石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 7 月

>>2013 年 8月の世田谷村日記

世田谷村日記 ある種族へR26

7月31日昼新宿でスタッフと昼飯と若干の打合わせ。と言っても来年の春からのプロジェクトについて考えを述べる。暑いのでうまく伝わったかは不明だ。明日はベトナムからMr.ヒュウ他が来室する。

02.五行山プロジェクト、梵鐘製作のタイムスケジュールが話題になろう。食事中、九州と東北へ連絡。15時過修了。

16時一関ベイシーの菅原さんと連絡。唐桑復幸ギャラリー伝言板計画について話し合う。お互いにもう別に何がどうなってもイイので人のためになるんだったら、イヤな事はイヤだが、イイコトはヤローとなる。

2014年3月11日に計画は具体物としてopenする。

この計画はほぼ2年がかりで妄想に妄想を重ねてきたものであるから実に複雑極るので、おいおい述べてゆく。

こちらのエネルギーが何処迄続くかだな。

唐桑の鈴木さんに、鈴木商店周辺の状況がわかる写真他を送ってもらうように依頼する。唐桑自治区支所にもお力をいただきたい。

世田谷村日記 ある種族へR25

7月30日昼研究室で昨日の06.稲田堤保育園増築プレゼンテーションの報告。これからのオペレーション。次にサイトの編集相談。10-3.烏山5丁目計画に関してラン設計事務所より連絡あり。

8月9日19時より第二回目の説明会を開催するとの事。

夕方、烏山で会長横山さん、副会長石森さんと会い相談。

石森のダンナは絶好調でバシバシ説教師の如くであった。08.気仙沼・唐桑復幸祈念タオルはスタッフの頑張りもあり、少しづつ買っていただいている。

唐桑の鈴木さん、津波を逃げたお母さんの写真他も送られてきたので近々ご紹介したい。

7月31日9時半宮崎の藤野忠利さんといくつかのプロジェクトを唐桑向けに考えようかと思いつく。唐桑の人々の純朴さと具体のアーティストの組み合わせは良いのではないか。ベイシーの2階も使い時か?

世田谷村日記 ある種族へR24

9時研究室。少し早く打合わせを始めたのは06.稲田堤厚生館星の子愛児園増築計画を進めているのをチェックし修正するのに手間ヒマがかかるかと考えての事であったが、2案共にキチンと出来ていて打合わせは呆気無い程に早く終った。良ろしいとつぶやく。08.気仙沼・唐桑復幸タオル、大唐桑茶セットのページ作りの担当院生と打合わせ。今、サイトのトップに掲載している写真がいささかギョッとするが、一生懸命なところが出ていてこれも良いだろうとなる。宣伝文を2枚程書く時間も生まれたのでやる。

12時ベトナムの中村さん来室。02.ベトナム五行山計画打合わせ。我々も梵鐘の勧進活動に少しづつ歩を進めているが、ベトナム側も募金活動に入るとの事。これも競い合うことになり、実に健全である。日本だけで成し遂げるのは不可能なのを改めて身体にたたき込む。

中村さんとも次第に気心が通じてきたようだ。信頼しなければ何も進まない。五行山観音寺のビン住職の力は頼りになるだろう。

しかし、ベトナムは共産主義国家でもあり、やはり日本とは事情は少々異なるが、政教分離の原則の壁は同様である。日本も又、仏教は宗教のひとつに過ぎないのは言うまでもない。

14時40分、模型を幾つも入れた箱を作ってもらい、抱えて京王稲田堤へプレゼンテーションに発つ。16時京王稲田堤厚生館で近藤理事長にお目にかかる。大方を説明。16時40分歩いてすぐの星の子愛児園へ、近藤園長先生にプレゼンテーション。

持参した数案の中の一点が選ばれる。

一番工事にさしさわりが少い案であり、最も大型の増築案であるこの案が選ばれるであろうとはなかば予測はしていた。理事長、副理事長他年長のスタッフの方々の考え方らしきも解るようには、こちらもなっている。

18時半、息子さんの近藤理事も交えて近くの料理屋で会食。

近藤理事もすっかり大人になった。うーんと若い頃からのお附合いである。クライアントであり、友人でもあるので少々勝手な事も言ったり。

まだまだ俺も若いなと自省したりで、クライアントとの気はおけぬ。けれどやはり気を使う関係である。明日、綿貫さんに草間彌生の版画が入手可能か連絡したい。

理事長は草間彌生のファンである。岡本太郎と草間彌生なんだからこちらもいささか緊張せざるを得ないのである。

20時過修了。別れて京王稲田堤駅へ。この地域に少なからぬ保育園施設を持つ大世帯に厚生館グループは成長しているが、今度の増築でそのグループとしてのシステムの力が地域の人々に自然に理解していただけるようになると有難い。

21時前、烏山2丁目の石森さん宅へ寄り、研究室で作った気仙沼・唐桑復幸祈念タオルセットチラシ30枚程入れた箱を渡し、二人で夜中に門にとりつけた。

明けて7月30日8時前離床。カメラを持ってきたけれど今日は曇天であんまり良い写真はとれそうにないが、それでも1、2枚大烏と烏絵馬をとりつけた石森邸の竹藪の写真はとってみる。

昨日、山口勝弘先生に16.福島第一原発モニュメント計画のアイデア、督促の電話をした。御高齢の身に失礼だとも考えたけれど、こちらも必死なのだお許しあれ。

世田谷村日記 ある種族へR23

7月29日

7時離床。曇り。昨日の夕食は石森のダンナから声が掛かり、宗柳でごちそうになった。聞けばパチンコで大金を得たそうで、そのお相伴にあずかった。猫のチイタマの顔は見ていない。

