016 世田谷村日記・ある種族へ
七月三〇日

終日単独行。やらねばならぬ事をする。十八時三〇分磯崎新アトリエ。今日は磯崎さん 78 才の誕生日である。

磯崎新論(仮題)をノートし始めて三年半になる。モノ作る人として生涯に一つ作家論を残したいというのは永年の夢であった。

大学院生時代、すでに 4 5年ほど昔である。学生時代というのはつくづく知恵は無いけれど、不思議な事に耳だけは良く生きていた。耳が独立した生命体の如しであった。三木清の耳彫刻みないなもんだ。

建築史家渡辺保忠がゼミに際してポツリともらした。

「建築論で一番高い価値を持ち得るのは作家論なんだ」

この一言が耳にこびりついてしまった。史家渡辺保忠を尊敬していた。当時渡辺は三〇代前半だった。考えてみれば磯崎新も 33 才位だったのではないか。すでにスターであった。

「磯崎というのは凄い才能の持主だよ。宝石だな」

つぶやくようにそう言った。

渡辺保忠は建築生産形態史を軸とした研究者であった。しかし、作家的な資質を多分に抱えた人間でもあった。作家としての資質、やむにやまれぬ官能、モノに対する本能的な直覚の所有者であった。

恐らく同年代の作家であった磯崎に自分の中にある何者かを視ていたのだ。

私の作家論遍歴は恐らく、そんな頃からすでに芽生えていた。と、今にして思う。はるばると来たものだ。B・フラー論、俊乗坊重源論は遂に書けなかった。手はつけたのだけれど、やり切れなかった。ここ二〇年くらいの小史だ。そろそろ年令的にも追い込まれてきた。二つの論の失敗を振り返り、失敗の原因だけは良く解るようになった。

当然、論と呼ぶからには長遍でなければならない。最低 700 枚位かと目星をつけた。昨年の夏世田谷美術館でやった、 21 回の連続講義のゲラが上がってきて今手を入れているが、ボリュームとしてはほぼ同じ位のモノになるだろう。

出来得るならば、この議事録と対にして、読んで、感じてもらえるものにしたい。

渡辺保忠がゲートになった事をはからずも記してしまったが、当然そうなると、史家鈴木博之にも触れなければならぬ事になる。要するに、磯崎新は日本の建築史家にとって非常に厄介な存在なのである。

史学は認識の体系そのものである。しかし、それを超えるものでもある。一流の史家は認識の体系の組み直し、書き直しを夢みる者でもある。鈴木がそうだ。

そうすると、その点で磯崎と交差せざるを得ない。磯崎の書くモノは謂わゆるエッセイである。が、しかし、その総量がエッセイの形式を自動的に踏み越えてしまっている。

つまり、ある種の歴史的記述の形式に自己変成しつつある。この膨大な記述は恐らくは世界でも稀なモノになり始めている。つまり、史家の領分を犯し始めているのだ。それで一流の史家と磯崎はどうしたって、原理的ないざこざらしきを起こし始める。特に日本の近代史の領土でそれが起きやすい。

そんな、こんなを考えていたら、二十三時になっていた。磯崎さん、「ときの忘れもの」の綿貫さん御夫婦と共にアトリエを去る。

霧雨の中を少しぬれながら世田谷村に二十四時過戻る。

七月三十一日

七時起床。曇天。昨夜は色々な情報が入ってきたので、朝のうちに少し交通整理したい。上海のヒマラヤセンターの巨大型枠が面白いので、あれどうにかならんかな、と磯崎さんが言ってたのをありありと思い出す。

綿貫さんは、それを本(カタログ)にしてしまえば良いのにと考える。恐らく、その巨大型枠そのものが彫刻よりもズーッと現代アートになっているのだろう。中国でアートとして売れるぜきっと。

015 世田谷村日記・ある種族へ
七月二十九日

十二時四〇分西武池袋線富士見台駅、野村、渡辺両氏と待ち合わせ。十三時聖オディリアホーム乳児院。施設長の佐久間佳子先生に大変ていねいな説明をしていただく。厚生館愛児園グループの新計画のための見学である。お話をうかがい、また施設を念入りに案内してくださった。大変参考になった。

この乳児院は「カトリックの信仰と精神に基づき、愛を持って育てる」ことを理念としている。それが良く施設長の、立派で、親切な対応の隅々まで表れていた。感服した。このような現代社会に独特な、しかも新しい社会的機能を持たざるを得ない施設の運営は、しっかりした運営理念がどうしても必要なのが、身にしみて理解できた。一生懸命取り組む価値が充二分に在る。しっかり気持を引き締めて取り組みたい。十五時半了。御礼を申し上げて去る。

富士見台駅前通りで、遅い昼食。話し合う。来週月曜日に本格的な打合わせを予定する。十七時前池袋で二人と別れ、私用。突然、眼の前の現実とは飛んでいるアイデアが浮かぶ。我ながら途方も無いモノであった。しかし、七月の成果の一つである。

何年か前より、一人でコツコツ、カリカリと銅板を彫り始めた。銅板には明らかにヒマラヤの巨峰を想わせる形が出現した。カリガンダキ峡谷で視た家程の大きさのアンモナイト群も登場した。余程あれらの印象群は強かったのであろう。あれらと言うのは、数度にわたるヒマラヤの旅、そして磯崎新と共にしたチベットの旅などを指す。

そして、今、現在このネットサイトにはチョクチョク、山岳の事を書くようになっている自分がいる。日記に「ある種族へ」と付け足してから、日記のとりとめの無さにひとつの軸らしきを与えようと少し努力するようになった結果なのだろう。絶版書房交信も日記の部分であるが、そこにも山岳が仕切りに登場している。

で、突然。キルティプール計画をヒマラヤ計画、あるいはヒマラヤから、という計画にまとめたら良いか、というアイデアが出た。ポロリと出たのである。

人生はまことに不可解極まるモノであり、計算やたくらみ通りに物事は動かない。ポロリ、ポロリの偶然の力の集合でもある。アイデアは意志であるに過ぎず、その形も又、偶然の僥倖によって生まれ易い。

しかし、このアイデアによって、私の銅版画、ドローイング、絵のようなモノ作りの作業には一つの枠を与える事ができそうだ。全てではないが、一部の闇雲のままに進めてきた作業に「ヒマラヤなんとか」の名称を与える事にする。

ネパールのジュニーやトリブバン大学の先生、学生達、そしてキルティプールの人々。それに八重洲の清水等の人脈を総動員して、このプロジェクトの日本での支援組織を作る。安西の大日本山岳部という馬鹿馬鹿しいだけが取り得の変なモノにも脱出口を与える事ができるだろう。

組織は二の次で良し。先ず小さく解りやすい取り組みを考え出してみる。

七月三〇日

禅僧、松原泰道さんが二十九日午前亡くなった。101 歳であった。100 歳をこえても執筆、講演を続けていた。私などには到底真似の出来ない、これぞ寿命である。

松原泰道さんは故佐藤健から紹介してもらった。名前通り泰然とされた春風の如くの宗教家であった。名のある宗教人に良くある脂ぎったところが一切なかった。

天王台の佐藤健の隠れ家ならぬ、遊びの家、「酔庵」の額の書は、松原泰道によるものだった。


「健さん、酔庵でなくって、泥酔庵と書きましょうか、オッホッホッ」

の言葉のまろ味と暖かさを今でも忘れる事が出来ぬ。

あんまり好きな呼名ではないが、先ず間違いなく名僧であったと思う。

仏教界も又、権力を中心とした世界である事は間違いではない。思索を尽し、人格高潔な人物が上に立つ事はない。まず無いだろう。松原泰道氏はその点、仏教界というよりも仏教思索の道の大人でもあった。

佐藤健はあっちに行っても恐らくは、ジタバタしてるんだろうと予測する。須弥山探検隊などを組織して、歴代の宗教家、空海最澄やら親鸞、蓮如、あるいは怪僧達から迄も金を集めて、幽界毎日新聞なぞを発行して、又も四苦八苦しているに違いないのだ。人間の性情は何処にいってもそれ程変わるものではない。

それこそ、雲の上に泥酔庵を構えているのであろう。泰道さんが遅ればせながら、アッチに行って下さり、健に再び説ききかせてくれる事になり、正直ホッとしているのである。

私なぞの俗人風情には恐れおおいが、御縁である勇をふるって追悼の意を表する。

014 世田谷村日記・ある種族へ
七月二十八日

研究室で諸々の雑用。久し振りに「アニミズム紀行3」 10 冊にドローイングを描く。筆の感触を忘れてしまっていて、ぎこちない動きの形と色になった。しかし慣れかかってしまっていた描く事から、違う感じも得る事が出来た。

七冊でストップしようとしたが、気持がもうチョッとやれと命じるので、 3 冊を加えた。

「アニミズム紀行1」から数えると、すでに七六〇点程のドローイングを冊子に描き込んできた事になる。

これ等は全て個人の書棚や引き出し、箱の中に仕舞い込まれるであろうから、決して一堂に会する事はない。七六〇点全てが、当然、一点一点異なるモノに仕上がっているのだが、この作業によって「アニミズム紀行」は一冊一冊に、一点一点の個別性を保証させようと考えた。馬鹿やってると、我ながら思うけれど、もっと度外れた馬鹿をやらないとね、とも痛感している。

