121 世田谷村日記・ある種族へ
十二月三〇日

世田谷村日記に「ある種族へ」と、ネイティブ・アメリカン向けの如くの意味深な飾り言葉のようなのを付け加えて久しい。と言ってもたかだか数ヶ月だけど。ある種族へと付け加えたのにはチョッとした意味がある。先ず第一にコンピュータのサイトに公開している、つまりは不特定多数の顔の視えない人々に対している現実にもかかわらず、私にはこういう人達にのぞいてもらえたあらなあ、読んで、眺めてもらえたら、という想いがあった。

他の何よりも、時代におもねる事の少ない、今の時代にいささかの疑問と、批判精神といったら大ゲサ過ぎてコンピュータのサイトには似合わぬが、まあ、しかしそんな考え方、感じ方、ひねくれ方、ねじれ方をしている人々に出来れば接してもらいたいとは、私の方では考えていた。

昨日は向風学校代表の安西直紀と夕方迄話し合った。話し合ってすぐどうなるというものではないが、大事な事であった。安西直紀と彼の周辺にいる、いささか得体の知れぬ人々、これは先ず私の「ある種族」の典型であろうか。そして残念な事に彼等の大半は私のサイトに接していないだろうと思われる。アニミズム紀行もほとんど読んでいないのは確かだ。彼等は自分が興味を持つ事には大きな関心を寄せ、しかも行動に移そうとするが、興味の無い事には殆んど見向きもしないのである。

安西直紀とは二つの事を共にしてゆこうとイメージを作り上げ、その全てではないが、端緒、つまり入口について議論をした。

一つはキルティプールの保存と再生計画。二番目に宮古島月光・TIDA計画。

他にも相談すべき事はあったのだが、面と向って、安西の言動、振舞いを見て、止めた。まだその時期ではない。

一、キルティプール計画は、恐らくは私自身の終の計画である。来年から、その終りに向けて、十年かかるのか、二〇年三〇年かかるのかは知れぬが、意識的に行動を積み上げてゆく心づもりがある。一、二年でできる事ではない。

その入口として、再びキルティプール・スクールを開校する。ひろしまハウスレンガ積みツアーと連動させて、カンボジアとネパールのトラベル・ワークショップを開催した経験が我々にはある。カトマンドゥ盆地のトリブバン大学との協力関係、キルティプール地方局との関係は再構築しなければならないけれど、可能である。

安西氏の向風学校もこの計画に是非共参加されたい。トリブバン大学及びキルティプール女性の家でのキルティプール計画展示会開催をスタートとする。その為の資金を作らねばならない。

二、宮古島計画は子供のための合宿サバイバルスクールからスタートする。無人島で一週間、生き残る為の生活体験である。これは比較的容易であろうから、一月中に準備をスタートさせたい。今日のニュースでは民主党の小沢幹事長が、米軍普天間基地の移転先を宮古島の民間飛行訓練飛行場でどうかと、発言したそうだ。事実とすれば宮古島は来年騒乱の最中であろう。チャンスでもある。考えてみれば、月光チームのオーナーである並木氏もある種族のもう一方の極である。外洋ヨットの種族はR・B・フラーのGP(グレート・パイレーツ)に等しい、筋金入りの越境者魂が備えられている。

昼前、私の畑に出て、ネギを土に埋める。レタス、キャベツ、小松菜を少し計り採取。

十二月三十一日

六時過起床。まだ薄暗い。新聞を読む。宮古島市下地島空港へ米軍移転の民主党小沢幹事長発言が波紋を呼んでいる。この下地島空港の真近の素晴しい珊瑚礁の海で双胴船ヨットTIDAに何日かを過した事がある。その間の事は「建築がみる夢」講談社に記した。私の唯一のと言っても良いぜいたくな海上生活であった。

我々の宮古島市渡真利島計画は米軍基地移転問題と無縁ではない。あの海域から遠望した宮古島市神島の神々しい姿は眼に焼きついている。神島は私には荷が重い。重過ぎる。機会があれば訪れて、神の山と共生し続けているであろう人々の生活の一端に触れるだけで良しとしなければならない。米軍移転の問題も当然ながら私には荷が重い。神島程ではないけれど。何故、神島程ではないのかの理屈は言わぬが、それでも私には米軍移転の問題に関係してゆく力も時間の手持も無い。

ただただ渡真利島計画に大きな関係を及ぼしそうなのは予感している。

大みそかの朝だ。話を少し飛躍させる。南方熊楠の紀伊半島、田辺湾、神島の自然保護運動が日本近代のエコロジイ(熊楠はエコロギィと記した)運動の始まりだが、我々の身の丈に合っているのは渡真利島である。渡真利島はもともと無人島で名前も無かった。渡真利さんのお父上が島の手入れをし続けてきた。この島には動植物学者に調べてもらえば、実に貴重な種が在るらしい。不勉強で申し訳ない。この島を一つの世界モデルとして構想できるだろうというのが我々のアイデアの根本である。

世界モデルなんていうと抽象的なまんまの程々の知識人特有の空想に過ぎないと考えるのが普通だ。できるだけ多くの人間に伝わりやすい夢という風に言い直しても良い。この島に自給自足の技術を適用して、それを広く世に知らせるという事である。植物や動物、昆虫、魚、鳥、空、風、海と一緒に暮す、暮せる事を実験するステージ、スタジオにする事だ。

十時前、九州宮崎現代っ子センター代表藤野忠利氏に電話。渡真利島で子供のサヴァイバル教室開けないかの相談をする。どうやら、子供社会も格差が生じていて、最近は豊かな家庭の子供達と、そうでない家の子供達がハッキリ分かれてしまい、これは良くないんだけれど、いかんともしがたく、豊かな家の子供達を大人数でなければ考えてみても良いという事であった。

今、考案中の全国版農村計画でも、そのスピリチュアルな世界の中心には子供の森が必要だろうと考えているから、宮古島計画とはネットワークを組めるだろう。さて、次はキルティプール計画のシナリオである。

二〇一〇年一月一日

六時半頃起床。快晴である。新聞を読み、七時前アニミズム紀行5、「終のすみ家へ」書き始める。十一時前小休。朝昼食。賀状の整理をして十四時街に出る。烏山駅前の食品スーパー、ドトールコーヒー、ケイタイショップ、パチンコ屋以外は皆閉店である。世田谷村隣の烏山神社は行列が道路に溢れひと曲りする位の大繁盛。区民農園は人っ児一人おらず。ま、そんなところである。十六時前、再びアニミズム紀行5、書き続ける。必要に応じてスケッチをしなければならず、かなり綿密な作業となる。

一月二日

六時四〇分起床。アニミズム紀行5にかかる。今朝も快晴である。東の空が黄金の光を放っている。仕事を終日続行、十八時半アニミズム紀行5、31枚迄書く。これ以上書くと夜眠れなくなるだろうと、小休。食事。上手く進んでいるのか、変な世界に突入しているのか定かではない。二〇時過三十三枚半迄書きすすめ、疲れて横になった。書きすすめた文中の主人公も丁度眠りについたので良かった。

一月三日

頭が疲れ過ぎて、やはり深くは眠れず、一時過に目覚め、書いたモノを読み直してみる。直さなければならぬところもあるが、予想以上に面白い。四時迄書き続け四〇枚少し迄辿り着き。再び横になる。八時半再起床、すぐにアニミズム紀行5のつづきを書く。朝食をはさんで十四時前迄続ける。五十一枚迄辿り着く。それなりに書けているような気はするのだが、どうなのか。生きて辿り着けるかどうかは知らぬけれど、二〇二五年迄の旅、終の建築と社会像への旅を描いてみた。私の率直な理想とも言うべきモノ、何かの像を描いてみた。

十八時半六十三枚まで辿り着く。絶版書房の一冊のとり敢えずは限界枚数だが、もう少しだけ書く必要がありそうだが、休みを必要とする。恐らく今夜も頭は眠らぬ夜になりそうだ。

書いた、描いた物体、建築をどうしても何らかの形に実現したいと熱烈に願望している自分が居る。

一月四日

七時半起床。アニミズム紀行5を読み通し、66枚迄つづける。スケッチも数点。十時半迄もう少しすすめて、出掛けよう。実に面白い。

120 世田谷村日記・ある種族へ
十二月二十九日

早朝の天空模様の移り変りに眼をみはる。多くの鳥の声、風の音の如しだが、私は音が良く聴こえないので、恐らくその妙音を聞き逃しているのだろう。

昼に新大久保近江屋で向風学校安西直紀と会う。二〇一〇年の展開について話し合う。二〇一〇年安西君との仕事、一つは回してゆく覚悟である。

119 世田谷村日記・ある種族へ
十二月二十六日

昼頃、大学へ。サイトチェック。その他雑事。21 世紀農村計画、スケッチを続ける。かなり、ハードな作業であるが、他人眼には遊びだろう。6枚、大判のエスキスを仕上げた。自分の核心を食と農と生命に接近させてゆく必然がある。

