石山修武 世田谷村日記 | |
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10月の世田谷村日記 | |
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九月二十九日 六時半起床。新聞を読んで再び眠る。十一時前再起床。朝昼飯を食べて、昨日のメモを記す。昨夜の西村修氏の姿勢が常に見事であった事を思い出したりしている。アレも癌を克服している一因であろうが、マット上のプロレスラーの姿としての必然でもあろうか。
今日は藤野さんへ送る小ドローイングは休もうかと、フッと思いもしたが、気を取り直してとりかかる。十三時半、No. 6、No. 7を書き終わる。十四時前小雨の中大学へ。
九月三〇日 日曜日
十月一日 | |
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九月二十八日 十三時研究室、富士ケ嶺モデルの最終チェック。GAギャラリーに出展するものだが、来年の世田谷美術館のマテリアルにも予定している。富士山麓の大きなランドスケープと溶岩地質を利用した洞穴庭園である。向風学校の拠点の一つにも考えている。 十五時池上養源寺に向けて起発つ。第一回の向風学校開校準備レクチャーである。アドヴァタイジングは差控えたが、一体何人の人が集まってくれるか、いささか気になるところだ。久しぶりに旧型のデジタルカメラを持って出た。 十六時池上養源寺。本門寺の丘下のたたずまいが美しい寺である。安西、諏訪君がすでに到着しており、かいがいしく下準備中であった。他にも、アメ横の星マシュー君、初対面の小泉君、酒井君等が縁の下の力持ち役をしてくれた。 十七時過、TAXIでプロレスラー西村修氏到着。山門をくぐる一瞬をどうしてもカメラでとらえたかったので、待ち構えていたのだが、上手いショットが撮れた。このショットだけで小さな小説くらいは書けるだろう。 控え室で西村氏と話す。氏はレクチャー用のメモを作成しており気合いも充分であった。 客足が長く続き、予定時間を少し遅れて開校する。安西の挨拶に続き、西村氏「死と共に生きる」レクチャー。西村氏は淡々と、直裁に自分の癌体験を語り続けた。宿病癌を語り、これ程までに前向きに、しかも具体的に、ウーン、仲々表現し難いが未来への光に満ちた話が聞けるとは思いもよらなかった。 一時間半程を話し続け、会場からの質問も多く、予定時間をオーバーして終了。私も最後に小スピーチした。西村修のキャパシティはまだまだありそうなのだった。 参加者は予想を上回る八十名弱であった。年令、職業が多様で若い人も多く、まずまずのスタートであったのではないか。 時間も遅かったが、予定通りの二次会も下丸子の居酒屋で、うるさい居酒屋であった。二十四時前、散会。西村修氏、六車氏、世田美のN氏等とお別れし、安西君に送って貰い世田谷村に戻る。
向風学校、第一回の印象記らしきものは、「向風学校のすゝめ」に近く記すので、読んでいただきたい。良い会だったと思います。 | |
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九月二十七日 六時起床。新聞を読み、藤野氏へ「東の大馬鹿より、西の大入り馬鹿へ」 No. 3を描き、七時十五分再び横になる。白い霧の中に居るような朝だ。九時過再起床。 毎日大判のドローイング用紙と葉書を持ち歩くようになるな。十二時四〇分烏山駅。十三時半富士嶺PROJECT模型チェック。十四時教室会議。十六時過、再び富士嶺モデルに張りつく。二〇時迄モデル作りに張りついた。途中、鬼沼の個別モデルもみるが、仲々どうして大変だなコレワ。作る(創る)手間より、初歩的な事を教える手間の方にエネルギーを取られるような気がする。コレでは本物を作れないが、教師になったんだから仕方が無いのでもある。 二十二時過京王線車中。今やってみたいのは、思う存分に想いと考えを集中したバカでかい模型を作る事なのだが、沢山スケッチを重ねても、その一点に集中が絞れないのである。バカデカイ模型とはそのまんま、自分の等身大の可能性そのものの表現だからなあ、ある意味では恐ろしいのだ。
九月二十八日 今日は池上・養源寺にて向風学校開校準備レクチャー、第一回プロレスラー西村修「死と共に生きる」がある。今のところ七〇名位の参加者のようだが、百人位までは充分大丈夫な会場なので、予約無しでも参加されたい。今日は千村君にも会えるようなので楽しみにしている。 友人の佐藤健をガンで失い、又、その闘病生活を間近にもしたので、死と対面して、しかも静かに闘っている人間にとても関心がある。ガンを持ったプロレスラーがどんな話しをするか、興味津々である。
今日の記録はしっかり取らなくてはならないので、その連絡だけはキチンとしたい。 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 最終日 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 9/2 | |
