2013 年 5 月
- 1175世田谷村日記 ある種族へ
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10時半研究室。10時40分過ぎ院レクチャー。4回の現代建築の光について。1.ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パビリオン 2.ノーマン・フォスター、セインズベリー視覚芸術センター 3.ル・コルビュジエのラ・トゥーレットの僧院 4.ルイス・カーン、ニューヘブンのブリティッシュ・アートセンター、の連続講義に入る。現代建築のマスターピースの幾つかである。
ミースのバルセロナ・パビリオンでは、ミースのマテリアルと光に対する異様とも思える執着心についてを述べた。
わたくしの院レクチャーの定番であるので、少しでも新しく付け加えたく人知れず苦労している。
12時了。研究室で打ち合わせに入る。伊藤アパートメントハウスの設計過程を公開することにしたので、その編集がそのままドキュメントになる様にしようと思う。数少ないスタッフを急速に育てたいの意もある。
Diary to the West、絵言葉、絵日記全て更新する。
17時了。研究室発世田谷へ。18時前宗柳前の道を歩いていたら、石森彰さんとタマ(チィとも呼ばれている)が夕辺の散歩に出掛けるところに出会う。石森さんはベトナムの鐘への寄進、唐桑のタオルセット共に申し込みをいただいているので礼を言わねばと宗柳へ。タマの奴、散歩が中止になったのでわたくしをにらみつける。
20時迄雑談。
世田谷村に戻る。
石森さんからはいつもビックリするような話がうかがえて面白い。
宗柳の真前の彼の家は今、都市計画道路に多少引っかかっている。又、裏の塀はこれから開発されるであろうモヘンジョダロにも面している。それ故に10年後には大変貌の中心、四つ角に面することになる。わたくしの「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」はその未来の現実へ向けての物語であり、彼の話は重要極まる。
世田谷村に戻り、カゼをこじらせぬように用心して眠りにつく。
翌6月1日9時迄熟睡する。晴れて陽光が射している。
三階のテラスの朝顔が二輪目の花をつけた。室内のパキラの樹はのび過ぎて5メーター程になり、鉄板の天井についてしまったので家人がバッサリ切った。半分ほどの大きさになったが、切ったところから芽が生え出てきた。しかも2つ。共に上へ伸びてゆこうとする意志をみなぎらせているので頼もしい。
朝、「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」を書き進めることにする。
あらかたの大筋を述べることにしたい。
そうしないと読者は何処に向けて連れてゆかれようとしているのか皆目わからんだろう。そのガイドの小片をそろそろ書き込むべきだろう。
- 1174世田谷村日記 ある種族へ
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10時A邸サイト到着。A御夫妻にお目にかかる。古い立派な門を入り敷地へ。うっそうとした木立の露地が心地良い。すでにグーグルで大方は把握していたが、今ある住宅の周囲を巡る。中に入り、1階2階を見る。
人の住まなくなった家はやっぱり暗く寂しいものだ。1階でお話をうかがう。 すでに用意してあった、こんな事が考えられるでしょうという案を3案程お見せする。12時前了。再び車で世田谷村に戻る。
おかゆを食べてすぐに眠った。夕刻、再びおかゆを食す。
あんまり寝ているのも疲れるので、横になったまま読書。
翌5月31日6時半離床。うす曇りの空である。カゼは快方に向かっている。今朝の院レクチャーは何とかこなせそうである。
研究室のサイトをザァーッと読み直してみる。少なからぬ人間の手もあり少しは充実してきたなあと思ったり、まだまだだと思ったり。
日記はほぼ死ぬ直前まで続けるだろうとは思う。それはいつの事になるかは知らぬ。
でも「アッ、もうすぐ死にそうです、息も心臓も苦しくなってまいりました。皆さん長らく御愛読ありがとうございます。パタリ」とは記せぬであろう。どのみち独りで終るしか無い。でも、それ迄は記し続けるつもりだ。
つまらぬ日記形式ではあっても、御当人にとっては時々ごとに出来不出来、長短がある。よく出来たと思われる時は少なくとも朝くらいは気分がいい。つまり烏山駅まで辿り着く間位か?電車の箱に乗り込んだ時にそんな気分は霧散してしまう。独りの世界が消えるからだ。
絵言葉、絵日記はまだ2〜3日分はストックがあるが、その先は無い。心ある読者は、又どうせどこかでプッツンだろうと予想しているに違いないので、何とかそのイヤな予想だけは裏切りたい。でも絵のストック作りは大変である。義務みたいになったら自分でも何の楽しみも無くなるから。
妙な事を言うが無心になって描いている時の絵は良い。そんな時の絵には本当は言葉は不要なのだけれど、それでは読者とのイヤな言葉だがコミュニケーションが成り立たぬ。わたくし自分はコミュニケーションなんて言葉は一切信用していない。一瞬の気持のぶつかり会いのようなものだ。コミュニケーションなんて言うとTVの視聴率かせぎのお笑い番組のなれの果てみたいでイヤだ。実際世の中にはイヤな事が山程にあり、富士山みたいに中途半端にそびえてやがる。富士山はようするに地球内マグマが廃棄物となり放出された灰の山である。マグマのゴミだ。又、いつ排泄が始まるかわからない。
ヒマラヤは地球の表面が流動していた時代のゆがみ、衝突の巨大なエネルギーの表出である。だからおのずからそれが姿形のスケールに現れる。
しかし、今の時代の我々はジェット旅客機でいともたやすくヒマラヤのある地方に出かける事ができる。
富士山といういわば日本の風景のシンボルのように流布されている山がいかに小さくケチくさい山なのかを知る事もできる。ケチなしみったれた山であっても一向に差し支えないけれど、気持の奥深くまでそうなってしまっていたら、どうも困るような気もする。
シャキャ族のシャカはヒマラヤを眺めて育った。そして大きな思想の芽をつむぎ出した。富士山を眺めながら成長したのは親鸞上人かな?やはり、それなりのスケール他の違いがいかんともしがたい。
大人はそれを無いモノねだりと言う。あるいは言っても仕方無い、センない事だと言う。しかし、事実は事実だ。少なくともその違いを知る必要はある。ケチな大人になる必要はない。知ってどうなるの声も聴こえようが、先ずは知る必要がある。わたくしの思考や行動らしきはそんな考えをベースにしていると思う。磯崎新の言うジョルジュ・バタイユの無頭人、バックミンスター・フラーの宇宙人からの視点はその考えの、いささかの先達であろう。彼は世界を経巡る人生である。その相対的思考はその旅の中から生まれたもので、そのアイロニーも又、その空間的経験から生み出されている。アイロニーの出処はそれは日本人に対するものである。
磯崎新とヒマラヤ、チベットの旅をしたのは良かったなあと、つくづく思い知るのである。いつも過ぎ去ってから、事の重大さを思い知るのは凡人の常でもあるが、せめて気付くだけでも、日記を書き続ける効用であろう。
作家論・磯崎新は最初の核心に触れ始めたように思うが、まだまだ先は長い。これはわたくしのグランドツアーなのだ。建築を巡る。
2階の広間から、3階のテラスを見上げる。鉢植えの植物群が早くも屋上迄張ったネットにからまり始めている。朝顔が一輪妙に亜熱帯風の紫紅の花をつけている。梅雨に入ったようだが今日は晴れて暑くなりそうだ。
カゼが治りかけているので、半ソデのシャツにしようか、長ソデにしようかと一瞬迷っている。
シャカはブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いたそうだ。
しかし、インドのあの地方は殊更に暑いから、40℃〜45℃の日中であろうから陽蔭を求めて樹の下に入り、それで何かに気付いたのであろう。
あの暑さがそれをなさしめた。
- 1173世田谷村日記 ある種族へ
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気仙沼・唐桑七福神タオル3点セットについて、ワカメ他、塩カラ、フカヒレ等の食品とのつめ合わせ、とまではいかなくとも食料とタオルの組合せを考えた方が良いかも知れない。
唐桑、小鯖の鈴木商店のこれからの商売としても、これっきりではなくって将来にわたり長続きする事を考えたほうが良いだろうから。今日中に組合せのアイテムを考えて下さい。もちろんその旨も鈴木さんに伝えて、3本のタオル発注を1本か2本にして、あとは食品との組合せとしたいと伝えよ。タオルの生地がプリントに不向きだったら手ぬぐいにするのも良い。
手ぬぐいであれば、手ぬぐい1本とワカメ、塩カラ、唐桑ジャム等の組合せになるかな。すぐに動いて下さい。
- 1172世田谷村日記 ある種族へ
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研究室で打ち合わせ、2軒の小品について。じっくりデザインの細部について討議する。何に向けて作るかの大筋の議論はさておく、具体的な細部だ。言っている事がどれ程伝わっているのか定かではないが、一方的にでも良い何しろ伝える。
17時半長澤社長2名のスタッフと試作品一号を持ち来室。特別な方式の太陽光発電機器である。案の定というか、やっぱりと言うかイメージが全く違う。言い張る社長及び技術屋さんに「こんなモノ売れるか!」と一喝。
はるばる持ち込んできたがダメなモノはダメなんだ。マアマアの中途半端は許されぬ。結局全てをやり直すことになる。6月中旬の世田谷区でのわたくしの発表会には途中経過の報告とする事にした。くさったり、メゲたりする人たちではないので心配はないだろう。
こちらで大方のスケッチを渡してそれで、このポイントを考えて欲しいのオペレーションを繰り返すことにした。
ワイマールのビンセントが作り残していった世田谷式発電のイメージキャラクターのお婆ちゃんの大きな人形は、今になって見返すと良く出来ている。 19時了。6月頭に慰労会をやろうと別れる。
