石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 4 月

>>2013 年 5月の世田谷村日記

1146世田谷村日記 ある種族へ

12時宗柳で佐藤くんと打合わせ。インド・ナーランダの諸資料他を受け取る。デリー経由でパトナへ飛び、ラージギルへは110kmの車の移動だそうだ。

パトナはインドの圧倒的な喧噪とエネルギーに弾かれて、ダマン峠を越えてネパールへ逃げた場所である。東海岸とは異なり、インド北部はそれ程に変化はしていまいと予測する。が、どうかな。

先年南インドに出掛けたがハイウェイが走っていたから仰天したが、ベナレスを含む北部インドは簡単には後期近代化(グローバリゼーション)の波に呑み込まれることはないだろうとは思うけれど、根拠は何も無いのだ。

長崎屋で棟梁他にお目にかかる。小川くんが自慢のiPadで棟梁に石山研のサイトを見せた。ヒェーッ俺の写真出てるのか、コレ何処で売ってんのと騒ぎになる。

「棟梁つまらんものだから買わない方がイイヨ」と忠告する。

「でも、世界中の人が見てるんだろう、コレ」

確かにそうなんだが、どんな気持で眺めているのかは知らずなのだ。誰も。

とにかく、長崎屋の連中がサイトの存在を知ったのは間違いない。

「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」の続編は登場人物に充分に気を使ってゆかねばならない。

まさか石森の章ちゃんの、タマ迄iPadひっかいているんじゃないだろうな。

夕食を喰べて、早々に横になり読書をしながら眠ってしまった。

明けて5月1日、6時45分離床。東京新聞を読む。新聞は数紙を読み続けていたが東京新聞一紙にしてしまった。

宗柳は日経と読売である。

「どうして読売なんか読むんだ」

と尋ねたら、「だって一紙じゃ寂しいじゃあ、ありませんか」との事。

でも新聞は大した事書いていない。わたくしは英字新聞は読めないのだが、プノンペンではナーリさんが「石山さん、日本のTVはいけませんや、BBCなんかと全然ちがう報道してますぜ」と教えてくれた。

磯崎さんもそんな風なこと言ってたなあ。最近は生きている人と死んだ人の見境いが混濁してきている。我ながらにして良い傾向だと思う。

10時研究室にメモを送信する。明日の成田はターミナル2なので用心したい。

1145世田谷村日記 ある種族へ

13時研究室。すぐ打合わせ。それぞれに進めているが少しばかりバラツキが発生してきている。

とても困難な事をやらせているので仕方なかろう。この一年弱でそれぞれののびしろを最大にしてやろうと考えているが、それぞれの個性(才質)の形が融通無碍なのと、すでに固くなりつつあるのとが開きがある。この開きは修正し得ぬと20年先は恐ろしい開きになるだろう。創作の水準の神秘である。

15時研究室を発つ。17時半世田谷村に戻る。夕食後読書。

昨夜に引き続き『高原好日(加藤周一)』信濃毎日新聞社、を読み続ける。拾い読みから通読に転じた。

読書も創作(創造)と同じに実に細妙なところがあり、この本も最初読んだ時は加藤周一ともあろう人がこんな本を作るのかと思ったりした。

軽井沢高原、追分を中心とする身辺雑記風の交友録である

しかし、小林一茶を金子兜太さん経由で少し知り、それを読み加藤周一は理に勝ち過ぎた唐変木かの印象が変化せざるを得ず、それで通読した。捨てずに持っていると良い本だった。

この本に登場する人物達の少なからずは磯崎新の山荘でお目にかかった。

磯崎新はどうやらわたくしを変人奇人の抽き出しに区分けしている。それで充分に結構なのだが、磯崎の山荘でお目にかかった人物群は皆加藤周一の如くに岩波的第一級の知識人達であった。

第一級であろうが、第三級であろうが、とかく人間という動物は群れたがる。

第一級の知性はそれ同志で群れるし、第三級も又そうするのである。

加藤周一と磯崎新の会話の大半を全くわたくしは理解できなかった。

俗に言うが高級過ぎた。しかし、これは敵わんなと思いながらも不思議にも妙なへり下りの感情は湧かなかった。

そういう人達つまりは種族が楽しく話し合っていて、わたくしはチョッと違う方面の種族なんだと考えていた。そう考えさせる度量というか交流術らしきを彼等が所有していたからだ。そんな意味では随分な大人達ではあったと、大変懐かしく思い出すのである。

明けて4月30日。8時離床。昨日の日記は日付けを1日間違えていたやも知れぬと思い当たる。街はつつじの花ざかりである。

12時過のダナン打合わせを決める。

1144世田谷村日記 ある種族へ

12時過研究室。すぐに打合わせ。いくつか模型が作られた。大きな7つの丘の模型が良い。建築スケールの小さなのは、いまだし。

でも少しずつ進んではいる。塔も井戸も影が無いのが致命的だな。

要するに暗がりが不在なのだ。暗がりに対する感性の欠如に思い当たる。

ゆっくり修正させるつもりだ。暗がりがないと光の動きも知覚できない。

インドのナーランダに持ってゆく書類を手にする。インドで世界の人々にベトナムの計画を話題にしてやろうと思っている。

16時半、烏山長崎屋で皆さんからの支援金及び名簿を手渡される。

宗柳に寄ってオヤジに支援金の小冊子を渡す。

18時半世田谷村に戻り、夕食。

明けて4月28日8時離床。今日は日曜日か。風が樹々をゆらしているがおだやかな陽光である。

19時前2冊の本を読了。『覚書 幕末・明治の美術』酒井忠康、『建築論集第2巻 記号の海に浮かぶ<しま>』。

双方共に流石に疲れた。頭がキリキリしてとてもすぐには読後感なぞ距離を置いて記すことはできない。

夜は頭を休ませるのにスティーブン・キングの『ナイトフライヤー』を読む。読書疲れは読書が一番なのは知る。スティーブン・キングの文体は銃撃戦の如くで小気味良い。磯崎新の最近の文体に似ているのに気付いた。まさかとは思うけれど全てに意図的な人だから自然にそうなったのか。まさかキングを磯崎が読むわけもないと思ったり。センテンスが短くなっているのは確かだな。ナイトフライヤーはセスナに乗って飛行場を襲うバンパイヤ(吸血鬼)の話しだ。アメリカ西海岸のローカル空港群が物語りの舞台である。それを追う記者も又、自家用セスナで動いている。アメリカでなければあり得ぬ空間が描かれている。ドラキュラ伯爵はヨーロッパのトランシルバニア地方の人間だが、その低地湿地帯らしきからアメリカ西海岸の磯崎言うところのワニと蛇しか棲んでいない低地湿地帯にディズニーが約束された土地として買い求めたような処が舞台として設定されているのである。

アメリカにはバットマンというコウモリをアイコンとする物語りもあるが、バットマンも確か古城を住み家としていたようだが、あの城は勿論まがいのディズニーランドの如きの城で、バットマンの愛用するスーパーカーと言い、ナイトフライヤーが愛用するセスナと言い、アメリカはやはりモビリティーの国だなと思いあたる。アメリカンファンタジーはそれなくしてはファンタジーとしてさえ成立しないのだろう。

明けて4月29日。5時45分離床。新聞を読む。今朝も穏やかな晴天である。

世は連休とやらに突入したのであろうか。

世田谷村のコンピューターが不調でiPadとやらでサイトをのぞいている。

他人がこれらしきを使ってるのを眺めて猿の惑星だなと思った事があるが、なる程、これを使うと猿の動作に似てくるのがわかる。

加藤周一さんの『高原好日』より小林一茶を拾い読みする。加藤周一は俳人の中では一茶を好んでいたのかな。金子兜太さんとは肌合いの違う知性のような気がするが。人間はわからないモノであるからな。加藤周一は実にデリケートで敏感な人であったが、アニミズムとは縁遠い人であった。それは医学の道を歩き、医者でもあったからだろうかと思ったりもする。

