石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 6 月

>>7月の世田谷村日記

820 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十九日

書いておきたい午後があった。14時豊島区高田GKデザイン機構Pルームでの会へ。浄土宗大本山増上寺法主八木季生台下のお話を聞く会である。お念仏の中のともいきと題して話された。法主は栄久庵憲司さんと中学そして兵学校の同級生であるようだ。先週は我孫子真栄寺にて信楽峻磨先生のお話を泊まり込みでうかがったので、最近は仏教関係の話しを良く聞くなあの実感がある。

信楽先生は浄土真宗、八木季生法主は浄土宗である。

信楽先生は仏陀とはブド=視る人が、眼ざめた人ブッダとなったと目覚めについてのインド語の話しをなさった。八木法主はBuddhaとは人類の精神的進化の極点であるとされた。

死ぬ前の佐藤健に連れられて中国に善導大師の遺構を巡った記憶が又もよみがえった。佐藤健の誘いで、連続してこのような話しが聞けるのであろう。最後に近く阿頼耶識の話しとなり、法主はヒマラヤとは雪=ヒマのある阿頼耶(アラヤ)のことですとおっしゃった。言葉の面白味は凄いなあ。全てに意味がこもっている。合田周平さん、日本デザイン振興会の飯塚和憲さん、JIDAの横田英夫さん等と共に話を聞いた。

GKデザイン機構の新社長山田晃三さんにお目にかかった。山田さんは長く広島で仕事をしていたそうで、元広島平岡市長を懐かしんでいらした。

栄久庵さんはお元気であった。

六月三十日

7時過離床。今日は14時にプレゼンテーションがあり、昼前には世田谷村を発つ予定である。ビデオ収録もあるようでキチンとしたい。

ところでアニミズム紀行5がまだ売れ残っていて、後手に廻ったけれど売らなくてはならない。

で、新しい動画の中にハッキリとアニミズム紀行を組み込むデザインを試みている。

昨夜、作家論・磯崎新23のために1987年の多摩市立複合文化施設、俗称・多摩パルテノンの資料を入手した。

曽根幸一さんの手になるこの建築は地下水脈をつくばセンタービルと通じていると考えたからだが、確か曽根さんは磯崎一家、こういうヤクザまがいの呼称はいけないが、そう言うしかないか、である。人柄のとても良い方で悪口を書く訳にはゆかぬが、これも又つくばセンタービル同様に投機的意識の中で発注された日本バブル経済期の産物ではあろう。

バブル経済は中曽根康弘内閣による国鉄民営化による旧新橋駅汐留の広大な一等地の民間への払い下げを機に興った。

パルテノン多摩はその典型、公共による投機的建築が良く視てとれる建築である。そして、その初期的シンボルがつくばセンタービルであった。と、書き進めるのが作家論・磯崎新23の概要だが、こうメモに記してしまうと気乗りもしなくなるので、変るかも知れない。

ともあれ多摩パルテノンは近いので足を運んでみる積りだし、つくばセンタービルにも出掛けてみる予定にしている。やっぱり体を現場に入れないとピンとこないモノもある。

研究室から送られてきた資料に「ゴミのような古典主義に向って」という隈研吾さんのエッセイが入っていた。

多摩パルテノンへの評ではなく、自身のこれからの(このエッセイは1988年発表)設計のとるべき傾向を率直に述べたモノだ。読んだら面白かった。この人は人柄の悪くない石井和紘さんみたいなところが色濃くあり、美質である。要するに今、2012年の自身のスタイルをすでに1988年に広言していたとも言えようか。その率直さに驚いた。

ゴミとプッツンとは藤森照信さんがわたくしと石井和紘さんを評した名言であったが、これは明らかにそれに影響されている。それを隠さぬところがこの人の美質だろう。ゴミとプッツン他藤森照信は随分わたくし奴を、おおらかに評した。でも言葉に力があったので少なくとも日本国内でのわたくしの評価はそれで随分枠付けられた。それはどうでも良いと今では言うが、藤森照信が今やっている妙な和風まがいこそ、ゴミの和じゃないだろうか。

知恵の輪ではなくゴミの和である。

石井和紘さん流の駄洒落になった。これ以上は言わぬ。

819 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十九日

今朝の院レクチャーでは前から中途半端にしてきた宮沢賢治とルイス・カーンの光について少し踏み込んでみるつもりだ。イエール大学・ブリティッシュ・アートセンターの独特な光の性質は、これは光のアニミズムとしか言い様の無いモノである。それを体得する、先ずは理解する為にはどうしてもユダヤ教なるモノを感知せねばならぬと思うが、それは不可能である。それであの光の中を歩いて得た感触に近いモノを極度に思い浮べたところ宮沢賢治の全体に思い当たった。その過程について述べてみたい。わたくしにとっても一種の実験である。何が話せるのか。それはその場に自分を立たせてみないと解らないのだ。学生(院生)の大半は解りようがないだろう。でもそれを話したい私がそこに居るのだけは感得するだろう。

ニューヘヴンの空は淡く澄んでいる。地中海の光のエロスとは全く異なる。その光を人工的に濃度の高い、しかも濁りのない光に昇華しようとしたところに、ルイス・カーンの努力の中心がある。賢治の生きた花巻、モダニストがイーハトーブとかイギリス海岸と呼びたかったところの空もニューヘヴンの空と同様に玲瓏としている。その高緯度での地上の光の様相の転換への意志といったモノを考えてみるつもりである。

明日のダナン計画プレゼンテーションではダナン人民委員会他へのメッセージの録画撮りが予定されているようで、それにもキチンと対応したい。メッセージは文章化しておく必要があろう。

昨日見たダナン計画の出来は良かった。人工のランドスケープの感じと屋根の連なりが合一して見た事のない風景となって現われていた。これは実現したい。

わたくしの定期検診の医者、吉元先生の父上はどうやら良く知られた漢方医でもあるようだ。台湾、中国との漢方医学界との繋がりも大であるようだ。ダナン計画の話しをしてみたいと思う。縁というモノは不思議きわまるモノである。

昨日のダナンの絵を見て、ほんの一瞬見ただけではあったけれど、2度に渡る韓国の旅の力がようやく計画案に反映してきた、にじみ出てきたのを感じて無駄な旅は何も無い、あり得ようが無いのを実感して、大いに満足だった。アニミズム紀行7が計画案として転換されているようなものである。

これでようやく「ひろしまハウスinプノンペン」を乗り超えられるだろう。あれを乗り超えられぬと、どうにも動きがとれぬのである。

作家論・磯崎新23に入ろうとしている。22に於いてつくばセンタービルの骨子は論じた。それを肉付けしてゆく作業と、少し論調を意図的に変換させてみるかと今日決断したい。

しかし、我ながら余計な事を始めちまったなあと思う事しきりであり、恐らくは磯崎さんも余計な事をしやがってバーカ、と思っているに違いないが、それはそれで良いのである。もう、そんな事はどうでも良ろしい。やりたい事はやる。それだけだ。

佐藤研吾に依頼だが、できれば今日中に多摩ニュータウンに恐らく同時期に出来たものであろう、多摩ニュータウン、パルテノン多摩だったかを調べてみて欲しい。設計者は曽根公一さんだったとは思うが、住宅都市整備公団の仕事であった。

8時になった。新聞も読んでしまったし、メシを喰って少し休もう。9時半前世田谷村を発つ。

818 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十八日

今朝は小平の吉元医院迄定期検診に出掛ける。9時には出たいのであんまり時間がない。明日の院レクチャーは予定通りニューヘブンのブリテッシュ・アート・ミュージアム(ルイス・カーン)。例年の定番のマテリアルの前に宮沢賢治を頭に付け加えたい。賢治の写真、有名な畑の土の上に帽子をかぶって立っているモノを頭にする。ルイス・カーンのユダヤ的思索を日本人として理解しようとすれば、賢治を介在させるしかない。そして賢治のスケッチ、「月夜の電信柱」だったか。それに賢治設計の花壇などを加えて下さい。もし出来れば、賢治の詩の中で擬音が多く使われているモノも。賢治童話の挿絵、動物と樹木、そして人間が共生している宇宙観が表れているモノは是非加えて下さい。

昼頃には病院は終ると思うので、研究室に廻りダナン計画、世田谷式生活・学校烏山について打合わせをしたい。よろしく準備して下さい。

五月女の動画の次は進行しているでしょうか。

今日の病院では最近のフラフラ状態について医師と相談したいものである。

昨日、東京新聞を読んだら、これは小沢一郎バッシングの一群とは異なっていた。大新聞社と地方紙とは呼べぬが東京新聞は中新聞社か?この書き方の落差は大きい。

817 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十七日

朝刊をじっくり読む。各紙に共通する印象は民主党小沢一郎元党首へのバッシングとも言えるような論調が共通している、そういう事が歴然としている。社説他を読んでも、これがマスメディアの背骨と言える論調なのかとあきれる位だ。こんなに各紙こぞって反小沢を貫いているのは奇異である。しかも大政局らしきは常に小沢一郎が核になってきた、すでに歴史があるのにである。新聞記者が現実の政治を動かしているわけもない。何処かにメディアの側の共通な思い上がりがあるのではなかろうか。政治馬鹿=良く解らぬ人間、の臭覚らしきがそう思わせてしまう。これは怪しいというよりも奇異である。我々は異常な事態に際し、例えば前の日米開戦そして戦時に於いても新聞が何等正常な機能、冷静な判断を成し得なかったのをすでに知っている。ジャーナリズムの本質は附和雷同であり、それ以外ではない。各紙の論調がこれ程迄に同調画一なのは実に奇異である。

