080 世田谷村日記・ある種族へ
十月三〇日

十三時卒論チェック。良いモノとひどいモノの落差が激しい。やはり一度厳しくしつけて叱りつけないと本格的にわからないんだなと思う。雑事を済ませて、十五時新しく出来たスタジオに行く。地下だけれど中々良い。研究室のスタジオよりも余程良いので、ここにしばらく居着く事に決めた。

全員のグループ製図を通しで見て、各先生に担当を割り振る。私はトップグループとユニークなどんけつグループを見る。

二十一時スタジオを去る。学生は口で何言ったって通らない。わかりっこない。身をもって示さないと。

十月三十一日土曜日

設計製図のヒント、口述版に手を入れる。十一時前地下スタジオ。学生はまだチラホラ。明日、日曜日はこんな事が無いようにさせる。たかだかあと二週間である。学生には全力を尽くすという事を教える。

十一時半渡邊と地下スタジオで鬼沼打合わせ。チリの税関の打合わせ。その他雑打合わせ。十二時半迄。昼飯抜きで製図を見る。そろそろ個々の学生の資質、性格、人格らしきを把握できるようになった。設計製図は厳しくやるとそれぞれの学生の人格迄反映する。フェニキアグループは淡々とし過ぎているがまだ走りそうだ。NPOはそれぞれの持つ自己ハードルが低くてもう伸びしろが無い・・・等と勝手に見極めている。

追い出されて二人をになってしまった女性のグループの、今日は中々良い。追い出した男のグループの仕事はただの凡愚である。女性一人で何とかやろうとしているのがあって、聞けば男がタダのズルイ男で何もやらないのだと言う。製図室は人生模様である。流石にこの男子学生は呼びつけて叱りつけた。こんな事までしなくてはならぬのは辛いのだが、情けない事にそこ迄やらないと、設計の本当の面白さを学生に伝える事は出来ない。製図室に厳しい情熱のようなものが張りつめる事がない。

「建築の行方」講義録 22 講NTT出版に手を入れながらの製図指導、十八時迄続ける。二〇時過世田谷村。

十一月一日 日曜日

八時四十五分世田谷村発。九時四十五分青山国連大学前広場。向風学校安西直紀、軽井沢サラダファーム農園依田義雄氏他に会う。サラダファームのトマト 1kg 買う。大きなリンゴ一個いただく。十時四十五分迄。真ん前の青山学院大学は大学祭であった。渋谷より副都心線で早稲田創造理工、B1スタジオへ。十一時十五分。地下鉄でスタジオに乗り付けられるのは良い。大半の学生がスタジオに参集していた。当然である。サラダファームで買った無農薬トマトを女性学生に差し入れる。私は男女逆区別論者である。差別ではない。男にトマトなんかやるか。

スタジオ内でWORK。済ませて学生の仕事を見廻る。別に東大との合同課題であるから日曜日にわざわざ製図をやらせているわけではない。丁度良い機会であるから、学生時代に一度位キチンと情熱を傾ける体験をさせたいだけなのだ。十五時ミニプレゼンテーションを本日スタジオに出ている全グループにやらせる。

広いスタジオで全員一緒にやっているので、どうしても良い案が皆似てきてしまうのは仕方がないが、それでも格差はある。日記が設計製図のヒントのようになってきてしまっているが、これも仕方ない。

十八時スタジオを去る。十九時世田谷村。電話で雑用をすませる。

十一月二日

八時起床。今日は長野行である。九時渡邊君世田谷村来。長野へ車で発つ。

079 世田谷村日記・ある種族へ
十月二十九日

チリ建国二百年祭カタログ小冊子、ようやく入稿。設計製図のヒント口述、他雑用。Tさんよりメール届く。二〇時過世田谷村。

十月三〇日

四時起床。何故か堀田善衛「方丈記私記」久し振りに再読。一九四四年の東京大空襲、そして鴨長明の廃墟になった京都のくだり、小豆色の外車に乗った天皇の、焦土と灰と化した東京深川周辺の一時間の巡幸とそのピカピカにみがかれた軍長靴。何回読んでも鮮烈なシーンである。

区民農園の 7 2区画の老人は一九四四年は恐らくまだ特攻隊要員として台湾にいた。そして自分の食べるモノは自分で作れと自活農の最中であったにちがいない。方丈記私記を早朝よみながら、区民農園の大好きなおじいさんの姿がほうふつとするのだった。一九四四年は私が産まれた年だ。

設計製図のヒントは私よりも 50 年近く(正確には四十九年)若い人間に対してのものだ。彼等が産まれた一九九〇年頃の東京は謂はゆるバブルも過ぎ去り、冬の浜辺の如き光景が漂い始めていた頃である。すでに虚無の空がそよりと吹き始め、今にいたっている。

沖島勳監督「怒る西行」DVDに視入る。沖島は私より四才上の一九四〇年生まれ。ここには半世紀昔の東京焦土の歴史が、鴨長明の眼程酷薄で冷厳ではなく、今風に柔らかく描き出されている。

世田谷村の屋上から眺める区民農園は鉄骨作りの駐車場と公団の高層アパート、民間マンションに囲まれた、ほぼ囲い地である。なんだか寺院、神社の境内のように私には眼には写る。

区民農園から鉄骨作りの人工地盤状の駐車場のへい越しに、世田谷村の姿が眺められる。農園の何人かの人達から「あの面白い家の人ですね」と声をかけられるから、変な家の住人として私は少し知られているようだ。もしかしたら、このページを読んでいる人だっているかもしれない。意外や意外、カメラやスケッチブックを持ってウロウロしていると、変な家の変な人間として、冷んやりと観察されているのかも知れない。観察しているつもりが観察されているという喜劇がすでに起きている可能性もある。区民農園から眺める世田谷村は、小さな山みたいだ。てっぺんに小木や雑草がニョキニョキはえているので、金属とガラスと草草が入り交じった、草山のように見えなくもない。恐らく、そう視たいのだろうと我ながら思う。

設計製図のヒントの読者諸君の心象風景の素は、囲い地としての区民農園にも、草山としての世田谷村にも無いであろう事は本能的に知っている。彼等の気持の棲家は駐車場である。しかも 24 時間有料のコインパーキングであろう。

フラットで有料であるが、金さえ払えば自分の場所らしきは確保できる。そして金を払わなければ、そこから出て行けない。自由なような不自由なような、自分で判断できぬような状態。それでも陽光は溢れ、風だって吹いている。駐車場は建築の廃墟である。

