石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 2 月

>>3月の世田谷村日記

714 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十九日

13時研究室、NHK仙台放送局占部さん来室し色々と話す。気仙沼復興の番組を作ろうとしているとの事。15時半了。雑打合わせをすませ16時半新宿高島屋で遅過ぎる昼食。18時了。烏山長崎屋に寄り、20時半世田谷村。

紙を特別なのを選んでしまったのでまだ入手できずアニミズム紀行7へのドローイングは今日は休止した。少し熱中し過ぎてるな。冷まさねばならない。

三月一日

6時45分離床。昨日の雪は上がり晴れた。そろそろ春になってくれよと空に声を掛けたら、そろそろなとの事であった。メモを記す。

外は一面の雪景色である。世田谷村の名景つらら滝はしかし温度が上昇したのであろう、とけて姿を消した。アニミズム紀行7に書いた1950年代にわたくしが母と妹と暮らしていた三鷹、上連雀のバラック集落に、不正確ではあるが1955年だったか大雪が降った。ここはわたくしではなく、ぼくと書くべきだろうが、ぼくはその頃日曜日になるとおいしいキャンデーをくれるのときれいなカードまでくれるので集落の外れの広い畑の向うの町にあったキリスト教会に出掛けていた。子供の足で30分くらいであったか。

大雪でふだんの道は皆雪の下に隠れ一面の雪原になった畑を横切った。40センチメーター程の積雪であったので腰下まで雪にもぐりながらの中々の冒険であった。

吐く息が蒸気機関車の白い蒸気のようにもうもうと白かったのも覚えている。

無人の雪原をかき分けてゆくのがとても面白かった。あんな雪は今の東京にはこないだろう。その後、学生時代に日本の雪山に少しばかり、さらにはヒマラヤの雪山も体験したが、あの時1955年の少年の時の東京の雪原の記憶は何よりも鮮烈な記憶である。やっとの事で辿り着いた教会、ぼくはそこを日曜学校と呼んでいた。

日曜学校ではキャンデーを2つくれたのも憶えている。

あの時にキリスト教徒になっていたら、わたくしの人生は変わっていただろうな。

河口慧海を真似てチベット潜入してキリスト教布教して捕われ足に岩を結びつけられ河に放り込まれ魚のエサになっているか。ま、それ程ヒロイックではなくとも聖堂建設の現場カントクくらいで、石積みの手を抜いて、これ又ムチの刑くらいはくらっているやも知れぬ。

気仙沼に行ったとしても、滝田栄の地蔵堂建設じゃなくて小聖堂建設に走り廻っていたろうし、黒いマリアの御堂を建てるべく動き、これ又気仙沼の人々のみならず台湾の媽祖の連中からも袋だたきになっているだろう。

いずれにしてもどうもわたくしには袋だたきが良く似合ってしまうのである。キリスト教徒になっても、どうやらあんまり楽な人生ではなかったろうから後悔はしないのである。

イスラム教徒になっていたとしても、やっぱり柱上行者の刑やらを受け、砂漠の中の石柱の上で、真黒に陽焼して、柱下を通るキャラバンに陽焼け止めクリームは無いのかと、あるいはも少しまけろと値切っているのを見つかってしまい、更に高い柱の上に上げられるのが落ちなのであろう。

だから当面今のままで良い。

梅にうぐいすが来た。

散髪する。切る髪の毛があるうちはまだましだ。切る髪の毛の無い人の寂しさは計り知れぬであろうと、何がしかの人の顔を思い浮かべる。

開放系技術論1、書き始めて10時45分了。

713 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十八日

12時研究室。アニミズム紀行7のドローイング、010、011、012を描く。デブの、あるいは「お足のエルビス」の変身振りを連続して描いた。

山本夏彦翁の名訳「年を経たワニの話し」を模倣している。この本はどうしても再読したいと考えていたら、作家三砂さんから送っていただいた。その三砂さんが今回の配本の第一号、つまり001のドローイングの配布者であるのも、実に奇遇である。

13時、来年度研究室卒論生面接。良い人材が得られたと思う。

作家論磯崎新15を書く為の資料を得た。

少しずつではあるが作品論を交えてゆく。

18時過世田谷村に戻り、夕食を取り作家論磯崎新15を書き始め、116枚迄書き21時半修了する。作品について考えるのは骨が折れる。またどうせ眠れない夜を過ごすのであろう。

果てしのないバカだ。でも作品論に入り我ながら面白く、頭が良く動くのである。

22時過横になる。眠れないのは解っている。眠り薬代りに何を読むかである。

二月二十九日

8時離床。雪が降っている。外は一面の白。これはだいぶ積りそうだ。

案の定昨夜は眠れなかった。おまけに眠り薬代りに読んだ本が磯崎新の『神の似姿』だったのが余計いけなかった。それは違うんじゃないかな、嘘つけとかつぶやきながらとても眠るどころではないのであった。

すぐに作家論磯崎新15を再読する。3枚書き足した。

10時了。朝食を取る。おむすびとみそ汁。

712 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十七日

13時半研究室、気仙沼安波山100年お色直し鎮魂の森計画打合わせ。安藤忠雄さん、気仙沼臼井賢志さんと連絡。ゆっくりと大計をすすめる。その他世田谷区の計画等の打合わせ。修了後、サイト動画打合わせ他。

それぞれに全く異なる性格の打合わせなので楽しい。

16時了。「アニミズム紀行7」007、008、009にそれぞれのドローイングを描き込む。17時半発18時過新宿長野屋食堂にて休息。

20時過烏山長崎屋にてストロング看護婦、奄美大島の保さんと話す。

21時世田谷村に戻る。21時半知人と電話連絡。世はなべて事もなし、でも綱渡りなのだ。

二月二十八日

8時45分離床。美しい陽光が差し込んでいる。

梅の樹が花をつけ始める。花とつらら滝が同居している。まだ春は遠いか今夜は雪との事。昨日、サイトギャラリーの更新画像を眺めたが実に良く出来ていた。

今日ONされると思うが、これで観客(読者)の選択肢も増加する。又、アニミズム紀行7のドローイング、ストーリーも少しずつ作成してストックしているので、これはいずれペーパーメディアとしてまとめてみたい。

自分でも想わぬ方向に好奇心が展開しているのに驚いている。

スコブル工房の代島さんが自宅建設の相談に来るようで楽しみである。

代島さんの依頼は断るわけにはいかない。

Xゼミナールに投稿した作家論磯崎新9がサイトにONされているので読んだ。

注釈が面白いのは、わたくしと40年も若い人間がこれを成しているからだが、それにしても仲々の才質である。ウェブサイト時代の人材であろう。

711 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十五日

15時長崎屋で吉田くんが競馬で大当たりして、ご馳走になる。わたくしは一切やらぬが他人が大当たりするにお相伴に預かるのは良いものだ。17時半銀座TSビル。坂田明気仙沼支援冬のライブ会場点検。講演会レイアウトになっていたのを少しはライブ風に仕立てた。18時坂田明来る。久し振りの再会。

