石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 5 月

>>6月の世田谷村日記

792 世田谷村日記 ある種族へ
五月三十一日

6時離床。7時半には世田谷村を発ち、小平の吉元医院迄出掛ける。わたくしの担当医が杏林病院から独立して開業したからだ。

杏林病院は大病院であんまり実は好みの病院ではなかった。担当医は「あなた酒くらい止められないんですか。意志があるのか!」なんてわたくしよりも若いくせにギロリと流し目で叱るような奴で、それで気に入っていた。実はそれ程たいした持病ではない。血糖値が高いいわゆる生活習慣病らしきである。でも最近は歩くのが時々イヤになり、これはイカンなと思ったりもしている。教師職も掛け持ちで長い事やっている身である。だから、いつの間にか頭が高くなり、目線もそれなりに上がってしまっているのを自覚している。学生は皆わたくしを先生と呼ぶから、自然にそうなっちまった。だらしがない。そういう自分は好きではない。そればかりではないのだが近くの長崎屋等に出掛けては、なるべく目線を低くする習慣をつけようとしているのだろう。一度高くなった目線を下げるのは大変なのだ。だから医者でもお巡りでも、叱られると妙に嬉しい。お巡りは嬉しくない。

2ヶ月に一度程度の検診なので、担当医がどんなところで開業したのかいささかの好奇心もある。

そんなわけで今日の午前中ははるばる病院への遠征である。

明日の院レクチャーは予定ではアルヴァ・アアルトである。これは例年のものに付け加えたいモノは今のところは無い。

日本の生硬な近代主義デザインとは距離がある。日本の近代は健全なナショナリズムを経る事がなく、いきなりアメリカ化した。レクチャーの冒頭にヘンリー・フォードのT型フォードとウォルト・ディズニーの肖像およびカリフォルニアのディズニーランド、そして出来得れば「砂漠は生きている」のサソリがダンスをしているシーンを入れて欲しい。なければそれを話せる程の素材を付け加えてくれたまえ。梅棹忠夫はこれをアメリカのアニミズムだと喝破した。偉い人がいるものである。アニミズム紀行も早くそこ迄たどり着きたいものだ。

藤森照信さんの『茶室学』を書評する為に2度目の読書に取り組もうとしたら、隣にあった平岡敬さん(元広島市長)の『時代と記憶』に目移りがしてしまった。

最新刊の藤森さんの本も久し振りに本格的な書き下ろしであるが、辛口で言えば、第三章の利休の茶室が三塁打で、他はポテンヒットである。

しかし、三章は面白い、スゲエなと感じ入ったのであるが、最近の藤森さんを遠望していると本当かね?と思いたくもなるので8時になったら鈴木博之さんに電話して確認したい。年をいささか取ってからの辛口書評は友人を失いかねぬ。マア友人は少ないにこした事は無いが、それも正直さびしいからなあ。念のためである。

創作と歴史家の狭間を書評では焦点にしたい。たった2枚の書評だが藤森だ、手は抜かない。実は某出版社から書評本を頼まれてはいるのだが、どんどん友人をなくすぞという恐ろしさが先に立って手がつかぬままにいた。

その間読書だけは異常に進んだ。それなりにそれ程の馬鹿ではなくなっているやも知れぬの感もある。これを書くのがまだ馬鹿なのだが、これは死ぬ迄直らぬであろう。読書で得られる知恵は実体験で得られる知恵とは別物であると考えていたが、どうやらそれは老人の読書には当てはまらない。2日で1冊読めたとして、小難しいのは4日位かかるから、マアいいところ一週間で2冊である。

とすると一ヶ月で8冊、一年で96冊。まあ100冊がいいところだろう。あとどれ位生きれるかはまだ解らない。こっそり計算してみれば何と読める本の少ない事であるか。駄本に手を伸ばしているヒマは全く無いのである。

そんなわけでまだ7時前である。友人に電話していい時間ではない。やっぱりせいぜい8時が限度だ。恐らく友人達も皆6時位には目を覚ましてしまって、下らぬニュースペーパー等を憮然として読んでいたりに違いないのだが、8時だったら小平に向う車の中である。家人のケイタイを借用するしか無いか。

そろそろケイタイ持たねばと思う気持が70%、死んでも持つかが5%。あとの25%はこれは一人芝居の見栄で持たぬに過ぎない。

まったく街角の公衆電話の消滅の早さは異常としか言い様がない。日本人は皆馬鹿になるぞ。約束というモノが成り立たなくなっている。

791 世田谷村日記 ある種族へ
五月三十日

6時45分離床。12時30分研究室でダナン計画ミーティング予定。できるだけ関係者は出席するように。その後スタジオで演習Gを見る。昨日19時より21時迄千歳烏山駅周辺まちづくり協議会総会に出た。本日をもって総会は閉じて、運営委員会は参加希望者により随時続行するとの事で、これには同意した。 発言を求めた。現執行部つまり会長、副会長の許で運営委員会は続行するのか?結局、続行するとしたら会長、副会長は無しにして参加者全員が同列にて会を運営するらしきのイメージらしきが呈示されたと理解した。それでなければこの会の存在意義は薄い。駅前商店街の店主、貸ビルのオーナー、不動産屋、地主が主導権を握り、旧態然とした区役所支所の考えと共に区役所の考えを事後追認するだけのまちづくり組織にどれ程の意味があろうか?

京王線千歳烏山駅立体化により、町の姿は実は大きく変化する。

その変化のドラスティックさを、謂わゆる周辺住民、及び商店街の大方の連中は実は知らぬ。

要するに駅舎の立体化の影響はこの地区の住民にとっても町を住みやすくする為の大きなチャンスである事が住民に充分知らされているのか、いささか疑問なのである。町は大きく変化する。そして変ってしまってから昔の方が良かったと懐かしんでも遅いのである。立体化は止むを得ない、しかしそれによって出現する新しい空間の区民生活と密着せざるを得ない生活像がうまく描かれてはいないのが現状である。

昨日の決議事項の重要な点はただ一つである。これからの運営委員会に参加希望者は以下の通りに案内するとの事。

① 電子メールにてご案内、メールアドレスを記入する。

② 世田谷区/鉄道立体・街づくり調整担当課にお問い合わせいただく。

更に要するに、誰でも参加出来るという事である。

わたくしにはすでに次のまとめ役(これは必要である)の案があるが次の運営委員会に提示したいと考えている。

何しろ昨日の総会の出席者数が32名が現状の力である。

一番最初にこの協議会に出席した時にも出席者が圧倒的に少ないのに驚いた記憶がある。運営会議も常時10名程度の出席者であり、これでは力にならない。常時の出席者数を増やさねば意味がない。

と言うわけで、わたくしは新しい区民参加、烏山駅周辺の会を結成し、直接区政に提言する事に決めた。旧いまちづくり協議会はそれなりに残して、新しい器を作った方が早い。との結論に達した。

790 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十九日

夜中に大きく揺れたが眠り続け7時40分離床する。余程疲れていたのだろう。今日はゆっくりしたい。27日の気仙沼安波山植樹祭で気仙沼計画は第1ステップを経過した。次の段階に進みたい。

安波山計画はダニ・カラヴァンやクリストの仕事に親近性があるがそれよりも人間の生活により身近である。唐桑での1980年代の仕事の延長としてとらえてゆきたい。多くの人間の力もより必要になるであろう。工夫をこらして進みたい。サイトをのぞいたら早速植樹祭の模様が写真でONされていた。これはドキュメントとしてしばらく続ける。

今真栄寺より連絡あり6月24、25日に元仏教伝道協会理事長の信楽峻磨(しがらきたかまろ)氏を迎えて行われるとの事、出席する事にしたが李祖原来日とぶつからなければ良いが。今日、台北の李祖原に李玄他の来日の御礼と昨日石山も東京に戻った旨のメールを打ってもらいたい。又同時に気仙沼安波山植樹祭の模様もメールしてもらいたい。ダナンの中村さん、ホーチミンの西澤さん、佐貫さん、岩元さん他、多くの知り合いにも気仙沼の件メールで送信、ワイマールのツィンマーマン氏、シュツットガルトのカイ・ベック氏、イギリス・ウェールズの諸氏にも送付されたい。世界に発信する価値がある計画です。

竹中工務店A氏より連絡色々と頼む。

佐藤くんが取り組んでいるカリフォルニア・バークレイ校のコンペの事務局長にも計画一式送る事。計画のみならず実行もされているところがポイントです。まさに絵空事が実現されつつある。又、このコンペには佐藤の下に平山くんも参加するように。気仙沼行の途次、案の大方は理解したので、あの方向で良いと思う。渡邊大志くんは世田谷グリーンバザールの次の展開を考えて欲しい。1日たりとも立ち止まらぬようにされたい。

陸前高田市は28日、景勝地、高田松原で津波から唯一残った「奇跡の一本松」を防腐処理を行いモニュメントとして保存することを決めたと、日本経済新聞に報道されている。数日前に訪ねた一本松は老人達の小メッカにもなっているようであった。お年寄りは自分達の姿に重ね合わせて一本松を愛でるのであろう。防腐処理費用は約9千万円が見込まれると言う。募金を呼びかけるということだ。陸前高田市にその概要を聞いたらどうか。できる事であればこれからの事もあり市役所への協力態勢を少しずつ作る事を考えられたし、佐藤研吾くん担当のこと。

今朝は世田谷美術館の酒井館長から送られてきた『ダニ・カラヴァン 遠い時の声を聴く』未知谷、2400円+税を読み続けている。

酒井さん、野田さんにも気仙沼の植樹計画及び植樹祭の模様は、これは資料一式をペーパーで送った方がよろしいので、これも又よろしく頼みたい。

穏やかな朝である。でも東京のかくの如きの平安振りは多くの様々な犠牲の上に成り立っている。

789 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十八日

6時半、一関ホテル蔵の一室で目覚める。東京を出て4日目の朝だ。今日はこれから朝食後新幹線で東京に戻る予定。薄暗い曇天である。昨日の快晴がすでに夢のように思い出される。10時から始まった気仙沼安波山「植樹祭」は実に良かった。9時前にホテル観洋をTAXIで出て、丁度気仙沼駅に着いた安藤忠雄事務所の十河さんをピックアップして共に安波山の会場へ。会場にはすでに多くの人間が集まっていた。総勢250人くらいか。10時セレモニー始まる。副市長、臼井会頭等のスピーチの後にわたくしも小スピーチの機会を与えられた。安藤事務所の十河氏も預かってきたメッセージを。その後記念撮影。山を登り植樹会場へ。山の急斜面に人々が列を作り並んで素晴しい風景になった。今年の夏にはどうかなと思うが、来年には日の出凧の図形が浮かび上がるであろう。気仙沼の人々の日常を静かに見守る図形になってくれれば良い。市長、副市長に十河さんと共にこれからの我々の提案を受け取めてくれるように依頼する。安藤忠雄さんにも何等かの計画案のスケッチを描いてもらおうと考える。

昼食は「安波山植樹祭、気仙沼港町黄金龍のハモニカ飯」がふるまわれた。

気仙沼のシンボル安波山(239M)は船の安全や豊漁を祈願する信仰の山であるが風水思想では気仙沼大島の龍舞崎には乙女窟、亀島とともに龍神様が祀られていると、植樹祭記念弁当の説明書には述べられている。台湾の人々の風水思想と安波山への気仙沼人達の思想とは全く一致している。李祖原の直観に感服する。それにしても、李祖原、安藤忠雄と力強い復興の力を得たものだ。12時過下山。十河さんと別れて、我々も当初予定の用事を全て終了したので気仙沼を離れる事にした。のんびり行こうと決めて臼井会頭には車の中で話し込み、バス停で別れた。

