り合わせの妙とでも言うべきがあった。

進士五十八先生の評を評して伊藤毅先生が「シャープだなぁ」と述懐された。鋭い評を鋭いと見抜く者も又シャープなのだ。先生の課題作りへの意欲がこれ等を生み出した。

17時半より懇親会。この先の事など隈研吾先生等と話す。その後、会場を抜けて地下鉄で新宿味王へ。進士五十八先生、隈研吾先生、大野秀敏先生、伊藤毅先生、古谷誠章先生、他と歓談。来年もこのスタイルを原則として続けましょうと意見が一致した。

21時前散会。世田谷村に戻る。

十一月二十二日

7時半離床。明日からベトナム、そして韓国なので今日はゆっくりしたい。8時半メモを終える。朝メモを記すのが完全に身体に染み付いた習慣になった。

9時半前世田谷村発、研究室へ。

636 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十八日

副都心線経由西早稲田。地下ドライエリアで気仙沼地蔵堂の大きな模型製作中を見る。少しの手直しを指示。2分割して銀座に展示する事を決める。約束の時間に少し遅れて研究室。GA若い編集者のインタビューを受けるも全く波長が合わず、これではインタビューにならぬと判断し、中断する。

地下スタジオ・製図室にて3年設計製図採点。難しい課題であったが、マアマアの成果であろう。A++を一点、A+を一点、Aを数点選ぶ。底の方の学生が、特に女子学生が良く頑張って、デザインにやる気を見せたのが嬉しい。

進士五十八先生来室されたので、学生達に小スピーチを依頼する。図らずもアニミズムに関しての話しをされ、大いに共感する。大変良い小レクチャーとなった。

学生にいささかのねぎらいを述べる。

地下の外気の中で模型を作り続ける研究室メンバーの仕事を見て、これも又、ねぎらう。愚鈍にWORKすると、要領良く逃げ去るのと2種の人間が居るのはすでに良く知り抜いている。

新大久保まで歩いて帰る。

18時半、烏山長崎屋で一服。20時世田谷村に戻り夕食。

今日、ヘロトドスの「歴史」は1巻452頁(訳注を除く)を読みおえ、第2巻56頁読み進む。

第2巻に進み内容が辺境の地域の地理的描写、そして一つ眼の人種等の記述もあり、いささかゲンナリしてしまうが、少し読む速力を早めて続行する。こうなると読書もスポーツである。イヤにならぬように頑張りたい。

十一月十九日

8時離床、メモを記す。手帳をのぞいたら、今朝は11時に銀座気仙沼会場にて藤野忠利さんにお目にかかる予定が入っている、ゆっくりは出来ぬ。

11時前に銀座TSビル、東日本大震災応援プロジェクトフロアー着。

気仙沼商工会議所及川さんにお目にかかり、打合わせ。臼井壮太郎さん同席。藤野忠利さん来る。二人に紹介し、宮崎の子供達の気仙沼応援の絵の御礼他。12時前去る。13時前地下鉄西早稲田、地下ドライエリアでの気仙沼地蔵堂の模型製作を見る。仲々良いモノに仕上がっていた。21日の銀座搬入の段取り。13時前製図室。13時過3年設計製図学内講評会。一点際立った作品あり。他にもう一点良いモノ、そして大方の学生は難しい課題に対して良く頑張った。又、特別課題ル・コルビュジェのサヴォア邸を参照しつつこの課題に取り組め、のグループを新設したのだがこのチームの頑張りは仲々であった。やれば出来るのだ。3年生の大半は、実は模写のトレーニングを課した方が良いかも知れない。

18点の講評を終え、17時去る。再び銀座へ。新橋と京橋を間違えてしまい、大騒ぎになったが、それでも暴風雨の中、京橋の中華料理屋雪中軒にて鎌田慧夫妻、鎌田遵夫妻にお目にかかる。うまい中華料理をいただく。フカヒレスープ、もう一点の茶碗蒸し状の容器に入ったスープがとりわけうまい。流石銀座の中華料理屋は烏山長崎屋のレバニラ炒めとはちがうわいとつまらぬ感想をつぶやく。

鎌田慧さんから、岩波現代文庫、『六ヶ所村の記録(上)(下)』両巻、鎌田遵さんから大月書店、『アメリカ先住民』をいただく。

わたしも両氏に絶版書房「アニミズム紀行5」を差し上げた。

21時前会食終え、鎌田慧夫妻と別れ地下鉄で新宿へ、遵夫妻と別れ烏山へ。

22時に世田谷村へ戻った。

ヘロドトスは2巻108頁迄進んだ。王達の戦記の体が増々明らかになる。王と呼んではいるが族長の群れである。

デルポイの巫女の権力が一番強いのではなかったと知るが、巫女はどうやって座女になるのかはまだ記されてはいない。

十一月二十日 日曜日

10時前、離床。雨は上がり明るい良い空が拡がっている。メモを記す。

昨日の雨にぬれ、少々カゼ気味である。

鎌田慧さん『六ヶ所村の記録・解説・広瀬隆』より読む。引き続き70頁まで。ヘロドトスは2巻126頁まで読む。

鎌田慧六ヶ所村の記録はヘロドトスの歴史と同じような趣があるのを知る。

六ヶ所村がこのようにして原子力廃棄物処理場になってきたのかが、やはり人間の考えと欲得づくで動いた様子が手に取るように解る。まだ出だしだけ読んでいるに過ぎぬが、財界、官僚、政治家たちが実名で登場し続けてくるのが実にヘロドトスなのである。

このようにして恐らくは福島の原子力発電所も作られ、引いては小さな日本列島に原子力発電所が密集することになったのをも予測させる書き振りである。青森県には往時ギリシャの辺境に居たとヘロドトスが描いた一つの眼の人種や空飛ぶ蛇迄登場する怪異とも呼ぶべき人間のつくり出した悲劇とも言える神話が繰り拡げられていた。

