040 世田谷村日記・ある種族へ
八月三十一日

十一時過ぎ絶版書房アニミズム紀行4、12 冊にドローイングを入れる。自動的に手を動かしているんではなく、考えつつやっているので一冊に時間がかかり、一時間半が限界だ。しかしながらとても良い頭のトレーニングにもなっている。十五時前アベル、打合わせ。チリ建国二百年祭の計画も本格的に煮つめられる状況になってきたようだ。

十六時半研究室発、四谷で打合わせ。十九時新宿長野食堂で一服。二十一時世田谷村に戻る。

九月一日

四時半起床。乳児院エスキス。八時半迄。スケッチを重ねれば重ねる程に初期に描いたエスキスがよみがえってくる。不思議だなエスキスは。

九時過新制作ノート 0-05 を書き、トップページのスケッチ。十時前終了。研究室に送る。馬場昭道よりブラジルの谷さん夫妻が来日との事。ブラジルに日本人村らしきを作る構想を持っているそうだ。三世四世がすでに多くなったブラジルの日本人社会に、わざわざ日本人の村を作る必要性は無いと考えるが、谷氏はブラジル社会に同化した日本人に日本語だけは忘れるなとの考えを持つ人だから、日本語研修センターのようなものではないか。

来年のいつ頃かに昭道さんとブラジルに行くつもりなので楽しみである。

K商事のルプチュプの件で向風学校安西君と連絡。選挙も終ったので品川宿の件も再開する。しかし、あらゆるチャンネルが切り換わっているから、頭もそれなりにしつらえておかぬといけない。

宮崎の藤野忠利氏より大作数点送られてくる。これは大変なことになるな。世田谷村は藤野作品の倉庫になるかも知れない。

039 世田谷村日記・ある種族へ
八月二十九日 土曜日

昨日午後は稲田堤厚生館へ。K理事長と会う。どうやら建設計画の基本的方向がまとまりそうだ。夕方東北の結城さんにペーパーをまとめて送付する。宗柳で渡辺君と打合わせ。

今日は六時起床。新聞各紙に目を通す。結城さんと再び長電話。宮崎の藤野さんから「宮崎市民俳句交流大会」の記録冊子送られてくる。藤野忠利編集っである。現代俳句協会名誉会長金子兜太を迎えての俳句大会句作の記録である。宮崎市まちづくり部会の地域づくりの一端としての俳句会のようだ。総計一三二〇句が寄せられている。宮崎市の今年四月からの地域コミュニティ税を使用しての立派な運営である。藤野さん頑張ってるといささかビックリ。

こういう実行家藤野忠利には頭が下がる。芸術家もいいけれど実行家が好きなんだなやっぱり。

十五時新宿三越前HNビル内TMシアター新宿。杉並中瀬幼稚園I園長先生より招かれた試写会に出掛けた。

ドキュメンタリー映画「風のなかで - むしのいのち、くさのいのち、もののいのち」一時間十八分は企画・製作中瀬幼稚園、制作グループ現代。東京杉並の中瀬幼稚園も、宮崎の藤野さん同様に、子供たちの園舎での生活をドキュメンタリー映画として制作する行動力は偉いなあ。こういう実行力には頭が下がる。

中瀬幼稚園は都内ではすでに稀少になった大きな屋敷林の中にある幼稚園で、私も少し計り子供とお母さんのモノ作りを手伝った事がある。素晴らしい屋敷林の都市内自然と子供たちのかかわりが表現されている。

不思議な感慨を持ちながら一時間十八分の映画を見ていた。

不思議な感慨とは、自分もこんな記録を作れないかと強く意識したのである。私も今、乳児園の設計にとりかかっている。子供のための建築は若い頃のモノをカウントすれば5つ目になる。そろそろ名作と呼べるモノを作るべきだろう。その設計プロセスと子供達の生活をからませたドキュメンタリーは不可能ではないだろう。藤野忠利とのグァラマータじいさんの物語も組み込めるかも知れない。と映画を見ながら考え続けていた。

いつ迄たっても、仲々一つにはおさまらないな、名前だけはおさむなんだけれど。

八月三〇日 日曜日

寝苦しくて四時起床。今日は総選挙の投票日である。この一ヶ月程新聞各紙に丹念に目を通した。各紙の署名記事を読み通して、各政治社会部記者の論調もほぼ一ヶ月を通じて読み通せるようになった。昨二十九日の各紙の論調の中では記者達ではなく、作家高村薫の寄稿の形をとった、ほぼ朝日新聞一面全てをとった意見が際立っている。高村氏は基本的な問題は「先進国が主導してきた20世紀型の経済成長の終わりと、低成長に入ったこの国の生き方だろう」、そして「環境技術分野だの、高度先端技術だの、勇ましい掛け声だけはあるが、生活に直結した農漁業からサービス産業までを含めた大きな構造転換の見取り図を、誰も描くことが出来ていない」。

重要なのは、見取り図を、誰も描くことが出来ていない、と言う点にある。高村氏の論は長文であり、社会派推理小説家に特有の切れの良い文体でもあり、すでに全文が要約されて、ぜい肉が落されており、それを更に要約する愚は犯せぬが、痛感したのは、オピニオンリーダーが先ずチェンジしつつあるという現実である。高村氏に大きな紙面を与えた、これは朝日新聞の意志でもあろうが、選挙結果が判明する一日前にこの様な明快な論説を掲示したのは立派である。と思った。

毎日新聞の岩見隆夫の連続政治エッセイが完全に古臭く読めるし、テリー伊藤の何でこういう類の記事が必要なのか全く解らぬ大衆迎合路線という新聞社自体の大衆にツバ吐く類いのアナクロ路線記事も、一気にコケにする力が高村の論説にはあった。

高村薫氏は司馬遼太郎氏に代わるオピニオンリーダーになるのではなかろうか。いささか古い私自身の考え方ではあろうが、女性特有の現実感覚は司馬氏には無かった今の日本の身の丈に合ったものであるし、体制順応型でもない、生活主権型のスタンドポイントを所有している。

男性歴史小説家から女性社会推理小説家へのオピニオンリーダーのチャンジである。これは民主党の言うチェンジのオバマ・コピーよりも余程わかりやすい文化的チェンジなのである。

そして、高村氏はくり返し、全体構想の必要性を強く問いかけている。

七時過、芦花中学投票所へ。朝早くからかなりの人であった。帰りがけ区民農園に寄ってみる。区画 80 の顔見知りの方が作業していた。今日は大根の種をまくそうだ。立派なニガウリを二ついただき、立ち話し。

区民農園の人達は皆私よりはるかにえらい菜園家達である。世田谷村の畑はトマトを程々に収穫した後は身の丈程に雑草が生い茂りとても畑の姿とは言えない。恥ずかしい限りだ。これで良く食と農へ目を向けてると言えるなとうつむく。でも仕方ないところもある。少し涼しくなったら又、畑をしよう。

十三時西調布。知人に会って話していたら、皆一様に投票所が異常に混んで行列ができていたのに驚いたと話していた。今晩何が起きるかわからないな。

十七時半世田谷村に戻る。

八月三十一日

雨。六時前起床。総選挙は予想していた通りの結果になった。これからも想像している通りに展開するだろう。もうしばらくは新聞TVは読まない視ない。決めた通りに動くだけだ。

ベーシイの菅原正二よりFAX入り、選挙の事かなと思ったら、それには全く触れていないモノであった。菅原らしい。この道もあるだろう。本当の芸術家の道だ。しかし私の道はやっぱり実行家の道だから、こうはいかないのだ。結城さんと連絡する。今日から本格的に動く。

038 世田谷村日記・ある種族へ
八月二十七日

午後六本木磯崎アトリエで磯崎さんと小一時間程。夕方新宿味王で石山修武雑談録に手を入れる。

八月二十八日

六時起床。新聞各紙を読み比べる。八時、東北の結城登美雄さんに電話、一時間の長電話となる。私と結城さんとは ’88 年の唐桑臨海劇場の準備を一緒にした事が始まりであるからやはりもう 20 年以上の歴史になる。そろそろ再び動かねばならぬ時代になった。他人のプライバシーを侵害してはならぬが、今日の彼は建築学会東北大会の基調講演なんだそうだ。夕方、それから抜け出してもらって、再び長電話する事にした。

電話で打合わせしているようなものだけれど、もう互いにクセとか腹の中で何考えているのか位は解っているので、むしろ電話の方が良いのかも知れない。明後日の政変以降の話しをかなり、リアルにした。結城さんは私達のやりたい事の要の一人になるであろう。

038 世田谷村日記・ある種族へ

「水の神殿」入り口ゲート天井には天空の様相らしきが写されている。


八月二十七日

六時起床。昨二十六日は午後雑用を少しばかり。アニミズム紀行4、10 冊にドローイングを入れる。渡辺君のインタビューに時間を割く。三、四回分やったのでもうしばらくは良いだろう。チョッと様子をみたい。八月も終わりに近付き、ウェブサイトのヒット数が久し振りに二万/日に戻ってきた。今日、十時過には雑談の読者数も解るだろう。恐らく中途半端な数が一番みじめなのは直観しているので、出来るだけの事はしてみる。

二川幸夫さんから「GA日記」ADA EDITA TOKYO 2400 円+税、送られてくる。二川さんは 77 才になられた。しかし、この日誌を読むかぎりにおいて、年令不詳だな。確実に世界で唯一の近・現代建築の見巧者になった。ほとんどこれは狂気に近いな。誰に頼まれたわけではなく、世界中の近・現代建築を見て廻り、そして記録している。眼が建築用になってしまっている。亡くなった篠原一男が何かの席で、「野性の天皇」って二川さんの事を呼んでいたけれど、アレは名言であったと、つくづくと納得する。「GA日記」を見て、そして読むとそう納得せざるを得ない。ここ迄建築に愛情が持てる人間が居るって事、それが実に不思議である。

正直言って私はそこ迄建築が好きにはなれない。良い建築にアニミズムを視たいと考える位に、それ程に建築が好きなんだけれど、二川さんみたいに全エネルギーを集中するのはとてもできぬ。

読んでゆくと、何言ってるんだろうと思わぬでもないところが無いわけではないが、そんな事は問題ではない。この行動のほとんど巡礼と言って良い程の世界建築行脚の全体が、運動量、エネルギー自体が問題なのである。

六〇年代にアメリカでホールアースカタログが出版された。ロイド・カーン達の編集であった。バイブルよりも売れたとの伝説さえ生まれた。実はこの本の出版によって、R・B・フラーは再生した。地球環境とかの概念の母体の一つではないかと実は目星をつけてある。

「GA日記」にはそんな広がりは無い。しかしである。弱り目にたたり目の状況にあるとしか思えない現代建築にとっては、これはもうバイブルならぬコーランくらいの価値はある。つまり、こんなに建築が好きな人間、しかもコチョコチョとしたマニアックなお座敷芸じゃない、ドカーンとした、マア、やっぱり愛情としか言い様がない人物がいるって事、それはもしかしたら建築にはまだまだ未来が在るのかも知れないと、言わざるを得ないのである。

この「GA日記」は建築の本ではない。二川幸夫という人間の本である。実に面白い本なので、老若男女問わず一読をおすすめしたい。学芸出版からの「良書悪書 30 冊」の、当然良書に入れるべく、それ用の原稿を早速書き始める。

絶版書房通信に「GA日記」の件書く

037 世田谷村日記・ある種族へ

「水の神殿」入り口ゲート天井。ドーム状の天井には太陽光と雨、霧を受け入れる穴が開けられている。


八月二十六日

昨日昼に渡辺君に雑談インタビューしてもらった。トップページが我ながら高踏的になり過ぎていて、コンピューターのサイトの読者には不向きなんではないのかの疑いが頭をもたげてきた。勿論このトップページの図像の展開は、いずれアニミズム紀行の核にしてゆきたいと考えているのだが、もう少し気楽な、本来のネット社会向きの雑談風を、ページが必要としているようにも考えたからだ。

