2011 年 12 月
- 667 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月三十一日
3時半研究室スケッチ渡し打合せ。16時前迄、16時半ベトナム・ダナン人民委員会中村雅身さん来室。ダナン計画打合せ。17時半了、地下鉄で新宿へ。味王にてダナン日越友好協会設立準備事務局塩ノ谷充さん田中信夫さん合流して会食。20時了。シジミがおいしかった。焼き小龍包の新メニューはまずかった。新宿駅で皆と別れ21時前、長崎屋に寄り、今年最後の客となる。21時半世田谷村に戻る。
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二〇一二年一月一日
6時半離床、すぐにスケッチにかかる。ダナン計画2点、8時半中断してメモを記し諸々のWORK。10時半アニミズム紀行7のゲラに手を入れる。研究室スタッフの研究計画書にも目を通したりで4時間集中した。中断小休する。
朝食を食べ、午睡する。16時目覚める。夕食をとり再び眠るも馬鹿馬鹿しくなって起きる。依頼原稿、平凡社『現代デザイン事典』2012年版巻頭特集の草稿にとりかかる。総論の如くを2枚で書くのは不可能に近いが工夫してみる。アッという間に終わりそうで実に手持ち無沙汰である。
666日記が余りにも誤字、間違いが多いので早く消したいと思うも再びコンピュータが接続しなくなっていて、有難いやら恥ずかしいやらである。コンピュータに打ち込んでくれる当番の学部ゼミ生の国語力に不安を感じる。国語も満足に出来ずにデザイン等ができる筈がない。と新年早々のイヤ味を書きつける。しかしどうして「海」が「意味」に転換されてしまうのだろうか。666は誤字探しをしてくださると正月のTV阿呆番組よりはよほど面白かろう。
画用紙が無くなってしまった。文房具屋も閉店だろうし、年末にA3版の小さな画用紙は買い占めてしまったのでしばらく店にも無いだろうと、身の回りにある厚紙の箱を手当たり次第に解体して底の厚紙を画用紙に作り替える仕事に没頭する。
明朝のスケッチの焦点だけは手帖に書き留めたので、明朝は思いとまどう事はないだろう。
ベイシーに電話したら菅原正二さんが出た。
イヤイヤ今どちらですか」「自宅です。年明けはいつから店開くの?」「3日くらいから始めるつもり。最近客が多くてね、どういう了見なんだろうね世間は」「そりゃ、あなた今や有名店ですよ、化石が歩いているのを見物に来るんだろう。坂田明元気かな」「昨日話したよ大丈夫」「エルヴィンのカルロス・アンドーネはどうだ」「あいつは相変わらずやってるよ、意外にかしこいところがあって豚肉屋の方が大当たりでね」「一度、エルヴィンものぞいてみたいがね」「アイツは子供が多いんだ、前のカミさんのが数人、新しいのが数人、まだ別にも居るという噂もある」。
> と実にくだらぬ会話を交わして切る。22時前、原稿も書いてしまいもうやることが無いので、好きな落書きでもしよう。やっぱり眠ろうと思い直して横になる。
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一月二日
6時離床。今日は高尾山薬王院にスケッチの初旅を試みる予定である。でも陽光は射さぬようで寒そうだ、とボーッとしている。6時半スケッチを描き始めようとするが何を描こうとするのかまだ知らぬ。
8時半スケッチ2点描いた。1点は都市建築像でこれは間もなくサイトにONされるドリトル先生動物園・病院倶楽部ギャラリー3・特別展示室内に展示されるドローイングの最初の展示替え。つまりは2度目の展示を想定して描いたものだ。もう1点は生まれて初めて描いた自画像である。この2点はギャラリー3の展示物として描いたものだから、公開するのはしばらく後になる。インターネットのサイトは時間差に対する想像力が不可欠になっているように思う。大震災後の創作家たらんとする者に必携な考え方でもある。
9時45分世田谷村発、雑用をすませて京王線に乗る。北野で乗り換え11時前高尾山口着。渡邊助教等研究室の主要メンバーと落ち合う。ケーブルカー駅迄はすぐだ。勿論歩いて登るのは今のわたしには厳しいので、ケーブルカーをだいぶん行列を作って待ちそして乗り、高尾山駅へ。
薬王院へのゆっくりした登り道を歩く。眼下に東京郊外のゴミの山の如き住宅群を眺める。たこ杉の巨木、天狗の腰掛けの聖木等民衆の夢の如き杉木立の並木をゆく。大変な混雑ぶりである。
沢山な茶店を横目に見ながら、浄心門をくぐり薬王院下へ。階段の下でここでも行列を作り、入場制限に従い、やがて境内へ。身動きできぬほどの群集である。お参りする。奥の院への道をさらに登る。小雪が降り風が強くざわめき、杉の葉の固まりを無数に飛ばし、落とす。良い一瞬であった。山の神の仕業であろう。
奥の院はそれでも下の本殿よりは人が少ない。色鮮やかな万物の精霊たちの装飾が施されていてこれは見事な建築である。周囲を巡りスケッチに適した座を探す。描こうと目星をつけていた部分はやはり見事であったので迷わずスケッチを始める
江戸期の成熟した技能を持つ職人による彩色装飾はスケッチするにとても困難である。まだ、こちらに充分にその表現の意味(価値)が不明なままだからだろう。龍や波や雲、そして牡丹の花、数々の自然の断片がシンフォニーのように構造材に彫り込まれ、破綻が一向に無い。短時間ではとても描写しきれない。空は晴れ渡り、陽光が彩色彫刻に映えて、それらの彫刻がうごめくようであった
地面に座り込んで模写スケッチする皆に「そろそろ行こうか」と声を掛け奥の院を去る。
下りの石段からの都市の遠望が不思議な感あり。人口の増加の生物学的表現でしかないのではないか。薬王院本殿への初詣の人の群れは先程よりもよほど増えていた。リフトの待ち時間が25分とのことで歩いて下ろうとなる。去年の羽黒山の下りほどではなかったが40分弱の急な下りで足の筋肉を酷使する。外国人登山の人が多い。老人が一人登っており「あとどれほどかかりますか、上まで」となさけない声を掛けてきたので「マア、半日はかかるぞ」と意地悪で応えた。引き返してケーブルカーを使うのが老人には良かろうと思ったまでだ。もうすぐですよと答えて、登り続けて倒れられたら取返しがつかぬ。ようようのことでふもと迄降り、紅葉屋本店に直行。とろろとビールで新年の祝賀。たしかにここのとろろはうまいのであった。店の主人の趣味は下手である。山肌に竹を水平に突き刺して水を落としたり、トイレの表示に男子便所とあるが小便器だけであったり、この紅葉の写真はワシのモノであると表示したりで、とろろは美味だが、他は高尾の老山猿であると見た。小さなアルバイトなのだろう娘が可愛かった。他のババアは可愛くなかった。実にそれも自然のママであった。ちなみにわたし以外の研究室のモノたちは皆大盛りのとろろ蕎麦を食した。これも自然である。京王線のそれぞれの帰宅に便利な駅で散会する。16時半まだ陽のあるうちに世田谷村に戻り、メシを食べて寝る。
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一月三日
7時半離床。昨日の初旅はよかった。都心から1時間の位置に修験道場の聖山があるのだから。ミシュランの星もついたようで、すぐにそれを記念碑にしてしまうのも中々の素早さである。なにしろ、各種句碑、命名碑、命名オブジェ等のおびただしさに驚いた。人間の命名欲は表現欲の一種であり、俳句等はそれに類似の表現なのだろう。
高尾山 句碑の多さや 初もうで
と、わたしも一句詠んだ。実に駄句なのが、その駄句振りにおいて万葉風ではないか、天上天下唯我独尊に感じ入る。詞書を付するならば、明けて正月二日になりぬる。何もせで過ぐる日も惜しからんと思い立ち、小さからぬ紙片持ち運びて身近な山に登りける。高尾の山と何人は呼びけるに、古より山伏多く集まり空を飛び大杉に腰かけたると噂するなり。登りゆき一片の絵空事をものし、下りけん。降りに折々道ばたに賽の河原の石とも覚ゆ立ち石あり。石に多くの事の葉刻みおり、ものの哀れ身にしみたり。とつけて高尾山の句碑の……と続くと万葉風とはやはり言えず、やはりこれは高尾風であり、ついでに言えば高雄山麓紅葉屋本店店主風であると反省する。他人のことは言う前に自分を照り返せである。
インターネットをのぞけばまだ石山研のサイトは接続不能と拒否される。まあ仕方ないであろう。のぞかれぬ間にせいぜい駄文を書き連ねておこう。
11時半スケッチ中断する。渡真利島で使用する椅子のデザインを試みるも、全くとりとめもなく終わる。世田谷村の地上に捨て置いてある波板ブリキの椅子を展開させているうちにプラスチック段ボールの積層板使用を思い付き、ようやく焦点を見出した如くの気分になったが、まだ充分にこれは怪しい。でもプラスチック段ボール板の軽さは魅力だな。
只今12時20分新宿高島屋への途次である。
- 666 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月三十日
正午、研究室。今朝出来たてのまだ湯気を立てているスケッチを渡す。大方の説明と扱いについて相談、終了後学生の相談一名。他を終え14時半研究室を発つ。地下鉄副都心線、山手線品川より京急線八景島よりモノレールに乗り換え、16時横浜市立病院。巨大な病院である。月光荘のボス並木さんの見舞い。まだ鼻に管をつけて痛々しいが、悪い状態は脱したようでホッとする。来年4月になったら宮古島へ行こうとなった。
安心ついでに、この病院は津波は大丈夫なのかと問う。ここの海は浅そうですぐに水深400Mだから、むしろ荒川流域より安全であると流石に海の人間である。油壺の月光荘はひとたまりも無いだろうとの事。そんな話しを続けていたら弟さんがみえた。兄弟共に大柄である。かつて月光荘に泥棒が侵入した際にこの兄弟二人掛かりでその泥棒をブチのめした。泥棒言はく「警察呼んでくれ!!」やってきた警察が「コレはヒドイ、ここまでブチのめしましたか」だって「ふざけるな、侵入してきた泥棒をブチのめして何が悪いんだ。正当防衛だろうが」と正論なのだが、この兄弟に二人がかりでブンなぐられて、泥棒も良く生きていたと二人を眺めて想ったのであった。
泥棒もとんでもない処へ忍び込んだものだ。17時前失礼する。
品川駅で八重州の清水さんに電話したらもう休んでいるとの事。もう暮なのだと改めて知る。「日本タカリ協会作っとるか?」と問うに、作りつつある安心せよ、近々相談するぞとの事であった。
日本タカリ協会というのは日本のタカリ屋の協会ではなくて、日本とネパールのタカリ族との協力で何かしようという組織であるが、清水さんがやると、どうしてもタカリ屋の協会風に聴こえてしまうのはやむを得ないのである。
19時前烏山に戻り寄り道しつつ年末のあいさつ等をして20時半世田谷村に戻る。八景島への行き帰りにアニミズム紀行7のゲラに手を入れた。21時横になる。
明朝のスケッチの焦点だけは手帖に書き留めたので、明朝は思いとまどう事はないだろう。
世田谷式生活学校「都市のインフラストラクチャー」を助教の渡邊大志に運営、企画実践共々任せることに決めた。実質的な運営者として存分に腕を振るってもらいたい。次回第6回の学校そしてその準備、世田谷での実践に関して責任を移行する。
- 十二月三十一日
