石山修武 世田谷村日記 | |
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9月の世田谷村日記 | |
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世田谷村日記猛暑の夏の終りに。 「南インド紀行」(八月二十七日〜九月二日) ポンディシェリのアシュラムを探訪する。 は別枠で掲載します。 | |
R285 | |
八月二十四日 十一時半研究室。雑用と横浜計画スケッチ十三時過ぎまで。スケッチをもとに、簡単なモデル(模型)作りをオーダーする。十三時半卒論ゼミ。十四時了。十五時長井さん来室。菅平の正橋孝一・開拓者の家に関してインタビュー、十七時まで。長井さんは山本夏彦門下の最期の直弟子であったように思うが、仲々山本夏彦風にねじれないところが良いね。でも、いつか 化けるだろう事を期待したい。 明日のN幼稚園プレゼンテーションの資料を院生グループから受け取る。鬼沼計画「時の谷」プロジェクトの説明を渡邊から受ける。このプロジェクトが彼の本格的なスタートポイントになるだろう事を確信する。フレデリック・キースラーとイサム・ノグチがクロスしていて建築らしきが全く出現してこないのが実に良いのだ。 二〇時前、新大久保駅前近江屋で一服。二十二時頃世田谷村にもどる。木本君よりFAXが入っており、彼も私のスケッチのナンセンスなおかしみを理解してくれたようで、嬉しい。彼のように、キチンとした人間がフッと自然にジョークを吐くような状態こそが、現代に最も必要なアートスピリットだと思うのだが。
八月二十五日
十時過ぎ園長先生親子と打合せ。大方理解していただいた。
十二時二〇分了。水草をいただいて園を去る。
十三時四〇分大学着。エレベーターが何故かストップしており、ゼイゼイいって八階まで上る。誰も来ていなくて、鍵も無く研究室に入れず。
二階竹内ラウンジも閉じており、その前の素寒貧なスペースで、いささかの作業。横浜計画の別系のアイデアを得る。 十二の伽藍の物語を立ち上げようと、何時の頃からか、決めていた。いろいろなやり方を、魔法使いのように使ってね。とても困難なことだろうってのは充分過ぎる位に自分に言い聞かせてはいる。覚悟してるんだ。動かぬ人になったY氏の困難さと同じ位に。むしろ、まだ私の身体は動いているから、より困難であるのかも知れない。そうなのだろう、きっと。 | |
R284 | |
八月二十三日 T社長との打合せ、十一時了。昼食を済ませ十三時前研究室。十三時H社の方来室。仕事の依頼だが、一両日中に引受けるかどうか返事する事とする。私も慎重になった。十四時半了。 十七時A氏来室。福岡オリンピック案作成で世話になった人物である。コーリア料理屋で会食。彼はプロだから今は東京側から請われて、東京オリンピック案作りに呼ばれている。健闘を祈りたい。スポーツ系の人の気持ちの働かせ方はけれんが無くて良いね。世界陸上があるので大阪に帰らねばならぬというので十九時過ぎ了。
八月二十四日
九時前H氏来る。いささかの打合せ。二〇分修了。今日、明日中に案を作ってみる必要あるか?福岡オリンピックの選手村計画の 1/10 くらいの規模である。十時過ぎ世田谷村発。今日もセルフビルドは休みかな。十一時研究室。 | |
R283 | |
八月二十二日 十三時、昼下がりのギラギラするような陽指しの中を大学へ。こんな日はインドの農民みたいに、ガジュマルの大樹の陰で昼寝を決め込むのが一番なのだが、何故か心地良くない。研究室は空調は完璧なのだが、風が通らないのが、本格的な不健康さを感じさせるのだろう。現代建築は心身を束縛する。 十三時、遊学社の方々、ダカーポの取材で来室。十四時半了。世田谷村日記を読み直してみると、八月十日から、3F、4Fのセルフビルドを始めているから、今日で十三日目になるのだな。今年の暮までには何とかしたい。
十五時前N幼稚園の仕事をみる。木本君よりFAXあり、椅子は今回は難しそうだな。
