石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 1 月

>>2月の世田谷村日記

691 世田谷村日記 ある種族へ
一月三十一日

12時前研究室、今日の会議用の模型他をチェック、手直しを指示。アニミズム紀行7が入稿なので最終チェック。ほぼ満足する。今度の号は出来が良い。13時半竹中工務店の面々4名来室。打合わせ15時半過了。その後打合わせを続行する。17時了。研究室を去る。

21時半世田谷村に戻る。

二月一日

7時半離床。新聞をみたら小さく”「袋田の滝」が6年振りに全面氷結”と出ていた。全高120M巾73Mの滝が氷瀑となり、東日本大震災の影響で人出が落ち込んでいたが、これがきっかけで又にぎわって欲しいとあった。

馬場昭道さんが心配で電話したらもう今日は出掛けているとの事で安心した。

奥様が「大丈夫でしょう。でも視た目が凄いから周りが心配しますよね、でも言っても仕方ないから自分で直すしかないでしょう」との事。女性は強いなあ。

赤鬼みたいな顔になっているのだが、坊さんが赤鬼というのもどうなんだろうと余計な心配もする。

山田脩二と連絡するに、チョッと体が弱ってきたとの事である。誠に喜ばしい。淡路の瓦屋は全滅状態との事。いかな山田脩二でもどうにもならぬ事のようだ。

地場産業の典型でもある淡路瓦、土の産業の未来は矢張り無いのであろうか。

山田脩二には瓦というよりも土の本、場所のアニミズムを写し撮る仕事を終りに近くやってもらいたいものだ。とても重要な記録になる筈だ。

690 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十九日

只今上野駅の地下道路脇のその名もレトロ喫茶ならぬWIREDCAFEで間違って頼んでしまったアイスドリップコーヒーを飲んでいる。上野駅の妙にピカピカせずに、でも薄汚れた感じ、バンコクの中央停車場程格好良くない感じは好きだった。しかし久し振りに来た上野駅にはスターバックスCoffee他の小洒落たパン屋、ケーキ屋等も、勿論入り込み、しょうがないなあと逃げまどい、ここに落ち着いた。しかし、ここから眺めやる地下道路は汚いだけで何の雰囲気も在るわけが無い。どうしてこう迄してピカピカツルツルが嫌いなんだろうと考えてしまう。

12時のスーパーひたちで水戸へ。13:04水戸着。途中水戸芸術センターのタワーが偕楽園の庭園の松越しに視えたのが印象的であった。実ワ初めて視た。

水戸駅の改札口で馬場昭道、谷広海両氏と会う。水郡線に乗り換える。

車内で大洗の漁師・小泉勝男さん78才に偶然出会う。大洗漁港から袋田温泉へ2泊の小旅行の途次であった。78才の引退した漁師で息子が跡を継ぎ、その息子が金をくれて時々ブラブラしてるのだそうだ。奥さんは10年前に交通事故で亡くなった。

14時半前袋田に着く迄話しっ放し。こんなに楽しいのは初めてだと言う。そりゃお互い様でこちらも楽しかった。旅は一人はやっぱり駄目だ話し相手がいない。と、しみじみ述懐する。まことに正直な人である。

袋田駅には旅館のバスが出迎えて、小泉さんも同じバスへ。これも偶然同じ旅館であった。

旅館に着いて、滝川沿いの露天風呂へ。ゆったりと休む。川向こうに見事な樹木があり、明日スケッチしようと決めた。

18時半迄部屋で横になって休む。スポーツ日本の清水さん来る。再び温泉へ。19時夕食。食堂で小泉さんに再び会う。勿論同じテーブルに誘う。

又も、色んな話しを聞けた。20時了。4人部屋で就寝する。

一月三十日

0時4人共目覚めて温泉へ。起きては温泉へ、寝てるヒマも無しを繰り返す。6時半夜が白々と明けてきたので昨日の樹をスケッチする為に遠い露天風呂へ。極寒であった。でも一点描いた。

部屋に戻り、すぐ温泉につかり、8時前朝食。たっぷりいただいた。

10時半迄部屋で眠る。11時袋田の滝へ。どうせつまらぬ名所だと思っていたら滝は全て氷結していてこれは見事なものであった。イグアスの滝の近くに住んでいる(?)谷さんもこれは凄いと感動していた。見学用の長いトンネルで第一観瀑台。更にエレベーターで第二観瀑台と施設も大がかりである。いいモノ見たと帰り径は吊り橋を渡って河の北側の細径を下る。疲れた頃に「よりたい屋」なる絶妙な名の茶屋があり、清水さんの車を停めてもいたので寄る。ビールと住職は甘酒。

一路水戸へ走る。水戸では偕楽園、水戸芸術センターを見学。偕楽園の梅は一輪も咲いていないのが良かった。芸術センターはタワーだけを見た。このタワーは磯崎新の観念が氷結したものであるのは解った。陽光の動きに反応してタワーの表情が時にギラリと反応するのであった。このギラリは磯崎の観念のギラリである。磯崎新論で触れたい。

芸術センターは月曜休館で地下駐車場に車を停めたので近くのうどん屋で昼食。なべやきうどんがうまかった。清水さんは毎日新聞時代ブラジルには4回程アマゾン取材で行ったそうだ。

水戸駅で千葉へ行く谷さんと別れる。高速道を取手方面へ走る。17時前天王台で馬場さん清水さんと別れる。18時過新宿味王で打合わせ、絶版書房の事等。

21時半世田谷村に戻る。気仙沼の臼井賢志さんと長電話。復興計画について。

ヴェトナムからメールが沢山入っていた。

一月三十一日

8時離床メモを記す。馬場住職は大丈夫かなと気になる。世田谷村のつらら滝は消えていた。袋田の氷瀑は北向きだから凍てついているのだろう。いかにも日本的な滝であった。しかし袋田の滝が凍ったのも良かったけれど大洗の漁師・小泉勝男さんは更に良かった。どうも、わたくしはモノよりも人間の方に興味を持ち過ぎる傾向があるようだ。

それで芸術家にはなれないのであろう。

昨日、水戸芸術館で見た大きな石がテンションワイヤーで宙空に浮いていたのは悲惨だった。恐らくはDNAモデルが空へよじれ昇るのを磯崎から聞いて芸術家が重力に逆らう如きの発想をしたモノなのだろうが、誰だか知らぬがこの芸術家は計算間違いを犯した。ルネ・マグリット風の巨大な石を人造で作って中庭に転がしていたらDNAの塔と対峙できたろうし、少なくとも低層の建築部は喰えたのに。あんな石を吊ったって、人々は大張力橋をもう見慣れているから何の感動も無いだろう。

689 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十八日

9時40分卒計発表会会場。54組の卒計発表を、昼食を挟んで延々と聞く。

アニミズム紀行7のスケッチレイアウトに手を入れ、文章チェック。表紙文字デザインにも手を入れる。16時半途中で抜ける。地下鉄で銀座へ。

TSビル2階・気仙沼応援スペース着17時半。間もなく谷広海さん到着。再会を喜ぶ。18時半ブラジル大使館シムズ・シルビアさんのあいさつに始まり、実行副委員長の古市徹雄さんあいさつ、そして谷広海さんの気仙沼応援講演「ブラジルに生きる」始まる。20時過迄。質疑応答をその後。

山形から長澤社長、谷さんとビアホールライオンに出掛ける。長澤さんの秘書が中国人女性、ビジネスパートナーが韓国人女性と国際的な顔触れになった。

22時、お先に失礼する。有楽町迄、夜の銀座を歩き山手線で新宿経由世田谷村着23時半。

一月二十九日

5時離床。メモを記す。昨夜の谷さんの話を振り返るに、ブラジルというこれから前途洋々の国と前途亡々の国日本の違いを良く浮き彫りにしていた。

ガンバレ気仙沼というより、ガンバレ日本人という風があった。

気仙沼の中学生位に聞かせたかった。話の締めくくりの気仙沼復興プランのアイデアは要約して気仙沼商工会議所に送りたい。

今日のスケジュールは朝8時に昨夜日航ホテルに泊まった谷さん、馬場昭道さんの体調を尋ねる事から始める。

知り合いで五体満足はそれこそ珍しくなった。でも今の日本と同じで、それなりにやってゆかねばならんのだろう。

8時やっぱり我孫子・真栄寺に戻った馬場昭道さんに連絡。元気ですよ、楽しみにしていたんだから行きますよとの事。何処へ行くのかは知らぬ温泉の事である。住職は宗教家だから死は全く恐れていないのは知っている。でも、これは温泉特攻隊である。あの身体で良く出掛けるなと思うが、坊さんがそうするのだから、ついてゆくしかないのである。水戸の方らしい。うちの世田谷の滝の落口に鳥がとまって、つららをついばもうとしている。