店内から朝に飾りつけたブリキの大烏、烏絵馬を眺めていると、道ゆく人の50%が目をとめて立止まってくれる。何もメッセージが無いのは寂しいな。

ドリトル先生動物園病院倶楽部の前身を生かして、烏山犬猫烏新聞でも発行してみるか。1部100円で!そういう事が出来る才質が何処かに居ないかと頭をひねる。ひねったってそんなバカをする奴がいるわけもない。

今朝は9時に研究室で打合わせがあるので8時には発つ予定。

世田谷村日記 ある種族へR22

13時45分宗柳へ。店を貸切りには出来なかったので土曜日の午後の昼食の人々と「世田谷区南烏山5丁目に子供たちのための公園と動物たちの場所を作る会」の参加者の区別がつかない。

どうなる事かと思ったが定刻に10分遅れて会を始める。

式次第に従って、

1.挨拶 横山弥太郎、石森彰正副会長の小スピーチ

続いて石山がこれからの会の大方の運営について

2.参加者の自己紹介と意見交換

を行なった。

8月1日にラン設計事務所より第2回の説明会開催のスケジュールが連絡されるとの事をお伝えした。

まずはそれからであろう。10.世田谷計画の一部である。

参加者数、名、連絡先は差し控える。

15時半散会。

佐藤くんが宗柳のオカミさんと石森彰さんが気仙沼復幸・唐桑七福神タオルを持ってるところを写真撮影した

その後、ソバ屋は昼休みで近くの三崎丸スシ店へ。会長、副会長他と雑談。横山会長91才は退院後間もないので早々と退散。

修了後、十字路にて石森さん石山研製作の烏絵馬と烏天狗のマスコットを持つの図を写真撮影する。

この人物の強さは予想通りでもあるが、わたくしみたいなインテリゲンちゃんとはちがうのである。これからの動きはこの人物を中心にして展開してゆきたい。

明けて7月28日、日曜日。午前中に石森宅に烏絵馬他の飾りつけをやってしまおうと思い立つ。

11時、大烏1つ、烏絵馬2つを石森宅の竹藪に取り付ける作業終る。隣の犬を連れたバンドマンが通りがかり、ヤアヤアとあいさつ。仕事の仕上がりを宗柳でビールを飲みながら眺める。向いの石森宅の竹藪に金色の烏が出現して仲々いいじゃないかである。

昨日の会には他区から身重な若い女性が参加して下さった。

世田谷に住みたいのだが、保育園が無いので転居できぬという。

こういう方も我々の動きに注目して下さっているのだ。やはり出来ることはしなくてはならぬだろう。

「この竹藪の烏はあの女性の安産祈願ですねえ」

と石森のダンナがポツリ。この男いい事いうじゃないか。

世田谷村日記 ある種族へR21

7月26日、02.ベトナム五行山梵鐘デザイン打合わせにつづき、06.稲田堤愛児園増築計画打合わせ。08.気仙沼・唐桑復幸タオル販売打合わせを15時40分迄。

17時前烏山宗柳で石森さんと明日の10.世田谷の集りの会の準備等。

17時半淡路島の山田脩二、佐賀の梅木誠太郎さん来る。久し振りの再会である。19時半了。別れる。

明けて7月27日土曜日、6時半離床。暑い。13時45分宗柳へ。初めてお目にかかる人も少なくないので、今日の小さな会はそれなりの準備が必要である。

世田谷村日記 ある種族へR20

7月26日、7時半離床。昨日くらいから再び暑い夏が戻ってきた。08気仙沼・唐桑復幸タオルはやっぱり暑さには似合うなと負けおしみ。このタオルセットは新宿南口の長野屋食堂のお母さんにも購入してもらっていた。「可愛いよ」と言われて、いささか照れたが、照れる必要は無いのである。

明日は10世田谷計画3の5丁目計画に関して烏山で世田谷式生活・学校の会合である。しばらく前に定員を超えたので参加申し込みは打ち止めとしている。なにせ会場がソバ屋なので15名以内にしてくれと店から言われている。

山田脩二から電話があり、今東京に居るとの事で、今夕5時に宗柳で会う事になった。もう街中でガヤガヤ呑む気はないので、そうして貫った。

12時半研究室で打合わせ始める。

世田谷村日記 ある種族へR19

7月25日10時研究室。04.シンガポール北海道館(仮)計画打合わせ。数案の提案を受ける。どうもピンとこない、どれも。それ故、昨夜来自分で考えた大筋を伝えた。国際的なとは言わず、ビジネスマインド、あるいは基本に対する嗅覚が鈍いのは仕方ないと言わねばならぬか。

気仙沼・唐桑復幸記念タオルセットの発送が始まっているので、再び販売のテコ入れをしたい。若い奴はその先が無いのだ。売り出したら更に頑張らなくては学生のサークル活動である。

13時過、新宿長野屋で昼食&打合わせ。復幸タオルは佐藤の社会的作品第1号である。デザインが明るくて華やかなのが良い。わたくしがやっていたら、もう少し物言いたげな七福神になっただろう。

今、「2つの資質」で実に余りにも身近な人材という素材をアニミズム的に論じ始めているが、次回は物体を割って内に入り込むWORKに入ろうとしているが、佐藤研吾は始まりの舞台、つまり物体を介した演技、大げさに言えば劇場性らしきを、一気に唐桑臨海劇場再会という筋書きの許に、小鯖の鈴木商店と老母(命をとりとめた)と七福神の物語へ展開したら良い。と言うよりも、これはたった今の思い付きではあるが正しい。これ以外に径はないのですぐにやってもらいたい。

唐桑七福神と鈴木さんと助かったお母さんをネット上に舞台化すれば面白いのではないだろうか。いかがか?