その登場人物は鹿島開発、そして東海村原子力発電の登場人物とほとんど同一の者であるらしい。

すなわち、それは今の原子力発電所が引き起しつつある人類の悲劇へと繋がる。

15時長崎屋に出掛けたら、丁度客の吉田さんが競馬で大当たりして、おごっていただく事になった。

17時半世田谷村に戻り夕食、カゼ薬を飲んで寝た。

十一月二十一日

7時半前離床。メモを残す。2冊の歴史書とも言うべきを併読しているのが我ながら面白い。

鎌田慧を読んでいるとやはり司馬遼太郎の危うさとも呼ぶべきが浮き彫りにされる。

自分に都合良く解釈すれば司馬遼太郎の描いた世界は長崎屋の人々の世界が描かれてなく、鎌田慧の世界は長崎屋の人々の眼を介した世界なのである。陽の当る世界と陽陰の世界と抽象化したらキレイだろうがそうではない。

635 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十七日

副都心線経由。11時地下スタジオ製図室。十勝ヘレンケラー記念塔増築計画スケッチ。13時富沢さん来室、小型風車情報。「世田谷式生活・学校」2012年クリーンエネルギー市に関して。中国市場参入させるアイデアが浮かび上海行を繰り返している安西直紀さんに連絡する。五月女ドリトル先生動物園倶楽部動画打合わせ。

15時十勝後藤健市さん来室。ヘレンケラー塔増築の打合わせ。すすめばすすむ程に要求も細かくなり、設計も面白くなる。担当の渡邊助教も勉強のしどころである。特に宿泊棟の各室は難しい。若い頃、日本中の旅館、ホテルを泊り歩いた事を思い出す。大方のクライアントの考えもまとまり、そろそろ現場を訪ねた方が良いだろう。知り尽くしたサイトだが記憶が不確かな部分もないわけではない。

16時15分発、市ヶ谷私学会館へ。日本デザイン機構主催講演会・討議へ。旧知の方々と2階の喫茶室で談笑し、18時前7階会場へ。

18時講義始める。頭にベイシーの小話を置き、終りにワイマール・バウハウスに関しての私見を置いたわたしとしては新しい試みである。

19時20分講義了。コーヒーブレイクを挟んで質疑応答。的を得た質問が連続して往生した。でも一生懸命応える。最前列に女子高校生がノートを取っていて緊張したが、この子が仲々良い質問をしてくれた。

20時半終了。充実した会であった。

日本デザイン機構理事長・水野誠一さんと再会。水野氏めざとくわたしが持ち歩いていたヘロドトス「歴史」を見分けて、この訳者はいいのだと言う。流石だなと感心する。JIDA理事長・浅香崇さんからも適確な質問をいただけた。

その他多くの旧知の方々、新しい方とお目にかかる事ができてよかった。

21時半閉店間際の烏山長崎屋に寄り、オヤジの首のハレモノを見る。

オヤジはだいぶん酔っていた。心配なのだろう、励まして去る。

そう言えば今朝は京王線車中で見知らぬ方に声を掛けられ名刺交換した。随分人に出会えた一日だった。

ヘロドトスは途切れ途切れに400頁まで進んだ。

十一月十八日

ヘロドトスを読み過ぎて、10時過に離床の体たらくである。歴史は朝方の深い眠りを誘うのであろうか。10時半メモを記し終り研究室に送附する。うすら寒い朝である。ベトナムの講義の少しばかりの組直しが必要であろう。横浜グランモール計画を最終のしめくくりにするアイデアをとりたい。ベトナムの自然の力と共生するヴィジョンを話せれば良いのだけれど。

634 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十六日

11時半製図室。少しばかりの打合わせの後、14時半新大久保近江家で昼食。電車でヘロドトスを読みながら烏山へ。宗柳のオヤジさんより長崎屋のオヤジのリンパ腺がはれて病院へ行ったと聞く。長崎屋のオヤジは渦中ビールビンにけつまづいて倒れて腰を打ち入院した。赤銅鈴之助みたいな胴にコルセットをつけて店に現われては、長崎の昔話しに明け暮れの日々であった。ようやく快方に向かうか、少し良くなったら一緒に休日にでも高尾山にケーブルで上って(歩いて登るのは御免こうむる)オヤジの植物学、雑学のうんちくなど聞いてあげようかと考えていた矢先の事である。耳の下がポックリ膨らんでいるので心配ですと宗柳は言う。そうだね、私も心配ですと伝える。

十勝の後藤さん、木曜日に上京して会う事となる。配置計画の大方が決まるだろう。

十一月十七日

7時前離床。寒くなった。ヘロドトス『歴史』は270頁まで読み進んだ。今の時期、私の年令に読むには良い本である。ギリシアの神々でエジプトから来なかったのはポセイドンとデュオニソスだけであると述べているのが面白い。ニーチェの『悲劇の誕生』に示された直観は余人には計り知る事が出来ぬ程に深層に迄届いていたのかも知れない。又、エジプト人の犬や猫、否、猫や犬他の生物に対する考え方、心の動かし方が述べられていてとても面白い。ミイラの作り方(一般の人々の)にも3種類あってのディテールも興味深い。いつ休止しても良いのだけれど、ともあれ関心が続く限りは読み続けてみよう。

日本の古代神話、大国主命の国譲りやヤマトタケルノミコトの東征などの物語りもエジプト、ギリシアの影響を強く受けているのではないかと、思い付いてもせん無い事を思い付く。

8時半過、新聞を読むもつまらないので再びヘロドトスに戻る。

ヘロドトスの『歴史』は要するに一人で書いた今の新聞記事である。それにしても新聞よりはるかに面白いのである。

633 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十五日

新宿から地下鉄で西早稲田、製図室、12時半。地下鉄の通路をだいぶ歩くが新大久保経由より少しは楽かな。日本デザイン機構のレクチャー、シノプシスを作成する。その後、若干の打合わせ。学生の製図作業を見る。

16時新宿長野屋食堂で遅い昼食。19時頃世田谷村に戻る。電車で読んだりで、今日はヘロドトスは183頁まで読み進んだ。

一切の抽象的な解釈らしきは記されていない。それにしても紀元前500年以前の世界は託宣と小さな戦争に明け暮れていたのが知れる。デルポイの巫女の予言は大きく世の大勢迄も決めていたようだ。