つまり、皆さんのお手許にわたりつつある七六〇冊程は手描きの本でもあろうとしている。

近江屋で晩飯、二十一時世田谷村。

猫の白足袋が腹をすかして、足許にすりよってくる。まことに猫勝手な奴である。しかし、人間達も、何処か遠くから眺めるならば、自分勝手な動物であるに違いなく、そう考えれば白足袋は私が映っているモノなのだろう。

日経新聞の夕刊、至高の一点、フランス絵画の 19 世紀展に、鈴木杜幾子が「ジロデ=トリオゾン エンディミュオンの眠り」を寄せている。短文であるが、底深い蓄積の下地を感じさせる。鈴木博之氏もこういう伴侶と共に日常を過すのは並々ならぬ力を必要とするだろうと余計な事を考えた。そうか鈴木家はドーヴァー海峡を挟んで英仏の文化の相違と、軋轢のエネルギーの混沌の中に生きているんだ。眼からポロリ、コトンとうろこが落ちた。

東大出版会の原稿書き上げなくちゃ、と変な事も考えた。

七月二十九日

六時起床。新聞を読み、昨日のメモを記し、白足袋に朝食を与える。白足袋はサッと自分の好きな部分だけ選び分けて食べる。こちらはそうはさせじと魚肉のかんづめのエサに固いビスケットをこねくり合わせるのだが、今日もこの戦いは白足袋の勝。奴は今、湿気を含んだ風が吹き抜ける二階の、木の椅子の上でもう眠っている。

夏目漱石の「我輩は猫である」時代からもう百年経った、と言うべきか、たかだか百年と言うべきか。白足袋を見て、一緒に暮していると、とてもこいつは我輩というやからではない。明らかに自分を我輩とは呼ばぬと知れる。こいつだったら、しかし僕とは言わぬだろう。「僕ってだあれ」とかの、早稲田で先生やってる中上健次になぐられただけが取り得の小説家がいた。今もいるか。あいつの僕だけはイヤだろう白足袋は。わたくし、でも私でも無い。そんな自覚的で鼻についた教養はこいつには無い。なにしろガス焼却寸前にもらい受けた捨て猫だ。五匹兄弟の他は皆天上か地下でコイツの事を御苦労様と見守っているに違いない。

ビニール袋に入れられて捨てられていたそうだから、こいつはやたらそこらの袋にもぐりたがる習性がある。ビニール袋の中がかすかに在るやも知れぬ脳に焼き付けられているのだろう。

で、今のこいつの家は台所の外れに置かれた小さな、小さな浅いダンボールの箱である。そこにきゅうくつに丸まっているのが好みだ。

昼は世田谷村は暑い。キチンと暑い。で、白足袋は涼しく、風が吹き抜ける場所を知り抜いていて、そこを巡り巡って眠るのである。

朝は、今のところは、この木の椅子の上で眠りこけているのが定番になっている。立派な野良猫の血をひいている割には腹が弱いのが心配である。どうでもいいけど、長生きしてもらいたい。

013 世田谷村日記・ある種族へ
七月二十七日

朝、前広島市長平岡敬氏と連絡。「アニミズム紀行3」絶版書房の推薦文をいただく。全国の図書館に置いてもらうように努力する。

変化の速度が早い夏の空である。高層雲の姿も見ている間に変化する。夏のエネルギーを感じる。しかし人間にとっては蒸し暑さは自身のエネルギー運動に関してはひどく効率が悪いのだ。ウロウロ、ノタノタと動く。

昼過、暑気払いの口実で渡辺等と昼食。彼の処女著作の計画をサシミのツマとして話す。興味深いテーマで、新しい世代の息吹を痛感する。大きな工夫が必要だろう。

NTT出版による私の世田谷美術館での講義録の第一講の三分の一程を読む。この講義録にはエネルギーを集約しているので、いずれ手にして頂きたい。

鬼沼の現場より「時間の倉庫」の最新データ送られてくる。想っている仕上がりとのギャップは今のところは無い。これも期待したい。

七月二十八日

鬼沼の「時間の倉庫」が次第に出来上ってきていて、施工途中の記録写真を見ている。この建築(立体)では初めてたかだか百年程の浅い歴史しか持たぬ日本の近代建築をその時間の枠を超えて江戸へ、室町へと接続しようと、意識して試みたところがある。

日本建築史的な伝統というモノだけに関心があるわけではないが、否応なく、そういう事になった。「時間の倉庫」の工事が進行中の山里や、これ又、極めて浅い歴史しか持たぬ磐梯山の爆発で出来た猪苗代湖の風景、そして磐梯山の姿形。それに工事に参加してくれている実際にモノを作ってくれている労働者、職人達の気持の中に、明治維新をこえて遡行するべき何モノかを感得したような気持もあるからだ。

ようやくにして、「ひろしまハウス」の次の段階に歩を進める事ができるだろう。

最近は天変地異が異常に多いから、順調に工事が進行するのを祈りたい。更に、この次の次に進む。

天体の運行、つまりは地球の公・自転を天空の光を介して立体内化しようと試みている点に於いては、「水の神殿」の初歩的試みよりも更に進んだ複雑さを持たせているが、又、同時にそのような神話的とも受け取られやすい、建築に於いては神秘主義的傾向ともされやすいモノと単純にくくられぬように、ほどほどのスケールを持つ立体作りには、様々な技巧もこらしてある。原始時代の立体、墳墓や記念碑づくりとは異なる要求もあった。秋には、先ず初期段階が仕上がるから、この初期段階で見ていただくのが良いだろう。

宮崎の藤野忠利さんより、宅急便で「物質」シリーズが送られてくる。今日送られてきたモノは良くない。

良くないと言い切れるのは「時間の倉庫」「水の神殿」への信頼からである。72 才の具体派表現者を敬愛しているからこそ、競争者でもありたいと思うので、敢えて書く。

012 世田谷村日記・ある種族へ
七月二十五日

十時大学。大学院入試面接。十一時半了。私用。M君と品川宿へ。十三時半、パクパクなる北品川商店街のやき鳥定食屋で昼飯。けったいなオヤジの変な店であった。おすすめする。新馬場北口より歩いて3分、旧東海道手前。

十四時品川宿交流館。近くに伊豆の長八の鏝絵があると聞き、見学する。寄木神社の蔵の扉にそれはあった。そういえば昔、長八さんの生れ故郷である伊豆の松崎町と品川区が交流があったなと思い出す。縁は異なモノである。

十四時半品川宿の「快人」インタビュー開始。この「快人」とのインタビューは私が熱望したもので、あと二、三回きちんとやってまとめる。絶版書房の新シリーズとしたい。まあ、途方も無い快人がまだ居るのだな。十五時半過了。町内をブラリと歩き廻って、安西氏、渡辺とヤキ鳥喰べて、話し合う。十八時半了。十九時半、世田谷村に戻る。

今日の午後はまさにアニミズムの快人やら、江戸の精霊の数々やらに出会う事ができ、アニミズムの旅であった。

七月二十六日日曜日

久し振りの快晴である。風はあるが暑い。十時半発。天王台へ。昨日の品川宿は面白かったなあと、振り返りつつ、電車の旅である。常磐線の車窓からの風景は、何故だかレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を思い浮かばせる。考えようでは恐ろしい景色だ。確かに気候は亜熱帯の風がある。十一時半日暮里で土浦行快速に乗り換える。アト三〇分そこそこ、でも何となく、これは旅である。電車の座席が四人用中央通路のタイプだからか。上手く言えぬが、烏山新宿の 15 分とは違うのだ。毎日毎日のお決まりのコースじゃないからだけなのかな。

昨日の「水の神殿」深層地下水研究所の水、安西直紀による販売計画の打合わせは面白かった。宣伝、広告、倉庫業への投資も全て自前でしかも、一日、一万本を売るのは容易な事ではない。が、もしや、あはよくば、何かに恵まれて、天地が逆転したりして、安西なら、やるかも知れぬと思わせる。私には出来ない。何故なら「これは出来ない。」と声にならぬ声を身体が聴いてしまっているからだ。安西はどういうわけか「意外に、簡単か事かも知れない」とつぶやいた。その根拠は知らぬ。でも彼は「出来る」という声を聴いたのであろう。

北海道からの運送の事、デリバリーの事、その他諸々。細部を考えれば、大変なんだろうが、私には出来ぬが、安西なら出来る、かも知れぬ、と、そんな声は私にも聴こえるのである。

十二時十五分天王台。十三時前真栄寺。檀家総代他、住職と共に竜ヶ崎の公民館へ。真栄寺分院建設住民説明会。

十四時三〇名程の周辺住民への説明会。

何故か会場には感情的に反対の空気が漂っていて驚く。二、三の反対者の感情的な発言が続く。しばらく、聞いていたら大方の構造はすぐ理解できた。要するに一人の方が強く反対しているのだ。馬場昭道住職はそれでも良く辛抱強く対応した。しかしながら、昭道和尚に対する何がしかの住民の発言には眼をおおいたくなるというか、耳をふさぎたくなるようなモノもあり、呆然とした。少くとも坊さんに面と向かって、葬式坊主とか、商売寺院とかの面罵はあびせるべきではない。