688 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十七日

14時過ジャン・ドメニコ氏来室。ヴェトナムでお目にかかったイタリア人。イタリア人らしからぬ(失礼)猛烈仕事人間でとても積極的な人である。李祖原に紹介する事にした。

15時アニミズム紀行7の編集ミーティングを再開。できるだけ細部にわたり眼を通すつもりで仲々エネルギーがいる。スケッチ群のレイアウトのやり直しを指示する。スケッチはグラフィカルな飾りではないのだから、そのレイアウトも出来るだけの考えの筋道を反映しなければならない。建築設計と全く同じなのだ。

表紙字体、裏表紙デザインにも手を入れる。222人の人達に大事にしてもらいたいのだ。

昨年の韓国旅行以来遠ざかっていた韓国料理を食べて世田谷村に戻り、アニミズム紀行7の原稿最終チェック。脚注の全てに目を通す。注釈の水準は高い。時に舌を巻く断片がある。必読である。

一月二十八日

4時半離床。アニミズム紀行7の原稿に手を入れる。6時了。メモを記す。

今日は卒計の講評会と、ブラジルの谷さんの講演会があるので今のうちに仕事をしておかねばならない。

687 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十六日

12時半長谷見雄二先生を訪ね、プロジェクトの件参加を依頼する。

防災の専門家が必要である。いささかの打合わせ。アイデアらしきをのべる。14時半卒業計画採点。16時半修了。研究室に戻り、模型等をチェック。18時前発地下鉄で品川の大林組へ。

19時着3年設計製図の慰労会。早稲田建築の若いOB、OGも集まっていた。

21時散会。22時過世田谷村に戻る。

難波和彦先生のXゼミナールへの投稿を読む。実はわたくしの作家論磯崎新は5に於いていささか生な小事件を書き述べてあり、そこに難波先生の実に若い頃のパートナーでもあった石井和紘に敢えて触れている。石井和紘と磯崎新の関係も事実だけは知りたいので難波先生も書きにくいだろうけれど、これも歴史の細部だと考えて教えていただきたい。その先には丹下健三と磯崎新の歴史的関係につながる何かがありそうだと考えている。さらに先には東大の建築学科と都市工学科さらには、池辺陽がいた生産研の各研究室の関係にまで踏み込まねば磯崎新は書き切れないのは視えているのだが、これはいかにも厄介である。他人の奥の院の台所でカレーライスを作っている接木の擬木になりかねぬし、要らぬ波風を立てるばかりやも知れない。

一月二十七日

7時半離床。メモを記しボーッとしている。作家論磯崎新は5まで書いてしばらく休む。少し考えねばならない。ルビコン河を渡るか渡るまいか、しばし熟考したい。

686 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十五日

滝見にもあきて、さて出掛けようとしたら、小川くんから久し振りに電話があった。実は日記には書けなかったが、彼はとても気楽な入院どころではなく、ここ1週間「飛んでた」つまり一種の仮死状態であった。それは知っていたが、3日前にようやく普通の病棟に戻ってきた、つまり死地を脱したのである。もう大丈夫か?と聞いたら大丈夫だと言うので、そりゃ良かった大変だったなとねぎらう。長崎屋の連中によろしく伝えてくれと言われた。三田さんには電話迄もらっちゃってと言う。それを聞き、これは大丈夫だと確信して日記に記すのである。大丈夫だ、いくら書いても平気そうだと思えなければ、日記等には書かない。他にもいささか心配している人もいるが、身体万全を知ってからガツーンと書く事にしたい。

そんなわけで予定を変更して長崎屋へ出掛けて小川くんは元気になったぞと三田くん他に報告しよう。オジンも昨日、これまた病院から退院して店に復帰しているだろうから、チョッと顔を見せて喜ばしてやろう。しかし、小川くんは病院に居る方が人間が謙虚になって良いのではないか。と憎まれ口。尼寺へ行け、ならぬ病院に戻れと、退院したら又ケンカばかりだろうから言ってやろう。と長崎屋に寄ろうとしたらのれんが出ていない。裏玄関をたたいても何の応答もない。仕方ないそれでは宗柳で昼をやるかと宗柳へ。何とオバンとオジンがチョコンと居るではないか。どうしたの?と尋ねれば退院が1日遅れて今朝になったとの事である。

「でも、オヤジすっかり病人の顔になっちまったなあ。早朝散歩でもするか?」と出来もしない見栄を張るも、「無理でしょう、暖かくなる迄は」「そうか、じゃあ新緑になったら高尾山行こう」「あそこは日本で三の指に入る名山です、是非とも案内しましょう」

長崎屋は今日は休むが、明日26日からは堂々開店する。しかし、これはオバンが大変そうだ。道が凍って滑りやすいのでオジンを店まで送り届ける。ビール一杯だけ飲ませろと言って叱られていた。これなら、こちらも大丈夫そうだ。皆と言うべきか、中々に人間はしぶとく頑張ってる。心強い。わたくしもまだまだジャリだ。おすそ分けをいただいて頑張りたい。

谷さんの講演会の人集めは大丈夫かな。その際にはわたくしも口上を述べて気仙沼応援絵葉書を売りたい。

一月二十六日

7時過起床。「作家論・磯崎新」を書き進めてからスケッチ作業が進まなくなった。これではいけない。でも人間の能力には限りがあるので、わたくしの才ではこれが自然なのだろう。

10時前、「作家論・磯崎新5」を書き終りXゼミナールに投稿する。注釈を入れたり、間違いを正したりの作業が多いのでこれはやはりわたくしのサイトでやった方が合理的なのでそうしている。

小川くんから電話があって、大丈夫なのが自分でも解ってからヒマを持て余しているのだろう。無事退院されん事を祈る。

685 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十四日

「作家論・磯崎新4」を書いてXゼミナールに投稿し、16時半研究室で竹中工務店と打合わせ。18時了。サイト編集の事等打合わせして去る。19時半世田谷村、ブラジルの谷さん日本着との事。28日の講演会以降30日まで御一緒するので楽しみである。

「世田谷式生活・学校」のクリーンエネルギーバザールは少しずつリアルになっていると渡邊助教より報告を受ける。

夜道は凍てついて歩くのに少し危ない。転ばぬように用心用心である。

一月二十五日

8時過離床。メモを記す。世田谷村の世田谷の滝が凍りついて不思議なつららとなり美しい。世田谷の滝とは何の事はない、家の屋上に降った雨水を放水するトヨから流れ落ちる水しぶきなのである。であると言う程のモノではないのである。その水しぶきが梅の木の枝振りに氷結する。氷の樹が出現する。それが朝の光に輝いて美しいのだ。洗濯物を干してる、その隙き間からのぞき見るのも誠に高雅な風あり、洗濯物越しの滝は恐らく日本広しと言えどもわたくしだけが眺めているのではないかと一句詠む。前口上も作る。

世評高き世田谷村の滝、凍りつき見事な樹氷現われたると聞き山上に登る。香炉峰の雪の伝を思い起こし、やぐらによじ登りすだれならぬ干し物を巻き上げて眺めやる。何ゆえに山上に干し物ありやといぶかしむにこれは天狗の衣ならんと人の言う。薄汚れた干し物なり。天女の羽衣とは隔世の趣なり。

ホロホロと 霧散下して 干しするめ

俳聖の句を頭に使いながら何故干しするめに落ちるのか我ながら憮然として孫の手で背中をかく。

これがまあ 終の棲家か つらら滝

詠ずる句、皆何かの下手なもじりなるは仕方なし。わが才は大海に非ず小井戸也。残念至極。

684 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十三日

12時長崎屋で佐藤くんと会う。主に彼の研究計画について話し合う。良いところに眼をつけているのでうまく育つ事を望む。アニミズム紀行7の小エッセイも読んだ。書き直せと言う前に書き直していたのが良い。

