059 世田谷村日記・ある種族へ
九月三〇日

十一時研究室。GAJAPAN展模型チェック、他。十三時半外出。十五時半製図準備室。加藤先生と、東大との合同課題出題打合わせ。アベルとチリ建国二〇〇年祭打合わせ。十六時研究室。模型最終チェック。竹中工務店M、S両氏来室。後期第四課題打合せ。

今年から三年生設計製図の第四課題は稲門建築会との協催でスーパーゼネコン5社の設計部中枢OBの出題、指導とする事になり、長年の第四課題の不安定さが解消される可能性が出来た。五年間は持続する。

十七時了。近江屋で一服して十九時過世田谷村。今日は終日雨模様で畑は自他共に休み。

058 世田谷村日記・ある種族へ
九月二十九日

十一時半区民農園。3人の植木職の若者が 125 区画の畑を除く共有の通路の草取り、及び掃除をしていた。尋ねれば一日でやらなばならぬと言う。これも謂わゆる公共サービス、支援だけれど、区民農園はもう少し別のやり方がありそうだが・・・・。

十四時過バスを乗り継いで世田谷美術館へ。「オルセー美術館展 パリのアール・ヌーヴォ ー十九世紀末の華麗な技と工芸ー 」を観に出掛ける。立派なディスプレイの展覧会で女性が多くつめかけていた。やはり、パリ、アール・ヌーヴォー、装飾芸術は圧倒的に女性の支持があるようだ。

十六時レストランで食事。十七時、酒井館長をはじめ、皆さんに挨拶、近況報告。北海道、「水の神殿」の話し等する。

十八時半世田谷村に戻る。

今日はいささかの休息日にした。

夜、「アール・ヌーヴォー・パリの高級産業」とタイトルを附されたカタログを読む。気軽に読み始めたが、巻頭のフィリップ・ティエボー氏(オルセー美術館学芸部長)の論(エッセイ)を読んで驚いた。氏は実に装飾芸術をフランスの産業のフレームの内にとらえているのであった。その視野の中でウジューヌ・ヴィオレ・ル・デュクやアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド等も登場するのであった。

この論を読むと如何にフランスが国策として芸術を、特に装飾芸術を産業戦略的に把握していたかが良く理解できる。例えば文中「サンハタントワーヌ街にある高級家具や壁紙の製造業者だけで、約二〇〇〇の家族を養うほどの規模を誇っていたのである」の言にそれは良く表されている。

アーツ&クラフト運動そしてバウハウスのモダニズム運動も、恐らく氏によれば国家間のデザイン・芸術・産業の競合として考えられるのであろうか?大変、興味深い。

057 世田谷村日記・ある種族へ
九月二十八日

十時半郡山着。T農園のW氏迎え、すぐに鬼沼へ。小雨降る。なじみの十割ソバ屋を通り過ぎ猪苗代湖畔の現場、十一時半着。すぐに時間の倉庫へ。内に入る。

インドの窟院のようだ、が先ず第一印象。自分達で設計した建築に自分で感動するのも愚だが、しかしながら感動した。内部の大きなスロープは今日コンクリート打ちで、スロープの登り降りは出来なかったが、空間は全て感応し得た。

北海道の「水の神殿」と猪苗代鬼沼の「時間の倉庫」は当然の事ながら、同時期に設計されたので同類の空間が出現しているが、それは設計者の胸の底にあるモノかもしれず、体験者には別種のモノに受け止められるだろう。「水の神殿」は水と土と草と木で造った。「時間の倉庫」はコンクリートで造った。マテリアルは異なる。しかし、人間の気持にうったえかけてくるモノの根底は同類であろう。

デカン高原のアジャンタ、エローラで体験した洞穴寺院での感動は長年、気持の底でチロチロと燃え続けてきたが、ようやくにして、それが現代建築として再現できたと確信した。私の建築では今の所ベストである。十月中旬には大きなスロープの登り降りも可能になるので、動画としても記録したいと考えた。三階の社長室、ゲストルーム内部も良く出来た。非常に強い建築になるだろう。

T社長のおにぎりと農園の野菜で昼食。T社長はここに二泊しているので、いささか疲れているようであった。夜は寒かったろう。

関組、アトリエ海、他と打合わせ。十六時半了。農園に新加入のW氏に再び郡山駅迄送ってもらう。W氏はT農園の「時間の倉庫」の谷(時の谷)から望む田畑を挟んで、丁度対岸のように位置する数軒の民家の住人である。この小集落の方々がT農園に参加してくれるという事は将来の農園にとってとても良い事になるだろう。北海道「水の神殿」の未来と共に大事に考えてゆきたい。

沢山の栗や野菜を手みやげに十八時前郡山着。東北新幹線で東京へ。十九時半。渡辺君は研究室へ。GA展での模型づくりだと言う。体力あるな、うらやましい。私は流石に疲れも絶好調で世田谷村に失礼した。残念。でも仕方無い。二〇時半世田谷村帰着。すぐにブッ倒れて眠る。

九月二十九日

六時過、起床。昨日のメモを記す。小雨模様の曇天である。七時過、区民農園に出掛けようとするも、小雨だ、だれもいるわけない、と自然に従う事にして、再眠。

056 世田谷村日記・ある種族へ
九月二十五日 金曜日

十時前、区民農園 72 区画のO老人と久し振りに再会。嬉しい。通路(あぜ道というべきか)に座り込んで話す。

「私、碁が好きで、週二日は碁会所で碁やって、それで残りの日を適当に、この畑に来てるんです。そう、出身は奄美大島の名瀬ですけど、東京に出て、大学済ませて、又、戻ろうとしましたが、S19 年に兵隊とられて、前にお話ししたように台湾に行かされました。21 年に日本に戻って、役所につとめましてね。それでこの畑は今年で二年目です。来年の一月には又抽選で、何処かに移らなくちゃならないかも知れない。以前は近くで四年、中目黒の方で何年か畑やってました。みんな自転車で何分かで通える距離でしたよ。アア、それでは又、お目にかかります」

よい気分になって大学へ向かう。十一時研究室。サイトチェック後、チリ・バルパライソ計画に参加させる事を決める。勿論、ポートフォリオを見て力を見極めた上での事である。ミハエルは 26 才、日本の学生よりも勿論年を取っていて、若いけれどガキでは無いのはすぐに知る。チリチームに参入させる。

十五時三年設計製図講評会。十九時過迄。修了後、先生方と缶ビールを飲んで、二〇時四十分、先にお別れ。二十一時四〇分世田谷村に戻る。

九月二十六日 土曜日

七時四〇分区民農園。80 区画のA氏とおしゃべり。Aさんは大根の葉裏についた油虫を筆ではき落とし、さらに一枚一枚に防虫剤を吹きつけていた。こうなると野菜作りは工芸だな。

九時半羽田空港着。帯広行ロビーへ。K社長、安西君と共に十勝帯広へ。帯広空港着十二時四〇分。空港レストランで豚丼の昼食。K商事肥料工場、Kきのこ工場を見て、音更「水の神殿」へ。十四時四〇分着。I社長と再会。「水の神殿」は土手に草が茂って、とても良い状態になった。安西君写真撮影。私もカメラを持って駆け廻る。空良し。風良し。

この庭というか自然を再構成したフィールドは私のこれ迄作ってきたモノの系列では極めて新しいモノの世界だろう。人工の土手と、人工の洞穴と人工の小さな林、そして水流の組み合わせだが、時間が経つうちにとてもゆったりと解放されてくるのを感じた。成功したと思う。これは是非とも私の新しいシリーズとして展開させたい。沢山の人に何とか見ていただきたいと思う。

この庭というかフィールドを単位として、十ユニットくらい集合したモノをつくりたい。

K社長は財団法人流財団の理事長でもあり、帯広に来る機内で流財団監修の「流政之作品論集」美術出版社 1800 円+税を手渡された。K社長にともなわれ流政之氏はここを訪ね「これはこの作者の一番の作品だろう」と評されたそうだが、今日、草がキチンと育った状態を見て、それ位の事は言ってもらってもいいなと感じた。とても親愛感がたゆとうフィールドになっていた。

十六時前、有賀さく泉工業社長渡邊哲夫さんを交じえて打合わせ。安西君はここに湧き出る大雪山系の深層地下水ルプチュプを東京地区で販売する事業に乗り出す為に、ここを訪ねた。第一次販売計画のための大方を決めた。

十七時過了。夕暮れの大雪山系の空が異様な程に美しいので再び写真をとる。新生ルプチュプ(アイヌ語)のラベル作りのための作業である。

十八時過帯広駅前、日航ノースランド帯広へ。チェックインして、食事に出る。K社長、今日は仏壇屋隣りの洒落たフランス料理屋を用意してくれた。上味のワインとキノコ料理をたっぷりと喰べ、「おいしいね、この店は」とつぶやいたら、シェフがあいさつに来て、それが何と!六年前に苦労して作ったスノーフィールドカフェの名シェフであった渡辺雄二であった。驚くべき再会である。抱き合って喜こぶ。どうりでうまい筈である。だって渡辺の店だったのだから。 帯広に行ったら、駅近くのカフェ・オランジュ tel 0155-67-7878 を訪ねられたし。何しろ美味です。

