石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 7 月

>>8月の世田谷村日記

845 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十九日 その2

17時半何となくスケッチ作業をしておいた方が良いと思いスケッチにかかる。スケッチは基本的に他人に見せる事を意識していない。ドローイングは意識している。だから創作らしきにはより重要かも知れない。それは良くは解らない。キルティプールのスケッチをしていたら、それが実に自然にダナン計画に融けて合体してしまった。

それでキルティプール計画は実にわたくしの脳内建築モデルである事を明確に意識できた。何故こんな事やり続けているのだろうとの不安は勿論ないわけではなかったが、ようやく自分を納得させることができた。

キルティプールの丘の北斜面のわたくしの終の棲家、つまりわたくしの建築の理想像がもうひとつの世界模型でないわけはないではないか。世界モデルの言い方は古めかしいが、そう解ってしまえば何恥じる事はない。これは歴然としたモデル、すなわちArchitectureなのである。

努力すれば恐らくダナン計画の中にわたしのキルティプールが溶融することになるだろう。

4点描いたスケッチのうち1点はどうしてもイヤで破り棄てた。誰も見ているわけでもないのに我ながら不思議なことをすると思ったが、そのイヤな感じのスケッチは、これはどうしても他人にはのぞかせたくもない類のモノであり、そっちの方が逆に自分の求めているモノを逆照射しているのであろう。とても求心的でシンボリックなものであった。どうしても自分はそれは本能的に避け続けているのも知った。

深く面白いなあと痛感する。

このスケッチ3点はしかし終の棲家の東の窓際に作られた小デスクの上のスケッチとしてコンピューターには記憶させておこうと思う。

ここしばらくの作業の軸が発見されたと自覚する。

21時小休の為横になる。夜は涼しい風が吹き抜けて実にしのぎやすい。

七月三十日

深夜、読書にも疲れてラジオにスイッチを入れたら、ロンドンオリンピックの実況中継をやっていた。男子サッカー、日本対モロッコだった。すぐに消そうと思ったがアナウンサーが余りにも熱心に実況中継するので妙に消すのは悪いかと思い直した。しかしラジオのサッカー中継は実に難しい。生の光景が全く想像できない。でもアナウンサーは熱烈にしゃべりまくり続けた。モロッコが圧倒的に優勢なのがかろうじて伝わってきた。それでも誰かが右足の外側でけったらしいループシュートとやらがゴールとなって、アナウンサーと解説者がゴールと共に叫び何故か劣勢の日本チームが勝ってしまった。涼しい風が通り眠りやすい夜だったが、ついでに水泳の放送も聴いてしまった。北島という人がオリンピック金メダル三連覇を狙っているそうだが、聴けば聴く程にそれは無理だろうなが伝わってくる。競泳は恐らく高校生くらいのガキが一番向いている馬力スポーツである。二度も金メダルを獲ったらもうそれで良しとしなければと思った。案の定第5位に終わった。100m競技は5位に終わったが200mがまだあります、期待しましょうとアナウンサーは言っておったが200mは体力勝負だからもっと難しいだろう。北島という人は恐らく水泳以外の径が全く発見できずにズルズルとオリンピックに3回も挑戦停留してしまったのだろう。日本の水泳人口は恐らくコーチやクラブ経営者になってもそれ程もうからないのであろう。しかし、二度も世界一になって顔は知れわっているのだから、手近なところでは政治家になるのが手っ取り早いのではないか。政治家にも少数だがスポーツ議員はいないわけではない。

もう政治の世界は何でもアリの無党派ならぬ無統制な闇一族のドブネズミだらけになっている。

平泳ぎでも立泳ぎでも何でも、まだズブの素人のスポーツバカの方がズーッとましなのではあるまいかと朝の空が白々する迄眠らなかった。

おかげで8時半、ノコノコと起きて新聞を読む。保守王国山口知事選で橋下大阪維新の会のコンサルタントをやっていた人物が自公両党の乗り合い候補者に善戦したとある。毎日新聞がそう大きく書いている。新聞は実に怪しいから、恐らく一番怪しいから信用できぬ。近々あるだろう総選挙は恐ろしい暗黒状態を引き起こすのではないか、と実に恐い。誰か実況中継をしてくれと言いたい。かって視ていたTV討論会は更に怪しかったからなあ。政党だけではなく、TVや新聞に顔をさらしている知識人やらジャーナリストやらもそれこそ一新するか、わたくしのようにTVを捨てるかであろう。新聞は活字として残るから、誰が何を言っていたかは歴史的に特定できるから、まだしもである。

10時遅い朝食をとる。朝から作り置きのカレーである。長崎屋の知り合い小川くんが冷凍カレーを買いだめして高齢の御両親に時々供しているのを、からかう事はできない。

良し今日を期して自分で自分のメシを作ってみようといきなり決心する。いずれ永井荷風の如くに何処かで野垂れ死にするに違いないから、荷風みたいに毎日喰っていたカツ丼にまみれて死ぬ如きは避けたい。

七月三十一日

深夜2時半起きて色々と考えを巡らせる。涼しい風が吹き抜けて気持ち良いが頭はそれ程に廻ってくれない。仕事の事はとも角、作家論・磯崎新26にとりかかかる事にする。初回から通して読み直そうとするが仲々酷な作業だ。わたくしの院時代の恩師でもあった渡辺保忠先生の事から書き始めていた。いつかそこに流れを戻さなければならぬがまだ早いだろう。本来の歴史家の機能と磯崎新の言説の交差らしきは作家論・磯崎新の核のひとつであるのは目星はつけてあるが、まだ入らない方が良い。次に九州の小さなモニュメント計画案の叙述からいきなりつくばセンタービルにとりかかってしまったのが気になっていた。

しかし、この不連続性は大事なのだ。人間の思い付きは信じるに足る。

ましてや、もう充分に年を積み重ねてきた者の思い付きである。きっと大事なモノが隠されていたにちがいない。

磯崎新の仕事ではあの九州のモニュメント案に一番近い作品は何かと考える。スケールの生けどりといささか若作りに書いてはみたのだが、要するに磯崎新の意識、つまりアイロニーの事だが、それから自由な精神の表れは何かと考える。ヴェネチアのルイジ・ノーノの墓のデザインと宮川淳の墓のデザインである。さらにルイジ・ノーノの墓のデザインは宮川淳の墓のそれよりも重要である。その事を作家論・磯崎新26に書きつけてみようと、今3時になったところで決めた。つくばセンタービルはまだ書けるけれども、今はそうしない方が良いような気がする。しばらくして又戻ってこよう。今のところは書き続けてもそれ程楽しくはない。少し間を置けば又楽しみも戻ってくるだろう。ルイジ・ノーノの墓に関しては磯崎新本人にアレは何を意味させようとしたのか尋ねたい気持も湧いてしまうが、それは避けたい。本人に大事な事は尋ねては作家論にならない。少なくとも創作論としての作家論にはなり得なくなってしまう。

と、オヤオヤいきなり径が視えてきた。と言うよりもバッと開けた。つくばセンタービルと再び廃墟になったヒロシマ、そしてルイジ・ノーノの墓を結ぶ径がハッキリと視えてきた。そして磯崎新の終の棲家構想らしきへの階段も視えたようである。明朝、頭が冷えている時に書き始めてみたい。3時20分再眠を試みる。

844 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十七日 その2

院レクチャー最終回の後、12時45分より、ダナン計画センタープラザデザイン打合わせ。5案をベトナムに送信する。諸々の返信を受信。

世はまさに電子メールの時代になっているのだなぁを実感する。

生身の、そして肉声での交信は除外されているのだな。決して良い事ばかりとは考えられぬが標準化されて複雑な細部を持たぬコミュニケーションには適しているのであろう。

その後明日の第9回世田谷式生活・学校の打合わせ。明日の会からは少し我々も会自体の運営他を脱皮させたいものだ。身をもって示さねば駄目なのもすでに知るのだが。

16時研究室発、花小金井の吉元医院へ。17時到着するも担当の副医院長が今日は大学病院の診療日で不在。老院長先生の問診代行となる。薬だけいただいて18時前退。老先生は実に風格があってほれぼれとする。

19時過新宿経由にて世田谷村に戻る。

七月二十八日

8時半離床。最近は猛暑で夜が寝苦しく、どうしても熟睡が明方やってくるので朝が遅い。実に勿体ない時間を捨てているような気もする。

一人で朝食をすませ、キルティプール日記4を書く。11時前終了。

磯崎アトリエよりメールが来て、来年より刊行される予定の岩波書店の磯崎新著作集の為の月報に何か書けとの事である。

第1号は浅田彰、岡崎乾二郎と石山、そして第8号は柄谷行人、鈴木博之、鈴木忠志各氏との事。

サイト上に作家論・磯崎新を連載中なのでダブる感もあるが、引受ける事にする。建築関係ではわたくしが先陣を切り、しんがりが鈴木博之という事になる。いささかスリルではあるが、皆には何がスリルなのかは解らないだろう。

今夕の世田谷式生活・学校のこの先の展開について想いを巡らせる。基本的には先走らぬように、でも着実に進めたい。次回第10回の世田谷式生活・学校は10回記念として少し大きくやりたい。植栽、例えば長い生垣の実現と太陽光バッテリーのセルフエイド方式、すなわち世田谷式の第一歩を踏み出したい。