次に、石森彰宅の門が今ちょっぴり劇場性を帯びてきているホームページに紹介している口絵を御覧アレ。

これを更にダンボール他で舞台化してしまったらどうかね。余りにもバカバカしくって、これはARTになり得るよ。

彰のダンナがそのゲートから毎日チイタマと連れ立って出現するなんて。記録とって、サイトに流したら人々は余りの下らなさに我を忘れるだろう。そこまでやんなさい。

ヤレ、すぐにデザインして、これは世田谷名物になる。

世田谷村日記 ある種族へR18

10時研究室。打合わせ。06.稲田堤・厚生館星の子愛児園増築計画について。12時過、山形・長澤社長、張さん共々来室。09.世田谷発ソーラーすだれについて。世田谷区長に商標のアイデアをもらおうとなり、長沢社長も同意する。事業所も山形から世田谷に移してもらう事になるだろう。13時半修了。近日中に商品名を持ち寄ることになる。

17時前までWORK。

18時烏山宗柳で石森彰さんと会う。石森さんに選挙後何が起きているかのレクチャーを受ける。しばらく日本は沈滞し氷結状態が続くそうだ。 11.具体展連続展計画を進展させる。作品プライスをNY価格スタンダードに保持したい。

明けて、7月25日、5時半離床。新聞を読む。民主党の元首相であった菅直人が党首・海江田より自主離党を求められ、またもゴネて拒否したとある。選挙の結果、民主党は一弱小勢力になったが、相も変わらずのリーダー達の高校生レベルの生徒会運営振りである。党員除籍をしないようでは完全に国民からは見放されるであろう。菅を支えると言われている市民運動グループの、マア論理性と言うより、政治倫理性はいかがなものか?問うてみたい気もするが、無駄なことはもうしたくない。下らな過ぎて新聞も読みきらず再び寝て、8時前、再離床。保坂展人区長に電話して、ソーラーすだれのネーミング、及びこの世田谷発のクリーンエネルギー商品の名付親になってもらう事を依頼する。了解との事。これはわたくしにとっては政治的商品にもなり得るだろう。

今朝は10時前には発つ予定。

08.気仙沼・唐桑七福神タオルセットの発送が始まった。たかがタオルであるが明らかな被災地からの復幸商品である。引き続き皆さんの御力を得たい。伏してお願いする。唐桑小鯖の鈴木商店、渾身の産物でもある。1セットでも良いので買っていただきたい。小鯖集落の今は相変わらず全てが津波で流されて何もかも無いままであるが、この状態から何しろ頑張っているのです。よろしく頼みます。

世田谷村日記 ある種族へR17

9時研究室に北海道十勝の後藤さん来室。聞けばヨーロッパを廻り、シンガポールからの帰りだと言う。シンガポールの仕事の話である。どうなるかわからぬところもあるようだが引き受ける事にする。10時半打合わせ終り別れる。すぐにこのプロジェクトを考えさせる体制を整える。

午後一度世田谷村で小休する。激しい雷雨に驚く。これくらいの激しい天候の変化は身体に心地良いものである。

富山の酒井さんからお手紙いただく。仕事の話しである。

酒井さんは神主であり、若い時は天恵の才らしきもあり色々と啓示を受けて、それを受けて行動した。

わたくしは「神官の間」なる神社をコンテナで作ったが、地元に受け容れられず取り壊しとなった。最初期の挫折であった。そのコンテナは今、菅平の正橋孝一さんの処に置いてある。

酒井さんにとっても恐らく初めの挫折であったろう。

「笑う住宅ならぬ、笑われる住宅を作ってしまい……」の一節に思わずわたくしも笑った。そんな風に昔のことを笑えるようにはなったのである。お互いに。

でも、あのコンテナ神社は何隠そう神宿りらしきが実にあったような気がする。

わたくしのメタル系のアニミズムの初期の作品でもあった。

何か新しい仕事を石山に依頼するとあった。

もうこちらは何が起きてもどうと言う事もない。再び、来る者はこばまずであるが、年もとったし危難からの逃避術も身につけてはいるので、何が起きるか解らないのはシンガポールの話しも富山の話しも何変りがあろうかと8月にお目にかかる事にした。

楽しみではある。

18時渋谷東武ホテルの地下で野辺公一、松村秀一両氏と会う。

松村さん目の手術も無事終了して元気そうであった。野辺さん本来のストレートな情熱が若干小さくなったと感じて、むしろこちらの方が心配である。

偉そうな事を言うが、わたくしはピンチに立った時の友人は、自らの非力はかえり見ることなく、大いに味方する心がけだけは在る。ピンチに立った時の友人くらい頼りになる者もいないから。と言ってもわたくし自身はそんなに助けられた事もない。

何か研究所のようなものでも松村さんを中心にして考えてみようかと考えるも、良い知恵があるわけもない。でも何やらが助けてくれるのではなかろうか。捨てる神あれば、拾う神もある。

21時過世田谷村に戻った。

明けて7月24日6時離床。昨夜は良く眠った。古い友人達に体調が又戻ったねと言われ、きっと一時期は悪そうに視えてしまうような事もあったのだろうと知る。そういう時もあるものさと考える。久し振りに新聞でも読むか。

8時過ぎ「2つの資質」04書き終える。少し疲れて小休する。

9時には世田谷村を発つ予定。

世田谷村日記 ある種族へR16

10時過研究室。打合わせ。福島第一原子力発電所遺跡の計画を中心に。12時20分迄。いささかのやり取りがあって良かった。一方的な指示にはもうわたくしの方があきている。本日早朝書いた「2つの資質」の小計画の展開はまだ不充分なものだが、わたくしにとってはいささか重要である。人材の日進月歩なくして何事も成し得ないの素朴な自覚がある。極度の少人数で何かを成すには、一人が少くとも十人力である必要がある。だから、それに賭けたいと考えた。

