石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 3 月

>>4月の世田谷村日記

741 世田谷村日記 ある種族へ
三月三十一日

強風の中、12時前出掛ける。日暮里で、どうやら強風のため常磐線が動かぬのを知る。何故だかこんな時は猛然と、それならなんとか行くぞと思ってしまう。西日暮里に戻り鈍行はノロノロ運転、しかも間引き運転なのを知る。

ノロノロ電車に乗り、我孫子まで、そこで成田線に乗り換え15時過にやっと新木まで辿り着く。雨が降っていて傘も無かったが小さなリュックを頭にかぶり、一路平和台病院を目指す。ビショビショになって15時半到着。昭道住職は今日はもう来られないと思っていたと言う。そう思ってるだろうから来るんだとぬれたコートをかわかす。

住職は歩けるようにはなっていた。立川談志のCD等聞いていたので、ヨセ、エルビス・プレスリーを聴けと忠告。談志もいいけど、病気にはプレスリーである!と宣言する。プレスリー伝道協会である。昔、水野じゅんすけ氏とテレサ・テン日本後援会を結成し、2人だけだったが、どちらが会長になるかでもめた事があった。故佐藤健が入会したそうな顔をしていたが、テレサの悪口を一瞬言ったので入会していないのに退会勧告を申し渡したのを思い出す。何と住職の病室には佐藤健の書「希望」が架けられているのである。彼はここの病院で一時を過した。芭蕉言うところの百代の過客なり、である。

それはともかく。

何と昭道住職は「僕、エルビスの大ファンなの」と言うではないか。

実に坊主がエルビスであった。おまけに「あのうねり、腰使いがたまらんねェ」と坊主にあるまじき事を叫ぶ仕末。

これはもう病気は治った!のであるも同然なのである。

「そうか、住職、エルビスのファンだったのか」と拍子抜けして、それでも、エルビスについてしゃべりまくる坊さんの顔をぼうさんならぬ、ぼうぜんと眺めるばかりなのでした。

こんなに苦労して来たのに残念である。

17時半俺もう帰るわと、住職はエレベーターで降り、奥様と玄関まで見送って下さる。次男のこれも坊さんが天王台駅まで車で送ってくれた。

明日、昭道さんのところにエルビスのCDを届けよと伝えて別れる。

帰りの電車は順調に走り、車内で井筒俊彦『意識と本質』を再読する。

シャーマニズムに関するⅧから再読したので、解りが速かった。おっしゃりたい事はほぼ伝わるようにはなった。屈原、老子荘子も又、シャーマンであり得たと言う。

中国古代のそれこそ井筒イマージュの輪郭を少しばかり理解した。

あと数回読めば、そしゃくできるやも知れぬ。

かつて三島由紀夫が武田泰淳とのお別れ対談で、アーラヤ識の変換うんぬんのところが実に理解困難であると言っていたのを思い出し、この事を言っていたのかと遅まきながら感じた。

19時過千歳烏山。長崎屋に寄り道して20時世田谷村に戻る。メシを食べて21時半横になる。

四月一日

9時離床。『意識と本質』に於いてスフラワルディーの「似姿」を質料性(経験的事実性)を離脱したものであると明言しているところで、又もひっかかる。「我々のいわゆる現実世界の事物こそ、文字通り影のごとき存在者、影のまた影にすぎない。存在性の真の重みは「比喩」の方にあるのだ。」

シャーマニズム、グノーシス、密教などの精神的伝統を代表する人々にとっては、と述べているが、磯崎の「神の似姿」の字義はこの当りから出ているなと知る。

注釈者がそれを知らぬのである。

連絡があり、USAの先住民族の地域での住居のコンペ情報である。何等かの形で日本側をオーガナイズしてみたい。

バークレイとの連携もにらみながら。13時前『アメリカ先住民』鎌田遵 第8章ポモ族に関してを早速読む。

用をすませて長崎屋に寄る。杉田区会議員に会う。今日が誕生日なんですねとケーキの差し入れ。ローソクを立てて祝われる。おまけに誰が考えたのか、少し弱ったオジンに桜の花を見せてやろうとオジンの息子の銀行員に車を仕立てさせ、芦花公園南端のフラワーガーデンへ。まさかと思ったが桜が八分咲きであった。菜の花も満開。オジンをケイタイ椅子に座らせまことに良い花見となった。楽しみは尽きぬがすぐ戻る。杉田さんに礼を述べ別れ、夕刻世田谷村に戻る。

四月二日

8時半離床。色々と考えるに、井筒俊彦が到達していた知的地平とJ.L.ボルヘスの、例えば夢の本などにアンソロジーされた珠玉の連鎖はほぼ同質である。ボルヘスの荘子の夢の一片は、井筒の「存在性の真の重みは『比喩』の方にある」と同じ事である。

つまりわたしなりに言葉にしようとすれば、昨日弱った足で花見に出掛けた長崎屋のオジンが眺めた八分咲きのサクラよりもオジンの視覚を介して脳内に胚胎した桜のイマージュ(影の影)の方がオジンにとっても我々にとっても現実界を離れたところの生の重みである。しかしオジンはその桜イマージュを現実界の中(方法)でしか表現し得ぬところがある。そんなに容易に表現し得ぬ深みを集団の無意識と呼ぶのであるらしい。

9時過新聞を読む。

740 世田谷村日記 ある種族へ
三月三十日

18時45分高田馬場古市徹雄さんの事務所へ。エルビス・プレスリーの話し等する。彼のところにはプレスリーのCDがきちんとコレクションされていて驚いた。

古市さんはカラオケでアマポーラなど唄う軟弱者だと思っていたが、どうやらそうではない面もあるらしい。ちあきなおみといいプレスリーといい、仲々の良い趣味なのである。

19時ベトナム・ホーチミンで設計事務所を開設して頑張っている西沢さん来る。

近くの寿司屋へ。西沢さんは日本の金沢で生まれたお子さんの顔を見に日本へ一時帰国である。総合的に考えれば、実に最前線で働く人材である。しかし、驚いた事にエルビス・プレスリーを何と知らぬのである。これはまずい。姉上はイタリアでクラシック音楽の径を歩いているとの事であるが、それでプレスリーを知らぬとは君オカシイゾの話しになった。

ホーチミンで頭角をあらわすにはプレスリーくらいはたしなんでないと教養を疑われるぞとたしなめる。

監獄ロックなんかはベトコン・スピリッツに通じるものがあり、ホーチミンを頭とするベトコンは帝国アメリカをブチ破ったのであり、プレスリーはムーアの言うところの馬鹿なアメリカ人の典型ではあるが、アメリカ中西部のプアーホワイトに生まれながらアフリカ黒人のDNAを何故か所有して唄ったところが、アメリカへの反逆でもあったのに、残念であった等とホラ吹き男爵を決め込んだ。

西沢さんはまたホーチミンに戻るが是非疲れた時にはあの最悪なヤンキーソングでもあるブルーハワイ等をネットリと聞いて、ヤシの実ジュース等グビリとやれば、活力も生まれるであろう。ホーチミン・シティでプレスリーは、これは世界でも突出した趣向になるは疑いようがないのである。

ホーチミンでの健闘を祈る。

21時頃まで談笑し、別れ古市さんに車で世田谷村まで送っていただいた。

三月三十一日

8時前離床。梅の樹にむく鳥が来ている。今日の午後は新木の平和台病院に出掛けて昭道住職にエルビス・プレスリーを是非聴くようにすすめたい。坊主が南無阿弥陀仏の念仏ばかりでは何の救いも無い!と説教してやろう。病室でガンガンにプレスリーを鳴らして、何て坊さんなんでしょうと目をむかせる位の事をしてもらいたい。親鸞上人も天上できっと喜ぶであろう。

739 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十九日

8時過世田谷村発。第一住宅団地の跡地を通り抜ける。道の片側に、通り抜け禁止、駐車禁止、防犯カメラ有りの汚らしい表示が付いた自立サインが黄色いナイロンロープで数珠つなぎされた歴然たるゴミが並べ立てられている。誰がこんな汚物を並べ立てているのか?以前(1年程前)世田谷区役所に問い合わせたら、ここの道路は通り抜け禁止には出来るわけがない、の回答であった。当然である。わたしはほぼ30年弱、家人は50年はこの道路を通り抜けて千歳烏山駅、及び商店街に通っていた。周辺住民も皆そうしてきたのだ。

セコムが第一住宅団地の大方の土地を買収して再開発するらしいのは知っていた。ところが、その土地の中心、要の住宅が買収に応じずに再開発は頓挫した。

その頃からである、自治会を名乗る者の名で、この類の汚物がいたるところに立ち始めた。私有地であるから入るな、通り抜けるな、車を停めるな、犬の散歩をさせるな、のイヤーな禁止群が目に余るようになった。

誰の仕業なのかは知らぬ。セコムなのか、自治会を名乗る正体不明の団体なのか。

わたくしがここをモヘンジョダロと呼ぶようになって久しい。

2階建ての連続ハウスの大方は取り壊されて、基礎であったコンクリートだけが残されて、人間や動物達のシーンとさびしいが、良い遊び場にもなっている。

それなりの凍結状態が続いていた。そこへ、このゴミ看板の再びの林立である。

わたくしにはこの道路の通行権がある。金属ネットが建てられて細い道路の通行が車に対して危険なので、この道路に直角に作られた通り抜け道路の角地の角切りはようやく実施された。この角切りが実施された事はこの道路の通り抜けが保証されたに等しい。ならば、この誰の手によってのモノなのかは知らぬゴミ看板群もたちどころに撤去せよとモノ申す。道路の歩行の自由と、道にだって公共の財としての美観は存在するのである。

8時40分杏林病院。地下で採血、採尿。採血担当者は残念ながら男性であったが、随分愛想の良い人で、それでも不安であったが痛さは無かった。

採血の上手、下手に男女の性別は無いようだ。こり固まっていた男はダメだのわたくしの信念らしきはもろくも崩れ去った。男女間わず才質のちがいである。

10時過担当医師の検診。非常に良いデータであった。かなりハードな旅もあったのでどうなるかなと思っていたが、最近体はとても軽いので変だとは感じていた。体調復活か?マア調子に乗るのは良くない。

