石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2013 年 8 月

>>2013 年 9月の世田谷村日記

世田谷村日記 ある種族へR69

8時飛田給おがつ農園。ブルーベリー採取、かご一杯のブルーベリーをとる。手の平がブルーベリー色に染まる。朝から日差しがきつく、しゃがんだり、立ったりがなかなかこたえる。9時過修了。10時世田谷村に戻る。10時半世田谷美術館の野田さんに電話して、うかがう事とする。バスを乗り継ぎ12時世田谷美術館。

近くのやっちゃば食堂で野田さんと雑談。近況報告をしながら昼食。顔なじみの食堂のオヤジ、オバンとあいさつを交わす。食事後、開催中の「栄久庵憲司とGKの世界」展を観る。GKの小野寺さんに会う。不思議な感慨に襲われた。

これは長くなるだろうから、別に記すこととする。Xゼミナールに投稿することにした。再びバスを乗り継ぎ世田谷村に15時戻る。強い日差しの中を歩き、ブルーベリーまでとったりしたので、いささか疲れた。

夕方宗柳でビジネスボックス有限会社、向山一夫さんと一杯飲る。向いの石森彰ダンナも来る。向山さん酒が強そうだ。FOLK DREAMERSなる今は懐かしフォーク・バンドを結成してライブを続けているそうだ。

実に世田谷村の東の隣人である。御二人はその後連れ立ってカラオケに行った。わたくしは行かない。

この附合いはかつて向田邦子が「寺内貫太郎一家」で書いたような世界であるな。猫オヤジとバンドマン、そして老けただけのただのオレ。一見和気藹々なようで一皮むけば現代の釜茹で地獄の中のジジイ群である。

世田谷村日記 ある種族へR68

13時研究室、04.シンガポール計画打合わせ。08.唐桑復幸タオルの件で気仙沼市唐桑自治区の鈴木さんと話す。小鯖地区で9mの防潮堤を建設すると国が言ってきている。唐桑の海と山の文化は断ち切られることになる。できるだけ反対していく積もりですと鈴木さん。応援したい。かつて東北の下北半島で巨大な防潮堤の出現で一変した海辺の集落の姿を見ている。凄惨な風景であった。これは何とか鈴木さんの意見を応援したい。来週タオル販売のお金の第一回を送金できるだろう。

わずかなお金だけれど細々とでも続けたい。

その他諸々の雑事をすませ、17時前研究室発。烏山で石森さんと待ち合わせてタイ料理屋へ。宗柳で仮称ストリートミュージアム計画を話し合う。

明けて8月31日、どうやら9月1日に東京で「未来の海辺に何を残すか」と題された防潮堤計画を問うシンポジュームが開かれるようだ。森は海の恋人運動で知られる唐桑の畠山重篤さん等が出席する。日本自然保護協会とNPO法人森は海の恋人主催、問い合わせはTEL: 03-3553-4103 Eメール: nature@nacsj.or.jp

6時離床。7時過ぎ世田谷村発飛田給へ。

世田谷村日記 ある種族へR67

明けて8月30日7時離床。短いメモを記し、新聞を読む。

ここ数日地元烏山を素通りしているので今日あたり新しく知ったタイ料理屋にでも行ってみようかと想ったり。

昨日佐藤研吾に、彼の知り合いの中村さんに宗柳前の御本人の言うところの猫屋敷、あるいは猫人館石森邸で一人展覧会、あるいはパフォーマンスを定期的にやったら?と通信してもらった。

思いついたらすぐやってみる、は突然亡くなったアルファインターネットの若松社長が教えてくれたことだが、これは出来るだけ実行している。

彼は祖父に習ってロシアでビジネスを展開しようと思い付き、しかもオイルビジネスをやってやれと思い付き、次の週にモスクワに行って会社登記、事務所も開設した。次の月にはわたくしを引っ張り込んでモスクワ貿易センターにサイエンス&ビジネス研究所を開設させた。

インターネットビジネスの草分けの一人であったが、仕事中に他界された。物心両面で一時支えてくれた人物であった。

ドン・キホーテ的なところのある人ではあったけれど、わたくしは好きな人であった。

共にロシアには何度か出掛けた。ダーチャセミナーでも手始めにやり始めようかと考えていた矢先にポックリ他界した。

ああいう人物にはここのところお目にかかっていない。皆小じんまりした人間になってしまった様な気もするけれど、これは自分が小じんまりしてきた事の裏返しの感慨なのだろう。怪人現れよである。我又従容として異人にならむである。

アルファの若松社長とカンボジアのナーリさんは恐らく天国で会っているだろう。

先ずひとくさり、若松さんが

「旧ソ連の原子力潜水艦を解体し、爆破すると、その原子炉心に付着したカーボンがダイヤモンドになる。このビジネスをやってみよう」とブチ上げる。

天国でも裸足でペタペタとスポンジ草履で歩いているナーリさんが答える。

「豪勢じゃありませんか、しかしソ連の原潜の墓場はウラジオストック近くにあるといいます、その近くで解体やらかしたら日本海を汚します。

漁師にめいわくかけるから、アメリカの原潜に手をのばして、ハワイあたりで、真珠湾、パールハーバー辺りでバラしたらいかがでやんしょ」

「しかし、アメリカの原潜のゴミはネヴァダの砂漠あたりに深く埋蔵されてるから、交渉が手間ヒマかかるぞ」

「イヤ、アッシはアメリカの新聞王の息子ダチですから、何とかしまひょ」

「でもナーリさん、その新聞王の息子ってタダのNYの新聞売りだっていう噂もあるぜ」とバカなわたくしが、まだ下界から話しに参入したりでイヤ、ハヤ、バカバカしくって面白いのなんのって、今日働くのがイヤになってしまう位なのでした。

8時04.シンガポール計画のスケッチを始める。

世田谷村日記 ある種族へR66

13時研究室。05.伊藤アパート打合わせ、報告を聞く。

04.シンガポール打合わせ。09.すだれ発電、と続ける。

途中、何本か重要な連絡入る。018.ナーランダ、017.京都P。

少しづつ全体の隊形が整い始めている。08.唐桑復幸タオル計画では記念すべき100セット目の購買を友人の坂田明さんが区切りをつけてくれた。遅々たるものだけれど復興への被災地の方々の地をはうような努力を見習いつつ決して止めないようにしたい。 1円でも2円でも金は送り続けなくては。

18時過地下鉄を乗り継いで洗足伊藤さん宅へ。

18時半サンユー建設スタッフ2名合流、伊藤夫妻へ最終見積り、その内訳の説明と報告。

9月1日の地鎮祭は台風が来そうなので建設用地に近い神社で式をとり行う事になった。

20時半終了。

22時世田谷村に戻る。

世田谷村日記 ある種族へR65

10時長澤社長と話す。開発作業の依頼状および研究室へWORKの依頼を送信する。

昨夕の保坂区長との話しをネコオヤジの石森のダンナに伝える。喜んでいた。

本当にこのオヤジは変な人だけど筋金入りの民衆だな。半端じゃない。いい人と出会ったものだ。勿論、こちらも変人と思われているのだから考えてみれば、この人間関係は世の道理でもある。

えらいと言われている人や、知識人程阿呆が多い。

世田谷村日記 ある種族へR64

明けて8月29日6時過離床。まだ気仙沼安波山さるすべりの紅の花が咲いたの報は届かない。畠山章八郎さんのところのさるすべりの花も遅いのだそうだ。日本中が大雨かと思えばダムの水は空っぽに近く、大地震のあとで驚きが麻痺しているのだろうが、これは明らかに天変地異の連続ではないか。方丈記に描かれている応仁の乱の大騒動よりもはるかに巨大なまさに乱である。時代の号が平成に変わり世の中は淡々と動くかに視えたが、それは我々民衆と愚かな政治家の脳内風景だけがボケているのであって、実は地球は気象も地殻変動も乱の時代に突入している。

12アニミズム紀行の8号に対福島第一原発プロジェクトを構想はしているが、実は中々に苦闘している。こちらの脳力不足からである。

宮崎の藤野忠利さんから堀尾貞治作品データーが届いた。11連続展の次のステップを考えねばならない。

08唐桑復幸タオルセット販売についてはジワリジワリと当初の目標に届こうとしている。関係諸氏の厚意と力添えに感謝したい。

具体派の堀尾貞治の作品を見ていると、これは我々の08復幸タオル販売と何変わることがあろうかと思う。

コツコツと絵やオブジェクトを日常的に作り続けるのと、我々の非営利的支援活動とは根本において全く同じである。

ただ堀尾さんの絵は最近の具体派のNYでのブレイクで値段が異常に高くなった。日本の芸術マーケットは卑小なので日本では動かぬがアメリカ、ヨーロッパでは驚く程の値がついている。

いずれ亡くなった白髪さんの足で描いた絵の如くに億の値がつくのは時間の問題である。

ということは我々の唐桑復幸タオルもこれは明らかに美術品でもあるから、いずれ驚く程の値がつくのではなかろうか。

このタオルが美術館のショーケースに展示されるのも時間の問題であろう。マ、100年はかかるだろうがね。もう人間は誰も生きていないかも知れぬ。

もう7時だ、新聞でも読むか。

世田谷村日記 ある種族へR63

9時前、広間のパキラの樹、月下美人他に水をやる。パキラの樹は急に葉が枯れてパサリ、パサリと落葉するので恐らくは水やりに失敗したのであろう。と、急に大量の水をやったら溢れ出し床板に小さな流れを作るまでになった。家人が根ぐされするぞとたしなめた。水をやらなくても、やっても文句いうので、うるさいと言い返したいところをグーッとこらえる。全く日常は耐火レンガである。9時過世田谷村を発つ。

ウチのガキは極小ガキすなわち幼児の頃、3人共に杉並区の東京女子大学に付属していた幼児グループなる幼稚園に通っていた。

実に独特な教育をするところで、例えば運動会の徒競走は先に走っている子供が遅れている子を立ち止まって待ってるような、そんな教育をしていた。

今うちのガキもほぼ成年したが、皆一様な性質、気質が共通しているような気がする。恐らく幼児教育にその素がある。

保育園問題は実に市民生活の根本であると痛感する。

犬猫病院の診療費が高過ぎるのではないかと石森のダンナと雑談してるが、周囲の高齢者は皆犬猫あるいは動物らしきと共の生活が現実である。

10時半研究室。11時松村秀一先生来室。打合わせ。

16時世田谷村にて休む。18時横山弥太郎さんと水を飲みながら何がしかの相談。

保坂展人区長より電話あり、09世田谷式すだれ発電、10世田谷区保育園について。

世田谷村日記 ある種族へR62

12時04シンガポール計画についていささかの考えをまとめ送信する。

13時鎌田醤油KK、北海道の水の神殿メンテナンスプランをチェック。会長への提案の形式を取り、メールで送信する

再び04シンガポール計画の討議。

北海道より通信入り読了。

15時長澤社長、技術開発マネージャー高木さんと共に来室。

09すだれ発電の試作品について討議。そう簡単にはゆかぬのを実感するが、くじけず前へ進めることを確認。2、3日中にわたくしの方からスケジュール入りの部品試作プランを提示することになる。

17時再び04シンガポール計画の討議を太田を交えて進める。

コーディネーター役がどうしても必要だ。

18時半烏山でバッタリ世田谷区保育課長さん、子供部長岡田さん、田中課長と会う。我々の提案に対する対応が遅すぎないかと、路上でいささかの苦情を申し上げる。世田谷区は日本一の保育園待機児童数である事はすでに世の知るところである。先日の我々の会合に於いても世田谷区に移住したいのだが保育園が無くてそれが出来ぬと言う身重な女性の話しもあった。

役所の対応は日本中何処でも遅いものではあるが、度が過ぎているのではないのか?