ラーメンとギョーザを喰べながらの一時間半の雑談であった。

夜、世田谷村に戻ったら、アッという間に昼の雑談が文字におこされて送られてきていた。速い。これはいける。すぐに手を入れてみた。

今朝は六時起床。おそろしく寒い。一気に晩秋のような天気になった。昨日のインタビューにもう一度手を入れてOKとする

しかし、これから先の展開はインタビューしてくれる人間に任せてみるのが一番だろう。聞き手の力量がこの雑談の水準と方向を決める 50 %である。TOPページの図像 0-04 に示すであろう、私とあなたの関係に対する考えの表明でもある。

チリ建国二百年祭の早大会場の催事の見積りを再チェック。アベルの見積りは、マア、それを言っちゃあおしまいよ。ラテンだ。

そう言えば昨晩真栄寺馬場昭道和尚から電話があって、新しい寺づくりは周辺住民のなにがしかの感情的な反対運動に対面してしまったとの事である。法難だと思ってやるしかないね、とはげました。

グローバリゼーションの中で最もその力をまとめて受けやすいのは、突きつめれば日本の寺=日本のあるいは東アジアの仏教なんだが、その事にキチンと気付いている仏教界の人間はいるのだろうか。九時前雑事を終え小休とする。

今日の昼食後の雑談インタビューのネタは何になるのか楽しみである。

036 世田谷村日記・ある種族へ

ひろしまハウス鬼沼・時間の倉庫大雪山系 水の神殿

ひろしまハウス・プノンペン以降の、建築・立体・映像制作はできるだけ
トップページに進行中の基本ルールに沿った形での表現としたい考えていますが、
うまくゆくかどうかはまだわからない。

八月二十四日

十二時サイトチェック。他。十三時研究室ゼミのOGの一人が中国清華大学大学院への進学が決まって、そのあいさつ。この子は中国人の血を半分DNAとして持つので良い選択をした。実利的現実的な思考の持主で学部卒業すぐに外資系銀行に入行したが、金融ショックでリタイヤとなり、こうなった。誠に喜ばしい。幾つかのアドヴァイスをしたが、忘れずにいてくれるかどうかは知らない。アトは本人次第だ。

十三時半加藤先生来室、東大との合同課題を文章化してくれた。良く出来ている。すぐに東大に送付を依頼。十四時、鈴木了二、ウォーラル先生来室。映像フィールド公開ゼミ、及びスタジオの第二段階の概要を話し合う。メンバーがまるで違う世界の住人なので、どうなる事やら。でもチンマリしそうもないだけは取り得だろう。

十六時過了。アベルとチリ建国二百年祭の件、話し合う。ようやく少しづつ前へ進んでいるが、油断は禁物。十七時半、M1より前回ゼミのまとめを手渡される。明朝までにチェック返信を約す。帰りがけ正門前のブリッジ下をくぐりながら、コンテナがここをくぐれないのではないかと知らされ、アベルを呼んでチェックを指示、小さな事だが、これは私の油断であった。明日チェック報告を聞く事とする。十八時近江屋で打合わせ。渡辺より奈良のキトラ古墳の写真を見せられ、新鮮であった。以前友人達と九州の装飾古墳を鉄格子ごしにのぞき込んだのを思い出す。

八月二十五日

七時起床。少し寝過ごした。頭をフル稼働させる為に先ず、昨日のメモを。そして、M1ゼミのまとめチェック。八時新制作ノート3を書く。八時半了。小休して朝食。「水の神殿」の入口ドーム内部はそう言えば古墳の内部みたいだな。誰もが古墳みたいだと言うのは本当の直観かな。

035 世田谷村日記・ある種族へ
八月二十一日

十一時郡山着。駅前広場に人だかりがあり、どうやら麻生首相の衆院選挙演説があるらしい。五分位なら待って演説聞いてみるかと思うも二十分程待つらしいのでやめた。総理大臣の演説会だというのに、人の数もそれ程ではなく、選挙の現場の空気を強く感じ入った。

いつも通りにレンタカーで猪苗代の現場へ。十一時半過蕎麦屋着。ここの十割手打ち蕎麦は実に上味なのだ。

宗柳・近江屋に匹敵か、モノによってはそれを時に超えている。野菜ソバといなりのいつもの定番を。ここの特色は地元の野菜との組合わせが絶妙なことである。 蕎麦好きの方は是非一度訪ねたらよい。

「蕎麦家」十割手打ちそば  営業時間 午前十一時〜午後三時。定休日火曜日(祝日は営業)  電話番号 024-957-2668 郡山市逢瀬町多田野上山田原1-317

十二時半猪苗代鬼沼現場。「時の谷」「時間の倉庫」の現場を見る。三階、二階のボイド・スラブがセットされている。


一階の内部はまだサポート他が林立していて、全体の空間を体感するのは無理であった。しかし、私のコンクリートの建築ではベストである。

十三時過、フリーペーパーの取材・インタビューの人々七、八名程来る。東京から車で来たようだ。現場を案内し、インタビューを受ける。前進基地でインタビュー続行。現場打合わせも進める。「アトリエ海」佐々木所長参加。聞けば学生はまだ2年生と4年生との事。ビックリしてしまう。若過ぎるナァ、建築の現場でインタビューするなんて。こちらも何を話していいのか解らないし。でも遠くから訪ねてくれたのだからと、失礼のないようにはしたつもりである。この年頃の若者は野山をかけ廻って、体をきたえ、友人との交わりをドンドンしていた方が良いのだ。

十七時全ての打合わせ・他終了。現場の皆さんと別れて、一路郡山へ。十八時半の新幹線で東京へ。新幹線車中でカンビールと弁当を。こういう事が楽しみになるって事は建築への、あるいは立体への好奇心が薄れてしまってるって事かな。要するに花よりダンゴ、物性愛好よりもカンビールか。 二〇時東京着。同行者と別れて、世田谷村へ。二十一時過帰着。

今朝、新幹線車中で、0-03 の言葉と図形をつめ切れたのが収穫であった。鬼沼の「時間の倉庫」に起きている事と、からみ始めるとコレは面白くなるだろう。 でもネ。学生には解らないだろう。無理だ。易しい事を難しく言っているからではない。高度な事をやさしく言おうとしながら、それでも学生には理解は困難だろうな。

八月二十二日 土曜日

新聞を広げてビックリする。総選挙の結果予測が報じられており、各紙自民党の惨敗を予告報道している。昨日の郡山地域も民主が優勢である。あの駅前広場の光景を見なければ、全く信じられぬ様な状勢である。日本の建設を支えるシステムも大きく変わるのにいささかの時間がかかろうが、キシミ始めるのはどうやら決定的な様である。

有能な人間が在れば、これをチャンスととらえ、何らかのアクションをすでに起しているだろう。

藤野忠利さんより、ペインティング3点送られてくる。流石に新作ではなく一九九一年頃の作品を送ってくる。三〇点弱の数になっている。丈談でもフト思いついてでもなく、どうやら七十二才藤野忠利は本気でまっしぐら制作を続けているようだ。

私も不気味になって、何か気押しされるような感じになった。 それで、最近描いた七点の自作ドローイングを全てカメラに収めた。そうして、その七点を藤野作品と並べてみた。

ただただ、了解できるのは藤野さんと私はまるで別世界という事だけが解る。それを言葉にする事は出来ない。しないのが正しい。何故なら、こうやって急ピッチに各種制作を続けてみると、ある種のドローイングはアイコンであり、時に文学そのモノであるからだ。他人の文字の上に自分の文字を重ねてみても何になるだろうか。

しかし、画家というのは凄いモノである。文字になるぬ文字を描き続ける者なのだから。藤野さんギリギリ頑張って欲しい。時代は今、頑張らないがブームらしい。絵描きは時代に合わせる必要なんてまるでない種族なんだから。

八月二十三日 日曜日

昨夜、突然藤野さんのペインティングに関する考えが出現。今朝メモとしてまとめる。藤野さんのエネルギーに押されるようにして、私の七点のドローイングをカメラに収めた。今朝もやり続けた。これが又、面白い。何とデジカメのメモリーに鬼沼の光景が納められていて、この鬼沼の湖のフォルムと私の近作ドローイングとが似ていたり、で自分の記憶というモノの骨組みが解るような気分になった。時にこのような誤解は誰にもあるモノだろう。良い誤りである。良い誤りは何かを作り出す事がある。

それで私は近作ドローイング七点に命名する事にした。七点中一点はどうへりくつを考えだしても別体系のモノである。しかし、六点は一脈通じている。アニミズム紀行3で私はチベットへの旅、つまり天と地の境界線の旅で、天空が地上に写し出す、つまり太陽の光と雲による地上への象形文字の投射の現場に遭遇した。つまり象形文字の誕生とでも呼ぶべき現場であった。あの時は旅の同行者が磯崎新でもあり、頭の中も少し抽象性を帯びていたのであろう。

つまり、そういう事を感じやすかった。

チベットでの体験と、デジカメでの実験は同じようなモノなのである。私はデジカメを介して自分の頭の内、つまり脳をのぞき込んだのであった。そう考えると、色んな方向の考えが自由になる。自分の落書きは脳内光景の無意識な写しなんだから。

そう考えると、それを意識下に持ち出せるではないか。この人間と鳥が合体したようなフォルムは、どうやら鬼沼の光景に触発されたモノであると。とすれば、六点のドローイングのはじまりの01は「鬼沼の鳥人」と先づはしよう。02の小品は「フォルムと骨格」03「沢山の骨格」04「フォルムの誕生前・鬼沼」05「フォルム・誕生」06「フォルム誕生・すでに変容モンスター」とする。これは近日中に新制作ノートにまとめる。

建築・立体作りとドローイングに道筋がついた様な気分に今はなれていて、いささかスッキリ。

昨夜に続き、藤野忠利の作品三〇点のコンピューターによるメモリーと変化のエスキスとシノプス作りを開始する。この絵本作りは面白そうだ。今日中に原稿全部描いて全ページのエスキスもしてしまおう。明日になったら、恐らくしぼんでしまうアイデアだから。今、九時である。

十七時外出から戻り、藤野さんからの三〇点のペインティング送付、(これはここ3年で約二百点にはなっている)への答えをまとめる。人生は義理と人情でもあるから当然である。

034 世田谷村日記・ある種族へ
八月二〇日

十二時M2相談。十三時絶版書房アニミズム紀行4にドローイング 10 冊入れる。鬼沼の「時間の倉庫」の屋上風景を描き込んだ。七本の通気筒のエスキスを兼ねている。前に捨てた案が再びよみがえっている。やはり、大方、一番最初に理屈抜きで発生するアイデアが一番良いようだ。しかし現実がそうさせてくれない。その葛藤が建築デザインの面白さの一つだろう。十五時過了。ドローイング(エスキス・ドローイング)はこれで仲々体力を消耗するものだ。

十六時に来室する筈のOGが現われず、朝昼抜きでイライラしてきたので十七時近江屋へ。夕食をとる。十八時Hさん現われる。約束の時間をコチラの方が間違っていたようだ。

ナポリ大学でのワークショップ、他の件。彼女は女性の海外での職場獲得、そして夫君ゲットの研究室のパイオニアなので、出来るだけの事はして差し上げたいが、ナポリは遠いな。

二十一時過世田谷村に戻る。白足袋が迎えてくれた。

八月二十一日

六時起床。良く眠れぬ夜であった、今日は鬼沼の現場行。大方の姿形が内外共に把握できるので楽しみ。

又、北極星へ向けた軸が建築の軸とズレた角度の内にある凹型の谷の壁面に小さな洞穴をえぐってみたいと考えているので、その地形を再確認する事になるだろう。

八時過世田谷村発。九時過東京駅で梅沢事務所の担当者と渡辺君と落ち合い、新幹線で郡山へ。

034 世田谷村日記・ある種族へ
八月二〇日

十二時M2相談。十三時絶版書房アニミズム紀行4にドローイング 10 冊入れる。鬼沼の「時間の倉庫」の屋上風景を描き込んだ。七本の通気筒のエスキスを兼ねている。前に捨てた案が再びよみがえっている。やはり、大方、一番最初に理屈抜きで発生するアイデアが一番良いようだ。しかし現実がそうさせてくれない。その葛藤が建築デザインの面白さの一つだろう。十五時過了。ドローイング(エスキス・ドローイング)はこれで仲々体力を消耗するものだ。