担当医師が4月から杏林を退職するので、わたしも杏林病院を止めて花小金井の病院についてゆく事にした。やはり大病院向きの患者ではないのだ、わたくしは。

医師から珍しく誉められたので仙川駅前のトンカツ屋でドカーンとトンカツを喰う。まずかった。

12時半研究室、絶版書房アニミズム紀行7、089 から105迄のドローイングを描き込む。

そろそろガマンのドローイングは限界状態である。わたくしは繰り返しの標準化には向いていない。少しばかりの指示をして15時半研究室を去る。

寄り道をして18時半世田谷村に戻る。

24時迄読書&WORK。

三月三十日

5時半前離床。開放系技術論7を書く。昨日サイトに6のドローイング掲載を指示したので、それに追いつく為である。6時40分修了。新聞を取りに下り、読む。

738 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十八日

11時半研究室、すぐに絶版書房アニミズム紀行7のドローイング描き込みを始める。060でお足(銭)のプレスリーのアメリカン・アニミズムの物語りはわたくしの能力故に展開が不能となった。それ故に本日は物語りの展開無しのヴィジュアルなドローイングだけとなった。060迄のドローイングを得た読者は大事にしてもらいたい。馬鹿気ているからこそ力が入っていたのです。でも061からのドローイングは手抜きをしたわけではない。勿論である。物語りが附いてない分デザイン(ヴィジュアル)には力を入れて、物語り抜き、しかるが故に色(カラー)つきとした。

14時バウハウス大学からのデービット来て、しばらく待たせて作業続行。日本の建築家はこうやって漫画も描けるのだぞ、と脅かす。日本の漫画は『AKIRA』はよく見たと言う。大友か、中途半端な知性だな、俺が今描いているのはアキラじゃなくってアチラである。エルビス・プレスリーのすなわちアメリカに独自の精霊を描いているのだとホラを吹いた。アメリカと言えば知識人の大半はネイティブ・アメリカンの民俗学を向いてしまうけれど俺はプレスリーに関心があるのだと言った。昨年のゴードンに続き今年もバウハウスは良い人材を送ってよこした。楽しみではある。研究室の院生と同じ課題を与える予定だが日本の学生はきちんとついて来れるかいささかの危惧がある。088迄27冊にドローイングを入れる。ホトホト疲れ切る。

17時過迄、ドローイング描き込みに没頭してウェールズの件でいらした来客も仕事しつつの対応となり失礼した。でも時間が惜しいのだ。

18時前地下鉄で新宿味王へ、小休し、19時世田谷村に戻る。

三月二十九日

6時離床。このところ良く眠れている。1冊の本を暗記できるわけも無いから、やはり気に入った本は繰り返し読む事になる。久し振りにイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』を読む。良質な作家は生を受けた都市の影を背負う。カルヴィーノは刻一刻沈み続ける都市ヴェネチアの、松杭でラグーンに支えられた宿命の、その中枢をこの作品に静謐に、だけれど確然と表現していたのに気付いた。恐らく磯崎新の見えない都市の言説は、この書物に決定的に影響されていた。

昨日、近くに出現している原っぱを通り過ぎたら、少年と若くはない父親が二人野球に興じているのに出喰わした。父親は投手役でボールを投げては子供に打たせ、その球をテクテク拾いに原っぱをいったり、来たり。少年のバットは曲がって枝分かれもしている木の枝なのであった。少年はイチローばりの左打者であった。

よい景色を視た。

今日はこれから杏林病院に定期検診に出掛ける。上手な採血担当に巡り会えればいいのだけれど。男の偉そうな採血担当にブチ当ったらどうしようか。

737 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十七日

11時研究室、絶版書房アニミズム紀行7のドローイング描き込み056~060迄5冊。何だかこれでストップした方が良かろうの想いがつのり停止する。

これ以上展開させるのが今は不能になったからだ。060のドローイングはこれ以上に無理して延ばしたら余りにも観念的な世界に入り込みそうな気持になったのだ。でも001~060までは全力を尽くしたので悔いはない。

この60点のドローイングだけでアニミズム紀行8の1冊とする事も決めた。記憶の旅の次はエルビス・プレスリーすなわちナッシュビルの精霊しか無いと考えたからだ。

愛読書であった俗悪辞典にも多く登場したプレスリー。ブルーハワイやGIブルースなど俗悪映画としか言いようの無い映画に出続けて消耗し、ビートルズの出現で影が薄れた。

でもプレスリーはアメリカ中西部のシンボルであった。

トラック運転手の日常に密着した知性であったが、それがアメリカであったのだ。

アニミズム紀行もいよいよアメリカへの旅を始める。

今の日本の薄っぺらな、というよりも西海岸のポルノショップの如き民主主義の薄物をまとった如くの我々の文化の実体へと歩を進めたい。それにはこの形式、POPアニメしか無いのだろう。

長文にしたら余りにも悲惨で救いが無い。

100冊限定としたい。値段は未定だが高価なものになるだろう。ぎっしりと文字も書き込みたい。

サイトの更新に関して何がしかの指示をして15時半新宿長野屋食堂でカキフライの昼食。ここのボリュームは今のわたくしには少々やはり重荷でいささか疲れた。少し早いが思い立ち世田谷村に戻り、いささかのWORK。

三月二十八日

7時半離床。新聞を読む。政治が余りにも下らな過ぎる。

まだ長崎屋の明るいガンマン達の話しに耳を傾けて勉強したり、長崎屋食堂のオバンの寸言を聞いていた方がましな様な気がする。

昨日、ワイマールのバウハウス大学より今年の留学生が来てあいさつに来室した。昨日の朝日本に着いたらしい。

早速今日はポートフォリオを見て、それなりの課題を与えたい。

736 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十六日

11時研究室チョッとした打合わせ。すぐに絶版書房アニミズム紀行7のドローイング描きにかかる。045から始めて055迄総計11冊に描き込み、その間に研究室の居残りの連中の仕事を見る。以前研究室では1軍と2軍と人材を分別していたが今は3軍が出現している。頑張れ!それはとも角ドローイングを5時間近く続けていると消耗する。しかし、道筋が見えてきたのが有難い。

気仙沼市役所より安波山計画について連絡あり。市役所の遅さは昔も今も変りは無いがフォローしてくれているだけはまだましなのである。

アニミズム紀行7のドローイング物語はようやく姿が視え始めてくれている。この視えてきたストーリーは絶版書房通信に近々書きたい。

17時半、烏山長崎屋。しばしの休息。今夕も又、ほとんどの客がガンの真只中の方々のようだ。皆がガン自慢をしている異様さの中でしばしを過ごす。凄いなぁ民衆は。と気取って書くが、実にここはいまだに民衆らしき(つまり消費者とは少しばかり違う、ほとんど同じなんだが…)がまだ生残っているのである。

19時過世田谷村に戻る。空腹なり。

三月二十七日

7時半離床。新聞を読む。絶版書房アニミズム紀行7のドローイングを今日もやろうと考えている。アト20冊に描き入れないと注文に追いつかぬし、いくつかの書店に出す為にはさらに40冊をこなさねばならぬ。だから7号が書店に並ぶのは少し遅くなるだろう。

お足のエルビス(お金で人生を狂わせた、と言うより折角ナッシュビルのトラック運転手からスターにのし上がったプレスリー)の漂泊の旅を徒然なるままに描いている。

昨日ようやくエジプト(黄泉の国)から何も無いアメリカ大陸に帰還したところまで辿りついた。山本夏彦翁の『年を歴た鰐の話』の影響が歴然としてあるのは自覚している。昨日の053のドローイング中にナイル河とワニが出現したので。

アニミズム紀行にはピッタリの物語なんだが、そう思ってくれる人は222人中先ずは一人もいないのではないか。

でも共感を得たいと考えてやっている事ではないのだから仕方ないのである。

735 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十五日

ようやくの春の陽光の中の日曜日である。昨日は『残夢』鎌田慧、2400円、金曜日を読み通した。大逆事件を無期懲役の恩赦に減刑となった坂本清馬の生涯を描いたノンフィクションである。幸徳秋水等12名の大量絞首刑が実施された大逆事件について、わたくしは中上健次が晩年関心を持ったが遂に書けなかった位にしか、つまり中上文学を介して知るだけであった。それ以上に深くは踏み込まなかった。

中上の『枯木灘』他の三部作の主人公でもある秋幸は幸徳秋水の名からつけられた。

坂本清馬についてはこの本によって初めて知った。扉口絵写真の坂本清馬(晩年)は実に異形の人そのものである。愛犬クロ(クロポトキンからとった)を連れて故郷中村市(現四万十)を歩く姿は、それだけで今の日本への批判たり得ている風がある。

色々と考えさせられたが、結局、わたくしにとっては文学の不可能性の一言に尽きる。中上文学は現代日本では最良のモノの一角を形造っていたが、現実の歴史的描写に比べればやはり絵空事に過ぎなかったのを痛感してしまうのであった。鎌田慧の歴史の細部をなぞる表現には一理が在る。特に今の日本には実に貴重である。若い人に読ませたいがひ弱すぎて読めぬであろう。残念。

荒っぽい感想ではあるがそうとしか言い様がない。

ベイシーの菅原さんに電話したら相変わらず憮然としている。こういう男も実に得難い男なのだ。

穏やかなテロリストになると言っていた。坂本清馬の写真送ってあげようか。彼が言うテロリストとはぬるま湯の中のジャズ喫茶の客にギンギンのコルトレーンを最大最良の音で聴かせることなのだが、今の客にそれは通じないだろう。これも又、残念であるが、とり返しがつかぬ程に時代はやせている。

午後の長崎屋に顔を出したら、客は皆ババアばかりで、しかもエネルギッシュである。女の文化もしかしたかがこれ位か。

小川くんがやってきて又、何かを売り付けようとする気配を察して皆一勢に去った。私も去った。

三月二十六日

七時離床。昨夜は横になりながら作家論磯崎新の展開の筋書きをアレコレ考えた。

サイトには12回迄がONされているが原稿は15回迄進んでいる。この3回の奇跡的な余白(だって生原稿の方がコンピューターより速いのですぞ)をうまく使いたい。

第15回はすでに作品論に入っているが、ここで一拍置いて陣容を整えなければならぬ。

アニミズム紀行7へのドローイング描き込みがだいぶんたまってしまった。今日は最低10冊程に描き込みたいが、案の定お足のエルビスが主役のストーリーが中々に展開してくれぬのだ。でも何とかしなくては。

又、何がしかがウェールズに出掛けたので留守をしっかり固めなくてはならない。こんな時に何が起こるか解らぬのである。何はともあれ前半はお足のエルビスである。

磯崎さん、鈴木さん共に旅に出ているようだ。充分慎重自重を極められたし。どうもお二人共に自身がすでに充二分に老人であり、しかも老人の知恵がなければ今と言う時代は打開出来ぬのを自覚できていないきらいがある!