13時20分田町・建築会館にて建築士会作品審査。久し振りに皆さんにお目にかかる。今年最も可能性を感じたのは小住宅「風の間」であったが、これは最優秀作に選ばれた。わたくしが作品講評担当になったのはこの「風の間」と「ホキ美術館」となる。全く異なる世界の産物であり、キチンと書いてみたい。

16時修了。後、鈴木博之、難波和彦両氏とビールを飲む。

いささかの近況報告等。

その後、新宿でいささかの所用をすませて20時世田谷村に戻った。

7月23日6時半離床。今朝は客人があるので8時前には発たねばならない。7時過「2つの資質」02を書き送信する。

世田谷村日記 ある種族へR15

7月21日日曜日8時前離床。昨夜は車の中に置かれていた『鬼と天皇』白水社、大和岩雄を読んだ。大和岩雄さんを不勉強で存じ上げぬが、長野師範学校卒の在野の古代史研究家であるようだ。

1928年長野生まれとある。体系的な枠組みが、すなわち筋道が明快ではない。全てが断片であり、そのパッチワークであるのが欠点であり、又面白くもある。

古代史は松本清張が踏み入ったことでも知られるが、この人の文章には久世光彦迄引かれているのでビックリした。天皇の影法師としての鬼という発想に入れ込んでの事だろう。久世光彦までゆけば「伊賀の影丸」の横山光輝はもう近い。白土三平の「カムイ伝」も遠からずである。

そこまで大衆文芸としての漫画本群に現われる天皇、そして女王卑弥呼まで引っぱり出していれば、むしろ学術書の枠内に非ず、民衆の中の天皇像の視点を引き上げられたのではないか。民衆が欲する作家の自由自在な飛躍と酷薄さの裏返しを描いたら面白かったのにと、余計な事も考えた。

「風立ちぬ」という宮崎駿監督のアニメ映画はまだ視ていないが、堀辰雄とゼロ戦設計の技術者堀越二郎氏の両義性を合体させたモノだと聞く。

大和岩雄さんの本のあと書きにも、友人達が多く特攻隊に参じたとあり、その因縁もあり天皇について著したとある。

今日は参院選の投票日である。昨夜、参院選の結果と福島第一原発遺跡プロジェクトは間近で連結するなとボンヤリ考えたのが、本当にそうなのだと思うなあ。

9時半世田谷村を発ち、近所のポストに27日の会(烏山5丁目を考える会)の連絡を投函して投票所へ。息子の知り合いに声を掛けられる。

すでに暑くなり始めていて樹陰の道が涼しい。前の都議選よりは投票率はわずかなりとも高そうだ。

大岡實の仏舎利塔作品について読む。大岡實といえば鎌倉時代再建の大仏殿復元図がわたくしには親しいが、この建築史家がこんなに多くの仏舎利(ストゥーパ)を手掛けているのを知らなかった。

7月22日

7時過ぎ離床。参議院選挙は自民が圧勝である。民主の政権の失政と内紛振りを視てしまった人々の考えがストレートに出た。恐らく民主党は解党状態に迄追い込まれてゆくだろう。わたくしが唯一選挙演説を聞いた山本太郎は4位で当選した。記事を追って読むと1200名のボランティアが支えたそうだ。 新宿で見かけたボランティアの若い人達の陰に反原発のDVDを売ったりの更に縁の下の力があったらしい。

わたくし達の福島第一原発遺跡プロジェクトはこの選挙で全く国政らしき、議会の支援は受けられる可能性はゼロになったと再確認する。

今朝は9時前に発ち、10時に第1回の第一原発Pミーティングを始める。午後は学会会議室で審査会に出席の予定。

世田谷村日記 ある種族へR14

7月20日土曜日6時離床。昨日は17時に富士ヶ嶺観音堂から戻ってきた。久し振りにN先生にお目にかかった。何変わることのない方である。顔見知りが少くはなっていたがチラホラ会った。

倒れて助けが無ければ動けぬ人もいて、短い時間で人間は随分違ってしまうのだとも知った。富士を間近に見上げるようなところであったので、つまり空気は澄んでいる処なので金属とガラスの御堂は汚れが一切見られず驚いた。地面から少し浮かせた建築で、その床下に人が涼んでいた。床下の使い方、縁の下の使い方は考えても良いなと考えた。 l

観音堂で福島第一原発へのプロジェクト、スケッチを試みるも何の考えもまとまらず、マア仕方ないさ。難しい事を始めているのだから、そんなに早く答えらしきが見つかるわけもない。

帰りの車の中で妙な本を見つける。誰が置いていったものなのか。

メラネシアのマナと万葉古語のモノ、そして沖縄先島の語例について触れたもので、関心を持っていると本がアッチからやってくるものだなあ。マナには良い神様の側面と悪い鬼の両面が在りつづけるが大意である。

折口信夫も随分と中枢に接近していたようだ。やはり折口信夫には柳田国男には全く備わっていなかった日本的デーモンが時にとりついていたようだ。

世間は若者と呼ぶには余りにもまだ子供のような人達のイジメによる自殺他が頻発している。小中学校がほとんど機能していないのではないか。小中学校の教師の人材、資質が払底している現実が明らさまになっている。偉そうに大学の教師が言うことでもあるまいが大学生を見ていても、これは危い、ギリギリの低空飛行中であると痛感する事が度々ある。子は親を視ながら育つ。わたくしみたいな不良の親はとも角、今普通の家庭と呼ばれる両親世代は全く戦争も知らぬ、世の現実の赤裸々を知らぬ消費世代の走りなのだろう。大まかに考えるのは不実でもあるが、大まかに考えねば大づかみが出来ぬので、そういう事にしておこう。それで何を子に教えられようか。いじめをヤルガキの親が悪いのである。イジメは教師と親の合作である。イジメはヒキョー者のやる事だ。