十六時に来室する筈のOGが現われず、朝昼抜きでイライラしてきたので十七時近江屋へ。夕食をとる。十八時Hさん現われる。約束の時間をコチラの方が間違っていたようだ。

ナポリ大学でのワークショップ、他の件。彼女は女性の海外での職場獲得、そして夫君ゲットの研究室のパイオニアなので、出来るだけの事はして差し上げたいが、ナポリは遠いな。

二十一時過世田谷村に戻る。白足袋が迎えてくれた。

八月二十一日

六時起床。良く眠れぬ夜であった、今日は鬼沼の現場行。大方の姿形が内外共に把握できるので楽しみ。

又、北極星へ向けた軸が建築の軸とズレた角度の内にある凹型の谷の壁面に小さな洞穴をえぐってみたいと考えているので、その地形を再確認する事になるだろう。

八時過世田谷村発。九時過東京駅で梅沢事務所の担当者と渡辺君と落ち合い、新幹線で郡山へ。

033 世田谷村日記・ある種族へ
八月十九日

十四時早大・東大建築設計製図G3合同課題の打合わせ。難波・大野・石山・鈴木(了)他出席。

スケジュールとテーマについても話し合う。昨年に引き続き、西葛西の敷地。1ブロックに集合住宅・バザールを設計せよに、大筋で合意。バザールの解釈、及びイマジネーションが、一つポイントであろう。大枠としては集合住宅の形式をどれ程学習できるか、意欲のある者は拡張できるのかの課題であるが。この地域が多民族性をおびているのを見逃してはならない。十月一日に出題及び石山・鈴木(了)のレクチャー、早大で幕を開け、東大で難波・大野のレクチャーへと展開する事が決まった。

八月二十日

珍しく、どうやら夏バテした模様、七時迄眠った。九時半世田谷村発。今日はいささか遠くからの来客があるが、夕方のイタリアのOGの来客は対応できるか、いささか心許ない。

今日から、サイトのTOPページが一新する。多様性や偶発性、思い付きを排除するのは良くないが、それに軸を設けることも大事である。設計・デザイン・映像の視覚文化領域に拠点を置き続ける事はいう迄もないが、アニミズム紀行がそれらの骨組みになる。サイトのTOPページとアニミズム紀行の関係に注目されたし。

人間の記憶力には限界があって、サイト編集の重要な断片(アイデア)の大半を忘れてしまっているのではないか。記録の重要さを痛感する。

十時半研究室。サイトチェック。TOPページが読み物になってゆく筈である。次回をのぞいていただくと、少しスタイルの一端が解るかも知れない。連続してのぞいていただきたい。何年続くかまだわからぬが。

十一時岡山県庁の方二名来室。桃をいただく。故郷の白桃である。研究室の皆に分ける。十二時M2ゼミ。

032 世田谷村日記・ある種族へ
八月十八日

三分づき玄米を研いで、炊く。勿論電気ガマと電気精米機で。菅平の正橋さん(開拓者の家)から送っていただいたレタスと、冷蔵庫に保冷されている二、三のありあわせに卵をぶっかけ、のりを乗せて、森正洋さんのどんぶりに入れて、朝飯。

十二時研究室。サイトチェック。思ったよりはうまくいっているけれど、ここ数日で考えが少しは進化しているので、変えたいところがある。

絶版書房という名の名付親は山口勝弘さんである。山口勝弘さんは今、たまプラーザで不動の人と進化している。御自身も早くに亡くなった友人と絶版書房の名で一度活動された歴史を持つ。それを聞いて、「先生その続きを俺にやらして貰えませんか」「イイヨ」となった。それで絶版書房 II 、二代目ですという事になった。

買い求めてくださってる人は注意深く見ていただくと絶版書房には常に II のアイコンが付されている。

デザインが下手っピィで絶版書房の看板の足じゃないかと見過ごし、あるいは誤解されている人が多いだろう、それである種族、つまりアニミズム紀行の読者にはお知らせしておきたい。

十三時よりM0ゼミ、M1ゼミ、厚生館設計打ち合わせ、アベル打ち合わせ、ミュラー帰国のあいさつと続く、十九時迄。いささか疲れて、二〇時新宿味王で夕食。早く帰らぬと猫の白足袋が動転しているのではないかと、気もそぞろである。二十一時半世田谷村。

京都の学芸出版よりの書評本の企画に本格的に取り組みたい。約三〇冊の本の書評スタイルのエッセイである。二〇冊ほどのリストは出してあるが、最近の読書で大分変更しなくてはならない。二冊は確定していて動かぬので、アト二十八冊残っている。

駄本は駄本と書いて良しというので5冊は極めつけの駄本も入れる。

NTT出版のK氏より「レヴィ=ストロースの庭」港千尋が送られてくる。K氏は私が今、アニミズム紀行の旅に出ているのを知って、それで気をきかせてくださったようだ。2200 円+税だから、絶版書房 II のアニミズム紀行とほぼ同じ値段だ。美しい写真本であり、昨年 100 才になった、なんと百才ですよ、レヴィ=ストロースの姿も写真に写っている。

港氏の三つの小エッセイ、庭の神話、写真と音階、蜂蜜の贈り物が挟まれている。写真印刷のデリケートさが独特である。でも、同じ値段ならアニミズム紀行4の方が良いと思った。

八月十九日

二時、目覚めて、考えついた事をメモ。四時再起床、メモをまとめる。ようやく、ここ2ヶ月程もやもやしていた霧が晴れてきたのかも知れない。「時の谷」「時間の倉庫」の、直観でしか無かった命名の意味がようやくその深いかもしれぬ機能をみせてきた。六時再々起床。これでは今日は一日ダメだなと思いつつ、メモをメッセージに変えて図形に落とす努力をする。明日には、サイトの風景がチョッと変化するだろう。久し振りのエスキスもする。一点が開けてくると色々な方角に穴が開いてくるのを実感する。

指示の内容は新制作ノートに。ただし、チョッと手を入れた部分の図形と小エッセイは四コマ漫画じゃないけれど、4回程はページに記録として残し、一週間以内に消去する。こういうエスキスはただでは読ませない。

031 世田谷村日記・ある種族へ
八月十七日

実のところ、ここのところの数日は、私は全く独人で、いやいや死にそこないの猫の白足袋と一匹と一人で、世田谷村に暮らしていたのだった。別にそんなこたあどうでもいいとは誰にも言わせない。誰も言いもしないけど。一人暮らしは今の世に実に多い。俳優のOや、Xも一人暮らしのはてに、一人でくさってくずれ果てていったのである。そこ迄言う必要もないだろうが、一人と一匹の暮らしでバランスが崩れたのだろう。だから、そんな事はとり立てて今更言う迄もない事なんではあるが、私が何故、わざわざそんな現実にはそう珍しくも無い事を書き記すか、と言うならばである。私はその間に遂にネコ語というか、ネコの話し、鳴き声、パフォーマンスによるコミュニケ―ション、つまりのところ猫の交信全体の一端を感じ得るようになった。それをただただ驚いているのである。

人間の頭ではどうやらようやく今の時代に起きている事と、それにどうやって対応する、先ずは思考の形式をとても抽象的に解ってきたような気がしている。大自然の、自分を一部と見なして生きてゆくしか無いということだ。ここで言う大自然は自然と何がちがうか。宇宙とは言わずとも、少なくとも地球って考えないと駄目だ。地球の表面に棲息させてもらっている生物の一種として自分を考える必要がどうしてもある。

ところが現代社会の仕組み自体がそうなっていはいない。社会の仕組みが大自然と循環していない。自然は実に多様な個体が有機的に複合した生命体であるのに、人間社会は普遍のモデル=近代を突き進んできた、そうだよな白足袋と語りかけると、白足袋はただただ飯が欲しいのであろうが身をすり寄せて、マアそうなんでしょうが最近キミは本ばかり読んで顔付きが極めてよろしくない。知識コレクターになってるぞ、チョッと俺と遊んでよと言う。私としては早朝と早晩の二回お前に猫用のメシを用意して与えないと、お前は死んでしまう。お前野良猫の筈なのに世田谷村を一歩も出ない、まるで熊谷守一みたいな猫なんだから、それならそれで一匹で退屈極まっているんだろうから、猫キックででも絵の一つでも描いてみろ、そしたらウェブサイトでオークションにかけて白足袋の夏なんて命名したら、妙に人気出ちゃったりして、ああイヤダねえ。しかし白足袋の孤独はヒシヒシと押し寄せる。

「庭」計画はどうも廻りの反応が良ろしくない。反応が鈍い。色々と考え込み過ぎちゃって、考えれば考える程悲観的になるのは世の常、人間の道理である。それが近代の普遍だと、又も袋小路に入りそうなのである。

ようやく、絶版書房アニミズム紀行3の残冊が 50 冊になった。アニミズム紀行4の残冊は 190 冊になった。二冊合わせて読むといいんだけれど、読者に注文つけたって仕方ない。

高校野球はたけなわである。一部のスター的選手はすでにプロ野球への登録パフォーマンスとしても、力を尽くしているのだろう。行った事は無いけれど、中上健次が始めた熊野大学が今年も開校されたようだ。東浩紀が0年代、つまり 2000 年代生まれの若い作家に新しい文壇らしきを結成して、一人勝ちの村上春樹(スーパーフラット)に対抗すると言うよりも、自主的にマーケットを作ったらの発言があったと聞く。思わず耳を疑った文学界、美術界、建築界、哲学界、経済界、芸能界、料理界、スポーツ界といったそれぞれに固定化しているフィールドを今更、新しく作っても意味も力にもなりはしない。それぞれに具体的な境界線を、個別的に歩くしかないのではないか。

白足袋路線しかない。とわけのわからぬ事をつぶやいて、今日は終り。

八月十八日

盆明けである。衆議院選も今日公示だと言う。夏の選挙は政治家達も大変だろう。サポーターにペットボトルやビールをふんだんに用意しなけりゃならないだろうし。

選挙活動と絶版書房運営は似ているな。勝利する目算は無い。けれどもやり続けないと埋もれて一粒の麦になる。麦ならいいけど砂になる。砂や灰になるのはまだ早い。白足袋は今、一才と半位か。あとせいぜい十年か十五年の命である。俺が居なくなったら、こいつはどうなるのか、と思うとマア、せいぜい一緒に遊んでやろう、でも遊び過ぎると情が移りすぎる。

七時半、世田谷村室内の植物達に水をやる。室内に植物というのは、人間と互いに寄生しているな。水や、時に栄養を補給しなければ枯れてしまうし、生命あって初めて人間にわずかな楽しみを与える。でも植物の側から人間を見たらどうか。

ほとんど自分達、室内で育成されているモノと同じ位にあやういモノとして映っているのではないか。水やエサやシェルターが無いと生きてゆけないし、まずい事に言葉を使うから、単独では生き抜けない。人間は室内の植物と酷似している。

水をたっぷりやっている時が一番楽しいのかも知れない。植物は今、総数大小とりまぜて二〇鉢程、鉢の陰に立てかけてある藤野画家の小品に迄、水をあげそうになってあわてた。芸術も植物には敵わないけれど、室内の植物とは同等位にはなれるかも知れない。

030 世田谷村日記・ある種族へ
八月十六日 日曜日

二時目覚めて読書。四時半再び眠り六時過起床。三階の吹き抜けに面した、通り庭ならぬただの通路、そこに私の仕事場がある。ここは日中は死ぬ程暑い。でも良く風は通る。

そこで、ほんの少し床からの生活の高さを変えてみようと空になった室から円形のチャブ台、パタパタと折りたためる奴を持ち出してきて、そのチャブ台で書き物をする事にした。今日中に頼まれている森正洋さんについての、展覧会のカタログのエッセイを書き終えたい。