14時頃了。しばらくグズグズしたらオバンがいきなりわたし買物行くからチョッと留守番してと言う。ああいいよと言うには言ったが、客がやってきてラーメンくれと言ったらどうするのだろうか。幸い客は一人でビールを飲むだけの客であった。金は置いてってくれと店番らしく威厳を持って言った。チョッとの買い物が17時になり、ラーメン屋で「作家論・磯崎新」を書きすすめた。オバンが戻り世田谷村に戻ろうとしたら、家の前に男がウロウロして、どうやらわたくしを待っている。何者かと聞けば東京新聞社会部の土屋善文くんであった。気仙沼銀座の取材を受けて、気に喰わぬ奴だったので取材は応じないぞと言った男だ。それが余程腹に据えかねて何か言いにきたのであった。

オー、良い根性してるじゃないかと、ラーメン屋に戻り、酒をくみ交わす。話せば悪い奴はそうはいない。又会おうと別れ、再び世田谷村に戻る。

一月二十四日

7時半離床。雪が積っていて陽光が輝いている。「磯崎新論」書きすすめる。9時半、これ位にしておこうと中断する。ズルズル書くのは良くない。興が乗ってもその気持は押えたい。磯崎から学んだ事だなこれは。

683 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十一日

午後西調布で私用の後、世田谷村に戻り休養する。何もせず。橋本平八『純粋彫刻論』を読む。文章は練れていないが書こうとしている内実は明白である。読了してから感想を記したいが、伊勢神宮近くの山里で制作と思考を続けた、これは実にまっとうな彫刻家であり、日本彫刻の起源を古代のはにわと装飾古墳内の線描であるとする知性の持主であった。はにわの円筒状のかたちに空けられた目の穴=空虚が彫刻内と外とを結ぶ回路である。物体の内と外とを関係づけるのが彫刻だとの認識があった。神の姿を人形にするのが日本の彫刻であり、人の姿を神の姿にするのが西欧の彫刻であるの類はいささか乱暴であるような気もするが、たった一人の思考で辿り着いた世界には肉声が響いている。ゆっくり読み進みたい。

一月二十二日

9時半離床。「作家論・磯崎新」を書き継ぐ。磯崎新3まで書き進み、Xゼミナールに投稿する。3の注釈*は今のところ1件であり、これは自分で私見を書いた。

14時中断、頭が疲れてもう限界である。スケッチ作業に移ろうかと考えるが、スケッチもそんなに甘くはない。手が動きそうにないので長崎屋で大相撲TV放送でも見に出掛けるか。

長崎屋では皆年寄りばかりで「俺ほんとにする事なくって、だから来週からまた務めに出る事にしたの、今週が本当に辛い。娘が旅行に行っちゃって金置いてくの忘れちまって、カードは取り上げられるし、殺す気なのかって」なんて話しの聞き役を務めているだけだが、これが妙な面白味があるのだ。この人間は昔、京王線にコツンと頭をぶつけたらしい。良く死ななかったものだ。黙って店の隅で飲んでいれば実に学者かこの男は、と思うような風格があるが、酔ってしゃべるとこんな具合である。今日は彼の酢についてのレクチャーをうかがった。

ほうれん草におかかがたっぷりかかっているのに、酢をたっぷりかけて、しかも前に座った二人の男のそれにもかけてしまい「何だよコレワ、こんなモノ食えるか」「イヤ、イヤ、食べなさい。酢は体にいいんだから、コレステロールも血糖値もすぐ下がるぞ。俺なんかメシにもかけるぞ」「寿司じゃあるまいし」「酢メシというのが秋田にある」「嘘つけ」「イヤ新潟だったか」。興味をそそられて一口いただいたら、仲々の味であった。それからマヨネーズの話、味の素の話と続き、当然わたくしは口も挟まず聞き役を続けた。

競馬とパチンコの話しは、わたくしは全く解らず、全く興味もなさそうだと言うのは知れていて、その話しは完全にわたくしを無視してなされるので有難い。今度競馬場いきましょうとさそわれてはいるが、断固お断りしている。これで競馬になまじ通じてしまったら、寺山修司や山口瞳、そして嵐山光三郎みたいな嫌味な人間になっちまうだろう。

阿佐田哲也は岩手県一関で亡くなった。彼は麻雀であったが本物のギャンブラーであった。ベイシーの菅原の言である。阿佐田さんはベイシーと言うよりも菅原正二の人柄、風格が好きで、それでベイシーのある一関に独り引越したのである。ベイシーの壁に何処かに出掛けてチョッと掛けとくからの風情で白っぽいが夏のモノではない阿佐田さんらしい身の置き処がないようなジャケットがしばらく掛けてあった。でもしばらく掛けてあっていつの間にか失くなった。阿佐田さんみたいにフッと居なくなった。その間合いが実に良くって、菅原はえらい男だと再び知った。

でも、わたくしは阿佐田哲也に会う事は無かったが友のような気持ちがあるのはそのせいだろう。女優の名を忘れた方が良いだろうからBとしよう、独りでフラリとやってきて阿佐田さんが壁に残した小さなサインを眺めて、しっとりと泣いて帰ったの話しもある。そんな事も思い出した。

世田谷村に戻り夕飯に酢をぶっかけて喰べた。研究室とFAXのやりとりをして、今日はもう休みとする。絶版書房交信9、10、11、12迄書く。今日はもう完全に頭が言葉の頭になってしまっている。

一月二十三日

8時過離床。メモを記し、GAギャラリーの為の原稿も書く。

10時了。研究室に送附。

682 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十日

13時作家論「磯崎新論3に進む前に」書いてXゼミナールに投稿する

16時研究室でわたくしの作家論編集の混乱について相談。

この編集他を佐藤くんに一本化する事を決め、又オリジナル手書き原稿の保管者とのダブルチェックとする事にした。

気仙沼、世田谷等々の実務打合わせ、五月女くんに「ギャラリー3」の時間をあと20秒程長くしてくれと指示。学生の相談を2人。

18時稲門建築会新年会。沢山の方々が大会議室に溢れた。

池原義郎先生に久し振りにお目にかかる。先生は耳が遠くなられ風の音しか聴こえないんだとの事。わたくしも耳がかなり遠くなっていて、会議等のイヤな話しはほとんど聞き取れぬので誠に都合がいいのです。とお話ししたらイヒヒヒと笑われた。何だ聴こえているじゃないか。

菊竹清訓さんをしのんでスクリーンに作品、スケッチ等が映されていた。スケッチは良く人を表わすと思うが、とても真面目で律儀なものであった。

小スピーチをさせられ、すませて宴会場を抜ける。

20時過新宿味王で夕食をとる。22時頃だったか、おわり去る。

京王線に乗り目をさましたら、何だか見慣れぬ風景で、又やったかとどこかの駅に降りた。幸いまだ上りの電車があり24時過烏山着。

無事世田谷村に戻った。

一月二十一日

8時過離床。コンピューターをのぞく。自分のサイトを読んだり、視たりに大分時間がかかるようになった。9時過鈴木博之先生に連絡して色々と教えていただく。

先生も少し耳が遠くなったとおっしゃっているが全くそんな風は感じられぬ。

何だ彼も聞きたくない話を聞かない耳なのではないかと知る。

年を取るとそれなりの知恵がつくのである。

わたくしも来週からほとんど耳が聞えない状態に落ち入る事にしたい。

わざとスレ違い会話を続けて、疎んじられる、そういう人間にわたしはなりたい。

681 世田谷村日記 ある種族へ
一月十九日

9時半新宿で佐藤和則さんと会う。わたしの諸々の唐桑ものがたり計画を話す。それはやっぱり元唐桑代表ですからわたしが窓口になりましょうと言ってくれた。10時半了。彼は三陸海岸・唐桑に去った。11時過研究室。サイトの「ギャラリー3」がオープンしたのでのぞく。のぞき方を教えてもらわないとわからなかった。よく出来ていて面白かった。チョッとピカソのベラスケス風の感じがあって、ギャラリー1、ギャラリー2とは全くちがう。最初の展示物は古いモノではあるが捨てられずにズーッと大事に持っていたものだ。