3日間ビッシリとお世話になって会頭もお疲れであったろう。

バスの予定を切り換えてのんびり汽車でゆこうとなり、待合い室でボーッとする。待合い室は人で溢れていた。15時半頃一関に着く。

ベイシーに寄ってゆこうかとなり、ベイシーへ。菅原さんと再会。

ドーッと疲れが噴き出て今日の東京戻りを断念。ホテルを取ってもらいホテル蔵へチェックインしたのが17時前、佐藤は仕事、わたくしは休む。20時にベイシーを再訪問するもやはり疲れていて早々に退散する。

21時過ホテルに戻り休み、グッスリ眠り込み、一夜明けての5月28日となった。おかげさまで疲れも少しばかり抜けた。

やっぱり被災した気仙沼での3日間はそれなりの重さをもっているのだと知る。臼井会頭をはじめとする気仙沼ピープルの御健闘を心から祈ると共に身体だけは大事にしてくれとも思うのだ。皆さん拾った命である。亡くなった方々に生かされているのです。7時半メモの手を休め小休。

788 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十七日

4時離床。まだ日の出前だが空は晴れ渡っている。気仙沼内湾の東の山稜上は薄い紅色に染まり始めた。昨日登った日本最大級のつつじの名所徳仙丈山のつつじの赤さが空に写っているようだ。

昨日は朝に安波山に登り、李玄等は内湾の地形を再確認、わたくしは安波山に描かれた直系60Mの円の確認をした。市役所の方々も来られていて挨拶を交わす。何とかうまく大きな円形は納めていただいた。さるすべりの紅が今夏にはほのかに巨大な円を気仙沼中空に浮かび上がらせてくれるのを望みたい。その後臼井さんに頼んで陸前高田市に足を延ばす。壊滅的な津波の打撃を受けた町である。20分程で到着。一面見渡すかぎりの渺々たる平地とガレキの残材の山の風景と町は化していた。気仙沼と比較して、ここは海に開かれた地形でそれ故に津波は巨大に直接町を襲った。有名になった一本松を訪ねる。諸行無常としか言い様がない。ミャンマーのパガンに吹いていた廃墟になったパゴタ都市を突然思い出した。それでもパガンには数千のパゴタ(ピラミッド)があったけれど、ここには何も残っていない。ただただ呆然として立ち尽くす。ここに復興案を示すのは並大抵な事ではないのを痛切に実感する、安藤忠雄さんと話してみたいものだ。でも何か呈示したいものだ。

気仙沼に戻り、再び岩井岬に行く。高頭祥八作の秀ノ山像が津波の来た太平洋をにらんで、キッチリと立っている。恐ろしい高さの津波に襲われたのに、ほとんどこれは奇跡ではある。気仙沼市内に戻り畠山章八郎さんと再会。昼食の焼肉をご馳走になる。臼井壯太朗さん合流。食事、つつじの名所徳仙丈山に登る。今度の気仙沼は良く良く山に登るな。

しかし、徳仙丈山は実に見事なつつじの山であった。台湾組も流石に疲れて杖をついて登った。わたくしも枝を折った杖を持たされ、李玄と外人、老人の杖だと笑う。下山して台湾組と別れる。彼等は東京へ。明日は台湾に戻る。日台のプロジェクトがうまく行く事を願う。16時商工会議所へ戻り、少々疲れたのでホテルで休む事にした。19時臼井さんと夕食へ。復興屋台村で畠山よしかつさんと再会する。20時過早々に切り上げてホテルに戻ったのが昨日の事。

本日27日は9時にホテルを出て安波山へ。10時より植樹祭のセレモニーに出席。安藤事務所の番頭さんもメッセージを持って参加する予定。

昨日臼井さんより岩井岬エリアにガレキの二次処理場が大成、安藤建設他のJVで計画実施されると聞いた。あの近くの全壊した集落の事も気になる。陸前高田市の事も含めて行動を始めたい。大きなランドスケープ作りに何とか参与したいものである。

只今5時半近く、考えがまとまらぬままにスケッチを始める。頭が動かぬ時は手を動かせてみる。朝の陽光が部屋に射し込んでいる。 6時スケッチを数点得て1階の深層温泉へ。塩分の濃い湯で体にピリピリとくる。6時20分部屋に戻り休む。

昨日陸前高田の渺々たる廃墟を訪ねた時に、それでも山の端の小学校だかに子供達が集まり、運動会なのだろうか小さからぬ集まりをやっていた。そこだけ人間の生命が灯っているようで静かな感動があった。

8時朝食に降り、9時発TAXIにて安波山植樹祭会場へ登る。

787 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十六日

4時40分離床。すぐに一階の深層温泉につかる。昨日より気仙沼に来ている。台北の李祖原事務所の李玄、顧宗沛、佐藤研吾と共にホテル観洋の一室で深い朝霧に包まれた中に居る。昨日は12時半に気仙沼に着き、商工会議所に臼井賢志さんを訪ね、旭寿司で寿司を食べ、その後、3ヶ所のサイトを巡った。五十鈴神社、大島の亀山には大型バスで上った。夕刻に津波が気仙沼内湾を大島の次に一撃したポイントに立った。久し振りに内湾を船で巡り感慨新たであった。

300戸の集落全てが壊滅した処、全く無傷の如くに残ったところ、全て地形のなせる技であり、これは人間の知恵では何ともならない。

6時半にすっかり馴染みになった料理屋で臼井壯太朗さんを交えて会食。李玄おおいに飲み語る。若い世代同志のつながりが何を生み出すか期待したい。

今日は台北の二人は東京へ、明日は台湾に戻る。石山と佐藤は気仙沼に残る。昨日ハードであったぶん今日は比較的時間がゆっくりしているので何か考えを進めたいとは思うが、どうなりますか。

ベトナムのダナンで鹿児島の漁協の方々に出会った事を思い出した。海のシルクロードはベトナムと東日本三陸海岸とも連関していたのではなかろうか。臼井さんに壯太朗くんを日越交流のプロジェクトに日本の漁業者代表として参加させるのを相談してみたい。

唐桑神社にはインドネシアのバリ島からの供物があると聞くし、海上の道はここ迄つながっているに違いない。ドリトル先生動物病院倶楽部の話しも少しずつしてみたいし、今度の滞在期間中に陸前高田にも足をのばしたいが先ず気仙沼で下ごしらえをしてからであろう。

8時に2階で朝食、9時に臼井さんにピックアップされる予定。

6時再び眠る。

786 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十五日

4時半離床。手許に、宮川淳のためにと小さく附記された「墓石」磯崎新のドローイングの雑誌コピーがある。原スケッチは赤紫の鉛筆によるもののようだ。これは明らかに磯崎新の手描きのもので実物を見てみたい。柔らかい鉛筆で筆圧は軽そうだ。手の微細なゆれに磯崎の宮川淳に対する想い、そして自分の観念らしきが、融け合って実に興味深い。

何故、赤紫の鉛筆を使ったのか、それが不思議である。

絶妙にエロティックなものではないか実物は。記憶違いで「墓石」のデザインは俊乗坊重源の五輪塔ではなかった。球と立方体状の二つの形が融け合った、磯崎によれば二つのプラトン立体が合体したものである。

何処でどう間違って誤記憶が生じたのか。この誤記憶らしきも創造の基であるやも知れぬなと反省はしない。

サイトをのぞいたら「作家論・磯崎新18」がONされていた。注釈は来週になる。今朝の汽車で気仙沼に出掛ける。李玄、等、佐藤研吾も同行する。台北の李祖原事務所は松山飛行場の隣にあるので東京へはアッという間だと李さんは言う。玄は李祖原の息子である。ガキの頃から知っている。

昨日、最新版の動画を彼等に五月女くんが見せた。6分程に充実させたものである。大変喜ばれたのでディスクを献呈した。五月女のWORKの初輸出である。身内を誉めるのもくすぐったいが良く出来ている。この資質をさらに生かせぬものかな。

今日は昼頃に気仙沼着、3つ程土地を見て廻るので、いささかハードな日になるだろう。

李玄と臼井さんの息子、壯太朗くんとの出会いも楽しみである。そろそろ二代目への継承をデザインしなければならない。大きな事は一代ではできない。

安波山の計画も又然りだが、今夏にはサイトにONしている姿の影の如きは出現してくれるやも知れない。

五十鈴神社の荘厳にも手をつけたいと思うし、唐桑の事も気になって仕方ない。やらねばならぬことは山程あり、我身は余りにも非力である。

7時過世田谷村発東京駅へ。今日も精一杯になるだろう。

785 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十四日

7時半離床。猫の白足袋が室に飛び込んできた雀を捕ってしまい、そのなきがらをゴメンなとつぶやきながらビニール袋に入れる。

わたくしが居る時に鳥が舞い込めば必ず逃がしてやるのに、不在の時だった。可哀想な事をした。白足袋としたら本能でそうしているのだから誉めてやるのが本当だろうが、カラス位のデカイのを殺るならまだしも、自分よりはるかに小さいのを殺るのはどうかと思うが、それは教育によって身につくものだろうから、猫の学校でも開設しなくては無理だろう。

研究室の面々が手に入れてくれた我孫子市の人口データを視ている。平成24年(2012年)5月1日現在の人口が13万4879人(うち外国人1327人)で同4月が13万5053人、同1月が13万5488人。そして平成23年(2011年)3月1日時点(震災、原発事故以前)は人口13万6130人(うち外国人1273人)であるから1251人の減少である。この人口減少が何時から始まったのかは更に知りたいので2011年以前の少々のデータが見たい。よろしく頼みます。

今8時になって天王台の知り合いU氏に電話して、再び人口減少に関してうかがう。彼が人口減少の実態らしきを最初に教えてくれたのだ。

U氏によればつくばエクスプレスにより人口が大幅に延びていた流山市の人口減少がこの周辺地区では甚だしいようだ、との事。つくばエクスプレス沿線流山市を中心に2、3の町の人口動態も少し調べて下さい。

石山研には以前中国からの留学生陸海が在籍していて、中国の大ダム建設に関しての100万規模の謂わゆる国内難民の問題を扱い、学位を取得している。

良い研究であった。以前より研究室の伝統としても世界の難民に関するリサーチを続けてもいたし、デザインフォーザワールドに何がしかの提案もしたりした。

一昨年には修士設計としてその伝統を継承した大変良い作品2点も生まれた。

福島原発事故を契機として、わたくしは国内難民がすでに発生しているという考えを持っている。少し先走りし過ぎて宮崎県の美しい農林業の町、綾町に馬場昭道さんを介して受け入れ先を用意しようとしたりした。研究室の農村計画の積み重ねと連動させられぬかと考えたからだ。そんな事を念頭にして千葉県下にもどうやら発生しているらしい、国内難民の実態を知りたいと考えて研究室の諸君に調査を依頼した。少しずつで良いから調べてもらいたい。

U氏による周辺地区での風評では少なからぬ人々が関西へ、沖縄へと逃げていると言う。風評は風評であるが、昨日日記784で記したように真実が含まれている事も少なくはない。

世界の難民問題と同じ視線で考える必要もあるだろう。

西部邁氏の論説への違和感もあり昨日より研究室の諸君が西部氏の論の基盤である国連科学委員会(UNSCEAR)のリサーチを始めている。手許には「放WG第1-1-1号」とナンバリングされた平成23年(2011年)7月8日付・放射線防護専門部会、つまりはUNSCEARに資料を提出するための日本国内の委員会の資料が2ページある。

ここからのデータを許に親会とも言うべきUNSCEARが様々な判断、声明を発するのである。

これを読むと、第58回UNSCEAR会合において2011年東日本大震災・津波後の原子力事故による放射能被曝のレベルと影響に関する報告書を2013年に取りまとめると決められたとある。今は2012年つまり来年に報告は取りまとめられるらしい。