七時過に佐賀のU君から約束の資料が、ファックスで送られてきた。U君は随分早くから動いてくれたようだ。

すぐに書き出す。十時に朝食を一人で作り、一人で食べる。

十二時に 10 枚書き終る。森正洋さんが亡くなって何年になるんだろうか。三年か。原稿は書いているうちに、日本の工業デザイン論の如きになり始めて、我ながら面白く書けた。いずれこのサイトでも読んでもらえるようにしたい。

森正洋さんの仕事とGKの仕事の一部を比較するような書き方になった。デザインとしては完全に同時代であるが背景が異なるのだ。その同質性と違いを少し書けたような気がする。いずれプロダクト・デザインをやってみたいのだが、この小エッセイがその入り口になってくれたら良い。

小さく時間を見つけて、明日、十七日のサイトで送る皆さんへの映像情報を、新制作ノートとして書く。

絶版書房交信に、映像・情報を書く。こんな簡単な様な事への、頭の切り換えが大変である。そうは簡単にはいかないだろう。先程の新制作ノート中のオペレーションを一部変更した。

029 世田谷村日記・ある種族へ
八月十四日

プロジェクト・オリエンテーションをまとめようと焦ったが、結局うまくゆかない一日であった。何も記す事は無い。南方熊楠曼荼羅、というよりもあれに対する鶴見和子の考えが興味深い。ところで「物性知覚フィールド」、やっぱり固過ぎて慣じまないな。庭園じゃアカにまみれ過ぎてるし、困った。

言葉で統御、統覚できないので、スケッチしてみようかと考えたが、これが又うまくゆかない。頭で明晰に理解、直覚し得ていないモノをスケッチしようとしても、これは無理な事だ。手がそういう頭にコントロールされてしまっている。

夜、「きっかけの音楽」高橋悠治・みすず書房読む。ここに書かれているモーツァルトの小エッセイにひかれた。これは一九九一年に書かれたものだ。前にも触れたが高橋悠治には一九七四年の「小林秀雄『モオツァルト』読書ノート」という小林秀雄のモオツァルト論、批判があるが、九一年の方が良く高橋悠治が解るような気がする。高橋悠治は実は辛辣な批評は似合わない。むしろ、この「作曲ノートから」と名付けられた章に納められた、創作論の断片風なモノに彼の真骨頂が視える。こういう小論を読むと実につかの間の幸福、人間は信用するに足るという確信に近い、あくまでも似姿なのではあるが、そんなイメージをつかめそうな気持になる。

八月十五日

四時半起床。一昨日であったか宮崎の藤野忠利さんから大きな作品三点が送られてきていた。意外にも何ともヨイのである。送られてくる度に寸評は書いて送っているが、大した批評ではない。失礼ながら、どうせ吉原治良の「エエナ、もうチョットヤナ」位の印象批判にまみれてきた具体美術の連中だから、言っても解らないだろうとタカをくくって(無意識の内に)いたのであろう。そんなに深くは反省しないが、オヤオヤ、これはどうした事だろうの、感がでてきた。藤野さんは自分では気が付いていない、三流のプロの小器用さを実ワ身につけていて、それが私はイヤだったが、どうやらその臭みが抜けてきたのである。どうした事だろう。まだ美の女神はアノクソオヤジ、ヘボ絵描きを見捨てたもうてはいなかったのだろうか。

何故なんだろう、七十二才のヘボ芸術家がいきなり宝石に変身するわけもない、とて、早朝、まだ明けやらぬ絶妙な光の中で、藤野忠利の日記風抽象画に眺め入り、いささかホーッと想ったりしてしまった。

あわてて、これはいかんと思い直し、「堀尾貞治 80 年代の記録」光琳社出版・一九九八年 三〇〇〇円を引っぱり出して見入る。

堀尾貞治は藤野忠利とは仲間の具体美術の一族である。

今、八時半で眠くなってきたし、朝食を喰べるので一休み。続きはその後に書く。

画家と音楽家、生活者と遊民、具体派と水牛楽団なんて考えられれば面白いかも知れないし、私の物性・知覚・立体モデル、まだイヤ味が抜けぬな、プロジェクト名は。名前は本当に大事なのだ。頭一つつぶしたって考え抜かなくては。

今、私の眼の前、八〇 cm 位のところに 24cm × 16cm の藤野忠利の小品が立てかけてある。「一九九三年 照葉樹林、綾の不榧」の裏書きがあり、「二〇〇九年七月 作品物質 wood painting 赤黄緑加筆」とある。その部厚い板材に絵の具を乗せた、トロピカル・グリッドみたいなオブジェの背にはプノンペンのギャラリーで買い求めた石の魚の彫刻があり、山口勝弘先生からいただいた小品三点が在る。

藤野忠利には失礼だろうが、常識的には山口勝弘は高名なメディアアーティストであり戦後抽象視覚芸術のアヴァンギャルドである。藤野は具体美術のいわば埋もれた、無名の画家である。

当然、常識家である私は、その価値観を前提にして、私のミニマム・ギャラリーである仕事コーナーの西の面、つまり東の光を受けるところには、藤野の wood painting を一点、そして山口の小品を一点配していた。

ところが日々といっても数秒ですがね、凝視するのは、身近に置いてみると藤野のモノが仲々生彩を放ってくるのである。

山口のモノは彼の情報、名を成したメディアアーティストであるとの知識無く対すると、実に他愛の無いモノに過ぎぬと思わぬでも無い。しかし、それだって、これを書いた山口勝弘が八〇才の車椅子、不動の人で、今はそれだけが自由な右手だけで、コレを描いたのを知ると、それは又、そんなに簡単な関係ではない。世界はも少し、深い立体として浮き出てくるようにも思う。

こういう事なんだなあ、物性(アニミズム)はともかく、知覚フィールドとか立体モデルと今のところは中途半端に呼んでいる、思考、と物性の関係の地ですねコレワ。

つまり、私は世田谷村の自分の場所らしきに自分の価値観によるコーナー、ガストン・バシュラール風に呼べば屋根裏を作っていて、しかも自分の手だけで、開放系技術のイデーで、ブリコラージュしているのである。

十五分程の時間をかけて、藤野忠利の小品を更に二点、ここに追加して、これで山口勝弘と藤野忠利は三対三の同点になったと、夏の高校野球風に考えた。

堀尾貞治の記録本は、堀尾貞治のライブ、つまり作品群の一つ一つよりもはるかに良い。堀尾の作品、と言っても小品ばかりだが、これも世田谷村には四、五点在る。と思い出し、その一点を身近に置いてみる。

この一点には何の価値も無い。ほとんど落書きである。15 分位で描いたものだろう。藤野の近作の大半は数年がかりの時間がかかっている。古い作品の上に何かを塗り足している。恐らくは、もうこんなガラクタ石山さんのところへ送ってしまいなさい、と言われて、在庫一掃の為にしている作業でもあるだろう。この方法を三〇年位の時間の部厚さでやり続けていたら藤野さんはスターになっていた。惜しい事をした。

十年単位で世界は巡るように、いつの頃からかなった。十代で描いた、作ったモノに二〇代に方法的に加筆し、減算していたら、そしてそれに 3650 日とかのネーミングを附していたら、とても面白かったろう。二〇代、少なくとも三〇代でそのスタイルを作っていたら、美術界ではスターになっていたに違いない。今、やり始めても、すでに遅さに失しているのである。

しかし、その遅きに失した、一人の芸術家の悲劇なんだが、それ自体をテーマにしてみたら、どうなるのであろうか。 9回裏最終、一点差の負け、そして滑り込み、アウトっていう奴だ。

これは、面白い主題になるかも知れない。直接的に言えば、芸術家の最終段階、つまり死をテーマにするのはどうなのか。堀尾の記録アートにもその趣きが濃厚である。驚くべき作品数、日記の如くの日常的制作方法。しかも、当然の事ながら転業画家ではない。会社員であった。アンリ・ルソーやボーシャンをもっと下手っピィにして、軽快なフットワークを使わせているようなモノである。

うわさでは、自宅の何処かに、一日一塗りのペインティングをここ数十年続けているとか。何年か前の、アノ、ゴミタメ屋であった横浜トリエンナーレにも堀尾は参加していて、ペインティング、自動販売機状の小汚い小屋まで作って、そこに百円投入すると、堀尾のオリジナル作品が手で描かれて出てくるなんて、ホントにバカ気た事をやっていた。アレは面白かった。芸術の今を良く表象していた。それも、批評ではなくやってしまうところが、まさに具体派らしかったのである。

028 世田谷村日記・ある種族へ
八月十三日

夕方烏山でNTT出版のK氏と会う。私のポカで大学での打合わせが地元商店街になった。講義録四講まで手を入れた草稿渡す。次の八講迄を受け取る。暑い最中にやってしまおうと決意する。十七時宗柳に席を移す。

本の版型等サンプルを前に相談。でも要するに大まかな感じを伝える以上の事は出来ない。これは恐らく編集者の表現の楽しみだろうから、任せるにこした事はない。小さな版で部厚く、そして文字は横使いにするか、となった。図版や写真を面白くレイアウトできるのだそうだ。山本夏彦、津野海太郎等から本の文字はタテだと刷り込まれているが、我ながらアッサリ、同意してしまう。コンピューター世代の読者への配慮でもある。コンピューターの画面の文字の多くは短く区切られているらしいのが大方である。逆らっても仕方ない。

十八時世田谷美術館N氏現われ、当初の予定通り、色々と考えている事に対して意見を聞きたいと考えていたのだが、やはり案の定うまくゆかず。どうも他人に相談する事自体が苦手であるのを自覚するばかりなのであった。

しかし三まわり程も歳の違う彼等の、時代への嗅覚らしきを感じる機会は私にとっては貴重で、ワイワイ無駄話を続けていると、時にそれが顔をのぞかせる様な気もするし、そんな事は無いような気もするのであった。

美術館学芸員、そして編集者、共にその嗅覚は必然の具であろうし・・・・。そう言えば今朝、奈良の渡辺豊和と電話で話したら、名編集者であった小野二郎が私を柄谷行人と中上健次にヒョイと引き合わせた時に、その場に渡辺豊和もいたのだそうだ。で渡辺は「中上健次の小説はみんな読んでるから」とえばっていた。でも中上健次の小説世界の渡辺の世界に交差するモノがあるのか、どうかは少し疑問だな。

勝手な憶測に過ぎぬが中上が渡辺の建築を体験していたら恐らくは異和感を感じざるを得なかったろう。恐らくその異和感は、近代建築様式批判として提出され続けた渡辺豊和の表現形式そのものへの異和感だったろうな、と白昼夢を見るのである。

渡辺豊和は日本の近代建築の歴史的深度が明治時代迄、近代建築様式の導入以降の時間の厚みしか持たぬ事を批判的表現に於いて持続させ続けた。日本の近代批判にもつながる重要さを持っていた。しかし、その批評的表現を様式の枠内に於いてのみやってのけた。それは日本の近代建築の歴史の厚み不足を又、同時に露呈するという宿命を内在させていた。

中上の文学空間は渡辺の建築空間と比べるとより抽象度が高い。熊野、紀州、部落、路地という具象的な場所を使いながらも、その表現の抽象度は、彼がよく比喩として使う、天空の青の透明さに近接していた。ここで言う抽象度、透明という修辞は伊東豊雄等の語彙の範疇のモノではない。と思わず日本の現代建築の一傾向に対する批判を始めそうになるが、思いとどまる。あの世界は村上春樹のエンターテイメントの汎世界性への、無自覚な非歴史性の表現でしかない。これは、いつかキチンと書きたい。

八月十四日

七時前起床。今日はひどい暑さになりそうだ。木本一之さんに色々と計画の相談をしたい。がこの暑さじゃネエ。広島山中はしかし雨なのだそうだ。日本列島の天候というのは、実にディテールだらけだ。こんな細部にも神は宿るのであろうか。

