その八 時間の倉庫

二〇代の終りだったか、三〇代のはじめだったかもう定かではない。初めてのインド旅行をした。見るモノ、聴くコト全てに驚き仰天した。

そのインドの余りの汚濁と喧騒に疲れ果ててひと時をネパールへ逃げた。ガンガの河畔の町パトナから陸路ボロ車でダマン峠を越えて辿り着いたカトマンドゥの早朝の霧にまかれた夢幻の如くの街と人々の様相とは、その後何度も訪ねたカトマンドゥでは二度と再会する事は無かった。あの霧の中の光景は忘れられないモノとなった。

でも、あの体験は何かを作る時には余りにも遠い距離がある様な気がして、夢の中の夢として持っているしか無い様な気持もある。

デカン高原の日没も忘れられない。エローラの窟院巡りの終りに近く、主院であるカイラーサ寺院からは遠く離れた、巨大ではないが、恐ろしい程の緊迫感を持つ窟院があった。自然の岩肌と人の手のノミ跡の葛藤が作り上げる地球の胎内の如くの空間は息を呑んで人を圧倒するような力があった。

その窟内には壁画も彫刻もなく、一部は未完で実に簡素、しかも荘厳を極めた風があった。

深い窟内から遠くデカン高原の落日の光を眺めたのも、いまだに昨日の有様のように記憶に焼き付いている。

設計した猪苗代湖畔、鬼沼の時の谷の「時間の倉庫」は、そのエローラ窟院での体験をまざまざとよみがえらせた。

分厚いコンクリートの壁の裂け目、切り込み、ズレ、ねじれから差し込む光。東西南北の四周から差し込む光の多様さと、自律、抑制の緊迫がそれを持たらせた。大きな、人が入り込めるくらいの模型を作り、スタデイはし尽くしてきたが、やはり模型と実物は別ものである。「時間の倉庫」には、模型をはるかに越えた何者かがあった。

陽光、そして月光、星の光の変換は計算してあるのだが、どうやら実物の内部にはその光の廻転、移動に勝る、反射、にじみ、走りの如くの諸々が出現してくれそうだ。

建築の外形を決定してもいる、内部のラセンスロープがこの建築の主構造なのだが、その螺旋の上昇、下降運動にからみ合う、光の律動がデザインし得た可能性さえもあるやも知れぬ。

我ながら三〇数年、あのデカン高原の光と、エローラの窟院の体験を持ち運べた成果がようやく建築化できた可能性がある。

最後迄、手をゆるめなければ、私の建築のベストになるだろう。

090929

その七 400 円のパキラ

世田谷村の2階の土間ならぬ広間は、住居としては法外に天井が高くて、ガランとしている。4m半くらいはある。晴れた日には陽光が溢れ返る。暗がりは昼間には何処にも無い。だから植物は鉢植えでも良く育つ。

住み暮し始めて8年になる。人間と一緒に小さな鉢植えのパキラも居座った。このパキラは小さかった。高さ 80cm くらいだったろうか。母の家に近い園芸屋で買い求めた。

値段が異常に安かったからだ。パキラの鉢植えが確か 400 円であった。園芸屋のレジで金を支払う時に店員がギョッとした様な顔になり、あわてて値札をシゲシゲと見直し、何人かが集まってヒソヒソと話し合い始めた。多分こんな事であった。

「誰なのよ、このパキラにこの値段つけたの?」

「私じゃないわよ」

「俺じゃない」

「どうしよう、これ0が一つ間違ってるのよ」

「そうだよなあ」

「でも、あの人、もう 400 円にぎりしめて、ビクともしないはよ、アレは」

「あやまって 4000 円ですって言った方がいいんじゃない」

「じゃ、あなた言ってよ、それ」

「イヤ、俺は、イヤダ。アノ人、そんな事言ったらただじゃすまない感じだよ」

「アタシだって、絶対イヤ、何言われるかわかんないわよ、アノ顔は」

「誰か、言える奴、ウチの店にいないかネェ」

「居ないわよ、みんないい争い、好きじゃない人ばかりだもん」

「それに、一度つけてしまった値札を、買っていただくってのがわかった時に十倍にするってのは、どうなのかな」

「やっぱり、このまんまの値段で買ってもらうしかないわよ」

「そうしましょ。そうしましょ。さわらぬ神にたたり無しよ。皆さん」

で、私はその一部始終を眺めながら、当然、値札のつけまちがいだろうとは考えていたのだけれど、本当は 4000 円なんでしょ、とニコヤカにワケ知り顔に応ずる気持はさらさら無かったのである。ガアーッと値札、400 円のそれを水戸黄門のこの印籠が眼に入らぬかの感じで、店員の眼から外れぬ位置に置いて、知らざあ、言って聞かせましょうか、の気合でいざとなれば見栄を切る寸前状態であった。

