098 世田谷村日記・ある種族へ
十一月三〇日

十二時過、チリ展示会解体中の現場。アッという間に跡形も無くなっているところが面白い。これが大きなスケール、つまりさらに質量が伴うものになると力を持つだろう。とすると、あらゆる建築の形式は倉庫状になる道筋がある。今のところはそういう(現代的な)必然も持つのではないか。「時間の倉庫」で大きな展示会の如き、しかも一年間くらいの通しで企画してみるのは面白いかも知れない。

先日、白井晟一邸で行なわれた白井晟一に関する対談のゲラに目を通す。安西直紀の連載開始対談(日刊生徒指導二〇一〇年一月号)に目を通す。安西の連載は不登校の先駆けとしての経験が活かされるのではないか。

十六時過発東京駅八重洲へ。小樽で清水に会う。案の定、話し合って進めようとしていた全てのアイデアがバラバラに四散している。本当に良い人間のこれは限界なのである。鶴見俊輔は限界芸術論を書いて我々に多くを啓蒙してくれたが、本当は限界人間論を書いてくれた方が良かった。鶴見に限らず、マルクーゼ、そしてアンリ・ルフェーブル等の 60 年代を動かした思想家達のそれこそ限界であったか。まだわからないけれども。

二十一時世田谷村に戻るも、色々とイライラして気持が静まることをしない。単純な図式に戻すべきだと気付く。

絶版書房3、4号がまだ絶版し得ていない。一、二号は何とか絶版できた。少し計り印刷数を増やした3、4号が合わせて百冊程、売れ残っている。これが何とも情ないのである。ジタバタしても仕方ないが口惜しい。ジタバタはしないがジリジリしよう。当然の事ながら自分の力不足なのは知り尽くしているのではあるが、残念極まる。今年の残りは絶版書房の活動に精魂を傾けようと決めた。活動と言っても、セールスと次号、5号6号の展開、活動への戦術づくりをリアルにやりたい。

ペーパーメディアの将来は限りなく沈潜する。しかし失くなる事はない。雑誌という形式は近い将来消えるだろう。

それ故にこそ活字を自分で作り出して活字マーケット、すなわちペーパーメディアへミニマムなマーケットを自作したいと考えたのだ。

勿論これが誇大妄想的発想なのは重々、自覚している。自覚しているからこそ、実行したのである。このクセは直らない。

まあ、仕方もないのだろう、なにしろ一冊送料込みで二千五百円だからな。しかし、君、考えてもみたまえ、一人の人間がほとんど、手書きとも言える肉声で、それぞれの読者に手渡そうと自覚しているメディアなのですぞ。昼飯+ビールを一回くらい抜いて、手にすべきでしょう。グーッと腹にもたれて、二回程メシを抜いてもビクともしなくなるのはうけあうから。本当に、何故手にしないのかな、これからのモノ作り、モノ書き、その他諸々の表現はアニミズム抜きではあり得ないのである。

十二月一日

早朝、昨夜のメモを読み直し、やはり苦笑する。それでも手を入れずにおくの事とした。今日中に絶版書房アニミズム紀行5を書き始める。

097 世田谷村日記・ある種族へ
十一月二十七日

十四時大学。十五時チリからの来客、アルベルト・タイディ氏、ボサ氏。サンチャゴのサン・セバスチャン大学との協同計画について話し合う。チリの大学は何故か資金が豊かそうだ。十八時GAギャラリー。二川由夫、龍夫両氏とおしゃべり。兄弟共に元気である。幸夫氏は所用で不在。

十八時半ギャラリートーク。一時間半程話し質疑応答。若い人が多かった。最前列に女子高校生迄いて去年の世田谷美術館での連夜のレクチャーを思い出す。二〇時過了。二〇時四〇分新宿南口味王。カンボジアのナーリさんのオイにバッタリ会う。小学生時代の同級生と一緒であった。二十二時半まで。二十三時世田谷村に戻る。

十一月二十八日

九時起床。メモを記す。今日はチリの展示会のフォーラムがある。十二時研究室、通訳の方と打合わせ。十三時ボサ、タイディ両チリ建築家、十三時半難波さんを交じえて打合わせ。

十四時半フォーラム開始。開始当初は会場はガラガラであったが、予想通り修了時には多くの人、それでも百二十名位か、が集まった。ラテン・タイムである。ほぼ予定通り十八時頃修了。階下で、これはいささかリッチなレセプションパーティ。チリ大使館公使のスピーチでオープン。支援してくれたチリワインの方達の力もあり良い会になった。

二〇時過パーティを抜けて、難波さんと安西君等と会食。その後再び味王に行き、おひらき。二十三時頃世田谷村。

十一月二十九日 日曜日

終日、読書三昧。気持を切り換える必要がある。

十一月三〇日

六時起床。うそ寒い冬の日である。本格的な氷河期に耐える戦略の仕上げを急ぎたい。言うは易し、行うは困難なのは今更言うまでもないが、原則は繰り返されるのも俗世の習わしである。