我々の方の担当の対応が弱腰すぎるのか、どちらかであろう。

宗柳で石森彰、佐藤研吾と雑談。ダンナ大いに語る。

明けて8月28日6時半離床。穏やかな朝である。天気予報では再び暑くなるそうだが、早朝は涼しくて気持が良い。

世田谷美術館の栄久庵憲司・GK展をまだ見ていないのが気になっているが近いという意識が逆に足を重くさせている。これは自分への言い訳だな。

ドイツから巡回展の荷物が廊下に山積みになっていて、整理のしようがない。早く行先を決めなければ。

サイトのことであるが、Diary to the West (西遊記)のページを佐藤研吾に全て任せることにした。先の事を考えるとそれが一番良い。

東京新聞の一面TOPに保育園の認可基準の問題が取り上げられている。東京新聞は生活密着型の紙面作りがハッキリしているのが面白い。

原発問題への対応の姿勢共々見守りたい。とエラそうに言うが、言わないよりはマシである。

フィンランドでは建築デザイン、都市デザインの諸問題が時に新聞のTOPに掲げられるのを聞かされた事がある。フィンランドはノキアの国でもあり、当然グローバリゼーションの只中にも在るが、新聞を代表とするジャーナリズムの将来はそのような保守性を帯びざるを得ない文化領域の表現にもあるのではないか。勿論、保守的文化の代表として建築文化があるが、日本にはそれを表現すべきジャーナリズムが無い。

世田谷村日記 ある種族へR61

11時半研究室。鎌田商事水の神殿(北海道・十勝)メンテナンスの打合わせ。つづいて017京都プロジェクト打合わせ。14時修了。

18時世田谷村に戻る。別にとりたてて記す事も無いような日であったが、やりたい事への想いだけは我ながら過重である。人生は短い。

明けて8月27日。早朝雨が降ったようで、青空の青が澄んでいる。日本の空の湿気を含んだような青空も時にはいいものだな。しかし、ラダックの空の悠久に微動だにせぬ真空に近いが如くを実に遠く想う。

チビの方の猫の身体が随分大きくなった。子猫の成長の速度は凄惨である。人間と比べても。わたくしも青年期らしきがあったわけだが、あの時期に猫くらいの速度で成長していたら、良かったのか更に悪かったのかは解らない。

しかし、ガキの頃を何年青い年と呼ぶのか、イヤな呼び方である。

空はいつの間にやら雲が多くなり、青い空も薄ボケてきた。

日本の夏、キンチョールの夏になっている。

東京新聞の朝刊コラムに亡くなった民俗学の谷川健一の地名についての考えが紹介されていて面白い。谷川健一は学生時代に読んだ。青いガキには喰い足りなかったが、東京新聞のコラムも中途半端で喰い足りない。

東京新聞は原発問題等良く奮闘していると思う。しかし、記者の眼、筆力に喰い足りぬところがあるとこれ又青臭い事を言ってみる。

昨夜、安吾の日本史探訪を読み直していて、その記憶がそう言わせるのだろう。

坂口安吾の伊勢、松坂を読んだのだけれど、流石に着想は飛び抜けている。伊勢に於ける猿田彦という異形の神への着眼、その神話に於ける道化振り、そして志摩の海女、ひいては海人への直観は、これは一流のジャーナリストの視点であり、谷川健一の地名考の域ではなかった。

しかし、安吾は柳田國男、宮本常一、折口信夫と同様(宮本は一度だけアフリカへ旅している)一度も日本列島を出る事なく(アテズッポーで書いている)その一生を終えた。一度だけでも安吾に南島から台湾、フィリピン諸島、インドネシア、そしてミクロネシアの謂わゆる海人を巡る旅をしてもらいたかった。

何を考えたか?それこそ拙者には解らない。柳田、宮本と比較して、やはり南方熊楠の一生、そのコスモポリタン振り際立つが、外から眺めればそれはバラバラでズサンな知の生態としか視えぬであろう事も良く解るのである。

どうやら熊楠はホメロスのオデュッセイアに関心をもった。1867年生れの熊楠は1892年にロンドンに滞在し、ロンドンの大英博物館で独り書物を読み漁った。ウィリアム・モリスは1896年に亡くなっている。

熊楠がモリスに何かの拍子で出会っていたらの妄想出現の根拠はホメロスのオデュッセイアの一点である。

世田谷村日記 ある種族へR60

5時離床。新聞を読んで再眠し、再離床したのが8月25日9時。日曜日である。

夕方、家人、娘ソウルより帰る。アーア又七面倒臭い生活に戻るのかと寂しくなり、宗柳へ出掛け石森彰ダンナと焼酎を飲む。

ダンナはもうだいぶん昔に奥さんを肺炎で亡くしている。

だから家人、家族らしきが戻ってきてしまい、家にいるのが又面白くなくなった、というわたくしの言をいぶかしむのである。

いつもこのそば屋の窓際を定席にさせてもらっていて、通行人の姿が良く視える。と、家人と娘たちが通り過ぎてゆくではないか。

おまけに我々をニヤリと笑い何処へやら夕飯を食べに行くのであろう。

「信じられない家族ですなあ」

とダンナが言う。

「アンタだって猫と一緒の生活だ、もっと信じられんよ」

それぞれの家族なんて要するに信じられぬ世界の連続である。

娘はソウル・ユース国際映画祭に招待されて帰ってきた。

家人は韓国は日本を追い抜いたわねと素朴な印象を洩らしていた。今頃何を抜かすか、すでに置いてけぼりをくらって久しいのだと言ったらケンカになるので言わぬが花なのである。

高山建築学校の学生二人が世田谷村に訪ねてきて、ドブロクを置いていった。あの飛騨山中の夏の学校は岡くん等によって続けられているそうだが、恐らくただただ闇雲なものであろうと考えているが、二人の学生を一瞬眺めて、闇雲サークルなのを知ったような気になった。無駄なコトを続けても恐らくはレベルの低い自己満足の中に閉じるのがオチである。かと言って、わたくしにはどうすることも出来ぬ。

明けて8月26日、8時半離床。11時に打合わせが予定されているので急いでメモを記す。

世田谷村日記 ある種族へR59

19時前、バウハウス・ギャラリーに於けるOSAMU-ISHIYAMA展以来のメインストリームでもあるMAN-MADE NATUREの展開が視えてきてくれたのでメモを記した。

四国・鎌田醤油会長への「水の神殿」メンテナンス案と共に月曜に送附したい。

オリバー・ストーン監督が沖縄を訪ねて、日本のメディアが追い駆けている報告は実に滑稽である。ただただ実にコミカルである。日本のマスメディアそしてジャーナリストらしきに歴史感覚とまでは言わず、ジャーナリストが本来持つべきであろう最低限の倫理あるいは恥の意識はあるや否や、恐らく皆無であろう。家人が居ないのでTVを心ゆくまで視たけれど流石に馬鹿馬鹿しくなってやはりもう視たくない。

たしかルース・ヴェネディクトが『菊と刀』で恥の文化とやらを日本論として書き読んだ記憶があるが、あの恥は身内同士、つまり知り合い同士の恥であって、世界と言うはおろか社会という枠は無かったのであろうか。

つまりサムライ文化ひいては天皇文化は決して世界性を持ち得なかったか?

世田谷村日記 ある種族へR58

11時前、京王稲田堤、至誠館近藤理事長に大きな模型共々プレゼンテーション。

理事長、来週早々に川崎市役所に予算に関して相談することとなる。

このプランはダメだと言われなかったのが良かった。若いスタッフにはまだこの機微は解るまいと考えたので、プレゼンテーションには同席させなかった。未熟がじゃまでしか無い時がある。

プレゼンテーション修了後、近くのステーキハウスでスタッフ共々昼食をごちそうになる。又、世田谷区の保育園行政他に対しての理事長の意見をうけたまわる。勉強になった。

12時半了。

京王稲田堤駅のプラットホーム待合室でミーティング。

06に関してはひとまず我々は小休する。従って来週より017京都プロジェクトに集中する旨を伝えた。

又、鎌田会長から連絡があった「水の神殿」の鳥居の件、月曜迄に案を出すように指示。

調布駅でスタッフと別れ、烏山下車世田谷村に戻る。

洗濯物が山積みになっており、思い立って洗濯。南の全開口部は洗濯モノで満艦飾となる。

洗濯物を干しながら、カンボジア、ウナロム寺院の大テラスでの干し物かけを思い出した。あそこは全て干したら15分位でカラカラに乾いていたからナア。ナーリさん共々とても懐かしく思い出した。

世田谷村日記 ある種族へR57

せみの声が朝から一杯で暑い夏も終りに近付いているらしい。

昨日、西棟東棟2つの模型及び図面一式、考え方を簡単に述べたもの等をひとわたり見たので、今朝に予定されている至誠館グループへのプレゼンテーションの準備はすませている。

いくつになってもクライアントへのプレゼンテーションはいささか緊張する。

それが力一杯の前向きなアイデアを込めたものであればなおさらの事である。ここ数日、06厚生館星の子愛児園の仕事に集中したので、今日のプレゼンテーションを期して017京都プロジェクトに意識を移動させたい。

昔といってもそれ程古くはない昔、ウィーンのハンス・ホラインは一度に一つの仕事しか出来ないんだよ、と磯崎さんから教えられた。ヴェネチアのホテル、キャナルでそのハンス・ホラインに会った時には、こういう顔と雰囲気を持つ人間が集中するのかと、それ計りを観察していた。ホラインの建築が持つ濃厚なエロチシズムを持つ建築家は今ひどく少くなった。アルルの山中で知的ファンタジーの中の建築を作り続けたワルター・ピッヒラーも亡くなった。

あのドローイングの何がしかはリベスキンドが翻案してリアライズさせていたと思うがピッヒラーのWORKはいまだに理解する人も少い。

今朝プレゼンテーションする建築物のデザインにはとても重要なモノが在ると信じているが、うまくいったら十二分に考えてみたい。うまくいかなかったら又、次を待とう。

9時過四国の鎌田醤油会長鎌田さんに連絡する。水の神殿の鳥居の件である。

10時世田谷村発稲田堤へ。

世田谷村日記 ある種族へR56

11時花小金井、吉元医院。大変な数の来院者で恐らくはインド人の女性もいた。わたくしの担当医である吉元副医院長は尋ねれば休みは一日だけ温泉に行きましたとの事。医者という仕事も実にテクニカルなサービス業でもあり、そんな充分な休養もとれないのであろう。

わたしの具合は尿酸値が高いとの事。思い当たる事ないですかと尋ねられ、サアーとかとぼけたが、石森のダンナと焼酎の飲み過ぎに決まっている。焼酎には必ず梅干しを入れているので、その酸が尿に出るのだ。とバカな事を考えた。

三流以下の家庭の医学である。

12時過研究室へ向う。高田馬場で降りて少々の坂道を登り下りして昔なじみのソバ屋松月庵へ辿り着く。ネギトロ、ニハチソバセットを食べる。ここのソバは実に普通の昔風の味であり、好ましい。13時半研究室。06.厚生館星の子愛児園、増築西棟、東棟打合わせ。問題は少し計りあるが、ほぼまとまってきた。子供のための建築という主題がハッキリと出せているような気がするが、クライアントはどう思ってくれるか。そして多くの保母先生の皆さんは?自信がある提案になってきたがクライアント次第である現実は変りようがない。

05.伊藤アパートの着工が間近で諸々の報告を聞く。04.シンガポール計画はクライアントの与件が少しズレがあるように思うので、近々きちんと話し合いたい。

近藤理事長とプレゼンテーションの日時のやり取りをして、プレゼンの内容を、説明の仕方にわずか計りの工夫を加える。

お付き合いは決して短くはないけれど油断禁物である。

藤圭子さんが亡くなった。昔良く深夜にドスのきいた低い声の演歌を聞いていた事を想い出す。マンションの13階からの飛び降り自死であるらしいが、飛び降りる勇気があるのなら、生きて欲しかった。