設計製図のヒントはそういう若者達に対面している。そう考えてみれば、あながち無駄な事ではあるまい。今は彼等だって、新種の焼け跡に立っているのだろう。それは鴨長明が立ち尽くし、同時に凝視していた焦土と化した京の都でもある。今の有料駐車場でもある。そう考えなければ私の居場所、歴史の中の居場所さえも焦土と化す。

077 世田谷村日記・ある種族へ
十月二十八日

「建築の行方」講義録の校正進まず苦しむ。本の題名も、やはり建築論は私らしくないと思い返し、「建築の行方」あるいは「建築へ」の如くにしようかなと、これもいささか迷い始めた。自分としては珍らしい事である。編集者のK氏とのどうやら約束の日は守れそうにない。しかし、拙速は禁物である。想いを尽して手を入れたい。

十五時前製図準備室、アベル、他と打合わせ。案の定チリ計画の冊子作りはアベル・ペースで遅れに遅れている。しかし、これは、私が悪い。何とかするだろうという仇情がこうさせた。ラテン民族は強い、何ともならん事は何ともならんと決して無理しては頑張ろうとしないのだ。筋金入りだね、この頑張らなさは。ホトホト感心する。本当に。

しかし、その分、他のスタッフに過大な負担がかかり始めていて、これは注意したい。モデル作りも日本人チームはきちんとスケジュール通りにほぼ進んでいるが、アベルの方はまだ手がついていない。 こんな事を公開するのは、それが実に、あまりにも典型的な表われ方をしているからである。

十八時過より学生の設計製図をみるが、やはり努力の仕方がいささかラテン的であり、深度、強度共に不足している。あんまり延びしろが感じられないのだ。二〇時過まで中間講評会以降初めてのエスキスをみる。どうやら近代日本の頑張りは、少し異なる方向へと頑張りの方向を見せ始めている。それをどう導くのか、二日後のオリエンテーションはしっかりとやりたい。

二十一時過世田谷村に戻る。スタッフはチリ計画、他にいそしんでいるのだが、私の方は少し体力を温存したいので、早めに休んだ。

十月二十九日

朝、久し振りに屋上に上る。屋上の庭は荒れに荒れていた。どうも、情ない限りではあるが、あんまり無理をしない方が良いと、身体が言っているので、ボー然とする計りに任せた。

少し遅れたが、製図のヒント、書く。

076 世田谷村日記・ある種族へ
十月二十六日

十三時前N棟下の会場へ。早大東大の建築学生が集合している。十三時合同講評会開始(詳細は製図のヒント、参)。十七時半了。その後カンビールで談笑。途中抜けて入江、古谷両先生とコーリア料理屋で雑談。深夜世田谷村に戻る。

十月二十七日

昼に外出、小さな用を足して、十七時戻り。他は休養。全く何もせず。頭を空にした。

十月二十八日

一昨日の早東中間講評会で大方の学生の考えている事は大体把握できた。今夕より早大建築学生を本格的に走らせてみる。チリ建国二百年祭の広報活動を急ピッチで始めたい。

075 世田谷村日記・ある種族へ
十月二十三日

十二時半区民農園、七十二区画の老人の道具置場小屋作りの驚くべき工夫を知る。やはり、老人は高貴な種族の人間であった。理由はおいおい述べるが、私の講義録の第一章を読んでいただけば解る。面白い。

十三時半設計製図エスキス。十七時半過抜ける。

十八時半神田岩戸、清水氏、馬場昭道両氏と会食。金子兜太入門面接日決まる。二〇時半迄。二十二時前世田谷村に戻る。

十月二十四日

五時半起床。新聞読んで再眠。十時前区民農園。三人程が談笑していた。比較的若い人々である。大学へ。十一時Tさん打合わせ。十二時設計製図エスキス開始。8グループを見る。十五時過了。十六時創成入試一次採点。早大建築の創成入試はすでに予備校のコースも設けられているようで、予備校で丹念に、しかも受験戦略的に準備しているようなモノは極力評価を厳しくするように努力した。創成入試の意味が無い。そんな原理は受験生諸君は理解せねばならない。答え方の作り方でそれ位の事は見抜けるのだ。

十八時雑用。二〇時世田谷村に戻る。

十月二十五日 日曜日

建築論講義 22 講(仮題)校正ゲラに手を入れる。第十講、ル・コルビジェ、ラトゥーレット、クセナキス、及び第十二講の小休、音について、に手を入れたが上手くゆかず、悪戦苦闘。早朝から午後遅くまでかかり切るも、出来ず。こういう事があるんだ。二十二時NHK教育TV、日本と朝鮮半島二千年、二十三時半まで視る。知らない事をTVで学べるのは有難い。倭冦の一部に済州島のモンゴル帝国(元)の軍馬牧場、及び飼育人達が参加していたらしいとの事。

日本と韓国では今、竹島の領土問題もあり、極めてデリケートな主題ではあったが、興味深かった。韓国の老学者も出演されていて、穏やかではあったが決して侵略された側の自負を曲げずに通して、実に高潔であった。

十月二十六日

七時過ぎ起床。今日も小雨で冷え冷えした朝である。昨日はまさに晴耕雨読そのまんまの一日で、幸い雨であったので畑にも行かず、やらず一日を校正ゲラと読書で過ごせた。意外や意外、自分はジィーッとしているのが好きなのである。

そんな典型的な老人振りの地が恐いので、恐らく無理して畑に行ったり、クワを振り廻したりしているのであろう。 友人のところへ行ったツタンカーメンのさやえんどうは植え込まれたのであろうか、植え込んだ後の冷雨はどうなったのか気になる。と、我ながら奥床しい事を考えてると、アレーッ、俺のツタンカーメンはどうなっているのか、とバカな事に気付いた。種を植え込んだ時からカラスの防護ネットを二重三重に今年は備えねばならない。

「近代建築論講義」鈴木博之+東京大学建築学科編 東大出版会 2800 円、昨日通読を終えた。一部は二度読んだが、もう一度読み直したい。学生諸君はもとより建築人必読の書である。

私の講義録の書面はこれを読んで現代建築論、あるいは建築論としたいと考えた。鈴木博之氏には彼にとって一度目の退職を先にこされ、退職記念講義録まで先行されてしまった。いささか、気がせかれるので、私の 22 講の講義録だけは、頑張って来年早々に出したい。ほぼ歴史的には同時期に講義録という形式の書物を残す事になりそうで、光栄の至りである。背中が見えぬ程に先行している長距離ランナーを、もうダメかなと思いつつ、それでもあきらめずにヒタヒタと追いかけてゆく哀感もあるが、頑張るだけは頑張ってみる。

