石山修武 世田谷村日記

8月の世田谷村日記
 R261
 七月三十一日
 一日、ドローイング制作作業にあてる。

 八月一日
 昨日は終日世田谷村で作業した。大きなのを四点制作し、一点は今朝六時半に終えた。「立ち上がる。伽藍」のシリーズ。我ながら、こんなエネルギーがあったのかと驚いた。建てたい建築は山ほどにあるのだが、マ、文句言わないが、建築の夢が山みたいになってしまうのだ。十一時二〇分、長らく途中で放っておいた銅版画四点仕上げる。

 ヨハネスが残して行った、小さな「 Onesheet Project 」を読み直す。良いテキストなので、石山研で発売する事を決めたい。広島の木本君より新制作の作品の写真が送られてくる。木本一之展のWORKも木本作品を含めて、小さな本にできるだろう。

 R260
 七月三〇日
 深夜二時過まで、選挙結果をTVで観続ける。眠る前に、二日間で描いた絵を見直す。八時半起床。このサイトでTV批判していながら、TV観続けた昨日ではあった。参院選挙劇場の観客であったに過ぎない。昼前、雷再び響き渡る。新聞もTVも結局何も言っていない。産業としての情報とはこんなに不安なものなのか。

 十三時半研究室ミーティング。N幼稚園&音の神殿、修了後アベル・エラソとチリプロジェクト打合わせ。十七時前了。チリの歴史を聞くに、ラテンアメリカ諸国の歴史はとても複雑で、だからこそ大きな共感を感じる。十七時、ワイマールに帰るヨハネスと。

 R259
 七月二十七日
 全ての打合わせを終え、フィンランドから一時帰国の安藤の報告を聞き、大学を去る。マンネリではあるが、新大久保駅前近江屋で再び一服。二十一時過迄。こんな繰り返しの連続では変わりようがないのは知れているのだが、これはコレデ仕方ないのである。休みも必要。

 七月二十八日
 午前中、ドローイング2点。JBLサウンドヴィレッジ計画概要。頭の中で組立てる事ができそうだ。午後西早稲田観音寺。猛暑の中墓参。門前のツボに花をいける。

 森達也著『「A」撮影日誌』二〇〇〇年刊現代書館読む。オウム真理教信徒荒木浩を介してドキュメンタリーTV映画を制作しようと試み、マスメディアから拒絶され、自主制作に踏み切ったいきさつが描かれている。十年以上経てオウム真理教事件はすっかり風化したかにみえる。が、しかし、『「A」撮影日誌』から受ける印象を交えて考えるに、今の特にTVを中心とするマスメディアの不気味な大衆娯楽演劇性そのものが、オウム真理教状態を示しているのは歴然としている。麻原彰晃のグロテスクな闇は今やTV自身が歴然と体現している。オウム真理教事件から五年を経て書かれた本を更に七年経て読んでの感想である。

 七月二十九日
 昨夜は暑苦しくて良く眠れず、朝方まで乱読にふける。かくなる乱読には価値がネェなと自覚するも、止まらず。八時半起床。今日は参議院選挙の投票日で、七時には投票所に行くつもりであったが、くだける。それでも十時には芦花中学まで歩き、投票。投票の出足は悪くないように感じた。世田谷村に戻りTVを視るに、どのチャンネルも大方お笑いタレント主体の馬鹿番組で、憮然とする。この馬鹿さ加減とオウムの麻原彰晃の生き方は完全に一緒だよ、コレワ。ドローイングに取りかかる。昼過ぎJBLSVドローイング一点完成。昼食は宗柳で。激しい雷雨。十六時前雨上がり、光射す。ドローイング五点。十八時、伊勢に関するNHKTVシンポジューム観る。山折哲雄、磯崎新、加藤秀俊等、皆立派な発言をした。勉強になった。これでTV観るのを止めておけばよかったのに。二〇時選挙速報を見始める。すぐに自民惨敗判明。二十二時半遅い夕食を駅前の焼肉屋で。二十四時戻り。

 R258
 七月二十六日
 九時過京王線車中。今日からネパールのキルティプール計画に着手。十一時小屋ミーティング。十三時山陽新聞社インタビュー。向風学校の事など聞かれる。安西もスピードアップしてくれないとメディア先行になってしまうぞ、コレワ。十四時教室会議。十八時前、研究室発。