特に建築をとり巻く状況はコッテリと不可能性の中に固まりつつある。いささか時代がかっている実感ではあるが、まさにその通りなのである。旅に出ている場合なのかと、自分の事はとり敢えずさて置くのである。

734 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十三日

10時過研究室。10時半北園、加藤両先生来室。今年の演習Gの進め方について。結論、このコースを進めるに当って第1回にそれぞれの才質を評価する試験を行う。それによって課題を2種に分別する事にした。その為に試験の準備段階として第1回の授業迄に小作品を4年生、院生に課す事にした。

「両親の(祖先の)記憶を形にせよ。」が試験問題である。一切の付帯説明はしない。それぞれの才質なりに考えよ、である。要するに学生の勘(本能)が著しく劣化している。それを再構築するのは不可能であるにせよ、ファーストクラスのデザインには必須なものではある。これではいけないと本能的に嗅覚を働かせる事の無い人間に何を教える事があり得ようか。嗅覚の無い人間にはそれなりの課題を与えれば良いのだ。

11時半過了。研究室発新宿へ。12時長野屋食堂で安西直紀さんに会う。諏訪太一君の個人的送別会であるが、肝心の送別される人が例によって遅刻である。しっかりしろと言いたいが、この類の人間にはもうつける薬が無い。もう二度と会う事もあるまい。

夕刻世田谷村に戻る。

三月二十四日

8時半離床。平和台病院の馬場住職に連絡。何とか大丈夫そうである。

研究室のサイトを覗く。少し頑張ってくれて全体として65%くらいの仕上がりにはなってきた。

午前中「真栄寺開山25周年記念」の冊子の為の原稿書きにあてる。

733 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十二日

正午研究室打合わせ。渡邊、佐藤、五月女の三名が明日よりイギリスのウェールズに出掛けるので出発前の打合わせを少しばかり。13時2012年度第1回の研究室ゼミ。個々の才質が余りにも散逸しているので島を4つ作った。学部生の卒論ゼミは勿論別枠である。ただし学部生から一人をセレクトして院ゼミに参加させた。ゼミの第1の島初心者コースは初期モダニズムの研究。バウハウス最初期の教育カリキュラムの研究。わたくしの研究室のモダーン理解はウィリアム・モリスのレッドハウスからなのだが、院生には仲々理解させるのに労多くして役がないのは知ったので、初期バウハウスのイデオロギーに焦点を絞った。第2の島は建築表現について。建築表現の変換期に具体的にコンピューターを介して対面している。その問題を考えようとする。第3の島は夢と建築、あるいはファンタジーの内外にいまだに在り続けるだろう建築諸イメージ、あるいは物語り(神話)を探ろうとする。第4の島は開放系技術、アミニズムについて。この島は渡邊大志と佐藤研吾の2名のみとする。わたくしの中心である。これには一つ具体的なプロジェクトとしてDream of Highrise Tower by C.Y.LEE Exhibitionを附録として付け加える。

この4つの島を動かす。出来れば最強の建築表現ゼミになるだろう。頑張りたい。もうゴミを扱っている時間は無い。

寄り道をして19時世田谷村に戻る。サイトをのぞく。動画とダナン計画のコンビネーションを試みているがマアマアなモノにはなった。編集(デザイン)能力の差が少しばかり出現している。ある部分は全てやり直しを命ずる。神は細部に宿るのだ。

Xゼミナール、作家論磯崎新12が更新された。わたくしの原稿に間違いがあり、それを調べるのに手間取った。

三月二十三日

7時離床。今日は10時半に北園、加藤両先生が研究室に来る。演習Gの進め方の相談をするが知恵を借りて充実させたい。学生の能力の低下は歴然としているが手をこまねいているわけにはゆかぬ。

732 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十一日

11時前世田谷村発都営地下鉄市ヶ谷で乗換え、津田沼へ。久し振りに訪れた千葉工大のキャンパスはすっかり変化して高層ビルが群立していた。以前訪ねた建築学科の棟も移転して迷ってしまう。学生に尋ねて高層ビルのエレベーターで建築教室へ。古市徹雄さん他にお目にかかる。13時より卒計、修士設計の発表、講評会。クリティークはトム・ヘネガン、スチュアート・ムンロ、西田司、古市徹雄の各氏。トム・ヘネガン以外は初めてお目にかかる。以前伺って講評したときと微妙にスタジオの空気が変化しているのを感じ取る。早稲田も同様なのだが熱気というモノが抜け落ちている。前の千葉工大は模型はバカでかいし、往時の源氏の荒武者らしきの姿もチラホラしていたが、その影は無い。これは早稲田も全く同じで、妙にいずこも同じかと思わせた。

しかし発表は仲々良かった。特に学部では遠藤研究室の林佳史君の「海景」が秀逸。他にこれも遠藤研究室の中島康一郎君の「ダムの再構築計画」が、間違ってはいるけれどエネルギーを感じた。修士設計では遠藤研の片山仁君のモノ、これは早稲田にも良くあるタイプのモノだが力作であった。古市研究室の須岡温子さんの「難民と日本人の共生」の造形力が光る。これは難民がテーマでない方がむしろ良かった。もう一点古市研究室の高橋玲和さんの作品も面白かったが、「インターナショナルからのバナキュラーの再解釈」という作品の命名法は完全に間違っている。チョッと基礎的な勉強が足りない感がある。しかし総じて水準は高い。修士設計のレベルは群を抜くものは無かったが、早稲田の大方のモノよりも良いのではなかろうか。早稲田は相当にピンチだな。私的な我を捨てなければ凡愚の海に沈むだろう。千葉工大にはまだ初心らしきが感じられる。一人建築家らしきが出現すれば続々と興隆するのではないか。期待したい。

18時迄学生と話し、その後定例らしき駅近くの居酒屋へ。黒霧島の芋焼酎をいただく。全ておいしかった。トム・ヘネガン等とキャプテン・クックの話しが弾んで楽しかった。

散会し、東京駅迄電車、そして東京駅より古市さんの車で世田谷村迄送っていただいた。いい加減なことは言えないが、千葉工大は早稲田に先んじて上海に分校を設立したら良い。学生達の職場も豊富だし、中国人の豊かな階層の子弟も集められるだろう。早稲田建築学科は今や一流と二流の狭間に漂っているが先生方にその危機感が無いから、勇気が無い。早稲田のみならずどの大学にもその類の気概は無い。津田沼にあんなに立派なビルをドカドカ建てる力があるのなら上海に進出したら良いのだ。

三月二十二日

五時半離床。メモを記す。明日は昼に安西直紀君に会うので色々と上海、ベトナムの件等話し合いたい。わたくしには上海での早稲田バウハウス共催のワークショップ運営の歴史がある。あれを努力して持続しなかったのは不覚であった。一生の不覚にならぬように考えを巡らせたい。今年は研究室に少しはマシな中国人がゼミ生として参加する。中国人でホラを吹かぬような小じんまりとした人間に魅力はない。これはホラ吹きであるから活用すべきか。OBの陸海も上海で事務所運営に苦労しているのではないだろうか。

明日から研究室のメンバーが三名ウェールズに出掛ける。その間に新しい事をひとつ考えてみたい。今日は午後本格的な研究室ゼミを実験的に開始する。有能な人材はそれなりに、無気力な人材も活用したいが、どうかな。

731 世田谷村日記 ある種族へ
三月二十日

9時過世田谷村発。10時前新宿で渡邊、佐藤と待ち合わせ、埼京線で熊谷へ。車内でダナン計画のスケッチ一点を得る。11時頃熊谷着。南口で代島さんにピックアップされ、先ず土地を見せていただき、大方を頭に入れてから昼食のうなぎ屋で話を伺う。ひととおり話を伺ってから住宅予定地へ。当初の御両親が住んでおられる大きな屋敷の長屋門の前の土地から少し離れた土地に建設予定地が変更になった。長屋門の前は将来の更なる計画の為に開けておいた方が良いだろう。広々としたとても良い場所で雪をいだいた二荒、赤城、榛名が遠望できる。お父上、お母上、そして代島さんファミリーにお目にかかる。幾つになっても緊張する一瞬である。母屋の土間より座敷へ招かれ話を伺う。この間の事は開放系技術論6に書く。

お父上はお元気で話し好きの方で実に好い方である。代島家の歴史、江戸期の周囲の綿密極まる測量図等が座敷に広げられる。代島さんファミリーは5人の娘さんのうち3名が奥様共々出席された。最年少の娘さんを代島さん家族の意見のまとめ役としてすぐに選ばせていただく。10日後に少なくともこんな部屋が欲しい、こんな台所が欲しいの意見を寄せていただく事にした。お父上は綿密な頭脳の持主できちんと色々と整理して話して下さる。土地を見ましょうと外に出て、わたくしは土地のスケッチと同時に先ずは、の最初のアイデア・スケッチを一点得る。すぐにアイデアを得られた時はうまく計画はゆくものだ。お父上に畑で育てている野菜を沢山いただく。買い出し部隊の如くになって嬉しい。わたくしも小さな畑を再びやろうかと考えたりした。ごぼうが大変立派なのに驚く。荒川の集積土の土地柄故だろう。母屋の土地、及び周囲も見学。見るモノ、聞くモノ皆実に新鮮である。代島家の旧墓も見せていただく。四隅には大黒天の小石頭あり。この辺りは古くは熊谷直実、つまり源氏の勢力圏であった。ここにも鎌倉街道が走っていたと言う。大方半日で出来る事は皆した。皆さんにもすっかりお世話になり、16時過去る。熊谷駅迄送っていただき、17時半味王へ。打合わせ。

今日得たスケッチを渡し説明。渡邊、佐藤は今週末より10日程イギリス、ウェールズのワークショップに出掛けるので、その間にして欲しい事等伝達する。

味王の娘さんがクラスメートと楽しそうに話し込んでいてほほえましい。明るく健全な青春であるが、あれで随分悩みもあるのだろう。代島さん一家は父を除いて皆女性であり、味王の家族と良く似ているのである。