今夕、第9回のスクールはその前段階とする。

17時半千歳烏山アグリタウン。18時スクール始める。19時世田谷区長保坂展人来る。区長の話しは回を追う毎にうまくなる。流石政治家である。我々の話しは中々うまくならない。話し相手が堂々たる普通の区民の人々だからこれは中々に難問ではあるが。

わたくし自身を振り返れば、所謂同じ業界の人々への話し位は20代からやってはいたが、広く市民区民の皆さん相手らしきの話しは40代前半に西伊豆松崎町で「伊豆の長八美術館」を作ってからであったのを思い出した。若い渡邊大志の話しが思い切り会場の空気から浮いてしまうのは仕方ないだろうが、毎回浮いてしまえば人々に見放されるのも確実だ。トレーニングもあるが毎回が真剣勝負でもある。心したい。

20時過了。次の会合に急ぐ保坂区長へのわたくしの最後の質問。「よもや区長は国政に復帰するのではありますまいね」。区長去り際のドアのところから「そういう事はありません。ホラ、ここにも書いて言ってある」と、少し慌てて会場に戻ろうとする。彼は歴戦の政治家である。これだけ区長レベルで顕在化すれば当然国政は視野に入っていると考えるのが常識であろう。

今般の政治状勢を眺めるに(エヘンとセキ払い)保坂区長の如くは大阪の橋本市長と同じような立ち位置になってきた。先の無い社民とも離れ、阿呆の民主からも遠く、ましてすでに沈没した自民とも遠い。それが大きく価値にならぬわけが無いのだ。国政の巨大な無為が地方自治に大きく影響しないわけもない。

20時半、南烏山宗柳にて世田谷美術館の野田さん、芳賀牧師、有泉眞一郎さんと遅いソバをすする。大いに話しは沸騰したが、ソバ屋は閉まるのが早い。後髪を引かれる思いで別れた。「風に吹かれて無駄話しの会」3として記録する。

七月二十九日

6時半離床。新聞を読んで再眠。再眠暁を覚えずである。

10時過再離床メモを記す。

第10回の世田谷式生活・学校のことをしばし考える。

11時前思い立ち、安西直紀さんに連絡。今度の総選挙は闇だ、そろそろ何らかの行動を起こしたらとうながす。まだ10年早いが、遅過ぎることは何も無い。

13時過宗柳の脇を通ったら中で「全世田谷野球倶楽部」カントクの姿が見えたのであいさつ。長崎屋へ。TVの高校野球を見て世田谷村に帰り、昼寝。猫もぐったりと寝ている。17時半起きて、さて何をしようかと思案中。

843 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十七日

8時前離床。今日も暑い一日になりそうだ。今朝は院レクチャー最終の後、ダナン計画センターゾーンのそれぞれの案をチェック。その後、ダナンへ送信の予定。昨日、C.Y.LEEより連絡があり北京でMr.Kwokにオリンピック会場横の巨大ビルで会う事になったので、その為の準備にもとりかかりたい。

中国の巨竜として成長した彼に再会できるのは楽しみである。

明日28(土)は千歳烏山で第9回「世田谷式生活・学校」が開かれるので、その準備もしたい。

3階の南テラスに張ったネットに薄紫の朝顔が2輪咲いていて、せめてもの涼しさをくれている。ゴーヤも屋上までのびて黄色い花をつけている。

842 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十五日 その2

折角描いたドローイング3点を置き忘れて世田谷村を発ち、駅のプラットフォームでアッと気付き、これは面倒臭いとするわけにもゆかず取りに帰る。暑いので大変だ。再びの京王線車内では倉田の兄さん夫妻にバッタリ会う。成田へバンコクで仕事している息子夫婦の奥さんと子供を迎えに行くところだそうだ。バンコクは暑いだろうなの話に花が咲く。兄さんは情報の月尾氏の講演を聞いたそうで、少数民族の話だったと言う。

ヘエと思い耳を傾けた。コロンブスがアメリカ大陸を発見してネイティブアメリカンの人々を発見したと言うのが歴史の定説であるが、アメリカ原住民にとっては、ただイザベラ女王の命によりやってきたスペイン人に出喰わしたに過ぎぬ、という歴史の逆説。

日本の近代の歴史もそれに実は近い。

汗びっしょりで研究室に辿り着き、すぐミーティング。それぞれに金曜日にダナンに送信する図の仕上がりの感じを伝える。

新しいドローイング1点を得る。キルティプール日記2を書く。長く書けぬ。頭がドローイング仕様になってしまっている。

七月二十六日

5時半離床。明日27日の院レクチャー最終講義の考えを練る。

1、 石山研究室の新しいマトリックス、そしてMAPについて

2、 キルティプール計画について、これはキルティプールの現実と、それに対するDream。現実は中里さんの写真等。キルティプールの丘から眺めるカトマンドゥ盆地から一転して昨日描いたドローイング「キルティプールの丘より視るカトマンドゥ盆地」そして一連のキルティプール計画のドローイング。ジュニーとの写真。

3、 サンパウロ大学のファベーラ・リサーチ。サンパウロ市の中心街がスラム化している現実と、サンパウロ大学の取り組み。絵はある。

4、 国連への提案、難民病院、ヘレンケラー記念塔、ツリーハウス他。先日の工務店の方々に見てもらったモノで良い。

5、 ミャンマー、パガン計画。イラワジ河とサイト、そしてパガンの風景。

以上を50点程にまとめて下さい。

6時15分よりキルティプール日記3を書く。45分了。新聞を読む。今日も暑くなりそうだ。サイト上のギャラリーはともかく、北京か台北で小さな展覧会ができると良い。まずはツィンマーマンとC.Y.への本作りである。

1、 全て英文とする。

2、 現在のサイト上のマトリックス、及びMAPをベースとする。

3、 最小限の作品キャリアは外せない。

4、 展覧会キャリアも含む。

5、 「ひろしまハウスinプノンペン」そして2011年3.11以降の仕事をメインとする。ひろしまハウスは創作家の内の問題として、2011年3.11は社会の問題として。

以上を軸に渡邊、佐藤でプランを作成されたし。

841 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十四日

学部レクチャー修了後、12時40分よりダナン計画中央プラザのデザインの見直しと作業。5名でかかる。30分のショートエスキスを各自して持ち寄る。わたくしもアイデアスケッチを作成。なんとか良い形にまとまるやも知れぬ。金曜日の午後にベトナムにメールで送る旨の連絡をする。ミーティング後、一人スケッチ作業を続行。17時半わたくしの作業はほぼまとまり、スタッフにスケッチを渡し作図作業を依頼する。

18時前WORK了、研究室を発つ。千歳烏山で28日の「世田谷式生活・学校」のチラシを10部配布。世田谷村に戻り、キルティプール計画のドローイングにかかる。夕食をはさんで23時前、いささか疲れて作業を中断。2点のドローイングを得た。明日早速研究室でサイトONの打ち合わせが出来そうだ。 23時過、横になっていささかの読書で頭を休ませる。

わたくしにとって建築ドローイングはやっぱり他の何よりも頭脳を酷使しているのだろう。

ウェブサイト、トップページに「MAP」のボタンが設けられクリックすると素っ気なく、ぶっきら棒なガイドラインがより解りやすく絵解きされている。

五月女くんよりウェブサイトビジネスに関するプリミティブなレポートが提出されたが、これは絵空事レベルであった。でもトライする事は大変良い事だ。

七月二十五日

7時半離床。すぐにドローイングにかかる。「キルティプールより視るカトマンドゥ盆地」10時了。ここのところの一連のドローイングは8月に整理してMr.ツィンマーマン、C.Y.LEEに手渡したい。ダナン計画と合わせて。

今日はどうやら暑くなりそうだ。遅い朝食をとってドローイングを持ってミーティングに出掛ける。

840 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十四日

7時離床。曇天、風無し。ダナン計画マスタープラン他がダナン市バー・タイン総書記にヒュウ氏を介してプレゼンテーションされた。総書記は大いに賞賛して下さったとの連絡が入った。油断大敵ではあるがホッと胸をなでおろす。ダナンへの足がかりになるであろう。

昨日、12時半よりの近江家でのXゼミナールで8月1日に前川國男の都立美術館のリノベーションを見学に行こうと決まった。上野の森の前川作品、東京文化会館共々じっくり見てみたい。おそらく、1、2週間後に鈴木博之、難波和彦、石山の見学記がXゼミナールにONされるであろうから、わたくしの、すでに書き終えている「作家論・磯崎新24、25」は出来ればそれ以前にサイトにONして、しばらく休養したい。つくばセンタービルについてまだ充分に論じ切れていないが、入口は開いたと考えているので、マア良いだろうと自己満足する。ウェブサイトに連載しているので読者の反応は全く解らない。勿論反応があろうが、無かろうが書き進めるのは決めているが、恐らくは作家論の形式は今の世(特に日本の知的状況)では、ほぼズレてはいる。だからこそキチンと書いておきたいのだが。しっかりやりたい。

今日は午前中学部レクチャーの最終回を済ませ、諸々の打合わせをする。

839 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十三日

6時離床。肌寒い朝だ。このところ隣の烏山白山神社の境内に全く寄らなくなってしまった。母が亡くなって何かを祈る対象が消えてしまったからか。それとも何かなあ良く解らない。

