昨日、電話して不在でおった東北一ノ関ベイシーの菅原正二に夜電話したら、当り前のように、居た。昨日は何度も電話して、ベイシーも他も不在であったのでおおいに心配してしまった。以前、こういう事があって、菅原正二は何処かに人知れず入院していた。そういう歴史があるからだ。

又、細々とした事は言うまい。何かがあるのだろうが、彼は話したくないのである。

で、言った。

「ベイシーの名を、明日からアラモ砦に変えたら。」

「皆殺しの唄だな。イイネ。」

米国の南北戦争のおりの、米国には珍しい歴史的現実で、即ち叙事詩らしきである。アラモ砦の戦いについては、触れぬ。

私のジャズ喫茶ベイシーへのオマージュらしきは、唯一、アラモ砦の戦いの最後に、アラモにたてこもった人間達に対して、攻撃側から流されたという、皆殺しの唄の美なのである。

で、アラモの歴史はチョッと私には縁遠い。わたしはその遠さを埋める気持もない。いきなり、リオブラボーへ飛ぶ。

西部劇「リオブラボー」はジョン・ウェイン主演ディーン・マーチン、そしてリッキー・ネルソン共演の娯楽大作である。でっかいジョン・ウェインがライフルをケン銃のように持ち歩くのが格好良かった。しかし、脇役のディーン・マーチンがリッキー・ネルソンのギターに乗せて唄った、ライフルと愛馬のセンチメンタルな調べは忘れられない。ライフルと愛馬、まさに西部劇の中心である。そして彼等が閉じこもる保安官事務所を取り囲む敵側がかなでたのが、トランペットの皆殺しの唄であった。

リッキー・ネルソンはその頃人気絶頂であったが、やがて落ち目になった。芸能界の宿命である。しかし、リッキー・ネルソンは決して昔のヒットソングを繰り返さなかった。それはかたくなであった。常に地方のドサまわりでも新曲を供そうとした。そしてドサ回りの途次、自家用ジェット機の事故で死んだ。落ちぶれたと言えど、自家用ジェットで米国中巡回していたのである。

友人、佐藤健とわたしが妙に気があったのは、このリオブラボーのディーン・マーチンの唄「ライフルと愛馬」は良かったナア、とそれくらいの事であった。気嫌のいい時には、あの唄を二人で鼻唄で合唱ハミングしたりしたものだ。

大体、あの唄はディーン・マーチンの鼻唄そのものであった。

別に、それ以上でもそれ以下でもない。

それ以上以下の意味なんて、まったくないのだが、わたしにとっては忘れられない記憶のひとつである。

100729

いくつかつくりたい、本格的なコンピューターサイトのデイリーマガジンのあらましを、勝手にデザインしてみる。山本夏彦的センスを借用してみる。山本は常々、かくなる事にはいかさまの才が必要であると言っていた。

それ故、率直にいかさまをする。死んだ人間や架空の人間迄引張り出すかも知れぬ。

当然の事ながら、ネット、メディアも何かの形で金にならないと、どうしようもない。それが遠廻であろうと、ダイレクトであろうとである。今のところ私のサイトは、せいぜい絶版書房アニミズム紀行シリーズが知られて、ポツリポツリと売れる位にしか、金のパイプはない。これでは、サイトは長続きはしない。

今は自分のサイトで、自分の何かを広報しているだけだ。プリミティブすぎる。

早速まねをしてみる。

何と言っても、山本夏彦の室内は、その所々に読み応えがあった。インテリア情報、住宅情報には時々、エーッというようなのがあったけれど百家争鳴なぞのコラム欄は粒寄りで光っていた。今の建築ジャーナリズムらしきに、読むに耐えられるページはほとんど無い。グラビアをペラペラめくるだけだろう、誰もが。

前置きはその位にして、ではここに、山本夏彦編集長だったらこうするという、シナリオを先ず、まねしてやってみたい。

先ず、なにがしかの執筆者をあるいは登場人物を選んでみる。山本はリアリストであった。抽象論をきらった。庭師のスター(あるいは陰で支えた人物)は必要だろう。これは人物登場なるインタビューコーナーに出てもらうのも良い。

そうしたら、トップページもそうなる。つまり、表紙を人物とする。一番最初だから、できればスターが良い。ハンパではないスーパースターが良い。例えば、イサム・ノグチがいい。でも彼は今はもう居ない。山本夏彦が生きてる時から死んだ人のようでもあった。明るい幽霊みたいな人であった。だからイサムの霊でも良かろうが、それではページがムー大陸みたいなオカルト系になってしまう。

でも、ランドスケープというよりも庭関係が良い。横文字商売は怪しい。イサム・ノグチの仕事を支えたひとがいたら、とても良い。スターを支えた黒子さんである。それなら四国高松牟礼の、泉石材の泉さんが良い。是非泉さんに登場していただこう。

なぜ、庭師が良いか。これからの時代は庭師からスターが出てきて欲しい時代なのだ。新しい事を拓くには、というよりも新しい何かが拓かれる時には、それがわかりやすく、表現出来るイコンの如きものが必要だ。

それが庭師だ。

出来る事ならば、石州だって、雪州だって呼び出したいくらいなのだ。利休、織部、遠州等のスーパースターの影に隠れて知られる事も無く。水や木や草花、そして石、コケを知り抜いて、そして少し計り建築の事も知っていたような人物が、コレから必ず出て来る。その人物像を作ってみるゲームに先ず、とりかかり、それを頼に色々考える・・・・という様な事をサイトで出来るだろうか。できると思う。

100429

このコラム、及びわたしのサイト全般の読者層について考えざるを得ない。厳密に言えば、ここはブログではない。ブログのシステムには乗せていないし、我々のオリジナルのメソッド、どうやらそれはとてもプリミティブなものであるらしいのだけれど、その枠の中でやっている。日記形式のものから、各種のノート、記録、最低限の多様を持たせようとはしている。うまくいってないだけの話である。

