石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 4 月

>>5月の世田谷村日記

765 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十八日

12時半烏山区民センター、第7回「世田谷式生活・学校」会場へ。

会場の片隅で絶版書房アミニズム紀行6、3冊にドローイングを入れる。

13時過世田谷区役所の方々にお目にかかりあいさつ。又、世田谷区議会の方々も来場され名刺交換する。区役所の支援もありようやく地域に根付こうとしている感あり。13時45分渡邊大志レクチャー、グリーンバザールの紹介で始まる。その後、わたくしのレクチャー「「不安の中のエネルギー・迂回する小さな方法」」佐藤研吾の小レクチャーと続き、締めは保坂展人区長の話、そして恒例の質疑応答でしめくくる。保坂区長は質問の一つ一つに実に丹念に答えていた。流石に政治家である。わたくし等はにできぬ事だ。

車座集会を延々と続ける区長の姿勢にみがきがかかってきた。

17時区長共々、南口のソバ屋宗柳へ。予想外の大人数となり少しあわてた。

店は半分貸切り状態となる。18時半過区長、区役所スタッフ他去る。

4人程で残り今後の展開等相談し、参加して下さった芳賀牧師等と歓談。

20時過了。世田谷村に戻る。

四月二十九日

3時40分離床。4時半発、55分の始発で東京へ。朝の新幹線で一関へ。8時半過、一関で竹中工務店の方々と落ち合い気仙沼へ。

12時市民センター2階中ホールにて、10組の魚町南町地区への提案の説明会。

石山研竹中工務店の説明は2番目であったので早く終り、一般の来場者も含め熱気溢れる会場を抜けて、畠山気仙沼緑化事業代表と近くの公園の満開の桜の下で話し合う。

気仙沼安婆山の鎮魂の森計画の件である。

この計画は大事な計画なので、わたくしも畠山さんと腹を割って話し合った。

最後の最後迄安婆山の山、気仙沼内湾間近の南斜面に桜の木や猿すべり他で描く巨大な文様、図形に関して何とも説明がつかぬわだかまりが残っていたが、どちらともなく気仙沼の日ノ出凧の図案にこれは似ているなと気付き、日ノ出凧の図形をなぞっていたのだったと双方共に納得した。良かった。気仙沼市街地のスケールに見合う樹木、そして花による巨大図形であり、どうしたって市民の方々に説明できなくてはならないのだ。中心の赤い丸の意味と人形状になった桜並木がつくり出す図形は日ノ出凧であった。

畠山さんにこの物語の大筋のスケッチを依頼する。

これは地元の人の手にある方が良い。

畠山さん共々喜ぶ。1時間半程の話し合いであった。

会場に戻る。

会場では30数名の地元審査会の方々の投票により大林組案、イオン案等が良しとされ、海中から巨大防潮提が浮上するという大林組が最優秀として選ばれ、石山研と竹中案は佳作とされた。マァ、仕方ないだろう。

市長より賞状をいただいて会場を去る。

復興市場旭寿司にて臼井賢志、商工会議所会頭、竹中工務店の皆さんと会食、今後の事等を話し合う。

18時半気仙沼を去り、車で一関へ。20時前一関ベイシー着。

菅原正二さんとあいさつ。

一関のホテル、何処も一室もとれず、やむなく20時22分の最終の新幹線で帰京とする。

竹中工務店役員安藤さん、四十物さんと三人で車内でチビリチビリやりながら、この先の事を再び検討。

23時頃東京着、TAXIを手配していただき24時半に世田谷村着。

四月三十日

午前中安藤忠雄さんと連絡、5月27日気仙沼植樹祭について。

12時過烏山長崎屋にて佐藤くんと会い、安婆山の計画の今後の事等を話す。店を変え転々と回遊し17時迄討議。その後は世田谷村に戻り休む。夜半よいアイデアがようやく生まれる。

五月一日

昨夜来、藤森照信さんより送られた『藤森照信の茶室学』六耀社、税別3000円を早朝読み切り、8時過藤森さんに面白かったと御礼を言おうと電話するも、今ミュンヘンに出掛けてますとの事。藤森世界を駆けるだな。

身体に気をつけていただきたい。

天王台の馬場昭道に電話して容態をうかがう。リハビリ中との事であった。

764 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十七日

10時40分院レクチャー。鎌倉再建東大寺、浄土寺浄土堂、重源、等講義。12時了。佐藤、デービット等と新宿で昼食。デービットと飯を喰うのは初めてであったが、いい青年である。雑用の後19時半世田谷村に戻る。明日の「世田谷式生活・学校」の地元でのいささかの人集めをする。

四月二十八日

6時過離床。豊島北教会の芳賀繁浩牧師より丁寧なお手紙が届いていて熟読する。

わたくしの4月22日付日記に対して反応して下さった。

「宗教界は原子力の問題に対応しなくてはいけない」「人工の太陽を作り出す事自体が宇宙の摂理とも言うべきに反するのか、反しないのかは全ての世界宗教は答えなければならない」といささか高見からのわたくしの言であった。芳賀繁浩牧師は氏の属している日本キリスト教会では次のような「見解」をすでに表明しているとの事である。

「見解」は教派教団として最も正式な「大会声明」や「大会議長表明」の前段階のもので、これをもとにこの秋に開催される「日本キリスト教会大会」でさらに進んだものを出すことができればと願っている、と添えられている。

この「声明」の原案執筆者は、現在横浜海岸教会の牧師である上山修平氏である。

不勉強で失礼した。

いささかの忸怩たる想いもあり、その上山修平牧師の2012年2月17日付日本キリスト教会大会常置委員会の声明「原子力発電についての私たちの見解」をわたくしなりに要約して御紹介したい。

「福島原子力発電所の事故によって、地元の人々だけでなく世界中の人々、さらには人間以外の被造物全てが今もなお出続けている放射能汚染にさらされています。26年前のチェルノブイリ事故のその後の調査結果は福島原発事故の今後がそんなに楽観視できるものではない事を示しています。

このような深刻な被害を二度と生み出さないためにも、原子力発電所の稼動をできるだけ早く止めることを願うものです。

原子力発電は今では核分裂によって生じる放射性核種が生物に甚大な悪影響をもたらす事が明らかになっています。人間の手で完全に制御することが難しいという根本的な問題も抱えています。

事故が起こること自体が「想定外」とされていた今回の事故に、私たちは人間の傲慢さの罪を覚えさせられました。一旦事故が起きれば損失無限大になるような技術を使わない方向に、私たちは、今、方向転換すべきだと考えます。

原子力発電はいたるところで、ウラン採掘から発電現場まで、人々の犠牲の上に成り立つもので、それをこれ以上続けるべきではなく、今ではそれに代る発電方法も実用化しつつある中で、それらの再生可能エネルギーの開発に力を注ぐべきであると考えます。

また何万年にも渡る使用済み核燃料を安全に保管しなければならぬ責任を誰が負うのか。使用済み核燃料再処理からウランとプラトニウムを取り出し、再利用する工場が現在青森県六ヶ所村に建設され稼動を目指しているが、私たちは他の国々があきらめたこの複雑極まりない技術の積み重ねの上に成り立った再処理工場稼動に強く反対すべきだと考えます。

日本政府が一刻も早く方向転換し、再処理工場稼動に向けて使われている莫大な費用を、被災者の支援と新しい再生エネルギー開発のために回すことを要望します。

さらに日本政府は福島事故後にもベトナム、インド、トルコなどへの原発の輸出推進の表明をし続けているが、これは理解できない。諸外国に原発を輸出する取り組みを止め、再生エネルギー開発に持てる力を注ぐことを日本政府に要望する。

神は、人間が始めたバベルの塔建設を止められました。

日本に生きるキリスト者は、原子力発電に依らない社会への方向転換にできるだけ早く取り組むべきであるとの声を挙げなければならないと考えます。

日本キリスト教会常置委員会」

以上勝手に要約したが更に知りたい方は

http://www.christiantoday.co.jp/article/3311.html参。

上山氏は原発における核分裂エネルギーの利用とは突きつめれば、「自然界に存在している原子に、人間が不自然な仕方で無理矢理手を加えて不安定な状態にし、それがまた安定な原子に変ろうとする時に出すエネルギーを利用しようとするわざである」と声明の原理的な基盤も述べられている。

わたくしにとって4月22日付の日記で述べた時に想定していた世界宗教とは主に仏教を想定していた。友に坊さんが少なくないからだ。日本仏教会理事長への質問はその坊さん達への少なからぬ苛立ちがあったのは否めない。まさに苛立っていた。

坊さん達、フロイス等の宣教師達は坊主と呼んでいたが、坊主と牧師の論理の展開力は客観的に視て大きな落差がある。宣教師達と坊主との論争らしきは常に宣教師の圧勝であり、坊主がキリスト教に転向する者も輩出したのは歴史的な事実であるようだ。

しかし、はるばるヨーロッパから極東のジパング迄布教に来る宣教師は皆優秀な宣教師達であった。それに対する坊主は今の坊主の大方と変りようがない普通の、つまりそれ程の情熱も知恵も無い凡愚の群であった。仏とは何か、クソカキベラである、なんていう禅宗の愚昧にまみれたハッタリはキリスト教には通じなかったのだ。

現代の大方の坊主の知性の低落振りの因は、その世襲制にある。北朝鮮の金王朝の三代連続の国家元首の世襲制どころではない、延々たる坊主職の世襲制がその体たらくをもたらせているが、もう変えられないだろう。宗教だってその基本は人材である。