昨日の消費増税への賛否投票の結果はとも角、新聞報道の画一はこれは一種のメディア・ファシズムではないか。しかも水準の低い、これも又ポピュリズムであろう。

今日は12時半よりダナン・ミーティング。中村さんよりマスタープラン、プランの他に完成予想図のようなモノを作れないかとの要求あり。それにどう対応するかを決めなくてはならない。恐らくはラフな模型をつくり、それを写真にとり、その写真を又なぞるという形が一番合理的なのではあるまいか。

ともあれ対応せねばなるまい。

10時前、作家論・磯崎新22に再び手を入れる。最初の山だからこちらにも充分なエネルギーを注ぎたい。

ワイマールのツィンマーマン氏より訪台北、北京は8月初旬にしたいとの事、連絡が入る。これも又、大事な山ではある。

816 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十六日

5時半離床。良く晴れた静かな朝だ。今日はダナン計画のチェックを先ず、そして朝のレクチャーでは日本の70年代の建築について述べてみる。恐らく自分の事を話さねばならぬのだろうが、そろそろ良いだろう。昨日、東京木場の木材会館を見学した。日建設計の山梨知彦さん達による。良い建築であった。少なくともまわりのビル群に埋没せずに、しかもエレガンスに自己の建築を主張している。エレガンスにと言うのが要であるが弱い形式でと言う事が肝要である。木材会館であると言う依頼主の条件もあり、木材のビル(オフィスビル)への使用を、当然ながら思い立った。依頼主が強要したのでは無かったらしい。それで長尺の角材が事務所建築の内外に多用された。法規的に良くクリアーしたなと思ったが、地道な努力からそれ程派手な活路を見い出したわけでもなく、それを成したようだ。端的に言えばスケルトンは鉄骨、コンクリートとし、それの仕上げ材として角材を使った。コンクリートの仕上げも工夫した。ハイブリッドのマテリアル建築である。日建にもこういう人がいるのかと思う位に素材に従来に流された常識にとらわれず、比較的自由にそれを成した。

素材が前面に出た建築であった。

それがオフィスビルであったのが良かった。

見学後、鈴木博之さんと昼食、と言っても駅の冷やし中華とギョーザ。当然不美味ではあったけれど、残さず食べた。鈴木さんは忙し過ぎる。もう少し体をいたわらないと、と他人の事は良く視えるのだが、自分はフラフラまだしているのだから他愛もない。イヤー俺は実に大変でフラフラ病だと説明するのだが、歴史家は疑い深く自分で白けてしまい、すぐに別れた。しかし下北沢、我孫子、新木場を廻るのは意外に大変なのであった。今日は少し楽にやりたい。

乗り物を小刻みに乗り回すのは、長い飛行機便と同じ位に身体にこたえるものだ。

今日は民主党のゴタゴタ精算日であるようだ。劣化した政治家がどう結着をつけるのか知りたいものだ。それで6時20分新聞を取りに降りた。マスメディアの劣化は第一にTVに表われ、次に新聞記事にそれは出現する。わたくしの処はTVは捨てたので視ずにすむ。TVのキャスターと呼ばれる元新聞記者は三流の新聞記者だったのだろうが、今は二流のゴシップ週刊誌ライターよりも劣るな。

815 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十五日

5時真栄寺宿房にて目覚める。昨夜は18時前我孫子市真栄寺に着いた。皆の読経を見守り、20数名の修道会。やがて夕食。19時より龍谷大学元学長信楽峻暦師の講義を聴く。

親鸞を巡る考えを中心に「真栄教義の網格」について話された。

インド語でブド、視る人が変化してブッダ、めざめた人になった話しや仏教の主客一元論はヒンドゥー語による言葉の解釈に通底するの話が興味深かった。まだ良く知り得ぬが神とは何者か、無限であるやも知れぬ宇宙とは何者であるかを考えるのではなく、自分の中の悪に目覚めること、すなわち自他に同時を考え続けるのが仏教、浄土真宗であるとのお考えであるように思った。22時過迄、途中一度の休みを入れて濃い講義であった。

昨年に引続きのお話である。

その後、宿房に寝床を得て、本堂に戻りいささかの飲酒。23時半過迄。24時就寝。清水さんは常磐線が止まってしまい来られず。残念。わたくしの乗った列車の後が止まってしまったようだ。

信楽峻暦師には石山研のダナン計画を見ていただき、お渡しした。

面白いなあ、と言っていただく。

酒もほどほどにすぐ眠りにつくも、疲れていたのだろうあまり良く眠れなかった。

考えてみれば昨日の午後保坂展人区長参会の世田谷式生活・学校から連続しての学習であった。

少しばかり庭掃除の真似事など皆として、6時お朝事の読経、6時40分朝食。7時半より再び講義である。

わたくしは皆との声明(読経)はどうやら苦手でパス。

仏の教えを漢語(字)にトランスレートしたものを皆で唱和するわけだが、これが仏の教えとはとても思えない。せめて古層のインド語らしきのニュアンスが入っていなければ。佐藤健に連れられて訪ねた中国の善導師等のこれは考えの形に近いモノであろう。仏の教えと言うがこの念仏に唱われている仏とは何者なのか。インドのシャキャ族のシャカなのか、それが中国人になった仏なのか。

少なくとも疑義は唱えないが、坊さんは考えてくれる必要があるだろう。始原の仏教よりは、はるかに新しいキリスト教も又長い間キリスト解釈に関しての闘争らしきがあった。キリストの言葉をどのように伝道するかが使徒達の使命であり、それによって戦争迄が発生するのでもあった。

仏教は、日本仏教の良さは歴然としているが、それを良く伝えるのが僧侶の使命でもあろうと、えらそうに考えるのであった。エヘン。

7時半、講義開始。8時40分には真栄寺を発って、10時半東京新木場で鈴木博之さんと落ち合う予定である。肌寒い位の天気だ。

814 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十四日

日曜だが、今日はこれから下北沢で第8回世田谷式生活・学校が開校されるので朝話しの準備をいささか。口で言う程に容易ではないが具体的な区民参加の方法をキチンと準備しなければいけない。

タイトルは渡邊大志さんが考えてくれてMAN-MADE NATURE in Setagayaとなっている。先週のシュツットガルトでのMAN-MADE NATURE 2を考えての事であろう。もう8回も続けている学校である。そろそろ、その小さいが成果を踏まえて第2段階に進みたい。

例えばセミナー形式はどうだろうか?1ヶ月前にテーマを明らかにして来てくれる人にも発言していただける機会を増やし、当初は参加者を2分してA組、B組とする。それで話し合うというのはどうだろう。

本当は5つに分けて1組15名程度が望ましいが、話を進めてゆく司会役の人材がこちらに不足しているだろう。

でも先ずは2つのチームにしてみよう。講義形式の続行ではゆきづまる。幸い保坂区長も毎回出席していただけている。保坂区長にも1組受け持っていただくのはどうか。

それ故、今日はその試みを少しばかりやってみたい。

最初は渡邊さんの話を10分。これはどんな事をしているかの具体的な報告。次に、今日はこんな事をしてみたいという、わたくしの提案を具体的に。

そしてシュツットガルトでの話の再現。そして15時より保坂区長が来られてからは、渡邊さんを補佐役に保坂展人セミナーを小1時間というのはどうか。

語りかけるのは保坂区長が一番ポテンシャルが高いからな。

夕方には会場を後に常磐線天王台、真栄寺での泊まり込みの勉強会へ出席しなくてはならぬ。昭道住職の健康も回復したようなのでキチンと参会する。ダナン計画の資料を参会者の一部に渡したい。

そんなわけで仲々忙しい日曜日になりそうだ。

813 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十三日

進行中のダナン計画は都市計画と呼んでしかるべきものだろう。ベトナム人民委員会が該当敷地内の現存住居、商店他を墓地まで含めて広域に撤去し新計画を実施しようとするものだ。日本では考えられぬ事である。将来計画も含めてかなりの広域を対象にしている。昨日、両備運輸より提供していただいた500tを越える同社製の座敷船の図面を見た。何とかこのようなモビリティも含めた計画にしてみたいと考えている。

今日の午後に実質上第一回の実施計画の打合わせを持つ。

大きな計画はベトナムのような政治体制の枠内では日本で考えているような重箱の隅をつつき廻すような規制も少ないようで、大胆に進めてゆきたい。しかし、こちらに自己規制の習慣がこびりついている感もあるので用心したい。アジアでの仕事であるとの意識はできるだけ、それも自己規制とは言わぬが無意識のうちの自己規定になるので持たぬように意識はしている。でも、仏教文化圏の仕事ではある。社会主義国家での宗教の問題の位置を仲々理解できぬままでいる。大陸中国の体制にもそれは言える。が、しかし現実には精神文化公園地域という名の許に広々と様々が許容されるのであろうと、今のところは理解している。