02時目覚めてしまい、えい今日はどんづまりの年の暮れだ。起きて仕事だと離床した。再びコンピューターの調子が悪くてインターネットがのぞけない。朝の光が指してからスケッチ作業は始める事にして。真夜中はやはり心しんしんとするので、メモでも書いて、この何とも言えぬ気分をまぎらせようと思う。となるとドリトル先生動物園・病院倶楽部のギャラリーに想いを沈める事になる。この作業が今のところ自分のやろうとしているささいな事の中では最も不可解なものであるから。大晦日である。去った時を振り返るのはしない。振り返ってもタクラマカン砂漠の砂の如くにビョービョーたる風に流されるばかりだから。
この感慨は文学的感傷ばかりからではない。上海から西安、そして敦煌迄飛行機を乗り継いだ時があって、その際の実感である。21世紀中葉迄は歴然として中国の世紀になるのはすでにハッキリした。その中国大陸の歴史を考えるに諸都市文明は大陸中部すなわち大原の砂漠化から逃れるために太平洋沿岸部に東に逃竄する歴史である。西安(唐の都 長安)以西のゴビ砂漠は空中から眺めるのに極彩色の砂漠模様に彩色され何かの微細な破片の如くであった。同行していた上山大峻先生(元龍谷大学学長・敦煌研究室)から教えられた事である。あの彩色模様は何かの跡なのかと想ったりもした。多くの都市文明が崩れ去った跡のように思った。それでなくてはあんなに多彩な色の群が砂漠に点々と残るわけがない。
西安から敦煌への飛行機は小型のプロペラ機であった。それで高度4000M程を飛んだ。10000Mを飛ぶ大型ジェット機からは砂漠のディテールを視る事はできない。4000Mの高度は地上のいささかの細部を見分ける事ができる。あの体験は鮮明に残っている。都市は破砕されたゴミの集積であると、わたしたちは想えたのだ。
ドリトル先生倶楽部ギャラリー3はギャラリー2の片隅に彫り抜かれた洞窟寺院の断片である。砂漠ならぬインド亜大陸のデカン高原に残されたエローラ崫院群の北端近くに彫り残された貧しく小さな僧房の記憶が基になっている。 敦煌の崫院群にも中心の壮麗に彩色図像が施された崫院群から離れた沢山の小さな人口の洞窟群がある。恐らく彩色崫院と彫った石工や、それを仕上げた左官職達、そして下級画工達の住居であったのではないか。でも時間が無くてそこを訪れる事はできなかった。
デカン高原のエローラ崫院で出会った小僧房らしきもその類であったのだろう。あるいは各崫院を守る僧侶の僧房であったか。壮大極まるカイラーサ大寺院にもまして心ひかれたのであった。ヨーロッパで例えればロマネスクの僧院に近いものが恐らくアジアの同時代に存在していたのである。そんなつたない記憶をギャラリー3にとどめようと考えた。それでギャラリー3をエローラと命名した。
ここまで書いて03時になった。又眠気がさしてきた。明朝は又、スケッチ作業があるので、無理をしないで再び眠ろう。力をつけねばならない。
7時半離床。すぐにスケッチ作業にとりかかる。気仙沼安波山地蔵堂の外部スケッチ1点、9時終了。屋上に登り木の棚などを点検する。屋上に登ると風が寒い。うちが烏山神社の森の防波堤になっている感じである。9時半2階に降りて一休み。
細いペンで描くスケッチはごまかしがきかぬ。何かが湧き上がってくるのを促すと言うよりも、それをコントロールする力を働かせるのが必要になる。世田谷村の1階に昔作ったブリキの波板を使った椅子が転がっている。プレスを使わずに自由曲線を得たいと考えての工夫から生まれた。宮古島の計画は全ての軽量化が目的の一つだ。使用する家具もできれば全てデザインしたい。
11時半スケッチ中断する。アニミズム紀行7ゲラに手を入れる。12時前第1章終了。再び小休する。
13時過世田谷村を発ち研究室へ。14時より打合わせの後17時前よりベトナムダナンの計画でダナン人民委員会の方他と打ち合わせの予定である。
- 665 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十九日
12時半研究室。スケッチを渡し、ミーティング。14時前迄。すぐにアニミズム紀行6、6冊にドローイングを入れる。手が毛筆に慣れていなくて手こずるがすぐに感触を思い出した。宇宙に飛ぶヤンマを描いた。16時研究室を去る。模様替えと大掃除をしているのでわたしは邪魔である。
ちょっと寄り道をして18時世田谷村に戻る。丹羽太一君によってインターネットは復旧して早速ページをのぞく。今日から計画案のスケッチが毎日サイトにONするように日課を律したので、サイトは充実するだろう。複数の人間がからんでいるので多様になるだけ、バラバラになりそうなのは、マア今のところは仕方ないだろう。
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十二月三十日
8時前離床。すぐにスケッチにとりかかる。自分で自分にノルマを課したのでやるだけだ。
今朝も沖縄渡真利島月光・TIDA計画のスケッチ。9時半迄かかって1点を描く。スケール入りのプランとセクションを描いた。これで担当者はフォローできるだろう。
このプロジェクトは2008年から断続的にすすめているモノである。3年前に考えていた事をなるべく残すように、つまり全部を消さぬように心がける。
わたしの設計・デザインの方法らしきはそれにつきるのだ。前に考えていた事はその時その状況の中で考え抜いたもので、それなりの良いところが在る。それを少しずつ残しながらの設計は共同設計よりも余程複雑な多様をもたらせる。 大げさに聞えようが、個人の遺跡の上に新しいモノを積層させてゆくのである。そう自覚すればする程にそれは方法と呼ぶに足る樹に育ってゆく。今日は昼に研究室でスケッチを渡して模型作りの大方を相談した後、午後には八景島の病院に並木さんの見舞いにゆく積もりである。
二川幸夫さんはまだ帰国していない。連絡も無いと夫人の言。ヨーロッパの古典を撮っていると風の噂には聞くが本当のところは知らない。
- 664 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十八日
昼に佐藤くんと打ち合わせ。他に伝達事項を伝える。16時半世田谷村に戻り小休。明日からスケジュールを大方決めたので今夕はその準備で休もうかとも考えたが、時間割が上手く廻るように今夜からリハーサルならぬ準備運動にとりかかる事とした。
今夕の日経夕刊プロムナードで7月6日からの連載が無事終了した。23回のコラムであった。楽しく仕事出来たので終ってしまうのが残念ではあったが、それ位の気持の時に終るのが良いのかも知れない。又、自分の非才も同時に知ったのだった。肩書きが建築家となっていて、他の執筆者は大方作家であった。世間では建築家達の悪文は知られていると知っていたので、その点には留意した。山本夏彦翁も何処かで読んでくれているだろうが、何点くらいつけて下さるか?神は細部に宿るを、山本夏彦さんからは随分と教えられたが、まだまだだなと痛感する。又、こんなチャンスを与えられれば、今度はキリキリと細部を書き込んで堂々たるコラムに仕立ててみたい。
毎週1回半年間の連載は一向に苦ではなく楽しさばかりを自覚したのだったが、これも毎日この駄文日記やらを書き捨てるトレーニングを積んでいたからかとも思った。
連載第1回は「痛み」と題して東日本大震災に被災した気仙沼・唐桑の事から始め、23回の最終回も「気仙沼五十鈴神社は宝船である」で結んだ。人間は愚かな者でもあるから他人の痛みは平然と忘れ去り、特に消費都市東京の生活はそれがはなはだしいのは知っている。わたしもその愚者の一人であるのは自覚しているのだが、一生懸命それに埋没せぬような気持だけは持続しようと覚悟はしていた。
でも途中、被災地の方々の事を思うばかりに共に悲嘆に暮れてばかりでも救いは無いかも知れぬと考え、わたしなりに悲しみの中から生まれる笑いのようなモノをすくい取ろうと努力してみた。勿論まだ充分ではないのは知っている。
書き継いでいるうちに新しい幾つかのアイデアも生まれた。それを発酵させて又、文章として発表できる日を待とうと思う。当然わたしはいまだに発展途上国の路上のガキなのであるから、まだまだ走りたい。
書きたい事はまだ山程ある。山と言ってもヒラヤマではなく高尾山くらいなのが悲しいところではあるが、それでも高尾山も山であるには違いない。
昔、ガキの頃には地ぶくれとほざいておったが。今は高尾山も大きな地ぶくれの山であると知るのである。
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十二月二十九日
7時離床。明け方に随分沢山の夢を見た。皆気仙沼・唐桑の夢で知り合いが多く出没した。
9時迄スケッチ。2点を得る。共に宮古島渡真利島のモノ。
ミャンマの夜汽車の窓から見た、灯りの中に浮かぶ、カヤと竹と木が集まった集落を突然思い出して、軽いハイテク状の第一案が修正されつつある。技術志向が入り込んでくるとどうしても全体の気分(イメージとは呼ばぬ)が外界に対して閉じたものになり勝ちだ。この気分はどうやら震災後に我々が対面している大風には逆行しているような気がする。
今日の日付が入ったスケッチは柔らかいと言ってもどうしようもなくメタボリ風なカプセルに居住部分がなっている第一案が少し外の島に開かれようとしている。この計画は宮古島の無人島への建築なのだが建築の外は島であり、考えようではそれは一つの世界でもあり、それに対して閉じる事には無理がある。
自然自体が結晶化した島世界として現実に在る。渡真利さんが島に山羊をつがいて放ち、山羊が下草を皆食べてくれたおかげで草刈りをする事もなく島の固いサンゴ礁の固まりである形がハッキリと視えてきたと渡真利さんは言う。草刈り機の代りが山羊なのだ。象徴的ではある。
又、この島にはハブも蚊も居ないと言う。人間がのんびりするのには理想的な場所であろう。問題は人間に対する人間なのである。
プライヴァシーと言うような軟弱な思想ではなく、人間の一番の外敵は時に人間なのだ。どのようにして一人になり、どのようにして集合するのかを考えるのがこの計画の要である。
10時前までにメモを記し、再びスケッチにとりかかる。
11時スケッチ中断する。4時間弱の集中であった。
FAXもインターネットも機械がダウンしたらしい。自分で直せる代物ではないので、共にサービスセンターに連絡して修復を試みるとの事。
昨夕から石山研ホームページものぞけなくなっていてバタバタしたがどうやら小さな要のセクションが故障していたらしい。
まことに脆弱なシステムである。世界をカバーする最強のインフラの正体視たり枯尾花。でも今やわたしの研究室の存在の要であるから枯尾花も枯木に華を咲かせる努力はしなければならぬ。
誠に世は無常である。コンピューター世界の精神とは言わず、気分は真言密教世界に酷似している。インターネットはマザーマシンを中心に据えた曼茶羅世界だ。中将姫が二上山の宙を舞い続けているようなものである。
- 663 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十七日
幾つかのスケッチに関してあれこれと想いを巡らせているうちにドリトル先生動物園・病院倶楽部ギャラリーをのぞき込む。第1室ヴェネチア・ギャラリーは予定のスペースにほぼ全作品が納まった。しばらくはこれで良いと考えた。