馬場昭道は仏教界では珍しい人材ではある。でも芳賀繁浩牧師やこの上山修平牧師と対論したら(対論のシミュレーションをしたら)これは絶対に確信に満ちて牧師が上である。我友馬場昭道はコテンコテンにやられるだろう。

日本仏教を担う坊さん達の大半(ほとんど全て)はそれぞれに寺院を持ちその檀家により経済的に運営されている。檀家の有力者が総代を務めその大方は恐らく企業(大中小を問わず)運営者でもあるだろう。

何がしかの金が自由に動かせる人種だ。だから原発推進派である。

そんな檀家の意向(潜在的な)もあり寺院運営者としての坊主は反原発推進とはなり難い。

そんな下世話な事情は良く解る。

しかし原子力発電の問題は深く宗教的価値観すなわち哲学の問題に直結する。上山修平牧師の核分裂エネルギー利用に対する考えは、これは科学を超えた哲学である。宗教家必携の理でもある。

悩ましい問題ではあるが、再び仏教界に問いたい。福島原子力発電所事故に対する見解の一端でも表明すべきであろう。

馬場昭道の如くの坊主は、この日本キリスト教会大会常置委員会の見解が「見解」として示されている事に学ばれたい。

この見解が今秋の「日本キリスト教会大会」の大会声明や大会議長表明にはいまだ至っていないことに留意されたい。

キリスト教会にはキリスト教会なりの坊主が持たざるを得ない下世話な苦労もあるにちがいない。世の中は「見解」の小さい建前だけで渡り切れるものではない。世の中と言わず世界となれば更に格段なる現実が立ちふさがるのではないか。

今日の「世田谷式生活・学校」ではわたくし達もようやく小さな見解を述べることになる。「「不安の中のエネルギー・迂回する小さな方法」」のはじまりを述べる事にしたい。

世田谷区長・保坂展人とも少し話し合ってみたい。

763 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十六日

15時40分東陽町竹中工務店、16時車戸設計本部長他と打ち合わせ。

17時半了。地下鉄で新宿へ、佐藤くんと打ち合わせ。19時半了。21時世田谷村に戻る。

四月二十七日

7時半離床。メモを記す。今朝の院レクチャーの下調べ及び5月27日の気仙沼安波山植樹祭の段取りで色々と考える。

小雨である。気温の変化が激しくて身体がそれに馴染めない。でもあんまり耐えていけるような身体も危いのだ。柳に風になった方が良い年齢でもある。

小沢一郎元民主党代表の所謂陸山会事件で無罪判決が出た。わたくしはこの件にコメントできる才質ではないが、政治は、政局は動くだろう。その是非は言えぬ。

小沢一郎という政治家のそれはもう持って生まれた本能の如きモノで恐らく世論がどう反応しようと小沢一郎は我道を行くのであろう。

今の政治家の大方が世論政治、つまりは大衆政治家であり、指導者としての政治家はほとんど見当たらぬように思う。

世田谷村近くの長崎屋の連中の大方は反小沢である。その因は単純に金の匂いがするという、それも事実なのだろうがその匂いに対する反撥である。小沢を良しとする人間は皆その指導力に期待するらしきが支持の理由の大半である。でも誰も小沢一郎さんには会ったことも話したこともない。皆、いわゆる世論風評を基にそれぞれの判断をしているだけだ。とすると世論そのものが一つの最大権力になりおおせているのが知れる。

では世論とは誰かと言えば誰も解らないだろう。長崎屋の大衆(民衆)ではあるまい。マスメディアはそれこそ実にあやうい。前の戦争の時局を振り返ればそれは歴然とする。

歴史は繰り返すのだ。それでは指導者の中に世論の核を見れば良いのか、これも怪しい。つまり、我が身に即して考えるならば作家論・磯崎新に対して鈴木博之さんが投げかけた大衆の拡がり、そして一部の知的選良の問題につながるからである。

762 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十五日

11時40分世田谷美術館学芸員野田さん来室。ドローイング寄贈の書類にサイン。気仙沼復興モデルを見ていただいた。適確な評をいただき驚く。美術も建築模型も同じように眺められるのだと知る。12時半地下スタジオで明日の竹中工務店東京本店での打合わせ、及び28日の千歳烏山での「世田谷式生活・学校」の準備打合わせ。13時加藤先生来る。演習Gの進め方について討議。個々人のWORKに対する対応及び参加学生の理解度に問題あり対策を講じる必要を痛感するからだ。15名強の学生を全て個別に指導するのは今のところ不可能であるの結論を得る。3つの課題を与えて3つのグループに仕分けする事とした。北園先生加わり、課題を討議して決める。

14時半スタジオ始める。

デービット、松岡の発表を聞く。

デービットの作品作りへのアプローチは見事である。毎回指摘、そしてサゼッションした事をきちんとフォローして、自分の考えを加え深めてくる。

昔、磯崎新が日本の設計教育の惨状を憂う、の考えを発表した事があった。

その時にはこれは言い過ぎではないかと考えていた。いかなる内実に対してそれを言ったのか不明な部分もあった。

しかし今年の演習Gをバウハウス大学の学生デービットを日本人学生と同じテーブルにつけて設計作業をすすめさせてみると、恥ずかしながら磯崎発言はまだ今に通じるやも知れぬとさえ思われて、自分が情けなくなる。

しかしながらスタジオは続けなければならない。

デービット、松岡はわたくしの個別指導を続ける事とし、他は3つの島を作りそれぞれの先生が指導する事として、メンバーの希望と資質らしきを勘案して進め直す事とした。

17時前終了して北園、加藤両先生と新宿味王で歓談。

二人共学生時代から良く知っている建築家である。北園先生はわたくしの研究室の一期生、加藤先生は池原義郎事務所OBであるが、学生時代にわたくしの開拓者の家の小さいけれど素晴しい模型を作ったので知っている。実にわたくしの作品への適確な批評であると直観した。二人共着々と力をつけて成長し、今は40代半ばである。

建築に対する情熱は衰えてはいない。二人共一度咲いたら枯れぬであろう。

期待している。

20時半世田谷村に戻る。アレコレ思う。

四月二十六日

7時半離床。霧雨であるが、庭の樹にオナガがつがいで来ている。

設計教師としてのわたくしはいよいよ最終段階に入った。

5年で教師は止めようと思っていたが振り返ればはや20数年の年月が経つ。

時々、今でも無駄な時を浪費したという想いが襲ってくる。

教師になったと李祖原に言ったら「センコー」かと嘲笑されたのを今でも痛烈に思い出す。川合健二も空を仰いでウーンと言ったきりであった。学問とは言わずとも学芸の師であった渡辺保忠先生は踏跡の無い荒地を行けと言って下さったが、教師になって大学に戻ったわたくしを見て不思議な表情を浮かべたのを記憶している。

大学には荒野は無いから。

しかし、初期の教え子達がそろそろ育ってきた。40代になって実力を蓄えてきたのを知る。又若い世代にも見るべき人材を幾たりか得てはいる。彼等をわたくしの作品だと言うわけにはゆかぬが、その一部は確実に作った。そんな自負がある。それが無ければ教師は無惨である。

761 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十四日

午前中学部レクチャー、12時前了。キャンパス中庭で諸々の打合わせの後新宿で昼食と打合わせ。FUKUSHIMAの件。佐藤研吾を相手に話しているうちに仲々良いアイデアが生まれたのは有難かった。そのアイデアは現在バークレイの知り合いのネイティブアメリカンの研究者達がすすめている、アメリカ先住民の居留地に関する問題と関連する。

アメリカ先住民(ネイティブアメリカン)の大半は政府に指定された居留地に居住している。そしてその居留地はアメリカの核開発による廃棄物の処理場の近く、あるいは只中である。

わたくしはその事実を鎌田遵氏の『「辺境」の抵抗―核廃棄物とアメリカ先住民の社会運動』(お茶の水書房)2006年、『ドキュメント・アメリカ先住民』(大月書店)2011年、『ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在』(岩波新書)2009年、などから学んだ。氏の著作に『福島原発避難民を訪ねて』(岩波新書)2011年、があるにも関わらず、福島原発事故の問題がアメリカ先住民の核廃棄物処理場との問題と将来極めて酷似するであろう事に気がつかなかった。うかつであった。バークレイからアメリカ先住民の住宅のコンペがあるので参加しないかと呼びかけられ、佐藤研吾に参加させる事にしたが、まだ気付かなかった。

先日来、福島原発の問題に何等かの形でコミットしたいと切実に考え始めてはいたが、それはあくまで国内で何かをプレゼンテーションするという枠の内での思考であった。

昼飯を食べながら、どんなプロジェクトを起こそうかと話し続けるうちに、フッとこのバークレイのプロジェクトを思い出した。

それでモヤモヤは急に焦点を結んだ。

アメリカ先住民の居留地とFUKUSHIMAを関係づける事にした。

「不安の中のエネルギー・迂回する小さな方法」

―ネイティブアメリカン居留地とFUKUSHIMAが共有するもの―

と命名する。プロジェクトを立ち上げる事にして、昨夜遅くサイトにONした。

今週末の「世田谷式生活・学校」でもそのスタート(プロジェクトの出発)を発表する事にしてすでに準備に入っている。4月28日の世田谷式生活・学校には是非とも足を運んでいただきたい。

要するにバークレイのプロジェクトと世田谷式生活・学校が結び付いたのである。頭の中で。世田谷区長・保坂展人氏にも28日にはプレゼンテーション(一部を)したい。又、バークレイサイド、つまりはアメリカ先住民サイドにも連絡した方が良いだろう。