ビックリしたナァと良い機嫌になりK社長も何だか幸せそうになり、寿司喰いたい、という事となり寿司屋へ。もう私は腹一杯で動けぬ位になった。

ブラリと帰途につき、駅近くの催事場を通りかかる。もしやと勘が働き。超大型トレーラー・ジプシーレストラン、あるいはモバイルレストラン風の面白いモノをのぞけば、やっぱり後藤健市がいた。こんな事をやれるのは後藤しか居ないのである。いい晩になった。

ホテルに戻り、腹一杯でブッ倒れていたら、K社長より屋久島の恵命我神散Sなる漠方薬がドアの下のスキ間から差し入れられて、助かった。流石の気遣いである。それでも喰べ過ぎで、あんまり眠れなかった。明日は絶食にしたい。

九月二十七日 日曜日

やっぱり、五時前に起きてしまう。K社長より手渡された「流政之作品論集」読む。アア、これで今日一日はフラフラ状態で一日を過ごすのだろうな。明日は早朝から鬼沼の現場だな、辛いだろうな、等と他人事のように北国の朝の光の中で、うれうる。

入浴他をすませ七時二〇分昨夜見たマルシェ・ジャポン・キャラバンが気になり駅の反対側の広場迄出向く。やはり後藤氏早朝より準備に働いていた。大型の厨房車1台、横開きのステージ・コンテナ1台、サポート車1台に食の祭事装備を積み込んで全国 15 都市をキャラバンするという農水省のプロジェクトである。後藤氏とはスノーフィールド・カフェ、北の屋台、ライスフィールド・カフェ等のプロジェクトの体験を共有しているが、彼はそれ等をうまくまとめて一つのスタイルを作り上げた。マルシェ・ジャポン全国事務局のスタッフ他に紹介していただく。来年の3月迄大変にハードなキャラバンになるのだろうが、彼ならばやり抜くだろうと思われる。期待したい。よい計画だ。

八時半ホテルに戻り、K商事北海道支店へ。支店には大変な人間の行列で、今日は5回目の讃岐うどんサービスであるとの事。四国の会社が北海道地域に融け込もうと努力している。余りの忙しさに戻るのも申し訳ないという感じで、K社長、安西君共々帯広駅前の後藤氏に会いに行く。K社長安西君後藤氏と話し合う。十一時K社長支店に戻る。安西君と二人、マルシェ・キャラバンのレストラン、テラスで陽光を浴びながら食事。キチンとしたコース料理も出て、しかも安価である。一日五十食限定との事。これは人気が出るだろう。十二時半帯広競馬場へ。第二十三回ななかまど賞のレースを観戦。重い鉄製のソリを馬に引かせて、二つの坂を登り降りさせる直線コースのレースであった。

帯広森林公園に寄り、十三時四〇分K商事支店に戻る。朝の混雑はソロソロ修まりかかっていた。讃岐うどん 1500 食完販だそうだ。食の行事は人気がある。十四時過帯広空港へ。途中ヘレン・ケラー塔を遠望する。

十五時四十五分発東京へ。少しくたびれた。十七時半、羽田着、高松に乗り継ぎ帰るK社長と別れる。十九時前、新宿南口味王にて安西君と疲れた身体をいやす。水ルプチュプの販売計画に関して安西君の気持を問う。やりましょうの結論になる。

二十一時過世田谷村に戻る。明日は猪苗代湖鬼沼現場へ出掛ける。面白いからやるし、こなすスケジュールだよね、コレワ。今早朝チェックしたチリ建国二〇〇年祭の展示計画のディテールをチェックする。GA杉田君のインタビューゲラに手を入れる。宮崎の藤野さんより通信入る。俳人金子兜太の墨画展が十月三十一日迄、現代っ子ミュージアムで開催されている。これは見に行きたいな。

九月二十八日

六時半離床。八時前発。区民農園に寄って、九時前東京駅。郡山を経て猪苗代鬼沼現場へ。「時の谷」の「時間の倉庫」の内部がとても楽しみである。「水の神殿」の柔に対して、強い空間が出現している筈なのだが、どうかな。

055 世田谷村日記・ある種族へ
九月二十四日

〇時半、昨日は六時に眠ってしまったので、流石にとんでもない時刻に目が覚めてしまった。「チリ建国二〇〇年祭」の早大での展示会のパブリシティ用の原稿を書く。担当者が典型ラテンのアベルなので、何から何まで背負い込む羽目になりそうだが、仕方ない。一時再び横になる。

七時前、区民農園八十区画のAさんと再会。連休中は赤城山の寺院にいたそうだ。すぐに四国札所巡りへ、そして来月はマレーシアにダイビングと言うスケジュールのようで、実に多趣味な方なのを知る。

九時半発。区民農園によって研究室へ。区民農園には五名の人間。研究室サイトチェック。連休中のヒット数は連日一万を切り、七千−九千であった。

十二時前、打合せ。十四時チリの件打合せ。集中する。本格的にチリと附合う枠組みを考える。十七時半迄。厚生館の進行をみる。M1ゼミ。他十九時半了。久し振りに近江屋へ。断片インタビュー。味王へ渡り、二十一時過世田谷村。

九月二十五日

七時区民農園に行くも人影二つ。すでに早朝六時位からの人は引いてしまったのであろう。それでブラリと一周して戻る。

昨日、いささか進展した筈のチリ・プロジェクトを少しばかり、再まとめしてみる。やらねばならぬ事が多過ぎて気が遠くなりそうだ。

会場の展示のため昨夕、いささか精密に会場平面を実測してみたら、ここは市根井君のような腕の良い大工さん泣かせの場所である事が判明した。しかしコンクリートの精度はこれ位のものなのだろう。

コンクリートの柱も問題なのだが、チリからは 200 - 500 匹のチョウチョも来るというのでボー然としている。

世田谷村の隣地の空地が有料駐車場になる。その工事が進められている。世田谷村の周りは将来、駐車場ばかりになるのだろうか。そうなったら逃げ出したい。

054 世田谷村日記・ある種族へ
九月十八日

八時天王台でT夫妻とバッタリ再会。喜ぶ。昭道和尚迎え、真栄寺へ。彼岸花を楽しみ、お茶。四〇分車で発。どうやら赤城山へ出掛けるようだ。関越道を沼田ICで降り、玉原湿原入口に十二時半着。ブナの林の中を小一時間登り歩く。森の空気が気持よい。ブナの大樹を敬意を払って見上げ、触れる。森を登りつめて、弁当。真栄寺手作りの豪華弁当、大きなムスビに感動する。腹一杯となり嬉しい。

十四時半再び歩き始める。眼がブナの森に慣れてきて、多くの美しいモノを視る。アニミズムの風景の中を歩いているようなものだ。やがて急勾配の沢を下る。こんなに下ったら、又、登りがイヤだなと、歳なりの事も考えた。大昔少々の山登りをやっていたって今の体にその名残りがのこっている由もない。

やがて、美しい湿原に出る。木製の径が嬉しい。小休。風景をたんのうする。風良し。光良し、花良し、色良し。アキの緑と真紅の葉の交じり合いの妙が見事。ブラジルからのT夫妻も楽しんでいた。十六時半、センター駐車場に戻る。休みをいれて四時間の歩きであった。メンバーの体力には丁度、限界であった。良いモノを沢山視た。

沼田ICに戻り、赤城ICにて出て、道を間違ったりもしたが赤城神社近くの旅籠「忠治館」へ、十七時半着。お坊さんに国定忠活の宿へ案内されるのも不思議なものだ。

すぐに、滝見の露天風呂へ。一時間の長風呂。Tさんと、色々とブラジル・日本間の計画について話し合う。大いに良い議論が出来た。十九時夕食。二〇時過、横になり、すぐに眠ってしまった。余程疲れていたのだろう。昭道和尚も同様。

九月十九日 土曜日

五時半過、露天風呂へ。先にすでに入浴していたT氏昭道氏から、蹴とばしても目をさまさなかったぞ、とひやかされる。そうかそんなに深く眠ったかと、大自然に感謝する。

温泉で、再びブラジル・日本計画の議論。気がつけば、ひどく寒い。こりゃ温泉じゃない冷泉だと、真裸で内風呂まで走る。温泉で早朝議論は似合わないのだろう。

八時朝食。青年が一人で食卓に向かっていて、話す。朝食もたっぷりいただいた。

再び露天風呂で長風呂。九時過、囲炉裏を囲んで青年と話す。なんとブラジル生活、ボリビア生活体験のある人物であり、ビックリ。Tさん「ブラジルに来たら寄りなさい」と名刺を渡していた。青年一人、オートバイの旅らしく、別れる。