展示品を替える時は全作品を取り替えねばならぬので大変なエネルギーが必要だ。この室の展示物は皆新作である。中に一点計画案(プロジェクト)を挿入してある。第2室の前室ディオニュソスの間も当分はこれで良かろう。第2室、トルコのアヤソフィア前の水中都市ギャラリーには、最近ではあるが過去の絵画作品だけを納めている。あるやも知れぬわたしの内面世界が表現されていて、本当は隠しておくべきかとも考えたが、マア水中に埋めておけばその気持は伝わるだろうと考えた。
色々な箱の内底の紙に描いたものだ。
室内を一巡して左手の方にポッカリと黒い開口部がさり気なくある。
ここには第2室の附属特別展示室を更に設ける予定である。今日ようやく、その特別室に展示すべき作品を決める事ができた。もう10年位前に描いた茶色の色鉛筆他で描いたドローイングである。
ドローイングとわたしが呼ぶのは計画図と絵の中間に宙吊りになっている種族のモノを指す。
ここに置くドローイングはわたしにとっては捨て難いモノである。
錆びたコルゲートチューブが建築群状に林立した光景が描かれていて、鉄への愛情が強く示されているのを知る。これが全て横になっていたらコルゲートチューブの連作へとリターンしていたかも知れぬが、全て立っているところがわたしなりの覚悟らしきが表明されていた。誰に知られる事も無い、又それを望むまでも無い表明である。
これを仕事場で偶然見つけた元『is』の編集長、山内さんがいいじゃないですかと言ってくれて、それで当時連載していた『is』のページに一度ONされた小さな経緯を持つ。
一人でも認めてくれる人間がいると嬉しいもので、それで捨てずに今日迄保管していた。それをここに展示するつもりだ。
ボスポラス海峡をアジア側へ渡ったところにイスタンブールが在る。
かつてはコンスタンチノープルと呼ばれたビザンチンの美しい都市である。その記念碑がアヤソフィアであり、わたしの第2室の水中都市はアヤソフィア前の路を渡ったところにある入口から下に降りる。
この水中都市にはメドゥーサの邪悪極る彫像が水中にあったりで不気味なモノでもあるが、往時イスタンブールの人々はこの水中都市にロープでオケを吊り降ろし水を汲み上げていた。その歴史が好きで第2室の前室とした。
さて第2室に展示する作品は決っている。
その部屋のデザインはいかにと頭をなやました。
でもここに予備室の入口を残しておこうという直観は先ず何よりも頼りにしなくてはいけない。
良く良く考えるに、これはポスポラス海峡からはるかに遠いネパールのキルティプールの丘へと飛ぶジャンプ台の如くを用意すべく残しておいたのに違いない。
そう考えなければわたしの思い付きの意味もない。
この部屋はインド、デカン高原エローラの窟院を当てよう。
中心の巨大なカイラーサ寺院等々ではなく、遠く外れた処に掘り残された小窟院群を鮮烈に記憶している。
恐らく僧院として彫られたモノであろう。石の寝床がひっそりとあった。
その小窟院の壁に架かっているのを想定したい。
第3室がオープンするのは来年早々になるだろう。
ここには3つのギャラリーが一直線にデザインされている。そしてわたしの終の棲いのギャラリーもある。その前の、アニミズム紀行5で描いた黒檀のテーブルの展示スペースもある。ここはわたしのプロジェクトの展示センターになる。
そのギャラリー群の向こうに黒いシルエットで建つのがシヴァ神殿である。
シヴァはディオニュソスでもある。ディオニソスの彫像が入口に置かれた第2室の前室の謎が少し解き明かされるだろう。
そして、シヴァ神殿へ飛ぶ前にやっぱり、ヒンドゥー寺院群の白眉エローラ窟院の断片を配しておくのは悪くはないのだ。
このギャラリーは小さい。
一人のヒンドゥー僧の僧房である。壁は未完の荒彫りのまんまで良い。そうでなければならない。
これから先は五月女くんの守備範囲である。うまくリアライズされたし。参考迄のスケッチは明日28日に送ります。
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十二月二十八日
7時過離床。メモを記す。ギャラリー3脇室のスケッチをする。
10時研究室に送附する。
- 662 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十六日
14時半目白フォーシーズンズホテルロビー。鈴木博之さん難波和彦さんと会う。
午前中安藤事務所より連絡あり新幹線が止まってしまい安藤さん車内で動けぬので今日のスケジュール遅れそうだとの事。ドタバタ劇となる。田中角栄邸見学は今日は中止のようだと鈴木さん。少なからずガッカリする。写真他ではおなじみではあるが元総理のお宅の庭は是非見たかったのだ。
やがて公益財団法人文字・活字文化推進機構理事長・肥田美代子さん来る。
田中真紀子さん来てごあいさつ。今日の主役である。頭の回転が凄く速く人をそらさぬのはお父さんゆずりだとすぐに知る。
席を代え、本来の日本近代建築アーカイブの話しになる。かなりの予算がついて鈴木さん満足そう。日本近代建築アーカイブは鈴木博之執念のプロジェクトであり紆余曲折の末ここ迄辿り着いた。鈴木さんは実にねばり強く頑張った。彼の生涯の成果の一つになろう。わたしは何も出来ずにデクの棒の如く立っていただけだ。お茶とケーキをやりながら田中真紀子さんの話しをうかがう。
どうやら肥田さんは安藤忠雄さんの高校時代のクラスメートであるらしい。
「この方、安藤君て言うのでビックリしちゃった、でも同級生ですもの」と田中さん実に巧みに紹介する。
やがて李祖原、渡邊助教につきそわれ現われる。安藤さん時間が遅れたので次に会う予定の人まで近くに陣取ることになった。田中真紀子さんに李祖原紹介する。
やっと安藤忠雄さん現れてテーブルは大団円の役者がそろった。安藤さん、田中さん、鈴木博之さん、李祖原さんと千両役者であり、そこに居るだけで何かが湧き上がる風があり、流石だなと感服する。話しが行き交うもやがて安藤さん「もう帰らないかん、今日は帰るために来たようなもんや」新幹線に3時間以上動かぬ人であった実感だろう。
李祖原とはあいさつを交わす位の時間しか無かったが仕方ない。
16時半皆さんと別れて地下鉄を乗り継いで三田へ。
17時半仏教伝道協会ロビーで馬場昭道さんと会い、沼田会長、生田忠士さん、山村さんに会い、李祖原を交え話し合う。
沼田会長には何度かお目にかかっているが、ある考えに関して前向きに考えて下さる感触を得た。日本仏教会を背負ってやる意気込みが無ければ出来ぬ計画をこれから進めるのだ。
19時過了。会長と別れる。皆で腹が減ったと近くのソバ屋へ。
わたしも昼食抜きであったので親子丼をいただく。李は相も変わらず、何処でもライス、お新香、野菜天ぷらだけ。
馬場昭道さんはニシンソバと皆仏教徒の食事である。勿論酒はなし。これは身体には良いだろう。渡邊助教のみ牛丼を食べる姿が浅ましく眼に写るのであった。
こういうブッディストの席では親子丼までであろう。牛丼は四ツ足だからいかん。彼は迷妄の闇を漂うだろう。哀れだ。
田町駅で昭道さんと別れ、新宿で李と別れ、21時過ぎ世田谷村に戻った。人に会うのは疲れるものだ。
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十二月二十七日
8時離床。メモを記す。9時李祖原夫妻にグッバイのあいさつ。馬場昭道さんに連絡したりで過す。
- 661 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十四日
12時研究室で李祖原に会い雑談。13時地下鉄で新宿高島屋へ。13階小松庵にて昼食、途中より古市徹雄さん参加する。15時了。
別れて烏山へ。長崎屋にてグズグズする。27日は忘年会だぞと誘われたが、その日はXゼミの忘年会なので出席できない。
詩人の長田弘さんより『詩の樹の下で』みすず書房(1800円+税)送られてきて、読了した。
詩人には何人か出会ったが皆鼻につくのが多かった。
長田さんとは面識もあるが、鶴見俊輔との『旅の話』晶文社、だったかの実に重厚な対談本に仰天した事もあり、こりゃ敵わんなの気持があったが、やはり見事な本である。詩人も一流なのは知性の集積で押しつぶされそうなのが歴然としているのだ。これは何度も読み返さねばならぬのを知る。
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十二月二十五日 日曜日
9時半離床。すぐに日経夕刊プロムナード最終稿にとりかかる。寝床でああでもない、こうでもないとこねくり廻していたが、らちが開かず。やはりペンをとらねば事は進まぬ。どうなる事やらと思ってはいたが11時半に終了。
最終稿は「気仙沼五十鈴神社は宝船である」とした。良い締めになったと思う。
14時世田谷梅が丘、保坂展人世田谷区長事務所。秘書の森原さんと色々雑談する。区長も余程キチンと先を見なければ二期目の選挙は難しいの感触を言う。わたしが世田谷でやりたい事はたかだか区長の一期4年間で出来るわけもない。せいぜい二期くらいは88万人の首長としてやっていただく根性くらいは無いとわたしだって確然と支持するわけにはゆかぬのだ。要するに政治家としたら生死を賭けた何かを示してくれなければいけない。
15時過了。16時烏山に戻る。長崎屋にて世田谷区議会公明党、自民党の情報に耳をそば立てる。
17時過世田谷村に戻り、気仙沼計画五十鈴神社を中心としての計画等を描き始める。19時半了。まだまだ続行したいのだが、やり過ぎてもマイナスだから自制する。
20時過気仙沼五十鈴神社の計画スケッチ2点了。
眠れないだろうが、無理して横になる。
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十二月二十六日
やっぱり3時半に目覚めてしまい起きてボーッとしている。計画案のスケッチをした時はいつもこうなのだ。ただただボーッとしているのもなんなんで又横になるか。8時半離床。馬場昭道、李祖原と連絡。今日はバタバタとした一日になりそうだ。
- 660 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十三日
11時過研究室。45点程のスケッチを編集用に渡す。簡単な説明をつけ加える。ダナン計画他の進行状態の報告を受ける。
14時李祖原、黄文旭、顧泉沛来室。李祖原の気仙沼復興計画のプレゼンテーションを受ける。かなりのエネルギーが投入されており頼もしい限りである。一冊の本にまとめられていた。風水思想が基軸になっており、どのように日本化させるかがランディングさせる要であろう。
安藤忠雄さんと連絡して来週月曜日のT邸見学の後に東京駅周辺で三人で会う事とする。
臼井賢志さんに連絡して来年1月18日銀座で会う事になる。 17時半了。タイ料理屋で夕食。20時前了。21時世田谷村に戻る。
十二月二十四日
7時離床。寒い。昨日李祖原一行も東京はとても寒いと言っていたから台北は恐らく春の如くの気候なのであろうと台北を懐かしむ。李祖原事務所は台北に80名大陸に70名の配布であり、毎度の事ながらその布陣のバランスの妙に舌を巻いた。
仏教伝道協会との会見希望を伝える。12月26日夕方伝導協会長との会見決まる。
10時40分渡邊助教世田谷村に来て、沖縄渡真利島の大きな模型を共に研究室に運ぶ。
- 659 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十二日