1143世田谷村日記 ある種族へ

10時40分、大学院レクチャー。少し長めに12時半前迄。その後打合わせ。場所を変えて打合わせ続行。唐桑の佐藤和則さんと電話で話す。烏山で一休み。

18時過世田谷村に戻る。

東北一関のベイシー菅原さんより朝日新聞4月26日「swiftyのものには限度、風呂には温度」第85話送信されてくる。菅原正二の二川幸夫追悼文である。

明けて4月27日、6時40分離床。世田谷村の地面、つまり庭だが、今はとても和やかでホッとする。大根の花の紫がゆれ動き、山吹の黄色がしなだれ、ツツジの赤だって眼に柔らかい。ジャーマンアイリスの紫は緑の細い葉の鋭角と組み合って、大根の花の紫の畑とは異なる趣をつくり出している。

磯崎新の建築論集を拾い読みしていると、彼の知性が極めて人工的な建築状になっているのを知り、改めてその手強さに空を見上げたくもなる。この知性に対抗するには、やはりと言うべきかアニミズム、マナリズムの研究、すなわち自然の探究しかネェなと想うのである。 何年か前にシャングリラからチベットのラサに向けて、今から想えば無謀としか考えられない旅を磯崎新と共にしたのを痛切に思い出す。メコン上流の高地を走り続けたのだが、遠くにヒマラヤの雪嶺が視えた時

「磯崎さんヒマラヤが視えますよ」と言ったら、

「ボクは山には興味無いんだ」と素気なかった。

折角親切に教えてやったのにしょうがない人だなあとも思ったが、アレは良く磯崎自身の脳内風景が切断されていたのだなと思い返すのである。

夢野久作の『氷の涯』だったかの物語りを仕切りに思い出すのである。

と読んでいただいても全くワケの解らぬにきまっている事を書きつけているが……。磯崎新はシャーマニズムの親近感はあるに違いないのも知るのである。いずれ書いてみたい。

10時過小休。朝食をいただく。

1142世田谷村日記 ある種族へ

10時世田谷村発、モヘンジョダロで石森さんとタマに会う。恐ろしい程に孤独だなこの人物は。孤独という言葉が恥じらう程に。ビワの樹の王を右手に見る。11時研究室着、すぐに打合わせ。昨日来まとめたアイディアを伝達。

通じたと思う。通じた顔をしていた。これ迄進めてきた作業を凍結して、モデルスケッチを保存するように、それも伝える。昔、学生の頃に栄久庵憲司さんから飛行機は飛行機でもプロペラ機と音速を超えるジェット機は次元がちがうと教えられたが、それに近い事を伝えているなと自覚する。

さて、どう進行するか見物である。

13時半、国土交通省自動車局環境政策課・星明彦さん、サンアド制作本部・服部彩子さん、石井洋二さん来室。中国大陸に提案した新都市交通システムの事等お話しする。短い時間であったが楽しかった。日本人だけで知恵を出し合ってもたかが知れてると伝えた。正直なところだ。

14時半了。明日の大学院講義の旧データに手を入れる。少しでも新しくしないと自分に対して申し訳ない、学生に対してではない。

16時新宿、高島屋上のとんかつ屋で遅過ぎる昼食。佐藤くんがとんかつとお代わりキャベツ他を食べるのを眺めて和む。若い人が沢山食べるのを見るのは楽しいものだ。少しは食べたモノが脳に廻ればいいなと思ったり。

17時了。烏山へ。電車内で家内にバッタリ会う。駅で別れてわたしは地元巡り。沢山の人に会う。一人一人の人間に皆個性があり、存在感もあり実に面白い。18時過世田谷村に戻る。夕食をたっぷりと食べた。読書他、24時過休む。

明けて4月26日、6時45分離床。メモを記している。

今朝の大学院レクチャーの冒頭部を膨らませる。桜と日本人の感性の歴史について述べるのだが、建築の話しなので固定された物体とそれの関係についても述べなくてはならない。

8時半今日は長崎屋の連中は皆富士山見物である。天気も良くて良かったね。

しかし午後から荒れ模様との事だから事故に遭わねば良いが。

9時過世田谷村を発ち研究室へ。

1141世田谷村日記 ある種族へ

11時前研究室。今日の1年生に向けてのレクチャーに手を入れる。「亀と山と塔」ドローイング。アニミズム紀行9の想を練る。プロジェクトドキュメントにしてみようかと思ったり。13時大教室で1年生に講義。1994年95年生れの学生に向けて1995年阪神淡路大震災、オウム真理教事件、2001年N.Y.WTCテロ、そして2011年東日本大震災について述べ、建築の可能性について話す。

14時過修了。再び研究室で打合わせ。ダナンの計画は少し進行状況が壁に当たったようだ。無理も無い。誰もやっていない事をやろうというのだから、困難さにはブチ当る。ここで頭を切り換える糸口をどう発見させるかが問題だ。勿論、わたくし自身の能力のキャパシティーをフル活動させる事が大事なのはいうまでもないことだが。

珍しく体がだるくて力が出ない。伊藤アパート計画は渡邊君がうまくまとめてくれそうだ。4月中には目処がつくだろう。16時研究室を発つ。歩きながら、電車の中で、色々と考えを巡らせるがうまく廻転しない。17時過開店前の風々ラーメンに入り込み、オカミと無駄話し。彼女は飲食店組合の副会長までしている人物なので、やはり色んな事を考えている。烏山寺町のこと、風々ラーメンは地下に広い床を持つので、区の高齢者対策に一部を供せないかとか、充実した厨房をデイサービスに向けられないかとか、とても現実的な考えを持っていて、話していて面白い。

少し計り、気にも体にもカツを入れる事ができた。まさに息を抜き、息を入れた。

19時半世田谷村に戻り、夕食をたっぷりと取る。野菜とピーマンの肉炒め。庭でとれるフキのとうの苦みが体を引きしめる感あり。

いささかの読書の後、24時過横になる。

明けて4月24日5時半起床。メモを記す。やっぱり気力が溢れていない時は日記のメモも雑で、我ながらつまらないな。

別にエンターテイメントでやっているわけではないが、つまらなくても仕方がないのではあるが、それはそれ、やっぱりつまらないモノはつまらないのであり、自分もうまく廻転していないのが良くわかる。それでは書いている意味も薄れてしまう。といささか反省する。日常がそんなにワクワクする程に面白いわけもない。それをどう面白く生きるかが仕事の妙薬でもあろう。

タップリと眠って身体にも力が戻ったような気もする。空を見上げれば今日は陽光が溢れるやも知れぬ。5月のインド・ナーランダ行、帰っての気仙沼・唐桑行のスケジュール細部が決まってきた。何よりも気力が第一である。ふるい立たせなくては死も同然である。こういう考えは時代には合っていないのは知るのだが、合わせてたまるかの気持はまだまだ強くある。

6時15分ダナンスケッチにかかる。

7時15分、少し進展する。小休し、新聞を読む。

9時前WORKを中断する。大筋は視えた。スケッチと言葉を今朝伝達する。

1140世田谷村日記 ある種族へ

10時過研究室。10時40分学部レクチャー。12時了。その後打合わせ14時迄。「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」Ⅲ章烏Ⅳ5枚書く。

明けて4月24日、7時前離床。薄日は差しているが今日も寒い。

昨夕会った石森さんが「変だよ天気が何か変な事、大地震か何か起きるんじゃあないか」とポツリと洩らしたのをギクリとして聞いた。声の響きに妙なリアリティーがあった。わたくしの気持の中にそう聞く何者かが居たのだろう。

10時前世田谷村を発つ。天気は悪くなるそうだ。

1139世田谷村日記 ある種族へ

昨日は烏山で三ヶ所で別に何をするでもなく過し、鐘楼梵鐘の歓進に励んだ。こればかりはサイトに主旨を述べて、メールを送付するというワケにはいかない。

そういえば一作日に研究室に中川武先生がユネスコのMuseums expert GIABA RICCIさんをつれてこられた。ついでにと言ったらなんだけれど「ベトナム・五行山縁起」を中川先生にお渡しした。今朝は研究室で最終版のダナン五行山勧進帖を見ることが出来るので、とても楽しみにしている。手許にあった前段階のモノは昨日で全て手渡した。

明けて4月23日8時前離床。馬場昭道さんより電話いただく。勿論、勧進の件である。これは膨大な作用になるなと覚悟した。インドのブッダガヤの日本山妙法寺はどなたが中心になって開山されたのだろうか。お隣りの烏山神社の「いきもの稲荷」の計画にも着手した。地元で仲間をつのってゆく。