忠治の宿を去り、赤城山上の小沼大沼で休む。バードウォッチングの教職退職夫妻に会う。今冬、ネパールへ行くという。うらやましい。赤城山を降りて、十二時半前橋で昭道和尚が急にラーメン、ラーメンと叫び出し、T氏もブラジルにうまいラーメンなしと叫ぶので、場当りに 290 円ラーメン、創業昭和 29 年という国道沿いの店に飛び込む。

店に入ると、外の看板の 290 円ラーメンの大きさと比べて、メニューにはそのラーメンの姿はとても小さくあるだけ。皆、○○セットで八百円弱なのであった。それでも当然、290 円の奴をオーダー。やっぱり 290 円の味であった。ギョーザはまずい。仕方ないよ。Tさんも正直にまずかったと、しみじみ。笑った。

十五時過、我孫子駅。駅前の書店で、T氏買物。稲盛和夫「生き方、人間として一番大切なこと」渡された。

Tさんはブラジル稲盛会、清和塾の代表で稲盛和夫に傾倒しているのだ。稲盛氏は今の政権交代で一躍脚光を浴びている経済人で、民主党に一定の影響力を持つ。Tさんのブラジルでの計画がうまく成就する事を祈りたい。

十六時、T夫妻とうぐいす谷でお別れ。十七時過世田谷村に戻る。

九月二〇日 日曜日

七時半起床。流石に疲れていたのだろう。Tさんからいただいたブラジルの石の風鈴が風にゆれている。

今日、ブラジルに帰る品川プリンスのTさんと連絡し合い、後、区民農園に行く。8名の男性が畑にいた。72 区画の老人の畑のブロッコリについた青虫をとっている方がいたので尋ねれば、青虫をとって飼っている鳥のエサにするのだそうだ。青虫を殺したい人がいれば、それが必要な人もいる。私の畑に戻り、いささかの小さな草取り。ホウレン草が芽を出していた。蚊にやられる。十時半前休止。

九月二十一日

九時過区民農園。6名程の人。佐々木睦朗氏より「 FROM CONTROL DESIGN 」送られてくる。目を通す。佐々木氏等の先鋭的な構造設計家達の仕事が、建築家達の趣向の方向とあいまって極めて遊戯性を帯びた関心へと向かっているのを知る。遊戯性というのは正確ではないかも知れぬ。

しかし何を模倣しようとしているのだろうか、生命体らしきのアナロジーか?恐らく構造設計家の計算能力の飛躍的拡張=コンピューターの能力、が建築家達が所有していた建築形式の自律への枠を解体し、これは新形態探索の遊戯の世界へと誘われているのである。

その意味では、この本にまとめられている構造設計家達の仕事は、コンピューターの能力そのものの自己顕示欲であり、それ故に新種の遊戯性そのものなのではないか。コンピューターは機械であるから、機械が機械の能力を表現しようとしているとも言えよう。

シニカルな見方を敢えてするならば、ここに表れているのは構造設計家のニヒリズムだろう。

表現主義的傾向は世界大戦への不安をベースに造形家達の主体によって表現された。

九月二十二日

九時区民農園と自分の畑。小一時間程WORK。十時農文協現代農業原稿。十一時半迄。再び畑。少し汗ばむ。十二時半、再び原稿。何とか今日中にできるだけ書き込んでおきたい。

十三時半区民農園で原稿書く。十六時、大方を書き終える。

区民農園東の入口にある小さく質素な東屋の土に汚れたテーブルでWORKしていると、色々な人間模様が眺められる。女性からシソの葉を分けていただいた。

九月二十三日

自分の畑に生ゴミを埋める。七時半区民農園。女性が三人精を出していた。昨日シソの葉を下さった婦人のように気さくな女性は少ないようで、仲々インタビューは困難そうだ。八時前、前橋の市根井さんと連絡。今日、チリ建国二百年祭の什器関係の打合せをする事になる。九時半発。十時半アベルと打合せ、と思えどアベルの姿はない。マア仕方ないと待ちに待つ。

十一時過、市根井さんを交えて、チリ建国二〇〇年祭の実質的な打合せを始める。早稲田大学の創造理工のキャンパスで開催する、チリ建国二〇〇年祭のプレビューの展示会は来年 2010 年のチリ・バルパライソでの大覧会につながる国家的行事なのだが、ようやく、智日協会のチリ側の代表が動き、十一月十六日早大総長との会見まではこぎつけたが、明日、政府の金が振り込まれる事にはなったのだが、ラテンだ、どうなる事やら。いささかの要注意はあるのだろうが、今日を期して私としては前に進めざるを得ない

アベルの筋金入りの能天気振りはもう変わらないだろう。尻をたたいても何も変化は期待できぬ。でも本当にイイ奴なんだナァ。コッチの方が狂っているのかも知れない。

しかし、日本はよくここ迄やってきたよね。勤勉努力で、しかし、これからはそれには期待できぬ。若者は皆、ラテンの気質になっている。それをキチンと見据えて将来を考えねばならぬのだろう。

十六時前、区民農園を見廻り、世田谷村に戻る。二十五区画のかげろう老人と話しが出来た。

053 世田谷村日記・ある種族へ
九月十七日

十四時過GAギャラリー展見る。二階に映像室が作られ、磯崎、伊東、藤森各氏等の小レクチャー(インタビュー)が体験できるのが面白い。十五時二川幸夫さんと会う。久し振りであった。近況報告と北海道他の撮影依頼する。その後写真の話しとなり、二川幸夫相変わらずの情熱に、いつもながら押され気味になるが、マアふんばった。

バロック古典に強い関心を持ち始めているとの事。

「二川さん、ミースのファンズワース邸の川越しの、空に雲が写っている写真、二川さんの新境地ですね。アレは水蒸気が写ってるよ」

「そうだ。最近はカメラも小型になって、性能も著しく向上して、写真も進化してるんだ。今は建築廻りも写してる」

「アー、写真は実物のファンズワース邸より写真が勝ってる」

「そうなんだ。わかるか」

「わかる」

と、ブッ飛んだ会話もあり。僕も元気づいた。実は二川幸夫の写真には、空気、風、水、光他が写るようになっていて、それはアニミズムなんだと言おうとしたのだが、面と向かっては言えなかったので、今ここに記しておく。二川幸夫は、もう完全に建築教の教祖の域だな。あの世界は興味津々だ。世のせちがらさを一時忘れる事ができた。十六時半了。

十七時研究室。打合わせ。M1、M0相談他。十八時S君来室。十九時、Wさん来室。色々と相談する。Wさん面白い世界を作りつつあるなと実感する。二〇時半了。二十一時近江屋で雑談録2回分に目を通す。二十二時半世田谷村に戻る。

九月十八日

五時四〇分とび起き、身仕たく。六時二〇分発。天王台へ。今日は朝より、真栄寺でブラジルからのT夫妻に再会し、昭道和尚と共に、何処やらのブナの林を散策する事になっているが、詳細は知らない。只今、八時前、常磐線車の中でこのメモを記している。ブナの林ったって、どこのブナの林やら。

052 世田谷村日記・ある種族へ
九月十六日

五時過 十八時渋谷。岡本太郎の大壁画「明日の神話」に見入る。この壁画は本来は広島にあるべきものだろうが、多くの人々が行き交う駅のコンコースに在るのを見ると、ここで良かったとも思う。カメラで絵をとる人、見入る人も決して少なくないが、ほとんど皆年を召した人ばかりだ。生前の岡本太郎の姿の記憶がある年代なのだろう。人々が膨大に流れている上に、絵はある。

原爆さくれつの主題、すなわち明日の神話が明るい虚無をただよわせ、まさに破裂している。

何だか、ゴッホの「烏の群れ飛ぶ麦畑」みたいな絵だなと痛感した。メキシコで描かれて、日本に戻ってきた小史を持つが、いいところに落ち着いた感がある。渋谷は消費のケンタイのるつぼである。

十八時半、ハチ公前のものすごい混みの中で鈴木博之、難波和彦、両先生と会う。

西武デパート上のみみうでうどんすき。四方山話に花が咲いた。友人達とも、こうやってお互いに年をとってゆくのだなあ、と実感。

お二人とも堂々たる壮年の風格を身につけ始めていて、見習いたいが、とても自分には無理そうだ。うどんと冷酒の後、別れ難く、新宿の味王でビール。忘年会どうするか、の話しなどなど。

九月十七日

七時半起床。今朝は区民農園見学は中止。昨夜、だいぶんS、N両先生の話しのつまみにされて、どうも何処からか見られている様でもあり、変な不自由さがあるな。ネット社会の特色だコレワ。夜は千の眼を持つという、小説、チャンドラーだったか、忘れたが、あったが、ネット社会は発光スクリーンの中に出現するから、朝も昼も、夜同様なのだ。

051 世田谷村日記・ある種族へ
九月十五日

十一時前研究室。打合わせ。絶版書房アニミズム紀行3・4にドローイング描き込む。各5冊。今日は良いモノが描けたと思う。今日の日付のモノを手にした方へ、これは力作です。