十五時過、集中したので、少し休み、製図室へ。学生は4人程しか居ない。完全に冬休みモードである。残念。十六時昼夕食を近江屋でとる。研究室忘年会を兼ねて、ささやかに。十九時過、一段落。二〇時世田谷村にて休む。

十二月二十七日日曜日

うすい陽光が射し込む朝である。2010 年のプロジェクトMAPづくりに集中する。まだまだ大きなフレームでモノを考える事はできるのだけれど、それを実現するための細部を埋めてゆくのが、仲々に難しいのだが。これは世の中の俗な定理でもあるから、実現するしかない。

終日、MAPづくり。多くの素材はあるのだけれど、3つ位の幹に絞り込む。

NTT出版、講義録に手を入れる。大方は仕上がっているのだけれどK氏に仲々渡せないでいる。

十二月二十八日

六時半起床。昨日のMAPづくりのつづき。勘を頼りに猛進する時節ではない。計算仕切って切拓く事をしなければ、日々を暮すかいもないのだ。十時メモを記し終り、小休。昼前には研究室にでかける。

十二時前研究室。サイトチェック。絶版書房動かず。十三時前M0卒計エスキスを見る。

今日から少し、ページの風景が変る筈で、今その作業が進行中のようだ。十四時ミラノのマーシャ、お別れのグリーティング。短い期間であったがマーシャはきちんとやってくれた。サヨナラ。又、会えるといいけれど、わからないね。

118 世田谷村日記・ある種族へ
十二月二十五日

八時発。九時大学人事小委員会。十時了。研究室、サイトチェック。アニミズム紀行3・残冊15、アニミズム紀行4・残冊17となる。3と4が逆転されそうで、頑張れ3号。仙台結城登美男氏と連絡。プロジェクト・サイトの選定に関して相談。明日から本格的に食を中心とした現代的結による農村再構築プロジェクトにかかる。他雑務。十四時製図室三年設計製図何名かを見る。竹中工務店教師陣の指導を妨げぬように、少人数を見るにとどめた。

それでも十八時迄。西早稲田より地下鉄を乗り継ぎ、十九時六本木磯崎新アトリエ。バルセロナの丹下敏明さんが家族でいらしていて、生ハム料理の準備。磯崎アトリエは今日が忘年会との事。平良敬一さん、磯崎さんと打合せ中であった。同席して、政権交代以後初めて磯崎さんにお目にかかる。

「水の神殿」「時間の倉庫」今年の成果をお目にかける。チリの展覧会のカタログは忘れてしまった。磯崎さん、エジプト・アレクサンドリアのコンペ案をひろげて、どうやらコンペに入ったらしいと言う。磯崎さんは25年前からエジプトの博物館との話しを驚異的な持続力で続けてきたこともあり、丹下敏明さんによればその話しも実現のきざし。急なようで、二つのエジプトのプロジェクトが実践されていく事になりそうである。

私も会わせてもらったチベットの活き仏も、チベット仏教寺院をモダーンなものでやりたいと、上海までやってきたそうで、来年の磯崎さんは大忙しだな。二十二時前、アトリエを去る。二十四時世田谷村。

十二月二十六日

八時過起床。曇天で寒い。しかし、昨夜の磯崎新は力強かったな。あれだけ元気だと、こっちに迄それが伝染してくるようだった。仲々、良い磯崎を見た。

今日は研究室で私もひとふんばりしたい。何しろ前へ歩く。

117 世田谷村日記・ある種族へ
十二月二十四日

研究室に寄る。サイトチェック。アニミズム紀行3残冊 15 冊、4残冊 22 冊となった

二〇一〇年のプロジェクト・オリエンテーションを突きつめて考えたので、その一部をスタッフに伝える。

友人の芳賀牧師よりアニミズム紀行3にクリスマスのドローイングを描いてくれとの連絡があったとの事、「ひろしまハウスのキリスト」を一冊に描き込んだ。キリスト教の牧師さんがズーッと読んで下さっていて私としてはとても気になっていた。キリスト各宗派とアニミズム・精霊の類の関係の定義は恐らく、仏教よりも厳しく論理的である筈で、その牧師さんにアニミズムという一見原始シャーマニズムを想起させるような思想の尾底骨らしきが受け入れられる筈がないと考えていたからだ。

しかし、今日、ひろしまハウスドローイング中に不遜にもキリストらしきを描き込んでしまった。かくの如き出版をやっている役得でもある。けれどギクリとした。キリスト像らしきを描いたのは明らかに生まれて初めての事であるからだ。今日は世間はクリスマスイブであるが、私はキリストのモデルにルソーの郊外のキリストを選んだ。ヨーロッパの郊外ではなくって、カンボジアのほこりっぽい道にたたずむ。少し泥に汚れたキリストである。私の和筆使いのテクニックでは、実は何を描いてもヨーロッパ的にはなり得ず、何となくアジアの土まみれの風になってしまう。それで良しとしてはいるが。

おそれおおくもキリストと日干しレンガのひろしまハウスが共に星空の道にたたずんでいるのを描いてしまった。やっぱり緊張して下描きを二枚して、特にキリストの顔は和筆ではむずかしかった。

理屈ではなくキリスト像をかいてみて、しかも和筆ですぞ。一向に自分では違和感が無いのにビックリした。サンダルもはかぬ裸足のキリストが子供の頭に手をやり、ひろしまハウスのレンガの壁の中に入ってゆく風は仲々良いのであった。原始キリスト教は精霊の存在を中心としていたかどうかは知らない。しかし、生霊、精霊を感知し得ていたのは確かであろう。要するに古来からの感性、感受性の総量の問題である。

あらゆる宗教の基礎、初源が何処に辿り着くのかは、言うにはばかるが、恐らくはあらゆる物体に生命を視るが如き感性に通底するのだろう。牧師さんが読んでいる可能性もありこれ以上の暴論は避ける。牧師さん向けのカンボジアのキリストをおえ、アニミズム紀行4、20 冊にドローイングを描き込む。

ヒョンな出来事のせいで、私としては精一杯のキリスト聖誕祭、クリスマスを実感させていただいた。

十七時半近江屋で一服する。絶版書房インタビュー、うまくゆかず。ダメなときは何をやってもダメだな。その後新宿長野屋食堂で渡辺と来年の計画についての打合わせ。二〇時新宿初。二〇時半世田谷村。

しかしながら、本日は私としてはドローイングにキリスト像を描いたのが強烈な体験であった。仏陀のその様な姿を描く事は仲々難しいのである。

116 世田谷村日記・ある種族へ
十二月二十三日

今日は休日らしい。朝焼けがキラキラ力強い。光も清々しい。六時半起床。新聞を読んで、おムスビ二つ喰べて、八時十分発。今日は鬼沼の現場である。母の事も気になるが、鬼沼の建築も気になる。どうせ気になるならと建築の方へ行く事にした。仕方ない。それ位の仕上がりになっていて欲しい。今日は時間の倉庫の竣工検査なのである。

鬼沼に作った「時間の倉庫」は私の作ったモノの中では、今のところ最良のモノである。ただしA(幻庵→ひろしまハウス→時間の倉庫)のライン上のモノの中でと考えれば、である。B(開拓者の家→伊豆の長八美術館→世田谷村)のもう一つのライン上のモノではない。そう簡単には分かれてはいないけれど、そう考えると考え易い。今、電車が笹塚を出たので一時メモ中断。

Aのラインはガランどうが中心に居座っている。Bのラインは色んなモノがギッシリつまっているラインである。Bについて考えつめてゆくと、とめどもない。反対にAはひどく、あっけらカンとして解りやすい。何しろ真中に空虚がある。その空虚の質だけが問題になるだけの、そういう類の問題があるだけだ。

九時東京駅T社長を待つ。

Aラインの建築はシンプルである。社会、技術に対する考えがほとんど一切抜け落ちている。あるいは意図的に消去しようとしている。それ故に逆に過度な社会性を持つ類のモノである。これは建築家達が潜在的に求め続けている吹抜け、アトリウム等々とはあんまり関係がない。空間の多様性らしきを習慣的に出現させてしまう吹抜け空間とは異なるのである。

T社長親子、渡辺と共に郡山に向けて走る。アッという間に郡山着。鬼沼集落の渡辺氏迎えて下さり。例の無茶うまい十割ソバ屋へ。私は温かいトロロそばとおいなりさん1ケ。やっぱりここは冷たいソバがいいな。十二時。

実ワ、その前に某所に寄って実験的温室群を見学。払い下げ転用の可能性があるとの事。T社長は意欲的である。この人物は全てに前向きで最近つくづく、ヤルナーと思う。

雪道を猪苗代湖鬼沼へ。十三時過「時間の倉庫」現場着。竣工検査。仙台「アトリエ海」佐々木氏も来て、開口部建具その他をチェック。その後、前進基地で打合わせ。十七時過修了。コチコチの雪道を歩き、再び今年最後の現場の見納め。十八時前郡山駅。十八時四分の東京行きに乗る。今日は駅弁を買えて車内で、4人で話しながらの夕食。十九時四〇分東京着。皆と分かれ、二十一時四〇世田谷村着。