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九月二十六日 十三時過千歳烏山より新大久保へ向う。研究室でささいな打合わせ。その後雑務としかいいようのない時間を少し計り。十七時北園先生と会食。若い創作家達が創刊するメディアに関して相談。「建築をあきらめない」という名前にすると決めた。いいんじゃないの。仲々、今の時代を反映した名としては最良であるように思う。その他ディテールに関して相談にのり、様々に思い付きのアイデアを供する。十九時四〇分了。 二十一時世田谷村、意を決して宮崎の藤野忠利大愚に、愚かなり我心底という感じで返信シリーズを描き始める。題して「東の大馬鹿より、西の大入馬鹿へ」大入馬鹿というのは藤野忠利の美術の根底のコンセプトというか、願望に何しろ「大入り」つまり大繁盛というのがあるからだ。 連日、藤野流メールアートが世田谷村に一方的に届き、この落し前どうするんだと考え始めていたので、それならば同様にメールというかアートらしきを送り返そうと決心してしまったのである。実に大馬鹿な決断をしてしまったのは我ながら、解っているのだが、馬鹿には馬鹿で返すしかないのである。いつまで続くのかは定かではないが百枚くらいは続けたい。 藤野氏のメールアートの作品群は一点毎にほとんど時間がかかっていないのは、一目りょう然なのであるが、私のは少くとも一点十五分位の時間は、かかっているのである。 真の芸術家は皆、いかにインテリゲンちゃんの顔がまえを装っていようとも、要するに、その根底は馬鹿なんである。その馬鹿さとは社会との合理的機能主義的関係の基準で計られるわけだが、芸術家は深く馬鹿である必要がある。それが意識されていようと、無意識であろうと、なんである。
眠くなってきたので、二十二時前、横になろうとする。ここ二三日動き廻ったのでやっぱり疲れた。 | |
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九月二十五日 十時前ホテル、チェックアウト。渡辺より富士嶺計画の模型写真FAXが入っていた。野村にピックアップされてH邸現場へ。建築はバランス良く出来ていた。何しろロケーションが良い。三点程気がついた事をアドバイス。二階の窓からの樹木のたたずまいをスケッチ。 十二時前Hさん姉妹、娘さん、A建設担当者と、青山別邸にしん御殿なるデッカイ屋敷で昼食。HさんのSANSHOなる、オリジナル、味モノの話しで、はずむ。雨、滝の様に降りしきる。 十四時半、楽しさは尽きぬけれども了。Hファミリーとお別れして、A建設本社へ。専務にあいさつ。十五時過小樽駅で野村と別れ、千歳空港への汽車に乗る。今、十五時四〇分札幌着、そして発。 十七時〇五分のANA臨時便がとれたので、フライトは二時間早くなった。十九時前羽田空港着。今、二〇時山手線品川附近を走っている。何処に居たって、動いていたって同じなような、同じでないような、何を基準にそう感じるのかが問題だな。
九月二十六日 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 9/1 の2 | |
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九月二十五日 六時前、小樽グランドホテルクラシック(旧越後屋ホテル)で起床。昨夜は二〇時前小樽駅着。汽車ではズーッと眠っていた。野村が駅迄迎えに出てくれていた。TAXIでこのホテル迄はすぐであった。小振りな明治建築をホテルに再生したもので仲々良い。少し疲れていたので、晩メシはホテル内でと思っていたが、野村が気をきかせていくら弁当とビール、一カンを用意してくれていた。ささいな事だが有難い。 一人部屋で弁当食べて、自民党総裁選報道などTVを観ていたが、バカバカしくなって、いつの間にやら眠った。 六時前起床。バスを使って頭を洗う。脳味噌を洗ったわけではなく、残念ながら毛髪を洗っただけだ。十時に野村にピックアップされてH邸現場に行く予定である。
七時過、スケッチでもしようかとホテルを出ようとしたら、いきなり稲光りを伴う激しい雨で、仕方なくホテルのダイニングルームで朝食。八時過室に戻る。 | |
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九月二十四日 五時起床。昨夕の空にも増して、澄み切った美しい朝焼けだ。冷水さんは年を取られても純粋な芯が崩れていないところがいいなあ。七時迄、スケッチ四点、思はぬところで、思はぬスケッチが手に入るものだ。朝の冷気と光が気持ちを軽やかにしたのだろう。腹が減った。 七時半朝食、だるま屋さん心尽くしの地元産品朝食。今朝のカニは水深の八メーターのところでアミにかかったそうで、その淡い味噌汁。ナスのツケもの、青ジソのアエもの他、豊かなものだった。八時過了。スケッチ一点制作。 九時半WORKSHOP発表会。 クリティークを各発表毎に。十一時終了。少し暑くなった。十二時三〇分新潟空港。市役所の方と別れる。神戸の冷水氏と二人新潟空港でしばしの時を過ごす。 只今十六時十分、空港内のソバ屋と、中華料理屋をハシゴして、冷水氏と今別れ待ち合いロビー室に居る。冷水氏は大阪空港へ、私は札幌空港。便を待つ。新潟空港内のソバはマズイ。ソバ評論家のはしくれとして一言ケチをつけ置く。