19時定刻通りに始める。会場は丁度良い入りであった。研究室も今度ばかりは少し気合いを入れて動員をした。そして皆さん良く来て下さった。

坂田の出来もベストであった。人の気持は坂田みたいな半端じゃないアーチストには伝わるものだ。21時過アンコールに「家路」でお別れ。パチパチパチとわたくしも心から拍手。その後サイン会も。22時半、地下鉄で新宿味王へ。

坂田と打ち上げ。奴のクリストファー・アレグザンダー論をひとくさり、ふたくさりも聞く。研究室の連中には勉強になっただろう。

閉店を過ぎ終電ギリギリ迄居座る。別れて京王線終電に駆け込む。ギューギューの満員であった。25時過世田谷村に戻る。

二月二十六日

7時半離床。朝食を取り9時前発。高田馬場よりスクールバスで大隈講堂。10時、学部卒計、修士論文、修士計画発表公開講評会。

なんと18時過ぎまで。

修士論文の水準は悪くなかった。修士計画は石山研・葛のモノ「中国近代建築の誕生 − 円明園西洋楼をめぐる計画 − 」が群を抜いていた。古谷研・中村のモノとあわせて2点修士計画賞。論文賞、計画賞ともども教師全員の投票によって決めた。

その後教員懇親会を近くの和食屋で22時頃迄。

23時過世田谷村に戻る。

二月二十七日

6時過離床。メモを記す。土、日曜日と何だか忙しかったのでホッとしている。やっぱりあんまり忙しくない方が良い。今日は薄日も指しそうだ。

早朝寝床でアニミズム紀行7を読了。全ての論、エッセイを再読する。

7時アニミズム紀行7に入れるドローイングのエスキス、スケッチ。

019より以降の展開を考える。

7時40分030迄考え、スケッチをする。これ位で止めておこう。これ以上遊んでは良くない。遊び疲れは避けたいものだ。

710 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十四日

10時竹中工務店。WORK 12時半迄。13時半新宿長野屋にて昼食。

16時半東京駅八重洲小樽で清水さん、少し休ませていただく。

18時銀座TSビル、安西直紀の会。諏訪君に会う。

18時半諏訪君の司会で会が始まる。

19時45分途中退出。地下鉄私鉄を乗り継いで烏山へ。

22時世田谷村に戻る。

二月二十五日

8時過離床。夢を見たようだがすぐに忘れた。その程度のものであったのだろう。アントニオ・ガウディの聖堂らしきがボーッと背景に在った。

ウェブサイトの作家論・磯崎新はようやくにして8までONされた。わたくしの方はすでに14迄進んでいる。ウェブサイトよりも速いとは、まだまだわたくしも元気なのかも知れぬ。アニミズム紀行の別冊シリーズにしても良いかな、始めてしまった「おあしの旅」は一昨日006迄書き、かつ描いたのだが、何気なく始めてしまったのに面白いかも知れない。ただし222迄書き続け、なおかつ描きつづける事が出来ればの事ではあるが。よくよく考えてみる価値はありそうだ。余りにも馬鹿馬鹿しくって良いかも知れない。

「おあしのキャラクター」を映像化に足る原型モデルにできるかどうかだな。「絵」を描く能力は我ながら期待できぬので、何処まで飛躍に飛躍を重ねられるかどうかも計算しなければならぬ。東海道中膝栗毛みたいに「おあし」と何かの道中に仕立てぬと続かぬ。

と馬鹿馬鹿しい事を考えている。馬鹿が馬鹿馬鹿しい事を考えると、バカバカバカしいとなる。あるいはバカの三乗か。

アニミズム紀行7を読了する。面白く読めた。ドローイングの編集がとても良い。「おあしのエルビス」ドローイング、スケッチ及び物語りのエスキスを18迄進めた。

709 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十三日

13時プロジェクト模型チェック。アニミズム紀行7のドローイングのアイデアをエスキス。

15時、有泉氏(うじ)アニミズム紀行7の仕上がり250冊持ち登場。いくつになっても本の仕上がりは嬉しいものだ。早速暖めておいたドローイングをキチンと正方形の紙に6点だけ描いてさし込む。ドローイングには全て番号を振り001〜006とした。予約してくれた人の順番でもあり、一つの物語りを分節して断片化し、それに当てはめたドローイングを描いた。

001〜006の物語りは絶版書房交信に記した。御覧いただきたい。すでに50名弱の予約をいただいているので、ポツリ、ポツリと物語りを書きのばして、同時にドローイングを描いてゆくつもりだ。ドローイングはインキペンで描いている。

1日6点以上は描けないし、描かない。つもりでもある。大体物語りが追いつけない。

16時半研究室を発ち烏山へ。長崎屋で三田くんと会い、滝田栄さんのプロジェクト説明してチラシ渡す。

三田くんが長崎屋のオヤジを叱りつけたのをねぎらい寿司をおごる。

ラーメン屋の寿司とは我ながら不思議だ。

オヤジもヨロヨロと2階から降りてきた。三田くんが又も、「喰わネエーと死ぬぞ」と叱りつけ、オヤジは4つだけ食べた。春になったら桜、見に行こうなとはげます。

20時半世田谷村に戻る。

二月二十四日

6時50分離床。石山研サイトをのぞく。昨日随分更新した筈なのに自分で把握出来ていないのだ。

作家論磯崎新は8まで編集が追いついてきた。指示通りにスケッチまで入っている。注釈はツボをつかんできた。全て読むのにいささかの時間を要する。メモを記して、急いで朝メシのおにぎり他を食べて、9時前東陽町へ発つ。

708 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十一日

7時半離床。サイトギャラリーROOM2の再生がONされて昨夜来眺めている。どうなってゆくのか自分でもわからないところもある。わかっているところもある。

8時半、馬場昭道に電話、坂田明ライブの人集めを依頼したら、すぐに真栄寺25周年の何かをまとめるので600字原稿を書けと、引換え条件をもち出してきた。ちゃっかりした坊さんである。だから良いんだがね。

12時、作家論「Xゼミナール、鈴木博之第十信、2011年5月16日付」について。エピソード3。

14時前研究室。雑作業。アニミズム紀行7に入れるドローイングの試作作業も。

16時竹中工務店の方々来室。打合わせ。17時過了。18時半新宿味王で夕食。

20時半烏山長崎屋に顔を出す。ストロング看護婦さんが去り、オバンと2人になった。オバンが三田くん、くんと言っても60は過ぎている、そのくんが、昨日涙を流してオジンを叱った話をしてくれた。つまりオジンが全く食事をしないでビールばかり飲んでる。生きたいという意志が視えぬ、という訳である。たしかにオジンはかなり弱っている。メシはきちんと食べなくちゃあ駄目だ。しかし、やはり三田くんの人格はかなり上等だな。松竹梅なら松である。

