石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 6 月

>>2013 年 7月の世田谷村日記

1200世田谷村日記 ある種族へ

9時半世田谷村発。10時40分学部レクチャー、毛綱モン太・反住器、石山修武・幻庵をもって近現代の住宅の講義を打ち切る。7月は別の話しとする。これ以上学生に話すことは何もない。100名を超す集団は日本の縮図だな。大半の人間が周りの人間の空気にだけ眼も耳も向けている。自分という人間が居ない。個人がキチンと成立していないのである。

毛綱の反住器1972年も、わたくしの幻庵1975年も、共に個人の意志の反映であったことを、映像を眺めながら話す自分の言葉を遠くに聴きながら(そんな感じだ、若い人間達に語りかけるというのは)そう痛感した。

毛綱の反住器、あるいは鏡の間のデザインは実に少なからぬ模倣者を生み出していたのも、あらためて良く知った。原広司の反射性住居だったか、名は忘れたが一連の住宅作品は大半が毛綱の小建築の模倣である。その事例を引くまでもなく、毛綱は深く建築家達に、それも良質な水準のそれに影響を与えていた。今は、ハッキリと模倣の構図とも言うべきを示せると思う。

近代以降のあらゆる造形分野は歴然として情報が主役である。情報とは抽象的なモノではなくハッキリと発信源と受容層が分離しているという現実でもある。毛綱はその意味では一見秘かに見える模倣者を多くつくり出した。今ではそれが良く視える。

12時10分了。すぐに打合わせ。

14時半磯崎新に久し振りに電話した。昨日中国から帰ったばかりだと言う。中原の都市計画プロジェクトだけはどうしてもまとめなければと言う。

巨匠の執念はわかるような気がする。彼は自分を都市計画家であると再自覚しているのだ。

インド、ニューデリーのナショナル・ギャラリーにメール。6月29日の夜ニューデリーで会えるかの問い合わせ。台北の李祖原事務所のリチャーズにメール。ベトナムのヒューさん、中村さんにメール。

明けて6月26日、6時半離床。都議会議員の選挙が呆気なく終りスポニチの清水さんとも話した事だが、全く予想通りの結果となった。

こんなに予想通りというのも何かオカシイ(危険だと言うこと)なと話し合ったのだが、そう言うしかない。わたくしが投票した世田谷区の立候補者は幸いに当選した。しかし民主党の失敗の罪は実に大である。柔道連盟の会長の居座りが問題になっているようだが、民主党の組織としての体たらくは実にコレに近かったのだと振り返る。

9時世田谷村発。花小金井吉元医院に向う。

1199世田谷村日記 ある種族へ

常盤道を柏で降り14時半真栄寺着。山崎龍明師(武蔵野大学教授)にお目にかかり、ごあいさつ、ベトナム・ダナン梵鐘勧進帖をお渡しする。庫裏の二階で小休。アニミズム紀行8を書く。15時半本堂へ。

信徒の方々他20名程集まり、18時、致孝山真栄寺第3回修道会始まる。勤行「正信念仏偈」参加者自己紹介。18時45分夕食。

19時10分、山崎龍明先生の講義、「歎異抄を読む」始まる。

親鸞が法然上人に会い6年間学んだ頃が親鸞の最も幸福な頃であったろう。突然、上九一色村のオウム真理教は10年間で10万人の出家者を出したの話しとなり、先程迄書いていた「サティアンと福島第一原発」に身近であるといささか緊張する。

20時10分了。10分の小休。

20時20分より第2講始まる。

阿弥陀の阿はインドでは否定の言葉である、つまり計ることが出来ぬ限りない光を持つ人の意。阿弥陀仏は何故金色なのか、これは金色の身体であり全ての人が肌の色の違いを超えて金色になることが希求されているの意味である。

以前から浄土真宗の阿弥陀仏及び祭壇は何故こんなに悪趣味でゴールドにゴテゴテしてるんだろうと思っていたので、それをインドの人々の肌の色の多様と一元への希みと結びつけられて話されたので少し納得した。

又、地獄は、つまり戦争の悲惨であり、排他的競争の極、ガキとは欲求不満、無限成長、もっともっとであり大量生産大量消費の原理かと考えさせられる話しをなさった。面白くなる。

その後、本堂にて懇親会。

23時就寝。

明けて6月24日月曜日5時起床。境内の掃除は小雨で中止となりホッとする。

時間が空いたので、皆さんに、金子兜太さんベトナム・ダナン計画の模型を見るの写真をお配りし、住職の許しを得てダナン計画勧進の小パンフレットをお配りして、少し計りの話しをさせていただいた。

有難い機会は天の恵み、つまりは雨がもたらせた。

もう少し上手に話しが出来るようにならねばと思うことしきりである。

6時イモがゆとたくあん、うめ干しの朝食。二杯いただく。

6時40分了。7時30分第3講はじまる。

道元の坐禅とはと『正法眼蔵』の話しから入り、座の字は人間が二人土の上にいて座っている、これは座っている自分の姿をもう一人の自分が視ている意であると説く。

又、親鸞の天皇批判にすすみ、親鸞の言「わたくしは国家から僧籍を剥奪されたのだから、僧に非ずしかし俗にも非ず。これが浄土真宗の本義である」とされた。

マタイ伝1章のイエスが母と妹が面会にきてくれたとは言わなかった話し。つまり、我母とは誰のことか、妹とは誰のことか?神の国に生きている者は肉親という血のつながりはあり得ない。これは宮沢賢治の、世界全体が幸せにならなければ、幸せはあり得ない、という『農民芸術概論』にもつながり、賢治の中の浄土真宗的形に満足できずに法華経へ行った気持も良くわかると話された。

しかし、浄土真宗は大乗仏教の究極である、が親鸞の説くところであったとの事。この辺りはわたくしには良く解らなかった。

8時30分了。小休。

8時40分第4講始まる。仏像、寺院をつくることに徳があるならば民衆は救われない。

寺というものはそんなものではない。

突然、学生時代に出題された「新しい寺」の出題を思い出した。

あの出題の意味がそんな処にまで届いていたとは思えぬが、今の、わたくし達の日本寺はやっぱりそんな処までゆかねばと想ったり、山崎先生はダナンの日本寺開山にも少し触れていただいたが、これは余程勉強せねばならんなと痛感する。

親鸞の「不退転」にも触れ、近代以降の文学者は経文に不案内だとされた。浄土をユートピアと誤解している。つまり、不退転に固まるという事はこの場で往生するのだからここが往生である。がしかしこの世はどうしたって浄土とは言えない。寺は風景に過ぎなかったと言った人間もいる。

ホームレスの老人を夜中に襲う中学生達も又、ホームレスではないのかとホームレスの人間が言う。

「エアコンとめて耳かっぽじって良く聞け、原発は何もかく失くしてしまった。田んぼも畑もみな盗んだ・・・・」

と最後に福島原発被災者の声を代読されて2日がかりの講義を了えられた。

山崎龍明先生は浄土真宗には珍しくと言うべきなのかはまだ不勉強だが、明らかに日本仏教界の一部としては決然として原発反対、そして憲法9条を守れの意見を表明されている方である。

昨年来、モヤモヤとしていた真栄寺修道会での疑問のホンの一部はとけたかも知れぬが、日本仏教界の今はとても宗教家の集りとは言えぬのも又、たしかな事であろう。

とやかく言わずにベトナム・ダナン日本寺開山に向けて愚鈍に、それこそ犀のように歩もうと思えど今日の暑さかな、だなあ。

13時過世田谷に戻る。

明けて6月25日、6時半離床。メモを記す。9時前了。

1198世田谷村日記 ある種族へ

16時半、アニミズム紀行8、改変というかやり直し原稿13枚迄書く。しかし、我ながら夢中で書いているこの原稿は不思議なモノである。

17時半、再び頭が流石に疲れて宗柳へ。ソバ屋の前の石森さんに声をかけて無駄話しをする。

石森宅に貼りだされている「世田谷区南烏山5丁目に子供たちのための公園と動物たちの場所を作る会(仮)」のポスターを眺めながら小休する。二人でソバ屋の窓際に座りながら視ている間にドンドン、ポスターの猫に附属させた街づくりの呼びかけチラシが減っていくのを目の当たりにする。

何だろうな、この関心の持たれ方というのは。

七面倒臭い建築がどうのこうのとか、建築文化の世界の拡張とかの狭くて抽象的な世界の思考と歴然と異なり、猫を伝達の手段としたポスター、そしてチラシがこれ程に地域の人々の関心を集めるとは、これは何なのか?