ベトナムの鐘も、気仙沼・唐桑のタオルも少しづつ注文がきている。ありがたい事だ。日々、行商に励みたい。仲々大変なんですぞ行商は。「アノー、タオルなんですけど……」の最初の一言が、まだそれ程になめらかに口から出てこないのだ。
長澤社長はリンゴ売りから、旅館経営、そしてストリップ小屋ならぬ高級呑み屋まで経営した人物である。その小屋が開店前日に全焼したりで、辛酸はなめ尽くしている。それで立ち上がってきた人だ。今は中国大陸に大気汚染対策機器の売り込みに励んでいる。本当はわたくしが「こんなモノ売れるか!」と怒鳴る立場ではない。「お若いの、売ってみせますぜ」と言い返されればグウの音も出ないのではあるが、ではあるがやっぱり言わねばならないのだ。こちらも懸命なのである。打ち合わせが終わったら急にカゼ気味の体調が良ろしくないので、あわてて研究室を去る。
20時過世田谷村に戻ってすぐに横になる。
明けて5月30日、7時離床。まだカゼ気味は抜けぬが熱はないのだろうと思う。でもいつだったかネパールで山を歩いていて、随分今日は足がフラフラするなと思い、念のために体温計で計ったら42度の高熱であったことがある。熱が表に出にくい、にぶい体質なのだ。気をつけたい。
今朝はA邸のクライアントとの打合わせがあるので休むわけにはゆかぬ。涙目で鼻水も出てきた。クライアントとの面談は失礼にならぬような算段をして、早目に切り上げよう。
打合わせが終ったら世田谷村で休んだ方がよろしかろうと決める。
9時過世田谷村発、車で先日下見をすませているA邸サイトへ。流石に歩くのはキツイ。
- 1171世田谷村日記 ある種族へ
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10時半研究室。準備。10時40分過ぎ学部レクチャー。メタボリズムと住宅。菊竹清訓のスカイハウス、黒川紀章のカプセルを巡って。12時半了すぐに打ち合わせに入る。サイト編集についてから始め、ダナン、世田谷、住宅2軒、気仙沼、唐桑と、濃密に、かつスピーディに駆ける。住宅については、しばらくしたら制作日記の如くを、すなわち設計プロセスを公開する事にしたい。15時前了。近くのそば屋でいささか重い昼食をとる。もう少し少量の昼食にしないとブッ壊れる可能性がある。昼食は一品にしたい。
16時過、まだ明るい時間に世田谷村に帰った。すぐにサイトに2本の新シリーズの絵入り日記(風)を書き送信する。
中部地方は梅雨入りだそうだ。雨も又良しである。と思いたいものだが、そこまでは言わばただの見栄である。
夜はエルンスト・ユンガーの『砂時計の書 -時間と文明をめぐる文明論』『磯崎新建築論集4 <建築という媒体>』を読む。又、ほぼ書き終えた絶版書房アニミズム紀行8のゲラを通読する。だいぶん手を入れなくてはいけないなと痛感する。2章に区分けしなくてはならぬだろう。でも急速に具体を述べ始めているのに気付く。
明けて5月29日6時過離床。曇り。すぐに作家論・磯崎新Ⅱ章5、阿弥陀堂を巡って3 書き進める。9時過修了。やはり、磯崎新建築論集は万里の長城の如くに走りのびている。
頭がジンジン疲れたので昨日始めた絵入り言葉2、絵入り日記2を書いてみる。休息が必要である。
オプコードの野辺公一さんから電話があり、今夜空いてるかとのありがたい声掛けがあったが、残念ながら今日は長澤社長との先約があった。残念。
少しずつ住宅設計を再開しているので彼の意見も聞きたいところだが、6月末にしようとなった。
お中元気仙沼・唐桑タオルの販売せよと、研究室からチラシを30枚程押しつけられているが、いささか途方に暮れている。街で行き交う人に皆配るぞの目付きになっているのを自覚している。皆さん、わたくしに会ったら御用心、お中元タオルのチラシを渡されますよ。
- 1170世田谷村日記 ある種族へ
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少し遅れて19:00羽田着、夕飯でも御一緒にと難波さんと有楽町の高架下と覚しき焼鳥屋へ。路上に数軒がテーブルを出していて沖縄よりも沖縄風であった。女性客は元気で酔っ払い方も豪快である。酔って通りを壁にもたれてフラつく様な女傑さえいる。日本文化もこうして女性側から変化してゆくのであろう。
21時過了。22時半頃世田谷村に戻る。
明けて5月27日8時離床。いくつかの電話の後、昨日の帰りのフライトでANAの機内誌で見つけたバスクの民家のファサード写真に視入る。MAN-MADE NATUREだな。10時前朝食。
11時過烏山区民センターに出掛ける。研究室の諸君が出て江戸の植木職人スタイルでの植木販売他を行なっている。声も出ていて元気である。昨日、おとついの成果かな。石森章、保さん、壺八のオヤジ他に会う。日差しがきつくて広場隅に座っていた。
19時ときの忘れものギャラリーより連絡あり、先搬のわたくしの企画監修による具体展のその後の報告あり。綿貫さんも頑張ったようでホッと一息つく感じである。次の企画をすすめたい。
5月28日7時離床。東京新聞を8時迄熟読する。新聞はよく読むと、それぞれの記者の識見や教養の程度まで浮き上がってくるような気がする。
水上勉の故郷若狭に原発が林立している。そこから禅の高僧らしきが輩出する不可思議を水上は述べていた。小林秀雄追悼の文の終いにも書いていた。
鈴木大拙、等であったか。わたくし自身はそんな風な仏教的因縁話し風を好まぬし、水上勉の詠嘆調も好きではないが、水上の若年の貧しさ故であろう情に対する直観と禅の要求するのであろう直覚は不思議ながらほぼ同一であろうとは思う。
東京新聞は原発問題に関してほぼ唯一社を挙げて再始動反対の姿勢をとっている。故郷の原発に晩年反対であった水上勉の故郷若狭に焦点を当てようとするのは良い。がしかし、東京新聞が拠って立つ東京は電力の大消費都市でもある。
そこ迄掘り下げるのかどうか、近代化そのものがもたらせた消費の豊かさは又、水上勉の中間文学をも育てたのである。つまり、大衆小説の拠って立つマスメディア自体が消費の対象になっているところまで切り込めぬと、嘘になるぜと思ってしまう。9時半前世田谷村を発ち学部レクチャーへ。
- 1169世田谷村日記 ある種族へ
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7時20分羽田空港第1ターミナル・9番ゲートにいる。先程きつねうどんを食べた。味気なかった。李祖原は菜食主義で本当に最期までまっとうするのだろうかと、滑走路をうごめく飛行機を眺めながら油あげを噛み切ったりして考えた。何となく本能的に菜食人生に移行するかと考えつき、インド・ナーランダ以来、酒もひかえて亜仙人生活に突入したのでそんなことを考えているのであろう。沖縄は雨模様のようだ。カラリと晴れた空の下でスケッチでもしようかと大判の用紙ケースを持って出たが、裏目となるのか。やがて難波和彦さん現れる。
8時の便で那覇へ。10時40分着、モノレールで市立病院前駅へ。芦澤竜一氏、溝井洋輔氏に迎えられ、車で溝井邸へ。丘を登り辿り着く。見学する。写真や図面から考えていたよりもよほど良い。設計の主題どおりに風がコンクリートの住宅内を吹き抜けて、心地よい。やはり建築は現物を見たいものだ。建築内の空気の体感、つまり肌触りの如くが伝わってきて満足する。北側にコンクリートの屋根と連続させた緑のツタ類のシェルターが心地よかった。周囲の建築の隙き間ともうまく馴染んでいた。作者のこれまでの作品群の中では群を抜いて最良のモノであろう。
クライアントは元Jリーガーだそうで、住宅にピッタリの率直な方であった。住宅にピッタリというのは当たらぬ。人間にピッタリの住宅と言うべきか。
見学後、近くの沖縄民家を使った沖縄ソバ屋で昼食をいただく。県の重要文化財である。天気も梅雨の晴れ間をのぞかせて気持よい。
14時前、別れて再び市立病院前モノレール駅より空港へ。14時過ぎ空港着。14時55分の日本トランスオーシャン便で石垣島へ飛ぶ。16時石垣空港着。バスで石垣港へ。
17時前石垣港離島連絡船乗り場着。待合室で地元の老婆の後ろ姿をスケッチする。17時30分高速船発。細長い小型船で驚くほどに速い。値段も高いが、充分に速かった。
空は夕景となる。すでに台湾の台北よりも緯度としては南の海に居るようだ。尖閣諸島はすぐ近い。高く波しぶきを上げて走った。西表島上原港に18時過ぎ着。随分遠くに来たものだ。ホテル送迎のバスに乗る。客は我々二人だけ。 リゾートホテル・ニラカナイ西表島に着く。建築行脚(見学)の宿としては少々不適当だが、他に宿が無いので仕方ない。
部屋は広く、コーナーに、妙ないかにもなリゾートリゾートと音のするようなベッドコーナーがあり、気味が悪い。小休して近くに一軒だけポツリとあるレストランへ。ハブが出るとおどかされ懐中電灯を持った。レストランは予想外においしかった。難波さんとポツリポツリと世間話。
21時過ぎホテルに戻る。夜空は月が出ている。雲が切れて星も見えるようだ。
22時半今日のメモを記し終わる。
明けて5月26日6時前離床。晴れそうである。途切れ途切れではあったが晴れた。眠るのも体力の一部なのを最近は痛感する。このホテルは西表島自然環境の保全のためにヒゲソリ他の用品を室に置いていないとのこと。その方針とエマニエル夫人のコーナーベッドの消費ボケ感覚。大体にしてからがこのリゾートホテルの存在自体がバッティングしているのが、おかしい。現代日本の縮図だな。TVをつけたら、糸井重里が出てて何かしゃべっていたので、あわてて消した。
この島は、送迎バスのドライバーは、目に見えることがありますかと尋ねたら「そんなことがあるのは聞いたことがあります」とのことであったが、台湾に間近である。台湾の知的富裕層の保養・延命の小島として、ハワイの密林で行なわれているような超自然主義で島自体を保護していったらよい。
鶴見良行の『ナマコの眼』だったかに、東アジアの洋上、島伝いの食文化の伝播が詳細に描写されていたのを想い出す。さて、朝食前のスケッチ散歩に出掛けようか。