21時過世田谷村に戻る。24時横になる。作家論磯崎の14は磯崎のメランコリーについて書く。これは第1の中枢だろう。

二月二十二日

8時離床。庭に降りてクズのつるを切ろうとしたら、すでに切られていた。11時半迄作家論磯崎新を書く。104枚迄しか進まない。抽象的な理屈の世界に入ったからだが、これも必要なのである。薄い雲が空にかかっていて陽光が淡く、暖かくならない。

15時、作家論磯崎新、108枚中途迄書いて世田谷村発、都営新宿線九段下で乗り換え東陽町、竹中工務店へ。気仙沼WORK、夜食を挟んで22時迄。23時世田谷村に戻る。

二月二十三日

7時離床。すぐに作家論磯崎新14を書き進める。8時、14を完了させる。昨夜の眠りは浅かった。夢は見なかった。今朝は曇天である。

作家論14をXゼミナールに投稿する。

具体と抽象が交互するリズムを少し獲得し始めたかも知れぬ。自信は無い。

9時過絶版書房アニミズム紀行7に描き込むドローイングの基本アイデアを決めて朝食。

707 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十日

9時前離床。明方夢を見る。MAZDAの仕事をしているMSPの野口君と誰か見覚えの無い人と3人で地方に旅をしている。何処かは今は不明。旅館に泊り、出掛けには、どうやら客は満員で良かったねなんて、エプロン掛けの女将に言わんでも良い調子の良い事を言っている。

いつの間にか汽車に乗り、野口君は去った。

どうしても誰なのか知らぬ男といつの間にかヴェネチアにいて、しかもグランドキャナルの水の上を歩いている。恐らくドリトル先生動物園病院倶楽部ROOM1の映像を見過ぎだからだ。なにしろ水の上をスタスタ歩いている。もう平気の平左である。

大運河がガーッと曲がるところで小さな運河にさらに迷い込む。見知らぬ男が恐らくサイトギャラリーに登場する影男なのか、それにしては随分健気な勤め人風なのが怪しい。その男がしきりに大丈夫ですかねと心配そうだ。

小運河の巾は狭く、薄暗い。カベというかヘイには何故かZEPPENかZEPPERかの文字が書き込まれている。イタリアなのにドイツ語風であった。

小運河を抜けて、いきなり輝くような恐らくスペインであろう海に面した都市に出た。キラキラと美しい。遂にわたくしも何処へ向っているのか解らなくなり、影男らしきに野口君にケイタイで電話してくれと言いながら、この夢は目覚めたらメモに残しておこうとつぶやいて、ようやく目覚めた。記せば不思議だが夢としてはリアルなモノであった。

磯崎の本と水木しげるのゲゲゲの鬼太郎を2冊交互に読んだ結果だコレワ。と自分で自分の夢判断する。昨夜は朝方一度4時半に目覚めたから、その後9時前の直前の脳内映像である。

作家論磯崎新10、11、12を読み直し、手を入れXゼミナールに投稿する。

まだコンピュータサイトには6迄のオンである。インデックスをプラグオンする作業も大変だろうが健闘を祈る。インデックスに又、わたくし自身のインデックスをつけ加えるような事がおこり得るやも知れぬ。

二月二十日つづき

13時研究室打合わせ。プロジェクト、雑事他。

雑事の中では五月女に依頼していたサイトギャラリーROOM2の更新ができていてONしたのを眺めた。少しづつ進化しているのが面白い。

706 世田谷村日記 ある種族へ
二月十八日

13時長崎屋ラーメン店でお茶とチーズケーキ。三田さんとの茶会である。

甘いのは苦手なんだが人の好意を逃げるわけにはいかない。ゼロ円の日本茶とふるまいのケーキだがオバンはイヤな顔も見せぬ。チャンとオバンと病院から帰還したオジンにも大きなチーズケーキが差し入れられているのは知っていたが知らん振りをしていた。三田くんは、早稲田剣道部上がりの小川くんよりは人間としたら格上だな。勿論わたくしよりも上である。わたくしは花に例えようもないけれど、無理矢理に例えれば、少し匂い立つけれど汲み取り便所の蔭に咲くドクダミだ。

又、夕方是非寄ってくれと強く言われて去る。

15時前研究室にて気仙沼WORK見て手を入れる。竹中工務店東京本店設計部も力を入れてやってくれている。協同作業はうまくいっているようだ。

絶版書房の印刷屋さん有泉眞一郎さん来室。今度のアニミズム紀行7につげ義春の『ねじ式』の名作が登場する。

「つげさん読んでたんですか」

「勿論ですよ。アレは楳図とはケタがちがう才能だよね。わたしがきの頃入りびたりでした」

「実はわたしもそうなんです」

と話がはずみ、マア、もう一杯コーヒー飲みねぇ、寿司くいねぇは無かったがコーヒーよりは濃い話しになった。有泉さんは明治大学出身とやらでラグビーの話し、学生野球の話しとなった。

おわりの、とどめは

「実はワタシ、鉄人28号のファンでして」

「オイオイ、それは捨てがたい有泉氏(うじ)マ、上座へ」

「作者横山光輝の大ファンでして。横山の良さは時に大ポカをやらかすところなんです、鉄人の大事なベルトを描くの忘れちゃったり」

「イヤイヤ、ますます、生まれは神田か、大明治だってねぇ」

「白雲なびく駿河台よ」

「鉄腕アトムのクツはおかしいぜ、だって飛ぶ時はいきなりロケット噴射で、あのクツはどうするんだ」

「赤塚さんも凄かった」

としばし話し込んでしまった。これで有泉氏(うじ)が来室するのが楽しみになる。

17時過再び長崎屋へ、杉田世田谷区会議員が居て、坂田明の件協力しますとの事。世田谷の植木組合とも知り合いが多いので、クリーングリーンエネルギー市にも出来るだけの事はしますとの事であった。世田谷区議会は公明党がキャスティングボードをにぎると、わたくし奴はにらんでいる。

社民党よりは保坂展人区長は大事にした方が良い、次の選挙がかなめだ。次の選挙に勝つのが第一だ。組織票が無いんだからヘリクツは二の次である。鉄人28号も良いが選挙も良いのだ。赤裸々で、人間が良く視える。