結論はシメシメとなり、お互いに眼を伏せ合いなあがら 400 円は支払われ、パキラはウチに来たのであった。

これが、インドであったなら、もう大騒ぎになり、 100 人程の群衆も集まり、午後いっぱいの時間をかけて、けんけんごうごう。

結果、私は 6000 円くらい払わされてしまう、シュールレアリスムみたいな事になったであろう。

そんなはじまりの歴史を持つ、小さな 400 円のパキラが、今や4m半の天井にまで身の丈をのばし、頭がつかえて、もうこれ以上のびようがないくらいに身をもだえる風になった。

それで日曜日に思い切って、パキラの先端を切った。切った方が幹も太く、枝分かれもスムースに育つとの情報もあった。

で、今、南の片スミで育っていたパキラ、400 円のパキラはド真中に移動した。身の丈は4m弱になった。こんなデッカイパキラは先ず園芸屋にはない。

大きな声では言えないが、まず0が1個どころか2個ちがう位の値打ちモノに育ったなあと、しみじみ眺めているのである。

たかだか八年の歳月である。しかしパキラにとっては 400 円、じゃない円ではなくて 400 年、あるいは 4000 年の才月の如くでもあるのではないか。

たかが鉢植えの草花、そして樹。されど、どんなモノにも背負っている歴史がある。

090915

その六 いろんな畑

近頃は区民農園と自分の坪庭ならぬ、坪畑にこっている。少しばかりこり過ぎて、今計画中の建築設計にだってそれが入り込みそうになって、あわててセーブしたりする日々だ。夏が終って急に秋の気配が濃厚になったからかと、つまり体を動かしやすい天気、気温になったからなんだろう。

それはともかく、農園狂騒曲の高鳴る日々となり、フッと気が付くのは、私の芸術好みらしきが何処かに置き去りにされてしまっている事だ。宮崎の具体派の生き残り、藤野忠利の絵や、何やらの事が頭からスッカリ抜け落ちてしまった。世田谷村のここかしこに藤野忠利の絵やら、オブジェらしきが乱雑に置かれ、たてかけられてはいるのだが、ほとんどそれに眼がいかない。眼がとまったとしても、「オヤ、コレハ、ナンダ、不可解な」という感じなのである。もちろん、自分の描いた絵やドローイングにも全く眼がいかない。

そういう現実に私は正直実にホッとしている。薄々そうとは感じていたけれど、その気付いてはいたけれどあいまいな感じがはっきりと自覚できるようになった。いわゆる芸術的な世界らしきに没頭できる時間はそんなに長くはない。絵を描くのや視てアレヤコレヤと思うのは確かに面白いのだけれど、ズーッとやっていればアキる、コレは。今、一週間程夢中になっている小農園だって、必ずそうなるにちがいない。

今、私は小さな野菜を育てる畑、他人の畑と芸術好みの畑、建築設計畑、そしてコンピューターによるコミュニケーション好みの畑、といったいくつかの畑をはっきり巡りはじめているように思う。

この畑一途に生きるというのが特に日本では、俗に言う成功への径である。畑を沢山持たぬが良しとされている。 これが私には出来ない。チョッと前まではこれが私の欠点であると考えていた。しかし、自分の年令を考えてみると、そしてこれ迄の自分の小史を眺め返してみても、これはもう変えることは出来ない。むしろ変えられない。変えない。巡り歩きのクセはその接着剤が不動であるとしなければなるまい。