12時半教室会議学科将来計画について。久し振りに発言する。

14時過退席。14時半竹中工務店の方2名来室。15時了。15時半慶応大学の女学生来室。今春より朝日新聞社に記者としてつとめるそうだ。

中学1年生の時に毎日新聞の佐藤健最期の仕事、「生きる者の記録」という癌との闘いそして死迄の手記を読み感動して新聞記者になったとの事。

近頃の学生には稀な純な気持を持つ人だ。佐藤健の関係者にインタビューして廻っているとの事。わたしも心動かされたが、それは胸に秘めて色々と話した。

話しているうちに色々と思い出して辛くなったが、思い出せる事は話した。かくなる人間が出現し新聞記者を志すとは、佐藤健の人徳としか言い様が無い。

もしも、は無い世界だが生きていれば、大変に自慢してわたしの処に先ず来て「お前はこんな人材育てているのか?どうなんだ、アーン」と吹いたであろう。

実はわたしの研究室の卒業生には数名新聞記者になっているのが居る。

アレも佐藤健の影響があったのだろうか。

自業自得大明王の位牌を持って世田谷村に現われて、俺死ぬからなとエバッたのに会った人間もいるのである。忘れないで欲しい。誰かが思い出す度に人間は実に生き返るのである。それが歴史の基底である。

でもアイツが生きてくれていれば今のわたしにも随分力になったろう、もう少しマシな人生だったろうと思ったりもする。

慶大生には、これは自分でも良く書けたという記事が書けたら必ず送ってくれるようにと約束させて別れた。いい人物であった。

久し振りに眼が澄んだ若者に会えた。こういう科白を吐くのも佐藤健への手向けの花である。アイツの「究極の家」は建てたかった。

18時過新宿長野屋食堂で夕食。ここのカキフライは実に上等である。値段も含めて都内随一ではないか。

そう言えば実に新大久保の近江家は佐藤健が教えてくれた店である。

生きていれば長野屋もきっといち早く見つけ出して、二人で昼からグダグダしていたであろう。

20時過世田谷村に戻る。

一月二十日

8時半離床。メモを記す。サイトの「ギャラリー3」をのぞく。五月女の能力は捨て難いものがある。何とか飛躍させたい。

雪が降っている。

Xゼミナール、「磯崎新論」書き進める。編集は任せているのでわたしの論の切り方、他が少し自分と考えがちがうので編集方針を尋ねなくては。

680 世田谷村日記 ある種族へ
一月十八日

5時半離床。6時20分発新宿へ。7時竹中工務店A氏と会う。

7時半迄打合わせ。8時過烏山に戻る。駅前のコーヒーショップでXゼミナール「磯崎新論」を書く。9時世田谷村に戻る。11時前研究室とFAXのやりとり。電話での確認など。絶版書房通信6を書く。これは短文として続けるつもりだ。

16時過銀座TSビル、東日本復興応援スペース。臼井賢志さんに会い打合わせ。沢山の方にお目にかかる。

滝田栄さん夫妻に会う。浅草の飯田さんもいらした。

16時半気仙沼の八幡太鼓の子供達20名程の演奏始まる。20年も昔であった。臼井さん達と八幡太鼓の子供達とロンドンに行った。ビクトリア&アルバートミュージアムのオープニングを演じてもらった。チャールズ皇太子、浩宮皇太子も列席した。

大変な評判になって、ハイドパークで10万人の人々の集りでも演じた。

なんと今宵の八幡太鼓の子供達、小さな可愛い子供達は、その20年前の子供達の子供達であった。太鼓の先生にも久し振りにお目にかかった。

20年のタイムスリップであった。しかし見事な演奏である。八幡太鼓は神様の、そして神様への太鼓なのですの説明がなされた。

一生懸命な子供たちの演技にはアニマが宿るが如くであった。

19時半宴たけなわの会場を去る。広い会場がほぼ満員の盛況であった。

1月28日の谷広海氏講演会は本日正式に駐日ブラジル大使館の後援となった。

20時過、唐桑元町長・佐藤和則さんと新宿味王で会う。

彼は1988年からの唐桑臨海劇場実行の盟友である。

つもる話しを22時迄。

23時前世田谷村に戻る。

一月十九日

6時過離床。メモを記す。昨夜臼井さんから顔董事長、気仙沼招聘のオフィシャルレター文案を手渡されたので、今日英文、中国文に訳して李祖原に送るといういささか厄介な仕事をせねばならない。8時東京に居る佐藤和則さんに連絡して新宿で会う予定とする。古い友人は宝物である。

679 世田谷村日記 ある種族へ
一月十七日

9時半世田谷村発。10時半研究室、渡真利島計画模型最終チェック。

程々のモノに仕上がっていた。たたいた甲斐があった。11時ミーティング。昨日の模型の出来と今朝の出来の違いを説明する。何かの足しになってくれれば良い。数名の制作従事者の才質は把握できた。わたしも真剣勝負で学生の設計製図とは勿論ケタが違うのは当り前だ。この当り前の事が中々に伝わらないのは常々知るが時々性懲りも無くやる。それぞれに次に取り組むべき事をアドヴァイスする。

11時半終了。佐藤研吾、五月女と新宿長野屋食堂へ。昼食を共にしながら無駄話し、13時半了。雑用をすませて17時半烏山宗柳へ。

今日から長崎屋のオヤジが入院で、常連の客がゴッソリ宗柳へ移動して来ていた。18時半世田谷村に戻る。

20時半、明朝早いのでいつも早朝にすましているメモ、そして絶版書房通信を書き留める。そう言えばシュツットガルト美術アカデミーのカイ・ベック先生から連絡が入りドイツ巡回展はようやく正式に6月シュツットガルト開催となったとの事。苦労をかけたと思う。でもカイは良い建築家になるだろう。色々と工夫をねばり強くこらす才質の所有者だ。早く作品を見たいものだ。

私のバウハウスの学生から必ず良い建築家が生まれるだろう。

678 世田谷村日記 ある種族へ
一月十六日

6時過離床。磯崎新論書く。7時半中断。9時45分世田谷村発、下高井戸から世田谷線で三軒茶屋へ。渡邊助教と待ち合わせ。10時40分世田谷産業プラザにて世田谷産業振興公社常務理事・高山博氏と面会。予定している「世田谷式生活・学校」クリーンエネルギーバザール(市)の相談。

世田谷区で進めようとしている、世田谷未来博への参加をすすめられる。馬事公苑の使用はなかなか困難そうだ。世田谷線駅のキャロットタワー4階5階他を案内していただく。12時了。

再び世田谷線でボロ市見学する。世田谷駅前には被災地応援の青空市もやっていた。大変な人混みの中を歩く。一駅歩いて上町から電車で三軒茶屋へ戻り、渋谷より地下鉄で研究室へ。14時過より模型をチェック。見た事のないようなモノを作ろうとしているので無理もないのであるが、凄まじいモノが出来ていて仰天する。やはりかゆいところまで手を入れなくては、まだ駄目なのだと再々知る。それでも付きっ切りで19時まで指示して、作り直せるところは作り直させた。

言葉の指示は通じない。スケッチして直接手取り足取りする。

やれる処迄仕切って去る。明朝どうなっていますやら。

20時半烏山長崎屋でホッと一息ついて21時半世田谷村に戻る。

研究室に世田谷美術館の野田さんより橋本平八の「純粋彫刻論」の全コピーが送られてきていて嬉しい。又、長崎屋にストロング看護婦、保女史より田中一村の豪華カタログ届けられていて、これ又嬉しいのであった。苦あれば楽あり。

夜中迄見入り、かつ読む。開拓者の家・正橋孝一さんより便りあり、ロケットストーブの製作に挑戦するそうだ。気持ちの中にポッと火がともる。あの頃の初心忘るまじ。

一月十七日

6時過離床。イヤー、昨日の模型は凄かったと思い出す。しかし、若い人の鉄は熱いうちにたたけと言うけれど、たたいたら壊れてしまいそうで、とてもまだたたけないのが大半だ。設計というのは一人で全てやり切れぬ以上、人間の設計施工に費やすエネルギーが実に多い。60才以上のリタイヤーしたベテランを使った方が余程よいと言った建築家もいるが研究室ではそれは出来ない。メモを記し、磯崎新論を少し書く。

8時ブラジルの谷さんより、まことに聞き取りにくい電話が入り、頼んでいるメールが一向に届かないとお叱りを受けた。大事な連絡は確認が必須だ。

メールの確認を電話でするというのも変だけれど、これも又コミニュケーションクライシスなのか。

677 世田谷村日記 ある種族へ
一月十四日

12時半、研究室打合わせ各種雑用他。15時3年設計製図講評会。19時了。その後パーティ。大林組設計部の方々には大変お世話になった。

20時半長崎屋で一服の後世田谷村に戻る。GAギャラリー出展の模型の仕上がりが気になるので明日も見たい。

一月十五日

8時離床。昨夜来小林秀雄の『ゴッホの手紙』を読んでいるがヴィンセント・ヴァン・ゴッホの告白文学とも呼ぶべきへの小林秀雄の態度はやはり見事である。随分昔に書かれたものだが、今様の文学は決して進歩などしていない。むしろ退行しているのだ。