日本では梅原猛の日本古代史への記述が、同様な事を指摘しているようだが、日本のアカデミーからは殆ど無視されているらしい。しかしヘロドトスを読めば、梅原の指摘は正常のような気もするが。古墳時代の王達はそれの連続であったろうと思わせる。

183頁で第一部が終わった。上巻は第三部まであるので前途は長いなコレワ。

十一月十六日

8時過離床。良く晴れた朝である。やはり秋の陽光はうら寂しいと思わせるが、何故だろうか。最近製図室でコーヒーを飲むクセがついてしまい、それで仲々眠りにつけぬのか。眠るのも体力のうちとは言われるが、たしかに若い時と言うのは1日の、というよりも時の流れの大半は眠っているようなものであった。そう振り返れば学生達がいかにも考えようとしたり、思い迷ったりしている、あるいはそう無意識のうちに振る舞っているのを見ていると、おかしくて笑ってしまうのである。賢しいのはいずれ眼が覚めて視えるようになるし、愚かな者はズーッとロバのままなのだ。わたし自身はどうかと言えば年を経て眠れなくなっているだけのお粗末である。

今日の午後にはドリトル先生動物園倶楽部スペシャルの動画、inヴェネチアの第2室への入口部分が出来ると製作者は言っていたが、できないと思うよ。かなり難しい注文を出しておいたので、出来るわけがない。でも導入部分の第1室はチラリと見えるアドリア海の空もそれらしくなってきたし大方良くなってきている。

自分でもこれは単なる気まぐれの思いつきなのか、どうなのか見境いがつかぬ事をやり始めてしまう事があるのは承知している。しかし、その不安に耐えて無明を歩いてゆくと、何年か前のそれらしき気まぐれを発掘したりで、気まぐれが一つの道として見えてくる時がある。連続が見えてくると、これは何かに向けて本能的に歩いているのかも知れぬと希望を持ったりもする。

ドリトル先生動物園倶楽部の遊びはまさにその最中にある。とても大事なことに向けて何かを構想しかかっているか、全くの無駄かどちらかであろう。しかし、こういう遊びは激しく遊ぶ程にそれなりの価値が生まれるのも、すでに体験で知っている。

旅というのが、まさにそれだ。全くの無駄と言えば無駄としか言いようが無いし、無尽蔵な栄養源になると言えばその通りでもある。

やり始めている遊びは脳内の旅であるから、現世の旅とは異なる世界をのぞくやも知れぬ。

632 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十三日 日曜日つづき

今朝書いた絶版書房交信46を珍しく読み返している。

佐藤健を介して何度かお目にかかった小田実が亡くなる前に、確かトルコの西岸にあるギリシャ時代イズミールの遺跡を訪ねていた映像を記憶している。イズミールはヘロドトスによれば紀元前1000年にアイオリス人によって建設された。又ホメーロスが暮した都市でもある。小田実は『ゴヤ』の大冊を残した堀田善衛の流れを汲む全体小説とでも呼ぶべきに取り組んで挫折した知性であった。

堀田善衛もアンダルシアの農村に棲み暮しながら、スペインの近代を考えようとしたきらいがある。堀田も又、失敗した小説家である。でも、その失敗は日本近代に於いて余りにも正統過ぎる失敗であった。

小田は佐藤にしきりにヘロドトスを読めと言った。

ヘロドトスはギリシャが生んだ歴史家である。ギリシャの歴史を全体として叙述しようとした。その叙述の形式が歴史という概念の始原であると聞いて、当然、そこにはエトルリアが大層分厚く記述されているだろう。

佐藤健は60才で若死したから遂にヘロドトスは読まなかった。

読む必要は感知していた。彼のライフワークは阿弥陀の来た道を探る事であった。

そしてそれはシルクロードを遡行してペルシャ迄続くのをすでに知っていた。

小田が本能的に遊んだトルコ西岸のイズミール、ギリシャ神殿を思い起す。

ボスポラス海峡を超えれば、そこは今のギリシャだ。又、東進すればペルシャ帝国の中心地であった高貴なるイラン高原である。

全く悔やんでも悔やみ切れぬのだ。もう少し若い時代に勉強してから旅に出ておれば良かった。肝心な処はほとんど旅をしているのに、手許にはほとんど何も残っていないのである。

韓国西海岸に支石墓群の遺跡があり、紀元前1000年のものであるらしい。非常に興味深い造形である。イギリスのストーンヘンジが起源だと言われているようである。朝鮮半島は宗廟の盛り上がる外部床を視ても石の文化が日本とは比べモノにならぬ位に高度なのは知れる。仏国寺や石窟庵を見てもそれは知れるが、今度訪ねられたら石を沢山スケッチしたいものだ。

十一月十四日

9時半前離床。恐らく朝にかけて膨大な夢をみた。

起きたらすでに陽は高かった。

秋も深くなった。

10時半気仙沼の臼井賢志さんと連絡する。23日東京でお目にかかる事になった。11時半新宿紀伊国屋書店で岩波文庫、ヘロドトス『歴史』上、中、下巻を求める。12時半地下スタジオ製図準備室にて打合わせ、諸々。夕方になり韓国の建築研究の雑然とした打合わせ。17時半地下スタジオを去る。

18時半烏山長崎屋にて夕食。驚いた事に看護婦猛者軍団の随一が、テーブルでグッスリ眠っているのであった。やがて目覚めて今日は12時過からここで眠っていたか!とつぶやくのを聞いて再び驚く。今日は非番だそうで、連日の重労働で心身共に疲れ果てたらしい。

医は仁術也と言うが、医者も看護婦さんあってのモノであるのを知らされた。

20時半世田谷村に戻り小休。

21時より早速ヘロドトスを読み始める。簡明率直な語り口に驚く。日本で言えば万葉人よりも更に一世紀も古い時代の人間の言葉である。

十一月十五日

8時前離床。昨夜はヘロドトス『歴史』を70枚迄読んで眠りについた。エトルリアに関する記述は一ヶ所出てきたが、当然当時(紀元前5世紀)はエトルリアとは呼ばれておらず、テュルセノイ人と呼んでいるようだ。