今日は昼にXゼミナールの会が近江家であるので、その前に寄ってみようかな。

Xゼミナールは昼食会となった。夜の会になるとヤッパリ飲んでしまうからだ。ところで昨日の別の昼食会「第2回風に吹かれて無駄話しの会」はたった一人の突然の参加者によってシナリオが崩れてしまったのが面白かったと言えば面白い。

昨日の会はすでに4名のメンバーが一杯で、ある意味では非公開の会であった。非公開と言う程に御大層なモノではないけれど、マアそうだった。ところが、それはそれネット社会の良いところなのか悪いところなのかは知らぬが富重法生さんが突然来てしまい、それだけでわたくしが作っていたある意味では整然としていた筈のシナリオがガラガラと崩れた。

何故ならば昨日の会のメイン(主客)は渡瀬裕哉さんであった。

初対面で名刺には東京茶会(Tokyo Tea Party)の事務局長とある。

アメリカ共和党のTea Partyにあやかった、いかにもうさん臭い会であり、そのうさん臭さが売りの人物のはずであった。安西直紀さんが将来政治家として打って出るのに連れてくる筈の人物である。要するに選挙屋である。18才の時から政治を目指したが、その頃から自分は表に出てどうのこうのの人物ではない。裏方が向いていると自覚したような人間である。実際に会ってみたら全くその通りの人物であった。それはとも角、そういう人物であるから突然の得体の知れぬ人物がいると、当然選挙屋特有の面白い話しは一切出来ぬ事になってしまう。ヒガシコクバルの今はどうだとか、どの選挙区に穴があるかとかの話は一切出ない。

そりゃそうだろう、こういう人間は口が固いのだけが取り得なのだろうから。彼はプロなので口はもう開かぬのであった。

でも富重さんは良い人であった。聞けば広島出身の設計家で今は武蔵美のキャンパスの計画設計室にいる。広島から単身赴任なんだそうだ。

本木一之さんの友人でもある。どうりで同じように鈍重で実直な人柄であった。

山田脩二さんは相変らずのただの呑ん兵衛であり、それが取り柄なのだからもう変わりようがない。安西直紀さんは山田さんと初対面ではないけれど安西が何者なのか、実はわたくしも良くは知らぬのだがそれで誰でもイイヤという感じで、でも酒はいつもより多く飲んでいた。

イヤハヤ、しかしこういう会は実に難しいモノだ。思惑を持っていどめばささいな事で外れるし。持たねばただのソバの会であり、そんなモノには全く興味がない。

「第2回風に吹かれて無駄話しの会」の簡単な報告と次のお知らせはサイトのTOPページのMini Spaceをクリックしたら出るようにしたい。

この会は連続してゆくから積み上げられるように工夫されたし。

第2回の会の様子の写真は安西、富重両氏が撮っていたので安西さんに写真を送ってくれるように連絡すること。席表示は別途送ります。

さて本日のXゼミナールの昼食会であるが、小さく、ささいでも良いから展開させる必要があるような気もするし、あんまりジタバタしない方が良いかも知れぬ。鈴木、難波両氏の考えも聞きたいところだ。

838 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十二日

朝、安西直紀さんから連絡あり、今日の「風に吹かれて無駄話しの会」に渡瀬さんを同行するとの事。渡瀬さんは安西さんと同年令。宮崎県知事選にヒガシコクバルが勝利した際の選挙参謀を務めた人間だそうだ。安西直紀には将来にわたり必要な関係であろうか。

淡路島の山田脩二さんからも連絡あり今日はどうだと言うので、ヤルぞと答えた。安西直紀、山田脩二、渡瀬氏、石山の4人の無駄話しの会だ。

宮崎の具体美術の藤野忠利さんの作品を4人の会の席にしつらえようと思い付いていたのも、渡瀬さんの参加によって正しかったなあとホッとした。

実は昨日、実験工房の山口勝弘先生の絵の方が良ろしいかなと思ったりもしたのだ。

茶室の床の掛け軸だからなあ。

山田脩二さんが当然会席するので自然にやるとグデグデの酔っ払いの会になるのは必定であるが、今日、渡瀬さんなる未見の若者が来るらしいので当然、彼を主客にするのを決定した。わたくしの方からは話題として石山研ウェブサイトの最新TOPページのペーパーコピー、「環太平洋・小部族環境デザイン青年フォーラム(仮称)」設立について。北京・台北行の件、佐藤研吾からの「高山建築学校2012」へのカンパの呼び掛け等を用意している。

山田脩二さんと連絡して会の始まりを30分早くするのを伝える。

面白い会になりそうだ。

こういうメンバーで会うのは恐らくもう二度と無いであろうから今出来ることのベストを尽したい。

藤野忠利の床の間の絵は予定したものより大き目のモノを持ち寄る事にしたい。

837 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十一日

7時半離床。今朝は院試一般の面接で9時には発つ。昨日は久しぶりに渡邊大志を交えて遅い昼食をとった。渡邊さんは全ての設計製図を見ているのでさぞかし苦労な事だろう。でも2、3年たったら自分で工夫して製図教育を少しずつ改変する事を考えるべきだろう。今の方法では学生の現実には対応できていないの印象がある。どうすべきなのかのわたくしなりの考えはあるが、それは教師が自分で考えるべきであろうから述べない。8月にはワイマールのツィンマーマンさんとそんな事も話し合ってみたい。彼は国立バウハウス大学の中興の祖である。ドイツ全体、対アメリカ、対中国の戦略も確実に所有している。教えを乞いたいものである。

ウェブサイトを一新したので仲々慣れるのに一苦労である。でも時々全体を改変する努力は大事なような気がする。天候が不順で、昨夜もひとしきり大雨が降った。

被災地の方々の御苦労はこれからが本格的であろう。我々の絵葉書プロジェクトもじーっと続けてゆきたいものだが、これも又自力を頼むしか無いであろう。

836 世田谷村日記 ある種族へ
七月二十日

昨夜は話しを2時間強程した後の質疑応答後、近くの料理屋でオプコード野辺公一、そして工務店の皆さんと和気あいあいと飲んだ。久し振りに愉快に飲んだので、世田谷村に帰ったら階段室でブッ倒れ気がつけば2階に用意されていた床でグッスリ眠った。

朝起きたら体の節々が痛く、ヨタヨタの体たらく。でも面白かった。

野辺の奴、谷川雁を持ち出しやがってわたくしを批評しようとしたが、古いなあ。脱ぎ捨てた衣だよ。まあダムダン空間工作所という会社の名前は確かに谷川の工作者宣言だったかによっていたのだが、若かった。。

しかし日本の住宅はどうなってしまうのか、希望はあるのか?

サッと風呂に入ってから、9時半には院レクチャーの為に世田谷村を発つ。

835 世田谷村日記 ある種族へ
七月十九日

思い立ってホームページの検索用のトップページを一新した。全体として陣形が不明快しかも乱雑になり過ぎていると考えたからだ。昨日短いミーティングを行い方針を決めすぐにページに反映された。

IN THE BRAIN/SMALL THING/ARCHITECTURE/OUT OF SCALE

に仕事を仕分けて、なおかつ連結させている。今のマトリックスではSMALL THINGSがSMALL SPACEになっているが、少し走らせて落ち着きの良い方を選べば良い。

IN THE BRAINの具体的なアイテムがドリトル先生動物園病院倶楽部になっているが、ドリトル先生動物園病院倶楽部は近々、SMALL THINGの島へ移行させるので、これは外して下さい。ギャラリーinキルティプールとして下さい。目的をはっきりさせる為にも。これ迄トレーニングしてきた幾つかのギャラリーはすでに役割を終えているから何処かにストックして下されば良い。視たい人だけに視てもらえればそれで良い。深夜の思い出映画館みたいなものです。

8月中旬に北京、台北でMr.ツィマーマン、CY.LEEとのミーティングがある。この作業は具体的にその為のものです。このマトリックスは8月迄に磨き上げて両氏に手渡しますのでこの二人には解っていただかなくてはならない。

二人共に恐ろしくシンプルな眼と頭の持主です。それを忘れないように。

何年か前に編集会議がリアルなデザイン・ミーティングと同じになれば良いと言っていたものを今その通りにやろうとしている。決して間違ってはいないからこの通りにやろう。

ウェブサイトを使っていない人々のために、このトップページのマトリックスは時にペーパーとして各種通信にも使えるようにしたい。

今、世田谷村では家人と猫が床にゴロリとのびて休んでいる。夏を乗り切れると良いが、あんまり無理はしないのも一番だ。

今日の午後はオプコードの野辺公一さんが工務店の方々30名程を率いてやってくる。その為の話しのデータ作りはすでに終了している。

乗り捨てたつもりの住宅生産関連の話しだが、野辺公一は亡くなった大野勝彦と共に大事な古い友人であるから、精一杯の事はしたい。

仕上がっている筈のレクチャー・データの始まりの2項目からMAN MADE NATURE展に出している、大工さんの使った家具の写真と市根井さんとわたしが作業しているデータを4、5点入れて下さい。山田くんにお願いします。その家具の中には鳥取の左官屋さんに作ってもらったゲーテの肖像入りの家具も必ず入れて下さい。

今日の野辺さんの会での話しはさしずめ、新しいシンプルなマトリックスではSMALL THINGの領域に入るのでしょう。

宗柳のオヤジとオカンと話したところ、世田谷村近くのモヘンジョダロの遺跡に一軒ポツンと残っている家もとうとう年内位には撤退してしまいそうだとの事である。残念だ。実はあの家の前で、ソバの会をやりたいと考えていたのだが、努力するだけ無駄のようだな。