十八時二十分新千歳空港駅小樽行きの列車に席を得て座っている。
もう何年にも渡るお付合いになるが、冷水さんと、じっくり話し合ったのは初めての事であった。冷水さんは六〇才、RIAを定年退職され、これからは建築と絵の両道に進もうとしている。フランスのアルル、プロヴァンスで絵を描いてみるのだ、なんていう処は私よりもズーッと純で、思はず、それはやめた方がいいんじゃないかの余計なお世話までしてしまった。こんな下品な世の中になった今でも、六〇才にしてかくの如き、ブチ切れた人物が居るとは、心強いが、マ、心配でもある。 | |
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九月二十三日 日曜日 七時起床。昨日午後は大学で雑務。今日は新潟へ、昨年に続き二十一世紀型農村研究会のワークショップ。八時二十分世田谷村発、東京駅へ。九時二十八分の新幹線で新潟へ向かう。 昨日、GAの名カメラマン高瀬良夫氏死去の報を受け取る。今日が通夜で、どうしても駆け付けたかったが、新潟では少なからぬ人が待ってくれていて、無念の欠礼となる。 昨夜、K、W君と写真を中軸とした本を作ってみようかと相談したばかりだったので、高瀬氏逝去の報は何かの虫の知らせであるのやもしれない。 GAの建築写真は巨匠二川幸夫、名人高瀬良夫が両輪であった。野性の人二川幸夫に対して、高瀬良夫の写真は実に切れ味も良く、ある種の建築のエレガンシーを表現するのが常であった。 御二人共に、よくありがちな写真家の屁理屈は一切無かった。写真機に自分の怪し気なテーマ等は持ち込もうとはしなかった。そこに在るモノを、そこに在るがママに撮ろうとしたのである。 二川幸夫もそうだが、GAのカメラマンは常に単独で動き、そして写真を撮った。助手やドライバーを引き連れて、はほとんど無い。重い機材を運び、素早くセットして、素早く撮影して、帰った。 その全体の動きが、際立って格好良かった。高瀬さんは殊に凄く格好良かった。プロのガンマンみたいなところがあった。だから、無闇に弾も浪費しなかった。ウデが適確過ぎるぐらいに適確であったから。
世は写真もデジタルの時代である。カラー写真の色調、他も操作できるようになった。 しかし、高瀬良夫の数々の写真、プリントが示していた、えも言われぬ質、風格、気品等々については、良く良く考えなくてはなるまい。只今、十時前、大宮通過。
十一時四十分過ぎ、新潟着。市役所の方にホームまで出迎えていただく。 佐渡島が大きく、夕陽に光っている。海は少し荒れ気味で、もの哀しい風景だ。空は極彩色に変化し、雲の形も有為天変、見事な曼荼羅である。このような空の姿は、インドでは仲々に見られなかったとハッキリ言い切れる。 十八時過ぎ、越前浜の地元の方々との懇親会始まる。自治会長より丁寧な挨拶を受ける。酒が出て、地元の人々の心からの手料理、さらに仰天したのは、地元のオバさん達の心尽くしの踊りの連続であった。 おかめ、ひょっとこの面をかぶり、尻はしょりまでした、オバさん達の、いわゆる戯れ唄の連続に、茫然とはしたが、しかしコレワみな地元の善意の固まりなので、ありがたいことではあった。 越後の人の酒の強さは筋金入りだ。そこかしこで日本酒をビールのごとくにやり取りする風景が出現し始めたので、自治会長の中締めの挨拶を潮時に、ひとり引き上げた。十九時半過ぎであった。
日本海に面した民宿だるま屋の二階、六畳の部屋に引きこもる。あとに残した参加者、学生達は大丈夫なんだろうかとも思うが、それは知らんよと考えた。 | |
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
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九月二十一日 三時アベルと打合わせ。メキシコのラテンアメリカ・オリンピックシンポジウム及びチリ建国二百年プロジェクトの件。ラテンアメリカは視界に入れてあるので前向きに動く。メキシコのホセから電話あり、メキシコで会うことになる。 チリという国は南北に五千 km 、しかも最小の幅が百五〇 km という国土自体が河みたいに細く流れている形をしているのが特徴で常にその流れを分断しようとする動きと、合流させようとする動きの相克が歴史を作ってきた。 北京モルガンプロジェクトを少し違う方向に組み直す必要に迫られてきた。モルガンオーナーのパワーと日本の企業家、企業体のパワーにリアルな開きがあるのを痛感する。 GAに出す模型の下地を見る。デッカクて良い。世田谷美術館のデッカイのはまだ決まらないが、マ、チョッと馬鹿馬鹿しい程にデカイのを作るつもり、最終的には世田谷村の1Fに置けばいいや。