昭道氏は日本仏教界で将来を期待される、宗教家である。それを知らずとも、坊さんに向かって言って良い事と、悪い事があるだろうに。が、しかし、同時に日本の仏教界は良いレベルの坊さんが、これ程に激しく追求される現実の赤裸々さは骨身にしみ込ませ、知っておいてしかるべきだろう。

しかし、皆とは思えぬが何がしかの人間達の品性は眼をそむけたくなるモノがある。十五時半了。公民館の外で発言しなかった人達の何がしかと話す。謂はゆるサイレント・マジョリティである。この人達はコモンセンスもしっかりしていて、ホッとした。現実の深度は実に測りにくいな。

真栄寺、近くのレストランで遅い昼飯。寺に戻り一服し、再び常磐線。十九時半世田谷村に戻る。

東京近郊の光景は日本近代の矛盾、すなわち移入された近代というオリジナルの短期の模倣という宿命を持つ、その結果としてある。人口が減少しつつある現実は、又同時に、この光景、美しい田んぼの緑、点在する民家や四角いビル、高圧線鉄塔、等が混在するバラバラなモノである。今、現在が恐らく混乱の、そして模倣の百年の時間のピークなのであろう。 この光景は、今春に視た奈良の、トータルな光景に酷似している。確かに東大寺の伽藍や、内の諸仏像は今も変わらず美しい。しかし、その外に広がる光景の混乱は凄惨極まるモノである。常磐線の車窓にひろがる田んぼの外に在る光景の混乱は途方もないモノである。 この光景は南インドの都市の風景、ゴミが溢れ返ったモノに似ている。

グッタリと眠りにつく。夢を沢山みるも、皆忘れるであろう。

011 世田谷村日記・ある種族へ
七月二十四日

十一時過研究室。絶版書房交信60書く。「アニミズム紀行5」のエスキスの一部である。

ブルーノ・タウトのアルプス建築スケッチはタウトの率直な気持の表現であっただろう。タウトはヨーロッパアルプスの山容と建築の姿をファンタジックにダブラせていた。


絶版書房交信 ブルーカラーの谷川岳・センチメンタリストの穂高岳

そのタウトが亡命先の日本で書き残したエッセイ、桂離宮・日光、そして日本の住宅、等に関するモノは当時の日本建築界、それはとても小さな集団で構成されていたと思われるが、それに大きな影響を与えた。

アルプス建築のスケッチは大きな影響を与えたとはとても言えない。

エッセイとプロジェクトの力関係を考えるに実に興味深い。

しかも、タウトのエッセイとアルプス建築のスケッチには歴然とした違いが潜んでいると言わねばならない。エッセイは少なくとも言葉が組織化されたものだから、書いた本人の意が端的に表わされたモノとして受け取られやすい。スケッチはどうか。ここに表わされるのは形や色や記号らしきが組み合わされたモノだ。言葉とは異なる、いわば映像世界の産物である。

どう考えても、アルプス建築のスケッチと桂と日光への言説、ましてや日本の住宅へのそれが同一人物の手、頭から生み出されているとは考えられぬのだ。

どちらかに率直さが欠けている、あるいは嘘があるとしか考えられない。

この感じ方、考え方をもう少し突きつめると。これはタウトのエッセイとアルプス建築、又はタウトの実作との分離について考えざるを得ないし、又、より一般的に実作者(物質の)とその言説との関係に着目せざるを得ないのである。

更に、身近に私の実作と、アニミズム紀行の言説、メディアの関係となる。

それはさておき(自分の事はさておいて)、誰がどう考えてみても、タウトの日本での批評、エッセイと彼のスケッチを含めた実作とでは余りにも距離があり過ぎるのだ日本への過渡的な(一時しのぎの)亡命者としての言説、それは亡命という近代的現実を身体で仲々理解できなかったであろう当時の日本人の想像力の枠を越えていたモノであるのかも知れない。

ヒトラーに追われたタウトのヨーロッパでの現実、それは彼の民族的出自であり、彼の退嬰芸術的表現主義の態度であったろう。亡命者の不安、孤独、用心深さは我々には計り知れぬモノがあったに違いない。

その不安、細心さがタウトに受身の日本文化論を書かせたのかも知れない。

天皇は良くて将軍はどうも、の将軍はヒトラーであり、同時に日独同盟を結んだ日本の軍部への隠れみのであった可能性は充分過ぎる位にあるのではなかろうか。

その不安と細心さの産物としての諸々のエッセイが生み出された可能性だってあるだろう。タウトの亡命者としての境遇に思いをいたせばである。

その結果として、日本の文化的世界、特に小さかった建築界が、桂は良し、日光はどうも、となったとしたら、それは実に何とも言えぬ、歴史の産物としか言い様がない。

どうも、スケッチの方が正直じゃないか、と自分のサイトを眺めながら思うこと仕切りである。

言説は、この日記状のものであってさえも我ながら怪しいところがある。他人の眼が意識され過ぎているからだ。

アニミズム紀行の読者数は少ない。徹底的に少ない。それが狙いでもある。

そして、この日記状のモノの読者は多い。その眼を意識せざるを得ないくらいに。

とすれば、私の他人の眼に対する演技が一番少ないのはアニミズム紀行という事になろうか。

十四時半竹中工務店来室。十五時過了。世田谷村日記・ある種族へ11を書く。今日はこれから世田谷美術館へ出掛ける。

010 世田谷村日記・ある種族へ
七月二十三日

八時半世田谷村発。杏林病院定期検診へ。一度定期検診をスッポかしているからか、いつもの倍の血を抜かれる。若い女性係員に血を抜かれたが、まだ慣れていないらしく、血管への針が的外れになり、ベテランの方に交代して、今度は思い切り抜かれた。何の不満も無いが医療の現場の人手不足の反映だなコレワ。左手に打撃を受け丸いバンソーコーを2ヶ派手に貼りつけられた。

世田谷村からの出掛けに伊豆西海岸安良里のハンマに電話を入れた。おくやみを言ったら、「石山さんもソロソロですね」と相変わらずのへらず口をたたかれた。聞いたら亡くなった父君は八十五才だったと言う。私の父よりも 10 年以上長生きしている。それなりに充二分な人生だったのだろう。ハンマの口調からそう憶測した。藤井晴正は今、五十一才。

「あと、どれ位漁はやれるのかな」

「来年、船を大メンテナンス、改造か新造しなくちゃならないから、来年が勝負だ」

これならアト十五年は漁師の現役、船長業もやれるなと思った。であるから必然的に私もアト十五年現役でやる事になる。ハンマにゴミ老人などと言われたくないからな。病院は老人病人でそれこそいっぱいだから、そんな、こんなを考えるのであった。

十時半主治医の検診。数々のデータを見て、「酒やってますね。ジロリ」であった。確かに目玉からジロリの音が出た。オー恐。止められれば本当に世話は無いのは重々承知なのだが、まったく愚かで、意志薄弱なのだ。

ハンマの父君に何とか線香だけでもと考えて色々とジタバタした。今日の予定だと考えていたのが明日だったり、日付と曜日がバラガタなのであったりの間抜けもした。今日真夜中に出て早朝安良里、明日昼過ぎ東京戻りのスケジュールを立てて、とり敢えず明日午前中に入れていたM0ゼミを今日の午後に分割して入れ替えるスケジュールを作り始めた。十四時過ぎ研究室。ウェブサイト、チェック。十五時前アベルと打合わせ。ほとんど何も進行していないので流石にどなった。久し振りである。どなっても、アベルは馬耳東風です。だから又も怒鳴るのです。アベルがラテン民族であるからだけではなく、人間は皆シビアーと思えるような話し合いをしていても、聞きたい事を優先して聞き、聞きたくないことは聞いていないのだ。考えてみれば私だってそうだからな。

やっぱりというべきか、昨夜アベルに頼んでいた事を全部自分でやった方が早いという、いつもの定理に又も辿り着き、スケッチして寸法を入れ、アイテムを作り、見積り依頼書を作成させられてしまった。良く良く考えれば、又もや、私はアベルに働かされてしまうのである。ラテンは凄いな。廻りを働かせるからなあ。

M0ゼミ十六時より。明早朝安良里に行く積りで頑張った。修了後再びアベルとミーティング。結局全部仕事をやらされてしまう。泣く子とアベルには敵はないのである。打合わせをすればする程私の仕事量が増えるのである。大した奴だよ。

十九時近江屋で一服する。アベルの、石山よ働けよ、仕事せよのまじないから離脱する為である。二〇時半世田谷村に戻る。何故か疲れる。グッタリである。このまま安良里迄の四時間走行はキツイと判断する。これもアベルののろいなのである。という訳で全てをアベルのせいにして、真夜中の伊豆西海岸安良里への走行をあきらめようとしている。年齢なりの判断であろうか。