二十一時世田谷村。 これまでの人生で、考えて考えて意識的にやった事ってのは、十年後位になって振り返ってみるとたいした事では無かった。無意識というか極く自然なように始めた事だけが、長い時間に耐えて,自分の中に残っているような気がする。 こんな風に考えようとする事自体ある意味では実に傲岸不遜な事であるのは知るが、どうやらそれは自分にとっては本当の事のようだ。それを自覚する、つまり意識せぬ事の理を意識できたのは、マア何となく良かったのではなかろうか。 ただ、二〇代の無邪気な自然体に戻るというのではなくて、これを社会化することには必要以上に充分な意識が必須である事も知る。二十二時スケッチをしていたら、変テコリンなアイデアが出てきたので描きとめる。木本さんに作ってもらうモノをイメージして描いたのだけど、彼がこのスケッチを見てニヤリと笑ってくれるか、どうかはまだ解らぬ。大判の用紙に描いたので、明日の午後縮小して広島に送ってみよう。このアイデアはシリーズ化出来るかもしらんな。
八月二十三日 | |
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八月二十一日 幾つかの、細かい打合わせ十七時了。近江屋により木本君に連絡。インド・アショラム調査の件。木本君のパスポートがギリギリで、出発を一、二日遅らせる事になりそうだ。ほとんど同時にWの親族の異変の情報が入り、予定はグラグラになった。
全く、生活というのは面白いもので、ディテール一つで全体の仕組みが変わらざるを得ない。 自分の、ここたった数日の世田谷村セルフビルドを要するに、これは素人の畑作りに等しい。野菜を素人なりに育ててみようという気持ちと、木という素材を核にした自分なりの無造作な技能的表現とは酷似しているんだなあ。
八月二十二日 | |
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八月二〇日 十一時研究室。木本展椅子の打合わせ。N幼稚園打合わせ。椅子 12 ,態のスケッチ十五時前了。同三〇分打合わせ了。近江屋他に寄り、十八時過世田谷村。少し計りの工事をする。夕方の散歩の人が集ったり、わざわざ望遠写真を撮る人迄現われて、何やらただならぬ気配を周りに漂わせ始めているようだ。巨大な人間の巣作り状に思われ始めているのであろう。
八月二十一日 | |
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八月十八日 チョッと涼しい土曜日になった。朝から、ダラダラと3Fテラスのセルフビルド。少しづつ進める。小さなプラント、BOX一つようやく上がる。戸棚の箱を利用したもの。次第に姿形が現われてきて、どのように仕上げるのかに頭を使う時間が多くなる。家の者達が嫌がっているのもスピードを鈍らせている。夕方、早々と切り上げる。ハイビスカスの鉢を、作ったプラントボックスにあげ、一人喜ぶ。
八月十九日 日曜日 と、冷静に思いつつ、体は自然に3Fに。大きな部材は作るのに音がうるさいので、小さな物だけの作業にしようと思いつく。集めていた、小さな木箱を組み立てている棚に組み込んだ。宮崎の現代っ子ギャラリー藤野忠利さんより贈られてきた、幾つものメール・アートの箱状のものも組み入れる。世田谷村の三階には藤野さんのアートも参加する事になった。
そんな事をしていたら、午後、藤野忠利さんより郵便辿り着く。宮崎の地域誌じゅぴあ同封。相変らずの元気振りで活動されているようで嬉しい限りである。
八月二〇日 | |
木本一之展の設計・時の谷の設計 | |
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八月十七日 十七時過新宿南口味王。同三〇分研究室スタッフ渡辺他集合。夏の終わりの打合わせ。渡辺大志からフレデリック・キースラー論の概要ペーパーを受け取る。壮大なスケールで考えようとしている、その事に少し計り心地よく驚いた。 このプログラムをスピーディにさっと乗り越える事ができれば、彼は生きる。若い世代の力に対する不信感はあるにせよこれはこれで、いささか大変な考えを進めようとしているな。
世田谷村のセルフ・ビルドは続けてゆこうとは決めているが、ヘンリー・デービット・ソローのウォールデン森の生活とは決定的に異なる時代の試みであるのは勿論自覚している。要するにあり余るゴミを使っての何かをしている。 | |
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八月十五日 昼に成城東宝DIYセンターに行き、マキタの 190MM 丸ノコを購入。10,290 円也。帰って早速試し切り。実に簡単に角材を切断できるので、昨日までの手鋸作業が馬鹿馬鹿しい。 十五時半研究室。十七時過ぎ新宿南口味王。十九時前了。 味王で、向風学校プログラムに関して相談する。自民党離党の向風派平沼先生と石山研OBの関岡氏の対談を、向風学校のゼミ第一弾にしたらどうかという考えが出された。それは良いと思ったが、それならば第二回のプログラムは、平岡敬前広島市長と鎌田慧くらいにしなければいかんな。レフトサイドの人材が著しく欠けているのを実感することしきりである。