保坂展人区長は世田谷区を拠点にクリーンエネルギー展開への実践を考えている。しかし事はそれ程容易ではない。野党的批判思考の中からだけでは実践の径は拓く事が出来まい。

しかし、区長は福島に大きな関心を持ち続けている。福島原発30KM圏内の将来は、ひいてはより広大な地域が置かれている状況はアメリカ先住民が今も置かれている状況に近いのである。

その考えをベースにしてプロジェクトをすすめたい。

短兵急な答えは容易には得られまい。が事は切実でもある。せっかちな事もせねばならない。気の長い考えも展開しなくてはならない。

四月二十五日

7時離床、メモを記す。今朝もおだやかな朝である。

4月28日の「世田谷式生活・学校」ではほんの一部「不安の中のエネルギー・迂回する小さな方法」を述べねばならぬが、やはり参加者には唐突であろう。穏やかな区民の皆さんには連続してグリーン・バザールの計画を話し続けなくてはいけない。

760 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十三日

午後、東陽町竹中工務店東京本社。29日の気仙沼プレゼンテーションの打合わせ。夕刻新宿ビルで佐藤くんに細かい指示。そしてFUKUSHIMAプロジェクトの概要を話す。不思議なもので他人に話しているうちに中身の意味らしきが次第にはっきりとした輪郭を帯びてくる。

四月二十四日

7時半離床。寝床で今朝の学部レクチャーの冒頭、読んでみたらの本の選定をあれやこれやと。そして訪ねるべき建築のアレコレも。

結局、ヘンリー・デービット・ソローの『森の生活』と浦安のディズニーランドとする事を決める。

良い組合わせだとは思うけれど、学部生に解るかどうかは覚つかぬ。

8時になったら天王台の馬場昭道さんに電話してみようと考えながらメモを記している。

もう毎早朝のメモは生活の一部になって久しい。始めは何の為に自分をウェブ世界にさらすのかの意味も考えずに始めた事ではあるが、十数年続けているうちに、今ではこのメモを記さずして生活は成立しない程になっているのを知る。

何よりわたくしの如くのズボラな人間には、何よりの事であったのだ。

以前にも書いたが自分の脳の回転速力はペンを持って字体を描くスピードが最も適している。言葉(話す)のスピードはわたくしには適さない。それは速過ぎて脳が実ワ追いついてゆけぬのだ。要するに高速回転に適していない。ズルリズルリの描き文字での思考が適している。

だからこのメモはわたしの脳の思考力のトレーニング場になっているようだ。今朝は穏やかな朝で、南の梅の樹の葉が全面の開口部一杯に生い茂ってくれて良いスクリーン代わりなってきた。これからの数ヶ月は世田谷村は良い。自然と共に在り、しかもぬるま湯の快適さでもなく、肌を刺す風の痛さでもない。自分の身の廻りに自分の自由らしきが拡がってくれるのを知る。良く考える季節としたい。

昭道住職に電話したら、声に張りが出ていて一変している。良かったなあ。人間の生命力は言葉の中身よりも更に深く、声そのものの響きに表現されるのを知る。身体自体が音の響きの共鳴箱みたいなものなのだろう。実に身体は宇宙である。急に空腹を覚える。

それにつけても佐藤健は誠に惜しい事をした。今もまだ無念である。しかし、こういう事になっていたのやも知れぬ。佐藤健の記憶が自在に働いて、それで昭道住職を助けているのだろう。

759 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十一日

昼頃世田谷村作業室発。常磐線我孫子乗換え、成田線新木下車。駅よりテクテク少しばかりの登り坂を登る。途中気象台公園の芝生で子供達が腹ばいにハイハイして遊んでいる姿にしばし見ほれる。地べたにはって遊ぶ子供達を見たのはもう昔々の事のように思う。でも着ている服は勤め人の消費者感覚で小ギレイでスマートである。勿論この辺りに専業農家があるわけもなく、いわゆる百姓の子供達ではない。百姓の子供が公園で遊ぶ筈もないというのはわたくしの愚かな先入観であろう。この辺りの地付きのコンビニエンスストアーらしきのたたずまいは中々良い。自動車道に面して露店の如くに商品を並べ立て包装も一切無いのである。

でも福島原発事故で我孫子の人口が近代になって初めて減少したと聞く。子供達の生命を心配して母親達が脱出しているらしい。

気象台公園の芝生に腹ばいになっている子供達も大丈夫なのかな。俺はもういいけれど、この先この子供達は長く生きなければならない。

14時過天王台病院着。昭道住職の個室へ。丁度院長がいたので色々と尋ねる。

その後昭道住職とボソボソ話していたら、宮崎市の幼なじみという村上さん来室、三人で雑談を続ける。随分長い事話したような気がするが内容は忘れた。陽が傾き別れる。村上さんの車で送っていただき19時半世田谷村に戻った。

四月二十二日

6時半離床。昨夜は柄谷行人の本と、磯崎新の本を併読した。一度、作家論磯崎新の書き方を変えてみようと決心する。率直なわたくしで書き続けてはいるし、それ以上でも以下でもありはしない。でも、わたくしの明日が中々視えてこない。これはあんまり良い事ではない。

一日に一行でも書きながら、だからこういう風に具体的に生きれば良いのかあるいは表現すれば良いに違いないの智恵もやって来てくれないと何の為に書いているのか判らなくなる。要するに、わたくしは創作家の一人として作家論を書いているのであって批評家として書いているわけではない。

ともかく、うまくいくかどうか判らないけれど、昨夜辿り着くべくして辿り着いたやり方で、それをやってみるつもりだ。その価値はあるだろう。これ迄書いてきたモノも修正する必要はない。

9時過今日の広島、木本一之さんと会う段取りをすすめる。

昨年、真栄寺で日本仏教会理事長信楽峻麿氏を囲む一泊がけの勉強会があった。そこでの朝の会でわたくしは信楽氏に質問した。日本仏教は、と言うよりも浄土真宗は福島原発および原子力発電の問題に対していかなる哲学をお持ちなのかお聞かせいただきたいと。

わたくしの他は皆浄土真宗門徒であり、僧侶であった。明快な答えは得られなかった。

その後信楽峻麿氏の本、『親鸞とその思想』(法蔵館)を読み、生意気な質問をしたなりの勉強もした。

信楽氏は現本願寺教団のあり方に対して鋭い批判を続けられている方だとも知った。

会の後で昭道住職にあの質問をしたのは何者であるかと問われたそうだ。やはり気にはなったのだろう。

宗教界は原子力の問題に対応しなくてはいけない。

浄土真宗は阿弥陀の光が根本である。光の本体は太陽である。原子力発電は太陽の根本運動である核分裂を人工的に小さく作り出したものだ。

それが、つまり人工の太陽を作り出す事自体が宇宙の摂理とも言うべきに反するのか、反しないのかは全ての世界宗教は答えなければならない。と、わたくしは考える。

西欧の科学、知の大基本の骨格はキリスト教に在る。ニーチェが「神は死んだ」と言明した神はキリストの事であったが、その思想の形式は実にキリスト教的色合いが濃厚である。仏教に存在意義があるとしたら、その科学、知の象徴とも言うべき原子力の問題に対して明晰な考えを表明すべきであろう。

宮沢賢治の如くに“日照の夏はオロオロ歩き”では今は困るのだ。東日本の被災者、死者と共にオロオロ歩くのは宗教家として最低限の責務であろう。しかし、指導者(エリート)はそれだけでは不足であるのは自明の理である。

しかも千葉、すなわち関東は親鸞の活動の場であった。親鸞はたった15名程の門徒と共にこの地を説法して歩いた。

その土地が今放射能汚染の中にある。幼な児を持つ母親はこの地から逃げ出して人口が一部減少しているという。 この大事に仏教界、なかんづく浄土真宗は原子力の問題に対して何等かの考えを発するべきであろう。

再び言うが原子炉内部で起きている事は人工の太陽の運動そのものだからであり、それは宗教家(坊主)にとって根本的な問題であろうと思うからだ。

11時半烏山商店街のコーヒーショップにて木本一之さんに会う。

木本さんは今正念場である。わたくしは常に正念場の連続だけれど、木本さんは広島山中で一人でWORKしてるからその分やはり鈍くならざるを得ない。

このまんまあのような工芸置物を作り続けていて何かを得られる確信があるのかを問うた。木本さんの基底には良いモノを作り続けていれば良いのだという立派だけれど傲岸な考えがある。その良いモノの本性を問うても不明である。

有り体に言って、その良いモノという考え方自体が全く社会性、芸術家にとっては世界性を帯びていない。

場所を変えて話し続けた。

木本さんは46歳、わたくしとは上海の早稲田・バウハウスWORKSHOPで初めてお目にかかった。それから幾つかの仕事を共にした。

悪い仕事ではなかった。でも、わたくしにも責任が半分以上あるのだけれど社会性に欠けた。

昔の事は良い。我々は前を向いて歩き続けなくてはならない。

わたくしは彼に初めてFUKUSHIMAの事で何かをやりたいと言った。批判ばかりではいけないのは知り尽くしている。共に創作者の道をいくのだから。

FUKUSHIMA原発事故の事はわたくしの能力、才質には余りありコミット不能であると考えてきた。しかし良く良く考えてみるにやっぱり何らかの行動を示しておかないといけない。と思い直し始めた。大方その筋道も自分では描いてみた。まだ我ながら恐いけれど。わたくしだって、正念場なのである。