歴然たる事実への対面、すなわち多くの人々が何に関心を持ち、何に全く関心を持たぬかをまざまざと知らされた、のを知るのである。

自分の世界を自負していたら、もうどうにもならぬ現実なのであろう。でも何とか対応したい。

明けて6月23日、日曜日5時過離床。すぐにアニミズム紀行8を書き進める。8時前20枚まで進む。サッカーは日本VSメキシコだが、どうせ負けてるだろうと思ってTVをつけてみたらやっぱり負けていた。しかし、これだけボロ負けしてくれるとさすがに呆然とする。

宮崎の藤野忠利さんと話す。再び石森彰さんより連絡あり。又、猫のと言うか南烏山5丁目の件のチラシが全部なくなってしまったとの事である。嬉しい事だが、チラシ泥棒でも居るんじゃないのか?コレワ。ついでで今日は選挙ですぜと注意された。忘れてた。真面目だなコノ人は。

世田谷村1階つまり地上の西面に朝顔が苦し気につるを延ばそうとしているので、見かねてタコ糸を張ってやる。ついでに水をやった。

14時佐藤くんと新木、真栄寺に向けて発つ。

1197世田谷村日記 ある種族へ

10時40分大学院レクチャー。アニミズム紀行8で書いている福島第一原発と、オウム真理教サティアンについての触りだけ冒頭に述べ、アトはル・コルビュジエのラトゥーレットの僧院について。

12時半了。少し長めのレクチャーとなった。

すぐに打合わせに入る。昨日サイトに少し手を入れたので、その後のフォロー他。ベトナム、気仙沼安波山計画、唐桑のタオル計画、世田谷区の幾つかのプロジェクトに関して、具体的な討議をつづける。

15時前了。新宿長野屋で昼食後、烏山へ。17時石森宅に新しく作ったポスター他を貼る。ギョッとする程に目立つ。

石森さんと宗柳の窓際に座り、通行する人の反応をどうかなと見守る。

大型の猫ポスターの効果は凄まじく、通行人の大半が立止まり、少なからずの人々がチラシを持って帰るのを喜ぶ。

猫の神がかりポスターだなコレワ。

明けて6月22日5時半離床。すぐにアニミズム紀行8を書き進める。

一度95枚程書き終えていたが、書き直しの気持でやっている。明日までに何処まで行けるか?

9時前、石森のおっさんから電話あり。

何事かと思えば、「あのチラシ、もう数枚しか残っていませんぜ」との事である。

「わたし、今日はこれから猫連れて猫の病院なんで、すぐ補充願います」

と言う。

いい年をして急いで石森のおっさん宅にかけつけたら、オヤジと猫はすでに病院行きらしく不在。チラシを工夫して4枚程補充する。

これでは足りるわけないな。世田谷で動き始めてから、初めてと言っても良い位の手応えである。

帰りがけ隣家の、これも又子犬をつれたオッさんから「あの会、出席します」とあいさつされた。アノ会とはウェブサイトに昨日ONされたらしい7月27日の第14回世田谷式生活学校の集まり「世田谷区南烏山5丁目に子供たちのための公園と動物たちの場所をつくる会(仮)」の集まりの件であろう。

こういう身近な話題、そして猫や犬の話らしきは少なからぬ人間が反応する時代なのだな。反省!と自分の固い頭をポカリ。

しかし、猫のデッカいポスターがこれ程の力を持っているとは知らなかった。

アニミズム紀行シリーズも猫特集してみようかと、これはイケナイ邪念を巡らせる。勿論、やらないけど。

10時小休。朝飯を食べる。

1196世田谷村日記 ある種族へ

朝だいぶ長い日記を書いた。昨日の体験が余程強烈であったのだろう。大方書き終えていたアニミズム紀行8を書き直すことも決めた。

ようやくにしてはっきりと現代社会の中に厳然として在るアニミズムの姿をのぞいた様な気がするからでもある。紀行8は面白くなるだろう。

福島原子力発電所の破壊がもたらせた日本の(と敢えて言う)光景と1995年の富士山オウム真理教事件サティアンの光景が通底しているのを書くつもりだ。「サティアンと福島第一原子力発電所・破壊の中のアニミズム」という題にしようと今のところは考えている。

13時研究室打合わせ。

気仙沼・唐桑のタオル、大唐桑茶のセット販売についてを始まりに、延々と18時迄内容の濃い議論を続ける事ができた。

良い意見はどしどし取り入れて、具体的にサイトの編集に反映させようとなる。2000名近くまでなっているメイルリスト(これ迄研究室のいくつかの企画に参加、あるいは支援して下さった人々)が提出されたので対応する。

それをきっかけとして、サイトの更新を試みることになった。

来週には議論の結果がサイトに反映されるだろうが、今日(6月21日)のサイトにも余計なもの、気取りや抽象的な思い込みは取り去ってゆこうとなった一部がすでに実行に移されている。

わたしの仕事場の中心も来年から研究室を出て世田谷村へと移すので、その移動のための準備になることは言うまでもない。

日記の不可解なタイトルのつけ足し、ある種族へというのをハッキリさせるべきだという意見もあった。

ある種族へをも少しハッキリさせて読者の階層性の表現にならぬような工夫をする事になった。

階層性というのはコンピューターを介してのコミュニケーションの最大の宿命である。

誰でも読める、故に賢い人間もいるし、それ程そうでない人もいる。馬鹿は禁句だから、それ程賢くない人間と言い直している。変な気の使い方してるかも知れない。

こう記しただけで日記の読者数は確実に変化する。それがこのサイトの恐ろしいところであり、面白いところでもある。

また余計な径に深入りしそうなので戻す。コンピューターの記憶力が人間のそれよりもはるかに過大なので、どうしてもサイトの細部にゴミのようになってしまった情報が氾濫することにもなる。

そのゴミを楽しんで下さる方は稀であろうから、やはりゴミは外そうとなろうが、ゴミがあっても何の為にもならぬが、何の害にもなり得ようがないという現実もある。くどくどこんな事書いている方が百害あって一利無しであるから止めましょう。全てをサイトに表現するので、そう理解して下されば宜しい。

南烏山5丁目の石森宅に貼りつけた、広場をつくりたい会の表札がどうも目立たない。つまり検索数が一向に伸びそうにないので、デカイ猫の後ろ姿の小ポスターが作られ、早速セットしてきた。世田谷村の出入りだけで出来ることは少なくない。コンピューターは空を飛ぶけれど、歩かねば出来ぬ事はまだまだあるのだ。

気仙沼安波山に2年がかりで植えたサルスベリの樹が今夏は花をつけるだろうと予想している。山の中腹に丸い薄紅の図形が浮かび上がって欲しい。そうすると我々や地元の人々が考えた事が広く伝わるのではないか。自然の再生力は、それこそ生きねばならぬ人間たちにとって深い潜在力を持つ。そのことを広く知らせたいし、生きる人々の力にもなるだろう。

毎日でも山に出掛けて樹々の状態を見てみたいが、気仙沼・唐桑は東京からはやはり遠いのである。あの薄紅色の100メーターの円形が色づいてくれたら、西方浄土ならぬ、それこそ北方浄土として安波山信仰も再生するであろう。

今はただ今夏の花を祈るばかりである。

一夜明けて6月21日、今朝の大学院レクチャーの冒頭で一昨日の福島原発立入り禁止エリア接触体験について話すつもりなので、アレコレと頭を悩ませる。3階のテラス、2階の窓の外にも朝顔の花が空に浮いている。気仙沼の安波山の丸い100メーターの図形もこうやって人々に眺めてもらえるのかも知れない。

朝食をとり、9時半前世田谷村発。

1195世田谷村日記 ある種族へ

8時渡邊、佐藤両君世田谷村に来る。佐藤くん「南烏山5丁目に子供が遊べる公園と動物のための場所をつくる会」の表札、及び石森さんとタマの撮影をすませる。首都高速から常磐道へ入り福島方面へ。首都高速の混雑を抜けて飛ばし、予定通り11時に白水阿弥陀堂着。何度か訪れている処だがほとんど記憶は薄く消えてしまっている。美しい間近な山並みに囲まれた浄土式庭園がほぼ完全に復元されていた。

池の広がりが周囲の山と何とまあ絶妙に融け込んでいる。御堂は平泉の藤原家の娘の想になるとの事。平安時代の女性貴族の感覚やそれを実現した庭師、工人達の技術の高度さを想う。何度も訪れる価値はある。

太鼓橋、平橋と接してつくられた雅な小橋を渡り、一直線の南北軸に従い堂内へ。暗いの第一印象。阿弥陀と四体の像は南面し、柱間は微妙に柱間を変えた三間四方。全て周囲の山並みに合わせた屋根高と大きさの意匠から割り出されているものだろう。堂内は暗いが眼が暗さに慣れてくると諸像の正面にたおやかな格子づくりの壁というべきか、スクリーンでもある透けた格子壁が意匠され、諸像が南の山並み、陽光、月星の運行を見はるかすのが想定されている。女人はその状態の内に入り込んで拝礼し、祈り想いを巡らせた。

つまり藤原清衡の娘、徳姫は諸像の視線の先の絶妙に間近な山並みの先にやはり浄土を視ていたのである。自分の視線は阿弥陀の視線にゆだねられていた。 そこのところが近代化を果たした我々の頭の構造と違うところだ。浄土への見立ては浄土を眺めやる諸像の視線の中にあったのである。

なさしめたのは藤原氏の財力であったが、なしたのは藤原の平泉から遠いここ磐城の国の穏やかで平安な山並みの彼方に浄土を視ようとした人間の意志である。

広大な池の造化の妙、その中に浮かぶ島へ連なる橋の連なりの造型の中に、その造景の中に納められ、共生する御堂の屋根も又、周囲の山並みに融け込まされている。決して姿形が際立つ事なく、共に在る。屋根のボリューム、姿は結構の美を持ちながらも山並みに帰依しているとしか想えない。そこに、この地の造化の妙を見てとった人間の感性の受動性が視える。

堂の内部に曼荼羅の如くの自立性を先ず見ようと、頭を準備してきたわたくしは、それ故に堂の内部のスケッチから始めたが、やはりこの堂の真価は外の内とも呼ぶべき、山並みと池と小島の造園の妙にあるのだった。