八月十六日
十三時西調布へ。猛暑である。得るところ無く、烏山にもどる。安田金物店にて、九〇ミリ、七五ミリの釘を購入して世田谷村にもどる。作業を続ける。九〇ミリの釘を斜め打ちするのはとても難かしい。夕方まで作業。
八月十七日 二人の職人さんの汗をポタポタたらしての作業につられてしまい、テラスに出て組立て仕事を始めてしまう。十一時水分不足となり、今日のWORKを中止。
十二時前、グリーンテックの職人さん二人の仕事了。何故、故障したかの説明を受ける。感電が右手で良かったですね、左手だったら心臓に来てたかも知れない、だって。イヤ、実は左手からだったんだよね。危なかった。 | |
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八月十四日 感電後しばらく横になっていたが、死にそうもないので起き出し材木と再び格闘。何だか力が出て、十八時前までWORK。電気が身体に入ったので、チカチカ体が反応するようだ。指先から光なんか出るようになったら、異能霊力マンとして売り出したい。 十九時鎌田家訪問。二十二時三〇分戻る。
八月十五日
しかしながら、何とか3Fテラスの南側の棚作りは一列横並びにつないだ。一階に寝かせている古材は、残りは大材が多くなっているので、電動鋸を使わないと体がこわれるなコレワ。 | |
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八月十四日 三時半、起き出して、もそもそと雑事。手紙、スケッチ等。八時過ぎ再起床。二〇分テラス作業開始。今日は体が慣れたか、手鋸での木材カットもそれほど苦にならず、少なからぬ量を三階に運び、組み上げる事が出来た。九時半了。 十時半、烏山北口の百円ショップで釘購入。六五ミリまでのセットケースと、五〇ミリのもの一ケース。それ以上の長さのモノが無いので、北口安田金物へ。九〇ミリ、七五ミリのモノを入手。再び三階テラスの造作にとりかかる。十二時半まで再び汗まみれになって遊ぶ。 世田谷村北側電動開閉部分が故障して、直そうと試みるが、感電してブッ倒れる。電気部分は故障しても直せないのが難である。命からがらだね。感電のショックで歯が一本折れた。歯一本でよかった。 モーター部スイッチに触れての感電は一度目だが、今回のは強烈であった。左肩からドスーンと電気が入り、ショックで歯を強くかみしめたので、一本前歯が折れた。肩から口にショックが伝わったのであろう。肩から心臓に来ていたら、危なかった。モーター部は高電圧なので要注意のラベルが貼ってあったのだが、油断してしまった。セルフビルドならぬ、セルフメンテナンス中に感電死なんて最期はいただけない。恐らくはもの笑いの種になるだけだろう。感電ショックで気分があんまりよくないので、今日は研究室には出掛けぬ事とする。暑い中、研究室で作業中のスタッフにはすまないが、感電ボケなので許されたし。
どうやら、電気、電子は私には鬼門のようだ。
夏感電 歯をくいしばり ボキリかな
もう今日は何もしない。 | |
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八月十三日 今日は新聞朝刊が休み。昨日は寿町で久し振りに東南アジアの中華街の活力の一端に触れることができたが、向風学校中華街ツアーなんてのも面白いかな。日本の中華街はチンマリとしてるので、外に出るのも良いだろう。若い頃に世界中の中華街の比較研究をやってみようという野心を持った事があるが、向風学校なら出来るかもしれない。 材木を切り、三階に上げ、積む。小一時間程で汗ビッショリ。クラクラするので休む。プノンペンの「ひろしまハウス」レンガ積みツアーを一人でやっているようなものだ。今朝の仕事を外から眺めてみる。自己満足の極みだな。昨日のスケッチに手を入れる。
十四時二〇分桜上水通過。カンカン照りのアンダルシアみたいな空だ。十五時研究室。 | |
木本一之展の設計・時の谷の設計 | |
R274 | |