096 世田谷村日記・ある種族へ
十一月二十六日

十二時四十五分世田谷線松陰神社前で野村と待合わせ。十三時前M氏夫妻宅。打合わせ。M氏「石山さんは俳句の会をやっているんですね」、日経新聞の鈴木博之が書いたコラムの影響である。M氏は元長銀で、長銀本社ビルの建設を担当したとの事。あのビルは私の同級生のM君がNK設計で担当した。M君は良くここに来たそうである。本当に世界は狭い。犬の額程の広さの中でゴチャゴチャ情報が動いている。M氏とボソボソと話したが、かなり人生観を同じにするなと直観した。鈴木博之のお陰であろうか。新しい友を得たかも知れぬ。十六時了。研究室に戻ろうと考えたが、スタッフも皆外出のようなので、世田谷村に戻ることにした。

半月が中天にかかり、凄い光を放下している。

095 世田谷村日記・ある種族へ
十一月二十五日

十時半クライアントT氏来室。十二時過迄打合わせ。打合わせ終了と同時にカゼの兆候ドーッと押し寄せる。念の為早退する。チリからの来客等に対応しなくてはならぬのだけれど、身体が一番だ。京王線電車に乗った途端にクシャミ連発。午後は休む。完全な休みは久し振りだ。

休むのにもエネルギーが必要だ。ジイッと横になっているエネルギー。

夜になりなんとかカゼは抑え込んだようだ。寝床で本を読み始めるも難しい本は身体が受けつけない。

十一月二十六日

七時前起床。今朝は九時過に研究室の野村さんから電話があるのでそれ迄にスケジュールを確定しておかねばならない。カゼ状態は何とか逃れたので当然午後のクライアントには会いに出掛けなくては。

「時間の倉庫」が自分に課しているある水準を超えられたと考えられるので、次のハードルを高く設定したい。

世の中は当然自分の思うまんまにはならぬものなのだが、それでもハードルだけは設定しておかないと高くは跳べなくなる。建築設計というのは実に厄介な代物で、常に相手がいる。相手が居ないと仕事にならない。つまりその相手に出会う為のハードル設定の必要という事になる。そのハードルの設計次第が要だ。

094 世田谷村日記・ある種族へ
十一月二十四日

六時半、読書。沢山の本を送っていただきながら読めずにいたモノを少しずつ読む。歳をとってから外を動き廻る、ましてや旅と言える程の事を続けるのには大変なエネルギーがいるのを知りつつある。

十時前発、新宿に寄って油壷月光ハウスへ。十三時前着。並木さん宮古島より帰ったばかり。チリの話し他、雑談をくりひろげる。

十六時失礼する。十八時世田谷村。

十一月二十五日

朝より、のどいがらっぽく風邪にやられたかも知れない。でも今日はクライアントと約束しているので休むわけにはいかない。

九時半前世田谷村発。いささか体が重い。

093 世田谷村日記・ある種族へ
十一月二〇日

十三時前研究室。雑用。十四時四十分地下スタジオで加藤先生と打合わせ。十五時三年生東大との合同課題の総評。その後、今年より始まる稲門建築会講座による第2課題の出題。稲門建築会会長竹中工務店村松氏より課題主旨説明。竹中工務店設計部長四氏によるオフィスビル設計についてのレクチャー。いずれも周到に準備されたものであった。十六時半過地下スタジオにて四名の先生に助教、助手等を加えた四テーブル制の指導が開始された。初めての事であり、いささかいらぬ心配もして一部始終を脇で見守る。二〇時終了。竹中工務店の四人の先生方とコーリア料理会食、意見交換会。二十三時世田谷村に戻る。

十一月二十一日

七時半起床。八時過発。九時過東京駅にて待合わせ。九時四〇分の新幹線郡山行。連休で大混雑したが、うまい便に乗れてゆったりと走る。車中にてT社長と話す。アッという間に十二時前郡山着。鬼沼農園のW氏迎え。小雨模様で寒い。W氏は鬼沼集落4戸の中の一つの農業家で牛を四〇頭程飼育し、養鶏事業等にも取組んでいる。

昼食をいつもの十割ソバ屋にしようか、W氏お気に入りのラーメン屋にするかと皆いささかの迷いを見せたが、W氏に敬意を表し、評判のラーメン屋大阪屋のラーメンとする。

「郡山からわざわざ猪苗代湖畔までくるんですよ」の言に従ったのである。

私はたんめんセット、T社長はソースかつれつを注文。

凄いボリュームである。この地域はよく喰べるのがモットーなのか。パンパンに満腹。味わうヒマもない。店は大変にぎわって満員。たしかに山の中の集落のラーメン屋としては異常だ。

鬼沼農園内で会員制の食堂やったら、もうかるかも知れぬというアイデアが生まれ、話し合う。面白かった。食堂の名前まで考えてしまう。私もふくめておかしな連中である。

十三時過鬼沼農園現場着。すぐに長グツにはき替え「時間の倉庫」現場へ。まだ気は抜けぬが、ほぼ完成である。計画通り建築の半分位は地中に埋まった。外の姿も良い。当り前だ。力を尽したんだから。建築が発するエネルギーを感じる。

内部は静謐に満ちている。光の回転運動、つまり地球の自転が感得できるように設計したのが、実現している。言わぬが華は知るのだが、これでひろしまハウスを忘れる事が出来るなと確信。ひろしまハウスを超える事が出来るだろう。細部の手直しを何点か指示。

大きな螺旋スロープを何度も昇り降りして光と音のざわめき、時間の速力を感じた。T社長よりここに来た子供達が嬉しがって、螺旋をかけ辿った話を聞く。そりゃそうだろう。この建築に入り込んでそうならぬ方がおかしい。十七時迄建築内外を見て廻る。外のドロのぬかるみに足をとられ倒れ込んで、ドロまみれになったが、どうと言う事はない。体内に不敵な自信が湧き上がるのを自覚。建築のおかげ様である。