20時半世田谷村に戻る。

三月二十一日

8時半離床。ようやく春めいて来たが空気はまだ寒々しい。昨日の熊谷行きは面白かった。スケッチも二点を得た。今日は反対方向の津田沼へ出掛ける。沼つまり海埋立地の方向である。熊谷は源氏の武者達が馬を駆っていた所であるが、津田沼の方角は親鸞が説いて廻っていた地域で、山本周五郎の描いた葦によし切りの沼沢地でもあった。が共に昔日の面影は見事なくらいに失せている。恐ろしい位に歴史との連続性を断ち切っているのが日本の近代都市、しかも東京周辺の埼玉、千葉の諸地域なのだが、昨日の代島家の土地にはまだそれが色濃く残されていたのが嬉しい。今日の千葉工大の学生諸君はどのように歴史を継承しているか、あるいは浮遊しているのか見るのが楽しみでもある。11時前世田谷村発津田沼へ。

渡邊くんにロンドンの石井とコンタクトして、色々とパイプを作るように伝えたい。バウハウス大学を中心に世界中にOB、OGが散っているので、これからは活用したい。

730 世田谷村日記 ある種族へ
三月十九日

12時研究室雑事。ダナン・スケッチ渡し他。13時発地下鉄で池袋へ、JRで我孫子乗換え、新木。駅員が一人のさびしい駅だ。歩いて15分天王台病院。旧知の院長先生に会う。昭道さんはお元気であった。知り合いの方に天王台迄送っていただき、17時半新宿で渡邊助教と味王で夕食。20時世田谷村に戻る。

三月二十日

8時過離床。サイトをのぞく。昨日指示したダナンの更新だが、言われた通りにそれ以上でも無く、それ以下でも無くページが作られている。これではわざわざきちんと編集しろと言った意味がない。編集とはデザインせよと同義なのだから少し工夫して欲しい。しっかりせよ。

今日は朝から熊谷へ、代島さんの家の土地見学で楽しみである。世田谷村の次のステップに入るつもりだ。日記と並走させている「開放系技術論」も一読願いたい。又、アニミズム紀行7も購入されたし。

729 世田谷村日記 ある種族へ
三月十八日

6時半離床。昨日は午後からズーッと今朝迄眠っていたので記す事もない。

今朝は起きてすぐ鈴木宗男のサイトをのぞいてみた。ベトナムの中村さんが欠かさず読んでいると聞いたからである。宗男日記が毎日更新されており、大変なエネルギーである。勿論政治家の表の日記であり、良い事だらけのモノではあるが、新聞の首相番日記よりは余程興味深い。実に良く地元の北海道根室の選挙票を考えての日記である。これを地ベタに張りついた選挙活動というのであろう。実に細やかな地元に対する配慮がある。

わたくしの地元世田谷の区長保坂展人も車座集会を続けているそうだが、そのウェブサイトをのぞくと、ドコドコ日記がある。世田谷と根室のちがいがあるのだろうが、それにしても宗男日記とのギャップが目に付くのである。これからしばらく双方の日記を往復、並読してみたい。今日は午後に保坂区長にお目にかかるので、宗男日記を読んでみたらとすすめたい。

12時前世田谷村出発13時前三軒茶屋、13時20分世田谷ものづくり学校の「世田谷式生活・学校」会場着。13時45分始める。第一講石山、第二講渡邊大志、第三講保坂展人世田谷区長、その後に会場との質疑応答。沢山の質問が出て良い会になった。全ては小冊子として記録に残すが一部をネットで公開する。区役所の方も参会され寺町高源院から南品川の川の流れの一部復元計画に関心を持っていただいたようで良かった。保坂区長はきちんと真正面から自分の考えを述べられた。この区長は少し固いが、その固いところが良いのである。先ず曲がったことは出来ない人間に出来上がっている。世田谷式クリーンエネルギーとグリーン(植木)を結びつけようというのが我々の考えだが、次回は植木屋さん、町の電気屋さん達の参加を望みたい。我々もそれを呼びかけねばならない。16時半過了。

我々のアニミズム紀行と言うよりも絶版書房の印刷屋さんである(株)チューエツの有泉眞一郎さんがお見えになっていて、これはいつもの労をねぎらわねばと夕食を共にする。と言ってもいつもの新宿味王である。メシはそっちのけで有泉さん再び漫画の話題に熱中する。矢吹ジョーも力石徹もなんでもござれであるが、やはり鉄人28号の横山みつてるが深いのである。まだまだ底はついていないようなのでお目にかかるのが楽しみである。

20時頃世田谷村に戻る。

三月十九日

9時過離床。メモを記す。陽光は射しているが風はまだ寒いようだ。馬場昭道さんが入院したので、今日は見舞いに出掛ける。常日頃わたくしの体調を案じて下さっていたがご本人がまず不調になった。

佐藤健の友人達の健康は皆要注意なのだ。やりたい事をやり抜いている人間が多いから、どうしても自分の体の手入れはおろそかになりがちである。

研究室に寄って旅の記録を渡し、サイトへの公開の指示をしてから新木場の病院に足をのばしたい。

728 世田谷村日記 ある種族へ
三月十六日

午後研究室雑事。15時滝田栄さん来室、地蔵堂建設の件。16時半研究室発新大久保より大崎を経て東京ビッグサイトへ。長澤社長にお目にかかり、仙台の集合住宅の件打合わせ。いくつかの案を提示する。ビッグサイトの大展示空間は今年のショーはこれ迄にない不入りだったそうだ。長澤さんなりに日本の不元気な現実をヒシヒシと感じたようだ。帰途安西直紀さんに連絡して新宿でメシを共にする事にした。

19時半味王で夕食。ヴェトナム・ダナンの仕事に慶応大学福沢諭吉研究会として参加するように依頼する。安西さんは何代目かの会の代表であった。彼だったらヴェトナム、ダナンにKEIOハウスを運営する位の事は出来るであろう。おじいさんの血を色濃く継いでいるとにらんでいる。慶応の連中の良いところはまさに福沢諭吉精神でもある実利実際の機智に富む事にあり、それが経済界に強い因でもある。

早稲田はそれに誠に弱いのである。22時半了。23時過世田谷村に戻る。

三月十七日

8時半離床。10時半妹来る。彼女の娘が4月より就職するのでそのお祝い。

11時半気仙沼臼井さんと連絡。台中での媽祖グループとの会見結果等を報告、他。

727 世田谷村日記 ある種族へ
三月十五日

10時半良く休んでいる。李祖原事務所の面々と昼食後は故宮博物館へ行くのを決めた。媽祖の何かがあるやも知れない。少なくとも道教のルーツを探る素材は豊かにある筈だ。今度のヴェトナム、台湾の旅で得たモノは、

1、ヴェトナム、ダナンでの博物館建設の土地を確認できた事。当初より暖めていたプランに大きな間違いが無いのも確信した。

2、ダナン人民委員会の考えの骨子を知った事。つまり何をやらねばならぬかを知った。

3、台中で媽祖台湾の首脳2名の董事長に会い、気仙沼の件他の計画のことをほぼ確認ができた事。このパイプは大事にしなければならぬ事も肌で知った。

4、李祖原との私的交友もそろそろ最終段階の一つ前のステップに入ったので、その関係を具体的な形にすべき事の確認。

4に関してこれから昼食を共にする李玄(リチャード)を窓口に進める事を彼に伝えねばならない。あと半日だ、頑張りたい。

11時半ドライバーにピックアップされてホテルを離れる。北京の李祖原より車に電話が入り昨日の首尾はどうだったかと問われた。全て順調だと答える。被災地の為にもそうであってほしい。

12時過台北市内の海鮮料理屋に昨夜のディナーの面々が集まる。李玄(リチャード)に李祖原のハイライズ(超高層)プロジェクトに焦点を当てた展覧会をイタリアで開催する旨を伝える。2代目C.Y.LEEが台湾サイドでこの計画の担当をしろと伝える。リチャードも45才である。そろそろ何かを成さねばならない。

ここの昼食はべらぼーに美味であった。次回もここでの食事を願いたい。べらぼースープの名をきちんと尋ねて控える。それだけの価値がある。これからのスケジュールに関しての確認をした。食後、故宮博物館に行きたい旨伝える。彼が同行してくれた。

故宮博物館は中国大陸からの団体客で埋まっていた。こんなに満員の博物館は世界でも稀であろう。媽祖、道教を探るのはあきらめた。身動きがとれぬ。

やはり第一室の中国古代の青銅器を集中して見てスケッチした。中国人の好奇の眼にさらされるも、はねのけてスケッチ作業。4点を得た。紀元前14世紀から12世紀、夏の時代のモノである。動物のフォルムが器や楽器と合体していて古代中国のアニミズム造形の素晴しさを満喫する。鳥や魚が金属の道具の形と合体、溶融している。しかし、どうやって作ったのか3500年の昔に、驚くべき技術と想像力である。

15時45分名残惜しいが切り上げて、松山機場に16時15分着く。李玄、ドライバーと別れてチェックイン。飛行機は30分遅れていて18時45分離陸。

10時半羽田着。寒い。モノレールで浜松町経由新宿を経て、超満員の京王線で烏山へ。いきなり人間らしからぬ生活に戻るの感あり、仕方ないか。

24時過世田谷村に戻る。

三月十六日

8時半離床。10時滝田栄さんより電話、今日の午後研究室にてお目にかかる事にする。淡い陽光は差し込んでいるがエネルギーは弱いな、東京の光は。

726 世田谷村日記 ある種族へ
三月十四日

8時朝食を終え、室で小休。8時半チェックアウト、黃文旭、顧宗沛、通訳岸野俊介さん、ドライバーと共に台中へ向けて走る。ざんざ降りの雨である。10時半台中市大甲區順天路の大甲鎭瀾宮に着く。

媽祖グループの台湾のセンターである。思っていたよりも規模は小さかったが、他の嘉義などの媽祖グループ寺院とは格が異なるのだそうだ。媽祖神は実在の女性が亡くなり神になった。海神として台湾、中国南部、ヴェトナム等に強大な勢力を持つ。

女性の信者が多いようだが皆熱心である。チベットのダライラマ信仰に似ていなくはない。

曇天の円庭には香の煙がもうもうと立ち昇っている。

11時、顔清標董事長に会見。大組織のボスらしからぬ極めて人間臭の強い人物だとお見受した。春遅く気仙沼と浅草に正式に訪問してくれと再び依頼したら、自分は何かの理由で国外には行けぬ状況なので、副董事長と息子を日本に訪問させるとの事、そのディテールは4月になってつめようとなった。