可能性を自ら小さく閉じる事はしたくない。

神奈川の並木茂さんにダナンの仕事に参加して下さるように依頼して了解を得る。日本外洋ヨットレース界の重鎮であり、海のシルクロード、ベトナム、日本には欠かせない。日本とベトナムとの間に海のシルクロードをよみがえらせるような視点から考えてもみたいのだ。

打合わせ、および準備シンポジウム、フォーラムの類は船でやりたいものだ。

812 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十二日

渡辺豊和さんより大部440Pの本『失われたアトランティスの魔術』送られてきていて今朝大方を読み切った。これは奇書である。

毛網モン太がこの世とやらからいつの間にか居なくなり、まずい事にわたくしはその姿が棺の中に納められているのを間近に視てしまった。つまり死に顔である。つまらない事をしてしまった。親しい友人のそんな姿は決して視てはいけない。そうすれば居なくなっても幽明界を行ったり来たりしている時間の旅人か、位の気持でいられる。

だから、わたしは渡辺さんが万が一居なくなっても、そんな姿は絶対に視ない事を心に決めた。

この本自体が完全にアッチの世界の本である。前作だったか、『バロックの王・織田信長』悠書館は、まだコッチの世界の本であった。だからつまらぬわけではないが中途半端な感も残った。辻邦生さんの『安土往還記』だったかは、信長と宣教師フロイスとの交流を美しい文章で描き上げたものだ。渡辺さんの信長は決して美文、良文ではない。前につんのめる感じで、歴然とした渡辺豊和自身の建築家としての妄我、我執が時に出て、これが無ければなあと思う事もあった。

渡辺さんはまだまだ建築に未練があって、肩書きも建築家として書いていた。が内実は渡辺豊和異空間体験記であった。風刺に少々欠けたガリヴァー旅行記であり、砂漠の風の匂いのないマルコ・ポーロの東方見聞録でもあった。

しかし、この本はちがう。渡辺さんは完全にアッチの世界の本である。それを覚悟して読むと実に面白い。この本は第二章の仙童寅吉の見た世界が唯一の史実らしきであり、他は皆渡辺さんの空想世界である。そして要約すればスウェデンボルグの幽明界見聞録と仙童寅吉の語りと、そしてアインシュタインの光速、時間に関する考えもだぶらせて述べているのが要であるが、そんなまだ残ろうとするほどほどの理知的見栄など、まずはかなぐり捨てて読すべきであろう。ただ、渡辺さんには妙な数字への傾倒振りと、その趣味を地図的に敷衍してゆこうとする不可思議な情熱が沸騰する。これは徳間書店だったかの『縄文夢通信』の光通信への詩的イメージの到来以来のもので、この本でもそれは再び現われている。

それはとも角、この本は奇書である。奇書であるのを頭に入れてから読みふけるべきであろう。

でも渡辺さん、随所と言うより語りの連続の処々にほころびが垣間見えるのが心配だ。

ここ迄くれば渡辺豊和は文中にもあるように五日間程意識を失いあの世らしきを訪問した体験があるようだが、その体験記を生々しく記すのも面白いのではなかろうか。

作家論・磯崎新22書き終える。前半の中枢かも知れぬつくばセンタービル論を書いている。まだまだ、わたくしはこっちの世界の住人である。残念。

今日はこれから間もなく院レクチャー、「ミース・ファン・デル・ローエ」に出掛ける。終了後ダナン計画のチェックを。明日、ダナンの中村さんが研究室にみえる。これに集中するが、明日は又、「世田谷式生活・学校」が開校され、保坂区長も見えるのでその準備も手抜かり無くすすめたい。

渡辺豊和さんには、これは非公開の礼状を書く。彼はサイトは読まぬ世代だ。

811 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十一日

ダナン計画の修正を本日再チェックする。第一期計画平面図には色をかぶせた方がクライアントには解り易いのではないか。模型にも出来ればそうしたい。大方良く出来ていたが直したい部分も少なくはなかった。

中心のシンボルゾーンは精神文化公園に環境パークのモデルとしての意味をかぶせたい。

五月女、山田両君の昨日の動画のこれからは是非聞きたいところです。議論が少ないのではないか。口角アワを飛ばさなくとも静かな討論は必然でしょう。

どうやら身体は回復したようだ。でもなんだったのかなアレは。

昨夜は家人に言われて深夜NHKラジオで鈴木博之先生の「ジョサイア・コンドルとは」の話しを聞いた。随分ラジオは味な事をする。先生らしく過不足のない話し振りで健在振りを知る。

ワイマールのツィンマーマン教授に台北の李祖原よりの、2日間台北、2日間北京への招待のメールを送付する。素早い対応に感謝。彼はケレン味が無い。

810 世田谷村日記 ある種族へ
六月二十日

7時前離床。台風一過青空がのぞく。6月に大きな台風が東日本を縦断するとは気候の変動は生々しい。

昨夜は作家論・磯崎新22、筑波センタービル1に取組んだ。初めて苦しんで、ひっかかってしまう。わたくしの書き方としては珍しく拡散に非ず収束に向けて書こうとしたが、やはり磯崎のスケールという壁があって、それ程事は簡単ではない。でも書き進める。早く書き進めないとわたくしの方の仕事に差し障りが発生する。それ位の気持で書いている。

今日は昼にダナンPミーティングを行う。今週末にダナン人民委員会の中村さんが来室されるので、それに即したミーティングにする。

1組織図、2マスタープラン、3第一期工事、4センタープラザの順に進めたい。又、世田谷式生活・学校の件では渡邊大志さんより報告を受けたい。目先の事と、少し長めの計画について。

何とか身体の方は何不自由無くなった。しかし、あのフラフラは何であったのか。

809 世田谷村日記 ある種族へ
六月十八日

22時半過、少し心配になりノコノコ起き出して、血圧・血糖値等を測る。血圧はどうやら正常のようで、だから夜中に脳が破裂してしまう様なことはあるまい。薬が効き過ぎての低血糖が起こると危険だと医者が言っていたが、フラフラしたり、ジワーッと汗をかいたりはその傾向かも知れぬが、数値は決して低くはない。このフラフラは何なのか。初めての事なので気になる。

こういう事は書かぬが花であろうけれど、ここ迄日記メモを書き続けてきたのだからやはり書こうと決めている。でもサイトが汚物で汚れないようには気を使わねばならない。

長崎屋のオジンが見る影もなくやせた。でも2階で寝たきりはやっぱりつらいのだろう、起きてきては昔の話しを繰り返している。宗柳のオヤジもフロ場ですべって5針縫った。烏山は病老人の街でもある。

六月十九日

ひと晩寝て、何とかフラフラは消えた。助かったような気がする。昨日のアレは何だったのか。正直一時は最悪の事態まで想定したが過ぎ去ってしまえばどうと言う事もない。人間の生とは多愛ないものだ。一瞬一瞬の判断の連続だな。今朝は学部レクチャーは何とかこなせそうだが、その後の事は少し用心したい。

命あってのモノダネである。

新聞を読む。何も無し。欧州サッカー選手権でロナウドが2点入れたようだ。スポーツ欄は先ず欧州選手権に目が行くようになっている。たった一週間のシュツットガルト生活のせいだ。実に単純だわたくしは。作家論磯崎新の先のシナリオを描いてみようと思う。

何の全体像も無く始めた。そうするしか無かったからだ。軽い気持で偶然の如くに始めていなければこれはやれない。でも、助走期間は終った。そろそろ最初の山が来ている予感がある。

今日はドイツ、台北、ボルツァーノに連絡だけは入れなくてはならない用件がある。何とか身体は持ち直したようなので、それだけはこなしたい。ヴェトナム、ダナンの打合わせは明日に持ち越したい。血圧他は正常である。何とか今日は正しく歩けそうか。

808 世田谷村日記 ある種族へ
六月十八日

10時過離床。6時半に一度起きたが何故かフラフラしてしまい、これはいかんと再び眠った。何人かの人物に電話、いきなり現実の風が吹き込む。何とも体がしっかりせぬのでしばらく横になる事とする。サイトをのぞいたら作家論・磯崎新20、及び昨日迄の日記807が掲載されていた。

わたくしとは別にサイト上のわたくしが出現している様である。

午後出掛けるつもりで駅迄歩いたら、やたらに歩行が左右にブレる。通行中の人にブチ当りそうになり、ヘイに突当るといった具合。えらい事になったと戻り、横になる。文芸春秋のわたしの死亡記事をめくる。面白くない事この上ない。皆書くことは自慢である。でも一晩寝てフラフラが続くようであれば医者に行かねばならんだろう。