七月二十四日

六時起床。内田祥士さんから送って頂いた「東照宮の近代・都市としての陽明門」ペリカン書房 4800 円+税、を読み始める。仙台で落手した五十嵐太郎+菅野裕子著「建築と音楽」NTT出版 2800 円+税、と共に今週末には読破したい。内田祥士の著作は、近代建築の継承、モダニズムデザインが高等教育に属するシステムによって成されたものであり、現代の検索による情報の情報による自己教育、学習の時代には適していないのではないか?つまり情報の時代の継承の本意とは何かというような直観によって書かれたものではないか、の勝手な印象があるが、読破後感想を述べる。

009 世田谷村日記・ある種族へ
七月二十二日

十一時過研究室。サイトチェック。雑務。十四時インタビュー。十五時半迄。情報・映像空間について。学会情報映像部会。アベルとチリ建国二百年祭打合わせ。二〇時過迄。スポンサーシップに関してのつめ。アベルの日本語能力と私の英語能力がほぼ同等レベルでらちがあかぬ。そしてチリはスペイン語圏なのだ。二〇時半近江屋で夕食、二十二時過世田谷村。

伊豆西海岸安良里の漁師のハンマ、本名藤井晴正の父君が今朝亡くなった。ハンマの家は私の研究室が設計した( GA JAPAN に発表)。伊豆西海岸の近海漁業者としては、殆ど唯一頑張っていた。第五八宝幸丸のオーナーであった。海の男の、風と匂いのしみついた立派な方であった。父君やハンマ兄弟の如くの働きによって、実に我々はまだかろうじて魚らしきを喰べられているのだが、その現実を我々、都市の消費者は知らない。

農業従業者の平均年令が六〇をとうに越えている現実もあまり知られていない。さらに宝幸丸のようにオホーツク海、つまり北洋に迄出掛けての近海漁業の現実も皆知らない。オイルの値より、乗組員の高齢化の現実が農業以上に深刻なのも我々は知らない。本当に何も知らないのだ。

恐らく毎日のように食べている筈の魚、あるいはその加工品が何処で、どうして獲られ、加工されているのかをまるで知らないでしょう。実に危険で、おろかな事でもあるのですよ。一九五〇年代迄、すなわちたかだか半世紀前の東京、及びその近郊では、魚はアイスボックスに入って自転車やリヤカーで運ばれ、行商の如くに売られていた。売る人はその魚が何処で何時獲られたモノであるかを知っていた。尋ねれば答えられた。

一九八〇年代に街から魚屋さんが姿を消し始めた。それで主婦が魚をさばく技術を失った。同時に魚の一次情報も手に入らなくなった。二〇〇〇年あらゆる魚は、その流通経路を、それを日々喰べて身体内で消化、血肉化している筈の消費者の手から完全に離れた。

ソマリア沖の、我々が、そして日本政府が海賊と呼んで軍隊を派遣している、その現実は海賊ならぬ、漁師達でもあるようだ。現場で確かめたわけではないから、全て二次情報による。魚場を奪われた漁師が、それ故に海賊行為に走っている部分があるらしい。ソマリア近海は世界的な好漁場なのだ。そこに世界の漁業者達が集結して、漁をする。どっちが海賊だか知れるモノではない。

ハンマの船はキチンと個人スケールの事業体としてやっていたから、大変な父君の努力もあったろうし、その漁は圧倒的に清冽なものであった。まさに漁業者であった。毎年、秋に獲れたての三陸沖からのサンマが宝幸丸から送られてくるのは、実に私のささやかなぜいたくであったし、いい漁師を知り合いに持つ者の自慢でもあった。 まとまりの無い文となってしまったが、心よりの追悼文としたい。格好良い男だった。

ハンマ一家、宝幸丸一家がいつ迄、我々の為にキチンと魚を獲り続けられるのか知らない。大変なエネルギーと努力をすでに要している筈だ。

ハンマの胸の中ではキット、ソマリアの漁師達の哀しみ、辛さが良く解っているのではないかと勝手に想像している。

七月二十三日

四時半起床。藤井晴正の亡くなった父君への小さな追悼メモを記す。藤井一家も、ある種族の典型である。今日が通夜で、明日が告別式なのだが、どうにも抜けられぬ用、今日は世田谷美術館の私の展覧会の一周年パーティ、明日は大学院の入試面接なのだ。許せハンマ。西に向けて手を合わせる。

伊豆西海岸の親友森秀己にハンマへのことづてを頼んだが、心にオリの如くがよどんでいる。本当は行かねばならぬのだ。でも、今日の義理も重いのだ。申し訳ない。

008 世田谷村日記・ある種族へ

ある種族というのは、とてもシンプルに言えばこの日記を読んでいる読者という事だ。複雑に言えば・・・これは絶版書房を読んでいる種族である。絶版書房の読者は種族と、敢えて文化人類学、民俗学分野の用語を使って呼ぶに相応しいのだが。

日記は読んでも、絶版書房の出版物は読まない人間も、それはそれは多いからな。ただし、これは私自身の力不足が原因であるから、日記と絶版書房活動を少しでも結びつけたいと考えたのです。

七月二十一日

北海道十勝のヘレンケラー記念塔のオーナー、後藤健市氏よりメールが入り、ヘレンケラー塔の周囲に「水の神殿」のシェルター部のようなモノを建てたいという事であった。

灯台もと暮しとは良く言ったもので、それは面白いアイデアだと考えた。早速どんな事が出来そうか考えてみる。

七月二十二日

七時起床。今日は皆既日食だそうだが、東京は生憎曇天で雨も降り始めた。

向風学校の安西直紀はたしか奄美大島の方迄、日食見物に出掛けているらしいが、恐らく天候には恵まれていないだろう。

行動力の衰えた高齢者のボケ発言だと自覚して、それでも敢えて言うが、南島迄、敢えて皆既日食を見学に出掛けるというのは、私には良く解らない。皆既日食は見えるゾーンも時間帯も、地球上の全ての地域に、すでに予測されている。科学技術とさえ呼べぬ位の技術によって。つまり未知のモノは無いと言える。東京の何処かビルの最上階あるいは地下で、恐らくは世界の何処かからの晴天ライブ放送もやっているのではないか。そちらの方が私には行くのだったら面白いのではないかと思われる。

今日は遂に原稿を書けなかった学会のモノに、インタビューに切りかわったのでフォローしなくてはならず。その準備に朝いささかの時間を費やす。

007 世田谷村日記・ある種族へ
七月二〇日

昼、大学へ。大学院入試採点。十四時了。サイトチェック。日記、他のスタイルを変えて、反応はどうなのかの数字が手許にくる。十五時過世田谷村に戻る。

アニミズム紀行5を書き始める。書き始めには仲々のエネルギーが必要なのだ。二〇時迄やって小休とする。

ここ数日、定期購読している新聞だけでは何故か物足りないという直観があり、駅の売店迄出掛けて数紙を買ってきて、大方の新聞を読み比べてみた。

学生達はすでに雑誌や本をほとんど読まない現実を知っているのだが、コンピューターの情報はある意味でとても平板で深み、あるいは細部らしきが一切無いのも知っているので、新聞活字はどうなっているのかを知りたいと考えたのだ。

一.ネット、二.TV、三.新聞が今、現在の情報のインフラ・ストラクチャーであろう。この順序で。三の新聞のポジションが高過ぎる様な気もするが、新聞もTVも人材としては多くが重複しているのが現実である。つまり、日本に於けるTV情報の多くは新聞記者達によって生み出されていると考えられる。

特に日本の民放の現実はそうだろう。外国(中国を含む)の現実は知らない。BBC、CNNといったグローバルなキー局の放送内容と、日本のそれとはニュースレベルでも著しい相違があるようだ。

例えばサミット等の日本の政治家に対する素っ気なさ等を視ていると、世界の情報と、日本でローカルに流れている情報との差異を実感してしまう。でもこの現実を否定する事はない。良い事かもしれない。

更に新聞毎のモノの考え方が実に違っているのを実感する。一ヶ月に一度でも、特に政治的と思われるような事件が起きた時の対応がまるで異なっている。

朝日、読売、毎日、日経、産経。東京、各紙ともに書いている事、特に記者達の主観が入っている部分、それは現実には実に多くの部分に反映されているのだけれど、これが見事なくらいに皆別世界なのである。デスクのチェックを経てもそうなのだ。

この現実を知ると、新聞を定期購読する場合には一週間毎に、その種類を変えた方がよろしいのではの結論に辿り着くのだ。

うちでは一ヶ月毎に変えている。やはり、新聞は読めば影響されるから。ニュートラルに自分で判断したいと思えば、それ位の事はした方が良いのでは。

TVを視る価値は、ニュースキャスター達の意見を避けて視る時だけだろう。あの意見のほとんどは新聞記者のモノである。民放は特にそうだ。チャンネル毎に新聞社がついている現実もある。