先ず、友人、知り合いが読者であろう。わたしの日々を健康も含めて気づかって下さる人達である。昨日も朝、きちんと目ざめて、起きているかと、心配して下さる知人達への、これは大丈夫であるという報告でもある。それが世田谷村日記・ある種族へ、の主機能である。

次に、例えば、このコラムである。

いずれ、活字メディアは消えぬにしても、特別な弱いものになるだろうと予測している。活字を愛してやまないが、消えるモノは消えるのだ。すでに消えかかっている現実もある。しかし、人間は、特に都市に住み暮す、何も具体的に生産していない二次産業、三次産業に従事している人々、わたしも含めてであるが、我々は色んな形の情報を必要としている。だって、情報によって生きて、生活しているんだから。それで、わたしも情報を消費しているばかりの生活ではなくって、少しでも情報を送り出すのも、してみたいと考えたわけだ。日記だけでは個人情報の公開に過ぎない。それを中心とせざるを得ないが、もう少しフィールドを拡げたい。その一環が、このコラムであり、他の項目のページである。

知り合いの他には、どういう読者が今いるのか。設計業界の同業者が先ず居るだろう。いわゆる業界の人々だ。建築家も含めて。単純な事実であるが、この方々が、やっぱり主力の読者であるらしい。ここには、それへの予備軍としての建築学生が含まれる。

しかしながら、それではコンピューターの何も使っていないに実は等しい。今も在る建築業界誌の読者層とダブルだけである。これはつまらない。読んでくれて有難いけれど展開してゆく力にはならない。

建築の事を書くとヒット数がすぐに上るので、これはしかし歴然としている。

建築雑誌はどうしたって先細りに決まっているので、同じに先細りになるに決まっている。それでは、何のためにしているのか、訳がわからない。

次に、どうやら、メディア関係の読者が、かなり多数居るようだ。これも、考えれば理の当然ではある。しかし、やっぱり、建築を中心としたメディア関係者の水準をあんまり、超えることはないようだ。しかし、我々のページは、各方向のメディア関係者に多くが、居るのが特色でもあるらしい。

以上を実に我ながら荒っぽく要約するに、イメージとして、あくまでイメージとしてですよ。念の為。このコラムその他は、日々、拡張、充実させ、チョッと昔にあった山本夏彦の個人誌であった「室内」の形式を目指すべきなのを知るのである。あれをベースとして、あの電子版をイメージとして目指す。いずれ、日記以外はドンドン広告も取る。その広告元年がいつかは知らぬが、やる。日記は広告はとらぬ。それはすでに決めてあるのです。

いきなり、平安コラムに不穏な事を記したが、その条件が少しは整ってきたようにも思うので、さらに意識的にそれを行うつもりだ。

100428

前にも一度書いたが、再び思いついて書く。これがコラムのいいところだ。フット思いつきをそのまんまである。菅原正二の「My Days of WINE and ROSES with JBL」ぼくとジムランの酒とバラの日々。駒草出版(1800円+税)

何故、もう一度書くかと言えば、コンピューター、サイトへの書評らしきは一度書いた位では全く、アッという間に忘れられ、何の効果もないからである。そりゃそうだろう、タダの画面でタダで読んでくれるのだから、忘れるのも早いのは理の当然だ。

わたしも自身の絶版書房でその事は痛く身に沁みついている。絶版書房はお陰様で、1号 200 冊、2号 220 冊、3号 400 冊、4号 250 冊、迄は順調ではないが、ともかく売り切った。ほとんど全て、コンピューターサイトを介しての販売であった。5号は 500 冊刷って、これは只今販売中である。読者諸兄弟姉妹諸氏は当然の事ながら現代人である。なにしろ、余りのスピーディーな生活の中にある。暮しの流れも速いが、モノ忘れも実に速い。絶版書房の売行きを、日々チェックしているとその感に打たれる。何か情報を入れぬと、仲々に絶版書房本は動かぬのである。

それを知るので、菅原正二の本の紹介を一回くらいしたのではほとんど売行きには何の力も無いのを知るのである。余計なお世話を重々承知で、再び書いてみるのである。勿論、わたしには何の具合的な得にもならぬのだが、こういう無駄が人生では実は、一番大事なのは、知っているのである。

この菅原正二の本は彼にとって3冊目の本ではある。処女作「ベイシーの選択」講談社、のリノベーション本であるが、前にも述べたように、版形も紙質も全く変って、それ故、実に新鮮であった。何だか、菅原の生き方、とも呼ぶべきモノの現代的手ざわりがピシリと本の形に表現されている。

重量といい、大きさといい、繰り返すが手ざわりといい、実に良いのである。

菅原の文章は、この本が書かれた当時より、はるかに彼の音に近く、軽やかで、速力に溢ち、切れ味も進化している。が、この本の中身として書かれている事は菅原の初心とも言うべきものである。彼の仕事自体が世界でも稀になった、ジャズ喫茶というモノであるから、実にシーカランスの如くに化石状のモノでもある。そんな事に想いをいたせば、化石としての菅原のベイシーを良く今によみがえらせたとも考えられる。

グデグデ、書いているが、なにしろ、手にしてみよ、その手ざわりを感じてみよ、とキツクつぶやく。

100426

1

実のところ、このコラムが書けなくなっている。と、こういう風にかきだしてみたのも、書けないからなのである。本当に書けないのである。このコラムは誰からもたのまれて書いているわけではない。自分の楽しみで書いている。だから稿料が入ってくるわけでもないし、〆も無い。だから書きたい事を、書きたいだけ、好きなように書けば良い筈だ。それが、書けなくなってるという事は、書きたい事が失くなってるという事である。書きたい事が失くなってるという事は、実に考えてる事が失くなってる事に等しく、又、そうでなくとも恐ろしい程に稀薄になっているのだろうと自覚する。