今ウェブサイトに連載を始めた「ドリトル先生動物病院倶楽部から、いきもの稲荷社へ」は、これはリアルだが変な運動の前哨戦です。

9時過世田谷村を発ち研究室へ。

1138世田谷村日記 ある種族へ

12時過研究室。鐘楼梵鐘の寄進願文に更に手を入れ、編集作業へ渡す。ダナン計画打合わせを始める。急速に進化しているが、まだまだだ。次に伊藤アパート計画をチェック。次に保育園+老人施設1題、保育園1題の計画案のチェック。これも進んでいた。担当者の労をねぎらおうと新宿へ。17時半。味王が貸切で、ライオンの3階大衆イタ飯屋へ。やっぱりライオンはビールが一番だねと納得。ライオンで焼酎はイケナイ。

「アノ、ネ、このウーロン茶割りにはアルコール入ってないんじゃない。」

「イヤ、とんでもありません薄目ですが入っています」

「誰がどう考えても、コレワ、ウーロン茶である」

「……」

「スミマセン、聞きましたらやっぱりウーロン茶だけでした」

「ジャア、キチンとアルコールの入ったビール下さい」

店長の率直さが気に入る。さらに「4階の方は焼酎がありますが、3階へは持って降りれないんです、変なんですけれど」

との事で、今度は4階に行ってみよう。

19時半前、皆と別れて烏山へ。宗柳でメニュー外のオヤジ特別ストックの焼酎を一杯いただく。今日は実質的な打合わせが少なく出来たので自分に許した。オヤジも頑張っている。「アト5年はやります」との事であった。

酒井忠康の『覚書 幕末・明治の美術』読んで眠った。

明けて4月21日9時半離床。今日は日曜日だ。昨日の本を読み進む。

10時半馬場昭道住職と話す。

秩父の金子兜太さん行は6月17日となった。

五行山の梵鐘へ鋳込む句は仲々ピッタリの句が選べないので悩んでいるとの事。ありがたいことである。

『覚え書 幕末・明治の美術』130ページ迄読んで昼寝。17時離床。司馬紅漢が面白そうだが多くの画家が登場して江戸と近代明治の狭間で行動していたのを知る。

ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」Ⅲ章のⅡ・烏を書く。19時半終了。5枚少しで止める。コレ以上書くとアッチの世界へ行ってしまいそう。

明けて4月22日6時半離床。「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」Ⅲ章のⅡに手を入れ、Ⅲ章のⅢを書く。

7時半しまいとする。

1137世田谷村日記 ある種族へ

9時過世田谷村発。10時過研究室。10時40分大学院レクチャー。

南方熊楠、フランシスコ・ザビエル、僧玄奘の足跡について、を中心にアショカ王のストゥーパから奈良東大寺法華堂の亀腹まで、要するにアミニズムの建築形態に及ぼす、これも又、足跡についてを講じる。

12時過了。すぐにダナン計画の打合わせ。模型を見ながら具体的に。良くなってきているがまだだ。

15時過了。明日の打合わせを約して発。烏山へ。長崎屋で久し振りにおばんに会い、花見の写真一式を差上げる。宗柳で五行山日本寺の鐘鋳造の願文草稿を書く。地元のオバハン達と会いモヘンジョダロの再開発に関しての情報交換する。宗柳の客と長崎屋の客は全くちがうのがオカシイ。

19時世田谷村に戻る。

酒井忠康さんより、『覚書 幕末・明治の美術』岩波書店1,100円+税、送られてくる。食後、早速ページを繰る。

西から東へ、あるいは東のなかの西から始まる、冒頭から興味深い。

偶然ではあるが、今朝のわたくしの院レクチャーのはじまりの小主題と同じである。

明けて4月20日8時過離床。寒い、聞けば2月の冬の寒さだと言う。

メモを記し、すぐに昨日下書きした「ベトナム、五行山日本寺開山における梵鐘鋳造と鐘の鳴る丘のための御寄進のお願い」の原稿の清書にかかる。

11時迄かかる。気合いが入った。

1136世田谷村日記 ある種族へ

11時花小金井吉元医院検診。採血、採尿の数値は非常に良いとの事であった。チョッと心配しながら来たので拍子抜けする。13時前了。流石に李祖原疲れがドーッと出て今日は休もうと決めた。千歳烏山14時過風風ラーメンでメンマとトン骨ラーメン、ギョーザを食べる。検診が終わったばかりで、止せと言われている生ビールまで飲んでしまった。オカミと久し振りに会う。

店の厨房の若者と話す。面白い青年で好奇心があり「どんな本が面白いですか?」と尋ねられたりで、どう答えて良いかわからずにしばし考え込んだり。「どんな本が面白かった?」と尋ね返したら「司馬遼太郎とか村上春樹なんかが好きだ」との事。

そおか、随分当たり前だなと思ったが「普通に良く読まれている本が好きなんです」との事。

ヘェ、そんな考え方もあるのかと思った。

「木田元の『反哲学入門』が面白いよ」と直球を投げた。

「安い文庫本だから買って読みなさい、決してむづかしくはないよ。とても面白い」

「木田元はコンピューターで検索したら出てくるかも知れない」

と言ったら、すぐにiPadで調べ、ついでにわたくし迄検索して、

「ヘェ、随分色んな賞とってるんですね、偉い人なんすか?」

「バカ言っちゃいけない、御覧の通りの凡人だよ」

「家帰ってコレじゃなくってパソコンで読んでみます」

1人サイトの読者が増えるやも知れない。

15時世田谷村に戻りソファーで横になり昼寝。昼寝は極楽である。

17時起きて「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」Ⅲ章 烏Ⅰを3枚弱書き、再び発つ。18時宗柳で横山彌太郎さんに会う。90才の新しい友人である。この頃は老人が面白い。小さな会社のオーナーらしい人で「何でも屋です」だそうだ。

Journey to the West計画の話し、ベトナム、ダナンの計画の話しをする。

途中で前の家の石森章さんを呼んでにぎやかになる。

石森さんにベトナムの鐘作りへの寄進をお願いする。

21時前別れ、世田谷村に戻る。

明けて4月19日6時半離床。メモを記し、今朝の大学院レクチャーの始まりを考える。やっぱりJourney to the Westから始める事にしたい。

しかしなあ、院生も昨日の風風ラーメンの店員さんの若者くらいの率直な好奇心の持主であって欲しいとつくづく思う。つくつく法師である。

7時40分「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」Ⅲ章 烏Ⅰ、4枚まで書き継ぎ送信する。これ位のペースが良いのを知る。

8時屋上に上る。風が強いので色々と点検する。蒸気機関車を小さなハンマー持って点検していた機関士を思い出すなあ。

1135世田谷村日記 ある種族へ

12時研究室、ミーティング。12時半李祖原来室、浅草計画ディスカッション。13時半講談社園部さん来室。「Journey to the West」計画討議。15時了。青山へ発つ。地下鉄を乗り継いで青山学院大学へ。正門にて鈴木博之さんと落ち会う。李祖原を交えて鈴木博之よりアドヴァイスを受ける。17時了。TAXIで東京駅へ。李祖原と別れ、八重洲小樽へ。清水さんとベトナムの鐘鋳造計画について話す。アールディーアイの佐藤健次さんとお目にかかる。諸地域のODAコンサルティングをしているとの事。清水さんとは40年の附合いだと言う。

今はミャンマを中心に動いているとの事。時々会って情報交換する事とした。

清水さんより鋳造計画の金集めは大変難しいとの報告も聞く。そりゃそうだろう清水さんはスタートの仕方を微妙に間違っている。しかし簡単な事ではないのはヒシヒシと解るのだ。重源みたいに一輪車を引張り廻すくらいの事をしなくてはダメなんだろう。が、それは出来ない。キレイ事の説明だけで浄財が集まれば世の中こんなに悪くなっている筈もない。

気を引き締める。19時了。東京駅より新宿経由千歳烏山へ。20時前そば屋宗柳で一服して今日一日を振り返り、頭の整理。20時半過世田谷村に戻る。

明けて4月18日5時半離床。メモを記す。今日で李祖原の一週間の東京滞在が終り、彼は午後の便で羽田より台北へ戻る。一週間ほぼ行動を共にしたがお互いにいささか体力がおとろえてきたのを感じた一週間ではあった。