御本人の唄の文句じゃあるまいし、「十五、十六、十七とわたしの人生暗かった」を人生を振り返っていたようであるが、それぞれの過去は皆、それ程暗くもなく、明るくもないのである。

学生時代、何度か記したような覚えもあるが、明け方の六本木の交差点で寺山修司と藤圭子の二人連れとバッたりすれ違ったことがある。

あの時、寺山修司に声を掛けていたら、わたしの人生もチョッと違ったものになっていたやも知れない。

俗な言い方でイヤだが、数々の出会いと別れが積み重なり、無為に流れて今がある。

と演歌風に振り返ってしまう。ご冥福を祈りたい。

明けて8月23日、6時離床。今朝は少しまとめて、保育園建築そして子供のためのWORKの数々について考えてみたい。

わたくしは紙の文化によって育ち、育てられた。

今は紙の文化は終りに近付いている。新聞紙上ではワシントン・ポストがアマゾンに買収され、ペーパーを放棄するようだとある。

ここのところがポイントなのである。

今更、子供のためのWORKをペーパーメディアでよそよそしく本に仕立てあげても、ほとんど意味はない。古い自己満足に終ってしまうだろう。

日々、ウェブサイトに記録し続けて、それを再編集することの方に利はあるのではなかろうか。

今やっている事の即記録化がポイントである。

と考えてくると、子供のためのWORKは「いきもの稲荷へ」つまらぬ世界のサイト上の連載にも連結してくる。

この日記も含めて、一度全行動記録らしきをまとめようとする努力はしてみたいものだ。

8時小休に入る。

世田谷村日記 ある種族へR55

011.展覧会連続開催計画の件で諸々の連絡。少し前進する。キュレーターとしての立場を保持しながら作家でもあるのを押し通すのはいささか問題があろうが、やるしか無い。

「生きもの稲荷へ」つまらぬ世界の章6書く。中国で出会った龍と毛沢東について。

8月22日8時離床。流石に猛暑で疲れていたのだろうか、少し涼しくなった今日この頃、グッスリ眠って朝が遅くなった。

今日から家人、娘、チビ猫が居なくなり、世田谷村はデカ猫とわたくしの二匹だけである。しかし、残った方の俗称白足袋、タビ、ポンポコリンと様々に呼ばれている猫は、どうやら実にデカイのである。

こいつだけが居残り佐平次を決め込んで実に態度もデカイ。 いつもチビの方がいる時はビクビクしているくせに堂々と家を歩き廻っている。デカ猫の眼付は時に鋭く険悪である。ああこいつは野良猫の親から生まれた路上の者の素生であったのを知る。

何処かに預けられたチビ猫の方はやはり野良猫であったと聞くが、眼付はまん丸で、何をそんなに驚いているのかと思うばかりに丸いのである。

鋭角と丸の対比が著しい。で、鋭い方が気が弱い。こいつは何処へも預けるまでもないと、打ち捨てられたオヤジ(すなわちわたくしのコト)と共に村に置き去りにされた。

だからここ数日は実に自由なのである。ヤッホーと叫びたい位だ。こだまは返ってこないけれど。

先ず第一にありとあらゆる窓を全開放する。

家人は開放を好まず、セコセコと閉める方である。

狭いスキ間風の方が涼しいのだと昔の農家の風の如くを言い張る。

馬鹿者奴が、今の都市でスキ間風なんて風情があるものか、窓は全開放に限るのにと不満であったので、もう南の窓は何もない状態にまで開け放った。

下から這い上がってきているカボチャが見事に大輪の花をつけているのが眼に入ってきた。地面から5メーター程を這い上がってきた強者である。 頑張ったなあ、と声を掛ける。

声を掛ければカボチャも頑張るのだ。

わたくしが世田谷村の窓を全開放にすると、周囲の家々のカーテンがキチリと閉じられるのが解る。周囲はここ数日閉め切り状態が続くことになる。

さて本日は久し振りに吉元医院に定期健診に行くか。インドへ行ったりでしばらくさぼってしまったが、いただいた薬が残り少なくなった。とゴソゴソと物入れを探したら、ごっそり出てきたのである。

薬はあんまり飲まない性質なのであることが、コレでバレた。

バレても文句言う奴がいないので堂々とバレるのである。

まずは水浴びである。

それからの事はそれから決めよう。

世田谷村日記 ある種族へR54

昨日は飛ばして、8月21日朝7時半離床。めっきり涼しくなった。

出江寛さんから葉書きが届いた。我家の窓は花盛り、とて恐らく自分で撮ったのであろうバラの小輪群の花々があった。

出江寛がバラかと少しばかりいぶかしんだ。何故なら出江さんはかつて日本の伝統をほぼ中心に据えて建築設計に邁進されていたからだ。

そう言えば大阪の人間には妙にバタ臭い趣味があるな。安藤忠雄がそうだし、かと言って他には想い浮かばないのが寂しい。関西の三奇人と呼ばれた渡辺豊和は関西に住んではいるがアレは東北の人間であり裏日本つまりは日本海側を動いた建築家であった。年を経て、それが良く解る。

毛綱には深い植民地的開化の風があった。

織田作之助は武田麟太郎に似て非なるものを持つ大阪人であった。

時代の風は強くって典型的なモダニストであった。開高健もサントリー文化のモダーンな必然から決して自由ではなかった。建築写真家の巨匠とも呼ぶべき二川幸夫も又、今振り返ると大阪人のモダーン好みを良く体現していた。

出江寛はわたくしが若い頃つまり40代迄は縁の薄い人であった。

最近、もしかしたら、もしかしたら安藤忠雄とは別の形で大阪人の骨格を持つ人であったのかと思い始めていたので、それでバラの花の暑中見舞いにハッとしたのである。

バラの花といえば鈴木博之邸の玄関近くのバラの花の色がイエローであるのを想い出す。

大阪ならぬ東京の知識人特有の律儀さと定型趣味を持つ鈴木博之であるが、恐らく丹念に手入れしている。黄色いバラに彼の場所ならぬその精霊が息付いている。

身近な友人を型にはめて考える愚は犯さぬにせよ、実は鈴木博之は知識を過重に身に付けた精霊主義者である。

伝統について考えようとする者はゆき着くところそうなる。ケルト文化にまで行く。ニュートンが霊能者であり心霊研究に見をやつしてもいた事はしられるが、英国女王エリザベスが英国バラ協会長であり、庭園協会長でもあるのは、もしかしたら日本の庭園文化に遠く関係するだろう。何度も繰り返すが、日本の近代農家の庭に咲いていた花の数々が今の英国の郊外住宅の庭に咲くものと同種であるのは単なる愚かな思い付きではない。恐らく明治期の貿易商が手なぐさみに英国の庭園の花の種子を日本に輸入して、それが流れ、流れて農家の庭に乱れ咲いた。ダリヤ、おしろい花、コスモス等々である。

鈴木が自宅の玄関に黄色いバラを植えたのは、一時ハイテク建築を推したのと同様にイギリス文化への自身の傾倒振りを表明している。

イギリスは今にいたる庭園幻想文学のルーツである。秘密の花園からハリー・ポッターにいたるまで。

出江寛の小さな赤バラにはそれとはいささか異なる大阪人特有のモダニスト振りが表明されている。

開高健の『眼のある花々』であったかリルケが又苦吟しているとその窓の花を見上げたボードレールだったかの言葉が記されていたのを忘れないが、ボードレールが見上げた花はゼラニウムの鉢植えであった。花も又、それを視る人間によってだけは短命をまぬがれる。

開高健はあのサントリー文化底抜けの美文によって生き、そして短命であった。大阪の人なのであった。

出江寛さんの葉書き一つで随分楽しませていただいた。

世田谷村日記 ある種族へR53

12時過西調布へ、記すまでもない雑用だが、駅近くのとん松でカツカレーを喰べる。800円であった。値段なりにカツレツが薄かったが、本来のトンカツ屋らしく手際が良かった。老夫婦でやっている店のようだ。西調布駅周辺は京王線高架化による悪しき小開発で小店舗が少くなり、そのせいだろうか店は異様な満員であった。カレーはマア悪くもなく良くもない。やっぱりトンカツ専門店なのだろう。オヤジは無愛想かと思っていたら、ゴチソウサンと声を掛けたら満面の笑みで、実に可愛らしいのであった。オバンは動作は速いが段取りが悪くそれで店の回転を鈍くしているが、野菜サラダは量も多く良心的である。

しかし、新宿南口長野屋食堂の各種定食類と比較するならば750円位が妥当かな。長野屋は実に安価なので外国人も少くないからなあ。

14時研究室、打ち合わせ準備。17時梅沢良三さん、新しいスタッフを同行して来室。06稲田堤厚生館星の子愛児園西棟、東棟の2件。01ベトナム五行山鐘楼、017京都の3件の打ち合わせ。

相変わらず問いに対する返りは速い。構造家のすでにこれは本能的嗅覚であろう。

06は4階に11m程のキャンティレバーの室を設けることになった。既存棟をまたぐ案は廃棄する。わたくしもその方がコスト他で良かろうと考えていたので意見が一致する。担当の佐藤研吾は構造設計家との打合わせは初めてである。

一流の構造設計家の嗅覚のようなモノを学ぶべきだろう。コスト、施工法他、多面的にチェックして一瞬のうちに答えが出てくる。

そう言えば昔、増井邸と名付けた増井工務店社屋で12メーターくらいのキャンティレバーをやっていたのを思い出さされた。アレも梅沢良三さんの構造であった。キャンティレバー部分は案の定、400mm×400mmの鉄骨、4本で支える。この工事の積算には増井工務店も参加していただこうと考えた。

12mのキャンティを自分で作ったのだから手際も良かろうし、第一に不安が無いだろうが一番。人間オーッと言うような事を試みる時には、勇気を裏付ける経験がどうしても必要である。

01ベトナム五行山の計画は「これはむしろ簡単だな」とアッ気ない。

18メーターの土を型枠のドームの上に塔を建てている。高さ30メーター程になるので、いささかの問題があろうかと思っていたが、大方何をしても大丈夫との事。要するにローテクのコンクリートであるから融通がきくという事だ。ドーム部分の肉厚が少し足りぬか。

セレモニー用の塔の石造柱の径に関しても、とりあえず答えが出たが、精確な地耐力データをもとに再考となる。

ベトナムの職人はカンボジアの職人よりもはるかに精致な思考と手を持つことは知るが、梅沢さんもベトナムでの工事の体験があり、それは良く知っている筈である。017京都はまだ入口で仕事をお願いするの挨拶程度であった。

18時半修了。別れる。19時新宿味王で遅い夕食をとり、世田谷村に戻る。

残念ながら味王にはカレーのメニューが無いのである。

何故、食に貪欲で奇妙な工夫の固まりでもある中国にカレーらしきが無いのであろうか。ヒマラヤ山脈により暑気が流れ込まず、大方の気温が低いからだろう。カレーは暑さ対策が基本か?