632 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十二日

12時過、地下スタジオ製図準備室。学生の姿はチラホラ。鳥居・橋本と打合わせ。橋本の作っている大きな気仙沼地蔵堂の模型を写真で見る。五月女とドリトル先生動物園病院inヴェネチアの映像について打合わせ。

ギャラリー第1室のマテリアルは一点を残して全て渡したので彼も全体を把握できたろう。第2室のイメージ上の設計を伝える。2室は地下、しかも水の中のイメージである。地中海のヘラクレス塔水中遺跡とイスタンブールアヤソフィア前の入口から地下に潜る地下の水の都市がミックスしたイメージ。仲々難しいが出来るかな。

1室にもすでに水が浸入してきている。ヴェネチアの宿命だ。

渡邊、佐藤と十勝の計画打合わせ。少しずつ進んでいる。学生の製図を何人か見る。16時半発。地下鉄で六本木へ。17時半国際文化会館磯崎新アトリエ網谷さんを偲ぶ会に出席。献花。磯崎新等のスピーチの後、立ち話。150名程の出席者であったか。

19時半鈴木博之さんと共々会場を去る。久し振りに多勢の人にお目にかかった。

鈴木さんにエトルリアの話し等、聞きながら歩き、地下鉄へ。何でも知っているな彼は。手許にあった美術出版社、D.H.ロレンスのエトルリアが何処かに消えてしまい、それで最近頭から離れなくなっている。

でも保存の問題はつきつめればエトルリアの遺跡の問題に通じてしまうのだと思う。ローマのギラジリア神殿を教えていただいた。

彼とのシシリアの旅は至福の旅であった。いつかエトルリアの旅を鈴木博之と共にしたいものだ。

新宿駅で別れ、烏山へ。長崎屋で一服する。看護婦軍団の猛女がいて、勇気を出して話しかけた。やっぱり、凄い体験の重なりを経ているのが知れる。ダテや酔狂で強いのではない。

21時半世田谷村に戻る。

十一月十三日 日曜日

8時離床。サイト、ドリトル先生倶楽部(英文)を覗く。

ヴェニスのギャラリーは大部修正されて、第1室はまだ未完であるが、見れるようになった。

第1室の入口から入って右手に視えるアドリア海の海の色が空の色になっているので直したい。空はナポリじゃないのでうすいハケ雲が三筋など流れてもらいたい。

いずれ、それぞれの絵の下に読めるように題名を入れたい。

左手奥にいる影の男は宮沢賢治だが、最初に眼に入る姿は、やはりお決まりの賢治スタイル、手を後で組んでうつむいているのが良い。

それが右手を振りかざして、昨日ONした第1室最後の絵の中の影の姿に似てくるようにして欲しい。

唯一の窓からのグランキャナルにはやっぱり水上ボートが走っていて欲しいが、良いボートの姿が得られたらで良い。動きが欲しい。

2番目の石山研オリジナルの扉を開けて視えるグランキャナルには船があってはならない。

水の床へのしみ出し方をもう少し研究してもらいたい。これも動かせないか。ジワリ、ジワリとしみ出して拡がってくる感じに。

又、第1室最後の絵、色めいた空気の中にいる影の絵は大事な絵になってゆくので、もう少しじっくり時間をかけて見せておいた方が良い。でも大分良くなってきた。

10時半、絶版書房交信46「場所のオリジン」書き終わる。書いていて面白かった。それが一番だろう。

631 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十一日

22時20分、ドリトル先生動物園病院Ⅵ描き終る

Ⅵは北海道十勝音更町「水の神殿」の本殿入口ドアのデザインでもある。アイヌの聖地に建立される神殿である、それなりの荘厳がなされるべきだろう。

幻庵よりも鮮明なアニミズムがにじみ出ている。

先程、狭山の町田さんより連絡いただき、仕事引受けさせていただく事とした。25年前に施工途中迄すすめていたモノはわたしの仕事の中でも最も過激なモノであった。アノ部品を使って更にどう展開するのか緊張せざるを得ない。

十一月十二日

8時半離床。1度5時半に目覚めたが再び眠った。陽が高かった。

ドリトル先生動物園病院Ⅶを描き始める。扉を開けて、だが開けた内部のアイデアがまとまらず休息する。

結局まとめないままに放置するのがベストだと考え、WORKを中断する。

ギャラリー2室のために描きためていた絵5点と共に総計7点を持って世田谷村を発ち地下スタジオ製図準備室へ。11時半。

630 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十日

絵を2点丸めて小脇に抱え世田谷村を発つ。13時銀座TSビル・東日本応援スペース。会場は来客も少なくガランとしている。これではレイアウトがどうのこうのという問題ではない。すぐに今日の予定を変更する事を決める。

ただし会場奥の宮崎の子供達が描いてくれた絵の群は明るく、元気で良かった。そして見るに耐えるモノでもあった。

13時半過、安西直紀さん来る。2階に新設された食事のコーナー前の椅子テーブルで打合わせ。これは何とかしなくてはなとなるも、すぐに良い知恵が出るわけもない。人間の動きが必要だろう。

15時前、馬場昭道さん現われる。坊さんが坊さんの姿で現われると存在感大である。昭道さんも貫禄が出てきた。気仙沼商工会議所の及川さんに紹介する。17時前、新宿で持ち歩いたドローイング2点を渡して、烏山へ。長崎屋で長崎帰りの吉田さんに会い、福砂屋のカステラの御礼。明日はオバンの誕生日でオハギが振舞われるそうだ。

十一月十一日

8時前離床。すぐに色々と連絡するも、話せたり、話せなかったりだ。皆さん朝早くから動いているな。

宮崎の藤野忠利さんに子供達の絵の御礼。

629 世田谷村日記 ある種族へ
十一月九日

9時半世田谷村発。10時40分先端建築学論、12時過了。地下スタジオで研究室打合わせ。鳥居、橋本は銀座気仙沼展作業を2人でよくやった。お蔭様でTSビル2階会場が少しはサマになり始めているように思う。14時北海道十勝、北海点字図書館理事長・後藤健市さん来。ヘレンケラー塔増築打合わせ。我々が作っていた第一案は破棄する事となる。わたしも、ひどく物足りなかったので納得する。全ての場所から日高山脈、幌尻岳を眺められるようにという要求はなる程と思う。又、増築部分の屋上はフラットにして屋上を使えるようにというのも良い。わたしも今の片流れの形態は全くふやけていて気に入らなかった。これでスッキリやり直しが出来る。スタッフも頑張れるだろう。ただし、塔と増築部分とコネクトするという提案は、後藤さんも考えていた様で良かった。