八月十二日 日曜日 九時過迄眠り込む。体の節々が痛い。今日も猛暑のようで、午前中鋸を買いにゆく位で三階のテラス改造は休みたい。十時烏山北口安田金物店へ。百円ショップにも寄ってみたが、十時半開店でパス。電動丸ノコは安田には無かったが、休日の作業になるだろうから、旧式の手鋸を選んだ。 製造元はレーザーソー工業株式会社。発売元が玉島産業株式会社。玉島青雲作の商品名である。三〇四五円。やっぱり切れ味を試してみたく、太目の角材で試してみるに、昨日のモノとは桁違いの切れ具合なのであった。長いのを三等分して、三階テラスに運び上げ、積んだ。八月中に三階のテラスは一変させたい。 十三時二〇分世田谷村を発つ。十四時半根岸線石川町駅。ドトールコーヒー店で待つ。安西、山本君等と待ち合わせ、中華街、寿町のライブ会場へ。労働福祉館の外部吹き抜けを上手に利用したライブ会場だった。バンコクのヤワラー(中華街)の棺桶屋群の裏手の中庭をすぐに思い出した。寿町の夏祭りと合体させて、屋台も沢山出て大変なにぎわいである。 ソウルフラワー・モノノケ・サミット、デラシネ・チンドンという名の沖縄の人気バンドがオープニングの演奏である。三〇メーター角、立体四階分の空間は人で埋め尽くされている。外部のスロープが見事な空間と人の群れが一体となった風景を作り出している。向風学校の夏祭りはこんなのも良いだろうね。諏訪君遅れて登場。大判のスケッチをなぐり書く。 安西君の案内で寿町を歩き、運河状の北斗なる砂利船を利用した簡易宿泊所を見学。一泊千円である。中をのぞく。船底のガランとしたほの暗いスペースでパーティションは一切ない。ゴロ寝、災害避難の体育館みたいな場所である。
再びライブ会場に戻り、間近の居酒屋でビールを飲む。まさにドヤ街の居酒屋で、オッサン達がたむろして、カラオケ等をガナッている。向風学校のメンバー達はオッサン達とも自然に良くなじんでいる。十七時頃、彼等と別れて一人帰途につく。十八時頃世田谷村帰着。面白い一日であった。 | |
R273 | |
八月十一日 八時より九時半迄、屋上に断熱材を運び上げる作業で、汗ビッショリ。これは余り頑張っちゃうとブッ倒れるな。鉄板部分がムキ出しになっている 28m2 程に大方、一階、地階にゴミ状に散乱していたスタイロフォーム他の断熱材を貼りつめた。足りない部分にはブリキの水槽他を上げ水を張る。更に地下にあった模型の地盤部分も貼り込んでしまう。屋上は奇妙な風景になった。 熱中症になるから止めろと家の者達が叫ぶが、どうにも止まらないのであった。昼食後、余りにも暑くて参ったが、再び何故か動き始めて家の者の総反対を押し切って3Fテラス部分の製作にかかる。 パンツ一丁で帽子をかぶるという不気味な格好である。汗は怒濤の如くに、ボタボタと流れ落ちる。二度程風呂で汗を流し。それでも結局十六時迄作業を続ける。重い材木を上迄運び上げるのと、切れない鋸で一八〇 mm 角の角材を切るのは全くしんどかった。 ヘレン・ケラー塔の木製のモデルも、テラスの部材として組み込んだ。屋上同様の変な風景になりつつある。 結局、猛暑の中、七時間程の重労働となる。春に下の畑に瓦を埋め込んで垣根を作った時以来の、マア、セルフビルドである。十七時過、流石にもう体が言う事をきかなくなった。
スケッチも銅版画も今夜は出来ないだろうな。腕がブルブルに振動してしまう状態になっている。 | |
R272 | |
八月十日 天の川打合わせを終え、近江屋へ談論の席を移す。今年の前半は極立って振い立つチャンスもなかったが、相も変わらず底打ち水平の状態であった。良いのは、今より悪い状態はないという確信だけなんである。 院生達にはグレードを踏んで過酷な要求をするようになるであろうが、何とか、それには耐えてほしい。十九時半世田谷村に戻る。秋くらいから、本格的な仕事は世田谷村の地下実験工房に移さねばならんと思っている。
若い院生の生態を観察するに、彼等は順応性に富んでいるが、生命力にいささか欠けるきらいがある。しかし、その基本的な構造は変えようがないのだから、その良さらしきを呑み込んで、それを延ばしてゆくしかない。ひと昔前の社会を前提にすれば、といつも思いがちだが、その非力さは社会の非力さでもある。個々の可能性を発見してゆくしかない。 | |
R271 | |