構造設計程には明快な答えは得ようがないが、本を2、3冊読んでみるか?本を読んでも深いことは記されていないのはすでに知っているがただただの無知も勿体ない。

明けて8月20日、5時半離床、メモを記す。

世田谷村日記 ある種族へR52

8月19日7時離床。ここ数日早朝はめっきり涼しくなりグッスリと眠るので目覚めるのが1時間程遅くなっている。

構造設計家の梅沢良三さんに見ていただく案件が幾つかあるので、スケジュールの段取りの算段をする。プログラム、施工方法、スケール、経済状況が異なるので構造の打合わせ方法もデザインが必要である。

高校野球も準々決勝なのか、朝早くから1日五試合で選手諸君も体調管理が大変だろう。

特にピッチャー、捕手は疲労度が野手とは桁外れであろうから、夜寝苦しいなんてヤワな事は言ってられないだろうと、余計なお世話である。

世田谷村日記 ある種族へR51

20時半、「いきもの稲荷へ」つまらぬ世界の章5、書き終り送信する。

今日は日曜日であり、久し振りにほとんど何もせずに休んだ。まだ申し訳ないという気分から卒業できぬ自分がいる。

夕方、南烏山5丁目を考える会の横山弥太郎会長に電話した。

「今京都なんです、大文字焼きなのに、涼しい風が吹かなくって京都は暑いまんまです。余命を生きてます」

との事であった。横山会長、洒落た事を言う。91才で余命を生きてますとは何事であるかと思えど今日も暑さかな。100才を超えてもらいたい。

世田谷村日記 ある種族へR50

06稲田堤厚生館星の子愛児園、西棟、東棟2つの計画案のつめの打合わせをすませ、世田谷村に帰る。まだ細部の設計の打ち合わせ迄にはいたらない。来週末のプレゼンテーションに向けての作業である。

明けて8月18日。朝がた富山の酒井晶正さんと話す。仕事にする筋道が視えてきたから。筋道と立派そうに言っても雪原の細い一本道である。

でも、わたくしのこの類の仕事らしきはあんまり引合いに参考とする事例が無い。だから設計から始める、即物からスタートさせる、訳にはいかない。それは不可能である。設計=デザインを始める前提から組み立てねばならない。

それで前提の基礎づくりのような事から始めている。酒井さんが置いていった「あえのこと」の絵のことから話しを始めた。

そこに登場する人物が興味深かったから。

この人物は今の世には異形である。聞けば今年99才のユネスコの無形文化遺産に指定されたとの事。今の日本の不思議はこのような異形が先ず世界の知的活動から評価されることでもある。

この人物は田んぼの神様を演じている。

そしてその光景はかつて、わたくしも「神官の間」の内の光景で遭遇した。

北海道二風谷の萱野茂さんの言葉からも感じたし、沖縄の奥集落のノロと呼ばれる老婆にも通じる何者かである。

日本の古層とは言わず、東アジア文化の古層であろう。

気になって仕方なかったので、その気になっていた事の何がしかを感じ得たのだと思う事にした。

酒井さんは来年2014年の正月から富山の小学校を廻って、この「あえのこと」の紙芝居をやるそうだ。

わたくし共のデービット作の「ふくしまのコト」にも通じるよう。

わたくしはいささか年をとったので、自分で演じるわけにはゆかぬ。

だから、それは酒井さんが本来の神官として演るのが本当だろう。

それで、酒井晶正さんに来年の富山、小学校巡演他のスケジュールを先ず送ってもらうように依頼した。

「子供の神社をつくりたい」という芝居を、どんな形になるかまだ不明ではあるが、やっていただく。

子供のための、何モノかの仕事も増えそうである。まだまだ老人顔して休むわけにはゆかぬ。意を尽くしたい。

世田谷村日記 ある種族へR49

明けて8時離床。メモを記し、持ち帰った世田谷区での2つの保育園計画の図面を見直す。1つは世田谷村に近い計画でもう1つは北烏山1丁目での計画である。

世田谷村に近い計画は5丁目の高層マンション3棟+デイケアーセンターの計画に周辺住民の一人として幾たりかの人々と色々とモノ申している現実もあり、しばらく間を置いた方が良いかなと判断する。1丁目の計画はプランも簡明な軸(骨組み)があり、進めやすいかと勝手な判断をしたりしてしばし過ごす。子供たちの為の建築が幾つか重なるかも知れない。

富山の酒井晶正さんの来訪も、そちらの方向へ船先を向けたいものである。

酒井さんが置いていった「あえのこと」という絵本状に眺め入る。ここに描かれている風景は「神官の間」の内に現実にあった光景であるのに驚く。

R48に記した雪深い深夜、ドサリと落ちた屋根の音も再び蘇るのである。

これをブツ=物質にまで昇華するのは大変な力業を必要とするだろう。

今日も昼から京王稲田堤の2つの計画の進行を見にゆくがどれ程展開しているか楽しみではある。子供に近い真白い雪原みたいな才質に道筋をつけてみるのと、建築物の設計は同じような世界でもあろう。

かつて、院生が作ったがリボーンという名のオブジェや木本さんに製作依頼した「鬼子母神」像の系譜も忘れたくない。

世田谷村日記 ある種族へR48

018ナーランダ、04シンガポール、06稲田堤厚生館星の子愛児園の打ち合わせを続けて。18時半終了。018、04はそれぞれ相手に通信を送る。19時半烏山宗柳でカレーそばを半分食し一服し、世田谷村に戻る。

なかなか実ワ手こずった「いきもの稲荷へ」をようやく展開させた。深夜3時半に目覚めたのでコンピューターをのぞき、じっくり読んだ。

映像の「神官の間」(1986年)がわたくしには懐かしく、しかも鮮烈である。

年をとってからの、この想いは貴重なモノかも知れないが、用心するにこした事はない。少しばかりの知恵もついたのだろう。それでなくっては困る。

雪深い富山の田んぼのひろがりの中、酒井晶正さんの家に宿泊した事もまだ記憶にしっかりと残っている。昨年どうやら亡くなられたお母さんから

「この仕事おことわりになると、あなたの身にとても悪い事が起きますよ」と夜言われてゾクッーとした。布団にもぐり込んでもすぐには眠れず、暗い天井を見上げていた。天井の上の屋根には深い雪が積もり積もっていた。

庇には長く鋭いツララもキリキリとあった。長い廊下をトイレまで歩けぬように身体が固くなっていた。

屋根の雪がドサリと落ちて、ドキリとした。ああ、早く夜が明けてくれて、つまらぬ東京へ戻りたいと切に願った。

あの神つきらしきお母さんが亡くなられて、それで酒井さんもようやく自由になり、そして本当の自由を得たいと考えたのであろうか?

まさか自分でも烏山5丁目ドキュメントと、烏山神社の稲荷社と酒井さんとの20数年振りの再会が結びつくものであるとは全く気付いていなかったが、これも天の恵みであるやも知れぬ。

世田谷村日記 ある種族へR47

どうやら、来週は一日中カレーを食べて過ごせそうで、胸が高鳴る。

家人が居ると何やら栄養バランスとかカロリーとかの配慮がされ過ぎる。先日、その家人が数日不在の日々があった。

おそらく頂きモノなのであったろう中村屋のカレー尽くしみたいな箱があって、それを熱湯に入れて煮沸すると、コレワまあ何とも美味なカレーになるのであって、わたくしはそれを毎朝毎晩食べ続けたのである。

インドでは3日で音を上げたインドカレーらしきを5日連続で食し、ついに箱が空になってしまった。空になったからと言って近くのスーパーに出掛けて同様のモノを買い求めることはしない。 それ迄してカレーにこだわる事はしないが、でも中村屋のカレーはインドのタージホテルのカレーよりも、わたくしには美味であった。中村屋のカレーの味を、これも又和様化と呼ぶべきなのか、建築の和様化を論ずる磯崎新の論は鋭いが、「建築」という論ずる対象が実に四角三面で人間の生活とは、中村屋のカレーに比べると程遠いのである。

今日は8月16日であり、アト数日ガマンすれば思い切り中村屋のレトルトカレーの日々を送れるのである。カレー解放ならぬ人間解放である。

小生意気な娘もソウル・ユース映画祭とやらに招待されて出掛けるのでわたくしは完全に自由の身なのである。

朝にカレーを食し、高校野球をゴロゴロTVでながめ、昼にカレー、夕にカレーの理想の日々を送ることになりそうで、早くこの人達居なくならないかなあと指折り数えている。

どうせならば、来週は完全カレー週間とし、各社のレトルトカレーを食べ比べ、その詳細を日記に公開したら、少なくとも読者の役にも立つのではないかと思ったり。イヤイヤ、カレーパンもそれに加えたらと思い付いたりしている。先日、Xゼミナールの待ちぼうけタイムに新大久保の極旨そば屋近江家でカレーそばを食べたら、これは近江家らしからぬ凡庸さであった。烏山宗柳のカレーうどん、及びそばは、わたくしが余りにもうるさいのでどうやら舌をしびれさせようと実にこの頃は辛くて旨くなった。

又、新宿南口長野屋食堂にはそば、うどんは無いが、ここのカレーライスは実に質朴で極上品である。又、烏山、長崎屋ラーメン店のカレーライスも良い。

時々、宗柳のオヤジには、ここのソバは新大久保近江家のそれと比較すれば一歩とは言わず、半歩落ちるな。店の客が高齢者、それも御婦人ばかりが多くなって、味がわからんので文句も出ないのだろうとイヤ味尽くしであったが、ことカレーそば、近江家はカレー南蛮のメニューであるが、カレーに関しては宗柳が今のところ一枚、あるいは1.5枚上手である。記して近江家の奮起をうながしたい。

又宗柳のオヤジには悪かったなとサイトで詫びたい。

彼はサイトはのぞきもしないから、知らぬが仏であるがね。

しかし、宗柳のトウフに乗せられてくるネギの量がメッキリ少くなった。

現場で指摘するのもイヤしいからここで指摘しておく。

たしか娘さんか誰かがこのサイトの読者であるようだから、いずれ本人にもこの反省をうながす言は届くであろう。

今のネギどうふの細切りネギの量は真夏の富士山である。つまり、ネギはほとんど冠雪せず、何にも取り得がないのである。

世田谷村日記 ある種族へR46

8時離床。すぐに建築士会審査の審査評、ホキ美術館、風の間を書きFAXで送信。

このところ、京王線車中から眺めるある風景が気になって仕方ない。

新宿から京王線代田橋明大前、高尾に向って左手に見える浄水施設の風景である。

巨大な土手と小さな西洋式洋風建築の取り合わせが絶妙なのである。

何故こんなに心引かれるのか解らない。でも胸がしめつけられる程に良いのである。

以前は巨大な土手はこんなにクリアーには視えていなかった。

何かがあって、恐らく浄水場の完全な地下化か、何処かへの移転であろうか。大きな樹木やいささかの建築物が取り払われ、巨大な土手と小さな様式建築が点在するばかりになった。

その調和が実に良い。

土手と小建築群、しかも古い様式建築である。たしか設計はアントニオ・ガウディにぞっこんであった今井兼次先生である。その小さな様式建築のたたずまいが素晴しい。

最近、伊東忠太の京都、伝道院に感じ入ったが、それに近い感じ。

更にランドスケープの巨大な土手とのコンビネーションが更に良いのである。

これは廃墟ではない。

しかし、それに通じる無用の長物になるのか?良くは解らぬが時代が置き忘れた風があり、そこに風が吹いていて何とも言えぬ価値らしきを感じるのである。

近代の遺跡のようなモノなんだろう。

近代は遺跡をついに産み出し得ぬだろうと言われる。実利と消却に明け暮れる日々であり、それは今に続く。

しかし、この浄水場の遺物らしきは余りにも巨大過ぎて捨てるに捨てられず、壊すに壊せず、都民の生命の一部を何らかの形で守り続けるモノなのであろう。だから残らざるを得ない。そんな毅然としたたたずまいがある。飛鳥の石舞台よりもはるかに巨大な近代の歴史の足跡のようなモノだろう。

今日は大学は停電で、トイレも真暗闇である。コンピューターも停止している。これもたった1日の遺跡か。でも美しくない遺跡ではあるな。

世田谷村日記 ある種族へR45

12時過、打ち合わせ始める。018.ナーランダ大学セミナー。04.シンガポール仮設パビリオン、06. 稲田堤、星の子愛児園017.京都015.富山神社と続く。全てスケールもプログラムも異なるので頭の切り替えを要する。でも面白い。ようやく全体が廻り始めたのを痛感。