十二月二十四日

六時半起床。新聞と数冊の本を読む。最近は古いモノを繰り返し読んでいる。その方が自分には向いている。

昨日電車内で記した断片メモの続きを再び断片的に。日記の形式内であるから、本当にメモ程度のものになる。

「時間の倉庫」は 45ha の山林に建設中の複合農園の中心施設である。近い将来、ここはエネルギー自給自足、食の自給自足のモデルとなる場所として想定されており、二〇一〇年段階ではその中心の建築となる。機能は無い。敢えて言うならば農作物の倉庫であり、仕分け場であり、研究場、実験場である。時間の経過そのものが、全く新しい機能を案出する可能性がある。

過去を振り返れば、そのような物体は幻庵→ひろしまハウスの流れしかなく、又その二つの建築らしきが、よくその重要な性格を示し得てもいた。幻庵は茶室としても使用できる使用できるゲストハウス、あるいはオーナーの別荘として作られた。歴然とした機能らしきは無いと言って良い。オーナーの榎本基純が亡くなり、一層その性格は明快になった。今は、榎本基純を忘れない為の備忘録としての役割しかない。しかも、その備忘録は重量のある物質で構築され、その中に深い虚空と言うべきを備えている。この虚空は物質だけが作り出し得る虚空であり、今の世で俗に言うバーチャルな体のものではない。ここで榎本基純は日がな一日、太陽の光の廻転、すなわち地球の二重の回転運動に身を任せ、放心の日々を送った。時々そういう便りをいただいた。私はそんな事を意図していたわけではない。「ひろしまハウス」も、かなりの集団で作ったものではあったが、基本的には、これも備忘録である。ひろしまへの原爆投下という現代でも深過ぎる位の人類史上の悲劇への重いメモである。 そして「時間の倉庫」は、その我々のストリームの三部作の恐らくは最終章になるものだ。それ故に時間の倉庫と名付けた。

115 世田谷村日記・ある種族へ
十二月二十一日

午後研究室で諸々の雑用。絶版書房はこの土、日で一冊も残冊が減ってない。マ、仕方ないな。でもあきらめない。努力が足りないのだろう。夕方外出。只今二十一時過ぎ、京王線電車中である。

十二月二十二日

妙なことを言うが、朝起きて、新聞を読んで、送られてきている何がしかに眼を通し、そして、いつもの通り日記を書いている。TVは視ない。決して新聞が情報として上位とも考えていないけれど、新聞の活字を追う速度が私には向いている。TVの速力についてゆけない。というのは誤りで、TVを視る速力はは自分の脳内風景の速力とは言えない。自分でコントロールできないんだから。活字を介して今朝の何がしかのイマジネーションというべきか、が生まれる。必ず生まれてしまう。その全てを記録する事は不可能だし意味もない。日記のためのメモを記しているが、これはもう完全に習慣となって体に馴染んでしまっている。九年やり続けているからだ。

日記(記録)は読者の眼を、最近では必要以上に意識せざるを得ない。それ故に、ここんところは強引過ぎるけれど、こうやってメモしている事自体が読者の眼=イマジネーションの海の中でうごめいている事と同じなのだ。

ここのところ、メモを大量に書き過ぎたので、今日は少なくしようという気持も、読者のイマジネーションらしきがそうさせていると考えられる。サイトへの自己表出はそれを二重に意識していれば面白いイマジネーションの世界へ入る事ができるだろう。

114 世田谷村日記・ある種族へ
十二月二〇日 日曜日

十七時前発。伊東豊雄さんの奥様が亡くなられて、青山迄通夜にでかける。六十六才で亡くなられた。十八時前西麻布、大本山永平寺別院長谷寺。伊東律子通夜。難波和彦、佐々木睦郎、山本理顕、村松映一各氏他に会う。

伊東豊雄さんは、焼香の後あいさつしたら、オーッ、お前来たかというような感じの、表情を見せた。

近くで、一杯やろうという事で、佐々木氏の提案で、ブッシュと小泉が喰べたという焼鳥屋に行く。デッカイ、焼鳥屋だった。小泉元首相の好みらしく、実に大まかな横須賀風コロニアル建築であり、佐々木氏の全ておごりであったので文句は言わぬ。難波さん新小岩の焼鳥屋といい、佐々木氏のブッシュ・小泉好みの焼鳥屋といいどうやら、かなり問題を含んでいる感がある。彼等はどうやら焼鳥のテイストを本能的に嗅ぎわけられぬのではないかの疑いがドーッと湧き出たのであった。これは失言である。撤回したいが、残す。

修了後、TAXIで新宿迄送ってもらい、「よいお年を」と別れ、二十二時半世田谷村に戻る。

十二月二十一日

八時半起床。昨夕、青山に行くのに、渋谷駅コンコースで岡本太郎の「明日の神話」を見て、仰天した。素晴らしいのである。以前の印象とまるで違う。新聞で、「明日の神話」が大掃除されたと報じられていたが、附着していた、ゴミやホコリが取り払われたのだろう。岡本太郎本来の色彩の輝やきが実に良いのであった。これは一見の価値がある。

ひるがえって考えれば、掃除前のモノはそれだけ、ほこりをかぶって輝やきが失せていたという事である。凄いモノだなほこり、というか都市内大気の汚れは。この汚れの実体は何なのか、人間の衣服から排出されるもの、人間の呼吸自体から排出されるモノ、建築物から排出されるモノ、車他から排出されるモノ等多様であろう。しかし、これ程迄にその総体が短時間で積層、附着し、本来のモノの輝度を減じているのは大変な事だ。

都市において我々はモノ本来のマテリアルの表情、ニュアンスを見ていないのである。雨あがりの風景がみずみずしく眼に映ったり、美しいなと感じたりの以前に都市にはすでに積もり重なった、ほこり、汚れが発生していて、雨のシャワーくらいではそれは落ちないモノなのだろう。

バルセロナでガウディのカサミラがクリーニングされたのを見て、オヤ余り良くないなと思ったのを思い出す。あの建築にはホコリやシミがしみついた方が良く生きるのである。過剰なアニミズム的物体には歴史の積層が必要なのだろう。

113 世田谷村日記・ある種族へ
十二月十八日

十四時母の家を発つ。十五時過研究室。M2、マーシャ相談。十六時半、三年設計製図第四課題、世界企業であるスポーツビジネスカンパニーの丸の内本社ビル中間講評会。竹中工務店設計部長四名+村松映一、稲門建築会会長の教師陣である。学科教室からは入江、後藤両先生と石山が出席。

早稲田建築で初心者段階の設計教育として最も重要な三年生の最終課題を、スーパーゼネコン5社の設計本部長クラスにみていただこうと教室で決め、今回が初の成果である。大きな期待と、それと同じ位の不安を抱いて出席した。まだ中間講評であるから早急な結論を述べるべきではないが、教師陣(指導者)側と学生側、それも優秀であるかも知れぬ人材群の間に、いささかのとまどいと遠慮のような何かを感じた。しかし、これはある程度予想し得た事ではあり、その予想が現実のものとなったに過ぎない。しかし、見過ごすことも出来ないので、「設計製図のヒント」に早急に書くつもりである。二十一時、村松氏も含め教師陣と率直なミーティングをして去る。竹中工務店の教師陣には大変な負担とエネルギーを投入していただき、その実力、情熱共に感服するが、それでも何か重要な問題が未解決のママ横たわっているのを痛切に感じた。

二十一時近江屋で一服し、二十三時前世田谷村。

十二月十九日

八時起床。風呂に入り、スープを飲んで、九時発。九時四十五分松陰神社前野村と待ち合わせ。桜上水プラットホームでメモを記していて、二本電車をやり過してしまい、野村との約束の時間ギリギリになった。Mさん夫妻と打合わせ、お昼のカレーそばをごちそうになりながら、十四時半迄。

十五時松陰神社前で野村と分かれ、私は明大前経由、吉祥寺三鷹経由母の家へ向う。十六時母の家。入口ドアの中よりチェーンがかかっており入れず。四苦八苦するもダメ。ケイタイを持たぬので寝たきりの母に電話もできず、近くに公衆電話もない。やむをえず、事情を説明して市営プール角の交番より電話してもらう。もしやと思ったが母が出た。クサリを外してくれと頼む。交番迄二往復した。やはり、ケイタイを持たぬともうダメかなと考えた。しかし、介護にたずさわる多くの人間達の大変な労苦を思うばかりだ。

十六時半母の家、母に無事に会えた。生きた人間に会えるのは本当にありがたい事である。全く会えなくなるのは、あきらめもつくが、中途半端に会えぬ状態は厳しい。

気の強い母ではあるが、「便所で歯が抜けてしまい、その歯を呑み込まなくって本当に運が良かった」とやっぱり、寝たまんまの目で言う。気の強さの裏には必らず本格的な弱さ、すなわち情らしきがあるのだ。「でも、何か喰べなきゃダメだぞ」「入れ歯作るのに、三日かかるんだって、だからそれまで固いモノ喰べられないよ」「先の事はいいよ、考えまい。今夕のメシの事だけ考えよう」「わかった。ツルツル入ってくモノなら大丈夫だ。ワタシが自分でやっぱりおかゆを作ろう」「そうしよう」。