八月十日 昨夜の打合わせを再要約するに、部屋の夢を重視すべし、だから当然世田谷村を出すべきだ。これは受け入れた方が良い。世田谷村の母の部屋を公開してもいいかなと思ったり、S氏はメガで、マシーンで作るような建築からは人々の関心は完全に離れていると言うのだが、近代建築は本来その筋でやってきているから、北京モルガン・プロジェクトは白昼夢としての意味しか無いかな。 驚いたのは、S氏は自宅に自分で集水装置らしきを作り、ミニマル家庭菜園を実現、ミントを栽培しているらしい。世田谷村より余程進化しているじゃネェかと反省すること仕切り。世田谷村は構えは坂口安吾の小説の如くに堂々としているんだが、中に入ると、ガランとした土間だけという感じだな、我ながら。 すだれを三Fのテラスに少しずつ架けて、三Fのテラスを菜園化するのを試みてみるか。下の畑はキュウリを収穫した後は雑草ボーボーで遂にゴーヤ、トマトはうまくゆかなかった。この雑草と戦うのは大変だから、もう放っておこう。 と言いつつ、久し振りに下の畑にデッカイ化物キュウリをと青じそを得る。思い切り蚊にさされる。三階テラスに古材を上げて、夏のよしず小屋を作り始める。パンツ一丁で汗だくだく、周りの人々は又、馬鹿が屋根に上って何か始める気だなと、遠巻きに眺めているのではなかろうか。十一時朝昼食。世田谷村には古材と瓦はくさる程あるので、それを使ってささやかにやってみる。金属の箱 650mmX800mm 2ヶテラスに上げ、四階の床に断熱材を少し計り貼り込んで今日の仕事を終える。十二時学校へ。
技術とデザインゼミ、発表者二名。終了後、天の川計画ミーティング。今日は皆まとめてきた。このプロジェクトは彼等にとても合っているなと実感。うまくゆきそうである。十六時半了。 | |
R270 | |
八月九日 大学、自業自得大明王石のこと、について三〇〇字原稿。他雑用。十七時過野崎正之さん追悼文八〇〇字書く。一八時講談社S氏来室。世田谷美術館カタログの件。十九時半近江屋で打合わせ続行。色々と参考になった。そんなに大それた事は出来まいが、何とか、美術館と出版社を結びつけられたら良いと思う。二十二時前了。 私の考えたいと思っている事と今の社会の風潮とは、原理的には一致しているのだが、それを説きほぐそうとする過程の様相ではだいぶ開きがあるようなのを、S氏との話し合いで感得する事ができた。大筋の変更はあり様も無いが、その表現の方法に随分知恵が必要だと考える。 しかしながら、私には軽やかに振舞って見せる事は出来ないし、それはイヤなのだ。今は、なべて軽やかなカジュアルスタイルが日本を席巻しているのだが、それは私には出来ない。講談社S氏には、最近の私が書こうとしている中枢を伝達していないので、そのプレゼンテーションはキチンとする必要があるだろう。
深夜、京王線は超満員の人の群れだ。皆、こんな夜更け迄何をしようとしているのだろうか。私自身も含めて、実に不可解なり。 | |
R269 | |
八月八日 十四時大学。ミーティング。収穫は少ない。仕方ないだろう。まだサナギを相手にしてるんだから、でもいつかは、トンボ、カゲロー位には育ってくれるに違いないと信じたい。スケッチを渡し、この通りにやってくれと言う計りなり。 夕方、マンネリだが近江屋で一服。世田谷村に戻る。北京モルガンより電話入り、いささか急な動きなり。今日は GA HOUSES 100号の記念号と、エクスナレッジの巨匠特集が送られてきた。ジャーナリズムも人材が不足しているな。建築デザイン界も完全に人材が払底しているとしか言い様がない。要するに皆勘が悪いんだな。ペーパーの専門誌の未来は決して明るくはない。 夜半、向風学校の支援体制に関して熟慮、熟考をしばし。相当に薄く広い支援体制が先ず必要であろう。昨日描いたスケッチを近々安西直紀に送らなければならないな。
八月九日 十時四〇分、一段落。北京ドローイング一点作成。十一時四〇分昼食をとる。暑い。世田谷村は良く風が通るのだが、それでも暑い。テラスの鉄板を裸足で触れると飛び上る位だ。
十四時前、学校へ。夏休みの学校は人が居なくて仲々良い感じなのだ。 | |
立ち上がる。伽藍 | |
R268 | |
八月八日 〇時半。疲れて眠ろうと思ったが、眠れず。銅版と対面する。銅版は彫れずに、スケッチ二点。天の川計画ディテール。〇三時迄。TREASURES OF MOUNT ATHOS のイコン群を眺めて横になる。〇四時。 八時半起床。山口勝弘先生と連絡。神戸ビエンナーレ出展の小型プラネタリウムは直径 20 m、高さ 10 mという堂々たるものであった。太陽テント保有のもので、こいつを使って何とか世田谷で山口先生とのコラボレーションが出来ないかなと考えている。砧公園でやれる、か何処か寺の境内が良い。 向風学校用のドーム(プラネタリウム)はズーッと借り物で行くのも良くないから、スポンサー名入りのエアードームを作って、それを持ち運びするのが良い。小さなドームを何個も連結できるように考えたい。あるいはキースラーと山口勝弘のエンドレスかたつむり、モバイルシアター。二つのスケッチを描く。