 七月二十七日
 八時発富士へ。夕方には戻る予定なので、今日の研究室のスケジュールは全て五時間遅れにずらす予定。ミーティングは行う。

 H氏等と十時富士ヶ嶺観音堂。十三時富士急ハイランドホテルより高速バスで東京に向かう。農協で買い求めた弁当の昼食。H氏と話していても向風学校の話題になりがちである。関心あるのかな。
 十五時新宿西口着。予定通り十六時にはミィーティング始められそうだ。十五時半研究室。

木本一之展の設計・時の谷の設計
 R257
 七月二十五日
 九時半ホテルグランビア、チェックアウト。ロビーで木本一之氏と会う。ひろしまハウスの件で朝、KさんよりTELあり、Tさん、Kさんと会い、打合わせ。運営を含め、これからのひろしまハウスは色んな困難に立ち向かわねばならないだろう。平岡前市長に代わるべき良い指導者、リーダーの出現が必要だろう。十時半迄。十一時前再びギャラリーG訪問。朝の光とギャラリー内の関係を把握する。十一時広島駅構内のレストランで昼朝食を木本氏と。広島市役所T氏にTEL。木本一之個展の支援委員長になっていただくのを依頼。了解を得る。木本君と別れ、十三時ののぞみで東京へ。今、名古屋近くを走っている。十七時東京着。秋葉原Aギャラリーへ。伊藤隆道先生のギャラリー及びキネティック・アート展オープニング。伊藤先生、栄久庵憲司、小野寺さん等お目にかかる。三〇分程で去る。東京駅の沖縄料理屋は満員で、チリ人達との会食は新大久保のコーリア料理屋にした。しかし、いささか疲れているぞ、今日は。
 新大久保のコーリア料理屋で、アルベルト、アベル、チリ政府関係者と会食。計算違いがあって、今日は韓国とイラクのフットボールの試合があり、レストラン内は韓国人で溢れ返っていた。0対0のまま試合が進行し、レストラン内は大型ビジョンの映像に一喜一憂、絶叫するコーリアピープルの興奮に包まれる。アルベルトにはチリ建国二百年のプロジェクトに参加してもらうことを依頼し、チリ政府に伝える事を頼む。チリの北部のプロジェクトはチリの建築家と協同のものとなるであろう。フットボール終了前に店を去る。アルベルトに別れを告げ、来年の再会を約す。二十二時現在、京王新宿線でメモを記す。
立ち上がる。伽藍
 R256
 七月二十四日
 只今十一時過、京都近くを走っている。二時間程『 Anything 』を読み続けた。10年間の ANY 会議の最終回の報告書である。私も「開放系技術・デザインノート」を書いている。二〇〇五年のノートである。二年経ったが、それ程多くの修正は必要としない。十三時過広島着。木本君田中君と、秋に木本君個展会場予定のギャラリーG見学する。とても良いギャラリーだ。ギャラリー前の麺類屋で昼食。展覧会他の打合わせ。十六時前広島M社へ。若い頃には良く訪ねていたところで懐かしい。北京の件。十七時過広島国際会議場地下の「ひろしまハウス」の集い。広島県建築士会の主催である。JA広島レディースクラブの婦人方等懐かしい方々に再会する。十八時半基調講演、平岡敬氏・錦織広島県建築士会会長との鼎談。平岡敬氏は以前にも増して広島スピリッツをみなぎらせておられる。八〇歳とはとても思えぬ力がある。平和都市広島には欠かせぬ人物であると感じた。二〇時半了。NHKラジオの取材後、二十一時発。懇親会へ。大変おいしいフランス料理屋であった。二十四時迄。

 七月二十五日
 駅前のホテルグランビア迄送っていただく。一時前には眠りについたような、つかぬような。世田谷村の冷房無し生活に慣れた身体には冷房はキツイ。六時半起床。新聞を読み、メモを記す。昨日のM社訪問で一連の北京オリンピック日中友好展関連の日本側の動き、第一段階を終えた。やるだけの事をやって、次のステップに進みたい。

 昨日の「ひろしまハウス」の集会でも感じた事だが、六〇才を超えた私や八〇才になる平岡敬前広島市長のやるべき事は、やっぱりアジアであろうか。若い世代の隠やかさには、これは少々不向きなテーマでもあろうから。何とか北京にアジア環境文化センターを作りたいのだ。今日は九時半に木本君と打合わせ。