流石に今夕は、時間はあり余るが、俳句を詠んでみようという気にはならない。俳句は今とは違う世界、ほとんど冗談とも言える世界だ。チョッと何かがズレるだけで、母と私の関係は無に帰する、うす皮一枚の上に居るのを知るのである。

十七時過、伊豆松崎町の森秀己さんに電話する。森さんは 84 才の母親の 24 時間ケアーをやり始めて、二年程になる。私なんかとはレベルがちがう介護の日々である。つきっきりで、二時間おきに色々と仕末し、ケアーを続けているとの事。例によって明るく話してくれてはいるが、凄いストレスだそうだ。当然だろう。こういう感じでは森さんは私のサイトを最近読んでいないだろう。そうだろう、このサイトだってバーチャルな空気みたいなモノなんだから、人の生き死にとは関係ない。遊びだ。でも、我々は遊ばざるを得ない世界に段々と近附いているのも痛切に感じるのである。遊ばないと人間は滅亡する。

十七時半、母ひとり起き出し、ひとりでトイレにゆく。何かのきっかけで少し気力が生まれたのかも知れない。私がそばに居るからかも知れないと 1000 分の一くらい望みたい。十八時母の超スローなおかゆの食事、その後の適確な各種薬の服用手仕事を間近でみる。口をはさむと「うるさい、だまってて」と言う位だから、元気なのであろう。

十八時半過、母は「もういいよ。帰るの?」と矛盾したワケの解らぬ事を言う。まだやっぱり気力は戻っていないと直観するも、今晩は妹が連絡してくるから大丈夫と言うので、去る事にする。そばに居ても際限が無い。居なくても際限がない。バスに乗って帰る。只今十九時半前、京王井ノ頭線永福町を過ぎている。

只今、二〇時四十五分世田谷村二階で夕食を終え、手持ち無沙汰であるが、先程、誰の恵みなのか、チョッと良いアイデアが生まれて、今夜はそれをふくらませてみる。

十二月二〇日 日曜日

七時過起床。新聞読む。東浩紀が朝日新聞で政党選挙に対してネットの可能性を説いている。70 年代の直接民主主義の焼直しではないか。うろ覚えだが、アドホシズムがこと挙げされ、スーザン・ソンダク、チャールス・ジェンクスというクオリティの全く異なる論者が論を張っていた。東の論調はそれと比較すると郵便的どころか社会風俗的で何も刺激されない。私だって絶版書房をドマイナーに立ち上げてネットを基盤とした消費社会のフラットさにわずかなりともの歪み、深みらしきを投げ込んでいるつもりなので、真剣に読んだのだが、何もなかった。

十二時、仕事一段落させる。十四時半、「絶版書房買うべし」一本、設計製図のヒント2本書きおえる。設計製図のヒントは大事な事を書いていると自覚する。やはりこれは一冊にまとめた方が良いかも知れない。十五時小休。

112 世田谷村日記・ある種族へ
十二月十八日

明大前乗換え、吉祥寺へ。井の頭線車中でフッといきなり伊豆西海岸松崎町の森秀己さんを思い起す。森さんは町役場を定年前に退職して、今は母上の介護暮らしである。父上はだいぶん前に亡くなられた。私なぞはとても介護なんてもんじゃなく、自分で自分をせせら笑いたくもなるが、森さんはホンモノ介護人である。役場にズーッといれば、いずれ助役そして町長という声もあったが、あっさりやめちまった。今おもえば仲々の決断であったのを知る。えらい。私自身はロクな人間ではないが(本当ですぞ)、私の友人達は皆えらい人間であるのが秘かな私の自慢なのだが、年を重ねるにしたがって益々それを痛感するのである。あの実に伊豆西海岸松崎的人物に介護されている人間は幸せである。私も万が一にも長命になっちまったら、西海岸の陽光溢れる西の光の中で森さんに介護されて延命も悪くはないなと、考えたり、でもその森さんの介護は誰がやるのだろうかと実につまらぬ事を考えたのである。

仙川上水沿いの小径をモズの鳴き声を聞きながら母の家へ。家の中の現在の居住区内に飛騨の匠に伝い棒をそれこそ重戦車の如くに装備した一部始終を大声で聴かされた。声を出すのが喜びなのであろう。

モズないて 母もさけべり 虚空かな

この句は母も叫べり、という耳の聴こえぬ 90 才の母親がそれでも大声で話しかけようとする一生懸命を詠もうとしたところが取得であろう。しかし、モズないてという発句がいかにもであまりにもチンプであり、昔の小学生唱歌的抒情の水準である。又、結句、虚空かな、もいただけない。いきなり俳句のできそこないの哲学問答が入り込み、自身の知識人振りらしきをザラリと露出している。実に趣味が悪い。大体俳句そのものが虚であり空であるのだから。

てんさく句

モズひと声老母応えて空凍る

えーっ、私のオリジナル句を評者がてんさくしたものを見るに、何ひとつ良くなっていない。これでは評者は俳壇ゴロと呼ばれて当然であろう。つまらぬ観念に言葉を重ねようとして俳句本来のアニミズム的無為の影すら感じられない。

隣の部屋では母がTVで千の風になってという私の大キライな唄をでっかい音で聴いている。千の風よりは、一羽のモズの声の方がはるかに心に響くな。昔三橋美智也という唄い手がいて、たしか「星降るまち」だったか定かではないが歌があった。

♪両手をまわして 帰ろう まだ遠い 星降るまちを たった一人で

 やさしかった夢の数々・・・・・というような唄であった。

三橋美智也は高音が済んで美声の持主であった。その声の質で歌謡曲の具象性を時に抽象化し得たのであった。三橋の唄うこの歌は名曲であった。その高音は時に聖堂のグレゴリア賛歌の高音の如くに済んでいたように思う。最近では、もののけ姫だったか、千と千尋の神隠しであったか、もう定かではないが、背の小さな男の歌手が裏声の高音で唄ったのに酷似していたが、歌の総体としては三橋の星降るまちの方が大ぶん上廻っていたのではあるまいか。

昔の歌謡曲歌手の良質な者は自分をまさか芸術家なぞと意識していなかった。特に三味線、民謡をバックグラウンドに光を浴びた三橋等の歌手には一切合切それが無かった。当時は民衆らしきがまだ居たし、彼等はそれの代表として、声のいい奴代表として唄ったのである。彼等は歴然として芸人であった。

千の風になっての歌い手はどうやら芸術家としてステージに上っているのが歴然としている。素人が作った詞らしきをいかにもな西欧風に唄いすますのである。それに何の疑いも持たぬ。それがイヤだ。もっとも疑いを持つが如きの知性はこういう娯楽世界の見世物小屋には入ろうとはしないだろうが。

どうも、母のそばに居るのも大変よろしいのだが、流石にヒマで、どうしても独人言が多くなり、日記が長くなってしまい、読者の皆さんには申し訳ないとは思うが、いずれ皆さんも介護したり、されたりの身になることは確かであるから、予行演習と考えて下さると救われる。眠っている母の顔は子供の顔である。

111 世田谷村日記・ある種族へ
十二月十七日

十一時、研究室で世田谷美術館N氏Y氏と打合わせ。ミュージアム・ショップの木工製品に関して。前橋の大工さん市根井君、及びそのグループの活動を、極微でも社会化する為。ちょっとでも力になれたら良い。修了後、新宿南口、食堂長野屋にて昼食。お二人には是非とも、この食堂を体験していただきたかった。終了後は私用。

一、木工大工の空き時間利用、二、富士嶺造園巨大温室転用、三、宮古島スクールに関してアイデア作る。

十二月十八日

六時起床。寒い。しかしながら、この世田谷村の寒さはデレデレとした温暖化現象の真只中では実に貴重なのであると、鼻水をすすりながら負けおしみを言う。全く、負けるが勝ちという事もあるのだ。

九時半緑町の母の家へ。

110 世田谷村日記・ある種族へ
十二月十六日

八時、おにぎり二ケの朝食。トルコのクルド民族主義政党民主社会党(DTP)は所属議員十九人が国会議員の辞表を提出したと報じられている。柄谷行人の講演レクチャーに関心が寄せられる地域とはそういうところだ。地球は今更言うまでもなく実に多様だ。

十時過発。電車内でメモを記す。

十一時研究室。十一時半K建設来室。二時の学生との打合わせがキャンセルとなったので、少し計り時間がアキ、早速、アニミズム紀行3にドローイングを入れる。十八冊に描き込む。さすがに疲れる。ひろしまハウスへの書き込みはほぼ四百冊に達したが、今日のドローイングでようやく、どうにか納得できるモノにたどり着いた。この十八冊は良い。

安西直紀の大日本山岳部という、とんでもサイトをのぞいたら、まさに今日十六日のいましがた、民主党副総裁、管直人とツーショットしているので驚いた。○○と煙は高い処に登りたがるというのは通説でもあるが、この男は誰にでも会ってしまうところが、常人ではない。