ここにきてようやくにして、今年初めまで銅版に沢山のアンモナイトが登場してきていた事に筋道が視えたような、新たな幻想が生まれた。このプロジェクトはフレデリック・キースラー、山口勝弘とコラボレーションだな。 | |
R267 | |
八月七日 十二時半、N幼稚園水車小屋スケッチ四点描く。 十三時世田谷村発。新宿で吉田にスケッチを渡し説明。アトはうまくやってくれるだろう。午後は世田谷区のプレイパークを幾つか見て廻る。 羽根木プレイパーク、体験農園、世田谷区立桜ヶ丘、すみれ場自然庭園、鳥光山光母寺北の北鳥山プレイパーク等を見て廻った。オリンピック記念駒沢公園には、子供達の為のパークは見当たらなかった。北鳥山の世田谷区土木課管理の、通称もぐら公園が一番自然で良かった。これは原っぱだ。雑草がボーボーと生い茂り、空にはトンボが群れ飛んでいる。 プレイパークは大学に間近な戸山公園にも良いものがあり、親近感はあるのだが、それ等に一様してあるのが、小汚いのが自然なのだという、プレイリーダーや親達の自己満足の露出である。良い出発をした筈なのに、どうもうまく発酵していない風がある。要するに「美」が無いのだ、何処にも。全てを良いデザインでコントロールするのもナンセンスであるが、何処かに、子供心にもオヤ?と思わせるようなモノが欲しい。それが無いと、タダの小汚いゴミ小屋パークになってしまう。今のところはプレイパークはその水準だ。厳しい見方かも知れぬが・・・・・。
N幼稚園のデザインで、この批判をモノで表わしてみるつもりである。十九時前、世田谷村に戻る。今日は世田谷区とプレイパークの勉強をした。二十一時半銅版画一点ほぼ了。 | |
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八月六日 ドローイングの大きな奴と四点、銅版画十点程を研究室に移動させる。十三時ミーテイング。十六時世田谷美術館の皆さんと打合わせ。二〇〇八年六月二十八日のオープニング、正式に決まる。 展覧会は幾つもやったが、本格的な個展は初めてなので頑張りたい。もう、すでにドローイング作業他は始めているが、一切過去を振り返らずに、やるつもりである。二十一時半打合わせ了。二十三時半、世田谷村に上海の張イフェイよりTELあり、イェール大学の優秀な学生であった彼女も、今は上海のディベロパーのGMになり、近々、ロシアのサンクトペテルブルグの開発の総まとめで、しばらくロシアに移動すると言う。世田谷村の住民でもあった若者達が自由自在に世界を動き廻り始めている事に、とても可能性を感じている。イフェイには、サンクトペテルブルグの開発には俺も参加させろ、と言っておいた。二十四時横になる。
八月七日
長い長い絵巻物も何とかなりそうだが、コンセプトの再整理が必要だ。入口ロビーの空間からスタートさせるのも必要だ。 | |
向風学校のすゝめ | |
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八月五日 日曜日 午前中は休み。十四時半銅版画「ROOM」#6了。 十七時半の向風学校のミーティングがあるので、その準備を少し。十六時四〇分、世田谷村発。十七時半新宿南口味王で安西、諏訪両君と会う。
二十一時修了。淡々とした会合であったが、収穫はあった。しかし常識人は常識人のフレームがキチンとあるな。彼等はそれが良い。しかし、物足りないところでもある。九月二十八日池上の寺院養源寺での無我プロレスラー西村修氏の講義で、向風学校は幕を明ける。綿密な準備を両君には願いたい。
八月六日
米国の良心がどう反応するだろうか。それは知りたい。米政府の反応などではない。平和運動家の言葉でもない。極く極く普通のテキサス辺りの農場で働いている様な人の反応が知りたい。人間の良心(尊厳)は政治家や運動家の気持ちの中には薄まっているものだ。名も無い人の気持ちの奥深くに、静かに眠っていると信じたい。それが無ければ、世は終りである。 | |