 昼食後、東京へ。夕方、秋葉原UDXビルの伊藤隆道さんのギャラリーへ。その後、チリからのアルベルト・タイディと会う予定になっている。木本君との家具プロジェクトのデザインは、キチンと抑制していかなくてはならないと痛感。ムキ出しのコンセプトは露悪に通じるな。しかし、コンセプトを隠すのでもなく、バラバラにカットしてみたらどうかな。木本君とこれから相談してみよう。

 R255
 七月二十三日
 十一時デザインと生産技術ゼミ。十三時迄。輿石、加藤両先生レクチャー。学部学生発表。十四時研究室ミーティング。明日の諸々の準備、十六時過ぎ研究室OG・Sさん来室。世田谷村の屋上に何本かの樹を植えて、社会に巣立った女性である。屋上で樹を眺める度にSさんの事は思い出していたので懐かしい。OB、OG、皆どんな生き方をしているのかな。十六時半研究室を発つ。明日は少々早いから、長居は無用である。学生達、留学生の幾たりかは広島へ行ってしまったようだ。

 菅平高原の正橋考一さんと連絡。お母上は 88 才でお元気であった。長井さんのインタビューの件。

 七月二十四日
 一度、三時に目覚め読書。再眠七時前起床。今日は広島へ出掛ける。八時発。九時過ののぞみで広島十三時過着。木本一之氏迎えて下さり、ギャラリーG会場下見の後、M社へ。

木本一之展の設計・時の谷の設計
 R254
 七月二十三日
 昨夜はゆっくり眠った。思い起こせば、七月二十一日の「睨むん万博」知らぬ人には全く解らんだろうが、これは実に馬鹿げていたが、妙に壮快でもあったのが変に頭に残る。

 安西直紀という青年が新風舎という自主出版代行の出版社から「睨むんです」という実に変テコリンとしか言い様の無い本を出版した。世界各地の有名無名な場所に安西自身が立ち、ただただ安西自身がカメラに向って、ポーズをとって睨んでいる。それだけが延々と続くのである。超芸術トマソン的な、坂田明いわく「これは本当のバカ本だイイヨ」なんである。何も文章は無い。何の為に、何を睨んでいるのかは一切語られていない。ナンセンスギャグなのかも知れない。あるいは超ナルシスト、露出狂本なのかも知れない。
 しかし、浅草花やしき全部を使った「睨むん万博」というこれ又、馬鹿馬鹿しい出版パーティーと合わせて感じるに、この馬鹿馬鹿しさは妙に壮快なのである。同時に、もの哀しいのである。消費社会の中で必死に、それでも消費されまいという、若い人の気持ちが切々と伝わってくるのであった。人間として消費、忘れ去られてゆく事への本能的な哀しみ。だから、どんな機会をとらえてでも自分を表現しようと必死に行動するのでしょう。

 安西君は自力で必死にこの本の営業もした様です。エロ本屋から大書店まで足を使って駆け廻り、初版五〇〇部の自家本風を、増刷一五〇〇部まで辿り着かせた様であります。
 今では多くの書店に並んでいるようですから、変なバカ本に出会ってみたいという人は、本屋を訪ねてみて下さい。実にボー然とする位にバカ本です。コレワ。

 十時世田谷村発。

 R253
 七月二〇日
 十時半、ミーティング。十四時迄。十四時卒論ゼミ。
 一人面白い学生が居て、家が金庫屋なので暗号・数学を勉強したいので、数学科に転出したいと言う。それで数学と表現のようなテーマの卒論を書きたいと言う。
 こういう学生は非常に良い。学部時代、設計デザイン評価をかなり非論理的であると批判的に傍観していたに違いない。この学生の問題意識の等身性とでも呼びたいものは他の学生と比較すると頭一つ抜け出ているのだけれど、彼も他の学生達もその事自体に全く気付いていないのだろうな。
 終了後、ヨハネスと話す。バウハウス大学からの学生も又、日本の学生と一味違う大人加減があるのだが、これも又、日本の学生達は気付いているかどうか。十六時半了。