今この思い込みを他から照らしてみて、確信を得られたら行動に移そうと考えている。

木本さんとは何か考えがあれば手紙をくれと言って別れた。良い手紙が返ってくれると良いのだけれど。

758 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十日

10時40分。院レクチャー3講。12時20分迄。まだ考え切れていない世界の話しをしたので自分でもスリルがあった。中庭で少しの打合わせの後、去り雑用。雑用と記し始めると、ほとんど全てが雑用のような気もしないではないが、公開に値しない、あるいは気がすすまぬ位の事である。次第にそれが多くなるような予感もないわけではない。

18時半世田谷村に戻る。

四月二十一日

昨夜は早く休んだが、夜中に一度目を覚まして読書、再眠した。9時半離床。幾たりかの電話。広島の木本一之さんが上京して会いたいとの事、今日はこれから天王台の平和台病院に昭道住職を尋ねる予定である。

757 世田谷村日記 ある種族へ
四月十九日

12時20分、田町の建築会館。士会連合会の作品審査会。村松映一氏がわたくしよりも先に来ていて資料審査をしていた。すぐに多くの書類写真の第一次審査。審査員になって3年目になるが毎年世の中の建築の動向が感じられるので楽しみである。150点程を3時過迄かけて見る。日建設計の桜井副社長他、鈴木博之、難波和彦等の審査員も次々に入る。3時20分個人での審査を終えて一人抜ける。地下鉄を乗り継いで早稲田へ。途中早稲田坂下で余りの空腹にうどんを喰べたがまずかった。仕方ない。学生街なんだから。

17時前大隈講堂。17時新入生オリエンテーション。18名の専任教師が全てスピーチをする伝統の式である。17時半過わたくしのスピーチを終え抜ける。18時過少し遅れて新大久保近江家に到着。すでに鈴木博之、難波和彦両先生が待っている。アレコレ話す。鈴木先生のライフワークの一つでもある国立近現代建築アーカイブに納める実質的な建築家の選定その他が始まるが、その話は出なかった。

難波さん大野さんのお別れ会に呼ばれなかった問題等で談笑。

勿論、わたくしも自分の作家論磯崎新への鈴木ブレイク問題も話題にはしなかった。色んな事がからみ合い過ぎている。久し振りの近江家のソバは美味であった。

池袋の魔窟ワインBARに移る。ワイングラスを指で演技しながら飲んでいるような女性客がおしゃべり魔女マダムと二人でいた。瞬間、「アッ今日は不美味な夜になるな」と直観する。幻のエリザベス二世女王陛下は何と四国巡礼へおしのびの行幸だそうで池袋離宮の親戚なのかは知らぬ女性客がやってきたりした。鈴木、難波両先生はどんな話題でも古いレコードの曲にもついてゆけるフレキシビビリティ(ビリティに直さず)を持ち対応していたが(ワインBarで対応すべきは女主人であるべきだろうが)、わたくしは生来のヘソが出鼻でくじかれて曲り遂にその中に入れず、一途に疲れるばかりであった。まことに情けない。しかし両先生の元気振りには驚いた。Linda Ronstadtと教えられた女性歌手が何のかげりもなく、ろうろうと唄う歌にもこちらがめげるばかりなのであった。

鈴木博之(ここは先生はつけぬ)には作家論ブレイク問題のエリートと大衆について議論を吹っかけようと虎視眈々と狙っていたが、駄目であった。

わたくしと彼の元気振りに落差があり過ぎて勝負にならぬのである。

人間、年はとっても疲れを見せては駄目だと痛感する。

さればと、これ又絶好調の難波先生に「アメリカンポップより三橋美智也であろう」とたしなめたつもりが「アッ、トンビがクルリの人ね」と一蹴されこれ又仲間はずれのカヤの外なのでありました。

おまけに指でワイングラスの女性客がやはり何処かの劇団の女優であるのが判明して、もう出口無しの本物の魔窟になってしまった。

いつも鈴木さんにおごってもらっている。この魔窟は。だから今晩くらいは俺が払おうと思っていたのだが、完全に気分は硬化してしまい、又も先生が払うがままに任せた。21時過ようやく了。コイツが一番絶好調の魔窟マダムが大通り迄見送るという更に最悪の状況に終止符を打ち、難波さんにTAXIで新宿駅迄送ってもらう。

ヘトヘトになり23時世田谷村に辿り着いた。夢一夜ならぬ魔の一夜であった。

四月二十日

6時離床。メモを記し、今朝の院レクチャーの予習。院レクチャー3講は昨夜随分手を入れたのだが、今年は更に冒頭に附加してグレードアップした。

その部分の英訳と図化の下準備をして連絡し、10時40分のレクチャーに間に合わせてくれるように頼む。9時半世田谷村発。

756 世田谷村日記 ある種族へ
四月十八日

13時半研究室ゼミ中途より出席する。前半は渡邊大志先生に任せた。14時20分地下スタジオ演習G。デービッド他へのクリティークレクチャー。18時了。19時新宿味王で一服、21時世田谷村に戻る。気仙沼臼井賢志さんと連絡、台湾の件その他。日本では石原慎太郎東京都知事が尖閣諸島を国に代って所有したい旨を発表し、再び中国との間は緊張するだろうが、日中関係と共に日台関係は非常に重要になる。李祖原(C.Y. LEE)は台湾のリーディングアーキテクトであるばかりではなく、中国大陸との関係も大きい。その感覚と力学デザインは大いに学ばなくてはならない。23時半休む。

四月十九日

6時離床。今日はあっちこっち動かねばならぬ。体調が気になるところだが、大事にしながらやり抜くしかない。と、それ程大ゲサな事ではないが。どうやら最近のわたくしのこのメモは読む人によっては内の吐露が多過ぎる風であるやも知れぬが、これは季節の変り目には誰にでもある事だろう。

作家論磯崎新15がONされていて、だいぶん前に書いた草稿なので自分でも熟読した。微修正したい処もあるが、これはこれで良いだろう。どんな風の吹き廻しか明後日に磯崎新、鈴木博之両氏と会う事になった。若い頃であればアレコレ気を使って少し緊張するだろうが、感覚が恐らく鈍くなっているのだろう。作家論の途中に小さなトンネルを通過するような感じの会合になるかなとは思わぬでもない。しかし、読者の多くにとってはそれさえも過剰な思い込みと眼に写るのだろう。でも鈴木博之さんの再三の作家論ブレイク問題は無視できぬのだ、当事者には。

明後日の前に、今日はXゼミナールの難波和彦さん、そして鈴木博之さんと昼から所用で会う。その後新大久保近江家で会合の予定もある。広い世界の事を考えたいと思いながら実体は固定された人間関係の中の、いわば井の中の蛙になっている。しかしながら今更変りようはない。ただ俗論ではあるが、そのそれぞれの井戸が深い事を祈るばかりである。磯崎新、鈴木博之の心中を思い計る等の馬鹿な事は勿論しない。大体、お二人共にそんな水準はとうにくぐり抜けている、あるいは端から持たぬタイプの人間であるから。

山口勝弘先生よりお葉書届く。芸術家も山口勝弘級になるとワガママもどっしりと絵になっていて光り輝くばかりだ。

わたくしのベトナム・ダナンの仕事に関心を示されているようなので少しのお知らせをしたい。が中途半端はいけないのでやはり葉書でお知らせする事にする。

山口勝弘先生の葉書は一つの作品である。片手で全てをなさねばならぬので少し字体、その配列が歪み、斜めになる。それがまことに、実に美しいのである。先生もそれを意識しているとこが、これ又実に笑える。「僕の手紙は評判いいんだ」だって。もう先生は何を言っても光るな。わたくしもあんな字、及び配列を書きたいものだが、実にわたしの字は小学生の頃から汚いのを自覚する。藤森照信の字も読めたモノではないが自在な野性がある。わたくしのはただチンマリと汚い。字は人間を表すといったのは誰か知らぬが、恐らく習字の先生なのだろうが、イヤな事を言ってくれた。

でも肉筆で字を並べてゆくのはある面白さがあるが、まだそれが何なのかは言えぬ。クセナキスの弟子の高橋悠治ならば字体と指の筋肉の動きの関連そして書く道具の関連を言うだろうな。あの人の孤立振りも光る。

755 世田谷村日記 ある種族へ
四月十七日

10時40分学部レクチャー。12時過迄。中庭で少しばかりの打合わせの後外へ。いささかの雑用。15時半研究室へ戻り、小休。16時竹中工務店の方々来室、打合わせ。17時過了。研究室を去り19時過世田谷村。正しい時間の夕食を取り、すぐ休む。少々疲れがたまっているようだ。でも眠れる時間でもなく本を読んだり眼を閉じたりの修道院生活である。24時休む。

四月十八日

7時半離床。メモを記す。用も無いのに誰彼となく電話してみたくなるのは決まって身体気持共に不調の時である。不調の時には他人の声を聞きたくなるものだ。それでも自分の不調を知らせる事はなく元気をよそおうのが大方である。これは見栄と意地であろう。ようやく大人になってきて、自分がそうでおれば他人様(電話の相手)もそうなのだろうと最近は気付いている。それ故に妙に明るい声の応答が返れば、この人物は今恐らく何か辛い事があるに違いないと考えてしまう。何の為に電話しているのかさっぱり解らなくなる。