18時修了。

途中世田谷区より電話あり相談中の区内保育園計画について。

来週来室との事。

19時半烏山宗柳で石森彰のダンナ、長崎屋のオバン、オジンとバッタリ。

今日は長崎屋は定休日で宗柳に休みに来た。

オバンと石森ダンナは二人でカラオケに行く。わたくしはカラオケはしないので行かぬ。

世田谷村日記 ある種族へR44

昼に研究室へ。夏休み期間中で地下鉄からの入り口は閉じられグルリと正門迄廻る。暑くてクラクラする。06.星の子愛児園計画の打ち合わせ。他。用意して貰った資料を持ち、15時前新大久保近江家へ。Xゼミナール例会。少し計り急ぎ足で歩いたので又もクラクラする。

待てど暮らせど鈴木、難波両氏供に現れない。

一人でビール飲むが、一人でビール飲んでもかえって暑くなるばかり。

これは時間を間違えたかと、駅前の公衆電話で難波さんに「今日じゃなかった?」と電話。ケイタイを持たぬ身の哀れが身にしみる。駅前の10数メーターを歩くのである。何故、持たぬの確信犯になってしまったのか?そのそもそもがすでに不確しかである。

主君の無念を晴らす浪士でもあるまいし、大体主君を持たぬ身だ。

利根の川風袂に入れた侍くずれでもない。大体東京には土手も無いしと暑さで意識ももうろうとなる。

やがて難波さん来てくれる。しばらくして鈴木さんも来てくれる。お二人共に恐らく夏休みであったのだろう。しかし、何故18時30分を15時と間違えてしまったのか考えるに間違いの根拠すら無い。

しかし、更に考えるに先日の安藤忠雄さんとのXゼミ特別ヴァージョンの会が13時であった。それで、その13時の10が金属疲労、あるいは摩耗して脳内でじゅう3時に数字が移行したのだろう。と摩耗したのは数字じゃなくって自分の頭なのを知るのであった。

そんなわけでXゼミの例会はガタガタになる。

それでも鈴木博之さんに用意した資料を渡して、わたくしの方のとり敢えずの目的は果した。

しかし、ケイタイを持たぬの種族は間もなく、犬猫の類とわたくしの如くのケイタイアレルギー患者だけになるであろう。

ケイタイを持たぬから待ち合わせの時間を間違えるのではない、しかしその間違いはより早く修正できるであろう。しかし、間違いは間違いとして修正しないという生き方もあろう。ただわたくしと待ち合わせる人の数が少くなるだけだ。

と、限界集落のボケ老人の孤独な姿を想像するのであった。孤独なんて字を記すのは恐らく初めてである。やはりボケている。

夕刻、時間も解らなくなりボケ状態のままようやく世田谷村に辿り着く。

明けて8月14日、確か14の日であったと思うが定かではないので新聞を読んで確認したら、やはり14日とあった。誰なんだろうね日付というつまらぬものを考えついて、皆にも押し付けたのは。TVはともかく垂れ流し状であるから日付はもう無い。全て痴呆症的娯楽時間である。CMを視るためにTVはある。新聞は定期的に印刷せぬと商売にならぬから、その時間割の為に定期、つまりは日付が重要になる。

わたくしが、出来るだけこの日記から日付を消してゆきたいと想ったのにはやはり何らかの根拠があるやも知れぬ。時間を対抗する対象に廻すという、これは風車の廻らぬ都市のドン・キホーテであるな。

かくの如き妄想は暑気と共にしばらく続くであろう。

世田谷村日記 ある種族へR43

8月13日6時離床。すぐに持ち帰った06.厚生館星の子愛児園の模型写真の上にスケッチ。7時40分了。いささかの収穫を得る。2つの資質を書く。

スケッチしたらすぐに書くのが良い。10及び、続けて11を書く。

9時15分修了。3時間集中して描き、かつ書いた。今日の仕事は実ワ、これで全て修了といって良いが、そうは問屋がおろさぬのも又現実ではある。

世田谷村日記 ある種族へR42

11時富山より、高岡関野神社神職・酒井晶正さん、中日新聞東京本社・鈴木賀津彦さん来室。酒井さんとは20数年振りの再会である。御母上は昨年亡くなったそうだ。まだわたくしが40代の頃のクライアントである。話せば長くなるので話さぬ事とする。それは実に苦い体験でもあった。しかし、神々しいまでの建築、「神官の間」と名付けたブリキの神社、社務所を作ったのだったが今はない。その一部は菅平高原の開拓者の家の広大なレタス畑の端に断片として残っている。無念であったが我ながら凄惨な体験をした。

何故、菅平に打ち捨てて残してあるかと言えば、いつかきっとこの部品を再び部分としてでも使って、富山にもう一度神社を作ってヤローと勝手に胸に誓っていたからだ。全てではないが、わたくしの最良の建築作品は時に物語り性とでも呼びたいモノを背負うことがある。

それを歴然と意識した仕事のクライアントが酒井さんであった。

酒井さんは色々と今度も自分の都合、思い込みらしきを述べた。

わたくしは、それにはあんまり乗り気ではないし、出来ぬと伝えた。今更、偽善的でおためごかしの町づくりなぞを「神官の間」のクライアントとやる気はなかった。

ただし、金属製の神官の間を作ったのは、彼が富山地方の雪深い冬を過さねばならぬ子供達に自閉症気味の子供が多くって、そんな子供達に舞踏あるいは和楽の如きを教えたいと言ったからなのだ。

それならばと、わたくしは頑張ったのだった。

だから今度仕事を引受けるとしたら、その試みをもう一度再挑戦するならば、動く情熱も生まれるだろうと言った。

酒井さんは何処かに山車(ヤマ)会館のようなモノをと考えていたようだが、それはその次にやれば良いと酒井くんには申し述べた。

発注者(クライアント)らしきに何てこと言うのかと自分でも驚いた。

しかし、かつて我々は双方共に本当に建築らしい建築をまっとうに作り、それでいたく傷ついたのであった。

羽をもがれた鳥の如くになったのであった。思慮深さに欠けてはいたが真剣極まるモノを作ったのは確かな事である。この挫折は実ワ、共に生かさねば浮かばれぬのである。浮かばれぬのではなく、高みに飛べはしないのだ。金属は雪深い地域の土地の感性にはいささか痛々しいのも知った。

だから、今度は木でもって、本格的なガチンコ建築を作りたいのである。

そんなチャンスが巡ってくるかどうかはまだわからない。しかし、その到来を待つのである。

13時より06.厚生館星の子愛児園の建築打ち合わせ。模型を切り刻み、つくり直したりでリアルな作業を続ける。この瞬間の連続が面白いのである。即物的にモノを扱い、何とかてなづけてゆく醍醐味でもある。

自分の中の自由を発見する快楽かな。

16時新宿で遅い昼食。雑談。

小雨降り始め18時半別れる。19時前千歳烏山駅で豪雨、雷の去るのを待つ。小降りになる中を20時前世田谷村に戻る。

村に帰ったら、菅平高原の正橋さんから高原レタスが届いていた。

正橋くんも神官の間の酒井さんが来ることを直覚したのかな。

夜、保育園のスケッチ。本当の、子供のための建築を作ってみたい。

ありとあらゆる子供は天才である。

人間として経験を積み重ねるとみるかげもなくそれが失われる。

世田谷村日記 ある種族へR41

8月12日7時半離床。今朝はいくらか涼しい、昨夕の雨のお蔭だろう。昨夕、大方南烏山5丁目の件については方針らしきを相談して決めた。

相談はすぐに雑談となり、高校野球の監督の品性、それぞれの地元での立場などについてに移る。甲子園に出場するようないわゆる野球校に集る生徒は両親共々、越境して野球に打込む生活らしい。高校野球には高校野球の人間の動き、思感、金銭感覚らしきがあると聞かされ、へエーッと思った。

もうある種のブランドショップ群の如きであるのかな。

とすれば高校野球の監督という者はブランドショップのフロアーマネジャーの如き存在なのだろうか。

早稲田野球部OBの六車さんに一度会ってみようか。『名スカウトは何故死んだか』の著作もあり、その辺りの事には充分以上に詳しい筈だ。

イチローのこれから、松井のこれからなどについて御高説をうかがうのも一興だろう。

MLBが世界(と言ってもアメリカ世界)の中心であり、日本のプロ野球は明らかにセカンド・クラスなのが歴然とした今、高校生だって野心のある者はその両親共々、高校時代からMLBを目指す、準備に入るのが合理的であるのも歴然としてこよう。

ところで、我々の被災地支援のタオルセットも、PRの効果が少しだけあり、某新聞の販売店がわずかなりとも応援してくれることになった。

「まだ、こういう事をやってる人が居るんですか!」と言ってくれたそうだ。まだというところに日本人の忘れやすさも又現れているが、へりくつはとも角嬉しい事ではある。

今朝は9時過に世田谷村を発ち、来客と会う予定。

世田谷村日記 ある種族へR40

8月11日16時過ぎである。雷が響き、稲妻が光り、ドカーン、ドカーンと盛大な音が鳴りわたった。が、しかし、肝心の冷気をもたらす筈の雨はチョボチョボである。それでも1階に降りると久し振りにヒンヤリと空気が冷えている。天気というのは凄いものであるな。この雨でまだしばらくは朝顔は枯れずにいるかな。

猫は2匹ともに暑さでぐったりしている。アブラゼミが家の中に飛び込んで鳴いている。

手持ちの絵を一点石森のダンナに差し上げるべく用意して、出掛けてみるか。このところ彼の家の門は色んなビラやポスターが貼られて、おまけに烏絵馬まで竹にゆれているから、この際一気に美術館状態にしてしまったら面白いかも知れない。

世田谷村には自然に美術品が集まってしまっている。集まってしまったモノの、これからの行末は少し計り考えねばならぬのだろう。

今晩は国際陸上を視ながら過ごすことになるのだろう。身体が暑さモードになってしまってる。無理は禁物である。

美術も陸上競技の放映も、そして高校野球の放映だって何変ることもない。

世田谷村日記 ある種族へR39

我孫子市の廣瀬英男さん、多摩プラザの山口勝弘さんより手紙をいただく。山口勝弘先生からのは、わたくしの重要になるであろう仕事(プロジェクト)がらみなので公開する。廣瀬さんは時折アニミズム紀行他に関する感想をいただく。わたくしにとっては貴重な友人でもあるがやはり東北の被災地に対しての感想が述べられて、これでも先進国なのかとあった。同感である。日本は決して先進国ではない。

と言うのは、今や世界は先進国、後進国の単純な区分けは通用しない現実にある。

適当な消費的生活をして、毎日毎日膨大なゴミを出し続ける生活を先進的であるとするか、ヒマラヤの見える村でゴミも出さずに、ほぼ自給自足生活を続ける生活を後進的とするか、実にわからぬところがある。

しかも彼等は我々の消費生活らしきをコンピューターやTVで知っているのである。

ベトナムのジャングルでベトナム戦争戦火を逃れてジャングルの樹上に小屋を作り半世紀以上も親子で隠れ棲んでいた人(親子)が発見された。子はすでに41才になっていた。言葉もしゃべれぬそうだ。