九月二十二日 アメリカによるエネルギー封鎖の圧力による自衛の意味もあっての事だろうが、現行システムに対抗する必然としての環境政策というのは良く解るような気がする。 しかし、日本の労働組合運動家、共産党関係者の書くものの古さには目をそむけたくなるものがあるな。書くニュアンス、つまり文体だが、その不自由振り、未成熟振りは、主義主張を実はその内容さえも侵食、覆い尽くしてしまう力があるのが自覚できていない。 今の一部の若者達の言葉のセンス、メール言葉に代表される幼児退行性らしき無自覚な消費生活者の品性と同じようなものだ。
午前中、スケッチ一点。銅版画の想を練る。想を練るったって、鉄筆を持って銅板に対面しないと、リアルな考えは出てきにくいものだ。十二時過研究室へ。在日ブラジル人学生に会う予定。 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 9/1 の1 | |
R304 | |
九月二〇日 研究室OB関岡英之氏より平沼衆議院議員のシンポジウムの便りをもらう。彼も骨っぽい男だな。コーディネーターとして会を組織している一員のようだ。落選した静岡の城内元議員の応援をしている。ああいう、キチンと道理を立てて逆らっている人は応援すべきだ。早速向風学校の安西君に肩入れを頼む事を計画する。 イデオロギーは二の次である。気質として長いモノに巻かれ難い人物は信頼できる。
安西君に、向風学校の九月二十八日の会のポスターを渡す事になったので、早速関岡氏とコンタクトするように依頼する。近江屋で会う事にした。
九月二十一日
名残りの、夏の暑さが今に続いている。宮崎の藤野忠利さんよりジジイミュージアムの大入りアートらしきが連日届いている。世田谷村は藤野色にそまろうとしている。 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 8/31 | |
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九月二〇日 九時前、N幼稚園現場着。大工さん、トヨ屋さんと打合わせ。地球ジャングル隣の場所に再び位置出し、縄張りをする。再び、昨夜作成の図では不都合が生じるのが判明して、一部を変更する。変えれば変わる程に良くなるのが、私の仕事の特色だ。 縄張りを終えたら、子供達百人位、お母さん達十七、八名が夏の雲のように湧き出て、根切りを始めた。「お母さんたちと子供達のビルディング・トゥギャザーでやりましょう」「面白そうね」で始まったプロジェクトなのだが、実際に幼児達が土を掘ったり運んだりし始める風景を眼の当たりにしたら、年甲斐もなく驚いた。 カンボジアのひろしまハウスのレンガ積みの光景が突然TOKYOに再現されたからだ。 百人を超える幼児が何かを作っている風景ってのは、本当に仲々良いものだ。当然遊びだと思っているから、嬉しそうに土堀り土運びをする。七三才の大工さんは、とまどって「素人なんだから、相手にしてたら大変だよ」とこぼすが、五、六才の子供に素人というもの変だぜ。 縄張りしても、当然、縄からは大きく外れる。だからニ、三度縄張りし直したりであったが、チビ共とお母さんはそれでも水車小屋の根切りをほぼ成し遂げてしまった。人間の力ってのは仲々のものだ。40cm 角のコンクリート基礎を砂利の上に二ヶ並べて、休む。 遊びなんだから、休みたくなったら休むのである。あと十三ヶのコンクリート基礎を埋め込むのも来週には終ってしまうのではないか。 十二時過ざるソバをテラスで喰べて、のんびりする。チビ共が掘った穴ぼこが、小さな遺跡みたいに出来ていて、いい風景である。あとしばらくは大工さんと、お母さん達で工事は進められるだろう。チョッとしたお祭りの気分であった。 水車は蒸気機関車じゃないけれど二連にするから、もし、本当に廻って電気が取れたら面白い。チビ共は自分達で発電所を作った事になるな。
十三時幼稚園を去る。十四時過研究室。 | |
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九月十九日 九時十五分N幼稚園。園長先生、大工さんと打ち合わせ。子供達への安全性その他を考慮して、水車小屋のプランを大巾に変更する。十二時十五分了。十三時過研究室戻り。打合わせ。十四時前、ときの忘れモノ綿貫さん達来室。絵巻物他の打ち合わせ。沢山のアドヴァイスをもらう。銅版画十点あずける。 十六時GA杉田君来室。GA展のインタビュー他。十八時前了。杉田君がどうまとめてくれるか楽しみにしよう。 十八時、スタッフの作図チェック。鬼沼、N幼稚園、富士嶺。同二〇分了。明日早朝の打ち合わせ用図面の完了を待つ。実物のチェックはどうしてもキツくなる。 写真家中里和人氏とのセルフビルドの長期取材がようやくにして単行本になりそうでホッとしている。田辺さんが子育ての最中に編集を担当してくれるとの事。いい本にしたい。