昨夜は難波さんと散歩と健康についてダベッた。早朝から彼は真面目な散歩をしているのではないかな。
月ヶ浜とのいう名のある小湾の浜に出る。立木が波にえぐられて枯れかかっているのをスケッチ。30分ほどかかったがよく描けた。やはりおもしろいと思ったモノは上手に描ける。田中一村とアンリ・ルソーを思いながら描いた。巨匠風である。
やっぱり「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」II章5に書いたように、ルソーの密林は他人の話を聞いての想像の森である。 密林の凄惨な細部の豊富さが無く平板なのがよくわかった。森は、しかも南の森は宇宙と同じだな。
朝食をホテルのレストランで。ゴーヤともずくをいただく。ロビーで難波さんに会う。9時に落ち合うことにする。
難波さんはどうやら散歩はさぼって、メールに没頭している。ルソーと同じで非現実の人だなあと思ったり。
9時半ホテルに國井夫人、村梶招子さん来て、國井邸へ。車ですぐの処であった。小さなコンクリートの小屋である。國井夫妻はサーフィン愛好家のようで、フォクルスワーゲンの古いBOXタイプのワゴンの愛好者である。サーファーは風と潮と合理的に共生してゆく自然との共生調和者でもあり、その意味ではフォルクスワーゲンワゴンの合理性を好むのはよくわかる。コンクリートの小屋のかたわらにサーフィンの道具庫として置いてあるのがイカしていた。10時半審査了。上原港まで送っていただく。
上原港近くの食堂前の吹きさらしのテラスで休む。道向かいに座って食堂のスケッチ。11時過ぎ開店前の食堂にもぐり込み沖縄ソバの昼食。
港待合室、そして桟橋に移り船を待つ。12時高速船に乗り込む。船内でスケッチをいささか。だいぶん揺れた。石垣港12時45分着。
来た時と同じようにバスに乗継ぎ、南ぬ島石垣空港へ。空港着14時過ぎ。
空港でボーッとして過ごす。15時55分発のANA便で東京へ。機内はほぼ満席である。アッという間に過ぎた沖縄建築行脚だった。
- 1168世田谷村日記 ある種族へ
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色々と書類、チラシ等をそろえて13時半研究室を発つ。地下鉄で新宿経由烏山へ。佐藤くんは宗柳、長崎屋へ唐桑タオル3点セットチラシ配布、ガーデニングフェアーの植木市PRへ。わたくしは風々ラーメンへ。風々ラーメンでは案の定、志村棟梁と世田谷野球倶楽部カントクに会えた。唐桑タオルのチラシ、ベトナム鐘楼のチラシ他を渡し、色々な相談をする。
やがて佐藤来る。話しを聞けば長崎屋は臨時休業だったそうだ。
今日はオバンはスカイツリー見物だよと棟梁。最近オバアは明治座観劇やらスカイツリーやらでプレイガールならぬプレイバアバだなと笑う。
15時半風々ラーメンを去る。少し休もうと世田谷村に寄る。17時20分世田谷村を出て神田へ向う。
18時半前神田岩戸。仏教伝道協会水村氏、真栄寺馬場昭道来て会食。
ベトナム・ダナン日越文化交流センター日本寺開山鐘楼建設募金について話し合う。諸々の話しをする。岩戸はにぎわっている。
21時半了。神田で皆と22時別れ、23時世田谷村帰着。
翌、5月25日4時半離床。今日から2日難波和彦さんと沖縄行である。
又、研究室他の面々は馬事公苑で世田谷ガーデニングフェアーに参加する。
皆さん是非寄ってみて下さい。
5時過世田谷村発。
- 1167世田谷村日記 ある種族へ
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9時薬局で処方の薬をもらい、10時過研究室。すぐに打ち合わせ。
10時40分院レクチャー。転型期の建築、重源様式について。12時過了。
すぐに作業、気仙沼・唐桑の復幸祈念タオル中元セットのちらしを2時半迄に烏山の風風ラーメンに届け、地元廻りをいささかの後、6時半迄に神田「岩戸」で仏教伝道協会、そして真栄寺・馬場昭道さんに会わなくてはならない。
- 1166世田谷村日記 ある種族へ
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11時西武新宿線花小金井、吉元医院着。検診、異常は無いが一部内臓が弱っていると言われた。やはり酒は止めた方が良いか。焼鳥にウーロン茶も仕方ないか。
13時半東横線学芸大学で佐藤研吾と待ち合わせ。15分程歩いてA邸見学。静かな高級住宅街である。見てすぐに、こんな風にしてみたらどうかの案は浮かんだ。学芸大学駅近くの、コーヒー屋平均律とやらで打ち合わせ。バロック音楽と何やらが売りの小店であった。A邸計画の打ち合わせ。まだクライアントの話しも聞いていないけれど、一応の腹案は作った。渋谷で佐藤くんと別れ、烏山へ。長崎屋で90才の横山弥太郎さんに会い話す。かくしゃくとした老紳士である。ベトナムに縁があるとの事でダナンの鐘楼の寄進お願いの新ヴァージョンの冊子をお渡しする。
19時世田谷村に戻る。
夕食をいただき、すぐ横になる。明けてと言っても5月24 日早朝2時半フッと思い立って起きる。「気仙沼・唐桑復幸祈念タオル、3点お中元セット」のための口上4枚を書いた。4時半までかかった。昨日は気仙沼市役所の産業再生戦略課長・加藤さん、教育長・白幡さんより連絡いただき、浦島小学校の件、前へ進められそうで、良かった。色々と頑張らなくてはならぬ。
再び眠り、7時過再離床。メモを記す。9時前には世田谷村を発ち薬局へ寄り、薬を処方してもらわねばならない。明日は早朝の便で沖縄へ飛ぶ予定だ。
留守になる5月25日・土曜日、26日・日曜日には研究室の面々、他が馬事公苑前けやき広場、「せたがやガーデニングフェア2013」の世田谷通りブースに出展し、東日本大震災被災地支援も兼ねた催しを行う。又、27日月曜日の午前10時〜午後8時には烏山区民センター内、および広場で「絆フェスティバル2013」にも参加する。これには出席できるので、そうかもう今日しか無いけれど烏山の人々に声を掛けねばならないな。風風ラーメンのオカミにはお中元タオルセットの件も依頼したい。
今朝の院レクチャーの後、打ち合わせを終えたら烏山の面々にお知らせで歩く時間があるかな。唐桑のタオルは汗をかかねば売れまいから、いよいよ行商人だなあ。
伊豆西海岸・松崎町の森秀己さんから何か調べモノの依頼もあったそうだ。対応しなくては。岩地のカラーコントロール計画も、もう27年も昔になったか。
森秀己さんに電話したら、懐かしい声で温泉に入りに来てくれと言われた。松崎町の連中の顔を見たら、と思うと余程疲れ切った時でなければ松崎町には行けぬだろうと思ったり。あそこの光はわたくしには特別なモノがある。西の光の典型なのだ。西へのシルクロードの光よりも、もっと奥深いモノがあるのだ。伊豆西海岸松崎町はわたくしの故郷である。故郷は遠くにありて想うものと詩人はうたったけれど、本当にそうだ。
- 1165世田谷村日記 ある種族へ
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Xゼミナールに作家論・磯崎新を合体させたものⅡ章5阿弥陀堂を巡ってを送信。夕方知り合いのAさんより世田谷に住宅建設の相談あり。
明けて5月23日に6時半前離床。新聞を読み、サイトに目を通す。昨日宗柳で石森さんと会ったら、知らない人から声を掛けられたと言っていた。どうやら、このサイトをのぞいている人らしく30分程も立ち話しをしたそうだ。「センセイのこと良く知ってましたよ、東北の方へ行ってたんですってね」石森のダンナはコンピューターやらないから、サイトもグーグルも無関係な住人である。
おそらくはその人物は石森のダンナも知らぬ、石森のダンナ世界を知らされて、つまり「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」の事なんかも知らされたのではあるまいか。
キョトンとしていたであろう石森のダンナが目の前に現実に居て面白かった。コンピューターの言ってみればシグナルで流れているもう一つの現実と、猫とモヘンジョダロで遊びほうける現実と、三人のお母さんを持つ現実と、この人物は三つの現実の狭間に生きる事になるだろう。
どうやら宗柳のまん前の石森邸の地価は高騰しているようである。都市計画道路がギリギリ引掛るか、どうかで、いずれにせよ騒ぎに巻き込まれるのであろう。石森邸の北の塀はモヘンジョダロの遺跡である。ビワの樹の王もすぐ近くだ。このモヘンジョダロのユートピアは間もなく都市計画と種々利権・思惑がうず巻く、デストピアになるのは眼に見えている。
世田谷村の郵便ポストにも毎日のように〇〇不動産やらの土地売れ、のチラシが放り込まれている。
10時前花小金井吉元医院へ定期検診に発つ。
- 1164世田谷村日記 ある種族へ
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10時40分学部レクチャー、12時了。その後打合わせ。14時半迄。
昨日加古川の鶴林寺で本堂、太子堂の内に入り、そして外に出た時にフッと何かを感じたのをしきりに思い出している。平安時代の古い木造建築の内は闇であった。闇に目が慣れてくると内の有様がようやく視えてくる。彩色がはげて黒ずんだ木の肌や、天井の組物が視えてくる。外に出ると初夏の陽光がまぶしかった。暗闇と明るい陽光の往復を繰り返した。そのたんびに何処か深い処へ遡行するような幻想のような、勿論思い過ごしなのだろうが、それにゆっくり落ちて行くのを感じた。インドのラージギルで小洞穴の中へ入った時の感慨と同様であった。ラージギルの小洞窟は岩をくり抜いた、これも人工のモノであった。しかし柔らかかった。外の光は激烈であったが、石の洞窟の中は柔らかい淡い光に満ちていた。あそこにも岩をノミでくりぬいた浅彫りの彫刻装飾が施されていた。岩の地肌の色は淡麗な紅色であった。洞穴の中は淡い紅色の光で満ちていた。
鶴林寺に遠からずの小野の浄土寺浄土堂は重源の残した傑作である。あの堂内も紅色の光が満ちていた。