本門寺の急な石段を登った時の息の切れ方や地下鉄での階段を上るスピードを互いに観察し合ったことではあった。

李もわたくしもそろそろ最終ステージの入口である。世の中が沈み切って皆がエネルギーを失ってくるだろう時代を走り抜けるしかないのだろう。

9時に李に電話して「See you」とだけ伝えよう。今日は11時には花小金井の吉元医院に検診に出掛けねばならない。しばらくさぼっていたので、今日はさぼれない。

1134世田谷村日記 ある種族へ

10時半大学。10時40分学部レクチャー。住宅史、丹下健三と村野藤吾の1950年代について講義。新しい試みである。12時過了。12時半李祖原来室。打合わせの後研究室発。地下鉄を乗り継いで浅草へ。佐藤研吾同行。

隈研吾の浅草観光センター見学の後、仲見世を歩き浅草寺、及び周辺のサイト見学。李祖原、ラーメンを喰べたいと言うので寺横の昔ながらの一杯500円のラーメンを食べる。15時過飯田さんの壱番屋で待ち合わせ。15時半堀添英人さん、飯田隆夫さんと落ち合う。近くのコーヒーショップへ。李祖原VS浅草計画の始まり。気のおけぬ人達なので話が弾む。16時半過了。李祖原と別れ、わたくしは残り、飯田、堀添両氏と仲見世裏のやきとり屋へ。更なる打合わせ。18時前迄。お二人と別れ地下鉄で新宿経由世田谷へ。ソバ屋宗柳で一服して今日の経過を振り返る。オヤジが結婚式でスピーチした話を聞いたり。

スピーチの本を買い込んで真面目に読んだそうで面白かった。19時半世田谷村に戻り夕食。

明けて4月17日、7時半離床。5時頃だったか浅草計画で思い付く事あり頭の中でまとめた。大体の考えは早朝に生まれるな。夢と同じだ。

8時鈴木博之、馬場昭道両氏に電話する。8時半了。小休する。

難波和彦さんに電話する。5月に2つの住宅を沖縄に見学にゆくが、沖縄本島のモノは問題ないけれど、八重山のモノが仲々大変そうだとの事である。尖閣問題は中国のみならず台湾との間にも発生しており、本島から石垣島までの飛行便はおろか、石垣島から八重山諸島のフェリーも覚つかぬとの事である。八重山と台湾は目と鼻の先だがそこから台湾への渡航はとても無理なようである。領土問題がこんな事に迄波及しているのを知らされる。

風が強く電車が遅れているとの事。もろいなインフラは。自然の強さばかりを思い知る。

1133世田谷村日記 ある種族へ

13時過建築会館。建築士会作品賞審査。櫻井潔さんより日建設計を退社され独立しましたと挨拶される。御健闘をいのりたい。96点の応募作品に目を通す。仲々ハードな作業である。村松映一座長の許で投票、17点を現地審査対象として選ぶ。わたくしは沖縄の住宅2件他に出掛ける事になった。

社会情勢を反映して、保育園、高齢者施設、寺院の数の多さが目についた。17時前了。

鈴木博之、難波和彦両氏と近くの居酒屋へ出掛けて、雑談。18時半過迄。別れ、世田谷へ。20時前世田谷村に戻った。

明けて4月16日7時前離床。メモを記す。今日から授業を始めるので、昨夜から色々と新機軸を考えてはみたが、学部2年生にはやはり伝わらぬだろうと思い、結局例年通りの繰り返しとする。ただし近現代の住宅史に丹下健三、村野藤吾を中心とする日本建築史をクロスさせる事としよう。おいおいメタボリズムの話位はせねばなるまい。国立近現代建築資料館も開館された事だし、そのオープン催事の丹下健三と東京オリンピック記念、代々木競技場そして東京カテドラル聖マリア大聖堂は講義に欠かせない。早稲田の学生相手だから村野藤吾も欠かせないが丹下健三との相対に於いて語るしかわたくしには出来ない。8時過今日のレクチャーの予習修了。今週から大学院のレクチャーもスタートさせるので、その形式にも想いをはせる。

9時過世田谷村発大学へ。

1132世田谷村日記 ある種族へ

金子兜太さんと亀と山車2」を書いて送信。14時半研究室。日曜日だがスタッフは皆出ている。こちらの気持が伝わるのやも知れない。それならという事で昨日の報告と他いささかの相談を。少し時間が空いたのでアニミズム紀行7にダナン五行山計画のドローイングというよりもエスキス、スケッチを入れる。

磯崎新さんに李祖原来日の事伝えたら、李に関するビックリするようなアイデアを聞かされた。面白いので是非実現に向けて協力したい。わたくしの「Journey to the West」(西遊記)と根本的には似たものである。

18時前李祖原来室。すぐに先程の話しを伝える。喜んでいた。N社長、通訳の中国人女性を同行して来室。すぐに李祖原に商品のプレゼンテーション。キチンとした良い説明であった。ウムウムと李は聞いた。何しろ中国のマーケットは巨大だからN社長も熱が入っている。19時半過迄続く。わたくしもテーブルについていたが合間にアニミズム紀行7へのドローイング描き込みをさせてもらう。今日は4冊に描き込んだ。ペンによるエスキス、スケッチで同時進行形の今まさに考えつつあるのを描いた。

一度商談は打切って夕食へ、社長の車で。新宿に予約しているらしいそば屋の場所がわからなくてグルグルと迷う。ようやく20時過到着。メニューで再びスレ違う。

李のベジタリアン振りは筋金入りだから、魚はいいだろう。チーズくらいは、は通用しない。しかし李はN社長の一生懸命さが気に入ったらしくて、彼の台北のオフィス用にと10台程を発注した。

一度に1000台はそりゃあ無理な話しで、使ってみて様子を見ようという事だろう。

彼はお前の友達なのかの質問もあり、誠に中国の大人らしきであった。

修了後、李をホテルまで送り、22時過別れる。世田谷迄送ってもらい車の中で「ベトナム五行山・日本縁起」を渡す。要するに「金を集めろという事では」というので「そうだ」と答えた。23時世田谷村近くで別れた。

明けて4月15日6時半過離床。メモを記し、コンピュータが復活したのでサイトを眺める。

9時半「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」2章、動物病院の章Ⅵ書いて小休する。

1131世田谷村日記 ある種族へ

12時半新宿南口で李祖原他に会い、雑踏の中でインドのビザ申請の書類にサイン他。電車で五反田経由池上へ。駅より歩く。本門寺への石段が急で李もわたくしも息を切らす。二人共年だ。本堂は大きな本殿の裏にありかなり歩く。大本山というだけあって大寺である。13時半本殿に到着、会場へ。南無の会中島教之和尚に会う。「ベトナム五行山・日本縁起」一冊手渡す。李祖原、木仏が五体並ぶ堂内を眺めて「ピュアーだ」とポツリ。中国、台湾の寺とは全く異なるのだ。特にこの本堂内部は全て木で構成されていてその感が深い。

14時篠原鋭一曹洞宗長寿院住職の講演を聞く。修了後控室で金子兜太さんにお目にかかり、李祖原を紹介。

「建物と同じような顔をしてるね」だって。そう言われてみればその通りだな。李の建築については以前御紹介していたので覚えていて下さった。

簡単にベトナムの計画について説明して、今日は押し掛けてお願いに上がりましたと述べる。 その後、金子兜太講演「一茶のこと」を一時間半聞く。遠くの席に座ってスケッチを一点得る。

再び控室に戻り、ベトナム五行山日本寺の鐘楼の鐘に金子兜太の句を鋳込みたい旨のお願い。その旨の手紙、手作りの「ベトナム五行山・日本縁起」絵巻一巻そして山車の山に収蔵した五行山の石彫りの亀を差し上げた。帰りの新幹線で読んでいただく様にお願いする。

「いつ句は書けばいいか」とおっしゃっていただいた。

「体調の良ろしい時で結構です」

「そうだな、体調の良い時が良いな」

「昭道住職と秩父のお宅までうかがいます」

「遠く迄すまないな」

「とんでもありません」

それまでに鐘への鋳造の位置大きさ等を決め込まねばならぬと緊張する。

車までお見送りして別れた。春の夕陽が美しかった。

会場には仏教伝道協会会長の沼田さん、カメラマンの杉全さんの姿もあり馬場昭道住職共々、「ベトナム五行山・日本縁起」を差し上げた。

実質的に今日が五行山の鐘の勧進の始まりである。

池上駅迄中島和尚親子に送っていただき、電車を乗り継いで李と高田馬場へ。彼は完全な菜食主義者なので、実にソバ屋かラーメン屋が良いと言う。それでいつも飯には大苦労なのだが、今日は土曜日で新大久保の近江家は休みであったので高田馬場駅前のチケットを自販機で買って喰うソバ屋で「Journey to the West」の話し等をして夕食とする。