834 世田谷村日記 ある種族へ
七月十八日

ワルター・ピッヒラーの大きな彫刻の写真が眼に焼きついて離れない。

プリンストンUNIVプレス出版のピッヒラー作品集を視た。

ドローイングと彫刻と一部建築の複合体である。ドローイングはとも角、立体の彫刻と言うべきが実に独特である。金属と木と石や土の組み合わせになっている。組み合わせの形式から視れば建築としか言い得ようが無いが、その枠は超えてしまっている。

ヴァナキュラーな納屋らしき小屋にそれ等の彫刻を組み込んで私的ギャラリーとでも呼びたいモノを作り出している。

ドローイングではアンダーグラウンドアーキテクチャーだったかシティであったかと名付けられたモノが眼をひいた。

実現を目指していないわけではない。その一部は地表に露出した如くに、ささやかに実現されている。恐らくはピッヒラーの孤独な森の中の作業の結果として。

背の高いWOMANと名付けられた彫刻の素材は何かは解らない。恐らくハンス・ホラインが初期の仕事で多用したステンレススティールではないか。

にぶく光り、他の宇宙からやってきたような物体になっている。

アントニオ・ガウディのカサミラの屋上換気筒群の造形に似ている。

それが置かれている台地のディテールはカルロ・スカルパの木と鉄の組み合わせのそれにも似ている。しかし全体としてはピッヒラー独自のモノになっている。

日本の近代の彫刻家では若林奮の作品に似ている。

がしかし、若林の作品群よりはるかにと言うべきか、充実している印象を持った。日本の近代彫刻の層は厚みが薄い。

これらの作事群はどうやら磯崎新の言うチロルの建築群なのであろうか。

造形物の大半がそこにある小建築にしっかり組み込まれてしまっているので彫刻としては自立していない。それ故に美術館には収蔵し得ぬ。

だから彫刻としてのマーケットには乗りにくい。

全てがそんな形式の中に呈示されている。

仲々に手敵いモノなのだ。大した作家が世界には居るものである。

その作品から死とか無意識の核とか、色々とでたら目を言えようが皆嘘になりそうだ。つまり言葉で表わせぬ世界が表現されている。

わたくしの方のドローイングは五月女くん制作の動画の中にようやく組み込まれた。

ピッヒラーのモノと比較したらひどく俗な感じ、更に言えば幼稚な感もしないわけではない。動画はいかにもな現代日本文化の幼児退行性の表われである。

だからそれはそれで仕方がない。と言いわけする必要もない。つまり日本文化の表われである事が意識されている間は良い。

彼も彼なりに色々エーッと思うような工夫をこらしているので敢えて排除しない。これも今の文化の現実なのだ。

大体わたしが一生懸命工夫をこらしたサイトギャラリーの形式そのものが日本漫画を意識したものでもある。色々考えて、仕方ない今は無料のウェブサイトに出展しようと考えている。将来はまだ不明である。

それはそれとして脇に置いておく。でも最新作の動画は一度面倒でものぞいてみたらと言いたい。しばし5分弱の空白の旅に出るのも良ろしかろう。

ネパール、タカリ族の長ジュニー・シェルチャンに連絡をされたし。世界のネイティブのネットワークフォーラムの準備のために。八重洲の清水さんに聞くとメールアドレスがわかると思う。

修了した第一回「風に吹かれて無駄話しの会」に出席して下さった4名の席の記録だけはキチンとしておきたい

22日の会の出席者は今のところ淡路島の山田脩二、向風学校・安西直紀、わたくしの三名は確定した。あと一席余裕があるのでどうぞ

只今、8時過。今日も暑い日になりそうだ。

先程から黒アゲハが一匹ダッタン海峡ならぬ、世田谷村にまぎれ込んでガラス越しに羽ばたいている。それを猫が狙っていて気が気でない。

先日、世田谷村で生まれた黒アゲハはようやく外の空へ飛び立ったが、この黒アゲハはそれが戻ってきたのかどうか。外へヨロヨロと飛び立った奴は足に一撃、猫から喰らっていたからもう何処かで命を落としたのであろうか。

広島の木本一之さんに久し振りに連絡する。相も変らずマイペースでやっているようだが、径は拓けるのだろうか。向上心が無いわけではないのだが要するに鈍器なのだな。ではそろそろ、何処かに庭園をデザインする計画をすすめる事にした。商業のためのモノが良い。デッカイものがいいので8月に北京、台北で李祖原に会うので相談してみる。

先日台北で高級和風ホテルに泊まったが、勿論C.Y.LEEの手になるものであった。内部セミパブリックスペースを庭園化したら面白かろうと痛感した。木本さんには以前石灯籠のデザインを考えてみてくれと依頼した事もあったが、あれを展開させたら良かろう。

833 世田谷村日記 ある種族へ
七月十六日

9時世田谷村に戻り、いささかの電話他。2階のテーブルの上には猫がぐったりと横になり、のびている。暑かったのであろう。台北の李祖原事務所より連絡入る。ワイマールのツィンマーマン氏との北京、台北ミーティングに関してと、先日送った佐藤研吾のアメリカ先住民プロジェクトに関する反応。自身の才質の自覚は若い時には不可能でもある。彼は優男すぎるので、ヒゲをはやした方が良いの忠告に、早速ヒゲをはやし始めて、長野屋のオバンに大笑いされていた。それでよいのだ。

今早朝、DADAの大部の本を眺めた。マルセル・デュシャンのローズ・セラヴィの女装写真を含めて、マン・レイの仕事の意味もわたくしにはよく理解できぬ。マックス・エルンストの面だましいがアンディ・ウォホールに酷似しているのに驚いたりもした。

近代絵画史もいずれ大幅に書き直される必要があろうかと思う。

七月十七日

5時過ぎ離床。猫は2階の木の椅子の座で眠っている。風の径を良く知っているのだ。メモを記す足許を風が吹き通ってゆく。ジェット旅客機が飛ぶ地上1万メートルの高度には常時50m/時の強風が吹いている。あの風をジェット機のエンジン冷却にだけ使っているのだが、勿体ない話である。昨夜読んだ西沢潤先生の対談本の中に風力発電は先生の如くの光ファイバー通信の科学者には非効率すぎると写っているらしいのを知った。確かにさもありなんと思った。

今日は午前中の学部レクチャーをこなして、内容は出来れば質問とそれへの応答にしたいがどうなりますやら。さらりと始めてしまった世田谷式生活・学校の小枝でもあるソバ屋宗柳の会の、今週の日曜日の会はどう考えてもこちらで少しお膳立てをしないといけない。第1回は大変良い会であったが、ぜいたくを言えば2回目はメンバーを少し変えたい。毎回同じ人間が顔を付き合わせるのではなくしたい。どうやら世田谷野球倶楽部の方々は日曜日は晴れていたら練習日なのだ。ここは一番、下田病院の保さんにお願いするしかないか。向風学校の安西直紀さんにも相談したい話があり、電話する。

そうなんだ、これはお茶会なのだと、いきなり気付く。お茶席ON the Roadだ。7月22日の宗柳前の会は、淡路島の山田脩二、向風学校代表の安西直紀とあと一人の会とする。これは雨天決行である。山田さんは淡路から来て、翌日モンゴルへ発つので雨ならば店内に席を移す。

あと一名はしばらく考えてみる。再び記録はとらない。記録をとって公開するなんて茶席はあるわけもない。メンバーと簡単な経過のみをこの日記に残す。

832 世田谷村日記 ある種族へ
七月十五日

6時半離床。雲の切れ間に青空が見えている。どうやら雨はしばらくは降らぬだろう。宗柳前の屋外ソバ食いの会はやれそうだ。すぐにドローイングにかかる。昨日終の棲家のドローイングを一点得た。

そしてそれに関する小エッセイも書いた。

ようやくキルティプールの丘の計画の径のヤブが切り拓けたと思う。

もしかしたら奇友ナーリさんの御陰様やも知れぬ。

8時、2点を終了。少しペースに乗ってきたが、疲れて小休。

今、動画のキルティプール・ギャラリーに展示しているドローイングは外して、昨日7月14日に描いたモノを始まりのスペースに展示されたし。そして、今日の2点を続けて展示したい。

インドのサンチーの最古と覚しきマウリア朝のアショカ王の時代のストゥーパについて知りたくてサイトを検索したら神谷武夫さんのインド建築研究の情報に接した。神谷さんは若い頃にお目にかかった記憶があるが実に大変な仕事に取り組んでおられるようで頭が下がる。

わたしもチャラチャラした仕事もさりながら人々の為に役立つこんな仕事に顔向けできるような事をしたいものだ。

神谷さんはえらい。

13時過宗柳へ。当然いる筈の研究室のメンバーの姿はなし。仕方ネエ、ひとりでやってしまおうと、用意してくれたビールケース8ケを、4つを椅子に、4つをテーブルにアレンジする。丁度良い数であった。座ブトンを2つ、マットも1つ丁度ピッタリである。向いの家の石森さん登場バシッとイキなアロハシャツで決めている。13時半には4名がそろった。陽光が厳しい位に暑い。でも外は気持が良い。間抜けなメンバーがようやく到着、しかも一人でいいのに3名も、何考えてんだか、遅いなと言う代りに、足を蹴り上げる。第1回屋外屋台の会は私を入れてピッタリ4名。名は許しを得ていないので記さぬ。