 七月二十一日
 十時大学院一般面接。今年は石山研は早稲田の建築学科の外から二名人材を得たような気がするが、どうかな。十二時過判定会の後、十四時彼等に会い、早速来週迄の課題を与える。十六時過研究室発。途中、色々と雑用を経て、十六時半位に浅草、花やしきへ。向風学校・安西直紀の出版パーティに出席。安西の誠に類まれなる、ケッタイ本の出版パーティであった。浅草花やしきを借り切ってやろうと考えたのが取得である。「睨むん万博2007」と称している。実に派手である。多くの人間が集合したが、キチンと経済的に成立したのか、他人事ながら心配する。安西君の慶応高校の恩師である金杉先生と光栄にもお目にかかる事ができた。
 二〇時頃、若い人達はこれから盛り上がるのであろうという頃に失礼した。安西の処女出版は問題出版社新風舎から出版されたのだが、花やしきでの催事は、新風舎ブチ切りと称して新風舎と書いた横断幕を日本刀で一刀両断したのが良かった。

 七月二十二日 日曜日
 体調万全ではない。何が原因なのか解らない。今日は終日制作に励む予定であったが、午後三時半まで休んでしまった。何とか立て直さねばとドローイングを少し。
 十九時大判のドローイング2点仕上げる。チョッと頑張り過ぎて頭が痛くなった。

 R252
 七月十九日
 十一時前世田谷村発。十三時前秋葉原小泉産業、照明ショールーム着。栄久庵憲司、菊竹清訓両氏とリニューアルなったショールーム見学。P.アイゼンマン設計の建築は完全に今風にグローバライゼーションされていた。アイゼンマンが目指したものは何であったのかなと?が浮く。十四時「自然との共生、あかりのいる場所」のシンポジウム始まる。栄久庵、菊竹両氏の他、葉祥栄、伊藤隆道の四先生と一緒。十六時了。授賞式を終て、リセプション。葉祥栄氏とは久し振りであったので、集中的に話す。彼は一種の原論主義者であり、好きな創作家の一人である。コイズミ照明の国際学生コンペは金賞も含め中国人が占拠して仲々良い状態になっている。デザイン外交を民間企業が独自にやっているようなものだ。ビジネスの中核をついていると痛感。栄久庵さんも、足腰は少し衰えてはきたが、精神は相変わらず強く、健在である。二十一時半京王線新宿。二十二時には世田谷村に戻れるであろう。中国の台頭はデザインにおける単純素朴なインターナショナリズムをいずれ揺り動かすであろう。それが出来なければ近代中国は中国ではない。

 七月二〇日
 八時起床。子猫の白タビがようやく体重四〇〇gになる。一昨日は病院でいつ死んでもおかしくない等と言われて、又、猫とは縁が無いかとガッカリしていたのに、どうやら奇跡的に快方に向ったようだ。良く一人で遊ぶようになった。九時半世田谷村発。

 R251
 七月十九日
 九時迄眠ってしまった。一度六時に起きて新聞を読み再眠した。今日の午後は小泉産業のシンポジュームに出席。栄久庵さんからの話なのでキチンとやる。

 安西直紀より向風学校創立準備記とも言うべき原稿送られてきた。向風学校もゆっくりと生誕しようとしている。七月二十一日には彼の出版記念パーティーらしきが浅草花屋敷を借り切って行われるらしい。一人で関東中の本屋を走り廻って自分の本のセールスをしているのを遠くから見ているのだが、この直線性が彼の取得だな。

向風学校のすゝめ
 R250
 七月十八日
 九時十五分杉並N幼稚園。杉並では有数の森を持つ幼稚園で八年振りの再訪であった。森、竹の林、園地、園長宅、農園、第二運動場を合わせると広大な土地である。各種ディベロッパーが狙い続けているらしいが、良くこれ迄キチンと自然を維持してこれたものだと感心する。I園長先生は地球温暖化に伴い雨量が増大するに違いないので、雨を、水を楽しめる園舎にしたいと考えている。雨の建築だな。水車小屋も作りましょうと話し合う。お引き受けする事にした。十一時了。西荻まで送っていただき、新大久保で研究室の人間から北京オリンピックの資料を受け取る。新宿で昼食をとり、銀座へ。十四時前N社打合わせ。十四時四〇分了。日動画廊で今井充俊個展を観る。久し振りにゆっくりと絵を見る。絵描きがどんな志を持っているか、絵画から少し解るようになった気がする。日動画廊O常務、A氏にお目にかかる。十六時過迄。銀座もすっかり変ったなあ。