どうも庭の計画は昨日の彼等にはあんまり受けてはいなかった。細部を一切説明しなかったからだろう。細部は全体の要だから、それはエネルギーのシステム設計に於いてもそうなのを私は川合健二から学んだ。

「石山クン、全体のシステムの中に本当にちいさな、マア、プロしか解らんような部分が、二、三ないとね、イカンのだナア」と彼は言っていた。まだ耳に残っている。情報にだって、それは必要なのだろう。

027 世田谷村日記・ある種族へ
八月十三日

六時前起床。昨日得た「物性・知フィールド」の構想をつめていたら、何故だか「物性・知フィールド」という言葉がイヤになった。考えを突きつめたネーミングであった筈だが、チョッとガキっぽいなと痛感した。これはしばらく伏せておいた方が良い。かと言って、良い知恵もすぐには出る筈も無い夏の朝。困りはてて、良いヒントないかと考えて鈴木博之先生に電話する。本当は友人に相談するのはいかがなものかとも考えたのだが、マア、困った事を伏せとけばいいやと居直ったのである。

何故、鈴木博之先生に尋ねようとしたかと言えば、この「物性・知フィールド」構想は要するに 12 の庭園らしきの、構想なのである。でも簡単に 12 の庭園の計画だと、言ってしまうと何か有難味が一向に湧きようが無いので、それで今のところ、ガキっぽく気取りたいと考えてしまった。

単純に言えば、近現代史の中で数々の建築、あるいは都市計画のプロジェクトはあるけれど、庭園らしきのプロジェクトは私の知る範囲ではそれ程多くはない。観念レベルでの、スーパースタジオのドローイング、位か。

スーパースタジオのドローイングは私の考えでは、変異、変換して、クリストのプロジェクト(巨大インスタレーション)になった。私の庭園というのは、あの類のモノを指すのである。

現実に私が体験して一番古典的に感動したのは四国の、イサム・ノグチのイサム家の庭園であった。アレは借景の技法も、石庭のやり口も採用して、全体としてイサム・ノグチの墓石とも想えるイサムの脳を模した石彫オブジェを中心に、住居、アトリエ、製作工房、庭が見事に編集されていた。

現代の視覚芸術、文化で意味あるモノとしたら、庭園らしき、あるいは、庭園と呼んでしかるべきスケールを所有する立体の構築であろうと、ようやく目星はついてきた。

要するに、なるべく大きな庭園の構想である。しかる上に、その庭園がすこぶる立体的である事が望ましいのである。ここで言う立体は知覚・知識・教養すなわち情報も包含したモノ。

どうやら、「ひろしまハウス」以降の私の道筋はこれだな、とは直観していたが、その可能性、展開に確信が持てなかった。ようやく、ホボいいかと思い切った。

で、鈴木博之先生に、遠回しに探りを入れてみたのである。

近代庭園史の世界が概説されているような書物ありませんか?って。まさか 12 の庭園プロジェクトを立ち上げたいのだが、そのバックボーンになり得るような論なり史書がありますか?とは尋ねられない。そんな事尋ねたらバックボーンどころかバカボンとののしられるのが落ちであるのは眼に視えている。友人にののしられるのは辛い。

かと言って、決して短い時間での思い付きではないのだ。何とかドスンとした骨格が欲しい。

「ウーム、それは仲々ないだろうな、俺が書きたい位のモノだ」との事であった。

小川治兵衛の近代和風庭園をはじめとする、近代の和風庭園を自然主義と位置付け、イタリア庭園、フランス庭園、イギリス庭園の系譜はアッという間にレクチャーした。確か、彼は琵琶湖疎水工事にも過度な関心を寄せていた筈だ。この知識・認識・知覚の総合化した探求力を何とか、エキスだけでも輸入したい。

恐らく、頭の中では庭園のスケールであるのだろう、という理由で教えを乞うたのだった。

もう少し、実際のWORKを進めてから、又あの脳味噌に探りを入れてみよう。情報時代の太公望だな私は。大海に釣糸を垂らしている筈なのだが、客観的知にとっては、すでに魚も居ない釣り堀に糸を垂らす、愚を犯そうとしているのやも知れぬ。

026 世田谷村日記・ある種族へ
八月十二日

物性・知フィールドの構想を得る。

025 世田谷村日記・ある種族へ
八月十一日

七時過迄寝ていた。軽井沢の安西君と連絡。昨日のK社長との話しの内容を聞く。K商事水の神殿での一日の今の生産量と安西君の今の展開力は丁度合っているんではないのかと考えた。

終日出歩きながら読書。

深夜、中上健次の「火祭り」「奇跡」の二冊を読み切る。一冊は通し。一冊はもう斜め読み。流石に中上健次は一度卒業する事にする。振り返ると、この人物は関連の批評、評論から入った方が解るというより、面白く読める。関連評論は、大方に本の一流どころが触れている。江藤淳、吉本隆明、柄谷行人等の断片から入らないと、実は全体が解らないようになっている。

要するに「小説」、特に日本近代の小説は中上健次の仕事が際立つ如くの、そういう処迄来て、というか骨格が崩れていたのか。あるいはそう批評しうるのか、という事が解らざるを得ない。視覚文化、芸術領域の住人である私なぞが、今頃、中上健次を読み刺激を受けるのは、やはり日本の視覚芸術、文化世界の、砂上の楼閣振りがよく解ってしまう、そんな気持にならざるを得ない現実にあるからだ。

四国のK社長によれば、流政之氏は「水の神殿」を見て、恐らく、この作者の最高の作品であろうと言ったらしい。ただ、水の噴き出し口の周囲を囲った木のさくは、アイヌスタイルの仮設のものだろうから、ここは本格的に石組みで、水の流れにした方が良いともらしたらしい。お目にかかった事は無いけれど、いかにも流氏らしい批評である。流氏は典型的なシャモ(内地人=大和民族)だからなあ。でも、私はこの庭園の主役は石組みではなく水であると考えていた。石組み文化は朝鮮渡来の大和文化系のモノだ。大雪山系の 300 年の地下伏流が、この地点を北海道随一の地質学者的井戸屋に発見され、300 年の地下世界から地上に陽の目を視る事になったのだ、と考えた。

で、私の考えでは、厳冬期の自噴するグラスファイバーマストからの水が、どのように凍結してくれるのかだけは一度視てみたいのである。

かつて、東北、鳴子の早稲田桟敷湯の設計に於いて、冬のつららの形をデザインに繰り込めないかと考えた事があり、自分でも面白さを自覚していた。鳴子の建築は酸味の強い硫黄泉であり、その硫黄の岩石素の色らしきを、建築の色彩に使ったのである。つまり、硫黄の鉱石の中へと入り込んでゆくというイメージがあった。アレが自分の建築にアニミズムをハッキリ意識した初めであった。

そんな事も、中上健次学習から、より明らかに学び直せた。視覚的世界に生きるしかネェーなの自覚は益々深まるばかりであるが、その自分らしきの世界をどのように地図の中にプロットしたら良いかの術はまだ、おぼろにしか視えていない。今年もお盆がくる。生者と死者との交流の祭りである。明日には、おぼろ気な地図も描けそうな、そんな予感も無いわけではないが、成算があるわけでもないのだ。

024 世田谷村日記・ある種族へ
八月十日

寝たままにしておいた「建築と音楽」五十嵐太郎+菅野裕子読み始める。

音楽らしきとの関係は、私はベイシー菅原経由のモダーン・ジャズと高橋悠治との接触位しか無い。高橋悠治とは、一瞬交差した。磯崎新を介して細川氏ともすれ違ったが、ただのすれ違いに終った。高橋にしても細川にしても剣呑な人種だなの印象を強く持った。視覚芸術に属する、あるいは視覚文化に属するであろうある意味では具象世界の住民である我々とは違う世界の住人であると考えていた。

そんな体験と比較するならば、この建築と音楽書は、謂わゆる教養書に完全に属するであろう本である。はじまりに、ギリシャ神話を置き、おわりにリベスキンドでくくる。徹頭徹尾、西欧の建築思想と音楽の関係に対する紹介に徹しているのである。確かに、建築と音楽と銘打った類書を私は知らない。その意味では、教養解説書の水準ではあるが価値あるものだ。

しかし、音楽と建築に関して、かくの如き教養解説講座では少し計り勿体ないなと思うのである。

高橋悠治はクセナキスの弟子であり、ジョン・ケージと共に 12 階音楽を理論的につめようとした人間であるが、ある時私に(もう数年前の事ではあるが)今、三味線習ってるんだ。あれは三弦でね、でもやってみると人間の腕や指の筋肉の動きや力と密接な関係を持っていて、その身体の外延性にむしろ、五弦、あるいはヨーロッパ音楽と違う世界を垣間見ることが可能なのではないか、と話していた。

そんなこんなを想いながら読んでいると、何とも、じれったくて、物足りないのである。が、とまれ、しかしである。第 10 章モーツァルトと建築、第 11 章パラサイト・ノーテーション、サティあるいはシューマンの章、およびそのつながりは、とても興味深く読んだ。ここに絞り込んだら、本当に良い書物になったのになと、解説教養に不当な偏見を持つ男は天をあおいだ。

しかし、何かの文芸誌で読んだ、高橋悠治の、小林秀雄のモーツァルト批判は、えげつなくて節度を超えて酷薄を極めた印象で高橋悠治そのものであった。五十嵐太郎は福相だし、ああいう趣きは端から見られないし、それが才質、取得でもあるだろう。でももう少し歪んだいびつな宝石の如き書物をも目指すべきではないか。と、勝手なことを書く。

十八時新小岩駅で待ち合わせ。鈴木博之、難波和彦両先生と暑気払いである。長いアーケードを抜けた、ポッと時代から取り残されたような、地どり屋なる焼鳥屋である。生野菜がうまい。生臭い話しも無く、清流下での交わりであった。

時と共に、こんな風になるんだなあと感慨深い。

なにしろ鈴木先生、冒頭からホメイロスのギリシャ神話からの幕開けであったから、マア今日はそんな風な話し合いにしたいという事なんだろうと、三初老の清談であった。実に奥床しい。しかし、ギリシャ神話の九神程の名がハッキリと記憶されているところは、相変わらず鈴木先生全くボケてはいないのであった。

四国のK社長より電話あり、流政之さんを同行して「水の神殿」を見せたら、マアマア、ヨイとの事であったと言う。 しかし、あの流さんだとしたら、まだ生きておられたのかと、あやふやで、ボーッと聞いていたが、鈴木さんに聞いたら、K社長は流政之とつき合っているよ、との事で、ヘーッ、事実かあの話しは、との白昼夢の如し。鈴木先生は全く知力衰えていないなんて言う前にコチラの方がボケていたのであった。

珍らしく、歩くのイヤだと、帰りは錦糸町迄TAXI、ささいな事だが今日一番小さく驚いたのであった。マアしかし、確かにアノ、アーケードは長過ぎる。お茶の水で乗り換えとなったが、急に「無駄の清水」に会っておこうと、難波さんと出掛ける。プノンペンで難波さんは、ひろしまハウス前のナーリさんの館で昼飯を一緒に食べた仲である。難波教授と雪男になりそこなった清水とは、それでも和気あいあいであった。超現実的組合わせだ。手術台の上の、蚊トンボとヤカンである。二十二時世田谷村帰着。

023 世田谷村日記・ある種族へ
八月八日

五時半起床。「悲しき熱帯」読み続ける。この書物の際立った独自性は旅行記という形式をとって書かれていながら、旅で出会った具体的な体験が具体そのものとして描かれておらず、驚く程に抽象化されて描かれている、そのレヴィ=ストロースの抽象性にある。それ故にこの書物は書かれた時代を超えて、読み継がれる、すでに古典らしきの風格を備えているのである。