教育委員会がノコノコ出てきて何言おうと、それは実利を伴わない。

子のイジメの罪業は親にもある。そして教師はその現実に対応し得るわけがない。大半がデモシカ教師である。とわたくしも評論家振りで教師イジメにかかっている。イケナイ。イケナイ。もう、ほっとけば良い。

アニミズム紀行8を全て読み直し、手を入れる。今度の8はマアマアかと我ながら思うが、油断は禁物だ。気仙沼・唐桑復幸祈念タオル+大唐桑茶セットの直接の販売に取り組み始めている。

福島第一原発Pのスケッチ、構想にかかる。

世田谷村日記 ある種族へR13

6時半離床。富士ヶ嶺観音堂へ発つ。涼しい。

世田谷村日記 ある種族へR12

7月18日8時離床。昨日作った福島へのタワー計画(太陽の塔)を山口勝弘先生への私信としてまとめたので今朝研究室へ持参してこのサイトにONする。読みモノが多くなり過ぎたので実行して減らしてゆくのみである。

今朝も涼しい。「気仙沼・唐桑復幸祈念タオル+大唐桑茶セット」の販売は少しばかり軌道に乗ったようだが、わたくし自身も直接行商に出たい。

世田谷村に来た新しい佐助と呼ぶ子猫だが、まだ5ヶ月なので天真爛漫と言うか、やんちゃでしたい放題である。古くからいる白足袋はいじけて顔を出さなくなってしまい、気の弱さが露出している。飼い主に似るのだ。しかし猫は良く眠る生きものだ。こんなに眠って、それでせいぜい15年の命らしい。セミよりは長いか。

世田谷村日記 ある種族へR11

7月17日朝8時離床。昨日は午前中新宿駅南口で参議院議員選挙の演説を初めて聞いた。偶然であった。山本太郎なる芸能人らしきの候補者が演説を始めた。本人ですの、のぼりが多数立ち笑ってしまう。芸能人つまり有名人イコールTVに出ている人という事で、TVの画面に登場する映像ではなくって本人が、生身で来るぞという事の印なのである。

この人は原発反対の意見をTVへの出演でもらしてしまい、それで番組を降ろされたらしい人のようだ。

TVすなわち非NHK=民放のことである。

民放のTV番組は大方が視る聴くに耐えぬ三流お笑い芸人番組の垂れ流しである。

その番組の中で原発反対の意を表明したって、人々はこれも又お笑いの一部であろうと理解してしまっただろう。

お笑い番組の全てにはスポンサーつまり広告主がつく。自社商品の宣伝広告の手段として番組がつくられる。

これはわたくしのこのサイトが、わたくしの各種広告、アニミズム紀行であるとか、復幸祈念気仙沼・唐桑七福神タオルとか各種意見の広告として使うのと同じである。広告しなければ人と接する機会が少くなるのだから、これは仕方なくそうするのであって仕方ない。

ここで言いたいのは政治家という種族についてなのだ。

明らかに、政治家と呼ばれる者の政治的資質は明らかに変質している。

芸能人が政治家になりたがるのは、芸能人は本来今の政治家的であるからだ。

政治家が芸能人であると簡明に言ったら解りやすいだろう。

山本太郎の選挙演説は若々しいと言うよりも幼いものであった。

わたくしは新宿南口の大階段の上の手すりにもたれて聞いたのだが間近に立って彼を取り巻いている人間達もいたが、大半が彼とほとんど同じ年代の人間ばかりで、いわゆる大人あるいは老人は耳を傾けてはいなかった。

又、こういう演説会を街頭で行うには少なからぬ人々が人手として必要になるのであろうが、それ等は皆ボランティアの若者達であった。

むしろ、わたくしはこのボランティアの若者達の動態というか立居振舞いの方に興味が向いた。恐らく彼等は山本太郎という芸能人になりたかった人間とは異なり、将来芸能人らしきになりたがっている人間達とは違う人間のように見受けられた。

少くとも立居振舞いが、芸能人のそれではない。遠くから眺めていたので目付きや顔の表情は良く解らなかったが、その振舞いは極く自然であった。恐らくはメールで連絡し合う友人達が候補者ではなくって、ボランティアの人間達と握手したり、あいさつをしたりしているのが実に自然であった。

彼等は山本某の如くにただ目立ちたい、有名になりたい、つまりはお笑い芸人と何変わることない種族らしきとは異なり、彼をただ媒介者として日常のメール友達の状態を、生身の人間を介してメールを介してだけではない、生身の、つまりは「本人です」のメディアを介して確認しあっているようでもあった。恐らく彼等にとって「本人です」の山本某はそれ程に重要なキーではなくって、そこに居たって、居なくなっても関係ないのではないか。

むしろ山本某はTVの画面に登場している状態の方がはるかに「本人です」の状態よりも生き生きと他人には写るのではないか。

真の、という言い方はもうあり得ない。つまり本当の政治家らしい政治家というものはすでに居ない。本当は日本の議会制民主主義の生誕以来皆無であったような気さえする。

しかし、米国の国会議員の政治家らしさも大した違いは実は無いにちがいない。

ロナルド・レーガンが愛読したと言われるベストセラーの『レッド・オクトーバーを追え』というエンターテイメントノベルに米国の国会議員の生態が描かれていた。議員達はクリスマス休暇をヨーロッパで過すために政府専用機は皆一杯にふさがって使える機体は無いというような下りである。

英語圏でのベストセラーには並々ならぬ力がある。

ロナルド・レーガンは二流の西部劇スターであった。しかし米国大統領をも演じられる役者でもあった。

今はグローバリゼーションの津波下に世界は在る。

アメリカがスタンダードになりおおせた、サクセス・ストーリーの国、つまり役者が大統領になりおおせる国ではなくって、それらしきがすでにスタンダードになっている。米国の大統領選挙は個人の力と、それこそ議員団、地盤、資金力を含む総合力による選挙でもある。