 N幼稚園は水風車小屋をやろうと思う。大都市のオアシスにする。園児ばかりではなく、地域の人も楽しめるようなものだろうな。今日、朝に会ったN幼稚園のお母さん建設部隊というか、子供のためには何か作ってみたいというお母さん方との出会いは、もしかしたら画期的な事であったのかもしれない。「お母さん達のセルフビルド」をテーマに、N幼稚園の計画はすすめてみる事にする。私としては、久し振りのよいアイディアである。単純な事なんだ。幼稚園は本来、お母さん方が建てればいいんだよ。お父さんはその金をかせいでくれば良ろしいのだ。

 十九時過新宿、世田谷村に向かう。私の世田谷村も、今の世間とは確然と異なる理念を下敷きにしていたのだが、身体と金が充分に追いつかないでいる。N幼稚園では現実界にギリギリの戦術を組立ててみる。これは面白そうだ。あのお母さん達の想像力と現実のパワーをゆったりと露出させるのが、私のデザインの役割になる。

立ち上がる。伽藍
 R249
 七月十七日
 夕方、近江屋で一服、夕刊全紙に眼を通す。別に情報収集しているわけではない。時間をもて余しているだけである。ここ一両日、すなわち昨日より非常に体調及び心調が良ろしくない。気分が引潮になっている。坂田明には申し訳ないが、坂田の「赤とんぼ」を寝しなに聴こうと思ったりするのは、あるいは、JAZZの珠玉のバラード、エリントンとコルトレーンのエチュード気味のやつなんかを聴こうと思ったりする時は、残念ながら気持は引潮なんである。六〇過ぎて、上げ潮希望はただの馬鹿だが、余りにも頑張らない上品さは危ないのである。
 チョッと計り仏教を学び過ぎたな、コレワ。もう少し計り下品にならないとイカン。創りたいと思い続ける事とブッティズムは相性が決して良ろしくない。近代建築のセオリーは極度に深いところで、キリスト教と通底していると安易に直観したりしちゃうのである。近代建築は構築、構築、自律がベースだ。

 七月十八日
 七時起床。梅雨模様の暗い天気。八時半発杉並N幼稚園へ。

二〇五〇年の交信 渡辺豊和X石山修武
 R248
 七月十七日
 小雨。新潟の大地震の被災者の方々の心中いかばかりか。ハトが雨に濡れながら、えさ台の残飯をついばんでいる。体も羽もあんなにずぶ濡れになって、空を飛べるのかな。よほど空腹なのであろう。震災の死亡者の数が次第に多くなっている。

 第56回読売教育賞・最優秀賞の金杉朋子先生(慶応藤沢)は、安西君が中高時代影響を受けた恩師だそうで、今朝、資料が送付されてきた。こういう立派な先生がまだ居るんだ。ぜひとも向風学校に一枚加わっていただきたいものだ。

 十一時ミーティング。十二時アベルの友人、在米チリの建築家アルベルト来室。十三時迄話す。「立ち上がる。伽藍・チリ」の始まりである。ラテンアメリカの若い人の可能性は大きい。グローバリズムとどう関係してゆくかがポイントだろうな。再会を約す。十三時院一般入試製図採点。十四時過了。十五時半、渡辺豊和への返信書く。

立ち上がる。伽藍 鬼沼炭焼き窯
木本一之展の設計・時の谷の設計
 R247
 七月十五日 日曜日
 夕方台風四号去る。音の神殿(仮)計画案作り始める。菅原正二がアメリカJBL社に招待されているので,その時迄にまとめたい。ベーシー菅原に昨日の坂田明の件で連絡を入れる。

 七月十六日 休日
 台風去り、キラキラと光満ちる朝となった。それだけでも気持ちは少し良くなるのだから、人間は実に単純な生物だ。今日は海の日とやらの休日である。海の日があれば、空の日、陸の日、森の日、河の日、石の日と公平に万物の記念日を創り、年中全て休みにしちまえば良いのだ。そうしたら、社会は働きたい人だけが働いて、働かなくて良い人は働かなくなるだろう。
 九時より十六時迄WORK。だいぶはかどった。十六時二〇分発新宿へ。向風学校打合わせ。十七時二〇分安西直紀と会い、新宿南口雑居ビル3F味王へ。向風学校の相談。キチンとやろうゼという一点で強い合意に達している。  別れ際に安西より、安西家の小史の写真集を渡される。そうか、彼はやっぱり、安西家の歴史の中にいるんだよねというのが良く解ったが、別にどうと言う事はない。私も六十過ぎて、そういう事では動かないのである。十九時半過、味王での会合修了。安西のほんの少しの遅刻を除いては、良い夕刻であった。二〇時過、世田谷村に戻る。