複数の畑を結びつける必要は、それでもあるだろう、菜園好みになるのか、このウェブサイトのページ作り好みになるのかはまだ知り得ない。

090914

その五 区民農園2

うちの近くの区民農園 125 区画の一つの区画の広さは 3m X 5m 、15 平米である。小さい。と、思っていたらとんでもない。これは実に大きいのである。

つくづく、そう考えてしまうのは、私も自分なりに小さな菜園を自分で作り、その大変さと、面白さを少し計りは知っているからだ。私が作った菜園は 3.8m X 9m 、そして、それにあき足らず、もうチョッと欲しいなと思い 1.2m X 2.4m 位の離れ島を作った。

建築関係者であれば、恐らく皆、何だそんな小ささで何が出来るんだ、とやかく言っても仕方ないだろうと無視するだろう。ところが、オッとどっこいなのである。そう思ってしまうところがすでに、圧倒的な時代遅れどころの話しではなく、時代錯誤とも言うべきであろう。

私が冬から春にかけて土を掘りおこして作った小さな畑、坪庭みたいな畑は、秋になろうとする今、ほとんど全滅状態で小さな方の畑 1.2m X 2.4m の方の奴は完全に身の丈ほどの雑草やらにおおい尽くされてしまった。畑にたどり着く 2m に身体を運び入れる事さえできない状態になった。

土を掘り返し、種をまき、芽がでる、支柱をたて棚をつくる、迄は面白くてなんとか気持は続くのだが、それからがいけない。

梅雨になり、畑には入らなくなるのはまあ仕方ない。晴耕雨読を決め込んでいてよろしい。だって趣味らしきの内でやっている畑なんだから、それで良い。雨が降っても畑をやる迄の事はない。

しかし、夏になってからの草取り、そして防虫のための作業が仲々できない。あんまり、面白くはないし、何といっても同じ事の繰り返しで、眼に視えやすい楽しみは無い。

畑をやらなくなる。そうすると、アッという間に畑は廃園になってしまう。陳腐な言い方だろうが、実に自然の力は強いのである。自然が野生にもどる復元力は凄まじいものがある。

作るのはやさしい。それを育てるのはとてもむずかしい。

私の小さな畑は私の手におえない位のものだったのだ。大き過ぎたのだ。

区民農園の 125 区画を学習しながら、私だって秋まきの野菜を何でもいいからまたやってみたいの夢はある。

だから、二日もかけて草や、ツタを刈り取り、その切った草を除去しようと試みた。とてもじゃないけれど大変な重労働である。何も面白くない。

ようやく、1.5m X 1.5m ほどを2つ切り拓く迄で精一杯であった。でも、まだ畑の土の状態にはとてもいたらない。

マア、私の実力では 1.5m X 1.5m、2つ位が精一杯なのではなかろうか。

区民農園の 3m X 5m には来年には挑戦してみたい。

090911

その四 菜園家スタイル

近くの区民農園は 125 区画の畑がある。125 家族、あるいは個人がそれぞれの菜園趣味を、思う存分に表現している。私も菜園趣味落第生なので良くわかるのだが、区民農園の菜園エネルギーにはある種の新しい内実があるようにさえ感じる。

総選挙で政権が交代し、何やら政治の仕組みが変わるのかも知れないという期待が世間にはある。

しかし、ウチの近くの区民農園のエネルギーの方が余程世間の、つまり固く言えば社会の実質を変化させる実質があるのではないかと思うのだが、コラムですから、しかも気まぐれと銘打ったコラムなんだからそれを述べるにはふさわしくない。コラムにはコラムの役割があるのだ。

で、125 区画もある菜園のディテール=細部について考えてみる。

125区画の菜園の全ての人にお目にかかったわけではない。マアせいぜい五〇人くらいの人々にパラパラすれちがった位の事である。その五〇名程の人間達のスタイルが実に面白く興味深い。

先ずは足許。

一、長グツ

ニ、スニーカー

三、地下足袋

四、その他

に分かれる。

一、の長グツも、クラシックなモノから、いかにも菜園家風のチョッとファッショナブルなヤツ。女性だと長グツならぬ雨グツ風の短いモノ迄がある。

ニ、スニーカーも、家族そろってスニーカーという類の、いかにも菜園グッズみたいな趣きのモノから、使い古した運動グツにいたる迄、巾が広い。

三、地下足袋は、極少数であるが、当然このスタイルが一番きまっているが、このスタイルはもとお百姓さん、あるいは筋金入りの農業体験の持主である、の表明でもある。しかし、本人は極めて自然に地下足袋なのであって、自分のキャリアの自己表現の自意識はない。