日本でもフィリピンの山の中で小野田さん、グアム島から横井さんが戦後数十年して発見されたのはまだ最近と言ってもおかしくはない間近な時間の中であった。

彼等は軍人であり、ベトナムで見つけられた人々は常民である。

軍人は地下生活を続け、常民は樹上に逃げた。本来の人間の動物としての本能なのかなコノ違いは。

今日は8月11日、日曜日、うだるような暑気が続く。

世田谷村日記 ある種族へR38

8月10日、うだる暑さの土曜日。チビの方の猫がグッタリして元気が無い。うるさ過ぎてもわずらわしいし、静かすぎても気になるし、人間はまことに勝手である。

昨夜の説明会ではもっぱら我々の会についての質問、疑問がほぼ1名の婦人から集中的に浴びせられた。

いわく「子供や生きものの遊べる場所をつくるとあるが、生きものには蛇とかそういうモノも入るのか?」だって。

かくなる質問らしきも民主主義社会では通用するから、もう説明会はほとんど無意味なモノになってしまった。とわたくしは感じた。時間の無駄である。

しかし、そんな無駄な時間の中から幾つかのアイデアも生まれたりして、これからは区役所を相手に少し動きたいと考えた。

しかし、あの質問をした婦人は我々を大蛇やワニをこっそり飼っては時に人間をエサにして与える変態老人倶楽部とでも思ったのであろうか。そうにちがいない。

なにしろ我々の会の副会長の石森彰のダンナはほとんど飼い猫であるチイタマと恋仲の関係であるし、飼い猫は幸いオスであるから恐ろしい変態的状態はあり得ないのだが、地元ではどんな噂が流れるやも知れぬので、この猫オスですのチラシを配布しなければならぬかも知れない。

しかし、こんな事サイトに書き入れたりすると、この部分だけ切り取られて悪意以外の何ものでもない噂が流されるかも知れない。

ネット(サイト)に埋没する者、ネットに埋め殺されるの図になる大笑いが出現したりで、そう言えば最近、そば屋宗柳の客のなにがしかは、石森くんと石山くんに冷たい笑顔を向けるようになった気もしないではない。

宗柳の客は地元のジイさんバアさんの集会所の感になり、日本の都市の高齢社会のモデル状に完全になっている。

高校野球はプロ野球入門編のごとくになり、高校生という名のガキが良い道具、プロ並み、あるいはそれ以上に金のかかった道具を身につけ、あわよくば大リーグへ行って金をつかむぞの気分もアリアリと見えてしまう状況である。

仙台育英が浦和に勝ったけれど、アレは明らかに監督の投手起用法の誤りであるのは歴然としているから、監督の首はすげ変えられるのではないか?

TVはありありと監督、つまり大人の仕草や表情を映しだし、それは品格に通じるのである。

わたくしの文章の師匠であった(勝手に言っているので文句は言うなと申し上げる)山本夏彦はすでにずいぶん前から高校野球の選手の大半は高校生ばなれした野球バカ同然だと、これは言い過ぎであったが、説明していた。

彼等が通常の高校生とは異なる種族である事は歴然としているとわたくしも思う。

世田谷村日記 ある種族へR37

13時六本木ミッドタウン内三宅一生ミュージアム、安藤忠雄設計内レストランで安藤忠雄、難波和彦両氏と会う。やがてすぐに鈴木博之さん現れる。安藤事務所でセットしてくれた昼食のパスタ他は中々おいしかった。話しは色々と飛んだが、安藤さんの話しに聞き入り続けた。彼の話しは具体的でしかもスケール感がある。大大阪人である。体調もすこぶる良いと見受けた。会えば先ず体の調子らしきに眼がいくのは、これはお互いに自然である。

15時了。じゃあ又と別れる。

帰りに磯崎アトリエが引越したとの事で、空になったアトリエを眺めた。時が流れる、お城が見える−− はアルチュール・ランボーの詩であったか。マア、そんな感じであった。

地下鉄で新宿経由千歳烏山へ。16時半世田谷村で小休。

18時半再び発つ。宗柳で横山弥太郎、烏山5丁目の会、会長にお目にかかり、又この会に参加して下さっている御婦人連中にあいさつしたり。それから19時の区民センターの第二回烏山5丁目計画の三菱地所、セコム、ラン設計他による説明会に出席。多くの発言あり、マア色んな種類の人間がいるものである。

20時過終了。

石森、佐藤、有泉他と宗柳へ。これからの事は明日考えることにしよう。21時過散会、別れる。

明けて8月10日5時半離床。今日も暑い。涼しいうちに手紙を書き、ポストまで歩いてすぐに汗びっしょりとなり、水を浴びたり。

世田谷村日記 ある種族へR36

9時前東京駅で佐藤くんより作成したばかりの資料を受け取る。

馬場昭道さん現われ9時過の、のぞみに飛び乗る。車中雑談しながら11時半京都駅着。MK TAXiまで歩き、MKで本願寺隣りの信徒会館へ。

昭道さんしっかりしてるわ。安いTAXiの使い方を知っている。信徒会館へ荷物を預けて昼食へ。本願寺前の大通りの裏の小さな通りの、そばうどん屋へ。学生時代に良く喰べたところらしい。カレーうどんを食べる。

暑いと自然にカレーうどんと、最近はなる。ねっとりと濃い色香のカレーうどんだった。京都らしいなと思う。江戸の、と言うよりも宗柳のカレーうどんとは全くちがう味だったがうまかった。小一時間ほど休み、思い出話しにふける。

13時近くの伊東忠太の建築へ。そこが今日の講義の会場であり、いささか驚く。本願寺派の僧の研修所として使われているようだ。

中を視たいとかねがね考えていたので喜ぶ。

中は天井高の高い立派な部屋、廊下である。

丁度防災チェックの日で、普段は入れない四隅に面した象徴的な部屋にも入ることが出来た。幸運であった。

伊東忠太の建築は固くて色気が乏しいなと思っていたけれど、角の塔屋にはビックリ。実に上手いのである。そしてイスラム、中国、恐らくはフィレンツェのルネサンス様式のドームまでもが、やわらかく融合しているではないか。築地本願寺とは異なる世界に所属するなコレワ。

色彩も豊かで繰り返すが色香がある。

伊東忠太はあのギリシャまでの大旅行の途次で大谷光瑞に出会い、それで大谷家との関係が生まれ、この建築の設計を発注されたようだ。

旅はするものだなあ。

13時半馬場昭道講義。立派な天井の講義室である。

伊東忠太の名作の中で講義する昭道さん立派に視える。

受講者は全国の若い僧侶で40名であった。途中、休みをとり16時過迄。都市開教について、飛び入りでわたくしも最後に20分程お話しさせていただく。

わたくしもお相伴ながら伊東忠太設計の部屋で講義することになった。

「皆さん、こんな立派な部屋で話しを聞けるなんて、ゼイタク極まりますぞ」と話した。皆さん急に天井を見上げたりで、へエーッと驚いてくれたようだ。

わたくしだってこの部屋で講義できたら名調子になるであろう。

教師の品質はその建築によっても養われるのである。と余計な事迄考えさせられる。

しかし、伊東忠太に初感動であったのが嬉しい。

日本人の世界の建築への好奇心の初心らしきの端々しさが伝わってくるのであった。

わたくしの伊豆の長八美術館も自身で再び見直す感あり。

終了後、昭道さんにうながされて岩澤梵鐘へ。再びMK TAXiを呼んでもらう。しっかりしてるわこの住職。

岩澤梵鐘にて、岩澤宗一郎、岩澤一廣親子にお目にかかり工場に入り込み、梵鐘の製作過程をわずかなりとも肌で感ずる。

作り方を知らないで、デザインはできない。

鐘もつかせていただき、鐘の音は作る一つ、一つが皆違うと教えられる。

そうだろうな。音の入ったDVD他を送っていただく事になる。

18時前、信徒会館にMK TAXiで戻る。昭道さん京都駅前でもらったTAXiカードでちゃっかり、安いMK TAXiを更に割引きにしてもらっていた。

しっかりしてるわ、この住職は。坊さんにしておくには実に惜しい人材である。

身づくろいをして、隣りの東急ホテルへ。18時半前、浄土真宗本願寺派総長・園城義孝、浄土真宗本願寺派本山本願寺執行長・佐々木鴻昭、両氏にお目にかかり、会食。本願寺のツートップである。

偉い人達なのに気がおけぬ人達であり、共に自由人であった。

御陰様で和気合々、心ゆくまでお話しできた。インド・ナーランダ大学他の件。明日ちょっとした物件を見て下さいとなり、気持良く飲み、かつ喰べたので気楽にハイと返事する。

20時半頃会食終り、又お目にかかりましょうと別れ、歩いて信徒会館へ。シャワーを使って休む。

明けて8月8日、5時過離床。すぐに昭道さんと本願寺での朝会へ。

昨夜お目にかかった総長さんの読経する姿を遠くから再会。

佐々木執行長にも本堂内で再会。阿弥陀殿、真影殿と移り読経に和す。

朝早くから京都の町のお婆ちゃんも、本殿で足を投げ出していたりで、昭道さん椅子を持ってきたりであったが、「わたしは椅子はいりません、この方がいいんです、でもすみませんね、ありがとう」のやり取りも読経より大声であり、うむ、これもお経だなあと思ったり。

長野からの本願寺参りの親子が京大受験の合格祈願であったり、実に世は様々であった。

大本願寺も大変である。

終えて、朝食は京都風堂々としたロイヤルホストでアメリカンをいただく。カレーうどんの昼飯と、たっぷり和食の明けにはアメリカンが一番だが、隣りのドンブリものらしきの店も、今度きたら訪ねてみたい。

9時半に本願寺境内の社務所へ佐々木執行長を訪ねる。

やっぱり大組織で幾たりかの人々に紹介していただき、驚いた事に用意されていたバスで何処かに。境内のチョッとした物件を見るのかと思っていたら、東山清水寺隣りの大谷本廟へ。

再び多くの人々に名は記さぬが紹介され、物件を見学する。

余りの大きさ、複雑さに驚くが、何とか考えてみたいと覚悟する。

11時半、皆さんと別れバスで京都駅に送っていただく。

12時過ぎの、のぞみに飛び乗り、東京へ。実に忙しい京都行であった。

14時半、東京駅で馬場昭道住職と別れる。大変世話になった。

約束の時間に遅れて研究室着。三菱地所、セコム、ラン事務所他の方々に遅くなり、失礼したとあいさつ。大方の話しは済んでいたが挨拶できたので良かった。

15時過、大学院補講レクチャー18時過迄。いささか疲れて修了。

朝5時から駆け廻っていたので仕方なかろう。

19時半烏山宗柳で石森彰さんに今日のラン事務所、三菱地所他との打合わせの結果を報告する。

20時半世田谷に戻り、夕食をとり、ようやく休んだ。

明けて8月9日8時離床。朝から暑い。

長いメモを記す。今日は昼に六本木で安藤忠雄、鈴木博之両氏他と昼食後、夜は烏山で烏山5丁目の件の第二回説明会の予定。

京都の新物件に関して、昨日まだスタッフに説明不足だったので今日もう少し伝えなくてはならぬ。

ようやく日記が現実に追いついたところでひと休みする。

世田谷村日記 ある種族へR35

11時研究室、01.02.ベトナム五行山計画、明日の本願寺での会合の為の用意を見て相談する。次に04.シンガポール計画を見る。少し計りまとまり始めている。最終的にはシンガポールでの北海道イメージらしきを少し表現せねばならぬか?