自殺したゴッホの亡骸のポケットにあったという弟テオへの最後の手紙は、その絵画の成果とあいまってゴッホの一生が集約されていて凄まじい。今の時代に誰がこのような生を昇華させているだろうか。

そう言えば昨夜遅く長崎屋でストロング看護婦に又会い、奄美大島でゴッホの如くに製作に打ち込んだ田中一村の資料をお借りするのを頼んだ。一村も手紙他を多く残しているようで、その中に自分の家の名字が多く出てくるぞと意気盛んであった。ちなみにストロング看護婦の姓は保という。彼女と大声でやり合っていたもう一人の看護婦さん、仮にストロングスとしよう。彼女も負けじとわたしの姓は岩手でも珍しいぞと名乗りをあげた。似鳥だー。これ読めるか?読めんだろう。声の大きな人は姓も目立つのだ。しかし人間は他者の悲劇には深い関心を持ち続ける不思議な生物だ。

渡真利島計画の模型の仕上がりが気になって13時過に研究室に出掛ける事にした。

12時半研究室。宮古島渡真利島計画の模型チェック。13時30分了。15時烏山長崎屋にて一服。16時世田谷村に戻る。

気がつけばいつの間にやら磯崎新論書き始めていた。

全く劇的でなく実に自然に書き始めたので、この論はどれ程長くかかるか今のところ定かではないがうまくゆくのではなかろうか。

原稿用紙の原本は手元に保存して時々手を入れる事にするが複製版はインターネットのXゼミナールに投稿する事にした。長年の夢であった「作家論」に67歳になってから取り組む事になった。とても遅い取り組み始めであろう事は否応無く自覚しているが、これがどう自分を変えるのか、全く変えぬのかは今のところはさっぱり解らない。

でも、これで日々の生活は目一杯だな。わたしの才質ギリギリだろう。22時過原稿を研究室にFAXで送付する。

今晩は皆、渡真利島計画の模型作り、そして十勝の計画の進行作業に従事しているだろうから、又忙しいのに何をさせるんだといぶかしむであろうが、少年老いやすく学なり難しである。勉強しなさい。

わたしの方はしばらく磯崎さんの本には近づかぬようにせねばならない。磯崎を書くのに彼の言説は多くを必要としない。

676 世田谷村日記 ある種族へ
一月十三日

今日のメモ番号は676である。左右対称形でまことに喜ばしい。

この番号の意味はインデックスであり、それでしかない。日月の経過通りに進まぬ事が多々あるので何かの役に立てばと考えて附したが、大体わたしが一番それを使っていない体多落である。これを使いこなす頭がわたしには無いのであった。少し努力してみる。

鈴木博之先生に電話して明治村の擬洋風建築の所在の有様を尋ねる。

流石にキチンと説明してくれた。彼の脳のインデックスはしっかりしているのは痛感するところだが、再び知る。1970年の大阪万博の頃、磯崎新さんは丸々一週間の自分のスケジュールは暗記できていたと、10年位前につぶやいていたのを思い出した。デューラーだったかの名が思い出せずにいた時の事であった。奇跡的にその時わたしは何故だかデューラーの名が記憶にあり、磯崎新さんにデューラーです、それと言ったのであった。磯崎さんに何かを教えたらしきの初めてであった。それ以来わたしはともかくも、デューラーを好きではないのに、いきなり好きになってしまった。

鈴木博之さんとも似た様なもので、これ迄のロングロングアゴーの附合いの中でわたしが彼に教えたのは、小林秀雄の奈良時代に酒を飲んで寝ころんでいたのはですね、あれは二月堂の横にある(今もある)茶店みたいな建物の薄汚れた畳の上であったと、ただそれだけである。その時も、それ故にわたしは三月堂(法華堂)は名建築であるが二月堂も変な味があると思い直す始末であった。

人間はまことに自分本位の多愛ない考えの連続が正体でもあろうか、少なくともわたしの場合はそれに尽きる。

11時佐藤くん来る。渡真利島の模型西側2分の1を研究室に運び込む作業をする。GAギャラリーでの展示用のモノ。

30分程で車に積み込んだ。ついでに馬事公苑の「世田谷式生活・学校」主催のクリーンエネルギー展の会場予定地を見学しようと馬事公苑へ向う。12時過着、道々佐藤くんの研究計画他について話し合う。大江新太郎の作風を考える事で日本人の建築像の基層を探るというモノで、しかも堀口捨己の眼と鈴木博之の頭を介してそれを成そうという方法をとるのだそうだ。最近の若者にしては珍しく壮大な仕掛けである。不可能だろうが頑張れと言う。

馬事公苑では公苑内にある日本庭園も見学する。噴水を眺めていた女性から虹が出てますよと教えられる。日本競馬会の会館をのぞきギャラリーを見学する。13時半大学着。15時日経新聞インタビュー、明治村について。16時半了。17時半浅草の飯田さん来室。カンボジアで亡くなったナーリさんの葬儀の写真をいただく。お棺に安らかに納まっているナーリさんの姿を写真で見て、アー本当に死んでしまったのだと思う。

わたしも彼に韓国海印寺・大雄殿でバッタリ出会ったナーリ地蔵のスケッチのコピーを差し上げた。実にあの仏像はナーリさんに生き写しであった。

地下鉄で新宿味王に行き思い出話に花を咲かせた。

本当によい友であった。

20時半別れる。21時半世田谷村に戻る。

一月十四日

8時離床。スケッチ用紙は沢山用意されるも手が動かぬのでメモを渡す作業に逃げる。

渡真利島計画の巨大ハンモック、及びクラブ内の椅子のアイデアスケッチ10時修了。小休する。

この巨大ハンモックのアイデアはスペインの闘牛場、マタドールの休息を想い描いた。円形の闘牛場は消えたが、又いつか別の機会にチャレンジしたい。巨大ハンモックのアイデアだけは何が何でも実現したいものだ。

675 世田谷村日記 ある種族へ
一月十二日

12時半新宿長野屋食堂にてマシューさん、安西直紀さんに会う。

15時半迄。16時過烏山に戻り長崎屋で一服。18時世田谷村に戻る。

インターネットがほぼ正常に安定したようだ。不思議なものでこれはある種の生き物のようでもある。

一月十三日

8 時過離床。アニミズム紀行7の残部数を4号迄と同様に表示したので御覧いただける。表紙の印刷が仲々やっかいな様でしばらく細かい身内の指示を続けるが、まあ変な努力してるなと見物して下されば結構だ。

7号にして初めてアニミズム紀行の表題らしい表紙になるのではないか。

印刷屋さんに手渡すデジタル写真のとり方がまずいのではと気が付く。斜めの、つまり朝の自然光で紙上の一見余白にしか見えぬ空の空白のニュアンスが少し浮き出ているのを撮らぬとデータ処理だけであのスケッチの感じを再現するのは難しいのではないか。

11時に世田谷村にGAギャラリー出展用の模型を誰かが取りにくる。

その車に同乗して1時間程話し合えるから幾つか相談してみたい事がある。

674 世田谷村日記 ある種族へ
一月十一日

13時研究室、小打合わせ。アニミズム紀行7の確認等。終了後アニミズム紀行5、6冊にドローイングを入れる。14時半発、地下鉄で渋谷経由用賀、バスで関東中央病院16時前着。小川くんを見舞う。元気そうにしていたが少し顔色が病人風であったのは致し方ない。介護しているご両親が見舞いに現われたそうだ。ご両親は心をさぞかし痛められている事であろう。

16時半病院を去る。寒波の襲来のようで凄い寒さである。バスの停留所を間違えてしまい30分以上を失う。結局世田谷美術館迄歩いてしまい、バスをつかまえ千歳船橋へ。乗り継いで烏山に18時半帰着。研究室に李祖原から気仙沼・臼井賢志さんの媽祖理事長へのオフィシャルレターの案が送付されてきたので目を通す。台湾は間もなく総統選挙である。李祖原も気になるところであろう。

唐桑の佐藤和則さん上京の連絡入る。唐桑は辛いだろうな。でも近々会って色々と話し合いたい。明日はアメ横のマシューと会うので唐桑の沿岸漁業とマシューを結びつけることはできないだろうか等と取り留めの無い事を考える。