とすると、まだ正式な報告書はまとめられていない事になる。

西部邁氏の論説の根拠である国連原子放射線影響科学委員会(UNSCEAR)の委員長がこの1月に発表したとされる発言、「福島」において現在も今後も健康被害が出るとは考えがたい、という発表はいかなる発表であったのか。ロイター通信が伝えている、ネット上には動画もあると西部氏は言う。チェックしたい。ロイター通信の2012年1月のUNSCEAR関連の記事を調べて欲しい。ネットの動画の発信者も同様である。

さらに西部氏の論説の始まりは稲恭宏博士からの私信であると言明されているから、稲恭宏博士なる人物も検索して欲しい。申し訳ないが日本人のオツム程度のオツムの持主であるわたくしはこの人物を知らない。ここは大事なポイントである。稲恭宏博士はワザワザ西部氏に私信を寄せて、ロイターが通信したのであろう事を西部氏に知らせたのである。

「放WG第1-1-1号」によれば日本の「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)原子力事故報告書国内対応検討WG」の構成員は次の通りである。

構成員

明石 真言 独立行政法人放射線医学総合研究所 理事

甲斐 倫明 公立大学法人大分県立看護科学大学 理事

児玉 和紀 財団法人放射線影響研究所 主席研究員

酒井 一夫 独立法人放射線医学総合研究所放射線防護研究センター

杉本 純  国立大学法人京都大学大学院工学研究科原子核工学専攻 教授

高橋 知之 国立大学法人京都大学原子炉実験所原子力基礎科学研究本部原子力基礎工学研究部門放射線安全管理工学研究分野 准教授

茅野 政道 独立行政法人日本原子力研究開発機構原子力基礎工学研究部門 副部門長

中野 政尚 独立行政法人日本原子力研究開発機構東海研究開発センター核燃料サイクル工学研究所放射線管理部環境監視課 技術副主幹

伴 信彦  東京医療保健大学大学院看護学研究科 教授

保田 浩志 独立行政法人放射線医学総合研究所規制科学プログラム自然放射線防護研究チーム チームリーダー

渡邊 正己 国立大学法人京都大学原子炉実験所放射線生命科学研究部門 教授

構成員を素人なりに眺めれば当然、日本の原子力発電の推進の中核であろう、そして東電からも日本国政府からも膨大な研究費が支給されていた東京大学の原子力関連の研究者及びそれに類をなす者が表面的には除外されているのが見てとれる。

当り前であるが、これが当り前でなく進んできたであろう事が予測されるので、個人情報に触れぬ範囲で個々人の出自他をチェックしたい。

多くの依頼を今朝は並べ立てた。

でも、これは大事な、非常に大事な問題である。その点では西部氏が言うように「UNSCEARの発表を検討する責任は日本にこそあるというべきだ」には賛成する。

この問題はわたくしの我孫子市、及び周辺各地の人口減少そして国内難民発生問題、及び「世田谷式生活・学校」での活動、そしてこれから進めようとしている南相馬市他での活動に深く、大きく関係しているのを自覚されたい。

手許には、研究室諸子がコレクトしてくれた「United Nations Scientific Committees on the Effects of Atomic Radiation」の資料がある。構成員のリストもある。しかし、まだ読み切れていない。自分なりに咀嚼できていない。ゆっくりやりたい。

しかし、この資料によればUNSCEARの、西部氏の言説の素を表明した委員長(UNSCEARの資料にはChairmanのポジションは明記されているが委員長の表記は無い、この点もチェックされたし)と議長はだいぶん機能の軽重が異なると思うが、混同したのかも知れぬが議長(Chairman)は2011年、2012年共にW.Weiss(Germany)である。西部氏の論説はW.Weiss氏の重大な発表を根拠にしているのであるか、それも知りたいものである。

今日は午後、台北から李玄他が来日する。15時に宿舎に入るそうだが彼等は父親の李祖原とはちがい地の利にうとい。キチンと訪ねて研究室迄案内するように。

又、今日、明日以降のスケジュール他を手渡せるように頼みます。

とり敢えずはここ迄とする。

784 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十三日

7時離床。西部邁氏が毎日新聞に「異説に耳をふさぐな」―報道されない「福島に健康被害なし」と見出しをつけられた意見を寄せている。興味深い説ではあるが違和感も覚えた。

国連原子放射線影響科学委員会(UNSCEAR)の委員長が「福島」において現在も今後も、健康被害が出るとは考えがたいと、この1月に発表した。それを日本のメディアは報道していない。

この発表を信じろとはいわない。必要なのは頭を使い耳と口を開くことだ。そういう大人になるための絶好の機会である、と要約できる。

しかし西部邁氏の言説の中心はどうやら「反原発のムードと原発の稼動停止も再考されなければならない」にある。この部分は異を感ずる。反核は世界的な動きではあり、しかもその引き金になったのは福島であり、とくに事後処理の遅延であるから、UNSCEARの発表を検討する責任は日本にこそあると言う。この部分は正論である。西部氏の指摘する新聞・TVの「東北ガンバレ」を含む集団反核心理を日本人のオツムの自主的思考を欠いたそれこそメディアファシズムの如くの報道の在り方への疑義さえも一部正当であると考える。

しかし、わたくしが今考え行動しようとしている事をそれによって紆余曲折することはしないつもりだ。

正義面をかぶって言うのではなく、やはり子供達の将来の健康を考えて福島から、ひいては周辺地域から避難し続けている母親や住民達の行動を「日本人のオツム」程度の問題だと暗に批判するのには私は与しない。

わたくしだってTVのお笑い番組の垂れ放しにブレーキが効かぬ「日本人のオツム」はTV局の商業主義ファシズムと同様に大きな疑問を持つ身であり、それ故にわたくしはTVを捨ててしまった。自分が馬鹿になるのが恐かったからでもある。

でも、それでも大衆(民衆)の本能、臭覚を信じたい。

原子力発電に対する本能的な遺棄心理をハメルーンのねずみの集団心理とするわけにはいかぬ。

でも西部氏の意見の前提である国連原子放射線影響科学委員会(UNSCEAR)自体の構成員およびその背景はわたくし程度の日本人のオツムでも知りたいと考える。

それ故に研究室の諸君にそれを今朝は依頼したい。

日本人のオツムは、やはり第二次世界大戦敗戦国の尾を踏んでいて、西部氏が前提としている国連の威光らしきにも極めて弱い。

それに充分留意して検索、リサーチしてもらいたい。委員長の国籍及びこの組織の背景をできるだけ知りたい。

さて、昨日のダナンプロジェクトのミーティングでは良い討議ができたのは収穫だった。

渡邊大志さん担当のマスタープランは甘かったが、その指摘は自覚したと思うので心配はしていない。わたくしの落書きの如くのマスタープランスケッチ及び昨日のミーティングの成果を良く検討して修正願いたい。本日13時には地下スタジオの小部屋に行くのでその際に着々とWORKを進めたい。デービットの中心部のモニュメントの平面のスケールをきちんと知りたい。レリジャスアウトサイドシアターと呼ぶ五弁のプラザと核になる精神文化シンボルゾーンとの間にはロータリーの道路がサークル状に貫入してしまうのではないかと思われる。

佐藤研吾の第一期日本ヴェトナム交流ゾーンは第二期、第三期へと拡張していく核のイメージが欲しい。

クリークを引き込んで日本庭園、例えば桂離宮に浮かんで楽しまれていただろう船の復元等も含めた、船上パビリオン等も話題になるのではないか。

昔お付き合いのあった岡山の両備運輸の小嶋社長が中国との遣唐使船を復元してビジネスにしていたが、あの船はどうなっているのかも知りたい。

更に九州エリアとヴェトナムの通商史も知りたい。九州とヴェトナムは船で近い。13時よりのミーティングには五月女くんに依頼していた福島のモデル作りの途中経過も知りたいので参加するように。どんどんミーティングには入り込みなさい。遠慮する間抜け振りは捨てなさい。

只今9時、小休する。馬場昭道住職に電話して我孫子市の人口が原発事故の影響で微小ながら減少しているという風評の真偽を確かめたい。個人的な情報はわたくしが取りますが、我孫子市役所には研究室から尋ねてみるようにして下さい。

10時50分、仏教伝道協会の沼田会長にお電話して、6月末の台湾の媽祖首脳の訪日、そして浅草寺訪問、李祖原の仏教伝道協会ホールでの講演他の件で相談する。事務的な手続きに入りましょうとなったので、以降渡邊大志さんにフォローを願いたい。沼田会長あるいは事務の方から連絡あったらきちんとフォローされたい。又、大方のことが進んだら台北か北京にいる李祖原に連絡するように。今週末の季玄(リチャード)にはわたくしから直接言っておきます。

12時世田谷村発地下スタジオへ。

783 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十二日

5時半離床。佐藤研吾くんに頼み事です。

作家論・磯崎新20は記憶が定かでないのですが宮川淳の墓の設計を確か磯崎さんはやっていた筈で、それをやりたい。確かわたくしの学生の頃だったか朝日新聞社から『エピステーメー』という小難しい、いかにも日本的な西欧かぶれの知識人及びそれの予備軍としての学生向けの雑誌が発刊されていて、恥ずかしながらわたくしも読みふけっておったのです。その一冊の何処かに確か宮川淳の追悼のためのページがあって、そこに磯崎新の小文と宮川淳へのオマージュとも想える墓の設計図があった。それを何とか見つけ出して下さい。どうしても見つからぬ場合は磯崎さんに尋ねるつもりですが、やはりそれはみっともない事ですので出来るだけ避けたいのです。それを何とか見つけ出してからオリジナルスケッチが残されていれば、それは磯崎さんに見せて欲しいと頼みたい。

昨21日は金環日食で磯崎さんは何か良くない事が東京に起こりそうだと、今は香港に難を避けて一時亡命していると思いますのでその間に調べて下さい。

ヴェネチアのルイジ・ノーノの墓は磯崎の傑作です。わたくしは何度か訪ねましたが、実物に傑作が余り多くない磯崎さんの作品群の中では際立ったモノだと思います。ただ余りにもヴェネチアなのです。サンミケーレ島だったか、水上バスに乗ってもいささかヴェネチア本島から離れたヴェネチア市民の墓の島にそれはあります。マ、それは作家論・磯崎新20で書くことにしますが、要するにルイジ・ノーノの墓は傑作です。

でも何とはなしにイタリア、ルネッサンスへの憧憬が余りにも深すぎる磯崎の大教養人としての限界らしきも同時に露呈してもいるのです。それに比して、記憶では宮川淳の墓の計画は俊乗房重源の五輪塔を模していて、磯崎の根の国振りがよく表出していたと記憶しています。

先日、世間話の会で磯崎さんに会った時に、今は体調も良いとはいえ病み上がりの磯崎さんに磯崎の終の棲家プロジェクトに関して、失礼とは知りつつどうしても尋ねたいと考えて聞きました。

それに関しても糸口はつかめたのでいずれやりたい。

その前に宮川淳の墓です。調べてみて下さい。

作家論・磯崎新17の注釈、今じっくりと読みました。面白かった。特にピエール・ドリュ=ラ=ロシェルの注釈は欠かせぬものでしたので良かった。この注釈は大きな伏線となりやがて日本浪漫派の巨頭保田與重郎への磯崎の関心の深さ、そして磯崎をファシスト呼ばわりした『atプラス』誌での大塚英志発言の皮相さへと連結させてゆく予定です。

今のメディア、それの大方はグローバリズムの先兵とも呼べるもので、TVコマーシャルとほとんど同義だとも考えられようが、それこそファシズムではないかと思います。我々はすでにファシズムの渦中の住人でしょう。用心したいものです。皆が正義面して一様に叫び立てるモノの大方は怪しい。と余計な方へ話しは進みましたが、何しろ宮川淳の墓、宜しく願います。