今日は早大東大合同課題の中間講評会が早稲田で開かれる。第三回目だ、キチンとけじめをつけたいので、しっかりやりたい。

074 世田谷村日記・ある種族へ
十月二十二日

十四時過M2、修士設計みる。学部の設計製図にも及ばぬ、こういいう学生は演習Gを再履修させたい位。鬼沼「時間の倉庫」の照明器具デザイン 20 点の打合わせ。M1の協力を得て、これは大変良質な仕事になっていた。 20 点の命名と共に、展開を考えさせたい。十六時製図準備室、アベル、渡邊打合わせ。十六時五〇分迄。十七時四〇分品川三菱開東閣。鈴木博之先生退職記念会。鈴木先生難波夫妻とテラスで談笑。

十八時半会始まる。大変な盛会であった。原則的に鈴木先生より年上の人には声を掛けないという原則を立てていて、成程退職記念のパーティーはそういうものなのかを知る。鈴木先生のあいさつで締めくくられ、参加者には「鈴木博之先生著作目録」1967 年 - 2009 年三月、及び「近代建築論講義」鈴木博之+東京大学建築学科編が渡された。

「近代建築論講義」に関しては別に読後感を述べたい。寄稿者と鈴木博之のダイアローグの形式になっていて、鈴木博之の新境地がうかがわれる。つまり彼の私的全体性のモデルでもある。

仰天すべきは著作目録で、総計 76 ページに及ぶ大変な労作である。東京大学建築史研究室の成果でもある。しかし、良くこれだけの質・量を鈴木博之は成し遂げた、とフッとため息をつく。

会修了後、鈴木博之の発案で例の、例のと言っても解らぬだろうが、知る人ぞ知る池袋の魔窟ワインバー迄首都高速をTAXIを走らせる。私はおだやかに品川近くの居酒屋がいいんじゃないかと思い、難波さん佐々木睦朗氏は品川にホテルが多いんだからホテルのBarがいい、と正論らしきを吐いたが、鈴木先生言う事をきかず、西へと荒馬を走らせたのであった。

この様子だと、彼は百才迄生きるなと、後部座席に身を潜めた穏やかな老人達三人は眼もうつろになったのであった。我々は程々なのだ。ホテルのBarとか居酒屋とかで済まそうという機能主義者達である。それに対して、鈴木には魔窟まで行くぞという何かがある。

魔窟ワインBarで、鈴木博之突然句会妙見会の将来を考えてか、

「石山、お前、金子兜太先生知ってるんだろう」

「知ってるって言っても、スレ違い程度だ」

「それで、ヨシ、とり敢えず入門しよう。アノ人は弟子らしきは居ない筈だから、二人で入門しちゃおう」

「難波さんと佐々木さんはどうする」

「彼等はイイ、旬作には向いてない」

「でもさ、佐々木さんだって久し振りの新会員なんだし、ここに居る人間しか会員いないんだから」

「それはそうだが、入門するぞ」

「それでは次回の会は佐々木睦郎主催で回転寿司屋での句会をやろう」

「何だ、そりゃあ」

「回転寿司をつまみながら、そのスピードで名作乱発。回転テーブルに作った句を書いて、回転させて、皆さんにも見ていただくという趣向です」

「それもやろう、でも先ず入門だ」

二十三時近くまで、ワイワイやって散会。これがジョン・サマーソン「天空の館」を愛情を持ちながら訳した歴史家なのであろうかと想いもし、鈴木博之の内にはどうにも飼い慣らす事の出来ぬ、俗言だが魔がいる、荒馬が棲みついていると想うのであった。

鈴木先生と別れ、三名で新宿南口迄、静かにTAXIを走らせた。お二人と新宿でお別れ、二十四時前位に世田谷村に戻る。

十月二十三日

五時半起床。新聞読んで再眠。八時半再起床。早速、馬場昭道に連絡して金子兜太入門二名希望伝え、金子師との面談の場を作ってもらいたい旨伝えようと考えたが、考えてみたら今夕、神田で和尚に会うので、その際にしようと決めた。

073 世田谷村日記・ある種族へ
十月二十一日

十時過、大学へ行ったら、今日は創立記念日で休みであった。知らなかった。中庭でS夫人がポツリと立っている姿を見つける。十時半前研究室、長野S邸メンテナンスの打合わせ。長野K建設と連絡を取る。十一時過了。厚生館打合わせ。十二時発。直下の地下鉄で渋谷、三軒茶屋より東急世田谷線松陰神社のMさん訪問。野村同行、打合わせ。十六時迄。大学へ、同じコースで戻り、十七時製図準備室、チリ打合わせ。十八時前、設計製図指導(ヒントに記す)。二十二時、加藤、渡邊、野村、各先生方を残し、出。二十三時世田谷村帰着。気がついてみたら今日はメシを一度も取っていなかった。メシの時間が無かった。こういう生活は本当は良くない。畑でボーッとしているべきである。とは頭ではわかっているのだけど、身体がそうさせてくれない。なまじ元気は自然の摂理に反するな。

十月二十二日

五時半起床。新聞読んで再眠。八時過再起床。メモを記し、九時区民農園、誰も居ないのですぐ戻る。やっぱり野菜より人間が面白い。自分の畑で五分程草取りをして、気乗りせず止めた。設計製図のヒントを書く。

072 世田谷村日記・ある種族へ
十月二十日

十四時四〇分京王稲田堤で野村、渡辺と待ち合わせ。厚生館へ。理事長、園長先生二人と打合わせ。具体的な討議に入る。この計画は乳児院、保育園、子育て支援センター、小ホールが複合した建築である。とても複雑な機能を限られた土地に納めなくてはならない。打合わせは十八時半迄。その後、理事長、園長先生等と夕食。二〇時半了。二十一時過世田谷村。

十月二十一日

五時半起床。七時半区民農園 34 区画、27 区画の二人の女性働く。全く会話成立せず。二人共、何か自家製であろう、防虫剤を施していた。27 区画の女性は少なくとも他に 2 区画程の野菜の面倒も見ているようだ。女性職人の風あり。職人だから口も固いのだろう。

八時小休。今日はあわただしい一日になりそうだ。毎日新聞「クリスマス村の子供たち」三回の連載が今日で終り。もう少し掘り下げなくては、これでは民放TVの水準だ。折角の意味ある切口なのに。現代日本社会の縮図なのに。僕の区民農園観察が楽天的演技だとすれば、これは逃れられない悲観迄辿り着く筈だ。頑張れ新聞!