13時発、府中大国魂神社へ。社務所で休憩他。15時半歴史博物館。
16時半了。17時世田谷村に戻り、宮古島計画スケッチ、ベトナム・ダナン計画スケッチに集中する。20時前中断する。今日はもうこれ位にしておこう。朝から数えれば3つの計画に姿を与える事ができた。
それぞれの計画のデザインへ向けたスケッチに集中すると、流石にメモの言葉の量は少なくなる。考えている事、想っている事の大半が形になって描かれてしまうからだ。
20時過、小休のため横になる。こんな日は眠れないのだ。
十二月二十三日
7時過離床。昨日描いたスケッチを見直したら、日付が皆間違っていたので直す。
朝の光が2階のガランとした広間に溢れてきて実に美しい。世田谷村は朝の家である。古来西方浄土の観念があり夕方の光の妙は多く表現されてきたが、朝の光、つまり東の光についてはそれ程多く述べられて来なかった。わたしの不勉強があるやも知れぬが、東方に諸仏が棲み暮すの伝は知らぬ。日本はユーラシア大陸の東端にひっかかっている小さな島国であるからすなわち東端であり、東の先はもう何も無しの考えがあったのだろう。
一方ローマを中心とするヨーロッパ史には東方が実に多く登場する。キリスト教の異端とは言わず、大分外れた宗派に、あるいは外敵でもあったビザンチン、イスラム諸国はすなわち東方に依拠した。東方は荒々しい未開を深くは意味していた。ヘロドトスのギリシャにとってもそうであった。中国や、ましてや日本列島の存在は知られていなかった。初期の統治者であった諸天皇のルーツは東の国韓半島であるが、中国、天笠(インド)、ペルシャは正倉院の宝物群を見ても知っていただろうが、その更に東はどうだったのか。
地動説の科学の前は天動説であったのは忘れてはならぬ。
人間の感知力を基に考えれば天動説は決して意味の無い考えではない。朝から夕方迄毎日太陽がわたしの廻りを巡っていると考えるのはむしろ自然だ。朝から夕の光の変化を眺めてわたしが太陽の廻りを巡っていると考えるのはむしろ異常であろう。
大方の具像画は天動説をいまだに基盤としている。だから恐らくは画家は朝の光の中で仕事するのだろう。地動説に「?」を抱いたのはキュビズムの直観であった。
それ以降の描画は核が破砕して文学と混濁したように思われる。マルセル・デュシャンの仕事は文学の先端としての神学の産物であろう。さて馬鹿な事を記し始めた、新聞を取ってこよう。
昨夜ドリトル先生動物園・病院倶楽部ギャラリーに展示してある「絵」のそれぞれに題名を与えようとして横になりながら考え始めた。とても難しいのに今更ながら気付いた。第2室の水中ギャラリーの絵5点から片付けようと考えたが簡単ではない。
又、今大方が仕上がりつつある第3室のキルティプールの丘のギャラリーにはわたしの終の棲家が登場してしまう事もあり、明らかに第3室以降は未見すなわち未来に属する創作の世界でもある。だから注意深く命名しなくてはならない。
第1室の、宮沢賢治らしき男の影が絵の中の影の姿を真似てポーズする、あの絵の題は「影の中」とする。実にこの影の中に彫り込まれた記号状のフォルムはわたしにとっても未知なもので、コンピューターの映像をのぞき込んでエスキス、スケッチの写生に使おうとしているくらいなのだ。
その前の、他に貸し出していてようやく今日戻ってきた想定の絵。これは「双子の円環」とする。三陸海岸のある地域を想定した計画案であるが、まだその地域を公表する事はしない。
上記アンダーラインした部分を「影の中」の解説①とする。「双子の円環」はJ.L.ボルヘスの驚異的な記憶世界に大いに触発された命名であることは間違いないであろうが、この計画案の描画(写生)自体も影響されているのかは知らぬ。少なくとも自覚されてはいなかった。しかし命名してからは意識化された。
「双子の円環」に関しても同様とする。
第2の室の5点はこれを描いた時は考古学者の古層の発掘作業をモデルとして、それをなぞろうとしたのは憶えている。だけれども水中のギャラリーとしたから発掘とは別系統の世界でもあろう。水底に、しかも水の底に没した古いビザンチンの遺跡に潜水したら、誰かの壁画の断片を発見して、それを写生したという想定である。
一番大きな描画は、これはサイズを示した方が良かろうが宇宙の真空を飛ぶトンボを描いたのはハッキリしているので題もそうしよう。宇宙というのは青臭くて良くないから「闇を飛ぶトンボ」とする。今、大きくONされている三角の顔をした子供の化石らしきの絵は、それに関連させてそれでは「トンボになる子供」としたい。その他は又、興が乗った時に考えてみたい。
- 658 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十一日
1時半研究室。坂田明さんに2012年2月25日の気仙沼銀座ライブの件確認の電話。ボランティアでやれって言うんでしょと言うので「イエ、ギャラは払います」その後すぐに雑ミーティングへ。13時冨澤氏、執行秀昭氏来室。
世田谷式クリーンエネルギーに関して。日曜日に保坂事務所で打合わせがあるので、話しの内容の一部は実行してゆきたい。14時半了。修士設計相談2名。修了後再びプロジェクトミーティング。16時半了。23日に来日する李祖原を巡るスケジュールをデザインする。ブラジルの谷広海さんからの連絡が遅れている。しかし、マアもうブラジルに41年だからラテンタイムなんだろうと、イラつくのはしない。何やかやと寄り道して19時半世田谷村に戻る。
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十二月二十二日
5時半離床。メモを記す。7時馬場昭道さんに電話、次いでブラジルの谷さんに電話するも、どうしてもFAXの通信が不能、原因は不明。メール連絡に切り換える事にする。対面会話世代のジジイが2人通信機器と格闘しているのだから、機械もきっと嫌がってツーンとしたのであろう。おかしいぞ、送れないぞ、着かないぞの国際電話を2往復する。手際良くやれば電話ですんだ事なのだが。ドンキホーテが二人眼に視えぬ風車を風もないのに無理矢理ペンチ等を振り回して立ち向かっているの図である。
9時、三陸海岸陸前高田計画を描き始める。手を動かしていると雑念が払われ計画像そのものが浮かび上がる。と言うよりも彫りあがってくる気配がある。困難な計画はこんな風な接近法しかないだろう。11時描き上げる。
- 657 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二十日
朝二川幸夫さんに電話したら、暮迄外国だとの事、お元気な様で安心した。ここしばらく会っていないのでフッと思い立った迄。二川幸夫に電話してみようと思い立ったのは自分の気持が建築の方へ強く向きかかってきたのだろうと自己検診した。
あの人は絵に描いた如くの建築狂で、今の日本の商業文化状況にはなじむ筈もなしと考えているが、その状況も今やドン底になったので、再び二川さんに風が吹くだろうと妙な予測もしているのだ。年末に又電話してみよう。
手帖にメモを記していたが、このメモに残さなかったが是非記しておきたい事。
12月18日、銀座の気仙沼応援スペースへ出掛ける営団地下鉄の切符売場での事。地下鉄新宿駅であった。地下であるから陽の高さは解らぬ。多分昼頃。銀座迄の切符を自販機で買って改札口へ歩いていた。営団の職員の方が一人わたしを追いかけてきて「お客さんおつりの10円お忘れですよ」と、どおやら自販機に残った10円の硬貨を取り忘れたのを手渡してくれた。とてもビックリした。
村上春樹のアンダーグラウンドにも書かれていたことだが、地下鉄サリン事件の際に示された営団地下鉄職員の倫理的水準はとても高いようで、それを目の当りにしたのである。地下で働く人間の地上で働く人間とは異なる自己の、古くには日本人の大方の農民などが持っていただろう大地に根ざした共同体本来の倫理性に迄届くような気持に迄届くような気質に触れ得たような気持になって、それで本当にビックリした。
鉄道職員の大家族主義とも言える如きが国鉄民営化によって稀薄になり、又、私鉄職員も私営企業故の何がしかの限界がある。その点、営団地下鉄は鉄道の歴史の中では歴史が新しく、しかも歴然とした近代の産物の運営にいそしんでいる。その人々の中に古き良き気質が残されているのはほとんど奇跡的であり、誰か研究してみたらと思ったのだった。
これは恐らく大地のアニミズムがなさしめている。
アニミズム紀行7の草稿に再々度手を入れる。少しずつ磨いているのだ。
17時世田谷村に戻り横になって休む。まだ用心した方が良いと本能が教える。
19時坂田明さんに電話して銀座の気仙沼応援スペースへのライブ出演のOKを取る。ベーシィの菅原正二さんにも連絡して準備に入る。
来年2012年の冬、春、夏の3シーズン、3回のライブがよいだろう。
21時前、銀座スペースのスケジュール管理をしているリヴァンプ飯野氏に、ブラジル谷さん1月28日夜、坂田明さん2月25日夜のスケジュールを入れてくれるように確認して記録にも残す。案の定スケジュールがすでにダブっていたが色々とやりくりしてもらい上記の通りとなり落ち着いたのが22時前であった。電話のやり取りが続いた。
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十二月二十一日
8時前離床メモを記す。昨夜読んだ明恵上人の逸話、島へ手紙を書く、石に語りかけるの中心は万物自然は我々の外に在るのではなく、心の内に在るのだの自覚であろう。今夕の日経コラムに書いたのも別な事のようで中枢はそれだ。それぞれの生の積み重ねの中に事実の移り変わりを超える生霊(アニマ)が宿っているという意識の動きそのものを書いてみた。平易な文であるから是非一読されたい。
- 656 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月十九日
10時半発11時半研究室。早速銀座TSビルの展示スペースの来年の確認をしたところ、27日が既に先約あり。ブラジルの谷さんのスケジュール再確認のFAXをしようとすれば、何だか得体の知れぬ不可思議なクレームが銀座気仙沼展に寄せられていて、ついでにその対応を含めての連絡処理する。昨日の子供達の発表会は毎日、東京、スポーツニッポンの各紙が対応してくれた。感謝する。今度はもう少し上手にやれる筈だ。
修士論文相談2名。ドリトル先生倶楽部美術館の動画チェック。
五月女は香港のインターナショナルスクール出自の独自なキャリアを持ち、並の日本人学生と異なるのが良いが、ヨーロッパ文化は知識として理解し得ていても、アジア特にネパール等の日本人と同様のモンゴロイド族文化の吸収は仲々スムーズにはゆかぬようなのが面白い。ネワール族文化のキルティプールの丘のニュアンスの把握というよりもニュアンスの感得に手間取っているので、わたしもそのとまどいが面白くて詳細なスケッチ、情報を供給した。アニミズム紀行5で描いたキルティプールの私の終の棲家が次第にリアルなものになるだろう。リアルになってゆくと同じ位に夢幻の世界に融けてゆくのであり、それは情報世界現実の阿片でもあろう。
ヴェネチアの水の世界からトルコ、アヤソフィア前の入口から降下する水中の地下の街へとステージは既に動いた。水浸しの都市から水中都市へ、湿気だらけの都市から、キルティプールは少しばかり乾燥した空気の山岳都市へと動いている。そのマテリアルはコンピューターでは仲々伝えにくいだろうが、挑戦してみたら良い。