今月末の気仙沼行の同行の際、夜は時間がとれると思うのでアメリカ先住民の共同体住宅のコンペのアイデア等も聞きたい。

今日の午後は村松映一審査委員長と銀座の建築を見学に行きますが、その前にDANANGの中村さんに色々と心労をかけた御礼のメールを打ちたいと思います。

ようやく我孫子真栄寺の馬場住職は松葉杖がとれて自力歩行のリハビリに入ったとの事。6月には思い出のラダック、ザンスカールの旅に出たいと無茶な事を言っておりました。勿論バカな事は止せと言いましたが、どうなりますか。坊さんの本分は旅にあるという真理もあるから、その先は我々愚衆の圏域外です。

只今7時少し小休して、9時半頃ここを発ち研究室へ行きます。午後に1時間程時間がとれると思いますので相談事はその際に。それにしても天候が不順で驚くばかりですが、研究室の面々も健康には充分留意されたい。昨日と10℃温度が低い一日になるそうだ。

新聞を取りに外へ出ようとして1階出入口のドアを開けたら飼い猫があわてて中に飛び込んできた。恐らく一晩中外に閉め出されていたのであろう。こ奴は以前に突然居なくなり随分心配したがある日フッと戻ってきた。

野良出身だから本当は家の内になんか居続けるDNAでは無い筈だが、次第に家の中猫になった。趣味はだから家の外を眺め続ける事である。

真栄寺住職も若い頃は世界中を放浪したキャリアを持つ。それで坊ちゃん坊主から一皮むけた。と宮崎の旧友が言っていた。だから、旅に出ないと力が出ない。エネルギーがたまらないと言うのは解るような気もする。わたくしとどちらが長命なのかは知らぬが、一度機会があればの事であるがシルクロードからカイラーサへの旅を共にしてみたいが、恐らくはかなわぬであろう。

坊さんと一緒の旅は性に合わぬような気もする。かなわぬ夢もまた良しか。

782 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十一日

6時半離床。7時過より金環日食で急ごしらえのうすいフィルター式アルミホイールみたいなものでのぞく。それでも金環は視えた。こんな事でもなければ地動説を確認できぬのだから人間の悟性はガリレオ当時のまんまでもあるな。

しかし太陽と月と地球の位置関係とそのスケールの大きさらしきをかろうじて実感する。

実感はするが、人間の小ささを知る他は、人間の想念も又大きいのだとも思うのだ。

人間さんも愚かではあるが中々に好奇心の星である。

今日何やら東京近くで大地震が何処かにあるやも知れぬと予言していた人物もいたが今のところはイタリアのボローニャでマグニチュード6程の地震があり、それでも6名程の人間が亡くなったと報道されている。

千歳烏山駅周辺街づくり協議会事務局より知らせが届き、今年度で当初の目的を果すことができたので、協議会としての活動を休止するとの事である。わたくしは街づくり協議会への出席は昨年で休止している。

当初考えていた会のイメージと実体が少しばかりかけ離れていた事もあったが、家人は出席を続けていた。

これから先烏山駅周辺地区は大きく変化する事が予想される。

京王線高架化による駅前の姿、構造が一変するからだ。

それ故にこのような街づくりの会はこれからが正念場である筈だ。

しかし、現体制の商店街振興にだけ焦点を絞った組織づくりは余りにも時代との落差が大きい。世田谷区全体はむしろ商店主や飲食店連合会の方々に加えて広範な区民、消費者、生活者の意向に反応すべき時代に入っている。

だから協議会の如くの組織は存続すべきである。しかし現執行部、体制は一部代わるべきだろう。

そんなわけで5月29日の街づくり協議会には出席することにした。

出席の下準備の為に何人かの方々に電話する。

また「世田谷式生活・学校」からも一名まちづくり協議会にメンバーを出したい。

早稲田ではなく他大学のメンバーで、できれば烏山周辺に在住の人間が望ましいのだが検討願いたい。

781 世田谷村日記 ある種族へ
五月二〇日

高曇りの空。今日は休みたいところだが研究室の連中が馬事公苑で活動しているだろうから、足を運びたい。楽しそうにやっているのを観るのも中々に良いものだ。二日で一万人を超える人出のようだ。世田谷区は88万人の人口だから数字だけで言えば88人に一人が足を運ぶ計算にはなる。議員諸子のバッジが目につくのは当然であろう。世田谷式生活・学校の諸君が二日間でどんな人の関係を得られたのか、得て欲しいのだが、それも観察したいと思う。

初日の江戸前の植木売りの姿は早速ビデオ動画でサイトにONされていて、世田谷式生活・学校の連中の意気込みが良く伝わってくる。

手放しで誉めるのは気恥ずかしいが、許されたい。

手助けをして下さった高山さんも「良く周りに溶け込んでくれて、成功です」と言ってくれた。若い世代に特有の協調性らしきの良さが出ている。

わたくしが全面に出ていたらこうはいっていなかった。どうしてもそれなりにトンガッテしまうからなあ。仲良くやれば良いのに、やるならやってヤローじゃないかと、どうしてもそんな風になったであろう。

樹陰に隠れて眺めているのがヨロシイようだ。

保坂展人区長は昨日だけで3件、3つの場所を巡って歩くスケジュールだと聞いた。50代半端の若さの特権でもあろう。政治家は先ず体力だなあ次に気力であるとつくづくと知る。

安西直紀くんも中々良い感じに成長してきている。

わたしが元気なうちに何者かになりおおせて欲しいものだ。

省察するに彼には政治家としての資質が充分にあるのが眼にも良く好ましい。

さて、朝のお茶を飲んで、出掛けようか。

780 世田谷村日記 ある種族へ
五月十九日

6時離床。最新ヴァージョンの動画をのぞく。良く出来ている。このスタイルはペーパーメディアでは出来ない事なのでコンピューターを使う意味がある。実物を作り続けたい者とそれ(作品)を出来れば多くの人に伝えたい気持がチョッと融合したのではなかろうか。製作担当の五月女くんの才質開花である。映像がこれ位に出来るなら、別の事もトライさせてみたいと思う。今がたたき時かも知れぬ。鉄は熱いうちにたたけ、つまりたたき時はアッという間に過ぎてしまうのも誠にそうであるのは今は知るからだ。初めて児戯に等しいと言わせぬ水準に迄この形式をつくり上げた。来週にはこの動画は気仙沼の安波山計画にまで辿り着くだろう。時々のぞいて見て下さい。

アニミズム紀行のお知らせも少しばかり進歩した。ここのところほとんど毎日ページには手を入れている。少し努力も報われるだろう。

今朝は9時半に馬事公苑に行き保坂展人区長との相談がある。このところ、わたくしなりに仕事に関してリアルな動きをしているぶん、やはりストレスがたまる。それをもらさぬ程に出来た人間ではないので周囲には迷惑をかけているだろう。修正したい。

伊豆西海岸の松崎町の友人達は元気にしているのだろうか。四半世紀昔の事になるが動画を見入りながら幾たりかのなつかしい友人達を思い起こしている。強いノスタルジーがうごめく。彼等も又、動画を眺めてくれているだろうが、ヘェーッそうだったのか、そしてこれからどうなるのだろうと想いを動かせてくれたら嬉しい。みんな良い人達であった。

全てメモがどうしても動画に戻ってしまう。振り返るのは女々しいという馬鹿な考えから抜け出る事ができぬわたくしも居る。これ位にしておこう。

今日は研究室の連中は早朝から馬事公苑のガーデニングフェア出展で動いているだろうから、当番も留守だろう。昨日指摘した誤字が修正されていないので出来るだけ早く直されたい。

恐らく何人もの編集者達がすでに目に留めて、アレアレと思っているであろう。 5月25日からの気仙沼行の帰途に南相馬市に寄ってくるスケジュールを作りたいのでよろしく。今日、明日のガーデニングフェアの件は品川宿の連中には知らせが行っているのだろうか。どれ程の人間が集まってくれるのかまだ視えていないが最善の努力はされたい。

来年は日越国交樹立40周年である。ベトナムの独立を目指し東遊運動と呼ばれるベトナムから日本へ留学生を送り出す運動を提唱したファン・ボイ・チャウはホーチミンと並ぶベトナム国家の英雄だが、それ等を含めてわたくしはまだベトナムを良く知らないままである。

やっぱり、着々と勉強しなくてはならない。早稲田大学の白石昌也先生にも教えを乞うチャンスを作りたい。

9時世田谷村発馬事公苑へ。

9時過馬事公苑。前の並木道、せたがやガーデニングフェア会場。研究室内外の「世田谷式生活・学校」の連中が大方の準備を終えていた。3名が江戸前の植木職の格好をして、植木の出前廻遊販売を演ずるというものである。世田谷式生活・学校のコーナーは百店弱程の出店の一つで、世田谷通り近くのゲートに近い良い場所を与えられていた。

9時半保坂展人区長と並木道入口のレストラン、ロイヤルホストで会う。南相馬市の件を相談。早速市長に連絡して下さる事になった。福島の件は杉並区、目黒区、世田谷区の連携でやる方法もあるだろうとの事。10時了。区長はフェアオープンの演台へ。スピーチの後、すぐに区長に中国人留学生会、会長、副会長他を紹介し彼等は名刺交換。副区長にも紹介する。安西直紀さんも交えて記念撮影。

世田谷式生活・学校のモバイル植木屋出前は3人の売り手が慣れるに従って、良く植木の小鉢が売れるようになっていった。トップセールスは東大組、次点はデービッド、ボトムは石山研の順である。この様子はできたら本日夜に映像動画で一部紹介したい。

安西くん高山さんと木陰の小テーブルに座り話す。

都会議員、区会議員他の皆さんが多く参会しているのであった。

12時前「世田谷式生活・学校」の連中に健闘をいのりながら去る。

千歳船橋まで歩き、バスで烏山へ。12時半過世田谷村にいったん戻る。昼食、小休の後再び発つ。夕方、ダナン大学学長他と会う予定である。暑い位の快晴になった。

779 世田谷村日記 ある種族へ
五月十八日

明日5月19日馬事公苑で保坂展人世田谷区長と会い南相馬市の件を相談するので今朝はその下ごしらえをしなければならない。気仙沼安波山計画図像最新ヴァージョンは是非見ていただきたい。又、福島県庁の佐々木理事よりお聞きした情報を許に、一つアイデアが浮かんだので今日中にドローイングを描き上げてしまおうかとも考えている。今日は午前中院レクチャー 7、ラ・トゥーレットの僧院であるから、午後の数時間で試みてみよう。

7時半離床。昨日午後のダナン計画ミーティングは大まかではあったがわたくしのイメージスケッチをスタッフに渡してのもので具体性があったので良かった。わたくしを入れて4名で取り組むことにして、それぞれの分担も決めた。19日の夕刻にダナン大学長他が研究室に来室されるので実質的なサポートをお願いしたいと考えている。

ダナン人民委員会の首席アドヴァイザーである中村さんは実に上手に段取りをすすめて下さっている。

昨日夕刻久し振りに長崎屋のオジンの顔を見た。実にしぶとい生命力で賞賛に値する。会って話しをしているだけでこちらの気持もゆっくりと前向きになるのが、それが不思議だ。

山口勝弘先生からNo 3 の葉書きが届いた。右手だけで描いておられるので少し傾いた字体の群になっているのが実に味がある。失礼だがそう思う。何とわたくしの思考のスピードをこえて森林風車のアイデアが描かれ、おまけに小さな切り抜き迄もが貼られている。とても手間ヒマがかかったろう。ありがたいことである。