はじめてお話しする方もいた。

この方は烏山の下田病院で生まれたの事。わたくしのお気に入りのストロング看護婦が今日は来れなかったので残念だった。来ていれば異様な出会いになったであろう。麦わら帽子をかぶっていらしたのは正解であった。

予定通り15時過了。記録写真は多分とれているだろうから、早々にサイトにONしたい。

長崎屋に流れる。17時過了。お別れして世田谷村に戻る。

七月十六日

昨日の会は気持良かった。風と光がいっぱいで。

次回は22日の日曜日に予定している。又も4名限定である。

これがミニマムでよろしい。話しも充分に出来るし。次回は淡路島から山田脩二さんが来る予定ではあるがまだハッキリしていない。もともと彼は風来坊なのだ。

6時半離床。今日も晴れて風がさわやかである。

正后には所用あり大学へ出掛ける、これも予定。

831 世田谷村日記 ある種族へ
七月十四日

世田谷村の3階のテラスに家人が植えたゴーヤが今年は育っていて2階から空を見上げると、その葉が涼し気である。ゴーヤといえば何年か前に区民農園で知り合った戦後台湾で自活農を命じられて仕方なく野菜を作って生命をしのいだと言う、あのゴーヤ作りの名人はどうしているのかな。町で一度すれちがい、あいさつを交わした切りである。もっと友人になっておけば良かった。すばらしい人間であった。当時の区民農園での知り合いの何人かの人達にまちでお目にかかる事がある。皆さん区民農園の場所を求めてさまよっているらしい。

何人かの友人達に佐藤研吾のアメリカ先住民の複合施設コンペ案を送らせていただいた。有為と思われる人材は思いっきり飛ばせなくてはならないからだ。

磯崎新さんから大変親切なメールをいただいた。ソットサスと磯崎新の会話の中で最高のドローイングは誰かの話しになり、二人共にワルター・ピッヒラーのそれだと意見が一致したとの事。ピッヒラーはハンス・ホラインの初期の仕事のパートナーである。佐藤研吾の作品にそれを想わせる何かがあったのであろう。要するに手描きのドローイングの独特さに目がとまったと言う事であろう。

この人は手の動きの修練を積むと良いでしょうとあった。

流石に60歳も年が離れていると磯崎新も若い人間に愛情らしきを発露させることがあるのだなあと感じ入った。でもわたくしとしては「作家論・磯崎新」が三分の一位迄ようやく進行中のところなので、中々難しいスタンドポジションの今日この頃ではある。でも、人の心理等を考え過ぎる愚は犯したくない。ともあれ佐藤には大変なはげみになるであろう。大事にしろと言い置く。

難波和彦さんも彼のブログで触れてくれた。

予定通り、昨日はメキシコとブラジルの何がしかにグローバリズムに埋められようとしている種族の問題、そして福島原発の問題を考える準備への連帯を求めるメールを送信した。

昨日、絶版書房刊、アニミズム紀行7、6、5に13冊ドローイングを描き込んだ。中々の労働であった。「ブッ飛びナーリ、ヒマラヤ越え」と題した古いドローイングが何故か一冊まぎれており、それには新しく何がしかを付け加えた。プノンペンで独人亡くなったナーリさんをいきなり思い出した。

世の常ではあるが、今はどんどん右手、左手、両足のそれぞれをもがれてゆく感がある。

ナーリさんの残してくれたものは少なくないが、先ずはネパール・タカリ族の長、ジュニー・シェルチャンと連絡を取りたい。今、ネパールは毛沢東主義者達によって占有されている。しかし、ヒマラヤの白峰の国々が一色の共産主義によって染め上げられるわけもない。チベットと同様に宗教的な生活をくつがえせるわけもない。

ジュニーは勘の良い男でいち早くITに眼をつけた。険しい山々によって孤立せざるを得ない部族間のコミュニケーションは道路によって成されるのがとても困難である。それでITに、今で言うケイタイ、電子通信に着目した。

有力な部族の長として、前の国王に進言して、そのシステムを実現させる、特に子供達の教育に浸透させようとする、その直前に国王が暗殺された。そして今の政情になった。

何かする力はわたくしには無いけれど、ほんのささいな事でもしなくてはいけない。ナーリさんの記憶を生き永らえさせるためにも。

830 世田谷村日記 ある種族へ
七月十三日

朝の院レクチャーの後、多いに働く予定。昨日午後佐藤研吾に伝えたのだが石山研のパイプを活用して、ある種族とでも呼びたい例えば先住民、例えば難民も含めた地球の片隅に追いやられた人々の環境・建築・ランドスケープを考える組織体をつくりたい。まさにある種族へを行動に移す。

この類のホラは吹き慣れているので許されたい。

若い行動力が必須である。先ずはメキシコのホセに佐藤研吾より連絡をとらせる。次にリオデジャネイロのガブリエラ、そしてマリア・セシリア、日本のキーパースンも目星をつけている。

その連絡メールを午後に発信したい。

日本国内だけでウジウジやっていても、すでにうだつが上がらぬ事は明白である。さりとて世界を駆け巡るのは疲れ過ぎる。先ずは電子を利用するにこした事はない。

その経過はおいおい報告したいと考えている。

わたくし共の仕事のキャリアの中では、かつてWORK for マイノリティーと呼んでいた一群であろう。それを一気に拡大したい。

今朝のレクチャーではその辺りの事を底にしながら、話しながら考えてみる事にしたい。

秋までには陣容を整えたい。

7月15日に予定しているそれとは真逆とも言える、スーパーミニマム級催事、烏山宗柳前での定席4人のソバの会、無駄話しの会であるが、昨日、日付を間違って宗柳に来た若者がいたようだ。15日の13時半からですのでお間違いなきように願います。向いの家から文句が出たら痛いので、すでに御主人も参加してくれる事になっているので大丈夫。

思いもかけぬ人の参加を待ってます。京王線千歳烏山駅南口から歩いて5分程のところで、今ホームページのトップに地図、写真がONされている

雨が降ったら小雨でも延期ですので念のため。

829 世田谷村日記 ある種族へ
七月十二日

昨日上野動物園のパンダの赤ん坊が亡くなった。動物は皆死ぬので滅法早かったが仕方ない。誰が悪いわけもない。

今朝は5時に離床した。ウェブサイトをのぞいて新しくONされた作家論・磯崎新22を読み直した。磯崎論は最初の低い峠らしきにさしかかっている。

6時に新聞を読み、それから再眠した。峠といえば、8時過にラダックの旅から無事帰国した馬場昭道住職と電話で話した。ラダック・ザンスカールはカシミールから幾つも峠を越えた昔は入ることが出来ぬ秘境であった。住職は佐藤健から言われて、もう30年以上も昔にラダックへ出掛けた。そして高山病になった。住職はつい先立って病にとらわれた。やせて歩けなくなり、わたくしは心配した。今度の旅は佐藤健の奥様も一緒であったようだ。何人ものグループ旅行である。お前死ぬぞ止めろと言ったがきかなかった。どうやら今度は高山病にはならなかったようだ。佐藤健が生きていて三人で会っている時は必ずラダックの高山病の話が出て、役立たずの坊主と住職は笑われていた。そうだよ、もともと坊主は役に立たぬのを旨とするなと皆で笑った。今は昔である。

つい一週間前の北海道での建築巡礼の旅を思い出した。

建築は忘れた。人間だけを覚えている。

札幌から北見への旭川経由の5時間程度の長い長い汽車の旅であった。

メンバーはXゼミナールの鈴木博之、難波和彦、わたくし、そして大阪の竹原義二さんであった。

汽車の席の座り方がそれぞれ面白かった。先ず鈴木博之は一人サッと指定座席を無視して、進行方向と反対に向いた一人席に座った。つまり単独を選んだ。残された三人はとりあえずは四人相向って座った。

竹原さんはケイタイをしばしば使い席を立つ。さぞかし席は温まらずに冷めたであろう。竹原さんと難波さんは頭隠して尻隠さずの高価らしい帽子をかぶっているのが似ている。何となく顔付き、特に眼の配り方が酷似している。気質も似ているのであろうと観察した。つまり二人はわたくしと対面して進行方向に向けた隣り合わせの席を選んだ。別に話もなく、夜陰をノロノロと特急オホーツクは走った。いつの間にか竹原さんはサッと席を移って一つ外れた席に一人になった。これで、わたくしが動いてしまうと皆、奇妙な散逸的配置になってしまうなと考えた。難波さんはやがて本を読み始めた。小マメに赤線なんか入れている。わたくしは眠りに落ちた

鈴木博之の独り好きは昔から知り抜いている。大昔の高山建築学校でも裸足で板の間にいつも独りであった。寂しいのが好きなのではない。もともと単独に生まれついたのである。先日、磯崎新と三人でいた時に「最近の若い人はすぐ群れる。コラボレイションとか言って、俺は一人でやる」と言ってのけていたのを思い出した。賢明な磯崎はその言を胸に納めたであろう。

時に皆と一緒が居たたまれなくなるのは、実ワわたくしも同じだ。要するに世間話の類が苦手なのだ。

遂に北見に到着する迄、各自不思議な距離感の中で、バラバラであった。今更、一緒に談笑する年じゃあない。バラバラで良いのだ。

死ぬぞこの坊主と思っていた昭道住職は無事帰った。「イカッター、リハビリの力をもらった。」と実に俗な事を言っている。本当に坊さんは俗なものだなあ。そこのところを生前の佐藤健はグサリ、グサリと突いていたが、坊さんは鈍いふりをして逃げていたのは知っている。