そうしないと塔が死んだままになってしまう。この塔の上部の室の超絶無比な良さを再生しなければならないのだ。

平山、佐渡に課題を与え、五月女のサイトWORKをチェックする。

16時過地下スタジオを去る。一直線に世田谷村に戻り、すぐに夕食を喰べる。今日は四国の鎌田社長とも話せたので、平凡だが良い1日であった。

クライアントと話し合う位楽しい事は無い。皆、思わぬ事を考えているモノで、それは設計だけ考えている者にとっては大きなヒントの群なのである。

今朝は7時から9時過迄かかったが、日経プロムナード「ライトと賢治」を書けた。これは今迄で一番の出来だと自負する。本来のわたしが書くべきコラムの筋であろう。

でも筋通りばかりでは読者は退屈だろうも考えて色々と工夫を重ねたい。

21時ドリトル先生動物園病院Ⅴ描き終わる。

何だか我ながらえらい事になってきたと言うか、変な土地に踏み入ったの感あり、ここらで踏みとどまった方が良いだろう。

でも、Ⅴは極めて建築世界に分け入ったドローイングだと言えるだろう。

かくなるドローイングにコメントの文章をつけるのは極めて困難である。でも1行を附する事にした。

22時いささか疲れて横になり、歌舞伎の本を読む。

24時半、五来重『高野聖』を読みながら眠りにつく。

十一月十日

7時半、離床。サイトをのぞく。五月女がドリトル先生動物園病院物語りを動画にしてくれてONしている。今度は仲々の出来で満足する。壁、床、他の室内のテクスチャーも随分勉強したようだ。まだ窓から視えるグランキャナルの水上バスの感じがいまいちだが。それでも第一作とは格段の仕上がりである。室内に居る人影の感じも大変良い。

これでヴェネチアの風景が視える窓の前に立つと、グランキャナルを行き交う船の音や町のざわめきがフーッと音として入れば更に良くなるだろう。

ここ迄やってくれるとわたしの方も絵(ドローイング)の製作に拍車をかけなくてはならない。

昨夜描いたⅤは我ながら意味あり気なモノであるのでこの絵の前に立った影はしばらく凝視した後に、前の帽子の塔の絵の前に戻るという動きはどうだろうか。と、良く出来れば出来る程に注文は多くなるのはあらゆる設計、デザインに共通する習いである。実は第二室を想定した絵数点はもう描き終えている。小さな室で仄暗い。蝋燭の灯りがユラユラしているような部屋で、絵がボーッと光っているような感じにしたい。何処まで続けられるか知る由もないが自分で面白がっていれる間はやってみたい。勿論、五月女も面白がってくれなければ出来ない事ではある。

しかし彼の妙な潜在力のありかはつきとめられたような気もする。

日経コラム「ライトと賢治」に手を入れる。この文章はほんの少しばかりだが石山研のサイト上の美術館と似たところがある。美術館と言えば銀座気仙沼展、東日本応援ギャラリーの方も少しは様になってきたようで、今日の午後は安西君と打合わせをそこで行う。又、明日午前11時のマシュー君との相談も会場で行う予定である。

11月21日にわたしの責任担当の製図も終了するので、できるだけのWORKを銀座の気仙沼銀座ギャラリーに移そうとも考えている。中途半端はゼロに等しい。

628 世田谷村日記 ある種族へ
十一月七日

7時離床。新聞読む。良い天気である。日経新聞、200年企業に四国の鎌田醤油が紹介されている。うまい見出しで「婿養子、因習断ち切る」「鎌田醤油、通販で市場開拓」とある。鎌田郁雄さん、1780年創業7代目社長の奮闘ぶりが紹介されている。北海道十勝・音更の「水の神殿」オーナーであり、今設計を進めている本殿の依頼主である。

随分大きく紹介されていて、ウムウムと読んだ。クライアントの会社が順調に成長しているのを知るのは嬉しいものである。

今度の本殿の御神体は流政之さんの神像石彫である。キチンとしたモノを作らねば流さんの容赦の無い叱責を浴びるだろう事は覚悟せねばならない。鎌田さんは東大建築学科出身であり、勿論建築、美術への鑑識眼は高いし、厳しいものがある。フンドシをしめてかかりたい。記事を読んで、この会社は伸び続けるだろうと思った。

今日は終日学部卒論の発表会に立ち会う。苦行の一日である。

9時世田谷村発、10時大学学部卒論発表会。延々と耐える。

昼食を挟んで17時半迄。石山研の卒論も超低空飛行であった。何しろ基礎教養が稀薄過ぎる。早稲田建築学生はこんな程度であるのか、と年々歳々痛感するが、冗談じゃなくって底が抜けようとしている。当然、こちらの知識、恥じらむが教養はまだ発展途上である。好奇心は涸れる事もないので、その落差は開くばかりである。学生を教えるのは30才位の教師の方が良いのだろうが、それでは文化は深まらぬのは眼に視えている。

十一月八日

8時離床。メモを記す。

向風学校安西直紀より連絡あり。上海から帰ってきて、今日アメ横の磨州と気仙沼銀座会場に行くという。

磨州もようやく重い腰を上げたか。しかし、わたしの方が今日は腰が重くなっていて、ムニョムニョと理屈を言って銀座へは行かぬ事とした。しかし一度ゆっくり彼とはメシでも喰いたいものだ。そろそろ第一の正念場だろう彼も。

渡邊助教に連絡して今日は地下スタジオへは出ない旨伝える。

627 世田谷村日記 ある種族へ
十一月四日

12時製図室、研究室M2修論ゼミ。イヤハヤ低調である。教えようにもミットも持たずボーッと立っているだけの者に球を投げられるわけがない。投げれば顔面に当って怪我をするだけだ。