アニミズム紀行7を2月中旬には世に送り出す事ができそうだ。5号、6号を大幅に刷り増した為にまだ両号ともに絶版することが出来ぬが、少しずつ絶版に近づけてはいる。それで7号は、今度は大幅に刷り数を減らす事にした。222冊限定とするので予約開始に留意されたい。

一月十二日

7時前離床。スケッチが上手くゆきそうにないので今朝は久し振りに三重県立美術館、世田谷美術館のカタログ「橋本平八と北園克衞展」を再読した。2010年、世田谷美術館で見て印象深かったが、最近は自分の初見の印象にあんまり自信が持てなくなっている。少し用心深くなっているのだろう。

昨夜来全てのエッセイ、論に目を通した。

橋本平八の純粋彫刻論はまだ読めずにいる。

日記とエッセイが併記されたものであるらしい。何とか入手したいと思った。 初見の印象では北園克衞の詩やグラフィック的作品にはほとんど興味が持てなかった。橋本平八のまさにアニミズムの近代的表現についても理解できぬところがあった。今度カタログを再体験して少し関心の門がようやく開けた気持になった。

実物を美術館の展示スペースで眺めても得られぬ感慨であった。橋本平八の作品は家に個人蔵して日々愛でたり、時にはおがんだり、あるいは御堂の如くの場所に置いて親しく接するべきモノなのではないかと今度は感じ入った。 実は亡くなった母が残した三つの彫りモノがあった。何処かの古物店か旅先のガラクタとして入手した福の神、大黒様の類である。アニミズム紀行1にスケッチを記録した。

母はそれ等の木の彫り物を大事にしていて、わたしにこの3つは大事にしろと命じた。家の守り神になるんだからとの事であった。

橋本平八の木彫はそれ等のデクの神様と通じる何かがある。

それを日本の伝統と言うのはしゃらくさい。民衆の原基、心底に住み続ける精霊であろう。橋本平八は38歳で亡くなる直前に円空仏と出会い、共感を覚え、数点を個人コレクションとして蔵していたと言うが、やはり円空仏も又手許に、日々生活の中で触れたい、愛でたいという類のものだろう。

今、母が好きだった木彫はわたしの仕事机の棚に置かれている。チベットのジョカンテンプルから来たシャカ像、アンモナイトの化石、チリのバザールで買った偽物の化石、そしてキルティプールの小さな飾り窓やらと一緒に雑然と並べ立ててある。気が向いた時に申し訳程度に手を合わせる。橋本平八の作品はこういう類のモノと同じで、なおかつ更に香気溢れるモノなのであろう。

美術品として鑑賞されるモノとして意識されるよりも、日々の生活の中に共に暮して欲しいと念じられて製作されているように思う。一時期と言うか最近のパブリックアートよりも更に個人の人間の生活や、不安そして祈りにも似た気持の中に共存するべく成された仕事である様に思うのだ。

北園克衞に仕事に関してはまだ良く解らない。兄弟そろってのアニミズムとモダニズムの統合が望ましいのであろうが、それは日本独自の文化状況の歴史自体が観念として望んでいるものであり、誰にも出来ない事ではあろう。しかし、スケッチをして過すのと同じ位に充実したカタログ再体験ではあった。見て考えて、又、見て考える。そんな繰り返しが必要なのだな。

でも初見の印象くらいアテにならぬものは無い。

673 世田谷村日記 ある種族へ
一月十日

11時半研究室で打合わせをいささか。15時過了。実際の設計作業はともかく、映像のアッセンブル他、編集的作業の打合わせがむしろ実質的に進んでいるような気がする。実物の世界はより困難なコミュニケーションが必要なので進み方がのろい。これも又、現代の特質であろうか。

16時頃新宿南口長野屋に席を移し、遅い昼食を兼ねて相談、17時半了。18時過烏山に戻る。長崎屋に顔を出して無為の時を過す。

19時前世田谷村に戻り読書。

一月十一日

6時40分離床。スケッチにとりかかる。早朝のスケッチが日課の如くなってくると仲々これが仕事=労働になってきて頭も手も思うようには動かなくなってきている。

文字を書きつけることの方がズーッと難しいと考え続けてきたが、どうやらそう単純なものではなさそうだ。

9時とりとめもないスケッチを1点。これは今準備中のドリトル先生動物園病院クラブ・ギャラリー3の展示品とする。昨日ギャラリー3の映像を製作している五月女くんの作業、途中経過を見た。来週の中頃にはサイトにON出来ると思うが、ギャラリー3がサイト上に出現してくれるとわたしの内部、その何がしかを表現できるやも知れぬ。

渡真利島月光・TIDA計画13で描いた建築案とは正反対の、身の廻りの内外にある洞窟群をのぞき込む世界である。

渡真利島月光・TIDA計画13の世界は陽光と風と星々がさんざめくものであり、宇宙からきちんと帰還した「はやぶさ」であったかの、それでもテクノロジーらしきものの中に希望を視たいと思う気持が表現されていて、近頃のわたしの計画案の中では良いものだと自信もある。でも、今の世界はとてもそれだけでは満足できるものではない。それで同じ島に少し様相の違う小建築を構想しているがまだうまくいっていない。

学生時代にネルヴァルを少しかじった。塔と洞窟の暗喩にひかれたからだ。

その双方向の直観に建築の始源が在るような気分になったからだろう。

スペインのトレドの特異な都市風景を借りて子供じみた地図を作ったりしたものだ。その妙な思い付きがほうき星の如くに尾をひいて、今のサイト上のギャラリーになっているのを知るのである。例えつまらぬ様に見える思い付きには必ず必然も内在している。もう今朝はスケッチの手が動きそうにないので、ギャラリー3の最初の展示物の解説文を書くことにする。

このページは英文である。まだ世界各地の人達にそれ程気付かれていないが、やがてコンタクトし始めるだろう。大英帝国の植民地であったインド西海岸のムンバイ周辺のネット社会は日本よりもはるかに大きな社会であるから、そこの中学生あたりがドリトル先生の名前に捕まってくれて、のぞいてくれたりしたら良い。

ブラジルの谷さんから電話が入りメールで作成したチラシを送るようにとの事。色々な苦労は経ているのだろうがブラジルの人間は明るいな。

672 世田谷村日記 ある種族へ
一月九日

6時半離床。今日も晴れている。すぐにスケッチにかかる。宮古島市渡真利島の計画である。今朝は昨日と比較すれば手はスムーズに動く。一脚柱の小屋をスケッチした。柔らかい線で。だから柔らかい形が生まれる。使用材料は構造材を除いて全て植物系を想定した。昨日は我ながら固い工業化系の思考の枠をはめたので、それですでに手が動かなくなっていたのだろう。今日の頭の中の材料は岩と木と草と水である。勿論仲々形には成り得ないのだが、今の自分にはとても自然な気持がする。渡真利島は珊瑚礁が隆起して現れた島である。だから島を一切傷つけてはいけない。基礎も掘れない。それで基礎らしきは使えない。

だから本体の建築には全てソリをはかせている。そして建築が空へ飛ばぬようにテンションで珊瑚礁に固定する。

今日は小さなキャビンの設計をした。島の岩陰に高台寺の傘亭の如くの、しかし一本足の骨に草と活性炭の濾過装置を兼ねた屋根をかけてみた。

まだまとまってはいないが、昨日より手がすすむというのが発見である。

8時前1点を得て小休する。新聞をとりに下に降りる。TVの無い生活も半年程になるが完全に慣れた。TVを眺めていた時間+αが全てスケッチに流れている。

一月十日

7時半離床。すぐにスケッチにかかる。9時前中断2点を得るがまとまりが無い。バウハウス・ギャラリーに出展したMAN MADE NATUREの骨子が流れ始めてきたのは自覚できるのだが、とても困難な事に手をつけている。

数日前に青森県大間からの鮪が一頭5千数百万円で初競りで落札されたのを記した。史上最高額だそうだ。気になって大間を検索してみたら、大間稲荷神社があって、やはり本尊は媽祖神であった。1873年(明治6年)に天妃媽祖大権現と金比羅大権現を合祀した。

水戸領那珂添より遷座したようだ。日本列島の沿岸漁港、港町には他にも長崎、横浜等に媽祖神と覚しき神が祠られているようで、調べてみるに値する海神である。魚市場にも人知れず祠られているのかも知れぬ。