たしかに、阿弥陀堂は、あるいはそれに類する建築は九間四面、いわゆる九間作りの構造を持っている。木造の構造としてはこの規模のシェルターを作るのに合理的な平面形を持つ。重源のみならず、彼の許に集められた大工、棟梁達もその平面形に充分納得して、作善に従ったのであろう。技術者達の総意がこの九間作りを阿弥陀堂の原型として流布させることにもなった。
しかし木肌に朱を塗り込めるのは防腐剤としての朱色の丹を塗る技術的、唯物的な配慮からばかりではあるまい。
人々は朱の光と闇に満ちた空間を強く望んだのに違いあるまい。
恐らく西方浄土の西の光、つまりは落日の荘厳の光を堂内に顕現したいと望んだのだ。
その望み、あるいはより強い希求の大成として阿弥陀堂は出現した。
この辺りの根深い思い付きは少し整理してXゼミナールの鈴木博之の九間論に対して附け加えてみたい。
明けて5月22日、朝6時離床。メモを記し、すぐにXゼミナールの投稿文を書き進める。
- 1163世田谷村日記 ある種族へ
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9時15分前東京駅着。9時発のぞみ215号に乗る。やがて鈴木博之さん来る。
新大阪を経て、山陽本線加古川迄話し続ける。二人の旅は時のたつのが早い。
良い天気になりビニール傘は新大阪で捨てた。加古川で地元の古田建築設計事務所の古田充、大久保武志両氏に迎えていただく。車で鶴林寺へ。
幹栄盛住職共々新築なった宝物館を案内していただく。その後、国宝太子堂、国宝本堂を見学。これは新宝物館を見るのに本殿、太子堂そして宝物館の順序で見れば良かったなあと少しばかり悔やんだ。宝物館の内部が、境内の由緒ある建造物の写しとしても設計されているのが解るからだ。やはり歴史ある寺院の由縁、縁起の重みは計り知れぬものがあるな。この本殿は大仏様(天竺様)が入っているとの事。海老虹梁のねじれ方が異様だ。禅宗との折衷様式の典型らしい。重源と栄西が混在しているというわけか。住職はここには重源が縁を持った記録は残らぬとの事であった。鈴木さんに聞けばこの本堂では、鈴木さんの先輩の東大建築学科の院生が皆を集めて合宿して調査、研究らしきをしたとの事。その男がわたくしの北海道の仕事のクライアントであったのに驚く。まことに妙な縁である。当時の学生は歴史の太田博太郎氏の影響著しく、多くの者が重源に関心を持ち、この鶴林寺はメッカの一つであったようだ。たしかに内陣の巨大な宮殿と呼ばれる厨子は見事なものである。太子堂は美しい建築で内部が素晴しい。九間平面の典型だよと鈴木博之。つい先だってXゼミナールに丹下健三の香川県庁も又、九間平面だとの自説を述べているので、阿弥陀堂と香川県庁の平面形式に原理的脈略を見ようとしているのだ。
太子堂は法華三昧堂であり、東大寺の法華堂同様に鎌倉時代に礼堂が増築された。ここにも平安時代と鎌倉時代の様式の混在が見られる。外部、内部共にとても美しい。
古い歴史を持つ建造物の内部には得も言えぬ香気が漂うな。
本堂内部の2本の柱は特別なヒバ材であると住職が教えて下さった。
縁の下をのぞかせていただくと東大寺法華堂と同じ亀腹状の土盛りがある。
ほの暗い御堂の内から外へ出ると、瀬戸内特有のカラリとした陽光と風が在り気持良い。
住職に御礼を述べ去る。加古川駅まで再び送っていただき、山陽本線快速に乗る。いささか疲れたナア、今日はこれ位にしておこうと、鈴木さんは京都へ、わたくしは新大阪からのぞみ34号で東京へ。18時半過東京着。研究室に少し計りの依頼の電話をして世田谷村に19時半過戻る。
翌5月21日6時離床。新聞を読み烏山神社へ散歩。いきもの稲荷に参拝後、本社にも拍手を打つ。別に祈る事は何も無い。今迄お願いし過ぎてあんまり役に立たなかったので今度は何もお願いしない事にした。雨上がりで空は薄暗いが、それはそれ、空気はたっぷり水気を含んで樹々花々は精気に満ちている。今日は午前中学部レクチャーの後打合わせを充分にしたい。しばらく東京を留守にしたので何かと話しがたまっている。
- 1162世田谷村日記 ある種族へ
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5時半離床。今日は日曜日か、5月もはや19日になった。昨夜は研究室から東北の東日本大震災慰霊メモリアル広場のデザイン(初期案)がおくられてきた。安藤さんと一関・気仙沼の旅で話し合った事をまとめさせた。言わば合作である。良く出来ていた。これに新国立競技場プロポーザルで得た桟敷のアイデアを混入させれば完璧であろう。桟敷は実ワ、瀬戸内の小豆島で見た農民歌舞伎の舞台とミカンの段々畑を利用した観客席からヒントを得た。大きな野外劇場にはピッタリなものであったが、再びトライしてみるか。
日記を振り返って読み直してみたり、ボンヤリとした時間を過す。
ギャーッと思い出し、今日は我孫子・真栄寺で何か約束していたのを思い出す。電話してみたら午後親鸞上人誕生会ですとの事。何か約束があったに違いないとあわてて10時15分世田谷村を発つ。
日暮里で山手線を乗り換え、常磐線天王台で下車、TAXIで真栄寺へ。12時過着。13時より、宮崎の社会福祉法人真光会、専務理事・佐々木鴻文氏の講演との事。そうだった佐々木氏は昭道さんの幼な友達で宮崎の大寺のオーナーであった、と想い出す。ベトナム・ダナンの日本寺の件で昭道さんがアレンジしてくれていた。
真栄寺庫裏で待つうちにやがて佐々木氏現われる。すぐに打ちとける事ができて、ベトナムの日本寺の事、寄進のお願いの書類などをお渡しする事ができた。又、IWA Tours、仏教巡礼の旅奉仕部・野中和仁氏とも再会する。仏教伝道協会事務局長水村氏にも書類をお渡しする。13時より佐々木氏講演、真栄寺壇家他で本堂は満員であった。親鸞上人の話しを聞く。
シリア戦争の死者が20000人、日本の自殺者が30000人、自殺予備軍が600万人の数字を言われた。東日本大震災の死者が20000人弱であるから、自殺者の数の多さは痛切である。宗教者としての自覚がしのばれる。「唯只」の話しが興味深かったが、これはまだ説明できない。只の気持が親鸞の教えに近いとの事だ。親鸞といえば悪人正機説に象徴されるけれど、マルクスの唯物論的ニュアンスに近いところ、そして老子の空に接近したところもあったのかと知らされる。
15時半了。すぐに御一緒して車で天王台へ、そして常磐線、山手線を乗り継いで浜松町で佐々木氏と別れる。氏は羽田より宮崎へ、わたくしは世田谷村へ。
17時半過宗柳で夕食。カレーうどんを食べた。
19時半世田谷村に戻る。メモを記し、小休する。
明日は9時の、のぞみで大阪、加古川へ鈴木博之さんと出掛ける予定だ。
明けて5月20日5時半離床。小雨模様で肌寒い。8時前に世田谷村を発ち東京駅に向わねばならぬ。今月から来月にかけていささかの建築物を見学に出掛けるのが楽しみである。特に若い世代の人達がそろそろ何か本格的なモノを作る算段を用意しないと、このままではどうしようもないだろう。
今週末には沖縄那覇そして八重山迄出掛けるが良い物に出会える事を期待したい。
- 1161世田谷村日記 ある種族へ
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ベイシーでボソボソ話していたら知り合いも現れて結局18時過迄居た。菅原正二さんとはこの小屋、つまりはベイシーの事だがこの先どうするのかね、なんて他人事のように話してはいたが、小屋は人が居なくなったら廃屋になるばかりだから彼のことだから大仰ではなく、静々といずれ停止するのであろう。考えて見ればベイシーも百姓さん達にとっての畑みたいなモノであるから耕す人が居なくなったら草ボーボーになるのも又よろしいのではあるまいか。しかし半世紀になんなんとするジャズスポットである。夏芙蓉の花のようにグラリと一夏を咲いてみせるのもありだろう。
18時40分の新幹線で東京へ。世田谷村には22時過戻った。翌5月187日、6時45分離床。烏山神社境内へ。いきもの稲荷社に奉納したブリキの絵馬は誰かが持っていってしまい、見当たらなかった。烏が持っていったのかな。
長澤社長に気仙沼に共同の0エネルギーハウス研究所を作りたい旨連絡する。27日に東京で会うことになった。眠くなりソファーでひと眠り、目覚めたら14時であった。
- 1160世田谷村日記 ある種族へ
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7時半ホテルレストランで朝食。客は皆工事関係者だ。津波からの復興は大変な量の金と工事関係者の流入を被災地にもたらせている。まだとても都市づくり、地域共同体へのヴィジョンの兆しも視えようがない。結局県庁、及び霞ヶ関の古くて固い頭の役人達の従来通りのくり返しになるのだろうと思う。とうの昔に官僚に良い人材が配されぬ人材構造になっているのだが、その形がそのまんま被災地復興に露出しているのだ。少し休んで気仙沼内湾を歩いて駅迄行ってみるとしよう。昨日よりは体調は良い。
只今、JR気仙沼駅の待ち合い室。11時12分発一ノ関行きに1時間程時間があるのでベンチに座ってボーッとしていたら気仙沼市産業部産業戦略課長の加藤正禎さんにあいさつされた。一景閣から恐らく3Km程を駅まで一人歩いてきたので何処かで姿を見た人が通報したのだろう。わざわざ恐れ入る。去年の安波山の植樹下見のときに山で御一緒した。昨日の浦島小学校校舎にソーラー・バッテリー研究所の設置を思い付く。
この課長さんに相談してみる事にしたい。
一景閣から気仙沼駅迄は遠かった。1時間半程歩いたか。復旧工事中の「海の道」跡、つまり魚市場、気仙沼商工会、見送り桟橋から安波山を眺めながら歩き、大島へのフェリー乗場で海とカモメを見ながら一休み。風に吹かれて気持良かったが実に足が弱っているのを再び実感する。しかし長く歩くと色んな事を考えるものである。
待合室で更に気仙沼地域開発株式会社の及川順一さん他に会う。数名の若いスタッフを連れて東京に営業だそうだ。車内で一ノ関迄話す。昨日の安波山植樹祭で出たメモリアル広場の件、是非やりたいとの事。明日東京で市長に会うので市長にもプッシュしたいとの事であった。
事と次第によればすぐに動かさねばなるまい。安藤効果は大きいのである。