三人で北海道の特急オホーツクに乗り合わせていたらどんな座席の集合形式になったのであろうか。

佐藤健の最期の旅、シルクロード、敦煌の旅は同行した。

すでに足運びもおぼつかなく、ヨロヨロと歩いたが決して音は上げなかった。流砂の中で笑って話した。砂が風に吹かれて動く音が聴こえる様であった。杉浦康平が「健さんは今は気力だけで動いているね」と言った。健は自分の自業自得大明王の戒名の自慢をした。本当によく自慢する奴であった。龍谷大学元学長で敦煌研究の第一人者であった上山大峻は、「その大だけは余計なんじゃないか。」とからかった。カラカラと皆良く笑ったものだ。

旅の終りは北京空港であった。死なさずに連れて帰る事ができると皆ホッとしていた。

わたくしはホッとついでに健闘した健に大サービスをした。

何がきっかけであったか忘れたが空港の床をゴロゴロ転がって、椅子にグッタリ座る健に向けて拳銃を撃つ真似事をして見せた。良く子供がやっていた西部劇ごっこみたいな芝居である。

健は案の定大いに喜んで止せばいいのに自分も床に転がって撃ち返したがったような素振りを見せた。

砂漠中の敦煌空港で二人で眺めた風に小さくつむじを描いて舞うポプラの落葉の姿と共に忘れられぬ思い出である。敦煌の洞窟壁画等はすでに記憶に薄いが、そんなことは年々記憶が鮮明になる。

さて、明日の院レクチャーは当初の予定通り、シュツットガルトでのレクチャーを再現する。2回に分ける事になりそうだが、とりあえずはそのまま全部を用意して下さればよろしい。

英文の説明がキチンと入っているので、外国人学生への対応は気にせずに自分自身のために日本語でやりたい。

828 世田谷村日記 ある種族へ
七月十一日

6時半離床。すぐに作家論・磯崎新25を書く。8時半了。

昨日のメモに、つくばセンタービル再訪はショックであったと記したが、やはりいささか動揺していたのであろう。今朝はその動揺はすでに無い。

伝えるに困難ではあるが、昨日記した動揺はつくばセンタービルと久し振りに対面した結果の落胆とかの類ではない。まさに予想通りの、再びの印象ではあった。その予想通りという通りに通ずる驚きでもあった。

作家論・磯崎新25にその内実らしきは書き終えた。

淡々として、更に先へと進めたい。

今日は昼過ぎに田町の建築会館で今年の何がしかの建築の最終審査会があり、皆さんにお目にかかる。わたくしは単純な脳細胞の人間でどうやら夢中になるとひとつの事しか手につかなくなる。今朝の作家論・磯崎新25を書き終えて最初の低い峠は越えた様な気がする。まだサイトには21迄しかONされていないので、原作者としてのわたくしはほぼ一ヶ月程度のゆとりが発生した。それでしばらく作家論から離れる事にしようと思う。

梅雨明けの夏は実作に打ち込みたい。そうしなければいけない。

さわやかな風が吹き抜けて空には入道雲が湧き上がっている。夏だ。

昨日、五月女くんの動画シナリオを見て打合わせした。不思議なもので、どんなに馬鹿馬鹿しいと思われる事でもあきらめずに続けてやっていると何かが得られるものである。昨日は正直下らないと思ったがシノプシス2枚をそれでも気になって持ち帰った。一夜明けて眺めてそう捨てたものではないと思い直している。

度々、このメモで紹介もしているが、五月女くんは良いキャリアの持主である。世界の国々を転々として、高校はホンコンのインターナショナル・スクール。それで今はわたくしの所に居る。この人の才の中心は物心つき、それが育つ間にほとんど日本の歴史的事物に触れていない事にある。それ故に異邦人たり得ている。その事実を上手く頭にたたき込んで先に進めばとても面白い可能性も得られよう。

昨日のシナリオをベースにいささかの書き込みをして、昼に何処かで渡したい。ここ迄くると、この人材も又生かしてみたいと思うのである。

良く「アニミズム紀行5」を読み込み始めてくれてはいる。キルティプールの終の棲家については作家論・磯崎新のいずれ30くらいで触れてはみたい。

磯崎新も一時終の棲家らしき構想を描いていた時があって、それは記録しておきたいので。

はじまりは「終の棲家」キルティプールの室内が良い。「2001年宇宙の旅」の最終(映画の方でアーサー・C・クラークの原作ではない)に近く、ボーマン船長がアールデコ・ハイテクみたいな室内にいて、この室内はいかにもホンコン的であったな。まだ九龍城が実在していた頃の「ブレード・ランナー」のホンコンである。じっくり、開口部や家具のディテールも見せて欲しい。

室内にはわたくしと覚しき人影がいる。これは人影(シルエット)で逃げたい。わたくしらしき以外はリアルである。

外の黒檀の表面が光る大テーブルにはクリシュナ老がいる。これはネパールの服を着て、しかも「キルティプール女性の家」のショールを身にまとっている。

テーブルに写る太陽光、そして遠くのシヴァ神殿のシルエット。

テーブルに埋め込まれたアンモナイトの化石、トンボの化石等を表現する。

それでほぼ3分半位になるのでは?

再び室内に入り、軒先にツバメが集るのを描く。このツバメは「アニミズム紀行5」に描き込んだツバメの絵が良い。

そして、東の四角い大窓から眺めるヒマラヤの峰々を見せて、それで、カット。ほぼ4分少しになるでしょう。

少し先の話ですが二枚目のピラネージは良いが、ウィリアム・ターナーのは良くない。ピラネージのピラミッドにはフッ飛ばされてしまう。

で、参照するとすればルドゥーあるいはブーレのニュートン記念館かな。

827 世田谷村日記 ある種族へ
七月十日

6時半離床。新聞を読む。別に何も無いようだが世間はうごめいているのだろう。今日は朝学部レクチャーがあるので、いささか考える。

何を話してもなかなか通じないのはもう解り過ぎる位に解った。でも、もう少し努力してみよう。「世田谷式生活・学校」の話しをしてみる。

大きな理について話してもどうやら駄目だ。それならば小さな日常について話してみることにしよう。何もマテリアルは使わない。

ヴェネチア、イスタンブール、バルセロナ、イスファハーンといった都市の話しと世田谷でやろうとしている事を話してみるつもりだ。

昨日のつくばセンタービル、28年振りの再訪は実にショックであった。色々な事を考えさせられた。作家論、磯崎新25にそれは書いてみたい。

826 世田谷村日記 ある種族へ
七月七日

作家論・磯崎新23、書き上げる。11時半になっていた。

いささか根をつめたので頭の芯がジーンとしている。でも少し調子が良いので、午後24をやっつけようかと算段する。雨降りなのでつくばセンタービルへ行くのは止めた。雨降りしきるつくばセンタービルは恐らくいただけないであろう。筑波山には筑波神社があるだろう。神体は何者なのであろうか。筑波山に迄上ろうとすれば車で行かなくてはならぬなと想いを巡らせる。

画板を久し振りに持ったのでスケッチもしたいが・・・・・雨である。

21時半、作家論・磯崎新24を書きおえる。いささか書き過ぎかも知れぬ。これ以上やると頭が疲れて眠れない。

読書に切り変えよう。

七月八日

7時半離床。今日は日曜日だ。だからと言ってどうともならぬが、作家論・磯崎新25を書き始めるかどうか迷っている。ようやく磯崎新の著作を読みこなせるようにはなってきたが、はやり手強い。雑木ではない。マア、今の時期にこの論を書き進めていて良かったとは思う。つくばセンタービルは最初の峠になるだろう。ここ迄辿り着くのに200枚を要した。あと、どれ程を要するか、コンテを描いてはみるのだが、それは実につまらない。先が視えないからこそ書いているのを逆に知らされるだけだ。

それならばと、7月15日に千歳烏山、そば屋宗柳の店前の駐輪場で予定している、千歳烏山宗柳前「風に吹かれて無駄話しの会」の企てについて考えることにする。長崎屋店前での屋外飲食は難しそうである。とやかく言わぬが内外の事情でそうだ。これは仕方ない。

で宗柳の夫婦に相談したら、イイヨの返事である。ありがたい。気が変らぬうちに早速やってしまおう。

と算段していたら、宗柳前の美猫タマの主人、もう切っても切れぬ仲のオジンが駆けつけてきた。この人はいい人間なのだが何しろうるさい。でも、相談したらいいじゃないですか、私も参加しますよと言う。頼むぜとなった。

これで少々大声で話しても前の家から文句が出る可能性は無くなった。

宗柳は長崎屋と比べて立地は良くない。大きいが路地状の道に面している。人通りは多くはない。でもわずかにある。

7時15日、日曜日13時30分から15時10分迄の昼ソバの会とする。

その前から食べたい飲みたい人は店は午後開店だから、先に勝手にやっていただきたい。かなり混む。はやっている店なのだ。

テーブルは15日は一席のみとする。わたくしとタマのオヤジの二名は予約済みで、あと2席は空いている。席と言ってもビールケースに座ブトンの手合いであるから御承知願いたい。

