石山修武 世田谷村日記 | |
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11月の世田谷村日記 | |
R330〜R342 | |
「ラテンアメリカ紀行」(十月二十三日〜十一月四日) | |
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十月二十三日 八時起床。荷造り。十時半修了。ラテンアメリカにラテンアメリカの男と一緒に行くので、何か間違いは起こるだろうと思う。日本の律儀なシステム内の予定は絵に描いたモチだと考えて行く事にする。S氏に何点か送る。 昨日の十三時半から十六時半迄の東大との合同講評会は、まだお互いに適度な遠慮があって、だから面白かった。遠慮もデザインだからなあ。
しかし、中間発表会は歴然として東大側に分があった。ニ、三点の作品はうまくまとまれば、1stクラスのレベルになるだろう。
ここ二週間製図図面を見れないので、若い先生達にソロソロ、ゴールに向けてムチを入れるようにご指導願いたい。もう余計な事を考えさせてはいけない。ただただ、作図、デザイン、モデル作りに没頭させていただきたい。 地球の裏側に行くので時差が大きいが、どうせ、こちらも時差ボケで眠ってはいないだろうから気にしないで良い。十五点くらいは見れると思う。 第四コーナーを廻ったら、怒濤の如くに走らせて、ブッチ切りましょう。もう考えは充分に蓄えただろうから、これからは身体でデザインしろと伝えて欲しい。
十一時半、NRTに向けて発つ。 | |
R328 | |
十月二十一日 十七点の小品制作。過去最大である。全て、習作の域を出ぬが、それでも、これだけ作るのは少しばかりエネルギーを費やした。内、建築的ドローイングはどう考えても二点のみ。港を出て、大海に出た感がある。 手許に置いておきたいモノも何点かあるが、結局みな送る事とした。一方的に送られる側はさぞかしいいめいわくであろう、が、お許しいただきたい。
十月二十二日 西と東、具体美術と抽象精神、パンパカパーンとシーン、祝祭と寂寥、現実と歴史、夜と朝、極彩色とモノクローム、ドロンドロンとキリキリ、商人と士、現代アートと建築、非力と自力、デタラメと方法、アナロジーには際限が無い。
しかし、落書き状態を段々と、多分ここ数カ月で抜け出して、次の段階に登りたい。このマンマでは駄目だ。中途半端だけは禁止。 | |
R327 | |
十月十九日 十三時半文化シャッターBXホール着。早すぎたが、コンピュータの組み直し等を考える。十五時レクチャー。十七時了。十八時過まで、学生の課題を見る。会場近くの中華料理屋で鈴木先生と会食。難波先生合流。二軒目は池袋の俳句の会の事務局でもあるワインBarへ。いささか酔った。
十月二十日 | |
R326 | |
十月十九日 昨日は十八時水道橋で安西氏等と待ち合わせ。無我ワールドプロレス観戦。西村修氏の試合を中心に見る。二十三時過世田谷村に戻る。
九時起床。今日は午後、鈴木博之先生と一緒の講演会である。 どんな世界でも組織自体の離合集散があるのだ。プロレスは興行自体のスタイルを考え直さないと斜陽の一途を辿るんではないか。と、評論家面をして言うが、それでも斜陽であるプロレスに一生懸命なレスラーたちの努力は不思議な情熱である。
十一時四十五分世田谷村発。途中寄り道をして講演会場へ向かう。 | |
R325 | |
十月十七日 十三時S氏と会う。十四時「アジアでのいくつかのプロジェクト」打合わせ。十五時彰国社スタッフ、インタビュー。十八時まで細々とした雑務。二十一時世田谷村。
十月十八日 | |