ただ、管直人に会ってどうするってのが全く視えないところが変で、マ、面白いところだろうか。

十七時、再びアニミズム紀行3、10 冊にドローイングを入れて、今おわって頭がつかれた。十七時四〇分発。

キャンパス内の西早稲田、明治神宮前、根津を経て、根津のはん亭なる料理屋へ。十九時前に着いて、伊藤毅先生と料理屋に入ろうとしたら、予約は十九時ですから、十九時迄ダメですと言われて、仕方なく、寒い通りの竹のベンチで待つ。もう、この店には二度と来ないと心に決めた。十九時、伊藤毅、難波和彦、鈴木博之各先生方集まり、年の暮の会。二十一時迄。各先生方の明るさが少し計りまぶしい感じの会であった。少しばかりひがみっぽくなっているな、これは良くないと自戒する。良い時もあれば悪い時もあるのだ。

109 世田谷村日記・ある種族へ
十二月十五日

十二時研究室。サイトチェック。土、日曜日サイトが動いておらず、メールも着信しなかった。時々、我々のサイトはこんな状態に陥る。サイトがブログシステムではなく、手作りともいえるマニュアルによるもので、こうなるのだ。土、日の読者の皆さんには失礼した。

すでにサイトは 13 年の歴史を持つ迄になっているのだが、基本システムは蒸気機関車みたいに古いものなのである。絶版書房の注文は土、日に何故か集中することが多くだいぶんダメージをおったかもしれぬ。それでも、おかげさまで残部数は残り少なくなった

十二時半前「at」プラス、編集部御三方来室。インタビュー。身近で極めて、間近な事に意識を集中して話させてもらった。太田出版によるこの雑誌は大事な活字メディアである。勿論手を抜いたりはできないが、平明な言葉を使うのを計算して、しゃべった。十四時半過了。編集のT氏に柄谷行人氏の近況を尋ねたら、世界中講演、レクチャーで飛び廻っているとの事。具体的な運動も再始動の機運があるようだ。

十五時T社来室。十六時迄。十七時過発。十九時半世田谷村。「at」プラス 02 太田出版、千三百円+税「 21 世紀の市民社会」読む。柄谷行人インタビューがとても解りやすく面白い。トルコでの講演、およびメディアのインタビューの要約である。

柄谷の最近の世界共和国へという論がトルコ共和国という知的風土とシンクロしているようで、とてもリアルな響きを発している。非常に解りやすいし、面白いので一読の価値がある。

柄谷の LETS(地域通貨の如きもの)は二〇〇六年にクロアチアとスロベニアに招待された時の講演をきっかけに、すぐトライされたようで、当然柄谷の実践と同様に失敗したという。しかし。その失敗は希望のある失敗であったと柄谷は、ポストモダンのシニシズムに沈み込まずに言明している。こういう言葉は人間を勇気付ける。

太田出版:e-mail:editor@ohtabooks.com

二十三時半、「at」プラス 02 読了。

十二月十六日

六時目が覚めるも寝床で色々考え込む。考え込んでもロクなことは思い浮かびようがない。今日は夜、友人達と会うスケジュールが入っているのだが、母のつきそいをとるか、友人達との付き合いを取るか、思い悩んでいる。八時半迄に決められれば良いが。友人達と会っても浮かぬ顔の連続ばかりでは失礼だし、かと言って楽し気を演技したってこれ又失礼だ。

108 世田谷村日記・ある種族へ
十二月十四日

六時半、司馬遼太郎の対談集再読。久し振りに読んでどうにもふに落ちない。アブストラクト過ぎるような気がしてならぬ。それでも九時半迄続けた。読みながら、仕切りにこれからやるプロジェクトについて考えを巡らせていた。字を追いながら、全く別の事を考えていた。こんな時には国民的作家の本は背景音楽として役に立つのである。

十時区民農園へ。久し振りに 72 区画の老人に再会。他人の畑を観察してまわっていた。念のため再び年令を尋ねる。86 才になるとの事である。母より4才も若い。しかし、かくしゃくとしておられる。

「来年は、ここも失くなるんですけど、どうされるんですか」

「好きなことやれなくなっちゃ困るから、今、祖師谷の方へ申し込んでいるんだけど、あそこは小さいから、多分ダメでしょう」

「ずーっとお目にかかってませんでしたが、毎日、碁会所だったんですか。」

「イヤ、碁は二日に一ぺんくらい。ここも来てましたよ。先日おたくを図書館で見かけたんだけど、良く図書館へは行くの?」

「イエ、ほとんど全く行きません」

「じゃ、別の人だったんだ」

他愛のない会話なのだが、妙に心が動かされるのであった。この老人も素晴らしい生命力の持主だ。なにしろ特攻隊の生き残り、しかも台湾での自活農の体験者である。凄いよ、フツーの人は。

十三時、緑町母の家。途中妹に会う。何とか母はもっている。話が急にドライになって、こちらもエネルギーをようする。もう少し、しんみりしてくれるといいのだが、それはあくまでこちらの言いぶんである。「もう 90 になるから、体力が落ちた。ころんで入院して十日もたったなんてのは世話がない」との事である。人間はどうやら現実原則としての生物で、ヴァーチャルな脳内風景内の双方向性を持っているようだ。こんなアブストラクトな事書き付けるようじゃ私もまだガキだなあ。気取るなよと自分に言い聞かせる。

とり敢えずは、今日明日には死なないだろう母は、大声で叫び始めた。意外極まる事をいきなり言う。母はどうやら広島への原爆投下への原体験があったようだ。「ピカドン」の話をいきなり話し始めた。

母は自分で言うのも何だけれど、シャーマン的な才質が少しある女で、恐らくはその歴史を私に告げておく必要を強く感じていたのであろう。この事は日記には書かぬ。アニミズム紀行5および3、4を読んでいいただくしかないのである。私が「ひろしまハウス」をやらねばと思ったのは、一部は母のDNAであったかもしれない。複雑でしかもストレートなあみの目の中に居るのを知る。

夜、新プロジェクトに進む。スケッチ描く。いつか発表できると良い。

二〇時毎日新聞萩尾記者と烏山で会う。盲人世界を追っていて数ヶ月になるという。昨日大変な事故にあったようだ。健闘を祈りたい。二十二時了。

107 世田谷村日記・ある種族へ
十二月十一日

十二時過武蔵野市緑町陽和会病院。マスク着用で母につきそう。母は 90 才。昔を想えば随分小さく、やせ細った。岡山の安藤の家の親戚は百才になったと母は叫ぶ。この様子だと、まだまだ生きてやろうという気持は充二分にあるようだ。耳が遠いので声は大きい。昨日、ようやく点滴が外れたとの事。痛かったらしい。気丈な人で一切のグチはこぼさない。74 才で亡くなった父親の家系も父を除いて長命なようで、大オバさんは今 98 才、動けぬ大オバさんを介護している連中が 80 才台だと言うのだからとても変な世界なのだ。

少しまどろんではパッと目覚め、大声で「お前何処か体調悪いんじゃないのか」と叫ぶ。「イイヤ、大丈夫だよ」「嘘つくなよ」「嘘なんかつくもんか」「本当の事言わなければ母さんの体も良くならないぞ」と強情である。母らしいとも思う。決して生やさしい状態ではないのに、ヒトの心配してやがる。余計なお世話だ、とも言えない。そういう荒い冗談は言えぬ状態なのである。

ようやく便の通じがあって、すぐにどうという事ではないのだけれど、いつ何があってもおかしくない。できるだけ、そばに居ると決める。そばにいて、どうともなる事ではないが、少しは安心であろう。一人に強い人なのだが、余りにも情が濃い人だから。ガリガリにやせた手で、それでもあお向けで何かメモを記している。腸閉塞の状態は脱しているようだ。メモは伝言であった。

修武よ

庭に四季折々の花を楽しみ

道に咲く花に目をとめ人生を深く生きなさい

歳時季を購入して、俳句作りをやりなさいとも言う。俳句の件など話したこともないのに、どこで、どう通じているのやら。死ぬか生きるかだ、これも公開しちゃえと度胸を決める。何言われてもかまわネェのだ。

十七時前研究室。M2、マーシャ小打合わせ。十八時前K君打合わせ。K君のところの会社の将来のことも考えなくてはならない。ギリギリの思考力が必要だ。十九時近江屋。ケイタイでK氏と話す。二〇時半了。二十一時半世田谷村に戻る。大変な一日であった。しかし、これぞという一日だった。

十二月十二日

六時半起床。オニギリ2ケ食べて、八時前出発。明大前吉祥寺、三鷹経由、九時過陽和病院。

母は何とか元気そうになって、色々と私に命令を下し始めた。昨日のしおらしさは何処へ?という感じである。今いずこと詠嘆してしまう。もう病院には居たくないとの事で退院することとする。何しろ病院は朝から晩まで検査、検査でそれがイヤなのだと言う。色々と状況を判断し、すぐ近くの母の家に一度戻ることとした。家が一番だと言い張るし、死んだ父も死ぬ前にそればかり言っていたのに、遂に病院で死なしてしまった。今度は本人の意志を尊びたい。それにこの病院はつまらぬレートモダニズムデザインで母の終の場所にするわけにはいかない。手続きをして、薬をいただき十時半母を妹と引き取り退院。武蔵野市緑町の母の家に三人で戻る。