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八月三日 十一時研究室。ミーティング三件。明日のN幼稚園プレゼンテーション及び話しの準備。十三時卒論。再びミーティングの後十五時設計製図採点。 入江正之先生より河出書房新社刊「ガウディ」いただく。帰りの電車で早速読みふける。ガウディ研究者として最良の書き手による一般向けの概説書である。入江先生は今井兼次、池原義郎と続く、早稲田建築の血を最も深く継承する人物である。私の予想では生涯に何冊かのガウディ論を書き継ぐであろうと思われるが、この本はその入口のようなものだ。 入江正之はすでに何冊かのガウディ論を描き終えているし、その論はアカデミーの世界では論文の学会賞を初期に受賞しており、ガウディ研究の恐らくは世界での第一人者であると思われる。この本ではそれを踏まえて、作家としての入江正之の言葉が処々に記されており、それが興味深い。 敢えて暴論を吐くが、アントニオ・ガウディという人は生真面目な信仰者に特有ないささか朴念人だったのではないかと思われる。幾つかのガウディ本にそれらしきも記されている。初期のグエル邸やテレシア学院の建築の骨格にもそれは良く表れている。
入江正之の建築作品も又、その生真面目さが良く現われていて、単純な鑑賞者にとってはガウディの匂いをそこから感じ取る事は困難である。今井兼次の建築もそうだったが、入江もその骨格は色濃く生粋のモダニストである。しかし、私はこうにらんでいる。 三島由紀夫がその作家論で述べた如くに、批評と創作はコインの裏表で仲々に両立はしない。ましてやガウディ研究と自身の表現とを溶融させる事は不可能に近い事だろう。 が、しかし入江正之は人生の晩年にそれを成し遂げるのではなかろうか。入江の言説、時に学生の作品へのクリティークのはしばしから感じ取るのは、言葉と作品の乖離である。さりながら、これは彼にとって大きな財産でもあるに違いない。こじんまりと言葉と実作品がまとまっているよりも、余程大きな可能性を私は感じるのである。クライアント次第で彼は飛躍するに違いない。ル・コルビュジェもラ・トゥーレット僧院を作ったのが六十八才、ライトの落水荘も同様である。入江正之自身がどう考えているかは知らぬが、早稲田建築の為にも頑張っていただきたいものだ。 ガウディは私も深い関心を持つので、この本の評は後日、書き述べる。
八月四日
八時半起床。朝食後、再び銅版に向う。もうほとんどコレワ銅版病だ。十一時四〇分、世田谷村発、杉並N幼稚園に向かう。十二時半幼稚園、渡辺同行。園長先生に「お母さんと子供達のビルディング・トゥギャザー」計画の事前説明。十三時過よりお母さん達、子供達が集り始めた。久し振りの現場集会の風が漂い始める。この雰囲気は嫌いではない。
十名弱のお母さん達が耳を傾けてくれた。今秋から、この東京でこのお母さん達とセルフビルドで色んなモノを作り始めるので、最初が肝心なのだ。「水車小屋」、「天の川」を先ず作ろうという事になった。「天の川」とは宙に浮いた天水受と、その流れの計画である。 十八時、T社直営のショップ、たなごころ2Fのスローミュージックカフェへ。T社長招待で、若林忠宏氏、哲J氏のインド音楽、アボリジニ音楽を聴く。意外であったのは、そのライブが仲々良かったのだ。哲J氏のディジュリドゥ呼ぶ管楽器の音が素晴らしかった。六〜八センチメーターのシロアリに内部を空洞にされたユーカリの2メーター程の管をトランペットのように吹く楽器であった。アポリジニはこの長いラッパをイダキ・マールクと呼んでいるらしい。若林氏のシタール演奏も仲々良かった。二〇時半終了。暑い原宿を去る。二十一時半世田谷村に戻る。
葉祥栄氏から何冊かの書籍を送られてくる。通読してみるつもりである。今、ファッションのスーパーフラット的建築デザインの日本での源は、葉氏のガラス建築にあったことは歴然としている。しかし、それは葉氏の重要さを証明するだけではなく、葉氏のデザインの問題点をも同時に含んでいる。 | |
R263 | |
八月二日 朝五時迄銅版画に取り組む。新しいシリーズを始める事ができそうだ。九時半起床。十一時銅版一点ほぼ完了。「ROOM」十四時三点ほぼ了。午後研究室とFAX連絡。N幼稚園の「お母さんと子供達のセルフビルド」プロジェクト、第一段階は皆良く頑張った。十八時半四点目了。意外な程にはかどった。銅版というのは何日も続けていると、いわゆる現世復帰が非常に難しくなるな、コレワ。