近藤理事長より連絡入り06.保育園計画に展開あり。すぐに整理してアイデアのとっかかりを作り、伝達する。理事長も役所に出掛けて奮闘しておられる様である。

明日の本願寺ではインド・ナーランダ大学の計画も初めて対外的に相談することになる。頑張りたい。

17時烏山宗柳で横山弥太郎、石森彰と無駄話し。無駄の中から何が生まれるか、生まれないのか。神のみぞ知るである。カレーうどんをシェアーして、何ともジイさん同士でなのがイヤらしいのだが、それが定番になりつつある。

18時半世田谷村に戻ったら、山口勝弘先生よりお手紙が届いていた。無理をさせてしまったかと、いささか胸をいためるも、これで16.福島第一原発モニュメント計画のスタートとなるだろう。

「わたくしにとっての実験は永久運動機関のようなものです」と記されており感動する。

実験工房の清冽な知性の結晶であるな、先生の知は。

励まされる事、実に大である。

明日、東京駅で佐藤君に渡して早速サイトにONしたい

皆さんにこのまさに魂としか他に言い様が無いモノをおすそ分けしたい。

明けて8月7日6時離床。メモを記す。今朝はこれから東京駅でマテリアルを受け取り京都・本願寺へ出掛ける予定である。8時には発つ。

静かな朝である。新聞でも読むか。少しではあるが忙しくなりそうで、これ位の方が体調にも良いようだ。貧乏症なんだな実に。セコセコと自分も廻りも動いていないと満足できぬのだ。良い仕事ができれば何言う事もないけれど、それは運を天にまかせるしか無い。

世田谷村日記 ある種族へR34

8時離床。お盆が近づくと母の故郷の岡山佐伯を思い出す。小学生の頃毎夏、帰郷するのが本当に楽しみであった。

新幹線で吉井川を通り過ぎる時は今でも川面を眺め続ける。

アッという間の時間だが、この川の少し上流で遊んだ記憶が抜けぬから。川の水のモアーッとした温もりを身体はまだ記憶している。

日がな1日川につかっていたような気がする位に、水の中に居た。吉井川にも街道沿いの小川にも。

大人になって、その小川を眺めて、こんな小さな川でよく遊んでいたなと驚く。

吉井川も昔程には決して美しくはない。川には新しい橋がかけられて故郷は自動車道路だらけになった。そして、妙な公共建築が沢山建ち続けた。変な商売の径、建築設計へと入り込んだなと思うのはそんな時である。あの1950年代の帰省していた頃の田舎の風景はセンチメンタリズムを半分差し引いても美しかった。

貧しかったけれど等身大の生活とバランスがとれていた。敗戦で故郷を走っていた片上鉄道の終点、東海道線の和気駅で母は広島からの貨車にピカドン(原爆)で殺られた大量の死体が、焼けただれて、腐臭を放って積み重ねられているのを目撃したと聞く。亡くなる前に突然そんな話しをわたくしに始めたのだった。

「あれを視てしまって、わたしはどうしてもアメリカが好きになれなくなった」 と母は言ったのだった。

2011年の東日本大震災の津波による破壊の風景、そして福島第一原発のまだ未終結の状態が続く光景はそんな事まで思い出させる。

今年亡くなった建築写真家・二川幸夫さんの最後の展覧会になってしまった「日本の民家」に表現されている圧倒的な美しさは、これは戦前まで連綿として日本文化に継続していた民俗の美でもあった。

二川幸夫は巨大な矛盾を内に持つ人間であった。その日本の民俗の伝統の美を亡ぼしたアメリカ文化への、憧れも又異常に強い人間であった。

『日本の民家』と並んで彼の最良の仕事は『フランク・ロイド・ライト作品集』であった。

敗戦間もなくの、1950年代を生きた日本の青年達、二川幸夫や磯崎新は日本を徹底的にたたきのめしたアメリカ文明の力をまともに受けていたのだ。

三島由紀夫が横尾忠則を評して、「・・・戦後の勇敢なパン助女性同様に恥も外聞も無く、アメリカのポップアートの波をかぶり、しかも身体の奥深くに日本の土俗を持ちつづけて、それ故に世俗の成功を勝ち得た」らしきに近くの批評を残しているが、真当である。

たしか心霊アート、巫女に似た表現に近いというに近かった記憶がある。

二川幸夫の写真の一部にも、そのドライで直截な感性の底に、それに近いモノがあった。

磯崎新の原点のひとつでもある廃墟も然りだ。双方共に大戦で日本が失った土俗とは言わぬが民衆の感性、直覚らしきを嗅ぎつけていたのではないか。

考えてみれば師であった川合健二も又、そのアイデアの基底に敗戦、焦土との直面があったのだ。

川合を思い出すたんびに、毎年毎年鉄錆の赤の印象が強くなるばかりだ。

世田谷村日記 ある種族へR33

10時半東大隈研吾研究室。今年度の合同課題他の相談を隈研吾さんと。11時半前了。12時過石山研に戻る。すぐに二、三の打ち合わせ。14時半了。15時半昼食後散会。それぞれのWORKへ戻る。

やっぱり、何とか身体を動かし、時間をねじ開けて一日に一度は研究室に顔を出して、スタッフの顔を直視して、又WORKのdetailを見なければダメだなと実に当たり前の事を実感する。当たり前過ぎて我ながらボー然とする位なのだ。「2つの資質」に関しては、ほぼ毎日通信してやろうと決めた。

図を描いて、自分なりに念入りにと思う位にオペレイションしても充分には届いていないものだ。でも、若い頃のわたくしを記憶の底から引きずり上げてみたら、それ以下の状態ではあったと思ったりもするが、わたくしには誰からも通信はもらえなかったナア。それが今の、ゴーガンの、(ゴーカンではない)カビの素である。恐らく、このゴーガンさが10年位の時間のロスをもたらせているが、それ以上ではないのだ。20年は取り返せぬが10年は何とかなるような気もするが、これも又、ゴーガンの岩のコケであろう。あと10年、1日を2日分に生きればモトはとれよう。

世田谷村日記 ある種族へR32

8月5日月曜日7時離床。馬場昭道さんから電話あり、明後日京都本願寺へ行く事になる。坊さんは朝が早いな。今朝は10時半に東大で合同課題の相談事がある。

窓をいっぱいに開け放って夏の朝の風を広間に入れる。梅の樹の先が少し揺れていて、これ位の風がある日は世田谷村は実に快適である。屋内に風が吹き流れる。ここの2階は周辺の住宅の丁度2階の屋根の位置ぐらいに空中に浮いている。それで空気の流れは悪くはないような気がする。

地上5メートルぐらいだから、やはり空中と言ってもおかしくはない。マア考えてみれば屋根の中に住んでいるようなもんだ。

あの切妻だとか寄棟、片流れの屋根は箱状の部屋の上にかぶさっているアジアモンスーンの自然との調整役である。で、うちはその屋根が変形して大きくなり、家になった。

昨日の午後は「2つの資質」06、07を描き、なおかつ書いて過したが、06.厚生館星の子愛児園の増築ならぬ分園新設計画のスケッチと併行して進めた。佐賀で開催した早稲田バウハウス・スクールで名を失念したがバウハウスの若い女性の先生が、わたくしの解釈ではモダニズムが封印したもの、その暗喩としての箱、子供たちの宝モノの箱、そして棺のイメージ連鎖について講義した。とても印象深いものであった。その講義が蘇ってくるようであった。

機能の名に於いて封印されたものは人間の生命の源の一つでもある物質が断片化、つまり部品として流通する以前の、原流通の如きものであった。

原流通とは我ながら勇ましいことを言ってしまってるが、これはコミュニケーション(人間と人間のそれを含む)、すなわち人間と自然の間にあったコミュニケーションに近い事を言おうとしているのだが、いずれアニミズム紀行に於いて述べてみたいものだ。出来るかな?イヤハヤ手の中にある時間は余りにも少ない。

世田谷村日記 ある種族へR31

8月4日、日曜日7時離床。薄曇り。冷えた大唐桑茶をゴクリと飲む。最初は漢方薬めいて飲みにくいなの印象があったけれど、うまい。

子供の頃、小学校の行き帰りによく遊んだ桑畑の匂いがほのかに蘇る。

1950年代の東京近郊にはまだ子供が隠れて遊べる場所があったんだなあと、そんなことまで考えさせる茶である。

昨夜は再再…読の『方丈記私記』で一夜を過した。中沢新一のあと書きのある『異人論』小松和彦、は読めなかった。雑読病の中に降りて、ルソーの『人間不平等起源論』をかじった。

それで、やっぱり頭を整理したいと堀田善衛に帰ったのであった。

安心して読めるのである、堀田善衛は。

スペインのアンダルシアだったか、地平線まで広がるひまわり畑の一本道をバスで走ったことがあった。ポツリと一軒屋があると、あんなところに堀田善衛は暮らしているのかと思ったりした。

堀田善衛は何年かをスペインで暮した事があり、バルセロナに良く行っていた頃と重なる。

スペイン市民戦争、そしてゴヤへの関心と共感が堀田善衛をそうさせたのだろう。

大部のゴヤ評伝3部作だったかはわたくしも夢中で読んだものだ。

全体小説という呼び方は不適当であろう。

そして歴史文学への過程と呼ぶべきであったか。アジア・アフリカ作家会議というのがあった。小田実や開高健、勿論中心に堀田善衛が居た。

小説家には大き過ぎるテーマを創作の枠として持とうとした。当然挫折する。

でもアレは立派な志であったと思う。懐かしく思い出す。

で、堀田善衛の本はわたくしのバラバラな風景の本棚のいつも中枢に近くを占め続けるのである。

世田谷村日記 ある種族へR30

8月3日、8時過離床。1階の金属壁のかたわらに朝顔の鉢を2つ置いてある。凧糸を張ってそれでもツルがからまるようにした。それで朝顔が金属壁の表面にヒョロヒョロと背を延ばしている。しかし日照りの日が続くとオロオロとはせぬが、やはり痛々しい。この金属は薄い折板の鉄である。それに左官職に黒塗りのタテじまの壁を塗り込んでもらった。まあ言ってみれば土壁らしきとブリキ壁がハイブリッド、つまり折衷している。

だから金属板よりは少しは植物との折り合いは良い筈だが、これはやっぱり建築専門バカの浅知恵であった。やっぱりそれでも咲いた朝顔の数輪は時に痛々しい。痛えだろうなと思わせる。

が、朝顔の紅は美しいのである。南側のテラスで条件も良く生い茂っている朝顔の紅色よりも鮮やかで鮮烈である。条件の厳しい中で咲く花は同様に烈しい美しさを持つものなのか。

昨夜、『磯崎新建築論集5「わ」の所在』を再読した。

闇に浮かぶ黄金—サン・ヴィターレ聖堂の文章が圧巻であった。磯崎新の刻苦勉励の様は度々間近に見てきた。何処の国の美術館にも良く足を運び古今の美術を良く知り抜いている。そして自分なりのその美に対する評価がある。明朝の壺から現代アートにいたる迄。

ラヴェンナのサン・ヴィターレの建築は夕方に失望し、朝に感動したとあった。つまり陽光の変転(回転)と建築内部の質の生成変化について磯崎は詳細に述べている。

その感動の息使いまでが伝わるくらいに見事な描写である。これに近い実感の質、及びその表現は磯崎に於いて日本建築に於いては無い。唯一浄土寺浄土堂に対する感動がこれに近いが、それでも違う。

磯崎が表明したかったのは自分の実感としての感動、つまりはリアルな感動がビザンチン建築の闇と光から来るらしいという事である。

磯崎らしく奇妙である。おおいに奇妙である。

師の丹下健三の都市認識の原点がサン・マルコ広場体験に在るのを十二分に意識して丹下との差異を殊更に表明しようとしている計算は差し置いて、それでもここに描かれ、表明されている感動、そして感性の質はまぶしい。クラクラしてしまう位だ。

頭が良過ぎる磯崎は韜晦の恥じらいを含め、自分の守護神がビザンティンの建築の全て、美術も含めてのアートディレクターであったと煙に巻いているが、これも本音だろう。それを言及する批評家も出現しそうにないから、やはり自分で言ってしまっている。