20時前世田谷村に戻り、作家論磯崎新10、11を25時迄書き進める。これで400字80枚まで進んだ。まだゴールは、はるか遠い。今のところ、400枚くらいと大方の仕事量をみている。40年以上昔に建築史家、渡辺保忠先生にうまく乗せられた感もある。建築論は作家論につきると。何を根拠に言ったのだろうか。しかし偉い人だった。わたくしをこんなに、いまだに苦労させるんだから。

二月十九日

8時離床。昨夜は結局4時位迄眠れなかった。頭を使い過ぎた日は良くある事だ。いささか長いメモを記す。

梅の樹が沢山のつぼみをつけた。クズのツルにからまれ過ぎて今年は駄目かとあきらめていたが、どっこいヘタッていなかった。しかし、クズのツルは根本から除去しないと駄目だろう。明日の朝晴れていたらやろう。

オスカー・ニーマイヤーが104才にしてリオデジャネイロのオリンピックスタジアムのリノベーションプランを設計したと新聞に出ている。前に自身が設計したサンバ・スタジアムをオリンピック用の重要なモノに設計し直したようだ。

今、磯崎新論を書きすすめている最中だ。磯崎は80才である、ニーマイヤーと比較すれば24才も若い。わたくしは磯崎よりも13才もガキである。

人間の生命(寿命)らしきが延びているようで、磯崎新論も当然ながら、まだ何をやり出すか解らぬ事を前提にしなければならない。

解りやすく言えば過去を振り返る形式は意味がないのである。

現在進行形の形を取りたい。

夜、気仙沼の臼井賢志さんと連絡。

作家論磯崎新は12、89枚まで進めた。又、今日も眠れないかも知れない。

わたくしの貧乏性は切りが無い。要するに完全な休みが取れないのである。

705 世田谷村日記 ある種族へ
二月十七日

夕方久し振りに地下の工房へ降りる。30坪程あるので使わないと勿体ないのだが、まだ良い。いずれはここで仕事することになるがまだしっかりしたイメージが無い。

今日は午後絶版書房通信を45迄書き付けた。今まだ30までのONだからしばらく編集の作業を待ちたい。磯崎新の『神の似姿』を久し振りに読んだら、冒頭にウェブ・サイトへの関心が書かれていた。わたくしも現在進行中のウェブ・サイトでその点に少し触れている。

磯崎論も生原稿は9迄進んだが、サイトにはまだ6迄しかONしていない。生原稿を2重チェックしてもらっているのと、注釈を付ける作業が大変なのである。注釈の全ては佐藤くんに任せている。わたくしと何と40才以上年が離れているので、それが狙いである。半世紀弱の時間をかけるに等しい事になるからだ。

磯崎自身の論考作業自体もすでに半世紀になんなんとするのは知るのだが、それ位の時代の流れの巾を持たせなければ到底太刀打ち出来る筈もない。時代と、つまりは時間との追いかけっこをやっているようなものである。時間を時には追い抜いて少しばかりの、覗けるだけの未来だって覗いてみたいじゃないですか。

二月十八日

7時離床。カーンと陽が差している。室内の枯れてしまったカロラインジャスミンのつると葉を家人達が全て切り払ったので青空がでっかく見晴るかせる。これも又仲々良い。

昨日書きなぐった、磯崎新論7、8、9に目を通す。自分で面白がって書いた部分が危ないのだ。今日は研究室の入試閉鎖が解かれるので、出掛けてプロジェクトの進行状況を見なければならない。

昨日絶版書房通信を41まで書き進めたとこで、アミニズム紀行8、9、10の展開イメージをつかんだ。製作準備を始めたい。

絶版書房は石山研の機関誌発行を旨として作ったので、開放系技術・デザインの系をもう一つ動かさねばならぬのはすでに知るのだがわたくしの力不足でそれに踏み出せないだけである。

704 世田谷村日記 ある種族へ
二月十五日

朝食、昼食を烏山で済ませ、13時研究室。雑打合わせ。坂田明の被災地支援ライブの観客を集める算段を少しばかり。アニミズム紀行7の表紙、サイトギャラリーのWORKは進んでいない。

14時過発地下鉄渋谷廻りで青山学院大学鈴木博之研究室へ。ここも入試で正門はシャットアウト、グルリと東門まで廻る。意外に青山周辺は土地の起伏があって歩くのに疲れるのだ。

15時半鈴木研究室にて先生に会い、わたくしは用事もことさらに無かったが、佐藤の研究指導を頼んだので少し立ち会っただけ。16時修了。下り坂なので渋谷迄歩いて、駅近くの焼鳥屋で佐藤と雑談。19時頃別れて、井の頭線、明大前経由で烏山に20時戻る。今朝の小坂チャンプとの試合のダメージが1日尾を引いてスッキリしないのであった。夢は見ぬ方が良い。

朝に滝田栄さんより電話あり、気仙沼地蔵堂建設の件。全国を勧進行脚されている。お手伝いはしなくてはならないだろう。純粋な方で頭が下がる。

岩手一ノ関ベイシーの菅原正二さんから再開した朝日新聞のコラムが数本送られてくる。彼はモダーンジャズに沈潜して半世紀、いよいよ心は熱くなっているのを感得する。ジャズは決してクールでもドライでもない。奥底は熱いのだな。アフリカ生まれだもの。轟くドラムスのリズムが必須だろう。

二月十六日

今朝も明け方に変な夢を見た。学科の入江先生と恐らく目白辺りの中華料理屋揚子江であろうか、飯を食っていた。さて勘定となったら中国人らしき店員の計算が無茶苦茶で、何だコレワと店の奥に文句を言いに行ったら長崎屋のオバンがオカミで居て、又しようがないねぇと言いながらすぐに値が下がった。500円玉が2つ戻った。夢なのに俺も細かいなぁと思いつつ、得したからTAXIで何だか失念したが会合に向かった。降りたら烏山神社にしては広い境内で庇の出も凄い。

池原先生はこんなキャンチレバーはなさらないと入江先生がもっともらしく言った。

世田谷村に来た。何と三軒建っていた。烏山神社側の小径に面して黒い何だか磯崎風の小建築、次にこれは恐らく厚生館だろう建築、その先に世田谷村が在った。入江先生に家人に評判悪くてねと説明しているところで目覚めた。

夢は皆不思議なモノである。今朝は肌寒い。いつになったら春になるのか。

安西直紀さんより一ノ関から電話あり、今日気仙沼との事。

作家論・磯崎新7を書く。15時新宿長野屋で五月女と会い、アニミズム紀行7の表紙の最終稿を見てOK を出す。この人俺が何を言わんとしているのか解ってないのは知るのだが、まだ仕方ないだろう。少しはまともな人間の形になるのは今では30才過ぎなのだ。