長崎屋のオジンにしても山口勝弘先生にしてもケン命に生きている人間の話、あるいはアイデアには耳を澄ませなければならぬ。

昨夜来、福田和也の『日本の家郷』を読み、深夜読了した。第3章の、やはり文芸批評、虚楼の日本が面白い。文芸の世界にも勿論モダニズムが厳然として在る。それを単純に言えば明治以来の脱亜入欧であり続けている、今でもある。ヨーロッパを学ぶというのは勿論建築のモダニズムはより鮮明であった。ジョサイア・コンドルに学び、第二次世界大戦後はアメリカ型民主主義に学びほとんど同化した。作家論・磯崎新も次のステップはそのような視点から「再び廃墟になったヒロシマ」等の都市破壊業KK の仕事を見直してみる必要がありそうだ。以前から磯崎新の知的交友関係の中では福田和也さんは特異だなと考えていたが保田與十郎と磯崎新の系らしきから見ればそれは納得できよう。

磯崎新のシュペアーへの関心、それは歴然としているが、ハイデガーとナチズムとの関係を介して考えてみる必要がある。

Xゼミナールに連載の論は16迄ONされていて、19迄はストックがある。今週に20をトライしてみたい。

今メモを記し続けているが、今日午後に予定のアイデアスケッチが妙に気持を急がせているのでこれで中断して、スケッチにとりかかりたい。

9時過スケッチ終了。

778 世田谷村日記 ある種族へ
五月十七日

7時離床。今朝は渡邊大志君はN社長と共に高輪の土地を見学に出掛けている。昨夜予定通りN社長が来室して新プロジェクトの打診があった。わたくしの方も今やっている事の大方を説明して、又これからやろうとしている計画も話した。N社長にはドリトル先生動物病院倶楽部の新ヴァージョン動画もみていただいた。気仙沼の安波山計画には大変感動してくれた。やはり嬉しいものだ。事業家としてこの計画のリアルな価値を解っていただけたのだろう。お互いに悪戦苦闘の連続だが前に歩くのをやめたらそれでおしまいなのは良く知るのである。

社長との会食の席にはデービッド君を同席させた。とても努力する男でその思考法が際立つのでヴェトナムのダナンプロジェクトに参加させる事にし、本人の同意も得た。彼からは『ジェノサイドと現代世界』石田勇治・武内進一を手渡された。石田先生の専門はドイツ近現代史、ジェノサイド研究である。デービッドはワイマール・バウハウス大学ルーフライトギャラリーでのわたしの展覧会でひろしまハウスを観て、いささか気持ちを動かせて、それで面識のある石田先生に話し、わたくしの処に本が来たの経緯である。

今日は礼状を書かねばならない。

早朝サイトをのぞく。動画が更に進行しながら動いていて、ようやく当初の目論見の輪郭が自分にも見えてきたように思う。

5月19、20日両日の世田谷馬事公苑でのガーデニングフェアに我々の世田谷式生活・学校も出展するのだが、全ての準備は任せている。わたくしも仕上がりが楽しみである。中国人留学生の方々も参加してくれるようでこれも楽しみにしている。世田谷を外国人留学生諸君の集まりやすい所にしたいものである。

昨日、台北の李祖原事務所・顧宗沛氏より連絡入り、李祖原の息子のリチャードと共に来日するとの事でホッとする。渡邊君は気仙沼の臼井さんにその旨の連絡をしてもらいたい。

今朝の新聞に気仙沼湾の船の上で広島の大光寺の僧侶3名が海上供養をしてくださった旨の報道があり、わたくしの気持ちまで少し和んだ。再び気仙沼の海に平安が戻りますように

薄曇りの朝だ。本日の研究室の大方のオペレイションをメモして現在8時半、一息つこうとしている。

山口勝弘先生より2つの番号がつけられた葉書が届いている。先生は先生で自由にご自分の構想を展開させ始めたのを知る。もう何を言っても止まらないだろう。過激な想像力というしかない。ただ灯台のアイデアはダナンで使えそうだなと思った。

先生は何処かに灯台を作れとおっしゃる。

新作「すべての宗教のための火と水の洞(HOKORA)」をそこに展示したいと記されている。芸術家のインスピレーションは時に精妙である。

777 世田谷村日記 ある種族へ
五月十六日

6時半離床。今日は夕方山形のN社長が来室する。久し振りなのでどんな話しが聞けるのか楽しみだ。最近は同業の人種に会う事は、ほんの数人を除いてほぼ無くなった。会っても話しが限られており退屈なのと、何の前向きな話しにもならないので自然にそうなった。もともと知り合いの数がそれ程に多い社交家では無い。だから地方都市で頑張っているN社長のような方との付合いは貴重だ。いつも新しい話しが聞ける。その代りわたしも新しい話しをしなくてはならない。相手は事業家であり、ギブ&テイクの関係である。その方が関係も明快でスッキリするのだ。

山口勝弘先生から葉書が昨日届いていた。どうやらわたくしの企てようとしている計画への提案の形をとった御自身のアイデアの売り込みである。しかし感動した。売り込みといっても単純な営業ではない。アーティストの生を賭けた営みである。御自身が述べている如くに「一種のメディア・テーマパーク」の構想である。でもこの構想は2011.3.11の大災害そして福島原発事故の今現在は古めかしく感じられた。電気を大量に使用するテクノロジーアートへの拒否感らしきがわたくしの内に生まれているのを知る。山口勝弘先生の作品歴のうちではヴィトリーヌまでが今では精一杯であろう、わたくしには。返信を書いてみる。そう伝えたい。でも畏敬を持って一葉を書こう。

先生や同じたまプラーザにおられる宮脇愛子さんの老人振りには目を見張るものがある。

人間の身体が衰え、あるいは傷つき壊れて後の生き方のモデルであり得よう。芸術の、そして芸術家の効用が歴然と社会に、そして多くの人々に伝わるのではないだろうか。あの御二人に自分の作品自慢の話しではなく、普段の生活の話しをネットに流してもらったら、とても人々には為になるのではないか、と思って昨日の深夜、宮脇愛子さんのページを初めてのぞいてみたら、それはすでにあった。山口勝弘さんとの一部対談がONされていた。インタビューの方がどうやら芸術関係の人なので、それで話題が狭かったが、より普通の今の生活の話しを流してもらったら良かった。

とは言え、それはかなわぬ夢であろう。つまり、それをするには御二人共に芸術家の矜持を持ち過ぎている。それを今更脱ぎ捨てろとはわたくしだって言えやしない。他人の聖域に土足で踏み入るようなものだ。

でも愛子さんのインタビューの中で「博之くん」が出てきたところには笑った。イヒヒと笑った。ニューヨークから帰って日活アパートで制作を続けていた時に今や建築史家として大家である鈴木博之さんが宮脇愛子さんのところへ制作のお手伝いで出入りしていた話しがサラリと語られている。この話しは前にも聞いてはいたので決して新鮮なモノでは無いのだが、「博之くん」という感じがまことに良ろしいのである。

わたくしだって「博之くん」と呼ぶ権利は持つ身ではある。確か、一つ二つ年長であるが、まだ面と向って「博之くん」と言ったためしは無い。不自由だ我ながら。今度会ったら、せいぜい努力して「宮脇さんがね、博之くんと言ってるよネットで博之くんと」どさくさまぎれに言ってみたい。どうしてわたくし奴は史家に弱いのであろうか。ズーッと山口勝弘先生の作品をわたくしの作品、例えば公園のようなモノの内に包含してしまいたいという夢は持ち続けている。宮脇愛子さんの「うつろい」の次の作品だって出来ればそうしたいとさえ思うのだが、わたくしの力が及ばぬままである。

N社長に会ったらそんな夢の実現化に向けた話しもしてみたい。

舞台はやっぱり福島であろう。

石山研のサイトをのぞいたら、ドリトル先生動物病院の最新ヴァージョンが少しはましになっていた。五月女くん御苦労さん。遊びと仕事の境界線を旅しているのだ、燃焼して欲しい。

シュツットガルトの石山研展にはどうしても2本の映像動画作品を展示に組み込みたいので、そのロケーションを想定して作業されたい。今夕、N社長にも見せながら山田くんも交えて短い打合わせをしたい。16時半スタートです。山田は新しい五月女くんのアシスタントで電通出戻りの三十男である。今夕4時半よりのN社長との会合で、5月27日の気仙沼安波山植樹祭の計画、および気仙沼緑のストラクチャー計画の概要、そしてシュツットガルト展の概要を手渡し出来るように願いたい。佐藤くん担当、ダナンの話しも一部したいのでダナンのベトナムでの位置、及び当方での計画のロケーション他を2枚程にまとめておいて欲しい。

776 世田谷村日記 ある種族へ
五月十五日

7時離床。昨日は早朝のメモに記したのが全ての一日であった。良く歩き、良い人に会ったりもしたが記すべき事とも思えない。省略する。

最近の日記を読み直してみると、実に早朝の3時間程が全てであるような気がする。この3時間はわたくしなりに良く考え、良く想いを巡らせているようにも思う。無為に視えてはいるが一向にそうではない。ジイーッとして考え、記し、手を動かしているだけだが、脳内の動きは活発で、時に世界を駆け巡る。宇宙に迄は飛遊せぬのが我ながらまだ良いとも思う。

早朝の3時間、今日は少し寝過ごしたけれど6時から9時前迄、夜明けから朝までの陽光が差し込んだり、差し込まなかったりの中で考えるべき事もない時はこうやって無理矢理にボールペンを走らせていると、やがてポーッと頭の中に灯がともる事もある。こんな日常なら指さえ動けば恐らく死ぬ迄は続けられると思うし。

世田谷村の梅の樹を植木屋さんが切った。桜切るバカ、梅切らぬバカの伝からである。おかげで、保存緑地の先の南の家、その北の大きな窓が丸見えである。つまり、こちらも丸見えであろう。ボーッと日記を書いているのなんかも見られているのかも知れない。カーテンがきらいでなるべくカーテンで視界をふさがぬようにしているが、家人はすぐに閉め切る。南の家の方も、世田谷村の梅の木がスケスケになり、お互いの視線の緩衝帯になっていたのを、それが失くなり、恐らく70メートルは距離があるのだが、わたくしが窓近くに寄るとサッとカーテンが閉められる。その途端に緊張する。

他人の生活の一部をのぞくという後ろめたさからであろう。

コンピューターに私生活の一部を記して10数年になるが、決して少なくは無い読者の方々も、千に一つのやっぱり後ろめたさを持ちながらコンピューターをのぞいて下さっているのやも知れない。

最近はわたくしも他人のページを度々のぞく習慣がついてしまった。

『マルセル・デュシャン』の如くにのぞき穴からのぞく、のぞかせるという風はなく、コンピューターのボーッと自光するスクリーンをおおっぴらにのぞくのである。おおっぴらであろうがなかろうが、これはのぞきの一種、変種である。

わたしが、良くのぞくのは同じ世田谷に住んでいるらしい横尾忠則さん自身の日記である。面白くも、つまらなくもない。でもその短さが絶妙である。

つまらぬ区分けに過ぎぬが横尾忠則さんの如くサブカルチャー系のスターアーティストは、自身を常に露出しないと不安になるだろうし、露出し続けるとイヤな気分にもなるだろう。

その按配が短い日記となって表現されていて、時にヘエーッと思ったりもする。

絶版書房アニミズム紀行7がようやく100冊程を売り上げた。

残部は120冊程である。もう少し売ってから次の紀行8に進めたい。

テーマは決してマニアックなだけのモノでは無い。今に最深層の問題の一つであろうと目星をつけての旅に出ている。中途で止める事はしない積りではあるが普通の出版社であれば倒産しているのだろう。でもこの店は実にたまプラーザの山口勝弘ゆずりの第二号店であり、倒産しようにもできない仕組みにはなっている。山口勝弘は度々書くが今は不動の人である。