13時3年設計製図全作品の途中経過をチェック。20名程は図面を見なくても、どの程度未熟状態かは解るようになった。

特別コースとして、ル・コルビュジエのサヴォア邸をモデルとしたネイチャー学習センターの課題を作り10名程が取り組んでいるが、そのグループのWORKに評価できるモノがある。もっと多くの者が取り組むべきであろう。

16時アドバイス講評会を抜けて千駄ヶ谷へ。

俳優で仏師の滝田栄さんに会いに行く。気仙沼の鎮魂の御堂のプレゼンテーション、見積りの呈示である。17時前滝田邸着。

相談、電通のアートディレクターの方も参加。滝田さんはNHK の大河ドラマ・徳川家康等を演じた名俳優であるが、考えるところあり仏師にもなられた。

全く役者のケレン味を感じさせぬ清教徒見たいな方である。そこらの坊主よりも余程深くブッディストでもある。南インドで2年間修行したと言うから半端じゃあない。19時頃夫人と共に四谷へ夕食へ出る。四谷しんみち通りの小料理・志ら井で会食。うまい魚をいただく。談論風発し、楽しかった。22時了。四谷駅近くで別れ、新宿経由烏山へ。22時半頃世田谷村に戻る。

十一月五日

6時離床メモを記す。ボーッとして朝を過す。昼頃地下スタジオ、製図室。十勝ヘレンケラー記念塔増築計画チェック、音更町・水の神殿本殿作業チェック。5、6名の学生の製図作業を見る。個人指導をしているのを遠くからチラリチラリと見ている学生が何人もいてその眼付きの無明が何とも不可解である。

夕方、新大久保駅近くの初めて入る韓国料理屋・大長今(テチャングム)のレジで「お客さん日本語読めるんでしょう」と恐らく韓国人従業員に言われ大いに不愉快になる。この店には勿論2度と来ないが朝鮮人の根深い反日感情が細い眼に露骨なのがイヤだった。韓流ブームの底によどんでいるモノはまだ在る。しかし韓流通りのオバンや娘達の混雑の底には、生身の表情は変りようのない本能的とも言うべきかの対日感情があるのは忘れてはならない。そんなに簡単に憎悪は消える筈がない。しばらく韓国料理は喰わないぞ、とこちらも民族意識をあぶり出された。我ながら未成熟である。

久し振りに18時過長崎屋に寄ってみる。も、中年女性つまりオバンが2名程息を巻いてうるさいのですぐ出た。

日本のオバンの荒っぽいのも本当は見るのも辛いのだ。男性は弱くなっているけれど、それをうるさいババアとたしなめるのも野蛮だよなあ。しかし大声で貯金やら、金の扱いをしゃべっているのを見聞きするのも辛いのである。わたしも貝ならぬオタクになりたいと一瞬思う。要するにオタクというひ弱で何かに過敏なガキや今では大人たちは、かくなる人間の赤裸々な生態に対面する、ましてやコミュニケーションする恐怖があるのだろうな。とすれば、彼等から見ればわたしはかくなる暴力的オバンと同族なのかも知れぬと謙虚に考える振りをしてみる。冗談じゃない。そんな振りしてみても何の得にもならないのである。

19時前世田谷村に戻り、日経夕刊プロムナード原稿ゲラに手を入れる。

編集部より2点指摘があり、一つはなる程と考え、もう一つは変更する必要なしと考える。しかし何となく全体に手を入れたくなり、細部を微妙に手直しした。

意外にかくなる微細な手直しは手間ヒマがかかるもので熱中してしまう。

20時終了。何だか、ようやく疲れとも言うべきが抜けてきたので、一つ日経のコラムにでもとりかかることにしよう。コラム原稿を直して元気が出るって事は、わたしはコラムニスト願望があるのか。まさか。

十一月六日 日曜日

7時離床。間もなく日経コラム書き始める。9時半終了。小一時間程休む。12時外出。15時半戻り休む。20時半迄眠る。その後メモを記したり読書で過す。

どうやら昨夜のエネルギッシュオバさん達は又もや下田病院の看護婦さん達であることが判明した。凄い人達である。宗柳のオヤジさんからドリトル先生動物園倶楽部の入会希望者住所等ももらう。馬を二頭も持っている方らしい。

ところで宗柳には下田病院の猛烈オバさん軍団は行きそうなものだがどうなんですかと聞いたら、何やらあって、つまり店がうるさくなって他のお客さんの静かな調和を乱すので出入り禁止状になっているらしい。「クソーッ、バッキャロー2度と行くかソバ屋なんて」とオバン達は絶叫したと言う。さもありなん。

宗柳のオカミさんと看護婦さん軍団の争いはそれはそれは猛烈なものであったらしい。

わたしとしてはその場に居なかったのが無念でならない。

どんな風にオカミは店出てけえと叫んだのだろうか、それに対して座敷ならいいだろうと喰い下がるオバン軍団。ならぬと言い張るオカミ。そりゃそうだろう宗柳のお客さん達には耐えられんだろうな軍団の騒々しさは。

「アッタマ来た!!!」と白衣の天使は長崎屋で息まいたらしい。

凄いんだよ、あの人達が病院の薬局の男の子を説教してるのなんか見てると可哀想だよ。と長崎屋のオバンは言う。ヘエそんな事あるのか。あるよ。

そんな時はすぐ呼んでくれ見てみたい。

だって、そんな時は店貸し切りになっちゃうからダメだよ。立見でもいいぜ。

そんなわけで今のところわたしの休日の興味津々は宗柳のオカミ対下田病院の対決と、下田病院内集団絶叫説教リングの場なのである。

世間では最近映画館も失くなり、時代劇、西部劇の類を観て胸をスカーッとさせる事もなくなった。

なんとか生モノの西部劇が見れぬやも知れぬではないか。

しかし、どうやって対決させるかが問題であろうな。

正直わたしだってとてもあの軍団のオバさん達とはまともに口をきけそうにないんだから。もう少し自分をきたえ直さねばならん。

なにしろ、あの屈強な三田のオヤジが頭を押さえつけられて、「刺身喰え」と口をアーンされて、デッカイ口開けさせられて、刺身口にほうり込まれているのを遠巻きに眺めているだけでわたしなんかは身をすくませているのです。あの軍団が席を占めている時はなるべく目立たぬように下を向き続けているのだ。オッカネエのである。