十五時半建築模型の一部を持って新宿長野食堂へ。小さなテーブルで模型づくり。向風学校安西君と相談。彼はいよいよ人脈を広げ活動しているようで頼もしい。

二〇時過世田谷村。

九月十六日

五時過ぎ起床。「ちょっといい出会い」馬場昭道、宮崎日日新聞社 1500 円。送られてくる。友人の本だけれど、それを差し引いても、とても良い本になった。平凡なようでいて、とても暖か味がにじみ出てくる。

六時過区民農園へ。誰も居ないのですぐ引き返す。

七時建築模型のスタディに入る。面白い。九時小休。十時、新制作ノート記す。しばらく建築の畑に居ることが続きそうだ。

050 世田谷村日記・ある種族へ
九月十四日 月曜日

六時区民農園。恐らく誰もいないだろうと思っていったが、35 区画のK氏が精を出していた。黄色の子供用自転車で来ていて、その自転車に名前が書いてあるので、名字のみ知れた。

「まだトマトが獲れそうなので、トマトが終ったら石灰を入れて、そうすると何でもやれるんですよ。石灰が大事だね」 私の畑はまだ陽もささず、余りにも蚊が多いので、見ただけ。

十一時半研究室。サイトチェック、他。十二時半ドレスデン大学の、石山研OBでもあるヨルク来室。彼はドイツ・バウハウス建築大学よりの石山研留学生の一号であった。今はドレスデン大学の教師である。絶版書房「アニミズム紀行3」を贈呈。ヨルクからドレスデン大学の「PAO」3号、4号を受け取る。

「石山さん、プノンペンの建築でまだ満足してないのですか?」

と言われる。この言葉は石山研のOBにしか仲々わからないかも知れない?であろう。ヨルクも在室当時「ひろしまハウス」の模型作りの現場を見ていたから。

「何言ってんだ。満足してる筈ないよ。この先なんだよ、生き甲斐は!」と答えた。冗談じゃない。もっと凄い建築作りたいから生き延びているんだよ、ヨルク、と伝えたかったのだ。

十四時前近江屋にて昼飯。雑談インタビュー受けるも、先週よんどころない処でお目にかかったS教授の言、「アノ、雑談インタビューは何なのか?」の指摘もあり、結論として、雑談というタイトル、すなわち命名だけは代える事にした。まずは名前を変える。内容を代えるには、時間がかかるのである。

二十三時過、今日もほとんど一日が終った。日記には事と事の間の、空白のようなモノを記すようになってきたが、それで良いのだろうとは思う。酒井法子という芸能人に関するTV報道がまだ続いていて、あんまり愉快ではない。何故こんなに知らせるのであろうか。TV他、いわゆる旧マスコミは、大衆(民衆とは言わない)をなめ切っているのではないか。何故こんなバカバカしい事を知らせ続けるのか?何の社会的価値も一切無い。こんな事は一切合切報道する必要は無い。

しかし、私のサイトも数は少ないだろうがそんな風に思われている可能性もあるだろう。例えば、区民農園通いの細部を皆さんにお知らせしたい気持ってのは何なのかと、考え始めると堂々巡りに落ち入るが、サイト運営は用心するにこした事はない。でも、最近の私のサイトは流石に片手間の成果ではなくなってきていて、それが問題なのだ。空き時間にサイトに書き込んでいれば、皆さん安心して片手間に読んで下さるけれど、いささか最近はこちらは本気になり始めている。

ジャンケンや遊びで言うところの、ウソンコ・ホンコの区分けだなこれは。

まだわからないけれど、サイトはウソンコだと思っていたら、そのジャンケンポイに何やら大事なものがかかってきてしまっているようだ。

ミイラ取りがミイラになり始めているのかも知れない。二十四時半眠りにつこうとする。でも、人生の三分の一は人間は眠っているんだから、このサイトは夢とうつつの境界線のようなものだと思うしかないか。

九月十五日

五時四十五分起床。2階から区民農園を眺めたら、チラリと人影があり、六時十五分区民農園へ。四名の方が精を出していた。80 区画の方と何日か振りにお目にかかる。

「ネギが立派に育ってますね。アッという間に大きくなりましたね。アッチの畑ではネギだけ育てている方いますね」

「そうなんです。実はこのネギは、その方の畑からいただいたんですよ」

「そうだったんですか」

「JA大蔵のネギ苗なんですよ」

「こっちのネギは又別のタイプなんですよ。その方のオリジナルのようです。DNAがちがうんです」

「ところで週何回くらい、いらしてますか。二、三回ですか」

「イエイエ、5回くらいでしょうかね。畑にくれば必らずやらなきゃいけない事ありますし。ここにはホウレン草、ズッキーニ・・・。今日は雨降るっていうので、カヴァーかけようと思って」

「イタメシ、お好きなんですか」

「マア、エエ。イタリアは好きでヒマあれば行くんですよ。イタリアデザイン好きなんで」

「どういうデザインお好きですか」

「いや、何となく街のアレコレや人の姿が好きなんで」

どおりで、この方の服装はアカ抜けている筈であった。ただ、それだけの会話ですが、気持がゆるりとなって、六時五〇分戻り、自分の畑へ。今朝も2、3分いただけ。80 区画の方の名前はA・Y氏である。ようやく名前を尋ねる事ができた。

049 世田谷村日記・ある種族へ
九月十一日

十二時半研究室。厚生館打合わせ結果を伝達、次の段階へ進む。

十三時半M1ゼミ。「設計製図のヒント」中のページを独立させたいとの意向があるようで、結構な事。やりたいという意欲が先ず第一なのだ。少し計りのアドバイス。十四時半M0相談。十五時GA杉田君来室。GA展のインタビュー。杉田君は建築ピューリタンに育っているな。今日はアイデンティティーという視点について切り込んできた。いささかのスレ違いはあったけれど面白かった。でも、今の 40 代 30 代のGAの読者にそれ程多くの建築至上主義者がいるのかなあと思いつつ、楽しんだ。

十七時半前、発。直下の地下鉄を乗り継いで溜池山王。ホテルオークラへ。十八時栄久庵憲司さん傘寿の祝賀会。三百人を超える大きな会であった。会場では思いがけなく多くの旧友達にお目にかかる事もできた。オークラのメシはこういうパーティーでも仲々うまいのであった。思いがけずに会った鈴木博之氏より「お前の話しは真面目過ぎて、芸が無い。それにブログの雑談うんぬんは何の意味があるのか」とたしなめられる。十月には三井の開東閣で彼の会があるので、その際の倍返したしなめを胸深くたたみ込んだ。

栄久庵さんは 80 才になられて、ますますお元気で喜ばしい。20 代のはじめに会った栄久庵さんも、65 才になってお目にかかる栄久庵さんも私の中ではあんまり変わりが無い。ブレが無い。変節も無い。いつも明るい信頼できる人なのだ。

二〇時半、栄久庵さんにあいさつして退。二十二時前世田谷村。

パーティーは苦手なので出席はできるだけしないと決めているのだけれど、年に数回は出ていないと、あいつが亡くなったのいつだったかな、なんて会話が出現しかねない。

ガキの頃、すなわち三〇代後半であったか、二川幸夫から「どうしても出席しなければならない宴会はだな、行ったら、何より宴会の御本人、主人公のところに真直ぐ、ズズッと行って、大声でお目出とうございます、って言って、それで会場には残らないで、すぐ帰る、それに限る」たしかに、居残って、良い事のあろう筈も無いから、アレは名言であった。

九月十二日

七時起床。寝過ごした。あわてて身づくろいして、区民農園にかけつける。我ながら、何故かけつけるのかと思わぬでもないが、体は自然に動くのだ。80 区画の知り合いを含めて四人の方が精を出していた。三〇分いて、戻る。自分の畑は今日はパス。そこまで律儀になることは不健康である。昨日の区民農園の老女の予測通り、小雨が降り始めた。

十一時過、雨が小降りになったので、近くの鈴木園芸屋に自転車で。兄さんが一人でいた。この男が一番親切で実直なので、ホッとする。園芸屋が入っているマンションのオーナー家族なのだろう店の経営は、旧甲州街道に面して奥行 70 メーター近い外庭を持ち、この周辺では一番恵まれた園芸屋であろう。当然一代前は農業者で、今は大地主という訳だ。

区民農園で教えられた通り、ブロッコリの苗を購入。それにキャベツ、白菜も手にした。堆肥も一袋。それにこれ又教えられた防虫剤オルトランDX、これは高額の 800 円であった。苗は 30 円、50 円だが、堆肥や防虫剤が高いのだ。やはりこれは道楽である。

息せき切って戻り、小雨の中を苗 13 株植え込む。たったの 13 株です。十三時了。

九月十三日 日曜日

六時四〇分起床。六時四十五分区民農園へ、高曇りで、雲の切れ間から薄陽が指すが、誰もいない。125 区画誰もいないというのも寂しいものだが、54 区画の畑の略図をとり、七時戻る。ウチの畑は昨日やったので今日は休み。そうか、雨上がりで、土も野菜もたっぷり水を含んでいるので、それで皆さん休んでいるのかと、納得。畑仕事したらビッショリぬれてしまうし、何かと折り合わぬのであろう。