情報も又、市場を歴然と構成している、その現実を直視する知覚をそれぞれが持たねばならぬ、それだけ冷徹な社会、歴史に突入している。

ネットへの対処法に関しては、まだ解らないと言うしかない。どうやら、神は細部に宿る、は情報に関しても言えそうだ。

006 世田谷村日記・ある種族へ
七月十九日 日曜日

昼過ぎ、新宿高島屋小松庵でN氏と会う。「水の神殿」他の発表の件、その他諸々である。N氏は今、フリーのエディター、ライターである。私とはもう三廻りくらいの年令差がある。

物体に限らず、情報も含めて作り出そうとする人間にとって、つまり私の事である。そういう者にとって、現在の既存メディアの風潮がどうなっているのかを知る事は初歩的な事である。かつて私はそれらの風潮、つまり風の具合は何人かの友人達から聞く事ができていた。その多くは編集者達であった。

雑誌「室内」編集・発行人であった山本夏彦氏、毎日新聞編集委員佐藤健氏はその最たる情報源であった。

情報源といっても、あの新聞・雑誌の売行きはどうかの下世話なもの計りではない。

世間の風の機微といった様な事も学んだ。

山本夏彦氏は辛口コラムニストとして私の文章書きの師でもあり、文章読本の類の本を何冊か送り届けられたりもした。これは叱責であると気付いた。

氏には沢山の著作があり、全集もある。モノ書きとしての地歩は築いた人物である。しかし、氏の真骨頂は発行人、すなわち経営者でもあったところにある。

雑誌は広告収入が重要であり、氏の広告主に対する心配りは大変なモノがあった。卑屈ではなく、山本夏彦らしくそれをやってのけた。晩年の「ハウスメーカー批判」だって、氏の主催する雑誌に、ハウスメーカーの広告の比重がほとんど占めていなかった計算も当然あった。

そして、広告は「ほとんど詐欺の如しだ」は氏の信条でもあった。

昨今の政治のゴタゴタ状態を眺めていると、政治家達の大半は、マニュフェストとは公約であり、それを上手く大衆、すなわち読者に伝えるのが政治技術の初歩である事すらも知らぬ人々なのではないか。山本夏彦がもし、官房長官なり、幹事長をやっていたら、すごい悪人味を出していただろうな、なんていう途方もない白昼夢を想い描いたりする有様ではあった。

武林無想庵と共に幼少をパリに過ごした山本は、パリ時代の事をほとんど語っていない。語らぬ何かがあったに違いない。

小林秀雄の小文に「無私の精神」があり、小林はそこで黙して語らぬ実行家の姿を一つの現実像の如くに描いている。

発行者としての山本夏彦氏にはその実行家の面影があった。

いつか近い日に、死んでしまった山本夏彦に架空インタビューでもしてみたいなと、仕切りに考える最近でもある。

毎日新聞記者の佐藤健は、まったく早死にであった。六〇才になった計りで癌に倒れた。酒の飲み過ぎが因であった。

私のアニミズムへの今の焦点の当て方は、実に佐藤健の遺産とも言うべきものである。「宗教を現代に問う」で菊池寛賞を受賞した佐藤健は、書くテーマを持つジャーナリストとして実に大きな才質の持主であった。

幸いな事に、私は彼の最後の旅に同行する事ができた。

日本仏教界の支援を受けて、彼のライフワークになった「阿弥陀が来た道」の取材で、シルクロード、敦煌の旅に出掛けた。恐らく彼は死を覚悟しての旅でもあったろう。

同行した杉浦康平氏(デザイナー)は「健さんは今、気力だけで旅してるんだ」とつぶやいた。

その憶い出はまだ書くべきではない。光は西方よりという、つまり阿弥陀というイコン、光のイコンは、はるか西方、ペルシャからやってきたに違いないの彼の死に際の直観は、そのまんま不思議にも、私に受け継がれたのである。

であるから、アニミズム紀行の最終目的地も自然にそうなるのである。

そんな意味では、佐藤の霊は私へと住み処を変えたのであろう。アニミズムの極は死者を懐かしむ、死者の総体とでも呼ぶべきモノ、すなわち歴史に愛惜を痛感し、自分へと受肉化するってえ、事だからな。

と、山本夏彦交じりの啖呵を切ってみたところで、山本夏彦の霊らしきからも、当然、影響を受ける。受容するという形式の中で、私奴にも受け継がれているのである。

「年を経たワニの話し」L・ショヴォの訳者としての山本夏彦、これは恐らく武林無想庵とのパリ生活の成果である。

L・ショヴォのこの小説との出会い、発掘、訳をやってのけた山本の多くの著作の通奏底音に流れるのは、この詩情とナンセンス、つまり、アニミズム的世界観なのである。

L・ショヴォの「年を経たワニの話し」はエジプトのナイル河から、確か世界へ、アラビアの紅海辺りの話しであったと記憶しているがここらがアニミズム紀行のどんずまりではなかろうか。

アニミズム的感性はヨーロッパにも無い訳ではない。その事にいち早く気付いていたのであろう一人が坂口安吾であった。

風博士などのファルスと日本近代的に薄ペラに解釈される以前に、坂口安吾近代感性の中にはL・ショヴォを感受する才質が明らかに秘んでいた。

小林秀雄程の知性がそれを知らぬ筈がないのだが、小林はやっぱり東大仏文でモノを学んだからその枠を逃れる事に不自由だったのだ。小林秀雄の感性は、その初期の小説試作のいくつかを読んでみても、やはり仏文学を学び受容する世界から、自由ではなかった。小林は余りにも、そういう歴史に意識的であり過ぎたのかも知れない。だから、ランボーであった。

何の根拠も無いのであるが、山本夏彦は夏目漱石に批判的であった。漱石のロンドン留学を自分のパリ生活と赤裸々に比較して、漱石はノイローゼになり、下宿にこもり切りだったと言った事もある。よく聞かされた。時期はズレていたかも知れぬが南方熊楠のロンドン生活と比較すれば、そのことは歴然としている。

山本夏彦が今に生きていれば、私は度々、その声を聴くのだが、

「アナタ、アニミズム紀行なんて、およしなさい。アッチの世界に行ってしまいますよ」と忠告するに違いない。

「でも、山本翁、アナタは生きている時から陰々滅々とした幽霊みたいな人じゃありませんか。生きている人と、死んだ人の区別が今の私にはあんまり、無いのです」。

マ、そんなところで、無駄なエネルギーは打ち止めとするが。

要するに、私のアニミズム紀行は「年を経たワニの話し」と「阿弥陀が来た道」を下敷にしているのは確かな事である。

005 世田谷村日記・ある種族へ
七月十六日

午後、K商事+深層地下水研究所、大雪山系深層地下水の件で動く。「水の神殿」が出来て、その発表をどうするかを考えなくてはならない。建築ジャーナリズムに発表しても何になるんだろうと思案する。が、かと言って適切なメディアがあるかと言えば、そうとも言えず、考えは空廻りするばかりだ。

要するに水に取り組んでいるのだが、研究室の果たせる機能はデザインが中心だ。しかし、デザインを世に知ってもらいたいと考えをつめてゆくと、その境界線があいまいにならざるを得ない。どうやら自分自身の身の置きどころが揺れているようだ。デザインを突きつめてゆけばゆく程デザインの外に踏み込まざるを得ない。

対社会的なプレゼンテーションを、研究室を軸にしてやるのは無理があると判断した。安西君に任せてみようと考えた。大雪山系深層地下水の、対社会的プレゼンテーション、気取らずに言えば広報・販売活動である。日本で最良質の飲料である深層地下水をいかに世に知らしめるか。どうやら石山自身の能力だけでは出来そうにない。私には庭園のデザインは可能なのだが、本体の水そのモノの情報デザインらしきは充二分には出来ない。

何故なら、モノにこだわり過ぎる資質があるからだ。「水の神殿」および深層地下水にこだわり過ぎて、情報としての価値として突き放す事をやりづらい。

良く知る他人に一度ゆだねてみるのが一番だ、と気付いた。安西氏と顔つき合わせて、相談した。やっぱり明快な筋径は浮んでこない。そりゃそうだ、そんなに簡単なモノではない。簡単じゃないところが面白い筈なのだ。しかし、彼が動くキッカケだけは作り出す必要があるだろうな。

七月十七日

何となく、北海道深層地下水メディア化、販売の入口が視えてきたようだ。今日中に形にしたい。

004 世田谷村日記・ある種族へ
七月十五日

八時二〇分ホテルロビーで「アトリエ海」佐々木氏、渡辺君と集合。三〇分K社長に車でピックアップされる。「水の神殿」へ。あいにくの雨である。しかし、雨も良しと考える。九時過音更町「水の神殿」着。土盛りが少し雨で痛んだが仕方ない。大自然のやる事には従わざるを得ない。写真を若干とるも、やはり上手くとれない。

十時、竣工式、お披露目の会開始。K社長あいさつ、私も小スピーチ。深層地下水研究所・ルプチュプ、I、W両氏とおしゃべり。面白かった。皆それぞれに、それぞれの世界があるもんだ。実にたのもしい。北海道ホテル宴会部の用意した飲物、ケーキ、サンドイッチ、K商事心尽しのキノコ料理に舌つづみを打つ。七〇名程の人間が列席する。