これは実に恐ろしい事でもある。人間考えられなくなったら生きてる甲斐も無い筈だ。じゃあ死んぢまいましょうかと、そう簡単なものでもない。生きなければならんのです。

書くことは山程にあるぞと考えて、テレテレ垂れ流しているうちにこうなってしまった。わたくしは本を読んで何かを触発されはするが、何か身近な、というか身近な世界でそれを実感し、再確認しなければ気持がおさまらぬ、そんなところがあるようだ。で、このコラムはその為にも、つまり自分の為にも良いのじゃあないかと考えて始めた事だ。

なのに書けなくなっている。昔のコラムを読み返しても、それはもうつまらぬモノとしか読めぬ、それだけだ。

が、という事は、昔書いたモノはつまらぬ、と恥じる気持はまだ生残っているらしい。つまり向上心らしきはかすかに在るようだ。それなら生きる甲斐もあるって事だし、そんな甲斐があるのなら、当然何かを考えてはいる筈である。つまり、何かを書けるって事です。

で、こういうつまらぬモノを書き始めている。でも、これでも一生懸命なのである。何かを考え出す為に書いているのである。キット書いているうちに、本当に書くべき事が生まれてきて、しかるべきだと思っての事である。

又、何かの転期、つまりは書けるようになるべき転期になるようにと、コラムに番号を打ってみたりするのである。結構必死なのです。

と、こういう事書いてしまえば、頭の中は少しグルグルし始めて、何かが書けるかもしれないと、最期は楽天的なのをよそおうしか無い。

100422

TVの力が崩落しているように感じる。NHKの一部の文化番組や民放の、極少数になってしまったドキュメンタリー以外に視るべきものは全く無くなった。

恐らく誰もが感じている事ではあろうが。敢えて言う。

お笑い番組、クイズ番組はよくもまあCMのスポンサーである企業群が、こんなモノに広告を託している会社のトップの顔が見たい、広報宣伝担当の大衆の趣味を余りにもなめてかかっている風が視えてしまう気もしないではない。

中国が、上海万博のイメージソングが盗作の疑いがあると、使用中止を決断したらしい。イメージソングの謂われの、つまりは背景の価値を良く知るからだ。イメージソングすなわちTVコマーシャルである。万博も国の力のCMである。それを知る中国当局の対応は素早かった。

日本のTV界にはこの自浄能力を求めても甲斐ないのかも知れぬが、すでに斜陽の只中にあるTV業界の、これは他山の石ではないか。

TV業界にはびこっているのは上海万博のイメージソング状態なのである。つまりは全て盗作の連続。ニュース番組らしきに登場するキャスターというのか、コメンテーターというのか知らぬが、皆ほとんど同じ事しか言わぬ、言えぬ。彼等は新聞を読んで、それを口移しに言うに過ぎぬ。新聞は新聞で全くの大衆迎合ポピュリズム、ジャーナリズムの名が泣くだろうと言うのが現実である。これ等に登場して、知ったか振りを垂れ流す愚は誰の目にも歴然たるものである。政治家らしきがTVのつまらぬ対論番組に出演するのは自分の選挙の票が欲しいからである。有識者、知識人らしきがこの手の番組に出演するのは何故だろうか。考えても解らない。

それはインターネットのページ、今、読者が読んでいるこのページです。これの評価が低いからではないのか。TVとパソコンは、詳細なデータを持たぬが、恐らくは全家庭に普及しているだろう。

TVは一方通行だが、パソコンは往復が可能だ。

歴然としてTVよりも機能が優位である。

TVにCMを提供している企業群、メーカー群はパソコンによる広告、宣伝のあり方を、より高度なモノにするべく力を注ぐべきであろう。

と、偉そうに言う。

サイトでは誰もが、誰にも頭を下げる必要はない。

100419

このサイトで確信犯的平安コラムを書き出して久しい。一度も良く書けたコラムは無い。コラム欄を設けたのは山本夏彦への敬意からである。山本は文章の師匠であったと勝手に言う。生きていたら「ヨセヤイ」と言うだろう。

山本夏彦は晩年多くのファンを持ったが、その価値の本当のところは理解されていなかった。山本の本当の価値とは、日本近代の文化的達成を根こそぎ否定するアナーキスト振り、近代の中の文化的ニヒリスト振りであった事だ。山本こそ字面通りの確信犯としての批評家であった。山本の、国語の近代化批判、それを押し進めた日教祖批判、敗戦後の教育批判は根深いものであった。ほとんどテロリストの如き者であった。三島由紀夫の文化防衛論よりも、余程深いところ迄その思想は達していた。思想という言葉を使わずにすませたいと考える位に、しっかりしたものであった。福田恒存氏がわずかにそれを見抜きつつあったかも知れぬ。

であるから、確信犯というのを恥じて、矛盾する平安なる二字をつけ加えた。

山本のコラムに恥じたのである。

それはとも角、急いで山本夏彦の爪のアカをせんじて飲みつつ、きちんと真似したい。無駄の事と言われ笑われぬでも無し、とそれこそイヒヒと笑われるだろうが、やらぬよりましである。

で再出発の初めは日常茶飯事を真似て、「そば屋」。

最近は食事はソバ屋が多い。ソバの味は解らぬでも無し程度である。ソバの大事は簡素な事。味も値段も。エキゾチックなソバ屋には何の魅力もない。インテリアデザイナーらしきがデザインしたらしきの高級ソバ屋は良くない。アレの大半は日本風というイカものを装ったエキゾチックジャパネスクである。値段は高いし、実にまずい。

又、店主自らが名人を名乗り、ソバ道などと声高に言挙げするのも極めて悪い。とても悪い。今愛用しているソバ屋は二軒ある。二軒あればもう充分である。ソバ屋は普段の生活の脇役である。仕事の行き帰り、家での食事がままならぬ時に、それがしのげればそれで良いのである。