日経新聞よんでいたら、文化欄に「残暑好日、喫茶店のはしご」片岡義男が書いていた。片岡さんは僕より四ツ程年上だから、今七〇前位かな。会った事は無いし、若い頃に一、二冊読んでそれ以上読む事はしなかったが、津野海太郎から、君片岡に似てるぜと言われ、何が似てるんだと聞けばそのリーゼントの髪型よ、と言われただけの事なんだが、新聞紙上の片岡さんの顔写真は恐らく、40 - 50 代のものと思われ、やっぱり黒々としたリーゼントなのであった。何だか、こっちだけ、つまり僕だけ歳を取ったようで残念である。神保町の喫茶店で二〇年前に忘れたペーパーバックを店主に返された話しだから、わざと二〇年前の写真を使ったのだろう。この人と村上春樹は同じ頃の早大文学部卒で、村上は昔、喫茶店を経営していたらしいから、恐らく何処かでクロスしているかも知れない。

文章のスピード感が少し現実離れして、スローだ。カチャリと切り変わるようなところが良く似ている。ただそれだけの事。急に片岡の本を読みたくなったが、何処へ行ってしまったか。さて、今日は貴重なオールデー休日である。何をしようか。

十九時半前、東北一ノ関ベイシーに電話する。来年二〇一〇年の 12 月に、ベイシーの二階で絶版書房主催の「石山修武・絶滅種族の記録展」を開催する事の了解への、御礼を述べる。

もの凄い小さな展覧会にするぞ、の覚悟である。私はいつも覚悟のうえなのだが、コレはホンマの覚悟です。世界一のベイシーの音の二階で、ベイシーの音がもれ聴こえる中での、展示だ。トコトンやらざるを得ないのだ。

あと、一年と少しばかり準備期間はある。建築模型の自分の最高な奴を一つだけ。でも凄い奴にする。それと、今、描いているドローイングの中から選択して十五点程。銅版画の大版きわめつきを五点、小品を二〇点、映像一切無し。それでも異常に暴力的なくらいに力が満ちた、クライマックス直前の奴をお見せしたい。

私は、音楽家としてのモダーン・ジャズ演奏者達、カウント・ベイシーやデューク・エリントン、そして前衛の中の前衛であった、ジョン・コルトレーンや、そして、マイルス・デイビス、ソニー・ロリンズ、セピア色の中のチャーリー・パーカーのつむぎ出した音の数々の価値を認めるに、やぶさかではない。でも、すでに化石となった彼等の音を今に伝導する菅原正二のファンクションを、より過大に評価している者だ。

音を創る事は普通に考えて価値がある。しかし、音は消える、その消えてしまう音の数々を後の時代に伝えてゆく、菅原みたいな役割、ポジションに私はより大きな価値を見たいと考える。

それだからこそ、私はベイシーで、小さいけれど私のおそらくはベストに近い、何かを皆さんに提示したいと、考える。

048 世田谷村日記・ある種族へ
九月十日

八時半過発。九時杏林病院。採血、担当医の診断。ビールの飲み過ぎの尿酸値以外は問題なし。言われる度にビールはやめねばと思うのだが、さりとて焼酎ならどれ程よろしいかと問えば、アルコールは皆同じだと、つれない。夕方の近江屋でのビールがもう習慣として身体になじんでいる。そうだ昔哲学の木田元先生がビールをトマトジュースで割って飲んでいたっけとかろうじて思い出す。今夕からトマトジュースの持ち込みでビールにしてみようか。十時過了。

バスで調布駅へ。新宿経由新大久保、昼の近江屋へ。十一時半。親子丼を喰う。十二時過研究室、サイトチェック。四十五分学科会議室、学部、外国学生、帰国学生入試面接。異常に多数の応募者である。アジアからの入学希望者の数の多さに驚く。しかし、玉石混交だな。資料はあるが見極めるのはとても困難である。アジアの若者の間でどんな情報が流れ始めているのか気になるな。何かが動いているぞコレワ。今年の試験のやりようで来年からの動向が大きく動くような気がする。十六時過了。

厚生館プロジェクト打合わせ。修正作業。絶版書房アニミズム紀行4、10 冊に墨の下図を描き込む。十八時過了。十九時新宿味王で渡邊君よりウェブサイト雑談インタビュー受ける。二〇時過迄。二十一時世田谷村に戻る。

雑談 03 に手を入れる。余り手を入れ過ぎぬように気を使う。

九月十一日

四時四〇分起床。雑談3、4に手を入れ、厚生館プロジェクトのエスキスと、今日のGAのショートインタビューへのアイデアを練る。あんまり良い知恵も出そうにないので、五時過再び休む。

六時前再起床。カメラ、スケッチブックを持って区民農園へ。六時前なのに 15 区画女性、52 区画男性がもう精を出していた。84 才だそうだ。取材を申し込みOKを得る。15 区画の女性は年令不詳である。女性はいくつになっても年を隠したがる。写真を何枚かとる。

「明日は雨ですってね」

と言われ、そうか菜園やってる人は天候により敏感で、野菜の生育と天気とを関係づけられる気持になってるんだなあと気付く。

今年の 4 月 11 日に色々お話しをうかがって、スケッチをさせていただいた、111 区画のSさんにバッタリ再会。おたがい、なつかしそうな顔付になっていたのだろう、話がはずんだ。スケッチは何でもしとくもんだな。

これで「現代農業」の連載の大方が視えてきた。

しかし「講義録」を彼等に、彼女達に読んでもらうってのは、もうこれはギシギシと音鳴りがする程に、むずかしいぞコレワ。80 区画の同業者の方だって、私のページはのぞいてないのが解ったので、どこを突破口にしたら良いのかも、解らない。

でも、今朝は六時から三人の人間と話しができたのは嬉しい。皆さん、私と同じように蚊に悩まされていたようで、朝は蚊が少ないからいいんだ、との事。

111 区画のSさんにいただいた「まんがん寺唐辛子」4つを大事に持って六時四〇分世田谷村の自分の畑へ。まんがん寺唐辛子は京都のものらしい。いい姿の唐辛子だ。

十五分程、自分の畑の草取り、土起しをやって、七時小休。外に出られなかった猫の白足袋が最近外に出るようになって先程も私がクワを振りまわしているのを、草むらの影からビックリして眺めていた。

白足袋に畑をやらせるのと、区民農園の人々に建築本を読んでもらうのと、どちらがむずかしいか?そりゃあ、白足袋にスコップ持たせる方が楽なのではないか。

十時過、今日は栄久庵さんのお祝いの会もあるので、スーツを着て、ネクタイして発つ。十一時前、稲田堤厚生館。K理事長と打合わせ。

047 世田谷村日記・ある種族へ
九月九日

十一時半研究室。ウェブサイトチェック。四十五分、絶版書房アニミズム紀行4にドローイング 22 冊描き込む。全力投球する。十五時半、厚生館建築打合せ。スタッフの力も出力 UP しているので、細かいところは任せて良さそうだ。これ迄の建築では BEST なモノを作りたいといつもながら考えているのが、何とか実現できるかもしれない。と、スタッフには言えないつぶやきをもらす。それでなければのんべんだらりと生きているかいもない。何しろ、頑張りたい。十八時迄。

十八時過K建設M君来室。チリ建国二百年祭打合せ。アベル、同席。M君親身に協力してくれて頼もしい。アベルもそれなりに気合いを入れてくれれば良いのだけど、ラテン民族だからな、あんまり高望みも出来ない。ラテンはラテンなりにやってくれれば良いのかも知れん。むしろそれで良いのだ。二〇時修了。近江屋でM君と夕食。二十一時半過了。二十二時半世田谷村に戻る。

絶版書房アニミズム紀行3残冊 47、アニミズム紀行4残冊 99 冊となる。アニミズム紀行3は 400 冊印刷したから、350 冊は読んでいただいているので、文句言う筋合いはないが、もう少し買っていただきたい。と言うよりも買うべし、と強く居直りたい。アニミズム紀行4に関しては、売れ行きに何も文句はない。

研究室に送っていただいている沢山の書物から3冊を選んで世田谷村に持ち帰った。ただ気まぐれに選択しただけである。送っていただいた書物には原則的に全部コメントしたいと考えてはいるが、できるかどうかはおぼつかない。

新創刊!atプラス 01「資本主義の限界と経済学の限界」はきちんと読んで評したい。こちらに評する能力があるかどうかは別にしてもだが、私は実行家だから、それなりの事は言わねばならない。残り少ない、良い雑誌だ。¥1400 、安い。