071 世田谷村日記・ある種族へ
十月十九日

五時半起床。設計製図のヒント、一本書く。六時過区民農園、53 区画のおじさんとおしゃべり。九時前、ヒント、もう一本書き、NTT出版「二十二講」に手を入れる。十二時半製図準備室、アベル、マーシャ、ミハエル、渡邊、チリ計画

十四時研究室、農文協甲斐氏と打合わせ。「現代農業」へのテスト寄稿決定。以前に書き送った二〇数枚は改変することとなった。現代農業は「農」のリーディング・マガジンなので、私の如き新人には関門が高い。だいぶ注文がついた。そうだろうなと思いつつ、闘志を燃やす。

「区民農園の工夫」「区民農園の人々・その工夫と知恵」とかのタイトルになりそうだ。来春より年4冊のオールカラー版を出すそうで、そこに登場する事になりそうである。十一月末迄に初稿を書くこととなる。

十六時、K建設のOB・M氏、日本通運A氏I氏来室。チリからのコンテナのキャンパス内設置に関して打合わせ。M氏には御足労をかけた。

十七時準備室へ。チリの件打合わせ。合間に製図室に居た学生2チームのエスキスを見る

十月二〇日

七時半区民農園、昨日農文協の甲斐氏からの提案であった、サポートのポールの結び方のそれぞれを注意深く観察する。手仕事は土いじりだけではない。ポールの立て方、その結びつけ方にも出るものだ。これは典型的な現代の手仕事であるな。

八時半畑に生ゴミを埋め、再び区民農園へ。今朝は実は三時頃目覚めてしまい、二時間程読書してしまったので、実に眠い。

72 区画のおじいさんのミニマム作業小屋及びポールの結び等をスケッチ。九時二〇分戻る。陽光を浴びて汗ばんだ。

070 世田谷村日記・ある種族へ
十月十六日

再び区民農園に寄って、十時二〇分五反田ROCビル。T社でT社長と十時半打合わせ。鬼沼計画について。十二時半迄。今年末、「時間の倉庫」の竣工プログラムを決める。T社長にもようやく「時間の倉庫」の空間、光、回転の価値がわかってもらえるようになった。「最初はやっぱりデザインがイヤだったんだけど、出来上がって内へ入って一人でボーッとして、光を見ていたりすると、オヤ、もしかしたらこれはいいのじゃないかと思ったりしてね。しかし、金がかかるもんだなあ」

十三時半研究室。十四時前、チリ打合わせ。ようやく、アベル動く。十五時過設計製図。グループをA、B、Cの島に分けて進める事とする。80 数名を全て等分にみる事は不可能だ。鈍な人間程、幼稚な我を張るんだな。Aグループに組んだチームの一つを、個別指導の直接感触で、他グループに移す事を決めた。幼稚な我に附き合うヒマも余力も無い。内容は設計製図のヒントに書く。十九時まで。後を若い先生方に任せて離れる。二十一時前世田谷村。

十月十七日 土曜日

六時前起床。NTT出版校正ゲラに取組む。七章半ば迄進むが、仲々難しい。良い本にする。途中、息抜きの為に九時、十一時半と二回区民農園へ。80 区画の同業、同年の人物とおしゃべり、第 5 区画の素晴しい唐辛子を作っている人とも話す。80 区画の方はマレーシヤへのダイビングから戻ってきたばかりだ。四国巡礼もすませたと言う。お母上が百才で先日骨折した話も聞いた。自分の畑にも二〇分程滞在、あんまり頑張らぬように土いじり。区民農園の方々のようには上手くいかないのが本当のところだ。十二時小休。

十三時半研究室。十四時NTT出版K氏来室。新しいゲラを受け取り、校正済みの二本を渡す。まだ本の書名も決めていないが。うーんと工夫しなくてはならない。「真夏の夜の二十一講」では芸が無い。それに今冬発売なのに似合わないかも知れない。K氏の考えではどうやら2分冊になるようだが、部厚い一冊の線もいいんだがなあ。高額でもよしとしちゃうのも方法かな。

K氏と雑談の後、十五時頃、製図室へ。三年生の何がしかが熱心に製作していた。二、三人のエスキスを見ようと思い声を掛けた。製図準備室で個別にエスキスを見る。流石にAグループの二組はやっていた。休みに休むような者は設計は上達しないのだ。結局、6、7グループのエスキスを見た。内容は設計製図のヒントに書く。

十八時前迄、エスキスをみた。その後すぐにアベル、ミハエルとチリ打合わせ。少しづつ上手くいっている。二人をねぎらいたいと考え、準備室でワインを少々。パンとコロッケ他をつまみ、笑いさんざめく、よい会になった。二十一時了。二十二時世田谷村に戻る。

十月十八日 日曜日

寝過してた。八時飛び起きて、すぐ区民農園へ。98 区画のおばさんとおしゃべり。

「これは何ですか」

「バジルなんです」

「いい色してますね。アッ今、いい匂いがきましたよ」

「本当ですか」

「良く育ちましたね」

「これはうまくいったんです。楽しいですねえ」

「ブロッコリ、青虫にやられてませんね」

「イイエ、こっちのは全部やられました。私、青虫見つけられないの。虫はどうしたらよいのかわからないの」

「でも、ここはきれいな畑ですね」

「ホントですか。ありがとうございます」

初めて区民農園の女性の方とおしゃべりがはずんだのが嬉しい。27 区画のおばさんも、帽子をかぶって、農園をひとまわりしていた。年令を尋ねて失敗した人である。おっかなくて小声であいさつしたが、どうやら無視された。コワイ。

自分の畑に戻り、しゃがみ込んでジィーッとしていた。

十二時前、NTT出版の講議録、7章ゲラチェックの修了。俊乗坊重源の東大寺南大門、そして浄土寺浄土堂について。講議の中心の一つであったから、読み直してもやはり力があった。何とか良い本になるだろう。全部で二十一講あるので、ようやく 1/3 を終えた事になる。

良く話し続けたものだなあ。何か生霊につかれたような時があるんだなあ。

十六時過、第8章水晶宮からサー・ノーマン・フォスターまで、イギリス型ハイテク建築とジェームズ・ボンド校正了。この章はもう一回手を入れなければ駄目だ。非常に頭が疲れた。小休。