グルメなどという俗な見栄の対象になるものではない。

仕事場の近くにあるソバ屋、家の近くにあるソバ屋の二軒だけで良い。

歩いて十五分以内が常識であろう。

ソバはせいろ(モリそば)であるが、暖かいかけソバも大事である。そして、更に大事なのはソバを中心にして小料理もそろえられる事。当然、各種どんぶりモノもそろえられる事も重要である。

毎日、ソバだけを食すというのは不自然だし、栄養のバランスとしても良くない可能性もある。老いた人、若い人では必要とされる食のバランスは異なるだろうから、できるだけ広いメニューがとりそろえられなくてはならない。

以上の考えによって、あくまでもわたくしの好みにかなった店を以下、紹介してみたい。

つづく

100419

もう前世紀の事であった。イタリアのヴェネチアで不思議なパフォーマンスが行われた。アーセナルと呼ばれる旧造船所のある地区であった。磯崎新がクロアチアから空中浮遊をする行者を複数呼んで、それを実際に見せてくれると言うのであった。

まだ、一九九五年のオウム真理教の余熱さめやらぬ時であった。磯崎新はその前から、健康管理の為であったろうが、菜食傾向を深め日常の飲み物にも気を使うようになっていた。いわゆるメディテーションに関心を深めたのは、ビートルズのメンバー達も深く影響を受けたというインドのグルとそれをとりまく集団から、世界中にとてつも無いモニュメンタルな建築をいくつか建てるという計画を持ちかけられ、それで、そのグルと会うようになったからではないかと、憶測する。建築家は仕事、建築を作る機会にはどん欲で、鋭ぎすまされた勘を働かせる者なのだ。記憶では世界各地に建設予定のモニュメントの、高さ六〇〇メーターのヒンディー寺院のタワー状のものがイメージ・プランとしてすでに描かれており、その建築の為のマネーコレクトもリアルに開始されていたという。グルの集団は巧妙なビジネス戦略をも描いており、世界各地の計画の大半にインターナショナルなスーパーアーキテクトをピックアップしていて、それが又、計画のリアリティを支えるイメージ戦略にもなっていた。そのステージに磯崎もかり出されたと言えるだろう。

磯崎新は巨大計画には闇雲なところがある。ナチュラルな建築家でもあるから当然、その計画には無関心ではいられなかった。その存在の大小を問わず他人の金で自分を表現する建築家の宿命である。単純過ぎる言い方ではあるが。パトロネージとの関係を断つという別の方法を探るしか無いのだから。

巨大なモニュメントを建設するチャンス、つまりグルとの出会いから、磯崎新はメディテーションにも接近し、そのとり敢えずの成果がアーセナルでの行者達の空中浮遊パフォーマンスとなった、とわたくしは考える。

会場はレンガ作りと鉄骨の旧造船工場の一角。入場制限があったが、百名を超すオーディエンスが集まった。日本からは浅田彰氏などの顔があった。

数名の白い衣服に身を包んだクロアチアの行者が登場。座を組んでメディテーションに入るや否や、ドスン、ドスンと空中に飛びはね始めた。

ドスン、ドスンという表現は空中浮遊に似合わぬが、行者達は身体の筋肉の跳躍力に任せては、確かに上にはね上がるのだけれど、期待していたような瞬時の静止は一切無かったように、わたくしは思う。

麻原彰晃の空中浮遊のインチキ写真を我々は皆と言ってよい程に視ていたから、肩すかしを喰らったような気分にもなったのである。

浅田彰さんも会場では、できるだけ目立たぬようにしていた。いはゆる日本の知識人が堂々とそこにいるような雰囲気では無かった。

磯崎新は「浮いたな」と複雑に満足そうであった。複雑にをつけ加えるのは、会場の人々がどう感じているか位の事を磯崎が計り知らぬわけもない。

みんな、コレワ、オカシイ、というよりも、どうしたんだろう磯崎新は、くらいの事を考えていたのは知り尽くしていたのだった。

それは、それで良い。わたくしが驚いたのは、そのアーセナルでのパフォーマンス、歴然として皆が呆気にとられたパフォーマンスの一部始終を、十年程経った二〇〇七年二月に、克明に日本の信頼できるメディアに再録している事なのだった。

ウフィッツィの問題と題する文章の、冒頭にこのパフォーマンスの件を持ち出している。磯崎新の頭の中では、何かはまだ知らぬが、確固たる一里塚のようなモノとしてあったようなのだ。

つづく

100413

たまプラーザに自らの肉体を幽閉し、想像力の飛翔だけで世界を旅している山口勝弘。芸術家の中の芸術家とも呼ぶべき山口勝弘から、イカロスの話しを何度聞かせていただいた事か。

そして、イカロスのドローイングまで数点いただいたりもした。スーラの点描に似たタッチで、その点が細長くのびて、筆の勢を群として伝えるものである。イカロスの羽をイメージしたのかと思いきや、イカロスが飛んだギリシャの風を描いたのだと言う。芸術家はわからん事を言うから好きだ。特に山口勝弘の場合、倒れて不動の人になってからの自在さは圧倒的なのだ。

先日、磯崎新が語り聞かせてくれた話しは面白かった。磯崎新は今、イタリアに仕事が多いらしく、話しはそのイタリアの文化、歴史に当然及ぶのである。

「レオナルド・ダ・ヴィンチの人力飛行機のドローイング、知ってるだろう。あの人力飛行機は実際に作られたらしくてね、アレを使って実際に飛んだ奴がいたんだ。空へ飛び出した、大きな岩ってのがあって、最近その大岩の下を発掘したら、人骨が出た。飛んで落ちた奴の骨らしい。レオナルドは大岩の上で、そいつの背中をチョッと押した」