李祖原の「西遊記」についてもあと4日程でつめなくてはならぬので、実にキツイ。地下鉄でHOTELに帰る李と別れ、世田谷へ。21時前世田谷に戻る。

金子兜太さんからいただいた『私の骨格「自由人」』NHK出版1,600円+税、読んで深夜眠りにつく。

今日は一日金子兜太dayであった。

翌4月14日8時離床。メモを記す。鈴木博之より電話への返信電話。雑事を話す。

鎌田遵、写真集『ネイティブ・アメリカ』大月書店3,800円+税、に目を通す。鎌田遵は気鋭のアメリカ研究者である。まだ充分に知らされていないアメリカ先住民に寄りそう様な研究を続けている。このようなアメリカ研究者が出てきている事自体、大きな時代のうねりを痛感せざるを得ない。

我々は(どの範囲なのかは自分にもわからぬけれど)やっぱり、ジョン・ウェインの騎兵隊がインディアンを蹴散らす西部劇で育った世代だから、アメリカに対してはどうしても脳がにぶる気味がある。

この写真集のネイティブ・アメリカン達の何と沖縄の人々の姿と酷似している事だろうか。岡本太郎が撮った民俗学的気配が濃厚な沖縄人ではなくって、それ以降の現実の沖縄人達である。

1130世田谷村日記 ある種族へ

12時過磯崎新さんと電話で話す。相変わらず明晰きわまる。13時半研究室打合わせ。金子兜太さんへのパッケージプレゼンテーションは良く出来ていた。15時前李祖原来室。二川幸夫の死を驚いている。彼と二川幸夫とも不思議な付合いだったが、結局二川幸夫は李のスタイルが理解できなかったと思う。

気力、精神は通じていたのだけれど、二川幸夫はやっぱり終生二川スタイルを押し通した。それは西欧文化の産物としての近代建築様式であり、わたくしの見る処では李のスタイルはその外にあったから。

Mr.Kの話を聞く。中国政府新首脳陣とのパイプがどんどん太くなっているそうだ。

ダナン計画の概略の説明。明早朝今度の来日のスケジュールを決めることとした。

N社長等とも連絡するがケイタイ経由の連絡はアテにならぬ事もある。

18時再び明日の件で小打合わせ、半研究室発。

世田谷村戻り19時半。

磯崎新の新稿が送信されてきたので読む。新世界を拓きつつあるな。歴史の分野であるが、それが結局正統モダニズムの基盤をゆるがす事になるのだろうと感じる。この人の知性はやっぱり大きい。鈴木博之もその構図を拡げる必要があると直観する。

翌4月13日6時前離床。春冷えか、寒い日が続く。

今日の本門寺には李祖原を同行しようかと考える。日本仏教界の窓をたたく事にもなるだろう。7時C.Y.LEEとのスケジュール作りを終える。ハードな1週間になりそうである。

9時過世田谷村に渡邊君来る。いささかの小用。12時半に再び新宿で会うことになる。

1129世田谷村日記 ある種族へ

14時半、更に「ドリトル先生動物園倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ」第2章動物園の章−5迄書き継ぐ。16時西早稲田早大キャンパスへ。

真言宗観音寺は正面のネパールの真鋳のツボに花が生けられて良いたたずまいになっている。近くの沖縄料理屋の若主人と話しながら遅い昼食を取る。

17時わたくしにとっては最後の新入生ガイダンスを大隈講堂で。

学生への言葉というよりも先生方へのお別れの言葉を贈った。若い先生方は余程頑張らなくては学科は沈む。危機感の無いところに希望もありはしないのだ。

途中で失礼して、世田谷村にて小用。今日は午前中に杉田議員等に手紙を投函したら、ポストの近くで御本人にバッタリ会うの小事件もあった。

東京新聞夕刊紙つぶて、鈴木博之「新歌舞伎座」読みXゼミナール投稿の感想を書く。23時迄かかってしまう。

翌4月12日8時離床、メモを記す。我孫子の馬場昭道より電話あり18日に神田岩戸にて会う事になった。築地本願寺の方と同席との事。又、近い友が京都本願寺の要職につかれる事となり、世代更新が起きているとの事。鎌倉仏教の興隆以来日本仏教は眠り続けているとしか言い様が無いからなあ。

1128世田谷村日記 ある種族へ

13時半湯島。国立近現代建築資料館第2回運営委員会。5月8日から6月14日まで「建築資料にみる東京オリンピック—1964年国立代々木競技場から2020年新国立競技場へ―」の内容報告など。

二川幸夫さんの写真がエントランスに展示されるとの事。パーマネントな建築写真の資料展示になるそうで喜ばしい。二川幸夫の写真にはその価値がある。安藤忠雄、鈴木博之両氏の努力の成果でもある。国立近現代資料館は建築アーカイブの性格を持つので歴史的記録のコレクションについてはいずれ議論が必要であろう。

ハーバード大学より、丹下健三の図面、スケッチ等の一次マテリアルも来るそうで見応えのある展示になってほしいものだ。

15時半了。笠覚暁さんより「空想の建築—ピラネージから野又穫へ―」町田市国際版画美術館、のチケットいただく。17時世田谷で横山彌太郎さんにお目にかかる。94歳の会長さんである。94歳で代表権を手放さぬのは立派だ。94歳とは金子兜太さんと同じ年齢で超老人とでも呼ぶべきか。

明けて4月11日6時半離床。グッスリ眠った。ベトナムから帰ってからの眠り男振りは続いているようで、もしかしたら長生きしろよの天の声かな、なんて空とぼけた事を考えたりもする。

地球温暖化で東京は亜熱帯の気候に近くなるだろうとも言われていたが、現実は科学的予測を時に裏切る。時にと書いたが、ディテール(細部)は全体を裏切り続けると言った方が正しい。温暖化の全体を地球の部分部分は細部の独自を生き続けるようだ。天候においてさえ。ましてや人間どもはましてその傾向があるだろう。

今日は夕方に新入生ガイダンスが大隈講堂である。18歳の子供に何を言えば良いのか毎年苦しむが、マア日本を出られる人材が増えたほうが良いのは歴然としているだろう。世界を視ればそれはわかる。そんな事を話してみようかとボンヤリ考えている。

9時15分前、「ドリトル先生動物園倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ」第2章、動物病院の章—4.5枚を書き終わり、研究室へ送信する。

1127世田谷村日記 ある種族へ

10時40分研究室、サイトをのぞいてからすぐに打合わせ。ダナン五行山、精神文化公園計画は一日で様代りしてくれて、一歩進んだ。この速さが若い人材の取り得なんだと思う。丘の大きさ、高さも掌中に入ってきた。あとは穏やかさの内にフッとうごめくモノを入れる事である。打合わせの途中でイサム・ノグチの北海道の計画のスケールを参照する。あれは北海道のスケールに合っている。我々のはベトナム・ダナンの五行山の風景に従おうとしているもので、考え方が少し違う。

15時前修了、発東京駅八重洲へ。「小樽」で清水さんと会い、ベトナムの話しと鐘作りの勧進の話しをする。鐘に鋳造する中身の相談である。清水さんおおいに喜んでくれてホッとする。こういう話しを本当に喜んでくれる人間は少ないのはすでに知るのだ。18時前別れて世田谷へ。19時世田谷村に戻った。今日は収穫があった。

夜、いささかの読書をしながら、様々な造形物への想いをはせる。01時眠る。

明けて4月10日、8時前離床。昨夜遅くに送信されてきた「ベトナム五行山縁起」の小冊子シナリオを見て、昨日思い付いていた点を入れて返信する。

13日に池上本門寺で金子兜太さんにお目にかかるので、ベトナムみやげを手渡すための山車のデザインと「ベトナム五行山縁起」を制作中で、これがダナン計画の最初の作品となる。一点だけのまさに絶版書房のポリシー通りのメディアとなる。きちんと記録は残しておきたい。