しなくてはならない電話は皆済ませた。

807 世田谷村日記 ある種族へ
六月十五日

3時過目覚めてしまう。いかんともしがたい時間が発生する。想う事ありメモを記そうとするがどうやらそれも不可能である。頭が動かぬ。昨日はワイゼンホーフジードルングを再び見学した。丁度オーナーの老夫婦が庭に出ていたので、カイが頼み込んでくれてハンス・シャローン設計の小住宅の中を体験する事ができた。アルヴァ・アアルト自邸のフレンドリイではあるがとりすましたところが全く無くとても居心地の良さを感じた。アアルト自邸はもう人が住んでいないからshowルームだ。この中味は考えるに値する。老夫婦はオランダ人であった。シャローンを良く知り、彼はハンブルグ生れだったからいつも船を視ていた、だから船のつくりにこの家はそっくりだと言う。特に2階に上る階段は全て鉄製でたたくとボンボンと音がする。踏板がスティールでそれにリノリウムを貼り付けている。ル・コルビュジェの2軒の家の大きい方はギャラリーになっていて住んでいる人はいないが内部が公開されている。LCの住宅の内部には何か僧院の僧房の匂いを感じて強迫感がある。引出し型のベッドや可動の間仕切壁も実に観念的なモノのように感じた。ここでは人は眠れまい。照明器具も船のモノが使われていて、LCも又船のアナロジーは言説だけのものではないのを痛感する。ミースのマスタープランは実に政治的配慮に満ちたモノで自分が最大のモノを取り、師のベーレンスに2番目に大きいモノ、コルビュジェには2つという具合である。今度の訪問でもオルタの連続コートハウスとシャローンのモノがベストである。毎回そう思うのでこれは実にそうであるに違いない。ミースの集合住宅は凡作である。1番でかいのを取ればそれで良かったのか。コルビュジェも良くない。と、実感した。見学者がとても多かった。子供から老人グループ迄。ヨーロッパのモダニズムの厚みだな。

芸術アカデミーの石山展会場の記録を取る。遠くからの鑑賞者も来ているようだ。良い会議設計であった。カイ・ベックに感謝する。

カイ・ベックにはイスタンブールで客死したブルーノ・タウトの終の棲家の写真を見せられて仰天もした。タウトが書いて日本人の建築家に関する意識というよりも、無意識に多大な影響を与えた桂と日光への言説。

アレは彼の正直な直観ではなかったのを確信する。イスタンブールでのタウトの住居、それは山荘と呼ぶべきだろうが、とても桂的美によるものではなく、オリエンタルな異国趣味によって統制されているからだ。金パクを貼られていない金閣寺、東求堂の無い銀閣まがいが中国的高楼のスタイルに散乱しているのである。これがタウトの終の棲家でもあり、つまりは墓標でもある。ブルーノ・タウトはトルコ政府から重用され金銭も恵まれていたのだろう。これだけの悪趣味としか言えぬ楼を建設し得たのだから。やはりジューディッシュの商才、政治的才覚も横溢していたのか?あるいは、やはり亡命の旅の連続がタウトの理想らしきを破壊し尽くしたのだろうか。イスタンブールにアルプス建築は似つかわしくないが、あの壮大なリリシズムのかけらも残されてはいないのだった。

磯崎には大陸浪人願望ならぬ、無意識に近い日本からの亡命願望があるように思うが、タウトの近代史に翻弄されたとも思える現実の亡命の涯の自己表明がこの建築であるとするならば、それは悲劇とも呼べぬ、喜劇とも見まがう程の破砕振りである。歴史的現実の中の亡命には美など生み落すすきまは無いのも知る。

ともあれたった1週間のドイツの旅は色々と学ばされた。

J・L・ボルヘスの本はたった4頁程繰っただけであったが、しみ渡った。

6時半過にホテルにカイがピックアップしに来てくれる事になっている。

まったく、カイ・ベックあっての旅でもあった。

しばしの別れに1つだけ現実的なみやげをカイに献呈してシュツットガルトを去ることにしたい。

6時40分ホテル出。シュツットガルト空港でLX1165チューリッヒ行を待っている。カイとは先程別れた。8時20分発でチューリッヒ迄は小半時の飛行である。

チューリッヒ空港で3時間半の乗継ぎで、まだゲートも表示されていない。空腹になりウロウロゆっくり出来そうなレストランを探す。比較的非機能的なのを見つけて座り込む。

MAN-MADE NATUREの概念をより広く、深く世に知らしめるにはどうしたら良いのか?いささかどころではない知恵と工夫をこらさなければならぬだろう。

六月十六日

9時半過成田空港発京成電車で八幡に向っている。飛行機は1時程遅れてチューリッヒを発ったので、やはりそれだけ遅れた。機内では何もしなかった。

出来なかったと言うのが正しい。それなりに疲れているんだろう。

日記メモを読み直した。何日か前のフットボールの試合は独仏戦ではなく、独オランダ戦であった。ドイツはむしろフランスよりもオランダをライバル視しているようだ、と日本の田舎の畑を見ながら考えた。まあどっちでもいいか。

六月十七日

日曜日である。8時過に目覚めた。良く眠ったから時差ボケは恐らくは消えているのだろう。しかし眠い。

ワイゼンホーフのジードルング中ハンス・シャローンの小住宅がアアルトの自宅よりも良いと感じたのは、そこに住み手の趣味の介入があったからだろう。1/4円の平面を持つ小サロンには住んでいる御夫婦の、ジャワ趣味オリエンタル趣味が横溢していて、それが好ましかったからだけではあるまい。住宅は住む為の機械でも良いのだが、それは住み手にとってそうであるべきで、設計者の、ともすればハイテースト好み、それは自己の所属する知的階層のステータス表現でもあろうけれど、それだけにしか過ぎぬものでもある。恐らくこのシャローン設計の見事な小住宅の所有者は何代も変化してきたに違いない。そして今は人の好さそうなオランダ人老夫婦のモノとなっている。玄関にはヴィンセント・ファン・ゴッホのひまわりの複製が壁にかけられていた。

何故老夫婦がここシュツットガルトの丘の上にいるのかの理由は知らぬ。

しかし、家族の肖像写真が大事そうにされていた。ここから、はるかに眺められるシュツットガルトの市街地ごしの山並みの空に、老夫婦は、はるかな人生航路を想い起すのか。息子さんがいて、この住宅に影響されてベルリンで建築のSTUDYをしているそうだ。

806 世田谷村日記 ある種族へ
六月十四日

5時半離床。昨日13日夜は21時から サッカー欧州選手権、ドイツ対オランダの試合を観た。しかも野外の大きなTVで観た。パブ街に並んで仮設された観客席で少なからぬシュツットガルト市民の方々と一緒に時に叫びながら観た。顔見知りになったパブの兄貴の顔もあった。千歳烏山の長崎屋を野外に移したようなものだ。初めての体験で面白かった。冷静な筈のカイ・ベックが時に拳を空に突き上げて叫ぶのを横目に視ながら、すっかりわたくしもドイツチームの味方になっていたのであった。見巧者ではないので本当のところは知らぬが、試合は凡戦であったような気がする。廻りでビールを飲みながらの観衆もそれ程に盛り上がってはいない。でも試合は2-1でドイツの勝ち。わたくしは2-0でドイツであろうとカイにエチケットとして予言していたので面目を保ったが、オランダはもう少し点を取れたであろう。「オランダはリトルビットアンフェアーなのだ」とつぶやくカイに「そうである」等と大きくうなづくのであった。外気は非常に寒かった。「さぶーい」と叫んだ。震えながらホテルに24時前に戻った。

昨日の朝9時にホテルのレストランでMr.ツィンマーマン、カイベックと朝食。中国の件。C.Y.LEE(李祖原)のDream of Highriseをより世界に知らしめる、そして日独で対中国に出来る事はの相談であった。ツィンマーマンはそれだけの話しが出来る人物なのだ。11時迄話し込む。段取りとしては良い方向になるだろう。バウハウス・ワイマールをヨーロッパの建築思潮の中心として再構築するのがツィンマーマンの志である。ドイツにとっても中国は抜差しならぬ圏域である。ニーチェがイタリア、トリノのキューポラと塔に非常な関心を寄せていた話し、レム・コールハースのCCTVビル(北京)はロシア構成主義のエル・リシツキーの空中都市の焼直しであるの話し等をレクチャーの如くに聞いて、ウームと唸った。

彼の知力は衰えを知らぬ。強い。バウハウス・コロキュアムを続けただけの事はある。

シュツットガルト駅まで歩き、ワイマールに帰る彼を見送り、ヴェトナムラーメンをランチとして再び歩いてホテルに戻った。眠気が強く襲ってきて、ベッドに横になり20時前まで眠った。そして、フットボールの一日であったのが13日である。

たった1冊持ってきたJ.L.ボルヘスの夢の本を繰るも今はまさに現実と夢とが薄皮一枚なので読書と現実の見境がつかぬ。ボルヘスの夢は旅の現実である。老子のみた蝶の夢はシュツットガルトに飛んでいる。6時迄飛行機で書いた作家論・磯崎新21に随分な手を入れた。長い時間に少しでも耐えられるように。 読者は問題ではない。時間だけが耐えねばならぬ壁である。

805 世田谷村日記 ある種族へ
六月十二日

ワイマールからシュツットガルト芸術アカデミーに持ってきた石山展はマン・メイド・ネイチャー2 と名付けられた。バウハウス・ルーフライト・ギャラリーでの展覧会はマン・メイド・ネイチャーでわたくしのオープン・テクノロジー(開放系技術)の一軸であった考えの転回を示した。自然と技術の共生へのいささかの屈曲であった。2011年3・11 の東日本大震災大津波の体験はその屈曲に拍車をかけた。大自然への敬意と共にある親近感の思考が形を持ち始めたのである。その結果としてのマン・メイド・ネイチャー2展シュツットガルトになった。