やっぱり病院よりはいいのである。自分の本来の寝床に戻りゆったりと横になった母は壁付のでっかいTVのボリュームをあげて、騒音を発している。ようやく、本来の母になった。昨日の、しおらしい伝言は何であったのだろうか。あれは幻なのかね。バアロー「お前深川に芭蕉庵てのがあってね、歴史は勉強しろよ」だって。

あまりのTVのうるささに隣の部屋に逃げた。 「オイ、チョッと来い」との事で「ヘイ」と顔を出したら、「お前の座ってる椅子は飛騨の高山の木工の椅子だ、ヒダの匠だぞ、座り心地絶好調だろ」と自慢した。ふざけるな、と思いもしたが、マア、すぐ死んだりはネェなと安心する。折角昨日はしんみりしたのに、しんみりはぶちこわれた。再び、人生は喜劇になっている。日々好日を願いたい。

ギョッとするくらいに小うるさい事まで、ああだ、こうだと叫び出して、うるさい事際限がない。介護するより、口を先ずふさぎたい位である。90 才は大変だなあ。沖縄のババ達の長生の異常さを今さらながら想い出す。アレ等は怪物であったのか。介護疲れでまいってしまう人間の多さに納得せざるを得ない。

十四時妹自宅へ帰る。母と二人切りになる。又、TVをデッカイ音出して視てる。音がない静かさが不安なのかも知れない。十五時半、母は何とか大丈夫そうか。夕メシの段取りをして、今日はとり敢えずそろそろ去ってみようか。隣室で呼ぶ声がして「お前寒くないか」だと。こっちのせりふだ。

アニミズム紀行1に記録しておいたのだが、私の母のコレクションらしきモノの一群や、遂に充二分に果たすことが出来なかった普請道楽、建築(住宅)計画好み、そして言動らしきにアニミズムを視ていた。それをこの機会に深く感得したいと思う。

「そろそろ帰れ」というので、言葉に甘える事にする。死のうが生きようが独人でなんとかするであろう。しかし、この二、三日が大事だ。「もう、いいよ」と言うので、十六時半緑町の家を発つ。

十七時半新宿南口味王。しかし今日も満席との事。真前の素晴らしき長野食堂にて、絶版書房インタビュー。長野食堂は場外馬券売場関係の人が多いのだが、今日は珍らしく閑散としていて良い。色々と私としては調子に乗ってインタビューに応じていたら、小一時間程して隣の席に一人ポツンとしていた筈の、昔の七人の刑事の芦田伸介に似たオヤジが話しかけてきてしまった。世の中は面白い事が起きるものである。その内容は余りにも下らない故に大事なものなので省く。絶版書房インタビューに近々記録されるだろう

十二月十三日 日曜日

八時半迄眠った。アニミズム紀行5を書く。何とか3、4号も絶版できそうなので気合を入れる。速力が大事なようだ。生きるというのはスピードですよ、それしかない。疲れると、「絶版書房買うべし」を書く。これは妙に進んで、3本書いた。十四時過発。十五時緑町、母の家。

午前中は妹が一緒にいた。夕方が私の介護の役割。午前中K君のオヤジさんにTELして、今日はお目にかかれない旨わびたら、親孝行して下さいと言われてしまった。皆、淡々とした生活者は強い倫理感を持っているのだなあ。知識人らしきが、一番バカで危いな。

母はだいぶん力をとり戻し、しばらくは大丈夫そうである。夕食も自分一人で用意し、自分一人で喰べて、自分一人で始末した。ほとんど奇跡である。モーゼの十戒だ。薬の服用も実に精緻にやってのけ、その一部始終を一時間ジィーッと眺めていたら、もの凄く感動した。自分の母の生命維持への自助努力に感銘を受けられたのは幸福である。食をするのも、薬を飲むのも、何か精密なモノを作るような手付でやってのけている。

生きる為に喰べ、飲み、そして横になる。その一部始終がまさに器用仕事の鑑のようなものだ。アポロ 13 号の飛行士達もこのような手付きで宇宙船を修繕したにちがいないのを眼の当りにした感がある。人間は凄いな。

十九時前、もう眠るというので、帰る。本当に良い啓示を与えてくれた。5号には、これを書きたい。書かねばならない。二〇時前世田谷村にもどる。母に負けないようにしたい。

106 世田谷村日記・ある種族へ
十二月一〇日

十三時産經新聞社会部T記者取材。結城さん等との農村研究会プロジェクトに関して。「at」誌より取材の依頼もあり、この方面の仕事は少しザワザワするかも知れない。なにしろ温度を少しでも上昇させる必要がある。熱気のないところにエネルギーは生まれない。十四時半教室会議。十六時了。人事小委員会のスケジュールを決めて退。

十八時半近江屋で絶版書房インタビュー。連続インタビュー記事の読者のヒットが多く、同時にアニミズム紀行3、4が少しばかり売れている。これなら売り切る、つまり絶版にするまではインタビュー続けようかとなったのである。買うべし、買ってくれとハッキリ表明しないと読者は動いてくれぬのを知った。遠廻しに気取っていたり、上品にやろうとしても効果はないらしい。本当に読者はタフだ。こちらもタフにならなければ。

二十一時世田谷村に戻り、アニミズム紀行5を書く。5はとても上手く広がりを見せてゆくか、更に読者を絞り込んでしまうか、どちらかだろう。中間はない。ネット、サイトの読者は恐らくサイトスクリーンを追いながら、一瞬のうちにリアクションを決めているのだろう。だから、その一瞬の切口を出来るだけ多く用意する必要もある。こうなってくると、一瞬一瞬に気を配る必要があるのを痛感してしまう。

十二月十一日

寒い朝だ。昨日も出がけに区民農園に寄ったが、見知らぬ女性が一人だけいるような状態でまことにさびしいものであった。冬だから仕方のない事なのだが、それにしても四季の移り変わりは酷薄な感すらある。地球の回転と大きな運行そのものが人間の生活、そして生死を枠付けているのを知るのである。

一〇時過世田谷村発。母の病院へ。いずれ母とも別離せざるを得ない。私を生み、育て、慈愛に満ちた眼差を送り続けてくれた母だが、私はそれに何も応える事ができなかった。できれば、しばらくは病院に居てやりたいが、恐らくすぐ帰れと言うに違いないのである。かくの如きを日記で公開するのはいかがとも考えたが、アニミズム紀行の旅の最中でもあり、人間の生命の無限の大きさと、同時に無限の小ささ、短さも実感しているので敢えて書いた。もう少しばかり、二〇年ばかり前にそんな事に気付いていれば、私の人生ももう少しマシなものにデザインできたかも知れぬ。

かくの如きを後悔先に立たずと言うのである。二〇年前にアニミズム紀行の旅に出れば良かった。しかし、遅ればせながら気付いたのは不幸中の幸いでもあろう。母のお蔭様かも知れぬ。

105 世田谷村日記・ある種族へ
十二月九日

十七時半世田谷村に戻る。

磯崎新「始源のもどき」鹿島出版社再読、夜中迄かかって通読する。伊勢に関して、磯崎がアニミズムに関して触れているのに改めて驚く。書き始めているアニミズム紀行5では、磯崎の最近作の内に視られるアニミズムらしきを書いている。

そのアニミズムはルイス・カーンと同様な天体の運行への直覚らしき、あるいは岡本太郎の太陽の塔の意識されざる継承の如きものである。

今の時代には遠い物語りでもあろうが、記録しておく。しかし、改めて思うに磯崎新はそれこそ岡本太郎の言葉で言えば猛烈な研究家であった。半端じゃない。

十二月十日

昨日は夕食をとらずに読書に集中したので、九時におにぎり2ヶと豆腐、味噌汁をとる。今朝は少し暖かい。メモを記し十一時発。

104 世田谷村日記・ある種族へ
十二月八日

M2修士設計相談。遅々として進んでいない。他雑用。絶版書房アニミズム紀行3、4総計 12 冊にドローイング入れる。スタッフの努力もあり、昨日は9冊残冊が減った。小さい事かも知れないが嬉しい。近江屋でロングインタビュー。2篇収録。人間に関しても、モノに関しても記憶はできる限り記録しておきたいが、何処まで出来るか。二〇時世田谷村。

十二月九日

寒い朝で、起きるのにグズグズしてしまう。そろそろ体力、気力も完全に近く復活してきたようなので、可能な限り動きたい。

しかし、世の中は呆気にとられる位に冷え切っている。二日連続で長い日記になったので、今日は短くする。絶版書房インタビュー、買うべしの方をしっかり読んでいただきたい。あんまり他人の時間を占有するのも良ろしくない。

103 世田谷村日記・ある種族へ
十二月七日

午後、マーシャ、アベルとそれぞれ打ち合わせ。絶版書房アニミズム紀行3、4それぞれ5冊にドローイング入れながら、ドローイングに関するインタビューを受ける。十二月に入って、絶版書房に関する情報をサイトに流すようにしてから、アニミズム紀行3、4の販売が動き始めた。紀行3の残冊は今週には 20 冊になってくれるのではないか。