069 世田谷村日記・ある種族へ
十月十五日

十時過区民農園に寄る。72 区画の老人と久し振りに再会。おしゃべり。

「ブロッコリやられちゃいましたね」

「本当にうまくいかないんだ。でも虫に喰われた葉を切ると、脇から新しい葉がすぐ出てくるよ」

「本当ですか。すぐやってみよう」

十一時研究室。M1、M2指導。十四時教室会議。十六時教授会。その後、アベル、ミハエル、マーシャ、渡邊、チリ打合わせ。

十八時半回転寿司ミーティング。二〇時過世田谷村。

十月十六日

五時半NTT出版のゲラに手を入れる。第五章(仮)ドラキュラの家を介して、ニート、フリーター、ホモセクシュアリティーを考える。久し振りに一九九五年の仕事を振り返り、恥しながら実に刺激的であった。これは読み応えがある。一九九五年は阪神淡路大震災と共にオウム真理教の地下鉄サリン事件があった年で私のドラキュラの家が誕生した年でもある。

あの建築は今を予告していた。九時前まで夢中で手を入れた。九時過区民農園に寄って、五反田へ。

068 世田谷村日記・ある種族へ
十月十四日

九時半区民農園。115 区画の人間が二人土を掘り返して真新しいウネを作っていた。

「さぼっちゃっったんで、畑荒れちゃって、もう遅いかも知れないけれど、何もやらないよりはましだろうと思って。大根と小松菜でもやってみようかと思ってる」

彼等2人は区民農園には珍しく、比較的若い人達、四〇代くらいかな、であった。

17 区画の男性老人。「ちょうちょうが青虫つれてくるんですよ。産卵して、それに青虫がくる(この辺りの脈絡は良く理解できなかったが、問いつめるわけにはゆかぬ)。

さといもには、アリが葉の裏についてね、だから、それで牛乳を吹き付けて守るんです。ネット張っても、そのネットから青虫はもぐり込んでくるからね」

十一時研究室、印刷所打合わせ。チリ建国二〇〇年祭パンフレットの件。十二時チリミーティング。アベル、ミハエル、マーシャ、渡辺、他。日本人だけでない者達とのミーティングは面白い。

十三時船会社打合わせ。十三時半K氏打合わせ。協会設立の件。北園先生来室、十五時過演習G、ファイナルプレゼンテーション。印象は「設計製図のヒント」に記した。面白かったので予定時間超過する。十八時再びチリミーティング。十八時半過ぎ、三年設計製図。今年は何とも、モヤモヤして核も構造も視るのが仲々むずかしい。

新大久保回転寿しで食事。空腹の極み。二十三時前世田谷村。

十月十五日

七時半、少し長めの「設計製図のヒント」書く。八時半区民農園。42 区画のおばさん。「まったく、虫とのたたかいです。七月にベランダで種蒔いて、育ったのを九月にここの畑へ移したんですが、もう虫が凄くて。ネットもやったけれど、やはり陽に当てた方がいいらしくてね。オルドリンはきくような、きかないような、ネ」

今朝もちょうちょうが農園を舞っている。しかしコイツが青虫を連れてくると知ると、いい風景だなんて言ってられない。

風景の因果関係とは面白いモノだ。21 世紀は生態学的アプローチが必須な時代だろうが、それと建築が積み重ねてきた文化的価値の折り合いに留意すべきなのだろう。と、これはいささかちょうちょう的書きつけである。ちょうちょうを、てふてふと書くイヤ味も又、文化なのかな、と空腹の身で思ふ。ふ、ね、実にふに落ちぬ字体である。

自分の畑をやるには少しばかり、身体が疲れていて、それをさせない。気持はあるのだけれど。九時半小休。

067 世田谷村日記・ある種族へ
十月十三日

十時前区民農園へ。52 区画の男性のお年寄りが一人だけ。

「大根の葉だいぶん採れましたね」

「イヤー、今年は大根は全滅です。三種類種まいてみたんだけど全部ダメでした。何があったんだろう?種に問題あったのかも知れない。わかんないんですよねー」

どうやら、すこしづつわかってきたのは野菜作りは上手くゆくのか、上手くゆかないのかハッキリしないところが魅力であるらしい事だ。近くの 82 区画の人の大根は見事に育っているし、82 区画の大根が来た大本の大根も元気なようなのだ。

そういう近くの畑の野菜の状況を 52 区画の老人はほとんど情報として持っていない。つまり自分の畑の大根だけ凝視しているきらいがある。当然、他の区画との競争意識なんてさらさら無いのである。

十一時前研究室。十一時過チリP打合せ。ミハエル、マーシャ、渡邊、他のメンバー。アベル大使館行で参加せず。大枠、及び進め方を決める。十二時半了。十三時過ウォーラル氏友人と来室。十五時過銀行為替の件で来室。結論として$立ての当座は作らぬことにした。$が強くなる可能性はほとんど無いようだ。十六時了。

渡邊がチリ計画の研究室の小史へのポジショニングを作図したので、ページに公開することにした。まだ完成品ではないがなにがしかの参考にはなるだろう。

十月十四日

昨夜と今早朝の読書でサウジアラビアのイスラーム聖地メッカ、カアバ神殿のある広場の平面形が正方形でも矩形でもなく、わずかに歪んだ平行四辺形なのを知った。何故なのかとても気になる。

イスラーム教徒はこの歪んだ広場を 50 万人のスケールで左廻りに巡り動く。その左廻りのエネルギーの形に広場が歪んでいる。又、メッカの東 20km ほどのところに、聖地アラファートと呼ばれる別の聖地があり、メッカ巡礼のイスラーム教徒はメッカでの大祭を前に、ここに移動して立礼の儀式をするようだ。移動するというのが大事。

ともあれ、メッカは運動(移動)の形式が建築化されているのは間違いない。メッカのモスクの平行四辺形は明らかに人為的な成果である。カアバ神殿の間近の中庭にはザムザムの泉があり、その水は聖水として巡礼者は故郷に持ち帰るらしい。カアバ神殿内は虚空であるが、よく知られるようにその石壁には黒色の石が嵌め込まれている。この神秘的な黒色やザムザムの泉の由来は今は知らない。アッラーの神、絶対神崇拝のイスラーム教のベースにどうやらアニミズム(多神教)があるのかもしれない。

カアバの神殿、つまりイスラーム世界の中心の建築的広場が平行四辺形であるのを知り、それと左廻りに 50 万人のイスラームの民衆が巡るのを知り、気持は飛び上がった。身体はおどり出さなかった。歳だ。

鬼沼の「時の谷」の「時間の倉庫」内にしつらえた螺旋のスロープは右廻りなのだ。でも一辺 20m 弱の小さな建築なので全体の平面形は正方形とした。

でも、その外にある巨大な庭の平面形は極端な平行四辺形なのだ。どうやら、やはり人の気持の、あるいはそれと密着した人の動き(心身の)への関心から、この形が生まれてきたのは歴然としているようだ。「時間の倉庫」の右まわりの運動、でも三階から降りてくる時には左回りなのだな。