「昭和幻景・消えゆく記憶の街角」藤木TDC(文)イシワタフミアキ(写真)ミリオン出版発行・大洋図書発売 ¥1700 +税。昭和初期へのノスタルジーは久世光彦、小林信彦他多くある。私の師匠の一人であった山本夏彦も基本的には昭和初期への愛着を礎として、言葉の問題に迄つき進んでいた。山本が好んだ向田邦子もそうだった。この群の源の一人は坂口安吾ではなかったかと憶測しているのだが、まだ自信はない。この本の良いところは、そんな事には無関係は軽いフットワークの自由さであろうか。スーパーフライ級の良さだな、コレワ。

「 JUN ITAMI 」伊丹潤 1970 - 2000 主婦の友社 ¥8000 、伊丹さんは前から、その創作の出自点というか、源への意識に関心があったので、印象批評を簡単には書けない。二、三日考えてから評したい。最も近くて、最も遠い国、韓国というよりも朝鮮半島は私が生まれて初めて足を踏み入れた、いわゆる外国である。あまりにも愛着がある故に、今日は保留したい。近日中に必ず印象は記す。こういう高価な建築本が出版されるという事だけでも嬉しいではないか。

九月十日

四時半起床。読書。五時再び休む。凄い位の月光が世田谷村に注ぎ込んでいる。秋だなと実感した。月の光の中でほんの数行の日記を記していると、この毎日の記録が、とても自分には大事なものであるのに気がつく。老いてゆく感傷でなければ良いが。李白のように月の光に故郷を想う率直さは私には無いが、母や友人達の長生を願うばかりである。

六時前再起床。すぐに区民農園へ。80 区画の人が、丁度やってきた。区民農園一番乗りの人を把握。ホンの少し取材、インタビューを開始する。六時半前に西端の区画から陽光が差し始める。陽光が差すのと同時にもう一人 54 区画の女性が電動自転車で現れた。世田谷村の畑に戻る。少し土を掘り返して、巾2m長さ4m程を作る。これで少々肥料を施せば、苗は植えられる。今年はこれ位のところかな。今日は健康診断のため、午前中病院行なので、七時前、了。疲れる前に切り上げるのがコツだ。

046 世田谷村日記・ある種族へ
九月九日

五時半起床。高曇り。雲の切れ目から薄紅色の陽光がもれて、それなりに美しい。文句なしに美しいわけではない。それなりにと言わざるを得ないのは年の功であろう。新聞を読んで、六時半区民農園へ。

まさかと思っていたら、五、六名の人々が菜園仕事に精を出していた。スケッチとメモを 30 分。いくら面白いとは言え、観察と記録だけではと気を取り直し。世田谷村に戻り。自分の畑に手を入れる。

昨日掘った生ゴミコンポスト用の四角い穴を更に掘り下げようとする。大根をやるには 60 cmの深さに土を掘り返さねばならぬのを耳学問しているので、必死に目標 60 cmである。ガツンとスコップに何かがあたる。ここは7〜8年前には家が建っていたところで、それを壊したおりに解体屋さんが、「ここに石やらタイルやら埋め戻していいですか」「ア、いいですよ」となり、それで石がゴロゴロ埋まっている。赤ん坊の頭くらいの大きさがある。何に使ってたんだろうといぶかしむが、もう後の祭りである。あの時は、ここに小さな畑作ろうとは思っていなかった。つるはしが雑草に埋もれて姿を見せず、スコップだけの作業で手間と力がいった。三〇分やったら汗ばんできたので、もうやめた!しかし、東西に長い 4m 弱、多分 3.5m(多目に言いたくなる)のウネを一本と 70cm X 70cm くらいの四角い、ほぼ畑可能な場所を得る。体をならして朝一時間位の畑仕事が今の体力には理想であろう。区民農園 30 分スケッチ、自分の畑 40 分を早朝の日課としたい。守るわけないけど。七時半二階に上る。上から、下の掘り返したところを眺めおろし、満足である。

昨夜は「夢見つつ深く植えよ」メイ・サートン みすず書房 武田尚子訳一九九六年 \2500 、を読んだ。サートンはヨーロッパ(イギリス)からアメリカに移った両親を持つ。それ故に深くイギリス人の庭園好みをDNAに持つ。そこかしこにイギリス人(この人はベルギー生まれのようだが、自分ではヨーロッパ人であるとしている)の趣向が見え隠れする。日本の庭にも教養を持ち、円覚寺の梅の香にイギリス的ファンタジーの香りをかぎつけたりもしている。以前、一度通読したが、通り過ぎただけだった。今回は何かがチョッとひっかかる。

もう一度、じっくり読んでみたい。母親が英国人、父親が科学史の学究であり、アメリカ・ニューイングランドのど田舎ネルソンに 46 才で移り住んだときの自伝的エッセイである。

アメリカの東海岸の北は、ネイティブ・アメリカンをのぞく、(視界の外にする)アメリカの発祥の地であり、サートンのヨーロッパのDNAとアメリカの折り合いのつけ方が興味深いのだろうが、私の知識ではいかんともしがたい。ヘンリー・デービット・ソローの森の生活の、女性からの現代的視界だと思う。

私の庭趣味と言えば、はっきりしている。私は近郊にポツリポツンと残っていた農家の庭の記憶が鮮烈にあり、それ以上に強いモノはない。京都の石庭や禅の庭は、敬遠している。ダリア、矢車草、コスモス、おみなえし、芝桜、松葉ボタン、などが咲き乱れている庭で、いつだったかイギリスを汽車で動いた時に車窓から一瞬見えたそんなに新しくはない郊外住宅の庭の花々が、全く同じであった事を忘れられない。スコットランド民謡と同じに庭草、花の種も移入したかの考えにとりつかれて、草花の種の歴史をかじってみようかと思い付いたりもしたが、能力が無くて、あきらめた。勿体ない事をした。

サートンが深く掘れ、じゃない深く植えよ、と堂々たる詩人の魂で言い、そうかと感じ入り、私も 60cm 以上の穴を掘ろうとしたのだが、40cm 位で止めたのであった。

しかし、サートンが庭作りは若い年には不可能で、五〇才をこえぬと出来ないと言うのは然りと思う。立原道造の年では、やはり経験も、しかる故に教養もいささか浅くて、庭はデケンだろうと思うな。今朝も区民農園は七〇才代の老人ばかりであった。

八時半、主婦の友社編「野菜 50 育て方のコツ」かじり読み。この本の通りにやってうまくゆくわけも無いのはすでに知っている。区民農園で学んだ方が良いし面白い。九時朝食。

045 世田谷村日記・ある種族へ
九月七日

八時過、二階から下の畑を眺めおろす。いささか得た畑の秋まきのプランを考える。2mX2mの一隅に生ゴミを埋めるコンポストを設置した。これで毎日のように排出する世田谷村の生ゴミを村内に循環させるという、建築当初の考えに戻る事はできるのだけれど、生ゴミを埋めたところにすぐ野菜の種をまく事は出来ない。とすると野菜を作る楽しみの為にはこの面積に同じの空地を得なければならない。秋まき野菜は大変なのだ。春まきの跡始末からしなくてはならない。それにここは以前平家の家が建っていたところで、土地がやせているのだ。土の改良もしなくては。区民農園の方々も土、肥料、害虫にはとても気を使っている。私なりに区民農園に学んで私なりのやり方を得たい。

高速道路が無料化されたら、富士山か我孫子に農園移住するのもいいなと思う。ベイシーの一ノ関周辺でもいいか。

十一時半、研究室で土・日の世田谷村でのWORKを伝達。絶版書房アニミズム紀行4、22 冊にドローイングを描き込む。集中して、何とか乗り切る。十五時、鈴木(了)、ウォーラル、加藤各先生と映像ゼミ準備会。まだそれぞれの先生が別世界を想い描いているようで、これは前途多難だな。

十七時半 NTT出版K氏来室。「夜の講義録」本づくりの打合わせ。基本的にはこの本は建築のサヴァイバル、ギリギリの再生への径を私なりに考えたものである。ペーパーメディアの未来、つまり本の未来も決してバラ色ではない。むしろ闇だ。

恐らく、まだこのサイトの読者でさえも、私が絶版書房なる限定部数、増刷なしの出版活動を始めた事をいぶかしんでいるにちがいない。実に、私だっていぶかしんでいるのだ。どうなるんだろうと思ってはいる。でも不安や、こんな事やってどうなんだ、の気持は無い。気がついたら、始めちゃっていて、ドローイングを描き込むのは大変だけど、今日なんかは新種の楽しみが生まれてきている。この新種の楽しみについては、少しずつ書いてみたい。もしかしたら、あくまでもしかしたらなのですが、私にとっては大事な事かもしれない。

十九時コーリア料理、ホラ話しに興じる二十二時半世田谷村に戻る。

九月八日

六時起床。ボーッとして過す。七時畑へ。四〇分程の土起し、草刈り。汗びっしょりになり気持悪くなる寸前にやはり休断。区民農園観察に出掛けるも人影無し。八時過ぎ戻る。

変な事を考えついた。畑仕事で気持悪くなった頭で考えた事だ。近くの区民農園には 125 区画ある。区民農園にブラリと出掛ける度に、私としたら異常なんだが、妙に我ながらニコヤカに菜園の方々にあいさつしてしまうのだ。