これも又、昨日山口勝弘のページをのぞいたら、よもやと思ったら存在していた。先生は空気投げを打ったのだ。

わたくしの山口勝弘ギャラリーが転載されていて、世田谷村日記の一部もそこにあった。読み直してみたら妙に新鮮なのであった。変な時代である。

6月末迄にベトナム・ダナンのマスタープランの第一ステップをまとめなければならなくなった。又、近々ダナン大学の学長さんが室にいらっしゃる予定も組まれたようだ。現実と夢の境界線を歩いている。何処まで渡り切れるか、わたくしにも先は視えてはいない。

15日の朝に15日の日記を書いてしまうという、チョッと意識した試みをやってみている。これも続けばいいのだが。

775 世田谷村日記 ある種族へ
五月十二日

12時過渡邊くんと打合わせ。13時OB松本くん来室。

14時五月女くんと「新しいヴァージョンの動画」をつきっきりで進める。わたくしはコンピューターのむしろ不自由さを知らぬので勝手な要求をするのであった。でも根本はやはり貯えている知見と想像力との組合せの問題であろう。16時迄貼り付いてコラコラとやったので五月女くんは又頭痛再発?新ヴァージョンには法隆寺金堂に描かれていた壁画がインド・デカン高原のアジャンタ窟院からの遠い移動によるものだとの史実から始めている。

我々のサイトにその切手の図柄の映像が突然登場しているのはそんな理由からである。

アジャンタから少しばかり離れたエローラの窟院群の中心から外れた小僧院が今のところ主舞台になっているので、その理由らしきをどうしても説明しておきたいと考えた。

でたら目はイヤなのだ。

この新ヴァージョンは重量のある世界と無重量の世界の境界をゆこうとしている我々のドンキホーテ振りを示そうとしている。今になって昔伊豆松崎町の小集落・岩地でなした小プロジェクトが2012年の気仙沼・安波山プロジェクトに結びつこうとしているのを知る。こういう事があるので、かろうじて自分を信じることができる。

17時久し振りに烏山長崎屋で小休。オジンがすっかりやせて小さくなっているのに驚きつつも、人間の生命力の強大なのを実感する。オバンがこのぶんじゃ、わたしの方が先にポックリゆきそうだというグチを聞く。宗柳で夕食をとろうとして窓際に座った。

向かいの家のオヤジは時々この日記に登場するタマという猫とモヘンジョダロの遺跡で遊びたわむれている変な、でも良さそうな人物なのだ。そのオヤジに見つかって、オヤジつかつかと店に入ってきて、ヅカヅカとわたくしの前の席に座り、とうとうとしゃべり始める。

タマと二人、否一人と一匹の毎日にやっぱり疲れてたまには人間としゃべりたいのであろう。

つまり、わたくしはタマの代わりである。

タマの治療代が、エーッ120万円にもなる話しや、タマの体が弱いので特別仕立の注文品で、これもまた金がかかる話し。そしてとどのつまりはタマとはもう夫婦みたいなものですという話し。それを一人でガーガーとしゃべりまくりうるさいのなんの、へこたれるばかりであった。宗柳のオヤジも厨房からノコノコ出てきて、オレのメンテナンスより金がかかってるな猫の方がとつぶやく。

しかし、このタマのオヤジの孤独の深さは測り知れないものがあるな。いささか不気味になり、タマの性別はオスだよねと確認してしまう。夫婦みたいなもんですというので気になってしまったのである。わたくしは全く俗人の極みである。

五月十三日

7時過離床。メモを記し新聞を読む。テキサス・レンジャースのダルビッシュが5勝目をあげたようだ。どうやら試合途中で雨が降り2時間ほどの中断を経て、それでも続投しての勝利で、レンジャースの監督はその意気に感ずるの談話を発表した。長い中断で一度仕上った体を持続するのはそれ位に大変なのだろう。

でもテキサスだなあと思う。

義理と人情を計りにかけりゃ、義理が重たい男の世界♪のアメリカ中西部版である。ジョン・ウェインはデュークと呼ばれていた。親分さんである。フランク・シナトラやディーン・マーチン等イタリア移民の、チョッとマフィアの影があった子分達の面倒を良くみた。「リオ・ブラボー」ではまだ青臭かったリッキー・ネルソンの似合わぬ二丁拳銃の面倒までみた。

リッキー・ネルソンは遂にエルビス・プレスリーになれなかった男で、しまいにはそれでも全米をプライヴェート・ジェットで巡演、つまりドサ廻りの人生であった。そのジェットが墜落して死んだ。あの映画はまさにテキサス版義理人情いろは編であった。

ダルビッシュはメジャーで彼に向いたチームに入ったような気がする。ヤンキースではこんな監督談話は得られなかったろう。

これも準周縁の文化なのか。

余計な事だけれど、プライヴェート・ジェットで全米をドサ廻りしていたリッキー・ネルソンはどんなにリクエストがあっても彼の昔のヒットソングは決して演らなかったらしい。会場からそれでブーイングが湧いたとしてもである。アメリカ中西部、すなわちテキサス・ヒューストンなどに残る準周縁文化のこれも一つの典型であろうか。

今日は日曜日であり、2階のソファーにゴロリと横になって、何故か加藤周一氏の『高原好日』などを拾い読みしている。加藤氏には磯崎新、宮脇愛子さんの軽井沢の家等で何度かお目にかかった。何故いきなり思い出しているのかと言えば、加藤周一の眼の端厳さ鋭さを思い出すからだ。ジョン・ウェインの晩年は肺ガンを押し切っての西部劇出演であった。それこそたそがれの老ガンマンの役であり、その眼は鋭い諦念にみなぎっていた。加藤周一さんの眼は終生医者の眼であったように思う。ジョン・ウェインは終生西部劇のスターであり続けた。アメリカ文化に於ける西部劇とは何であったのか。

午後は世田谷をブラブラして過し、20時半世田谷村に戻る。

五月十四日

昨夜サイトをのぞいたらXゼミナール、「作家論・磯崎新16」に注釈がつけられていた。木の葉隠れに注釈がつくかどうか楽しみにしていたのだかパスされている。木の葉隠れとは、の注釈にチャレンジしていただきたい。高踏な意味もさりながら、横山光輝作『伊賀の影丸』にもこの忍法は登場している。似たようなものは更に古くは赤胴鈴之助の真空切り、ひいてはあの星飛雄馬の大リーグボール、柴田練三郎の『眠狂四郎』円月殺法にまで類を及ぼしていたのではあるまいか。横山光輝に関しては我絶版書房の印刷屋さん担当氏が異常なマニアであり、尋ねればとうとうと話してくれるであろう。

又、作家論・磯崎新13、エピソード3に※4注釈も附加されている。大前田栄五郎(1783-1874)である。二川幸夫氏が自らを例えて大前田と呼んだ文脈と少々異なるけれど、参考にして頂ければと思う。

774 世田谷村日記 ある種族へ
五月十一日

7時離床。少しばかりひんやりする風が吹いているが晴れている。

本日早朝、「作家論・磯崎新16」が、まだ注釈がつかぬままではあるがサイトにONされた。原稿は19迄渡しているのだが、わたくしの手直しも多々あり担当者はご苦労であろう。注釈は更に大変なエネルギーが必要であり、おそらく一篇に一週間は要するだろう。注釈の出来不出来も楽しんでいただければ幸いだ。

先日もある筋(といっても警察ではないから御安心を)からエピソード3に登場する大前田栄五郎に注釈をつけろのブレイクがあったりもするのである。更には日本ヤクザのマスタープラン及び地勢図も注釈したらの声もある位だ。講釈師ならぬ注釈師も仲々大変である。でも天保水滸伝位は読んでいて欲しい。

今度の16では幾つか注釈師の知性、ユーモアの感覚を試すべく伏線さえ張ってある。それに注がつくか、つかぬかは原作者の密かな楽しみなのだ。

10時40分院レクチャー。今日より7回の現代建築名品シリーズとする。

第1回はイギリス型ハイテク、セインズベリー視覚芸術センター(Sainsbury Centre for Visual Arts)、ノーマン・フォスター。12時過より打合わせ。シュツットガルト展への追加出展品をチェックする。

ドイツ巡回展のテーマ、MAN MADE NATUREは昨年3.11以降石山研の方向を、つまり開放系技術論の軸を修正せざるを得ず、それを包含した上で併走させている思考である。脱原発を進めているドイツでどう受け留められるだろうか。

アニミズム紀行5、6、7を購入して下さった方々に中版の特別ヴァージョンのドローイングを描く。3枚描いた。仲々にエネルギーがいるが手は抜けない。アニミズム紀行6、6冊にもドローイングを描き込む。少しづつ買って下さる人も増えてはいるのだ。力を入れざるを得ない。

ドリトル先生動物園病院倶楽部」の最新動画Five Birds in the Caveがやはりどうしても気に入らずに五月女くんに4つの方向のオペレーションを作り、いささかの相談をする。いよいよリアルなプロジェクトとの連結段階に突入させようと思っている。来週末には新ヴァージョンのモノが一作出来るだろう。又、シュツットガルト芸術アカデミーでのオープニングレクチャー、常設展示にも2点の動画作品は持ち込むつもりである。

18時過研究室発、新大久保近江家へ。難波和彦、鈴木博之両氏とXゼミナールの件で会合。仲々今の状況では展開させることも困難そうでマア自然に任せようかの如くの結論であった。小集合体の無理は禁物であろう。

20時了。21時前世田谷村に戻る。

五月十二日

7時半離床。メモを記す。広島の木本一之さんより長文の手紙届いていて読む。良い手紙であった。木本さんの了解を得て、山口勝弘先生に木本さんを引合わせようと考えつく。まだ思いつきだ。彼は何かの時の山口勝弘のスピーチに涙する程に芸術家の気持の所有者である。芸術家の中の芸術家、山口勝弘は年相応に立派なワガママ老人であるが自由に現実の身体を動かすことは出来ぬ。不動の人である。その精神の一部を木本一之に継承させたい。

早速、山口勝弘、木本一之両氏に連絡する。山口先生は「ハイ、わかりました」木本さんは、仲々わかりようがないのであった。そりゃそうだろうが、でも鈍重さが彼の取得なのだ。南相馬への提案の件で安藤忠雄さんと連絡。気仙沼臼井賢志さんと短い相談。

773 世田谷村日記 ある種族へ
五月十日

9時京王線稲田堤星の子愛児園メンテナンスで熊谷組スタッフと会い園長先生他と打合わせ。その後、厚生館愛児園に移り近藤理事長とお目にかかる。16時半世田谷村に戻る。

途中、日中友好そばの会(仮)について相談した。出来たら宗柳のオヤジを北京に行かせたい。

本日、久し振りに「ドリトル先生動物園病院倶楽部」のサイトが動いた。Five birds in the Caveのタイトルが附されている。担当の五月女くんが初めて独自にすすめて、わたくしは何の指示もしなかった。ただ、そろそろサイトを動かした方が良いと言っただけだ。動いたのがめっけものである。内容は良く解らない。ただCaveに登場した鳥が平和のハトみたいなのが気になった。

第1室のドリトル先生=宮沢賢治=イーハトヴの住人=東日本大震災の世界—の肩にとまっていたのはオウムであった。わたくしの第1室でのドローイングに描いた農場風景は岩手県陸前高田を想定していた。何の説明もまだしていないが、例えば陸前高田の、出来れば未来の姿の一部を描こうとしている。