四、その他は、他にもあるのだろうが思い出せない位のモノ。

私はどうかと言えば、一の長グツ、しかもオールド、クラシックの長グツ派である。

例えば、アリスファームのデザイン長グツも持っているんだが、恥ずかしくって自分では仲々はかない。

ニ、スニーカー派は若い人に多い。農作業なんて意識はほとんどなくって、庭いじりの感じで菜園づくりを楽しんでいる。

三、地下足袋派は隠れキリシタンの風があり、周辺の、特に長グツ派の人々の尊敬と信頼を得ているようだ。

私の好きな 72 区画の老菜園家は 84 才。戦争中は特攻隊にとられ、台湾で自給自足農園に従事した。それで生き残り、他の仲間だった人達は皆フィリピンや沖縄で亡くなった。この人物のスタイルは実に自然で、しかも理にかなっているのが歴然としている。小さな子供用自転車で農園に通ってくるのも好ましい。

好ましいのではあるが、とても真似が出来ない。やっぱり、それなりの歴史を背負っていないと、こうはなれぬのだ。この人物が地ベタにかがみ込んで土に触れているのを眺めているだけで、何かホッとして、まだまだ信頼するに足りるモノがあるのを知るのである。

時々、会ってゴーヤをいただく 80 区画の同業者(設計業)は、チョッとデザインされたスタイルではあるが、浮いていない。すっかり土に汚れ、時間を経て、ファッションが土になじんだ風があって、コレも好ましい。

私としては、野暮ったいオールドスタイルの長グツ姿を、どう磨き上げるかに気を使う時期になっているのである。

090909

その三 区民農園

世田谷村のゴーヤを食べた。

あれだけ面倒みてきたのに、世田谷村のゴーヤの収穫は、たったの二つである。四月に農場の駐車場で開かれた苗市で五株買ってきた苗を植えた。昨年、種をまいたけれど一向に芽を出す気配さえも無かった。種から育てたいとは考えたけれど、私の実力では無理だろうとあきらめたのだった。

梅雨になってから、畑に降りる事は無くなった。雑草に畑がやられるのは知っていながら、やはり草取りをおこたった。

それで当然の事ながら私の畑は雑草だらけになった。福岡正信の如きえらい農業家は、それで良いと言う。雑草と食菜が共にあるのが理想だと確か言っていたのは知っている。福岡は荒地に、土だんごに種を入れたのをほうり込んで畑にする運動をアジア各地で展開し、一定の成果を得た人物でもある。アジア・アフリカの農地の拡大への具体策の大実践者である。

なまじ、そんな耳情報があるものだから、これで良いのだなんて、ほったらかしてもいたのだった。ところが、現実は甘くない。やっぱり野放しにしていたら、雑草天国となり、おまけに世田谷村はクズの繁殖力が異常に強く、私の畑はアットいう間に亜熱帯の雑草植物園になってしまった。

何処にも野菜らしき姿は見当たらない。

身の丈をこえる雑草だらけの中に入ってゆくのも気分が悪いので、それで畑の夏は、今年も廃園になるかと観念した。

某日、フッと畑がなつかしくなって、すぐ近くの他人の畑、区民農園まで歩いた。歩いたといっても2、3分のことで、世田谷村の二階からは区民農園は一望の許だし、区民農園からだって世田谷村は間近に眺められる。

区民農園の百区画程の畑は世田谷村の畑とはちがい、丹精に作られていた。余りにも見事な落差があった。

しかし、区民農園の数区画、ほんの数区画だが、やっぱり雑草だらけの廃園になっているのがあった。聞けば転勤になったり、病気になって手がかけられなくなったのだと言う。

そうか、世田谷村の畑は病気になって体を動かせずにいる人と同じ、あるいはそれにも辿り着けぬ類のまさに、いつわりのない廃園だな、と気付いた。

私は病人なのだ。身体は何ともないから、恐らく、ただの無気力な、なまけ者なのかも知れない。

だって、区民農園の人々の畑と、私の畑を見比べてみたら、それは一目瞭然なのである。精神科医のなんとかリカに見てもらうまでもないのである。野菜も作れないというのはこれは歴然とした病気なのである。