わたしにとってもキルティプールの丘でのデザインは想像力、更に具体的に言えば復元力らしきが試されているのである。キルティプールの丘の風の無い日の陽だまりに咲いていたとげのある草の白い花の姿までキチンと想い起こせるのか、掘り起せるのか。それはわたしの才質の深奥を測るようなものなのだ。
次いで渡邊助教担当の十勝ヘレンケラー塔増築計画を見る。渡邊助教は急速に思考の力が積み重ねられているので心配はしていないが、年齢的に丁度あせりがほとばしりやすい年頃である。
この実は他愛の無い、しかし悪性のカゼの如きあせりをどうねじ伏せられるかが実は大きな課題なのだ。良い文章を書けるようになっているのは確然としているのだから、それはいずれデザインに反映する、だから大丈夫なのだ。
でもだいぶん良くなってきた。この時代を若い世代として乗り切るにはエレガンシーは必須であろうが、それだけでは埋没してしまう。世の現実はエレガンシーと通俗的な模写を区別できる眼はそれ程多くは存在しない。
それ故に何らかの形での力、解りやすく言えば、荒々しさ、思い切った切断力の如くを演技力としても身につけねばならない。デーモンは自分で育てるモノで外から来るのではない。
アニミズム紀行7の打ち合わせを終え、又、日経夕刊コラム、ラストツアーのゲラに綿密に手を入れた。これに手間を取った。今日は研究室の作業はこれ迄とする。19時世田谷村に戻る。何とか体調は回復されたようだ。馬場昭道と電話で話し、坊さんの能天気振りを大いに叱る。わたしのほうが年長である。
21時40分、ラジオ局J-WAVEのインタビューあり。銀座気仙沼の件。北朝鮮の金正日が死亡したのが報じられている。急性心不全、つまりショック死である。おいおい真相も又知らされるであろう。三代目の独裁継承はあり得てもその平穏な生のまっとうはあり得ないようにも想う。カダフィ大佐の下水溝中での撲殺の最期を想い起こしたりした。
- 655 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月十八日
寝床で本を読んでいたが、こんな事していても仕方ないと意を決して7時半離床。メモを記す。体調はどうやら戻ったが、昨日のアレは何であったのか。
ああいうのが繰り返し繰り返し襲ってきて、それで人間はガクリ、ガクリと劣化するのだろうとは知った。老化劣化は生きるに自然であるから避けようが無い。
何だかとても寒い。そして空腹でもある。
今日は休んでいた方が良さそうである。
11時半、参会者は少ないとは言え今日は我孫子の小学生の気仙沼銀座での発表会である。少し計りの不調はおしてもやはり出ようと発つ。
12時半銀座TSビル会場。我孫子の小学生と家族2組、真栄寺住職、校長先生、教頭先生、石山研のメンバー、メディア関係者が20名程集まっている。
13時過ぎ小学生2名の発表会。
子供さんの発表会の後に「がんばろう気仙沼の会」による映画会があった。
この子供達の発表会に関しては勉強になった。大変になった。
1、馬場住職とも話し合ったが、やはり良く知っているとは言え他人任せでは何事も上手くいかぬという事。
わたしは特に、会場構成等はとも角、人に呼びかけたり、来会を依頼したりの対人間関係のツメは自分で眼を通さなければダメだと知った。
2、公立の小学一年生を舞台に立たせるのは早過ぎる事。
それでも取材に来て下さった方々には御礼を述べたい。
と反省し切りであったが途中でやはり体調思わしくなく退席せざるを得なくなった。よおよおの事16時半世田谷村に辿り着き、再びバタリ。
夢うつつの中で、坊さん先生は底が抜ける事があると言う。馬場住職の声が遠くから響くのであった。
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十二月十九日
7時過離床。
馬場昭道さんに電話する。「イヤー、昨日はまいった。ゴメンネ」
「イヤイヤわたしの方が悪かった。勉強になった。」「勉強し過ぎた」
のやり取り。昨日の我孫子の子供の発表会の件、である。
失敗は失敗として認め、何とか取り戻さなくてはならない。
という事でブラジルの谷さんに、夜銀座TSビル会場で話していただこうとなった。
早速ブラジルと連絡を取り合い、来年2012年1月27日18時半から20時迄銀座TSビル2階会場にて「気仙沼復興にブラジルから期待する。」と銘打って話していただく事にした。
ちょうどブラジルの子供達の絵の展示と重なる。
今日からキチンと準備にかかりたい。
- 654 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月十六日
10時半研究室。建築ジャーナル女性編集者のインタビュー。12時過迄。修士論文の相談3名。14時ベトナムより来客、ヒュー氏、中村氏、塩ノ谷氏の3名。ヒュー氏より、この訪問は個人的なものではなく政府をバックにしたものだとの説明あり。大方はホーチミン市で中村氏から説明を受けていたが大体その通りの話が再びなされた。ヒュー氏は日本語もこなしてコミュニケーションは楽である。良く言われる通りに眼から鼻に抜ける如くの聡明さで、やり手の外交官の如くであった。
よし、やりましょうと応じ、握手して記念撮影他。15時過了。再び今年12月31日に会いましょうとなる。ベトナムは旧正月なので31日の大みそかは殊更ではない。
でも大みそかの打合わせは、わたしには初体験である。
16時三年設計製図の中間講評会。大林組の先生方と清水建設設計本部長もオブザーバーとして参加。
課題がスカイツリー周辺と品川駅前のオフィスビルの2課題に分かれており、スカイツリー周辺の課題に人材が集中して、こちらは何とか見応えがあったが、品川駅前再開発はいささかどころではなく低調であった。これは何とかしなくてはと先生方は講評後品川組の集中指導に専念された。大変なエネルギーが教える側から注がれているのだが、どうなる事やら。
18時半新宿味王で久し振りの台湾料理。娘二人が良く両親の仕事を手伝っている。日本の商家もそうなのかなとフッと大事な事に気付いたような気がする。一般的には台湾の家族は日本の都市のそれ程に解体されてはいないと思う。
19時半了。21時半、今日は流石に長崎屋による元気も無く世田谷村に直行する。
難しい問題である。長崎屋でのオジン、オバンとの人間関係は捨て難いものがあるが、あそこの油と酒はわたしの身体によくないのは歴然としている。
行くべきか、行かざるべきか、それが問題なのである。人間を取るべきか、自分のたかだかの身体を取るべきか。彼等と会わねばストレスはいや増すであろう。そのストレスは身体をむしばむやも知れぬ。
しかしながら食堂に行って何かを喰わねば全く店にとっては野良猫も同然でありシッと追われるであろう。かと言って油とハイサワーは確実に身をさいなむのは解り切っていて、科学的にそのようだ。
精神と科学の相克の問題である。実はわたしの第二の故郷でもある松崎町の友人達もわたしを案じてくれて、長崎屋では、下見の会食をわたしに内緒でして下さり「あそこは程々にした方が良いですよ」の忠告もあった。
一度、忠告に従い2週間程行かなかった事があり、しばらく振りに顔を出した時のオバンのすね方は凄かった。「何処行ってたんだよ、ワン」と言われて、わたしもたかだか一日や二日あるいは半年位の寿命が減っても仕方ないかと、気弱く考えたのであった。
そおか、この暮間近になって深刻に発生したハムレット問題、長崎屋に行くべきか行かざるべきかの深刻な問題は、一度新聞に書いておこう、書きながら考えるというわたしの性能の悪い頭脳に少しはエンジンオイルを供給しながら走ってみようとほぼ決めて、眠りについた。
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十二月十七日
7時過離床。メモを記しながら助走状態に入り、日経夕刊プロムナードに長崎屋問題を8時半書き始める。最終回は李祖原3と決めている。
23日には彼もほぼ日帰り状態で東京に来るからそれで決まりだ。だからコレはラストツーのコラムになる。気合いを入れて書くぞ。
10時半過修了。入念に再読字数をわたしなりにチェックする。
「暮のハムレット」と名付けた。
13時前発つ。何だか体の調子が変だ。明らかに変だ。ゾクゾクして関節がきしむ。もしかしたら熱もあるやも知れぬ。と、引き返して15時フトンかぶって横になる。何と翌朝12月18日の朝6時迄連続して眠る。
- 653 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月十五日
8時半発。仙川よりバスで杏林病院。すぐに採血採尿。今日も又、男性の偉そうな医師の担当になってしまうかと恐れたが、有難いことにオバさんの看護婦さんの担当でありホッとした。偉そうな男性医師は採血が下手で痛いのだ。
全く痛みも無く今日一日の幸運を天に感謝する。10時半定期検診。色々と言われるも、医者に反論する馬鹿も無しで、ハイハイと聞いていた。血圧少々高めなのは寒いからでしょうはそうかもなあとうなづく。でも、そろそろ酒はお茶に切り替えるのが賢明だろうが、できるわけがない。薬他をドッシリ持たされる。これでは薬の買い出しハイキングだ。11時半いったん世田谷村に薬を置きに戻る。
12時過ぎ長崎屋でハイサワーと昼食。これでは長生きは不可能であろう。オヤジも杏林病院で検査づけの日々を送っているので、わたしに偉そうに「お茶にしといたら」と忠告する。何言ってんだ、検査中にビール飲んでるクセにと言い返したら、3本を1本と申請してるぞ、とえばった。
でもお互いにお茶のほうが本当はよろしい。「ハイサワーは炭酸が入っているから身体によくないぞ」と言われた。段々袋小路に追いつめられてゆくな。
14時、研究室に世田谷美術館の野田さん来室。わたしのドローイング、スケッチの一部を美術館に寄贈せよと言われる。光栄なことで喜んでそうすることになった。来年の1月までにまとめておくように言われた。
スケッチ、ドローイングに関して簡単な雑談かと思っていたら、かなり綿密なインタビューになった。
野田さんは今や気鋭のキュレイターで、批評家でもある。これは手を抜けぬと直観し、頭をフルに活動させて答えた。委員会での説明資料だなと察する。
これは正直驚いたのだが、今進行中のサイト上の「ドリトル先生動物園倶楽部美術館」の展示物としてのドローイングを評価して下さった。ネットへのプレゼンテーションをまともに、しかもネット上に仮想美術館を想定した中の、描画を視て下さる方がいるのは幸せであると言わねばならない。
16時半迄。その後研究室メンバーとアニミズム紀行7の編集会議。紙質等の検討を依頼する。幾つかのプロジェクトの打合せを続行する。「Xゼミナール」のわたしの書いたモノに鈴木博之、難波和彦両氏より返信あり、どうやらわたしの提案は受け入れられないようだ。残念だが仕方ない。それならわたしのやり方で参加させていただく。
20時世田谷村に戻る。明日はスケジュールがビッシリなのでエネルギーをためておかねばならない。
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十二月十六日