小さなベトナムの石の亀が乗る山車は仲々に良くなった。何が一番良いかと言えば内に在る石の亀が贈り物としての1/1の実物であり、したがってこの山車もまさに実物なのであるのが良い。模型ではない。

研究室にあるカンボジアで買い求めた牛車の出来が良いのに改めて感心する。

俊乗房重源が一輪車を引き廻して京都などを勧進して廻った歴史を勝手に想い起したりで、これは妄想の類に入るであろう。でも、妄想でも良いのである。ケチな現実に気を使っているヒマはない。必ず実現してやるの気持が頼りである。

今日は午後国立近現代建築資料館の会合で安藤忠雄に会うので、鎮魂の森プロジェクトは外国にもあって良いのではないかの話しをするつもり。5月の気仙沼安波山植樹祭と市での集会の段取りも話さなくてはならない。

1126世田谷村日記 ある種族へ

10時40分研究室。ウェブサイトをのぞく。思うようにはサイトは動いていないが不満を言う程の事もない。わたくしの方が動き過ぎだ。11時過予定通りベトナム・ダナン計画の進み具合を確認する。面白いもので、言葉で伝えた事がほぼ言葉通りに出来ていた。が、しかし全く違うモノだった。わたくしの伝えた言葉に誤りがあったとも思えぬし、若いスタッフも良くフォローしているのだが、全然違うのであった。

このギャップにこれから先のわたくしの仕事のカタチの可能性が視えるかとも思いたかったけれども、それは仲々にむずかしそうだ。

原則、原理は伝えた筈だが、その先が無かった。又、若い建築家達の図像開発能力が意外にまだ乏しいのも思い知った。

頭が良いから、言われた事はほぼ眼に視える図像に出来るのだが、言葉の先のあいまいな世界の予知能力、あるいは認知能力がまだ薄い。つまり意外に貧弱であった。それが造形だとわたくしは知るが、その薄皮一枚の幅の恐さをまだ知らないのだな。まだ視た事がない形態は、実にその先にあるのだけれど、勿論そんな状態を仲々容易に共有できるわけもない。見慣れている形をわたくしが全精力をあげて作るわけもない。

15時迄ああだこうだとわたくしなりの努力を続けて、模型に大幅に手を入れザクザクと切り刻み、WORKを進めた。2時間程集中して手と頭を使いデザインをすすめた。経験で、これ位の時間が能力の耐久力の限界ではある。

18時半世田谷村に戻る。しかし、全力を傾注すべき対象らしきが出現しつつあるようなので、気持は引きしまる。

今、9時15分。馬鹿な事を書き付けていると時が経つのが早い。

翌4月9日7時離床。昨日近くのモヘンジョダロを歩いていたら石森さんとタマ、あるいはタマと章さんに会った。モヘンジョダロの樹々に赤いテープが巻き付けられていて、いよいよ樹が切られるのかと緊張した。花見をした桜の古木も赤いのが巻かれていた。あの桜が切られて失くなるという事は、花見の記憶もうすれるというに同じかも知れない。こうして具体的な自然や歴史を宿した事物が失われてゆくのは、大きな意味で日常生活の中に在る歴史の連続性が断たれるのに同じだなと思った。夜になって磯崎新、浅田彰、福田和也、岡崎乾二郎諸氏の、日本的なものを巡ってのいささか古い対談を読んだが、リアリティーが感じられなかった。諸氏は芸術、表現文化を代表する論者であるのだろうが、今の日本の現実から遠い世界である。たった数年でこんな感慨を抱くとはわたくし自身もいささか驚いた位だ。

世田谷村の近くの、モヘンジョダロ、桜の木、タマと章さんの現実。その背景に張りつめている諸々の酷薄な事共は視続けなくてはならない。サイト新連載の「ドリトル先生動物園倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ」は途切らさずに続けてゆくつもりだ。

9時半、「金子兜太さんと亀と山車」小文を書く。古いスケッチブックを眺め返していたら書きたくなった。

10時世田谷村を発ち研究室へ。どれくらいWORKが進んでいるのか楽しみである。とても困難なことをやらせているので進んでいなくても文句は言わない。

1125世田谷村日記 ある種族へ

8時離床。ダナン計画は最初の日本寺の鐘作りは、その音のする鐘は日本側で金集めをして制作することになった。4月13日に金子兜太さんに池上本門寺にてお目にかかる事にしたので、その時に先ず金子兜太さんに説明する為のシナリオを作成しなくてはならない。鐘には鐘の銘ならぬ由縁を刻印する積りだが、その由縁を考案しなくてはならないのである。で今、このメモを記しながら考案している。

鐘のデザインは初めてなので、資料を集めて勉強しているが、そのデザインの過程は皆さんにとっても面白いのではないかと考えたので、公開する事とした。公開はウェブサイトを介して行う。勿論これは無料である。無料であるのがウェブサイトのどうやら本質であるらしい。だからそれには従うこととする。しかし無料では鐘の一つも作れないので小さな有料のモノを同時に世間に流して、その有料なモノを無料のサイトで知らせることにする。つまり宣伝とする。

有料なモノを何にするかだが、簡明なのはやっぱり『アニミズム周辺紀行』であろう。『アニミズム周辺紀行』は7号まで本として出来上がっている。8号を書き終えて現在(2013年4月7日)校了、編集にかかっている。9号はまだ書いていないので、それを当てることにしたい。もしかしたら9号が8号より前に出ることになるやも知れぬが、それはそれで良いのではないか。今、思い付いたんだから。9号は字面としても苦労しそうな号数である。9は苦行の9でもある。だから、今日から書き始め、同時に絵図の多い9号にしたいので図もそれなりのを描き始めることにしたい。

しかし、「アニミズム紀行9」をベトナム五行山の精神文化公園内、日越交流センター(仮)の一部、日本寺の、その又一部の小さな種としての鐘を作る浄財を集めるモノとして当てるにしても、それは価格が安過ぎて、目的を達成するのは不可能である。アニミズム紀行が300部売るのに苦労しているのにいきなり10000部売れるようにするのは、それは出来ない。先日、ベトナム五行山に出掛けた。最終日には3万人以上の人々が馬場住職等の読経に集った。ウーム、この人々から一人100円ずつ集めたら300万円、1000円ずつ集めたら3000万円かと思案した。これだけの人々にアニミズム紀行を買って貰ったら1億円弱になるなと、眼からウロコがバッサリ、ズルリと落ちた。

日本仏教界からの決して小額ではない支援も受けるつもりなのであるが、それは馬場昭道住職に任せるしかない。わたくしにはそんな力量はありそうにない。 でも4月13日の池上本門寺での金子兜太さんの講演会後にセットされるだろう対話は仏教関係者への径を開く事になるだろう。

先ずはそれに全力を集中するに越したことはない。

今、9時15分。馬鹿な事を書き付けていると時が経つのが早い。

4月13日には金子兜太さんにはベトナムの小さなおみやげをお渡しするつもりだ。小さな石の亀の像である。五行山は石彫で有名な処だから良いと思って求めた。その小さな石の亀を贈り物にする為の箱のパッケージデザインはすでに山車の如くが渡邊君の手でなされていて、恐らく製作も彼がやるだろう。10cm×10cm×7cm位の大きさなもので、先ずはこの贈り物のパッケージについて書く事にしたい。金子兜太さんにはこの亀の他に、兜太さんの句を鋳込む鐘の姿図、つまりはデザインの図、そしてその鐘を吊るす鐘楼の完成予想図、そして鐘楼を建てる50m×100m×17.5mの2つのラクダの背中状の丘のデザイン、そのもう一方の丘に作る井戸のデザイン図、そしてベトナム・ダナン市五行山精神文化公園の博物館、ミュージアム、宿泊所を含む日越交流センター(仮)のマスタープラン、および全体公園のマスタープラン等を手渡して、プレゼンテーションとしたい。金子兜太さんは日本の現代俳句の第一人者である。俳句人口は現代建築愛好家とは桁違いに多い。それなりの用意周到さが必要である。もう10時前か、メシでも喰うか。