気仙沼に建立を計画している媽祖神の場所は非常に良いとの事。ただし20M〜80Mくらいのモノを建てたいとの事であった。来たな!と思ったが20Mくらいのモノならなんとかなるかも知れないとも考えた。100Mのは無理だろう。

又、五十鈴神社の参道他の修復に関してはどんなスタイルになるかと問われたので、海の神のスタイルなら何でも良い、つまりドラゴンでも七福神でも良いとも言った。

大きな宝船のようなモノにしたいと切り込んだらニヤリと笑って、悪くはないと言う。

タイの水害後に際してもかなり大がかりな被災地復興プロジェクトを興したそうだ。

やがて副董事長の鄭銘坤さんも参加。更に具体的なプランが色々と話された。副董事長は台湾媽祖連諠会(連合会)会長でもあり、中国天津で媽祖の会社も興している。又、聖堂建設の会社の董事長でもあるようだ。

まず媽祖像を作って、それから各種建築、街の建設に入るのはどうかの話しがあった。何しろ、金銭には恵まれている。ミャンマーから寄進されたヒスイの媽祖像は80億円くらい、金製のものは数十億ぐらいとの事で地下にも地上にも金目のモノがうなっているのであった。お金の神様のアイコンまである。日本は気仙沼だけにして、ヴェトナムの五行山にも来てもらいたい位である。

チベット寺院の現金飛び交う世界とまったく同じである。

実に不思議で魅力的な人達と知り合いになる予感がする。李祖原事務所の面々も良い会談だったとの印象を述べた。肩の荷を少し降ろした。

12時過会見修了。昼飯を一緒にどうだと言ってくれたが今度は遠慮しておいた方が良い。

あんまり急速な進展は避けたい。おみやげをごっそり持たされた。媽祖の野球帽までいただく。台中市内の阿里海鮮料理店へ。昼食後は台北への戻りに車でうとうととする。こんな事は昔は無かった。李の車は大きなBMWで余程乗心地が良いのであろう。ドライバーの腕も良い。李はこのドライバーを初めから使って30年間決して代えようともしないのである。このドライバーは車で時々セキ込むわたくしの為に大きなノドアメの薬状を買って渡してくれた。これでは李が手離さぬ筈である。

17時頃北投のGrand View Resortに到着。李祖原事務所設計のホテルである。

インテリアを担当した徐志強さんが迎えて下さる。原堂室内装修工股份有限公司の総経理である。チェックインもほとんど無しに部屋に入る。仲々の質である。日本の高級和風ホテルを相当勉強したようだ。でも、アルド・ロッシ風でもある。

広い部屋を一巡して、良く出来た温泉風呂に入浴。北投特有の酸味の強いにごり湯で気持良い。にごり湯とピュアーなモノと大きな石貼りのバスタブが2つある。実に贅沢である。洗面所も大変に広い。

18時50分ロビー。19時近くのレストランVilla32で李祖原の息子、リチャード(李玄)、徐志強、顧宗沛と夕食。台北市内の客が多いと言う。実に台湾は豊かになったのを実感する。20時半了。ホテルに戻り、休む。疲れているのか、いないのか解らない。

李祖原のハイライズの仕事をまとめたのを手渡された。今晩は彼のハイライズの仕事に焦点を当てた展覧会(出版)の企画を考えてみたい。

三月十五日

6時頃目覚めてボーッとしているうちに7時。温泉につかる。空模様は厚い雲におおわれて何も視えない。8時半階下のレストランに朝食。研究室に送信。

夕方の便で東京に戻る。ハードな6日間であったが今朝休めているので助かる。

725 世田谷村日記 ある種族へ
三月十三日

8時ダナン人民委員会オフィス。Mr.ヒュウと面会、あいさつそして打合わせ。9時前発再び五行山へ。一昨日と打って変わって人影も無し。観音寺にて寺宝見学。宝物館も作りたいそうだ。博物館のサイトを再び見学する。あぜ道に座り込みスケッチ及びイメージエスキス。これでやるしかないのアイデアを再々確認する。

静かで河に浮かんだ船で漁をする人の姿がまるで絵の如くだ。牛の姿、花の影、写真をとる。五行山観音寺の隣りの香山寺見学。インド人の坊さんが開祖の寺院で庭のオブジェ等も皆インド風でほほえましい。小さな涅槃仏の姿がここでは良く似合う。細い農道をゆく。五行のうち木山のふもとに木のうろがそのまま小さな廟になったモノあり興味深い。

五行山エリアの墓地を見ようとなり木山の南斜面の墓地にゆく。墓も集団移転となったようである。五行山エリアの全てを精神文化公園とするとなると徹底して貫徹するのを知る。古い集落エリアを歩く。ブーゲンビリアの花々が家をおおい尽くしている。大通りに出てTAXIをつかまえてホテルへ。12時前、チェックアウトして12時半ホーチミン迄別の仕事で出る中村さんとダナン空港着。ラウンジで簡易昼食。ホーチミンからの飛行機が少し遅れて14時ダナン発。

ホーチミン着15時過。国際空港へ移動する。15時20分チャイナエアラインで台北迄のCI783便チェックイン。中村さんと別れる。4日間朝から晩まで大変にお世話になった。

ラウンジで少食をとる。17時30分飛行機に乗り込み18時ホーチミンを離れる。

ダナンでは予想以上に涼しかったので、それで動けたようなものである。今晩からの台北、台中の三日間もハードなものになるやも知れぬ。自戒したい。と、記した後にマティーニを頼んでいるのだから誠に意志薄弱という他はない。マティーニは二口すすって止めた。水が一番うまいのである。

これからの3日間、今夜は休息、明日は媽祖・顔董事長との会見で台中往復、明後日はダナン、台中での成果を整理するのに当てたい。

22時過台北桃園空港着。22時半ゲートで李祖原事務所の顧宗沛さん迎え、再びCYのドライバーとも再会する。かなりの雨降りである。

23時半台北市復興北路のTAIPEI Fullerton-North着チェックイン。明日のスケジュール確認、13、14、15日のスケジュール表を受け取る。

バスにたっぷり湯を張り、つかる。すぐに寝た。

三月十四日

5時半離床。どうやら空は分厚い雲のようである。バスを使う。今日の台中での会見の準備他。恐らく媽祖神グループは海の神様として世界最強の一つであることは間違いがない。昨日迄ベトナムでダナン市五行山、ダナン・日本歴史文化博物館の打合わせをしていた。日本とベトナムの海域文化つまり海を介しての交流を形にして示そうというものだ。媽祖はアジアの海の神様でもあり、これも又深く関係してくるやも知れない。日本仏教伝道協会の沼田会長、そして馬場昭道さんに日本から一人五行山に庵を開設する為に青年僧を派遣していただく事を依頼してみる。

一人の若い僧侶が生命がけでやるような事であろう。ベトナム政府に頼り切るのは良くない。日本からも人と金を投入しなくてはならない。日本の仏教界はもう少し頑張られたし。

気仙沼の五十鈴神社へ媽祖神を迎える準備の為に今回の目的がある。2億人〜4億人の海神信者を抱える大集団であるが、びびらずに堂々とやりたい。津波でやられた五十鈴神社の復興も依頼する。将来の媽祖海神タウンin気仙沼は李祖原にアイデアを任せたいと考えているが、今日はその口火でもあろう。ベトナムの五行山の計画も話してみるつもり。

7時過ぎ階下に降りて朝食。8時半にピックアップされて台中まで3時間の車の移動になる。

724 世田谷村日記 ある種族へ
三月十日

DA NANG国際空港20時過着。中村さん迎えて下さる。彼はすっかりベトナムの人の顔になっている。TAXIでダナン・ロイヤル・ホテル、チェックイン。荷物を部屋に置いて中村さんと外へ食事。ホテルのFAX機は機能していないので中村さんの宿泊処より研究室に送信していただく事とする。今時FAXはもう古い機材なのだな。

21時ホテル近くのベトナムうどん屋で夕食、これはうまかった。地元ビールも軽くて重くない。腹の具合が中途半端でもう一軒行こうと、少し店構えのましな中華風レストランへ。ここはまずい。鹿児島の漁業関係の人が視察に来ているとの事。ベトナムは海岸線が長いから沿岸漁業、養殖業には向いているのだろう。22時半頃ホテルに戻る。

風呂に湯を張って丸一日の飛行機乗り継ぎの旅のアカを落す。TVでフットボールの試合を見たりしたが眼を開けておれずにドロのように眠りに落ちる。

三月十一日

5時目覚めて6時離床。メモを記す。高曇りで昼は晴れるやも知れぬ。

空腹で昨日行ったうどん屋で朝食をとろうと決めた。

スケッチの仕事を少しばかり。朝から描き始めてやろう。

6時半外へ。うどん屋へ直行。肌寒いくらいで気持良い。うどん屋は満員で人間が溢れ返っている。カンボジア・プノンペンのラーメン屋とほとんど同じ味である。

メニューは一品のみ。野菜が豊富だがプノンペンのもやしの方がエネルギッシュ。次に街角のヴェトナム流カフェへ。濃いドリップ式のコーヒーをすする。スケッチを2点。

大きな河まで歩く。ダナンは人口100万人、ヴェトナム第四の都市である。リバーサイドのテニスコートでは人々がテニスに興じている。

今日は日曜日なのだ。

ホテルに戻り8時中村さんと近くの山岳少数民族のつくるコーヒー屋へ。中村さんの友人を紹介される。ホテルに戻り鹿児島漁協の方々他とロビーで会う。ダナン人民委員会ダナン外務局のヒュウ氏とも再会。ヒュウ氏のトヨタ車で五行山へ。五行山は大変な人出である。今日は3日間にわたる観音祭大祭の最終日である。浅草仲見世の通りのにぎわいにはるかに勝る。女性達が大きなマスクをしてイスラム教徒の如くが多いのに驚く。五行の内、金山に在る観世音寺へ。道の両側に実に多くの露店が出ている。売られているモノはまだ実にプリミティブな石細工や小さな装身具など。観世音寺にはインドから僧が来ていて説教をしていた。1000名程の人々がテントの下でそれを聞いている。観音教の集団か。イタリアの金箔を貼った千手観音あり、工事中のコンクリートの寺の上にはドラゴンの飾りつけ、いたるところにドラゴンが舞っている。境内の人混みを離れ計画立地の川近くの畑へ。とても美しいところである。スケッチを2点、久し振りの筆でうまく描けない。まだ浮足立っているのを知る。観世音寺に戻り、ビン住職とお目にかかる。