堂内にはウィークデーの曇天とは言え、老人達が静かに手を合わせていた。

その姿の方が仏像よりも余程神々しいのであった。阿弥陀像よりも余程阿弥陀だネェと思った。木像には失礼とは思ったが、その人々の姿をスケッチしていたらそれが良くわかったと言うにはおこがましく、納得してしまった。

今でも人々をおがませ、手を合わせる対象としての木像はあるが、それを拝む人々の気持は更に実に良いのであった。

暗闇から外の縁に出て座り、中の人々の姿をスケッチしていて実に自然にそう考えた。

実ワ縁に出てスケッチし始めたのは、堂守の坊主から内には人が来るからスケッチは止してくれと、人気の無い堂内で言われたので外に出た。

インドのナーランダでスケッチしてくれてありがとうと言われ、気がついたらカンカン照りの中に二人もの人間に日傘を差しかけられていたのとは大ちがいである。

クソ坊主奴と思いはしたが正直に「クソ坊主」とは決して言わなかった。

ありがたい坊主とは決して思わなかったが、サッカー観戦の群衆整理の警官だってもっと気のきいた事言う人間がいるのに、坊主は本当にこの手合いが多いのである。

カメラ禁止は納得するが、人気の無いときのスケッチ、よせはどうなのか。

縁側で座ってスケッチしていた佐藤くんを追いかけて「このゴザの上に座るな」とは何事か!思わず「ナニーイ」と声を上げ、坊主は眼を伏せた。

しかし、阿弥陀さんを拝んでいた老女が一人、外の庭で見つけて拾ったコケむした樹の枝を、かなり大きなモノであったが、持ってきて、止せの坊主に「この枝、いただいて帰ってもよろしいでしょうか?」とあの堂内の坊主に声を掛けた。

「ダメ」と言ったら、その時はわたくしいきなり怒髪天をつく。黄不動に変身するぞと身構えていた。

「イイですよ」の声が坊主から返った。

血の雨が阿弥陀堂に降るかの空気はゆるんだ。

縁側から去り際にだから「どうも」と声を掛けたら、クソ坊主も会釈を返して一件落着したのであった。

そんなこともあったので、やはり堂内の人間模様を離れた、外の庭園と御堂の姿はまことに良ろしかった。

素直に外のスケッチから始めたら良かったと反省する。外の姿が美しいと人が言い伝えるのにはやはりそれなりの事があるのだ。

一点を得る。内外で計四点のスケッチを得た。これは近々、サイトで見ていただくつもり。阿弥陀に手を合わせている三人の老人の姿の図は良いです、と言いつのりたい。

ついでに願成寺を見学。立派で豊かそうな寺である。あのクソ坊主の寺なのか。檀家が多いのだろう。墓が実に多く立派な墓地を持つ。もうクソとは言わぬ、あの坊主は経営はうまいのだろう。結構なことだ。TAXIで墓参に来る人がいるからこの小盆地の外にも多くの檀家を持つのだろう。寺域に食堂、おみやげ店も無く下品に観光地化されていないのも良かった。しかし、団子屋くらいあってくれたらなあと空腹をかかえる。13時半見学、スケッチ修了。

本日の主題でもある福島原発立入禁止域に出来るだけ近づこうと再び常盤高速道に乗る。火力発電所のある双葉町辺りで高速道路は遮断されていた。

たった一軒店開きしていた手打ちラーメン屋さんで昼飯。これが美味であった。

店員は中国の方のようであった。ご主人に少し計り話を聞く

あと10km位南相馬町の方へ行ったところで立入禁止との事である。

そこ迄行って見ようと車を走らせる。国道沿いの民家、商店他に一切の人影は無い。東日本大地震で壊れた民家の屋根も壊れたままである。商店の駐車場には夏草ばかりが茂っている。近い将来、植物が街の姿を覆い尽くすのであろうか。しかし、来て良かった。TV、新聞で伝えられている恐らく大半の日本人が本当の福島原発周辺域の姿を目の当たりにはしてはいない。

映像報道とリアルな現実には必ず乖離がある。それをただ確認するためだけの福島立入禁止エリア近くを体験したかった。道路を通行する車輌の全ては恐らく様々な工事車輌であった。パトカーの姿も多い。チカチカと要注意ランプが点滅するエリアなのだった。

福島第二原発への入口のすぐ先で立入り証を持つ人間以外の乗る車は立入禁止となる。

富士山上九一色村(当時)のオウム真理教事件の実相発覚の際、わたくしはやはり研究室の面々とサティアン群の現場に出掛けた。麻原彰晃が階段天井裏の無様な小部屋に隠れていたのを発見、逮捕された翌日であった。

富士山が不気味なほどに姿をクッキリと表わし、全ての道路はサティアン群の周囲を機動隊が灰色の機動車輌で封鎖してた。

サティアンは殺人事件の現場でもあり、機動隊が封鎖するのは理の当然である。富士山をバックに機動隊のヘルメットとジュラルミンの防護盾の壁は実にリアルなラインとしてサティアンをとり囲んでいた。

この光景は一生忘れないだろうと考えた。その想いが旧上九一色村内聖徳寺内に観音堂という名の死を待つ人の家らしきを建てさせた。

福島第一原子力発電所の壊れた姿を実見していない。

TV、新聞、コンピューターの映像、報道で知るだけである。

それが、実見していないという不安がつのっての今日の立入禁止ラインの実体験の強行であった。

それは忘れもしないあのサティアンと機動隊による封鎖と、福島第一原発周辺立入禁止と原子力発電所が破壊された映像が同じものとして視えてきたからである。

これは同じ光景なのだ。

麻原彰晃が妄想として、そしてただただ自らの保身の為に作り出したサティアンと破壊された原子力発電所の光景は同じである。

この考えを確認するための福島行であった。日記に書くのは荷が重過ぎる。稿を改めて「Xゼミナール」に投稿したい。あるいはアニミズム紀行にもきちんと書きたい。白水の浄土庭園に藤原一族の娘が浄土を阿弥陀の視線に託して視ようとした、これも歴史の現実と、今立入禁止として非常に不思議な警備の人々により封鎖されている街が、自然に帰り始めている究極とも想える廃墟の向こうに視えるものは、ほぼ同一である。

稿を改める。

強烈な体験を得て、19時過ぎ東京に戻った。

1194世田谷村日記 ある種族へ

10時20分東京駅のぞみ223号に乗る。鈴木博之さんと会う。12時半過京都、TAXIで西本願寺前へ。日建設計大阪設計による龍谷大学ミュージアムを見学。村松さん岸さんと御一緒である。裏通りに伊東忠太の建築あり。色彩が鮮やか。15時前了。再び京都駅へ、奈良線で奈良黄檗へ。櫻井さん合流。竹中工務店設計の黄檗山萬福寺第二文華殿を見る。久しぶりの萬福寺であり、境内も案内していただく。韓国の海印寺をしきりに思い出していた。

海印寺に比べれば萬福寺は穏やかでいかにもな日本風である。16時半前了。再び奈良線にすべり込み京都へ。あわただしい京都、奈良の建築見学の旅であった。

今年はインド、ナーランダにてミュージアム、僧玄奘記念館などを見学してきたので、京都奈良双方のミュージアム、収蔵庫共に陳列されている収蔵品自体が手薄な感が否めなかった。建築を見学させていただいたわけだが、当然収蔵品の質量が主役である。京都奈良と言えば日本の文化財のメッカである筈だが、ウーム残念なりの感あり。勿論、建築設計者の責任ではないけれど痛感した。

かつて、ルーブル美術館での美術館シンポジウムで、日本には美術品は無いのに美術館は沢山あると、ルーブル美術館の人間の発言を思い出した。あの時はフランス人奴何言ってやがると反撥心を覚えたけれど、今日はいささか忸怩たる想いもなくはなかった。

龍谷大学は西本願寺の大学である。何年も前に当時の上山大峻龍谷大学学長、杉浦康平、佐藤健と大谷探検隊の跡をたどり、シルクロード、敦煌まで旅をしたが、龍谷大、すなわち西本願寺には恐らく分厚い仏教美術のコレクションがある筈だがなあと、駆け足で展示物を見て廻ったけれど、良く解らなかった。台湾の台中に中台禅寺があり、ミュージアムを持つが、あの新興の仏教寺院とも言うべき寺(李祖原の手になる)のコレクションと比較したらいささかどうかなと、うつむいてしまった。

こんな時はどうしてもナショナリストの性がでてしまうのであった。コレクションだって頑張って欲しい。

又、磯崎新に連れて行かれた天理のミュージアムの収蔵物が驚くほどに立派であった事なども思い出された。西本願寺、黄檗山本山も共に日本を代表する仏教寺院であるから、自らの収蔵品には他の仏教文化圏も含めて、比較自己評価を厳しくするべきではないかと余計なお世話を感じてしまったのであった。

いずれは日本人ばかりではなく、アジアの仏教文化圏からの見学者が多くなることであろうし。

京都駅で皆と別れ、5時過の新幹線に、来た時と同様鈴木さんと乗り込み、19時過帰京。烏山で帰りがけに石森宅を通り過ぎたら、小さな看板(表札と言うべきか)がキチンと出されていた。

明けて6月19日、6時半離床。メモを記す。8時に佐藤くんが来て福島へ発つ予定。

1193世田谷村日記 ある種族へ

10時過世田谷村発。途中給油して大学へ。大きな模型3つを車に積み込む。11時過大学発。悠々時間は間に合うと考えていたらどうやら少しの昼食タイムを入れてギリギリの時間のようである。どうやら想定ルートを誤ったようだ。