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十月十七日 もう十月も半分過ぎた。とてつもなく時間が速く流れている。 広島の木本一之氏より「鼓動の泉」送られてくる。以前、彼の山里の工房を訪ねた折に、大変気に入っていたものなので嬉しい。静かな響きを感じさせてくれる作品である。 木の芽が生まれるときに発するだろう音のような、そんな気配さえ聴こえるような作品である。世田谷村がシーンと静かになった。 彼の作品と比べてみれば、私のドローイング、スケッチ、建築の類は少々騒がしいな、まだ。「ひろしまハウス」in プノンペンを作り終えた時に、ようやく静かで、でも生命力のあるものを作れるようになったと感じたのだが、ドローイング類はどうも異なる世界に向かっているようだ。 人から何かを送られるのは決してイヤなものではないが、もしかしたら、イヤがる人も居るかも知れないと、ヒヤリとした。私のは、静かな人には少しうるさいから。
今週内に来年の世田谷美術館での個展のコンセプトを決めてN氏等に呈示したい。 昨日は十七時半から十九時半迄加藤先生と共に学生の設計製図を見た。学生は良く頑張っている。率直に人の話を聞く学生と、でも私は、と幼稚な自我をむき出してくるのがいるが、率直でエネルギーがあるのが一番だよ、と教えたい。十九日の鈴木先生との講演会は丁度、設計製図のエスキスの時間とぶつかるので、学生の指導は講演会後、会場で一時間弱行う事にした。鈴木先生にも三〇分程お附合いいただければ幸いである。
今日は、午後利根町のS氏来室の予定。いろいろ意見を求められているが。地元の状況が良く解らない。
電話を五、六本かけて午前中の仕事を終える。十時三〇分。 | |
R323 | |
十月十六日 八時起床。「アジアでのいくつかのプロジェクト」すすめる。 九時来年の世田谷美術館での展覧会のアイディアを再チェックして、算段する。山口勝弘先生からの提案もあるので熟考しなくてはならない。 朝のアイディアを研究室に送る。こういう作業をしていると、小ドローイングしている時間は失くなる。ドローイングの類は決して非現実な脳内風景を描こうとしているものではない。全ての表現は現実界から産み出されるものだ。しかし、ドローイングの類は現実からの距離が遠い事は確かだ。しかも、その遠さに価値があるとの考えさえもある。 対面している現実に対するアイデア、例えば、それはこのアイデアに関しての積算イメージ等も又、ある種のドローイングであると私は考えるが、そのアイデア自体の強弱そのものが問題なのだろう。 制作ノートに、世田谷美術館の展覧会をまとめるプロセスを公開しても良いかなと思う。木本一之氏の展覧会会場構成のプロセスも面白かったし、かつてロンドンのジャパン・フェスティバル(一九九一年)等の大展覧会の際に出た諸々のアイデアも記録、公開しておいたら良かったと思うからでもある。
実に沢山の考えが、記録されずにアワの如くに消えてしまっている。むしろ消えていってしまったアイデアに価値がある場合も多いのだ。 | |
R322 | |
十月十二日 十三時大学雑務、諸連絡。十五時設計製図エスキス指導十九時迄。当り前の事ではあるが、手を抜かずにやる。今回の課題は流石に学生達も気合いが入っているようだ。眼の光が違うね。これでもドロンとしてる奴は置いて行くしかない。これで、いいのだ。 谷川俊太郎/文、中里和人/写真、の「こやたちのひとりごと」見る。ビリケン出版千五百円也。これは本当に良い本である。中里和人最高峰の写真ではないか。谷川俊太郎の短い言葉と中里の写真が共振して良い。中里は夜旅のスランプから谷川の言葉で抜け出したなあ。 私と中里和人のセルフビルド本も来年一月に出るのだが、この本は小屋本をはるかに超えるのである。もう超絶主義さえ超えるモノ、予言的な本になるであろうと、全く照れずに言う。昨日の寝不足で気持が不安定なんだな。 コーリヤ料理屋でF氏に一点描く。キムチを描いた。宮崎には上味なキムチが少いから、プレゼントだ。
十月十三日