13時間前一ノ関、やはり音のホールの件でもあるから早く段取りしようと、ベイシーに電話する。珍しく店に居たので、ベイシーへ。これから気仙沼、あるいは一関(岩手)の音の広場の件を菅原さんと相談する。安藤さんもベイシーが事務局になるのが良いのではないかと言っていた。
何のことかは読者にはチンプンカンプンかも知れぬが、マ、被災地に良い事を起こすことができるやも知れぬ。13時半相談に入る。研究室にFAX送信する。
- 1159世田谷村日記 ある種族へ
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7時半レストランで安藤さんと朝食。すでに彼は一関の早朝散歩を済ませていた。
毎日一万歩以上歩くのノルマを自分に課しているとの事。
5月16日8時気仙沼商工会議所会頭・臼井賢志さんホテル来。
車で気仙沼市へ走る。道中予定通りに話しを交わす。安藤さんの考えも、ほぼわたくしの考えに同様であった。彼の話しはリアルで全く気取ったところも専門用語も使わないのでとてもわかりやすい。臼井さんも何度目かの安藤さんとの会話であったが、流石に要領良く自分の立場と、こんな事を皆に言ってもらえたらの依頼をしている。道中でほぼ頭に入り切ったであろう。
9時半前気仙沼市に入り、内湾を一周する。安藤さんは被災直後にヘリコプターで空路気仙沼には入っているが、陸路は初めてである。ポイントを押さえて見て廻る。ようやく沈下した地盤のかさ上げが一部実現しているが、前途遼遠である。安波山に登る。楽しみにしていたが赤いさるすべりの花はまだ花をつけていない。竜の階段の前にテントが二張り用意され、すでに報道陣が集まり始めていた。10時過登山道を登り植樹セレモニーの現場へ。TVカメラ、他の砲列が待ちかまえている。安藤さんの登り坂のスピードは速い。わたくしはヨロヨロと遅れる。こりゃあ俺もキチンと一万歩とは言わず5000歩くらい毎朝歩くかとタメ息をつく。荒い息もつく。両名の名が記された立派な標柱が立てられ、照れくさい。市長、臼井さん、安藤、石山、畠山で手袋にスコップで美しいしだれ桜が植えられたところに土を入れる。昨年の植樹祭でお目にかかった御婦人方に再会した。
大きな斜面に円形に植えられたさるすべりは一本も立ち枯れはない。
今年の夏、8月の港祭りの頃には花をつけるだろうと言われる。気仙沼湾内から見上げる円形の日の出凧の花はさぞかし人々の眼を楽しませるだろう。年々その花の輪は大きく育つ。多くの津波で亡くなった人々の魂もなぐさめられるにちがいない。
やがて竜の階段にて安藤さんの講話。彼もそんな話しをした。皆で亡き人のための植樹するのが気仙沼コミュニティの再生であると述べた。この人が話すと絵になるなあ。沢山集まってくれた人々もうなずいていた。安藤人気の大きさの核を見たような気がする。わたくしには出来ない。彼ほど率直になれないから。並の建築家じゃあないのは良く知るのだが、それを間近に視た。
いきなり雨が降ってきて、皆テントの中に入り込む。
いくつかの対話があり、やがて終了。用意された弁当をいただく。
12時半過安藤さん気仙沼安波山を去る。プロのドライバーが仙台空港発伊丹行き便に間に合うように走るそうだ。
弁当を食べながら菅原市長に巨大堤防の是非を安藤さん説く。これは大変な環境と共同体の生活を破壊しかねない事だが歯車は廻り始めているようだ。
畠山章八郎・気仙沼市緑化推進協議会副会長の車で、皆と別れ唐桑へ行く。
唐桑の役所(市の支所)では唐桑区域自治区長の千葉正光さん、総合支所次長梶原明徳さん、産業課長鈴木誠さんにお目にかかる。千葉さんは1988年からの唐桑臨海劇場を共にした方である。旧い仲間の鈴木茂さんも来て下さった。
「お互いめっきり老けましたね」と笑う。皆さんと幾つかの場所を巡る。小鯖の金比羅神社にも亀谷さんも訪問した。やっぱり小鯖は懐かしく胸がふるえるようだ。伊豆松崎町岩科の「岩科起て」とここの小鯖はわたくしの共同体への体験の原点である。
気仙沼に戻り、閉校された浦島小学校へ。大きな2階建の校舎が残っている。初めて来る場所であった。
気仙沼内湾の対岸、津波でゴッソリ流された廃墟の中にポツリと残されたホテル一景閣まで送っていただいた。畠山章八郎さんにはほぼ半日付合わせてしまった。随分寒い午後になって体力がいささか消耗したか、ホテルのベッドで16時過横になるも、眠れず。外の津波が破壊した廃墟が恐い。
まんじりともせず、おき出してメモを記し、23時15分再び横になる。
明けて5月17日、5時半離床。少し眠れた。外は薄い霧である。津波の跡が生々しい。散歩に出る。一景島神社の真新しい社と赤い鳥居を見る。往年この神社の石の奇景は気仙沼内湾の岩礁であったとの事。又現一景閣ホテルのある場所は塩田であったらしい。一番古い塩田であった。境内には雷神、大神様等の石碑が林立している。雷神にはしめ縄が巻かれていた。海が近いので行く。内湾に面して船がポツンと一艘。でも親子なのだろう作業していた船が気仙沼には戻ってきたようで生き返りつつある。6時半過ホテルに戻る。7時朝食をとり、研究室にFAXを送付する。
- 1158世田谷村日記 ある種族へ
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5月15日15時40分東京発やまびこで一関へ。車内ではひたすらボーッとしていた。北へ走っているわけだが、南へ、あるいは西への旅とは何かが深くちがうな。豊かな緑におおわれた山並み、小盆地の連続の中を移動している。
あまりにもな風景の微差の中にいるのが良くわかる。インドにはこのような差異の連続はなかった。生まれて初めて、今は気仙沼市に併合された唐桑の小鯖湾を訪れた時、その小さな湾の海も陽光も沿岸漁業の船の姿も、漁師たちの姿も平和で実に美しかった。タメ息が出る程に。その感動がわたくしに1988年から6年間唐桑臨海劇場の祭りづくりに参加させ続けたのだと今は知る。空も山も陽光もあまりに淡麗である。この自然の中に包み込まれるようにして生きてきた人々の生活には、今の東京の荒々しい消費生活に心身をすりつぶしている感性で、集落や町の再生を考察することに根本的な不可能が在るのではないか。その辺りを今夜は安藤忠雄さんと少し計り話し合ってみたい。
18時過一関着。歩いて蔵ホテルにチェックイン。しばし休む。19時47分のはやてで安藤忠雄さん到着。駅で迎える。ホテル内のレストランで夕食を共に。東北地方の被災地の状況など話し合う。やがてベイシーの菅原正二さん現われ彼の車でベイシーへ。安藤さん菅原さん初対面ではあるがすぐに打ち解けて話が弾む。昔大阪にもバンビ他のジャズ喫茶が多かったそうだ。若い安藤さんジャズ喫茶に入りびたっていたのかな。あのスピーカーも迫力あったけどなあ。こんなにデカクてなあと言ったら、菅原うちのは43年経つけど、それとは比べものになりません、格がちがいますぜと言いたげであった。ベイシーに来ていた二川幸夫のコトに始まり、話は尽きず広がった。
不思議な事に安藤さんとは日本の現状認識はいつもほぼ一致する。文部省の管轄ではない学校を気仙沼に作ったらエエの発言も生まれた。明日の安波山植樹祭ではそんな話にまとめてみようかとも考えた。1980年代気仙沼には高橋純夫さんという方がおられて、日の出凧を作り朝市で売って、又凧あげに興じておられた。環境保護の論者でもあり、新月ダム反対の論陣を張ってもいた。現商工会議所会頭・臼井賢志さんとは良い友人でもあった。わたくしにも良い友であった。海猫塾を長屋に開催し、地元の子供の図書館、遊び場として開放していた。ああいうのが安波山にあったら良いなあと思った。木造がエエデと安藤さん。できれば古民家の移築も良い。被災地の子供達の東北での合宿所、図書館みたいなのも良い。ボランティアの組織化を安藤さんは考えているようだ。
案の定二人は気脈を通じた様であり、延々と話しは続いた。二川幸夫さんもアッという間に気に入ってくれたし、鈴木博之も鈴木さんなりにシャイに気に入ってくれた処である。良かった。「又、来るわ」とベイシーを去る。23時過だった。ホテル迄菅原さんに送っていただき、じゃあと別れた。今日はベイシーは定休日であったが石巻の用から急ぎどしゃ降りの雨の中を戻ってくれて、さぞかし疲れたであろう。「おもろいオッサンやなあ」と安藤さん印象をポツリ。24時横になるも眠れず。
ウツラウツラして翌5月16日、5時半に起きてこのメモを記している。曇りだが薄日が射している。
今日は気仙沼の臼井会頭が8時にホテルに車で迎えにきて、10時頃に気仙沼安波山の会場へ行く予定である。昨年植えたさるすべりの樹が赤い花を少しはつけていてくれるか楽しみにしているがまだまだ時がかかるのだろう。気仙沼迄の1時間半ばかりの道中、臼井さんと安藤さんの話のすり合わせをしなくてはならない。
今日の気仙沼迄のこの一時間半の打合わせは重要であろう。
1、安波山の森の計画を鎮魂の広場へとつなげる。
2、安波山の森の計画の中に子供の自然学習合宿所をつくる。
3、落合直文記念館の一部に子供の自然塾をつくる。
4、五十鈴神社内にちいさな学舎をつくる。
等が考えられようが、臼井さんも気仙沼市の現状を知り抜いているので、全く別の話が出るやも知れぬ。
ニュートラルに、でも一時間半でまとめなくては。
- 1157世田谷村日記 ある種族へ
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10時半研究室。10時40分学部レクチャー。1957年吉阪隆正ヴィラ・クゥクゥ及びル・コルビュジエの3人の日本人の弟子。前川國男、坂倉準三、吉阪隆正について。12時了。打合わせ、伊藤アパート、ダナン、世田谷他について。烏山神社志村稲荷の烏絵馬の試作品ができていて面白く見る。
14時半了。15時半烏山。16時半長崎屋にて志村棟梁と会い、烏山志村稲荷への絵馬奉納の許可を得る。
早速四名の方々に烏絵馬にそれぞれの願い事を書いていただけた。
奉納の文字は棟梁にお願いした。
18時世田谷村に戻る。一関ベイシーの菅原さんと磯崎新さんに電話する。明日は一関泊りなので都合を聞いた。ベイシーは水曜日は定休日なのだ。石巻で用事があるのだが夕方遅く一関に戻るとの事。