小沢一郎程ではないが我ながら無愛想である。とっつきも悪い。人間嫌いではないのだが、好きより、嫌いが先に出る。で、区民農園での自分は変だというのに気付きつつある。何故、こんなに愛想がいいんだろうかと我ながら気味が悪い。変わりはしまいと思っていた政権が代わった様に、自分の無愛想も変わってしまったのだろうかといささか不安である。どうしてなんだと考えた。

私が区議選や都知事選に立候補するなんて事は、これは一切合切ない。大体、小学生の頃から私は選挙には弱かった。学級委員の選挙では25対24でいつも負けていた。女の子の票が集らなかった。ケンカは強くなかったけどマアガキ大将であったから、男の子の票は少なからず集ったんだが、女性票がダメだった。

話しがあらぬ方向へいっちまったが、これ位、区民農園に入れ込んで散歩、観察、ごあいさつ、おしゃべりに打ち興じている人間は、恐らく日本で唯一なのではあるまいか。他人の区民農園をブラリが趣味になった。もう区民農園ブラリ同好会を一人で結成して、小学生の頃なれなかった学級委員ならぬ、一気に会長になってしまおうと想ったり、想わなかったりである。

しかしながらである。私は良く良く考えて見るならば、何処においてもはぐれ者風の自覚があるけれど、本当はですねコミュニティというか、小集団愛好癖があるのではなかろうか。小集団マニアである。

昔の、高山建築学校への熱中、早稲田でのA3ワークショップやバウハウス建築大学との集まりの結成。婆沙羅結成と破壊、何やかや、ガヤガヤやるのがどうやら趣味であった。ここ数年はそのクセもようやく身をひそめ、清流の岩魚の如き生活になっていた。こんな筈ではなかった。そうなんだ、そうだったのかと、成程成程と納得する事にした。区民農園通いはやはり一種の選挙運動だったのである。

一種という種はどういう種であるか。

絶版書房 II を立ち上げて、私なりに良しやってやるぞと覚悟はしているのだが、やっぱり何かが不足である。自分で書いて、あるいは描いて、思い通りの出版はしている。だが、本当は私は保守的な人間である。変な出版はやっている、これからも続ける。でも、普通の大通りの出版無くして、私の、自前の、セルフビルドの本も無いのはよおく知っている。

二百部、四百部しか作りませんよ、といきがるのも面白いのだが、好きにやれば、フンと言われてしまえば全く立場が無い。弱り目にたたり目の出版界だけど、やはり大通りあっての裏通りであり、袋小路なのだ。

で、N社のK氏と、活字メディアのごっつい面白い奴を作ってみようとなった。追い追い、その件、計画は述べてゆくが、その本と区民農園 125 区画を結びつけようと、いきなり思った。私の小集団マニア振りと、活字大好き振りを結びつける計画を立てた。今一冊のハードな本を売る、買ってもらうのは本当に大変な事だ。

結論という程立派なものではないが、グデグデ言ってないで。

私は今年末から明くる年の始めに発売予定の私の非絶版書房版N社よりの私の本を何とかして 125 区画の区民農園の人々の幾たりかに手にしていただこうという計画を開始するのであった。区民農園の方々は私が属する今のいかなる業界にも属していない人々である。第 80 区画の人は設計事務所自営の方で、私を少し知っていてくれている。が、他の 124 区画は全くの未知との遭遇である。筋金入りの市民だ。昔、学生だった頃、吉阪隆正先生が 21世 紀はキミ、ゴミと市民社会、人口問題が大事だと言っていたのを思い出す。変な先生だったけど、妙にさえていたな。あの人は。

今日から早速始めて、何とかイヤらしくなく、あるいは徹底的にストレートに選挙運動をして、N社の私の本を、この菜園家の皆さんの幾たりかに手にしていただく計画を実行する。本の予約販売のチラシは禁じ手だな。イヤダ。勿論、区民農園にポスターを貼るのも駄目。大体そんな度胸が私にあれば、私はもっと羽ばたいていた。そして暗い所につながれていただろう。使う道具はインターネットだけ。つまり、このページを見ず知らずの 125 区画、恐らく 200 名くらいの人々にどうクリックしていただけるかを高度なゲームとして始めてみる。70 才以上の年の方はコンピューターに触れぬ人も多いだろうから、別の手を考え出す必要がある。

名付けて「区民農園で私の本を読む計画」。これがうまくいけば活字メディアにも未来はある。

044 世田谷村日記・ある種族へ
九月四日

十三時より、絶版書房・アニミズム紀行4、40 冊にドローイングを入れる。当初は 20 冊位にしておこうと考えていたが、やり始めたら止まらなくなった。予約も百三十冊を超えているので、追いかけられている現実もあった。面白いもので、40 冊、六時間ぶっ続けに、休みなく筆を動かし、絵ノ具をといていると、何か日常とは異なる世界に突入していくのです。

何というのか、頭や手よりも筆が勝手に私に命令してくる。おわりの 10 冊程は自然に、筆が省力化を要求してきて、図形が少しシンプルになった。そして、そのシンプルになった図形は手のこんだその前の図像よりも仲々良いのであった。十九時過迄。

新制作ノートの次の為のドローイングを決めて、二〇時近江屋で一服。二十二時世田谷村に戻る。

九月五日 土曜日

七時起床。昨日決めていた通りに、意を決して、下の菜園に。残念ながら良い天気で、ここで畑をやらねばもう今年の畑は無いな、の必死の覚悟であった。

無防備に素手、素顔で雑草のジャングルに入り込むと、ウォーンと音がする位に蚊の襲来。ヒェーッと逃げ出す。皮膚が外気にさらされている部分には黒山の蚊である。 黒ネットで顔をおおい、軍手、長靴で再挑戦。ここで引き下がったら、今年の畑は無いので、いささか必死である。 一時間程をかけて、汗びっしょり、草刈と、久し振りの土起こしに没入。昨日作ったマニフェスト通りにほぼ一坪、イヤ、正直なところ一坪弱の地面を出現させた。

何を大げさなと決していうなかれ、のび放題の雑草、クズのツタを切り払い土の表面を出現させるのは、本当に大変なのであった。これ以上やると、倒れるなと冷静になり、区民農園に足を運ぶ。休日なので多くの人間が働いていた。皆さんは実に偉大な菜園家である。80 区画の方の又も立派なゴーヤをいただき、防虫用の薬オルトランを教えられる。彼のところは総選挙明けの台風後にまいたという大根がすでに芽を出し、美しい防虫ネットがかけられていた。しばらくお目にかかっていない奄美の老人の畑も実に丹念に手入れがなされていて、老人は防虫ネットではなく、土にオルトランをまいているらしい。

別の畑では、防虫に、ニンニクと焼酎を混ぜたオリジナル防虫液を作り、まいているようだ。今年は黄金虫が異常発生して随分、やられたとの事。皆さん、実に小さな畑に独自の工夫をこらしている。凄い事だなコレワ。何とか、あまりにも固い我々の分野にも繰り込む工夫をしなくてはならないと痛感する。

十時、世田谷村に区民農園から戻る。良い朝になった。きまぐれコラム 3 を書く。新制作ノート 5 書き。十二時過再び畑へ。本当にブッ倒れそうになる。体から湯気が上るのを見る。区民農園に出掛けてみたら一人女性だけが野菜の姿にほの隠れていた。

今、二〇時、今日は朝、久し振りに畑に出て汗をかいて以降、とても体も頭も働きが良くて、色々とはかどった。

九月六日 日曜日

四時半起床。五時過畑へ。クワをふるい、カマを持つ。早朝の冷気が気持よいが、すぐに汗ばむ。畑のほぼ中央に、たった2つの実をつけたゴーヤの小さな棚がある。先ずこいつを取り外すかどうか考えあぐねる。結果、保存する。ハハーッ、我ながら畑作りにまで建築の観念持ち込むなよバカとは思うのだが、小さな畑全体の、マア美学というか、思い付きとしてはやはりゴーヤの棚は残した方が良いとなったのである。テヘへだね。

しかしである。畑をやっていると耕作のやり方、つまり土の掘り起し方は何となく直角優先になる。建築の方をやっていると直角を外そうとなる。何だろうね、この気持ちの動き方は。六時前迄は畑をやって小休。朝の風の中に身を休ませる。

七時、区民農園へ。いい匂いの風が吹いている。長グツ、半ソデのアンダーウェアの姿で歩いていたら、「蚊にやられますよ」と声を掛けられた。そうだよね。半袖のお百姓さんなんて見た事がないな。30 分程すごす。