二〇時過、昨日の決心をアッという間に踏みにじり、又も近江屋へ。二十二時了。 二十二時半前京王線車中、多くの困難に面している現在だが、我ながら不思議な事にそれ程メゲてはいない。前を見ている。二十三時世田谷村に戻る。
九月二〇日
中里さんにこの現場の写真は撮っておいてもらわねば。セルフビルドの本に是非共収録したい。世田谷美術館の展覧会に一つだけ、バカデカイ、内に入れる模型なりを作ろうと決心する。 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 8/30 | |
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九月十八日 十二時過研究室。鬼沼、富士嶺計画打合わせ。その後雑務、そして渡辺豊和氏への交信を久し振りに書く。他のHPパーツをゆっくりと動かしてゆきたい。十八時過研究室を発つ。W、O等と新大久保ソバ屋近江屋で一服ス。 イタリアの生活スタイルを真似て、夕方そこらで一休み、及びチョックラ一杯の息抜きをと思って、しばらく、近江屋通いのスタイルを続けてきたのではあるが、チョット、このスタイルにもあきてしまった。それに、我ながらイヤみな作為がある。これはモンスーン地帯には不向きで、この習慣らしきはしばらく止めてみたい。 二〇時十五分京王新宿発。先程、駅のKioskの広告を眺めてみれば、長嶋元GIANTSカントクの夫人であった方が死んでしまったとの事である。スーパースター長嶋も、その夫人の末路も共に哀れ極りない。人間はヤッパリ最期のスタイルが大事なのかも知れんなー。
九月十九日
昨日、幾たりかの手紙をいただく。やはり、メールと手紙では何やら嬉しさのリアリティーらしきが全く異なる。この感じ方がネット世代には無いのだろうと憶測する。こういう身体的リアリティの差異は大きい。二〇年位経ったら、感性そのものの形らしきが、まるで違うものになっているのかな。メールは発光する。手紙の字体は闇に沈潜する。 | |
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信 | |
R300 | |
九月十六日 日曜日 六時起床。鬼沼前進基地のスケッチ。昨日のアイデアを記録する。鬼沼で炭焼きから貰った炭を三Fテラスの水槽に入れる。浄水槽に入れる炭は百袋でも足りないという。世田谷村の水槽に入れた炭はキーンと音を立てて二つに割れるのがあった。チリ関連の本を読む。
九月十七日
九月十八日
この十日間の空白はおそらく近代政治史の中でも稀な空白であろうが、ここに焦点を当てる報道が無いのは全く不可思議と言う他はない。政治家、マスメディア共に同様な体たらく振りではないのか。政治家もジャーナリストも消費社会ボケしている。 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 8/29 の1 | |
R299 | |
九月十五日 六時起床。新聞を読み、たっぷり朝食をいただく。七時四〇分発。東京駅へ。今日は鬼沼行である。今、HPには世田谷村日記と併載でインド紀行が連載中なのだが、ネット上で時間をクロスさせるのは、やってる本人は、すでにもう一人の自分を見ているようで面白い。これもバーチャル世界です。恐いバーチャルは薄皮一枚なんだ。
九時の汽車で郡山へ。途中、いつものソバ屋で昼食。大根サラダそばとイナリ寿司いただく。十二時二〇分鬼沼現場着。現場は炭焼小屋その他、飯場小屋みたいなのが建ち、ますます荒涼としてきた。これをかいならすのは大変だ。 時の谷の造園が本格的に開始されるので、渡辺は一生ケン命である。しかし、図面とすでに進んでしまっている池、他の造成工事のズレを埋め合わせるのにはこれ又力技が必要である。長さ百二十メートル程の庭園だが密度の高い造形が出来そうだ。 炭焼きガマで出来たての炭を炭焼きスタッフから一袋手みやげにいただき、帰途につく。今日は広島の木本君の展覧会のパーティーだったのだが、どうしても現場で、土地造成の現場スタッフと打ち合わせが必要だと考え、木本君には失礼した。現場で池の位置決め他が出来たので、収穫があった。又、前向きなアイデアも得る事が出来た。
二十一時過東京駅で皆と別れ、今京王線車中。アベルより前進基地の図面一式あずかる。明日、少し手を入れたい。渡辺より、サウンドアーティストビレッジ・プレゼンテーション図面一式あずかる。ベーシーの菅原正二に渡さねばならぬ。 | |
R298 | |