7時離床。比較的よく眠れた。今日は『建築ジャーナル』の「安波山計画」他へのインタビュー。ヴェトナムからヒュー氏、中村氏来室。そして3年生の設計製図の中間講評会がある。日曜日の「気仙沼・銀座」で予定していた件でチョッと困ったことが発生。ボランティアとはいえ多くの人が関わり始めていることなので小事が大事にいたらぬように細心の注意を払わねばならない。
馬場昭道さんと入念な相談。でもこれはどうにもならぬことであるやも知れぬ。「先生と坊さんは抜けてるところがあるのよ」とは住職の言である。まことにそうかな。わたしもいつの間にか先生の頭の高さ、目線の高さが身についてしまったのかも知れない。用心にこしたことはない。
記し忘れたが、昨日NHK TVを長崎屋で視ていたら、亡くなった立川談志の「芝浜」をやっていた。凄いハナシであった。一期一会という恥ずかしさをはるかに超えていた。
- 652 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月十四日
11時Xゼミナール再開1便を書く。再開するに当たってはサイトの筆者、読者共々のタダ乗りはどうも歴然としてよろしくないの、大枠に関しての意見とした。
13時幾つかの連絡を済ませて発つ。
で、わたしはいつの間にか眠りこけ、夢を見ていたようだ。余りにも下らない夢であったので、それ故に捨て難く一応記しておきたい。桃山御陵の前らしき、あるいは多摩御陵の前であるのか定かではない。長崎屋のオヤジが、長崎の青い光、つまりは原爆投下の記憶についてブツブツしゃべっている。隣には史家の鈴木博之がいて、小川治兵衛の庭づくり、もっと具体的には松林のつくり方のような事を話している。長崎屋が言う。
「あたしは樹木が好きで、それで桃山御陵の松林に辿り着いたんです。学校も出てないし、だから学問も無いんですけれど、松の樹の育ち方は少しは知ってるんです」
会話は成立しようが無いので、わたしが口を挟んでいる。
「山縣有朋の松林に関する叙述から、松がつくり出す風景のとんでもない日本的なモノに関しては鈴木さん、どうなんですか」
長崎屋が口を挟む。
「黒松、赤松、その他諸々の松、松の木ばかりが松じゃなし、あなた待つのも松のう〜ち♪」
「そうですな、鈴木先生松林というのは北原白秋だったかが唄った、からまつの林を過ぎて何とやらの初歩的な詩を待つまでは、やはりナショナリズムを背負っていたのではありませんか」
「そういう飛躍は無駄な飛躍なのです。近代の歴代天皇陵に小川治兵衛が成した如くの松林の風情、その光景の中心が一つ一つの松の樹の姿、その案配から生まれているという、その基底をわたしは言いたいだけなんだ、コラ」
「しかし、日本の近代に近い歴史の中の樹木の姿を想い起こせば、全て、松、竹、梅に集約されてしまう。たかだか近世の、歌舞伎に於いて、桜が大幅に登場するようですが、それは日本の感性の抒情そのものの核の如きなのでしょうか」
わたしとしては本居宣長の古風振り、万葉古語の世界への傾倒振りは怪しいと言い切れずとも、共感する事もままならず。かと言って言葉の師、山本夏彦の戦前の言葉世界の様々も、それ程深いモノとも思えずに居るままなのだが、でもとり敢えずは近代の中の事象を考えた方が拠り所には成るだろうとも、馬鹿なりに考えている仕末なのだ。
つまらん話しのやり取りにそっぽを向いていた長崎屋が口をはさむ。
「俺はね、日本の山の代表は高尾山と決めてるんだから、死ぬ前に高尾山の桜吹雪は見ておきたいの。 桜散る前に俺が散ってしまったら、それでおしまいなんだから」
と、狂おしい程の夢見心地の只中で夢を記し続け、疲れて休止する。
アンドレ・ブルトンの自動記述等のエネルギーはすでにわたしには無い。でも、桃山御陵はともかく、多摩御陵は近々長崎屋のオヤジが倒れる前に共に訪れたいものだと心したのである。
21時前、メモを記し終り、さてもう寝ようかと当たりを見回す。
実に退屈でもあり、実に忙しい近頃ではある。
22時前、研究室のサイトをのぞく。ドリトル先生動物園病院倶楽部のページが進行しており興味深くのぞき視た。道のりは、イスタンブールの地下水中都市の前室から、いよいよ第2室の大展示室に入っていた。実に良く出来ているが、残念なことにわたしの精魂込めたオリジナルの色彩画が何となく見すぼらしく展示されているのである。マア、コレワわたしの本来の力量でもあろうとうつむく。
この映像動画の物語りの意味らしきは考え抜いてはいるのだけれど、まだ物申してもせんない事ではあろう。今しばし待とう。
担当の五月女は良く、全く無駄かも知れぬ試みにエネルギーを傾注してくれている。この辺りの感じは半端な現実主義的女学生風情には全くできない事ではあろうと、自信を持って透視するのである。
全く馬鹿気ているけれど、その底に仲々の可能性が横たわっているのである。
さて、この先、第3室はいよいよキルティプールである。アニミズム紀行5の文章ですでに描いてはいるが、その世界を映像でなぞろうと、これから試みる。まだ手にしてない方は早く買っておいた方がよろしい。
- 651 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月十三日
午後も引き続きアニミズム紀行の為の作業を続ける。絶版書房通信、アニミズム紀行について、2、3、を書き延ばす。興が乗って、サイトにONするモノとは別にそれ等を大幅に書き直してアニミズム紀行7の1章とした。サイトには日記同様に書きなぐりのモノをそのままONするが、絶版書房アニミズム紀行はわたしが開拓している村でもあり、道でもあるから、少しばかりの時間の負荷にも耐えるものでありたいので、やはり手を入れざるを得ない。
17時過修了。後は読書で過す。
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十二月十四日
8時過離床。ブラジルの谷さんより電話あり。日本に来る人が居て彼に子供達の絵を託したので、来週には研究室に届くと言う。気仙沼応援の為に動いてくれる人も増えた。心強い限りだ。谷さんも来年1月には来日との事でお目にかかるのが楽しみである。もう何年も昔の事になるが、赤城山の近くのくすの樹の原生林を共に歩いた記憶は忘れられぬ。自然の霊気も良かったけれど、谷夫妻の気持の動きも又感じられ楽しかった。と昔の事を懐かしむようになってもいい事ばかりではない。かつてはこれを感傷として切り捨てようとしたけれど、懐古は人間の、どうやら本能の如きもので、これが高ずると歴史という巨大な観念になる。
今朝の曇天の下、Xゼミナール「磯崎新について」を書き始める。と先ずは記してから始めないといつ迄たってもスタートしないのをすでに良く知っている。
「福島遷都計画とN邸」から書き始めるのがわたしにはどうやら良いと考えるに至った。
- 650 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月十二日
13時過油壺月光ハウスに着く。ヨットハーバーは人気もなく静まり返っている。並木茂士さんにお目にかかる。大きな手術をして心配していたのだがお元気そうであった。この人物は石原裕次郎の友であっただけにまことに明るい。太陽が良く似合う。来がけにアイスクリームを買ってきたので食べた。宮古島渡真利島の計画の報告他。今週の土曜日に忘年会をやるので来いとの事であった。長居をしてはまだ身体にさしさわりがあるだろうと、15時半去る。17時世田谷村に戻る。渡邊助教用事があり去り、佐藤君と長崎屋へ。この男は実に良く食べる。若い時はそれ位で良い。「明日はウチの犬の手術です」と心配そうに言うので早々に切り上げた。世田谷村に戻り本を読みながら眠りに落ちた。
ここ数日我ながら眠り過ぎである。
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十二月十三日
8時離床。若くはないので10時間ぶっ続けに眠る体力もある筈もない。
毎夜目覚めて本を2冊程めくった。繰り返し読んでいる本なのでボロボロになっている本である。やっぱり文体の良い本は身体に馴染む。セーターや下着と同じだ。メモを記す。時間がポカリと空いたので絶版書房交信を記す。Xゼミナールにも手をつけるつもりだが、これは友とはいえ他人との関わりが大きいので気は使わぬけれど、頭は使わねばならない。気仙沼応援の絵葉書プロジェクトもそろそろ息が切れてきたが、ここで休止するわけにはいかぬ。何とか打開策を講じたい。
11時前、絶版書房交信「ネジ式」その1を書き終える。
- 649 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月九日
12時半製図室にて修士論文の相談2名。橋本、鳥居の「気仙沼・銀座展」の進行状況を聞く。催事に関してダブルブッキングあり気仙沼映画会の菊地まさるさんと連絡。何とか折合いをつける。寄合世帯でやっているから混乱もあるだろう。仕方ない事だ。佐藤のアニミズム紀行7への小文を読む。渡邊のモノ共々仲々良い。
18時過「葉隠れ」へ。大林組設計本部長以下部長さん達と交勧会。
中川武、長谷見雄二両先生も出席。ワイワイやった。時々やらねば気持は通じない。人間は実に原始的生物でもある。20時半了。21時半烏山、長崎屋に寄ってオヤジの様子を見て22時世田谷村に戻る。
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十二月十日
8時離床。日経夕刊プロムナード原稿の事、色々と思い巡らすも仲々書き始められない。何とか午前中にやっつけてしまいたいのだが。頭の中でひねくり廻しても、あんまり高性能な頭ではないのでうまくいかず。やはりペンを持って紙に向かわないとダメだ。指に脳の支店が出ているのかな。
何とかそれでも書き終えた。「打ちつ打たれつ」である。この連載も残り2回になってしまった。暮間近色んな事が起きそうで、最終回は「李祖原3」と決めているので楽しみはアト1回である。何を書こうか。昼食は宗柳で、夕食は長崎屋のオジンとオバンと共にした。オジンとの高尾山行のスケジュールがリアルになってきた。オジンの手術後少し養生してから行こうとなった。わたしは1月にと言ったのだが桜の花の頃がやはり良いとぜいたくを言う。その前に俺が散ったらそれまでよと、のたまわった。オジンもオバンも満身ボロボロなのだ。良く頑張っている。見習わなくてはならない。わたしもわたしの周囲の友人達もそろそろボロボロになりかけているが、1度この老夫婦見学会でもして反省しなくてはならない。健康で日向のつつじみたいなのはつまらぬものだ。
今夜は月食で度々店の外に出て3人で夜をあおいで月を眺めた。
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十二月十一日
6時過離床。快晴、故に寒い。
鈴木博之が『UP』に「庭師小川治兵衛とその時代」を連載している。
最新の9は「御陵への道」である。以前より彼が皇后陵に関して考えがあるのは知っていたが、尋ねても口を割らない。さすれば興味はいや増すに決っている。今度の記述にその周辺が一部記されているように感じたがまだ中枢ではない。