それでも熊谷でなにやらを喰べて、約束の時間14時ピッタリに金子兜太邸に到着した。風除けの高い生垣を巡らせた、やっぱり風格のあるお宅である。

玄関より模型を運び込む。馬場昭道住職すでに到着していた。

金子兜太さんはお元気そうでホッとする。三つの模型を眺めて「ようやく、あんたという人がわかった様な気がする」と言われて、ウームとなる。

「建築の世界の人はこんな風にアジアというか、東洋に関心を持つ人がいるんですか?」と尋ねられて言葉につまるが、金子兜太さんに接して嘘は言えぬから「良く調べている人は居ます」と答えた。

「こんな風にズバリとやっている人は居ないでしょう」

と追い討ち。

「わたくしのアニミズムはこんな程度です」とかわす。

お見通しの人にクセ球は返せない。

梵鐘のモデルと図面に金子兜太の身長をキチンと入れておくべきだった。

この人はそこに自分の句を鋳込む鐘と自分をそのように即物として直観する人なのを、わたくしが担当者により強く伝えておくべきであった。

日本の現代俳句の第一人者、しかも最前衛という人物が自分の内に鐘を視る人であり、その鐘の中に自分を視る人でもあるのを、もう少し伝えるべきであった。つまりコルビュジェのモデュロールの考え方と同様の本能が超一流の表現者には必ずあるという事である。寸法の基準線は破るためにそこにあるのであって、その枠の内にキチンと納まるようなモノを想定しているのではない。

「字はもちろん大きかったり、小さかったりになる」

「自由にやって下さい」

押印の色の朱(紅)もうまく鋳物の生で出したいと申し上げた。

梵鐘のモデルはお手許に残していただき、他の2点のモデルは持ち帰ることとする。

15時40分おいとまを申し上げて去る。秋には句をいただけるやも知れぬ。

わたくしが初めて川合健二に会った時、彼は58才であった。わたくしは24才だったか。すでに川合は丹下健三と別れ豊橋の丘の上のコスモス畑に孤立していた。金子兜太は今94才である。ほぼ川合健二と同じ年令だと思うが、わたくしはどうしても今の金子兜太に初対面の頃の川合の面影を視てしまう。何故だろうか?不思議だ。

縁としか言いようがない。

しかし、今日のプレゼンテーションの模型を眺めていただき、

「俺も建築をやってみようかな」とつぶやかれたのには驚き、かつ嬉しかった。

兜太さんみたいな建築家は居ないのだまだ。

「造園と建築は分かれてしまっているのか」とも尋ねられた。ズバリと核心を衝かれたのである。東大出版会は金子兜太さんに鈴木博之の『庭師小川治兵衛とその時代』を贈るべきである。と余計なお世話。

明けて6月18日8時離床。朝顔の花の数は24輪となる。ソーラーすだれも良いけれど朝顔のすだれには敵わない。今日は京都行で9時過に石森宅に昨日渡されていた「世田谷区南烏山5丁目に子供の遊べる公園と動物たちの場所を作る会」事務局の表札を渡してから東京駅に向う。石森さんは地元烏山では猫のおじさんとしてスーパースターであるから良い話題になってくれたら良い。


1192世田谷村日記 ある種族へ

6月17日朝6時離床。今日は晴れそうだ。3階テラスの朝顔は数え切れぬ程に咲いている。でも花と花の間隔は密集しないように咲いていて清々しい。キュウリも黄色い花をつけアゲハ蝶が舞っている。空中劇場である。月下美人も沢山つぼみをつけ始めた。

「世田谷区南烏山5丁目に子供たちのための公園と動物たちの場所を作る会」(仮)の会則、会是を作らなくてはならぬ。先ず会員だが世田谷区在住の方及び関心を持つ、より広く一般の方としたい。年令不問。集会にペット参加も可。会費は無し。ただし会報を作成するので、それは会報費としていただく。事務局は石森彰宅とする。先ずは石山サイトで公表し会員を募集。次いで烏山地区にチラシとポスターを配布する。

次回の世田谷式生活学校は「世田谷区南烏山5丁目に子供たちのための公園と動物たちの場所を作る会」をテーマとした会としたい。渡邊大志くん世田谷区に連絡して、意見を聞くように。周辺状況の進行を区役所がどれ程把握しているか知りたい。たしか日本には2系列の動物愛護協会があった筈で、協会と連絡をとって、支持をとりつけられるようにして下さい

又、福島県下(原発事故の影響範囲内)の放置されている家畜、動物他の情報を、これは院生に言って集めさせて下さい。

今日午後、新木の真栄寺住職と会うので、千葉、茨城、福島への白鳥も含めた渡り鳥の飛来の状況は彼の息子さんに調べさせます。新木に近い手賀沼は渡り鳥の飛来地でもある。確か野鳥研究所もあった筈だ。

1191世田谷村日記 ある種族へ

6月16日、17時南烏山5丁目の、例のぜいたく猫の主人石森彰さんと宗柳で会う。19時別れてきたところであるが、マアこの地域の最大の問題のひとつであろう烏山5丁目の再開発に関して「世田谷区南烏山5丁目に子供たちのための公園と動物病院を作る会」を結成しようという事になった。署名運動も始める。

わたくしの「正一位いきもの稲荷社へ」、あるいは他のわけのわからぬ記事であったろう事に突然、実にわかりやすい目的というか、意味らしきが附与される事になったのである。勿論、前から考え抜いていた事でもある。

石森彰さんの家は世田谷区の都市計画道路の要の土地を占めているし、5丁目の再開発の土地にも接しているので、まさに要の土地である。

この会の会長は、今少し体調をこわして入院中の横山弥太郎さんにお願いする。

副会長は石森彰、幹事長はわたくし石山修武である。

再開発の対象地に在る、わたくし言うところの「ビワの樹の王」を守る会という名称も捨てがたかったが、少し計り一般的な名称ではあるまいとて、前記の名称となった。

早速、石森宅に看板を立てようとなった。徹底的に、しかもニョロニョロとやってみようと決心している。

早速、入院中の横山のダンナに連絡して了解をとりつけた。

会長になれとは言わなかった。発熱したら大変だからな。

1190世田谷村日記 ある種族へ

6月16日、日曜日、実は恥ずかしながら今朝は4時に離床して、ブラジルVS日本のサッカーゲームを見てしまった。昨日石森さんから朝4時ですよ、今朝ですよと念を入れられてしまったからだ。イラクとの試合は日本は負けるぜと予告していたらギリギリのところで引分けになった。今度はどうですかねと、おうかがいをたてられていたので、いっぱしのサッカー評論家振りを演じて「ボロ負けであろう」と託宣をたれたつけが廻されたのである。

試合は案の定開始早々、点を取られ、後半もう一点取られたところでやはり眠くなって眠ってしまった。ブラジルは往年のような強さは全く見受けられなかったが日本チームはどうしたって点を取れる雰囲気がまるで感じられず、ボロ負けに近い負け方であった。君はそれでも日本人か?と言われそうだが、スポーツは全て個人に帰すべきものだと考えているので、侍ジャパンとか侍ブルーとか言われると眼をそむけたくなるのは、わたくしには自然である。そんなに侍ブルーがよければ気仙沼・唐桑のタオルセットを買ってくれと言いたい。

8時に電話で起こされた。鈴木博之さんからで明後日の関西行の件。

どうやら彼はサッカーゲームは観ていなかったのだろう。健全である。観てる方がいささかオカシイ。

大体スポーツにナショナリティーというか妙な愛国心を表現してしまうのはオカシイのである。

ナショナルチームよりもヨーロッパの商業的クラブチームの方が余程強いだろうし、高度に訓練もされているにちがいない。人種もナショナリティーも枠無し同志のゲームの方に圧倒的なリアリティーを感じるのである。

1189世田谷村日記 ある種族へ

13時研究室でベトナム・ダナン五行山精神文化公園プロジェクトの模型をチェックする。

大きな彩色模型である。五行山の山の感じが良く出来ていてほぼ満足できる出来栄えである。もう10年ほど昔に浅草浅草寺境内で見ていささかビックリした盆栽展の展示物を思い出したりした。

役小角行者に今にもバッタリ会いそうな風景に出来ていた。

五行山(ダナン)は観音信仰と神仙思想がミキシングされて生々しい大地の力が溢れかえった場所である。

ブーゲンビリヤの花のシェルター、屋並みの角を曲ったら役小角さんがポッカリ立っていた、の感じが良く出ている。

さしずめ役小角の姿は金子兜太さん94歳である。

ここまでやってくると、やはり公園内にどうしても滝が欲しくなる。北アフリカのフェズで見た記憶がある水時計方式でも工夫して何とか滝を落とせないかと考えてしまう。

計画中の阿弥陀堂はフランク・ロイド・ライトの落水荘の滝を地下に持つ感じかなと思っている。思うのは勝手である。

地下深く、サラサラと水の音が止まぬ、まさに音を観る観音そのものであるような、水の霊気に触れられるようなモノにできたらと考えたが、その想いが強く在り続ける事ができれば必ず実現できるだろう。

佐藤研吾の色彩感覚は彼の美質である率直さが溢れていて仲々良い。

何故誉められているのか解らぬかも知れぬがこの感じをもっと開花させたら良い。吸収力が強くある。

梵鐘の大モデルは渡邊大志の担当である。この梵鐘の造形で一皮むけてくれたらと実に祈るばかりではある。彼の美質も又、スレていない率直さにあるが、そろそろその美質だけでは走り切れぬ年令になる。