 R246
 七月十三日
 十六時半余りにも空腹となり新宿西口更科で親子丼セット喰う。997 円と言う不思議な値段であった。時間を間違って出たので少し時間が余り何処かに座ろうと思ったが、何処にも無料で座れるところがない。畜生奴、コーヒーなぞ飲むかと決めて、デパ地下他、駅構内をグルグルと無料席を求めて廻る。ようやく、京王デパートの一階のトイレ前に二席の休息用シートを発見。しばらく待ち、一つをゲット。隣りの老婆と、本当にタダで座れるところが無いのはイカンね、と語り合う。マア、都市というのは、こういう処なんだなと痛感する。全ての空間が結果的には有料になっているのだ。老婆いわく、本当に年寄りには辛いところです。俺にも、段々辛くなるのだと実感する。ガキ共がところ構わず座り込む風景も少しは成程ね、と思った次第である。

 十八時半岩波神保町ビル、9F試写室。2007 年スティーブン・オカザキ監督作品、ヒロシマナガサキ - ホワイトライト・ブラックレイン、観る。一時間二〇分のドキュメンタリー作品。圧倒的なドキュメンタリーであった。岩波ホールの矢本理子氏から「ひろしまハウス」の記事が縁で招待していただいた。感謝したい。
 このドキュメンタリー映画を観て、私が「ひろしまハウス」にあんなに固執したのかがようやくにして解ったような気がした位だ。「ひろしまハウス」プノンペンは備忘録であり、鎮魂の建築であった。試写を観ている途中に観客が卒倒して運び出されたりで、平和ボケの我々に短刀をつきつけるような、そんなドキュメンタリーであった。少なからずショックを受けた。この映画を多くの人々に観てもらう運動ができたらと思った。しかし、人間は忘れてはならない事を、実に良く忘れる動物ではある、と痛感した。自戒したい。凄い映画であった。

 七月十四日
 七時起床。九時渡辺と世田谷村発。新宿西口で向風学校の安西君を待つ。十二時半天王台駅で坂田明他をピックアップ。十三時真栄寺着。十三時半坂田明の会。真栄寺本堂は超満員。坂田は鎌田実氏とのチェルノブイリ行に触発されて製作したと言う「ひまわり」の話と演奏を中心に、満場の客の気持ちをつかんでしまったようである。昭道和尚も率直に感動していた。それも和尚の美質だな。十五時半迄。その後、坂田を囲み会食。良い時間を過ごさせていただいた。昨夜観た「ヒロシマナガサキ」のスティーブン・オカザキのフィーリングと坂田世界は完全に一致しているのを痛感する。坂田も要するに忘れてはいけない事があるという事を表現している。
「ジャズも野球もアメリカに教えられて一生懸命やってきたが、ここらで一息ゆっくり振り返りたい。」という事だろう。坂田明から、サンフランシスコ平和条約の歴史的意味の話を聞くとは意外であったが、彼の最近の表現活動を今日、総合的に体験できたが、話と音楽活動は水脈を通じているのだった。

 夕方、真栄寺を辞す。帰りがけに昭道和尚が鐘楼の鐘をお別れについた。坂田が反応して、サックス持ってきてくれという。鐘楼の上で、昭道和尚のお寺の鐘と坂田明の名演「家路」との共演となった 。この演奏を聴いたのは、お寺の周りの、夕食の最中の人々、そして我々だけであった。しかし、心に残るものになった。音、及び音楽の意味は要するに、これに極まると感じた。蕨の坂田明宅迄送り届け、二十二時頃世田谷村に戻った。

 R245
 七月十二日
 午後教室会議。さしたる議題無し。十九時近江屋で一服。世田谷村に戻る。イラワジ宗教学院(仮)スタディ開始する。小猫シロタビはすっかり家に馴染んだようである。

 七月十三日
 八時前起床。明日は我孫子真栄寺で坂田明の会が持たれる。坂田明に久し振りに会うが、彼は一度倒れて、復帰してからの音楽は誠に素晴らしいもので、若い時のアヴァンギャルドを続行しながらも、大河の流れの如くにゆうようとしてせまらずの風も漂わせ出した。ドボルザークの家路を坂田が吹くともう、あんまりガツガツしないでやろうかな、と思ったりもしちゃうのである。ミジンコの事情なる話しも聞けるだろう。うまく年をとっているらしき友人である。坂田明とも、一度キチンと仕事をしてみたいと思ってはいるのだが、仲々チャンスがないままである。
 九時半世田谷を発つ。今日は院の最終講義。