この建築はデカン高原のアジャンタ、エローラの窟院群の記憶を再構築したのだが、そんな事とは別に、建築としていい線いっていると思う。エローラの第何窟であったか、窟院内の闇から遠く眺めたデカン高原の落日をありありと思い浮かべた。

十九時半迄前進基地で打合わせ。十二月の工程スケジュール、竣工検査のコト等。W氏宅に寄り、二百年経つという旧邸の内部を見せていただく。立派な、独特な神棚に心引かれたが、又、ゆっくり見せていただこう。八十七才の立派なお婆ちゃんにも会えた。実に立派な方である。

郡山への道中で、W氏宅には、度々、明治天皇が船で来臨されており、その際に座した畳が保存されている事等を面白く聞く。その畳を使って食堂をやったら面白かろうと空想を巡らせ一人笑う。バカだ。

郡山二〇時四〇分発。時間がおそく、駅弁が全て売り切れ。パンとビールの夕食。T社長に良い建築を作らせていただいてます、と御礼申し上げる。Tさんは来週から再びインドだ。この冷え切った世の中で、全く良く頑張っている。建築が出来るのも、その力のお陰様なのである。

二十二時半東京着。二十三時過世田谷村。デジタルカメラの記録を見直して、ウムウムと一人うなづく。次に進みたい。

十一月二十二日 日曜日

六時半起床。昨日のメモを記す。昨二十一日日本経済新聞夕刊、コラム交友抄に鈴木博之が妙見句会の事、私との交友の事を書いている。それで、一句詠みたいと考え、工夫をこらすも、上手くゆくわけもないし、冬の朝。十二日には鈴木博之さんと共になり、すぐ金子兜太門下妙見派を名乗ろうと、句作もせずに計画しているのである。 句作とは 苦策に似たり 雲凍る どうも真面目にやろうとすると我ながら、この程度である。金子師に入門するのには手みやげに数句なりを持参すべきなのであろうか。気になり始める。まさか鈴木博之は入門に備え秘かに句作にはげんでいるのではないかと疑念も黒雲の如く湧き上がる。まさか。しかし用心するにこしたことはない。

十三時半烏山区民センター。まちづくり協議会なる任意団体へ入会する為。区民センターの外のうそ寒い広場にテーブルを出して、三名が受付をしていた。500 円を払って入会。ところで次の会合はいつですか?と尋ねたら、年一回の総会だけだ一般は、と偉丈高である。そんなんじゃ入らないよ、この募集の目的は何なんだと言う事になり、あきれ果てる。

十一月二十三日

十時まで、夢をみたり、又、その続編の夢を見たりと器用な眠り方を続けながら眠ってしまった。寝床に射す陽光の角度でこれは十時くらいだな寝過したなと思った。確かめたらやはり十時であった。太陽の光の角度に前よりも感覚が敏感になっているんだろう。

鬼沼の時の谷、そして「時間の倉庫」を想う。今朝も「時間の倉庫」には東からの陽光が射し込み、そして実にゆっくりと建築内を回転している。空洞内の巨大な螺旋スロープの回転形と、それを動く人の視線と光の動きはうまく連動している。実にゆっくりと建築は大地と共に動く。それを人間が感知する。モノ皆動いているのを知る。

そんな感覚らしきを得たのはインドのエローラの巨大な窟院巡りの時であった。近代化以前のインドには場所という言葉は似合わない。やはり大地としか言い様がない。その大地の、人間の仕業としたら最奥部迄辿り着いたであろう建築空間の内部で得た感触である。 何とかその感触は建築化できた。アニミズム紀行5、6でそれを書き残したい。

十二時前、区民農園。六、七名の人間。知り合いは居らず一巡して村に戻る。自分の小菜園の白菜一つ採る。夕方喰べよう。

092 世田谷村日記・ある種族へ
十一月十九日

十三時前チリ建国二〇〇年祭会場。市根井さんがアフターケアに来ていたので、研究室で若干の打合わせ。木のプロダクトの件。十三時半M2修論、修計をみる。S氏来室。十五時過教室会議。十六時了。十八時人事小委員会。二〇時半迄。二十二時世田谷村。

十一月二〇日

六時起床。熱いお茶がおいしい季節になってきた。設計製図のヒント合同課題3を書く。研究室にオペレーション送附等雑用。七時四十五分修了。小休。

山口勝弘さんより久し振りに便りをいただいた。お元気なようでホッとする。ホッとするどころか、仰天した。山口勝弘さんは大阪で個展を開くという知らせである。2001 年に病に倒れ、再起不能と思われていたのに、車椅子、しかも半身で制作を続けられた。それだけでも奇跡のように思えたが、遂に個展開催までたどりついてしまった。

ちょっと疲れたと言ってはゴロゴロしている私にはもう神々しいばかりの姿である。山口さんはユーモアも忘れず、「神々しいのはミイラだからだ」といって笑うだろうが、まことに悠々として、しかも凄惨、壮絶なモノを眼の当りにしているのを痛感する。

今、個展お目出とうございます、と電話したら、「トイレにゆきたいの、またネ」だって。自由自在だな。

「山口勝弘とイカロス展」2009 年 12 月 1 日(火)- 12 月 26 日(土)