明けて5月15日8時過離床。目覚めが遅くなった。すぐに隣の烏山神社へ。
昨日、今日は9時半から神事があると聞いていたので、その前に昨日の烏絵馬の奉納と写真撮影をすませなければならない。
早速志村稲荷、正一位いきもの稲荷へ絵馬を奉納する。ブリキの絵馬は研究室で見た時はどうかな?と思ったが、神社の森の樹陰で、しかも稲荷神社に奉納してみるとキラリと光って仲々良いではないか。
これで我ながら不思議な連載である「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」は俄然リアルな現実とパイプを持つ事になった。
目出たし、目出たし。この先の展開を楽しみになされたし。
烏山神社境内には神事の準備もあるのだろう、人影が多く、知り合いもいて「何処の信心深い人かと思いきや」とからかわれたり。早速数人の方が烏絵馬に手を合わせて、柏手を打って下さった。
二川由夫、二川満怡子さんより二川幸夫永眠の諸事万端を無事済ませたとのお知らせが届いた。今日は一関で安藤忠雄、菅原正二と三人で会えるかも知れぬので思い出話しのいささかが出るやも知れない。
- 1156世田谷村日記 ある種族へ
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インドのRajeev Lochan氏、A.R.Ramanathan氏よりメールいただく。
何とかナーランダ大学国際コンペ一等案へのコメントを書き終える。
18時半新大久保近江家で鈴木博之、難波和彦両氏と会食。Xゼミナール。近江家の諸々はやはりうまかったが、やはりカレーうどんは遠慮した。日本のカレーとは言えである。カレー復帰はいつの事になるか?皆さんお元気であった。
明けて5月14日6時半離床しながらも又横になる。『磯崎新建築論集3』を読む。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に関して書かれたものだが、以前読んだ印象と微妙に違うのに気付いた。磯崎さんが手を少し計り入れたか、わたくしが変化したか、いずれかであろう。ここに書かれているカフカの『城』の虚体について。現代の近代化達成国(領域)に於ける一律な記号の統制と、闇=空間の対極的思考は今読んでも新鮮である。とても半世紀前に書かれたものとは思えない。
昨日書いたナーランダ大学コンペ一等案に関するコメントの英訳が送られてきた。いささか難しい英文になってはいるが、アメリカへ送るのではないから良いのではないか。
今日インドへ送れるだろう。今朝の学部レクチャーのデータに目を通す。
9時半世田谷村発研究室へ。
- 1155世田谷村日記 ある種族へ
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今日は日曜日か。遂に昨日はそれこそ世田谷村を一歩も外に出ずに沈澱して過した。読んだ本と言えば息子が置き散らかして去った、『決定版!プロ野球スキャンダル事件史』宝島社、を読んだ。もう二冊プロ野球関係の本があったが、それは余りにもバカバカしくって止めた。もう一冊、世田谷美術館のカタログ『ルソーの見た夢、ルソーに見る夢』も読んだ。
5月12日つまり今日だが、5時45分に起きた。すぐに「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」3章烏6を書き始め、先程7時45分に書き終えたところだ。
11時半洗足へ発つ。天候は穏やかで暖い。
13時前東急線洗足駅で渡邊くんと落ち合い伊藤邸へ。14時サンユー建設社長他3名来訪。伊藤アパート建設についての最終打合わせ。15時半了。16時前伊藤邸を辞す。建設予定地を見ながら帰る。良い建築が建つのを期待したい。
伊藤邸の門の脇の花の香りが知らず入り込む。インドにはなかったなこの感じは。まだインド疲れが抜けてくれない。
帰りの新宿からの京王線で素晴しい家族にあった。恐らく失礼な言い方になろうけれど何処か田舎から何かの用で出てきた一家である。
わたくしが優先席に座ろうとしたら、その一人分の席に隣りのお婆の小さな荷物の一部がほんの少しはみ出していた。向いに座っていた4名のお婆の家族が皆で大声で
「婆ちゃん、ホレそこ明けれや、ジャマだろ」
と叫んだ。皆さん手に一杯の荷物を抱え込んでいる。
それから隣りのお婆と向いの家族のやり取りが始まった。
「その荷物の中の白い袋取ってくれや」
「どうした、どうするんだ」
「インヤ、今のうちにおみやげ分けておこうと思ってさ」
「アトにしろや」
「間違って送ったら悪いやろうが」
「間違って送ったら、電話であやまればイイダロ」
「イヤ、今やる」
そこでお婆と向いの席のかなり太った恐らく息子さんなんだろう、大声でのやりあいが始まった。
「アトにしろや」
「いいだろ、今やりたいんだから」
「いつも、わたしが悪いんだろう。フーン」
「キーン」
と言った見合である。
その真向いの家族の他の二人の女性達はとなりの車輌の赤ん坊を二人がかりで手を振ったり、ヒョットコ顔をしたりであやしている。隣の車輌だからガラス二枚越しである。もう一人の男性は、大きな太った息子をひっそりとなだめている。
ただ、それだけのことなんだけれど全く別人種であった。日曜日とは言え東京の電車で会える人々とは。
皆、烏山でゾロゾロ降りた。
長崎屋にでも行くんだろうかと期待したが、どうやら違った。
5月13日、9時半迄眠ってしまう。眠っても眠ってもまだ眠れるのである。
昨夜は『磯崎新建築論集3』を読んだが、随分新しく書き下ろしがあって、磯崎さんの意気込みが伝わってきた。大きな思想の伽藍になっているのは間違いないだろう。
今日はナーランダ大学へコンペ一等案へのコメントを書き送ってから出掛けよう。
- 1154世田谷村日記 ある種族へ
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10時過研究室。インドから持ち帰ったデータを見る。国際コンペで一等を獲得したドーシ事務所の案を再び丹念に見る。10時40分大学院レクチャー。そのナーランダ大学ドーシ案に関するレクチャーとする。来週はゴーパ・サバロワールさん他に、この一等案に関するコメントを送らねばならぬので、その為の予習を兼ねた。
12時半了。流石に長いレクチャーとなった。途中で水を持ってきてもらった。日本の気温との身体適応がうまくいってない。
インド、ベトナムに関する打合わせに入る。インドで少なからぬ人々がわたくしのサイトをのぞいているのを知り、ウェブサイトも十二分に用心しなくてはならない。キルティプールの動画なども熟視されており、インド特有な感性が働いているのも知った。
15時前久し振りに新大久保近江家で遅い遅い昼食とビール。焼鳥がうまかった。新大久保の韓流通りの騒ぎは少し静まったような気もする。これからどう根付いてゆくのかな。夕方烏山に戻り、横山さん達と雑談する。
夜、佐藤研吾と5月16日の気仙沼行、安波山植樹の相談。
明けて5月11日、10時過起床。メモを記す。Xゼミナール89信 鈴木博之 東京新聞夕刊1面コラム、紙つぶて「ネコのインテリア」への紙つぶてを書く。
12時書き終えて投稿する。
インドの旅で書いた「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」Ⅲ烏5も投稿する。
- 1153世田谷村日記 ある種族へ
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5月10日8時過離床。昨日5月9日は10時半にサンユー建設社長他3名来室。伊藤アパート計画がまとまりそうである。12時前了。14時半迄ナーランダの件、ヴェトナム・ダナン計画の件打合わせ。今朝ブラジル稲盛塾の谷さんに連絡する。昨日、馬場昭道さんより連絡があり、その指示に従った。ブラジルとは12時間の時差がある。
9時過発、大学院レクチャーの下調べを少し計り。
- 1152世田谷村日記 ある種族へ
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10時半ホテルの室でゆっくりしている。たっぷりとした朝食を取った。 11時前TEAMのA.R.Ramanathan氏ロビーに来る。ナーランダ大学長Amartya Sen氏にあいさつ、昨日のコンペティションが良い結果に終った事のお祝いを申し上げた。
11時過National Gallery of Modern Art ディレクターProf. Rajeev Lochan氏にお目にかかる。昨日のコンペ審査会場はその特設会場であったのだが、そこですでにお目にかかっていた。梅原猛氏が学長であった頃の京都市立芸術大学出身であり、大阪の具体派の連中とも附合いがあったようだ。面白い人で意気投合する。仕事場(アトリエ)を見せていただいた。
その後National Gallery of Modern Artを見学。古代の細密画が素晴しく、現代アートも質が高い。ギャラリーショップでいささかの買物をする。長崎屋の連中には食い物の方が良いかとも思ったがモダーンアートも良かろうと考えた。
インターナショナルハウスで昼食。ハーブティが美味である。室外の噴水と緑が心地良い。
サンパウロ大学を思い出した。あそこもデッカイ、広々とした場所であり、竹はあくまでもブットク、緑の生命力も旺盛であった。食後、依頼してチャールズ・コレアの建築を2件見た。小さな建築は良かったが、大きいのは良くない。
Taj Mahal HOTELに16時前戻る。今日、相談して得た情報をまとめていくつかの小プロジェクトの構想を作る。ベトナム以降の計画になろうが、恐らくは時期的にダブルであろう。プノンペン→ダナン→ナーランダ→キルティプールの、海のシルクロードでも陸のシルクロードでもない、渡り鳥計画みたいなものかな。長生きしなくてはならない。
18時前HOTELを発つ。只今20時半AI306便のシートに納まってメモを記している。NRTまで帰り便は8時間程のフライトか?