陸前高田はかつて高頭祥八と言う芸術家が住みついていた。わたくしとはわずかばかりの縁があり、伊豆西海岸松崎町の那賀川のときわ大橋のたもとに25時を打つ時計塔を作った時に、その時計塔内の内天井に鳥を描いてもらった。あまり知られてはいないが高頭の秀作である。高頭さんはすでに亡くなった。現世ではあまり報われることのない芸術家であった。気仙沼の岩井崎の力士像が津波にも耐えて残り、地元ではそれが奇跡の如くに話しにのぼっているようだ。過日、気仙沼の臼井賢志さんと共にその岬の先端の力士像を実見して、良く津波に耐えて残ったと実感した。とめどもない事を記しているが、その高頭さんはフクロウの像作りが得意であった。

鳥は大地から自由である。大地震、津波からも自由だ。東日本大震災で亡くなった数多くの方々の無念は今も鳥の姿となり、それぞれの故郷の地の空を飛んでいるにちがいない。

その鳥達の眼に写る山の姿、そして亡くなった多くの方々の魂はやはり山へ帰ったのだろうと想う。そんな想いを込めて作成したドローイングであった。少し時間が経ったのでもう一度見返していただければとも思う。

気仙沼の安波山の森に出現する図形は気仙沼の「日ノ出凧」がこれも又鳥のように空へ舞い上がった姿をデザインした。

その鳥の眼になり代って山の風景を考えてみたいと思った。

だから、Five birds in the Caveに出現した鳥は、これはこれで良いが、オウムとフクロウと孔雀と極楽鳥と、そして無数の雀の一羽にしてもらいたい。そのように少し手を加えてもらいたい。

その具体的な方法として、つまり動画が現実と連結いしている、そうさせたいという気持を歴然として表現するには、松崎町のときわ大橋の時計塔の姿を、そして内部の丸天井の具体物としての鳥と、ある種の楽園の像、現実として在るモノを次の映像の中に繰り込むようにしてもらいたい。

ドローイング=夢は現実であり、現実も又、それが悪夢であろうとも夢なのである。という事を「ドリトル先生動物園病院倶楽部」のサイトでは表現したい。

更に、絵解きをすすめるならば、この試みはかつて松崎町のなまこ壁通りで試みようとした「ストリート・ミュージアム」プロジェクトの延長なのです。ストリート・ミュージアム計画の一部も絵葉書として残してあるので、また研究室に記録も残っているので参照されたい。

いささか、考えるところがあって私事を記し、同時に担当者への指示としたい。

明日の朝11日には「作家論・磯崎新16」がサイトにONされる。鈴木博之ブレイクにより、少しばかり急ぎ足に展開させたきらいがあるが、これも力を尽している。

6月にシュツットガルトにワイマールからツィンマーマン前バウハウス大学長が来て会う事になった。李祖原のハイライズ展の打合わせである。李祖原(C.Y.Lee)の夢も又、現実であり幻でもある。双方の世界を往環する生物の如きである。台湾政府、中国経済界の支援を望みたい。

772 世田谷村日記 ある種族へ
五月九日

17時小田急参宮橋で佐藤くんと待ち合わせ。15分、近くの国立オリンピック記念青少年総合センターへ。安西直紀さんと合流。カルチャー棟大ホールでの中日青少年友好交流文芸晩会に出席。控室で日中友好協会関係の多くの方々に紹介される。1000名程の全日本中国留学生の集いである。会場は満員であった。

日本にはおよそ13万人程の中国人留学生がいるという。

全日本中国留学人員友好聯誼会の会長徐桐、副会長劉鳳龍両君に紹介される。

留学生達の民族芸能他を鑑賞。安西直紀さんの行動力大なるを知る。

どこ迄成長するのか楽しみである。

22時40分雨の中世田谷村に戻る。

五月十日

7時離床。急いでメモを記す。今朝は9時に京王稲田堤の「星の子愛児園」にメンテナンスの打合わせに行く。

昨夜出会った中国人留学生の諸君達とは先ずは今月間近に予定している世田谷区馬事公苑でのせたがやガーデニングフェアに来ていただく事から交流を始めたいと決めた。東京都内ならば無理も無く留学生諸君も気楽に立ち寄れるのではないだろうか。

早速アレンジしてみたい。8時20分世田谷村発「星の子愛児園」へ向う。

771 世田谷村日記 ある種族へ
五月八日

10時40分学部レクチャー。R.B フラー「宇宙船地球号操縦マニュアル」について。東北唐桑での劇場作りの6年間について。12時了。研究室で打合わせ。北京の李祖原と連絡がつく。気仙沼の臼井賢志商工会議所会頭と連絡、畠山さんより安波山植樹についての解説文送られてくる。良い解説に仕上っていた。これで気仙沼のこれからの活動の軸が出来たようなものだ。少なくともわたくしにとってはそうだ。

13時過日経新聞窪田直子記者来室。5月27日の安波山植樹に関しての取材。14時了。電話他が何かとせわしい研究室を抜け新宿長野屋食堂で昼食。ここに来ると時代が一気に1960年に戻る感があり何故だか気持が落ちつくのだ。幾つかの打合わせをスタッフとする。16時了。烏山へ、開店前の宗柳でオヤジの手料理をいただく。19時世田谷村に戻る。シュツットガルト芸術アカデミーでの石山研ドイツ巡回展の事など考える。

五月九日

6時離床。石山研のドイツ巡回展は6月にシュツットガルトで開催される。6月のオープニングには出席する。マン・メイド・ネイチャーの主題が少しでも深まるように微修正をしたいと考え始めている。

8時過淡路島の山田脩二に電話する。家に電話したら、案の定いた。案の定とわざわざ言うのには訳がある。いつの事だったか前に電話で話したら、最近は酒量が減ったとつぶやいていた。わたくしは内心ホッとした。あの酒呑童子振りがこれからも続くとしたら、こちらも何がしかの対策すなわち三十六計逃げるにしかずを決め込むしかないかなと考えていた。

一年に何度か一緒に酒を呑むだけの仲でも、それが仲々に大変で、一度会う毎にこちらの寿命が、ガクリがクリと目減りするのが解る位に山田は酒を呑む。山田は大円という僧名つまり得度名を持つ坊主でもある。俺は何時死んでも良い、死ぬのは全く恐くないと、これは本当にそう思っているのが伝わるくらいの境地になってしまっている。マア動く仙人みたいな者である。電話をしたのは、もう日本中風に吹かれて旅をする気力、体力はあるまいと目検討をつけて、それでケイタイにでは無く淡路の自宅に電話した。予測通り自宅に居た。又も、メッキリ酒を飲まなくなったとの事。心なしかその声からも水気が抜けていて、少し心配する位であった。

やっぱり山田脩二はんは死ぬ迄立派な酒呑みであって欲しいと馬鹿なワガママを巡らせた。他人が酒呑み続ければ我身の安全を想い、呑まなくなったら、それはそれで残念がるという実に手のひらを返すが如くの自分本位振りである。

人間としたらはるかに山田の方が上であるのはとうに知ってはいるがその山田に水気が抜けてカカシならぬ、山田が動くミイラになってしまったら、これはカサコサと音がしてやはりうるさいだろう。

少しは酒を飲んで水気を取り戻していただきたい。

話しは山口勝弘さんの事になり、うーむ、周囲では一番先に倒れてたまプラーザにて不動の人として自ら幽閉的生活を送っている芸術家山口勝弘がとどのつまりは一番元気なのではないかのパラドックスが出現しているなと二人笑ったのである。三十六計倒るにしかずの世界にすでになっているやも知れない。

こんな事を日記に書いても山田はんはコンピューターをやらないから読むわけもない。

でも少し遅れて、いつも誰かが石山がこんな事を書いていたぞと山田に知らせが入るらしい。サイトのヤジ馬である。でも時にはそんなヤジ馬も世の役に立つ御時勢ではある。

心あらば伝えてよ、石山が山田が酒を呑まなくなったのを心配して、少しは呑めよと言ってるぞと。

770 世田谷村日記 ある種族へ
五月七日

6時過離床。今朝は新聞が休刊日である。中途は省略し、17時過広尾の磯崎宅。鈴木博之さんのインタビューはまだ続いていた。多くの女性編集者ギャラリーで、中々華やかである。鈴木さんさぞかし面はゆいであろう。磯崎新は予想以上に元気であった。17時半編集者達去る。磯崎さんより今日の世間話の会の主旨が語られた。岩波書店の磯崎新全集の企画に、鈴木、石山も何らかの形で、つまり別冊か月報の形で参加する可能性に対しての打診である。

わたくしはサイト上で作家論・磯崎新を書き続けているので、その企画には参入できないだろうと答えた。鈴木博之さんは日本を代表する建築史家であるから良い形で磯崎新を現代史の中に客観化すべき方法を出したら良いのではないかと考えて、わたくしのやるべしの結論だけを短く述べた。

壁に架かっている写真が妙に気になり、席を立って鈴木さんと見入る。「これは謂れがあって、ブランクーシの彫刻だけれど、ブランクーシ自身が写真をとって、そしてモノクロを現像して、さらに枠まで自分で作ったものだよ」とのこと。ブランクーシ、イサム・ノグチ、R.B.フラーの人間関係が歴然と眼に写る如くの不思議な写真である。

18時半磯崎宅近くのソバ屋に移る。磯崎さんは焼酎のお湯割りをチビリと、我々はビールをいただく。皆酒量は減って実に好ましい。

わたくしは作家論・磯崎新に関していささかのインタビュー。

話しはいきなりR.B.フラーとマハリシの話しになり、5月21日の日食の話しへと飛び、磯崎新の眼が光り始める。ここ数日で書いたばかりの作家論・磯崎新に自信を持つ。いずれ御本人の実体よりも論の方が先行する、つまり現実を超えて現実を連れてゆくようなところ迄ゆきたいものだ。

21時半、世間話の会修了。家に帰る磯崎さんと十字路で別れTaxiで恵比寿へ、そこで鈴木さんと別れ、22時半過世田谷村に戻る。

五月八日

7時半離床。メモを記す。

気仙沼の臼井賢志さんに連絡し、台湾のChen氏、李祖原他の気仙沼訪問のスケジュール相談。5月25、26日の気仙沼行を決める。真栄寺馬場昭道さんより電話あり、昨日退院したとのこと。先ずは良かった。

昭道さんにはこれから働いてもらわなくてはならない。

769 世田谷村日記 ある種族へ
五月五日

午後西調布私用。その後17時前より開店前の宗柳で「作家論・磯崎新17」を書く。18時半、9枚弱を書き終わる。宗柳にもチラホラ知り合いが生まれてしまい何かとうるさいのである。ちなみに、そば屋宗柳のオヤジは黒川紀章、安藤忠雄共に知っている。まだ確認してはいないが磯崎新も、もしかしたら知っているやの感さえある。ここのオカミは黒川紀章は知っている。若尾文子さんの御亭主として知っている。

長崎屋のオヤジは黒川紀章は知っている。安藤忠雄は知らない。オバンは双方共に知らない。店の常連の大半は黒川紀章は知っている。平均年令70才位の明日をも知れぬ後期高齢社会の人々であるから、仕方無いのだろう。民衆の階層性ではない。これは。

しかし、黒川紀章の知名度は東京都知事選への立候補でもつちかわれたのである。

こんな事をこっそり調べてもわたくしの作家論には結局何の足しにもならなかった。残念だ。

それにしても今日は「作家論・16、17」と2本を書き終える事ができた。

五月六日

6時前離床。新聞を読む。「作家論・磯崎新16、17」に手を入れる。7時了。少し怪しいところもあるが、これで一度手離れさせる。今、18にかかるか、かかるまいか思案している。

9時半、「作家論・磯崎新18」書き終える。小休。

夕刻、宗柳にて一時を過し、想いを巡らすも、たいした成果は無し。マア、想いを巡らせるたびに得るモノがあったりするのもロクなものではないのは知るのだが、実に生活とはつまらんモノではあるな。良く良く、皆さんこの繰り返しに耐えている。エライと感服する。