と眼を輝やかせて、まるでそばで視ていたような事を言う。しかし、いくら万能の天才レオナルドといえども、スケッチして、実際に作ってみた人力飛行機を想像するだに、その重さは一目瞭然であり、レオナルドだって夢々飛ぶとは思っていなかったに決まっている。とすると、背中を押されて落っこちた奴はイカロスどころではなくって、むしろただ落とされた男にすぎないのではないだろうか。

レオナルドは死体解剖を好んだと言われているから、とても冷徹な男であったろう事は確かだろう。磯崎新が言うように、本当に背中を押したのだとすれば、それは完全に殺人事件であろう。だって、あんなものが飛ぶわけないのは本人が一番知っていたに違いないのだから。

磯崎新はその背中を押す手つきまでしてみせた。話しを聞いていたわたくしも六角鬼丈も、どう反応して良いのか解らないのである。何しろ知の巨人が真剣に話すのである。

磯崎新に空中浮遊らしき、あるいはスウェーデンボルグの幽体離脱らしきへの止めようのない関心があるのは知っている。磯崎新にイカロスは似合わぬけれど、大岩の上で人力飛行機を装着した人間の背中を押す、レオナルド・ダ・ヴィンチは、似合わぬでもないなと考えた。

100409

世田谷村は知り合い博物館になってきた。もともと、いささかの書物はあったが、これは次々と整理し始めたいと考えている。読まない書物はゴミだから。研究室のスタッフや院生にあげちゃうのが一番だろう。しかしながら友人、知人の類の書物はそうはいかない。それは又、いずれ書く事にして、今日は彫刻の事。

世田谷村には金属彫刻は三点ある。いずれも広島に工房を構える木本一之さんの作品である。わたくしは彫刻の事は良くわからない。安田侃さんのモノなんかは作品集を眺めていいなと思うが、イサム・ノグチのエナジーボイドや諸作品と並べると、どうなんだろうと考えてしまう。石彫は河原の石に勝るもの無しなんて、だらし無い断言にだって陥りかねぬ。

木本さんの作品はいずれも鉄である。鉄の彫刻は良く解らなかったが、酒井忠康さんの若林奮に関する論説を読んで、少しは解るようになった。でも、一回読んだだけではまるでわからず、わたくしは若林奮には反感を持つだけであった。何が良いのか、さっぱりであった。恐らく、それが建築物の小さなモノとしてしか視えずに、それでナメてかかっていたのだろうと思う。わたくしがイケナイ。

しかし、若林奮のモノよりは、それを視て書く酒井の方がましなんじゃないかの感は確実に残ってしまった。

今は(現代はと言い直した方が良いかも知れないが、いい直すとコラムにならずに長い論になってしまうので、カッコでくくっておく)、あらゆる分野の作品らしきの自立性が極めて薄く、作品らしきは、批評を頂点とするメディア、それと一緒くたのマーケットとの関係性の中でしか眺められない。若林奮は吉増剛造とかの詩人らしきとのコラボレーションを好んだらしいが、それも又、不可解な事ではあった。でも、まだ詩人が道化(トリックスターに非ず、ただの道化、茶番)以外の存在であり得た時代で、当時はあり得たのかも知れない。若林奮の作品には振動尺とか、緑の中の一角獣とかの文学的、詩的な、それ故に思わせ振りな命名がなされていた。恐らくは考えをつめ切らずに、そのあいまいさを詩的命名でなおざりにしたのだろうと疑った。

読者を、他者を持たぬ詩人の独人よがりと同じ事だ。あんな思いつきをバラまくのだったら、ドライに製作年月日、あるいは通しナンバーを打てば良かった。

それはさておく。

木本さんの彫刻のよいのは、一切のそういう馬鹿気た気取りが無い事だ。鉄という極めつけの近代的材料を介して生身の木本さんが、いつでもボーッと立ちすくんでいる風がまったく素晴らしい。こざかしい、へりくつや社会性、全てが脱落してただただ生身の、それこそ芸術家がそこに立っている風がある。

饒舌きわまれり、の風の中に在る現代芸術の中では実に稀なのである。この感じは。

一点の身の丈よりいささかの小さい位のもの(作品)には、しいたけやミカンの皮を風にさらして乾燥させる、ネットの袋がかけてあって、仲々よい風情である。

玄関を入ったところにも一点重いのがあって、少しほこりをかぶっていて、時々、なでてやる。やっぱり彫刻は触れなければ意味がない。一番小品は、わたくしの三階の作業テーブルに置いてあり、時々眺めてホッとしている。木本さんみたいにボーッとして、ジタバタせずにやりたいなと思うのである。

100407

本日、四月一日より、鈴木博之、難波和彦、石山修武のトライアングルでサイト上のゼミナールを開く。Xゼミと人を喰ったタイトルとしている。鈴木博之に名前をつけてくれと頼んだら、Xゼミでいいんじゃないと、予想通りの答えが帰ってきたので、仮称がそのまんま、タイトルになっている。

都合が悪かったり、これでは格好悪いとなったら変えればいいやと、わたくしは考えている。

長い附き合いの友人同志のゼミである。しかし公開するし、いずれ大部の書物にしたいと考えているので、内輪話しの水準は避けたい、と普通は考えるだろう。しかし、わたくしは正直、内輪話しで良いと考える。

読者、すなわちゼミ参加者だって、タダでゼミに参加する人達だ。いずれ、タダ程高いモノは無いと思い知らせたいとは考えるが、その方法はまだない。

エイプリル・フールに公開するからといって嘘八百を並べたてるわけでもない。嘘八百とは英訳するとバーチャルリアリティである事位は我々は知っている。

当面は、難波和彦、石山修武の開設している両サイトに公開する。公開のスタイルはそれぞれの才量に任せようとあいなった。

又、読者からの反応という形での参加があるだろうと、当然予測する。

難波和彦は良くも悪くも民主主義の信奉者であるから、どんどん参加されたら良い。わたくしは、サイト上の民主主義なぞ一切無いと考えているから、参加者はこちらで選ばせていただく。