用意されている話題は近くに良い動物病院あった方がいい、と、何とかモヘンジョダロ遺跡に小公園を実現したい等。

参加自由であるが、あと2名だけだ。

会費は席料300円のみ、あとの飲み食いは自分で払う。

何でも美味だが、ねぎトロ、つくねがおすすめ、勿論ソバも。定食も千円内である。

ただし、記録を残したいのでカメラを廻し、写真はとらせていただく。

それでも良ければどうぞ。

上記の概要を日記とは別にサイトのトップページにONして下さい。

七月九日

6時半離床。今日は新聞が休刊日であった。本を読みながら再眠。

9時再離床。昨日まで身体を動かさずに頭脳だけを使った2日間であったので、すこぶる不快である。

磯崎本を乱読した2日間でもあった。この人物はまことに人生の大半を一途に「建築」に蕩尽しつくしてきたのは、ほとほとと音がする位に感じ入った。

そんな人物を書いているのだから、わたくしだってホンの一年位を、それは何故か?の究明に費やしても良かろうとは思うのだが、磯崎新の建築は何とかなりそうなのだが、その文章、文体がどうにも手強いのを知る。

亡くなった小田実が佐藤健に『歴史』はヘロドトスから始まるとブッたらしい。

佐藤は最良のジャーナリストの直観をもって、それをわたくしにブッた。それでわたくしは大部のヘロドトスの『歴史』を読み通す羽目にはなった。正直面白くはなかった。恐らくは訳者の文体の問題もあるのであろう。古代ギリシャ語で書かれた文体を日本語に初源の歴史家らしきの語りらしく訳するのはとても難しいだろう。

小田実も全体小説とやらを目指して結局うまくいかなかった。やはり彼は行動の人であった。書くモノの文章が良くはない。小田実の前には堀田善衛がいた。スペインのゴヤを書いた。この文章はこなれていて良かった。観念的ではあったが、時に引きずり込まれた。『インドで考えた事』と『定家明月記私抄』には同じ調子が流れている。

磯崎新の文体はそれに匹敵する。何しろ清澄さがひびき通す。

頭脳が一瞬に思い付く事をそのまんま率直に転写している趣がある。

ヘロドトスの訳本『歴史』よりは、当然の事ながら時代がこっち寄りでもあるからだろう、読みやすい。モーツアルトの軽妙さと言う他ない音楽には比すべくもないが、ブラームスみたいな感じで響く事がある。

マア、いずれ少し時間はかかるであろうが、この磯崎新のエッセイの文体についてはどうしても触れなくてはならぬであろう。

天気も良いので、これから朝食をとって「つくばセンタービル」を見学に行く。

まことに我ながら御苦労なことではあるが、ここ迄来たら引き下がる訳にはゆかぬのだ。

しかし、磯崎新のエッセイの文体は手強い。しかも始まりの頃から今の調子のようなモノを手中にしていたのではないか。

何処で学んだのか、あるいは天性のものか?

825 世田谷村日記 ある種族へ
七月六日

7時半離床。どうも明方の眠りが深いようだ。眠りにも深度の起伏があるらしい。今日は院レクチャー終了後何人かの人に便りを書く予定。メールではない便りである。どうやら世間での連絡その他の大半はメールを介するようになった。だからわたくしは歴然たる化石になってしまったのが解る。でも今更変えようとは思わない。化石と言ってもアンモナイトの立派な奴ではなくって、ゲジゲジにも似た三葉虫状のモノだな。

サイトにONされている最新の動画シリーズに登場してくる化石群の姿はとても面白い。自分自身の似姿ではないかと思う位。手描きの細妙極まる描画や銅版画に見る像と、この動画に登場するモノとは明らかに世界が異なる。動かぬ静止した像を眺めればその像の完成度の高低は歴然としている。がしかしこの像が動き始めると世界は一変する。動きにアニマが明らかに伴うのが良く解る。

人間も含めた自然は皆動く。生命とは動きの別の呼び方でもあろう。と思い付きを書いたが、その先は不明である。小林秀雄がベルグソンについて考えたが途中で放り出したのも、そんなところではないのか。

今日は作家論・磯崎新23をまとめたい。明日7日は出来ればつくばセンタービル迄足を延ばしたいが、その気力が縮まぬかどうかは知らない。無理はしない。8日、日曜日は烏山宗柳の前で、世田谷式生活・学校の出店を出すので、今日その準備をしたい。90㎝角、あるいは60㎝角のベニヤ板一枚だけを用意して、そして記録がとれる態勢を用意してもらいたい。

長崎屋よりは周りがハードでなく、昨日御主人とオカミの同意も得ている。

824 世田谷村日記 ある種族へ
七月五日

7時離床。研究室サイトが一新されている。ドリトル先生動物園病院倶楽部は前回の制作よりほぼ思う通りの枠に納まったが、今度の制作物もそうだ。五月女等の感覚もそれなりに進歩している。牛やヒトデやトンボ、そしてアンモナイトも登場して一生懸命に目的に向って登っている感じが良い。ヒマラヤ越えのツル迄登場してくれている。2名の担当者が制作しているのだが、ここは五月女の感性を誉めてやりたい。一度のぞいてみていただきたい

ようやくにしてアニミズム紀行5に描いたネパール・キルティプールの丘、遠くランタンヒマールを眺める丘の上に考えているわたくしの終の棲家まで辿り着こうとしている。附属ギャラリーは3棟あり展示面積も中々のモノである。先ずはこれを埋め尽くしたい。研究室およびわたくしの考えているモノの大半はここに収蔵されるだろう。第一のギャラリーには今シュツットガルトの芸術アカデミーに巡回しているMAN MADE NATUREのモデル椅子まで置かれている。すでにダナン計画(ヴェトナム)のシンボルゾーンに構想中の計画、第一案が展示されている。モノ、非モノ(映像)が混在する世界がここにはある。

まだ初期的な水準ではあるが今夏にはある程度まで進化するであろう。

次が楽しみだ。

この試みは遠くで今書き続けている作家論・磯崎新と溶融するであろう。

作家論・磯崎新21がONされた。注釈を続けている佐藤研吾が単独でアメリカ先住民の複合施設のコンペに応募していたので少しペースが遅くなったのは止むを得ない。

そのコンペだが20代前半の若者として想定され得る最良のモノを彼は示した。中々のものであるので、いつかコンペの結果が発表されたら、と言うよりも公開可能になったら、サイト上のギャラリー1、ヴェネチアの展示物として公開したい。それだけの価値があろう。

それぞれの人材がそれぞれに頭角を現し始めていて、ホッとしている。

作家論・磯崎新21はいよいよつくばセンタービルに入り込みつつある。今週末には筑波に足を運ぶ予定でもある。

論の大枠が視え始めてきたので、一度コンテを描く必要がある。フッと始めて、ここ迄やってきた。一度全体を把握する努力は必要だ。ワイマールからシュツットガルトへの巡回展は全ての展示パネルを公開しようとしている。英文と併記であるので世界中の某かが読んでくれるだろう。

世田谷村日記も淡々として連続している。日記だって映像みたいにヒマラヤの峰々を越えるツルのように書きたいのだが、中々現実はドロにまみれているのでそうはゆかぬ。不自由の連続である。しかし早朝のメモがすっかり身体になじんできたのは良かった。何時迄書き続けられるであろうか。

アニミズム紀行5、6、7はそれぞれゆっくり売れてくれている。

7は残部がようやく100に近づいてくれた。今日は昼食後に研究室に向う。

明日の院レクチャーはシュツットガルトでの展覧会オープニングレクチャーの再現とする。よろしく準備されたし。と考えていたが、考え直し佐藤研吾のアメリカへのコンペ応募案の発表をレクチャーに代える事としたい。佐藤は準備するように。わたくしが一方的に話し続けるよりも同年代の人間が考えようとしている事も又大事な事である。よいレクチャーになることを期待している。

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823 世田谷村日記 ある種族へ
七月三日

11時ホテルを出て北見駅隣のバスセンターへ。時間があり、駅前食堂で昼食。食事だけは1日3度正確にとっていて、むしろ体が重い。12時15分のバスで陸別へ。1時間半北海道オホーツク海側山地を走る。日が照って雄大な景色。陸別には我々4名の他に女性客が1人だけたどり着いた。陸別駅は路線は廃線だが観光用に何かと工夫している。駅前に置かれた牛のベンチで休む。日建設計、小谷氏他迎えに来る。もうここは帯広にも近いようだ。

陸別小学校へ。児童数120名の学校。子供達の大半が大きな声であいさつをして元気そうだったのが何よりであった。中央部の特別教室棟多目的ホールの天井が集成材による有機的形状をしており独特である。

普通教室のワークスペースとやらの広さも良く使われていた。

でも子供達は嬉しいだろうな。それが何よりである。

女満別空港まで送っていただき16時過着。人のまだ居ないレストランでビールを飲む。オホーツク海ビールの味の濃さとキリンビールの味の薄さが印象的であった。ウニをいささか売店で買い求め、18時25分発の飛行機に乗る。イヤハヤ疲れました。20時半頃羽田空港着。九州は大雨だったようで、天候の不順は完全に定着したな。竹原さん新幹線に間に合うようにと急ぎ足になり別れる。我々Xゼミナールの面々は京急で、鈴木博之さんと別れ品川より山手線で渋谷で難波さんと別れ新宿へ。