14時半「金子兜太さんに贈る亀と山車」7枚書く。アニミズム紀行9の始まりと4月13日の池上本門寺での会での金子兜太さんへのプレゼンテーションを兼ねた。15時半、五行山鐘(名称未定)縁起を記し終る。12の短詩として、十二支のいきものを登場させ、それぞれの十二支を背負った皆さんにその絵つきの物語りを、南のお話しへの縁起として長寿健康を求めるお札として買っていただく事にしたい。まことに夢みたいな話しであるが、少し手直ししてお札として刷り始めたい。とは思うがまだ確信が無い。

明けて4月8日6時40分離床。寒い月曜日である。昨夜は古い雑誌『新潮』等を読んで過した。今日は11時にダナン計画の進行状況他を確認の為に研究室に出掛ける。気仙沼、唐桑の人々は大津波後2年目の春を迎えてどんな気持でいるのか心が痛む。

1124世田谷村日記 ある種族へ

夜中、1時に起き出して作業をすすめる。世田谷村のコンピューター(わたくしの)がどうやら壊れた。聞けば当り前の事だがパソコンも消耗品だから必ず壊れるのだそうだ。

当り前のことだけれど、こんな消耗品に頼って創作らしきを続けようというのだから、考えてみれば実にオカシイ事を続けている。良いチャンスかも知れない。外と一度たち切れるのだ。

ダナンの鐘つき堂と小丘のスケッチを続ける。岡本太郎の創作はただただ散乱していたな。自分の外との彼なりの言葉で言えば衝突らしきに期待し過ぎたのではないか。沢山の人とブツかりながら暮らすのが好きだったのかも知れぬ。そうこうしているうちに自分本来のエネルギー自体を消耗させてしまったのか。 夜中の3時過エスキス作業中断。固まりかけていた枠の崩し方を発見できたような気もするが、少し休んで冷静になってみよう。

7時離床。今早朝のエスキススケッチを点検、さらにすすめる。全長800Mのサイトをどうコントロールするかが問題だ。進んだところ迄渡邊、佐藤に伝えておいた方が良いと考えて、スケッチは渡さずに言葉で伝えようと試みる。思考のプロセスは言葉の方が伝えやすい時もある。伝える相手の才質を引出す点においても望ましい。9時過屋上に上る。午後は風速40Mの嵐になるとの予報なので諸々の点検と、備えを。西端の小さな桃の木が花をつけていた。ブルーベリーもチラホラ。

風が吹いてきた。

ダナンの丘のスケッチを続ける。

1123世田谷村日記 ある種族へ

11時研究室。ダナン計画の進行状況を見る。きちんと作業は進んでいるのだが、どうもピタリというわけにはいかぬ。でも辛抱しなくては、若い人材を育てないと自分のためにもならぬのだ。でもわたくしのエスキスも進行させることを決めた。何がちがうのかを言葉ではなくって手で伝える必要がある。だって手習いというではないか。勿論、渡邊、佐藤両君のエスキスも手描きなのだけれど手描き自体のスピードとエネルギーが伝わってこないのだ。恐らく両君共に見慣れた世界をまだなぞっているからだろう。そういう現実の壁の内に在る。それではダメなのだ。わたくしは見慣れた世界の外へ行こうとし続けているので、その違いがスケッチに現われてくる。ホンの少しのニュアンスなのだけれど、そのホンの少しの中に深い淵があるので……。でも、もう少し手描きの中に自己更新のキッカケをつかませないといけない。ギリギリにセレクトした人材だからこそ。

エスキス、スケッチの沢山の線の集合の中からボーッと視えてくる怪物をつかみとらせなくては。

一見神秘主義的な自己内のカオス信仰のように聞こえるだろうがそれは違う。実にリアルな能力について述べている。脳の細胞をうごめかせる工夫だろう。

しかし、今でも絵を描く人間らしきは居るのだろうが、どんな自己開発をしているのか、現場を見てみたい気もするが。時々、横尾忠則さんの日記をのぞいてはいるが、断片的なアイデアが並列されていて良くわからない。横尾忠則の描き続けるエネルギーはしかし偉いなあと感心してしまう。日記に書かれている俗っぽさとか若い頃から大衆的情報の中でスターであり続けた異常さに良く耐え抜いているなと思う。衆人監視が必須な強迫観念を自分で作り出しているのかと思ったり、つまり創作日記らしきをサイトに書き続けているとはそういう事ではなかろうか。

16時別れて独りでスケッチを続ける。わたくしだって懸命に自己開発らしきにいどんでいるのだ。君らもヤレと若い二人に言う。

1122世田谷村日記 ある種族へ

6時半離床。昨夜は久し振りにXゼミナールに投稿。鈴木博之が「ネランさん」を東京新聞夕刊コラムに書いていて、それに反応した。もうサイトにONされているだろうからのぞいてみてくれと言う。ネランさんのエポペの方々のすすめでインドのカルカッタ、マザー・テレサの死を待つ人の家に出掛けたのは痛切な記憶であった。息子の雄大がそこである少年と友達になり、一緒に凧揚げをしたり……。別れとなり遠くの屋上から「ゆうだーい」と別れのあいさつをしてくれた声を忘れる事ができない。あの少年は今どうしているのか……生きていてくれれば良いが。知る術もない。20数年も昔のことである。

「ネランさん」のお陰様で作家論・磯崎新を少しだけ進める事もできた。

今朝は11時に研究室で諸々の打合わせがある。これから先の事もあり、少し離れたところから研究室とはコンタクトしてみようと考えて、ベッタリ毎日のコミュニケーションをなくすようにしているが、多分しっかり仕事は進めてくれているに違いない。一人前に育ってくれなければ長い時間をかけた仕事は不可能になってしまう。

ときの忘れものでの「具体展−Gコレクションより」が終了した。

日本では具体は売れないだろうの大方の予想をチョッピリ裏切って、少しは作品が動くかも知れない。綿貫さんの頑張りであろう。やっぱり海外からの引合いが少なくはなかったようである。

わたくしのドローイング展を何処かでやりたいと日記に書いたら、綿貫さんから冗談は止せ、お前のはウチでやると言ってきた。ベトナムで20点弱のこれはドローイングに非ず。

スケッチだけれど少し色を入れたりで手を入れようかと思ったりしている。

10時には世田谷村を発ちダナン計画の進行状況を見にゆく。

1121世田谷村日記 ある種族へ

今日も9時前まで眠った。これはベトナム疲れだけではないなとようやくにして疑いはじめる。恐らく新種のなまけ病であろう。昨日4月3日は「ドリトル先生動物病院倶楽部から正一位いきもの稲荷社へ」2章、1、2を書いた位であった。わけがわかる世界は時々あきがくる。それで我ながら、わけがわからぬ世界にもぐり込むのだろうと思う。年をとるに従って、コレワ生れつきかなと思わざるを得ないモノに突き当るものだ。

モヘンジョダロの片隅にポツリとあった郵便ポストが取り除かれてしまって、昨日書いた葉書はまだポケットの中にある。

どうしてスロースピードのモノはどんどん除去され続けるのかな。もう十円玉をいれて通話する公衆電話はほとんど何処にも見当らない。町の中では何処と何処にしかないと地図が描けるくらいだ。

今朝も「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」2章の3を少しばかり書き進める事にしよう。言い訳がましく書きつけるが、この作業は出来損ないのメルヘンまがいを書こうとしているのではない。動物病院のエスキス、スケッチもかねているのです。

弱ったな。ベトナム・ダナン計画に動物病院のアイデアが入り込もうとしている。困った脳みそである。

1120世田谷村日記 ある種族へ

11時前金子兜太さんに手紙書く。ベトナム・ダナン五行山計画の鐘楼の鐘に兜太さんの句を鋳込むことへのお願いである。又、小さな山を作るので、そこに幾つかの句碑も建てたいと思ったりなので。

14時新宿で研究室の面々にベトナム行の報告会。及び次のステップへの大筋を示す。良く吸収したように感じた。空気でそれは解る。ダナン五行山計画は可能性の核である。ここで言う可能性は対外的にも対内的にもである。外は社会を言い、内は我々の想像力そのものを言う。度々の韓国行で得たものは少なくない。河回村の仮面ミュージアムでの驚くべきマスク群との出会いは、この深々とした体験をどう生かせば良いのか途方に暮れる程のものであった。日本文化の能は恐らく韓国が源で海を渡って日本化された。静謐を旨とした、少ない動きでモノ皆全ての動きのエネルギーを表現しようとした。高い水準の美であった。しかし、それは室町時代の社会の乱の空気に対してのモノであったのを忘れてはならない。