この人の才質は本人は知らぬであろうが、20年後の日本の現実をすでに備えてしまっている如くが在るが、その美質と言うべき核をいかにとぎすませるかであろう。

巨大な鐘のデザインに少しづつ出現させようとしている本格的な古層の生々しさを自覚してもらいたい。消え入るようなか細い古層である。

20年後の日本はそれだけが頼りになるであろう。

1188世田谷村日記 ある種族へ

下高井戸から玉電で松陰神社前。9時前着。9時過佐藤くん来て世田谷都税事務所2階旧市民大学大教室へ。保坂展人区長を交え総勢30名程の第4回世田谷区自然エネルギー活用促進フォーラム始まる。開会の辞、区長挨拶に続き、区からの情報提供として1. 神奈川県三浦市での太陽光発電についての進行状況。

2. 7月2日開催の自然エネルギー活用シンポジウム(デンマーク・ロラン島の取組みについて)の案内が環境総合対策室副参事より。

次いで、

1. 市民共同型太陽光発電事業について、NPO法人太陽光発電所ネットワーク。

2. 世田谷みんなのエネルギーについて、トランジション世田谷茶沢会。

3. わたくし共の世田谷式ソーラーすだれの展開と進捗状況、世田谷区民のライフスタイルを考える会。

4. マンションに向けたPPS(新電力)の取組み、 (株) ジェイコムイースト世田谷局。

の出席団体からの事例報告等へと移る。

どの報告も抽象的なレベルを抜けて極めて具体性を帯びながら進行していて、正直世田谷は仲々のモノだなあと思った。

次いで質疑応答となる。

わたくし共の世田谷式ソーラーすだれは今回も注目を集めたようで質問他が多かった。

11時半終了。

保坂区長から呼びとめられて昼食を共にすることとする。

区役所前のスパゲッティ屋さんへ。

区長から幾つかのアドヴァイスをもらう。区長はリアリストでもあるから参考になる。早速対応してゆくつもり。

又、世田谷での保育園建設計画の進行状況について報告したりで13時過了。

世田谷線、京王線と再び乗り継ぎ、烏山宗柳へ。ソーラーすだれ開発の問題点、月曜日の金子兜太さんへのプレゼンテーション、常盤の白水阿弥陀堂について、ラダックのアルチ村の三層堂について等雑談。15時了。

明日の白水行は無しにした方が良いなと想いを巡らせたり、建築は見学しなければ始まりもしないけれど、その前に見る眼をある程度深めておいた方が良いのは言う迄もないのである。佐藤研吾も渡邊大志もまだボーフラ程度の眼であるのは言うまでもない。早くせめて蚊になって飛んでもらいたい。

明けて6月15日、8時前離床。メモを記す。今朝はベトナム・ダナンの計画の進行状態を見にゆくので、昨日受け取った模型写真などを眺めている。

金子兜太さんは当代一の感性・論理の共生している人物である。

今、一生懸命考えている最中のアニミズムの世界を体感している人でもある。岩手が宮沢賢治を生み出したとするならば秩父が金子兜太を作り出した。トラック諸島の体験が金子兜太さんを大人(たいじん)に育てる素地となった。そして94才の今にいたる。

わたくしにとっては師であった川合健二が生きながらえていたらこんなか、の人物でもある。

川合健二は一流の科学者の頭脳を持っていた。特にモノにまつわる金の動きには深い洞察力があった。金子兜太は日銀の銀行員時代が長くあった。良く金の仕組みを知る人であろう。

そして共にアニミズムの感性を色濃く持つ。

宮沢賢治は花巻の質屋の息子であった。マア今でいう高利貸しである。その現実を書きはしなかった。詩にもうたわなかった。

恐らく眼をそむけていたのだろう。だから童話の表現形式をとらざるを得なかったのだろう。大人の現実からの離脱である。

それは自分の生の矛盾がなせる現実の洞への逃避だった。それを賢治は銀河鉄道の夜と表現した。

明後日に金子兜太さんにベトナム・ダナンの計画を見ていただき、句をいただく事になっている。

久し振りに緊張しているのである。

現代日本の第一級の感性であり、詩的論理の骨格の持主である。白々しい建築模型なぞお見せ出来るものではない。

できる限りの、固く言えばランドスケープ、柔らかく言えば風景の模型をお見せしたいと考えた。

ベトナム五行山の風景に融け込んだ、アニミズムを仲介として同化しようと試みているモデルを御覧いただくのである。

今日はスタッフにもその事は伝えたい。

何故、生々しくマテリアルを彩色で表現したいと考えたのか。五行山の岩も樹も水も、これからつくり出す風景の中で大きな調律を奏するエレメントになるからである。

先ずは身内とも言うべきスタッフにその事は伝えるべきだろう。

生々しい、しかし脱落身体というべきか、法然の山川草木みなひびきありと言うべきかに、少しでも近づきたいものである。

1187世田谷村日記 ある種族へ

午前中少し計りの外出、すぐ世田谷村に戻り、正一位いきもの稲荷へ・つまらぬ世界の章3を書く。何のために書いているのか自分でもわからぬところがあるが、そこが自分でも面白いのだ仕方ない。何処かで喜んでくれている人がいるやも知れぬし、猫や犬が読んでいるかも知れ……それは無いよな。でも単なる遊びでも無くなるような気もしている。

Xゼミナール投稿、「イカロスと亀」書く。作家論・磯崎新の外枠を決める作業であろうか。時間があればポール・ヴァレリーの作家論の向うを張って、歴史家論もやってはみたいが、能力が及ばぬことも知り過ぎているのが寂しい。

『マンダラ西チベットの仏教美術』(毎日新聞)読み続ける。

明けて6月14日5時離床。今朝は9時半から世田谷エネルギーフォーラムに出席する。世田谷区での保育園建設に関して区長に報告したい事もあるのでいささかの準備をした。8時15分世田谷村出発。

1186世田谷村日記 ある種族へ

12時半、JR市ヶ谷駅で佐藤くんと落ち合う。ホテルグランドヒル市ヶ谷へ。ベトナム社会主義共和国ダナン駐日代表部・北川香織さんにごあいさつ。持ってきた資料、60部お渡しする。

ロビーで待つ間に研究室より連絡あり、近藤理事長に連絡。稲田堤の星の子愛児園の増築の相談であった。

13時定刻通りベトナム経済研究所6月例会始まる。

武部勤・元自民党幹事長あいさつにつづき、理事・米村紀幸氏あいさつ。ベトナム経済研究所長・窪田光純、1.第11期中央委員会第7回総会と第13期第5回国会から何を読み取るのか。2.2015年問題とベトナムの主要産業-サムスン電子とノキアはベトナムの救世主になれるのか。の講演、非常にわかりやすい講演で驚いた。

ベトナムは第五回国会に於いて国名をベトナム社会主義共和国からベトナム民主共和国に変更する討議を行った。ベトナム共産党はマルクスレーニン主義とホーチミン理想を希求する国家・社会の指導的役割を果たす。

国家主席、首相を始め47名の閣僚級の信任投票をする。

結論として何が読み取れるのかといえば、指導部の体質変化、共産党と国会の力のバランスが変化しつつあり、共産党は絶対的国益、国会は相対的国益を担うことになる。

国際的な地位の確保つまり民主国家である事を内外に示し評価を受けることに国会議論が沸騰している。要するに共産党一党体制を捨て、複数政党の国にするのか、等の話しをされた。

次にI.B.C Vietnam Co Ltd Chairman& CEO市川匤四郎氏講演、2020年までにベトナムは工業化を果たせるか?-日越で進める工業化戦略の狙いは、その実態は。の話。

大変熱心な質疑応答が続いた。

終了後、時間がなかったがベトナムダナン精神文化公園内日越交流センター建設について、わたくしの短い計画の紹介と五行山日本寺開山の鐘楼建設への寄進のお願いのスピーチ。

15時過閉会となる。

ベトナム経済研究所は並々ならぬ機関であるのを実感する。

窪田光純と市川匤四郎両氏にごあいさつ名刺交換をして退出。北川さんには御礼と以降もよろしく願いたしの連絡をしなければいけない。

ベトナムは中国とは異なる径をゆこうとしているのかな?