先程空港でボーッとしていたら突然過激なアイディアが浮かんでしまい我ながら緊張してしまった。
5月8日、日本時間6時45分、あと1時間少々の飛行である。かなり良く眠れた。
機体は当初新しいボーイング787の予定であったが、良く知られるようにバッテリーに不備があり飛行禁止となった。
エアインディアも大騒ぎしただろう。予想するに古い777-200を引っ張り出して飛ばしたのであろう。これは又古びた機体で、画面表示は恐ろしく旧式で地形その他のヴィジュアルが1970年代の感じであったし、機内ランプは点灯しない。トイレは洗面台の小さな穴から風が吹き出すといった具合で、まるで老骨にムチを打って飛んでいるようであった。途中、機体がバシリと鋭い音を立てたのでこれは空中分解するかとも思ったが、空中分解はなく飛び続けた。バッテリーから火を吹く新型787も恐いが、この古いピンチヒッターであろう777も仲々のモノである。
ナーランダ大学の国際コンペで少なからぬジュリーを前に古代アジアの尊厳を説き、ポストモダンではないからしきの評があったのを、いいや違うポストモダンの中途半端な歴史主義ではなく、イコノロジーつまり神話の古層に近い思想と同時に飛び切り新しいデザインが共存しているのが、実に未来を暗示しているのだと言明した。
アーメダバードのドーシ事務所は良く力を尽したと思う。
出来ればドーシの代表作になるばかりではなく、インドの現代建築あるいはアジア現代建築に大きな影響を与えるであろうと確信するが、がしかし飛行機は新しい方が良い。ノーマン・フォスターの建築モデルはボーイング747のようだが、建築は空を飛ばないから、大地との関係に於いてインドの老大家ドーシが示した案は画期的なものである。帰りの飛行機がそれこそ古い古い機体であるくらいはガマンしなくてはならない。
只今15時半前、世田谷村に戻り小休している。
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只今、5月7日早朝3時半。流石に疲れて昨夜は夕食をパスした。ジュリーの責任を果たしてホッとしたのと、正直なところ連日のハードワーク、ハードコミュニケーションに随分なエネルギーを使い切った。一等案について述べる前に、再び少し時間を戻したい。
日記1149に記したナーランダ遺跡でのスケッチに没頭した後Hokkeホテルに戻り、ランチ、小休の後に再びナーランダに戻り、近くの玄奘三蔵の記念寺を見学した。
わたくしのJourney to the West Project にとってとても重要な、これも旅であった。西遊記の主人公僧玄奘の像が記念寺の前に立っている。大きなバックパックを背負ってそのバックパックのTOPははるかに玄奘の頭を超えて大きな傘がおおいかぶさり、さらにその小さなシェルター状の傘から小さなベル状のモノがぶら下がっている。玄奘が西安に持ち帰った経典の恐らくは膨大さから、とても一人で持ち運べる量ではなく、馬かラクダか多くの人間を供につれていたにちがいないが、これは一人で持ち帰った姿をモニュメンタルにアイコン化したものであり実に面白い。寺院内の金刻(メタルに彫り込んだと思われる)の巨大パネルの連続と共に良かった。連続パネルには生誕から西安出発、タクラマカン砂漠を越えてチベット周辺での危難の至極、ナーランダ到着そして再び西安に戻り、教典の散華祝福という一大ドラマが丹念に絵として想像復原されていた。中国にとってもインド(ナーランダ)は異境であったようなのが良く解ったような連続絵である。チベットや北部インドの石塔やら、街道沿いに人骨が散乱していたりの光景が描かれている。寺院裏には異形の小モニュメントが群立している。砲弾かロケットを想わせる弾頭状の金属製オブジェ(2メーター程の高さ)が林立して異様な風景である。さらに表面に小さな方形状のパネルが貼りつけられている。それには中国文字らしきが彫り込まれている。恐らくこの寺院建立の寄進者の名を記したものなのだろうか。写真をとった。時間がなくて急ぎ足に駆けた感じあり。
さて、時間を5月7日の朝4時半に戻そう。さらに日記を戻して5月6日8時45分TAJI HOTELで朝食。10時発ちニューデリー大学へ。再びコンペの審査に入る。議論を重ねるうちにいささか収拾がつかなくなり、1ヶ月、2ヶ月後の作品再提出説まで飛び出す。
わたくしは一等案に確信を持っていたので困ったことになったなと思ったり。
二等案、三等案候補には興味が無かったが失言しないように心がける。先ず三等案らしきを議論の対象から外そうとなった。どうやら、これが一等だと押し切るのにも複雑な何かが働いたと感じ、結局、2案は投票となった。ヒヤリとしたが投票の結果、目星をつけていた一等案がギリギリにすべり込んだ。ホッとする。大きなコンペはこんなモノである。
フィニッシュとなりランチへTAJ HOTELに13時半。再びニューデリー大学へ戻り、審査講評を共同作成する。あたりさわりの無い講評が作成がされたが一等案は一等案として明記された。これで良し。
ジュリー全員がサインして記念撮影となる前に応募者の名前が厳重に封をされた封筒がカットされた。一等はあのドーシ事務所であった。古代インドの神話的コスモロジーをモダーンデザインに融合させようと格闘してきたインドを代表すべき建築家である。
これが実現されるとドーシの代表作になる事は疑いようがない。モダニズムデザインの凡百に、これに勝るものはなかった。終わり良ければ全て良しであった。インドの人々をはじめとする関係者も納得なさるのではないか。
18時TAJ HOTELに戻る。空腹ではあったが夕食はパスした。定例となっていた関係者ディナーも今日は全員が疲れていたようで流会になった。少しホッとした。
時間が錯綜としてきたが5月7日の只今8時過である。良く眠った、明方の眠りが深い。バスとシャワーを使い、さっぱりする。今日の予定は朝の雑談の他は何もない。夜21時10分のAI306便に乗れば明日朝9時前にはNRTである。長いようで短い7日間であった。
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少し時間を戻す。ラージギルの仏跡を見て廻った時に、古代インドの洞窟遺跡を見た。小さなモノであったが、実に印象深かった。固い岩をのみで掘った神話的装飾が薄く彫られている。
奥行5M、幅8M程、天井高は3.5M位。外側入口脇のレリーフが素晴しくてスケッチした。
又、近くに轍の跡の如くの遺跡もあり長い岩の地面を大きな輪が動いて削った如くのシュプールが残っていた。人工のモノとも思えず不思議なモノであった。
パトナ迄はパトカーが先導して走り続けた。サイレンを鳴らし続けて、ナショナルプロジェクトなのを知る。我々のガードに幾たりかのポリス、兵士も動員されていたようだ。20時40分デリーへ発つ。デリー着22時半。
TAJ HOTELの車でホテル着23時過、24時横になる。
明けて5月5日、日曜日。8時半朝食をナイロビから来たジュリー、Prof. N.H.Chhayaと共にする。穏やかな人物である。
朝食はカレーを避けてヨーロッパスタイルのビュッフェ。9時半TAJ HOTEL発、すぐにデリー大学に着く。わたくしの通訳をしてくれるRAJIV RANJAN氏と会う。DEPARTMENT OF EAST ASIAN STUDIESに属する。日本の京都大学に留学した。専門は日本近世から近代への変遷である。平安から鎌倉期も面白いですよと言ったら、それも興味は持っているとの事。
10時半ジュリー・ミーティング開始。一般論から入る。それぞれのジュリーの考え方の一端をのぞき見た。ジュリーには有力な国会議員、そしてノーベル経済学賞受賞者のProf. Amartya Sen氏等がいる。
9案のブースが個別に用意されており、先ずはジュリー各人がそれぞれの判断をするために見て廻る。
わたくしは、何より一等案をセレクトするのが先決だと考えて、それを探した。
9案は全てエネルギーもかけられ、水準も高い。0エネルギー負荷、ゴミを出さない、環境保護の優先と、以前福島県猪苗代湖畔鬼沼の仕事で考えていたようなテーマがコンペ主催者のナーランダ大学より与条件として与えられている。
一等案候補は比較的容易にセレクト出来た。群を抜いた総合性を備えた案である。
全9案に対するコメントを用意する。
13時中断してTAJ HOTELでランチ。15時本格的討論に入る。9つの大きなパネル展示、そして模型が並べられたブースを全員で見て廻り、個々のジュリーが意見を述べた。わたくしはズバリ一等案を推した。他のジュリーの意見から複雑な事になるかと思いもしたが、これは単刀直入に限ると腹を決めて一つを推し続けた。もって廻った言い方は一切しなかった。
長い議論の末、目星をつけた案が一等候補として認知され、対抗馬として二等候補も用意された。
ナーランダ大学長でもあるAmartya Sen氏の意見もあり、一夜明けて最終的な判断をしようとなった。
19時前了。TAJ HOTELに戻り、21時半ディナーとする。ビジネスラウンジでTOKYOへFAXを送信する。今日は少し飲みたいと考えていたら、誘われてBarへ。「お前の発言は良かったぞ」と大変高名なジュリーから言われ、少しホッとする。この方はイギリスの名誉国会議員を務めている人物でホテルのロビーで沢山の人々から写真撮影を求められているのを見て、ウーム、インドの著名識者なのだと知った。美味な夕食を得た。23時了。Amartya Sen氏と同じエレベーターで7階へ。80才をこえているようだが、大変にお元気で、流石ノーベル賞だなと感心する。人間皆ベースは身体力であるな。
翌、1時前横になり眠りについた。昨夜からようやく眠れるようになった。
5月6日、6時前離床。メモを記す。8時小休。Prof. Lord Meghnad Desaiより昨日渡されたBiharの写真集に見入る。
日本から持って出た2冊の本は一頁も読んでいない。
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朝食は抜いた。昨夜のカレーがこたえたようだ。8時ビジネスセンターよりFAXを東京へ送る。ゴーパ・サバロワール女史が送って下さり、車でデリー空港ドメスティックへ。今朝は車が少なくアッという間であった。ロータリーが連鎖した道路は森に囲まれて美しい。Jet Airwaysのカウンターでチェックイン。手荷物検査を経て85番ゲートへ。カプチーノを飲む。125Rp。
Rp感覚がまだわからない。7名のメンバーで機内へ。10時35分離陸。眼下は一面の半砂漠状だ。過酷な土地の上を飛ぶ。北に雲なのかヒマラヤなのか区別がつかぬモノが視える。
この時期はヒマラヤはモンスーン期に入るので天候は悪い筈だ。12:00前パトナ着。何十年も昔にカトマンズへ空路逃げようと試みたが、フライトを取れなかった記憶だけある。4台の車に分乗してラージギルへ。何となく見覚えのある道を走る。町の姿は一変しているが、北インドの土俗臭が溢れている。ガンジス河の記憶も蘇った。昔も今もドライバーの運転は名人芸だ。