いつも残冊が 20 冊になるとアッという間に無くなってしまうので、年内には絶版に出来るかも知れない。

安藤忠雄さんより、近況報告とドローイング他が送られてくる。相変わらず元気で未来を視つめている。頼もしい。

十七時過より研究室でアベル・エラソの中国行歓送パーティ。アベルはしばらく中国で仕事をする事となる。研究室OBの睦海の北京事務所に当面は落ち着くようだ。ボン・ボヤージュ、良い旅を!これからの世界は旅を恐れている種族は衰退の方向へ向かうのは間違いがない。が、しかし地球を漂泊するが如くに旅を続けるのは途方も無いエネルギーと気持の強さが必要でもある。簡単な事ではない。アベルはキューバ→チリ→日本→中国へと旅の途中である。彼が五〇才の時に再びキューバに居るような気がするが、その時には私もキューバに行ってみたい。多くの記憶に残る外国人と仕事を共にしてきたが、アベルもその一人である。心から旅立ちを祝いたい。

私は渡辺保忠さんの許を旅立つ時に、先生から井伏訳の漢詩「花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ」の言葉をいただいた。今はその言葉は旅立つ人間にそれほど相応しいものではない。さよならの重味が少しばかり異なる。「朝にさよならをつぶやき、夕に又会ったねを交わす」くらいのサヨナラにはなった。どうせすぐに私のサイトに連絡が入るにきまっているのだから、さよならは言わなかった。

むしろ日本国内の身近に居る筈の人達と会えなくなる傾向があって、それは私の年令のせいなのか、それとも時代の風なのか気になるところである。

十二月八日

九時メモを附す。また、「絶版書房の為の応答文インタビュー」に手を入れる。これは並の努力じゃないな。それが皆さんに伝わって、今日も何人かの人間が反応してくれる事を願う。必死と言う言葉は好きではないが、一生懸命である事は確かである。色んな努力の大方が絶版書房のアニミズム紀行を中心に廻っている構図が少しは浮き彫りというか、しみ出してくれるように強く願うのです。意図的な時代錯誤、ウィリアム・モリスをインターネットでなぞってやる、を実はやっているのである。半端な遊びではありませぬ。

今、手を入れ終わったばかりの十二月三日附のインタビューは我ながら鮮烈なものである。建築評論家の小能林宏城の思い出が記録されている。無念なまんまに死んだ小能林への何十年遅れのはなむけでもある。多くの人に読んでもらえたらありがたい

インタビュー文中にも書いたが、貧乏長屋の座机の上に置かれていたペルシャタイルのブルーの陶片の色を今でも鮮やかに思い出すことができる。小能林の顔はもううつろで思い出しにくいのに、うす暗い長屋の、それでももれて入っていた陽光が浮かび上らせていたタイルの小片だけは、ハッキリと記憶されている。

これも又、アニミズムの力だろう。建築の力の根源である。

十時半小休。

102 世田谷村日記・ある種族へ
十二月四日

ある種族へ101で予告したが、三名程の頭脳を合成した電脳批評家をデザインしている。過去、これには事例がある。磯崎新、伊藤ていじ等の八田利也である。しかし、それもすでに今は昔。でもアレは面白かった。思い描いている頭脳の形式がフランケンシュタインの如くの人類学的善良さの枠の内になるのか、オズの魔法使いのアメリカ西部の輝ける善良さの痴呆状態のブリキロボット程度のままに戻るか、三島由紀夫のスッテンコロリン(深沢七郎的表現)の首になっちまうのか、三島の首を新聞で視たショックは今も存続しているが。三島よりも余程貴族的であった、と蓮實重彦が述べた中上健次の静かな大人しさの形式になるのか、ともあれ、道頓堀を歩きながらも、モーツァルトがいきなり頭の中に鳴りひびく小林秀雄の形式ではあり得ず、総武線に乗ったらYOUチューブの中島みゆき、位であるのかも知れず。それは同時代の哀しみだ。たまプラーザで余りにも高貴なるミイラ取りのミイラになった、意識としてはなろうとしている、アヴァンギャルド山口勝弘風の不具を装う脳内生命たらんとするのか。まだ決めかねてはいる。

ただ、こんなに建築をとり囲む、状況というには余りにも抽象的で馬鹿過ぎる時代に直面して、ようやく日本の、あるいは東アジアの建築が対面している氷壁とも叫ぶべき時代を実感しているのである。日本の近代建築は余りにも、その形式が抱え込まざるを得なかった時差について、本能的と呼んで自己救済するしかない、意図的に無意識であろうとし過ぎてきた。単純に言えば全てが外来文化であった。

しかし茶も数寄屋も能でさえ、その本体は外来のモノである事はすでに広く知られている事でもあるから、今更そんな事をいいつのっても仕方も甲斐も、何もない事は歴然とし過ぎている。そんな固有の歴史を全て御破算というわけにもいかない。その全てを承認した上で、その上に繰り返しの愚にならぬように、それぞれが工夫を凝らすべきなのであろう(つづくが一時中断)。

十六時半地下スタジオへ、竹中工務店村松氏以下四名の部長先生のスタジオをのぞく。まだ解らぬが、このシステムは学年にとっても、学科にとっても少なからず良かったのではないか。要するに竹中工務店設計部の中心は始まりの松村氏のレクチャーにあったように「匠」の精神である。高度な職人の姿勢に限りなく近い。

現在、よりも正確に言えば近過去、特に八〇年代以降の建築設計教育は、現在の追認を土台としてきた。その現在とはデザイン、ファッションの追認に近い教師達の非歴史性があった(これも一時中断、つづく)。十八時四〇分迄で去る。

十二月五日

八時世田谷村発。九時大学創成入試面接の打合わせ。十時面接開始。創成入試とは一般入試では得られぬ特異な人材を得ようと始めて、すでに九年になる。早大建築の創成入試を対象とした予備校コースも整えられているようで高校生達の大半は程良く訓練されている。話し方、身振り、笑い方まで皆似ているのである。これは良くない。予備校との追いかけっこになってはいけない。

良いと思われる学生はことごとく普通の健全とも見える学生に多かった。こういう人材が創成入試を受験するという、大学受験システムの大きなゆがみに対面しているのがわかる。昼食三〇分を挟んで、十七時過了。

十二月六日日曜日

八時四〇分発。新宿湘南ラインで大磯へ。今日は我孫子真栄寺で金子兜太氏に鈴木博之氏共々俳句入門の予定であったが、私のミスで私は真栄寺に行けぞ、大磯行きとなった。実にマヌケだ。十時四十二分大磯着。いささか長い電車の小旅であったので車内でメモを記す。

大磯駅は昔のままかと思う位に小振りで、とても良い感じである。駅前も何もなくて良い。日本ツリーハウス協会の小林氏等に迎えられる。小林さん駅前のベンチでカレーパンをほおばっていた。車で児童ホスピス建設予定の山へ。途中ポリスの検問でシートベルト不着用で前部座席の方々、それぞれ一点減点。

山に着く。予想以上に良い森である。ツリーハウスはまだ未完ではあった。二十二名の実習参加者がかなりの日数をかけて手掛けたものだ。大きなケヤキの三つまたに枝分かれしたのに、二本足の柱を地上から建て起して、樹と柱による架構のハイブリッド形式をとっていた。隣りには数寄屋建築があり、その組み合わせが面白い。

ツリーハウス協会のスタッフによる炊き出しのランチをいただく。上手い。陽だまりの縁側で幸せな時間を過ごす。

十二時半レクチャー。今日ここに来た時に得た印象。ツリーハウスに関心を持つ人々は何となく六〇年代のヒッピー、あるいはドロッパー達と似たような風がある事。これはある種族らしきの芽生えである事。皆さんが作っているツリーハウスはまだアメリカ型のもので、隣りの数寄屋の遊びの域には達していないけれど、その本体は同じ類のモノであろうという事。それを前振りにして一、秩父のツリーハウス 二、十勝のヘレンケラー塔 三、杉並の天の川計画 四、十勝の水の神殿 五、猪苗代湖の鬼沼計画 六、東大寺南大門と日本の森 七、新素材によるツリーハウスもどきの実験等について二時間話し、質問を受けた。沢山の質問があって良かった。小休後、ツリーハウスビルダー第一期養成講座の修了式に立会う。

受講者達が泣き出し、それも男も女も、おまけに主催者スタッフも、という不思議さであった。こういう人達がいるんだなあ。小林さんも大変であろう。ホスピス建設がうまくゆくのを祈るのみである。十七時了。大磯駅迄送っていただき、丁度来た東京行電車に乗る。

十九時頃世田谷村に戻る。疲れて二〇時には寝てしまった。

十二月七日

八時頃、鈴木博之さんに昨日の失礼の電話を入れる。年を経ると申し訳ない事ばかりで誠に哀しいものである。

さて、十二月四日の冒頭の、恐らく多くの皆さんには意味不明の乱文のつづきである。要するに、そんな事考えたって仕方無いのは解り切っているのだけれど、建築批評のねつ造計画である。昨今のか細くなってしまった建築ジャーナルに目を通していないのだが、大方は知れている。良い建築がないので、良い批評も無いのだというのは正しい俗論でしかない。俗な時代には同様な世界で立ち向かう必然があるけれど、同じ破調では駄目なのだ。