続けて作家論・磯崎新8を書き始める。夕方、長野屋から長崎屋に場所を移し、書き続ける。三田さんと話しながら書いている。18時半世田谷村に戻り、22時過ぎに8を書き終える。

サイトにXゼミナールに投稿した作家論・磯崎新6がONされていた。

佐藤の注釈とわたくしの本論の微差を面白く読んだ。

二月十七日

6時半過離床。この時間をざっくり6時半と書けぬわたくしの律儀さが妙に面白い。幸いにして本日早朝は夢は見なかったようだが、忘れただけなのかも知れない。今日も覚悟を決めて磯崎論を書き続ける予定である。

11時前、作家論・磯崎新9を書き上げる。とても疲れた今日はもう書けない。

703 世田谷村日記 ある種族へ
二月十四日

8時前離床。昨夜は余り眠れなかった。眠りというのも実に神秘的なものである。眠れたり、眠れなかったり全く自分で眠りをコントロールする事が出来ない。今日は忙しい1日なる、ゆったりと急ごう。それが実に難しいのだが。

11時世田谷美術館学芸員野田さん来室。昨日セレクトしたわたくしのスケッチ、ドローイング92点をお渡しする。落書きみたいなものでも美術館収蔵となればやはり美術品なのだろう。妙に居心地が悪いけれど、ソワソワと嬉しくもある。大方の大作家は死んでから値が上がるのが相場である。生きていてスケッチが収蔵されるのは、わたしは大作家として残る可能性はほぼ無いに等しいのである。名も無い批評家に、そのスケッチを一杯呑み屋の壁にピン留めされていて、例えば長崎屋に、それを発見されて幻の作家としてデビューする憧れはこれで失くなったかと、でも美術館の倉庫に仕舞われ続けてホコリをかぶり続けるのも悪くない。全て世田谷村に関するスケッチであったが、中に佐藤健との究極の家のスケッチを2、3まぎれ込ませた。

あの究極の家のアイディアが世田谷村の母体になっているのを知るからだ。

世田谷村の広間では佐藤健が長男の雄大に座禅を教えるべく座っていたのも思い出す。野田さんはわたしの初期の建築作品及びカンボジアのひろしまハウス迄見ていただいている。批評家としても実に細密な思考の持主であるので、時に彼の目を意識するのは忘れてはならない。

終了後再びサイトギャラリーROOM2の模様替えの現場をのぞく、まだまだうまく行っていない。段々こちらも求めるレベルが高くなっているから仕方ないだろう。

牛はピカソのゲルニカになっていて、ピカソが宮沢賢治を牛車に乗せて町の市場へ出掛けていると言う香港の昔の三流活劇映画の如くである。

12時半研究室発。高田馬場まで歩き地下鉄東西線で東陽町の竹中工務店へ。13時半打合わせ。わたくしは15時途中退席、スタッフは残り細部の検討。

再び地下鉄を乗り継ぎ約束の15時40分浅草浅草寺五重塔の前で雨やどり。50分中澤さんと彼の友人小西本店専務浅輪芳正さんと共に浅草寺本堂部、実相院住職、吉川眞浩さんにお目にかかる。色々と相談させていただく。

五重塔及び附属施設を丁寧に案内していただいた。内の展示品が大きく立派なのに驚いた。歌川国芳の奉納画の大きいのも何点かあった。

全て浅草寺への奉納品である。吉川住職は勘の良い方で台湾の蒋介石総統の位牌まで案内して下さった。同じ観音信仰ですからと、華僑の人々の奉納品も多いようだ。浅草寺は日台友好の歴史も深いのかなと思った。五重塔は早稲田の田辺泰先生が設計したものだが、雨にかすむスカイツリーとダブって視える場所も内にはあって、歴史の流れも又感得させていただいた。

この先の事までご指導いただき17時お別れする。終了後仲見世の飯田一番屋に寄り飯田さん、息子さんにお目にかかり、中澤、吉川両氏を紹介する。

その後、飯田ファミリーの十和田屋ソバ店に飯田君と移り、呑みかつ食う。

色々と浅草の事等教えていただいた。

再び地下鉄で九段下廻り都営地下鉄で烏山へ。長崎屋に30分顔を出し、三田さんにショートケーキをご馳走になり、甘いモノは体に良くないと知りつつ、小片をかじる。

20時半世田谷村到着。飯を食べて寝た。

二月十五日

明方悪夢に遭遇する。何とわたくしがボクシングの試合に出ることになった。相手は会った事もない、確か東洋フェザー級かライト級チャンピオン小坂である。バナナボートを唄った浜村美智子だったかの亭主でもあった。

トランクスをつけて控え室でチャンピオン小坂がわたくしに「なんでお前如きと試合やらなきゃならんのだ」と鋭い眼でにらんだ。隆々たる筋肉質の体である。対するわたくしは腹は出るは、毛は薄いはの今の状態で、これは悪くすれば死ぬなと思いつつ、しかし最大限の見栄を張って「やってみなけりゃ、わからんだろう」と言い返していた。

下腹ダボダボでチャンピオンの前でシャドーボクシングまでやってみせた。夢の中ながらなんでわたしがボクシングなのだ、しかも会った事も無いチャンピオンと、と悲しむうちに眼がさめた。

あれでそののまま試合でも始ってしまっていたら、今こうしてこんなメモなど記してはいられないのであった。

命拾いした。ハリー・ベラフォンテの哀愁に満ちたバナナボートはレコードを持っていて聴いた事はあるが、浜村美智子のファンであった事もないし、ましてや小坂チャンピオンとは無縁である。何故死にそうになる迄追いつめられたのか、まさに夢は不思議極まる。J・L・ボルヘスならばボクサーであった腹ダボダボのわたくしが本当のわたくしで、今こうやって無事に何かを記しているわたくしが夢である、と言うのだろう。

夢と現実の境界だけが真実なのかも知れない。ボクサーとして身につけていたトランクスの色は忘れた。

今日も1日無事でありますように。

702 世田谷村日記 ある種族へ
二月十三日

12時過大学。地下鉄改札口で創造理工学部長、都市計の後藤先生にバッタリ会う。今年の建築学科の入試状況を問うに今年は昨年よりもだいぶん応募者が増えたとの事。東日本大震災の特需効果であろう。来期から学科の入学定員を20名Cutする事にしたので、コラコラ君、国語の勉強し直して来いよというが如くの学生は入学しない事になる。近年の学生の教養の質の低落現象は眼に余るものもあり、学科としては良い対応だったと考える。