 十時四〇分院レクチャー。最終なので、質疑応答とする。やりとりがあると楽しいものだ。十二時二〇分迄。
 午後秋の課題、東大建築学科との共通課題について加藤先生、大津助手と打ち合わせ。うまくゆくと良いのだが。
 ベーシー菅原正二と連絡。明日の坂田明の件伝える。「坂田明の今は凄味があるよ。」のお墨付をもらう。向風学校の安西直紀代表も参加となる。
 十七時十五分発、岩波ホールへ。

 R244
 七月十一日
 デザインと技術ゼミは輿石、加藤両先生のレクチャー。
 午後WORK。六時より近江屋で世田谷美術館N氏と打ち合わせ。私の第一次案を説明する。開催まで、ほぼ一年であるが、大半を新しいプロジェクトの発表としたいので、大変な作業になるだろう。私のとっても大事な転換期の催事となる。過去は振り返らぬ。前を向いたモノをプロポーザルしたい。
 新宿駅C&Cカレー屋に男達の行列、足許にホームレスなのか、これも男達がダンボールをしいて転がっている。立っているか寝ているかで皆同じに視えて仕方ない。

 七月十二日
 昨夜は、世田谷村に戻ったら、生後一ヶ月の小猫が居た。何処からか、貰われてきたらしい。一年チョッと振りに、人間以外の生物がやってきた。小さな、手のヒラに入るような猫だ。足の先が四本共に白いので、シロタビと命名した。
 よく食べて、よく動き、なつきの早い奴である。丈夫に育ってくれれば良い。朝、小猫の名前で、いさかいがおこる。ヤキニクと名付けたいと言い張る者に、怒る者。しかし、猫の名にヤキニクはないだろう、やはりシロタビに落ち着きそうだ。タビーなんてアメリカ風の名もイヤだし、ここはやはりグローバライゼーションに抗して、シロタビとしたい。

立ち上がる。伽藍 003
木本一之展の設計・時の谷の設計
 R243
 七月十日
 午後、イラワジ河の学院ドローイング。夕方、ミィーティング。近江屋で一服、世田谷美術館展覧会の企画。

 七月十一日
 七時過起床。世田谷美術館での展覧会が来年予定されているが、その打ち合わせが今夕である。しばらく考え続けてきた事ではあるが、イザ、具体的なテーマを決め込むとなると仲々難しい。八時半、とり敢えず、一次案をまとめた。今夕、世田美のN氏のアイデアとすり合わせを行う予定。展覧会は数多く参加してきたが、単独の大きな奴は初めてなので、一生懸命やるつもりだ。九時半過世田谷村発。
 十一時、材料とデザインゼミ。今日は鉄について、である。学部の学生にはいささか勿体無いゼミなのだが、実物への関心が著しくうす味になってしまっているから、しかし、大事なゼミなので、年間通して頑張ってみる。

 R242
 七月九日
 十時半研究室。十一時半ミーティング。十五時過発。青山で打合わせ。北京の件。十八時新大久保近江屋で一服。木本展チラシの原稿書く。

 七月十日
 七時起床、今日は学部講義の最終回である。私なりに努力して今期休講は一度だけに喰い止めた。マア、これが限界だな。補講は夏にやろう。今日はカタルーニアのフェリックス・マルティーンの話しから説きおこし、作る事の奥深さに関して話して、修了としたい。昨日、山口勝弘先生より葉書きをいただく。先生はまだ前を見ている。驚異としかいい様がない。本物の芸術家がいるんだ。キースラーに関して渡辺は大変な財産を受け継ぐ事になるかも知れない。徹底的にゆけ。九時前世田谷村発。