能は武将達の明日をも知れぬ命をなぐさめるものでもあった。戦いの日々のつかの間の静けさであった。だからそれは総じて死の、空、無の表現であったのだ。能の静謐と利休の荼の美学とは通じる。荼室も又、戦乱の日々のつかの間の静けさを求めたものであった。あれも又、死というものを見つめる時の為のモノであった。そんなに単純な事ではないの声も多かろうが。物事を複雑に見過ぎると全体が視えにくくなる。江戸時代は内向きな時代であった。武将の役割はほぼ失せ、商人の時代への移行が底流としてあった。そして大衆としての町民が出現した。歌舞伎の動は内向きの時代から産み出されたのである。それ故に華美であった。派手な動きを形にしようとした。

岡本太郎の対極主義ではないけれど、いつも時代はその大流と逆のベクトルを求める。表現者の存在意義はそれに尽きるであろう。

と、七面倒くさい事を記し始めたが、これは日記に大枠を設定すべきではない。いずれアニミズム紀行でまとめて書く事にしよう。

4月3日、8時過離床。なにしろベトナムから帰って良く眠る日が続く。と言ってもまだ2日程だが、何故なんだろうといぶかしむ位に良く眠るのである。眠り男である。ベトナム行以前はズーッと眠りが浅く、夜中に目が覚めてしまい読まなくてもよい本を読んだりが続いた。ベトナムには井筒俊彦、木田元の2冊を所持したが、結局一頁も繰る事がなかった。日々の現実がそれ程に激しかったわけではない。でも本は読めなかった。

ダナンはベトナム戦争終結の地である。訪ねた日はベトナムの解放記念日でもあった。ベトナム戦争から半世紀以上の時が経つ。今想えばベトナム戦争は日本に於いては1968年をピークとする学生達の蜂起に繫がるモノではあった。

歴史とは言わぬ。人間の生は延々と連続しているものだなあと感ずる。時に室町時代くらいの表現者達の気持にまで遡行する事がある。仕事とは言え、旅の効用だろう。

日々の生活で世田谷村を発ち、諸々の場所を動き廻るのも旅の筈だが、人間はそれ程に自由ではないから、駅迄の7、8分を旅とは思えぬし、新宿迄の電車の20分程だって旅とは思えない。だから電車の中でことさらなスケッチ等はしない。遠くへ行くのを旅と言って、近くへ行くのは散歩なのかな。

昨日、長崎屋へ顔を出したら、オヤジと客が声高に話し合っていた。要するに旅の自慢である。双方共に75才を超えているか。もう自慢合戦なのであった。オヤジはガンで明日も知らずの日々だが、いたるところの花体験の自慢。相方はひとり暮らしの勿論老人であり、京都にマンションあるから遊びに来いの、これも又自慢話しの連続であった。花とマンションじゃすれ違いの連続な筈なのだが、それでも会話は弾んでいた。

要するに二人共に独り言なのだが、言葉の反射板としての相手を必要としているのだなあ。それをジィーッと聞いている俺は何者なのかとも思うが、あんまり考えても身体に良ろしくないので止めたい。

今日は諸々のスケッチ作業、他に明けくれる予定である。つまり独り言の時間を過す。馬場昭道より漬物届く。

1119世田谷村日記 ある種族へ

4月2日9時離床。やはり疲れていたのだろう19時間眠った事になる。3月31日の続きを思い出しながら記す事にする。8時に中村さんとマグノリアホテルのレストランで朝食をとりながらの打合わせ。こちらのプランがしっかりとしてきたので、打合わせもリアルになる。歩いてダナン博物館へ。旧要塞の塀の中に建てられているが、つまらない近代建築様式のものだ。これはいずれ建て直して良い建築にした方が良い。フランス植民地支配からの独立運動の英雄の石像が玄関前にある。ホーチミンの前の手作りとも言うべき独立運動の祖であった。館内の展示を見て廻る。古代の動植物からベトナム戦争にいたる迄の資料が収められている。ベトナム戦争の資料が圧倒的なリアリティを持って迫ってくる。兵器も文明文化の表象の数々であるのを知る。アメリカの学生達がこの展示を見て仰天して、ホテルに戻り室に閉じこもってしまって出てこなくなった話し等を聞く。ベトナム戦争では300万人のベトナム人が亡くなった。又、その後遣症は今も続いている。我々も知るいくつかの有名な戦争写真も展示されていた。

外に出て菩提樹の大木を眺め今度のプロジェクトの中の日本寺には菩提樹の樹を植えたいと考えた。馬場住職は樹樹プランや金集めの計画にアイデア他を得たようだ。この僧侶はやはり若い頃に世界中を一年間自力で廻っただけあって、日本の田舎には納まり切らぬ体験を蓄積しているなと思った。

チャム彫刻博物館へ廻る。多くのオーストラリア人、フランス人、韓国人達でにぎわっている。やっぱり一級のモノの展示は人を集めるのだ。ただ前回驚いた時のレイアウト、他が微妙に変えられていた。再び教点のスケッチを得た。裏手の大きなピポリの樹(菩提樹)の下で住職と話す。13時半頃迄滞在して、ホテルに戻るが周辺のレストランはほとんど修了していた。歩き廻り屋台のお粥店に座り込んで、お粥をいただく。美味であった。オカミさんをスケッチする。日本の仙台に何年か働きに出た事があるそうだ。日本で働くよりは、やっぱりベトナムに戻って屋台のお粥店を持つ方がどれだけ良いかわからない。ホテル前のコーヒー屋が先祖礼拝の小儀式のため一時休店であったので向いのコーヒー屋に移る。ここの店主はコーヒー店の上でホテルも経営しているらしく英語をしゃべるが、向いの店に比べると何かが不足していて、それで客が少ない。向いの店の上には大きな樹がおおい尽くしていて、良い陽陰を作り出している。上にホテルがあるよりは樹がある方が人々は好きなんだろうと考えたり。 ダナンの中心部にも日本人が集まりやすい小ホテルがあったら良い。誰かに相談してみようかと考えながらスケッチを続ける。

ホテルに戻り汗ビッショリになった体を熱い風呂で洗う。シャワーは調子が良くないので風呂の方が洗濯もできて良いのだ。小休して荷づくり。16時過中村さんとロビーで会う。

ダナン人民委員会のヒュウさん来る。ベトナムで作り直したプランを説明する。大方の同意を得たように思った。7月に来日するので、その時に東京で会おうとなる。

ダナン市のバザール(市場)へ出掛ける。馬場住職キララの樹の飾りに執着して、買いたいのに迷う。変なモノが坊さんは好きなんだと知る。私は金子兜太さんに小さな亀の石彫りを買い求めた。文鎮にでもしてもらおう。金子兜太さんもベトナムの計画に巻き込まれていただこうとの魂胆である。計画がリアルになると、リアルな買い物をするのだ。

雨が降る中をうまいベトナム麺屋へ。簡単な夕食をすませた。

ホテルに戻る。馬場住職はホテルのショップの良い客になってくれた。大阪外語大学から単身こちらに語学留学する山本よう子さんとお別れの話し。同じ飛行機で来越した学生である。もうホームシックになりそうだとの事。皆さんみんなお帰りになってしまうので心細そう。もっとイヤな事が起こるよ一年も居れば、と変ななぐさめ方をする。この娘はきっと大阪外語大の先輩である司馬遼太郎のベトナム紀行を読んで、そしてベトナム留学を決めたなと思い当たり。文学も時には役に立つ事がある。

空港へ。中村さんとも別れ、22時45分の韓国ソウル行の便に乗る。

グッスリ眠る。空けて4月1日5時過ソウル着。乗り継ぎのため、待合室で横になり再びグッスリ眠る。9時過発、成田着11時半過。馬場住職「成田は本当に小さくて田舎やねー、静かだけど」とポツリと洩らす。息子さんが迎えに出てくれていて別れ、わたくしは京成線で世田谷村に戻った。すぐに休み再びグッスリと眠りこけて、4月2日朝となり、日記もようやく一巡りした。

10時半メモを記し終り研究室に送付する。午後研究室に出掛ける予定とする。

世田谷村日記