この事はいずれ近いうちにアニミズム紀行でやりたい。

アニミズム紀行への確信いよいよ深くなる。仏教の右まわりはすでに多くの体験がある。又、キリスト教の前身である原始ユダヤ教に於いても、水が神体であったらしきも知っている。

神秘として秘匿されている諸事象の中に神秘として片付けられぬ原理があるに違いない。

今日は十一時からチリ計画他の打合せである。「ひろしまハウス」以降の方向が幾筋かにハッキリと絞られ焦点を結び始めているのを感じる。いつか、キリスト教の教会あるいは僧院なども手掛けてみたいが、イスラーム建築のモスクあるいは神学校をやるチャンスは無いだろうな。無念である。

066 世田谷村日記・ある種族へ
十月九日

世田谷村九時発。十時前高田馬場、銀行外為の件。余りの円高で銀行が気を使い$立てのプランを立ててくれた。しかし説明を本人が立会って聞き納得しないといけないとの事で、再び聞くこととなる。十一時製図準備室、アベル、ミハエル、渡邊、チリの件。十二時半研究室、竹居氏、マーシャ来室。来週よりイタリアミラノからのマーシャが研究室に参加となる。チリの計画に加える。十三時向風学校安西来室。雑談、打合せ。十四時、十四時半、チリの件で内装屋さん二社来室。積算依頼。十五時三年設計製図。十九時迄。学生も先生も共に多過ぎるので、そろそろグループを幾つかの島に分けて指導した方が良いと感じた。80 対 5 つまり学生総数と指導者総数との組み合わせには無理がある。二〇時過世田谷村。

十月十日

八時起床。区民農園にブラブラ。53 区画のおじさんとおしゃべり。他は不在。自分の、猫の額ジメジメ畑に戻り、申し訳程度の作業。すぐに疲れて休止。これで良い。ブロッコリーと白菜共に青虫に喰い散らかされ、デス・スターみたいになってしまった。デス・スターとはジョージ・ルーカスの帝国の逆襲に登場する悪の象徴としての、非カント的な星である。球体が喰い散らかされ、病原菌の如き姿となっている。私の野菜そっくりである。

「設計製図のヒント」 2009-2 書く。昨日の早大建築生のエスキスの印象とオペレーションである。

十二時過再び区民農園をのぞいて研究室へ。十三時研究室、チリ計画スケッチ。十四時半打合せ開始。十五時、展示計画、市根井君と打合せ。市根井君がしつらえた仮設の木造小屋組みを視たりする。十六時半、チリ計画のウェブサイトデザイナーとの打合せ。十七時半迄。M1、M君他と新宿へ、味王で雑談。長野食堂を巡り、二十一時前了。何はともあれ、もの皆全て大変だの実感あり。

十月十一日 日曜日

十一時区民農園へ。八〇才をこえていると思われる老婆と話す。なかなかお婆さんと声に出しては言えないところが我ながらもどかしい。

「お母さんお幾つになられましたか?」

「今日は暑い日になりそうだね」

「今、何作っているんですか?」

「この葉の長いのは何だろうね?」

「イヤー、なんでしょうね」

手提げ袋の中を見せてもらいながら、

「立派なピーマン作ったんですね。ナスもある」

「ここの畑のこれはニラでしょうかね」

「多分そうでしょうね」

「えらい葉巾広いね」

これを会話というのかは知らぬ。独人言が交差しているだけかも知れない。そうなのだろう。けれど老婆は私に話しかけたのは確かだし、私も取材風の話しになってしまい、これは本物の会話ではなかったのだろう。私はまだ無駄な話しが出来ない。才が無い。

農園を去る老婆の背中には、凍り付いたような孤独が貼り付いている。独人暮しの老婆なのか。独人に耐えられずに日曜日の区民農園に出掛けてきたのかな。それとも昼飯にピーマンのいためものを食べようと考えただけなのか、知る由もない。

十月十二日 月曜日

十時区民農園、何も無し。十一時大学製図準備室でアベルとチリ計画打合せ。ようやく軌道に乗ってきた感あり。こういう仕事はスタッフの気持も乗らなければどうにもならない。十四時半迄打合せ。大変な作業量になっている現実は私しか知らない。もう絶望的荒涼なのだが、Give up とは言えぬのだ。十五時過研究室。十六時新宿南口長野食堂にて向風学校安西直紀と会う。自民党落選議員を招いての向風学校レクチャー第二弾を進める事を決定する。

安西君と私とで、お互いに拒否権を発行し得る事を確認した。私だって、イヤなモノはイヤだ。彼もそうだろう。十九時半世田谷村。

チリ建国二〇〇年祭プレビューの根幹は、チリと日本の友好関係、そして未来への可能性そのものを展示しようという内容である。創造理工学部キャンパスを会場とする。アトリウム内会場と、チリから動いてくるコンテナの二会場に別れる。

主会場にはチリからのコンテナに入ってくる展示品群と日本側で製作するディスプレイ 36 パネル他である。チリ・日本関係の歴史、チリの産業、産物、物品等の展示、文化、観光の紹介が主である。チリから数百匹の美しいチョウチョも飛来する。

コンテナ内は石山研がチリ政府に提案する、チリ・日本のコミュニケーションテクノロジーの姿をコンパクトに、様々に展示する。

コンピューターでチリの情報を得られるのは当然の事に、様々なプロジェクトのゲートが示されるだろう。石山研が以前から進めてきたハイコンパクトでモビリティを持つ機器の一端、そしてそれを使ったバルパライソ計画を見ていただく。

065 世田谷村日記・ある種族へ
十月八日

十二時前研究室。山手線が台風のため動いておらず新宿より随分歩いて地下鉄を利用した。すぐにミーティング。住宅設計にいかに対処するかのアイデア。十三時過M2ゼミ。たった一人の出席であった。続いてM1ゼミ。これは中々充実していた。強く対応したい。

鬼沼打合わせ。アベル、チリ計画の打合わせ。他十七時過迄。二十一時過迄バルパライソWORK。明日の打合わせの為のメモを作る。

チリ建国二〇〇年祭のプロジェクトは枝葉としてバルパライソの計画を産みつつある。考えて進ませてゆくと色々な可能性が産まれそうだ。港町とは相性が良い。

向風学校の方向性に関して小考、明日の安西直紀とのミーティングに備える。二十二時半了。

ドイツ、ドレスデン大学のヨルク、ネーニックより私家版の PAO NO.4 送られてくる。ネーニックは私の研究室のOBなのだが、私のやり方みたいなモノを色濃く継承していてドレスデン大学で様々な実践を試みている。バウハウス大学生の時代は随分世田谷村の地下で口惜し涙を流させた覚えがあるが、泣いた奴が一番濃く建築の基本を飲み込んで、遠い異国で続行しているのだな。それはともかく、ヨーロッパに限らず、外国の諸大学は印刷所らしきを組織内に所有していて、いとも簡単に小印刷物を出版する事が可能なのは実にうらやましい限りである。これが出来るのなら、わたしはウェブサイト作りにはこれ程のめらなかったかも知れない。