でも、要するにほぼわたくしの今のところの一生の仕事の基本的な性格に一生懸命名前を与えようとしているに過ぎぬ。

始まりの「幻庵」から、つい先だっての「安波山計画」に至る40年弱になるわたくしの仕事はそれ程に変化していない。自然観が曼荼羅になったり、より開放されたりしているだけである。その意味ではユラユラ揺れてはきたがほぼ一つの径であった。この先もこの径を行くしかないと思うのだ。

変える必要はない。それにそんなに容易に変えられるものではない。

今日の午後ワイマールのツィマーマン氏と李祖原の「ハイライズ展」のオーガナイズと石山の「マン・メイド・ネイチャー展」のこれからの展開について話し合う。はからずもモダーン・デザインの始まりの一つであるバウハウスと深い縁が出来たのも何かの計らいであったと思う事にしたい。しかしこの先が大事である。

13時にカイがピックアップする迄のひとときをゆっくりと過ごす。都市の中の緑は良いものだ。子供と老人の為の都市を再考したい。それを世田谷式生活・学校の軸の一つにしたい。わたくしの仕事を振り返ってもWORK for マイノリティーと呼んでいた一群がとても目についた。オープニング・レクチャーにひととおり目を通しての事である。振り返る事は時に明日を示すこともある。

シュツットガルトのセンターを訪ねた。大きな室内市場が興味深い。外は普通の市街地ビルの姿だが内部にポッカリ、ボイドが作られマーケットになっている。ギリシャの女神ヘラが祭られていた。外のレストランでランチ。カイは大きな荷物のパンやらの買い出し。今夜のオープニング・パーティーのモノ。アカデミーに戻り、展示の最終仕上げ。照明が点灯されて又別の表情となる。建築部門のディーン、アンドレアス、グドノウに会う。アカデミーの作品集をいただく。展示場でサウス・コリアの29才の学生の質問に答える。

1時ツィマーマン氏と再会。ワイマールから4時間半の汽車で来てくれた。積もる話しを交わす。グライター、ヴェローナより到着。イタリアからこれも4時間半の飛行機の旅であった。旧友達に会えて嬉しい。19時過了。アカデミーのプレジデントのスピーチでオープニング・セレモニー始まる。300名の参加者で会場は一杯であった。続いてわたくしのレクチャー。20時半終了。パーティーとなる。展示会場も一杯の人で溢れた。

22時半パーティー会場をツィマーマン、グライターと抜けて、いつものトラディショナル・パブへ。ツィマーマンとメインランド・チャイナの件、そしてC.Y.LEE のドリーム of ハイライズ展の話しをみっちりする。グライターもヴェローナからベルリン工科大学に移るので話しに参加してもらう。やがてアカデミーのディーン来る。和気あいあいの4名での会となる。カイベックも来て、もう一軒行こうとなる。非常に疲れてはいたが皆が行こうぜと言うので付合う。イヤイヤ体力勝負になってきた。

ヘーゲルの生家近くの小さなBar に行く。ツィンマーマンと同じ物凄い薬草酒みたいなのを飲み、ホーッホーッと火を吹き上げた。若いなと言ったら、日に日に若くなるのだと返された。見習いたいが、命あってのモノだねである。 何と翌13日のAM1時迄ワイワイやった。グライター、アンドレアスと別れてツィンマーマンとホテル迄歩き、ベッドに転げ込む。しかし仲々寝つけないのであった。

六月十三日

6時離床。メモを記す。外は霧雨か。今夕はドイツとオランダのヨーロッパ・カップの試合で街は大騒ぎになるのだろう。何処かのパブでTV等視たいものだ。9時にツィマーマン、カイベックと朝食の予定。今日は少し足をのばしてみるのも良いだろう。それにしても昨夜は良い会であった。カイの父親も夫人の父親も会場に来てくれた。

7時過再眠したいが、TVはフットボール独蘭戦一色だ。

これはもう戦争の再来を防ぐためのナショナリズムの吐口の大儀式だなと大げさに実感する。

804 世田谷村日記 ある種族へ
六月十一日

霧雨の中を朝食後少し計りの散策。シュツットガルトはメルセデス、ボッシュ他の企業の本社があり、ポルシェミュージアムのある都市だが、中心の旧市街の一角は古くて落ち着いた美しい町だ。

10時50分カイ・ベックにピックアップされてシュツットガルト芸術アカデミーへ。早速展示を見る。長い絵巻物をどのように展示するのか決めかねていたようで、それを床に長く、長く置くように指示。マンメイドネイチャーの考えを示す椅子をバラバラに会場全体に配布し直す。カイのアイデアで斜めに傾いた大ディスプレイ・テーブルが良い。光の巨大な布によるコントロールも美しい。外の環境と内の展示が微妙な関係を持っている。困難な状況を良く克服してくれた。カイ・ベックにサンクスを言いたい。ポスター他も良く出来ていた。昼食はアカデミー内で。眠さが襲来する。耐え難かったがカイが数々のワークショップを案内したいと言うので迷う。石彫の先生に紹介される。教授一人に生徒が5名、うち2人は日本人だという。他の工房、木工、メタル、そして鋳物、ID他をのぞかせてもらう。大変立派な工房群に驚いた。うらやましい限りだ。

15時ホテルに戻り、ベッドに倒れ込み3時間弱の熟睡。20時前、再びピックアップされ夕食へ出る。空が美しい光に満ちている。昨日と同じパブで食事を楽しみ、ホテルに戻り再び眠る。深く眠れた。

6月12日7時迄眠る。目覚めて今夕のエキシビジョンのオープニング・グリーティングのリハーサルを一人で。8時頃迄やる。グリーティング・スピーチは大事なのだ。

今日はワイマールよりツィマーマン教授、イタリアよりグライター教授もシュツットガルトに来て下さるので楽しみである。

期待していた展覧会会場でのインスピレーションはやって来なかった。インスピレーションも眠たかったのだろう。

803 世田谷村日記 ある種族へ
六月十一日

5時前離床。昨日の長いフライトでは、チューリッヒに着陸する3時間程前に、ボーッと機内映画なぞ視ていてはいかんと思い、ようよう作家論・磯崎新21を書き始めた。チューリッヒ〜シュツットガルトの40分のフライトで修了した。強迫観念で書いている様な気もするが、石山濁満としては仕方ないのである。

成田Air Portでは珍しい人に出会った。新潟の早福酒店、早福岩男御夫婦である。御夫婦でウィーンに一週間オペラの観劇なそうな。「冥途の土産です」だって。相も変らずの酒脱さだ。新潟花柳界の芸を下支えしている人物だから、ウィーンのオペラもこやしになるのだろう。それにしても、怪人を良くわたくしは知っているな、これは財産であると実感。シュツットガルト空港にはカイ・ベック先生が迎えてくれた。彼の仕事は着々と積み重なっているようで頼もしい。オペラハウスを協同にて取組んでいると言う

ホテルにチェックイン。エルミタージュという名の暗い部屋で、その暗さが仲々好ましい。旧市街の中心近くにあるらしく、歩いてすぐの、前にも来て気に入りのドイツ風パブに出掛け夕食。スープがうまいのである。でも明るいうちにホテルに帰る。

今日はこれから朝食後、シュツットガルト芸術アカデミーの石山展の会場を見る予定。カイのことだからキチンと仕上げてくれているに違いないので何の心配もしていない。学長に会い、夕刻イタリアからグライターが来るようなので共に夕食を昨日のパブで。ツィマーマンさんは同じホテルに宿泊予定とのことなので、大いに近未来の仕事の事など語り合いたい。バウハウス・シンジケートは頼りになるのだ。

時差ボケなのか天然ボケなのかは知らぬが、メモもまとまりがつかぬモノになっている。この部屋はドイツ人のグロテスク好みというか、バロック好みがにじみ出ていて、まさにエルミタージュ的断片が散りばめられている代物である。でも何故だか落ち着く。モダーンスタイルのホテルは自分には合わない様だ。東京のホテルも、もっと和風を採用すべきだろう。日本に来てアメリカまがいに宿泊するのは落ち着かぬだろうに。4階建てエレベーター無しの小さなホテルだがとても良い。こんなホテルを一度手掛けてみたい。

そんなこんなで、頼みたい事、気付いて伝えたい事は今は無い。でも芸術アカデミーで展示物の全体を眺め渡した時に何かインスピレーションが産み出される事を切に願う。明日の日記を楽しみに。でも、朝送っても日本では夕方だからこの数日間は時間が歪む事になる。

802 世田谷村日記 ある種族へ
六月十日

5時40分離床。10時40分の便でNRTからチューリッヒ経由シュツットガルトまで飛ぶ予定。少しばかりの荷作りの後6時25分世田谷村発とする。飛行機の中でしたい事が沢山ある。シュツットガルトでは、Prof.ツィマーマンとお目にかかり色々と相談するが、友人のProf.グライターが今度イタリアの大学からベルリン工科大学の教授として移るようで、彼も又会いたいとの事で楽しみである。思いがけずドイツでのパイプが拡がっている。

803便(日記の方)より以降は連日送付したい。昨日、作家論・磯崎新20を書き終えて担当者に渡したので今週末にはつまり帰京する頃にはサイトにONされたい。飛行機に閉じこもっている間に往復2本位は書けるでしょう。気力があればの事だけれど