先日韓国でどうしても武烈王陵を見たいと願った。慶州市仏国寺はビバリーヒルズみたいにアメリカ風に開発され、見学に再訪する気にもならなかったが郊外に位置する武烈王陵は見た。一直線の軸上に5つの古墳円丘らしきが並んでいた。周囲には松の木が多く、小さく植木が妙な形に刈り込まれているのもあった。武烈王陵は内の石窟の実測もされていて興味深いが、近代の天皇陵の内部、つまり棺、又は骨が納められている中心はどうなっているのかは知らぬ。でも周囲の松林の風情とか、たおやかな山の姿は王が眠るに相応しいようにも感じた。
最近は明日香を訪ねる事も無いが、あの辺りの風景に似ている様な気もする。蘇我馬子の墓(石舞台)を訪ねればきっと周りの風景も似ているのだろう。蘇我氏は朝鮮半島からの帰化人である。その墓陵のある風景が武烈王陵のある風景と酷似していてもおかしくはない。
昨夜、長崎屋のオヤジが伏見桃山陵の事を良く知っていたのには驚いた。
オヤジは植物にも異常に詳しいので、この鈴木の論を読ませてやろう。近代墓陵の本体の造形はとも角、その周りの風景をつくり出す松林等の風景は植木職が具体化した、というのが鈴木の論の中枢である。
今日は鳥居、橋本の「気仙沼・銀座展」スペースの展示仕上がりを見にゆくが、途中のささやかな散歩も楽しみたい。
11時銀座気仙沼東日本復興応援スペース。気仙沼市役所、小野寺市民生活部長に声を掛けられた。展示はマアこれ位なんだろうか。
11時40分去る。12時半烏山長崎屋。知り合いの手作りのカレー昼食をいただく。うまい。15時半過了。世田谷村に戻る。
しかし、気仙沼銀座では「宮崎現代っ子センター」の絵の見事さが殊更に目立ったのはどうした事か。普通のと言ったら何だが公立小学校の美術教師と、現代っ子センターの教師との力量の違いか、あるいは美術の教育に対する意識の違いなのか。
並べて見て初めてわかったのであった。
『六ヶ所村の記録』ようやく読み切った。
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十二月十二日
朝方『フランク・ロイド・ライト』大久保美春、ミネルヴァ書房、読了する。
昨夜来、鎌田慧『六ヶ所村の記録』上、下も読了したのですっきりした。
鎌田慧さんの本は重くリアルで眼からウロコが落ちる部分も少なくはなかった。
一言で要約するのは失礼になる本であった。青森県下北半島六ヶ所村が核廃棄物処理工場になってきた歴史が克明に描かれている。文章もこなれていてとても良い。読んで心地良い。勿論美文にもならず正しく現実を描写している筈なのだが妙に薄暗くないのが良かった。日本にまだ消費者、市民ならぬ土に根をおろした民衆がいて、彼等を主役に描いているからだろう。
昨日11日の読売新聞に大島理森自民党副総裁のインタビュー記事が大きく出ていた。政界再編の要の一人と言われているようだ。大層立派な事を言っているが、「六ヶ所村の記録」にも当然登場する人物である。何しろ青森は保守王国であった。衆議院議員6名が全員自民党であった歴史がある。その歴史も政財界の中枢が核廃棄物の処理場(要するにゴミ捨て場)として六ヶ所村に白羽の矢を立てた一因だったろう。
実に色々と知らされた。忘れずにともかくキチンと良い仕事をしたい。一生の恥になるような事はしたくない。『フランク・ロイド・ライト』は読んで楽しさが続いた。過日、愛知県常滑のINAXのギャラリーでフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルタイルの復元作業のプロセスを実見する事ができたがそれを思い起こしたりもした。良い週末を送らせていただいた。
昨日は長崎屋でTVを視ていたら、NHKアーカイブで「唐桑の七福神」を放映していて小鯖の茶畑のおばちゃんが何度も登場していた。茶畑のおばちゃんも今はもう居ないが唐桑七福神はうまく継承されてくれると良い。茶畑のおばちゃんと長崎屋のオバンには一脈通じるものがあるのを感じた。
今日は以前から予定していた通りに油壺の月光ハウスに並木茂士さんを訪ねるつもりで、11時45分に世田谷村で渡邊、佐藤両君と待ち合わせとした。
- 648 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月九日
昨日は別に記す事もなし、終日読書と雑想に暮れた。そして、良く眠った。
今朝も読書を続け、ようやく9時離床。東京に居るわたしは自分でも驚く程のものぐさになった。昔は良く思い付いてそのまんま動いていた。今も良く思い付きはするけれど動きにはつながらぬ。先週の旅の途次に記したけれど身体はこうして衰えて、そして脳細胞だけがピカピカリショートし続けるのであろう。
昨夜は馬場昭道さんから電話をいただき来年の予定迄決められそうになった。大変な坊さんだな彼は。わたしと年は余り変わらぬのにホトホト良く動く。ブラジルの谷さんが、ブラジルの子供達の絵を今日送ってくれるそうだ。勿論、気仙沼応援の絵だ。ケニヤの子供達の絵も着手されたようで、ありがたい事だ。ケニヤの子供達はあんまり絵を描く事を学ばされていないと聞く。だから途方もないモノを表現するらしい。ブラジルの子供達の絵も実に自由でのびやかであるらしい。
銀座の展示スペースから世界中の子供達が無垢な気持で東日本大震災被災地の皆さん、特にその子供達を心配して応援しているのが少しでも届けば良いと思う。昨日迄で宮崎の子供達の「くじけるな気仙沼」の絵、他の展示が無事終了した。宮崎の子供達にもありがとうね、を言わねばならない。
協讃して下さった宮崎市真栄寺住職にも御礼申し上げる。勿論、現代っ子センターの藤野忠利さんにも。想い起こせばこれらの方々との御縁の始まりは皆、佐藤健元毎日新聞記者が作って残してくれたものだ。今は天にいるか、地にいるかは不明の人になったが、好奇心の強い男であったから何か別の途方も無い事を考え付いたかも知れない。彼にも何かとありがとうとつぶやいておこう。
韓国中黒海印寺の脇侍仏になっていたウナロム寺院のナーリさんの事を記したので、奴の事だから俺はどうなんだと焼モチ焼いているやも知れぬ。でもまだ佐藤健に似た仏にはブチあたってはいない。自分で自業自得大明王の戒名をつけて位牌まで作った男だから、恐らく場末の不動さん位にはなっているだろう。意外や意外、成田山かなんかにデッカイ顔して納まっているのかも。
こんな風に考えていると、人間は身体は失せても、それぞれの知人達の記憶の中で生き続けているのは歴然たる現実でもある。とすれば生死などと言うモノは他愛の無い薄い膜一つの衣なのであろう。
脱げば寒いし、着れば暑いねこりゃー、くらいのモノかも知れない。
- 647 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月七日
昼前、気仙沼臼井賢志さんと電話で相談。諸々の件。13時迄さまざまな事をこなす。ベトナム中部ダナン市外務局Mr.Hieuと中村雅身さんとは12月16日にお目にかかる事になった。それ迄に第一次の案の手掛かりをつくっておきたい。14時発、途中長野屋に寄り世間話し。18時前新大久保近江家にて人を待つ。やがて難波和彦さん、鈴木博之さん相次いで現われる。今日は久し振りのXゼミナールである。
当然参会者は3名のみ。このメンバーでは仲々にひろがりようが無いのは勿論知れている。四方山話の合間にさてどうするかの相談も。端的に要約すると鈴木博之さんの関心は「技術は表現になり得るか」であり、石山は「なり得ない」と応じた。
それで、1950年代の日本の話しにもなり、1970年の大阪万博へ飛び、それなら磯崎新さんの大屋根下のロボットについて集中的に論じ合ってみようかとなった。テクノロジー(ロボット)は表現(文化)になり得るかを磯崎新のアイロニー(相対主義の衣)を介してやってみるかとなった。
最近はイイも、悪いも論ずるに足るモノは無いなの感慨は三者一様に持っているので、これは磯崎新をやるしか無いの、正論になったのである。自分の事はさておいて、皆砂粒状にサラサラとこぼれ落ちるモノや言説ばかりになった。そんなモノを今更相手にする時間も無いので、これはそうなるのは当然の帰結でもあった。
合間に鈴木博之さんが鎌田慧の『六ヶ所村の記録』上、下2冊を読み終えているのを知る。鈴木さんには『都市へ』(中央公論新社)の大作があり、実はその感触と『六ヶ所村の記録』の感触は酷似している。典型的な社会主義的レフトの鎌田慧と、紆余曲折した上で今はリベラルな中道派の鈴木博之ではスタンドポイントが異なってはいるが時の流れの実相を究明したい一念は同じだ。鈴木博之が根深く皇后墓陵の位置に関して関心を持っているのを知っているが、それは鎌田慧とは反対の側から歴史の実相に触れたいの意欲の表われである。と、日記ならではの許されざるガラクタ雑感を述べるが、この断片は実は大事だ。ようやく、いつの事であったか磯崎新が鈴木博之に臣なんとやらの立ち位置、つまり東大教授、それも一つの島を背負った者の意識について尋ねていた意味さえも知るのである。良く知られるように磯崎新は芸術院賞及びその会員になる事は拒否し続けている。開高健も同様であった。
鈴木博之はやっぱり、イギリスの文化への愛情、憧憬大であるから、女王陛下の円卓の騎士好みがある。と、くだらぬほうへ、書けば尽きぬ。
鈴木博之は周知の如くに、磯崎新とは時に火花が散る関係だ。Xゼミナールのページにはすでに磯崎新の首都移転プロジェクトを掲載している。あれはわたしの独断専行であった。鈴木博之としては面白くなかったやも知れぬ。
だから、今は思い切ってXゼミナールで真当に磯崎新を論ずるのは良い事である。
結局、色々と検討して万博のロボットに限らず、もっとモロに磯崎新をやってみようとなった。「磯崎新について」の幕を上げてみる事にした。わたしとしては磯崎新は敬愛するオジキみたいな者でもあり、充分に落度の無いように知恵も働かせねばならぬが、これだけ建築が解体ならぬ崩落の現実である。Xゼミナールもそこそこの知的おしゃべりだけを続けるわけにもゆかぬだろう。我々の年令もその域にとうに達している。と、お前先陣を切れとの事でもあり、後に続く事を信じて先ずは「磯崎新について」を始めてみることにしたい。
21時前、了。22時世田谷村に戻る。
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十二月八日
明け方より寝床で『六ヶ所村の記録・下』を読み続ける。
9時離床。メモを記す。Xゼミナール「磯崎新について」の入口をどう開けるかに無い知恵を絞り続けた。抽象論にならぬように。かといって人物論にならぬように。と、ならぬようにの連続で、すでに磯崎が営々と張り巡らせている網にかかっているようなものである。
難波さんに引き継ぎやすいように「N邸」から入ってみるかと考えついて小休。いやはや面白いけれど大変ではあるな。
- 646 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月六日
常磐線天王台駅着12時前。馬場昭道さん、上村晃一さんと駅前でお目にかかる。12時15分過、我孫子第二小学校へ。我孫子校長会、会長川島校長に会う。校長室で共に給食の昼をいただく。うなぎのあては外れたけれど良かった。
川島校長は5校をとりまとめていただくのに若干の苦労があったようだ。作品数が多いので2回にわけて展示することに決める。又、テーマにそった絵が多い第二小学校の児童作品を主に展示し、発表会の日取りを12月18日、午後2時とする事などを教頭先生共々決めた。