十月十四日 私としては、郵便で私的ドローイング、つまり日常をF氏や、新たにS氏に送っているだけの事に私的な面白さを見附けているだけの事で、F氏のミュージアムでお祭りをして貰おうなんて事は今のところ考えていない。 つまり、日々の散歩の成果を産地直送で勝手に送っているだけの事。しかし、二日で十五点は我ながら描き過ぎとも思え、休みたかった二日の休日であったとは言え、少し変な気分にはなる。 自分は画家でもないし、ドローイングで飯喰ってゆこうとも考えてはいない。漫画家でもアニメ屋さんでもない。それでは、何でこんなに描くんだと問われれば(今のところ誰も問うてはくれないけれど)そうなんであるが、どうやら今の自分を表現するのにこの郵便型式は仲々良いかなとも思っている。 線描だけなら、楽なんだが、色をつけてゆくのにはある種の丹念さがいるので、一点二〇分位かかるようになってしまっている。 でも、銅版画は量産できるけれど、手描きのスケッチは一点だけなのだ。このドローイング群を自分でため込んで悦に入っている風は、余り気持ちの良いものではない。他人にドンドン流通させてしまうのが良い。 その点では二人の送り先は今のところ良い送り先かとも思っている。F氏はミュージアムを持っている。ミュージアムは要するにアートの文化的ゴミ箱だ。どれほど送ったってキャパシティはある。S氏の家にも確か書庫があった筈で、その一角の一棚を占拠させてもらうだけで良い。 もちろん、捨てられて、すぐゴミとなっても文句は言えないのである。西と東の、だから、二人の送り先は、私の脳内風景のゆらめくストック場所なんである。ゆらめくなんて美化するよりコケむすと呼んだ方が良いか。 しかし、この二、日はちょっと時間を取りすぎた。でも散歩や旅と同じような刺激的な時間ではあった。動かなくても良い散歩だなコレワ。 十一時過ぎ世田谷村発。途中寄り道して大学へ。世田谷村の地下を再使用する事を考え始めている。制作の場所としても、広さが必要になっている。
「アジアでのいくつかのプロジェクト」 の話を鈴木博之先生と今週金曜日にやるので、自分としては充分に準備している。来週はメキシコ、チリを巡回するが、北京にも行かねばならなくなっている。体が少々キツイと予測して、この二日は休んだのだが、大丈夫かな。 | |
R321 | |
十月十一日 十三時半教室会議。十六時迄いささか長かった。十七時過、味王で一服。「アジアでのいくつかのプロジェクト」鈴木博之先生との会の事、相談。面白くやるつもりなので、是非御参集を! 十九時過世田谷村。大阪の亀田とチャンピオン内藤とのボクシング試合をTVでやっていた。ついつい視てしまう。力量に相当の開きがあり、亀田にあるのは若い体力だけであった。これはボクシングというより四角い土俵での相撲だった。引いたり、押したりの。当然内藤が勝利するも、インタビューで国民の期待に応えたかった、とは気持は解るが少し言い過ぎだったのではあるまいか。亀田兄弟は年を取ったら、完全にダークサイドの芸人になるな。
十月十二日 五時やっぱり眠れず起き出して「アジアでのいくつかのプロジェクト」のサイト用原稿を書く。今日丹羽君にデザイン、レイアウトしてもらってトップ・ページ近くに出してもらおう。丹羽編集長も動かぬ体で、動く私の全体を把握するのは大変だろうな。 五時十五分、空が白々とせぬ間に再び眠る努力をしてみよう。原稿も書いてしまったし、流石にドローイングをする気力はない。
九時半起床となる。 | |
R320 | |