で、とどのつまりはねつ造すべき人造人間の電脳は何人かの友人のモノを組み合わせるしか無いのに辿り着く。

たまプラーザの山口勝弘の頭脳は欠かせない。ロボットに関する少し今では良き時代の人造人間マシーンイメージへの論及もあった。今、山口は驚くべき事にデューラーの砂時計とミイラとイカロスの飛行に日々の夢現実の時間の一部を投入していると思われる。詩心のピュアーなモノを自分の中に持っていない私としては、詩を代行する者として山口勝弘像は必須である。

保存の問題を余りにもこれ迄おろそかにしてきた実感がある。ネパールのキルティプールの丘の半壊した修道院らしきを終りには改修するのを夢としている。その為に絶版書房を立ち上げたのでもある。年令的にもうギリギリのところにきているので、保存、つまり作らないで作る事の意味を考えつめてみたい。これには鈴木博之の頭脳をなぞる必要がある。モリスやラスキンから始めるのが通り相場であろうけれど、今我々は鈴木の知を知り得ているのだから、それを使わぬ手はない。

三人目は六〇才で死んでしまった佐藤健の頭脳だろう。彼は山口勝弘よりも余程、ハッキリと建築に対して距離を持っていた。殆ど無関心であり、その無関心振りにはとても良質なモノがあったのを今では知る。彼の好奇心の中心であった仏教、なかんづく密教の思考の構築性、しかも非視覚的世界でありながら、曼荼羅を産まざるを得なかった何か、フロイト的世界か?と建築について考えてみたい。

前衛の詩、保存、宗教から現代建築を考えてみるのをやってみたい。恐らくは不可能なままに終るのだろうが、しないよりはマシだろう。先ずは、磯崎新のN邸である。

101 世田谷村日記・ある種族へ
十二月三日

十二時サイトチェック。アニミズム紀行3、4の残冊が合わせて 99 冊になった。3号「ひろしまハウス」 37 冊、4号「何故、今アニミズムなのか」 62 冊である。何とか早く絶版したい。

十三時、輿石先生、加藤先生との共同ゼミ卒論発表をきく。大導寺翔君の卒論「 Jean Prouve 研究」が仲々の力作で聞いていてホホがゆるむ程であった。ようやく、三年目の共同ゼミで理想的とも考えられる卒論の水準に達したと実感する。プルーヴェのディテールの詳細を綿密に追い、当時プルーヴェの工場が所有していたと思われる押出成形型機(プレス加工)や、鉄材の流通ルート迄を憶測するという学部離れしたものである。フランス型メカニカル建築の独自性、イギリスのレッドハウス、水晶宮、ハイテク様式とは異なる流れを感じさせる。ただしアールヌーボーとの類似性への言及は勇み足ではないか。

私の今の関心はこの世界から遠いが、二〇代の頃のプルーヴェマニアでもあった自分を思い出したりもした。当時の私よりも余程深くプルーヴェに取り組んでいる。感心した。聞けば金属加工の企業へ就職との事で、この人は面白い仕事をする人材になるかも知れない。若いという事にいささかのまぶしさを感じる。共同ゼミをやって良かったと初めて思う。十五時了。

ミラノのマーシャに次の課題を与える。彼女の将来もどんな可能性に満ちたものになるのだろうか。十六時了。小休。

十八時アニミズム紀行4、10 冊にドローイング入れ、おわる。

帰りに近江屋で絶版書房のインタビュー。今日の日付の入ったアニミズム紀行4のドローイングは少し計り手が自由に動いてくれた。私は決して器用でない。手は真直にフリーハンドで線を描かせてはくれない。直線にコントロール出来ない揺れが出現してしまうのが常だ。だから速く描かないと、ただの乱れが錯綜とするだけのモノになりかねない。十点のドローイングは一時間強の気持の揺れ動きであろう。

十二月四日

時系列に乗って日記を書くのがイヤになってきた。少なくともアニミズム紀行1 - 4迄は紀行と銘うったのとは裏腹に、時系列を無視している。過去が現在のひな型になっているとは考えられぬし、現在が未来の土台であるとも考えにくいからだ。それで、そればかりではないけれど十二月四日の日記に十二月四日の出来事が十二日四日の午前中にサイトに ON されるという如き、考えてみれば妙な事が起きてきている。

それに今日の日記に附されている呼び出しコードナンバーは101だ。百一の数字が附されている。百は後向き、つまり百周年記念とかのセンチメンタルな感じがあって好きではないが、百一はそれよりは、せめて前向きな風があって良い。昨夕の絶版書房インタビューでは、はからずも故小能林宏城の思い出など話してしまって、少し後悔している。思い出を話しても何の為にもならないのは承知している。しかし、今、誰が若死した小能林を記憶にとどめているだろうか。恐らくは家族も含めてもわずかな人数であろう。

小能林は生前隆盛を極めていた当時の商業ジャーナリズムの紙面に生きた建築評論家であった。それを拠りどころとしていたから、極めて俗なところも多々あった。商業ジャーナリズムでは有名でなければ価値がない。評論家として有名である為には作家に関しての神話形成の道具になるのが手取り早い。それで小能林の論考の多くはそれらしきに終止したきらいがある。そういう限界を持っていたにせよ、小能林はジャーナリズムを泳ごうという覚悟らしきはあった。

今の建築ジャーナリズムにそれらしきの人影は全く見えない。それらしきの才質を所有する人間はほとんどアカデミーへ回収された。本来アカデミーとジャーナリズムとは同じ水ではあり得ぬ存在原理を持たざるを得ないが、今はアカデミーの体系中に商業ジャーナリズムが一支店として納まっている。

自由な論議の横溢の必要などは絵に描いたモチである。今、望まれるのは批評家、評論家の気質を持つ星の出現ではないか。どのみち、ここ数年、十年くらいかな、建築はロクなモノは出来ない。日本近代の層の薄さが露呈し続ける時代が続くだろう。

一つ提案があるのだが、とりあえずは、それは102で書くことにする

100 世田谷村日記・ある種族へ
十二月三日

昨日は日記に書くような事は何もしなかった。かと言って何処で何したとか、誰に会ったとかを書きつけるのも時に何の為にと懐疑的ならざるを得ないのは度々の事だ。

昨夕、口述でアニミズム紀行5の冒頭を始めた。書くよりはしゃべる方が楽と言えば楽で書くのはどうしても構えてしまうので、その枠から逃れたかったのである。

本日も朝からうっとおしい雨模様である。イヤな天気だ。天気が悪いと行動半径が縮む現実もある。コミュニケーション能力の不足は若者ばかりに言える事ではない。むしろ自分にも年々歳々、それは訪れている。

今日はミラノのマーシャに新しいプロジェクトを呈さなければならなぬのだが、ようやく先程考えついたばかりの体多落なのだ。マーシャはロシアからイタリアに動き、この数ヶ月はTOKYOで暮している。考えてみればタフだな。

099 世田谷村日記・ある種族へ
十二月一日

八時五〇分発。九時四〇分四ッ谷。十一時前迄打合わせ。十二時高田馬場三井住友銀行。雑用。その後凄い塩味の昼食をとり命を一年程縮めた。十三時研究室。M2相談。アベル相談。他、雑用十六時過迄。小休。

厚生館のプラン再びつめる。腰を据えて集中しないと作業が困難なものになりかねない。努力しよう。いずれにせよ楽な仕事は無い。

全く久し振りに絶版書房「アミニズム紀行4」にドローイング 10 冊入れる。手も頭も、共に動いてくれず、大変ハードな作業になった。実に四苦八苦する。たかがドローイングと言うなかれ、何かを描くというのは大変なエネルギーを蕩尽するのだ。しかも、ドローイングの間を空け過ぎていたので、身体がそれになじめず、ホトホト苦労する。

本日、十二月一日付の日付のドローイングを入手された方は、実にそこのところを思い計って下さると嬉しい。この十冊へのドローイングには冷汗をかいた。十八時半迄、熱中する。十九時小休。疲れ果てて近江屋にて一服。二〇時前迄。今日はなぜかとても疲れた。

二〇時半過世田谷村。

十二月二日

八時起床。良く晴れた冬の朝。本を読んでいた寝床を離れるのがおっくうであったが、本ばかり読んでいてもこんな時代には力にならないような気もしないではない。時に読書は気持の洞穴、迷路状を深くするばかりになりかねない。が、しかし年を経て、書物を捨てて街に出ても、会うべき友人らしきも限られているし、ただエネルギーをロスするだけなのも現実である。厄介な年令と時代である。でも、何とか横切りたい。

やっぱり絶版書房、アミニズム紀行5は「時間の倉庫」「水の神殿」を旅しないとダメなのはハッキリしてきたが、写真、図面は一切省くつもりだ。写真は二川幸夫さんにゆだねるつもりだし、絶版書房の写真印刷は理想とはほど遠い状態である。全て言葉でやってみる。

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