わたくし自身はメールもやらないし、アイパッドも使えない。ケイタイだって持っていないんだから。もう完全に化石である。友人達の中でも、もうケイタイも持たぬ人間は数える位の超少数派である。持ちそうにないなと思っていた者共も続々と落城して、君持たなくちゃイカンぞ、ウーン。などと言ったりする。わたくしはこれで記憶力は弱いが妙な執念を持っていて、この男は当初は恥ずかしそうに言い訳がましくケイタイを持っていたのにと、いつの事だったか、ワンス・アポン・ナ・タイムをクッキリと思い出して、呆気に取られたりもするのである。何故ここで昔々と書かずに妙なイングリッシュまがいを書いてしまったのか?妙なもので突然それに類する唄のメロディーが耳の奥に流れ込んできてしまったからだ。これは体調は極度に悪いのではないだろうか。

8時40分真栄寺・馬場昭道住職に電話する。この住職は、60歳で死んでしまった佐藤健相手に「寺は授かりものだから、いつでも誰かに渡せる」と心にもない建前を言った。

時々、健は恐ろしいドスを抜く事があった。「オー、そうか、じゃあ俺によこせ、今すぐによこせ、俺は得度もしてるし、新聞記者より住職になりたい。すぐよこせ」と迫った。眼はギラリと光って言葉は抜身のドスになっていたと言う。「恐かった。泣いてあやまった。それで寺を渡さんですんだ」と住職は遠くを眺めて言った。

それを聞いて以来、わたくしは健には下らぬ建前は言わぬように心がけた。肉声の会話は時に抜き差しならぬ真実に対面する事がある。

いまの附合いはほとんどメールですませる。上記のやり取りをメールでやれば喜劇、笑劇の類でしか無い。

月並みな言い方にはなるが今の附合いはメール的になり、飛躍するが建築デザインもメールそのものの如くになった。俗に聞こえるだろうが平板に過ぎる。建築はメールの中に消失してしまうのではないか。それで良いとする者も多い。圧倒的多数はそうなのだろう。

ところで昭道住職にはこんな話しもある。これは自身で自身の著作『ちょっと良い出会い』(鉱脈社)に書いてあるのでプライバシーの侵害にはならない。

その佐藤健がすでに死を覚悟の病床で住職を再びギラリと見据えて問いつめたそうだ。

「昭道、お前と俺の附合いの事だが、お前は結局俺を利用しただけではないのか」

一切の言葉を返せなかったという。そりゃそうだろう。一晩考え込んでそれでも次の日に病院に行った。そして「スマン、利用しただけだった」と再び泣いて謝ったとの事。良く泣く坊さんなのである。流石にそれが別れであったのだろうが健も珍しく泣いた。そりゃそうだろう。

毎週こんな事が続いたらとても身体はもったものではなかろう。平坦でつまらぬのも実に宝ではある。でもその平坦さは一生に何度かの割け目をのぞき見て、初めて価値のある平坦さであろう。

別に若い人に言い聞かせる為にこんな事を記している訳ではない。自分に言い聞かせている。愚者は日々自分に言い聞かせねばならぬのです。

電話に出た昭道住職は元気そうな事を言っていた。それで、わたくしは少々不安になり、週末天王台迄行ってみる事にした。

この坊さんは日本で有数の坊さんである。それだからこそ書く価値もある。

ちなみに我が坊さんは今病室でエルビス・プレスリーを聴いて足の手術のリハビリに励んでいるとの事。何を聴いてるんだと突っ込んだ。「監獄ロック、G.Iブルース、ラブミーテンダーである」と答えた。マア、それなら良かろう。若い看護士に、へえこれがエルビス・プレスリーなんですかと言われてるらしい。恐らく説法ぶってるんじゃないか。

昨夜、作家論・磯崎新15の注釈入りの準備を読んだ。今夜ONされるのではないか。

754 世田谷村日記 ある種族へ
四月十六日

15時半研究室にて再びベトナム人民委員会中村さんにお目にかかる。色んな話しをしているうちに突然双方が納得できるアイデアがやってきた。プロジェクトの進め方、ベトナム側(ダナン)とのコミュニケーションの作り方とでも言うべきものである。とても具体的なもので、これならリスクも小さく比較的容易に進められるであろう。早速このやり方を実行してみようと決めた。面白いものでこういうアイデアはいつも対話の中から得られる事が多い。対話は無駄な事も多いけれど必須だなやはり。

特に建築(都市・庭園を含む)プロジェクトは様々な力学が働くので一筋縄にゆかぬ事が多い。グルグル堂々巡りしているようでも打合わせは必ず螺旋状に上昇しているものだ。対話が不可欠なのだ。良いアイデアが得られて良かった。

中村さんはこれから更に打合わせを重ねて深夜便のバスで関空へ、明日ベトナムに帰る。実にタフなネゴシエーターで明るいのが何よりの人で、わたくしにはありがたい。

17時過新宿味王で遅過ぎる昼食をスタッフと、すぐに別れて烏山へ。長崎屋のオバンが角の寿司屋で夕食を取っていて、ガラス越しにわたくしが通りかかるのを見て、走り出て声を掛けられた。ひととき寿司屋のカウンターでおしゃべりする。

話しながらこの人を大衆とひとくくりにして良いものかやはり気になるのである。前にも書いたがオバンは長崎原爆の被爆者であり、もうもうたる土けむりの中からはい出てきたら親兄弟皆消えていた。わたくし等には想像もつかぬ体験の持主で、だからなのか生来なのか知らぬがとても控え目で思慮深く、月並みな表現ではあるが他人への思いやりがあり、しかもそれをひっそりとする。

「学校行ってないから、学問無いから」が時々の口グセであるが学校行ってもロクな人間はそれ程に見当たらぬので、これは当を得てはいない。

民俗学者は常民という言葉をまさに発明したが、わたくしの知る限りでは宮本常一先生のフィールドサーヴェイによく登場してくるような人格ではなかろうか。でもオバンを今更常民と呼んでも、当然アナクロであろうし、話しながらこの人は何者だろうと考え込んでしまうのであった。

磯崎新さんにはかつて良く高級イタリア(イタメシ)料理店やその他で、ごちそうになったがそこのシェフやらオーナーにはこの手の気持の肌ざわりの人間は少ないように、今思えばそう思い出す。

長崎屋のオバンが常民(筋金入りの大衆・民衆)であるとするならば、彼等は何者であるか?イタリアやフランスで料理を学び日本で店を持つ。場所としたら麻布、六本木界隈、つまり消費のまさに中心地である。世に言う建築家達、デザイナー達の生態と何かわるところがあろうか。

さすれば、大方の彼等(わたくしも)は同様に何者であるのか?長崎屋は世田谷のバス停前であり、まあそれと比較すれば周縁か。店構えは時代おくれ振りのウルトラ周縁であり、わたくしも最初に入るのにはいささかの勇気を必要とした。

外のバス停群に行列している勤め人達は全く入り込めぬ風格、労働者用のラーメン屋である。

長崎屋のことはやっぱり充分に考えてみる価値がある。

四月十七日

7時離床。メモを記す。今朝は学部レクチャー終了後雑用で外出、16時に研究室に戻り、竹中工務店の面々と29日の気仙沼プレゼンテーションに関する打合わせの予定。ダナンのスケッチも本格的に開始したい。

ダナンの中村さんは重い荷物でちゃんと関空に到着したのだろうか。

753 世田谷村日記 ある種族へ
四月十四日

11時半ダナン人民委員会中村氏、安西直紀氏と会う。13時了。新宿で中村氏と昼食。15時別れる。19時半世田谷村に戻る。予定通り乱読モードに入る。

02時迄乱読。我ながら凄惨な雑読である。本をひっかぶって、その中につかっている感じ。狂気のさたとしか自分でも考えられぬ。旅の替りなのかもしれない。

四月十五日

7時半離床。すぐに読書。乱読であるが、おおよその筋はどうやらある。

背表紙が呼ぶの如くのセンチメンタルではない。でもその筋らしきは理解できぬと思われるので書けない。食事だけは一日三食朝昼夕に取り、他の時間は全て読書にあてる。これはほとんど入院患者状態である。

わたくしのサイトは又もや接続不能になっていた。インターネットのシステムも見方によっては非常に脆いのを度々痛感する。

昨日から今日一日にかけて読んだ本の全ての断片だけでも記録しておいたら良いのかも知れぬが、これも又接続不能としか考えられない。脈絡は、一人の人間がチョイスしているのだから必ずあるに違いないが簡単な言葉では表現できない。自身でも異常だなコレワと思うこの読書体験(考えてみれば二ヶ月に一度くらいのペースで襲ってくる)は自分の無意識層の一部を形成している、深いところではあるまいが、つかみ易い無意識層ではあるが。

02時休む。他人の目を意識しないでする事は実はあんまり公開したくないモノだ。

四月十六日

7時離床。今朝は4時に目覚めて気になっていた本の一部を再読した。

梅原猛の「塔」である。第1章、第2章のみを読んだ。梅原猛の著作は良い注釈がついていないが、本文中に本当は読むべき文献がまだこれ位古くに書かれたモノには羅列されている。この本は1976年に書かれた。

この人物の著作は不思議である。司馬遼太郎のモノは再読したいと思わぬがこの人のは妙に気になって捨てられないのである。

芝居作りの自慢は流石に捨てたが。

実はほぼ丸々24時間程かけて乱読した20冊位の本の最後に読みたいと思ったのが、塔の第1章、第2章いわゆる日本古代の構築物、陵墓類に関するモノであった。梅原猛には誰でもその自慢振りの単純さにへきえきするだろうし、わたくしの如き古代史のド素人が読んでもおかしいんじゃないかと思う事が多いが、それに耐えて読むと時々ギラリと光る本来の直観に触れると思われる処が少なくない。もう、それぞれの人間の直観らしきしか信用できなくなっている。