九月十四日 十八時前、向風学校の連中に見せる為の富士ヶ嶺のプランを下書きするように頼んだが、当然まだ出来ない。無理も無い。こちらの段取りが無理すぎるのだ。六時半とり敢えずの資料を持って出る。二十八日七時よりの向風学校開校準備レクチャーへの参加者が集まり始めている。皆さん、プロレスラーが先生でも非常に知的な先生ですから、恐くありません。是非御参加を! 十九時新宿東口うなぎ屋小林。高野太一郎君 26 才、司法試験合格祝賀会。向風学校安西直紀主催の会である。諏訪幹事長の他、アメ横の英才岩楯磨州君も参加。磨州君には先だって横浜寿町でお目にかかった。 金に余りにも欲が無いのが私の傷なのだが(本当につくづくそう思う)少し直したいこの悪いクセは。彼等もどうやら御同様の人種のようだ。何が私と異なるかと言えば、私にはまだ何かをしなければならない、作りたいという強迫観念の如きがあるが、彼等はそんな強迫観念は薄い。 やりたければ、やるし、やりたくなければ動かない。それが実にスッキリ、アッケラカーンとしている。私にはまだ高度成長時代的な上昇志向がアリアリと残っているが、彼等は水平疾走志向が特色だ。
二十一時半頃まで歓談。二十二時過ぎ世田谷村に戻る。 | |
R297 | |
『左官教室』休刊に寄せて 十一時研究室。打合せ。丹羽君復帰でHPの編集についても相談。 『左官教室』 615 号が送られてくる。一九五六年(昭和三十一年)七月に創刊され、半世紀にわたって営々と続いてきたこの雑誌は、今号をもって休刊となった。
左官教室の小林澄夫編集長には長らく大変お世話になった。 私は、左官教室を介して、当時の松崎町長依田敬一、日本左官業組合連合会会長杉山三郎、そして日本中の名だたる左官の名人上手達に出会うことが出来た。四半世紀昔のことである。サグラダ・ファミリア聖家族教会の外尾悦郎に出会ったのも、その延長線上においてであった。 私の教え子の幾たりかも、この雑誌にはお世話になっている。
始まりがあれば終りもあるのは世の必定ではあるが、世間の無為に流されて、左官教室が消えてしまうのは本当に残念ではある。
小林澄夫さんは編集者としては実にオーソドックスで、だから変人であった。
編集者はその根底に、作らずに作るという職業上の宿命を持つ。
だから、塗り壁、職人の雑誌でありながら、本の中には処々に詩人の詠嘆が顔をのぞかせるのが面白かった。
こういう編集長で、良くドロの本、左官の本が続いて出るなと、私はその事に実に興味津々でもあった。 何度か酒席を共にした。編集長はいきなり詩人の本性を露わして、俗人には不明な事を口走るのであった。「死ぬのは、北の方の、オビ河あるいはバイカル湖と辺りと決めてます」「どうせ一人ですから、何の思い残すことも無いですし、カラフト、サハリン辺りでもイイのです」
こういう科白を聞くたびに、大俗人の私なんかはギクリとして、うつむくばかりなのであった。
中原中也の如くに、あるいは太宰治の如くの迷惑人間ではなかった。
その本体はあくまでも抒情詩人であった。
土壁、左官、これ等は俗にいう時代の負け組の代表選手達である。 小林さんは、何時、いかなる場所でお目にかかっても、おごり、たかぶり、意気揚々としていることはなかった。いつも北風の中に身をちぢこませて、哀しそうなのだった。孤独という者に親しみ過ぎた人間の面影が厳然としてあった。 これからの冷たい風がソヨソヨと吹き渡る時代には、まことに似合う人物なのである。品位があった。
アア、と詩人を真似てつぶやいてみる。小林さんはこれからもズーッと一人で、彼の詠嘆を詠い続けるだろう。その影を忘れぬようにする、それが少しばかりの知合いであった私に残されたものだ。 | |
R296 | |
九月十三日 宮崎現代っ子センターの藤野忠利さんより、大きな絵が12点送られてきた。赤が主調の抽象画である。藤野さん古稀を迎えるにあたってその記念に描いたものも含まれているようだ。世田谷美術館のN氏が現代っ子ギャラリーを突然訪問したもようで、藤野さんは大変嬉しくなり、それでこの作品の大移動になったようだ。 今の私の生活は開放系技術論の体系構築と「立ち上がる伽藍」群の表現活動に軸がある。技術と表現という風に言い直しても良い。きれいさっぱり言ってしまえば建築の魅力は、一人でそれを成す事が不可能である事だし、純粋芸術の魅力はすべての表現を単独で成し遂げる事ができる、その事につきる。建築表現は共同作業だ。ドローイングや銅版画も厳密に言えば人の力を借りなければ出来ぬ事もあるが、原理的には単独で可能な事だ。
九時十四日 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 8/28 | |
R295 | |
九月十三日 朝、鷲尾倫夫氏の写真集「THE SNAP SHOT」ワイズ出版に見入る。 思いたって、その感想の如きモノを鷲尾氏に書いて送った。写真の数々の印象はともかく、その配置に並々ならぬ一人の人間の総体を感じたから。人生と俗っぽく言い捨てたくない感じなのだが、この一冊にはやはり、それらしきものが充分につまっている。船乗りから写真家への転身が、鷲尾氏にすべてを旅の如くに眼に写らせる独特な才能をもたらせたのであろうか。 鷲尾氏の眼になった積りで(それはとても難しい事なのだが)写真集を繰り直すと、一編の物語が浮かんでくるような気もする。フォーカスのカメラマンとして二〇年仕事した、ドキュメンタリストとしての眼と、それから踏み出した詩情を併せ持つ写真集である。