我々のプロジェクトは前途遼遠ではあるがくじけず頑張りたい。今日のところはベトナム経済研究所の方々にダナンで何かしてるのか位の認知をしてもらったと認識したい。

新宿高島屋上のそば屋で昼食、少しの打合わせ。別れて烏山へ。少し心配で、横山弥太郎さんに連絡したら、肺炎で入院中との事でビックリした。イヤな予感は当たる。でも大事は無いとの事でお元気そうな声をしておられた。友人は皆大事にできるうちが華である。そうしたい。

世田谷村に戻り、毎日新聞社の大部の豪華本、『マンダラ西チベットの仏教美術』をじっくり見直す。

ザンスカールのアルチ寺の三層寺が気になって仕方ない。

明けて6月13日、6時半離床。

マンダラ二冊本に見入る。杉浦康平、松長有慶、佐藤健の努力の結晶である。昭和56年発行のこの大部の本は今も輝きを失わない。

1185世田谷村日記 ある種族へ

10時半研究室。40分学部レクチャー。1976年安藤忠雄、住吉の長屋、二川幸夫1955年日本の民家他について。共になるようにしかならなかった日本近代の建築世界で異彩を放った人間であり、人間であった。この問題に関してはまだそれ程に論じられてはいない。論じつめれば日本の近代建築の虚構らしきが浮き彫りにされるからだ。

11時40分残り時間を試験とした。どれ程の聞く耳を持っているのか知りたいからでもあり、あんまり通じていないのは知るのだが残り少ない学部レクチャーでもあるから何とか終いにむけてまとめたいから。

12時半前、打ち合わせ。明日12日のベトナム経済研究会6月例会での小プレゼンテーション、14日の世田谷エネルギーフォーラムでの発表、そして来週初めの金子兜太さんへのプレゼンテーションと続くので、その準備をチェックする。大方良くやってくれていてホッとする。

途中は飛ばして明けて6月12日7時離床。台風3号が接近しているようで雨模様である。昨日、気仙沼市の菅原茂市長より安波山鎮魂の森計画は鋭意続けていくという知らせをもらった。5年先の目標を設定すべき時期になっているように思う。

昨夜フットボール日本vsイラク戦を視たが、日本チームはそんなに強くはないけれど、何とかバタバタと負けないチームにはなっているような気がする。 と誰もがいっぱしの評論家になるけれど、スポーツキャスターらしきと素人の感じていることはそれ程の差はない。彼等も又感想を述べているに過ぎない。とブツブツ言いながら朝食をとる。

冷蔵庫にコロッケがあったのでホーッと思い食べるが、それ程うまくはない。

コロッケはホカホカに限るな。でも最近は朝メシがそれ程美味に感じられず、何処か悪いのかなあと思ったり。ぜいたくなこと言ってるんだろうな。

気仙沼で求めたのり佃煮とコロッケとおそう菜少々、と一杯メシ。

2杯目をいくかという気にならないのだから、やはり不調なんだろう。

若い時にはどうしてあんなバカ食いが出来たのか、今では不気味でさえある。若い頃食ったモノはみんなただただクソになって排出されただけなんじゃあないか。そうに違いない。

雨の朝の朝顔も又、パカリとは咲かずにしょんぼりつぼめたビニール傘の風情である。奴等も不調なのか?

1184世田谷村日記 ある種族へ

7時離床、すぐにサイトを眺める。トップページを流していてオヤオヤと思った。気仙沼・唐桑の七福神、そしてナーランダの僧玄奘、いきもの稲荷社、ダナンの梵鐘のヴィジュアルがズーッと並んでいるではないか。何となく勿論気づいてはいたが全てオリエンタルな画像ばかりなのである。見出しは内容を語ってやまぬ。

言葉の数々の方向は書いている本人は知らぬものである。気が付かぬままに書いている。

オリエンタルな風をローカルなもの、そしてモダニズムの生硬をグローバルなもの、あるいはその属領ととらえるのは明治維新以来の日本人の通念であり国家の国是でもあった。

だから、わたくしのサイトの見出しは反国家的であると自ら言うのは大仰に過ぎるが、突きつめればそういう事にもなろう。少なくとも今吹いている風に対しては向い風である。反国家的であるのと反民衆的であるのとは異なる。例えば日本の東北地方の唐桑地域などの友人や人々の気質には古層の日本の民衆、常民の気質は今も流れているし、それはつい先日お目にかかったインドのスーパーエリート層の言動にも、驚くべき事に岡倉天心の大アジア主義にも連なるインド主義の如くが在るのを感じ取ったのと同質である。

それは世田谷の烏山神社の氏子の方々(代表)の気質にも通じると、自分の見出しの言いわけをしている。

実にこのいいわけが我ながらいじましいのである。

わたくしの大学院生へのレクチャー、これは前期と呼ばれる7月末までの15回程に及ぶものだが、その流れも又、日本の古典建築とヨーロッパ発の現代建築の精華を往復している。学生の理解度は知らず、今年はこの大学院のレクチャーをもってわたくしの先生生活の最終講義とすることに決めている。だから当然少くとも手を抜いたりはしない。

つまり今は小さな自慢をいっている。ホームページのヴィジュアルとわたくしの最終講義とは連動しているのだぞとおどかしているのである。

誰をおどかしているのではない。もちろん独り芝居だ。

今年のレクチャーでは東大寺法華堂床下に見られる亀腹とアショカ王のストゥーパの、もしかしたらの地下水脈を感じられた、発見できたのが自分でも一つの成果ではあった。

又、今週末否1週飛ばして6月21日に話す事になるであろうル・コルビュジェの造型感覚と地中海の光についても一つの成果になるであろう。

と、これは最終講義につながるレクチャーの予告である。

今日は6月11日。昨日藤沢市の高橋雅子さんより、御夫君急逝の知らせをいただいた。御夫君は享年49歳であった。

わたくしの数あるクライアントの中で最も困難に対面しておられた御夫妻であった。夫君は20年もの進行性難病と共に在る生でもあった。

その住宅を考えよと言われ、ハードルの高さにボー然とした。

このプロジェクトは結局うまくゆかなかった。

建築でできる事の限界を超えていたのかも知れない。

アレヤ、コレヤもありわたくしの大きな挫折の一つでもあった。

今日は短くなろうが返信を書かねばならない。

9時半前世田谷村発。

1183世田谷村日記 ある種族へ

8時離床。今朝は新聞は休刊日のようだ。6月10日である。ほぼ1日1度記しているから日記と言うのであり、記したいと想う時にだけそうしたらそれは随想になる。電子随想である。どうやらわたくし奴のコレは日記と呼ばねばならぬ不自由さと随想と呼ぶ身勝手の中間にあいまいにブラ下がっている手合のものだ。日記の形式とは言え、少なからぬ方々が読んで下さっているから正直自分に都合の悪いと想われる事共は記さない。だから充分に記録とは言えない。記録だと割り切れば公表なぞしなければ良い。又、随想と言っても、そんなに想いが溢れ返り、ほとばしる才質ではないから無理矢理言葉をつらねている時もある。むしろ、そちらの方が記録に近いのではないかと思ったりもする。朝顔が何輪咲いたとか薄紅色だとか、イヤ違う色に書いたか。もう忘れた。

小椋佳が東京新聞夕刊に連載していて、これが面白い。夕刊には鈴木博之も連載しているのでいつも読み比べている。両者の字数が異なるので何とも言えぬ部分があるが、山本夏彦は字数の不自由さを克服するのがコラムだと言っていた。その通りだ。

小椋佳の文章が面白いのは、この人物はいつキチンと銀行員という商売と、シンガーソングライターのアーチストとは言わぬが、うたかたの芸人風情の大分長かった両立期間の何故?をキチンと書くかの一点に関心があるからだ。

有り体に言えばシャイロック、ベニスの金貸し商人が♪薄紅色した(ここは不正確)シクラメン程清しいものはないなどと白々しく詠んだなという不信である。今、金子兜太さんにベトナムの鐘の件でお附合いさせていただいている。

兜太さんも日銀の職員だった。小椋桂とほぼ同じく、エリートではあったが労働組合活動に励んだので栄達の径は塞がれた。何故?俳句の径一本筋にならずそれでも日銀職員を止めなかったかと言えば、喰わねばならなかったからだと言明している。トラック諸島で少なからぬ戦友の死を間近に視た人の言うことだから、これは信用できる。信用しなければ、しないこちらがただの非道である。小椋桂も作詩、作曲、唄い手では喰えぬだろうからと銀行勤めを止めなかった。それはそれで良い。世の大学教授の大半はそれに近い者だ。その径では喰えぬからの二足のワラジ者である。

が、小椋佳の問題はその肝心の作詞の世界にある。シクラメンのかほり、があまりにも有名なので、それにこだわるが、清しいという言葉は北原白秋からいただいたと正直過ぎる吐露をしてしまった。北原白秋が辞書を読み尽して言葉をみがいたというエピソードは良く知られる。

北原白秋を学んだとの表明を何の恥じらいもなく書いた。その事は北原白秋の詩に自分の詞は及んでいない事の表明でもあり、おまけにシンガーソングライターの水準一般がそうであるらしいを示したに同じである。業界を背負っている。それはおかしい、中島みゆきや井上陽水の詞はどうなんだとの声も聴こえるが、(幻聴であろう)その点については随分前に井上ひさしが朝日新聞の文芸時評で大きく取り上げて興味深かったが、それ以降そんな論調を聞かず久しい。論壇の批評能力も小さくなっているのか?唄のちからが衰えているのか、両方なのか。あれは井上ひさしの文学界における劇作者としての位置への必死のアピールであったからこそ迫力があった。鶴見俊輔の『限界芸術論』がその背景にあり、長田弘の抒情の変革も又その一つであった。金子兜太は大きく太平洋戦争の歴史を背負った俳人である。俳句は風土であると言明してもいる。

小椋桂はでは何を背負っているのか。何も背負わなくとも良いではないかとは言わせない。大衆受けする詞の数々、メロディーにはそれなりの核があるのだろう。あるいは銀行の、それもトップ級の管理職に求められるであろうさめざめとした管理能力に近い言葉の群に対する支持率の如くの計算能力だけの事であったか。でも、それはつまりは、その類の才質はそれこそうたかたのそれであり、それでしか無い。

昨日は金子兜太の句を読み直して、その一句一句の言葉の彫琢に恐れに似たものを感じてしまった。しかも日本の俳句人口の大きさは巨大であり、それはうたかたと評するには遠い民衆の原基にも近い。どうやらそうなのである。