毎週火曜 - 金曜 12 時 - 19 時 土曜 12 時 -17 時 日、月休廊

The Third Gallery Aya 大阪市西区江戸堀 1-8-24 若狭ビル2F

TEL/FAX 06-6445-3557

http://www.thethirdgalleryaya.com/

案内状には四葉のイカロスシリーズ、ペインティングの写真があって、色といい短く簡明な筆使いの群が、それこそギリシャの空を飛んだイカロスの羽のように、透明ではあるがザワザワとした風を想わせ、まったく美しい。見ほれてしまう。

「私はコンピュータ万能の時代に敢えて背を向けて、ギリシャ古代の伝説に登場しているイカロス父子のナンセンスな飛行術をテーマにした絵画作品を描き始めました」と唄い、「私のメッセージによるバーチャル時代への反逆の姿勢が分ると思います」と宣言している。ホトホトと音がする位に感心する。聞けば、ピアノで作曲して、イカロスの歌まで会場に流しているらしい。

八〇才の車椅子の仕業ではない。本物の芸術家っているんだな。十一時半烏山ホームで毎日新聞荻尾氏と会う。

091 世田谷村日記・ある種族へ
十一月十七日

夕方、新大久保近江屋で加藤先生と三年設計製図採点。大きな意見の喰い違いもなく、すんなり決まった。

十九時世田谷村に戻り、ひたすら休む。

十一月十八日

十時二〇分研究室。昨日、シナリオを作ってアレンジしてもらったデータを確認し、十時四〇分特別先端講義。水の神殿、鬼沼、時間の倉庫、チリ、モバイルシアター。最終にミャンマーの仏教大学計画案。北海道の仕事から鬼沼、今、大学アトリウムで展示中のチリ計画、そしてミャンマーのプロジェクトと、最新の仕事を通しで見るのは自分でも初めての事で、面白かった。

十三時、用件が発生し研究室発。ひとり「設計製図のヒント」書く。だいぶん長いクリティークになりそうだが、東大との合同課題三年間のまとめになるので、それも良いだろう。

二〇時東北一ノ関ベイシーの菅原と久し振りに肉声で話す。ベイシーは観光客で大にぎわいとの事である。良かった。

090 世田谷村日記・ある種族へ
十一月十五日

八時朝食。昨夜は山田脩二達は結局四時迄飲んだらしい。化け物だな。ロビーで栄久庵さん、オカミに道具寺の話しをして、九時半皆と別れて長崎空港へ。十時過空港で別便の栄久庵さん等とお別れ。十時五十五分発。機内で眠り、十二時半羽田着。途中、伊豆西海岸松崎町上空を飛び、懐かしく松崎を想う。

十四時大学。チリ展示会の現場を見る。まだまだ仕上っていない。十五時地下スタジオ。三年設計製図。最終プレゼンテーションを見る。

十八時チリ展示会、会場へ。仕上げ指示。何とかなるだろう。

二十一時新大久保のヤキ鳥屋で市根井さん達大工さん三名とミハエル、マーシャをねぎらう。二十三時半世田谷村。

十一月十六日

八時半起床。九時発。十時大学チリ展会場。ロベルト・アンドラカ日本チリ経済委員会長、ダニエル・カルバージョ、チリ共和国大使等一行を迎える。テープカット、セレモニーの後、会場を案内。チリからやってきたコンテナ内の石山研プレゼンテーションを共に見る。プロジェクトの進展を祈る。アンドラカ氏はユーモアのセンス溢れた人物である。チリ有数の経済人であり、実に大柄な人格であるのが、すぐに知れた。十一時過車で大学大隈会館へ。十一時半大学総長室の面々と会談。十二時了。アンドラカ氏とお互いに「アイ・ライク・ユー」と言い交わし、お別れ。地下鉄で東大前へ。十二時半過難波研へ。難波先生と労をねぎらう。

十三時過最終講評会開始。

第一組、早大フェニキアチーム。石井、小倉、小林と、東大、石原、大江、栗生チームとの一対一の発表。フェニキアの堂々たる発表と東大の大胆だが率直な発表が好対照で良かった。

第二組、早大NPOチーム、及川、竹花、掘チーム対東大、藤本、中島、西倉チーム。早大の都市的骨格の提案に対し、東大の建築的ストラクチャーに生活表現がハイブリッドされた案が、これも又対照的であった。早大の立体に対し、東大の平面計画の工夫である。

第三組、早大場所の生命、小野、田村、松岡対東大池上、谷口、南チーム。異論はあろうが早大チームの総合的力量が光った。東大南さくらさんの論理的な説明能力は良かった

第四組早大場所のリアリズム、五月女、坂根、村岡チーム対東大一万田、中川、福岡。私見ではあるが、これは早大チームの社会性、論理的な志向が明快であった。東大チームの平面計画に表われた巨大アールのアイデアは別のスケールでの都市性を希求すべきであったのではないか。

第五組早大、スケール・ダウン、斉藤、竹味、根本対東大、国枝、佐藤、吉里チーム。東大チームの映像に対する意欲はとても良かったが、早大チームの配置計画の誤りはあるにせよ、着実な努力は賞讃に値する。

以上、五組の対抗試合の印象とは別に、二チーム毎の分評会では早大第六組、大森、宮澤、東大六組、安藤、浦西、松井が興味深かった。又、東大タンチーシャン、船橋、キムソンジョン、デービッドの作品は清新なコスモポリタニズムを感知させて、嬉しいものがあった。

他の印象は別の機会に述べたい。総じて、三回目の合同課題に相応しいものであった。両校建築学生の健闘、努力をたたえたい。良い未来を!