十月十日 京王線車中にて、電車の座席での座り方も百人百様である。両脇に二〇センチメーターのスキマを空けて、前に人が立ってもつめようとしない人。逆に気を使い過ぎる人は必要以上に身をすぼめてこぢんまり座る。老人は読書し、若い人はケイタイにフケり続ける。 十時半大学院特論レクチャー。講義中に連続して、遅れてあいさつも無く教室に入る学生。しかも院生ですぞ、が多く、それだけでしらけた。チコクする位なら欠席しろという、しつけをしているのかな。 かくの如き院生の多いレベルが日本の実力なのではないか。途中で教室に鍵をかけさせたが、昔、大学の事務方が、私が鍵をかけてロックアウトした教室の鍵を開けてくれと、学生と共に言ってきたのを思い出した。遅刻するなら欠席しろというのは民主主義の鉄則だぞ。 学生にも途中から、中途半端にうじゃけて聞く権利は当然あるのだが、教師は当然準備しているのだから、初めから聞かなければ意味がないという自負があるのだ。 修士論文ゼミの後、今日は休みを取ろうと考えていたので昼食を近江屋で。十七時桜上水駅通過。 近江屋で考えたのだが、西の大入り先生へのメールアートの送信は一時休断して、明日からS氏に一方的にBAKAアートをしばらく送る事にしたい。この事は勿論、S氏は御存知ないのである。我ながらよいアイディアだが、願わくはS氏が送られたモノ共をすぐにゴミ箱に捨てぬことを祈りたい。 烏山、堀田牛肉店でコロッケ四ケ買って世田谷村へ。これが美味で、結局のところ夕食となる。人生は無残だが、コロッケは美味だ。 堀田牛肉店は何年か前迄、私が大ひいきの、ひき倒しくらいにしていた安田金物店のアトに入った人気肉屋で、外の商品は知らぬが95円のコロッケがうまいのである。安田金物店の歴史があるので、その分店員の接客のつまらなさを割引しても、コロッケはイイのだ。
十月十一日
気をとり直してF氏に一点描く。十一時半世田谷村発。十二時半大学、電車内で No. 38描く。 | |
R319 | |
十月九日 十月九日、十二時四十分の新幹線で名古屋へ。OB松本同行。名鉄に乗り換え、星崎へ。十五時半打合せ。地元工務店等も同席。十八時打合せ了。 十八時半ののぞみで帰京。車中、松本と雑談。 世田谷村帰着二十一時十五分。何故か疲れて、食事後すぐ横になる。
十月十日 | |
R318 | |
十月六日 昨夜は十六時より向風学校の主要メンバーと突然出現した渡辺豊和氏と近江屋で合流会食。アメ横の星マシュー君も突然やってきた。富士ヶ嶺プロジェクトの件等相談、談笑。 本日は調布で合同ガイダンスの予定。
十月七日 日曜日 まだ始まったばかりで印象を述べるのは誤りを犯しかねぬが、早稲田の学生のプレゼンテーションの何がしかは社会的な視点が少なからずあり、東大の学生達はむしろ私的な発想をベースにしているのが、少しばかり驚かされた。 一般的に考えれば逆な様に思われようが、明らかな、ねじれ現象が見てとれた。3 km 近い線状空地の計画そのものが持つ社会性、その価値は私的で建築内発想だけではとらえ切れないのは明らか過ぎるから、その視点からは早稲田の学生達の何がしかは良いスタートをした。 東大生は、チョッとスタジアムを間違っちゃった感じだったね。調布の味の素スタジアムでのユースサッカーだったのに、建築会館ホールでの小集会風があった。でも東大だからすぐに修正する力があるに違いない。 会は十六時了。鈴木博之、難波両先生と近くで会食。話しが弾んで二軒巡ってしまった。
十月八日 夜、坂崎乙郎先生の本を読んでいたら、ゴヤの代表的な銅版画集カプリチョスは製作当時三百部刷ったが、発刊後四年たって二十七部しか売れなかったと書かれていた。坂崎乙郎先生は高等学院時代にドイツ語を教えられたが、ドイツ語はほとんど無視という感じで、「自分は君達みたいな阿呆を相手に時間をつぶしているのが実に辛い」と度々述べられ、私達を喜ばせた。「ドイツ留学時代は金がなくなって、ヨーロッパの田舎径をパンをかじりながら美術館巡りをしていたのが懐かしい。お前等は真底バカだ。ジョン・ウェインみたいなもんだ」と意味不明もおっしゃった。 それを今でも憶えている。坂崎先生は確か四〇代で若死してしまはれたが、良い美術評論家である以上に教育者であったな。 