ゆっくりと洞内に居ると、何故か不思議になごむのであった。着なれた服を着てる感じだ。5年程経って、草木が土手に育った時は本当に良い風景になるだろう。

十一時過、名残り惜しいが、K社長と共に去る。十二時前帯広競馬場近くの、昨日と同じジンギスカン料理屋「北海道」へ。佐々木、W両氏と昼食。

十四時、K社長夫妻来店するも、お別れ。帯広駅で佐々木氏を見送る。渡辺君と二〇時迄、なすすべもなく、雨の帯広でボー然とする。もう腹一杯で何も入らぬ状態なのに、駅前の元祖豚丼屋へ。無理矢理豚丼を食す。その後、駅ビルをブラブラしたり、何だりして、つまり何もしないで十八時前日航ホテルのロビーで休む。十勝毎日夕刊一面に、早くも「水の神殿」写真入りの記事が出ていて驚く。

十八時過バスターミナル。十八時四十五分発のバスで帯広空港へ。二〇時二〇分のJAL最終便で東京へ。揺れた。天候は上空でも変化して、従来の地球の保全システムとはズレ始めているのだろう。大体北海道に梅雨は及ばぬ筈だった。6月7月は北海道は実にさわやかな季節であった筈だが。北海道の方々も皆一様に驚いているようだ。

機内で「水の神殿」のルプチュプを飲む。今日は沢山水の話し、大雪山系の地質の話しを聞いたので、実においしかった。 ちなみにペットボトルの持込みに関しては帯広空港には新しいペットボトル検査機が導入されてOKとなっていた。

二十二時前羽田空港着。二十三時四〇分世田谷村に戻る。東京は暑い。北海道と十度Cの差があった。

そうか、富士山よりも大雪山系の山の方が地質学的には大きいのか、骨格がしっかりしている、つまり山系の広さがまるで違うのか、今日は勉強したなと、思いつつ、ブッ倒れて眠る。

003 世田谷村日記・ある種族へ
七月十四日

十時半羽田空港。十一時過帯広空港へ。機内でアニミズム紀行5のエスキスを始める。原稿のエスキス、つまり構想らしきは自分には殆ど意味が無いのは知り尽くしてはいるのだが、描き始めるエネルギーがまだ熟していない。どんなに章立てらしきシナリオを理路整然と立てても、いつも書き始めてみると、手で書く速力と頭の速力とのギャップらしさがそれを無茶苦茶にしてしまう。今のところアニミズム紀行5は庭園巡りの形式内で書いてみたいとは考えているのだが、書き始める前から、面白くなさそうだの直感があり、それで手がつかぬのだ。

十二時半津軽海峡を超えて北海道上空にさしかかる。雲は多いが晴れているようだ。帯広空港十三時前着。ヘレンケラー塔オーナー後藤さん迎えて下さる。帯広駅で仙台よりのアトリエ海佐々木所長をピックアップする。ジンギスカン料理北海道へ。たっぷりいただく。

十五時過音更町「水の神殿」K 社長と会う。まだ土が荒々しく草も生い茂っておらず、意図した状態とは違うけれど、荒々しい面白さがあった。木の神殿部分は良くできていた。周囲の土手に草が茂ってきたらとても良くなるだろう。掩体壕ドーム内の仕上がりは、中心のコケ庭もうまくおさまっていた。全体としては私の作ってきたモノの中では実に独特な位置のモノになったと思う。

アニミズム紀行の旅の途中の成果としては満足したい。秋には良い状態になるであろうし、一年二年先には草や雪におおわれるであろう。

十六時過帯広駅前のホテルで休む。

十八時歩いてカニ大将に集合。後藤氏が作った店である。坂本和昭氏加わる。坂本、後藤両氏は帯広名物「北の屋台」の創始者である。

坂本氏座興でマジシャン振りを披露する。002で記したが、マジックは呪術の始まりでもあり、言ってみれば宗教の始源らしきの水源のひとつでもあるようだ。一同ホトホトに感心する。氏は坂本ビルの上階にマジック資料室まで開設したと聞かされる。

マジックも面白かったがネットでの情報交流の話しも興味深かった。マジシャン同士のネットでの交流でマジックのネタが売買される事もあるという。呪術交信だな。いかにも現代であると感心してしまう。

北の屋台は超満員で路地にも入れず、道向いのワインバーに梯子する。二十三時頃、ホテルに戻る。北国は何故かさびしいな。

七月十五日

六時半起床。良く眠った。北海道は今日は終日雨のようで、気温は十九度だそうだ。東京は三十四度のようだ。小さな島国日本列島ではあるが気候は地勢をこえて複雑だ。多過ぎる人口と様々な無策により国土そのものの自然条件も随分変化してしまっているのかな。ノアの方舟が必要な時代になっているのだろうか。

002 世田谷村日記・ある種族へ
七月十三日

昼過、スタッフと新大久保近江屋で打合わせ。この近江屋というガード下のソバ屋みたいな店は、死んでしまった友人佐藤建に教えられたソバ屋だ。

「生きる者の記録」という自分が死ぬ迄のドキュメントを新聞紙上に発表した記者佐藤建は俗にいう美食家ではなかった。いわゆるグルメと呼ばれるバカではなかった。キチンとソバにはソバの普通極まる生活からの価値観が生み出す、当り前の値段らしきがあるのを知っていた男だ。

モリそば一枚千円だの千五百円だのの理不尽さを知り尽くしていた。それで奴はこの近江屋と言う駅前ガード下のソバ屋らしきが並々ならぬ味の店である事を知っていた。

何年も前には、近江屋にはダッタンと呼ばれる品目があった謂わゆるせいろソバに大根おろしがたっぷりとそえられ、それはそれは上味のモノであった。奴は、この店だけだぞ、このダッタンそばはと声をひそめてオレに言った。そのダッタンはたしか、七〇〇円であった。近くに職場がありながら、私はこのダッタンと、この店を知らなかった。

「ここの味は、カナリのモンだぜ」

と彼は声をひそめてささやくのであった。

であるから、そのささやきのお蔭様をもって私は奴が死んでしまってからは、余計にこの店に寄ることが多くなってしまったのだった。しかし、何故か今はダッタンはメニューから外れている。うまいモノはコストパフォーマンスが上手にいかないのだろう。当り前だ。味なんてものは他人が断言して、それで初めて価値が生まれる位の、実にいいかげんなものでもある。

さつまあげ四百円が今やこの店の一番のおすすめである。他はだし巻きタマゴか。それと八百円なりのセイロだな。何しろ、普通のソバ屋らしきを保ちながら、最良質の味を供する店であるのは確かである。

ちょうちょうが一羽 だったん海峡をこえていった

だれの句か忘れたが、今はもう喰べられないダッタンと、会うことのない友人を必ず想う。私にとっては、だから近江屋は一種の呪術的場所なのである。唐突だが定型短詩である俳句には色濃く呪術的性格を帯びざるを得ないモノがあるのだ。

レヴィ=ストロースは呪術は人間の行為の自然化であると考えたようである。

ちなみに呪術という語は magic の訳語である。古代ペルシャ語で祭司、呪術師をあらわす magus に由来する。日本古来のマジナイはこれより派生した。

七月十四日

六時過ぎ起床。今朝は「水の神殿」の竣工式で北海道に飛ぶ予定である。十勝の地域プロデューサー後藤氏にも会えるだろう。様々な可能性を探ってみよう。

昨夜は月下美人が一輪咲きほころび香りを室内に漂わした。富士ヶ嶺造園からもらってきた風蘭の香りはこれとは違う実にひそやかな香りをかぐわせている。風蘭は洋蘭にあらず、日本固有の和蘭だと言われているようだ。草花の世界に日本固有の種があるとは思えないが。九時発羽田へ。

001 世田谷村日記・ある種族へ
七月十一日 十二日

両日共に動き、そして潜航する。世は選挙風が吹く日であった。

世田谷村日記のスタイルに再び小変更を加える事を決断する。R○○○のRは Rebirth の意を込めたRであったが、本日よりそのRは取る。読者にとって全く意味がないものであったので。

両日にわたるいささかの考えの末に絶版書房の「アニミズム紀行」計画をより解りやすいモノにいしてゆく必要を痛感する。これは世田谷村日記の中に組み込んでゆくのを決めた。今のままのスタイルの世田谷村日記ではハッキリ壁にぶつかっている。その壁はすでにこの日記が自己矛盾の中で自動表現されている事、そのものであるのにつきる。

私事の如きをネットで公開する。

良く良く考えれば、毎朝何時に起きて、何時に休んだか等は公開する意味が全くない。わずかに意味があるとすれば、早朝起床して私事であって私事でなきが如き、すなわちドローイング等の、いずれ発表、公表するのを意図した作業をした時でしかない。あるいは本を読んだりしたら、読んでその感想をメモする事で、その本が在る事をわずかなりとも知らしめる意味はある。