スポーツの祭典オリンピックの運営と何変わるところがあろうか。

やがて選挙にネットが侵入し支配する時がいずれ来よう。

そんな時には又、政治家という種族は少し変るのかも知れない。

夕方になって石森のダンナと連れ立って北烏山の焼鳥屋へ出掛けた。

石森さんは、それこそ克明にTV、新聞を見聞きしている人物である。

それは半端な感じではなくって、朝から深夜まで丹念にチェックしている。それ故、実にそこいらの評論家風情を超える情報人間になっている。

ネコと二人で生きているとそんな世界にも突然入り込むのである。

選挙はどうかねと尋ねてみた。

とうとうと意見が述べられ、もう日本はダメでしょうとの事であった。

新聞は日刊ゲンダイと東京新聞が反原発なんだそうだ。

日刊ゲンダイの資本系列まで説明してくれた。

マア面白い人間と知り合いになったものである。

再びネコの名であるがチイは良くない。

すぐに代えられないのならチイタマ、小玉にしらたどうかと言ったら、そこまで言うのだったら考えておくとの事であった。

世田谷村に新しく来た生後5ヶ月くらいの小猫は誰がつけたか佐助という名で呼ばれている。

5メーターの高さの2階から地面に墜落したり、古くから居る白足袋とケンカしたりで眼をやられたりで、こいつが来たおかげで古い白足袋の性格が逆に浮彫りにされた。猫にも驚く程の個性があるのを良く良く知る。

世田谷村日記 ある種族へR10

7月16日朝7時前離床。急に涼しくなり驚いている。

昨日は余り実の得られぬ日であった。実りの薄い日にはどうやら読書に走りやすい。読書は他人の脚力に連れられての旅のようなものだ。しかし、10種類程の書物を手にとってページを繰ってみたりはしたが、どうにもいづれの脚力にもさらわれてみようかの気が起きなかった。

インド北部のラダック地方の荒地の中を通り抜けてきた身にはまだその風や砂や光の気配が残っているのだろう、どうも手頃な書物の活字が眼に、つまりは頭には入り込んで来ない。

かと言ってもたかだか10日間程の旅であったのだからそれ程の心身の変化がある筈もないのだけれど。

単純な実感として、日々の通勤や散歩らしきも良く良く考えてみれば日々の旅のごとくではある。

しかし人間の(わたくしの)想像力は実に現実からの飛躍力に乏しい。

その小ささが通勤や散歩といった日常の中の移動の中に殊更な価値を発見させない。

今、記していることはそんなに一般的なつまりは多くの人々に共有する感じ方ではないのかも知れないが、わたくしはそう思うことしきりである。いつも新宿駅から新宿三丁目への地下鉄の駅への長い長い地下通路を通勤のために歩きながらそう考える。この地下通路を歩き続ける、それでも3分位の事なんだけれど・・・

この歩行はただの歩行なのか、それとも特異な旅なのかって。

往復共に一方向への脇道は無い。一ヶ所地上に出るのだろうエレベーターへの通路があるがその道に入ったこともない。地上階に出てみたって仕方ないからだ。

この長い長い地下通路、地下トンネルと呼んだ方が良いか、は要するに仕方ないから歩行しているようなものである。

目的地に向けて便利だから仕方なく歩く道である。人工の光だけの、行き交う人の影も少い。

高地の旅はそれに比して陽光はあり余る程に降り注ぐ。

四周の眺望は見はるかす程に遠い。しかし、人影も無く荒涼たるものである。

荒涼たるものである事に地下トンネルと変りはない。

モーゼはと出エジプト記を引いて記そうとして、恥じて止めた。

しかし、高地の旅は時に人を遠い過去に飛ばせてくれる。

今日は中休みになっている全てのプロジェクトの再始動にかかりたい。

世田谷村日記 ある種族へR9

7月15日の2

9時50分石森彰さん他と連れ立って烏山市民センター前広場へ。

佐藤くんと会い3階の(仮)南烏山5丁目計画説明会場へ。

予定通り10時開会。

三菱地所レジデンス(株)セコム(株)三菱地所設計(株)ラン一級建築士事務所(株)の計画当事者の説明から始まる。

三菱地所スタッフの余りの若さに驚く。学生に毛が生えた程度の人間に対応させている。これでは汚れ役とも思われるラン一級建築士事務所に周辺住民対策を一任してしまっている印象はまぬがれない。