しかし、論を書き進めていると、ドローイング、スケッチの類が一向に手がつかず、進まない。これはわたくし個人の才質及びエネルギーの問題だけではないように直観する。人間は何ともシンプルな気持の仕組みを持たされているのだ。

夜半、物凄い輝きを持つ月が南天に浮かぶ。

余りの美しさに再びの天変地異の到来の気配さえ感じてしまう。

768 世田谷村日記 ある種族へ
五月四日

頭の中で「作家論・磯崎新16」のエスキスを重ねるがハッキリした形が中々生まれてこない。もともとわたくしはペンを持って紙に触れぬと考えがまとまらぬ手合いなので、そう心配はしていない。でも7日夕刻に磯崎、鈴木両氏との世間話の会がある。それ迄には是非共「作家論16」は書いて研究室に送付してしまいたい。明朝、16を書き始めようと、何しろ決める。

「作家論・磯崎新」はきっちり20迄書き進めたら一度休止させたい。わたくしの本来の仕事の手が動かぬようになっては命取りだ。作家論を書く事はわたくしにとっては自分を破壊することになりかねぬ事くらいは予想はしていたが、かなりの痛手を負うであろう事は、これはもう確実である。

しかし、前へ進む為には必須でもある。

作家論の対象として磯崎新を選択したのは、これは良かった。間違いではなかったの確信は強くなった。R・B・フラーや重源では自分は安全圏に身を置いたままであったろうから、書いても余技になったのが関の山であったろう。他の雑木には関心がない。

五月五日

良く晴れた朝である。メモを記し、9時前「作家論・磯崎新16」書き始める。

11時とり敢えず、6枚書く。少し我ながら急ぎ過ぎているので休んだ方が良いだろう。鈴木博之ブレイクによってわたくしまで論進行のペースが乱されている。でも、まあ仕方ない。

好きで乗りかかった船であるから、渡り切るまでは漕ぎ切りたい。それでなければ途中で沈没するしか無い。

12時過、私用で外出。春たけなわなのかな今日の天気は。

767 世田谷村日記 ある種族へ
五月三日

休日モードの一日であったが研究室は動いていて、午後のひとときを佐藤くんと雑談する。彼は今でも存続しているらしい飛騨高山・数河峠の高山建築学校に何かしら意見があるようだ。珍しい人間である。

亡き校主倉田康男が残し、今は御遺族の所有になる数河の民家、土地に何かの可能性を視ているらしい。わたくしも何かと縁が無いわけではない。しばし待って、俺もチョッと考えてみると別れた。

色々と無い知恵を絞ってはみたが、どれもこれもあんまり得策ではない。

パッと燈りが指し込む如きのアイデアがすぐに生まれるわけもなくゴロゴロしながら考え続けた。

頭が疲れると人並みに旅に出て、温泉にでもつかりたい、なんて甘い夢を抱く。あきれる位の俗人振りである。でもこんな風は誰にでもある事だろう。

そんな時にフッと本棚の一冊に眼がゆく。嵐山光三郎『温泉旅行記』に手がゆく。勿論、一度読んだからこそ本棚に在るのだが、自分でも何故捨てないのかが良く解らぬ一冊である。

中学、高校、そして大学生の頃膨大に読んだ駄本の類は今手許には一冊も無い。何処に消えたのかもわからない。

本というのは行方不明になるモノなのだ。

嵐山光三郎さんとは面識も何も無い。一度、高平哲郎さんの何かですれちがったくらいのものだ。それも昔である。

嵐山光三郎に関心をもったわけでもないから、この本は「温泉旅行記」というタイトルで気まぐれに入手したモノであろう。

高山建築学校の事を考えていたら、夜中の新穂高温泉を思い出し、小野二郎、生松敬三、木田元諸先生との思い出が巡ったりした。

オッとイケない、木田元先生はまだ生きている。

露天の大風呂にひたりながら詠んだ小野二郎の、駄句「若あゆの 腹かと見れば 我足か」を思い出したりした。

嵐山光三郎も駄句を連発して、『温泉旅行記』に残している。

そう言えば木田元先生、故生松敬三の高山建築学校最上、作造原校舎での紙筒を丸めたマイクでの沢田研二振りは良かった。

何故、あの両哲学者はあんなに唄を好んだのであろうか。そしてそれを人前で披露したがったのか。小野二郎の狂騒振りは、そして極度に裏腹なシャイ振りは何であったのか?

¥ 嵐山光三郎の『温泉旅行記』にはそれを解く何かがあるのか?それは無い。嵐山光三郎は元編集者から独立して作家になった。昔は状況劇場の唐十郎のサンドバッグになっていたと聞く。文豪への憧憬、隠す事のない文豪好み、すなわち作家としてはそれを捨てている、それでも良さがある。

古くは若山牧水、檀一雄等の放浪生活への憧れが強い。

『温泉旅行記』のあとがきを読めば、とんでもない、やむにやまれぬ放浪ヘキが知れる。椎名誠と知り合いらしい。さもありなん。

大衆に顔を向けた、あるいは面を洗面器にどっぷりつけた作家である。自身もまさに大衆である。それを売り物にしている。

明らかにこの人は選良では無い。読者層もそうだろう。

それでも再読したら途中でほうり投げる事が出来なかった。妙な味があるのだ。

この味はフォークナーの準周縁(柄谷行人)から生まれるものではない。紀行文中、中上健次まで登場し枯木灘親方と呼ばれている。

中上健次も柄谷行人と附合ってカラオケをやっている時と、編集者としての嵐山光三郎と酒場で暴れて人をなぐっている時と二つの顔を持っていたのかも知れない。あるいは作家らしきは誰でも「ジキル博士とハイド氏」であり、いつでもダース・ヴェイダーになり得るモノであろう。

と、何を考えても行先は作家論・磯崎新へと道が向いてしまうのであった。

佐藤くんが高山建築学校の何がしかを継承したいという、無謀な意志の中心が奈辺にあるのか知らぬ。でもそれだったら、まだ鈴木博之さんにも難波和彦さんにも何の相談もしていないけれど、Xゼミナールを軸にして、それを発展させる方が理に適っているように思う。

五月四日

雨は上って、薄い陽光が指している。7時半離床。メモを記す。

実ワ、5月7日の夕刻に磯崎新、鈴木博之両氏と会食の予定がある。某雑誌の巨匠を訪ねるインタビューを鈴木さんが行い、その後にわたくしも参加して世間話しでもしようかとなった。磯崎さんも体調が復活との事である。

766 世田谷村日記 ある種族へ
五月二日

昨日5月1日は午後小用で外出したがさしたる事も無し。今日も同様である。明日も同様であろう。かくなる日は日記も休みたいけれど、習慣で何となく後ろめたく、それで少しばかり書いている。芳賀牧師よりお手紙をいただき、余計な事かもしれぬが日本仏教協会からもすでに原発推進には賛成ではない旨の声明が出されていて、東京新聞にも報道されているとの知らせであった。

しかる故に、私の先月末の日記に書いた事にはどうやら誤りがあった。全国の僧侶の皆さん、読んでくれている方もあろうが、ここにおわびする。

夜遅く、2000年のライオネル・ワトソンの『ダークネーチャー』を横になって読んでいたら、鈴木博之さんと話したくなり、丁度電話がかかって来た。藤森照信の茶室学の話しになった。やっぱり一晩で読んでしまったそうだ。わたくしのこの本の印象は大山崎の待庵が、近くの阿弥陀堂のひさしの下の差し掛けであった、松浦武四郎の差し掛けに似ていたの指摘が中心だと言うに尽きる。

がしかし鈴木博之さんは、それ以上にこの本の全体構成を問題にしているのが興味深かった。Xゼミナールの磯崎新を巡るやり取りに引きつけ、武田、藤井、堀口の茶室への関心の系統に、磯崎、そして藤森自身を置こうとしており、それはしかしやはり知的選良の世界でしか無いと言う。建築家の眼と思考の側からの考えでしかなく、それ以上のものではないとの指摘である。

鈴木さんは今、庭師小川治平衛の仕事のまとめに入っているようで、小川が作家、ランドスケープデザイナーとしてではなく、その外の庭師、植木職として、しかも大きな仕事に取り組んできたのに焦点の一つを当てているのは良く知っていた。

つまり、茶室に於いても建築家の手になる作品としての茶室の外により広い世界があると考えているのである。彼はより広く伝統について言わんとしているのだろうか。電力事業の祖、耳翁・松永安左エ門の茶室などがそれである。

それを聞いて、お茶をたしなむ人々、なかんずくお茶の先生方の家々には茶席らしきがしつらえてあり、わたくしの亡くなった母なども茶道具は持っていたから、さぞかし金があったら茶席くらいは欲しかったのだろうし、恐らく構想くらいは持っていたやもしれない。

世の中にはそういう無数の茶席があり、それは大事な問題を示してきた、と迄考えたのであった。

藤森照信の依って立つ処も今や微妙なものになった。野蛮ギャルドを自称し、その大衆性が彼のアイデンティティーでもあろうが、建築家、デザイナーをマジマジと外から客観視する鈴木博之の眼からすれば、やはり日本的知的選良の世界での様々な意匠という事になるのだろうか。どうやら作家論・磯崎新の次はこの問題を避けて通るわけにはいかなそうである。

五月三日

大雨である。7時半離床メモを記す。世田谷村近くに良く出掛ける、ソバ屋とラーメン屋がある。宗柳と長崎屋である。先日来、Xゼミナールの鈴木ブレイクより頭の中によどんでいる知的選良と大衆、あるいは作家の依って立つ基盤について、ツラツラ考えるにこれらの良く行く店も又、その問題から決して自由ではない。

又、鈴木さんの隠れ酒場・池袋の魔窟もその問題から決して自由ではあり得ない。

四月十四日の世田谷村日記に一部を記したが、池袋の魔窟Barは柄谷の言で言えば準周縁のスノビズム的場所である。鈴木博之自身は歴然たる選良であり、知的指導者の一人である。でも彼はだからと言って自分のいる場所を森ビル上階の高級レストランやイタ飯屋には求めない。一度京都の百万遍にある高級ではないが洒落た料亭風和食屋に案内したら「俺はこういう店は嫌いだ」と言いやがった。わたくしとしては大枚をはたいたのにである。

でXゼミナールの定宿ではないたまり場は新大久保ガード近くの近江屋になった。そして池袋の魔窟Barにもなった。

これ等の場所は東京に於ける辺境ではないが、準辺境である。フォークナーのアメリカ中西部とは異なるが資本主義が完徹した都市文化の中では、場所としてまさに準辺境である。

鈴木博之には東京の地霊等の労作があるが、近江屋にも魔窟Barにも地霊の影は薄いが、東京の中心には無い影だまりの如くがある。

選良中の選良たる鈴木博之はその好みの表出として、それ等を選んでいる。何故か?いきなり言うが、それは建築史家としての自矜からであろう。歴史学は諸学の王である。しかしながら鈴木博之の学のスタンドポイント、あるいは同時に批評の立脚点は常に中心を迂回するという不可思議さを持ってきた。

装飾、和風、場所、地霊等の彼の一連の主張は常に今の辺境、又は準辺境のスタンドポイントを意識的にとっていた。

東大建築学科のはじまりでもあったジョサイヤ・コンドルの大英帝国の諸々の学習を介して鈴木は日本の近代そして近代建築について様々に考えを巡らせたのであろう。

それ故の自身のスタンドポイントの歴然たる中心性と、自身の思考の枠のズレが発生しているのである。

そのズレは日本近代のヨーロッパ文明・文化への赤裸々な接木の歴史が生み出したものなのである。

鈴木博之のXゼミナールでの磯崎新批評はそのような地点から生み出されていると考えたい。

世田谷村日記