801 世田谷村日記 ある種族へ
六月九日

6時半離床。新聞を読む。日経文化欄に我々が作成した気仙沼安波山の鎮魂の森計画がドカーンと出ているのが目に入った。新聞の計画案写真がまるで気仙沼の日ノ出凧みたいに空を舞っているようで久し振りに嬉しかった。

記者の記事も良くって、何しろ東日本被災地の人々への愛情がある。

フーッとある人物の事を憶い出した。大好きだった気仙沼人高橋純夫さんである。純夫さんはその名前がイヤだと自分では純0(じゅんゼロ)と名乗っていたような人物であった。毎週日曜日早朝の気仙沼名物朝市には自作の日ノ出凧を出品し、とんでもなく安い値段で子供達に売り出していた。あの日ノ出凧の全てを買い占めておけば良かったと今更ながら悔やまれる。一大コレクションになったであろう。邪心があると見抜かれて売ってはくれなかったろうが。純0さんは気に入った催事があると頼まれもしないのに港で200メートル程の連凧を一人風に吹かれながら揚げて、催事を祝ったりもした。全く自然な出来事のように。

唐桑臨海劇場にも出現して満員の観衆の中を一人日ノ出凧を持ち、走り、大漁旗の天幕劇場の中に日ノ出をことほいでくれたりもした。

そればかりではない。純0さんは仲々の論客でもあり、地元の新聞に新月ダム建設反対の論を投稿したりも続けた。いつも一人でそれ等をなした。自然人であった。そんな事共を憶い出させてもらった。新聞記事から。ありがたいことである。

明日からシュツットガルトの石山展オープニングレクチャーに出掛けるので、今日はゆっくりしたいところだが、午後は学部設計製図の講評会に出席する。

先生方から必ず出ろよと脅かされているので、休んでやろうかとバカなヘソを曲げかけたが、大人しく出る事にする。そこまで御大層な事ではないのだがわたくしはまるで純0さんとは正反対の性格なのである。濁満(だくまん)と名乗りたいくらいに。

石山修武改め石山濁満か。仲々良ろしいんじゃありませんか。と、下らぬ事を考えているうちに、作家論・磯崎新20を書き始めようという気分がフッと湧いた。濁り水が湯気になった感じ。まあしかし、この作家論だけはわたくしにとっては純0さんの連凧みたいなものだ。いつか大部の本にしたいとは想ってはいるけれど、ならなきゃならんでそれも良しと思ってもいる。

何処まで風に吹かれて上ってゆくのか、ズーッとイワキ平の方までゆくんか?と山村暮鳥だったかを思い起こすのである。バカな奴と自分を叱ってコンピューターに向い、作家論19を読み直してみる。アニミズム紀行8の事も気がかりである。アレも連凧みたいなモノだ。

800 世田谷村日記 ある種族へ
六月九日

5時半過離床。日記は800号記念である。タイトルの数字は書きあきて、少しスタイルを変えようと考えてからの何度目からのもので、別に取り立てて特別な意味があるわけでも無い。でも800号であり、何か良い事書きたいとは思うが、事はそれ程容易ではない。大した事は書けそうにない。おまけに依頼原稿も書かねばならない。ハイウェイは世界劇場であるという。先程ようやく思い付いた書き出しで書き始める。7時半7枚を書き終えた。イヤー我ながら速かった。

日記を書き続けているお陰様であろうか。今朝の院レクチャーは色々と手助けもいただいたので力を入れてやる積りだ。初めてに近く述べる考えもあり、スリルだが、わたくしにとっては枝道でもあるのでこのテーマは若い人に継いで発展させてもらえたら良い。レクチャー後にミーティングの時間が取れているので今朝の伝言は無い。

作家論・磯崎新19が注釈抜きではあるがONされて改めて読み直してみる。この稿をもう少し続いてゆく、すなわち終の棲家について書き継ぐ事を決心する。この作家論もめいっぱいでやっていて、わたくしなりのスリルなのである。リミットの境界線を踏んでみたい。猫の尾を踏んでギャーッと叫ばれるのとは違うだろう。何が起きるのかは知らぬ。

わたくしは建築史家でも評論家でもない。創作者であるから、それでなければ書けない事を書けなければ書く意味は全く無い。それだけは自覚しているのだが、自覚と意識の持続とは又別物になりかねぬところもあって、そんなにメモ程には容易ではない。

8時院レクチャーの一人だけの小リハーサル。やはり初めの部分はそれなりの準備が必要である。定家の和歌を英訳するのがとても困難なのを知るし、英語の語感からは恐らく定家の幽玄から有心へ、なんてとても伝わらぬだろうし…。

800号記念なのに積らぬ事しか書けず残念ではある。

799 世田谷村日記 ある種族へ
六月七日

5時45分離床。ダナンプロジェクトは一歩進んだ。渡邊くんは想定し得る組織図(大方はすでに述べてある)を描きなさい。マスタープランのつめの前にそれがより重要です。佐藤くんの第一期プランは昨夕ほぼまとまったように思います。人工の丘をよりなだらかに、人々が実に容易に昇り降り出来るように。そして建築を散逸的により分散させて下さい。直接的なイメージとしてとらえないで欲しいが、長谷寺の廻廊の如きが人工池のほとりに連なり、その奥にほこら状の水の神殿(十勝)で成したような洞穴状のほこらが点在するような感じはどうか。ただし洞穴は乾いて風通しが良くなければならぬ。丘の上に通風の穴が抜けていて、それを小さく覆う東屋として点在させると、とても良い絵になるでしょう。風が通り抜ける洞穴というのに挑戦してみて下さい。デービッドの中心シンボルゾーンも大方の筋は見えたと思います。やはりどうしてもバウハウス・スタイルの幾何学的整合性がまだ少し固い。南インドのオーロビルのセンターの如くの違和感があるので、それを柔らかく崩しなさい。でも骨格の全体は崩さぬように。柔らかさを意識してデザインをすすめるように。周囲の5つの山、土、水、木、金、火のそれぞれとの位置関係を使うと、今の幾何学がより有機性を帯びるのではないか。瞑想の庭にはやはり小さな祠が日除けとしても休憩所としても必要でしょう。

陸前高田への案は昨日のモノを大きく崩さぬように、しかも人々が残された一本松を慈しむ気持の根底を大事にして、それを大きく展開することを望みます。

アジアからの人々が多く訪れるような名所として再生させて下さい。

気仙沼にもこんなモノが欲しいので手を動かせて下さい。

総じて昨夕のミーティングは実りが多かった.各自与えられたモノ以上に計画案のみならず仕事の展開としての構想力を磨くように。それが今はとても重要でしょう。

明日6月8日の院レクチャーはフィリップ・ジョンソンのニューキャナンのグラスハウスに変更します。これ迄のレクチャーの骨格はミースの本物に対するジョンソンのイカモノ、ニセモノ性への通念への疑義でした。今年はそれを更に一歩進めて日本の定型短詩としての和歌、そしてその編集技術の精華としての定家及び新古今集の本歌取り、人工の極としての情報再構成、再編集の歴史的意味らしきに少し触れたい。冒頭でその部分を渡邊大志さんにその小編集を付け加えていただきたい。君にとっては大事な思考のきっかけになると思う。

それをまがいとはすでに呼べぬ。万葉の古(いにしえ振り)風から離れた人工の美の究極点。それを情報の編集として把え直すようなアイデアを、そうだな10点程の映像シナリオで表現してみて下さい。君にとって面白い作業になるでしょうし、それを期待しています。君の美質もより発掘されるでしょう。その美質はより深まると今の建築の美学に酷似しているようで実にそれをひっくり返しかねぬ暴力を内在させているように確信します。短時間で良いから極度に集中してやってみて下さい。フィリップ・ジョンソンとミースとの位置関係は今やすでにひっくり返っているのかも知れぬ。それを知らぬのは建築家および建築史家だけかも知れぬ。我々が物体を知覚するのはすでにメディアとして知覚するのであり、物体を実体として感知するのはそのアニマを直観しているのだ。

そこ迄のレクチャーはしないが、その前々段階の従来、オリジナル(本歌)としてのミースに対する模倣(イミテーション)としてのフィリップ・ジョンソンを日本の美学史の流れをベースに少しひっくり返してみたい。

定家の短詩で最も良く知られたモノを構成する単位(言語)が皆すでに体験済みの見慣れたものであるにもかかわらず、それが一片の詩として編集されると実に鮮やかな美をかもし出すという構造をわかり易く伝えられれば良いのだが。外国人学生が最良の聞き手であるような気もしているから、出来れば英語でやりたいのでそれにも留意されたい。

そんなわけでいささか浦の苫屋ならぬ高見の花の如くの伝言になってしまった。

昨日、モーズ・アリソンについてベイシーの菅原さんに尋ねたところ、「今はほとんど誰も関心持ってないだろう。俺もようやく思い出してるところだ」との事であった。ウィリアム・フォークナーのJAZZ 流儀だって言うのも誰が言ってる事なんだろうか。でも「レコードは少なからずあるから取り出せるようにはしておくよ」との事であった。