講評終了後、難波研究室で休む。

「フェニキア良かったよ。」の総評。今年の早稲田、東大共に層は部厚かった。建築の未来に期待したい。

十九時、懇親会。両校の建築生と話し合う。二〇時前、鈴木博之先生、難波先生と近くの料理屋で慰労会。その後、鈴木博之先生の池袋の魔窟ワインバーで一服する。二十三時過頃世田谷村に戻り、眠る。

089 世田谷村日記・ある種族へ
十一月十三日

十三時チリ建国二〇〇年祭展示会場にてチリの女性アーティスト、アンドレア・カルバチョ・ヴィルケに会う。チリの特産物銅を用い、古代の先住民族の技法で、ゆっくりと長い時間をかけて絹糸と銅を絡ませた作品をつくる。実に繊細な仕事である。彼女を地下スタジオに案内し学生達の模型等を見せる。

十五時、三年設計製図提出、及び十六日の東大での発表のリハーサル。二十五グループ全ての発表を見、聞く。上位5グループは東大とのガチンコ対決になる。早稲田建築は製図講評の伝統に従い良いモノ順に率直にやる。

一、フェニキア・チーム、二、NPOと呼んでいる、4本のビルを並立させ、屋上をフラットにつないでいる案。三、デジタル・アールトと呼んでいる、アルヴァ・アールト風を少し知的に構成しようと試みている案。四、既存の建築には一切手をつけず、東西南北に小建築を増設した案。五、既存建築の裏側、及び周辺に小建築を配し、敷地全体をバザールとした案。以上である。五枠には入らなかったが、計画学批判とも考えられる、趣味のグループ化による計画案を六番に、七番は二人でやったバザール案。以下、25 番目迄。二〇時修了。二十一時半世田谷村。

十一月十四日

五時二〇分起床。七時過羽田。八時過のJAL長崎行の予定が一時間遅れて九時過となる。十一時過長崎空港着。筒井ガンコ堂氏佐賀新聞梅木氏迎えて下さり、車で有田へ。昼過有田、佐賀県立九州陶磁文化館。「森正洋の全仕事展」会場へ。

森正洋の食器他の全仕事が紹介されている。一人の人間が良くもまあこれ程の仕事を成し遂げたものだと感服する。本当に凄い。必見の価値あり。

世田谷美術館N氏、他、早稲田バウハウス佐賀のOB達が来場してくれていた。懐かしい。過去を振り返ってはいけないが、佐賀には特別な想いがあるんだなあ。館長さんにお目にかかったり、森さんの食器でカレーライスをいただいたりで十四時のトークショー迄の時を過す。

栄久庵憲司さんの東京からの飛行機が遅れるとの報が入り、筒井ガンコ堂さんあわてふためく。栄久庵さんと私の対談らしきを司会しようとしていたのだから当然だろう。私は別にどうと言うことはない。

予定通り十四時開演。会場のオーディトリアムは二〇〇名程の人がつめかけてくれて、ほぼ満員である。どうやら 45 分くらいは栄久庵さん抜きでつながなくてはならない。つなぎに、つないで、十五時栄久庵さん到着。会場から拍手。やはり千両役者である。

森正洋さんの仕事について話し合う。面白かった。

「森正洋の全仕事」森正洋デザイン研究所編 ランダムハウス講談社 2381 円税別、参。

私も、何とかチャンスを得てプロダクトデザインの世界へ参入してみたいので全身で吸収したい。森正洋の世界を。 十六時半トークショー無事修了。

何と、山田脩二まで会場に出現してしまい、夜が思いやられる。

車で嬉野温泉大正屋へ。山田脩二に 90 才の大正屋のおかみを紹介される。堂々たる女性だ。すっかり、おかみは山田にほれ込んでいるようで、ティーギャラリーは山田の写真展示場の如くであった。

才能だな、コレワ、山田の。山田の上階の特別室で、ビールをやる。この旅館は仲々予約も取れぬ位に大はやりの筈なのに、いきなり来た山田だけ、凄い部屋にスッポリ、おさまっているのであった。離れは吉村順三設計である。

十九時特別室で栄久庵さんを囲み、宴席。料理もおいしく、良い会になった。山田も酔っ払わず、珍しくキチンと普通の人の如くに演技してくれて、騒動は起きなかった。

というよりも、山田が酔払う前に早々と私も栄久庵さんも退室したのである。アトはどうなったかは知らない。知らんぞーを決め込んで温泉にも入らず、バッタリ眠った。

十一月十五日

四時目覚め、五時滝の湯につかる。いい温泉である。

088 世田谷村日記・ある種族へ
十一月十一日

昼、大学キャンパス 55 号館アトリウム内のチリ建国二〇〇年祭プレビュー展示会現場。市根井さんが二人のスタッフとともに工事にいそしんでいる。コンテナ内部は大方出来上り、なかなか全体として良い仕上がりである。

午後、地下スタジオ、馬場昭道氏が僧侶姿で来室したりで学生は少しばかり、驚いたろう。M邸のアイデアをと思うが仲々上手くいかない。世田谷文学館のショップ用小物の件、市根井さんが身近にいる間にまとめるつもりで作業する。

夕方より三年生の合同課題をみる。どうもプレゼンテーションが上手くいっていない。何とか東大との一対一のステージに上る5グループくらいはキチンと仕上げさせないといけないと考え少々ハッパをかける。

毎度ながらB、Cクラスの学生の力の向上には大いに役に立つのだがトップクラスを生み出す苦労は大きくなるばかりである。何故なのか?