なにしろ看護婦さんだから弱味を持つ人間の扱いにはなれているのだ。

それに下田病院の前の小さな踏切りではよく飛び込みがあって、あのオバン達は本物の修羅場だって存分にかいくぐっているのだろうし。

わたしなんかが小さく「うるさいぞババア少しは静かにしろ」なんて言っても「お前の方がウルセイんだ、ダマレ、ジジイ」と怒鳴られ「スイマセン」とうなだれるのであろう。

あのオバン達こそ西部開拓時代、吹きすさぶ荒野のガンマンの姿をまっこと彷彿させてくれるのだ。

クリント・イーストウッドだってテンガロンハットボコボコにされて路上にほうり出されるのがオチであろう。

しかしわたしは下田病院の白衣の天使をこれで総計6名見てしまった。くどいだろうが、凄い人達である。地元が増々面白くなってくる。

626 世田谷村日記 ある種族へ
十一月三日

14時製図室。渡邊助教、佐藤君と雑談、打合わせ。その後学生の製図を見る。女子学生1人、中国人1人は良いスタディーを続けている。3人目が出てこないがそろそろ出るだろう。十勝ヘレン・ケラー記念塔増築案の模型を見る。ここからがひと踏んばりなのだ。記念塔の増築は本来あり得ないが、それを敢えてやろうとしている。これがポイントである。

16時40分製図室を去る。地下鉄で渋谷経由恵比寿へ。日比谷線ホームでバッタリ伊藤毅先生に会う。共に広尾へ。

磯崎新さんの事であるから、伊藤先生へ首都移動の歴史家としての考え等尋ねたいのだろう等と話しながら、有栖川公園の坂道を登る。

18時磯崎宅。

すぐに本題に入る。途中震度3くらいの地震がくる。これが大揺れになっただけで首都移動の話しはリアルな様相を呈するのだから、磯崎さんの勘は正しいのである。東京の人々は皆、薄皮一枚下は地獄の世界に住み暮しているとも言えよう。

有栖川の川底からの高度を想えばここには津波は届かぬか。

磯崎さんは近年しばしば居宅の位置をそれこそ移動させていて、それも本能の、自然の驚異に対する直覚のなせる技なのだと思う。

相変わらずの博識の厚みが吐露されて、初めて親しく話し合われた伊藤先生も驚いたやも知れぬ。

このプロジェクトに絶妙な人間を磯崎さんはピックアップされた。

シャルロット・ペリアンがプルーヴェのところからプレファブ住宅の図面を持ち込みそれが前川國男のプレモスのネタになった等の仰天すべきしかしリアルな話しも合い間合い間に挟まれて、あきない。

「列島オペラ<しま・じま>の黄昏、ヒロシマ1951−−フクシマ2011」のシノプシスを渡される。

22時過迄談笑。去る。有栖川公園の坂道を下り広尾駅で伊藤先生と別れる。わたしは地下鉄が全くダメで、念のためにここから乗れば次は渋谷でしょうかと伊藤先生に問い、伊藤先生はそうだ、そんな事も解らんのかの感じであったが、実はワタシはこの入口は渋谷方面に行かぬのを知っていた。先生は京都育ちで底意地が悪いのはわたしは体験で知っており、それでも知らんプリしてすすめられた電車に乗った。

地下鉄の地下地理学的把握において先生はミスを犯したのであるが、ワザと間違いを教えたのである。六本木での大江戸線乗換えの地下鉄に乗りながら、わたしはニンマリした。伊藤先生は恐らく自宅方面とは逆方向の地下鉄に乗る可能性があるからだ。

六本木で乗換え新宿迄の電車でわたしは幸せで満面の笑みであった。

願うらくは気がついたら外房州くらいまで逆方向の夜旅をされん事を期待したのである。

23時半世田谷村に戻り、外房州の寂しい村を途方に暮れてさすらう伊藤先生の姿を思い浮かべて、わたしは久し振りに安眠したのである。

今を去る事大昔。四国であったか、わたしは伊藤先生と同宿した。鈴木博之先生も一緒であった。朝起きて気がついたらわたしは旅館の外をスリッパで歩いていた。それをしばらく歩かせておいて伊藤さんは「ホラ、やっぱり」と言い放った。その旅館のはき物を間違えやすいのを知っていて、スリッパで歩かせておいて言ったのである。

ようやく、積年のうらみを、だから今夜はドカンと返せたかも知れず、底知れぬ安眠へわたしはゆったりと身をゆだねたのであった。

十一月四日

7時過離床。快眠であった。伊藤先生からは外房州の場末の民宿の軒先で野宿したの連絡は当然無い。京都人の底意地は一生の不覚は終生隠しおおすのであろう。「ホラね、やっぱり」とつぶやいてうまい朝飯の支度にとりかかる。

8時半、馬場昭道さんと連絡。我孫子小学校会は5校、頑張れ気仙沼の絵を描いてくれる事になったとの事。12月11日には銀座気仙沼に展示できるであろう。又、ケニアの子供達は大半が難民の子供達で、絵など描いた事が無い子供達であるらしい。

そんな子供達も津波の事は知っているので、なんとか絵を描いてもらえるようにしたいとケニアの先生は言ってくれた。

ケニアの先生とは神田岩戸でメシを食おうと昭道さん言う。願ってもない。

ブラジルの谷さんにFAX送れと指示される。

ケニアの子供たちの絵、ブラジルの日本人会の子供達の気仙沼応援の絵は年明け来年の展示になろう。

茨城県利根町羽根木、レストラン・ドルチェ、伊井利有さんより新米送られてくる。

625 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二日

9時過世田谷村発。10時研究室メンバーと落ち合い、10時半前西早稲田、早稲田中央治療院にて前田康夫さんにお目にかかる。

気仙沼銀座展への協力を依頼し、快く了解いただく。

点字新聞他の展示になろうか?12時前製図準備室にて小打合わせ。学生の製図を見る。14時、仙台より社団法人日本植木協会担当者来室。安波山鎮魂の山(森)への植栽計画の実施に関して打合わせする。植栽は植栽の、それなりの道があり我々は学ばねばならぬ事が多々あるのを知る。それでも何とかなりそうである。こちらの知恵の出しようだ。15時過了。その後研究室の面々と打合わせ。17時過地下スタジオを去る。18時過世田谷村に戻る。