鈴木博之はサイト上の参加なんかには無関心であろう。

しかし、アッという間に世界最大級の読者数を獲得する事は歴然としている。最強の、建築的ジャーナリズムになってしまうだろう。それ位の下心は持っている。

100401

屋敷林のIさんのところから、桜と桃、他の花のついた小枝をいただいて来た。わたくしの畑のこまつ菜の花と合わせて、世田谷村の猫の体育館みたいなガラン洞空間は、今花盛りである。ここは植物にとっては過ごしやすいところなのだ。

ところで、様々な花の美しさらしきを、わたくしは程々には知る。知るであろう。そう願いたい。しかし、それは、ただただアッ、キレイだな、で終る。その先がない。花の名前を知らぬからである。樹の名前を知らぬからである。

こういうところで世代論をいうのははばかられるが、わたくしの世代の多くは花や樹に眼はいっても、その名を知ろうと迄はしない傾向があるのではないか。建築を中心に据えて世界を見てきた者が知人には多いので、その傾向が際立つ印象になったのでもあろう。

人の名を知らないで、地名を知らないで歴史を知る事は始まらない。それと同じ事が花や樹の世界にもあるのだろう。きっと。

若い頃、それよりズーッと前の学生の頃に設計製図で樹や草を描き込んでいた事を思い出す。実にまずかったアレは。草や樹を記号らしきとして抽象的なモノとして描き込んでいた。ようするに図上のアクセサリーであった。

描いている樹や草が具体的に何の樹であり、何の草であるのかを知らずに、模様のように描いているおかしさには思いがいたらなかった。

普遍という近代的概念は、抽象的思考の結果でもあるが、近年の場所論の興隆は、その普遍に更なる細部への感覚を要求したものだ。樹や草や花もどうやらその一環として考える必要がある。

100329

確信犯的コラムという、とりあえずは小見出しを思い付いたのは、頭の中に敬愛する建築家渡辺豊和のイメージがあった。日本近代の、特に近代建築家には信念らしきに生きた人間はほとんどいない。そう言い放ってよろしいかと思う。ほとんどが西欧近代の受売り商売に生きた。

渡辺豊和は、今ではほとんど忘れ去られていると思うが、わたくしは近い時間では最も信用できる創作者であった。馬鹿な事も多くしたが、その本来の心性は、日本近代ではまれな特質を顕していた。

だから、要するに確信犯というのはボンヤリどころではなく、ハッキリと渡辺豊和をイメージしていた。外国で確信犯的な建築家らしきもそれ程多くはないが、やはりユダヤ系の建築家にそれは多いようだ。近くで言えば、P・アイゼンマン、意外ではあろうが、ユダヤではないがP・ジョンソンなんかも、骨太い確信犯であった。むしろ、P・アイゼンマンみたいな単純な者よりも余程、骨太な確信犯であったかと考える。日本では、そう、誰だろうか。P・ジョンソンらしきをあげれば、当然磯崎新だろう。

磯崎新は俗論では最も相対的な動きを示す、近代建築家であると考えられている。しかし、わたくしは磯崎は日本近代に於いてはたぐいまれなる、ほとんど奇跡とも思われる程に、歴史に自意識の強い、すなわち本格的な確信犯的建築家である。日本という、近代建築を創作するに、最も困難な場所に彼は生きた。実ワ、その事は本人は充分に意識している。あの大意識家の磯崎新がである。建築の世界史的フィールドで考えれば、「建築」というフィールドそのものがヨーロッパのモノであるのだから、磯崎みたいな意識的な創作家ははなから、とてつもないハンディを背負っていた。それを自覚できていたのは、堀口捨己であり、間を置いて磯崎新であった。他は、それを教養として理解していた。そして商売にはげんだ。

で、本題に戻る、とりあえず磯崎新とは離れる。わたくしの、つまらぬコラムを確信犯的コラムというのには、少々はばかる気持があるので、修正したい。率直に。で、確信犯的平安コラムとタイトルを変えたい。ズーッとタイトルを変えずに行ける程、わたくしはどうやら強くはないから、時々、タイトルは変える。

100318

絶版書房をはじめて、読者からのメール注文を受けるようになり、メールが無ければ絶版書房は成り立たぬのは知ってる。以前、まちづくり支援センターというのをやっていて、いわゆるダイレクトメールの切手代、通信文の印刷代、封筒代などのコストがかなりかかるのを知っているからだ。メールは0コストに近い。これは実に革命なのである。

が、しかし。時にあっ、この人は手紙を書いてみたいなと思う事がある。メールは瞬時に相手にメッセージが届いているが、どう読まれているかはわからない。そういうモノである。

確実に読んでもらいたい、あるいは想いを伝えたいのは、やっぱりわたくしは手紙が一番なのである。

手紙がよいのは、届くのに時間がかかる事である。ああ、もう着いたかな、読んでくれたかなと想う時間があるのが良い。

しかし、である。どうやら時代は革命期にある。古い形式にこだわり過ぎたら置き去りにされるのも必定である。逆に巻き込まれ過ぎても馬鹿を見るのはそれこそ歴史が繰り返し教えてくれている。皆が一気に一緒に走り出しているのは実に危険な前兆でもある。

それで、メールと手紙の併用をする事にした。それにメールには書けない事もある。メールは必らず何者かが監視できるシステムになっている。本当の自由はない。自由と本音とは勿論ちがうけれども、自由を表現するのには、ある程度のコストはかかるものなのだ。

大きな事、言ってるけど、切手代の 80 円の事を言ってる。

100317

テーブルの上においた一万円札が朝起きたら姿が見えない。書類のゴミにまぎれたかと、探すも無い。わたくしは気が小さいところがあって、いずれ出てくるさと、おおようではいられない。気になる。