二〇時半迄みて、去る。加藤先生、渡邊先生の労をねぎらい少しばかりの食事を。二十二時半世田谷村に戻る。

十一月十三日

午前中、少しばかり休む。と言ってもボーッとしたのは一時間程。十一時世田谷村を発つ。

土、日と九州出張で、月曜日は午前中チリの要人と用事があるので、今日が学生の仕事をみる最終日である。十五時からの発表リハーサルで全てのオペレーションを終了して、若い先生に後は任せなければならない。十一月十六日の東大での最終講評会はキチンとやらせたいし、負けたくないという気持だけは植えつけたい。

上位5チームの一対一ガチンコステージの早稲田の打順を今日決めなくては、頭が痛い。しかし今日が私にとっては力を注ぐのも一段落なので頑張る。

087 世田谷村日記・ある種族へ
十一月十一日

昼頃大学、チリからの朱色のコンテナがキャンパスのアトリウム前にセットされていた。早朝七時からの作業には鹿島建設のM氏に立ち会っていただき、日本通運の方々共々ご苦労をかけた。コンテナのサイズ、フォークリフト用の穴のサイズ共に図面とは異なるモノが到着し、手こずったらしい。モビリティと口で言うのは簡単だけれど、実際にブツを動かすのには汗をかかねばならぬのだ。

前橋の大工、A3 WORK SHOP 第一期生の市根井氏がコンテナ内部・アトリウム内部の造作にとりかかる。十六日のオープンには彼のことだから十分に間に合う事であろうと、任せた。

午後、地下製図スタジオで東大との合同課題を見ながら、NTT出版講義録に手を入れる。

十八時 13 点程セレクトして仮プレゼンテーション。図面のプレゼンテーション、模型共に想定していた水準と余りにも落差があり過ぎてガッカリする。毎日毎日よく努力しているのに、この体多落は困る。これでは東大に勝てるわけがない。言うまでもなく東大をあなどってはならない。今年は区切りだ、ガチンコ対決でゆく、と言い出したのは私だ。それでボコボコにされたら、それこそ早稲田建築はおしまいだろう。象徴的にはそうなのだ。と、どんづまりになって大きな危機感を持つ。東大の難波、大野両先生もさぞかし苦労しているのだろうか。

二〇時もう今日はこれ迄と引き上げる。二十一時過世田谷村、遅い夜食。これが体に良くないのは解っているのだが、仕方ない。学生の設計製図指導で体をこわしたりでは、世の中の笑い者であろう。

十一月十二日

八時起床。杏林病院、定期検診。やはり、血液の数値、他が少しばかり悪化していた。製図指導ストレスである。私もまだガキだな。渡邊君に連絡、上位三グループのプレゼンテーションをグレードアップさせるように指導せよと、この三点にとり敢えずは集中させることにした。十一時戻り。

数値的には体調は思わしくない筈なのだが、マア仕方ない。出掛けて、チリのコンテナのチェックと学生の製図を見よう。十二時発。

086 世田谷村日記・ある種族へ
十一月十日

十一時地下スタジオ。ガラス張りの教師控室のカギが閉まっていたので、製図室のド真ん中でNTT出版の講義録ゲラ校正作業をする。9 章フォルムについて - ル・コルビュジェのラ・トゥーレット修道院、地中海の光、そしてクセナキスへ、13 章、究極の家、酔庵からマザーテレサの死を待つ人の家、の二章を了。

ガラスの部屋で仕事続行。時々、三年生の製図を見て廻る。十八時、十三チーム程と打合わせ、発表パネルの標題について。つまり設計主旨の相談。二〇時地下スタジオを去る。二十二時雨の中を世田谷村に戻る。

十一月十一日

雨、六時起床。九時スタッフと連絡。今日はチリのバルパライソからコンテナが早稲田の創造理工学部キャンパスに到着する日である。数ヶ月色々あった末に今朝七時雨の中を無事到着した。その光景に立会いたかったが、休ませてもらった。

私の研究室では長年モビリティの可能性に関しての研究、実践を続けてきたが、そのささやかな成果である。十一月十六日より、キャンパス内でチリ政府支援によるチリ建国二〇〇年祭プレビュー東京の展覧会を開催する。チリからの小さなコンテナ内にも小さな展示がなされる。二十九日迄の開催であるので、是非お立寄りください。入場無料です。

海をこえたモビリティに関しては、美術品の関税や保証等の問題があるにはあるが、とても可能性がある。要するに発送元からのドアTOドアの簡素さが良い。美術品のコンテナ通関が簡略化されれば、コンテナの内部空間をそのまま世界に流通させる事も可能であろう。

085 世田谷村日記・ある種族へ
十一月九日

十時卒論発表会。昼食を挟んで十八時前迄。修了後各研究室の優秀論文賞を先生方と決めて、そのまま地下スタジオへ。三年設計製図をみる。

東大との合同課題も三年目となり、区切りの年になる。早稲田建築学生にもこの試みはすっかり定着したようで、学生達の大半は力を尽くしている。 私もその意欲を、つまり製図室の静かな熱気とも呼ぶべき空気をようやく感じ取れるようになった。この静かな熱気が少しでも継承されればそれが伝統になる。