ところでゴヤの銅版画集が二十七部しか売れなかった、というのには妙に神妙になってしまい、そうかゴヤは二十七部か、俺と大して違いは無いな。たかだか二百年前の事だけれど、と、その作品の凄さとは別の方へ考えを巡らせてしまうのであった。本当に坂崎先生の言った通り、六〇過ぎてもバーカだネェ、俺は。 十時過世田谷村発。富士ヶ嶺へ。安西、諏訪、河野、三君と。向風学校野外ワークショップの準備の為。富士の樹海辺りより猛烈な濃霧。十二時過富士ヶ嶺造園着。W氏と会い色々と相談。 若い人達のこの場所、そして巨大温室群の再利用運営イメージが重要なので、意見を述べるのは控えた。どういう反応が出てくるか楽しみである。W氏に河口湖町とのつなぎの準備を依頼する。 W氏に富士ヶ嶺観音堂にN先生が来ていると聞き、十四時頃訪ねる。カレーライス等をいただく。 十五時半観音堂を辞す。この寺の近くで新しいプロジェクトをすすめることになるのも御縁であろうか。富士は頂の姿を見せなかった。 帰りは渋滞に巻き込まれ、高速を途中で降りたり、道に迷ったりで、二〇時半烏山に戻る。焼肉屋で会食し散会。彼等のアイディアを待ちたい。
十月九日 向風学校の面々、石山研の幾たりかの人材達がとり囲まれている閉塞感の壁を突破するには、それしかない。彼等ならば、桁外れの事を始める事が出来るだろう。それを信頼して、私も何とか径筋を組み立てるつもりだ。
空廻りは厳禁だが、楽しくなければ続かないのも、これ迄の経験で知り尽している。安西君に幾つかの依頼をして、今日は名古屋へ行く。今、九時、曇天である。 | |
石山研究室制作ノート | |
R317 | |
十月五日 昨日午後は学部学生の設計製図をみた。今年は東大との共通課題であり、明日は調布市での初回会合、及びキックオフ課題のクリティークがある。初めての試みでもあり、スタートが肝心であるので、久しぶりに気合いを入れて指導する。
六時半起床。朱色の鉄板の天井に、テラスの水槽の水の反射光がユラユラ揺れて映っているのをしばし眺めていた。 藤野氏に No. 22、23 だったかなを、描く。もうこれは意地だね。ゲージュツは義務に化すと辛いものである。が、小ドローイングは建築離れしたやつの方が面白い。我ながら。 今朝は八時四十五分世田谷村発、N幼稚園へ。午後大学へ。夕方向風学校の次回打合わせの予定である。 九時杉並N幼稚園、水車小屋のセルフビルド現場をみる。I園長先生、大工さん、お母さん達と話す。十一時十五分了。可愛らしい壁が一部出来ていた。
十二時過研究室。十三時半ミーティング、「アジアでのいくつかのプロジェクト」講演会用マテリアルについて。十五時中川武研。十六時四〇分渡辺豊和氏来室。久し振りに実物にお目にかかる。 | |
石山研究室制作ノート | |
R316 | |
十月四日 午前中、昨日に引き続きセルフビルド小論書き進める。十一時前二〇〇字四十二枚書き上げる。前書きには丁度良い長さになるだろう。力が入った。体力をいささか消耗した。
自分の内の一番危い部分をまとめてみたので、いささかスッキリした。これとは反対の極にあるモノも、まとめておきたい。 | |
石山研究室制作ノート | |
R315 | |
十月二日 午後、動く。スタッフと小さな打合わせをする。十九時半世田谷村。藤野氏に No. 17、 No. 18 描く。