スケッチしようと考えたが走りながらはやはり無理である。写真を一枚だけ撮った。
14時半過ラージギル着。美しいエリアだ。Indo Hokke HOTELにチェックイン。小振りなレンガ造りの良いホテルである。銃を持った警察官の姿が多い。あるいは軍人か?よくわからない。
カレーのランチをいただき、小休。部屋はクリーンで居心地が良い。
16時発。ナーランダ大学建設予定地視察。ラージギルの町の様子が面白い。サイトは素晴しかった。ラージギルヒルが南真近に連なり、サイトの骨格を大きく作り出している。
西への軸を強く感じたが、美しい落日の力であろう。スケッチを3点得る。
大勢のポリスと共の見学である。サイトは厳重に塀で延々と囲まれている。総長8kmとの事。ベトナム・ダナンのサイトの4倍くらいの広さか、歩いて廻れる広さではない。大きなスケールのサイト把握力が必要であろう。しかし、プロポーザル作成の幾つものチームは力が入っただろうと思い、うらやましい限りだ。審査員よりは選手の方が良いに決っているが、責任は果したい。2度サイトを車で巡り、出来る限りの把握に尽す。
敦煌の落日や、エローラの落日を思い出した。夕暮れのにぎわいと休息の中のラージギルビレッジをくぐり抜けてホテルに戻る。疲れて夕食はパスしようかと思ったがやはり失礼かと思い直し頑張った。カレー尽くしである。もうカレーはいいよと思う間もないカレー攻撃である。長崎屋のカレーライスが早くも懐かしい。宗柳のカレーうどんも想い浮かぶ。
Hokkeホテルは創立は日本人だそうで、壁に日本食の刺身や鍋の絵がうやうやしく何点も掲げられているのが、おかしい。日本人のオーナーもカレーにヘトヘトになっていて、仏陀の有名な事跡より、日本料理が夢に登場したのだろう。中国人の若い審査員はカレーのディナーはパスすると宣言して休息をとった。カレーは中国人にはあんまりフィットしないのだろうか。20時半了。21時部屋に戻り、シャワーも使わずにバッタリ。しかし深い眠りは得られない。
明けて5月4日土曜日、5時半離床。水のような湯につかり身体を洗う。
昼間の水浴はさぞかし気持が良いであろう。
睡眠不足は否めないけれど、気持の良い美しい朝である。昨夜、釈尊が山上で説法をした山の頂に人の肩を借りて登るかと言われたが、遠慮した。
相当厳しい登りなようだ。釈迦は結構体力があったのを知る。エネルギーの固まり人間であったのだろう。静かなだけの人ではなかったのを知る。
ロビーの大きな絵が山上の垂訓ならぬ説法の場の様子を良く描いているのでそれで我慢することにした。
7時ホテル発、朝のサイト再訪問。昨日描き切れなかったラージギルヒルの恐らく10kmになんなんとする全景を2枚描き足した。全てを描くのに5枚を要した。インドはでかいな。日本ではこんな事はあり得ない。このスケール感をプロポーザル提出者達はどうとらえるかな。
8時ホテルに戻る。朝食は8時半。室に戻りメモを記す。長い一日になりそうである。
陽光はすでに暑い。陽陰と風が何よりだ。
9時ホテル発。TOKYOへFAX送信するもここからは不可能との事。
ラージギルの仏跡を巡る。リフトで丘の上に上る。素晴しい景観である。ラージギルの丘の背後に廻った。
小さな盆地状の浅い谷に緑が豊かだ。山頂には尾長猿が多い。日蓮宗が建立したストゥーパと寺院がある。
山岳寺院は何処も気持が開く。人間は時に遠くを眺めたい生物なのだ。みやげ物屋が多い。下山してナーランダに向う。門を入って内は美しく整備されていた。北のストゥーパの西側でスケッチに没頭する。
凄い量塊である。1400年の時の重みか。廃墟は洋の東西を問わず人の想いを複数に育てる。
もう一枚スケッチする。カンカン照りで夢中になっていたらいつの間にか日傘を2人の人間が持って影を作ってくれていた。古い壊れたストゥーパも良いけれど、ストゥーパの横の菩提樹の存在感が良い。
素晴しい影を作ってくれている。
ナーランダミュージアムへ。仲々の彫刻やらが多く展示されているが、一つ一つ見ていたら1日かかってしまう。目をむいて口に両手をねじ込んだものや、大きな壺に沢山のイボ状に突き出た開口が群生しているもの等が良かった。日本の縄文土器と比べれば大地の力を感じさせる迄はなっていない。ナーランダは日本史で言えば法隆寺再建の頃か。それ程古くはないのだ。
ラージギルの街中や街道の途中でギンギラに装飾された荷車や牛車や人々を見たが、現代のそんなモノ達の過剰さの方が面白いな。仏教的美はどんどんエネルギーを縮ませてゆくようなところがあるようだ。13時ホテルに戻る。15分昼食、14時了。只今、部屋に戻り休んでいる。外はグラグラするような暑さである。15時ロビー集合でパトナ迄再び2時間程を走り切り、20時40分の飛行機でデリーに戻る。途中面白いモノにぶつかったら写真をとりたい。
- 1148世田谷村日記 ある種族へ
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10時15分NRT第2ターミナル着。エアーインディア・カウンターへ。ラウンジでコーヒーを飲み、ゲート85へ。機体は777である。今何かと話題の787には乗りたくなかったので、少し内は古い感じだが、バッテリーに何かと問題のある機体よりは落着ける。13時前、酒は飲まないと決めていたが、機内には人影も無く禅堂風の中を飛んでいるので、つい白ワインを頼んでしまう。しかし非常に美味である。スチュワードにうまいぞと言ったら、インド、アーリア系の笑いで、「そうだろ」と返してきた。良いタイクツさの中に居る。
インド、アーリア系が、ワインを注ぎに来た。有りがたくいただく。グレート・マザー(地母神)の如くの恰幅の良い、当然年をめした女性のスチュワーデスもミシミシと歩く。それだけで機はインドの空気が流れるのである。格好良いね。
NRTを飛んでから4時間半経った。中国大陸の北東部を飛んでいるのだろう。
座席のコンピューターサイトのトラベルガイドは全てヒンディー語で地名は解らない。デリー迄のほぼ半分を飛んだ事になる。座席が完全に水平になるので、どうやら2時間程眠ったようだ。
中国上空は直線で飛んでいない。処々、グニャリと意図的に進路が歪められている。
山西省の西のあたりか。気流のせいでは無い。窓のシェードを開けると巨大なエンジンが太陽風デザインに塗られて、実にインドらしくて良い。前のインド航空のグラフィックデザインと変化しているようだ。
世界最古と言われるインド・ナーランダ大学は427年に設立されたようである。スペインのサラマンカにはサラマンカ大学が在り、大草原の中にヨーロッパ最古を誇っている。ナーランダ大学は今は遺跡となっている。しかもヨーロッパの廃墟とは異なる崩壊の仕方であったような記憶がある。今度の旅の目的はナーランダ大学の国際コンペの審査員として招集された。色々と考えはあるのだが、5月6日迄は書けない。
もう6時間は飛んだ。ベトナム・ダナンに最も近い位置である。これからヒマラヤ山脈を北に見てインド亜大陸北部を飛ぶ。「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」書こうかという気持が出てきたので取りかかる。要するにこれは目先口先人間のわたくしが、力をふりしぼって遠くへ投げている球なのだが、あまりにも奇妙な形式をとっているので、親愛なる読者諸姉兄弟娘諸君にはまだどこにも引っかかりようがないのである。でもこれもわたくしのリアルなプロジェクトなんだがな。東京に戻ったら烏絵馬の出来上がりくらいチェックしたいものだと、留守の連中にプレッシャーを書く。
このフライトはヒマラヤ越えはしなかった。
大きくバンコク廻りの南廻りではなく中国大陸の南部を斜めに横断している。
かなり遅れて17時半(インド時間)インディラ・ガンディ国際空港着。9時間半の飛行である。デリーの空はそれ程クリアーではない。The Taj Mahal Hotelのドライバーが迎えてくれた。デッカいローバーに乗せられ交通渋滞の道を走る。黄色と黒のアンバサダーは流石に少ないが走っている。パタパタ、あるいはトクトクと呼ばれる小さな三輪車が少くはない。この形式を電気バイクにすればかなり都市交通としては良いのだがな。
うっそうとした森の中を走り続ける。交差点には信号は少なく、ロータリー形式である。
19時The Taj Mahal Hotel着。セキュリティチェックが厳しい。ホテルの車のボンネットまで開ける。ラゲージチェックを受ける。若いボーイが早口の英語でしゃべるが半分位しかわからない。
207号室に入り休むが、メモがあり20時に下のレストランでデイナーとの事。それでも少し横になった。
ディナーはナーランダ大学副学長Dr.Gopa Sabhrwal女史、A.R.Ramanathan氏、少し遅れてAshok K Chawla氏来る。忙しいのに実に良くして下さる。
色々と話し合う。仲々にハードルの高いコンペである事がわかる。実に高度な概念を要求しているようで緊張する。とても知的な人達でコミュニケーションに困難はない。アメリカ流のユーモアは通用しないのをすぐに理解した。インドだなあ。
23時ディナー終了。日本時間午前2時半である。やっぱりハードだ。
明日の段取りもキチンとしていて安心である。
部屋に戻り、風呂を使い様々にゴソゴソする。横になるも眠れず。
結局5月3日の6時半までウツラウツラしただけとなる。気分晴しに頭を洗う。
朝、カーテンを開けると外は広い広い森である。驚いた。森の中には恐らく高級住宅が点在している。遠くに近代建築の姿がかすんで見える。大きな鳥が飛んでいる。恐らくトンビじゃないか。小さな鳥も多い。NYのセントラルパークよりもはるかに広大な森である。
今日はDELHIからPATNAまで飛び、ラージギルへ110km車で移動する。
昼は40℃をこえる暑さのようである。なんとかなるだろう。
ゴーパ・サバロワール女史から帽子を何処かで手に入れなさいと言われたな。
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18時Xゼミナール投稿・最新版のゲラをチェックして研究室へ送信。
何となく、もう一信研究室に送っておこうと思いつき実行する。
ベトナムより連絡があり、梵鐘の見積りはフエのベトナム随一の鐘の工場で作っていただけそうだ。大方の総工費に関しても、それ程の見当違いはしていないように思う。
ただインドの帰りにベトナムに寄るというアイデアはフライト他の関係で実現できそうにないので、デリー、ナーランダ、デリー会議、帰国のスケジュール表をベトナムに送って、とてもダナン寄りは困難であるのメールを入れておいて欲しい。
フエの調査のお礼と共に。
今日一日、ベトナム、インド他の事をボンヤリ考えていた。
どうも考えが建築物を中心に据え過ぎていて我ながら広がりが小さくなっている。
プロジェクト自体が広がりを持つ総合性を持っているので、もう一度今の状態をチェックし直してみたい。
明けて5月2日6時40分離床。お茶を飲んでNRTへ発つ。