昨日、「アニミズム紀行4」 5 冊にドローイングを施した。「アニミズム紀行3」に十五冊の「燃える人間」、火を噴く人間のひろしまの原子爆弾さく裂の恐ろしい、黙示録的イメージを描いた後であった。鬼沼の「時の谷」や、北海道の「水の神殿」に出現している、巨大なヒシ形を思い起こして描いた。数冊へのドローイングはヒシ形を装飾的な記号のように描いていたのだが、数を重ねるうちに、その記号の浮遊らしきに、突然、水が現われた。鬼沼の土地にはヒシ形のほぼ中心軸に小さな川の流れがあり、北海道、音更の「水の神殿」には地下 300m の大雪山系の自噴水を人工的に抽象化した水の流れを作った。

巨大なヒシ形と水の流れが共に図形の共通点でもあった。ドローイングを数点しているうちに、いきなり、そのヒシ形の中に水が溢れ出した。水のヒシ形に変化した。何故、いきなり水がヒシ形に溢れたのかは、どうも上手に説明できない。

オヤと気付いた。ブルーがヒシ形、そのヒシ形は墨で黒々と縁取られたモノであるのだが、その中に一様に水がたたえられた状態に描かれると、それは、実に率直に「ノアの方舟」のアナロジーの如くであると了解されるのであった。更にヒシ形の中に「時間の倉庫」の箱を描き込むと、アナロジーは完全なモノに育つのであった。

このヒシ形は方舟の神話の中の神話へ接近する為の方舟であったようだ。

それで、これ等ドローイング五点は全て、装飾性(図形と色の組合わせの)をはぎとり、ただの自然の表象としてのグリーンの上からブルーを全てに塗り込めたのである。

この五点のドローイングは決して洗練されたモノでは無いけれど自分の中ではとても重要な思考のゲートとなるドローイングになった。

八月七日の日付が入った、そして文言で「時の方舟」の表示を入れた五点のドローイングが誰の手に渡るのかは、私は知らない。でも、これはとても大事なドローイングだ。本来は自分の手に残しておくべきではあろうが、私はここにこう記録できているから、やはり手放すべきだろう。この五点のドローイングを手にした方は、それを知って、手にし、眼で視ると、ヒシ形の図形に、本当に水が溢れ、しかもそのヒシ形が世界に漂流するという、ノア老人になり変わったような気分になるでしょう。

この、とても重要であると意識したドローイングの体験は、総数七百七十点程を経て入手したものであった。そして、七百七十を経なければ、そうとは知れぬモノであったので、その七百七十はアプローチであったと、今では読者の皆さんの手に渡ったそれ等のドローイングに、御苦労様であったと声を掛けてもやりたい。無駄というのは、無いモノである。

七時前、新聞を読む。今日も暑い一日になりそうだ。

十時十五分、NTT出版の世田谷美術館石山講義録 21 章のうち、最初の 1 章に手を入れる。NTT出版のK君に近々、4 章分を渡さなければいけないが、これだけ面白ければ、今日、明日中に出来てしまうかもしれない。書き起こしを整理してくれたTさんの手も入っていて、それが又良いのだ。

恐らく、日記を記し続けてきた愚かさが、文章をつくり、手を入れる速力を異常なものにしているのだろうと思われる。

しかし、コレワ、面白い。昨夏の展覧会は、 二十一回の毎夜の講義に「真夏の夜の夢」というサブタイトルをつけたが、少しシェイクスピア風な趣さえあるなと、夏ボケの頭で想った。十時半小休する。これならば、恐らく凄みのある本になるだろう。

第二章、第二講にとりかかる。十二時終了。十二時十五分発西調布へ。十五時用件了。十六時前世田谷村に戻り、第三講、第三章にとりかかる。これは中々厄介で、十七時過迄かかっても終わらず、中途半端ではあるが、小休とする。

これで二十一章迄突き詰めていったら、俺はもう死んだも同然だな。本当に空っぽになっちまう。

安西直紀より連絡アリ。「無駄の清水」との会見の模様を聞く。なんだか、1.5 メーター位の布の阿弥陀像というか、千手の像を清水から預かってしまったらしい。これで金作れと言われたらしい。

雪男になりそこねた清水が又、何を考えておるのだろうか。案の定、ワケの解らんことになりそうだ。千手観音はあっても、千手の阿弥陀像は無いぞと、こちらもバカな事を考えた。やっぱりバカは伝染するのだ。私だって、早いとこ、バカに伝染して楽になりたいのだ。

十八時私用で外出。二十一時世田谷村に戻る。別にどうってことの無い身内と言うか、ただの親族関係の会である。

すぐに、NTT出版の講義録に手を入れるべく机に向かう。T女史にしても、私の昨年の講義を現場で聞いてくれたわけではない。それで僕が過剰に話したいと願った部分への歪み、みたいなモノは感知し得ていない。大まかに言えば、僕の情熱(恥ずかしいけれど)の部分がポカーンと抜け落ちているのに、気が付いてしまった。これはやはり、元のライブのリアリティを少しは復活させたい。それでなくては 2008 年の一生懸命に伝えたいと願っていた自分が活字に出てこない。

そんなわけで、又、第一講第一章に戻って、徹底的に手を入れる事に、自分で、自分をしむけてしまった。

でも、この講義録は、絶版書房のアニミズム紀行の連作、好きなだけ自己出版、のスタイルと、正反対に、しかも、対になって初めて成立するのを自己確認している。良い本にする。二十一時過、小休を試みる。二十二時、NTT出版のゲラに手を入れ続け、疲れて再び小休。もう仕事はしたくない。

八月九日日曜日

五時前起床。大気にジトーッと湿気がある。NTT出版の講義録、第三講に手を入れる。中々大変な仕事です。でも、面白い。昨年の夏の何かに取り付かれていた自分の情熱らしきをなつかしんでいる。六時前、疲れて小休。あと十八講も残っているかと考えると呆然とするが良くやったな、こんな事。グッタリと横になる。

十七時、激しい夕立ち。あわてて様々な場所の様々な窓を閉める。風が入らず、もう地獄、です。すぐに雨は去り、又、窓を全開、生き生きとした場所になる。丁度、NTT出版のゲラ直しも、第四講まで終了した。まだ五分の一弱である。もう、イヤだ、字を読み、チェックし、書くのはイヤだとつぶやいて、終了とする。それにNTTのK氏より預かったゲラは全てやったのだ。

バカなTVでも視てバカになるか、おとつい得た、ノアの方舟のイメージを絵にするか、しばらくボーッとする。

十八時四十分、「悲しき熱帯」を少し計り読み進む。無為の熱帯の如き世田谷村でレヴィ=ストロースを読んでいると、何故熱帯に悲しきという修辞が付け足されたのか、原著の表題は「 Tristes Tropiques 」レヴィ=ストロースの気持ちの中をのぞき込んだ訳名であるような気もする。

八月十日

六時起床。伊藤毅先生より送っていただいた「バスティード フランス中世新都市と建築」中央公論美術出版 四千五百十五円を開く。伊藤先生からは時々著作を送って頂くが、私には、アカデミーに対して身構えるという非常に悪いクセがあって、都市の空間史(吉川弘文館)をはじめ、必ず眼を通すのだが、その後は書棚にうやうやしく飾り立てる、というのが常であった。ところが、この「バスティード」は、(私はバスティードという名前も初めて知ったのだが)何というか、そんな妙な私のアカデミーコンプレックスとでも言うべき気分を消してしまう程の、本格的な都市へのゲート、都市史への入口になるのではないかと、ザァーッと眺めて、一部を拾い読みしながら痛感した。この本は少々苦しくても通読したい。

伊藤毅先生は、歴史と技術研究会での連続講義で「グリッド論」の一端を述べられた。良く理解できなかった部分もあるけれど直観として、これは凄いアイデアだろう、と言うのだけは解った。本書に於いても、はじめに、実に短かく、短か過ぎるくらいに短かく、グリッド論のカケラを述べている。もうちょっと、オープンにしてもらいたいとは思うのだが、伊藤先生は京都の人間だから、京都風の用心深さと、ケチの精神はしっかりしているのだ。冗談を言ってる場合ではない。

ともかく、バスティードというフランス中世都市の一つの類型の中に、伊藤さんは、近代につながるらしい近世の、更にその初源に近いモデルを見ようとしているらしい。

つまり、私にとっては、この本は伊藤毅の都市グリッド論のはじまりとして、読まねばならぬモノらしい。その事は一時間程の下読みでわかった。

真紅の帯が凄いのである。

ヨーロッパ中世史の日本の泰斗、巨人、樺山紘一氏が

「これは、ヨーロッパ社会研究にあって、奇跡とよんでいい。」

とまで、書いている。腰巻き大賞モノである。しかし、私だって、あの樺山センセがそこ迄言うかの、いささかの反発を持って、本書に入ったのである。確かに、日本人研究者が都市史という新領域の枠組をもって、キューバや、アメリカやフランスに、自在に飛び、綿密な記録を残す、その事は実に、妙ではあるがいかにも現代的な奇跡とも言えるだろう。

かって、ネパールの首都カトマンドゥの旧市街地を、院生達と駆け巡って、サーベイした日々を想い起したりもした。アレは大変な量の採図、採寸であったが、今は大学の何処かに眠るだけであろう。バリ島テガスの集落もやったし、キルティプールの山岳都市もやった。

この本を、まだ通読し得ていないが、私のアレ等の資料の行き処が今や宙ブラリンのままになっているのを、痛感させられたりもした。無念である。そんな馬鹿な無念さも、感じさせる迄の一冊である。

南北軸と東西軸の交差の連続がグリッドであるという、都市の中にアイコンを視ようとする若者の視線は、建築家達にとっても一つの救いなのではないか。駆け足過ぎるが、とり急ぎ、印象のみ。

022 世田谷村日記・ある種族へ
八月七日

三時過起床。チョッと早朝過ぎるが、「悲しき熱帯」読む。猫の白足袋が、何を考えたか闇に大きな鳴声をあげている。猫なりに何か不安なのか、あるいはただ腹が減ったと合図しているのか、知らぬ。レヴィ=ストロースは面白く読めている。恐らくは、一年後の「アニミズム紀行」には反映されるであろう。そう願いたい。

レヴィ=ストロースはプエルト・リコでアメリカ合衆国と接触した。いかにも、フリー・メーソンのユダヤ人民族学者のペシミスト振り、その典型の如くに接触したのである。そのアメリカの町を、いつまでも催されている万国博覧会か何かに似ていた、と記している。ただし、もう一度のひねりがあって、ここでは、つまりプエルト・リコのアメリカでは、むしろ博覧会のスペイン会場のようだ、とも記す。この、もうひとひねりが、ゾクーッと来るね。自分には出来ない、まだまだ。

きっと立体の設計・デザインにも同じ事が言えるのだろうが、そっちの方はむしろ自然にやってしまっているのかも知れない。このキリモミ状のひとひねりが全てのポイントだな。同様に、イギリス式の大学とはダッカのネオ・ゴシック様式の建物が並ぶ構内であったので、オクスフォード大学は、泥と黴と植物の氾濫を制御するのに成功したインドのように見える、とも記している。日本の隅田川を和船に乗り、東京を視た時には、パリよりも都市の変化の速力が異常に速いので、それ故に、古いモノと新しいモノとの親和力があるとの印象もあり、精神的な根源とのつながりをともなったまま近代化をなし遂げた、という言い方で、レヴィ=ストロースの視点はアマゾンの原住民への視線と東京への視線とが、それ程に開いていない、別の眼になっていないのも知る。ポスト、コロニアルの視線をユダヤ民族フランス国籍者として神話世界の古層から視る方法をすでに確立していると視たい。

四時半、疲れて眠ろうとする。いい本はいい疲れをもたらせてくれる、七時半再起床。新聞を読む。

午前中十時半に世田谷村を出て、研究室で何冊かの「アニミズム紀行3」にドローイングを描く予定。十三時にはアニミズム紀行4が刷り上ってくるので、その予約販売の口上も書きたい

「アニミズム紀行3」はようやく残冊が57冊になった。今日からは二冊併走になる。

十一時過より研究室でアニミズム紀行3 にドローイングを描く。15 冊に描いた。途中からモヤモヤしたイメージが少し計り明確になり、ドローイングのテーマを「ひろしま」とした。十点程に炎になった人間らしきを描いた。原子爆弾の灼熱で人体が炎を吹いたのは記録に残されている。