写真家というのは実に面白い人種だ。
幾つかの葉書を書き、ゆっくりとした朝を過す。 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する 8/27 | |
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九月十二日 十六時過ぎ研究室に戻る。 今朝は八時世田谷村発、九時雨の中を杉並N幼稚園着。 ドシャ降りで園庭には大きな水たまりができていて、子供達は大喜びだった。早速、隣の竹やぶに出かけ、二、三年生の竹を五、六本切る。 井口義夫さんは七十歳、五十五歳まで竹材店を営んでいた。その井口さんに色々ご指導いただきながらの作業であった。 切った竹は「天の川計画」の竹のトヨに使うため。園庭にグルリと円環状に宙に浮いた竹の天の川をつくろうというもの。今日はその実験である。ずぶ濡れになって竹やぶに入り、お母さんや子供達と一緒に、竹取りじいさんよろしき作業。子供達と一緒に切った竹を運んだりした。
六十三歳になってやる事ではないなと思いつつ、これが実に面白いのである。切り取った竹を井口さんが長手に半切する。それを竹のヤグラを組んで、空中樋にするのだ。
子供達の庭に、コレでは危なくて仕方ない。
しかし「天の川計画」はディテールでつまづいた。院生も絵を描くことと実物作りの落差を感じただろう。それがないといつまでもマシュマロ生活なのである。結局、十五時まで作業に没頭してしまう。 | |
「南インド紀行」 ポンディシェリのアシュラムを探訪する プロローグ | |
R293 | |
九月十日 十三時、打合わせ。編集の丹羽君が体調不良で休んでいるので、サイトが本格的に動かない。それで、いささか変則的にこのスペースに、。向風学校開校準備講義第一回のお知らせを。
九月二十八日十九時〜二十一時、池上養源寺にてプロレスラー西村修(無我プロレス所属)世界チャンピオン(タッグ・マッチ)癌をインドでの修行、食事療法で克服。なぐる、けるのエンターテイメントプロレス界に独自の世界を築きつつある。 サウンド・アーティスト・ヴィレッジ、富士ヶ嶺洞窟庭園、打合わせ。夕方、アベルとメキシコの件打合わせ。
九月十一日 | |
向風学校開校準備講義第一回のお知らせ | |
R292 | |
九月九日 日曜日 九時半まで寝てしまう。昨夜、世田谷村には二十二時過戻った。午後、富士ヶ嶺洞穴洞窟スケッチ。二十二時迄。
九月十日 | |
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九月七日 十二時過研究室。十三時過材料とデザインゼミ、卒論チェック。学生よりも先生の数の方が多いという異常が起きてしまってる。研究室ミーティングは二つのチームを作り、来週より本格的なWORKを始める事とする。十六時半、安西、諏訪両君来室。向風学校打合わせ。安西君より佐賀、福岡遊軍の話しを聞く。近江屋で一服。
九月八日 安西、諏訪両君を見ていると、当時のまだ二〇代であった自分の姿を鏡に映しているような感慨に落ちることがある。向風学校はエネルギーを持て余しているばかりであった自分の、建築以外にあり得たかも知れぬ径を彼等になり代ってもらい探求している。今日は向風学校農園のサイトを視察の予定。 九時、調布駅北口でT社長を拾い、富士へ。渋滞で時間がかかった。十一時半砂場で昼食。ここのソバは味が落ちた。十二時過、富士の農協で富士ヶ嶺造園のオヤジさんと落ち合い、オヤジさんの荷車で彼のグリーンプラントへ。オヤジは欲が無く、広大なグリーンプラントも休み状態。 T社長の会社と富士ヶ嶺造園の組み合わせで新ビジネスが生まれないかの相談を始める。七棟の巨大なプラントが休眠状態で、オヤジは岩ヒバを火山岩に植え付け、妙な盆栽状オブジェの製作に熱中している。 向風学校の校舎としてグリーンプラントを一棟借りる事とする。ここで、若い連中と新ビジネスのモデルを考える事を決める。十五時迄話し合う。外の空気は涼しく東京とは別天地。十五時過オヤジに富士ヶ嶺観音堂まで送ってもらう。ミヤゲに火山岩にヒバやら、何やらを植え込んだ小オブジェを幾つか持ってけと言うので、遠慮なくいただく。
富士山のバカデカイシルエットを正面に、観音堂で富士ヶ嶺庭園洞穴のスケッチ。 | |
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九月六日 昨日の定期検診の結果は良く、身体はほぼ復調した。ゆっくりと頑張りたい。インドの旅がとても身体には良い方へ働いてくれたかも知れない。
九月七日
九月二十八日に第一回の試行レクチャーが芝の寺院で開講されるが、第二回迄を含めてネット上に告知しなくてはならない。癌をかかえたプロレスラー西村修氏の話しを中心に進める事になる。 | |