区民農園で立派に育ったゴーヤをいくつかいただいて帰ったら、ウチのジャングル畑のゴーヤもどうにか小さな実を二つだけ実らせていたのを知った。早速、いためて、食べた。苦い味がした。区民農園のは立派だ、まわりの人は実に偉いという正直で苦い味がした。

090907

その二 「スパイダーマン」

若い頃にはロッククライミングに没頭していた位だから、自分はおそらく高所恐怖症では多分無いだろうと思っていた。400m の岩壁にへばりつく恐怖というのは当然あったけれど、その恐怖を克服して登り切った時の快感も又、同程度にあったのだろうと今では懐かしむばかりである。

10mm 程の岩の凸起部、ロッククライミング用語ではスタンスと言ったっけ、片足の山グツのつま先だけがそこにかろうじて乗っている。左足はスタンスも無く宙に浮いている。両手はそれぞれさらに小さな凸起部、手でつかむのをホールドと呼んでいた。三つのポイントが岩壁に触れて、支持されていないと滑落する可能性が出現する。B・フラーの思想と同様に人体と岩壁との構造力学も、三点確保が原理で、とてもとても大事なのだ。フラードームの原理は三角形の構造の連続が原理性の強いシェルターを作り得るという、構造力学レベルの数学である。三点が支持されていれば構造的に安定している、岩壁から落ちる事もない。けれども、身体を動かさないと岩登りにはならない。動きの中にリスクが発生し、動きそのものが岩登りの上手下手を決めてしまう。

それに相手が自然であるから、岩壁の凸起点、凹み、割れ目といったスタンス、ホールドになり得るポイントは、決して規則的な配置がされていない。岩壁にその配置の構造を発見するのがクライマーの才能という事になろうか。

しかし、それを発見しても最後は筋肉の質が問題となる。

例えば、垂直の岩壁にへばりついて上にも下にも動けなくなる時がある。10mm の凸起部に乗せた足が、身体の重力をほぼ一点で支えねばならない。両手は重力を支えられない。バランスを保つ補助的役割である。5分、10分、15分と時間が経つ。その足が重力に耐えかねて、ブルブルと震え始める。ミシンという。ブルブルと筋肉がふるえる。

実にコレが恐怖なのである。死と隣り合わせを実感する。筋肉のきしみの中に恐怖が出現する。

私は幸いな事にクライミングへの才能の限界を知って、クライミングから外れた。だから今でも平凡に生きていられる。

九月三日の新聞に、マレーシヤの首都クアラルンプールの超高層ビル、ペトロナス・ツインタワー、高さ 452m のクライミングに人間がいどんだ、との報道があった。ビルの頂きの尖塔の上に人間が立っている写真があった。人間はスパイダーマンと呼ばれるフランス人アラン・ロベールさんである。この人は世界中の超高層ビルに登って名を売ったようだ。

それはどうでもよろしい。

その写真を見た途端に恐怖が私を襲ったのである。

この人間が犯している一種の愚行の中に秘む、死と隣り合わせである筈の恐怖を共有してしまった。このスパイダーマンにはロッククライミングの創造的喜びは無い。岩壁にある多種多様なホールド、スタンスを発見してゆく快感は無い。だって人工のビル、しかも超高層は一階分の表面を登るのも、88階の表面をクライミングするのも、同じ動作の繰り返しであるから、動作を作り出す快感は一切無い。人体は機械と同じに同じ動きを反復していれば良いだけだ。面白くも何とも無いに違いない。

スパイダーマンはペトロナス・ツインタワーの尖塔の上にある何の為のものなのか、球の上に、小さな直径 3m くらいの球の上に立って両手を挙げていた。

私はその球から、どうやって降りたのか、どんな動作で降りたのか解らなかった。そしてそれだけが大きなリスクを負っていたポイントであると考えた。球の上に立って足がスリップしたら、それは死を意味するから。そのスリップの感触を想像し得たので、それが私に本物の恐怖をもたらしたのである。452m のビルを登るのはそんなに困難ではない。同じ動作を繰り返していれば良いのだから。しかし、452m の最頂部の小球に登り、そしてそこから降りる時の恐怖は、凄まじいモノであったに違いないと、感じて、そう感じる事が恐怖をもたらせた。