良いお人柄の方で皆とお茶に呼ばれ、昼食を御一緒する。沢山の信者の方々が住職に拝礼のため訪れてくる。精進料理をいただく。明日表敬訪問の予定であったが明日は観世音寺に不在との事で、お寺の計画などの話しをうかがう。

五行山に計画する博物館のおとなりさんになるので良く話しをうかがわなければならない。

昼食後ビン住職は建設中の寺院現場に案内して下さり、この五行山の精神文化公園のセンターに建立したい計画案について説明された。ハスの花の上のガラスの大観音を建立したいのだそうだ。

ガラスの観音はいいな。

お別れして一番大きな水山へ。急な石段を登るか、少し離れたエレベーターが良いかと言われ、迷う事なくエレベーターを選ぶ。ガラス貼りの展望エレベーターで、ダナンビーチのリゾート施設も一望のもとである。大変大きな景観だ。

エレベーターで上に上り、更にいささかの登り、大きな石場他を見る。水山は決して悪くはない景観作りである。

途中ロッククライミングのトレーニングに興じる何人だかの外人達。ヴェトナムに来て外人と言えばわたくしも外人かも知れない。急な登りを登った他のメンバー達と落合い巨大な華厳堂へ。これは大変立派な洞穴寺院で驚いた。韓国の世界遺産吐含山石窟庵より、余程素晴しい。はるか上空から陽光が差し込み中々荘厳である。オーストラリアの人々なのか外国人が多い。日本人観光客はいない。展望台に登り、五行山を見渡す。

全てを公園化する為にふもとの全民家、商店、石細工工場などを移転させている最中である。共産主義国家の計画実行は実に眼をみはるものがある。

全ての土地所有は国家であるの大原理故に可能な事だろう。

わたくしが参加する計画もその事を頭に入れて、資本主義社会では実現できぬ計画案を作りたい。

下りは歩いて石段を降りた。まだまだ足は弱ってはいない。

下に降りてTAXIでダナン市内へ。ダナンビーチの長い景色の中を過ぎ、旧アメリカ空軍基地跡を見ながら走る。巨大な空軍基地跡である。ホテルに戻り、荷物を部屋に置き、道路向いのレストランへ。もう17時前であった。カンビールを飲み夕食、鹿児島の方々他は今晩の飛行機で日本に戻る。夕食を終え帰国される方々を見送り、部屋で休む。何だか一日みっちり動いたので疲れた。昨日の一日を思えば良く体が持っているなと我ながら驚く。

20時ロビーで中村さんと待ち合わせ、少し強い酒でもとなり、リバーサイドのBarへ。これはひどいドライマティーニを飲みつつ、話し合う。色々な今計画を取り巻く状況の事等をうかがう。

中村さんは骨は五行山に埋めると決めているようだ。ライフワークであると言う。

わたくしも月並みではあるが、頑張らねばならない。

ホテルへはリバーサイドを夜風に吹かれて歩いて帰った。22時前部屋に戻り休む。

三月十一日

5時離床。良く眠れた。昨日のメモを記す。やはり旅に出ると記録は長くなる。今朝は7時半にロビーで中村さんと待ち合わせ、再びたっぷりとしたスケジュールに突入する。体調が戻りつつあるので自信を持つ。やはり身体が基本である。

7時前バスタブにたっぷり湯を張ってつかる。今日も一日元気でやりたい。少しばかりの洗濯をして、7時半ロビーへ。中村さんと朝食へ。近くの露天屋台。その後コーヒー店で話す。9時CHAM彫刻博物館へ。恐らくオーストラリア人の客船ツアーの人々なのだろう、大変な人である。日本人はいない。

第一室から圧倒的な質量の彫刻群に息を呑み足が止まる。プノンペンの国立博物館のプレアンコールの彫刻群と同時代か更に古い。

6点のスケッチを得る。充実していた。7つのリンガと呼ばれるアルカイックなリンガ群もあり、これは初めて体験するモノであった。7つのリンガに占なのであろう記号が彫り込まれて興味深い。

4世紀〜5世紀のモノである。11時半迄たっぷりスケッチ。昼食を近くの露天でとりホテルに12時戻る。13時40分ロビーで待ち合わせ人民委員会オフィスへ打合わせに出る予定。

14時ダナン人民委員会外務局事務所。ヒュウ氏と再会。他のスタッフと面会、相談。修了後ダナン大学へ。副学長他に訪問、面談、相談。15時半了。ホテルに戻る。小休後中村さんと外出、ヴェトナム・コーヒー屋で話す。16時半ホテルに再び戻り、小休。

18時半ヒュウ氏にピックアップされて夕食会場のダナンビーチに面した海鮮料理屋レストランへ。ヒュウ氏家族一家と会食。このディナーは美味であった。ヒュウさんファミリーはとても良いファミリーであった。気持も和む。20時了。TAXIでホテルに戻り、メモを記す。旅に出てまだ3日目なのに中身がビッシリで濃い日々を過ごしている。

五行山とDA NANG Artギャラリー&CHAM SCULPTUREの印象が圧倒的であった。只今20時40分熱い風呂につかって休むことにする。

明朝は朝食をすませてから7時45分にはロビーの約束である。

三月十二日

ダナン3日目の朝。5時離床。荷作り。スケッチの数が少ないのにがっかりするが全く時間が取れないので仕方ない。今度の旅は久し振りにカメラとスケッチの併用にした。スケッチに描けないモノもあるので良かった。でもスケッチに勝る記録はない。

帰国したら全てサイトに公開する。今朝は再び人民委員会オフィスへ、そしてひと気の少ないであろう五行山に再び、そして近くの遺跡を見学し、夜の飛行機でホーチミンへ、乗り継いで台北へ、の予定である。苛酷なスケジュールであるが慣れた。

毎日、日本から持ってきて暖めている五行山の博物館計画を頭の中でシミュレーションしてチェックしているが、大方いけるのではないだろうか。わたくしのアイデアの中でも最良の域に在るモノだと思う。作りたいばかりではなくて何者かに作らされるであろうの感じがある。

朝食の麺、及び街角のコーヒー屋で8000ドンのコーヒーを飲み、スケッチを2点得る。人間がやっぱり面白い。人間あっての街である。人間あっての建築であるのと同じように。でもそれを実行するのは容易ではない。

723 世田谷村日記 ある種族へ
三月十日

3時半離床。4時過ぎ世田谷村発。車で羽田へ。羽田国際ターミナル5時過ぎ着。CI0223チェックイン。換金してラウンジへ。新聞を読み、朝食をとる。空港は雨がそぼ降っていて視界も非常に悪い。

7時過離陸、すぐに眠る。只今台湾時間9時15分、あと1時間の飛行である。沢山大判の画用紙を持って出たが、さて描き切れるかな。ダナンでスケッチする時間は明日しか無いかも知れない。細いインクペンでは速力が得られぬから中字用の筆を久し振りに使ってみよう。

仙台の集合住宅計画では和室主体の棟と洋室主体の層を分棟した方が良いかも知れない。少なくともそんな案は必要であろう。日本の東北地方の高齢者用集合住宅だから和風は必須だろうな。畳の部屋にそれでも寝るのはベッドになるだろう。布団を毎日敷いたり、片付けたりは困難だろうから。台所、食堂はコンパクトに出来れば、テラスではなくて小さな庭を作ってあげたい。母がそうだったから。

洋風棟はモダナイズ志向の東北人の棟とする。出来れば一階部分に薬局はせめて欲しいが、テナントの比率をどうするかが問題であろう。あと40分程で台北松山空港に着くので、李祖原事務所のドライバーにこれを研究室宛にFAXしてもらうのを頼んでみる。台北は13℃、天候は曇り。李祖原と1時間程コーヒーを飲めるだろう。

10時20分台北松山空港着、ゲート出たら李祖原が迎えてくれた。彼の20年以上のドライバーとも再会する。大きなBMWで空港近くの李祖原事務所へ。空港の滑走路を一望する良いオフィスだ。李祖原の室で早速建築談義が始まる。わたくしも彼が相手だと思いもかけぬ発想が浮かびスリルなのだ。彼もストレートに突っ込んでくる。ビッグになるとやっぱり話し相手にこと欠くのであろう。オフィスに林立するハイライズ群のプロジェクトを見る。彼のエジプトへの傾斜はとても興味深い。2つ程興味深いモデルに遭遇する。彼の代表作の台北101と同じ位の高さのプロジェクトだと言う。

話し込んでいるうちに、オヤオヤ昼食の時間が無くなってしまった。桃園国際空港へ向う。

車の中で話し込んでいるうちに李祖原のハイライズだけに焦点を当てた展覧会が出来ないかと思いついた。ダナンから台北に戻ったら彼のオフィスで今朝話したような事をレクチャーしてくれないかというので、それは出来ないよ、キチンと準備しなくてはレクチャーはダメだ。思い付きを話すわけにはゆかぬ、などと話し合っている内に彼のハイライズ・プロジェクト(実現したもの、まだ実現していないモノを含む)の展覧会をやったら面白いだろうと考えついたのだった。10本弱くらい、あるいはそれ以上あるのではないか。500m以上が2本、300mくらいのが3、4本、200m台のは沢山ある。台北からヴェトナムへの行き帰りに考えてみよう。

13時過桃園国際空港に着く。李祖原とドライバーと別れて、チェックインしてラウンジに飛び込んでメンとギョーザ等をつまむ。今朝からすでに3回目の食事だ。14時20分、ホーチミン行のチャイナエアラインに乗り、又も機内食、流石に全部は食べるのは控えた。只今台湾時間16時過、ヴェトナム時間15時過、一日が実に長い。16時20分ヴェトナム上空、ダナン近くをとんでいるのではないか。

海岸線が長い。ホーチミンは30℃との事。台北との温度差は20℃にもなるか。

ホーチミン空港16時40分過着陸。ゲートにS+Naの西澤さん、佐貫さんが出迎えて下さる。西澤さんとは昨秋のホーチミン以来である。

歩いて5分強のDomestic Air Lineの空港まで歩いて案内してもらった。

わざわざこの5分強の移動の為に空港まで来てくださったのは実にかたじけない。ヴェトナム国内便空港のレストランでアイスティーと春巻きをごちそうになる。良く良く食べる一日である。二人とヴェトナム事情、そして中国事情等話し合う。若い世代の建築家達がヴェトナムで頑張っているのは頼もしい。成功されん事を祈る。19時過VN1324便でダナンに向けて飛ぶ。少し北に戻る感じである。