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九月五日 十六時京王線車中。とり敢えず動いている。台風が来ているらしく、明日は荒れるのだろう。
九月六日 若い人の、何となく病気風の影みたいな姿も眼につく。年齢に関はりなく、皆さん、それなりの悩みを抱えているのだろう。都市は不安の気が充満している。 十時前診察待ちロビー。待ち、予約システムもとても進歩しているが、人間の方がそれに追いついてゆけぬ。今も老人が一人待合室で眠り込んでいて、私の担当医がわざわざ呼びに出てきた。老人はシステムに乗れずに、古いコミュニケ―ションに頼らざるを得なかったのだろう。郵政民営化も恐らくは最日常の世界で同様な事が起きるのだろう。
昨日の毎日新聞夕刊に、大阪の郵政ビルの保存問題が掲載されていた。有識者の委員会が設けられ、伊藤滋議長、内田祥哉委員、鈴木博之委員等七名の委員会に諮問されているという。 近代建築の保存問題は氏の宿命的命題である。この問題は三島由紀夫の文化防衛論に迄連結してしまう可能性もあり、鈴木氏にとっては実に困難ではあるが、どうしてもゆずる事の出来ぬ事でもあろう。十一時前、まだ病院の待合室で、そんな事をおぼろに考えている。
鈴木氏の建築保存の動きは、もうすでに保存運動の世界に迄到達している感もある。しかし、今の日本の低多落振りでは、氏の戦いは連戦連敗が予想される。しかし、原理的志向を帯びる者の、それは宿命でもあるから、氏はそれを甘んじて受けなくてはならないであろう。 | |
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九月四日 十五時半東大での打合わせを終える。鈴木博之先生にもお目にかかった。お元気そうであった。調布市での東大、早大製図共同課題うまくゆくといいが。
九月五日 上海のイフェイ・張も十月にはサンクト・ペテルブルグに新天地を求めて移動すると言うから、これも又、同じような考えである。イフェイは台北、USA、日本と動き、上海に移った。しかし、国籍を変えて迄移った上海でも三年毎に会社を変え、そして又、ロシアに移動しようとしている。 動くのを恐れていない。藤氏も同様なのだ。日本人はやはり小さな島国で本格的な移動を体験せぬままに暮してきた。恐らく、中国人の大半も巨大な大陸の中で自ら島国を作るように定住の生活を求めてきたと思う。保守的な人間は動くのを嫌う。定住の中に質を求めてゆこうと欲する。 藤氏もイフェイも実はそれぞれに少数派なのである。彼等は質よりも量、つまりスケールを求める。金であれ、開発の規模であれ、大きさを求める種族なのだ。グローバリズムそのものの中心も同じだ。価値は内容ではなくスケールにある。 藤氏もイフェイもグローバリズムの先端を動いている。私にはとてもその勇気の持ち合わせが無い。例えあったにせよ、日常の引き出しに仕舞い込もうとする。久し振りに南京の藤氏の明るい声に接し、正直まぶしいようなうらやましさに襲われた。 福岡オリンピック招致案を磯崎新のもとで二人して作ったのだが、あの案も実ワ、モビリティが主題として隠れていた。磯崎新には東京に敗北の無念を味あわせてしまったが、今では、それも良かったとしか言い様が無い.磯崎新の本体だって移動種族に他ならない。
十二時、まだ世田谷村にくすぶっている。インドの旅に例えれば、今日は動かないで、ジィーとしていよう、休もうという感じである。木本君に帰国の報告。彼も、時に、大掛かりに動くのもいいかもしれない。確固たる拠点は広島にあるのだから。 | |
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九月三日 十時シンガポール乗り継ぎNRTに向け飛ぶ。インド・チェンナイからのベンガル湾上空はやはりよく揺れた。四〇年程昔の初めてのインドの旅もそうだった。シンガポール空港内に居るだけで疲労感がある。空調と人工環境に身体が適応していない。これはインド症候というよりも世田谷村症候群だろう。日本時間四時過、あと一時間少々で成田着。繰り返される日々に精一杯新鮮に対応してゆくしかない。
九月四日
十二時前、世田谷村の暑さは南インドと良く似ている。時計を上海のイフェイ・張からプレゼントされた。インドで時計のガラスが壊れたので丁度良かった。さて、東京で動いてゆくのだが、インドの旅と何も変る事はないと銘じた。 | |
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世田谷村日記猛暑の夏の終りに。 「南インド紀行」(八月二十七日〜九月二日) ポンディシェリのアシュラムを探訪する。 は別枠で掲載します。 | |
2007 年8月の世田谷村日記
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