ベトナム五行山の2.1m高の梵鐘に鋳込む金子兜太さんの句。

その案配には意を尽くしたい。絵日記19の写真には芭蕉の古池や蛙飛びこむ水の音を想定した工夫が示されているが、金子兜太の句としてはいまのところ「五百羅漢の、苔むす沢の鳴りわたる」を想定している。絵日記19に示された句では勿論ない。ただ、金子兜太は芭蕉のこの句によって、俳句は和歌を超えたとする歌謡、俳句の歴史に対する認識を示している。

1182世田谷村日記 ある種族へ

12時研究室、すぐ打合わせ。ベトナム・ダナン・五行山計画。気になっていた18m・4.6mの鐘楼モデルのプロポーション検討。用意された会津若松の栄螺堂の図面との比較検討も。

このモデルを始まりとする事を決める。次に金子兜太さんに依頼する俳句の文字の大きさ検討。梵鐘の大きさ、形状は寄進をあおぐ為にもすでにきめてはいたが、それに鋳込む句については大きさ等が未定であった。鐘楼の塔の大方のプロポーションを決められたので鐘の位置なども仮決めする事が出来た。

人間の眼でどれ程文字が視えるかどうかを、梵鐘の大きな模型を使って詳細にチェックする。

なにぶん初めての体験なので面白いけれどむずかしい。

渡邊くんの作った梵鐘の2.1m高さ、1.2m直径の形状はともかく、表面に仮定していた装飾はやり直さねばならぬだろう。

こうした細部の探求のような事は実に面白い。

仮決めをして、先ず金子兜太さんにお願いする句の書体の大きさを割出すWORKに入った。

再び全体計画に戻り、一期計画の全長200m、全長100m、2案の検討。これも模型が作られてようやく頭の中にスケール感が入り始めた。

最終的にはほぼ1km長の計画となる。

次に昨日、渡邊くんが工務店との打合わせをしてきたので、その報告を聞く。伊藤アパートの打合わせをする。工務店の実利的考えと我々のアイデアがどう共存してゆくかが設計テーマでもあり、これも気が抜けない。

15時前迄打合わせ。

終了後、地下スタジオに移動して学部三年生の設計製図公開講評会に出席する。入江正之先生の独特な課題である。

個々の学生の設計製図の成果はとも角、客観的に見て課題自体のユニークさが時代錯誤に陥っていないかどうかは危ない水準に近くなっているのではないかと痛感する。入江先生の情熱は充分に理解しているつもりだが、その情熱が学生達に通じているかは良く解らない。

学生達の幼さに合わせても早稲田の設計製図教育の中枢が揺らぎかねぬが、次の古谷先生の課題の後にチョッピリ話し合ってみたい。しかし、それよりも若い先生方(非常勤も含めて)の気持ちが表に出ぬ型にはまったスタイルはもっと深刻な問題であろう。学生達の作る気持ちの弱さ、闘う能力の小ささは若い先生方の鏡でもある様な気がする。中途半端な知性らしきを店開きするよりも、自分をも少しさらした方が良い。さらせる自分を育てなさいと言いたい。先生と呼ばれる程のバカは無しだ。

17時半まだ公開講評会は続いていたがひとり抜けて、世田谷へ。

宗柳でいささかのWORK。アニミズム紀行8のゲラに手を入れる。

明けて6月9日、6時離床。研究室のサイトが動いているので眺める。最近は少しサイトが動き過ぎかとも思っていた。過ぎたるは及ばざるが如しである。しかし今朝はトップページのインデックスの作り方等に修正があり読みやすくなった。

コンピューターは記憶し過ぎるので、その記憶を消す作業も大事になる。

晴れた朝だ。

16時、アニミズム紀行8のゲラ校正、書き直し終了。

そして、「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」第5章の2を書き終える。

次回からタイトルをカットすることにした。

これくらいで今日のWORKは止めたい。夜、眠れなくなるのが眼に見えるようだ。

1181世田谷村日記 ある種族へ

10時40分院レクチャー、ノーマン・フォスターのセインズベリーアートセンターを巡る英国ハイテク建築について。水晶宮からの英国の伝統を含めて。

12時前迄。終了後すぐに打合わせ。16時迄断続的に。

17時烏山宗柳でひと休み。唐桑七福神タオル、大唐桑茶セットの新しいチラシを客に配る。

今朝は世田谷村の隣の住民にも道で声を掛けられたのでチラシを渡した。チラシおじさんである。

翌6月8日7時離床。曇天、朝顔が10輪咲く。きゅうりが花をつけ、実もつけている。3階のテラスに出たら朝顔は12輪咲き、ハイビスカスの大きな赤い花が2輪グラリと咲いていた。パッションフルーツのつるものびて花もつけている。水をやる。

テラスにはカンボジアのナーリさんが送ってくれたカンボジアスタイルの七輪がまだあった。人は居なくなってもこんなモノに面影は乗り移っているものだ。

ベトナム・ダナン五行山に計画中の日本寺の鐘楼は、これはわたくしの「塔」にあたるものだなと気附いた。これまでに北海道十勝でヘレン・ケラー記念塔などを設計して実現してきたが、ベトナムのこの塔はより純粋な形式に近いものである。昨日佐藤くんに依頼したので今日大方の塔のプロポーションモデルを見る事ができる。塔はその高さプロポーション(姿形)が決定的である。

今、考えているモノに似通っている塔は会津の栄螺堂だろうが、今日はあの建築のプロポーションとダイレクトに比較する必要がある。

背後に独特な姿形の岩山を背負っていて、それが会津のタワーとは異なり、風景としての独立性がより強いが、形がつくり出す印象は同族である。

螺旋の骨格があり、うごめく生命体の如くをなぞろうともしている。

プロポーションさえほぼ近似圏で決められれば、あとは細部のニュアンスだが、その点については昨日の絵日記17に足がかりを記している。

絵日記16共々塔のプロポーションそして細部、と決定枠として重要なものであった。

11時前世田谷村を発つ。

1180世田谷村日記 ある種族へ

10時半研究室。すぐに打合わせ。ベトナム・ダナン計画、Iアパート、唐桑の件とつづけて。13時前、一度中断して、それぞれ作業を続ける。15時再びWORKを見る。細かな指示を与える。16時過研究室発京王線稲田堤へ。17時半至誠会厚生館着。近藤理事長にお目にかかる。打合わせ。唐桑タオル、ベトナム鐘楼寄進等の資料をお渡しする。

18時駅前の料理屋へ。久し振りの会食。福井のうまい魚をごち走になった。

色々と相談、良い話をうかがえた。20時半別れて再び稲田堤駅へ。通りは道に面して料理屋がテラスを出し、テーブルをも出し良い雰囲気を急速に作り出している。人口が増えている地域の勢いが感じられる。

最近理事長とは意見を同じくする事が多くなったような気がする。

21時半前世田谷村に戻る。今晩はうまい秋田の冷酒までいただいてしまい、少し酔ったか。

翌6月7日8時離床。早朝今朝の院レクチャーで話す事を色々と想う。ミース・ファン・デル・ローエの建築と今朝話すイギリス型ハイテク建築、ノーマン・フォスターの建築は大いに違う。その違いはイギリスの歴史とドイツの歴史、そして風土の違い、例えば光の様相の違いにつながる。

ロンドンからの汽車の旅で得た感想などを話してみたい。受講者が理解できるかどうかは二の次である。考えている事の生な核を伝えるだけだ。

それにしても昨夜は良く食べて、良く飲んだ。近藤理事長もわたくしもまだまだ気持は若いなと痛感する。人と会って楽しく話せなくなったら、仲々、生きるのも辛いことになるのだろうが、まだまだ大丈夫だ。身体がそれについてきてくれるかどうかは問題だけれど。これは思い悩んでも仕方ない。

1179世田谷村日記 ある種族へ

11時半、鈴木博之著『庭師小川治兵衛とその時代』読了。こざかしい読後感を述べるのは控えたい。

ただ近代庭園のひとつのスタイルを作った、鈴木言うところの小川治兵衛の非象徴的とも言える自然主義的日本近代を視ようとした鈴木博之の考えはよく伝わってきた。終末近くワカモトという薬品らしきで近代成金となった長尾鉄弥夫妻の邸宅の庭も手掛け、その庭を恐らく眺めながら想い迷い、遂にこれも又治兵衛作の庭を持つ自邸荻外荘で服毒自殺した近衛文麿の「末期の景色」と淡々と記述するおわりは、まさに小川治兵衛の庭が琵琶湖疏水から水を取り入れて作る池、その池は室町時代にはじまりを持つ日本の象徴主義的作庭とは異なり、水は常に流れていた。そして庭には園遊会に供されるという実利的目的もあったとされる如くであった事などを想い巡らされた。

40年近くも昔、飛騨高山の山中の廃校で和風庭園、小川治兵衛に関する話しを聞いたのを思い出す。ようやくにしてまとめたのである。

13時宗柳で昼飯。しらす干しセットのランチを喰べた。長崎屋のおじんとおばんが居て、おごられてしまった。今日はおじんとおばんは定休日である。おばんは病院に行くという。

ベトナムの仕事に本格的に取り組み始める。

17時前、ベトナム経済研究所・ダナン駐日代表部より連絡あり、6月12日の午後に40〜50名の会があるのでダナン計画の鐘楼基金の話をそこでしたらどうかとの事である。そうする事にしたい。