水の神ナーガの広範な配布は東南アジアに良く知られている。

これは蛇=竜の化身である。媽祖神は弁財天であり、それは観音信仰へと遡行できるのではあるまいか。

ベトナムDANANGの計画地の隣に観世音寺があり、その祭礼の模様が送られてきたが、これも又媽祖神が混合しているのは間違いないと思われる。今年はいよいよ海神の年になるのやも知れぬ。

671 世田谷村日記 ある種族へ
一月七日

昼過ぎ世田谷村を発ち、研究室に向うも、途中長崎屋に寄ったら三田君等が居て、又も極上ケーキをごちそうになり、沈没してしまう。研究室スタッフならぬ、三田君やオバンに宮古島や気仙沼のスケッチを御開帳に及び、自慢タラタラ御説明に及ぶも、全く受け入れられず。マ、仕方ないんだなコレワ、と想いつつ残念であった。宮古島の計画はともかく、気仙沼の超宝船の計画は支持されると思ったのだが、彼等はショートケーキに夢中なのであった。さてこそ日本人は彼等の言に従えば洋風ケーキの景色にそまっているのだなあと知る。残念ながらそのケーキのお裾分けをいただくに、これが上等な味であった。

ポール・ヴァレリーの思考を遡行するならば、つまり近代的模型の思想を突きつめて、それを体験的に振り返れば、イスラム建築がその至上の形式として浮かび上がるのは必然のように思う。イスファファンのシャーのモスク、あるいはフライデーモスクの建築は世界モデルとしては、今もなお至上のレベルにあると思わざるを得ない。

手びねりのアイコンを否定し尽くして、空に辿り着いた観念至上主義のとりあえずは人知の極だったのであろう。中心に空があるという観念としての近代の思想は、近代建築の標準化の思想には胎胚せずに、イスラム建築の空の思想の具体化した建築の中の手触りとして具体化されていたのである、と妄想をたくましくするに及ぶ。

海賊党というのが西独ベルリン市議会に出現したと聞く。又、先日ネグリ氏のインタビューが大きく日本の新聞に出ていた。海賊党は要するにインターネットを介在させた直接民主主義を標榜するらしく、思想はとも角、現象として中国、アラブ世界で大きな力になり始めているようだ。

インターネットの世界が秒単位でうねっているのは我々のホームページで実感しているが、これが何処に向けて雪崩れているのかは定かではない。

一月八日 日曜日

7時半離床。明方は曇っていたが、今は陽光が部屋一杯に差し込んでいる。昨日一気に気仙沼の宝船のデザインをしたので何となく一段落のような気がしてスケッチの手が進まぬのでメモを記す。時にメモはスケッチの助走となるのだ。宮古渡真利島北端の並木さんの露天風呂のスケッチは大分前に描きおえている。あれはとどのつまりを描いたので、あとは技術的に水の問題、汚水の問題をクリアーすれば良い。倶楽部建設地が島の一番高い処に変更になった。眺望を優先したいの意向からだった。それで明日9日にページにONされるような案になった。巨大ハンモックは残した。スケッチにほとんど全ての考えは表われているので言葉を附け加える必要はない。丘の上に停泊したヨットである。

でも何か足りない。一人で小さく焚火を視つめ、貧しい鍋で飯を焚き、湯を沸かす原始の楽しみが欠けている。折角の個人所有の無人島計画である。自給自足の畑小屋みたいなのを一軒設計しておこう。建設のベースキャンプにもなるようなのが必要だろう。桟橋に近く建築資材のストック場所にもなり、独りで本も読めるような小屋が良い。わたしのキルティプールの小屋みたいなのが良いのでは、とスケッチを始める。

11時スケッチ中断。どうも上手くゆかぬ。渡真利島計画の桟橋を考えたのだが、技術的なアイディアばかりが断片的に出るばかりで一向に収束しない。

これは今日はダメかも知れない。やはり日曜日は休んだ方が良いのか。

14時長崎屋で渡邊助教、佐藤くんと会い。スケッチ4点渡し簡単な説明。

渡真利島の計画はスケールを入れて進めているが全長がいささか長過ぎて工夫を要する。16時了。16時半世田谷村に戻る。

21時ドリトル先生倶楽部ギャラリー第3室の構想をすすめる。どうやらこの第3室はキルティプールのギャラリー群、第4、5,6室がオープンする迄はわたしの気持の中をのぞき込む類のものになりそうである。

670 世田谷村日記 ある種族へ
一月六日

小川くんが入院したぞと長崎屋のオバンに言ったら、今日私のところにも電話があったよとの事。折角教えてあげようと思ったのに拍子抜けする。何だあいつ、そこら中に電話しまくっているんじゃないか。でも寂しいのだろう。

気に入りの60代のストロング看護婦さんが夜勤明けの疲れを癒して一杯やっているのに捕まった。

心筋梗塞の詳しい説明される。中々大変な病気だと知り、いささか心配になる。ついでにと言ったら何なんだがオジンの病状についてのレクチャーも受ける。こちらも並々ならぬのである。

オジンは午前中杏林病院の検査で色々と言われたらしく、二階でふてくされて寝たまんまだ。

ストロング看護婦との話は何故だかいきなり日本画家田中一村の話に飛んだ。

彼女は奄美大島出身であった。「田中一村は好きなんだ、初期のデパートで展覧会も見てるぞ」とえばったら、俄然火花が散り「わたし、一村の本全部持ってるぞ、今度貸したげる」「ヘェ、お願いします」となった。

沖縄と薩摩の国に挟まれて奄美は損してるの感も同じであった。宮古島の現場が始まったら奄美に寄り道してみてもいいなと考えた。

15時過八重洲で清水くんと会う。ネパール、日本の共同プロジェクトの展開について話し合う。カトマンドゥのジュニー・トラチャンも今は孫がいてジイさんになって瞬発力は望むべくもなかろうが、地味な話だから少しずつやっていきたい。

ネパールとは何かをまとめたい想いは昔から変わらない。

19時過世田谷村に戻る。今日は早朝の一点のスケッチが収穫であった。

一月七日

8時半離床。3時に目覚めて田中一村を検索したりしていたら、寝過した。

田中一村の如くの画家は恐らく世界中に無数とは言わずともいるのだろう。発見されぬままに。わたしは、うたきの森から小さく奄美の海がのぞいている絵にとても惹かれたのを覚えている。沖縄の伊勢名、伊勢谷の小離島に調査で出掛けた時にも、その景色の残像が残っていて、探したが得られなかった。砂糖キビ畑の中の道を陽にカンカンとたたかれて歩くばかりであった。

10時過スケッチを描き始める。偶然の事ではあるが、北海道と沖縄のプロジェクトが同時進行している。

全く世界が異なるような気もする。アルヴァ・アアルトの建築世界とアントニオ・ガウディの世界が異なるのを知る。でもアントニオ・ガウディのバルセロナは緯度で言えば日本の青森なのである。緯度だけで地球のそれぞれの気候条件、ひいてはそれに誘発されよう文化を考える事はできない。

バルセロナはやはり地中海の存在が大きく、その海流の不思議さに育まれてきたのだ。地中海は鮪の大漁場でもあるようだ。ギリシャのパルテノン・アクロポリスの丘の下で何がしかのイルカの床装飾を見たような気がする。ローマのカラカラ浴場の床であったか。ギリシャの俗謡にイルカに乗った少年の唄があるように地中海は文化の一方の母でもあり続けた。

青森県大間の海で上げられた鮪一本が五千数百万円築地で競り落とされたと昨日報じられていた。

初競りの御祝儀とは言え、世界の海を周遊する魚への神話的畏敬がまだ残されているのだろう。

気仙沼の五十鈴神社に鮪、カツオが群遊する宝船があっても良いなと、これは思い付きであるが、姿を消した気仙沼の鮪の貯金箱の再びの姿を描き始めたい。

前の鮪は気仙沼の船が寄るポルトガルの切手に印された鮪の姿を模写したものであったが、再生気仙沼の今度はどんな姿になるのだろうか。世界の中の気仙沼を表わすモノが良いとは思うが。