他の全くの私事は公開する意味が見当たらない.畑をやったり、収穫したりの公開は意味がある。それは読者の皆さんにも、それをわずかながらでも、すすめているからだ。

余計なお世話はこれは性根なので、もう直らない。

で、結論として世田谷村日記と絶版書房のアニミズム紀行の表現活動とをMIXしてみる事にした。

アニミズム紀行の出版は私のライフワークである。その当否に関する迷いは昨日一昨日にようやくにしてふっ切れた。実は迷いに迷っていた。「開放系技術」の軸も捨て切れなかったからだ。しかし「開放系技術」の軸はアニミズム、すなわち「モノ深く」への径に包含し得ると実感した。

世田谷村日記に「モノ深く」への旅、この旅はアニミズム紀行のエスキス、断片の羅列になるだろうが、それを、ともかくとも、並走させる事にした。

「モノ深い」というのは民俗学の巨頭の一人である柳田國男の表現であるが、その事はおいおい記してゆく積もりだ。アニミズム紀行4は昨日ようやく最終稿のチェック、及び目次の設計を終了した。

アニミズム紀行4のタイトルは、「今、何故アニミズムなのか」

一、アニミズム「ゲート1」

二、宮本常一と川合健二

三、大湯屋

四、光、宇宙船、都市、時間の倉庫

五、ある種族へのアニミズム「モデル1」

ようやくにして、アニミズム紀行4において表現形式の骨格のイメージが浮かび上がってきたと思う。

表現と技術に関して言うならば、技術に対する考え、経験、体験抜きにあらゆる表現はあり得ない。

例えば、日々、ネットに日記状のモノを公開し続ける事に関しても、少なからぬ様々な技術、技能は必要である。

そこ迄言わずとも、技術は必須である。しかし表現したい、モノを介して表現したい。しかも、「モノ深く」というアニミズムの中枢を大事にしながら、それを軸にすれば、再び言うが「開放系技術」の体系構築への意志は内にくるみ込むことができると、確信するに至った。

選挙の報道のスピードとエネルギーに負けそうになり、このメモも何やら政権公約の俗な風にまみれたモノになってきてる。

短く切り上げたい。

目次の構成で考えたのは、第V章のタイトルに「ある種族への」を付け加えた事に集約されている。

考え続け、表現し続けようとしている事は、いわゆるグローバリズムの巨大な流れとは明らかに異なるモノである。それは意識している。せざるを得ない。

それを意識すればする程に、それだからこそ「ある種族への」となるのだ。今、考えている事、やってきた事の総体は明らかに、普遍を幻視してはいるが、すでにある種族としか呼びようのない人々に対する、同族としてのモノからのメッセージなのだ。

R349
七月十日

H氏と共に中央高速を富士ヶ嶺へ。途中鳴沢で休み、おにぎりを2つほおばる。十時前富士ヶ嶺着。空気が上味だ。都心から一時間半程で、都心の気温と7度程の違いがある。

富士ヶ嶺観音堂を見て廻り、中で休む。空気の清浄さが建築を清々しく保っている。

午前中、外で作業をしていた富士ヶ嶺のオヤジさんと連絡がようやく取れて、観音堂の西の大地で話し合う。

私にとってはこの富士ヶ嶺での計画はこの観音堂建設後も続行している。富士ヶ嶺のオヤジと取り敢えずはあいまいに呼んでおくが、このオヤジさん、社長との附合いもいささか長くなった。そろそろ種マキの時期を終えて少しずつ収穫の時期に移らせたい。今日はその話でここにやってきたのである。

山頂に雲がかぶった富士山を眺めながら、その大きな風景と比較すれば、随分小さな話であった。

何とか進めたい。

オヤジの荷車の助手席に乗って、富士ヶ嶺の巨大温室へ。何度も何度も足を運んだところなのだが、ここの可能性の大きさへの大筋の考えは微動だにしない。より広く仲間が必要だな。

十五時、用件を終えて、富士ヶ嶺を去る。十六時半東京着。

H氏と少しばかりのおしゃべりの後、別れる。

七月十一日

七時前起床。昨夜は我孫子真栄寺の馬場和尚と長電話した。

R348
七月九日

正午、暑気払いにラッパ吹きの坂田明に電話する。一年振りの会話であった。

「最近、北海道行く予定あるの」

「九月になったら北海道一周ライブやるよ」

昔、坂田明は十勝がかなり気に入っていた事があって、別荘ならぬ音のアトリエ迄、スタジオって言うのかな、を持っていた位であった。そのスタジオは少々低地にあり過ぎて、川の増水等に悩まされ、又、地主の余りのアメリカ西部劇スタイルの無神経さに逆なでされた挙句に手離したのであった。

私奴も泊めてもらった記憶があり、その時の事は「夢のまたゆめハウス」(筑摩書房)に記してある。その際に坂田明からアイヌの人間達を紹介された。

その時の記憶が今度の北海道音更町の「水の神殿」庭園の柳の木の使用他につながっている。

それはとも角・・・坂田明には義理があるのです。

「それでは、その九月のある日に音更町の水の神殿の洞穴で、坂田明ライブやってくれんかね」

「ウーン。スケジュールがかなりタイトだから難しいかも知らんな。帯広の連中にも迷惑かけられないしな。その後、網走にすぐ廻るからなあ」

「ア、ソー。マ、無理は言わんけれど、又、連絡するから、アッ、それからね、最近あなたは非常に評判よろしいようですナ」

「マ、歳を取ってきてますからな。それ位の事は、ウーン、あるでしょうな。ウヒヒヒヒ」

「音といい、人格といい、大変、登りつめて成熟の域に達してるって評判ですぞ」

「イヤハヤ、マ、マ、それ位にして、北海道、他の件、考えておくよ」

「頼むぜ、では又」

そんな、こんなで九月に良い「水の神殿」のお披露目ができるかも知れない。まだわからない。

それはそれ、水とミジンコは切っても切れぬ縁があるではないですか。

七月十日

六時起床。風が強い夜であった。七時半富士ヶ嶺へ発つ。富士ヶ嶺造園のプロジェクト進展させる。

R347
七月八日

色々とやりくりして、結局十一時渡辺君世田谷村に。十一時過世田谷美術館。N氏に頼んでメキシコ美術展を再見する。オープニングセレモニー時とは異り、程々の人の群の中でゆっくり観る事ができた。

もう一度観なければならないという直観を信じたのだが、じっくりと観ても良く解らないところが多いのであった。

その印象は二〇〇九年現在のメキシコが地球上で置かれているポジションの薄さとでも言うべきモノから来ているのだと思う。

私の研究室OBのホセ太郎のメキシコ・シティでの活動や、彼の「ドリーム・ハウス」と名付けられた労作映画のリアリティーと比較すれば、このメキシコ芸術作品の展示群は、アッという間の化石群になってしまっている様に思うのだった。

ホセ太郎の制作した「ドリーム・ハウス」が示し得ているのはメキシコの徹底的なアメリカ従属の現実であった。今度のメキシコ芸術展を視て痛感するのは、ホセの眼の鋭敏さであった。メキシコはその内的な文化的資質、あるいは想像力そのものの深化作業を職人の如くにやり続けなければ、メキシコ自体のツールを失う事になるであろう。

そのような視角から眺め返してみると、私にはルフィーノ・タマヨ自画像くらいしか視界には入って来なかったのである。

十二時半N氏と共に近くの青物市場の食堂でメシを喰う。久し振りの青物市場食堂のメシは非常に美味であった。美術館のレストランはかくの如きでありたいと思うが、このテーストをほんの少し良くみせる術、すなわち美術が必要なんだナア。

十三時半、三崎のN氏宅へ向う。十五時着。残念ながら、ゆきちがいがありN氏月光荘不在。少し待ってみるかと、三崎の魚市場で魚を買ったりする。結局N氏には会えず、十七時世田谷村近くの宗柳で渡辺君とグデグデと話す。

N氏より連絡入り、マ、仕方ないな。又すぐに会いましょうという事になった。十八時半了。渡辺と別れ世田谷村に。変な、非効率的な一日であった。

若い時の無駄な黄金である時があるが、年を取ってからの無駄、空白はいささか辛いモノがあるね。明日は何とか取り返したい。

ところで、渡辺君の報告によれば、今日で、大半の北海道音更町の「水の神殿」の工事が修了した。

深層地下水研究所発のケイタイ・メール便の映像で見れば、詳細は不明であるが、一応出来上っている風体もある。

「ひろしまハウス」以降の石山研の気持の入った建設物でもあり、満足、不満足にかかわらず、メディアへの発表をキチンと計画しなければならない。

GAのS氏に連絡。又、同時に淡路島の山田脩二にも連絡して、発表メディアを考えてくれと頼む。山田いわく、「活字メディアは今はないでしょう」との事であった。

今日、明日でメディア戦術、戦略ではない戦術であるを考え突めてみる。勿論、自分のところの絶版書房ではメインに、アニミズム紀行として、フィーチャーする予定だが、より広く、多くの人間に知ってもらう努力は桁外れに必要であろう。