良い人材を得て初めて、育てたいと思う教師の情熱も生まれるのだ。無いソデは振れない。

研究室で少しの打合わせ。サイトギャラリーROOM3前室のROOM2コンピューターでのエスキス作業を眺めて仰天する。案の定全く違うのである。「キミ、牛を見た事あるんだろ、コレではトナカイじゃないか。パカヤロー(バカと言うとアカデミックハラスメントになる)バレンタインボケしてんじゃないか」と実に優しく誤りを指摘する。だから言ったこっちゃないのだ。

この双方の思い違い、コミュニケーションギャップの距離は大きい。

宮沢賢治がスケッチした牛から引いたというが、宮沢賢治だって絵は下手なのだ。上手いわけがない。天が二物を与える訳がない。俺なんか無一物だ。お前もその低い低い我を捨てろ、パカと高級な教訓をたれるのであった。やっぱりピカソのミノタウロスを真似しろという。

大体、牛は小さ過ぎる。これじゃトナカイロバだと無理難題を言うのであった。佐藤よりウェールズのワークショップの相談等。その後気仙沼の件で打合わせ。

鈴木博之先生よりXゼミへの投稿があり、もうサイトにONされていた。明朝の世田谷美術館へのスケッチ、ドローイング渡しのセレクト作業に入る。何点かがシュツットガルトに廻っているが、それでもかなりの量を引っ張り出した。

研究室の床に座り込んでここ20年程の膨大なスケッチ、ドローイングのそれでも一部に目を通す。描いている時は時に空しくて、俺は何て馬鹿な事をやってるんだろうと常に疑いつつのWORKであった。

しかし、一枚一枚を丹念に見て過すと、これが実に面白いのであった。自分で自分を面白がるのもなんだけれど、地面を掘り返して得体の知れぬ遺跡を発掘している風がある。こんなこと考えてたのか、まだ実現の糸口も見えてないなとか、これは別の道で少しばかりを実現できたなとか、まるで今やってる馬鹿馬鹿しいサイトギャラリーを巡っている感じなのである。

余りに面白いので時に研究室のアヒル共にもこの面白さを教えてやろうと考えて、「これは面白い」とか大きくつぶやいたりしてみても、アヒル共は見向きもしない。遂に「コレチョッと保管しといてくれ」と直接行動に出たりしたが「へー」とか気の抜けた反応ばかりであった。

先日亡くなったカンボジアのナーリさんの昔のスケッチまで発掘してしまい、」しかも随分熱心なスケッチでもあり、ビックリしたりして過した。幾つかのスケッチは我ながら面白いのでいずれサイトギャラリーで紹介したい。

鈴木博之先生よりメールあり、「建築に関するナショナル・アーカイブ」の委員会がいよいよ3月に第1回が開かれるので、万障繰り合わせのうえ出席するようにとの御下命である。これは要するに「まさかあんた欠席などしまいね」の意味であり、3月のスケジュール作りはいささか緊張せざるを得ない。しかしこのナショナル建築アーカイブは鈴木さんのライフワークの一つであろうから、何が出来るかはさておいて駆けつけねばならない。友人がそろそろゴールに球を蹴り込み始めている。わたくしもオウンゴールだけは避けて御奉公するかと覚悟だけはしたい。

帰りがけ、再び地下鉄で後藤学部長にバッタリ。早稲田建築の次世代をになう人材なので是非とも中国に出店を出すようにすすめた。ラーメン屋だって中国に出なくてはならぬ時代なのだ。たかが早稲田ではないか、さっと出店出す位は難しい事ではあるまい。

701 世田谷村日記 ある種族へ
二月十二日

7時過離床。すぐに作家論・磯崎新にかかる。エピソード2として荒川修作VS磯崎新対談の事、そしてエピソード1に登場した石井和紘について再び触れた。11時迄ゆっくりと続ける。10頁書いて今日は中断とする。

遅い朝食をとり、陽光を浴びながら昼寝を決め込む。太陽エネルギーを十二分に体に吸収させてしかし少しばかりグッタリする。

絶版書房交信25、26を書く。これ以上書くと夜眠れないので休む。と書きつつ、27、28も書き付けてしまう。もう休むぞ。

二月十三日

5時過離床。昨日書いた作家論・磯崎新エピソード2に少し計りの手を入れる。しかし、ネットXゼミナールへの投稿は昨日に済ませてしまったので、この微妙な改稿はネット読者の眼には触れぬだろう。わたくしのネットの使い方もいささか手が込んできた。こうでもしないとネットにすくい取られてしまう恐れがある。自分でまいた種の育て方は、これは自分自身の楽しみにしておきたい。

今朝は薄曇りで太陽の姿は無い。

700 世田谷村日記 ある種族へ
二月十日

7時目覚める。8時離床。メモを記す。昨夜は面白かった。

12時前昨日来のスケッチ完了。よいモノが描けたように思う。近々、サイトギャラリー3にONする事になろう。15時新宿三丁目で五月女にドローイングを渡し、ONサイトの大方の説明をする。このドローイングは今のわたしの仕事の中でも渦巻きの中心、すなわち要のモノになるだろう。

京王線電車中でアレコレ考えを巡らせているうちに、何か闇の中に薄明かりが視えてくれるようにも思えるのだった。手に取るように視えている事ばかりをやっても、それ程に生きている甲斐もない。一寸先も視えぬ闇の中を、それでも手探りで掘り進むような仕事も無いと辛いのだ。そればかりだと疲れ果てて死んでしまうけれど。その寸前が良い。

第3室は大きく変化する。絵が架けられた巨大ドームの部屋には動植物が充満している。その中心は2つ。1つは影の男が牛に引かせた荷車に乗って現われている。牛はピカソのミノタウロスのシルエット。又、もう1つはROOM1ヴェネチアの始まりに登場させた巨大な極楽鳥が室内に着地している。右上に飛べばキルティプールの空へ。左下に進めば第4室へと進む事になる。

この部屋で初めて、ギャラリーがアニミズム紀行の旅の全体を表現しようとしているのが読者に告げられるのである。色は黒白がベースであるが、牛は茶色に、極楽鳥は極彩色に彩色される。アンモナイトやトンボは黒のシルエットとする。

二月十一日

7時離床。新聞を読み、メモを記す。昨夜乱雑なエスキススケッチを研究室に送ったが伝わっただろうか。

今研究室でやっている事の中で一見一番無駄な事がドリトル先生動物病院倶楽部のギャラリー作成作業であろう。勿論対外的にはかなりのリスクを背負い込んでいる事くらいは承知の上でやっている。このリスクはわたくしの本質に関するに及ぶリスクでもある。妙な動画制作にうつつを抜かす人間に、動きようのない建築の仕事など依頼しようとする人も団体も中々居ようが無い事くらいは、わたくしだって解らぬ訳ではない。