十一時半過、再び区民農園へ。小さな子供用自転車が農園の入口の道路にとめられていた。アッ、あの私の大好きなおじいさん来てるなと 72 区画に行くと、やっぱりいた。数ヶ月振りの再会である。「トマト、持ってく?」立派なトマトの棚から5、6個ハサミで切り取って、持たせてくれた。私もすぐに世田谷村に戻り、冷蔵庫からアイスクリーム他を持ち出し、お返し。秋はブロッコリが育ちそうで楽しみだとの事であった。

十七時半、ざくろ小路の乳児院エスキス修了。少し計りつめて集中してエスキスしたので何とかまとまりそうだ。もう今日はこれ位で考えすぎぬようにしないといけない。この計画はこれで何とかなるだろう。建築のエスキスはやっぱり楽で、楽しい。これで何とか広島の木本さんに次のWORKの方向が示せそうだ。

建築のフォルムに動きのようなモノが出現しているので楽しみである。大仰な動きではなくジワリというような感じの動きだ。アニミズム紀行の旅が実体に確実に反映されているのを知る。十九時過迄、エスキスを展開する。

九月七日

六時起床。昨夜ベーシーからFAXが入っていた。日記、その他を研究室に送信。だいぶ量があるので編集は大変だろう。

七時、畑におりようと思ったが、まだ陽光がうちの畑にはさしていないので区民農園に出掛ける。戻って、畑を少し計り、蚊が凄い。生ゴミを埋めて、土を掘り返し、2m×2m程の面積を得る。土の中は色んな草やツタの根がはびこり迷宮です。

043 世田谷村日記・ある種族へ
九月三日

アニミズム紀行4、23 冊にドローイングを入れる。筆が勝手に動く時があって、恐らくそんな時にはアイデアが生まれているのであろうと思われる。しかし 23 冊もやり続けると、これは能力なのだろうがどうしても同じようなモノになり易く、完全にパターン化、画一化しそうになったので今日は停止。

計画中の乳児院のスタディ模型をチェック。十九時半までミーティング。二〇時新大久保回転寿司で一服、二十一時まで。二十二時世田谷村に戻る。

九月四日

八時起床。鈴木博之先生退官記念講義へ寄稿した原稿のゲラに手を入れる。「現代装飾論」と題された、私的ではあるが目分としてはかなり力を入れたものなので、いずれ読んでいただきたい。東大出版会、2800 円である。九時過修了。区民農園まで出掛ける。十時過戻る。世田谷村の菜園は今は庭園と呼ぶに似つかわしく、とても地ベタに座って陽光をあびるというわけにはゆかぬ。地べたに座れば草に顔が触れ、チクチクするし、昨日草刈りを少しばかりしたとは言え、ようやくゴーヤの棚が雑草の中に発掘されたような状態である。

大体、家人が何処からかもらってきたと言う酔芙蓉の木がアッという間に大きくなって、猫の額程の菜園に影を落として、区民農園よりも余程暗いのである。それで自分のところの菜園ではなくって、区民農園の方へくつろぎに出掛けるのである。

区民農園ではあった人には皆あいさつをして、できるだけ言葉を交わす。次の選挙に打って出れば、確実に 10 票は入るな、なんて馬鹿な事も考えてみる。

お婆ちゃんが地ベタに座り込んで、採取した枝豆の葉をむしっていたり、区民農園は今、堂々たる光景を造り出している最中だ。なかには、私のように途中で放り投げて、雑草ボーボーの区画もないわけではないが、大方は実に健全に各種野菜が育ち、何度目かの収穫を待っている。

私のように口百姓、口菜園家ではなく、皆堂々たる、都市内菜園家である。

「今だと、白菜は我々素人でも種まいたら、芽がでるよ。本当は苗からの方が楽なんだけれどね」

と教えられたりもする。

過ぎ去りし春、虫にボロボロに喰い荒らされて、三つはついに捨てた、たった五つを苗から育てたのを思い出したりもした。

私はたった五つの白菜の小苗に防虫ネットを張るという、ささいな労力を惜しんだ。ただそれだけの事で、このちがいが生れる。

区民農園の苗はほとんどが防虫ネットで防護されている。

自然のままに任せよう、なんて馬鹿なヘリクツもあって、防虫ネットも虫除けもやらなかった現実は、食い破られた白菜の骨と、残ガイだけであった。全く、野菜は人工のモノなのだ。手入れしないと育たない。畑は人間の足音で育つとの名言を素晴らしいとは思うのであるが、遂に私は自分の畑に足音をひびかせる事は梅雨以降なかった。ただ、それだけで私の猫の額畑は廃園になった。しかもつづけて三年連続廃園状態なのである。まるで、いまの自民党だな、コレワ。

そうか、今年はこの循環を断ち切る為に、週末は一坪でも良い、むしろたった一坪にしよう、廃園復興運動に乗り出そうと意を決したのであった。でも、その一坪が大変なのは身にしみて知ってもいるのだ。

週末、つまり明日は、雨になってくれれば良いなと思う。そしたら、やらなくてもすむからね。

042 世田谷村日記・ある種族へ
九月二日

十二時前研究室。稲田堤の計画規模、予算ほぼ決定し、エスキス通りになりそうだ。十三時より、M1、M0、M2ゼミ。M1の共同研究の方向が仲々良い、サイトに公開したいとの事なので、読む人の気持になってページを作り直すようにすすめた。ページの設計製図のヒントに明日から週一のペースでお目見えするので、一読されたい。十八時了。雑事処理後、十九時過八重洲小樽でS君と会う。二〇時半了。二十一時半世田谷村。

九月三日

五時半起床。乳児院エスキスに気合いを入れる。水の神殿時間の倉庫との連続性が出現してくる。設計は頭だけを動かしていてもやはりどうにもならぬところがあり、頭と手が連動しないと駄目なのだ。

品川宿の友人達も、総選挙の結果にガックリしているような、どこ吹く風ですよの話しもあり、私としては当然どこ吹く風の庶民の力を信じるだけだ。昨夜ネパールのジュニーの話しが出て、これも少し計り風が吹くきざしが見えてきた。キルティプール計画も頭の中の一角に一定の空間を占領させなくてはならぬ。

六時過、菜園の雑草刈りを少し計り、あんまり夢中にならぬようにするのが大事。チョコチョコ位が長続きするのだ。シソの葉をそれでも得た。汗ばんできたのですぐ止めて、区民農園に自転車で。3人程の人間が畑仕事をしていた。80 区画の方に又会えて、あいさつ。同業の方である。

「やっぱりストレスありますから、これやってると気が抜けるんです」

本当にそうだよね。何かを育てたり、つくったりは生きるに大事なのだ。

ゴーヤを一ついただいて、帰ったら家人が世田谷村の雑草菜園から二つゴーヤを採ってきた。私には一向に自分のところのゴーヤの姿は眼に入らなかったのだが、残念である。

どうやら私は他人の畑がまぶしく見えるタイプの典型である。

区民農園でいただいたゴーヤと比べると、ウチのゴーヤは明らかにおかしい。丸っこい。手投弾そっくりの形をしている。いただいたゴーヤはきちんと細長く堂々としている。ウチのはウーン、みるからに手投弾としか言い様がない。野菜も一つ一つが皆ちがうんだとしみじみしてしまう。こうしみじみしていてはイカン、どうしようもないと反省。

すぐ喰べ比べてみることにしたい。このいかにもなセコさが私の取り得なのである。

コラム「スパイダーマン」書いた。書きたい事だけを書いている。このコラムには。サイトのほとんど全てがそうなんだが、コラムはとりわけてそうです。

041 世田谷村日記・ある種族へ
九月一日

雑用を済ませ十四時前世田谷村発。十五時前、地下鉄大江戸線新江古田。白井晟一自邸虚白庵。原広司、藤森照信、鈴木了二、中川武と白井晟一について討論。私は二十二、三才の時にヒョイと一日白井晟一のところで図面を描いていた事があって、その御縁であろう。十七時過了。この討論は来年一月号の住宅建築にまとめられるとの事。修了後、ムスビと豆腐をいただく。中谷礼仁の仕掛けらしい。

虚白庵の印象はやはり、まがいの建築の典型である。まがいと敢えて言うのは、今の時代が情報の時代=まがいの時代である、との考えに通じており、現代的な意味合いが大きいという事でもある。否定的な意味合いばかりではない。

それにしても白井晟一の建築はどれもが、高級ゲストハウス、迎賓館のような趣きになったのはどうした事であろうか。住宅も銀行も美術館も町役場も、皆、迎賓館の表情になる。

帰りがけ、原さん等とビール。原さんは七十三才になられた。十九時半了。地下鉄新宿で皆と別れて世田谷村に二〇時半過戻り。

東北の結城さんより長文のFAXいただく。又、博多のTさんより連絡いただく。縁だな全て。

九月二日

六時起床。結城登美雄さんに返信を書き送る。やはり長文とならざるを得ない。八時半了、思いがけなく少し時間がかかった。小休。

アニミズム紀行4の残冊が一〇〇近くになり、アニミズム紀行3の残冊四八を追い抜くかも知れない。ゆっくりやろう。

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2009 all rights reserved
SINCE 8/8/'96