アニミズム紀行も、何とかカラー印刷でやりたいとは考えているのだが、印刷所が中々見つけられないのが実情だ。

忙しくなってきて、アニミズム紀行4、そして3の残部チェックもおろそかになりつつあるが、これではいけない。再び一冊一冊を手渡してゆく努力を怠らぬようにしたい。

064 世田谷村日記・ある種族へ
十月七日

三回乗り換えて武蔵野線新秋津。とても陰気な雲行きである。分配河原西国分寺等々とこの線の廻りは何となく奥床しい名前の地名が多い。それだけ乱開発からそっと取り残されたのであろう。地名は古代を継承している。

十一時新秋津駅改札口でK夫人、野村と待ち合わせて計画地へ。どうやらこの一帯は宮崎駿監督のとなりのトトロの生息地らしく雨降りの天候とあいまって宮崎世界への想像力らしきをかき立てられる。

七曲りには上安松地蔵や、何やらの土地の精霊の棲家が散在する。北へ歩く。行く手の岡の上に大きな森が視える。どうやらこの森の端が計画地であるようだ。坂を登り計画地へ。南に開けた良い土地である。仲々得られぬ土地である。数軒の新しい住宅群の中にポッカリと空地が空いていた。東は安松神社からの森が続いている。つまり安松神社の森とつながりながら、しかも近代の土地割の一区画なのである。西は由緒ある稲荷神社、つまり神社の杜の帯の中にあるわけだ。

レヴィ=ストロースのような文化人類学者であれば古代と現代が直接にとなり合わせていると視るだろう。土地には小さな菜園が試みられていた。隣りの安松神社迄雨の中を歩く。気持がなごむ。神社の森の連りはやはり不思議な力を持つものだ。安松神社はバリの集落のような境内を持っている。

K夫人の、近くのご両親宅でしばしお茶を飲んで話す。この仕事やってみようかの気持が急速に育つのを自覚する。世田谷村以降個人住宅の計画にはもう情熱を持つ事は無いだろうとは考えていたのだけれど、新局面が展開できる可能性が出てきたのかも知れぬ。

Kさん夫妻の計画は私の絶版書房アニミズム紀行の旅の延長上にありそうな事だけは確かだろう。

十四時前、再び新秋津駅でK夫人、野村と別れ。少しの用を済ませ、早々と十七時過世田谷村に戻る。住宅設計WORK、マスタープランの設計をしなくてはならない。思い付きの仕事が出来る年ではないからな。

063 世田谷村日記・ある種族へ
十月六日

昼前雑用。十四時日経アーキテクチュア、K氏インタビュー。十五時半了。チリ建国二〇〇年祭プロジェクト打合わせ、十七時半迄。これから細々とした雑用が急速に増えそうだ。途中、安西君より連絡入り、「水の神殿」大雪山系深層地下水販売の件どうやら入口に立てたようだ。健闘を祈る。

十八時半近江屋で鬼沼他打合わせ。二〇時了。二十一時世田谷村。

十月七日

六時半新聞を読む。京セラ稲盛氏行政刷新会議メンバーとなる。政権の経団連離れが実のモノになり始めるようだ。この記事はブラジルのT氏へ送る必要があるようだ。ブラジルは遠い、日本の今を良く知る必要が、T氏の事業には必須だろう。

十時前世田谷村発、秋津へ、K氏夫妻の土地見学。

062 世田谷村日記・ある種族へ
十月五日

十三時半前東大。難波研で雑談。十三時合同課題のためのレクチャー。難波、大野両先生。難波さんのレクチャーはメタル建築(ハイテク建築)の歴史。特にフランス型のそれとイギリス型のハイテク建築の比較史の風があった。大野さんのレクチャーは人口縮小時代の都市の考え方についての基礎論であった。十六時東大を辞す。十七時新宿長野食堂で休む。今日は犬吠崎から動いたのでいささか疲れた。

十月六日

五時半起床。新聞を読み、再び休む。台風が接近しているようで空模様は暗い。八時半再起床。WORK。

九時半淡路島の山田脩二と電話でチョット長話し。東京でジタバタしていると妙に山田脩二が懐かしくなるのは彼が人格高潔というか、私利私欲が薄いからだろうな。それでも長話ししていると世間様の近況の一部が手に取るように視えてくるのも彼の眼力であろうか。最近は私も年なりに廻りが視えるようになってしまい、人間に対してアレアレと思う事が多いのだが、山田はんは貴重だ。彼はコンピューターをやらぬので、この日記を読まないので安心して誉められるのである。

061 世田谷村日記・ある種族へ
十月二日

十一時四〇分M1ゼミ。十四時十五分加藤先生製図打合わせ。十五時三年設計製図第一回エスキス。20 チーム以上のエスキスを全て見る。有賀先生他参加。学生達は昨日の課題発表にもかかわらず多くのスケッチ、小模型迄作っていた。こんなに気ぜわしく進まなくても良いとアドヴァイス。内容に関してはほとんど見るべきモノは無し。設計製図のヒントにコメント書く。十七時半迄。十八時コーリヤ料理屋で高木、渡邊、加藤各先生と雑談。二十一時半世田谷村。

十月三日

今早朝、二〇一六年オリンピック開催都市がリオデジャネイロに決定した。シカゴがまず落選には少々驚いた。IOCの選択基準は仲々普通の人には解りにくい。IOCも要するに体育会系の特殊な集団なのだな。予想通り東京落選で、磯崎新の福岡オリンピック招致案作りに参加した身としては非常に複雑な気持である。二〇一六年はアメリカ大陸での開催が自然なサイクルであったのだから、今回の日本はやはり福岡で大義名分のあるオリンピックそのものへの独自の改革案で負けておいた方が未来には良かったのではあるまいか。これでここ当分日本でのオリンピック開催の可能性は失くなったと思われる。