でも、嘘はつかぬ方が良い。こんな無駄な事にうつつを抜かす人間である事は隠す訳にはいかないのだ。

作家論磯崎新を再び少し進める。

699 世田谷村日記 ある種族へ
二月九日

杏林病院検診11時修了。今朝の採血は実に上手で蚊に喰われた程のチクリしか感じなかった。勿論女性の技師である。男性の偉そうなのは本当に下手だからブチ当ったら三十六計逃げるに如かずである。医師からはキチンと薬を飲んでくれないのならわたしは知りませんよと言われているのに、余計なお世話でついて来た家人が、この薬は一日三回なのか二回なのかとしつこく応じているのを遠い春雷の如くに聞いていたのでした。

俺が患者なのに、何故おマエが色々とせせり出るのかと、それならお前が薬呑めと口に出したら大騒ぎになるので、ジィーッとこらえておいた。医者もやりにくかろう。

昼前世田谷村に戻り、太陽光が降り注ぐ広間で思わず猫の如くに昼寝を決め込む。山本夏彦翁の知り合いの俳優、池辺良が設計させた家の居間は任せておいたらひどいモノで太陽が燦々と夕立の如くに降り注ぎ、サングラスをしてパラソルを立てぬと過せない、のエッセイを読んだ記憶がある。池辺良も世田谷村に来たら驚いたろう。しかし冬の日はビシビシと室内に指し込んだ方がエネルギー保存則に適うのである。

山本翁も我家に来たらあまりのまぶしさに、やっぱりサングラスだろうか、でもあの人はサングラスしたら、パリのギャングみたい例えば好色なジャン・ギャバンみたいな風があってきっと似合うな等と想いを巡らせる。ヒマだ。嬉しい。小1時間程黄金の昼寝。

目覚めて好きなスケッチを3時間程。ROOM3の自画像の次のドローイングをほぼ仕上げる。全く無駄な作業でこれも又実に嬉しい。

チョッと長崎屋に顔を出したら小川くんが10kg以上やせて、それでも相変らず憎まれ口をたたいてカウンターにのさばっていた。ウーロン茶だけ飲んでデッカイ顔してるんだから流石だ。早稲田の剣道部上がりというのはこれ位のモノである。それでも1ヶ月と1週間病院に入っていた。

18時過新大久保近江家。ここも久し振りに来たら顔なじみの面々が一掃されていて振り出しに戻り、ビールは生ですか、キリンですかアサヒですかから始めなければならず、「アーン、サッポロは無いのか」と無いのは承知で無理を言ってたら、オカミがやって来て、「しばらく見えないんで心配してました」とお上手を言われる。「カゼひいてたんだ」とえばる。別にえばる事では無い。

やがて鈴木博之、難波和彦両先生現われる。無駄話しに花も咲かずにいるので、今日は池袋の例の魔窟ワインBarでセリーヌの感じの都市の底冷え味わおうかと珍しく意見も一致して、悪名高き娼窟ならぬただのワインBarに繰り込んだ。

これが大当たりであった。

魔窟Barにはやり手ババアならぬ、なまじなインテリのオカミが相も変らず死にもせで居て、生意気にも東方の三賢人と誉の高い我々に向って、色々と講釈を垂れるのでした。

それも無理はないのです。ここでは我々は三賢人どころかスロットマシーン三兄弟として名を売っていたのでした。常盤台のワシ、高田馬場の安、青山の吊しスーツならぬKAZUでにらみをきかしておりましたから、全く尊敬もされぬパチンコ地廻り下っ端ヤクザの如くであった。しかし、今夜は何かが違っていた。アバズレオカミはさて知らず、カウンターの端に何やらホンノリとした華があるではないか。フト見やればやん事無き風情のババアならぬ老婆が一人チョコンと座ってワイン等流し込んでいる。黄色の春待つ宵のふくよかなヒヤシンス色のカーディガン。良く良く見れば、何とまさかQueenエリザベス二世女王陛下であらせられる。

ビックラして、何ゆえに陛下がこのような処にと問うに、又皆まで言わせるなとの有難いお言葉。ユーアマジェスティならぬ英国紳士文化に想いを寄せる鈴木博之等御手をとってかしいだく程の事になってしまったのでした。

よせば良いのに青山の吊しスーツのカズならぬ難波の和彦も逆舞い上りしてしまい、ボクはビートルズのジョン・レノンはバカだから嫌いなんだと叫ぶ仕末。小野ヨーコは安田のドロップをなめ過ぎてあんなにネットリしたんだろうかの講論に迄及んだのでありました。

結局、エリザベス二世陛下はいつの間にやら去り、後にはほのかなヒヤシンスの香り。米国の騎兵隊のマフラーは何故黄色なのかの講論も結末は得られず、あの冷静な鈴木博之まで「実ニ、俺はスロットマシーン屋ではないのだ、皇居の芝生を一手に納入している何を隠そう「芝屋であるぞ、下郎下れ」と叫び出す仕末。大向こうから「芝屋ー♪」の掛声までかかり、夜は勝手にシンシンと更けたのでした。

真冬の夜の夢の一幕一場でありました。

それでも、その日のうちに何処をどうやって帰ったのか、多分当り前に京王線で帰ったのでしたが、あの女王陛下は魔窟Bar近くの池袋の冬の離宮暮しであるとか、何と奥床しいことである事よと一同感嘆せり。

感嘆ついでにあの女王陛下にはエリーの略称を捧げたのでありました。

サザンの湘南文化の浅薄さの中に非ず、池袋の真冬のヒヤシンスの香りかとも想えるかな、又あの陛下に会えたら良いなと思うのでした。

見果てぬ夢でありましょう。

698 世田谷村日記 ある種族へ
二月八日

8時半世田谷区役所第3庁舎大会議室。自然エネルギー活用促進地域フォーラム開催。出席団体は37。区長、事務方を含めて50名弱の会議であった。世田谷区産業復興公社高山氏も出席されていて、わざわざ挨拶に来られた。渡邊助教とうまくやっているようだ。保坂区長もエネルギーバザールに関しては気にしている。安全運転で進めたい。

植木職の団体参加がポイントである。

会議は世田谷区の主要な団体が全て参加していて区長の意気込みが伝わってくる。わたくしも発言する。みなさんどう感じていたのか。20時了。去る。とても寒い。玉電で新高井戸、そして烏山、世田谷村に21時前戻る。

久し振りにスケッチするも長続きせず。

二月九日

7時40分離床。夜ぐっすり眠れる分だけ朝起きる事が出来なくなった。人間の身体は誠に自分勝手に出来ている。世田谷村のつらら滝出現。余程寒いのだろう。8時30分発杏林病院へ。今日は定期検診である。もう慣れたとは言え病院は楽しいとはとても言えぬ。天気は良い。