会場はほぼ満杯の人の集りであった。

説明は勿論当たりさわりの無いものであったがなされ、質疑応答へ。

会場からは多くの質問他がなされた。

我々も事務的な質問を一つ。

終了後、用意の意見および要望書を開発当事者に手渡す。

ラン事務所専務取締役野澤勉氏と名刺交換。

通例であれば当然何等かの連絡があるだろう。

我々の意見及び要望書はネットに公開する。皆さんの意見、アドバイスがあればメール下さい。

この南烏山5丁目の計画はそれだけの事をするに足る計画であるだろうと考えてそうしている。

我々に非があれば改める。

11時半過修了。

石森さん他と昼食をとり別れた。

世田谷村に戻ったら、生後5ヶ月の白ネコが来ていた。

村の新しい住民になるという。

古き白足袋はビックリして逃げ廻っている。

お前の方が古いんだからシッカリせよと言いたい。

世田谷村日記 ある種族へR8

7月14日

8時離床。すぐにアニミズム紀行8、最終章にかかる。

インドで大方を仕上げたのだが、終り方が今一つであったのが気になり、5枚を書き加えた。ほぼ良ろしかろう。

最後に岡本太郎の大阪万博太陽の塔について述べた。

あの塔は今、福島第一原子力発電所の廃墟にこそ必要である。

山口勝弘先生に電話する。

福島第一原子力発電所廃墟に第二の太陽の塔を、プロジェクトを共同で作りたい旨の申し出である。

了解していただいた。早速方法、プログラム他を考えて先ずは外にアピールしたい。

16時頃雨がポツリポツリと落ちてきた。雷が鳴り久し振りの小さな夕立ちで、涼風が吹き込む。

7月15日

8時前離床。すぐにアルチ村日記1212、孫悟空に会う4の続きを書き始める。9時修了。アニミズム紀行8終章、及び世田谷村日記R8、アルチ村日記1211を送信する。

9時50分に烏山市民センター前広場で石森さん、佐藤君と落ち合い、今日は烏山5丁目再開発の説明会に出席しなければならない。

世田谷村日記 ある種族へR7

7月13日

7時前離床。昨日小林澄夫さんから彼の青空結社発行の2冊の詩集が送られてきていて、今朝読む。

小林澄夫さんは、わたくしが手掛けた西伊豆松崎町の伊豆の長八美術館の仕事としての糸口をつけて下さった方である。

元「左官教室」黒潮社、編集長であった。今は編集稼業は卒業されて、天涯孤独の自由人である。この人物は実に外見はトボトボとした人で、わたくしは彼を貧乏神と呼んでいたが、実は敬愛し続けていた。

「青空結社の同人は何人いるんですか?」

「イヤー、わたし一人です」

「だってそれじゃあ結社にならないんじゃないですか?」

「わたくしはいずれオビ川のオビ湖あたりで死にたいんです。ですから、そんなことは言われたって」

の会話を忘れない。

ロシアの重厚な風土の中に置けば、それこそ場違いな紋白蝶みたいにフッ飛んでしまいそうな人である。

が、いつか近々恐らくはロシアのオビ湖に向けた旅に出られる様な気もする。

クナシリ、エトロフの北方の島々への旅はすでに一人でやってのけている。

なにしろ、滅法寂しそうな場所が似合いそうな人物ではある。

「オビ川に行ったって、大きなブヨが喰いつきに来るだけですよ」

と言ってやりたいが、そう言えるかどうかもう機会がないかも知れない。

わたくしは詩とか詩人らしきに全く興味が無い人間である。

昔、「わたし表現したいの、どしても自分を表現したいの」

と叫ぶ女流詩人らしきに会った事があり、呆然としたものだ。

又、「わたしは戦後最大の叙事詩人です。ですがこれは一般の方々には知られぬ事ですので、内密に願います」

の自称大詩人もクライアントらしきとして出現した事があり、似たような者ではあった。

なにしろ詩人は苦手な種族である。

小林澄夫さんからは年に一冊、何年かに一冊と、たった一人の青空結社からの詩集が送られてくる。

全て読み通してはいるが、これ迄はあんまりひっかかるところもなく読み過ごしてきた。

しかし、今度の2冊、『詩集 東北レクイエム』、『最後の庭の子供達』

の読みざわりというか、読んだ感触は少しばかり違っていた。

詩人ぎらいのわたくしのような輩にも、この人一皮ムケたんじゃないかの感がジワリと湧いたのである。

礼状を書いてみようと決めた。

世田谷村日記 ある種族へR6

7月12日

7時離床。今日も暑くなりそうだ。昨日準備してすでに手渡し済みの大学院レクチャーは「Journey to the West」。初めての試みであり、何が話せるのか楽しみでもある。何者かに連れられるようにしてインドへの旅をしてきたが、それについて話してみたい。学生に話すばかりではない、同時にこれからの自分の可能性について話しながら探求する気持が何処かにある。今にとどまるのは嫌だ。前へ進みたい。

一昨日、馬場昭道住職より連絡あり。ブラジルの谷さんと9月に富士山の良く視えるところへ旅をすることになった。

若い時からブラジルへ単身で渡り苦労の末に成功を勝ち獲った方だ。

年をとって、時に望郷郎の思いが吹き出るのであろうか。

わたくし自身は富士山という形姿、存在は余り好きではない。

低い山のくせに、そして裾野に人間の営みの跡、すなわち文化の痕跡も少ないのに、日本を代表、象徴する山として君臨している。

この山の形姿大きさが日本人の気持の大きさ、古い言い方ではあるが気宇の枠を小さなモノに仕立て続けてきたに違いない。

そろそろ爆発するらしいという情報がしきりである。大爆発してもう少し上に鋭い山になってもらいたい。小じんまりと低く満足しかねない日本人そっくりの山だ。今のまんまでは。

何処か近い処に作物を作れる畑を入手したいと思いついたりしている。

幸い世田谷の地元に知り合いも増えている。一人では出来ない、意味のある事を共同でやってみたいと思う。

世田谷村日記 ある種族へR5

7月11日の2

11時烏山南蛮珈琲店で佐藤くんと会い打合わせ。

Journey to the West Project、南烏山5丁目について、他を話し合う。12時半石森邸の裏口、表口を撮影する。

世田谷村の村民である石山友美が初の長編映画「少女と夏の終わり」を製作したので、それに関する情報をサイトにリンクすることにした。9月にポレポレ東中野で上映される。

その後石森彰氏を交え雑談。15時過別れる。

世田谷村の猫・白足袋は少しでも涼しい所を探して家中をオロオロと歩き廻っている。夕方になりそれでも涼しい風が流れ出して猫も一息ついたようだ。

世田谷村日記 ある種族へR4

7月11日

7月11日5時離床。昨夜も恵みの雨は降らず。相変わらずの酷暑になるのだろう。こんなことならズーッとインドにいた方がましであった。

日本から四季が失くなってしまったら、他に何の取柄もないではないか。

昨日はこれと言ってたいした仕事は何もせず。色々と想いを巡らせたと言っても先日までのインドの旅が短くはあったがいささか大きな時空の旅であったので、それをしっかり身体にしみとおらせるのに想う事が少なくないのであった。世田谷村に日蓮宗の日達上人と子どもたちの写真があり、引っ張りだして眺めている。