月末の気仙沼行の際に寄らねば。

798 世田谷村日記 ある種族へ
六月六日

6時過離床。すぐに書きたい事も無いので新聞を読む。昨日の日経夕刊文化にジャズのコーナーがあり、モーズ・アリソンについて書かれている。勿論わたくしはこの人を知らぬ。ジャズに関しては全くと言って良い程に関心がない。しかし東北一関ベイシーの菅原正二と知己になったので、菅原経由の耳学問が続き、いっぱしの知識だけは身についてしまった。この記事にも眼が止まらず、滑ったままに過ぎようとした。でも「冗談めいた他愛のない歌詞、南部の田舎をのんびりと走る汽車のようなブギのリズムが基本で確かにそれはジャズのウィリアム・フォークナーと言われる所以にもなっている。」と書かれている処で、滑る眼は止まった。急ブレーキである。これは一度聞いてみたいものだと思った。しかも今日の午後ベイシーに電話してもモーズ・アリソンに関しての菅原の意見を聞いてから入ろうと考えた。84才のこのモーズ・アリソンは山口勝弘さんと同年齢である。そんな年齢に関する興味もあるのだが、中上健次が長生きしてたら、もしやまだ聴いた事もない、音楽評論家、青木和富さんが書いたこの記事の如くの、それに似た境地に達していたのやも知れぬと想ったりもした。ともあれ今日は虎ノ門で会議があり、それが終った頃にベイシーが開店、いや待てよ今日は水曜であるからベイシーは休みの日だ。でも念の為もある電話してみよう。もしかしたら、妙にとりつかれるかも知れぬし、そうなったら殆ど初めてジャズらしき、ブルースらしきカントリーらしきの音楽に関心を持つ羽目になる。楽しみである。全ては菅原さんの解説次第である。

夕方17時には研究室のミーティングに、これは必ず出なくてはならない。各員それなりのモノを今日は持ち寄ってもらいたい。今日のミーティングから幾つかの枝葉が延びるようなそんなミーティングにしたい。

今日の演習Gには出られない。北園、加藤両先生に任せたいが、加藤先生には昨日の別のミーティングでフッと出た、今のまんまズルズルやっていても実りは少ないだろうと言う私見は伝えておく。一つは学生の側の情熱を含めた才質の問題、二つはそれに対応すべき教師(我々)の無策振りがあろう。生き生きとした才質を高学年の学生に求めるのは中々に難しい。でも何か求めるモノがあるから演習Gに参加している筈だ。

わたくしは、もう遠巻きにして見物だけしている様な学生には関心が無い。でもつたなくても毎回の如くに何かを伝えたいと考えている様な学生には対応したいと考えている。2、3人の学生にはキチンとわたくしなりのオペレーションらしきを伝えたい、それが彼等に充分に即応したモノであるかどうかは別としてでも。このスタジオは本来個人個人の対応指導なのだ。

早稲田は学生数が多過ぎて、それがままならぬ。演習Gはそれをシステムとしても補完すべき機能を果せねばならない。

10時北園、加藤両先生と電話で話し合う。今日の午後先生方が学生に何を伝えて下さるのか?

797 世田谷村日記 ある種族へ
六月五日

5時半離床。シュツットガルトでワイマールからのツィンマーマン教授にお目にかかり、李祖原のハイライズ・ドリーム展の打合わせをする。その為に手渡す資料を作成して欲しい。李祖原の最新作品集もあると良いので台北に連絡して欲しい。ダナンの中村さんに連絡して来日のスケジュールを尋ね、台湾組の来日とバッティングしないように工夫して欲しい。

高曇りの朝だ。残念ながら795に記したような夢は見る事が出来なかった。夢そのものはとも角、それを見るきっかけらしきは少し知りたいものだ。そうすれば眠るのが退屈にならずに済む。795の夢は明らかに山本夏彦翁の娘さんである岡田しな子さんの手紙がきっかけであった。手紙自体のいただき方が内容とともに驚きに満ちていた。何処かまったく別の世界あるいは幽明界からのもの、しかも人間がたよりにしたい美質群がまとわされていた。残念ながらこれは私信であるので公開出来ぬ。

山本夏彦さんは遠い道の垣根の角をフッと曲がって姿を見せなくなった。オーイと声を掛けるのにははばかるが、声を掛けたのに届かなかった風な感じである。

理想的な別れであったような気もする。暗さが全く無い。淡い光が満ちていた記憶さえある。

岡田しな子さんの手紙は確かに切手に郵便局のスタンプが印されてはいたがあれは恐らく山本さんからの便りでもあった。そう思わせるモノがあった。

夢通信のようなものだ。

それを得るのには死に顔を見ない事だと気付いた。何故何処かへ去った人の冷くなった顔を見る必要があろうか。あれは見ない、つまり接しない方が良い。

そうすれば今度の事のような良い出来事だって起きようと言うものだ。

さて、重力のある世界の事だが、と現実に帰ろうとするが、これがあんまり面白いばかりの世界では無いのは言うまでもない。それをせいぜい楽しんで生きてゆきたいものである。

6時過新聞を取りに降りる。

取りには降りたが新聞は夢と比ぶればつまらぬ事おびただしい。どなたか「あっちから新聞」の如き四次元ならぬ異次元新聞を発行したらどうか。今の世には受けるのではないか。朝日新聞があれば夕陽新聞もあって良い。毎日よりは時々新聞、日本経済新聞には日本闇市新聞、東京新聞よりは直下型新聞を当てたい。TV番組の崩壊状態も久しいが、先行きの暗い新聞は紙面半分を社会の真実の報道、すなわち現実の報道らしきから撤退すべきであろう。新聞の正義はすでに正義らしきの影に過ぎない。

7時半、我孫子真栄寺より5月20日の真栄寺開山25周年記念品送られてくる。慶讃法要に小文を寄せさせていただいた。馬場昭道住職の身体は回復したようで喜ばしい。

796 世田谷村日記 ある種族へ
六月四日

8時離床。昨夜、アッという間に藤森本『茶室学』の書評は書いてしまった。

色々と考えていたのに拍子抜けする位速かった。でも丁度良い位に短かくて良かった。長い紙幅を与えられていたら、グデグデと余計な事を書いたに違いないから。

明朝の学部レクチャーには何も用意してくれないで良い。

作家論・磯崎新19は今週中に注釈抜きでONして下さい。19の注釈は少し手こずるでしょう。アーサー・C・クラークはSF界の三巨匠と呼ばれている。アイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインラインと並んでだったか。でも、すでに高校生の頃、本当は見栄で中学一年の頃と言いたいが嘘になる。押入れに投げ込んで、うず高く2杯分にはなるだろうSFそして推理小説、冒険小説等を読みふけった事があり、妙に血肉化している。アーサー・C・クラークはあんまりわたくしにはガキなりに面白い作家ではなかった。作家論・磯崎新にクラークを登場させたのは勿論スタンリー・キューブリックとの確執があったからだ。

2001年宇宙の旅の映像詩はクラークの原作を超えていた。それはすでに歴然とした事実であろう。キューブリックとクラークの才質の大小ばかりではない。

この映画をルビコン川として世は活字の時代、すなわちペーパーの時代から映像の動画の時代へと雪崩れた。映画に登場した宇宙船ディスカバリー号の巨大さは、まだパソコンが実用化されていない、大型コンピューターHAL9000の時代の終末をも、遺跡の如くに表示していた。その辺りの事を建築の未来とダブらせて書いてみたいのだが、コンピューターの画面で読む事をしてからにしたい。19を20に連続させるか?あるいは20を宮川淳から再スタートさせるかの決断を早々にしたい。で、19のONを急ぎたいのです。磯崎のソクーロフ好みは知るところだが、あの映像の何処に共振あるいはひかれているのかが良く解らない。あのロシアの大地を想わせる重さと暗さ、方法的な冗長さは磯崎の建築作品にはいまだ登場していない。というような事に進みたいので、19は意外とゲートになる可能性もある。

795 世田谷村日記 ある種族へ
六月三日

明け方これは嬉しい夢を見た。山本夏彦翁の娘さんである岡田しな子さんのおかげ様である。こんな夢であった、これは忘れ様がない。

生きている人間と今はもう居ない人間とが入り混じって登場するのであった。覚めては欲しく無い夢であった。

毛綱モン太と久し振りに差しで向い会い飲んでいる。毛綱は少し顔色は白かったが意気軒昂たるものがあった。勿論建築の話しである。君今どんなモノ作っているの?とわたしは聞きたかったが、毛綱はギロリとにらみつけ例によって煙に巻いた。

何か夢がザワザワしてきて二人の周りに大勢の人間が現われ出した。渡辺豊和が口からアワを吹いて、吹きまくっている。知らぬ人間達がそれに聞き入っている。

わたしをさて置いて、毛綱と渡辺はやり合い始めた。何故だか山田脩二がヘラヘラ現われて両手を水平にあげて空気中を泳いでいる。何処かに象の連中が居るようだ。いつの間にやら芦花公園駅が見えるうら寂しい景色となり、毛綱はそろそろ俺は帰らなきゃならんと悲しそうな顔で言う。額が光っている。京王線らしきのレールが夜目にも光っている。しかし走り来る列車はブルートレイン、古い夜行寝台車か、あるいは長距離のオリエント急行のような長い長い列車である。窓に人影が見える。