ビザンティンと磯崎新は、磯崎が持ち出す谷崎潤一郎『陰翳礼賛』と共に将来書かれるべき磯崎論、建築家論への布石なのである。

しかし、大谷崎の文章と、こんな時の磯崎の文章は異常なくらいに接近する。エマージェンシー、エマージェンシィのニアミスみたいなものである。

残念ながら、わたくしにはこんな文章は書けない。

何故ならそんなブツにまだお目にかかっていない。

それに近い体験はある。

川合健二の鉄の家と星の光の下のコスモス畑。そして恥ずかしながら自作幻庵の光と梅の香である。

自作を言ってはならぬのは知るが、もう随分昔のことだ。もう良いだろう。いつも花がつきまとっていた。

世田谷村の朝顔、ブリキ板と共に咲く花はその続編かなと思ったり。

世田谷村日記 ある種族へR29

9時45分京王稲田堤改札口でスタッフ2名と落ち会い、10時前星の子愛児園へ。近藤理事長、副理事、理事とお目にかかる。

打合わせの結果、増築は0才、1才、2才の乳児保育園の新築として考えようとなった。キメの細かい要求もほぼまとまり、8月中旬に第1案のプレゼンテーションとなる。

世田谷区の保育課にも保育園建設のアイデアを土地付で提案しているのだが反応が遅い。待機児童数は今や日本一なのに対応能力がいささか鈍いのではないか。土地と社会福祉法人としての着実な実績を持つ運営陣の双方を用意しての提案なのに、どうした事なのか。非力としか言い様が無い。世田谷区南烏山5丁目の再開発に於いても、内に保育園他を組み入れるように要望書を三菱地所他に提出しているが、区役所の対応は本当に期待できるのだろうか。気になるところである。

13時近くの中華料理屋で理事長、理事と昼食。

若いスタッフを色々と教育していただく。

昼食後、厚生館愛児園へ。理事長、若いスタッフに植栽の事、他諸々を色々と教えていただく。本気で受け止められる奴が生長するのだけれど、どうかな、若僧共は。その後、京王稲田堤のホーム待合室でスタッフと今日の打合わせのこと伝達する。

16時過烏山石森宅の「町づくり支援センター」のショールームと化した門に、正式に「町づくり支援センター」の大きな表札をかけさせていただく。今朝了解は得ている。

作業中、隣の大久保さんに声を掛けられ「タオルセット買いました。金どうしましょう」と言われた。手渡してもらうのが一番かな。隣人である。

世田谷村日記 ある種族へR28

姫田忠義さんが亡くなった。民俗文化映像記録の持続力は類まれな人物であり、民俗学者宮本常一さんのお弟子さんの一人であった。

一人貴重な民俗の歴史の記録者を失った。あの咏嘆と情感の過剰さは時についてゆけなかったけれど、それは自分の狭小さを常に浮彫りにさせる類のものであった。記して心からの追悼の意を表明したい。

10時ヴェトナム・ダナンより人民委員会ヒュウさん、ASIAN STAR J-C COMPANYのダン・バン・チャング、ボードディレクター他2名の方々来室。ヴェトナムの人々は一人一人の人間に人間味というか、人間くささというか、わたくしはそれが好きなのだが、それがあってお目にかかってもとても気分が良い。進行中のプロジェクトの模型やらをお見せすると好奇心に眼を輝かせて下さり、相好が崩れんばかりで、こちらも励みになるのだ。11時了。今朝ダナンから着いたばかりなのか皆さん大きなバッグを抱えての来室であった。

次いで04.シンガポール計画打合わせに入る。模型と簡単な図面が提示された。前回より進んでいてホッとする。的確なオペレーションをすれば着実に積み上げてくる才質はある。わたくしの判断力次第である。ヴェトナムの仕事と対称的な仕事なのを楽しんでももらいたいものだ。ヒュウさんからいただいたヴェトナムコーヒーを飲み、美味であった。13時過了。サイトの編集やらを若干討議する。

15時半新宿長野屋で遅い昼食、雑談を続ける。無駄話しも時に大事なものだ。時々、お目にかかるお客さんと名刺交換する。インテリアデザイン関係の方である。

こういう所で最近は知り合いが増えている。

17時半宗柳前の道で石森さんに待ち伏せの如くにバッタリ。石森さん大きな息子さん達にカキを喰べさせようと、立派なのをオーダーしていたようだ。男手ひとつで大きなのも育てているんだから苦労は並大抵ではあるまい。大きなのもと言うのは、勿論小さな猫も彼に頼りきりなのだから、へたるわけにはいかないのである。

8月2日7時前離床。麻生太郎副首相のナチス発言が波紋を起こしている。この人物がドイツ史、および世界史にいささかの教養があるとも思えぬが、それにしても、ひどい発言ではあった。語るに落ちるが、ワイマールの人々が今でもナチスのユダヤ人虐殺の記憶を忘れまいとして、いやがるわたくしを度々ブッヘンヴァルトのユダヤ人強制収容所の廃墟に連れてゆこうとする痛切なと言うにもはばかる人間の奥深い恥の意識のカケラもこの人間には無い。政治家としては無残と言うしかないが、人間としても失格ではなかろうか。政治家劣化のモデルだ。わたくしも時々、政治に関して暴言を吐いては、家族に罵倒される身ではあるが、罵倒されるとまだムキになる愚かさもあり、麻生太郎を反面教師として仰ぎ見るべきか。この人物の写真をどこかに貼って日々をいましめなければならないだろう。他人の間抜け、無教養振りをそしる前に自分の内にもそれらしきの芽もあるやも知れぬのである。

日本国民は皆麻生太郎氏をブラックミラー(わたくしの下らぬ造語であり、これも実に麻生太郎的である)として日々をいましめるべきだろう。この人の取り巻きは又、みんなイエスマンばかりなのだろうな。日本柔道界のゴタゴタを新聞で知るにつけ、あの麻生太郎的資質らしきのボスのかたわらに昔日の日本柔道界のヒーローであった山下氏の姿があり、ああ彼も柔道はよく出来たのに大人であるべき組織においては無能なボスにイエスしか言わぬ、これ又無能な人間であったのか、と勝手に残念に思ったりして、実に自分もいわゆるヒーローには弱いのを知るのである。

思い立って、本当に麻生太郎と、ついでにと言っては何だが菅直人の写真を世田谷村の玄関の壁に貼りつけて、わたくしの日々の暴言癖を少しでもいましめるようにしたい。菅直人前首相も又、自分が民主党大崩壊の主要な因を作ってしまった無易な資質でしかなかったのは麻生太郎これ又、前首相と同様である。わたくしはこれを市民バカと呼びたい。あるいは市民運動バカで、麻生太郎氏がブラックミラーならば、こちらはホワイトミラーである。

錆びてボヤけたアルミ製の歪んだ鏡面である。これは我々市民の自己保身という本音の恥部を実に写し出していた。

8時半、厚生館近藤理事長より電話あり、星の子愛児園増築の件で打合わせしたいとの事。11時に稲田堤の現場でお目にかかる事にした。クライアントに対しても自分に対しても自分の口の軽さをいましめなければならない。麻生大明神を拝して出掛けたい。

世田谷村日記 ある種族へR27

8月1日6時離床。世田谷村には今猫が2匹いる。古くから居る5歳の白足袋と、つい先だって来た佐助だ。これは5ヶ月。共に捨猫であった。なにしろ2匹は大変である。仲が悪い。一方的に白足袋が佐助を避け、佐助は白足袋に挑みかかる。大きさが違うのでケンカしたら白足袋は佐助に勝つ。猫のケンカは爪とキバをムキ出しにするから、初回の果し合いは佐助が血まみれになった。これは戦いは無制限勝負になってしまうと考えて両者は今のところ別々にしている。白足袋は強いクセに気が弱く、物蔭にコソコソ隠れて出てこなくなったが、昨日からようやく広間をウロウロするようになった。小さなオリの中に佐助はいたり、別の部屋に閉じ込めたりしている。時にどうしてるかなとのぞくと飛びついてくる。やたらと馴れ馴れしい猫で顔をかんだり、手足をかんだりする。10分もいるとこちらがグッタリしてしまう。子猫のエネルギーは凄いものだ。

でも、こんな状態を続けるのは大変なのでいつか両者が併存できるようにしなければ、人間の方が世話で疲れ切ってしまうだろう。

つまり猫と猫をどう共生させるかは、これは計画らしきが必要になる。

人間たちと同様にアパートのように各家族毎、あるいは個人毎のユニットに閉じ込めるかしてアパート状を考えるか、これは難しいであろうが、やっぱり教育の努力を続け、あるいは手足、口のキバをムキ出しにせぬような防具を考えて共生させるかの径にするかを決めなくてはならない。こんなことが長続きするわけがない。

人間たちの住宅も実ワ同じであるなと考えてしまう。

昨夜は唐桑を応援する鈴木商店メッセージボードあるいはショーケースのようなモノを考え込んだ。 でも、考えつめるとこれはうまくゆく筈が無いと気付いた。それ故、そのギャラリー状を一関ベイシーの2階にするのが、やはり良いかに今のところ落ち着きそうだ。何故なら唐桑の人達に現代アートは必要なのかがよく解らなくなった。人間には好奇心の強い者と、それ程強くない者とが居る。好奇心の強く闘争心もいささかあるのは大都市へ出てしまう。そして平和に土地に居付いて自然とコミュニティを大事にしたい種族が唐桑半島に残った。津波で海沿いは破壊されたけれど丘の上は何変ることのない生活も続いている。

そこに何とか気持ちをふるい立たせようとアートらしきを送り込んでしまうのは愚の骨頂である。いかにアーティストの側にその気持が強くあったとしてもである。これは実に勝手なひとりよがりである。でも何かを届けたいというアーティストの側の気持も解らぬわけではない。アーティストというのは本来ひとりよがりなものなのだ。

つい先日、東京世田谷の変なオヤジの庭の小さな竹藪に大烏と烏の絵馬を2点取り付けた。この物体を作ったのは我々であり、取り付けはわたくしと竹藪の所有者がやった。

実にこれも勝手極まることだが、今のところ文句はきていない。 最初は壁新聞らしきを貼り込もうと考えたのであるが、これは面倒臭いので流石に止めてしまった。止めて良かった。いくら町(街)の人に何かを伝えようとしても、それを聴く耳の無いところに、そんなことをやってもこれも又、ただの現代アーティストと同じのひとりよがりになってしまう。

竹藪の大烏と烏絵馬はしかし道ゆく人には決して悪くない気持、変な奴がいるもんだナア、位の印象を与えているようだ。

それを見習って、唐桑には東京では面倒臭くってやらなかった壁新聞状をやってみようと考えついた。

追い追いその事も記してゆきたい。

勿論、ベイシーの2階をギャラリーにする計画は進めてゆくつもりだ。

何故なら、日本の今は明らかに化石となったジャズ喫茶のここは標本だからである。つまり、ド田舎に生き残った妙にアメリカ文化かぶれの状態から始めたジャズ喫茶が経営者の奇妙きわまる情熱の持続で、半世紀近い努力の結晶としてすでに歴史らしきが生まれてしまいアメリカ植民地レベルを奇跡的に超えてしまった。つまりアートになった。誰もそれに気付いていないだけである。それをギャラリーにしようというのはこれは真当である。

月に一人位の訪問者はいるかも知れないし、経営者はこれは奇人中の奇人、つまりアーティストであるし、この人物は定休日以外は店にいるのだから芸術品に関心のない者はこの人物を眺めていれば良いのである。

昨日、本人に了解も得た。善は急げで早速今朝からその準備を始めることにしたい。

問題は、大きな問題は作品らしきを送り出すアーティストの問題である。が、これは最初はわたしが送り手になるしかないなと、今朝、たった今なのだが気付き、覚悟もしたのである。山口勝弘(実験工房)も良いし、具体も良い。でも東北の連中はそれを知る人は稀である。

唐桑ならばわたくしは少しは知る人もいるだろうから、なつかしんでくれるかも知れないし、一関は菅原さんが居るから問題は無い。彼は動く化石だから、これは人間アートなんだから。

とここ迄記して今、もう7時前である。

今朝は8時45分には世田谷村を発ち、大烏と烏絵馬と、それから唐桑タオルセットのチラシBOXの状態をチェックして研究室に向いたい。

もう8月だ。急ぎ足どころではない、落下するようにして時間は過ぎる。

世田谷村日記