スパイダーマンはロッククライマーや、アルピニスト、いわゆる登山家とは全く別種族の人間である。

ただただ恐怖に耐える事で、有名になるという代償を得ている、しかし妙チクリンな種族であるのは確かだな。このスパイダーマンに登高の喜びは無い。ただ死を代償として、多くの人に視られて、そして有名になるという喜びはあるのだろう。

誰も見ていない、カメラに写されもしない世界に、スパイダーマンは現われない。そこが唯一、高度な登山、登山家とスパイダーマンのちがいであろう。私はどうやら変な高所恐怖症におち入っている。しかし、スパイダーマンは世界で一番身体で建築に接しているのだけは確かだ。身体と建築なんて思考の遊びとはまるで違う。

090903

その一 「誕生」

知り合いの野辺公一が「 EPISODE 」を創刊した。年四回の発刊である。第一刊のテーマは「誕生」で助産婦・矢島床子さんのインタビュー「こころとからだで感じるお産」である。野辺公一は大野勝彦らとの「群居」を介して知り合った。生命のはじまりをはじまりにしたいと考えたのには色んな考えがあっての事だろうが、わかるような気もするが、言わぬが華であろう。

内容を詳述せぬが、値段も手頃であるから、手に取ってみたらどうか。

Eメール order@kirara-s.co.jp

TEL 0120-60-3343(フリーダイヤル)

FAX 03-3360-0203

一冊 619 +税 4号分 2500 円(送料・税込)

これでは、おすすめにもならぬが、私としては野辺の編集後記だけでも一読の価値ありとする。野辺の編集後記は定評のあるところである。もっともほとんど身内だけだが。彼もその事には恐らく自覚的で、この小ページの短文にこの季刊雑誌の生い立ち、人間関係、置かれているだろう状況他がみんな書かれている。これと同じ、野辺の「センチメンタル通信」と題された小エッセイを読むと、何故「誕生」だったのかがウムウムとわかる様な気がするのである。

野辺には悪いクセがあって、フィリップ・マーロウだのハメットだの古いハードボイルドを持ち出すだけあって、そのハードな過去にボンヤリしたこの冊子の表紙の色状のセンチメンタルな霧がかるのが常なのである。余人であればいざ知らず、良く知る野辺であるから、ようやくマアマア許すというくらいに感傷旅行ではある。

が、この小文を読めばわかる事なんであるが、野辺は愛妻を亡くしており、その衝撃からようやく立ち直りつつあるのを、感じられるのではある。いささかの感傷も持ち得ぬ人間は、そんな人間はいるわけもないけれど、とても危うい者だ。人間はノスタルジィと感傷をその在り方の骨子とする生物でもあるから。

こんな事を書くのは普通は良くないとされている。個人的な事を他人が知りようがない事を書いているって。しかし、今のメディアはそんなばかばかしい戦後民主主義のなれのはてみたいな状態はとっくのとおに、置き去りにしてしまった。

ここに書いている文章だって、コンピュータを介して、ある特別な人達だけが読んでいるのであって、当然、私はそれを充分に意識している。だから、野辺や私を少しは知って下さる人の為にこの文は書かれているのであって、妙な、インチキン印といっても良いくらいの普遍に対して書いているのではない。これも実ワ危ないのだけれど、それを知っていさえすれば、とりあえずはヨイのだ。

この冊子を私にくれたのは難波和彦先生である。少し計り照れ臭そうに、「これ野辺さんから・・・・俺も次に書いてるんだ」と小声でつぶやいて手渡した。

難波さんの無印住宅に私は関心がない。でも難波さんの建築の四層構造という考え方には関心を持つ。あの四層構造は要するにマルクスの上部構造下部構造をそれぞれ2で割ったものだろうとの目星もつけている。

同様に私は、「郡居」以来延々と続けているらしい、野辺の地域ビルダーへの肩入れにも今は関心がない。しかし野辺の実に私的なそれこそセンチメンタルなドキュメントにはキラリと光る何者かを視るのである。

まあ、読者諸君には創刊号だけは買ってやって下さいと、センチに申し上げる。そして編集後記から読んだらよいとアドヴァイスする。ただし、4号まとめての購読料は「絶版書房 アニミズム紀行」と同じ2500円なので、それは無理しないでくれと申し上げたい。今は2500円を払ってくれる読者は金の卵の如くで、取り合いなのである。

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