十月三日 No. 21 描く。八時十五分、これでストップ。止めどもない事をやるのは危い事でもある。朝食をとろう。落書きを描くように文を書けると良いのだが、これは自意識の固まりバターみたいなものだから。 昨日、野崎みどり氏より「のん記」と名付けられた追悼文集送られてきた。二〇〇七年五月に肺がんで亡くなった編集者、野崎正之の追悼本である。野崎さんはまだかろうじて建築ジャーナリズムが機能していた頃の編集者であった。三〇代、四〇代に大変お世話になった。 今の若い人は雑誌を読まなくなった。学生もそうだ。必要な情報の大半はネットで無料で得られるから、ワザワザ金を払って雑誌類は読まない。しかし、野崎正之や田尻裕彦氏が作っていた「建築文化」は面白かった。誌面そのものよりも、編集の現場が実に人間臭くて、古い、だからこそ今よりはズーッと骨太の人間がたむろしていたような記憶がある。 その中心近くに野崎さんがいた。田尻編集長は明らかな左翼崩れの、心情的には反体制の人であったが、その片腕の野崎は、へ理屈を言うでもなく、モノを視る眼があるわけでもなく、でも体ごと何かを表現しているような人間だった。 「のん記」が送られてきて、詳読したら、野崎正之は私より一つ年上であった。えばらず、飾らぬ人柄だったので、私は彼と同年の友人の如くに附合ったが、一つ年上だったのか、チョッと失礼したなと思い返した。後悔先に立たず。 話しを元に戻す。しかし、体全体で何かを言おうとしているのは解るんだが、何を言いたいのかが一向に解らなかった。ラグビーのスクラムの如くに何しろグイグイとプレスだけは感じるのが常であった。 「建築文化」の成果は決して少なくはなかった。その、小さな一つに毛綱モン太の「反住器」掲載があるだろう。他の建築雑誌がのきなみ掲載拒否だったのに、唯一、建築文化が勇気を持って「反住器」を出した。 今では、反住器は近代日本住宅史には欠かせぬ存在であるから、その編集部の決断は慧眼であったと言えるだろう。というよりも勇気があった。勇気こそがジャーナリストの必携品であるとすれば、この時ジャーナリズムは健全に機能したのである。 野崎正之がその決断にからんでいたかどうかは知らぬ。でも印象としたら体ごとグイグイ押し込んだのではあるまいか。 毛綱が若死した折、私は葬式にも出掛け、死に顔も見た。母上が「死んだら駄目ですよ、冷たくなって何も言わないんだから」と言って下さった。親の悲しみの涯てしない深さを実感した。 野崎正之の葬式にも、今度のお別れの会にも私は出掛けなかった。若死した人間は、はるか遠くからしのぶのが良いと決め込んだからでもある。死者は記憶に残るうちは滅しないからでもある。 でもね、野崎正之よ、お前死ぬのは辛かっただろう、言葉で言い表わす事が出来ぬ位に哀しかったろう。でもね、君は毛綱と同様にいい時にこの世から去ったのかも知れぬぞ。君みたいに、体温の高い、体ごと人生を押し込んでくるような熱い人間に、今の世は誠に生きにくいばかりだぜ。 君は言葉で、君の想いを表わす事は不得意だった。だから、体ごと君好みの表現者を支え、応援した。その事を我々は良く知っていた。照れ臭くて「有難う」なんて言えなかったから、延々と酒を呑んで君と話し、ケンカもした。アノ附合いはサンキューの代わりだった。 十時前、朝食。セルフビルド論の頭を書く予定。今日から研究室の面々へのオペレーションは文字で、つまり言葉を記して書き送る事を試してみよう。
体温の低い時代には肉声よりも、むしろ伝わり易いのかも知れないから。 | |
向風学校のすゝめ 石山研究室制作ノート | |
R314 | |
十月一日 十一時研究室にて発行元、編集者、中里氏とセルフ・ビルド本の打合わせ。すでに多くの素材があるので、キチンとまとめたい。前書きの小エッセイを書く事になる。 十三時、材料とデザインゼミ。十五時 Dr. コースの打合わせ。バウハウスからの新学生に実にシンプルなプログラム提示。その後、雑務。セルフビルド用小論スケッチ。 これで、世田谷美術館の巨大モデルの焦点が絞れれば、漂流しないで行ける。十九時近江屋で一服。その後「写真」の構想。二十二時前世田谷村に戻る。
十月二日 | |
向風学校のすゝめ 石山研究室制作ノート | |
2007 年9月の世田谷村日記
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