二十三時迄、十グループ程が頭角を現わしてきた。ようやく、対抗戦の体を成しつつある。東大の建築学生達も粛々として頑張ってくれているであろう。双方共にエールを送りたい。建築は頑張らなくてはならない。例え、頑張らないのが俗世の風潮であろうとも、静かに頑張ろう。

クタクタにはなったが、足取りも軽く、二十四時世田谷村に戻る。何とかヤレる見通しはついた。

十一月十日

六時半起床。昨日手を入れていたNTT出版講義録十三章完了。「究極の家」酔庵からマザーテレサの「死を待つ人の家」。私には面白く読めたが、読者もそうあって欲しい。

十時小休。少し休んで製図室へ行こう。

084 世田谷村日記・ある種族へ
十一月六日

十時発。区民農園に寄って、十一時大学地下スタジオ。三年生の様子を見る。厚生館模型づくりを少し。十二時半研究室。OG吉村来室。相変わらずの世間知らずで、いささかたしなめる。十三時TVクルー来室。ツリーハウスの小林氏に関してのインタビュー。十五時地下スタジオ、三年設計製図。今日が非常勤の先生も含めてみる最終日である。各先生が色んな事を言い過ぎているキライがある。今日まではそれも良いかも知れぬが、明日からはそうもゆくまい。二十三時迄スタジオ。二十四時過ぎ世田谷村。

十一月七日

八時起床。十時難波先生と最終講評会の発表形式について相談する。調整しなくてはならぬ点はあるが、何とか最終を飾る形でスッキリとやりたい。十一時前、区民農園に寄って、大学地下スタジオへ。

十二時前製図室内の一室で自分の建築模型をつくる。何とか良いモノにしたい。GAに出展している模型とは大きく変わってきている。GAでのギャラリートークではその変化について話す予定。

十四時過、向風学校安西直紀、フリーライター末澤氏来室。対談。十六時修了。十八時迄製図を見る。加藤・渡邊両先生と新宿・味王で食事。熱心な指導に対しての労をねぎらう。二人の力がなければ、とても八十名の学生には対応できない。二十一時過世田谷村。

十一月八日 日曜日

九時過迄眠る。今日はゆっくり休みたいけれど、大学の地下スタジオで休んでも同じだと考えて、出掛ける事にする。

十二時過区民農園。七十三区画のおじさんから、来年はこの区民農園は予約申し込みは受け付けていない旨を聞いて仰天する。つまりは、この農園が失くなる事ではないのか。地主の意向は勿論無視出来ぬし、逆らうわけにもゆかぬのは解り切った事であるが、区役所はこの区民農園の存在理由、及びその価値をどのように考えているのだろうか。

区民農園が大地主の税金対策等の結果としてだけ出現するのは理不尽極まる。少し調べてみる必要がある。

「残念、無念です、農園が失くなるなんて」と言う、オジさんの言葉に味方したい。

十三時過、大学地下スタジオ。ほとんどの三年生が製図にはげんでいた。三チーム+αの製図をみる。仲々、上位二チーム以上の事材(人材)を見出す事はむづかしいのに驚く。十八時迄指導。

十九時加藤先生等と新大久保の廻転寿司でささやかな夕食。二十一時半世田谷村に戻る。

十一月九日

八時起床。今日は終日卒論発表会の苦行である。いいテーマ、いい努力の論文に出会えるか。九時世田谷村を発つ。

083 世田谷村日記・ある種族へ
十一月五日

十一時研究室。十一時半打合わせ。十二時半井上フェローシップ面接。十三時内公聴会。十四時教室会議。十六時前了。打合わせ後十七時、地下スタジオへ。厚生館模型づくり。いくつかのアイデアの開発を試みる。三年設計製図の仕事振りを眺める。ここに居ると、直接会話を交わす事をしなくても学生達の空気を知る事ができる。グループ毎の個性、人柄も良く解る。

十九時過スタジオを去る。近江屋で設計製図のヒント・インタビュー。後、二十一時過世田谷村。

十一月六日

五時半起床。絶版書房、アニミズム紀行3、4がジワジワと売れ始めている。何とか売り切りそうにはなってきた。決して増刷しない本なのが取り得のペーパーメディア、すなわち本であるから、少しでも関心のある人は手にしておいてもらいたい。ウェブサイトを読み流しているばかりでは人生面白くないだろう。フラット過ぎて。

昨日地下スタジオで得たアイデアをスケッチにおとし始める。今日の午前中に模型づくりに更に落とせるか。十時前、講義録 22 講 13 講「酔庵からマザーテレサの死を待つ人の家」に手を入れる。何とか今月中に 22 講全てNTTに渡したい。

082 世田谷村日記・ある種族へ
十一月四日

十二時過区民農園。誰もいない。十四時前大学スタジオ。那須氏来る。十六時半迄、厚生館モデル作りを独人続ける。チリの件、次から次へと小さな問題が起きてくるが、仕方ない。十八時、中間チェック。二〇チームを見る。皆それなりの努力を続けているのだが成果が上がらないのが現実である。