二〇五〇年の交信 渡辺豊和X石山修武
木本一之展の設計・時の谷の設計
 R241
 七月七日
 九時起床。昨日の午後は十八時半まであわただしかった。木本一之さんとの家具づくりのアイデアについて、考えを記す。メコンの瞑想、学院計画の始まりを書く。
 研究室OBの関岡英之氏より「日本の正道」「新日本学」送られてきて、昨夜読んだが、最近は少しアート寄りの動きが自分としては多くなっているので、逆に非常に新鮮であった。
 関岡氏が送ってきたのは平沼赳夫氏の正しい日本を創る会の本である。小泉政治の劇場性(ポピュリズム)の後遺症を安倍内閣は引きずっているが、その反動が今度の参院選で、どれ程露出するか。恐らく投票率の勝負になってしまうだろうと思われるが、どうやっても、日本はもうアカンぜ。十五時前五反田T社。今日は社長以外は休みで、しばらくガランとしたビルで待つ。十五時T社長と打合わせ。十七時前了。五反田駅近くの和菜屋で一服する。

 七月八日 日曜日
 八時前起床。十六時迄WORK。疲れて商店街を散歩。畑のキュウリ採取。味が薄く、いつも喰べているキュウリとはちがう。猫をまた飼うかと、ペットショップのもらって下さいの写真掲示を眺めたりするも、何となく縁が薄いような気もして、気が乗らない。金眼銀眼のニコライが死んでもう一年以上になるな。人間と同様、一度知り合った動物が居なくなる、空白感は大きい。ニコライは別として、世田谷村の梅の樹の下には沢山の動物たちの墓がある。みんな憶えている。世田谷村の一階にブラブラしている野良猫ドン兵衛も、少しやせて元気がなくなった。元気な時はアッチ行けと追い払い、ふてぶてしくこちらをにらみつけていたのだが、今はお互いにその関係ではない。寿命なのかも知らんが、もう少し元気でいて欲しい。

立ち上がる。伽藍 011
 R240
 七月五日
 九時過病院。十時過了。気分はいたって良くないが、検診の数値はすこぶる位に良いのだそうだ。変だな、この状態は。体は近代、気分は脱近代っていうべきか。本当は気分は前近代の方が望ましいんだけれど。江戸時代の農民みたいに、ズーッと同じ生活の繰り返しに耐えられるタフさ、鈍さの如き強さが必要だな。今は。
 十一時烏山駅。指扇の現場へ。H工業社長他と十五時終了。陽差し暑い。

 十七時新大久保近江屋で、Wのインタビュー形式で木本君と始める家具プロジェクト構想、及びパガンのモナストリー計画の発端を話す。十九時前了。

 七月六日
 八時前起床。九時世田谷村発。今日は沢山しなくてはならぬ事がある。十時院レクチャー準備。マザーテレサの死を待つ人の家、ブッヘンバルトのユダヤ人収容所、ひろしまハウス、カンボジア、キリング・フィールド。

木本一之展の設計・時の谷の設計
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 七月五日
 昨日の午後はズーッと五反田のT社でT社長と打ち合わせ。
 何を作るにしても、何を売るにしても、仲々大変な時代になっているのを社長との話しで実感する。来週は2週間インド行との事。インドとの商売は中国よりも余程大変なのであろう。

 午前中、杏林病院で定期検診。体も気持ちもだるくって病院なんかに行きたくないが、仕方ないのである。首に縄をつけられて、引張られるようにして出掛ける。

立ち上がる。伽藍 002
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 七月三日
 木本一之、山口勝弘両アーチストより手紙他をいただく。木本さんの個展のための制作は順調にすすんでいるようだ。山里に独人黙々として作り続ける彼を想うと、出来るだけの事をしないといけない。できるだけの事は勿論、会場設計に力を尽くす事である。

 七月四日
 朝、山口勝弘先生に返信。山口勝弘=前衛、老芸術家、メディアアートの巨人、木本一之=単独者、沈黙、若い芸術家、実物の作家。二人の全く異なる世界の芸術家とお附き合いしていると実に色々な事を考えさせられる。双方共に、現実世界に於いて、単独者である。私には出来ない。午前中、世田谷村にて制作。

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 七月三日
 昨夕、東大で、本当に久し振りに六角鬼丈さんの話しを聴く。ビックリした。六角さん全く変わらず、一種の確信犯だな。曼荼羅、感性を前面に押し出した話しであった。
 教育の最前線にも立っておられるから、今の学生には通じ難い話しであるのを知り抜いた上での講義であるから、まさに確信犯である。渡辺豊和もそうだ が、何故不動を決め込んでいるか、私にはその度胸もないし、理解し難いところでもあった。
 十時研究室。十時四〇分レクチャー。十二時前了。
木本一之展の設計・時の谷の設計
2007 年6月の世田谷村日記

世田谷村日記
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