同様に村上春樹の長編は読もうとも思わぬが昨日読んだ「東京奇譚集」の中の「ハナレイ・ベイ」はやはり気になって捨てられない。実に話しの作り方が巧みであるからなのか、多分そうであるからなのだろうが、それでもここにはイヤな俗臭が感じられない。イヤな俗臭とは自分自身のそれをも指してはいるが、この「ハナレイ・ベイ」はわたくしには、やっぱりうまいなあ、このヨーグルトという感が横溢するのである。

ハワイの事を時に書く池澤夏樹の良俗知識人の俗臭が無い。同じハワイを描いてもだ。環境問題も勿論言わぬ。

これが今の時代の平板さの極みなのかも知れない。がしかし、このような無味無臭さを描き上げる文章の巧みさは桁外れの力量なのだろう。正反対のところに中上健次のモノがあったが、あの人のモノ、しかも良品には香りがあった。香りとは単刀直入に匂いであった。中上健次の良品には全て夏フヨウの匂いがあり、それが言葉の組立の理解を随分助けるので、それで好きだ。

8時45分気仙沼臼井賢志さんと連絡。話しは「ハナレイ・ベイ」や中上健次から一気に現実の気仙沼になる。29日の気仙沼での恐らくは最終プレゼンテーションに関して。又、台湾との連携事業に関して相談する。

臼井賢志さんは気仙沼の大船主である。世界中の海に船を配してマグロを取っている。わたくしなどより余程赤裸々な地球感覚の持主でもある。

カナリヤ諸島やアマゾン河口沖の海流や風の流れ、マグロの動きを知り尽くしている。当然マグロの値段、そのマーケットそして遠洋漁業の船のオイル代も含めた世界性をも体現している。

わたくしとは30年来の盟友でもある。臼井さんは津波にギリギリのところで遭遇するのを避けた。でも事務所倉庫は皆やられた。松島の市場もやられた。

命をとりとめての臼井さんは前とは少しちがう。考えがスッキリ明快になった。

そりゃそうだろう、あんな目に会って生残ったんだから。

わたくしもあやかりたいが、本ばかり読んでいてはとうてい難しいだろう。

気仙沼の件では全力を尽す。それしか無い。

今日は午後遅く、ベトナム人民委員会の中村さんと再々打合わせの予定。

只今10時、しばらくは世田谷村作業室でWORKをつづける。

752 世田谷村日記 ある種族へ
四月十三日

10時40分院レクチャー。12時過了。外国人学生の知的好奇心が旺盛だと知り、冒頭の思考概要はわたくしなりの下手な英語で。日本人学生の反応は少なくともこちらには伝わってはこない。

小用があり少しばかりの伝言を残し去る。雑用および明日の段取りをすませ21時世田谷村作業室で電話を待つ。全て処理して24時休む。

四月十四日

7時半離床。新聞を読む。昨夜来探していた本がテーブルの上にポッカリ出現している。その本は『中上健次選集1、枯木灘・覇王の七日』なのだが、その解説、柄谷行人の中上健次の世界性を再再読していた。この事をワザワザ書くのはこういう理由である。

わたくしは建築史家鈴木博之さんとは実に長い附き合いで、恥ずかしながら盟友である。別に友人達にグレードをつけているわけではないが、なれ親しむ類の友人ではない。緊張して親しむべき友人だ。作家論磯崎新はわたくしの作品にしたいと考えて書きすすめている。これはいかな盟友が何と言おうと書き進める。

しかも鈴木博之さんがそれに大きな疑問を抱くだろうとは初めから解っていた。でもとやかくの説明(理由づけ)はしなかった。どんな説明をしても建築史家としての鈴木博之は完全には納得せぬだろう事を知っているからだ。勿論彼が文句をつけるのは解っている。こんな私事を公開のサイトにくだくだ書く失礼さにも実は明快な理由がある。鈴木博之は日本を代表する建築史家であり、磯崎新も日本を代表する建築家の一人である。二人共に私という固有を持ちながら、同時にすでに公の顔を持つ。だから全てとは言わずやり取りは公にする価値がある。当然なにがしかのこのサイトの読者にも有益な筈だと考えているからだ。別にエンターテイメントが主目的ではない。

建築史家鈴木博之の再三のブレイクの連続により、わたくしの作家論磯崎新の一つの重要な軸が浮き彫りにされた。「大衆」「エリート」の像をどう結んでいくかである。

これは日記であるから、普段の日記スタイルと連続するのが自然である。大衆とは誰かは知的選良とは何者かよりもずうっと悩ましい。

わたくし自身も長崎屋のオバンやオジンやその知り合いと交わっている時にはまあ大衆である。彼等の用語で言えば庶民だ。

彼等は磯崎新は知らない。恥ずかしながらそこではわたくしは「先生」と呼ばれている。彼等は建築家、わたくしに則して言えば建築作家としてのわたくしを全く知らぬ。設計屋さんらしいのは知っているが、勿論長崎屋で建築の話しは一切しない。彼等も関心は薄い。イタリアの食堂のオヤジはルネサンスを語るが世田谷の食堂のオヤジは語らない。でも花の話しの水準は高い。

大阪で安藤忠雄さんとTAXIに乗った事があった。運転手さんは当然安藤さんを知りしかも「先生から金は取れまへん」とTAXI料金を取ろうともしなかった。安藤さんは勿論支払った「つりは要らんで」と運転手さんを恐縮させた。安藤忠雄がすでに大衆のなにかのアイコンらしきになっているのを身体で体感した。

わたくしの大衆はそんなおぼろな像を結ぶ。

磯崎新はそんな大衆とは確かに無縁である。鈴木博之のいう確かにエリートである。磯崎新の世界は大方そうである。

では、わたくしの作家論は誰に向けて書いているのかが次に問題になる。わたくしなりの、わたくしのエリート達に向けて書いている。

長崎屋のオヤジはわたくしの作家論は読みたくもないだろう。わたくしのエリートは誰か、それはアニミズム紀行の読者層である。日本全国でせいぜい500名にも満たぬ。固い層は250名程度であろう。そういう人達に向けてわたくしの作家論は書き進めている。要するに、わたくしは作家としての中上健次よりもその解説を書く柄谷行人により関心が深いのである。

柄谷が言う、中心、準周縁、周縁をわたくしなりにエリート、準エリート=準大衆そして大衆と置き換える必要らしきを感じる。

勿論、ポイントは準と呼ばざるを得ぬ何モノか。柄谷はそれをアメリカ中西部に視る。つまりキャピタリズムの中の異国である。作家に代表させればフォークナーのようだ。わたくしはアメリカ文学を論じる事が出来ぬからそれ以上は言えない。

9時50分磯崎新さんと久し振りに電話で話す。御自身の身体におきている事を磯崎流に実に精緻に話された。

10時過小雨の中を世田谷村作業室発。ベトナム・ダナンの件で研究室へ。

751 世田谷村日記 ある種族へ
四月十二日

13時研究室。13時半ダナン人民委員会中村さん来室。3月にベトナムでは大変お世話になった。ダナン計画の正式な測量図を手渡される。打合わせを15時迄。その後新宿で昼食、ダナン計画の下ごしらえの為に時間を過ごす。いよいよ本格的に動かねばならぬ。21時半世田谷村に戻る。

明日の院レクチャーの予習をいささか。例年のベーシックな流れにより原理的な部分を冒頭に付け加えたのでレクチャーの構造が少しは進化した。22時半了。

鈴木博之先生よりのXゼミの投稿原稿が送信されてくる。その内容はXゼミナールのサイトにONされていると思うので読まれたし。わたくしの作家論磯崎新の基本的な構造の一つは、この再三再四にわたるわたくしの論へのブレイク=警告のシグナルによる批評への緊張感の中で形成されてゆくだろう。それが歴然としてきた事は自覚したい。

四月十三日

6時前離床。新聞を読み、メモを記す。

作家論磯崎新の絵解きを少し自分で試みる。勿論、鈴木博之先生の再三再四のブレイクに促されての事である。120枚弱まで書き進めている作家論磯崎新の冒頭に近く、わたくしは幾たりかの建築史家について述べた。それは無意識に近い直観でそうした。昨夜の建築史家鈴木博之の投稿を再読して、何故建築史家との私的関係ともいうべきを冒頭近くに置いたのかを考えるべきだと、今度は十二分に意識した。

鈴木博之は歴然たる建築史家である。

磯崎新は芸術家への志向が仄見える作家である。ただその内に歴史家への傾斜が強く隠されている。作家が歴史家の視線をなぞるというこれはもうぬぐいがたい性向がある。

歴史家は時に無私になり得る。それ故に諸学の王なのである。

作家はどんなアイロニーの衣をまとっても決して無私にはなり得ない。それ故に作家なのである。これ等の事は作家論磯崎新の、中心の一つになるやも知れぬ。ともあれ十二分に緊張して論を進めたい。

8時半小休。9時半世田谷村作業室を発ち、院レクチャーの為に大学に向う。

750 世田谷村日記 ある種族へ
四月十一日

10時世田谷村スタジオ発。11時過研究室。雑用。14時北園、加藤両先生来室。演習Gの相談。地下スタジオへ。提出された課題を見る。

デービットの作品発表からスタート。東西ドイツの統合の歴史も含めて自身の祖母のための椅子をデザインした。特別なモノでもなく美しくもないロッキングチェアーに着目し、それとアフリカの人々の原自己表現とも言うべき身体の装飾との組合わせを試みたいというモノ。お手軽な答えを用意するでもなく、思考のプロセスをクリアーにプレゼンテーションした。