火刊の如くに無垢の市民、子供達が燃えた。アニミズム紀行のドローイングはすでに 350 冊程描いたが、今になって描くべき主題が輪郭を持ったのである。

昨日、八月六日が広島への原爆投下の 64 年前の当日であった。その時間の巡り合わせと、アニミズム探求の旅の、いささかの進行が私の気持と脳内にその映像を結ばせたのだろう。でも、400 冊のはじまりから、燃える人を書き続けていたら、気の気持はまいっちまったに違いない。

だから、50 冊程に描き込むので、丁度良いのであった、と考える事にした。

十三時半、「アニミズム紀行4」の刷り上がりが届く。印刷所の皆さんも、担当者も良くやってくれている。キチンとした仕上がりでホッとする。

早速、何冊かにドローイングを描き込むのを試みる。うまくゆけば良いのだが、まだ何を描くのかは決められない。

本だから、活字、印刷された図形の地があって、それに触発されなければ何も描けない。

私一人の作業ではないのだ。ドローイングは。何者かと共にやっている。

021 世田谷村日記・ある種族へ
八月六日

六時半起床。梅雨は明けていない。S氏が言うように、すでに秋の長雨の模様を天空は呈してさえいる。新聞を丹念に読み、頭を休める。近頃は新聞の署名記事の記者の力量、デスクのチェック力迄読んでいる風、が我ながらあるような気がする。エヘンプイプイだね。馬鹿な思い過ごしに過ぎない。のにこんな事書くのは再び黄色ランプ。

新聞は確かにコンピュータを前にして今はいかにも非力だ。でも新聞の活字の群からしか伝わってこないモノもある。 新聞社のざわめきや、記者、資料管理者、ガードマンの人達、社長やらの一見偉い人達、印刷の人々。その総体のうごめきの結果、表現としてのニュースペーパーがある、日本ではおまけに、それが毎朝配達されてくる。そんな、これもいささか時代遅れの感がしないでもない、現場の総合体のリアルさが、活字のインクの匂いは一切なくなった紙面から、まだかろうじて伝わってくるのである。でも、記者の言葉の能力はいささか低下、あるいは摩耗している様にも感じる。恐らくそれは新聞記者が記事をパソコンで打ち込み編集へ送るようになってからだろう。手で字を描く事、つまり手で言葉を描き言葉に置き換えるという、アルタミラの壁画以来の人間の表現の尊厳から、幽体の如くに離脱してしまったからだ。

それを残念と思うのは私の勝手であるが、これは産業革命にクワやオノで立ち向かうようなものである。つまり全く勝ち目はないのも知っている。知ってはいるが、あきらめ切れぬ人達、つまり民俗学的にすでに少数種族と呼びたい人達が居るのも、又、同時に知るのである。その人達への、か細い糸電話をコンピューターの力を借りてやっているのが、この日記通信である。そう確信するに至った。

八時十五分、64 年前の今日、この時間に広島市に原子爆弾が投下された。私が生まれて一年後の事だ。私のオジの小田とし太、今も岡山県の吉井川沿いの町で元気に暮らしているが、そのオジはその吉井川沿いの町から、西の空にピカリと閃光を視た記憶があると言う。

私は幸いにして、広島市前市長平岡敬氏をはじめとする、広島市民の方々とカンボジア・プノンペンに「ひろしまハウス」を共に建設する事をした。私には間接、直接の被爆体験も無い。戦争体験も無い。そのあやうさの自覚だけがある。自分の中のあやうさ、空理空論の平和観念、それは普通の今の市民的平和へのあやうさと重なる。それでと言うばかりではないけれど、カンボジアまで出掛けてレンガを積んだ体験をした。平岡敬前市長の「つくる平和」の理念の強さも知る事が出来た。

その十年余りの年月が、今、プノンペンに建つ「ひろしまハウス」である。今日、64 年昔の広島への原爆投下の日、私は 64 年の歳月の中に消えていった多くの切実極まる哀切や、願いに想いをはせている。その想いは、積んだレンガの重さや、本当はそういう事を出来る余力など全く無いのに、建設に参加したのを、今ではチョッと、わずか計りの種ほどの、一粒の矜持にしようとしているからだ。

恐らくは、カンボジアの「ひろしまハウス」もいずれ風化し、変容してどのような姿になってゆくのかも予想し得ない。それでいいのだと思う。むしろそれでしか無い。ひろしまの名を冠した原爆投下の人類の悲劇を、それでも忘れないようにとの、あれは墓碑銘みたいなモノであるから、何が起きてもビクともしない。

そんな気持を絶版書房の「アニミズム紀行3」には書き残している。この冊子も又、記念碑だ。冊子と中に描いたドローイングの方が、実際に在るプノンペンのひろしまハウスよりも、良くその記憶を残すモノになるかも知れない。今は、むしろそういう時代である。

十二時過研究室。サイトチェック。十三時M2ゼミ。十四時アベル打合わせ。十五時ウォーラル先生打合わせ。十七時野村・渡辺打合わせ。十九時半了。二〇時近江屋。二十一時半世田谷村に戻る。

020 世田谷村日記・ある種族へ
八月五日

六時起床。ここ数日は自分の頭の内が言葉向きになってしまっているのを痛感する。いささか異常に本を、我ながら読み過ぎてしまっている。昨日なんかは、駅構内で歩きながら、本読んでいたからな。自分でも異常だなコレワと警戒警報の黄色ランプが点滅するのが解る。

全く、事故を起こしたって何の不思議もない、これでは。

八時過迄、やっぱり読書。何人かの友人、知り合いに通信、依頼他。やはり、次第に身体を動かして、面談したり、交渉したりの労をいとわぬという年令ではなくなっている。身体を動かすよりも情報を飛ばした方が余程楽だからな。でも、これではいけないとうのも自覚しているのだ。

世田谷村発。いくつかの用件を済ます。暑い。コーヒーショップに飛び込んで身体をいたわる。ついでに「アニミズム紀行5」を書き進める。今週末にアニミズム紀行4の予約受付を開始する予定だが、5もだいぶ書き進める事ができている。何処迄行きつけるかも計算できていない。我ながらスリルだ。でも、考えを突きつめないで、モノを作る事は出来ない。捨てる神もあるだろうが、拾う神もいるに違いない。

歩き続けなければ、何処かに落下してしまうのも知っている。虚実の境界を旅しているのも、自覚している。虚実つまり心とモノ、下世話に例えれば情報と物体である。

もう一度、通過点、駅やコーヒーショップ、食堂等で小きざみに集中して、レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」を読み直してみる。最初の通読では、完全にはね返されてしまったが、今度は少しは利口になっているらしい。でも、この人の書き方のペシミズムは本格的なものだな。フランスのユダヤ人だな全く。ヨーロッパにありながらユダヤ民族の凡世界性を背負った知性が持たざるを得ないペシミズムだな。これくらいのハードな奴にブチ当ると自分の北東アジア性らしきを痛感する。

十九時、西の空が燃えるように紅い中をヘトヘトになって世田谷村に戻る。しかし、良く歩いた。歩く足がまだあるだけ良い。

東北一ノ関ベイシーは今日は定休日の筈だ。どうせ誰も居ないだろうと、おもいつつ、誰も居ないのを確認するためだけベイシーに電話してみる。

山本夏彦翁が奥様を失くした際の名コラムを思い出す。

奥様が亡くなり、山本夏彦さんの家には自分の他は誰も居なくなった。その誰も居ない、誰も居るわけもない自分の家に、山本夏彦さんは外から電話するのだそうだ。

当然。電話には誰も出ない。その誰もでないのを確認して、電話器を置くのだそうだ。ただそれだけ。

恐らく、気持の何処かで、それも予測していたのだろうと思う。誰も居ない筈のベイシーへの電話には、菅原正二らしきが出た。疲れた、暗い声をして、モシモシと言った。

これは菅原であって、菅原ではない。実存するわけがない菅原であろう。

「庭のモミジが真赤に紅葉してしまってね。昨夜は妙に色のついた月だった」

と花鳥風月には全く関心の無い筈の男がつぶやく。

やはり、コレは菅原じゃない。菅原の音声の精霊だろう。

音に入れ込み過ぎて五〇年弱、遂に菅原は言霊そのモノになったのであった。

最近、度々こんな事がある。こういう体験を積み重ねていると廻りに友人が居なくなっても、マア、確実に居なくなるのだけれど、それでも一向にガッカリしないですむだろう。妙な処に居るな、私も。

019 世田谷村日記・ある種族へ
八月四日

私用の後、午後新宿長野食堂で安西直紀と会う。今、この青年は実に興味深い地点に立っている。昨日ベイシーの菅原正二より通信が入り、四十数年ジャズ喫茶ベイシーをやってきたが、結局のところベイシーも自分も何者でもない、そして何者でもありたくは無い、という地点に辿り着いただけである、とあった。

ジャズ喫茶ベイシーはアニミズム紀行にも度々登場している。実に興味深い場所であり人間なのだ。アニミズムの結晶である。

突然、言い放つが南方熊楠が南方曼荼羅のシンプルな方の奴で、物と心の交差するところに事が出現すると、表現している。

「今の学者(科学者および欧州の哲学者の一大部分)、ただ箇々のこの心この物について論突するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる事(人界の現象と見て可なり)によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところにあるか知りたきなり」南方熊楠 土宣法竜 往復書簡

つまり、心が物をどのように認識するかの学があり得ていない、白地であると考えていた。

又、熊楠の粘菌に対する生涯の関心の寄せ方と研究の動機には、粘菌が動物でも植物でも無い境界領域の生物、生命体である事への、不可思議さへの好奇心があったと思われる。つまり、何者でもないあるモノへの好奇心だ。

天才の天才たる由縁だ、この何とも奇妙な好奇心の形は。

南方熊楠の直観、好奇心そのものがアニミズムそのモノを直視しているのである。熊楠に関しては学習中であるので、いづれアニミズム紀行の五合目巡礼くらいのところで書いてみたい。

ところで、菅原正二の俺は何者でもない、という一見単純な締念の如き世界の感じ方は実は深読みの愚を超えたところに我々を連れてゆく可能性を持つ。だって、四十数年の、モダーンジャズ修業という、修験道みたいな体験、少史があって、到達した認識である。「ジャズ喫茶」という場所は日本独自なモノで世界には他に無い。その暗闇の中で、モダーンジャズ、音、サウンド、響き、言霊、精霊、歌謡の如きを四十数年体験し続ける、というとんでもない小史。

その膨大な蓄積こそが、菅原正二の今に、旅の究極点、北極星に辿り着かせているのだ。そこのところを見逃してはならない。

で、まだそんな部厚い蓄積の無い青年、安西の中に、私はまだ若かった、成熟する以前の菅原を視ているのである。

闇雲な行動力だけは充二分にある。

そして、他には何も持たぬ。

ただ、今のところの青年安西、つまり裸でボーッと都市に突立っているだけの安西の良さは、簡単に何者かになるのだけはイヤだ、と言う直観と、率直な行動のまだ小さな軌跡である。この簡単に何者かになってたまるか、という点が良い。今のフリーターと言われたりニートと呼ばれたりの種族が攻撃的な身振りを持つところに可能性を視る。

現在の、なす術もなくモンモンとしているだろう若者一般の、ある種のモデルを呈示しているのだ。

中国で得たという、ケネディ、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、他の、そして何と山本五十六までもがそれぞれ大部の一冊になっているケッタイ本を沢山見せられて、仰天する。面白くて、山本五十六の部厚い一冊を借りた。

マア、今日は無駄をしようという事で、極めつけの無駄の人、八重洲の清水のところへ廻る。諏訪太一君も加わる。清水氏のところで、ヒマラヤ計画という実にバカバカしい計画の段取りをして、アトは安西君に任せることにした。清水と安西、実に非生産的な組み合わせである。二〇時過散会。二十二時世田谷村に戻った。