ドオと疲れの波が押し寄せる。買ったウニが重たい。22時半人気の少い雨上りの烏山にたどり着く。

モヘンジョダロの暗い草原を通り抜け、世田谷村に戻り、ドタリと休む。

七月四日

8時頃離床。仲々眠りにつけなかったが、それでもいつの間にやら眠りこけたようである。

そう言えば昨夜は月下美人が15輪咲き狂ったようだ。それはそれとして家人から歯ブラシは自分のを使えと小言を言われる。歯なんかここ1ヶ月はみがいたりの無駄はしてないと言い返したかったがケンカになるので辛抱した。

アッという間に9時で東京生活は何かとせせこましい。もうすでに昨日までのボワーンとした北海道での2日間がなつかしく思い出されるのであった。時間がたっぷりあって、ぜいたくだったのかも知れない。

今日は11時半からダナン他の件、14時には中国からOBの陸海が来室する予定だ。陸海のところにはアベルもお世話になりっ放しなので何かと気になってはいる。

急ぎ足で朝食をとり、10時過には発たねばならない。

ヒマならヒマで文句たらたら、スケジュールがつまっていればこれにも文句タラタラでまことに人間様はお粗末である。

822 世田谷村日記 ある種族へ
七月二日

スカイマーク便で12時半過新千歳空港着。小雨模様。新札幌への快速エアポートで大阪の竹原さん合流、総勢4名となる。新札幌駅構内の食堂で昼食、わたくしジンギスカン定食。

TAXIでアミノアップ化学研究所へ。竹中工務店本井和彦氏案内して下さる。絵に描いたような定本通りの環境配慮型建築であった。地下鉄で札幌に戻り、駅地下で早めの夕食。17時半の特急オホーツク7号で北見に向う。5時間弱の長い長い汽車の旅だ。特急とは名ばかりで速力は遅い。難波さんに、これは北海道横断の旅であると教えられる。夜になって、何の視えるモノもない夜空さえも視えぬ銀河鉄道の夜ならぬ、闇の中の夜汽車である。

只今20時半、アト1時間半か。皆さんそれぞれ眠ったり何かをしたりである。

22時過北見着。意外に大きな町だ。歩いてホテルにチェックイン。

店は全部すでに閉まっていて町は暗い。部屋に荷物を置いて近くに唯一開いていた飲食店に4人で出掛ける。竹原さんの鉄道好きの話しなど聞く。

1時間程で閉店。ホテルに戻る。良く良く見ればこのホテルは常呂川温泉なる温泉宿でもあった。24時過眠りにつく。マア良く汽車に揺られた一日ではあった。

七月三日

5時半ホテル2階の常呂川温泉につかる。貧し気な露天風呂もあり、貧乏症なのであろう、それにもつかる。他の客は一人もいない。たった一人の常呂川温泉であった。

部屋に戻り全く久し振りにみのもんたのニュースショーを見た。驚くべき事に昔あんまり好ましく思っていなかった毎日新聞のキャスターやらTV局のいい加減なこれもキャスターが相変らず顔を出していた。そして、相変らず愚にもつかぬ事をしゃべり散らしている。久し振りに視るTVは実に下らない。

メモを記す。研究室へ伝言。ヴェトナム、ダナンの件、中村さんに空港前の土地の件、もう少し詳しい情報が欲しいと、空港の現状、ダナン市の土地、マーケットの状況、ハノイ、ホーチミンとの比較など。中国各都市の開発状態との比較なども欲しいと伝えてください。明日4日にお目にかかる事にはなっているが。

今日はこれから昼過ぎにバスで陸別へ1時間程揺られて陸別小学校日建設計を見る予定。何とも時間がブカブカな予定が組まれてしまっている。8時半には朝食を皆と取る予定でもある。

9時過部屋に戻る。何もする事が無い。それではと世田谷式生活・学校のアイデアを一つ。

長崎屋のオバンにはすでに話してあるのだが、店の前のわずかな、ほんのわずかな空隙に、新橋駅近くの焼トリ屋みたいにビールのプラスチックケースを2、3台積み重ねて、ベニヤ板を乗せただけのテーブルをアッという間に作って、そこでわたくしが店からはみ出した形で屋台テーブルを出してしまう。そしてギョーザと焼酎をやる。目の前はバス停で人はいつも列をなしている。とても良い見世物になるだろう。一軒だけでやると商店街の連中がうるさいだろうから、宗柳の店の前でもやる。であわよくば次第にそういう屋台形式を拡げてゆく。

あくまでも客が主体的に店を広げるという形をとる、と言うのはどうだ。アニミズム紀行7を売りたいところではあるが、長崎屋とアニミズム紀行ははるか北見の空よりも遠いのである。

そう言えばなのであるが、長崎屋のオバンが北海道行くんだったらアスパラ買って来いと言いやがった。Mも俺なんか旅行なんて行ったこともネェ、何かみやげ買ってこいと言ってたな。イヤな事を思い出してしまった。

この北見のホテルの独房みたいな部屋で一人ジィーッとしてるのが旅であるのならばだ。

821 世田谷村日記 ある種族へ
七月一日

今日は日曜日である。朝食後、多摩パルテノン、曽根幸一他の設計を見にゆくのを決めた。作家論・磯崎新22はまだサイトにONされていないけれど、サイト担当者が別件で忙しいので文句は言えぬ。サイトは気まぐれにデレデレやるのが本当だ。思い付き優先である。誰に気がねすることもない。昨日、書いてる対象の御本人である磯崎新さんと電話で話した。別に取材したわけではない。

磯崎さんは近頃は充分に海外に出掛けられぬので、それで、何かと不自由であると残念がっていた。そりゃあ当たり前である。80才を超えて自在に飛び廻ってたら、そりゃあ仙人であり危ないのだ。それこそ空中浮遊の空気仙人みたいな存在になってしまう。

主に中国で何が起きて、身に降りかかっているのかの話しをなさった。

キチンと整理されての話しで見事だ。やはり頭いいなとバカな今更言うまでも無いのを実感した。頭いいなと実感するのに電話したのではない。少しばかり中国でやってみたい事があって、それでだ。逆に君は今、何をやってるんだと事情聴取されてしまった。

日本では震災関係の事だけだな、内向きの話しだと言う。他にも色々と興味津々な事を話されたが、これは書かない。アニミズム紀行7を買えと言いたい。

こういう話しはある種族の方々にしか公開しないのである。

ともあれ磯崎さんは今実に面白い事を考えているようだ。

オチオチのんびりしているわけにはゆかない。わたしだって考えている。

ともかく作家論・磯崎新は実在する磯崎新のおもわくとはフッ切って書き進めているので、そんな事を話す訳もない。

で、多摩パルテノン行の件だが、世田谷村からは近い。午前中の散歩にしたい。水戸芸術館はその意図で対面したから、あとは随分久し振りつくばセンターである。何を感じ得るか楽しみに出掛けよう。

昨日のダナンプレゼンテーションは手際良く終了した。

ダナン共産党書記長他にもビデオメッセージを録画した。

計画案はいづれ機会を見つけて、サイトに公開したいと思うが未定である。

明日から2日間北海道である。Xゼミナールのメンバーとの同行なので楽しみではある。

16時過、見学より世田谷村に戻る。

実に考えさせられた。この事は作家論・磯崎新23に記録するつもりだ。

目星をつけた通りであったが、その大枠の構造らしきを感得する事も出来た。多摩パルテノンも又、大阪万博1970の残影のカケラであった。多摩パルテノンという、妙に小さな建築物に対する庶民のか、あるいは国家のらしきかは知らぬが、その命名らしきの歴史の現実らしきにこそこの建築の無意味さも又あるように考えたし、磯崎さんには申し訳ないけれど、その先駆けとも言うべきつくばセンタービルの根底的性格も又、場所を変えて露出しているのである。

今晩は気力が残っていれば作家論・磯崎新23を書き進めたい。

七月二日

0時過起き出してメモを記そうとしているが、書く迄も無いのでただボーッとしている。昨日多摩パルテノン歴史資料館での定点観測プロジェクトと呼ばれている一種の記録を見た驚きなのであろう、久し振りに堀田善衛の『方丈記私記』を読み直していた。鴨長明の見た応仁の乱の狼藉振りと同じなのは良く解る。そして多摩ニュータウンの自然破壊も又同様な「計画」の戦果としての白昼の巨大廃墟の出現なのを知るのである。

廃墟と呼ぶよりも蜃気楼であろうか。

つくばセンタービルも又、つくば学園都市の蜃気楼だろう。

先日訪れたシュツットガルトも又第二次世界大戦で焦土と化した歴史を持つ。

同様にアメリカ文化が占入した。その象徴としてのSOM設計の占領政策としてのオフィスビルを見た計りだ。あのSOM設計の小さなビルは、先年Xゼミナールの面々と共に学習した海老原一郎設計の大日本インキ工場とそのたたずまいが酷似していた。

どういう事なんだろうか?

マ、考え込んでも良い知恵は出なそうにない。再び横になろうか。

7時半離床。11時の飛行機で北海道である。そうだな9時前には世田谷村を発ちたい。

研究室の面々には、サイトの絵を少し動かして欲しいのと、作家論・磯崎新21のONをそろそろ願いたい。「世田谷式生活・学校」の考えを進めてもらいたい。

渡邊大志さんには研究室ゼミをそろそろ再開させるのでその準備をして欲しい。

それ位かな。思い付いたら電話します。

世田谷村日記