良いプレゼンテーションであった。言葉がほぼ自身の思考として密着している。わたくしも、これには反応せざるを得ず、円空仏といわゆる正統な美術品としての仏像との対比についてをクリティークとして当てた。ロッキングチェアは円空仏と相通じるモノであろうという見方である。

彼はほぼ理解したと思う。英文の円空仏の本はあるかと質問があった。探さねばならない。

日本人の学生では3年連続このスタジオに参加している院生の考えが中々良かった。それなりに成長しているのを知る。

20時迄かかり、20名の玉石混合の、それでも人材なのだから全てに個々の次の課題を与える。

デービットには鬼子母神を彼なりにリサーチしてその思考を記述せよという課題。これは来週が楽しみである。

21時半教師陣総勢5名で新宿の味王へ。疲れを癒す。23時過世田谷村に戻る。

四月十二日

7時過離床。新聞を読み、メモを記す。

サイトにいささかの雑文を寄せ、明日の院レクチャーのシナリオの再検討を少しばかり。

749 世田谷村日記 ある種族へ
四月十日

9時過世田谷村発、京王線地下鉄を乗り継いで大学へ。10時40分学部レクチャー。フランク・ロイド・ライトの落水荘の紹介及び『住居論』吉阪隆正、『日本の住宅』藤井厚二、読書のすすめ。本論は東日本大震災と気仙沼市での実践について。

12時過了。研究室で院生の一部課題を見る。デービッドの思考力に手応えを感じる。バウハウス大学のツィンマーマン学長の退任と新しい役職の知らせを聞き連絡をとらなくてはならない。C.Y.LEEのハイライズ展のヨーロッパでの開催を依頼する事を決める。

14時半新宿で遅い昼食。雑用の後、18時世田谷村に戻る。

四月十一日

7時半離床。曇り、桜の花は散り始める。今日も学生達の対応に追われるスケジュールである。演習Gという演習科目は院生と学部4年生への対応の事実上スタジオシステムである。と自分で自分に言い聞かせて臨むつもり。

昨日かい間見たデービッドのプレゼンテーションには最良のクリティークと方向指示とアドヴァイスで応えねばならぬだろう。

彼の考えは特定の対象への個別解を求めるという出題に対して、その逆説性を見事についている。言わばアノニマスデザインの本体を直観しているのである。

彼には日本の円空仏の話しをしてやろう。日本の学生にではなくバウハウスの学生に円空の話しをするという、ここにも逆説が出現しているのだが。

作家論磯崎新が昨夜更新されて14迄進んでいる。他人事のように書くのはすでに15迄編集者に手渡してあり、編集者は読みこなして、サイトに注釈をつけ加えてONするという作業が課されているからだ。

恐らくはかなり高度な知性を必要とするだろうが、今のところは良くやっている。15からは作品論に入るので注釈のつけ方を作品論の枠組みにより適したスタイルに、全てとは言わずとも一部を切り変えても良かろう。

この編集はマンツーマンのゼミナールである。

図版の入れ方に工夫が必要だろう。

748 世田谷村日記 ある種族へ
四月九日

9時45分モヘンジョダロの遺跡、七本の姥桜の庭にて宗柳の夫婦、長崎屋オジン、オバン、そして猫の玉の主人と会い、アッという間の花見。よい一瞬であった。その後雑用にて過ごし、午後遅く世田谷村に戻る。気仙沼市役所より連絡あり、復興コンペの10点のヒヤリング対象になったとの事。

四月十日

6時過離床。学部レクチャーのシナリオ点検する。学部生に何を話したら良いのか毎年頭が痛いのだが、今年も又痛いのである。何か打開策はないのか考え込むのも毎年の事。今日は戸建私有住宅の講義は今年は出来ぬ事の理由を出来るだけキチンと述べる事にしたい。2011年3月11日の体験を述べる事から始めなくてはならぬだろう。

747 世田谷村日記 ある種族へ
四月七日

4時半過都立大学で木本一之さん等と会い、安西邸へ。今年は安西邸の桜は満開であった。恒例の安西直紀主催の花見の会。今年は沢山の中国人留学生が来ていた。ひと目で政治家らしきも来ていた。安西には安西の考えがあるのだろう。お父上母上と談笑する。庭の樹木の話し等をうかがう。突然長男の雄大が嫁を連れて出現して驚いた。「お前、どうしてここに?」「古い知り合いだからアタリメーだろ」「アッ、ソー」の会話。30才そこそこのガキが古い知り合いもないだろうと思ったが、マいいだろう。

横田画廊の横田くんとお目にかかり、山口勝弘先生のお話。安西くんの慶応高校のクラスメートとの事。「父がまだいつも山口先生とはテーブルをたたいてのけんかばかりです」との事で実に横田画廊と山口勝弘の関係は深いのである。

安西君くんの関係者(知り合い)にゲイリツ分野の人が、こんな形でいたのだと少しばかり驚き、ホッとした。

寒くなり、17時半頃去る。木本くんと新宿味王へ。雑談して分かれる。木本くんも工芸協会の顔になり始めて、ますます業界のカラに閉じこもる風が見えるので業界の工芸屋になったら、それでお仕舞だぞと話す。たった一人で広島の山中で鉄細工に取り組んでいるから仕方の無い事なのだけれど井の中のカワズになってしまうから気をつけたほうが良い。工芸屋は焼き物屋(陶芸作家と呼ばれたりもする)と似たような世界であるから一人天狗でゴロ巻いているのが大半なのだろう。仲々ムヅカシイ世界である。

20時過世田谷村に戻る。

四月八日

8時離床。朝食後再び眠る。12時半再び起きてメモを記す。今日の午後は若い頃(20代)の友人であった大野勝彦さんの会、お別れ会があり出掛ける。

大野さんはセキスイハイムの企画・設計者であった。若い時に考えた事をそのまんま企業化、商品化するという事を成し遂げた。住宅生産の工業化の具体化として、そのスケール(年産6000戸と記憶している)は世界にも例が無かった。

今現在の住環境の現実を眺めれば住宅生産の工業化=商品化は大きな問題を出現させているのは事実だ。しかし大野勝彦は建築生産の社会化にまで視界を拡張しようとしていた。そこで病を得た。若い時に大きな事を成し遂げてしまった人間のそれは悲哀とも言えよう。でも彼はよい時によい仕事を全て成したのだ。若い時は、ほとんど毎日毎夜会っては酒を飲み良く議論した。何であんなに酒を飲めたのか解らぬ位に良く飲んだ。全く酔わなかった。それから、何故か急に会わなくなった。ケンカした訳ではない。プッツリ会わなくなった。お互い径が違っている事に気付いたのだろう。若い時には妙な勘が働くものなのだ。

今日はサッと出掛けて奥様にあいさつをして、サッと帰るつもりだ。長居は無用である。

13時過発世田谷村発。14時半神保町学士会館。高山和子(大野夫人)さんにあいさつ。渡辺豊和さんと会い隣席に座す。沢山の人間が集まっていた。大野さんの人脈は実に分厚かった。15時、会が始まり、積水化学元専務より大野さんと積水化学の出会いが語られる。21才の時の論を発見したのが始まりだったという。無目的な箱の生産を説いたものであった。令夫人のあいさつと共に、内田祥哉先生のあいさつを印象深く聞いた。山本理顕さんが来ていたのでXゼミナール、作家論磯崎新のコト話す。第13信に伊東・山本両氏と磯崎さんとのやり取りを取り上げているからだ。

理顕さんは磯崎さんの倫理性はおかしいと述べ、わたくしは結果として同じ土俵に上げられたのだから倫理を言っても、もう始らぬのではないかと言った。しかし個人住宅は今建築家が問題にすべきなのかについては同様な意見であった。他にも沢山の人に再会した。小須田広利さんと再会し得たのは嬉しかった。故田辺吉祥君と二人、わたくしの若い頃の弟子であり、今も設計事務所を自営して奮闘している。近い将来再び仕事を共にする予定を一方的に立てているのは告げなかった。まだ早い。

渡辺豊和さんともう少し話したかったが、彼は変りようが無い人だから話さなくても解っている、早々に会場を抜ける。

大野勝彦の「無目的な箱」イメージはうーんと若い頃彼から何度も聞いたが、再考に値する。極論だが伊藤毅さんのレクチャーに出現するグリッドのイマージュと同質なものではあるまいか。ヴェトナムのダナンで社会主義国家の計画の一端を垣間見た。私有の墓地の全てが掘り返され「計画」の為に、言わばあばき立てられていて茫然とした。しかし、あるべきイデーとは本来そのようなものでもあるだろう。我々は戦後市民社会、及びその民主主義概念の敷衍に洗い出された集団的、これも又幻想であるやも知れぬ。そうなのだろう。消費主義とすでに呼ばれてしかるべき集団なのであろう。

久々に大野勝彦の遺影に接してそういう事を考えさせられた。

18時前烏山長崎屋、吉本隆明の庶民がガーガー騒いでいて、これも又実にいたたまれない。裸の民衆も暴力を持つ。オバンに花見計画の件述べてすぐに去る。宗柳に寄り、オヤジに長崎屋のオヤジと三人での花見計画を相談。オヤジも勿論仲々アレヤコレヤで忙しいのだが、満開の桜は年に一度である。時にそれが人生で一度になる事も多いだろう。決行を決める。