先程ホーチミンに着陸する寸前に以前何人かで見学した川の中の媽祖宮(観音島)の浮御島を真上から眺める事が出来て、感銘を受けた。

今、19時40分前ダナンには20時20分頃着くようである。良く飛行機を乗り継いだ一日であった。やはり一日で台北、ダナンのスケジュールは合理的ではあるがリミットだ。

722 世田谷村日記 ある種族へ
三月九日

11時半研究室。各種打合わせ。N社長より仙台の集合住宅の設計の話しとサイトの概略が送られてきたので、すぐにスタッフに伝達指示する。わたくしが1週間程出張なので、その間に少しばかり進めておくように伝えた。1週間あれば出来る筈だ。

学生には学生なりの課題を課す。彼等は1週間で何も出来ぬだろうが、もしやと期待もわずかにするのだ。

アニミズム紀行7のドローイング041、042、043、044を描き込む。

こちらは少し軌道に乗ってきた。お足のエルビスがファラオと会うの図に入り込んでいる。15時半、セキがひどくなり危ないと直覚して研究室を去る。明日は35℃の気候に突入するのだが、少しばかり心配である。18時前世田谷村。荷作りをする。大判の画用紙を沢山持つ。ダナンと台中で少しはスケッチする時間がとれることを望む。研究室にリアルでコマーシャルな住宅のプランを送付する。集合住宅のユニットに、理想型はない。それを伝えたかった。

21時前横になる。明日は早朝3時半起きである。眠れんだろう恐らくは。

721 世田谷村日記 ある種族へ
三月八日

10時15分虎ノ門、文化庁会議室。第一回(仮)近現代建築資料館に関する会議。青柳正規、鈴木博之、笠覚暁、松隈洋、山名善之、難波和彦、文化庁文化部長、長官官房政策課の方々出席、国交省の方々オブザーバーとして出席。

日本で初めての国立の近現代建築資料館の設立に関する会議である。

鈴木博之を座長として活発な議論が交わされた。

12時過了。昼食をとり散会。新宿を経て研究室へ13時半着。

この件に関しては佐藤研吾をわたくしの手足として作業させようと考えているので資料を渡し読ませる。

各種打合わせを手短に。明後日からダナン(ヴェトナム)、台北、台中なのでその準備も。

アニミズム紀行7のドローイング037、038、039、040迄描き込みストーリーを展開する。お足(銭)のエルビスのファルス・ファンタジーである。

アニミズム紀行5、6へのドローイングも改変したい。

16時了。新宿へ遅い昼食。18時半世田谷村に戻る。

『グラフィケーション』NO.179送られてきて目を通す。特集ファンタジーの愉しみ、に目がとまる。ファンタジーの高峰の一つは私見だがJ.L.ボルヘスであろうが、日本的リアリズムからはこの視点は理解されぬだろう。

壮大極る知識の上に築かれた大構築物である。

ハリーポッターの魔法、竜のファンダーとは一線を画するものだろうが、ボルヘスがルイス・キャロルそしてG.K.チェスタートンを好むのには着目したい。

グラフィケーションに柏木博さんの短文が出ている。日本の庭園、重森三玲、小川治兵衛に触れているが、いかな1ページの小文とは言え感心しない。

小文であるからこそ、その人間の知性の水準が露出してしまうのだ。庭園は日本の大地の箱庭(良い意味での)であり、いやが上にも日本の伝統と根深く結びついている。柏木さんの専門であるやも知れぬモダーン・プロダクトの世界とは様相を異にせざるを得ない。かくの如き軽味を表に出した評論は多くの方にこのような問題をがあるぞと啓蒙する意味はあろうが、それ以上の意味は無い。

庭園文化はこのように軽味な論評をする際はもう少し先行者の仕事をチェックするべきではないか。

三月九日

7時前離床。メモを記す。明日からベトナム、台湾での仕事である。いささか気にせねばならぬのが服装なのだ。今年の日本は寒い。でもホーチミンは35℃、ダナンでも25℃だと言う。おまけに明朝は4時には世田谷を発たねばならぬ。まさか半袖で出る訳にもいかぬ。又、台中では媽祖の偉い人、ダナンでもいささかの人々に会わねばならぬ。ネクタイも持参すべきだろう。さすればスーツは?クツは?となってしまう。それだけが頭を悩ませている。ダークスーツは持たぬようにするのを今決めた。アレを持つとクツまで持たねばならぬ。

朝食をたっぷり食べて9時小休。

720 世田谷村日記 ある種族へ
三月七日

正午研究室。諸々の打合わせ。13時よりアニミズム紀行7に032、033、034、035、036のドローイングを描き込み、ストーリーを展開する。14時開放系技術Yゼミ。3月20日に代島さんの家の件で熊谷に行く事になる。

10日からの台湾、ベトナム行で突然李祖原にアメリカ行のスケジュールが飛び込み、媽祖の代表とは李祖原抜きで会う事になりそうだ。どうなる事やらとも思うが仕方ないだろう。

17時前研究室発ストレートに世田谷村に戻る。サイトを全てチェックする。

サイトギャラリー3、「The Architecture of the Forest」をじっくり眺めているうちに猛然たるエネルギーの固まりが出現して一気にDANANG計画の骨子が決まりそうになった。

ほぼ最終形も視えてきた。急いで絵にしないでもう少しモヤモヤ、ガツーンを泳がせておく。子供じみた書き方をしているけれどストレートな表現であるので仕方ない。

三月八日

7時半離床。曇天。曇り空にも実に色んなニュアンスがある。晴天よりは余程複雑である。今朝は9時過に発ち文化庁に出掛ける。昔、早稲田・バウハウスのワークショップ開催の資金の事で霞ヶ関には通った事があるけれど、実に陰気な場所である。しかし役所や病院が陽気であっても困るだろう、仕方ないか。

新聞を取りに出て隣りの工事現場のガードマンのおじさんとあいさつ。ここの現場のガードマンはよく声を掛けてくるので自然に知り合いみたいになっている。建設現場の労働者の人々とはそうはならない。何故かな?同じ建築の世界の住人なのに困ったものである、お互いに。

でも彼等が作る喜びを持って仕事をしているとは思えぬのだな。ジョン・ラスキンのヴィジョンは近代建築のスタイルでは不可能だという事だろう。ここでの近代建築とはモダニズム様式を指す。

庭の梅の樹に又うぐいすが来ているがまだなかない。梅の花は昨年クズの葉にからまれて覆い尽くされた側は勢いが無い。寄生種は恐ろしいモノでもある。気仙沼安波山で藤の花を提案するのを中止したのは正しかった。美しいけれど生態系をおびやかすモノでもある。

719 世田谷村日記 ある種族へ
三月六日

18時東京駅北口のホテル1階で待ち合わせ。東京理科大学の山名善之さんに会う。安藤忠雄、鈴木博之、難波和彦さん達と共に上に上り鳥屋に入り、打合わせ。(仮)国立現近代建築資料館のための会合。明後日に文化庁で会合があるので、その予備会である。先ずはメタボリズム関連の資料から収集する事になりそうだ。20時半了。難波さんと新宿味王へ。難波さん健啖なり。四方山話しに夜を過し22時過了。別れて京王線で千歳烏山へ世田谷村に23時前戻る。

わたくしは車の運転をやらぬので良く歩く方だとは思う、Xゼミの連中といっても鈴木、難波両氏であるが、それは同様である。

が難波さんは職住同居しているので外に出ない時はほとんど歩いていない筈だ。

今日は安藤さんから「1日1万3000歩は歩いてる。東京駅のプラットフォームだって歩くにヨイ」と言われた。憶測するに難波さんは1日150歩くらいの日があるのではないか。今日わたくしのはいているクツを見て「いいクツはいてるじゃない」と言った。彼のクツはわたくしの記憶ではここ2、3年変っていない。1日150歩ではクツを新調する必要は全く無いのだろう。

1万3000歩は無理だとしても、せめて3000歩くらいは歩くように忠告したい。

三月七日

8時前離床。高曇り。昨日予定していた研究室のYゼミを休止して、FAXのやり取りとした。送られてきた「開放系技術」に関する実践方法へのアイデアにわたくしが赤を入れて送り返したものを再読している。

面白いもので40年位も年下の人間とのやり取りはハッとするようなタイムトラベルの如くが時にある。

1、 彼等は向上心があるがそれが野心のスタイルにならない。

2、 妙に自分を取り巻く社会情勢に合わせて動きたがる。

3、 即物的なズバリが無く、アレヤコレヤの順応型である。

以上、良くも悪くもそうなのである。

彼等は間もなくイギリス、ウェールズのワークショップに送り出すのだがイギリスの健全なる保守主義の原点ともいうべき場所でもあるから、その気風に触れてくるのを望みたい。良くウェールズ地方のある種族とでも言うべきに学んでくるように。

できればイギリスの伝統でもある庭園文学とでも呼びたい一群の数冊を持って出かけられたし。

718 世田谷村日記 ある種族へ
三月六日

9時迄眠りこけた。流石に昨日迄の疲れがあったのだろう。

昨日は東京に戻り、15時半頃新宿長野屋で研究室の連中に会い、気仙沼での件を連絡伝達。そして若干の教育的無駄話。若者は飢えてないのが寂しい。カツカツに飢える時が無いと山は登り難いのだが。石山研の優秀な人材はエレガンシーな良さはあるのだが、ハングリーではないのがいかんな。それを時代のせいにしては駄目なのだ。どうせ日本にはロクな未来はない。だからこそ個別な、固有な人間に浮かぶ瀬もある。残りは鈍くてボーッとしてるだけである。残材、ガレキの類だ。でもこういうのは被災地の光景を見ても、人間に会っても、何してもボーッとしてるのは眼に視えているので手の打ちようがない。すでに人材自体の歴然たる格差が発生しているのだ。

烏山に戻り長崎屋に寄り世田谷村に戻った。

今日は少し休むが夕方、安藤忠雄さん、Xゼミナールのメンバーと会う用事がある。石山研のウェブサイトが濃密になって全て読むのに一苦労する。

作家論・磯崎新、開放系技術論の展開を中軸としているけれど、実ワ、ドリトル先生動物病院倶楽部の英文サイト、そして絶版書房交信も力を入れていてこの先の展開は眼を離せないのだ!と言っておく。