結局、二十三時迄なにやかにやで製図室に居た。二十四時過世田谷村。〇一時就眠。

十一月五日

六時過起床。トヨタがF1レースから完全に撤退と報道されている。T型フォード生誕から一世紀余り、自動車も曲り角に来ている。恐らくはそれくらいの大きさと歴史の単位で建築も曲り角らしき交差に差しかかっているに違いない。

昨日一人で作った建築模型を憶い出しながら、その意味をボーッと考えて見る。都市に対しては、ザクロの小径を提示している。それを建築の一部に組み込んでいる。建築としては小さいながらも、周囲の建築に呼応する形態的工夫をいささか工夫した。特に屋上の造形は天空との関係に留意した。子供たちにはこの工夫を喜んでもらえるかも知れない。

子供の感性を大事にしたい。屋上からは以前作った厚生館星の子愛児園のピンクの鯨も眺められるから、それとの視覚的な関係も子供たちには楽しんでもらえるだろう。又、隣りの愛児園の屋上の造形もようやく生きてくれるだろう。

天空や山の姿との呼応に関しては、伊豆の長八美術館の二期工事で試みたカサ・エストレリータの鉄塔の造形をより建築的造形に迄進める事が出来るように試みた。これを実現する事によって、あの造形を生き返らせる事が出来る可能性が出てきたように思う。昔の作品を生き返らせる事も大事だ。

東面の造形の要は日照のことも考慮した棚田状の立体庭園の創出を試みた。これは私の区民農園での体験や、私の失敗続きの小菜園作りの体験、それに鬼沼計画での思考がいささか反映されている。間違いはない。

あとは建築内部の自律の問題に取り組めば良い。乳児院、保育園の子供たち、そして先生達の生活を少しでも生き生きとしたものに構想し得るかに力を注げば良い。

以上の努力を製図室のスタジオで続けた、この事は少し計り学生達に伝えてみたい。三年生にわかるような形で少しだけ話してみるのは、あながち無駄な事ではないだろう。

全て、学生達が新しい地下スタジオに移ってからの、同じスタジオでの、ささやかな私の仕事である。

東大との合同課題に際し、少なからぬ学生達に話した事、周囲の都市、そして今度の住宅公団の今在る良い建築に対する敬意、すなわち愛情のようなものの必要。すなわち歴史に対する持たねばならぬ受容力。バザールに対する考え方。多民族の混在に対する想像力。全てではないが小さな建築に於いても可能な事は決して少なくはない。問題は気持のフレキシビリティである。決してあきらめない事、その努力の行手に出現する小さな希望は在るのだ。その事だけは伝えなくてはいけない。

九時半小休。十時過発つ。

081 世田谷村日記・ある種族へ
十一月二日

十一時過関越高速道を経て軽井沢。O邸を訪ねるも、迷ってしまい断念する。十二時過、中軽井沢オナーズヒル内S邸到着。S夫人、幸和建設宮下専務とメンテナンス打合わせ。S邸は夫人がコレクションした家具他の趣味も良く、とても安らかな感じになっていた。何かのペーパーメディアに出しても良いかなと考える。

この家は山の尾根の岩の上に建てたもので、けがい造りと意識して作ったものだ。

十四時前、昼食へ。近くのレストランへ。ビーフカレー。十五時半迄、S夫人とおしゃべりをする。いい時間だった。玄関先のブラジルからの小樹の苗等の話しを聞き、すずめ蜂の巣を眺め、お別れする。

十六時前、軽井沢サラダふぁーむ依田義雄さん宅。ハウスのトマト他を見せていただく。来年始動するらしいイチゴ事業のサイトを見学。立派な計画である。依田氏経営のトラットリアクアトロで夕食。話しがはずむ。食事中雪となる。今年の初雪である。これは縁起が良いかも知れない。トラットリアのスタッフ二名に紹介される。

二〇時、いささか激しく降りしきる雪の中を依田邸まで戻り、野菜をいただき、東京へ。雪ふりつもる。

二十二時四〇分世田谷村着。

十一月三日

七時前起床。厚生館のスケッチ。次の案に少し目途がついたか?まだまだ解らない。手を動かしているとまだまだ新しいアイディアが生まれるので、まだ正解にたどり着いていないのだろう。九時過休止。陽だまりの中でエスキスしているのは極楽である。

九時半入浴。十一時前区民農園、十二時前大学地下スタジオ。渡邊君にスケッチ渡し、スタディ模型作りを依頼。スタジオを見る。学生の大半が頑張っていた。スタジオ形式でしかもオープンに見てゆくと学生間の格差が歴然としてくるのを感じるが、これは仕方がない。十六時半去る。

十七時半烏山で近藤理氏と待ち合わせ。宗柳で会食、雑談。若い人と話していると面白い。色々とアイディアも生まれる。二〇時半迄。世田谷村に戻る。月光が三階の家の中に差し込み美しい。手を合わせたくなる位であった。

十一月四日

八時起床。レヴィ=ストロースが百一才の誕生日を前に亡くなった。ついに一度もお目にかかる事が出来ぬ人物であったが、尊敬していた。百才迄頭脳も曇ることなく、活気に満ちていたようだ。民俗学者は、宮本常一も同様に、人間に対する視差に慈愛の如きが自生に身につくようで、ホトホトうらやましくもあった。

わが師川合健二は徹底した個人主義者として亡くなったが、天才的技術家の宿命があったのかも知れない。

設計製図のヒント、早大地下スタジオ版、書く。

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