猫の白足袋が近くであらぬ方向を眺めていた。

「タビ、お前知らんか」

と尋ねた。こっちを一瞬向いて、スグに眼をそらした。再び、あらぬ方向を眺めている。

「お前だな。タビ。金はいかんぞ、すぐ出せ」

とたしなめた。

「知らん!あんたの金なんて隠したって、猫様の俺には何にもならんのは、アンタも知っとるだろうが。猫社会はすでに資本主義を超えているんだぜ」

とヤケにまともな事いいやがった。

「出せば朝メシ、倍やるぞ」

「メシの問題じゃニャインだよ。アンタの片付け方がなってないのを反省しろ」

生意気な事を言いやがった。

こいつが犯人である。

まえにも、大事に使っていたモンブランの万年筆が行方不明となり、ガッカリしていたら、気の毒に思ってくれたのだろう、代りのモンブランを一本くれた友人がいる。でも今度は一万札失くしたって、言うわけにはいかない。それで友人が一万札をくれる訳もない。それ位の道理は知るのである。モンブランの万年筆を失くして、ガッカリしているのは、少しは人間として様になるようだが、一万札を失くして、気落ちしているのは実に格好悪いのだ。アニミズム的偏愛は許されるが、金へのフェティシズムは嫌われる。

そこらの機微をうちの白足袋はいつか知ったのである。で、隠す対象を万年筆類から、マネーに変えたのだ。

白足袋は外に出ない猫である。ほぼズーッと室内で暮している。わたくしと二人で居る事も多い。猫なりに色々と七面倒くさい事を考えるのであろう。ストレスもたまるにちがいない。仕方ない、猫が発狂するよりはお札失くした方がまだましだ。

と、一応、おおような振りを猫にはしてみせた。でも、チクショー、必らず、お前の秘密の隠し場所はいつかきっとつきとめるぞ。

100316

送っていただいた年報都市史研究17「遊廓社会」読む。網野善彦の異形の王、他:いわゆる網野史観と呼ばれている中心の一つに非定住者、遊行民、白拍子、遊女への視点があるのは良く知られているが、このテーマが都市史的表われ方をすると、こうなるのかと知った。論者の少なからぬが、遊廓社会のシステムとネットワークの「成熟」と表現されているが、その内実が良く解らない。広末保の悪場所の思想だったかな、の印象を興味深く読んだ記憶があるが、その記憶と比較すれば随分実証的な着実さが良く解るが、そのぶん全体の枠組がわかりにくいような気がした。全ての論を読んだが、娼妓(芸妓)の出身地が調べられているものがあり興味深かった。

遊廓社会は現代の芸能社会と裏社会(ヤクザ社会)が興行権を中心に結びついているのと同様に、当然日本の近代化の暗部としてある意味では正統アカデミーの歴史中でも封印されてきたきらいがある。都市史研究会がかくなる研究を公にされているのはその意味では実に画期である。しかし、娼妓社会研究はつまるところ渡来人の場所の問題にもかかわらざるを得ないだろうと思う。究明はほとんど不可能であろうが、娼妓そのものの生い立ちと都市への流入の図式があるのではないか。出生地への言及を読みそう考えた。

何より驚いたのは女性研究者の「遊廓社会」研究への参画者が多い事である。女性研究者にとって娼妓(売春婦)の研究は歴然として男性研究者の観念性を超える可能性を持つものと考えられる。

吉田ゆり子氏の「幕末維新期における横須賀大瀧遊廓」がその意味でも面白かった。

日本の近代化の中枢であった西欧への開化、そしてネガティブな政策、外圧による女性贈与とも考えられる事実が、この研究から一端をうかがい知る事ができる。

「失われた飯田遊廓の建築」伊藤毅のまとめで述べられているような、地・場・楼・座敷の多層的なレイヤーの重ね合わせの概念は、「囲われた社会の閉鎖性と、それとは対比的な内部の流動性と匿名性は、こうした均質な多層平面によって下支えされている」という伊藤の視点が、外国人居留地(あらゆる意味での)と遊廓的場所の日本近代の必然性といった問題と関係づける事ができれば、新しい都市史的視点からの日本近代化論のようなものが視えてくるのではないか、と考えた。

「年報都市史研究17 遊廓社会」都市史研究会編 山川出版社発行

100315

神田に「岩戸」という料理屋がある。名の通り宮崎料理、そんなのが正式にあるのかどうかは知らぬので、宮崎の味の料理屋である。最近の宮崎はあの東国原知事以来、とかくTVのお笑い番組風に浮いた話が多い様だが、この店に行くと全く違う、本来の宮崎らしい、良い意味での保守性の強い県民性が良く味にも店のたたずまいにもあふれている。

この店を知ったのは友人の僧侶馬場昭道による。昭道さんは千葉県我孫子市新木の真栄寺の住職である。新木真栄寺の本院は宮崎の大寺真栄寺の分院である。浄土真宗の寺だ。昭道さんとわたくしは宮崎市の真栄寺で出会った。死んぢまった佐藤健の引き合わせであった。記憶も定かではないけれど、佐藤健の取材らしきに便乗して、わたくしも宮崎へ遊びに行った事があり、その時宮崎空港に迎えにきたのが昭道さんであった。真栄寺に行くまでに、何処であったか、無茶苦茶に熱い温泉につかってから行ったのを憶えている。湯に入ってしまうと、動けぬ位の熱湯であった。宮崎というのは熱い、何しろ熱いという印象が植えつけられた。温かいではなく、熱いのである。

岩戸の料理は熱くはない。程良く温好で保守中道である。特にフグ料理はうまい。最後に出る汁飯のうまさは絶品である。しかし、決してユニークな、新しモノ好きの味ではない。又、京料理の気取りも、見た目を追う華美さも無い。それこそ、素材の味をドスーンと生かした正攻法の店である。