李祖原より連絡が入る。台湾、中国本土の媽祖グループのトップとすでに会い、気仙沼市との交流を進める事になったとの事。2億人以上の人口を誇る海神信仰グループであり、海の民達である。気仙沼の将来の魚食都市、観光漁港都市としては願っても無い事であろう。大きな山が動いたの感あり。

流石、李祖原である。出来ると言ったらやるな。気仙沼の臼井賢志会頭ともキチンと相談して前へ進めたい。安藤忠雄といい、李祖原といい大変な奴等だ。気仙沼の臼井賢志も凄い。わたしも恥ずかしい事は出来ない。しかし、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるな。

今朝、お目にかかった前田康夫さんに尋ねてわかった事。40年程前、ロングロングアゴー、学生の頃だが西早稲田にバラの家、あるいは植物愛好家の家と名付けた夢のような家があった。わたしは白骨邸と呼んでいた。

2階建の、2階に大きな物干し台というかテラスがあり、家の廻りを全て紅バラ白バラでおおい尽すための白い木片のフレームが囲んでいた。

バラの季節には家そのものがバラになった。

ある日、バラの物干し台(テラスじゃないのである、あくまで物干し台なのである)、バラの衣を着た江戸八百八町風の物干し台に、額帯鏡を頭につけた白衣の医者の姿を一眼かいま見た風な記憶があり、それはわたしの初めての本『バラック浄土』に書きとめてある。

そんな事も、もう夢の又夢のような事になった。確か今朝訪ねた前田康夫さんの早稲田中央治療院に近かったような気がして、その幻のような家について尋ねた。前田さんは全盲になられているが、以前は弱視であったから、それを視ているかなと思った。

前田さんは、わたしはその頃からすでにほとんど眼は視えていませんでしたが、人の話しや、何とはなしの気配から、カジ眼科医院というのが確かにあってその家の人は花を育てていると聞いていました、とおっしゃる。

アアと天を仰ぐ。

やはり、アレは幻想ではなかった。確かに在ったモノなのだ。

盲目の前田さんの頭の中にあったバラの家と、私の記憶のバラの家とは不思議な縁で結ばれたのである。

カジさんはその後横浜へ引越したようだと前田さんは言う。

帰りに、2、3軒先であっと言うそれらしき場所を歩いた。

何も名残りがある筈もない。

でも、わたしの頭の中にはハッキリとバラに包まれた家と、白衣を風に吹かせて額帯鏡を額につけた風の又三郎ならぬ、カジ医師の姿が視えたのである。

街は変化を重ねるが、そこに生きる精霊はかくの如くに人間の頭脳の内に宿り続けるものだ。今日は良い日であった。

十一月三日 文化の日

8時離床。昨日、日本植木協会の方から聞いたのだが、クズの葉は根から切らぬと、つまり掘り返さぬと次から次へと生い茂るらしい。今の庭の惨状を眺めるに来年の夏の有り様が手に取るようだ。

年が明けたら掘り返して少し移そうか、庭木にまとわせるのは良くない。

又、気仙沼の安波山に考えていたフジの花も再考を要するようだ。フジは古木を倒す位にやはり寄生力が強いのを知った。美しい花は美しい花なりの妖怪性も持つのだな。歌舞伎の藤娘もアレは妖怪なのかも知れぬ。芸能一般の出自は、特に大衆動員力のあるそれは勧進聖の唱導が源である。踊り歌、見世物の異形は勧進聖の能力の一端でもあった。

美というモノの怪しさを想う。

12時前までボーッとして過す。こんな時間も必要なのだろう。

今日も午後は製図室に顔を出して、夕方広尾の磯崎新宅へ東大の伊藤毅先生とうかがう予定である。磯崎さん何を考えようとしているのか?

624 世田谷村日記 ある種族へ
十一月一日

10時前、安藤忠雄さんより電話。気仙沼、三陸沿岸被災地に関して。銀座TSビルの三陸被災地応援スペースの出展は快諾していただいた。彼の展示物があるのと無いのでは随分と意味が異なるからな。2012年5月5日の植樹祭には前日から気仙沼に入るとの事。有難いことである。

その後俳優・仏師滝田栄さん、他と少なからぬ連絡、他。12時了。世田谷村発、別にどうと言うでも無く動く。これは記さず。

18時烏山宗柳にて夕食、久し振りにオヤジに会う。その後長崎屋のオバンと2012年の東日本大震災被災地支援オハギの話し。

ここのオハギは日本一なので、なんとか被災地の子供達に差し上げたいというだけの話しである。

オバンは500個は作れないぞと言う。わたしは100個だけでも気仙沼・唐桑の子供達や、めげている大人に一瞬食べてもらいたいと思うだけの事。

オバンは9才の時に長崎で原爆被災した人間である。オバンが作るオハギは実に妙なる味でうまいのである。これを何とか東北の親を亡くした子供達に食べさせてやりたい。

長崎屋のオバンもそれなら考えてみるかの感じになった。ひとつのオハギの手渡しが今は東北の子供達にはホンの少しでも役立つのではないか。

十一月二日

6時半離床。サイトチェック。ドリトル先生動物園病院のページが上手く動いていない。やっぱり小窓のあるギャラリーが難しいのであろう。窓の大半はつぶした方が良かろう。今の4点の絵を見終わって壁を巡る、その壁に開部をとった方が良い。又、担当者はこれを機会に自分のオタク振りを少しどころか大いに修正脱皮した方が良かろう。油断しているとフッと出現する典型的オタクテイストはそもそもそれ自体が我々のページのテイストとハレーションを発生させてしまう。

今のままの動画風はもう少しみがくまで閉じた方が良かろう。その前の当り前に絵と文章(英文)だけを視せるのに戻して下さい。

今朝は毎日点字新聞の紹介の西早稲田の前田康夫さん(63才)を訪ねてみよう。

世田谷村日記