018 世田谷村日記・ある種族へ
八月三日

六時半起床。新聞を読む。鈴木博之退官記念本(東大出版会)の原稿を最終チェック。FAXで送附する。九時前、友人達と電話でおしゃべり。こりゃ沖縄の老人達みたいだナア。

水泳の古橋広之進氏がローマで亡くなった。世界水泳競技大会の最中ホテルで客死。80 才。古橋広之進氏とは間近にその人間の人となりを痛切に感じさせていただいた事がある。東京 VS 福岡の今は昔のJOCでの誘致合戦の最終投票日、芝のプリンスホテルの大会議場に於いてであった。会場は石原慎太郎東京都知事他何故か大物と言われる自民党の政治家の姿も交じえ、超満員であった。結局投票は小差で福岡が東京に破れた。実に小差であった。投票はJOCの役員のみによって成された。古橋広之進氏は水連の会長で票の行方の要も握っていた。投票が始まるとJOCの水連関係の役員が古橋氏のところへかけ寄り、その指示を何度も確認していた。緊張した表情であった。その表情からも、下馬評からも古橋広之進氏は福岡支持であったと、私は直観した。東京はオリンピック選手育成費への助成を含め資金力は豊かであった。それで、土壇場になっても、福岡支持に水連のJOC役員は確信が持てなかったのだ。金という権力のプレスがあった。

三度程隣りの席に居た私はその会話を全て聞き取る事はできなかったが、大方の空気は読めた。古橋広之進氏は、決めた通りでヨイ。ブレるな、らしきを決然と言い切っていた。ああ、古橋さんは金の力に屈せずに福岡に投票せよと指示したなと私は勝手に考えた。会場の 1000 人程の人々はその動向に少なからず注目していた。

俗な言い方ではあるが古橋広之進氏は決然としていて古武士の風格があった。

秋になるとすぐに 2016 年オリンピックの開催都市が決定する。シカゴ、リオデジャネイロ、マドリッド、東京の中から選ばれる。

興味津々である。あの時、福岡が万が千にも選ばれていたら、日本は変わっていた可能性だってあった。今頃、何を地方分権、脱中央官僚を騒いでいるのだバカ奴と思う。しかし、これも又、日本の歴史の哀しい現実なんだなあ。

昼に研究室、サイトチェック。絶版書房、アニミズム紀行3の残部が 58 になっていた。徐々に絶版に近付いているのを知るのは嬉しい。この本の読者は特権的な知と精神の所有者であると自負する。

ゼミを少し計り、学生との対応は難しい。少数に絞り込んでいる石山研でもこの状態なんだから、他は推して知るべしだ。野村、渡辺とプロジェクトの打合わせ。十八時了。新宿南口味王で一服。二〇時過世田谷村に戻る。

流石に中上健次の小説を続けて読む気分になれず。今朝、歩いていたら、夏芙蓉の花をいくつか見かけた。中上健次の残り香みたいな花だ。でも東京のそれは、それ程の際立ちを見せずただただ、そこに飾り花として咲いているばかりなのであった。恐らく、中上の熊野の夏芙蓉も現実にはそうであるに違いない。そんなこんなを考えると中上健次の文学空間も残念ながら今、急速に色あせてくるように思うのだが、そう思っては何にもならない。あまりにも強く際立っている事の哀しみであろう。この才質の中核はアニミズムそのものだ。中上健次の文学空間と対比的なのは、やっぱり今は村上春樹なんだろうな。その、文学とはすでに呼べぬ、市民社会の消費趣向そのものであるような空間をヌケヌケと呈示し続けている。マスメディアの力学の構造そのものの表現形式である、五木寛之よりはその品性に於いて良質な、中上健次と比べれば非力で核の無い文章の構造力でありながら、その双方を足して、数十倍の売り上げを達成している現実を作り上げてもいる。恐らくは世界のマーケットで。これはもう文学ビジネスである。

村上春樹にはズーッと疑問を感じ続けてきた。それ故、私は彼のエッセイ、その他の雑文の大半にも眼を通してきた。コイツ、怪しいとの直覚を信じざるを得ないからだ。結果、村上春樹の雑文は実に凡庸極まるのに気付いた。何も見るべきモノは無い位に平凡極まるのである。三島由紀夫のスポーツ観戦記みたいなモノのレベルである。沢本耕太郎がわざわざ言う迄もなく、実に取るに足るモノは何も無い。エッセイにはね。小説はどうか。まだその実相、中核が奈辺にあるか、書けない。心から知ろうとは思わぬからだろうが、そればかりではない。

翻訳家の素質が本職の小説家の核を占領している、そんな新味の技術的世界が村上を汎世界の存在にしているのではないかと、目星はつけてはいるのだが、まだまとめて書く自信はない。いつか書きたい。ただ、この作家は従来の純文学とか大衆小説中間小説の枠組みのすでに外に居る事は直観している。その中枢は極度の、まがい、擬小説、擬文学なのではあるまいか。情報時代の小説の、初期のモデルみたいなモノだ。

八月四日

四時起床。昨日の日記をチェックする、やっぱり随分怪しい事書いてしまった不安があったのだろう。四時起きで手を入れさせているのは読者だ。読者の眼である。自分はこういうやり方でしかコミュニケーションができないのだ。このところ日記にやたらと亡くなった方への言及が多い。センチメンタルになっちまったとは思いたくない。死者と交信しているのだ。

五時過、中上健次「補陀落」読了。短いモノだが圧倒的な才質を感じた。これが彼の短い一生の中の何時頃か書かれたものかは知らぬ。はじまりと終りがメビウスの輪の如くに連結していて、複数の語り手が交差していて、要するに全体が輪廻転生している。息の長い語り口の力。熊野への哀切極る憧憬。部落民として、つまりは、とどのつまりは人間としての自覚と、ほとんど自己死を想わせるきりもみ状の掘り下げ。やはりここでも登場しない主役は 24 才で首吊って死んでいる。

早朝明けやらぬ冷気の中で、胸がつまった。この短編を書きながら、恐らく中上健次は開眼したのだ。自分の絶望的なまでの才質の深みに。こんな文章読まされたら、誰もが自分の無能さにうちふさがれてしまうだろう。

この一片に中上健次のモデルがある。でも誰も真似が出来ないモデルだ。ピュアー過ぎて。こんなモノ読まされたら、自分自身に絶望するしかネェな。恐ろしい程の速力で書かれたモノであろう。ジョン・コルトレーンだコレワ。中上健次はやはりモダーン・ジャズだな。しかも最前衛の、フンドシ、キリリと締め込んだ奴だ。ほとんど呪文の如くに結晶しちまっている。中上の路地は都市に通底しているか。

こういう立体を作りたいけれど、やり切れるかどうか、いささか悲しいね。イヤなモノにブチあたったな。六時過、新聞を読む。七時再び眠る。今日は一日が長そうだ。

アニミズムの表現モデルの一つとして中上健次の文学空間を選択して、スタディしているが、つき突めると回転、運動の速力という抽象性になるだけかも知れない。と、すれば鬼沼の時の谷の時間の倉庫になるのだけれど・・・。

八時再起床、十時迄、雑読。西郷信網・山口昌男対談。夢幻能の構造は現代に通じるかも知れない。ほとんど無意識に鬼沼の時の谷でやっていたな。

017 世田谷村日記・ある種族へ
八月一日

雑用の合間に幾つかの場所で、拾い読みを、それでも過激に行なう。喰わず嫌いであった蓮實重彦氏の著作は何冊か流し読んだが、今日、河出書房新社「絶対文芸時評宣言」一九九四年を読み切る。

ウィリアム・モリス主義者であった小野二郎氏から、若い時に新宿のBarで柄谷行人、中上健次両氏を紹介されたことがある。「生意気な奴等なんだ」という言を覚えている。当時はそれが何の事か全く理解し得なかった。今は良く解る。

この一ヶ月は中上健次に集中している。そうすると柄谷行人がどうしても気になる。そんな頭のうごめきの最中だ。アニミズムの旅をとことん突きつめようと決めたら、そうせざるを得ない。柄谷さんにはニューヨークやワイマールで会って飲み喰いもした。そうは簡単な人間じゃないのはすぐに解った。で、遅ればせながら学習中なのだ。言説の人間にアニミズムで立向ってみようという算段である。

それはとも角として、ここのところ雑事に忙殺されてはいるが、勉強もしているのだ。中上健次の対談集を読んでいたら、蓮實重彦にブチ当った。喰わず嫌いは止めて、入ってみる事にした。

この本の最終章は中上健次の死の後に書かれた一種の追悼文である。しかし、中上の文学が極めて貴族的なモノであり、自死した三島由紀夫のそれが市民文学の中での相対的な貴族趣味であった、というジャーナリスティックな発言を除いては、中上との対談の方に蓮實重彦の良さがキチンと表現されているように見えた。この人は一人で全部書き切れぬ、すなわち交通の場(せいぜいインターフェイス・コミュニケーションだろうと思うが)としての文学、あるいはその原理的枠組みに関しての思考が核であると思うが、それは中上との対談の方が良く表現されていた。

すなわち、蓮實の思考の底には、方法的、意図的な複製芸術への傾斜がある。映画批評を本拠とした批評活動の展開はその表われであろう。

大変興味深かったのは批評と誘惑の章。十年がかりでマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の個人全訳を成し遂げた井上究一郎に関してのエピソードを記す、蓮實の手つきと言うようなものであった。

かつて東京大学でフランス文学を講じ、プルースト研究家であった井上究一郎(恐らくは蓮實の師か?)への品格のある愛情が表現されている。身近な者への愛情らしきの吐露は得てして下品になるものだが、驚くべき事にここではそれが余りない。この章だけでも一読の価値あり。探して読めと言いたい。

蓮實は井上究一郎の「幾夜寝覚」(プルーストの「就寝」を引いたもの)と中沢新一の「バルセロナ・秘数3」を比較して、この二冊がほとんど同じ時期に出版されたことは恐らく中沢新一の生涯の最大の不幸であると言い放っている。中沢新一の最近の著作「アースダイバー」(講談社)やらを読むと、時差はあるにせよ、成程ナアと思う。文章家開口健への批評、中断と鎮魂、等を読むと良質なディレッタンティズムへの近親憎悪らしきと嗅ぐことができるのである。

金子光晴の「中国人と夢 伝統と現代」を拾い読む。圧倒的な知識の肉体化、ディレッタンティズムの華。

昨年の石山の世田谷美術館カタログ・冒頭論文で、今は井上究一郎の如くの老教授である(失礼!)、鈴木博之がカンボジア・プノンペン「ひろしまハウス」前のトンレサップ河の船のゆききをぼんやり眺めて、このまま金子光晴の如くに漂泊の旅に出たい、ポロリと真情らしきを吐露していたのを鮮烈に思い起こした。メコン河を遡行すれば、中国の山河に辿り着くのは知れた事。

そう考えて、私の脳内には井上究一郎、金子光晴、鈴木博之の面々がひとつながりになったのである。書物の旅も短時間に集中してやると、ジェット旅客機よりも余程遠い距離を飛ぶものだ。

一ノ関ベーシーよりFAX入り、返信する。これも旅だ。遠大な旅である。初期の中上健次作品「十九歳の地図」読む。又、「千年の愉楽」の吉本隆明、江藤淳の解説を読む。建築というか、構築中の立体モデルの、モデルを探索中である。

八月二日 日曜日

六時起床。昨日はビールを飲まなかったので体の調子は良い様な気もするし、悪い様な気もする。どっちでもいいか。「千年の愉楽」「半蔵の鳥」、読む。中上の路地には韓国盧州あたりの気配が色濃く漂ようのを痛切に感じる。

八時半、いきなり東大出版会鈴木博之退官記念の原稿「装飾」書き始める。今日中に書き切ってやる。と決心しながら中上を拾い読みしたり。

十八時、我ながら驚いたが 28 枚を書き上げた。夕食後、少し手を入れる。

他人から見れば静かに停滞した典型的な日曜日であろうが、脳内は嵐の状態の一日であった。

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