ダナン計画本格的エスキス作業は17時に小休する。ようやく手の内に入ってきた。日本国内の諸計画と異なり、土地(サイト)のスケールが茫洋として大きい処があるのでスケール感を体得するのが仲々すぐには出来ない。

21時半、絵日記11絵日記12のスケッチ(エスキス)3点了。又、その解説文も書いた。今日はこれでWORKを終えたい。いささかの収穫があった。

翌6月6日6時半離床。新聞を読み、サイトを読む。

3階のテラスの朝顔8輪咲く。濃い紫の花が一輪加わった。曇り空だ。

9時半世田谷村を発つ。

1178世田谷村日記 ある種族へ

10時半研究室。40分より12時前迄学部レクチャー。吉村順三の軽井沢の山荘と磯崎新のN邸、そしてR.ヴェンチューリの母の家。つまり三つの同時代の家について述べた。

終了後打合わせ。集中して幾つかの物件に関して。絵日記による製作ノートがスタートしたので充実させるつもりだ。気仙沼唐桑のタオルのデザインも少し計り手直しした。意外に面白いモノになっている。ベトナム・ダナンの計画の金子兜太さんへのプレゼンテーションの段取りとその内容についてもつめる。ここ2、3日で内容は格段につめ、かつ積み上げたい。

16時終了。16時半新宿長野屋で遅い昼食をすませ、18時半世田谷村に戻る。

翌6月5日6時前離床。ワールドカップ予選は薄氷の引分けであったようだ。

早朝はどうやら脳細胞がザワめくきらいがあるので出来るだけ多くの仕事をこなしてしまいたい。9時迄の3時間で相当なことができるのだ。

8時前、一息ついて小休散歩に出る。実に9時迄は長い。

1177世田谷村日記 ある種族へ

11時研究室、すぐに打合わせ。ベトナム他よりメール着信。 唐桑の鈴木さんと話す。被災地でのタオル製作他は仲々大変だ。でも唐桑宝船計画でもある。乗りかかった船は乗り切るしかない。スタッフ共々無い知恵を絞る。

べトナムよりのメールは寄進可能者(社)100程のリストであり、ベトナムも我々の第一次日本寺鐘楼計画に期待を寄せているそうだ。励みになる。

伊藤アパートの設計を地をはうように進める。材料の吟味が先ず第一である。

全て実物に触れながら、あるいはそれに近い状態でWORKを進めたい。

6月中旬の金子兜太さんへのプレゼンテーションの中身を決める。大方のマスタープランのスケールと第1期、第2期計画の概要を模型で示したい。

16時前了。新大久保近江家へ遅い昼食へ。17時過世田谷村に戻る。

朝、夕の電車の行き帰りで、アニミズム紀行8のゲラに大幅に手を入れる作業をこなす。

19時アニミズム紀行8のはじまりの部分、「少しまとまったはじめに」を書く。

本当はこいつを全てのはじめに置けば良かったのだろうが、自分はこんな考えを持つにいたらなかったのだから、マア仕方無いのだろう。

読者諸兄姉には遅まきながら、アニミズム紀行の旅のはじめにを書きましたと知らせておく必要を感じたのである。

『庭師小川治兵衛とその時代』は5章庭園世界の拡大まで読み進んだ。

4章琵琶湖疏水を庭園へ、で述べられている近世から近代への日本の天皇墓に関する叙述が圧巻であった。現在の皇居前広場=庭園風景の特質を思い起こしながら読むと実に納得させられる。

日本の近代をこのように眺め得るのかと驚くのである。歴史家とはかくなる者であるか。

磯崎アトリエOBのO氏よりメールをいただく。わたくしの作家論・磯崎新、秋吉台国際芸術村のレーザー光線に関して、あのレーザー光線は国際芸術村が竣工する際に設置された萩の三輪和彦氏のアートワークであるとの指摘である。 そうだったかと、事実を確認せずに書いた手落ちを認めざるを得ないが、それでも書いた事の大要を変更する必要は無いと判断した。

この部分にすぐ注釈を入れるつもりである。O氏には御礼のメールを打たねばならない。

明けて6月4日8時前離床。3階のテラスを見上げると淡い青空をバックに紫紅の朝顔が6輪咲いている。今年の朝顔の種は去年咲いたものが残した種であるそうな。見事なものである。ブーゲンビリアの紫紅に似た色であり、南国を想ったり。しかし、青空に浮いた朝顔の花々を眺めたりは世田谷村の2階でしか出来ぬぜいたくではある。

6月5日の国立近現代建築資料館の出欠に関して鈴木博之さんに電話したら、その日は生憎所用があり欠席との事であった。わたくしも安心して欠席させていただく旨伝える。小川治兵衛読書中の途中の感想も伝えた。ズッシリとした読書でこれはやはり文字にしなければ伝えられないのを知る。

小川治兵衛本に大いに刺激されたのだろう、アニミズム紀行8のゲラ校正にはいささか気合が入って随分進める事ができた。何故、アニミズムを旅しているのかを今頃になって記述しているのだから、実は片手落ちもはなはだしいのではあるが、鈴木博之みたいにキチリと全体を見渡して、各部を構成するという頭が欠落しているのだから仕方ないのだ。断片の想いもかけぬ組合わせによる発見らしきを追っているのだろうがこんな方法を死ぬ迄やってゆくしか無いのだろう。

8時40分長澤社長から連絡あり親威に不幸があり今日の夕方の会合はやむなく延期となった。

1176世田谷村日記 ある種族へ

昼に「ドリトル先生動物病院倶楽部から、正一位いきもの稲荷社へ」4章つまらぬ世界その1、書き終える。鈴木博之さんから『庭師小川治兵衛とその時代』東京大学出版、2800円送られてくる。

私的全体性は鈴木の造語かと思われるが、先ずその言葉の響きにとてもひかれたのを今でも覚えている。勝手に個人の才質(行動)が歴史と呼ばれる総体の蠢きに参加し得るのか?それを建築史家から聞けるのかという期待があったからだ。創作家たらんとする者はいつも不安なのだ。自分のやっている事が社会とは言わず、より大きな歴史の一部と連動しているのかの不安である。

わたくしが作家論・磯崎新を書き続けているのだって、その奥底にはそんな不安が横たわっている。

昨日6月1日は110頁読み進むことができた。『磯崎新建築論集』(岩波書店)が、それはそうだろう磯崎新の才智が溢れ返って表現されているのと文体自体の質の形式がちがうのを痛感させられた。これが歴史家の言葉なのかを実感する。現実ではない、そこに確かにある地面(鈴木の言葉で言えば場所)にピタリと足が吸いついていて離れないのは壮絶である。それと比較すると磯崎新の言説はイカロスの如くに空を飛んでいる。ある意味ではいつ身につけた羽のろうが融けて海に落ちるのかを視るのやも知れぬそれ故にスリルがある。

鈴木博之が磯崎新との間に覚めた距離をとるのも、これでは仕方が無いだろうとよくわかるのである。

翌6月2日6時半過離床。カゼは完全ではないがマア抜けたのだろう。

自分でも良く用心したと思う。昨日もほとんど動かなかった。電話と、文房具屋への買い物だけ。昨日の読書『小川治兵衛とその時代』でフッと気がついたのだが木田元の反哲学の考え方、すなわちアリストテレス、ソクラテス以前の自然に密着した思推家達の思考形式と鈴木の場所に密着しようとする思想にはどこかに通底するものがあるやも知れぬという思い付きである。

それで昨夜は鈴木の小川治兵衛と磯崎新の庭園論と木田元を併読しながら読むというバカをやった。今日もしばらくはそうしてみようと思う。

新しい絵日記連載のためにスケッチ3葉を得る。MAN-MADE NATURE のライティングを幾つか考えた。EBARA荘のための内部のスタディーをかねている。言葉も附す事にする。

午後午睡でもと思っていたら、又も鈴木博之さんから『保存原論−日本の伝統建築を守る−』市ヶ谷出版社2200円+税、送られてきてビックリする。まだ小川治兵衛の本を読み切っていないのに、ドスーンドスーンの連続砲である。やはり今年は彼の収穫期であるのを実感する。

置いてけぼりにされぬように、何とか頑張りたいが、今更付け焼刃も無駄な事だから、静かに置き去りにされるしか無いか。

17時40分世田谷村発、同50分烏山区民センター前広場にて横山弥太郎、石森彰、両氏と会う。広場前の博多串焼き屋とやらへ。

想定しておった焼鳥屋が日曜日で全て休みとの事で仕方なし。

20時40分まで談論風発する。石森のオヤジは何ともうるさいが、それはそれで良い。いささか疲れ、別れて世田谷村に戻る。横山、石森両氏共に石山研の不細工な試みには少なからぬ力をいただいている。今度はうまい、冷やしそうめんをズルズル喰らいましょうとないかも知れぬ先のやくそくをする。

そうめん仲間というのも清々しい感じでいいのではないだろうか。

時代は冷やしそうめん状のスルスルになるであろう。ズルズルではない。そう願いたい。

明けて6月3日6時離床。高曇り。朝顔3輪咲く。新聞を取りに降りる。

ついでに庭を1周する。1周するという程の広さではないが、マアそれでも梅の古木が中心に在るので、それを巡った。誰が植え込んだのかトマトやさやえんどう、なすが実をつけている。紫陽花が美しい。亡くなった網谷さんからいただいたズッキーニの株が大きく育って、これも又花をつけている。

再び横になり、9時再離床。

世田谷村日記