八月三日 昨日とりつかれた如くに没頭した、四点の銅版画は我ながらこれ迄のものの中では飛切りに良い。しかし、危い。装飾古墳の中に入り込んでゆく風があった。 一夜明けて振り返るに、銅版画は私にとっては旅なんだな。時間を遡行し、川を下るが如き旅なのだ。大きなドローイング四点を描いた時には、その大きさそして色彩の多用という事もあり、良く身体を動かせた。だから、そこには何を描いても前向きな何者かが現われる。 前向きというのは社会性を帯びると言うに等しい。距離はあるけれど、どうやらそのようである。だから、ドローイングは全て建築世界に属すると言い切れる。又別の言い方をすれば、それでしかない。芸術というのは正直良く解らない。危なさだけは知る。建築は良く解る。解るようになってきた。 ドローイングは全て具体的なプロジェクトを想定して描かれている。他人には、とてもそんな風には見えぬであろう。しかし、身体が老化し始めている自分自身を励まし、エネルギーを注入しようとしているやも知れぬ。 私の銅版画は、コレワ、明らかに芸術の領域に属するモノであろう。社会的には何の意味も持ち得ぬ代物である。少なくとも、私自身には何の意味も発見できない。でも、他人が勝手に発見してしまう可能性は否定できない。芸術はすべからく、そんな宿命の中に在る、誠にネガティブなものだ。
九時、再び銅版用鉄筆をとろうとする自分を押し殺し、朝食とする。本当に危ないよ、銅版画は。以前彫っていた銅版にはそんな危うさを自身感じていなかった。が、昨日思い知った。危うきに近寄らず、が良いかもしれない。 | |
二〇五〇年の交信 渡辺豊和X石山修武 | |
R262 | |
八月二日 追悼、小田実。 〇二時、三〇日に小田実氏が亡くなった。何度かお目にかかった事もあり、我孫子真栄寺で会ったのが最後になった。彼も佐藤健から紹介された。七十五歳であった。この世代は戦後焼跡世代であり、磯崎新、山口勝弘、榮久庵憲司等と同世代である。 私の見るところ、強い世代だ。 何故強いかと言えば、全てが破壊された現場を見ている。身体がそれを記憶している。都市ばかりではなく、人間関係も呆気なく壊れざるを得ない戦争を若々しい眼で実見していた。 だから、一見楽天的で前向きなエネルギッシュさの裏に深いニヒリズムが実ワ、背中に張りついている。人間、いざとなれば何をしだすか解らネェぞ、というのを知っている。だから時に思い切った、アッと人を驚かせるような行動に出る事もある。べ平連とかエロ業界を作るとか、建築の解体を言ってみたりする。どうせ何やったって全てつぶれて、死ぬんだからと、心の奥深くで知っているからだ。さめざめとしてる。 さめざめとしているからこそ、思い切った事もする。だから彼等には最前線が良く似合う。後ろでモゾモゾしているのは似合わない。私は彼等から干支の数くらいに遅れて生まれた。戦後の焼跡も、空襲も、原爆も知らない。せいぜいその名残りの風景を知っているに過ぎない。 今では国際キリスト教大学の美しいキャンパスになっているところにゼロ戦格納庫の掩体壕があって、その小さなペンペン草が生い茂っていた丘で遊んでいたような、そんな原風景しかない。あるいは武蔵野に米兵相手のBarがあって、日本女性のホステスが彼等と路上で抱き合っているのを、横目で見ていた世代である。 何故だか、私は小田実の世代の人間に弱い。時に言いなりになってしまうのは、こいつ等には少し計り遅れて生まれてきちまったの自覚があるからだろう。彼等は地獄を見たのを知るからだ。 この世代もポツリ、ポツンと居なくなっている。実に大事な世代であるのだが、人生の宿業であるから仕方ない。しかし、彼等が居なくなって自然に私の世代が最前線に押し出された時、我々は一体何を成す事ができるのか。いささか、友人、知人の顔を思い浮かべるに心許ない。 要するに、地獄を見ていないから、何をやってもドスがきいていないんだな。中途半端なモノしか見ていない。戦後民主主義にもドップリつかってしまった。それに裏切られていても、実は真昼の地獄を見ている現実にいても、それに気付かぬ振りを決め込んでしまう弱さがある。
マア、しかし、兄貴とも言うべき世代の代表の一人、小田実も居なくなった。
どうせ、いつか間もなく死ぬんだから、やる事はやっておかなくちゃならない。アイツ等の背中を見て走るのは、ソロソロ卒業しなくてはな。その背中が失くなり始めているんだから。 | |
立ち上がる。伽藍 | |
2007 年7月の世田谷村日記
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