二〇時前、東北一ノ関ベイシーに電話するも誰も出ない。当たり前だ。今日はベイシーの定休日なのだ。しかし、それを解っていても電話するのも、人情なのである。かつて山本夏彦さんが夫人を亡くされて誰も居ない自宅に電話する話しを書いておられた。菅原正二は、ピース&ラブっていうのは日本語に訳すと、義理と人情であると言う、実に私は、そうだなあと納得するのであある。馬鹿である、実に。

中里和人にも写真とってもらうのもいいな。と思いつく。もう、どんどん思い付きたい

R346
七月七日

六時起床。「設計製図のヒント」書く。農と食の学校の設計課題への東北大学生達の成果へのクリティーク。

九時半発。十時三〇分研究室。サイトチェック。十時五〇分学部レクチャー。今日は質問他を受ける。十二時過迄。東急田園都市線鷺沼でA氏と会い打合わせ。十四時近くのたまプラーザへ。

山口勝弘、宮脇愛子両氏にお目にかかる。山口先生の手も、宮脇先生の手も力強くガッシリしておられた。

本モノの芸術家の精神の力は凄いな。敬服する。両先生がおられる南東の一角は、実に今、日本で一番上品な空気が漂う場所ではなかろうか。

実に自然に励まされるのだ。有難い。山口先生の制作するドローイングは実に明るい輝きを持ち始めている。

先生はマジックハンドの長い奴と短い奴をお持ちになっておられ、それで全てをつかむのにこっておられる様であった。

オペラの曲の作曲のリズムをマジックハンドのカチンという音で表現して下さった。面白過ぎて笑い合う。

人間はどんな時でも笑える生物である。

愛子さんは台湾に作った「うつろひ」の新作のパネルが「何か気に入らないのよ、ね」とつぶやいていた。何かにひかっかているのだ。漢字と「うつろひ」がチョッと合わないのかも知れない。

十六時過八重洲で淡路島の山田脩二と会い、「小樽」へ。清水と会う。十八時迄。十九時過世田谷村に戻る。

今日は七夕だ。二人の芸術家と一人の瓦仙人と会った。

七月八日

六時起床。京都の学芸出版I氏に、依頼されている件に対するアイデアを作り、八時過に送付する。意外に手間取った。

九時前小休。

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七月六日

六時過起床。グズグズと仕事&遊び。十三時二〇分高田馬場駅で渡辺君と待ち合わせ。十四時三〇分天王台駅前で真栄寺馬場昭道和尚と会う。今朝、突然会いたいと連絡したので、和尚はいささかビックリしたのではないか。

ガンで亡くなった佐藤健がそうだったからね。だからワザワザ俺は病気じゃないから大丈夫と説明したりした。昭道和尚は「どうしたんだ!」と、それでも疑うのであった。

大きな計画と小さな計画の二つを昭道和尚に打ち明け、相談する。マア、ビックリしたであろう。天王台近くのインドカレーの店で。大まかな味の店であった。文句言っちゃいけない。インドのデリーから来て頑張っているんだから。ガンガ(ガンジス河)の源流の山の写真が美しかった。味はとも角、インテリアは仲々本マのインド風であった。

何の遠慮もなく、ストレートな会話を昭道和尚と交わす。何を飾り立てる事、必要があろうか。昭道和尚の二軒目の寺の屋根瓦を山田脩二のだるま窯を使用するように代理営業もする。山田脩二は今、東京の何処かで酔っぱらっているのだ。

程々にして、ひきあげる。君子の交わりだからね。十六時天王台駅。十七時半、山の手線新大久保駅前、近江屋で渡辺と今日のまとめ。まとめ、という程の事はないが、私にとっては大事な会であった。

十九時過世田谷村に戻る。途中、京王線の車中より、無気味に美しい雲の流れを見た。「羊たちの沈黙」のラストシーンに出現していた、とても美しい雲の、そして、どうと言う事のない街の風景との組合わせ、そのものの如き、雲の有様であった。いささか感じ入る。

具体の画家、藤野忠利より五点の作品が送られてくる。92 年頃の作品を再生するという手法が続いている。この手法をもっと大胆に意識したら面白いだろう。

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七月三日

十時四〇分院レクチャー。十二時了。十三時ツリーハウス協会小林氏等来室。十月の連続セミナーの件。十七時半世田谷美術館。メキシコ 20 世紀絵画展オープニング。酒井館長、N氏と会う。

メキシコの近代絵画に関して、私は無知である。それで多くの感慨を得る事は無かった。知識は無くとも、初見で衝撃を受けるというわけでもなかった。何かを期待して出掛けたのだが・・・余りにも多くの観客で絵に集中できなかったからだろう。

千歳船橋で夕食をとり世田谷村に戻る。

七月四日

終日、各種制作に取組む。大判のドローイング一点を完成できた。立体モデルのアイデアを得る。

七月五日 日曜日

六時過起床。昨日の仕事を並べてみる。日記をメモする如くに制作を着々と、しかもそのスタイルの全体を立体的に四次元の中にデザインする準備をしているのだ。

たまプラーザの山口勝弘先生からお手紙をいただく。先生は昔発行されたUBUの第二号を計画中との事。11 項目に「古池や 蛙飲み込む 水の音」の俳句付、川柳かなコレワ。で大雪山での計画が組み込まれていた。

十二時烏山駅でGK元社長の石山篤氏と待ち合わせ。宗柳にて昼食を共にする。石山氏とは同性なので、一度ゆっくり話してみたいと考えていた。

十五時前迄、昼の光の濃い中で、酒と食事の会は続いた。

別に、何という、ことさらな話しは一切無かった。

もし、出来ればですよ。もう一度とは言わず、何回か、ヒマラヤを間近に視て、体感したいと思っただけである。唐突だな、これは。やっぱり昼の酒に酔ったな。

深夜、静岡県知事選の結果出る。川勝平太氏当選。富士川の決戦であった。

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七月二日

十時過の新幹線で仙台へ、坂口先生迎えてくれて、東北大へ。サンドウィッチをほおばり打合わせ。十三時建築学科四年石山スタジオ、最終講評会。最終的には十八名の学生が最後までやり切った。

同じ課題を早稲田大学4年生、大学院生が演習Gとして取り組んだ。早稲田のモノは昨日プレゼンテーションを聞き、作品を見た。ヤル気、エネルギー、総じて東北大が上であった。

早稲田はエネルギー不足だった。エネルギーを持続させるシステムが不在だった。東北大建築学生、早大学生の個々の作品にするクリティークは、近日中に「設計製図のヒント」に書く予定である。

赤垣百里、乙阪譜美、山口康平、キム・ハンソク、小松秀鴨君達のモノが印象的であった。

十七時了。坂口先生といろは横丁へ。五名程の東北大建築の先生方に労をねぎらっていただく。二〇時了。二〇時過の新幹線で東京へ。車内では眠った。二十二時過ぎ東京。二十三時半世田谷村着。

これで、明日朝の早大院のレクチャーをキチンとやり遂げれば、今年の前半の教師としての私の義務はとり敢えずは果たせるのではないか。

東北大建築への設計指導は面白かった。学生も頑張ってくれたので成果はあった。

設計製図のヒント」は来週月曜日に ON する。

R342
七月一日

十四時半製図準備室。「水の神殿」水の商品化研究報告を受け取り、若干の修正を施す。十五時演習G、今日が演習の最終日。集中的に東北大との共通課題に取組んでいる修士一年及び学部四年の成果をみる。十八時半迄。十九時半コーリアンレストランで、北園、渡辺両先生をねぎらう。今日で御足労、様々な力を尽して頂いたのも、とり敢えず一段落である。二十一時半了。

両先生共に言ってみれば私の年を経たワニではなく教え子でもあるので、色々とえらそうに教示もしてしまった。これ位の年令の実作者、若い建築家が本当は一番教えるに足る対象なのだがね。十一時過了。

二十一時半、世田谷村帰着。しばらくTVを視て休む。視たくもないが政局の報道を視てしまう。茶番劇の連続で余りにも馬鹿馬鹿しい。二十三時半横になる。横になって眠れるわけもない。別に政治家の知的水準に怒り狂って眠れないわけではないが、この類の人々を選挙で選んでいるのも我々だからなあ。

七月二日

四時半起床。宮崎の藤野忠利氏よりの通信に返信を記す。六時了。返信のみ新制作ノートに公開する。今日は東北大のスタジオ最終クリティークである。昨日の早大演習Gと共に手を抜かずにやってきたので、これで一段落となりホッとしている。仙台に二〇名の学生達の成果を見に行くのが楽しみである。

教師になった功罪は多々あるが、我ながら自然に頭が高くなってしまったのはさて置いて、これは教師を止めれば自然に直る筈である。いさいさか年を取って最近は学生の作品を視て実に色々な事が解るようになってきていて、我ながら驚いている。ダイレクトに強く指摘すると、大半の人間が心を閉じてしまうのも知っているのだが、十年経って思い出してくれればいいやと考え続けてもいる。面白いと考えれば面白いし、ただのエネルギーの浪費だとも当然言えるだろう。

まあ自分で選んだ道でもあるから仕方ない。

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