十時半研究室。十一時過K氏夫妻来室。住宅作りの相談。十二時半了。野村同席。十五時製図準備室、アベル、チリプロジェクト打ち合わせ。マネージメントの件ほぼつめる。アベルようやく仕事の進め方を呑み込み始める。でも彼は故郷チリを遠く離れてよく頑張ってはいるのだ。彼の生みの両親はチリからキューバに亡命した小史を持つ。いささか声高に金の話を続けたので少し和もうと、新大久保の回転寿司屋へ。誠につつましい限りである。チリプロジェクトのアフターミーティングは回転寿司がピッタリなのである。十九時半了。二〇時過世田谷村に戻る。

十月四日 日曜日

八時前、下の畑。小松菜の種を三筋まく。蚊はいるが攻撃力は弱くなった。ブロッコリ、白菜共にむしに喰い破られ始めた。もう一度除虫薬を試みて、それでも駄目ならネットカバーを試みるしかない。あるいは虫にやられやすい野菜はあきらめるか。生ゴミ処理。区民農園へ、五人程の見知らぬ人間達と、沢山のちょうちょ。九時半納豆、トマトの朝食。

十時前発我孫子真栄寺へ。山手線の車両にトルコ政府観光局のビジュアル広告が貼り込まれていて、それが何と私が若い頃に必死で辿り着いた、ラバやロバの背にまたがり、ライフル銃を背負った屈強な男達に導かれ、ようやく本当にはうようにして辿り着いたナムルートダキ山頂の大ピラミッドの大エトルリアの遺跡の巨人像なのであった。あの特権的な光景も今や山手線のビジュアルか。でもこの映像はトルコ政府にとっては現トルコ国の国土はローマ以前エトルリアという帝国が支配していた事の証しで、日本の天皇陵墓の発掘、公開が今も秘されているのと同じ、あるいはより強大に国家とは何者かの問題にはタブーであった筈だ。トルコ政府観光局も随分大胆なストリップをやるもんだ。

十一時半過天王台駅、大住広人、杉全泰両氏と合流し新木真栄寺へ。十二時真栄寺。先日亡くなった松林宗恵氏初七日、しのぶ会。総勢二〇名に合流。松林宗恵氏は森繁久彌、三木のり平等の社長三代記、駅前シリーズの監督。私も昭道さんに引合わせていただき、お目にかかった。フィンランド・フィスカスのプロジェクト具体化の糸口も示して下さった。読経後、地下で昼食。故人をしのぶ。良い会であった。

十五時半了。皆さんとお別れして、利根川土手をズーッと銚子迄走る。とても良いドライブであった。秋色も濃く、陽光もいささかもの悲しく、いかにもな日本である。十七時半犬吠崎観光ホテル着。

すぐに温泉に入る。太平洋を間近に望み(砂浜に面している)、仲々どころか見事な露天風呂だ。十六夜で月がまぶしい位で、四人で月をたんのうした。皆佐藤健が引き合わせてくれた友人達である。夕食、雑談後二十一時前眠りにつく。さすがに皆昔の元気は無い。当り前だ。大住、杉全両氏は今、松林宗恵の一生を本にまとめるべく取材中である。

十月五日

五時起床。昨夜は太平洋の波の音と月の光を浴びて眠った。しかし、グッスリ眠れたのは明け方になってからだろうか。仕方ないなコレも。

すぐに露天風呂へ。グズグズと四方山話し。これが自然なのだろう。今日はこれから再び利根川土手を真栄寺迄走る。十一時半真栄寺。コーヒーをいただき、十二時前天王台駅。大住、杉全両氏と別れ、常磐線日暮里へ。Priority seat で学生二名がケイタイ使用。しかもお年寄りを前に立たせて、常磐線は民度が低いのか。日暮里、池袋経由、東大へ。今日は合同講評会二回目のレクチャーである。

060 世田谷村日記・ある種族へ
十月一日

九時半区民農園。人影なし。ちょうちょうが沢山群れ舞っている。もんしろちょうやらしじみちょう(そんなのあったかな)、黄色のやら、野菜や花の低さに浮いていた。ちょうちょうは春のものだとおもっていたが、よい光景なのに奇妙だ。

十時半製図準備室。アベル、チリの件打合わせ。十二時二〇分人事小委員会。十三時階段教室、早大東大合同課題レクチャー準備他。十三時半、課題発表に続きミニレクチャー。難波、大野両先生挨拶、鈴木(了)先生映像レクチャー。十六時了。コーリヤ料理屋で難波先生と雑談。十七時別れる。

三年間続けた合同課題も今年が区切りの年である。学生諸君には一定の成果を得るように望みたい。今のような転形期こそしっかりしたビジョンが必要なのだ、しかもそれは歴史地理、すなわち建築の地政学的把握があっての事だ、とかいつまんで言えば私のレクチャーはそういうモノであった。

世田谷村の隣の空地。ここには勿論以前家があった。それが失くなり今ここに有料駐車場が出現した。今の時勢を端的に表現する移り変りである。住宅の消滅と有料駐車場の出現。アメリカの産業構造の移り変りを見てみると、三〇年前、私が川合健二に初めて会った時、USスチールはまだ上位にいた。GMやBIG3はトップクラスを不動のものにしていた。川合が関係していたアメリカンスタンダード社もTOP 50 くらいにいた様な記憶がある。それが今や見る影もない。トヨタもいずれは見る影もなくなる事であろう。盛者必衰は歴史の宿命である。又、その事を当事者は知らぬのも繰り返し、繰り返し堂々巡りする歴史の真理である。隣りの 20 台程度の有料駐車場、そして気がつけば世田谷村の周辺は見渡す限りの駐車場、そして民間マンションである。今の日本に車がすでに過剰である深い現実の上の砂の上の風景である。日本の産業構造は急速に転形する。自動車を作り過ぎているトヨタは程々のメーカーになり、他業種がリーディング・カンパニーとなる。それがイメージ出来ぬとどんな絵も描けぬ筈だ。今はそういう時代なのだ。

世田谷村の廻りの風景はそれを知らしめる。マア、有料駐車場を作ったり、マンションを作ったりの小資本はそれで良い。いずれあぶくと消えるだろう。しかし、骨格となるべき産業資本の崩落、融解が起きつつあるのは問題だろう。駐車場と民間マンションのゴミのような風景の谷間に区民農園の緑がコケの如くに貼りついている。恐らく地主の税金対策と行政の折り合いの許に出現した区民農園である。しかし、有料駐車場よりはズーッと良い。この有料駐車場の光景は今の日本の先行の視えぬ状態の象徴である。しかし、若者はいずれトヨタも程々のメーカーになるという歴史の必定を知らなくてはならない。日記が設計製図のヒントになってしまった。

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