実は、この「岩戸」での料理を一番楽しんでいるのは他の誰よりも昭道さんである。千葉に檀家0からの新しい寺を興し三〇年近くになる昭道さんが、消しても消しても消えはせぬ、望郷の念から故郷の匂いを嗅ぎに、時にわたくし達を誘って、楽しみに来ているのである。

千葉の我孫子、新木の当りは典型的な東京の新興住宅地である。まだ残る田園らしきの中途半端さとあいまって、凄惨な位に荒涼としている。ここを訪ねる度に、昭道さんは宗教家としての本業の直観をもって、新しき寺のサイトを選択したと痛感するのである。何処も、千葉に限らず、東京周辺の新興住宅地の風景は荒涼とした無惨さを持つけれど、ここは実にその筋金入りのエリアなのである。

宮崎の大寺の豊かな環境に育ち、若い頃は数年にわたり世界を放浪し歩いた昭道さんがそれに気付かぬ筈がない。体力、気力も充二分にタフな昭道さんでも、あの風景の荒涼さは知らず知らずに浸触している筈である。秘境ラダック・ザンスカールチベット文化圏の高地で、深夜星と語り合うロマンチストでもある昭道さんに耐えられる筈がない。人間は風景によって気持の多くを育てられている現実に気付かぬ者でもある。

まあ、その悪さについては、語りだしたらキリはない。で、昭道さんは千葉の新興住宅地の荒涼とした気配に耐えられなくなると、「岩戸」に出掛けるのである。

ここらあたりつまり千葉の新興住宅地にはもう農業者らしきはほとんど存在していない。農によって喰べている種族は皆無である。全部が半農である。だから、田畑の風景に、これで喰べている、つまり生き抜いているという生産的な気配が著しく欠けている。そして、風景の基軸を構成してい戸建住居群、あるいはアパート群は完全なヤドリ木暮しの本性を赤裸々に露出しているのである。共に、ここに生きている必然に著しく欠けているのだ。坂口安吾は日本文化私観で、京都も奈良も焼けて結構、我々には生活の必然だけがあれば良いと言ってのけたけれど、その焼け跡がまさに現実のものとして在るのがここの風景なのである。安吾だって鼻白らむのではないかな、この風景には。

わたくしは友であった佐藤健が隠れ家としていた酔庵に度々滞在した事がある。真栄寺から間近の住宅団地の中にそれはあった。そこで、年の暮、二人でゴロゴロ酒を飲みながら、アメリカのやらイタリアのやらの西部劇を見ほうけていたりが気に入っていた。荒涼と荒涼とが混じって何とも言えずの無惨さが、風の如くに吹き渡るのを感じた事もあった。黒沢明の用心棒の舞台になったホコリ風に吹きさらされた荒れた村のようなそんな気配であった。

佐藤健も昭道さんと同様に、何故だか極度に宗教的な人間であった。ここで宗教的というのは、自分の中に救いようのない荒地を抱え込んでしまったとでも言おうか、それを招き寄せる我の妄執から逃れられぬ者なのであった。そんな意味では佐藤健は、昭道さんよりもはるかに宗教的な人間であった。

佐藤健が真栄寺近くに隠れ家を持ったのは、勿論近くに馬場昭道が居たからだ。彼は昭道さんを口では馬鹿にして、けなしていたけれど心底では、「アレは晩年名僧になる。日本の仏教の宝だ」と迄言っていた。

この二人の宗教人間を何故、千葉のここら辺りの新興住宅地は引きつけたのであろうか。それは、ここが無明の地だからである。メラメラと永劫の業火が燃えくすぶっているわけではない。血の池地獄があるわけではない。しかし、この地に生活する人間の存在の力を信じたいけれど、その棲家への棲み込む余地への愛着らしきには疑問が残る。

ここは、戦後日本の風景そのものの廃墟なのである。馬場昭道は宗教家としての直観で、だからここに新しい寺を建立、つまり都市開教による仏教再生を立てようとした。

100312

うちの前、つまり南のかなり広い梅林の梅の樹がかなりの数切り倒された。でも道側の一列の梅の列が残されていて、それがありがたい。よくよく眺めたら西端と東端に、それぞれ紅梅、白梅の老木が一本づつ残されていた。

切り倒した人も仲々味なことをしたものだ。できる事ならばこの一列の梅の樹八本程はこの後も二、三十年残っていて欲しいものだが、相続やら何やらで、その運命も定かではないだろう。

ことほど左様にうちの廻りは税金対策と小資本の合理的運用の現実の中の風景になっている。わたくしの家だって、いずれその渦中に入るのだろうから、批判などはできない。人それぞれの生活がある。梅林の地主だって自由な権利がある。

だから、そう覚悟さえすれば、この一瞬に残された梅の全てをたんのうすれば良い。花鳥風月の日本という決まりらしきは好きではない。しかし、このような社会的な花鳥風月らしきが、今、眼の前に浮上しているのを知る。

梅の花の美しさ、風が運んでくる微かな香りも又、社会的産物なのである。他人のうちの梅の姿を楽しみ、その香りに、アアと思う。これは実に不思議極ることなのだ。生き残った十数本の梅の隊列と紅梅、白梅の対の配布。これは地主のある種の考え抜いた表現行為なのだと考えたい。立派な事である。

うちの庭の梅、大きな奴は今年は花の数が少ない。

昔、飼っていたうさぎのつとむが猫にかみ殺されて、その身体をこの梅の樹の下に埋めてある。

このところ、つとむの墓らしきに線香の一本もあげずに、すっかり忘れてしまっていたので、この花の不作はつとむの、きっとシグナルにちがいない。忘れないでくれよ、という。

人間も動物も梅の木だって、想われている間は居なくなっても生き続けるものだ。梅林の姿が変わって、死んだツトムの事を思い出すことができた。

ここで、ありがたいことだと書いてしまうと、南無阿弥陀仏の世界に入るので、それはしない。

100305
OSAMU ISHIYAMA LABORATORY (C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2010 all rights reserved