いつの間にか毛綱は居なくなった。別れのアイサツも無くフッと去った。

仕方なく世田谷村方面に一人とぼとぼ歩いていたら、世田谷村の前の畑の方から渡辺豊和が4、5人の人間らしきを連れてやってきた。皆ひどく酔っている。世田谷村は今の家ではなく昔の平家の和風住宅であった。皆を泊めなくてはならないのだろうと一足先に家に入ろうとしたら家内の母親らしきの影が動いた。

座敷にフトンを6組程しきつめた。皆当然のような顔をして上がり込んでくる。

見たことがあるようなトルコ人らしきも居て、こいつは要注意だなと思ったりもした。

毛綱はどうした、と渡辺がつぶやいた。帰っちまったよと、わたしは答えた。

何故、こんな夢を見せてもらったのかと言えば、岡田しな子さんの手紙である。

しな子さんにお目にかかった事はないが、手紙を読んで長年の友人の如くの気持になった。夫の岡田紘史さんが今年の一月に亡くなったの知らせであった。

岡田紘史さんはしな子さんの父、山本夏彦翁が発行、編集人を兼ねていた、月刊雑誌『室内』の副編集人として腕をふるった時期があり、長かったと記憶する。わたくしは山本夏彦さんの『室内』には実にお世話になった。

超一流の編集人の姿に間近に接して教えられる事大であった。育てられたと言ってさしつかえ無い。山本夏彦さんが何処かに居なくなり、わたくしは叱ってくれる人を失い気が抜けた。そのまんま今にいたる。

岡田しな子さんは親子三代にわたりお附き合いがあったのに連絡が遅れてうんぬん、としたためられていた。

岡田さんには確かさと子さんだったかの娘さんが居てソニーだかにつとめようとしていたな、夏彦さんがソニーの盛田さんとは仲が良かったから、よかったなあと遠くから眺めていた。そう考えれば確かに親子三代にわたるお附き合いである。

わたくしも得るモノは無いままに年を暦た鰐ならぬ、年を経た老豚になっているとうつむいてしまったが、妙に寂しくは無い。こういうお便りをいただけるだけで心に少しの光が差し込むというよりも、それはそれ山本翁の身内の方々から、生死定まらぬ如くにボーッと明るい幽霊の如くに光っているのであった。

こんなお便りに返事をしたためるのは大層な知恵がいるのだろうが、これは自然体で書くしかない。

サイトに公開するのも気がひけているが、こんな便りを一人占めしてしまうのも勿体ないと思いお裾分けする。

8時過離床。夢の続きを見たかったので、どうやら寝過ごした。

お便りの返事を書こう。今日はもうそれ位で良い。日曜日である。

794 世田谷村日記 ある種族へ
六月二日

6時過離床。午後にダナン計画打合わせがあるので準備する。昨日集合風車の大方をまとめたので、ある程度図示して、これを基に一度模型を作らせたい。東日本被災地へのアイディアがダナンに飛んでいる。

作図に少々手間取り、8時研究室に送付する。ハノイの中村さんにメールしてダナンの風と日射量に関するデータを入手されたし。ダナンはベトナム戦争の頃米軍最大の空軍基地があったところなので精密なデータがある筈です。今もその跡がダナン空港として使用され、そこはベトナム空軍の基地と併用されている。

9時モヘンジョダロ遺跡周辺の散歩より戻る。途中で老人がビルのガラスに自分を写して、かぶっているクシャクシャな帽子のつばを色々と工夫し続けているのが面白かった。いくつになっても見栄はある。お洒落は見栄の最たるモノだ。

しかし、街中に老人が溢れ返っている。土曜日だと言うのに若い人はスタスタと勤め先に急ぎ、恐らく電車は満員に近いのであろう。子供の姿はない。一人だけ犬を散歩に連れているのに出会った。草っぱで遊ぶ子供は先々月に3人程を見ただけだ。子供の姿より犬猫の姿の方が多いかも知れぬ。朝の地域生活圏では。

6月16日(土)世田谷区制80周年環境月間啓発イベント〜自然の恵みを活かして豊かに暮らす世田谷の未来に向けて〜が砧区民会館、成城ホールで開かれる。入場無料。13:30〜16:00の第一部と長野県飯田市長等を交えたシンポジウム、自然エネルギー活用促進の第二部にまたがる、仲々熱の入ったイベントになるようだ。世田谷式生活・学校も出掛けたら良いだろう。申し込み方法を別紙送付する。

793 世田谷村日記 ある種族へ
六月一日

5時40分離床。新しい町づくりの会の大方の構想をペーパーにしたい。世田谷式生活・学校の千歳烏山支部の形か、まちづくり協議会との並走にするかは渡邊大志さんの判断に任せたい。あなたがこれからやろうとしている事は多くの世田谷区民の支援がなければ不可能である。わたくしがあまり前面に出るのは皆の協調性を損うきらいがある。わたくしはつくり始めの人で、その組織の維持続行の人としては向いていない。昨日午後、全世田谷野球倶楽部のS氏にようやくお目にかかる事ができた。70代半ばの立派な老人だ。この人物とは時々長崎屋でお目にかかり随分バランスのとれた方だなと感服していた。月曜日、木曜日は全世田谷野球倶楽部の練習日だそうで、練習が終った15時半過ぎに区内某所でお目にかかった。某所といってもまた別のラーメン屋の地下である。

集まっていた野球倶楽部の面々は全て70才以下、野球帽をかぶり皆若々しいのです。

S氏はお断りになった。自分より適任の老人会会長も倶楽部には居るのでその方の方が良いとも言われたが、喰い下がった。長崎屋で1年間人物を見させていただいたので、あなたしか居ない、大体今度の会は会長、副会長も無しで始めたいのだと説明し、何とか断わられぬ状態に戻した。全世田谷野球倶楽部は大人数の倶楽部である。我々が7回続けた会よりも大きい。それをまとめているのだから人物である。器が大きい。

70才を過ぎた人間の知恵は素晴しいものがある。しかも彼等は野球老人である。

彼等を指導者として想定し、世田谷式生活の一部を構想しなさい。

行動する老人倶楽部の如きか?公園に対する要望、老人の身体を動かす生活の一部としての空地植樹とか。アイデアは無限にあるでしょう。

当初考えていた、あんまり使われていない児童公園を老人向けに作り直すなんてのも良ろしいのでは。

できれば来週末くらいに最初の提案書をまとめてS氏に送るようにして下さい。S氏とは名刺交換しましたのでそれは今朝渡します。

長崎屋のオバンから「高原至写真展・浦上天主堂『被爆遺構』」DVD、TV放送の記録をいただきました。

オバンはずっーと気にかけてくれて、わたしは人前で話すのは出来ないからと、世田谷式生活・学校でのレクチャーを断わり続けていたのですが、これが答えの一つでしょう。いつか世田谷式生活・学校の先生として長崎屋のオバンを登場させたい。オバンの姉さんが写っているそうですこのDVDに。カヴァー写真に面影が記録されています。

ところで昨日、長崎屋のオバンの長女、山中みどりさんにお目にかかった。長崎屋の子供達は皆まっすぐな良い人達だ。余程親の教育というか、しつけが良ろしかったのではなかろうか。子供といったってもう立派な主婦である。

我々は「ひろしまハウス」を広島市民の皆さんと共にカンボジア・プノンペンにつくる事が出来ました。実に幸運であった。今度は「長崎ハウス」を長崎屋を始まりにして作りましょう。山田に担当させたらどうか?

彼は馬事公苑でのグリーン事業で良く皆の下働きをしていた。そういう良いところがあるから向いているかも知れぬ。30才過ぎているからガキには無い世間の知恵もあるでしょう。世田谷区には被爆者手帳を持つ人の会があるらしいので、それを先ず調べてみたらどうか。核になるのはそういう皆さんが良いでしょう。このDVDは今日研究室で視ましょう。

昨日は、はるばる小平の吉元病院まで出掛けました。

行って良かった。実に良い町の病院でした。わたくしの担当医の吉元先生の父君は80代半ばか、白髪の立派な赤ヒゲならぬ白ヒゲ先生でした。

そして西洋医学と共に漢方医療の大家であるようです。

待合い室に道教関係の資料があり、すぐ我々のヴェトナム五行山のプロジェクト、ダナン計画を思い起したのです。台湾の李玄に薬草、漢方医療関係の企業、病院、人物を知らぬかのメールを打ちなさい。

又、今度の、その次も世田谷式生活・学校のお知らせを世田谷市民運動いちの事務所に必ず送りなさい。チラシを会員の皆さんに配布して下さるし、何等かの形で連携をした方が良い。

6月6日(水)午前10時世田谷区役所第一庁舎前で広島平和公園の火をトーチにともし、世田谷区役所から都立駒沢公園までつないでゆくセレモニーがあるようだ。ひろしまハウスinプノンペンの設計者として石山研も誰かランナーを出したらどうか。出発集会のみの参加も良いそうだ。

保坂展人区長も出席するようです。

日本・仏教伝道協会会長への依頼は書式にしてFAXで事務所に送附した方が良いだろう。

又、東北の件で臼井賢志、安藤忠雄両氏に同文で、これから陸前高田市、気仙沼市、南相馬市でやろうとしている事を文書にして送付する準備を急ぎたい。

世田谷村日記