697 世田谷村日記 ある種族へ
二月七日

9時台北の李祖原より電話。スケジュールの調整。9時20分世田谷村発。

10時半研究室、大林組の方と打合わせ。11時半了。12時40分長谷見先生と共に発、13時半東陽町竹中工務店で打合わせ。17時前了。17時半八重洲口・小樽で渡邊、佐藤と遅過ぎる昼食。18時半了。安藤忠雄さんと電話で打合わせ。東京駅で別れ、19時半世田谷村に戻る。

二月八日

8時離床。風邪は退いたようだ。1日が飛ぶように過ぎる。

今日の夕方の世田谷区役所の打合わせには出る。9時前発卒論テーマ発表会場へ向う。

696 世田谷村日記 ある種族へ
二月六日

12時半研究室、幾つかの打合わせと伝達。14時了。用心して今日はここ迄とする。15時半世田谷村に戻る。台北の李祖原、気仙沼の臼井さんと打合わせの電話。頭の回転速度がようやく彼等の7割位迄UPしてきた。何しろ彼等の速度は速い。早く身体を全快させぬとアッという間においてけぼりを喰うな。

19時安波山のデザインに関して浮かんだ考えを研究室に伝える。

20時半絶版書房交信2122書く。ようやく頭も少しは動き始めた。

695 世田谷村日記 ある種族へ
二月四日

10時修士計画発表会場、昼食を挟んで18時半まで延々と聞く。

葛沁芸(カツシンゲイ)「中国近代建築の誕生—円明園西洋楼をめぐる計画」の明晰さに注目した。部分のデザインにもう少しエネルギーが注がれればこれは中国にも出せるものになる。

20時世田谷村に戻る。

二月五日

8時半離床。終日休む。19時半馬場昭道さんからの電話で目覚める。

「大丈夫ですか?」と言われ、それはこちらの科白だと言い返したくなり、ア、ようやく快方に向っているなと自覚する。たかがカゼ、されどカゼである。充分注意したい。

二月六日

10時前離床。実に良く眠った。メモを記そうとするが記す事がない。やはりメモにもエネルギーらしきが必要であるのが良く解る。カゼで寝ている間に随分物事を考えられたろうにと思ったりもするが、これが全くゼロに近い心地良さと言うか自然な体たらくなのであった。身体は自然そのものである。そして頭脳も又然り。

694 世田谷村日記 ある種族へ
二月三日

午後2時カゼ薬を飲んでは眠るのロクでもない一日を過している。食欲だけはあるのが救いだ。別に書く事も無いのだけれど、他にする事がない。本を読むのも疲れるし何故カゼ薬を飲むとセキがおさまるのかを考えるに、これは睡眠薬の働きであろう。それ以外に考えようが無いのである。涙目、鼻水は止まらぬママである。

20時湯たんぽを抱いてウロウロする。家人達に極度にイヤがられ、うとんじられているのが歴然としている。石もて追われるキリストならぬ湯たんぽジジイである。わたくしの末期はかなり悲惨であろう。しかしお湯を入れた湯たんぽをようやく抱いてよろけ歩く自画像は仲々のものではないか。

 湯たんぽを よろけ抱きたる 寒さかな

面倒臭いので前口上も後書きもつけない。自評する。この句は作者のみじめな現実を浮き彫りにして秀逸である。暖房費にもこと欠いて湯たんぽを持ち歩く姿はまさに限界集落の老人を想わせる。この作者に春が訪れん事を望みたい。

二月四日

6時半離床。何とか少しは良くなったように思うが確信は持てぬ。

今日は修士計画の発表日である。出掛けなければならぬ。

昨日ウェールズのWORKSHOPには渡邊助教と2人の学生を行かせることにした。今更学生のWORKSHOPにうつつをぬかす事はない。ウェールズは確かイギリスの王室の伝統と密接な歴史を持ち興味はあるのだが、11日間の不在は痛い。丁度何かが起こりそうな予感もある。頭がまだ充分に回転していない。

693 世田谷村日記 ある種族へ
二月二日

8時発、9時修士論文発表会場。13時半迄発表を聞く。

入江研のアルヴァ・アールトの彫刻(家具スタディ)の研究は良かったが、袋小路に入っている感もある。この先の展開を見たいものだ。石山研の2点は共に水準を超えてはいたが、この子達の先と研究の関連が全く解らない。

風邪が急速にひどくなり帰宅する事にした。地下鉄で新宿三丁目へ、長い地下通路をトボトボと歩き京王線、そして世田谷村に15時たどり着き、バタリ。

二月三日

8時離床。今日も外を出歩ける状態ではない。セキがひどいので人々にもイヤがられるであろう。昨日我身がそうなって観察するにマスクをしているのは女性がどうやら多いようだ。マスク美人はいないのに。いずれ地球が危機的な大気汚染状態になる時は、頭からスッポリ被る仮面等が着用されるであろう。

ワルター・ピッヒラーのマスクプロジェクトは今の時代を予見していたか。

恐らく地球環境は良くなりようがない可能性が大だ。環境を良くする努力よりも先に人間の身体がそれに適応してゆくのではないか。

呼吸器系が肺の位置にずり下がってゆくとか、鼻の穴が極度に小さくなり、鼻毛が濃密になるとかが起きるであろう。

その時にピカソの絵は本当に心から理解されるだろう。

朝から妄想気味である。これはイカンと中澤社長と連絡を取り合う。

媽祖首脳と浅草浅草寺との会見を企てている。

世田谷美術館で発表(2008年)した浅草計画を実現したいのだ。

10時、少し暖かくなってきたので下に新聞を取りに降りる。家の横の建設現場のガードマンのおじさんとあいさつ。このガードマンは仲々の人付き合いの才を持つ。前は何をやっていたのだろう。

692 世田谷村日記 ある種族へ
二月一日

午後遅くどうやら風邪にやられる。友人の事を心配する程ゆとりのある身体ではない。19時前世田谷村に戻り横になり、薬を飲んで湯たんぽを腹に当ててフーフー言ってる。でも貧乏性なのだろう、寝ながらメモを記している。取り立てて良いメモが書ける訳もなく、敢えなく挫折する。

サイトギャラリーROOM3の作品展示を更新したので眺める。新しく展示した作品は「視えない都市の、それでも視える建築」と命名した。それでもの英訳が難しいだろう。しかし、それでもを入れないとつまらないモノになってしまう。うなされながら良い考えが出るだろうの甘い考えは一向に功をそうさない。やっぱり身体あっての頭脳だな。同じ高さ(低さ)で堂々巡りしているうちにどうやら眠りに落ちた。この安っぽい風邪薬は良く効くな。

二月二日

7時離床。今日は修士論文の発表なので9時には会場へ行き着かねばならぬ。どうやら風邪は押さえ込んだかもしれない。

世田谷村日記