レーの王宮近くにあった大ストゥーパもこの上人の建設であるし、しばらく前のラージギルの大ストゥーパもこの上人、そしてブッダガヤの日本山妙法寺の建立もこの上人の仕事である。日本には寺院らしきを持たず、よみうりランドに大ストゥーパがありセンターであるらしい。

大往生されて今は居ない。

この宗派というべきか、宗教家による運動は信用できるかも知れぬ。

一度センターを訪ねてみようかと暑さでボーッとした頭で考えた。

午後水曜日なので長崎屋は休みだろうと思いはしたが、出掛けてみた。案の定店は閉まっていた。裏口から入り込んだらオヤジがビールを飲んでいたので雑談する。眠くなったというので失礼した。それだけの一日であった。

今日は何とか11時に烏山で打合わせをする予定。

サイトはスタッフの努力で動いているが、御本人はグッタリの体である。動いて熱中症になるよりはマシであろう。

しかし、再び言うが、こう天気がインド状態になってみると、日本というのは誠に小じんまりとした人間の、小さなまんまの状態の集合でしかないのだな。

7時15分、Journy to the West Projectsの一部をまとめる。1階の朝顔に水をやり小休する。

世田谷村日記 ある種族へR3

7月10日

7月10日8時離床。世田谷村の西の鉄板下の朝顔が見るからに暑さで苦しそうで水をやる。5メーター程の屋内階段と下のガレージのコンクリート土間を歩いて水を運ぶのも仲々大変だけれど、仕方ない。朝顔を立枯れさせるわけにはいかない。

昨日は世田谷村周辺で過した。

「仮称南烏山5丁目計画(平成25年7月)に対する意見及び要望書」をまとめた。昼に石森彰副会長と会い了承を得た。夕方に横山弥太郎会長と会い、いささかのアドヴァイスあり文面変更する。

なにしろ暑い。インド並みだコレワ。一夜明けて上記文面の再チェックよしとして、佐藤研吾に送附する。

宮崎の藤野忠利さんとやり取りをする。

ときの忘れもの、綿貫不二夫、令子さんよりメール頂き、次のステップに進みたい。「TRAVEL TO THE WEST」(仮)展を大きなプロジェクトとして構築したいものである。

世田谷村日記 ある種族へR2

7月9日

6時過世田谷村で目覚める。実に良く眠った。昨日NRTに着いて、午後2時に石森のダンナにレーのチベッタン・マーケットで求めたネコのみやげを手渡した。聞けば南烏山5丁目のマンション開発が留守中に急ピッチに進展したとの事。計画看板が敷地内に2つ立てられたようだ。

帰宅したら、わたくしのところにも計画概要の図面が投函されていた。

建築事業者は三菱地所レジデンス株式会社とセコムホームライフ株式会社。企画設計は高円寺のラン株式会社一級建築士事務所。

設計者は株式会社三菱地所設計である。

石森宅は都市計画図によれば確実に土地の一部をカットされ、家屋も一部カットされる可能性がある。

又、どう考えても、中高層マンション3棟+αが建設される可能性の中で、将来の千歳烏山駅前地区の要とも考えられる位置を占めている。つまり出現するであろう大きな十字路の角にある。つまり新しい駅前地区のランドマーク的場所になるのである。

当然石森のダンナは大きな発言権をこの計画自体の展開に持つことになるのは自明の理である。

いち早く石森副会長を核にした南烏山5丁目に児童公園と動物たちのための場所を作る会を設立しておいて良かった。

個人としてだけでなく、地域の意見を集約できる母体になり得るからである。早速会長の横山弥太郎社長と連絡して、第1回の会合を持つことにして寿司屋で会合する。

インド帰りでまだ家にも帰っていないのに自分でも驚くばかりのバカエネルギーである。

世田谷村に帰宅して、白いごはんを喰べてすぐに一晩眠ったのであったが、繰り返しになるけれど、目覚めてメモを記しているうちに少しばかり頭脳もクリアーになって、(もともとバカだからいつも最低部の泥沼から浮き上がるのである)鈴木博之さんに電話する。

世田谷5丁目再開発エリアの中に見事な古木の桜があり、保存樹となっている。しかも5本もあり、地域の人と一緒の花見の宴もいつもこの桜の樹の下でやるので、その5本の古桜を守り、あわよくばビワの樹の王も守るべく鈴木博之さんに南烏山5丁目の古木を守る為にも「世田谷区南烏山五丁目に子供たちのための公園と動物たちの場所を作る会」に入っていただくお願いをする。了解していただいたので、すぐその旨を報告するために横山会長、石森副会長にお目にかかる事にする。とり敢えず、鈴木博之さんをメンバーとして交じえた文書を7月15日10時に開発事業者に提出することとする。

その内容を本日昼に石森宅前のソバ屋宗柳で開くこととしたく会長、副会長に連絡する。了解を得たので宗柳会談開催となった。事業者に対する要望書の下書きをそれ迄に作らねばならない。

この要望書には石森さんのタマのサインはあってはならぬであろう。

世田谷村日記 ある種族へR1

7月7日

七夕は文字通り天上界に浮遊していた。デリーをインド時間9時45分に発った。高度1万メーターを飛行、機内はガラガラで熟睡した。夢も見ずに眠った。デリー空港にはナショナル・モダンアート・ミュージアムディレクター、ラジールさん手配による車で到着した。

7月8日

インド時間4時、日本時間7時半機内にて目覚め、短いメモを記している。あと1時間程でNRTに到着予定。ラジールさんとの打合わせで来春にはDIARY TO THE WESTのテーマによる展覧会を開催する事となった。出来れば本も作ろうではないかとなった。

東京に戻ったら早速準備に動きたい。

世田谷村日記