14時半了。帰り道は昭道さんに紅葉の残る道を案内してもらう。
15時半、天王台、鴬谷経由新宿へ。17時渡邊助教、佐藤くんと長野屋食堂でアニミズム紀行7の編集打ち合わせ。今日の我孫子への行き帰りにて、以前書きためていたわたしの原稿40枚を熟読したが、これは充分に使えると判断しこれを入口に使い、全体を構成することにした。この間の編集他は絶版書房交信に紹介したい。アニミズム紀行7を乗り切りさえすれば先は視えてくるだろう。
5、6号をまだ絶版していないのが気がかりではあるが、ままよ何とかなるだろう。
大方の方針を決め18時散会。19時半世田谷村に戻る。
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十二月七日
8時半離床。フランクロイドライト読み続ける。昨日李祖原より連絡入り、12月23日来日となる。いよいよ正念場である。
10時半了。
- 645 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月五日
12時研究室ミーティング。プロジェクトの全てを概述し方針を伝える。少しずつ良い拡がりを持つに到った。まだまだ満足できる陣形ではないが地図は描ける。その後、五月女のドリトル先生動物園病院の動画の打合わせ。韓国の旅の合間に考えた、ROOM3、キルティプールの考えとスケッチを伝える。ROOM3に辿り着くとわたしの考えらしきが少し皆さんにも伝わるのではないか。この動画はアニミズム紀行の旅の行方を示そうとしている。年内にはROOM2が仕上がり、ROOM3もほぼ完成する予定である。ROOM1ヴェネチアで空白にしてある一点の製作、陸前高田計画も五月女に担当させてみるつもりだ。彼も一皮むけてくれたように思うので。動画製作の仕組み自体は設計の仕組みと酷似しているのを知れば良い。平山、鳥居の仕事も聞く。
わたしの手許に少しばかりの原稿があり、韓国の河回村のスケッチが2回分3人がかりで、かなりの量になったので、上手く編集してくれるように伝えた。
15時ミーティング了。研究室OBが相談に来室。16時日本デザイン機構の方々来室。17時研究室発、東京駅へ。18時八重洲口小樽へ。清水さんと会い雑談。清水さん日本タカリ協会を設立するぞとぶち上げてくれた。タカリとはネパールのタカリ族のことで、河口慧海が寄ってチベット語を習得したツクチエを拠点とする豪族であり、ジュニー・シェルチャンがその族長を継いでいる。ジュニーの母さんにはポカラでお目にかかった。大変な実力者であり是非とも協会設立は実現して頂きたい。わたしのキルティプール計画の成否にも関係する事である。韓国海印寺で仏に化けて気取っていたナーリさんの導きだろうか。
20時前研究室に戻る皆と別れて、東京駅より中央線で新宿、そして烏山に戻った。21時半世田谷村に戻り、日経夕刊プロムナード「素晴しき団体旅行」ゲラに手を入れる。あと3回でこの仕事も終了する。とても面白かったので名残りがつきぬが終るも又良しかも知れぬ。最終回迄手を抜かずに頑張りたい。
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十二月六日
8時離床。昨夜来、送っていただいた、『フランク・ロイド・ライト―建築は自然への捧げ物』大久保美春、ミネルヴァ書房2400円を読み始めている。大久保さんは日経夕刊プロムナード「ライトと賢治」を読んで下さって、それでこの労作を送ってくれた。まだ読み始めたばかりだが、わたしの知らぬライトのエピソードが満載されていそうでここ数日が楽しみである。
プノンペンの「ひろしまハウス」に3層もの屋根をデザインしてから、わたしの得体の知れぬ屋根恐怖症からは自由になった。
屋根はライトの生命線だとは二川幸夫の言であったが、実になるほどなと思うな最近。でも、あの膨大なデザインのエネルギーには眼を見張らざるを得ない。
現代建築家のライトばなれの中枢は、あの才質の異次元性そのものへのジェラシーがあるのではないか。装飾性の具現は才質の過剰性の自然な発露でもあるから。あの装飾を一人でデザインしたのは驚き以外の何モノでもない。
今は、コンピューターがあるから容易にあの装飾性は模倣できるやも知れぬ。
宮崎の藤野忠利さんから『GUTAI A New Perspective through the Eyes of Fujino,Tadatoshi』、鉱脈社5000円が送られてくる。藤野忠利は具体の数少ない現役画家である。その藤野忠利の目を通した具体の小史ともなっている。
とにかく具体の人々は歴然たる大阿呆(もう馬鹿とは言わぬ、関西風に阿呆と言う)であるのは間違いない。東京の瀧口修造門下の実験工房の人々、山口勝弘がその生き残りだが、それと比べれば具体の阿呆らしさと自由、実験工房の賢さと不自由が歴然とするのである。何人もの具体のアーティストにお目にかかったが、実に皆が一様に芸術阿呆なのが面白い。
大分前の事になってしまったが、宮崎の超高層で展覧会をやるから来いと言われて出掛けてみたら、潮光荘という古い旅館であったのには、わたしの早とちりもあったが口あんぐりなのであった、のを思い出す。万事がその調子なのである。
でも、具体の阿呆さは、実は貴重なのだ今になって。
9時過ぎメモを記し終り、10時過常盤線天王台駅に向う。今日は我孫子の校長先生にお目にかかりに出掛けて、ウナギの昼食を共にする予定だ。我孫子のウナギは美味なので楽しみである。
- 644 世田谷村日記 ある種族へ
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十二月二日
17時半テグNOVOTELチェックイン。日経夕刊プロムナード原稿書き始める。ペースつかめず半枚どまり。その後楽しみにしていた激辛血固め料理店へ。4年前と同じ料理であるのを確認して食べるも、全然辛くない。先程TAXIの運転手さんに尋ねたら、あそこはうまくないから止めた方が良いのアドヴァイス通りであったのには驚いた。研究室の佐藤を辛さで泣かしてやろうという渡邊君の思惑は見事に外れた。「全然辛くないです。ただまずいだけです」とは佐藤もよく言ったり。彼は鈍い、余りにも舌が鈍いの評で一致したが面白かろう筈もなし。少し辛いです位は言うべし。旅の最期の空振りは無惨であった。
ホテルに歩いて戻り、面白くもない六本木みたいな街をチョッと斜視して歩く。
ホテルで原稿書けずに横になる。
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十二月三日
5時離床。7時半日経プロムナード原稿とり敢えず完了。東京へFAX。
8時半チェックアウト。東バスターミナルへTAXIで。時間が早く、朝食をターミナル内のレストランで。ターミナルといっても古いバス待合室で黒々としている。でもそこのおばさんが親切で荷物置場の小部屋状を使わせてくれ、ダンボールに囲まれてうどんとのり巻きを食べる。佐藤の健啖振りが皆のひんしゅくを買う。もう書く事も無いので敢えて書くが奴の左手の対角線上の位置に座すと悲劇である。左利きでストレート状にハシ他が延びてきて鋭く食べ物をついばむのである。非常に攻撃的である。と下らん事を記す。旅も本当に終わりだ。10時10分発プサン空港行リムジンに乗る。11時過プサン空港着。12時チェックイン。
思い返せば韓国のそれこそ民衆の多くは親切であった。国策で外国人に好印象を与えましょうのTVCMが流れているやに聞くが、一時代昔の日本にも居た筈の民衆の親切さによく似ているなと懐古する。バスターミナルの女性チケット売りの少し一様にツンとした対応とは違う親切さを食堂のおばちゃん等は持ち続けている。その点東京は皆が一様に会社員の如くになったなと、アト数時間後に帰らねばならぬ東京を想うのである。帰りに長崎屋ラーメン店に寄ってみるかと、妙に長崎屋のオバンとか近江屋のオバンとか長野屋食堂のオバンの顔を思う。完全に感傷的になっている。いささか疲れたのであろう。
14時プサン空港を発ち、15時半NRT着。京成成田線経由都営新宿にて烏山。長崎屋方面を眺めるにどうやら店は閉まっている。宗柳に立寄り一服して世田谷村に戻った。
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十二月四日
6時半離床。昨夜『六ヶ所村の記録(上)』を256項まで読み進みながら眠りに落ちた。朝方の陽光は世田谷村もホーチミンも河回村も同じだ。美しい。
馬場昭道さんと連絡。『六ヶ所村の記録(上)』を読了。下、15項まで読む。
今日の夕方、上野で宮古島の渡真利さん、月光クルー中沢さん達とお目にかかる事になった。17時半世田谷村発。18時半御徒町、19時前焼肉屋会場へ。19時中沢さん、宮古島の渡真利さん、月光クルー他上野JCの方々、10数名集まり、月光クルーと渡真利さんの忘年会らしきが始まる。渡真利さんと宮古島計画について話し合う。3300坪程の宮古島の離れ島にヨットの合宿所を兼ねたモノを作る事を再確認。先ずは船着場と前進基地、そしてインフラの設置をする事になる。小型風車とソーラーで12Vの電気を得る事とし、浄化槽、天水受、浄水器等についても話し合う。渡真利さんはヨットスポーツの沖縄に名を馳せる運営者であり、基本的にはまだ発想が陸の人間であるわたしの域を超えるところがある。急速に学ばなくてはならぬ。ともかく、もう一度島を再訪して、双方のすり合せをしなければならない。モノの設置場所に関しては、渡真利さんの意見に全面的に従う事とする。島のオーナーで常日頃島を実体験しているので当然の事である。
しかし、今夜の話し合いで月光・アイーダ計画は実質的な一歩を踏み出した。
宴はたけなわとなり、遂にお決まりの宮古島の「おとおり」なる独特な儀式が始まる。これは宮古島では半月形の器に泡盛を並々とついでそれを参会者が廻し飲みしながら、一人一人口上を述べるというものだ。
口上のまずい者、長すぎる者には罰としてもう一杯が務めとなる。全て親と呼ばれる者の指揮で進行され、当然渡真利さんが親となる。大きなピッチ5、6杯が空けられて、中々楽しいけれどもハードなのである。つぶれる大人も現れるが文句は言えない。わたしは旅の疲れもあり、遠慮したかったが儀式だから従った。
「この杯を共に飲み、心を一つにして進みたい」との渡真利さんのあいさつもあり、そうかと思ったからでもある。
宮古島計画は開放系技術の考えの結晶となる可能性がある。自給自足的生活。最小限コミュニティへの指標にする事もできるだろう。一生懸命やってみたい。
宴席の途中油壺月光ハウスの並木さんから電話も入り、彼等の一体感の並々ならぬモノを感じた。
23時前終了。それでも参会者皆歩いて帰れたのが不思議であった。
24時世田谷村に帰着。
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十二月五日
8時半離床。不思議に昨夜の酒は残っていない。身体も軽い。
月光ハウスの並木さんに連絡してごあいさつと報告。12日以降にお目にかかる事とする。
昨夜、渡真利さんから沖縄与那国島に媽祖廟建設の話があると聞いた。渡真利さんによれば、今のところ媽祖は台湾止まりでしょうとの事。やはり海の人間は媽祖をよく知っているのだ。10時半発。11時半研究室。すぐミーティングを始める。
ここしばらく色々と考え続けてきた事を要約して伝えたい。