世田谷村に戻り夕食をとり横になる。

四月九日

8時離床、メモを記す。昨日は旧友大野勝彦さんの考えらしきに再会できて色々な事を考えさせられた。「無目的なスペースユニット」のイマージュが無ければ彼は剣持昤の「規格構成材理論」の実践に届かぬまでに終ったが、このイマージュひとつでそれをまぬがれた。

彼がまちづくり(HOPE計画)に行動を拡張したのはこのイマージュ故であったのを今は知るのである。やはり大きな才質であった。

今日はうららかな日和である。

明日の学部レクチャーの方針を決めて研究室に送信する。

746 世田谷村日記 ある種族へ
四月六日

10時過研究室。10時40分院レクチャー、予定通りガイダンス。12時10分了。

宝船プロジェクトの骨子を作成、佐藤にフォローを頼む。デービットと具体的なスタディーに関して相談、かなり適確にポイントをついてくるので相当様々な可能性がありそうだ。

16時竹中工務店副社長はじめ5名来室。打合わせ。17時過研究室発新宿、味王で遅過ぎる昼食。18時半了、烏山へ。宗柳に寄り、地元の知り合いの女性方に4月28日の「世田谷式生活・学校」と保坂区長とのソバの会の案内。皆さん来て下さるそうだ。20時前世田谷村に戻り夕食。

暖かくなったので3階でのWORKを開始しようかと思う。暑くなったら地下に降りれば良いので、ウチは上下運動が温度調整である。

四月七日

8時離床。新聞を読む。風はまだ少し冷たいが小春日和である。

山口勝弘先生よりお葉書いただく。お元気なようだ。来年往年の実験工房展が全国縦断で開催されるそうで楽しみである。今度こそ活動内容の決定版としたいと意気込んでおられる。

返信の葉書を書く。封書にすると封を切る手間が発生して、先生には葉書の方がよいのだ。

昨夜来山折哲雄の仏教民俗学を読んでいるが、南方熊楠と柳田國男の短い比較考の部分に山折自身の身の置き処が微妙に現われているような気がした。

昼食を取り13時40分世田谷村発、都立大学へ。

745 世田谷村日記 ある種族へ
四月五日

正午前研究室、すぐにC.Y.LEEのDream of High-Rise のサイトの立ち上げのミーティングに入る。李祖原のハイライズ(超高層ビル)への情熱を、実現してゆく夢として捉え、欧米中心の建築観を少しでも修正したいと考えての事だ。わたくしも一つハイライズの計画案を提出したい。

気仙沼安波山計画のつめを検討し、諸々の決定及び指示。

19時半世田谷村に戻る。

四月六日

今朝から大学院のレクチャーが始まる。昔と比べると随分タイトなスケジュールになっているように思うが、わたくしの方は対応するが院生達がそのスピードについて来れるのかはいささか疑問である。スケジュールをマニュアル通りにこなしていれば理解が深まるのかと問えば、そうとばかりは言えぬだろう。

でも、キチンとやるしか無い。

第1講は例年通りガイダンスとして、わたくしの地理観、歴史観の一端を述べる。渡邊大志専任講師がどうやら記録を取るようなので恥ずかしい事はできない。

744 世田谷村日記 ある種族へ
四月四日

正午前研究室。ウェールズでの展覧会の仕事で出掛けていた連中が帰国。

報告を受ける。良い体験をそれぞれにしたようだ。立派な展覧会の記録が残されている。13時研究室ゼミ、3つの島に対応する。1ヶ月は慣らし運転であろう。15時半了。新宿で昼食。18時半烏山、長崎屋。19時半世田谷村に戻る。

四月五日

8時過鈴木博之先生からの電話で離床。朝早くから動いているのだなと知る。

国立近現代建築アーカイブの件。いよいよ本格的に動いているようだ。

4月28日土曜日午後の第7回「世田谷式生活・学校」の準備が進んでいる。

小さな事だけれど具体的な世田谷式生活への実践活動としたい。

広島の木本一之さんが上京している。毎年恒例の工芸美術展への出展及び審査のようだ。着々と農夫の如くに作品を育てているのをヒシヒシと感じる。見習いたいが、わたしのスケッチWORKは春らんまんと共に休断してしまっている。こればかりは何かきっかけのような事が無ければ再始動は覚つかぬのである。

しかしながら瞬発力の劣化は非常に怖い。その育成保持に何か良いトレーニングはあるものなのか?山口勝弘先生はお元気であろうか。

今日はC.Y.LEEのハイライズDreamを立ち上げる予定である。

743 世田谷村日記 ある種族へ
四月三日

予報通りに大風が吹きまくり、結局世田谷村に閉じこもることにした。

13時過空腹となり宗柳へ、久し振りに。実は長崎屋の長男の嫁が宗柳につとめている。それで今日はオヤジが再び病院だと教えてくれた。宗柳の方のオヤジの具合はどうなんだかも色々と聞いた。ここのオヤジも料理作りは実に上手いのだが、わたくしと同様に自分の身体の健康管理がうまくはない。

一番奥の席でまかない料理を振る舞われる。たっぷりいただいて念の為に長崎屋に廻ってみたら案の定暖簾が出ていなかった。全くオバンは大変な苦労だろう。一人で全てをやってるんだから。見習わなくてはならない。客のバカ話の相手から、料理作り、配膳、片付け全て一人でやっている。オヤジは二階で休んで病院通いで、最近は好きなビールもあんまり飲まない。

この長崎屋の事はきちんと記録しておかなくてはと思うのだが、まだ方法が見つからぬのだ。書いて傷つく人が出てはいけないし…。余計なことはせぬのが一番なのだが、二番も面白そうなのだ。

夜、鈴木博之さんに電話してみる。二週間の旅行から戻ったとの事、イスタンブールからギリシャそしてロンドンの旅であったそうな。ロンドンで石山研の連中のウェールズの事も把握していたようだ。ウェールズの事など聞いた。年を取ると疲れぬように旅をするのである。

彼もわたくしの日々の旅はウェブサイトで把握しており、まことに世はコレ油断ならぬのである。コンピューターを介して世界はまさにネガティブケーパビリティーの様相を呈してきている。と言うよりもそれを意識すればその可能性があるのだろう。

誰もがシェイクスピアの才質を比較的容易に受容できるのだ。

この日記も読者は実に多様極まるのであろうが、副題に「ある種族へ」と付け加えているのは、実は含意がある。ある、とは身近な友人達へという意味であり、いずれ足腰が立たぬようになっても、サイト上で旅を楽しもうという事になるやも知れぬのである。

実は、こう見えてもわたくしには用意周到なところがある。世間の用意と、わたくしの用意が少しずれているだけなのだ。

四月四日

嵐が去り快晴。天候というのは実に凄いものだなとつくづく思う。

人間という存在は実に小さなモノだ。しかし人間は考える事が出来るからお天気に卑屈になる事はない。同じくらいにそれぞれ大事なのである。

今朝は4時半より8時半まで、『旅の話』鶴見俊輔、長田弘(晶文社)を再再読した。1993年に発刊されたこの本に初めて触れた時、わたくしは自分の小ささを思い知らされた。後書きで鶴見俊輔さんが書いているが、すでに当時鶴見さんは老人であり(自分でそう書いている)実際の旅には最終章のディズニーランドにしか足を運んではいないと。

しかし鶴見さんが人々(我々)に注ぐ思考には体温があった。詩人の長田弘は知的な詩人故にそれは必須なものでもあったろう。

そして、わたしは20年程昔に、これは敵わぬ人が居るものだと膝を屈した。

失礼ながら自分と同じような事を考えていながら、その考えをこれ程迄に自在に言葉に出来る存在に驚いた。

20年経って再びその感に襲われるばかりではあったが、時の流れは又、誰をも少しは育てるモノであるらしい。本というモノは有難いモノで人間と違って年を取らぬ。少しばかりページが黄ばむ位のものであり、著者や語り手は年を取らぬ。その本の中に冷凍されている。年令が。

わたくしも老人になった。嵐が来れば外出は止そうという位の分別もついた。それでそれなりに鶴見、長田両氏の言葉のキャッチボールを間近に感じられるようにはなった。行き来する白球の風を切る音や、グラブに納まるバシッという音も聞こえるようにはなった、ようやくにと痛感した。

沢木耕太郎がシルクロードを旅人の手から手へと旅をする本の話を書いていたのを思い出す。山本周五郎のサブであった。願はくば今でも砂漠を一人旅する若者が在るとするならば、この『旅の話』を持ち歩き、読み終わったら小さな旅の宿で出会った若者に手渡すといった風であれば、まだ日本は何とかなるかもナァと思ったりもしたのだが、もうダメかも知れないとも思う。

孤独で暗い眼をしながら、でも一人で旅をするエネルギーは在るという若者がいれば、この本を持って(少し大部だが)旅に出る事をすすめたい。

742 世田谷村日記 ある種族へ
四月二日

正午研究室、サイト運営の打合わせ。USAデービットさんへの連絡メール依頼他。15時過了。退室。寄り道をして18時半世田谷村に戻りWORK。

24時就寝。

四月三日

嵐が近付いているようだ。5時離床家人が九州へ飛ぶのを送り、再眠。

新聞を読み、9時半再離床。念のために屋上を点検する。ヒヤシンスが大きく育っていた。午後は40m級の風が吹き荒れるようだ。外出せぬ方が無難か?

世田谷村日記