12時開放系技術論5を書き終わり、日記共々研究室に送付する。

717 世田谷村日記 ある種族へ
三月三日

正午研究室。明日の気仙沼行準備。安波山鎮魂の森=お色直し100年計画の図面を用意する。明日は山に登って様々に位置出しをしなければならぬ。大変だけれど亡くなった多くの人々の事を想えば頑張らなくてはならない。

アニミズム紀行7にドローイングを入れる。028、029、030、031を描き込む。まだまだあと191冊に描き込まねばならぬ。足のエルビス、おあしのエルビスなんてキャラクター作ってしまったので絵はすすむのだけれど、物語がどうなってゆくのか皆目見当もつかぬのが正直なところである。

アニミズム紀行5、6にも描き続けねばならぬので大いに工夫が必要である。15時了。渡邊、佐藤と昼食へ新宿長野屋食堂。二人共若いのに食欲が強大ではなくなってきた。もっと食わねば駄目なのだ。

わたくしはカキフライ定食1000円をいただく。ここのカキフライは恐らく都内随一である。オカミに立派だネェ凄いネェと言ったら、「しかも広島からのだよ」とえばっていた。えばられると又さらに嬉しいものなのだ。

烏山へ。長崎屋で吉田くんにイカの刺身をごちそうになり、18時世田谷村に戻る。21時前、明日の安波山での行動を頭の内でシミュレーションして、23時休む。

三月四日

4時20分離床。荷作りをして5時15分世田谷村を発つ。東京駅を6時28分の新幹線で発ち、今車内でメモを記している。

車窓の外は小さいけれども美しい雪の峰々。一面雪原である。

これは気仙沼安波山は雪深いかも知れぬ。大変な1日になりそうだ。今日のような現場は若い人に任せなければ本当はいけないのだが、まだ何が起きるか解らぬ。即断即決しなければならぬ事もありそうなので、自分一人でやってきた。臼井賢志さんと話したいとも思ったのだ。

台北の李祖原との気仙沼五十鈴神社の計画を「宝船計画」と命名しよう、せねばならぬと今決心した。

8時過仙台駅着。日本造園協会田中さん迎えてくれて車で気仙沼へ。三陸自動車道経由、志津川、元吉を経る。やはり月並みではあるが津波の惨状はむごい。田中さんより樹木の受けた被害について説明を受ける。自然もやはり守ってあげなければならぬのだ。人口の増加が日本近代の基本であった。自然をも破壊し尽くした。人口減少時代は近代の理屈とは違う思想が必要である。

今日の海は穏やかで美しいが・・・。

自動車のガレキの山、つまりゴミ置場を幾つも通り過ぎる。塩をかぶった自動車のガレキは中国も買わないそうだ。放射能の被爆チェックも厳しいとか。

気仙沼に11時半着く。すぐに旧海の道から安波山を持参の双眼鏡で観察。計画案を具体的にチェックする。

12時前安藤忠雄事務所の十河さんと海の近くでバッタリと会う。共に商工会議所へ。臼井賢志会頭と再会。あいさつの後寿司屋旭寿司へ。昔お世話になった店である。顔見知りのオカミさんが顔を覚えてくれていた。

13時過商工会議所で気仙沼市緑化推進協議会畠山章八郎氏。地元の造園屋八嶋園の菅原勝氏、気仙沼市都市計画課村上博課長、緑化推進係長上野健児氏、気仙沼市産業部観光課長加藤正禎氏他総勢10名で相談する。単刀直入な意見も出され良い会であった。

何しろ安波山へ登らねばとの事で一同山へ登る。

現場で検討の後、三名を山の植樹現場に残し、残りのメンバーは海港の桟橋へ。港祭りの会場から安波山を再び双眼鏡で眺めて、山に残った人間が動き位置出しするポールを眺めるも、仲々むずかしい。

安波山に樹木で描きたい円の中心ポイントを出したいのだが仲々上手くいかない。しかし、皆で協力して何とか仮のポイントは出した。

再び山に登り、滝田栄の地蔵堂の建設予定地を見て、残したメンバーと合流、16時半商工会議所に戻り議論。

我々の案を少し修正しなければならぬようだ。

安藤忠雄事務所の十河さんも色々と頑張ってくれた。

17時半皆と別れ臼井さんと気仙沼湾の五十鈴神社へ。臼井家の妙見様を間近に眺め境内に上る。恐らく5月に迎える事になるであろう媽祖グループ代表を案内する場所の下見。この神社は気仙沼湾の最重要な場所である。下の参道、海の廻廊は津波で破壊されている。浮見堂も無残に海へあおむけになっている。海水の出入りする小さな鍾乳洞を見る。

ワイマールのゲーテ設計の水の洞窟を思い出した。

あんな風に復元できたら良い。

我々が提案している水族館の位置も再びその眼になって見直した。

薄暗くなり、ホテル観洋にチェックイン。

臼井さんと食事に出る。焼鳥屋へ。積る話しをして20時半了。

ホテルに戻り、温泉に飛び込み広い部屋の一角の小部屋で休む。

三月五日

ウトウトとし続け寝過ごした。7時半過飛び起きて荷作り、すぐに朝食をかき込む。凄い雪である。昨日の安波山現場行で良かった。1日ズレたら不可能であった。

8時15分臼井さんにピックアップされて8時半気仙沼駅へ。

42分の一ノ関行に乗り、今車内でメモを記している。10時に一ノ関に着くようだ。

窓の外は一面の雪景色である。

只今11時半鈍行列車で一ノ関を発ち一路仙台へ向っている。一関ではベイシーに連絡してみたが、菅原は店にも家にも居ない。マア今日はあきらめようと鈍行に乗った。今田尻という駅。「千本桜と渡り鳥の楽園」とある。

小牛田(こごた)という駅でワンマンカー運転ではなくなるようだ。ここは立派な、それ故につまらぬ駅である。

老婆が一人小さな買物の手押し車によりかかって向いのプラットホームを歩いている。回送電車に乗ろうとドア開閉の押しボタンを押したが、勿論開くわけもない。すぐにあきらめてベンチに座り込む。もう少し先に風除けの箱状待ち合い室があるのだが雪風に吹きさらされるベンチに居る。寒いだろうに。

松島、塩釜、国府多賀城を経て仙台。12時44分の新幹線で東京へ。

鈍行で少し休めたし、乗り継ぎもドンピシャであった。東京には15時前に着く予定。

そうか、明日東京で安藤忠雄さんに会うのだった。

716 世田谷村日記 ある種族へ
三月二日

正午研究室、雑用、学生との相談他。アニミズム周辺紀行7のドローイング021から027まで描き込む。両備ホールディングスより「日本一のローカル線をつくる」(小嶋光信著 学芸出版社1900円+税)送られてくる。

小嶋社長とは共にギリシアを旅した。今の活躍振りを知るに良い本のようだ。途中寄り道をして18時半世田谷村に戻る。

今日からウェブサイトに「開放系技術論」の連載がONされている。

まだ編集がクリーンではないけれど、いずれ整理されるであろう。

気仙沼行、台北行、ベトナム行の準備をいささか。

開放系技術論3を書く。まったく日記のように論を展開し、同様にデザインも展開できたらどれ程幸せであろうか。今はそれに少し近いか。

それにしても頭がやたらに疲れるような気がする。たいした頭ではないなわたくしのは。23 時半横になって、さて今夜の睡眠薬本は何にするか。

三月三日

6時45分離床。今日は暖かくなる筈であるがどうかな。

9時20分朝食を挟んで開放系技術論4を書き終わる。

勿論この論は研究室の代島さんの家他の担当者に向けても意図的に書いているのである。良く読んで追いかけて来て欲しい。

この論をキチンと編集しながら走ってこいと言っている。

陽光が差し込んできて、やはり今日は暖かくなりそうだ。天気予報は人工衛星の情報をベースにしているから最近は実に良く当たるのだ。

明日は又寒いらしいが、気仙沼に出掛けて山にも登らねばならぬので少し辛いかも知れない。

715 世田谷村日記 ある種族へ
三月一日

12時過研究室、すぐに予約をいただいているアニミズム紀行7へのドローイング作業。他雑打合わせ。13時代島さん来室。熊谷の実家前の土地に住宅建設、設計の依頼。引受ける。

この間の事情、詳細はプライバシーを犯さぬ範囲で「開放系技術論」に公開してゆくので、参考にして頂きたい。何の参考か?勿論、良く生きる為の参考である。15時半相談了。アニミズム紀行7へのドローイング作業に戻り020迄のドローイング、及び物語り作りにいそしむ。

17時半了。地下鉄で新宿へ。味王で遅い昼食。及び相談。

18時半了。皆と別れて烏山へ。19時半世田谷村に戻る。

「開放系技術論」と「作家論磯崎新」が並走することになり、又絶版書房交信、他も進行しているので、実ワ極度に過密スケジュールになっている。

「開放系技術論」01「作家論・磯崎新」10共に本日3月2日にはサイトにONされる予定である。

21時前、「開放系技術論」2書き進める。22時了。

「開放系技術論」1の注釈等が送付されてくる。面白い。

三月二日

7時半離床。今日は又寒い空に戻ってしまった。こんな日は昨日来たうぐいすは何処で寒さをしのいでいるのだろう。

昨夜ONされた「作家論・磯崎新」10を昨夜に続き再読する。

編集作業は10迄ようやく辿り着いたが、わたくしの生原はすでに15迄進んでいるので生原編の提供者としてはまだまだゆとりがある。尻に火がついている訳ではない。

当然この作家論は書きおろしである。それ故にずうっと流れが途切れない。

だから章立てが難しい。いずれ再構築する際には章立てが必要になるだろうがずうっと切らないで続けてしまうのもありかな。

昨夜送られてきた「開放系技術論」1の注釈群を読み直す。

うぐいすが三羽梅の木に来た。寒くてもやはり春は来ているのだな。

9時前真栄寺に電話する。昨夜来全く連絡がとれず、もしや住職倒れたかと心配したのだが、泊りがけで葬式に出掛けていたとの事、安堵の胸をなでおろす。

探しものをする為に室内の発掘作業をしていたら別のモノが出てきた。宝探しだな。

世田谷村日記