669 世田谷村日記 ある種族へ
一月五日

夕方突然小川くん倒れて入院の報入る。しかも本人の携帯からである。

何だか妙な時代になったなと実感。丁度19時に世田谷村に戻ってホッとしていたところだった。聞けば昨年12月29日に具合が悪くなり病院に運ばれた。心筋梗塞と診断、即入院となった。彼は父親母親共に高齢故のボケ気味のところがあり、その介護を妹さんと2人で交代で当る日々でもあった。彼が語ればユーモラスに聞えてしまうが想うに大変な苦労の状態であった。何故なら彼はかなりデブだから。介護する動きは大変であったろう。当今は介護メタボと自称していた。アメリカ中西部にゴロゴロいるようなデブであった。それが全く似合わない野球帽かぶって「ヨセ、様にならぬぞ」と言うのに止めない。鈍いのだ。それはとも角。その日々はかなり苛酷なものであったのではないか。実は心労が積み重なっていたのであろう。それで倒れちまった。

「大した事無いと思ってたら、大した事だったんだ」

「病院で携帯使って大丈夫なのか」

心臓病に電子機器は要注意と聞いていたからである。

「イヤ、ダメなのよ、それだからしばらく連絡できない。何日か経ったら又電話するわ」という事は手術になるのだろうか。

何がどうなっているのかさっぱり解らない。あんな奴でも身近な友人でもあるからな。会えばゴテゴテけんかばかりだがそれは仕方ない。父上も母上も勿論顔見知りで、ホッソリとした上品な人である。ああいう平和そうな人間が彼にストレスを与えるとはとても思えないのだが、それでも世は闇であるな。むしろ残された父上、母上はどうなってしまうのか。他人事ならず余計な心配をしてしまう。

オジの正男は、わたしにとっては不思議な存在であった。京大で数学を修めた人だからという考え方はしたくないが、それなりに頭の良い人で、戦争にとられて人生が歪んだのかなと思っていた。何が面白いのか一向に解らぬような日々を共にしていた。

奥さんはすでに亡くしていたが、彼女も教師であった。

能力があり余る人間が中、高生を教えるのは辛かったろう。戦争で見なくても良かったモノを見てしまって、それでガキ相手に何を教える事があったろうか?

丁度小川くんの父君と同年代、少し若いか。88歳であった。遺影は世田谷村にいた当時のモノを使え、延命措置は一切するなを言い置いていった。

一月六日

5時離床。7時過迄スケッチ。渡真利島月光・ティーダ計画1点を得る。これは是非とも実現したいモノになってきた。

昨日は正男オジの事、小川君の事と大きな出来事があった。人間の生はハッキリと有限であるのをまざまざと知った。

でも一夜明けて夢中で計画案のスケッチをすれば、それは自分で言うのもなんなんだが希望に満ちた如くのモノを描くのだ。入院してる小川君にコピーを送ってやろうかと思う。このスケッチきっと元気つくぞ。あるいは、何だこりゃあとポイと捨てるかだな。あいつはこういうのは全く解らんだろう。他の多くの人間達もそうなんだろうとも思うが、解られても仕方がない事ではあるから力を尽して実現して見せるしかない。

メモを記して新聞を読んでいたら、いつの間にか9時になっている。建築家の菊竹清訓氏が昨年暮に亡くなっていた。学生時代まぶしいようなスターであった。

10時浅草のIさんより連絡入る。1月18日の気仙沼・銀座の集会に関して。

1月28日のブラジルからの谷さんの講演会の件、気仙沼・唐桑支援絵葉書プロジェクトの新シリーズも考えなくてはならないな。

668 世田谷村日記 ある種族へ
一月三日

世田谷村12時半発つ。13時半新宿南口高島屋、安西直紀他と会い会食。

向風学校代表の安西直紀は次のステップへの足がかりにもんもんとしている様で頼もしい。苦しくない青年には何の見処も無い。アドヴァイスにもならぬ意見を述べる。

16時散会、烏山に戻る。長崎屋、宗柳、広島お好み焼屋いずれもまだ開店せず、李白に習い山月の半輪も見えず世田谷村に下る。

一月四日

6時40分離床。すぐにスケッチにかかる。十勝ヘレンケラー記念塔増築の暖炉室のアイデアを拡張する。まだ寸法関係は甘いけれどアイデアは出た。いつもながら手が頭を裏切るような気がする。ラップランドで体験した円形のプリミティブな平面を持つシェルターがベースになっている。あの円錐形シェルターはM.エリアーデの天と地を結ぶもの、つまり煙の事なんだが、それを良く表わしていた。

又、猪苗代鬼沼で体験し続けた囲炉裏も役に立った。あの時に得たアイデアが飛んで十勝に着地できるやもしれぬ。一切無駄はないものだ。

8時20分スケッチ2点を得る。小休する。

インターネットをのぞいたら研究室のサイトはようやく接続したようだ。今日から恐らく今年のWORKがONされるだろう。自分のサイトをのぞくのが楽しみになるとは想像だにしなかったが妙なものではある。

気仙沼の臼井賢志さんと連絡する。銀座の件で向風学校の安西君の動き方を相談。彼は目標さえ定まれば一直線に走るからその美点は大事にしたい。

しかし、そろそろ二の矢、三の矢の用意もした方が良い。

12時前スケッチ「十勝」をもう1点して、今日の午前中のWORK了。

依頼原稿仕上げる。

世田谷村を発ち研究室へ。地下鉄西早稲田から8階に上る。スケッチを渡し説明、すぐに発ち新大久保迄歩く。近江家は休んでいる。山手線原宿へ、大変な人混みである。コープオリンピアの角で難波和彦さん佐々木睦朗さんに会う。やがて鈴木博之さん来て、何と!四人で明治神宮に初もうでする。佐々木さんは昨日に次いで二度目であるらしい。

わたしも今年は良く良く神さんと縁があるな、などと考えながら人混みと共に歩く。

だいぶん高尾山とはちがうわいとも思う。どうちがうかは仲々の大問題ではあろう。子供の頃、嵐寛寿郎が毎朝水浴びして演じたと噂された「明治天皇と日露大戦争」という映画を見た記憶がある。嵐寛寿郎は「鞍馬天狗」などで有名だった。そうか天狗が今度は天皇かと驚いたものだ。明治天皇の肖像を見る度に、だからわたしは不敬ながらこの人は実に嵐寛寿郎に似てるなあと思う始末なのである。

2日に高尾山薬王院に出掛け天狗ともすでに会ってきたので、遂に正月はこれで鞍馬天狗と日露大戦争ならぬ明治天皇で年が明けたのである。

明治神宮の建築は伊東忠太の手になるものだが、あんまり感心できない。築地本願寺の固苦しさと同様の大模型の風がある。周囲の森と一向になじんでいない。伊東忠太は妖怪変化のスケッチを残したりで、精霊に対する関心はあったのだろうがそれが設計には表現されていない。明治天皇の神社だから遠慮したのだろう。

でも天皇は謂わば精霊の結晶みたいな者なのに。残念だ。明治天皇と言えば殉死した乃木大将を祭祈した乃木神社は大江新太郎の手になるが、あれは良い建築である。惻隠渺渺たる風がありアニマに通じるモノが感じられる。大江新太郎は二荒神社も手掛けており、その際に二荒山の山の霊気、杉木立の霊気に触れて何モノかを感じたのであろうか。

急に大江宏の石上神宮宝物館を見てみたくなった。石上神宮には大和朝廷とは異なる神、出雲の神がまつられていると梅原猛が記していたのを思い出したのだ。

神社はそれぞれに大いに異なるなあと実感した。わたしは薬王院奥の院の方が好きだけれど、伊勢神宮もそんな風に見直してみたいものだ。

アレは装飾の集合体ではないか。伊勢の森の装飾、その断片ではないか。

明治神宮の森は地球温暖化によって想定より早く調和の域に達したが、日本中から移植した森なので、樹々の根が浅く倒れるモノも多いのレクチャーを受ける。原宿駅の正月用プラットフォームより新宿へ。

昨日に続き高島屋小松庵へ。ビールを飲み会食。佐々木さんの話しが面白かった。一流の構造設計家の金本位制への思想らしきが聞けた。

6時半了。別れて7時過世田谷村に戻る。

よい正月であった。

一月五日

7時半離床。スケッチにかかる前に今朝はメモを記そうと思いたったが、これが意外に手間取って9時迄かかってしまう。文字もスケッチも共に手間がかかる。

二川幸夫さんに電話したら帰国されていた。お元気そうであった。

スケッチにかかる。10時1点了。正男オジが亡くなったの報入る。一時世田谷村に同居していた。キリスト教の信者で毎週日曜日には礼拝を欠かさぬ人であった。11時20分発つ。新宿で研究室の人間とスレ違いスケッチ他を渡す。

世田谷村日記